*星空文庫

白い珊瑚

天草鈴 作

  1. 第一章
  2. セラピーの部屋その一
  3. 第二章
  4. セラピーの部屋その二
  5. 第三章
  6. セラピーの部屋その三
  7. 第四章
  8. セラピーの部屋その四
  9. 第五章
  10. セラピーの部屋その五
  11. 第六章
  12. セラピーの部屋その六
  13. 第七章
  14. セラピーの部屋その七
  15. 第八章
  16. セラピーの部屋その八
  17. 後書き

第一章

 楓は自分が突発的に死ぬのではないかとどこか他人事のように思いながら生きていた。一線を超えるか超えないかの違いは大きいものではないように思われた。突如としてやってくる絶望の直後に死への希望はやってきた。いよいよ生きていけなくなったら死ねばいい、そうやって未来へと死にたい気持ちを延期(Verschiebung)することでようやく絶望の波を少し緩和することができた。楓の死の予感(Ahnung)は、常に楓の日常に巣喰っていた。それは、毎朝珈琲を淹れるのと同じくらいの自然さがあった。

「私にいくら払えますか?」

楓は藤田の、体温が高くて湿り気のある手を自分の腰に感じながら聞いた。

「え? どういうこと?」

「だから、触られるならいくらかもらえないと不公平だと思うんです。それとも、私の体は何の価値もないのでしょうか?」

 二人はバーのカウンターに並んで座っていた。楓は、仕事のアドバイスを求め、前に勤めていた会社でお世話になった先輩と久しぶりに会っていた。先輩の藤田には、今日は一軒目でスペイン料理をご馳走してもらった。割り勘でも良かったし、「私も支払います」と言ったのだが、藤田は自分の方が年上だし、せっかく久しぶりに会ったのだからご馳走すると言って、そのまま半ば強引に支払いを済ませた。楓は、まだそれほど夜遅くないこともあり、二軒目でお礼もかねて逆に藤田にご馳走すれば、今日は程よいところにおさまりがつくだろうと考え、レストランから歩いて十五分ほどの、地下のバーに誘ったのだった。階段を楓が先頭になって降りていき、ドアを開けて店内を見渡すと、テーブル席はすでに満席になっていて、カウンターに案内された。チーズの盛り合わせ、楓はマルガリータ、藤田はジン・トニックを頼んだ。チーズの盛り合わせが来て、少し時間をおいてカクテルが二人に運ばれてきた。

「それじゃあ、改めまして、乾杯」

二人はグラスを傾けた。マルガリータのグラスについている塩とお酒のさわやかな味が口の中で混ざった。外は夜でも蒸し始めていて、バーのドアを開けるまでうっすらと汗をかいていたのが、この地下にいるとまるで別世界のようだった。

「チーズ、美味しいよ。食べてごらんよ」

藤田はどこか先輩という枠を超えた馴れ馴れしさを含んだ声でそう言った。楓はチーズに手を伸ばしながら、共通の知人や昔の同僚のゴシップ的な近況について聞いた。楓はスペイン料理を食べながら話していた時の話題の方が仕事の話もいろいろ聞けたし面白かったのにな、と思いながら相槌を打った。グラスが半分くらい空く頃に、楓の左手の甲にうっすらと触れるか触れないかぐらいに、藤田の右手が触れてきた。

「それでさ、営業部に最近入ってきた若いやつは年上の女性と付き合っているらしいんだ」

楓はバーテンの方を向いて座っていたが、気付いたら藤田は楓の方に体を向けて座っており、相変わらず楓が興味のないことを話していた。

「お次はいかがなさいますか?」

お酒もなくなり、会話が一瞬途切れたところで、渋いひげを生やした中年のバーテンが次のオーダーを聞いてきて、楓は少しほっとした。

「それじゃあ、私はダイキリで」

「僕はマンハッタンをお願いします」

「かしこまりました」

バーテンがカクテルをシェイクしている。氷がぶつかり合う音が耳に涼しい。藤田はまだ楓の方へ体を向けたまま、所在なさそうにしていた。藤田の手は、バーテンが話しかけてきた時に、ちょっとした悪事が見つかった時のようにピクッと動き、楓から少し離れていた。

「どうぞ。ダイキリです。こちらがマンハッタンです」

二人の沈黙を破ったのはバーテンだった。二人はグラスを鳴らし、二杯目のカクテルを一口飲んだ。ふいに藤田は右手を楓の腰に回しながら、

「及川さんみたいなしっかりした後輩に入ってきてもらいたいよ」

と言った。藤田の湿気を帯びた体温の高い掌が、最近買ったばかりの薄手の生地の服を通して感じられた。藤田の掌が当たっている部分だけ体の外側から熱くなっている。その熱さは、自分の体から放逐したいような熱さだった。楓は初めて藤田の方に体を向けて言った。

「私にいくら払えますか?」

楓は藤田の手の温度を、この涼しい地下で感じなければならないのを不快に思った。それに、バーに藤田を連れて行くことにした時、「ご馳走しますよ」と言ったし、二、三杯飲んでつまみを頼めばだいたいトントンになるはずだった。藤田はスペイン料理を奢ったから楓に触れても許されるとでも思ったのだろうか。

「私に触りたいなら、お金をください。」
「及川さんの言ってることの意味が分からないよ。なんで僕が及川さんにお金を払わないといけないの? 及川さんは僕に気があるんじゃないの? 僕がこうやって時間を割いて、ご馳走もしたというのに」

「私は、いくら欲しいかは言っていません。藤田さんが私にいくらの値を付けられるかを聞いているんです」

「もう及川さんとは話にならない。ここは割り勘でいいから。これ、置いてく。僕は先に帰る」

藤田はマンハッタンを一気に飲み干してから三千円をテーブルに置いて、足音を立てて帰って行った。

 楓はため息をついた。自分が好きでもない相手に、何でただで体を触らせなくてはならないのか、自分の体を何の対価もなしに提供しないといけないという空気がどうして男性によって作り出されるのか、その空気がどうして支配的なものになってしまうのか、彼女は腹立たしく思った。藤田の頭は、ロマンチックな恋愛関係の中で、セックスは無償で提供されるべきものだと刷り込まれていた。だから、きっとそういう雰囲気を無理やり醸し出して、いろいろなものを免除してもらおうとしたのだろう。しかし、楓と藤田はそういった恋愛関係にないし、藤田が作ったその雰囲気は独りよがりなものだった。言い値でいいというのに。藤田は楓の値段すらつけられなかった。もしかして、藤田の残していった三千円が、楓の手に触り、腰に手を回した分の対価だったのかもしれないが。

 こうしてお金が介在すると、男女の関係は一層それがどのような力の不均衡を背後に秘めているか、明らかになる。楓の胸にはぶつけられない怒りと卑屈な思いが入り混じった。男女間で、いや、女性間でも男性間でも権力関係や単純に物理的な力関係が介在する中で、楓はせめて金銭を媒介にする時くらい平等でありたいと願っていた。しかし、実際は、金銭が媒介することで両者のいびつな関係が浮かび上がることになる。男女間の性的な不均衡は、単純に腕力の差だけではなく、あるいは権力の差でもない。そこにはもっと文化的、社会的に深く根差した構造的な差異がある。藤田が潜在的に楓を、女性をどこかで下に見ていて、それに無自覚で、ご馳走をしたらその分、体に触っても許されると思っていたことに対して、楓は次第にお腹の底から湧き上がる怒りを覚えた。藤田のような男性は過去に何人もいた。以前は、こういうことがあっても、楓のお腹には漠然とした不安がうごめき、よく分からない感情の濁流が流れるのを感じ、日に日にそれが屈辱感と怒りに変化していった。しかし、それを何度も経験して、最近は相手の男性が抱いている、もしかたら本人もはっきりと気づいていない得体の知れない漠然とした蔑みに対して、楓はぼんやりと不安と怖れを感じ、それらを取り巻くようにして即座に怒りが像を結ぶようになった。

 ダイキリが、楓の心の底に湧きあがり始めた濁りを、ほんの少し浄化した。

 真夏のうだるような暑さが和らぎ、かすかに見える星空がキンモクセイの香りで霞む頃、大学同期の森和也からメールが送られてきた。
「楓、
最近どう? 元気にしてる?
仕事があまりにもきつくて、最近会社を辞めました。楓は確か転職経験があるよね。もし良かったら、近々転職の話を聞かせてもらえないかな。それに、他にもいろいろ話したいし。空いている日を教えてもらえたら嬉しい。僕はいつでも暇だから、スケジュールは楓にあわせられます。よろしくー!

和也」

 楓はある金曜の夜、会社の近くのイタリアンレストランに和也といた。
「和也君と最後に会ったのってもう一年以上前じゃない?」
「あの時は浩君と未来ちゃんと一緒だったよね」
「そうそう。みんな奇跡的にぽっかり予定が空いていたのよね。またみんなで会いたいね! ところで、あの時も仕事かなり大変そうだったけど、さらにきつくなっちゃったの?」
「そうなんだよ。終電で帰れないなんてざらで、新規プロジェクトのプレッシャーもあって、ついに心身ともにバランスを崩しちゃったんだ。このままだと死ぬと思って、思い切って辞めちゃった。先に転職先見つけてからとも思ったんだけど、今度は転職活動する時間も余裕もなくてさ。僕がいたところはそこそこ有名なコンサル会社じゃない? 多少無職の期間があっても、どっかには通るだろうし、この際だから休みを満喫しようと思って」

近況を人に話すのがほとんど初めてなせいなのか、あるいは心のバランスを崩したせいなのか、和也はいつもより早口で、畳みかけるように一気に話した。和也は相当心身ともに疲れているようで、話す間だけ熱に浮かされたようになり、それ以外では電池が切れたように目がほぼ一点を見つめて動かず、とても怠そうにしていた。
「今度はどんな業種がいいとかあるの?」
「ううん。まだそこまで考えられてないや」
そう言って、和也は喉にビールを流し込んだ。

「それよか、楓の近況を聞かせてよ。最近どうなの? 仕事とプライベートは。彼氏いるの?」

話題の矛先が急に自分の方へ向いて、楓は一瞬戸惑ったが、そうか、今日はまじめな話より楽しく話せるほうが和也にとって良いのだろうなと思い直した。

「そうねえ、仕事の方は相変わらずだよ。最近はそこまで忙しくはないけど、また年末は繁忙期だよ。プライベートも相変わらず。付き合っている人はいないよ」

「そっか。両方相変わらずか」

和也はそう言って少し目じりを下げた。

「楓は学生の頃からあまり恋愛に関心がなさそうだったよね」

「そうだね。今もどうやって関心を持てばいいのか分からないよ。別に人に対して興味がないわけじゃないんだよ。ただ、友達とか、自分の周りの大事な人に対する関心と、特定の男性に対する関心に、私はそんなに大きな差を見出せないんだ」

 食事を終えた二人は、言葉少なに新宿駅の百貨店とつながっている人通りがあまりないテラスを歩いた。和也は急に立ち止まり、楓にキスをした。和也は楓に体を押し付け、楓の舌を追った。楓は、自分の口の中でうごめくぽってりした柔らかい舌を自分の舌で観察した。和也の舌に触れても、自分の舌が熱を持って痺れたり、和也が抱き寄せている腰から力が抜けることもなかった。この舌、好きでもなければ嫌いでもない。楓は和也のなすがままになりながら、そう思った。和也は長いキスを終えて、楓から体を離した。

「今日、この後も一緒に過ごさない?」

かすれた声で和也はそう言った。

「私にいくら払える?」

和也の顔に緊張が走ったが、深呼吸を三回して、真っすぐに楓の目を見た。自分を慰めてくれるかもしれない好きな女となら、金を払ってでも寝たいと思った。

「払うよ……。ちょうど今手元に四万数千円入っている。全部渡す。それでどうだ?」

「うん。分かった」

二人とも一言も発さず、和也は恋人同士のように楓の手を握ってホテルへ向かった。

 楓は、夢中で首筋や胸にキスをしながら服を脱がす和也の頭頂部を見ながら、相手が生理的に気持ち悪くさえなければ、やはりセックスできるものだと思った。楓は気持ち悪いと思った人とはセックスしないし、気持ちが全くない相手からはお金をもらい、自分にとって必要な相手とは何の対価もなくセックスをした。必要な、というのは便利で利用できるという意味ではなくて、自分の人生にとって必要だと直感的に思わされるという意味だ。楓はセックスの何が特別なのか分からなかった。この社会で、いつからセックスが特別なものになったのだろうか、楓は不思議に思った。

「はい、これ」

和也は四万三千円を楓に手渡した。

「また会えるかな?」

「うん。たぶん」

ホテルを出て、駅へと向かいながら、和也は再び楓の手を握ろうとした。しかし、それに気づかないふりをし、楓は持っているバッグを和也がいる側の手に持ち直した。

一週間後の土曜日、二人は再び会った。前回とは打って変わって、和也は目に輝きを取り戻し、そして楓に対して妙に馴れ馴れしくなっていた。

「行こうか」

そう言って二人は表現主義絵画の特別展を開催している美術館へ向かった。美術館に入ると、そこにはたくさんの人がいて、熱気がこもっていた。絵画の前へ前へと出ようとする人もいれば、流れに飲み込まれないようにして遠巻きに見ようとする人もいた。額のガラス越しでしか見ることのできない絵には、わしゃわしゃとした人々の姿が映っていて、絵画を見ているつもりが、気付くとガラスに反射した人ごみの方に目の焦点が合っているということが何度かあった。展示も終盤に来たころ、混雑に紛れて、和也は楓の腰に手を回した。楓はさりげなく和也の手から逃れたが、館内が混んでいたためにすぐにその手に捕えられてしまった。二度、三度と和也に捕まり、その手から身を引き離すということを繰り返しながら、最後に飾られていたカンディンスキーのインプレッシオン、インプロヴィザティオーン、コンポジシオンの三つのプロセスを題した絵画を鑑賞した。

「ねえ。私に触らないでくれる?」

美術館を出てから、楓はそう言った。

「え? 触らないでって?」

和也は、楓とのたった一回のセックス、それも金銭という対価を払ってのセックスで、楓の人格まで買えたと思っていたようだった。和也は、恋愛や風俗でありがちな、相手を所有できるという思い上がりをしていた。しかも、楓は和也の恋人ではなかった。せっかくお金を介在させたのに、楓を丸ごと手に入れたと思っている和也のことを、楓はもともとどこか支配的な人だと感じていた。以前、和也は付き合っていた人に、「彼女に~させる」という言い回しをよく使っていた。それが例え体調が悪くなってしまった彼女を「家に帰して(・・)休ませた(・・)」のだとしても、思いやりの中にどこかしら支配の匂いがしていた。楓との間が、何らかの支配・被支配関係で色づく可能性があったから、楓は二人の間を金銭によって平等にしようとした。お金を支払うということの意味を和也が理解していなかったことに対し、楓は苛立った。一方、和也もまた楓を思い通りにできないことに対して苛立っていた。和也は楓から、どのような形であれ癒しと慰めを得られると思い、楓にすがっていた。和也は楓のことを手放せなかった。

「楓は来週の土日はどう過ごす予定?」

「ううん。特に決まってない。たぶん、溜まっている家事をして過ごすと思う」

「来週末もどっかへ遊びに行かない?」

「来週末はやめとくよ」

「え?でも空いてるんでしょ?」

「たしかに空いてはいるけれど、一人で過ごしたいの」

「じゃあ、金曜の夜は?」

「もう友達と約束があるんだ」

「どんな友達なの?」

「会社の友達」

「それって女性?男性?」

楓は、和也があまりにもしつこく自分のことを知ろうとし、知ることによって支配しようとしてくるのに辟易した。

 楓は、浩と未来、そして和也とまた四人で食事をすることになった。和也とは距離を取りたかったが、浩と未来とは会いたかったし、彼ら二人がいれば大丈夫な気がして、久しぶりの集まりに参加することにした。

ほどなくして、楓はここへ来たことを後悔した。和也は楓に対する支配欲を隠そうとしなかった。楓が四人テーブルで和也の隣に座ったら、楓の椅子の背もたれに肩を抱くようにして和也は腕を伸ばしてきた。

「わあ、今日はやけに二人、仲良さそうじゃん」

浩の茶化しに対して、楓は和也が返事をするよりも早く、

「いやいや、何もないから。ちょっとお、手どかしてよ。紛らわしいじゃない」

と早口で言って、和也の手をどかさせた。

 和也の楓に対する執着心はものすごかった。四人で食事へ行ったあと、和也から多くの着信やメールがあった。その内容はたいがい、和也自身、そして身内、特に和也の母親に関する不幸を嘆くものだった。和也は、相手のことをこれ以上知ることができないというのが薄々分かってから、今度は自分の事を相手に知らせる方に移行し、同情心を煽り立てて注意を引こうとした。しかし、楓がそれらをことごとく無視し続けていると、今度は会社から帰宅する楓の後をひたすらつけるようになった。

セラピーの部屋その一

「こんにちは。始めまして」

「始めまして。及川と言います」

セラピーの部屋に入ると入り口右側に机がある。机の上にはノート、そして電源が入っているかいないか定かではないICレコーダーが置いてあった。

「どうぞこちらにおかけください」

セラピストは窓を背にして座り、楓はうながされるままセラピストとカウチテーブルを隔てて、入り口側の一人掛けソファーに腰かけた。丸い木目調のカウチテーブルの上にはティッシュが置いてあった。

「及川さんは、今日はどうしてここに来られたのですか?」

「私は日本にいる時から、理由があってもなくても定期的に落ち込んでいました。特にこの春夏はずっと苦しくて、毎日辛い気持ちで過ごしていました。それで、ふと、私はもう三十一歳で、あと二十年ちょっとしたら更年期障害でさらに心身ともに不調になるなと思ったんです。その日が来るまで苦しい状態が続いたら、私の人生はずっと苦しいままになってしまう。せめて更年期が来る前までは今よりも元気に過ごしたいと思いました。それで思い切ってここに来ました」

「ここはどのようにして見つけましたか?」

「インターネットのサイトを見て。顔写真を見て直感的に選びました」

「ミュンヘンへ来て、どのくらい経ちますか?」

「こっちに来てから一年半くらい経ちます」

「ミュンヘンへはお仕事で来られたのですか?」

「はい、そうです。海外勤務の任期はたぶん三年くらいだと思います」

「始めにお伝えしますが、私には守秘義務がありますので、ここで話したことが外に漏れることはありません。さて、今日はさっそくですが、ここにある楽器を使っていきたいと思います。感情が湧いてくるのには、必ずその原因があるんです。いわゆる(sozusagen)ネガティヴな感情というのはありません。怒りや悲しみであっても、それらは悪い感情ではありません。感情が引き起こされる原因に注目するために、音によって引き出される感情を味わってみてください。楽器によってはあなたに不快感をもたらすものもあるかもしれません。たとえば、これはどうですか?」

セラピストは大きな太鼓を叩いた。

「心臓に直接響いてきて、ちょっと脅迫されているような感じがして息が詰まります」

「では、これは?」

そう言って小さな鉄琴を奏でた。

「キラキラしたきれいな音で、とても好感が持てます。気持ちが上向きになります。」

「楽器はいろいろありますから、実際に音を出してみて、気にいったものを取ってください」

「分かりました」

楓は宇宙船のような形をした黒くて丸く、見た目以上に重たい、中心にHapiと書かれたドラムを選んだ。ハピドラムは、クリアーでありながらほんわりとした音色の楽器で、人の心の原始的な部分を優しく呼び覚ましてくれそうだった。たった八音しか出ないが、その音色と音階の単純さゆえに瞑想に使われそうで、楓の耳に心地よかった。

「それでは、私はこのカホーンであなたの演奏を支えますので、好きなように音を出してください」

楓は、不思議な形をした黒い楽器に目を落とした。今まで、こういう楽器を弾いたことがなかったし、そもそもアドリブのセッションなんて一番苦手とすることだった。今出した音をひたすら自分で肯定し続けるアドリブをするには、楓の自己評価は低すぎた。楓は何かによってがんじがらめになり、自己肯定の連続のような即興を堂々とする厚かましさと無邪気さを持ち合わせていなかった。それゆえ、楓は楽譜に沿った音楽を奏でたことはあったが、完全にアドリブで音楽を奏でたくても、結局間の抜けたものになって自信を失い尻すぼみで終わったことしかなかった。楓は恐る恐るハピドラムをマレットで叩いた。ふわっと匂い立ってくるような音が鳴った。セラピストはドンとカホーンの側面を叩き、トントントンと角を叩く。カホーンがドントントントンドントントントンとリズムを刻む。カホーンにまたがるセラピストには重力がかかり、体重がカホーンと足に接している床にしっかりとかかって安定している。楓はふわんふわんとマレットでハピドラムを叩く。ハピドラムとカホーンがあわさり、原始的な音がした。夜に松明を燃やしてその周りを打楽器のリズムに乗って怪しく踊る人影が見えるようだった。松明の炎によって影は伸び、ゆらゆらと人影は揺れている。二つの楽器の音は、楓と人影に陶酔をもたらした。楓は無心で聴いたことのない音、奏でたことのない音を響かせた。楓は、自分の手が自然に動き音楽を奏でていることに驚いた。そこにはぎこちなさはなかった。まるでその音がはじめからその音であるべきだったかのような自然さがあった。それは、手に収まる大きさの楽器だからできることなのだろうか、これまで絶対にできないと思っていた即興演奏を楓は自由にしていた。楓は左右のマレットで違う音を出して和音を作ってみた。歪みつつ調和した和音が耳の中でぐわんぐわんと鳴り響き、耳の奥、頭蓋骨の内側に快感を覚えた。楓は四分音符だけの演奏から、三連符を作って変化を出してみた。付点四分音符、畳みかける八分音符。それにつられてカホーンがどんどん力強くリズムを刻む。カホーンの鼓動にハピドラムの音が妖艶にまとわりつく。次第に陶酔の波が引いていき、夢から覚めながら、二つの楽器の音は小さくなり、最後の微かに聴こえる一音を奏で、余韻の中で音楽は終わった。自分の心の小さな動きを抑え続け、ついには自分が感じていることに対して全く敏感になれなくなっていた楓は、音楽を通して癒しと感情の高揚を味わった。楓は少し、心のひだを見つめることができた気がした。そして、新たに湧きあがってくる自分、音を通して呼び覚まされる自分を味わった。

第二章

 和也は楓に話しかけもせず、ただ楓の後姿を追った。和也は、やはり賢かった。楓に対して肉体的接触も物理的接触ももたなかったのだ。楓は、和也もさすがに転職活動に入るだろうし、ストーク行為もしばらくしたら収束するだろうと思っていたが、それは甘かったようだ。会社の同僚と最寄り駅まで一緒に歩いて帰る時は和也の気配を感じないが、家の最寄り駅から自宅まで一人で歩く時、毎日必ず和也の足音、和也の気配を背後に感じた。四人で一緒に食事をしてから三週間ほど経ったある土曜日に、楓は自宅の管轄である三鷹警察署を訪ねた。担当に相談するも、特に直接的接触がないため、警察は何の介入もできないことが分かり、その後はただひたすら身の回りを警戒する日が続いた。どれくらい警戒すればいいのか分からなくなり、楓の神経は外にいる時に張り詰めっぱなしになった。楓の周りの人たちは自分たちの人生にあまりにも忙しすぎて、相談しようにも、面倒ごとに関わりたくないという気持ちが透けて見えた。まれに話を最後まで聞いてくれる人がいても、あなたが何かしたんじゃないの、と言われたり、場合によっては楓がモテる自慢をしていると受け取られて楓の相談内容に皮肉や嫌味を見出す人もいた。自分を変えるか、環境を変えるかしかないんだから、直接害を与えてこないようなそんな人なんか無視すればいいという人もいた。

 楓は助けを求められないまま、次第に精神的に追い詰められていった。ついに、心がずっと緊張していることに耐えられなくなった。そして、楓が壊れてしまう直前に、楓の肉体が心に与えられ続けた負荷を一挙に引き受けた。それによって心は辛うじて守られた。

 しかし、楓は自身の肉体から切り離された存在になった。

 どんなに疲れていても、夜眠れず、眠れないことに焦り、そのことで余計に眠れなくなった。明け方、鳩の鳴き声が聞こえ、今日も眠れなかったと気落ちしどっぷり疲れる日々が続いた。楓の肉体は二十四時間ずっと緊張していて、緊張が勝り、そもそも疲れらしい疲れさえどこかよそよそしいものだった。動物として当然の感覚である空腹さえ感じなくなった。空腹を感じられないのは、とりわけ辛かった。ご飯を食べる意欲が全くないのに食べなくてはいけないからだ。楓は、ご飯の味が全くせず、ご飯を食べているという自覚がないまま、ただ栄養素をできる限り胃に流し込むという食べ方をした。楓の肉体があらゆる負担を一挙に引き受け、知性と感性は鈍感になり、楓の仕事の効率は悪くなる一方だった。頭が重くて自分が何を考えているのか分からなくなり、思考が途中で途切れた。そういう状態の時は、仕事の休憩時間に、楓は喫煙室へ行って煙草を吸うようになった。普通に呼吸をしているだけで、体はとても怠くなっていた。息を吸うという生命を外から取り込むような動作は苦痛を生じさせ、息を吐くとき、体が地面にめり込むような感覚に陥った。しかし、煙草をくゆらせ、煙になった息を見ることで、ようやく自分が息をしているということが分かり、それにより辛うじて生きていると思えた。煙草の煙をぼうっとしながら見ると、一本吸い終わる毎に頭が少しだけ冴えるような気がした。

 ある日の仕事帰り、楓は和也の気配を背後に感じながら、ついに和也の声を聞くようになった。

「楓、なんで俺を無視するんだ?」

楓ははっとして後ろを振り返った。和也は二本後ろの電信柱の陰にすっと隠れた。聞こえるはずがない。和也はまるで楓の傍にいるかのように囁いてきた。それなのに、二人の間には声を張り上げないと聞こえないくらいの距離がある。楓はついに幻聴を聞いた。楓にとって、幻聴が聞こえる世界が、肉体が抹殺された自分の存在する世界だった。

 楓は、ある日、取引先に電話をかけた。

「お世お世話に話になっておりなっております。今度ます今度のプロジェクトのプロのジェクトの合同打合同打ちち合わせ合わせの件での件でお電話をお電話をしたのしたのですですがが……」

楓は自分が二重になったように感じた。自分の声に現実感が全くなく、声が頭の後ろから聞こえるのだ。楓は何度か深呼吸をし、自分の声との距離を縮めようとした。電話では、遮るつもりはないのに、相手の会話の途中で話し始めてしまい、申し訳ございませんと言うこともできず、自動人形のように話してしまった。楓は突然、耳に入ってくる声が自分のそれではないように感じた。楓は自身と、自分の話し方が乖離しているような感覚に陥った。今までどういう声で、どのくらいの速さで話していたのか、全く再現できなくなってしまった。楓は自分の声を失った。

 ある日、楓は上司から新規プロジェクトの資料をもらった。資料を読もうとしたが、楓には文章の意味はおろか、相当集中して読まないと、ひとつひとつの単語の意味まで急に分からなくなっていた。楓には、自分の身に起きていることに対して動揺する気力も残されていなかった。ただ淡々と、単語をひとつずつ拾っていき、何とか文章の意味を探っていった。それは、まるで新しい言語を習い始めた時のようだった。後頭部右下の一部分がまるで機能していないような気がした。何故か、その辺、というのが楓にとってははっきりしていた。脳の機能停止している部分は、脳みその働きでつかみ取れそうでつかめない。その部分は蜃気楼のように楓から一定の距離を取りながらも後頭部のその場所に必ずあると確信できた。奇妙な感じだった。相変わらず自分の声が頭の後ろから聞こえて、まるで自分が話している感覚はなかったが、自分が二重になった感覚に楓は次第に慣れていった。楓は二重になった自分をとらえようとするのではなく、徹底的に突き放すことで、突き放した自分に勝手に話させれば表面的には会話がスムースに行くということが分かってきた。

 楓は文字を満足に読むことができなくなり、電車の中で読書をしなくなった。そのかわり、車内で和也の気配を感じながら、ぼんやりと周りの会話に耳を傾けることが多くなった。男子高校生同士、女子高校生同士、大学生同士、サラリーマン同士、主婦同士、就活生同士がそれぞれ同じような言葉づかいで、同じような声の張り方で、同じようにのぼせたようなテンポで話していた。会話の内容も、面白い、興味を引くようなものではなく、どれもかつてどこかで耳にしたことのあるものと同じだった。まるで、それぞれが所属しているグループには決まった話し方があって、その通りに話さないといけないというルールがあるかのようだった。それは単に、電車内で耳にする言語がたいていは日本語だからという理由だけではなかった。なんで自分の体にぴったり合ったテンポで、そして自分の声帯にも耳にも心地よい声で話す人がこんなにも少ないんだろうと楓は思った。楓は、失ってしまった自分の話し方をもう一度取り戻したいと思っていた。あくまでも自分の話し方であって、誰かの話し方を模倣したものではない、そういうものを求めていた。電車内で聞く他の人の会話はそれゆえ、あまり楓の参考にはならなかった。

 「楓、俺も俺のおふくろも、今辛いんだ。助けてくれよ」

 和也が実際に、未だに楓の後をつけているのかどうかは、もう楓には分からなくなっていた。ただ、和也の声と存在を、会社と家にいる時以外、常に感じていた。楓は通勤時に、帽子をかぶり、サングラスをかけ始めた。楓は体をとらえようとすると、自分の肉体が胡散霧消する感じがした。それと同時に、肉体でつかめるはずの外の世界をとらえることができなくなった。楓は自分の体をとても小さく感じた。洋服も、皮膚という楓と外界を分かつはずの袋も、楓にとって大きすぎた。いや、楓を形作る大きな袋は、表面で絶え間なく呼吸をし、外界と楓を切断するふりをしながら、外の空気を取り込み、取り込んだ空気をまた吐き出し、外の世界と密通していた。外の世界は否応なく楓に侵入してきた。帽子とサングラスは、小さくなった心もとないまでに体を外からそっと守り、外の世界を遠くから眺めさせてくれた。外界は、双眼鏡を逆から覗き込んだように遠く、小さくなった。外界では、ガラリー席から遠く離れた下の方にある舞台を見る時のように、自分と関係なく物事が進行しているように思えた。

 「楓、俺には慰めが必要なんだ」

セラピーの部屋その二

「そういえば、日本語には感情を表す単語は十分にありますか?」

「はい。まあまあ多いと思います。なので、対応する単語があまりにもなくて困るということはまずありません」

「外国語で自分の細やかな気持ちについて話すのは、大変ではないですか?」

「確かに、外国語で自分の考えをまとめるのは大変ですが、日本語であってもまだ言語化できていないことはたくさんあって、それを伝えるのはそれなりに大変なことなので、感じたことや考えたことを表現するという点では、そう変わらないです。それに、私は日本語で話せなかったことを、いま外国語で話している気がします。外国語で話す方が、いろんな出来事から距離(Distanz)を取れるし、かえって外国語という媒介(Vermittlung)を経て話す方が話の内容によっては楽なんです」

「なるほど。時間的に、日本であった色々な出来事から離れ、距離的にも今は日本から離れていますものね。あなたには隔たり(Abstand)が必要なんですね」

「そうです。ただ、他の問題もあって。私は日本語でも、一度、言葉と意味をうまく結び付けられなくなって、人が話すことを理解できなくなったことがあるんです。数年かけて、日本語ではその問題を解決しました。もう、文章とか、誰かが話していることの意味が分からなくて焦ることはなくなりました。でも、外国語だと、またゼロからその作業をしなくてはいけないみたいで。たどたどしく外国語を話す人の中はたぶん二種類いて、単語単語やフレーズは流暢に話せて、文章が区切れるところでつっかえる人がいるじゃないですか。でも、私の場合は単語としての意味がすっと入ってこないので、ひとつの単語やひとつのフレーズの中でブツブツ途切れてしまうんです。特に、緊張していると、すぐに言葉がするっと出てこなくなってしまいます。この前も、病院の予約をする時に、曜日がうまく言えませんでした。本当に、簡単な単語とか固有名詞とか地名なんかが急に出なくなっちゃうんです。そういう時はすごく焦って、余計に言葉が出てこなくなります」

「他に日常生活で大変なことや困ることというのはありますか?」

「困るというか、すごく辛いと思っていることなんですが、今まで普通にできたことができなくなったことに焦りと絶望感を覚えます。たとえば、以前は一日中きちんと活動できていたのですが、体調によっては会社の休み時間に軽くうたた寝をしないと体が持たなくなってしまって、土日は必ず昼寝をしないと生活ができなくなってしまいました。それと、今までは晩酌が好きでよく一人でも楽しく飲んでいたのですが、飲んでしばらくすると号泣の発作みたいなものが起きて、自分で自分をコントロールできなくなってしまうんです。今まで楽しくできたことができなくなって、無力感に襲われます。普段は、自分で言うのもおかしいのですが、そこそこ理知的に考えられるし、そういう風にしようと努めてもいるのですが、号泣の発作が起きた時は、本当に自分を止められなくなって、それがずっと続くかもしれないと思うと、もう辛くて絶望的な気持ちになるんです。でも、そういう発作が起こるようになったのもセラピーを受け始めてからのことで、最近やっと自分の気持ちを少しずつ感じられるようになってきたんです。以前は泣きそうになると、自分の左胸を手でバンバン叩きながら、頑張れ、頑張れ、ってやって泣かないようにしていました。自分のことさえコントロールできないという非力さで一杯になります。それに……」

「それに?」

「母親は私が小学生の頃から更年期障害と鬱にかかっていました。当時は更年期という言葉も広まっていなくて、病院へ行って薬を飲み始めたのは私がようやく中学生になってからでした。小学校から帰ってくると、リビングは真っ暗で、テレビだけついていて、ブラウン管が不気味に光っていました。母は三、四日は平気でお風呂に入らず、ホームレスと同じ匂いがしました。私が、さすがに今日はお風呂に入ってよ、と言ってようやく入ってくれましたが。あと、リビングにある食卓の椅子でよく寝ていたんです。太ってもいましたし、口を開けて寝ている姿はとても醜かったです。木の椅子の背もたれの右の部分に、寝ている間ずっと体重がかかっていたみたいで、背もたれと座るところの嚙み合っていた部分にだんだん亀裂ができてきて、背もたれがグラグラしていました。母の姿を見ると吐きそうでした。それも、ベッドで寝てよ、って言うのは私でした。さっき、昼寝をしないと体が持たないと言いましたが、昼寝をしてしまうことに対して物凄い葛藤があって。私の母は酷い鬱で、丸一日ずっと寝ていたんです。当時は私も幼くて鬱とかそういうのは理解できていなかったので、ただだらだらと怠けていると思っていました。昼寝をしたくなるとどうしてもそれを思い出してしまい、自分は怠けているんじゃないか、本当にいま必要な休憩なのか、すごく考えてしまうし、自己嫌悪に陥るんです」

「あなたが小さかった時、お父さんはどうされていましたか?」

「仕事で忙しくて、あまり母の面倒は見ていなかったと思います。そもそも、あまり何かを感じたりする人ではないんです。何をどう感じて、そこから何を考えるかがその人の個性(Charakter)だと私は思うんですが、あまりそういうのはない人なんです。だから、私は母のことはネガティヴではあってもいろいろ描けるのですが、父のイメージは、例えばあれが好きだとか、こういう時にこう感じてこう考えた、とか、そういうことが全然描けないんです。良い人なのは確かなんですが、まるで空っぽ(leer)なんです。好きな食べ物さえないんです。食事を楽しむという意識が全くなくて、ご飯で栄養を取れればそれで良い、お通じが良くなる食べ物ならいくらでも食べる、というような感じです。もちろん食事に合わせてお酒を楽しむなんてことはなかったです。お酒にあうグラスなんて、家にはありませんでした。とにかく、無機質な感じだったんです。食事の時間が。最近ようやく少し変わってきて、父も六十を過ぎてから美味しく楽しく食べる事を覚え始めているようですが、私にとって栄養素を摂取するだけの食事という期間は長すぎたように思います。父は私の勉強以外の時間は、無駄だと思っていたような気がします」

「小さい時に、子供がやること以上のいろんなことをしなくてはいけなかったんですね。親に対する責任も、あなたにかかっていた訳ですね」

「そうだったんだと思います。母は、急に泣いたり、急にヒステリックになったりしていました。幼かった私はヒステリーを全く予測できなくて、常にびくびくしていました。一応、私がいないところでではあったんですが、私が自分の部屋にいる時に、ストレスが溜まるとリビングでお皿を思いっきり床に投げつけて割ったりしていたんです。私は自分の部屋で息をひそめていました。今でも大きな音に驚きやすいです。不思議なことに、母が繰り返しヒステリックになったこと、母がヒステリックになって同じようなことを繰り返して言っていたのは覚えているんです。でも、肝心な、母がその時に何を言っていたのかは全然覚えていません。忘れたいのかもしれません。父も母も、私に何かあると、すぐに頭に血が上って、冷静ではありませんでした。例えば、何か私物を盗まれたりとか、そういう時です。家族の中で一番冷静なのは、小学生の時からすでに私だったように思います。その頃から、すでに私は理性的になろうと努めていました。そして、母のことがあり、人の気分が良いか悪いかに関しては未だに敏感です。家族はいつもどこかギスギスしていて、私も小学校の高学年の頃からずっと、常に苛立っていました。家で機嫌よく過ごせた日なんてほとんど思い出せません。家がそんな状態なので、私は小学生の頃から数えるほどしか、ほんの何回かしか友達を家に呼ぶことができませんでした。人が外から入って来ない、閉ざされた家というのは、とても暗いものです。部屋も、人が来ないのでいつまで経っても片付きませんし、そもそも母は片付けをするほど元気になることはありませんでした。シンクには、常に洗っていない食器が山のように積まれていました。何年かに一回、誰かが遊びに来てくれた後、部屋に爽やかな風が流れるような感じがするんです。でも、それもしばらくすると終わってしまい、再び空気が淀んでいくのが分かりました」

楓は頭の中で文法の規則にのっとって文章を組み立て、ゆっくりと話した。しかし、同時に左手中指の外側のささくれを神経質そうに弄っていた。

「そういえばこの間、セラピーの夢を見ました。こういう部屋の中にセラピストと二人でいて、でもセラピストはあなたではなくて男性でした。彼は、彼が私に接近した時にどういう反応をするか実験すると言いました。私は試してみてもいいと答えました。すると、彼は急に顔を私にぐっと近づけてきました。二十センチくらいでしょうか。大丈夫だと思っていたのに、私は目をつぶってしまい、呼吸ができず、声を出すこともできませんでした。何が起きているかとっさに分からなかったです。頭の中が真っ白になって、拒否したいのにうまく拒否できないような状況でした。恐怖心で一杯になり、相手のことを見られなくなりました。ただ固く目を閉じたまま首を左右に振って、もうやめて欲しいという意思表示をするので精一杯でした」

「セラピーの場で、自分の感情のことを話さないといけないので、その刺激が強すぎて、無意識のうちにもあなたの中でいろんなことが起こっていると思います。夢を見るというのもそうです。夢の中でセラピストが物理的なパーソナル領域に急に入ってきたと言っていましたが、セラピーで話す内容がハードになっていませんか?」

「セラピーが負担だというのは考えたことがなかったです」

「そういうところにも気を付けながら、無理しないようにやって行こうと思います」

第三章

 「今日はランチどこへ行こうか?」

同じ課の二歳年下の樹里、同期の英恵とは、週に何度か一緒にランチをする仲だった。三人は会社近くのイタリアンへ行くことにした。楓は職場の入り口のドアを開け、樹里と英恵はその後に続いた。

「最近は彼が前ほど連絡を取ってくれないの。ちょっと寂しいんだよね。昨日メールしてくれたんだけど、それだって三日前に出した私からのメールの返信だし。もうさ、心配になるし不安にもなっちゃうんだよね」

 信号を待ちながら、英恵はいつものように彼氏に対するちょっとした愚痴を口にした。英恵がそう言った時に突然木枯らしが吹き、セミロングの樹里とロングの英恵の髪が舞った。二人は同時に長い髪を押さえ、風が緩やかになってから、右手でおでこの辺りから髪をかき上げ、そして両手で後ろの髪をさっと上げて手を放し、髪をすとんと落とした。楓はショートボブの髪を両手で二、三回手早くなでつけて髪を整えた。二人が艶のある髪に命を吹き込んでいる姿は、後ろから見てとても綺麗で、楓は羨ましくもあった。しかし、楓は髪を伸ばすことに抵抗があった。ロングヘアがあまり似合わないだろうというのもあるが、一番の理由は、特に冬、コートを着る時に、コートと服の間に挟まった髪全体を下から持ち上げて下ろす、その仕草を自分がしているところを想像できなかったからだ。そのあまりにも女性的な仕草が恥ずかしくてどうしてもできず、ボブとショートボブの間を行き来していた。

 楓は小学校の高学年の頃から、他の女の子が女性であることを意識し始め、次第に女の子らしくなっていく中で、逆に女の子であること、あるいは周りから望まれるような女の子らしさに違和感を覚え、外側から自分にヒルのようにくっついてくる女性性を体からひとつずつ引きはがしてきた。それは、小学生の時は、いわゆる男言葉を使い、男の子たちとほとんど毎日、殴る蹴るの喧嘩をする学校生活に表れていた。好きな男子ランキングを三位から一位まで女子同士で発表しあい、秘密を共有する、そして好きな男子の前で女の子らしく振る舞う、そういうことは楓には一切できなかった。好き嫌いだけを言うならまだしも、なんでそこに順位をつけられるのか分からなかったのだ。いや、実はその「好き」に関しても、すでに物心ついた時から楓には分からないものだった。楓は小学生の時から、自分が大人になった姿を想像し、そういう大人の自分、それはせいぜい当時の楓の想像力では大学生くらいだったが、大人になった自分から見たら、小学生の自分が名前を挙げる好きな人なんて、本当に子供じみて霞んでしまうものだと思って冷めていた。楓は女の子同士の秘密の共有ごっこをまるでそつなくこなせなかった。女性的なものを避けていくことは、女子中学校、高校の間は男子がいないことで表立っては姿を潜めてはいたものの、しかし女の子同士の間で、楓は常に男役を演じる方に回されてきた。自主的にそちら側に回ったのではなくて回された、というのも、女の子らしい女の子というポジションを自ら選択しない、ということによって、自動的に男役に回ることになるからだ。たとえ同性だけのホモ・ソーシャルな世界でも、そこには女性的な役割を担う人と、男性的な役割を担う人が自然にできる。大学に入り、男性の中にいることで女性性が如実に引き立つ中、楓は洋服こそスカートやワンピースを着ていたものの、女性を象徴するような長い髪を嫌い、入学して三か月後には髪をばっさり切ったのだった。

 レストランに入り、「三名です」と楓は店員に伝えた。樹里と英恵は壁側のソファー席に座り、楓は椅子に座った。ランチでは、英恵の彼氏の話、そして樹里の最近気になる人の話を聞くことになった。

「へええ、樹里、好きな人ができたんだあ」

英恵は身を乗り出してそう言った。

「そうなんです。二年後輩の波多野君。私が先輩として教えることが多いんですが、ついこの間一緒に食事へ行ったんです」

「楓はどうなの?彼氏がいるところとか、好きな人がいるところとか、全然見たことないんだけど」

「ううん。そうだねえ。あんま興味がないから」

「なにそれ、もったいないよ。せっかく可愛いのに。もっと人生楽しみなよ」

こういう会話を大学の頃から幾度しただろうか。楓は恋人がいないことで、なんで普通じゃないように言われるのか理解できなかった。楓にとってはむしろ、恋人が近くにいるのにあまり会おうとしないカップル、お互いに制御不可能になって精神的肉体的DVが男性から女性、あるいは女性から男性に向かうカップル、どちらかが大して好きでもないのにパートナーをキープして相手を利用しあっているカップルが、カップルとして成立していることの方が問題に思えた。多くの場合は特に女性間で、楓は恋人や結婚相手のいる女友達にどこか上から目線で諭されるようなことがあった。

「私、来週の金曜日、波多野君と食事へ行く約束をしているんですけど、そこで頑張って告白しようと思ってるんです」

「ほんとに? うまく行くといいね。応援してるよ」

英恵が余裕のあるトーンでそう言った。

 樹里が波多野君に告白した次の週の月曜日、楓は通勤電車の中でいつものようにフェイス・ブックのページを開いた。

「うわ」

 楓は写真を見た瞬間、恥ずかしくなった。フェイス・ブックで、樹里が鏡に映った自撮りをアイコンにしていて、それを見た瞬間、激しく羞恥心を掻き立てられたのだ。なんで恥ずかしいと思うんだろうと考えながら、写真をまじまじと見た。上目遣いで顎を引いているため、膨らんでいる頬は隠せていたが、それは見慣れた樹里の顔ではなかった。樹里は自分が一番かわいく見えるように顎を引いて、鏡を使って胸より少し下の位置から携帯のカメラで自撮りをしたようだった。写真では、可愛く映ろうとしているというのに生身の樹里が持つ彼女らしい可愛らしさが消えていた。普段自撮りなんてあまりしないのに、いったいこのアイコン写真ができるまで、何枚写真をとったのだろうと楓は考えた。誰かがカメラのレンズを向ける時、カメラを取る人という媒介が入り、それはひとつの反省的機能を果たす。これは自撮りとはいえ、鏡を使っている。それなのに、反射(Reflexion)による反省(Reflexion)の機能を鏡は果たしていないように思えた。樹里の目に、普段の樹里の姿は映っているようには思えなかった。誰かが見た樹里の姿ではなく、樹里自身が見た自分の姿を、このアイコンを目にする人は見ることになった。そこには、自分の目線で見る自分の姿に対する絶対的な自信、無反省の自己肯定感が漂っているように見えた。鏡に映った自分に対する躊躇が全く感じられず、人がいつも見る樹里の姿とは違う、樹里によって少し可愛く解釈され直した姿がそこにあった。この自撮りは、自撮りをよく撮る人とも違って、自分を可愛く見せることに対して、あまりにも時間をかけて工夫されていた。写真には知性を感じることができず、楓は恥ずかしく感じた。楓は樹里の生活に変化があったことを察した。

 

 「ランチ一緒に行かない?」

英恵は金曜日にあったことを早く聞きたいようで、勢い込んで聞いてきた。

「うん、行こうよ。あそこの定食屋とかどう?」

「いいよいいよ。そうしよう。いま、樹里を誘ってくるね」

 三人は定食屋の四人テーブルに腰かけた。樹里は波多野君とのことを聞いてほしいのか、かえっていつもより口数が少なく、奥歯を少し噛みしめている。

「で? それで? 先週はどうだったの?」

席について水を一口飲むと、英恵は身を乗り出すのを懸命に抑えつつ、樹里に聞いた。

「それが、付き合うことになったんですう」

「えー! おめでとう!」

「良かったね。」

楓は会話のテンポに遅れずに、そう言うことができた。

「どんな感じだったの?」

「一緒に雰囲気のいいイタリアンへ行ったんですけど、お会計する前に、テーブルで、好きです、付き合ってくださいって言ったんです。そうしたら、波多野君からは、まだ山村さんのことをあまり知らないし、付き合えないっていう返事が来たんです。だけど、今は好きじゃなくてもいいから、付き合いながらゆっくり知っていってもらえたら嬉しいって言いました。その場では返事をもらえなかったんですが、駅で別れ際もう一度押したら、それじゃあってことで付き合うことになりました。なんか、だいぶ強引かもしれませんが、これからが勝負ですね」

楓が心の中でやっぱりそうだったんだと思った時に、英恵が、

「それで、週末は一緒に遊んだの?」

と聞いた。

「いえ、今週末は予定があると言われて。そのかわり、来週末の土日のどちらかで遊べたらいいなっていうメールのやり取りをちょうどしているところです」

「これからだねえ。これからクリスマスもあるし、楽しそうでいいなあ。うちらなんかは、もう若干マンネリ化してて……」

英恵は再び楽しそうに愚痴を言い始めた。

「楓さんも、早く好きな人ができるといいですねえ」

樹里が、たったひとりの男性からの承認を得ただけで自分に自信をつけられるのが、楓には不思議に思えた。内容はどうであれ、付き合っているという当人たちの、そして周りから見た時の形式的事実、女性が特定の男性から承認されたという形、それが女性をより一層完全なものとするようだった。

 三人で定食屋を出る時、お店のドアを開けたのは楓だった。

セラピーの部屋その三

「私は自己評価がとても低いです。人生の中でいつの間にか自信(Selbstbewusstsein)を失ってしまいました」

「自信を失ったとおっしゃいましたが、何かきっかけはありましたか? それとも、もともと小さい時から自信がなかったですか?」

「小さい頃は、健全に、子供らしい万能感に満ちていたと思います。大人になって変な男性にばかり好かれることによって次第に自信を失ったと思います。彼らはとにかくおかしくて、例えば無視していてもメールがたくさん来るとか、私が望んでいないのに身体的な接触をしてくるとか。この間ひとつひとつ思い出して数えてみたらそういう人がかなりたくさんいました。同時に、日本には、異性によって自意識に承認(Anerkennung)が与えられるというような風潮があるように思います。付き合っている人がいないと、その人の意志で恋人がいないのであっても、その人が何か変なんじゃないかと思われます。少なくとも、人生を楽しんで(genießen)いないとか、勉強や仕事ばかりしていて片手落ちだというようにネガティヴに受け取られることが多いです。私は、異性によって承認欲求を満たし、自信を持つ、というロジックになるべく負けないようにしてきました。私は男性関係でいくつか嫌なことがあったため、長く恋人がいない時期がありました。その間に、変な男性からたびたびアプローチを受けて、それによって私の自尊心は地に落ちたように思います。何でこんな人にばかり好かれるんだろうと落ち込みましたし、何より体に触られたりして人としての尊厳(Würde)がどんどん崩れていくような感覚がありました。これは、私が避けようと努力してきたロジックの変化形を自分で受け入れてしまったことになります。つまり、人としておかしいと思う男性によって自意識にネガティヴな形で承認が与えられる、そして自尊心がボロボロになるというわけです。実際、おかしな人に絡まれると、二、三か月鬱状態が続いていました。そして、私は未だに彼らに対して正当な怒りを持てていないような気がします。私の怒りの正当性(Berechtigung)を保証してくれるものがないからです。中には、露骨にホテルに誘って来た人もいましたが、そういうことがあっても、お前が悪いんだと言われたり、あなたに隙があるからだという社会の風潮があったりして、泣き寝入りしている事自体も周りから無視されてしまうように思います」

「日本では、自分の意志で積極的に一人でいることを選んで生きていくのは難しいことですか?」

「はい。そういう人を周りは変な目で見て、当人に欠陥があるとされてどこかで憐れまれたり蔑まれたりすることが多いように思います。何ででしょうね。こういう人生より、ああいう人生の方が上、みたいな順位付けが社会の中ですでになされていて、その順位の項目にさえ入らなかったものは変わっていると見なされる。多様な生き方が仮に認められているとしても、いや、私はそもそもそう思ってはいませんが、だとしてもそれぞれの人生の価値は等価ではない。優劣があるように思います」

「男性から、そして男性との関係から自立(unabhängig)したいという思いは、男性との嫌な経験が原因となっていますか?」

「はい。そうだと思います。嫌な経験でしたが、それを通して当時も、そして今も強烈に男性との関係から自立して生きたいと思っています」

第四章

「はいはい、ちょっと待ってね。いまあげるからね」

そう言って楓はケージを開けて、ケージをガジガジ齧りだした二匹のデグーにまずは干し草を与えた。白と灰色のブチの方はミスティー、茶色一色の方はマティーニという。楓は二匹を買った時、げっ歯類の繁殖力がすごそうだったので、二匹ともメスを選んだ。デグーはハムスターより大きく、顔はウサギのように愛らしい。すぐに糖尿病になるので、いつも与えるのは水、干し草、そしてフルーツなどが入っていないデグーフードである。ミスティーは干し草を両手に持ち、マティーニは片手に持って鼻を膨らませながら、夢中で食べている。この子たちは、寝たい時に寝て、食欲もあって、構ってほしい時はケージを齧って、動物としての最低限のことをいつも全力でやっている。寝付けず、食欲もない自分は、動物としての人間の部分がごっそり削げ落ちている。デグーを見ながら楓は自分の存在に違和感を持った。

 干し草の後にデグーフードも与え、しばらく腕にデグーを乗せて遊ばせていた楓は、マティーニがしきりにお尻をこすりつけながら前足だけで楓の腕の上を行ったり来たりしていることに気付いた。今までマーキングされたことなんてなかったのに、どうしたんだろうと思い、ネット上の数少ないデグー情報を調べてみた。すると、マーキングするような仕草はデグーの発情期によく見られるものだということが分かった。楓はデグーを遊ばせるのを終えて、ケージを閉め、再び様子を観察した。やはりマティーニはお尻をケージの底にこすりつけている。マティーニの発情期の行動から、楓はふと、自分には子孫を残したいという欲求が全くないことに気付いた。楓には、結婚したいという思いも、自分の子供を産みたいという思いもなかった。そういう、多くの人が持っている、何か未来を思い描くのに便利な道具を手にしていなかった。デグーたちはたらふく食べて落ち着いたせいで、今度は寝る時の態勢になった。顔が少し不細工になり、体中の毛がぽわぽわする。そして二匹とも団子のようになってぴったりとくっついて丸まった。それはまるでお互いに体温を求めているかのようだった。楓にはヒトの体温を求めたいという欲求もなかった。それは、体が何も感じられなくなったから体温を求めないのか、体温に触れても何かが埋められていく感じが全くないから、体温というのは触れても触れなくてもどちらでもいいものだと心のどこかで諦めているからなのか分からない。いずれにしても、体温を感じて安心することもなければ、体温を貪り食いたくなる衝動が湧きあがることもなかった。動物以下なのかもしれない。楓はぼんやりとそう思った。それと同時に、本能をどこかに置いてきてしまったのは、非常に人間的なのかもしれないとも思った。他の人のように本能の炎を薄ぼんやりと絶えることなく宿している人間的動物に対して、自分は非動物的人間なのではないかと楓は思った。楓は、諸々の動物的欲求が自分に当てはまらないのに呆然とした。ところが、楓にはひとつだけ動物的なものが残されていた。

 肉体をひたすら消していった楓に最後まで残っていたのは、最も動物的と言える嗅覚であった。

 

 楓は人事異動でドイツでの海外勤務を希望していた。そのことを英恵に話したら、大学の先輩で三年ほど前にドイツ勤務から戻ってきた人を紹介してくれることになった。まだ希望通りになるかどうか確定はしていないものの、決まってからいろいろ準備するのでは遅いし、一度会って生活面や制度面について話を聞いてみることにした。

「こんばんは。初めまして。磯山直樹といいます」

「及川楓です。英恵さんと同じ会社に勤めています」

「先輩、お久しぶりです。お元気でしたか?」

「うん。日本に帰ってきてからずっと残業の嵐で、相変わらず大変だよ」

直樹はデュッセルドルフに三年間いたとのことだった。楓は行くとしたらミュンヘンになる。離れているとはいえ、同じドイツということで、滞在許可証の申請の際に必要な書類などの行政手続き的なことを直樹に教えてもらった。あとは、日本から持っていくといい物や、現地の中国系のお店でアジア系食材を調達できること、秋にしか飲めないフェーデルヴァイセという発酵中の新しいワインのこと、ドイツ南部ではフランケンワインが美味しいということ、ドイツで食べておくといいという凶暴な見た目のシュヴァイネハクセという料理についてなど。直樹は次々に楽しそうに話した。

 皆で楽しく話し、荻窪駅へ向かう途中、英恵は少し千鳥足になっていた。直樹は、楓に向かって小声で言った。

「英恵ちゃん、お酒強いはずなのに珍しく酔ってるね。大丈夫かな? 仕事でかなりストレスがあるのかな? それとも、プライベートで緊張を強いられることがあるのかな?旧知の間柄の僕に久しぶりに会って、急に緊張が解けちゃったんじゃない? 僕は彼女にとって、特に利害関係のない存在だしね。逆に、普段は相当緊張して疲れているんじゃないかと思う。ちょっと心配だな」

楓は直樹が何気なく話した英恵に関する推察があまりにも的を射ていて、感嘆した。たしかに、英恵は最近、仕事で責任あるポジションを任されてずっと緊張しているようだったし、プライベートでは彼からのレスポンスが遅いことを何となく愚痴っていた。楓は、直樹が、一つの出来事・事象から何かを推察する能力、そもそも人の変化を察知する感性があることに、とても驚いた。

 直樹と会った翌週、楓は直樹からメールをもらった。

「もしよかったら、またお食事しませんか?」

 レストランを出た楓と直樹は、駅まで一緒に歩いた。楓は歩きながら違和感を覚えた。直樹の方が車道側を歩いていたからだ。楓は友達と一緒に歩く時、相手が女性でも男性でも、自然と車道側を歩くことが多かった。楓は直樹の気遣いにむずがゆさを覚えた。信号待ちをしている時、直樹は楓のことを抱きしめた。楓には抱きしめられた感覚はなく、体には悦びも、逆に気持ち悪さも湧いてこなかった。直樹の手も体も、熱を帯びずにさらさらしていた。直樹の匂いは洋服についた柔軟剤の匂いとまざり、とても心地よかった。楓は直樹の体温を感じられなかったし、楓の方から体温を求めることはなかった。しかし、直樹の匂いだけは、楓の心を優しく包んだ。直樹の匂いに若葉の匂いがきれいに連なり、直樹の匂いが大気にのびやかに広がっていくかのようだった。直樹はしばらく楓を抱いた後、そっと楓から離れた。直樹はとても優しい目で楓を見つめた。楓はふと、この人は自分がこういう笑顔をするというのをきっと知らないんだろうなと思った。

 ある土曜日、楓は大学のゼミの同期だった未来の家に招待された。未来はどこか楓を頼りにしているらしかった。頼りといっても、独身女性同士でしか話せないようなことを話すのに、楓が一番適していると思われているからのようだった。そのため、未来は何かに漠然と傷付いた時なんかに、よく楓に声をかけて一緒に食事をした。

 「はーい。ちょっと待ってね。今開けるね」

そう言う声が部屋の中から聞こえた。まだ料理を作っている途中らしく、少し経ってから未来が玄関のドアを開けた。

「今日は招待してくれてありがとうね」

「ううん。どういたしまして。来てくれてありがとう。あ、スリッパこれ使って」

楓は玄関に入ると、オーブン料理の匂いとともに、未来の匂いを感じた。未来の匂いそのものではなく、未来の生活臭かもしれないが、その匂いは楓にはとてもはっきりとしたよそよそしいものに感じられた。未来の部屋に充満する匂いに対する違和感は、楓の自分自身の匂いに対する違和感を引き立たせた。楓は自分の部屋にいる時以上に、自分の匂いに対する嫌悪感を募らせた。人の匂いからは逃れられても、自分の匂いからは決して逃れられず、自分から漂ってくる生暖かい匂いを気持ち悪く感じた。決して交じり合わない二人の人間の発する二種類の匂いが料理の匂いに包まれていた。

 楓はサラダを作るのを手伝い、テーブルにはコーンスープ、サラダ、そしてラザニアが並んだ。

「楓はまだ彼氏はいないの?」

「うん、いないよ」

楓は直樹の顔をちらりと思い浮かべながらそう言った。

「そっかあ。私もそう。もう恋愛とかいいから結婚したいんだよね。周りの友達もどんどん結婚していくし、中には子供が産まれた人も最近増えてきたから」

「そうなんだ」

たしかに、楓の周りにも家庭を持つ人は増えてきてはいたが、楓はなんで未来がそんなに結婚したいのかが分からないまま相槌を打った。

「私ってバリバリのキャリア・ウーマンっぽく見えるかもしれないけど、正直仕事はそこそこでいいんだ。早く結婚して子供が欲しいの。年齢的にも高齢出産にならないうちに結婚したいから、最近すごく焦ってるの。はあ、みんなどうやって出会っているんだろ。こっちは全然出会いがないっていうのに」

未来は航空会社の地上勤務をしており、容姿も良いし、接客をしているのもあって人当たりもとてもいい。たしかに、パートナーがいないのが不思議なくらいだ。楓は、好きなパートナーとの生活を想像するのは理解できたが、パートナーがいないのに理想の家庭の想像をするというのは分からなかった。そして、なんでパートナーという形の人間関係が欲しいのか、なんでそれが今ないことで未来は自信を失い、特定の誰かによってではなくただ漠然と自尊心に傷を負っているのか、とても不思議だった。不思議であるのと同時に、未来の話を聞いていると、なぜか未来の自尊心が受けた傷と同じような傷を自身も負い始めるような気がして、ぼんやりと暗い気持ちになった。

 頭が締め付けられるように痛い。窓の外をふと見ると、外は雨が降り始めていた。片頭痛持ちの楓は、春の変わりやすい気圧のせいで、体の芯に怠さを覚えた。部屋の換気のため、食後に窓を開けたら、外から雨の匂いが吹き込んできた。食事の匂いも、自分の匂いも、未来の匂いも雨の匂いにかき消され、楓は少しだけ気持ちが軽くなった。

 

 楓は直樹と主に週末、定期的に会うようになっていた。会う時は必ず直樹から連絡があったが、いつも事前に予定を調整するのではなく、一日、二日前にメールで空いているかの打診があった。それも、回を重ねるごとに、いつの間にか金曜と土曜をお互いに空けておくのが習慣になっていった。いつも明け方まで眠れなかった楓は、直樹と一緒の時だけ、直樹の寝息を聞きながらすっと深い眠りに落ちた。楓は相変わらず抱きしめられても何も感じなかった。何も感じられないからこそ、匂いを頼りに楓は直樹の体を求めた。求め続ければ、いつか体温を感じられるかもしれないと思ったのだ。直樹に触られても、そこに神経が集中して敏感になり、下腹部に熱いものが流れ渦巻き、触られた部分から次第に力が抜けていくということはなかった。とは言え、楓は直樹に体を触られることに静かな心地良さを感じてはいた。肉体と肉体の直接的な触れ合いは、楓を安心させた。それは性的興奮とは全く違う、自分から性別を剥ぎ取ったようなもっと根源的なもので、言うなれば、Sex(性別)を超えたSex(セックス)のようだった。

 直樹が楓の上で、楓を抱きしめたまま早くなった鼓動が再び落ち着くまでに、二人の息はシンクロした。直樹が息を吸う時に楓は息を吐き、逆に直樹が息を吐く時に楓が息を吸った。ぴったりとあわさったお腹の上下運動は二人に一体感をもたらした。それは楓の飼っているデグー達が寝るときに自然と身を寄せ合って団子になるのと似ていた。楓の肉体は、まるで、体温を持っていないようだった。しかし、いつかそのような感覚が蘇るのではないか、相手の体に触れている自分の手が細かく震えてしまうくらい誰かをこの手で感じられるようになるのではないか、そんなささやかな期待から、楓は直樹の肉体を求め、そして体温を確認するかのようにして直樹に触れた。楓は貪欲に、そこにあるはずの熱を貪った。

 楓が唯一、直樹の体を直接感じられたのは、直樹の精液だった。直樹の精液は、直樹に似つかわしくない匂いがし、とろとろして、暖かかった。楓は直樹の精液の匂いが嫌ではなかった。楓はいつも、自分の体内に心地良い異物感を覚えた。楓は毎回、直樹の精子を綿棒で掻き出した。綿棒で掻き出してしばらく時間が経ってからもなお体内から精液がぬるっと顔を出し、自分から直樹の匂いが漂ってくるのは、直樹さえ知り得ない直樹のことを知っているような気がして、心が満たされた。

 楓は直樹と一緒にいる時、無限に伸びていくかのような自由(Freiheit)を感じていた。こういう感覚は男性・女性を問わず今まで感じたことはなかった。楓は、無理に自分を突き放さずに話すことができ、自分の話し方にわざとらしさを見出さなくなっていた。楓の頭蓋骨の中には自分の声が響いていた。楓は直樹の前では心が解放(Befreiung)され、自分が自分でいられることができた。楓は、直樹と一緒にいることで、自分自身の人生を取り戻し(zurückbekommen)ているような気がした。日常の些細なことが楓にそう感じさせていた。楓は、「私はやっと人間になれるかもしれない」。そう思った。そして、以前なら絶対にやらなかったことまで、やれるようになっていった。例えば、以前は体を動かしたい思いはあっても、肉体は楓の思うように動いてくれなかった。音に合わせて体を揺らす程度でも、例え誰も楓のことを見ていなくても、恥ずかしさからどこかぎこちなくなってしまっていたのだ。楓は自分の肉体を少しずつ取り戻している気がした。直樹といると、今まであることさえ気付かなかった自分の中の引き出しが次々と開かれていく感じがした。それは、楓にとって、かけがえのない全くの新しい経験だった。

 楓と直樹は、それぞれ納得したうえで一緒にいることを決めた。それは二人にとってとても自然な流れだった。ドキドキすることもなければ、ロマンチックなこともなく、逆に気負うこともなかった。二人には、単に、一緒にいないという選択肢がなかった。ただそれだけのことだった。
 直樹は、楓以上の感性と繊細さを持ち合わせていると楓は感じており、それは二人が初めて会った時、すでに感じていたことだった。直樹が、人のことにあまり関心がないようでいて、人を良く見ているのに楓は気付いていた。それは、直樹が、非常に些細な言動からその人の本質を突くような見解を持つことに由来していた。楓は、こんなにも繊細で感性が豊かだと、きっとこの人は生きていくのが大変だろうと思った。直樹の精神(Geist)には実際、感性と理論が危ういバランスで同居しており、この二つのバランスを保てるのは直樹だけしかいないように思えた。直樹は、自身の感性によって受け取った情報を、さらに分析して理論化することに長けていた。それゆえ、ほんのちょっとした出来事、他の人が気付かないような人の些細な行動から受け取る情報量は莫大だった。普通なら、人が見ていないものが直樹には見えていたからだ。その情報を無防備な状態で一身に浴びながらも、それに辛うじて飲み込まれることなく、直樹の精神はそこにしっかりと屹立していた。楓は、自身の場合、その両者のバランスをしばしば崩してしまうことを自覚していた。だからこそ、余計に直樹の精神の繊細さの中にある強靭さに心を奪われた。

 楓はそれまで、生きれば生きるほど自分の人生を失ってきた(verlieren)ような気がしていた。いつの間にか何か鎖のようなものにがんじがらめになってしまっていた。この鎖は、一度体に取り憑くと、二度とそれから解放されることはない。そういう鎖が楓には幾重にもかかっていた。楓は、自分の身動きが取れない人生を顧みる時、ショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク群のマクベス夫人』を思い出した。楓はこのオペラが好きだった。音楽的にというよりは、そのストーリーが好きだった。 

 家父長制の中でがんじがらめになっている一人の既婚女性が、どうしようもない男に恋をして不倫する。女性は、行きがかり上、夫の父親を毒殺し、さらにこの男と共に夫を殺す。自分の犯した犯罪を隠ぺいしたのだが、二人が再婚する婚礼パーティーの最中に、通りすがりの酔っ払いによって偶然死体が見つかる。二人は警察に捕まり、シベリア送りとなる。苦役を強いられる中で、男の心は簡単に彼女から離れていく。男は、別の囚人女性と親しくなる。彼の心が常に傍にあるならばシベリアも耐えられると思っていた彼女は男にすがるが、すげなくされ、失意のどん底に落ちる。男は、彼女に対して、足が冷たくてかなわないから靴下をくれと言い、彼女は自分の履いている靴下を男に渡す。しかし、男は彼女からもらった靴下を、別の囚人女性にそのままプレゼントし、二人は彼女を嘲笑する。そのことを知った彼女は、男が愛し始めた囚人女性を殺し、自分も自殺する。彼女が最後に歌う、「森の奥に真っ黒な小さな湖があり、私の心はその湖のように暗い」という歌には絶望と美しさがあった。彼女は二人の人を殺し、自らも破滅に向かった。しかし、そうせざるを得ないまでの状況に追い詰められていた女性の絶望感と女性を閉じ込めてきた閉塞感があった。場面場面で浮かび上がるいくつかの選択肢の中には、常にあまりにも運命的な方を選び取りすぎてしまった女性の無垢な美しさが感じられた。いや、結末を知っているから運命的なように見えるだけで、実際は運命なんてものは結末が決まっている閉じられた物語の中でしか存在しない。彼女は、家の中に閉じ込められ、夫が不能であるにもかかわらず、舅には子供ができないことを彼女のせいだとなじられていた。彼女は、その小さな世界だけを自分が生きていく人生の舞台にしたくなかった。彼女にとって、彼女を解放してくれ、自由にしてくれるのは、その男しかいなかった。だから、彼女はその男を選んだ。それはまったくの彼女の自由意志によるものだった。しかし、彼女の自由になりたい思いは、結局成就せずに、自分の無垢な心にどす黒い物を抱えることになった。自分の人生から救い出してくれるのが、一人の男性であれ、他の何かであれ、同じ状況にいたら、たとえその先に破滅が待っていたとしても、楓も間違いなく同じ道をたどるという確信があった。

 楓はずっと誰かと一緒にいることができなかった。一週間が過ぎ、十日が過ぎるころには精神的に疲弊してしまうのだ。しかし、直樹とはいつまででも一緒にいられた。直樹は、楓自身が気付いていない新たな側面をいつの間にか引き出してくれ、楓はそれに涙してしまうこともしばしばあった。一緒にウィンドウショッピングをすると、直樹はいつも、楓が今まで手に取ったことがないような洋服で、しかも楓によく似合うものを探し出してきた。楓はそれがすごく嬉しかった。楓は直樹といると、それまで自分で自分に対してかけてしまっていた呪縛のようなものが解かれていくような実感があった。楓は、無意識のうちに自分を縛り付けてきたものの多さに驚いた。自分の人生に知らず知らずのうちに生じていた歪みのようなものが、一緒にいるだけで矯正された。

 椅子に座っている直樹に楓は跨り抱っこしてもらい、二人は向き合った状態で心がひたひたと満ちる感覚を味わうことがよくあった。頬をくっつけているだけで、自身にまとわりつく錆が溶けていくような感じがした。直樹の頬はすべすべしていて柔らかかった。何もしないでただ一緒にいる時間はあっという間に過ぎた。二人にとって時間の経過を実感させるものは、時計ではなく、また日の出日の入りでもなく、食事の時間だった。お腹が空いてきたということが二人の体に流れる時間を最も強烈に支配していた。二人は決まって、「時間がいくらあっても足りないね」と言い合った。

セラピーの部屋その四

 セラピーの部屋に入るといつもベルガモットの香りがする。セラピーも回数を重ねるごとに、楓は部屋に案内されてベルガモットの匂いを嗅ぐだけでリラックスするようになった。その香りも、セラピーを終えて部屋を出る時には体が慣らされてしまい、もう意識されることはないのだが、楓の気持ちを落ち着かせ、毎週、懐かしいと思わせる作用があった。楓はいつも通りセラピストに案内され部屋へ通された。楓が部屋に入ると、セラピストは開けていた窓を閉めた。前のクライアントの匂いをリセットするかのようにセラピーとセラピーの間に空気を入れ替えていた。楓は、この部屋で、他の誰かの痕跡(Spuren)を感じたことはなかった。

「私は、ずっと結婚したくないと思っていました。そして、両親にもはっきりと結婚を期待しないでほしいと言い続けてきました。自分の将来の家庭というものが、どうにも描けないのです。その上、家庭像のようなものを常に暗い雰囲気が覆っているんです。憧れも、希望も、全く持てません」

「でも、それが変わったんですね」

「そうです。結婚くらいしても良いと思いました。でも、やはり家庭の具体的な像を結ばない点では、以前と変わり映えしません。パートナーがいても何の希望もないというのが辛くて仕方ありません」

「家族像(Vorbild)を今、描けないことに何か問題を感じていますか?家族という概念(Begriff)はあなたにとってどのようなものですか?」

「家族と聞くと、私の日本の家族を一番最初に思い出します。つまり、私、父、母の三人です。日本の家族に対する私の帰属意識が強烈なあまり、私は他の家族像を描けません。それは、とても残念でもあります。私には、パートナーがいるのですから。家族という概念に付随するイメージは、とてもネガティヴなものです。例えば、喜びに満ちているわけではなく、常に何かを我慢しないといけなくて、ストレスを感じるもの。そして、比喩的な意味ではなくて実際に視覚的にそうだったのですが、部屋のカーテンを閉め切っていてとても暗い。そういうイメージが最初に浮かんできます」

「自分が経験した家族がネガティヴなものとして浮かび上がってくると、それをもとに家族像を描くのは難しいですね」

「そうですね。ネガティヴな点から思考し始めないといけないですね。それで、本当に何の像も結ばないんです。普通、人は家族像一般(allgemeine)を持っているものですか? それとも、あるパートナーとの家族像として個別具体的(konkret)なイメージ(Vorstellung)を持っているものですか?」

「家族像一般や、誰かの具体的な家族像についてよりも、あなたの家族像を一緒に探っていきましょう」

「例えば、子供を、それが数年後という先のことであっても、持つということに対する実感が私には全くありません」

「それは、そもそも子供が欲しくないということですか?それともいずれ持つかもしれない子供のイメージが持てないということですか?」

「両方です」

「子供を持つことも、持たないことも、どちらも同じようにイメージを持てないという感じでしょうか」

「そうです。その通りです。私も、『家族』という時に日本の家族に引きずられますが、日本にいる両親も、『家族』というと我々三人のことだけだと考えていると思います。私の両親は、未だに私のことを彼らの庇護下に置きたがります。私は今外国に住んでいるのに、私のこちらでの生活に対してものすごくいろんなことを言ってくるんです。心配だというのも分かるのですが」

「日本に帰りたくなることはありますか?」

「美味しい日本食を食べたいとか、温泉に入りたいというのはあります」

「それは、生活様式(Lebensstil)に対する憧憬(Sehnsucht)ですね」

「日本の実家には……ドイツ語ですと両親の家(Elternhaus)なんですよね。実家と言うと、うっかりそれが自分の家(mein Haus)であるかのような錯覚に陥ります。この点に関しては、ドイツ語の方がより厳密で正しいと思います。それで、日本の実家には、もちろん私の場所はあります。でも、それは私の両親が私に与えた空間であって、私自身が築き上げた空間ではないんです。疲れている時なんかに日本のことを思い浮かべることがありますが、実家でゆっくり(sich erholen)できる気がしないので、あまり帰りたいという気持ちになることはありません」

「家に帰ると、一人の大人の女性(Frau)としてではなく、子供(Kind)として迎え入れられるというのは、場合によってはとても楽なことでもあると思うのですが、あなたの場合は逆なんですね。どういう家族像を描いたらいいか、というのを考えるより、何故あなたが今、家族像を描くことを強く願っているのかを考えるといいかもしれません」

「どうして私が家族像を描きたいという強い欲求があるのかをテーマにする、という視点はありませんでした。ところで、どんな家族像を築きたいか、というテーマは、私の将来像とも関係すると思います。家庭像を描けないということは、自分の将来を描けないということと連動します」

「日本にいるパートナーとの家庭像はイメージできますか?」

「私の生活の基本的な部分はそんなに変わらないでしょうから、私自身の生活という点では数年後までイメージできます。主に仕事を続けているというイメージです。でも、彼が私の人生に入ってきたとたんに、そのイメージは胡散霧消してしまいます」

「パートナーとの生活が具体的に思い浮かばず、日本の家族像も暗いもので、両者の間で揺れていることが、家族像に対する欲求となっている印象を受けますが、どうですか?」

「だいたいそのような感じだと思います」

第五章

 「これでピルみたいに飲み忘れることもなく、確実に避妊できます」

 楓は婦人科で小さな棒状のチップを注射器で左上腕の内側に埋め込んでもらった。チップによって妊娠状態を作り出すので、生理も来なくなるという説明を受けた。チップは三年間有効で、微量のホルモン物質がその間出続ける。妊娠したい場合、もしくは三年後には一度チップを取り外し、必要であればまた同じ腕に埋め込むのだそうだ。楓は自分の左腕の内側をそっと触ると、人差し指の下に異物が入っているのを感じた。

 楓は、今日の日付と取り外す年と月が書かれたカードをもらって婦人科を後にした。

 チップを埋めて二週間後、予定通り、しかしそれまでと比べえてだいぶ軽めの生理が来た。楓はそれまで生理痛が酷く、一日に何錠も鎮痛剤を飲んでいた。夜は一錠だけだと明け方腹痛のために起きてしまうから、特に二日目、三日目の生理が重い日は夜に二錠飲んでいたのだが、今回は二日目、三日目だけ朝晩一錠ずつ飲むだけで痛みは治まった。痛みが軽減され、体が妙にむくむほど生理そのものも酷くなく、楓は今までにないほど快適に生理期間を過ごした。

 チップを腕に埋めてから三か月が経過し、もう完全に出血がなくなった頃、楓はふと自分の体がもはや自分の外側から何にもつなぎとめられず、自由になった気がした。

 楓は、独り暮らしをして物理的に両親から離れても、自分が幸せや楽しさを感じる時に、必ず両親にそれを分けてあげないといけないような気がしていた。一人で何かを楽しむことは、常に両親への罪悪感(schlechtes Gewissen)を同時に生み出していた。罪悪感は、自分だけではなくて両親も楽しませなければという義務感(Pflichtgefühl)となり、それが達成されないと心の底から目の前のことを十分に楽しめなかった。

 母親は、楓のことを何もできない娘に仕立て上げようとしていた。楓は実家住まいだった時、家事なんて楓にはできないし、独り暮らしなんてできるはずがない、と言い続けられていた。母親はよく、「本当に何も出来ない子なんです」と、自分自身を卑下するかのようにして楓のことを卑下した。兄弟がいないこともあって、一人暮らしになっても常に実家のことが気にかかり、いつも自分が支えなきゃと思って両親とよく連絡を取っていたが、最近は忙しくなり、気づいたら電話越しに声を聞かなくなって二か月以上経っていた。それも手伝ってか、離れていても常に感じていた、体に染み込んでいた母親の痕跡(Spuren)が消えたように思えたのだ。楓は友人がいても、世間でいうところの恋人ができても、常に母親からどこか肉体的に逃れきれないでいた。母親と決して共有できないはずのセックスという秘密でさえ、楓と母親を完全に引き離すことはできなかった。たまに実家に帰ってお風呂に入っている時に、久しぶりに話したがる母親がお風呂場をノックして、返事を聞く前にドアを開けてきた。嫌なそぶりをしたり、後でお風呂から上がったら、と言っても、母親はそのまま長話をした。親だしそんなに嫌がらなくても、とも思ったが、視線が楓の裸体にべたついて絡まり、かすかに悪寒が走った。小さい時は、眠れないでいると、親がこっそり部屋に入ってきて楓が眠っているかを確認しに来たのが分かった。おそらくほぼ毎日見に来ていたのだろう。眠っている時は全く分からなかったが、たまに寝付けずにいると、寝たふりをしながら親の気配と視線とを感じていた。昼夜関係なく、リビングから階段を上がってくる両親の足音によって、楓は自動的に緊張した。足音と共に、両親の気配を身近に感じ、それは楓の身を縮こませるのに十分だった。楓は親の視線が肉体に絡みつき、それから逃れきれないでいた。それゆえ楓は、常に自分の肉体なのに自由が利かないように感じていたのだった。楓は、常に見えない目によって監視されているような感覚を抱いていた。それゆえ、誰かが読むはずのない日記にさえ、本当の気持ちを爆発させられずに自分を偽っていた。母親は専業主婦で、常に楓中心に生き、楓だけが世界と母親を結び付ける媒介だった。母親は楓を通した人生を生きた。これに関して楓に拒否権はなかった。母親にとって、世界はまるで楓のお腹にぽっかり空いた穴から覗き込め、たまにそこに手を差し込んで触れることができるものだった。母親は精神ばかりでなく、楓の肉体をも媒介して生きていた。楓の体を、楓と母親は共有していた。しかし、今や楓は避妊チップによって体が軽くなり、体のあらゆるところに付いていた、見えない触手の吸盤から解放され、自由を感じた。その自由は、出産という最も女性的で個人的なものを自分が主体となってコントロールし、自分が母親になる可能性を排除したことによるものだった。楓が肉体を自分の意志でコントロールすることで、楓の肉体は、ようやく母親と共有していた共有物から、自分だけのものに変化した。

 ところが、楓は母親から肉体が解放されたと感じると同時に、自分の肉体を感じられなくなったことに気づいた。楓は避妊チップによって、自分の肉体を感じる唯一のものである生理痛も失っていたのだった。あらゆる負のものを肉体が背負い、肉体が消し去られたようになっていた楓にとって、生理痛は自分の肉体の輪郭を確認するための、唯一のよすがだった。毎月痛みによってかろうじて感じていた肉体そのものを、楓はもはやとらえられなくなっていた。楓は痛みを求めた。痛み以外で自分の肉体を感じることが不可能なくらい、楓は肉体から切り離された存在になっていたのである。

 チップによる確実な避妊をしてから、楓の直樹に対する関係も変わった。それまで、楓は自分の体がいつ排卵するのか、卵巣の痛みによって分かっていた。卵巣に痛みを感じたからこそ、そして精子がひとつとして卵子にたどり着かないということを直観できたからこそ、楓は自分の体から流れ出す精液を感じられていた。排卵の痛みもなくなって、楓の人生から、わずかに残っていた子供ができる可能性と危険性が絡み合った予測不可能なことが消え去った。この、女性にとって常にセックスと隣り合わせである予測不可能性によって、かえって楓はそれまで直樹との関係をその日、その時だけではないものとして描くことができていた。排卵時のわずかな痛みが、そして受精していないという直観はあったにせよ、次の生理が来るまで確実に妊娠していないとは断定できないことが、自分の人生における現在のもっとも身近な不確実性が、楓の人生をある程度確実なものにしていた。予測不可能なものとしての動物的な生殖、そして生殖と結びつく痛み、この二つは楓を人生に繋ぎ止めるものだった。その上、直樹の精液は、いつの間にか匂いがしなくなり、ただのさらっとした液体となっていた。精液は楓の体に余りにも馴染みすぎ、楓は精液の温度さえ感じられなくなっていた。精液の穏やかな異物感をもはや覚えられなくなった。

セラピーの部屋その五

「前回のセラピーから今日まで、どう過ごしていましたか?」

「そうですねえ。ついこの間、久しぶりに両親とスカイプで直接話しました。私はたまに両親に友達の話をするのですが、その中のひとりが気に入らなかったみたいで、距離を取った方がいいんじゃないかって言われました。あまりにも私の領域に踏み込んできたので、ショックでした」

「それに対して、あなたはご両親に直接嫌だと言えましたか?」

「はい。すぐに。三十も過ぎて親にそんなことまで言われなくてはいけないなんて、情けないし残念だと言いました。でも、特に母は、私の苛立ちに気おされて、とまどい、おろおろした声になりました。心底傷付いたような声でした。母の声を聞き、私から急速に悲しさと苛立ちが引いていきました。その代り、罪悪感と自己嫌悪が掻き立てられたんです。まただ、と思いました。また罪悪感が焚きつけられ、その陰で自分の感情が掠め取られたと。私の感情は、母の声色ひとつで奪い取られてしまい、私の感情が彼女の感情になるのです」

「その友達とご両親は直接会ったことはありますか?なにが気に入らなかったのか、分かりますか?」

「両親は私の話で知っているだけで、彼女に直接会ったことはありません。なんか、彼女の贅沢なお金の使い方が気に食わなかったみたいです。それで母は、自分も昔そういう人との付き合いがあったけどだんだんストレスになった。楓本人には分からないかもしれないけど、周りから見たらそれが分かるし、私には分かる、いずれうまくいかなくなる、というようなことを言っていました」

「あなた自身は、友人との関係をどう思っていますか?」

「たしかに彼女は裕福ですが、私は別に馬鹿にされてもいないし、それに例えば高いレストランに誘われても断ったりしています。付き合う上での距離の保ち方は分かっているので、特に問題ないと思っています」

「そうですか。今日は心に思いつく文章をこの紙に書いて、ひとつずつの言葉のイメージに合う色のフェルトの生地を選んで、それを床に置いて、言葉の背後に隠されているものや、言葉と言葉の関係性をゆっくり見ていきましょう」

「文章ってなんでもいいんですか?」

「はい。長くても短くても良いですが、たくさん文章を書くのではなくて、ひとつ(ein Satz)だけ書いてみてください」

「書けました。『なぜ私(mein)の母は私(ich)から自立できないのか?』です」

「それでは、言葉のひとつひとつの印象にあうフェルト生地を選んでください。どの言葉から始めてもいいです」

「それじゃあ、まずは『母』にします。色は赤です。床のここに置きます」

「それではその赤いフェルトの生地に乗ってみて、心を静めて、どんなことを語りかけられるか言ってみてください」

「そうですねえ。『私は誰かの母親というとても大きくて、強い役割(Rolle)を担っています』」

「母というのは役割なのですね。次はどの言葉にしますか?」

「『私(mein)の』にします。色は『母』と似たような系統の色で、それよりも弱い色にしたいので、薄いピンクです。赤い『母』に向き合い、隙間がないようにして並べて置きます」

「それでは、あなたは『私(mein)の』になってください。私は『母』になります。どうですか?」

「『私はすごく狭苦しく感じます。全く心地よくなくて、心がざわざわします。母が近すぎて。でも、私にはここにいる以外の選択肢はありません』」

「『私はあなたがいるととても居心地が良くて、安心します。あなたは、もっと私に近づいてもいいくらいです』じゃあ、いったんそれぞれの役からおりましょうか。次はどの言葉にしますか?」

「『なぜ』にします。『なぜ』を濃い緑色にして、そうですね、『私(mein)の』『母』は中心にあるイメージなので、『なぜ』はその中心からちょっと離れたところに置きます」

「『なぜ』の上に立ってみて、どうですか?」

「『私はとてもニュートラルで、”私(mein)の””母”を遠くから見つめています』」

「次は?」

「最後のクエスチョン『?』にします。『?』は『なぜ』と似たような色の薄緑色にします。場所は、中心を隔てて『なぜ』の反対側で、『なぜ』と同じく中心にある『私(mein)の』『母』を離れたところから眺める位置にします」

「あなたは『なぜ』と『?』のどちらに立ちたいですか?」

「さっき『なぜ』だったので、今度は『?』が良いです」

「ではそうしましょう。何を感じますか?」

「さっきと同じです。『私は、”私(mein)の”と”母”をとても遠くに感じます』」

「『私も同じです。そして、私は”?”が遠くであっても、向き合って顔を見ることができて、すごくほっとします』それでは、役から降りましょうか」

「次は、二つ目の『私(ich)』にします。色は……そうですねえ。薄い紫にします。それで、位置は、『母』の下にします」

「では、二つ目の『私(ich)』に乗ってください。私は一つ目の『私(mein)の』に乗ります。どんな感じですか?」

「『私はすでに取り込まれている”私(mein)の”と同じように、”母”に取り込まれそうな感じがします。そこから逃れたいのですが。もうひとつの”私(mein)の”が”母”と結びつきすぎていて、しかも”なぜ”と”?”も私から遠いところにいるので、まるで味方がいないような気分です』」

「『私は”私(ich)”が近くにいるのに、”母”が間に挟まっていて、とても遠くに感じます。まだ”私(ich)”をかろうじて感じられているのですが、いつか”母”しか感じられなくなりそうで、怖いです』次はどうしますか?」

「次は、『から』にします。色は薄いブルーで、『私(mein)の』と『母』の間に重ねて置きます」

「分かりました。では、『から』の上に立ってみますか?」

「はい」

「私は『母』の上に立ってみます」

セラピストは、『母』の上にしゃがみ込み、いきなり『から』を自分から離れたところに置いて『私(mein)の』と二つ目の『私(ich)』とを『母』の方へ近づけた。そして、フェルトの生地にくっついているゴミを取り始めた。

「『私は、”から”がいると、すごく落ち着かなくなります。私の周りを”私(mein)の”と”私(ich)”で囲んで守ってもらいたいです』」

「『私は、自分が”私(mein)の”と”母”の二つをある程度の距離を保ちつつ、つなぎとめる役割があると思います。私自身はどちらにつくのでもない、いたって中立な存在だと思います。でも、”母”が近くにいると私はイライラしてしまうので、ちょっと離れたところに追いやられて、少しホッとしてもいます』」

「次の言葉は何にしますか?」

「『自立』にします。『自立』は、『から』と同じようにして『私(mein)の』と『母』の間に、二つにまたがるようにして置きます。色は、濃い青にします。『私には自分が”私(mein)の”と”母”をつなげる橋のような役割があります。橋であり、二つの間の境界でもあります。私から見ると、”母”はいつも”私(mein)の”の方を向いていて、私を突破してそちらへ行こうとしています』」

セラピストは再び『母』の上にしゃがみ、手や頭を神経質そうに掻きながら、再び『から』を遠くに置き、『自立』をどかした。

「次は『できる』にします。『できる』は濃い紫色で、『自立』の上に置きます」

「『できる』の上に立ってみてどうですか?私は『自立』の役をします」

「『私は、”自立”が私と同じくらい強い色で心強いです。ただ、今は”母”に阻まれていて、全く自由を感じません』」

「『私は、”できる”がいてくれて初めて自分の意味を見いだせる気がします』」

「最後は『ない』ですね。どこに置きますか?」

「『ない』は『母』の隣、『私の』の『母』を隔てた反対側に置きます。『ない』は濃い黄色にします」

「『ない』の上に立ってみて、どうですか?」

「『私は、”母”と同じくらい強い存在で、”母”を支えています』」

「役を離れて、ちょっと離れたところに座って布の布置全体をよく見てみてください。何か感じることはありますか?」

「私の母は、私の母という役割しかなかったような気がします。他の、誰かの妻とか誰かの友人とか、そういう役割を担うことはほとんどありませんでした。私の友人にも母親との関係が難しい人がいます。ただ、彼女の母親は、母親であるというより妻であるというアイデンティティーの方が強いんです。彼女は結婚して誰かの妻になることで、ある程度母親との距離が取れたように思います。私の母親は、どうしても母親なんです。だから、私がもし結婚して家庭を作ったとしても、彼女にとってそれでは不十分なんです。子供ができて、私と母が同じ『母親』という役割を担わない限り、私はいつまで経っても娘であって、対等な関係にはなれない気がします。それにしても、『なぜ』と『?』から見た時に、その他のものが思った以上に中心で複雑に絡み合っているので驚きました。こうやって客観的に見ても、母と私の関係の酷さに対して自覚的になれないでいます」

「『なぜ』と『?』が互いに離れていて、とても客観的な位置にいますね。そして、中心は混とんとしている。そして、『母』が危険を表す赤で、あなたを直接表現している『私(mein)の』も『私(ich)』も、両方とも淡い、綺麗だけれど弱い色をしているのが気になりました。でも、自分を客観的に見る視点がこうして中心のごちゃごちゃしたところから離れたところにあるのは、とても大事なことだと思います。あなたは小さい時にお母さんが不在のような環境だったと思いますが、『小さい時に、お母さんがいなくて寂しかった』という風に日本語で言えますか?一度、その気持ちに自分自身で触れてみるというのは大事なことだと思います」

「日本語で良いんですか?私は……」

そう言おうとした瞬間、不意に寂しさが楓を襲った。

「わた……」

楓は泣いて、それ以上続きを言うことができなかった。楓は何で涙が止まらないか分からなかった。子供の頃に感じていた寂しさは曖昧で、はっきりと思い出せるものではなかった。しかし、何らかの捻じれた感情が幼少期にあることは、楓が涙するというところから推察されえた。

第六章

 楓は怒りの感情を持てなかった。特に親しい間柄の人に対しては、怒りを全く感じられず、ただひたすら深い悲しみを味わった。楓は、人がどうしたら怒れるのか、分からなかった。だから、怒りを表明している人がいると、いつも、私もこんな風に怒れたら、あの時こういう風に怒っていればよかった、などと思った。もっとこんな風に怒れたはずなのに、と悔しくなることもあった。楓は、怒りをいつの間にか押さえ付けて感じなくするか、あるいは悲しみに変えていた。本当の悲しみも、怒りから転じた悲しみも、すぐにその場で感じることができなかった。さらにはこの二種類の悲しみがどう違うのか、区別がつけられなかった。ただ、いずれにしてもそれらは時間を置いて、忘れた頃に後から(nachträglich)遅れて(verspätet)やってきた。

 楓は、自分の友達に直樹とのことを詳しくは言えなかった。友人たちが一様に心配するのが目に見えていたからだ。それに、直樹と会ったことがない状態で、楓が悩んでいることを知ったら、その人となりを知らないゆえに要らぬ心配をさせてしまうかもしれないと思っていた。友人たちの楓に対する心配は、その裏返しで直樹に対する非難になる恐れがある。楓はそういうものから直樹を守りたかった。

 直樹はある休日に楓を自分の部屋に初めて招待した。その部屋は最近別れたばかりの直樹の元彼女と直樹が一緒に住んでいた部屋だった。直樹の中では完全に終わった関係で、その人はもう部屋から出て行っていたが、いくつかの所持品はそのまま残っていた。本棚がぐちゃぐちゃで、床にも物が散乱していた。

「楓さん、ソファーに座って良いからね」

楓はソファーに近づいた時、ソファーの下に何か白い物が落ちていることに気付いた。ちらっと見たら、それは白いもこもこしたスリッパだった。直樹が履けないような小さいスリッパが片方、ソファーの下の奥の方にひっそり姿を隠していた。何かのはずみでソファーの下に滑り込んだその小さな白いスリッパは、やけに立体的に浮き上がって見え、身を隠しながらも自身の存在を主張しているようだった。スリッパは、その周りに違う流れの時間をまとっているように見えた。楓は、ソファーの下にスリッパが潜り込んでいると直樹に言うことができなかった。

 楓はソファーに腰かけ、直樹は楓の膝に頭を置いてソファーに寝そべっていた。直樹はおもむろに携帯を取り出し、フェイス・ブックのプライベートページを開いた。楓は何をするのかなと思いながら見ていると、直樹は友達の写真を見せてくれた。高校の友達、大学の友達、会社の同期、ドイツでの写真などである。写真を飛ばし飛ばし、それでも目につくものはサムネイルの状態から拡大しながら見せてくれたが、直樹が不自然に飛ばした写真があった。それは背の低い、髪が肩ぐらいまである女性とのツーショット写真だった。もう一枚は、明らかに女性が直樹の頬にキスをしているものだった。女性はどうひいき目に見てもチャーミングさがなく、醜く太っていて、神経を逆撫でられるような雰囲気で、生理的に、この人の肌には触れたくないと思わせるものがあった。直樹はこの二枚続きのサムネイル上の写真に言及することなく、飛ばした。楓は直観的にそれが最近まで付き合っていた人だと察した。

 写真を一通り見せ終わった後、直樹はふと、

「楓さんとは長い付き合いになるような気がするんだ」

と言った。直樹は照れくさそうに、無邪気な声で、そう言った。しかし、楓は何故この部屋の、この、彼らのソファーの上でそう言ったのだろうと思い、その言葉を、言葉の通りに受け取ることができなかった。しかも、写真が目に飛び込んできた直後に。楓は心を振り回されるのが辛かったので、予めあまりいろんなことに反応しないように心を制御していた。それでも、直樹の発言とその無邪気さと、発言の場があまりにも食い違っていて、疲弊しないように守っていた心が無理やり動かされ、そしてかえって無感動に陥った。このように、心の働きが鈍くなってしまうような出来事が楓と直樹の間には数多くあった。そういう時、楓はあまりに呆然としてしまい、怒ることも悲しむこともできなかった。しかし、その積み重ねは、楓の心を蝕んでいった。

 楓と直樹は、いつもは金、土と一泊二日をどちらかの家で過ごしていたが、次第に直樹の仕事が忙しくなるにつれて、実際は彼の部屋で過ごす方が多くなっていった。ある時、楓は一泊分のお泊りセットを持って直樹の部屋に泊まったのだが、日曜日も一緒に過ごすことになった。着替えが足りなかったので、楓は洋服を洗濯させてもらった。日曜の朝、楓は乾燥機から出てきた服に袖を通した。洋服からは自分の家で使っているのとは違う洗剤の匂いがした。自分の服から自分以外の匂いがしてくるのは、とても不思議だった。楓は直樹の匂いを嫌でないことに、改めて驚いた。息を吸うたびに鼻腔をくすぐる直樹の匂いは、楓の心をそっと包んだ。

 直樹は楓のことを大切にしていた。楓は、直樹が楓のことを全身で求めていることが分かっていた。しかし、いつも楓は誰かと比較されていると感じていた。

「こうやって一緒にひとつの傘に入って歩きたいと思えるだなんて楓さんだけだよ」

「今度、僕の同僚に紹介したいんだけど、初めてだからちょっと緊張するな。でも、楓さんのことは胸を張って紹介できるよ。いずれ僕の両親も紹介するからね。うちの親、初めて女の子を連れて行ったら驚くだろうなあ」

「こんなに肌が合うだなんて」

「楓さんとはセックスするだけじゃ足りない。それだけでは満たされないくらい楓さんを求めてしまうよ」

「楓さん、ちょっとビックリするくらいいつもいろんなことに気付いてくれるよね」

「ショップ店員みたいにきれいに服をたたむねって言われるんだ」

「ごみの分別にうるさいって言われるんだよね」

「エジプトへ行った時は、道路がすごいごちゃごちゃしてて運転もみんな雑で。でも、たまたま乗ったタクシーの乗り心地がすごい良かったんだよね。チップをあげ過ぎるのも良くないなあと思いはしたんだけど、その運転手には良い運転で頑張って欲しかったから、チップを弾んだんだ」

「楓さんとは、きちんとお金の話もできるから安心だよ」

「僕は誰かと食べ物をシェアするのはあまり好きじゃないんだけど、楓さんとだったらそれが自然にできて、すごい不思議」

「僕は今まで無理をしてたんじゃないかって、楓さんと一緒にいると思う」

「楓さんは背が高いよね。たまにふと、びっくりする」

 楓は直樹なりに大事にしてくれていると分かっていたが、しかし、自分だけを見てくれているのではなく、誰かとの比較で褒められたり大事にされたりしていると気付いていた。しかし、悪気のない比較なのだからと、その一つ一つを聞き流そうとした。楓はなるべく直樹が大事にしてくれる部分だけ見て、それ以外の部分は見ないように、感じないように努力した。次第に、努力しているということだけが意識から押し出され、楓は何も感じないようにしていたこと自体を忘れた。しかし、実際は、直樹が楓を称える様々な言葉が、楓には少しずつ打撃を与えていたようだった。

 こういう言葉の数々を口にしていた頃の直樹のマンションはちょうど改装中で、楓が遊びに行くといつも工事の音が腹を圧迫していた。工事のウィーン、ドドドドという音に直樹の言葉が絡みつき、少しずつ楓の心を削っていった。楓は直樹が発していた、比較が背後に隠されている言葉のひとつひとつを、二重の意味を持つ言葉を、知らず知らずのうちに内面化していった。一方で直樹は、出会って最初の頃はよく無意識のうちに楓を誰かと比べていたが、次第にそれも収まり、楓を誰とも比較せずに楓だけを見て受け止めるようになっていった。不幸なことに、ちょうどそれと入れ替わるようにして、楓には、直樹と何かをする時、常に、直樹がこれをするのは初めてなのだろうか、初めてでないとしたら昔の誰かとの記憶と比較されているのではないか、という疑念が頭をもたげ始めた。楓自身は、こういう思いがどこから湧き上がってくるのか見当もつかなかった。しかし、また比べられてしまうのではないか、という無意識を跳梁する恐怖は、何をするにも先取りして楓の心を切り苛んだ。そのため、楓の心は何かをする前に、すでにくたびれ果てていた。楓は自分の内部で連綿と続く苦しさに、漠然とした不安を覚えた。楓はその辛さを誰にも言えなかった。いや、そもそもはっきり分かってしまうと自分が壊れ、それと同時に直樹との関係も崩壊してしまうと直感していたのか、自分自身でも自覚的になれなかった。楓は精神の淵に追い詰められ、次第に自身の狂気を目の当たりにするようになった。しかし、それは常に時系列的には後から来るので、「狂気」に「整合性」を求めることができなかった。それは楓をますます苦しめることになった。精神の深淵は、果てしなく深かった。楓の苦い思いは、工事の音と結びついて心の奥深くに音もなく沈められた。

 

 直樹は新しい部屋を探し、そこに楓と一緒に移り住んだ。

 楓は直樹の引っ越しを最初から最後まで手伝った。がらんとした部屋の隅に残った最後の埃を、これは一体いつから積もったものなのだろうと思いながら掃除したのは楓だった。部屋を最後に出る時、楓の方から直樹に、

「部屋にいる時の写真を撮ってあげる」

と言った。楓は、自分の魂が軋む音を聞きながら、最後に直樹と部屋の記念撮影をしてあげた。楓は立ちくらみがした。

 新居は二人で住むには少し狭く、一人で住むには十分な大きさであった。楓の海外勤務が実現するとして、ゆくゆくは直樹が一人でも住め、楓もまた戻って来れるような部屋にした。二人は別々の部屋で離れて生活をしてたまに会うという暮らしを想像できなくなっていた。

 新しい生活は、しかし、瑞々しいものではなかった。楓は新居に、手を変え品を変え跳ね除けられていた。

 引っ越してから一か月も経たない頃、直樹は出張でベルギーへ行っていた。直樹のいない間、楓は気楽に一人でワインを飲んで酔っ払っていた。楽しく過ごしていたところに、切羽詰まった直樹から電話がかかってきた。「楓さん、前の部屋の大家が敷金をもともともらっていないって言うんだ。でも、返ってこないとおかしいんだ。かなりな額だから困ってる。悪いんだけど、前の部屋の契約書を探して、写真にとって送ってくれない?」

 楓は契約書に書かれている直樹が以前付き合っていた人の名前が嫌でも目に入ってくるのを、どうにか冗談めかして言った。

「ちょっとお、いろいろ見えちゃうんだけど」

直樹の答えは、

「だって、仕方ないじゃないか」

だった。楓は酔った頭を鈍器で殴られたようになった。ふらふらになりながら言われた通りに契約書を写真で撮り、メールに添付して直樹に送った。この件は結局大家の簡単な思い違いということですぐに解決した。

 すべてをやり遂げた後、楓はトイレで嘔吐した。

 新居には二人の持ち物がごった返していた。そして、直樹の持ち物の方が圧倒的に量が多かった。二人は順次、直樹が所持品として持ってきたものを新調した。珈琲マシーン、鍋、食卓、椅子、ミキサー、お皿、カトラリー、ガラスのコップ、コーヒーカップ、オレンジ絞り機、ビアグラス、ワイングラス、ベッド、布団の上掛け、枕、木べら、フライパン、ごみ箱、掃除機、洗濯機。本棚やタンスのような大きい物、すぐに買えないものはしばらくそのまま残った。この作業には切りがなかった。

 楓は飢え乾きながら新しい部屋に自分の場所を求めた。そして、ひたすら狂ったように、自分の痕跡を残そうとするかのように部屋の掃除をした。楓は、他人の人生を否定し、他人の痕跡を消すことでしか自分の居場所を作れなかった。そして、掃除という行為は、たとえそれが無限に続いたとしても、それによって痕跡を残すことは不可能だった。この、虚無しか生み出さない行為に、楓自身、芯まで冷え切った戦慄を覚えた。

 新しい物を買うたびに、それまでの直樹の生活がどれほど昔の関係に深く根付いていたのかを思い知るようだった。直樹はすべて終わっていて、楓と新しい生活を築き上げていると思っていたが、楓は違っていた。楓は、ようやくマイナスのものをゼロにするプロセスにいると感じていた。楓は、二人でどれほど新しい物を買っても、いつまで経っても新しい何かを二人で生み出しているような気持になれなかった。最初は、身の回りにあるものほとんど全てが直樹が昔使っていた物だったので、常に楓は居心地悪く感じていた。楓は、直樹の中に自分の場所がないように思えた。次第に家の中のいろんな物が新しくなっていくにつれて、日々の生活で自分の場所を焼けつくような思いをしながら求めることはなくなってきた。しかし、何かが新しくなる度に、自分の場所はなかったんだということを思い出した。家の中の物が新しくなり、古いものが捨てられたり売られたりする中で、常に自分の場所がなかった頃のことが呼び覚まされた。それゆえ、そのプロセスは純粋に楽しかったり嬉しかったりするものではなかった。楓は、そのような新しい生活を作る作業を純粋に楽しめるのを心底羨ましく思った。

 それから数か月して、直樹は前の関係に金銭的にも、荷物などに関してもようやく終止符を打てた。楓と直樹がお互いの部屋を行き来するようになってから実に半年以上経っていた。そのようなある日、直樹は「一度これまでのいろんな書類を整理する」と言った。二人は便利だからとシュレッダーを買っていた。楓は、数か月前に見た前の家の契約書も直樹はシュレッダーにかけるつもりだというのが分かっていた。楓はもう何も見たくなかった。そこで直樹に、

「直樹さんが書類の整理をしてる間、私は外でお茶でもしてくるからね」

と言い、自身は同じ空間にいたくないという意思表示をした。しかし、それは直樹には伝わっていなかったようだった。買ったばかりのシュレッダーを前にして

「試運転する」

と言い、直樹はいくつかの書類をシュレッダーにかけた。楓は、そうか、まだお試し中なんだと思い安心して一度寝室へ行き、携帯電話を取って再びリビングに戻ってきた。ドアを開けた楓がちょうど目にしたものは、せこせこした直樹の背中と、「賃貸借契約書」と書かれた紙がシュレッダーに吸い込まれるところだった。楓はドアを閉めて、そのまま外に出た。試運転だと言ったのに、嘘をつかれたような気がした。同じ空間にいたくなかったし、何も目にしたくないし、シュレッダーの音さえ耳にしたくなかった。それなのに、運悪く楓は以前の部屋の賃貸契約書がシュレッダーにかかる瞬間を目にしてしまった。それ以来、シュレッダーの音は楓に頭痛を引き起こすようになった。直樹も何となくそれを察知してか、以後、数回シュレッダーを使ってから、もうそれ以上はいちいち大きな音でがなり立てる機械を使わなくなった。直樹のワンテンポ遅れた思いやりを楓はありがたく思う反面、それで心が完全に癒えることはなかった。

 こうして、楓はやっと自分の場所を見つけてはそこから蹴り出されるという経験を何度もしてきた。その晩、全てを終わらせた直樹は、楓に「これから一緒に未来を見て行こう」というようなことを言ったが、楓は試運転と言ったのに嘘をつかれたというショックがあまりにも大きすぎて、そのほとんどが耳に入って来なかった。ピリオドを打った直樹に対し、一緒に前を向いて歩んでいく機会を楓は完全に失ってしまった。そこから二人の歩みには次第に歪みが出るようになっていった。同じスタートラインに立つことができなかった楓の心には、「ありがとう」をたくさん言い「ごめんね」とほとんど言わなかったその日の直樹の印象だけが強く心に残った。そして、直樹の不用意さで直接直樹によって傷付いてきたことも多いのに、何で「ごめんね」の方が「ありがとう」の回数より少ないんだろうと、眩暈を覚えながら立ち尽くした。そして、あの壮絶な引っ越しを経て、最後の最後もこれなのかという絶望から。眩暈は楓に、自身が肉体を持つ存在であることを思い出させた。直樹は楓を抱きしめ、うわ言のように何度も「ありがとう」と言った。直樹が普通の姿勢で立っていたため、楓は少し後ろに押されて、抱きしめられながら今にもバランスを崩しそうになっていた。どうにか踏みとどまりながら、楓は早く直樹の腕から解放されたいと願った。しかし、直樹が楓を抱きしめている時間は、長かった。

 楓は事あるごとにこの時に戻ってもう一度やり直したいと思ったが、それは叶わなかった。

 ある日、二人の住む部屋の上の階で内装工事が始まった。ドドドドドという音が心臓に直接響いた瞬間、楓は心がギュッと縮まり、鼓動が早くなってドクドクという血が流れる音が耳の奥に鳴り響いた。楓の呼吸は浅くなり、吸っても吸っても酸素が足りない感じがし、不吉な予感を秘めた動悸がした。このまま部屋にいると、倒れてしまいそうな気がして、楓は辛うじて、

「ちょっとその辺を散歩しに行かない?」

と言った。

 二人は支度をして玄関の扉を開けた。外は生ぬるく、湿り気のある白濁した匂いがした。空間が開けて、空気が薄くなる感じはなくなったが、部屋にいる時よりも工事の音がやたら大きく聞こえて、楓はすくみ上った。鰯雲が出ていて、雨が降りそうだった。いつもより速足でマンションを出て、やっと工事の音が追いつかない程度に遠くまで来た頃に、楓は歩みを緩めた。

 二人は並んで歩き、行きつけの純喫茶に入った。ドアを開けると珈琲の香ばしい香りが、マスターが吸うパイプのバニラの香りと混ざり、鼻孔にふわっと広がった。この喫茶店では、注文してから、白い状態の珈琲豆を焙煎し、挽いて珈琲を入れてくれる。そのため、とても薫りが高く、楓も直樹もここの珈琲の味をとても気に入っていたし、髪をオレンジに染めていつも野球帽をかぶり、アロハシャツにジーンズといったいでたちの年老いたマスターのことも好きだった。マスターが、旅行先で買ってきた色んな小物や思い思いの表情をした人形、花瓶や小物入れ、がらくたのようなものが店内には所狭しと並んでいて、お店の中の雰囲気も二人の好みにあっていた。二人は一時間ほど取り留めもない話をし、「またどうぞ」と言うマスターの声を背に喫茶店を後にした。お店のドアを開けると、チリンチリンとドアの上に取り付けてある鐘が鳴った。

 外は小雨になっていた。直樹だけが傘をさし、楓は直樹の傘に入って家に向かって歩き始めた。しばらくは楽しく話しながら歩いていたが、傘の柄を持つ直樹の手を何気なく見た時、この傘が以前の直樹の部屋の玄関にいつも置かれていた映像が楓には突然鮮やかに蘇ってきた。以前の部屋の玄関、靴箱、玄関わきの洗面所、キッチン、その先のリビング、玄関に傘とともに掛かっていた直樹の青いリュックサック、スリッパ、白と水色のイケヤの皿。色んなものがあまりに生き生きと目の前に再現され、楓は思わず立ち止まって硬く目を閉じた。

「楓さん、どうしたの?」

「ううん。何でもないよ。……ちょっと立ちくらみ」

楓は辛うじてそう言った。

「何か、道が狭いし二人並ぶと歩きずらいから自分の傘をさすね」

楓は直樹の傘から出た。自分の傘をさして歩くと楓の気分の悪さも幾分か落ち着いた。

 

 ある日、楓は直樹と一緒に電車に乗っていたら、車内で、過去の出来事が楓を襲った。楓は心の準備をする間もなく、過去の記憶をリアルに追体験し、当時は泣けなかったのに、今になって車内でぼろぼろと涙を流してしまった。

 楓が思い出したのは、直樹の誕生日のことだった。当時、まだ二人が付き合っていることを英恵や樹里に言っていない状態で、直樹の他の二人の友人と合わせて六人で食事をした。その日はたまたま直樹の誕生日の前日だった。その食事自体は誕生日会というわけではなく、ごく普通のものだった。楓は、日付が変わる時に直樹の誕生日を祝いたかった。皆が知らない状態で、二人で一緒に直樹の部屋へ帰るのは良くないと思い、楓は明日早いからと理由をつけて、他の皆よりも早く夜十時頃には食事会を後にした。直樹にも、楓が早めに出るから後で合流しようということは伝えていた。楓は東小金井駅の近くのカフェで直樹からの連絡を待った。さすがに三、四十分も待てば直樹も来てくれるだろうと思っていたが、直樹からはそれから一時間半後くらいにようやく連絡があった。その頃には、もう楓の待っていたカフェも閉店となってしまい、楓は店の外に追い出されてしまった。楓は仕方なく、また駅前に戻り、そこで立ったまま二十分弱直樹を待った。直樹を待つ間、楓は直樹が自分のことを顧みてくれていないような気がし、みすぼらしい気持ちになった。楓は、純粋に直樹が三十四の誕生日を迎える日に一緒にいたかったので、直樹が遅れて到着した時に笑顔で迎え、内緒で買っていたチョコレートケーキを直樹の部屋で一緒に食べた。

 楓はその時のことを思い出した。というのも、そのレストランの最寄りの駅だった四ツ谷駅で直樹と一緒に乗り換えたからだ。楓は当時のことを思い出した。待ちぼうけを食ったことだけでなく、当時、行きたくないと思いながらその気持ちを抑え込んで行かざるを得なかった直樹の部屋の空間、部屋の匂いまでもが蘇った。一つ一つのことは、それぞれどうにか我慢できたが、こうして急に記憶が呼び覚まされていろいろなことが一気に自分の内側で起こる時、楓はもはや耐えられなくなっていた。過去の出来事の意味が変わってしまうのだ。それは楓にとっても、間接的に直樹にとっても不幸なことだった。しかし、過去の意味を変えてくる力に抗うことは楓には不可能だった。過去は、当然そうであったかのように確固として楓の前に聳え立った。一つ一つの出来事の中を、その時その時で潜り抜けられたとしても、振り返った時にそれらが苦い軌跡を描き自分の足元に続いているのだ。楓はパニックになり、浅い呼吸を何度も繰り返しながら、直樹が安心させてくれる、守ってくれるに違いないと心の片隅で助けを求めた。楓には、帰れる場所がなかった。帰って安らげる場所、そういう空間がなかった。どこへ行ってもそこから弾き飛ばされたようになる楓は、自分が憩える場所を求めていた。そんな中、楓にとって、直樹は唯一の逃げ場だった。自分がこんな深い悲しみを背負っていたというのに驚きながら、いつ消えるとも分からないことに不安と焦りを覚えながら、涙を流した。しかし、直樹はこう言った。

「急に泣かれるだなんて、まるで僕が悪いみたいで、周りの人たちに責められている気がする。こっちの身にもなってよ」

 涙をコントロールできなくなっていた楓は、いよいよ顔を手で覆いながら、何度も何度もしゃくりあげた。息ができなかった。頭から血の気が引いて、目の前がちかちかした。この人の前で、もう泣くことは許されなくなってしまった。そう思って、何とか泣かないように奥歯を食いしばった。

 深い悲しみはいつも何の予兆もなくやってきて楓を襲った。防ぎようがなく、自分ではどうにもできなかった。

 この電車での一件以来、もう直樹の前では何があっても泣かない。楓はそう決めた。しかし、そう決めてから、楓はそれまでよりもちょっとしたことですぐに苦しくなった。誰かに助けを求めることが許されず、自分の中であらゆることを処理しなくてはいけないというプレッシャーが楓の苦しみを悪化させた。楓は、直樹にただひたすら「寂しい」としか言えなくなっていた。楓にとって、傷付く原因と慰めは源泉が同じだった。あらゆることは時が癒してくれると言ったのは一体誰なのだろうと楓は恨めしく思った。時が癒すことのないものもあり、かえって時が経つにつれて濃縮され、こんがらがり、それは体の中の骨にまで痛みを与えるようになる。楓は、胸が苦しくなり、誰もいない部屋で心拍数がどんどん加速していく時は、ベッドに身を投げ胎児のように丸くなり、「何で、何で」と呻きながらのたうち回った。一人で泣いている間、楓は恐ろしい孤独を味わった。楓は苦しくなった時に、しばしば自分の体に痛みを与えることで苦悩を軽減させようとした。右手で胸の辺りをばんばんと叩くのだ。それは、まるで自分に懲罰を与えるかのようだった。そうでもしないと、今のこの世界に自分という存在を見いだせなかった。その右手が打ちのめすものは自分の左胸という、明らかに抵抗のある、肉と骨の塊だった。左胸が赤くなるまで叩き、時には鎖骨下の肉の薄い部分を指でぎゅっぎゅっとつまみ、楓は自分の体の形を確かめた。楓は、自分の肉体を感じたかった。楓は自分の肉体を十分に重力が捉えてくれていないように感じ、もどかしくなった。楓は、自分の肉体を下へ下へと引きずり込んでくれる重力を感じたかった。それがどれだけ重くて、自分がそこから這い上がれないほどの力でもって引き摺り下ろされようとも、常に肉体が半ばふわふわと浮いたようにしか感じられないよりはましであるように思えた。楓の重力に対する憧れは、自分の肉体への負荷を求めた懲罰的な憧れであると同時に、楓を人間にする痛み以外のよすがでもあった。苦しさのあまり、心の底から絞り出される言葉は、「お願いだから誰か助けて」だった。楓は助けを求めた。今までそんなものを求めたこともなかったのに、楓には、誰かから物凄く同情されたい、そして理解されたい、という思いが湧きあがった。楓が自分で自分のことを助けるには限界が来ていた。誰かの手を借りなければ、もう這い上がれないというのは明白だった。直樹に、ほんの短い時間でいいから、大丈夫だよと抱きしめてもらいたかった。

 号泣の発作が落ち着いてから、楓はいつも死にたいと思った。楓は、観念的に死に近いところにいた。直樹は楓が毎日どれほど死にたいと思いながら生きているのか知らなかったし、そこに考えが及びもしなかった。楓は、発作が自分の手でどうにかなるものではなく、恐ろしいものが体を支配しているように感じた。自分を支配するものが恐ろしかったのは、それがコントロール不可能な故だけではない。楓は、幼い頃の自分の母親の突然泣き出すヒステリーと自分の状態が似ているように思えて仕方なかった。それは、楓をさらに心細くさせた。楓は、自分が母のようになるのが怖かった。楓は、自分の中にあの恐ろしい怪物を飼っていたことに、三十余年も気付かなかった。最も嫌っていたものを自らの内に見つけ、楓は、自分はこんな人間ではなかったはずなのに、と無力さを嘆きながら自分自身からも疎外され、いよいよ孤独を感じた。楓は泣いた後、風邪で熱が出た時のようにぼうっとした。何も考えられず、翌日まで熱風邪をひいた時のように体が芯から怠くなった。

 楓は、過去の感情の爆発を思い出すのも怖かった。そのような自分は、話しても何も伝わらない赤の他人のようだった。この前のような自分がまた出てきたらどうしようと思い、不安になった。楓は自分を失うことを恐れた。たった独りの時、不安はまだしも漠然としたもので済んでいた。ひたすら独りで泣けばよかったからだ。しかし、それを誰かから言われた瞬間に、またその感情が蘇ってきて、感情の波に引きずり込まれた。

「あの時は電車の中で大変だったよ。ちょっとトラウマになる」

直樹が部屋でぽろっと口に出した言葉で、楓は途端に絶望へと突き落とされた。楓は、自分が居場所だと思っていた所から放り出されたように思った。楓は、ちょっとトイレ、と言ってその場を後にし、直樹に声が聞こえないようにすすり泣いた。体は震え、動悸がし、吐き気が込み上げてきた。あんなふうになりたかった訳じゃないのに。楓自身、それが発作なのか自分の性格的なところから来ているものなのか、区別できなくなっていた。自分で区別できないし、例えある程度区別できたとしても、楓は医者ではないから、それを直樹に対して説得力を持って伝えることは不可能だった。苦しさを、誰かに、客観的に代弁してもらいたいと思った。楓はすでに、自分を激しく嫌悪し責めていたのに、更にそこに追い打ちをかけられ、あの時と同じ発作が再び楓を襲った。楓はなす術もなく打ちひしがれていた。体から血の気が引き、手が震え、それがいつまでもおさまらなかった。楓はどうにか泣いていることから注意を逸らし、自分を誤魔化すのに専念した。楓はささやかな心の平安を求めた。楓は、どうして二人が一緒にいるのか分からなくなっていた。辛くても辛いと言えず、涙を流して苦しんでいる自分を出すことを禁じられた。直樹が見ている楓の像と実際の楓は次第にずれてきていた。それもまた楓に苦痛を与えた。

 

 楓はトイレの中で左腹部に痛みを覚えた。それは、以前まで楓が感じていた排卵痛に非常によく似ていた。自分の体が排卵しているのはありえなかった。楓の体は、体がよく知っているものと似た痛みを創出していた。卵巣の痛みを感じただけで、楓は少しだけ安心した。

セラピーの部屋その六

「昨日、私はすごく機嫌が悪くなったんです」

「一体どうしましたか?」

「彼が仕事帰りに女友達と一緒に飲みに出かけて、その時間がずれ込んで私とのスカイプの約束の時間に三十分くらい間に合わなかったんです。私はパソコンの前で待ちぼうけを食らいました。別に、女友達と飲みに行くくらい全然かまわないんです。ただ、私に何も言わずに飲みに行って、しかも約束の時間に遅れたこと、待たされたことに対して怒っています。SMSを一本書いてくれたら、私はその間に別のことができました。以前も似たようなことがありました。彼は、彼の誕生日の日にも、私を外で長いこと待たせました。ある日、ちょっとしたことがきっかけで、それを思い出した時私は泣いてしまいました。他にも、まだ私が日本にいた時、彼に私の親友を紹介したくて、親友は外国暮らしなので、スカイプで話す約束をしたんです。スカイプの約束を入れてから数日後に、彼は別の友達と、スカイプよりも前の時間帯に会う約束を入れました。私も一緒で三人で会いました。彼と彼の友達は盛り上がってずっとしゃべっていて、そろそろお店を出ないとスカイプの約束の時間に間に合わなくなりそうでした。私は早く家に帰りたかったのですが、彼らの会話を遮ることもできず、その後のスカイプの約束にも同じように三十分くらい遅れました」

「彼はあなたの友達に謝りましたか?」

「いいえ。彼の友達と一緒だったから遅れた、という遅刻の理由については話しましたが、謝ることはありませんでした。私は、本当に自分でもびっくりするくらい昨日はすごく気分が悪くなってしまいました。何であんなに機嫌が悪くなったのか考えているところです」

「でも、パートナーがあなたの大事にしているものを真剣(Ernst)に捉えなかったのですから、怒って当然なのではありませんか?」

「そうかもしれません。でも、機嫌が悪い自分を見つめるもう一人の自分がいて、本当に怒ることが当然なのか、どうしても考えてしまいます」

「たとえば昨日、あなたが一本連絡が欲しかったというのは、当然要求していいことだと思いますよ」

「そうですか。だったら良いのですが……。昨日、彼は私に一度だけ『ごめんね』と謝りました。でも、『あなたは私のことを待ったことがあまりないから分からないんだと思う。あなたが友達と飲んで帰るから帰宅は夜十時くらいになると言われて、実際に帰ってきたのが十一時過ぎ、十二時近くになったことも何度もある。連絡がないと、どうしても待ってしまう。でも、待つのは苦痛だ』と言ったら、今度は私が悪い、何でもっと僕のことを考えてくれないんだと言われました。私は、彼が友達と楽しく過ごしているなら邪魔してはいけないと思って連絡しませんでした。私は彼のことを十分に顧みている(berücksichtigen)つもりです。でも、彼は、取り込み中で自分の方から連絡しずらくても、私から連絡が来たら、それに対して連絡を返すことはできるんだから、それくらい気を回してくれ(berücksichtigen)ればいいのに、と言って、すごく機嫌が悪くなりました。本当は私が機嫌が悪かったのに、何だか私の機嫌が悪いのがおかしなことみたくなってしまいました」

「感情の転移(Verschiebung)が起きたんですね」

「そうなんです。物凄くもやもやします。そして、今私は怒りの代わりに悲しみを感じているような気がします。一体どうしてこうなってしまうのでしょう」

「あなたは私に答えを求めているような感じがしますが、あなたの質問に関する一般化した答えを私から返すことはできません。何か、処方箋があって、この薬を飲めば治るというものではないので、残念ですが決まった答えはないんです。怒りと関連したイメージは何か思い浮かびますか?」

「私はごくまれに機嫌が悪くなることはありますが、怒りを感じたことがほとんどありません。だから、怒りのイメージを持つというのは難しいです。ただ、何となく怒りと結びつくのは、理性的でない(unrational)こと、ヒステリックなことです」

「どちらも自分を失うことと繋がりますね」

「そうですねえ。ヒステリックにならない怒り、理性的な怒りがあることは分かっているんです。でも、私にとっては理性的な怒り、よりも、ヒステリックな怒りという繋がりの方が強いです」

「怒りの代わりに悲しみを感じると言っていましたが、怒りながら悲しむというのはどうですか?」

「ううん、そうですねえ……。そういう感情を私は知らないです。私は、自分を失うのがとても怖いんです。自分のことを全くコントロールできないというのが。本当にどうやって感情の嵐をやり過ごせばいいかわからないんです」

「あなたは今、これまで抑えていた感情、新しい感情を知っていく(kennenlernen)プロセスにいるようですね。しばらくそういう諸々の感情とどうやって付き合っていけばいいのか分からない状態が続くと思いますが、それにはどうしても時間がかかります。忍耐(Geduld)が必要になると思います。セラピーを受けていても、悪化しているように思えるカーヴが何度か来ます。人によっていつ来るかはさまざまですが、あなたのように早く来る場合もあります。ところで、あなたは怒りの感情を出してはいけないとどこかで思っているようですが、そのように思うのは何故ですか?」

「怒りの感情を出してしまうと、人は私のことを理解してくれないと思うからです」

「理解してくれないというのは、あなたが怒っているということそのものを理解してくれないということですか?それとも、何に対して怒っているかという怒りの原因や内容に関してですか?」

「両方だと思います」

「誰が、あるいは何があなたの感情をそこまで阻止しているのでしょうか?」

「二つ理由があると思います。まずは、母が小さい時から根拠なしに怒ることがあったから、私は常に理性的であろうとしていました。もう一つは、男性関係です。おかしな人がメールをたくさんよこしてきたり、あるいは直接身体的に接触してきたりしても、そういうのはすべて私に隙があって私が誘発していると言われることが多くありました。怒りたくても、そういう発言で、私の怒りは正当性(Berechtigung)がないもののようにしてそもそも問題にもされず、握りつぶされてしまうという経験をたくさんしてきました。そして、理不尽なこと、論理的に理解できないようなこと、たとえば急に誰かの機嫌が悪くなるとか、そういうことが目の前で起こると、一気に訳が分からなくなります。意味不明になって、相手に理解を求めたいという意欲が失われてしまいます」

「でも、まさにそこに問題があるのではないでしょうか?彼は、あなたがどう思っているか、特にあなたの感情について、あなたが何も言わないことで理解していないように思います。それにあなたは、怒っていいような内容について話す時も、怒りを抑えて、ちょっとおもしろい話のようにして話しますよね。にこやかですし。私が話を聞いていても、うっかり一緒になって笑ってしまいそうです。でも、中核にあるのはとても深刻な話だったりします」

「でも、どうしても私には何も言えないです。だって、感情的になっている相手が、急に理性的になることはありませんし、そもそも議論にならずに話は平行線になります。言葉という媒介によってしか理解しあえないはずなのに、その言葉が機能(Funktion)しないんです。腹は立ちますが、いま何を言っても無駄だなと思うと、もう、諦めてしまいます」

「でも、怒りを怒りとして表現するのは大事なことですよ。この場でも、やはり怒りの感情を表現すると私に理解してもらえないというように思いますか?」

「いえ、そういう風には思っていません。でも、やはり怒っていたり不機嫌なまま人に接すると、その人は驚いてしまうから、それを避けたいとは思っています」

「ここでは怒りの感情を出しても良いんですよ」

「ありがとうございます。私は、怒って当然のことに対して、当時も、そして今に至るまで怒れないままでいます。それは歪んだ、変なことだと思うのですが、でも、どうしてもそうなんです。誰かにされた不当なことに対して、嫌だと言ったり怒りをあらわにできないことは、自分自身を守れないことにつながっていたと思います」

「あなたは、あることに対して怒って良いのかどうか、それ自体に迷いがあって、どうしたらいいか分からないようにも見えます」

「確かにそうですね。ある感情を抱くことが、本当に正しいのかそうではないのか、常に考えます。この、考えるという自分の中に反省的なプロセスがあること自体が、私自身を苛々(irritieren)させることも多いです。私は感情が湧き上がった時に、それが正しい感じ方なのかどうか、正当性を求めてしまいます。例えば、ここで怒るのは正しいのかどうかと。感情(Gefühl)そのものの正当性(Berechtigung)・根拠付け(Begründung)なんてほとんどできないことだし、そもそも私(ich)と感情(Gefühl)の関係(Beziehung)も非常に曖昧で、そこまで具体性なんてありません。もやもやしたものを、そのまま見過ごすことは簡単です。そのせいで、細やかな感情を感じることができなくなったと思います」

「いろんな感情を感じ、それを表現することはまだ苦手なように見えますが、少しずつできるようになっていくと良いですね。あなたにとって感情の問題は、正当性の問題、そして安全性(Sicherheit)の確保の問題と繋がっているように思います」

「私は常に感情から距離(Abstand)を取るように努めています。それなのに、最も自分自身を守らなくてはいけない大事な瞬間に、私の心は剥き出しの状態になってしまい、そして外からの強烈な刺激にさらされてしまいます。私はコントロールを失うことに対して不安があります。それは常にいきなり来るからです。不安を感じないように、なるべく見ないようにしているのですが、それによってかえって自分自身を守れなくなっています」

「感情の波が来ることを予測して、それが来た時に備えて準備することができるようになると良いですね」

「まだ時間がありますが、他に何か今回のセラピーで言っておきたいことはありますか?」

「そうですねえ。私は先日、注射器をアマゾンで注文しました。自分にべったりくっついて離れてくれない言いえないもの(das Unsagbare)、忘れてしまいたいものを体の中から血と一緒に引きずり出したいんです。注射器で血を抜くという考えに取りつかれて、居ても立っても居られなくなって、それで注射器を注文しました。それは一種の強迫観念のような感じでした。本当に、他に何も考えられなくなってしまったんです。でも、注文したら、少し気分が落ち着きました」

「注射器はもう自宅に届きましたか?」

「いえ、まだです」

「届いたらどうするつもりですか?」

「分かりません。今のところは注文しただけで満足していますから」

「送り返したりはしないんですか?」

「そうですねえ。……こんなことを言うのもおかしいのですが、念のため(zur Sicherheit)、手元に置いておくと安心できる気がします。注射器はまったく安全(Sicher)なものでないのは分かってはいるのですが……」

「注射器という発想は、リストカットに比べるとだいぶ極端(extrem)なものですよね。死にたいということでしょうか?」

「いいえ。私にとって、死のイメージはそこまで具体的ではありません。首を吊ったり、電車に飛び込んだりということは考えていません。つまり、一思いに、死ぬ瞬間を特定できるような明白な死ではないんです。ただ、ゆっくりと私が死に近づく、あるいはゆっくりと死が私に近づいてくるという感じです。血を少しずつ抜くことは、死に近づく、あるいは死が近づくというイメージにぴったりなのです。

 私にとっての死は、日常生活を構成する要素の一部で、特別なことではなく、朝、珈琲を淹れる動作くらい自然なことなんです。だから、別にそんなことを考えてはいませんが、仮に自殺するとして、私はおそらく遺書を残すというような特別なことはしないように思います。それが私の死に対するイメージです」

「注射器を使いたいと思いますか?」

「うぅん……今は自分がどうしたいか、分かりません。でも別に、三十ミリリットルの血を抜いたところで、人は死ねませんし。二リットルくらいを一気に抜いたら、さすがに危ないのは分かっています」

「あなたは、すでにいろいろ調べることに従事(beschäftigen)し、時間をかけ、そして注文するという行動が可能になるくらい計画している(planen)ということですね」

「そういう風に言えるとは思います」

「次のセラピーまで、何も起こらないと約束できますか?駄目だと思ったときは、きちんと精神科の救急外来へ行くんですよ。自分で病院に連絡を取って、行くことができますか?」

「はい」

「本当に約束できますか?」

「はい」

「あなたを、今日このままここから帰してしまっても大丈夫ですか?」

「はい」

「分かりました。そうしたら、また次回お会いしましょう」

第七章

 普段、楓の心の動きは鈍かった。何かを受け取る感性は人一倍あっても、慢性的に心が疲れているために、心が揺り動かされることは少なかった。いや、心が動いた後の虚無的な疲労が怖くて、自らそういうものの中に飛び込むことを極力控えていた。それは、半ば防衛本能のようなものだった。

 楓は以前、直樹を憎んでしまいそうになったら、その前に直樹の元を離れようと思っていた。しかし、今では楓は直樹のことを、いつか心の底から憎んでしまうのではないかと常に不安になり、憎んでしまう不安は以前より具体的なものになっていた。楓と直樹との間にどのようなことがあったのか、楓は具体的には誰にも語らなかった。楓はそれをひたすら澱のようにして心の底に溜めていった。心はくたびれ、濁っていき、ついには悲鳴を上げていた。それらのことをそもそも自分自身に対しても言語化することを楓の心はどこかで拒否していた。二人の関係は、マイナスをゼロにするところからスタートしていた。そして、そのプロセスはいつまで経っても尽きることがなかった。あの頃に戻ろう、あの頃に戻りたいという清々しかった時点が二人にはなかった。

 楓は、以前直樹から比較され続けたことに対する苦しみをしばらく時間が経ってから味わい、当然そういう反応があり得たような反応だけが遅れてやって来た。酷く不安になったのだ。そして、物が新しくなることによってのみ、自分の居場所ができるような強迫観に取りつかれていた。

 物が新しくなること。それは喜びや新しい生活への期待に満ちるものではなかった。楓は疲弊していた。しかし、直樹も直樹で物を手放すのに心を削り取るような思いをしていた。直樹は自分の持ち物を大事にする人だった。

 「今までいろんなことを妥協して、譲ってきたけど、僕の過去の思い出なんて、全部ごみなんだね。僕はいつか楓さんに吸い尽くされそうだよ。そうなったら、もうお終いだ」

そう言われても、楓の心は動かされることはなかった。そして、心が動かされない自身を恐れた。しかし、怖れると言っても、恐怖に身がすくむのではなく、ただ、客観的に、こういう時に罪悪感などの心の変化が何もないのはおかしなことだろうという観点からの、自身が揺り動かされることのない無感動な怖れだった。楓は、それなら何で、両親や同僚に紹介できないような人とずっと付き合っていたのか、自分がボディータッチされて嫌だと思うような人に自分の大事なものを触らせていたのか、いったい人と一緒に住むということの意味をどう考えているのか、なぜ、そういう人のそばに居続けた自分を顧みることなく、楓だけが悪いと責められないといけないのか、理解できなかった。直樹は以前、同棲生活の最後の一年くらいはセックスもしていなかったと言っていた。彼らのただれた関係は、楓と直樹の関係までも蝕んでいた。楓は、日常生活で手に触れるものは新しい物にしたかった。しかし、そのうちのあれやこれやは、例えば直樹が実は後輩からもらったものだったり、若い時になけなしのお金で買った物だったりした。そんなに大切にしていた物なら、何でそれを大事に思えない人に触らせてきたのか。楓は物を人にあげたり売ったりして直樹が身を削っていることを理解していた。楓は感謝しなくてはいけなかった。そして、これ以上何かを求めることは許されていなかった(dürfen nicht)。

 直樹は悔しそうに泣いていた。

「自分は得たものよりも失ったものの方が大きい」

それなら何故、楓を何度も直樹たちの部屋に招いたのか、それも前の彼女の荷物がきちんと整理されていない本棚などが散らかった状態の部屋に招いたのか、「仕方ないだろ」と言って楓の居場所を奪うようなことをしたのか、どうして引っ越しを手伝わせたのか。楓はひとつひとつのボタンの掛け違いが苦しかった。もし、「仕方ないだろ」と言わずに、「ごめんね」と言いながら抱きしめてもらえていたら、楓の居場所を奪うようなことをしなかったら、あの部屋の隅々まで未だに思い出せるくらい何度も部屋に招かれたりしていなければ、楓はここまで自分の居場所がないという思いに取りつかれることはなかった。楓にとって居場所とは、自分が安心できる場のことだった。安心をひとつずつ奪われた楓は不安定になり、しばしば容易にパニックに陥るようになった。

 直樹は仕事で忙しい時期になり、それと正比例するように次第に楓のことがたまに鬱陶しくなっていった。直樹は終電で帰ることが多くなっていて、土曜日も仕事をする日が増えていた。そんな時、たまに日曜日に二人でゆっくりしながら、その一週間で起きた出来事などを報告し合った。楓が友達と過ごしたことや趣味のこと、あるいは資格の勉強やミュンヘンでの転勤に備えたドイツ語の勉強をしていることについて話すと、決まって直樹は「時間があって良いね」と言った。たとえ楓が自由に使える時間でどれほど努力をしていても、あるいは単純に楽しかったことを分かち合いたくてもそう言われてしまうので、楓は次第に自分自身のことを語ることが少なくなっていった。楓は、直樹の忙しさを慮ることはできたが、それでもその言葉は楓には皮肉のように響いた。それゆえ、嬉しいことほど何気ないふりをし、慎重に直樹の耳に触れないようにした。隠しているのではなくて、聞かれていないから言っていないだけ、と自らに言い聞かせた。

 直樹は苛つき、楓の細かいことが気になり始めていた。しばしば直樹は、楓が気にもとめていないことを逐一指摘した。例えば、いつ電気を付けていつ消すか、楓には直樹のルールが分からなかった。ここの電気消そうよ、と直樹に言われ、何でこの前は電気を付けといてって言われたのに今日は消してと言われるのかできず、ただ直樹の苛つきだけを感知して、漠然と不安になりながら慌てて電気を消した。

 直樹は楓に対してイライラを隠さなかった。直樹の苛つきを受けて、楓は不安になった。直樹の声は、少し上ずって早口で、それは完全に聞く耳を持たず他の意見を寄せ付けない時の声だった。また、楓は直樹の話す言葉をうまく聴き取れなくなっていた。直樹は疲れており、楓にしっかり言葉を伝える意志をもって話しかけてはいなかった。ただ、独り言のようにもそもそと何かを口に出していた。楓は何度も聞き返さなくてはいけなかった。それは楓自身も、直樹も、苛立たせることになった。楓はうまく呼吸ができなくなり、涙が出た。楓には帰って安心できる場所が必要だった。いくら蛍光灯で明るく照らし出しても、何かに取り憑かれたように常に暗い雰囲気が年月をかけて染み付いてしまった実家は、もはや楓が帰りたい場所ではなかった。新しい部屋は心底安らげる場所ではなかった。楓の洋服の匂いは、たまに直樹の匂いになっていた。直樹の使っている洗剤の匂いは、ふとした拍子に、楓の匂いが部屋に染み付くのを妨げるかのように、楓自身の匂いを消した。直樹の匂いは、楓を守るのではなく、楓から何かを阻むようにして立ち昇っていた。楓の日々の生活の痕跡は部屋に染み付かなかった。楓は電車の一件で、直樹との関係を神経質すぎるほど遠慮しながら築くようになっていた。以前、楓は直樹と一緒にいる時、自由を感じていた。しかし、今は自由の中にも小さな不自由さを見出していた。

 人が誰かと一緒にいない理由は、たいがい何かが合わない、例えば性格が合わなかったり住む場所が離れている等具体的で本人にとって明らかだが、人が誰かと一緒にいる理由なんて所詮は大したものではない。楓は、楓が一緒にいるのが別の誰かでなくて何故直樹なのかを考えたが、その人である必要性・必然性がそこまであるようには思えなかった。確かに、直樹とだったら自由を感じたし、いくらでも一緒にいられた。けれど、何故一緒にいるのは直樹であって他の、あの彼ではないんだろう。楓が直樹と一緒にいる理由は曖昧模糊としていた。それで良いのかもしれない。楓は思った。個々の、結末が決まっていないという意味で開かれた(offen)人生は、偶然が偶然を呼んだ産物でしかない。あらゆる選択肢は等価なのだ。

 楓の嗅覚は何の警告も発しなかった。楓を直樹に繋ぎ止めるものは、嗅覚だけだった。

セラピーの部屋その七

「前回あなたが注射器を注文した話に、私がとても強烈(intensiv)に反応したので、驚かれたのではないかと思うのですが……」

「その件に関して、私はあれから考えていました。私たちの間にある温度差が一体何なのか。たぶん、私は、死なないなら、いろんな情報をネットで調べようが、三十ミリリットル血を抜こうが、同じことだと考えているんです。死という帰結に至っていないなら、その行為は大したことのない行為なんです。それに対して、あなたにとって、調べ、計画し、それに集中して一定程度の時間をかけるということが、すでに具体的な一歩を進んだという意味を持っている。そういう判断だったから、私たちの間には温度差があったんですね」

「そうです。私もそう思います。あなた実際のところどう考えているかは分からないので、そもそも私はあなたの発する言葉をそのまま受け止めるしかありませんから」

「私は今日、とても怠い(schlapp)です」

「どうしたんですか?」

「朝、いつもの時間に起きれませんでした。ここへ来るシュトラーセンバーンの中でも、体が疲れていて真っすぐに座っていられませんでした。疲れていて、何も考えられません」

「疲労感には何らかの機能(Funktion)があると思いますが、疲れることであなたの思考は何を回避しているのでしょうか?疲れているだけではなくて、悲しそうに見えますね」

楓の目にはじわっと涙が溢れてきた。

「そうです。悲しいです。どうしてか分かりません。でもここに来たら悲しみが浮かび上がってきました(auftauchen)」

「どうして、悲しくなったと思いますか?」

「思いつくことと言えば、昨日、私と彼の共通の友人とスカイプをしたんです。友達に、彼からのプロポーズ待ちなの?と聞かれました。私は、全く待っていないと答え、何も期待せず、待ってもいないことに気付きました。少なくとも、私はファウストに出てくるグレートヒェンが宝石をもらった時のような無邪気な気持ちにはなれないのです。それと、彼女は全く悪気なく、彼の前の家の話をしたんです。彼女は、一度だけ彼の前の家に遊びに来ているんです。『そういえば、前の引っ越しの時、直樹さんはいくつかの家具を処分していたよね』という話をしていました。それで、以前のことをいろいろ思い出してしまいました」

「プロポーズを待っていない自分を再認識して、ショックだったでしょうね」

「はい、ものすごく。もう待ちたくないんです。私は、待つことに疲れました。今、こうやって話しながら、ようやく分かりました。以前、彼が連絡なしに友達と飲みに行って私が待ちぼうけを食わされた時に、物凄い拒否反応を示したことを話しましたよね」

「ええ。何度かそういう経験があったと言っていましたね。疲労感(Müedigkeit)を覚えるとおっしゃっていましたが、疲れてしまうというのは体のひとつの反応で、何に対する反応かというと、これ以上、何かに対して考えない、思考停止しなくてはいけないというシグナルかもしれませんが、何か思いつくことはありますか?」

「それは、単に、私が彼からの連絡もないまま待たされるという事実を意味するだけではなかったと思います。単に彼が帰ってくるのを待つことを意味しているだけではなかったんです。待つ(Warten)というのは、私にとってとても象徴的(symbolisch)なんです。私は、いろいろなことを待たされました。家具についてだって、ひとつずつ新しくなるまで待たされました」

「新居に関しても、待たされていましたよね」

「そうです。そして何より、彼の前の関係がきちんと清算されるまで私は半年以上待たされました。もう、待たされるのは嫌なんです」

「彼の帰りを待つことと、これまでいろんなことをあなたが我慢し、待ったこと。この二つの関連性をあなた自身で結び付けられたのは、すごいと思います。なぜイライラし、拒絶したか、理解が深まっているんですね」

「はい。それに、私は一体どれだけ長いこと待たないといけないのか、という思いにもなりました。友人は彼の前の部屋について話しました。私は一体いつまで笑顔でその話を聞かないといけないんでしょう」

「その友人は背景の事情を知らないんですね。あなたにとっては新しい生活が始まっているのに、前の状況がたびたびどうしようもなく侵入してくるのですね」

「それも、だいぶ前の話です。あれからたくさん時間が経ちました。それなのに、私はちょっとしたことで、すぐにそこに引きずり戻されます。もう、嫌です。もう、待ちたくありません」

楓はそう言って涙を流した。

「待つ、というのはとても受動的(passiv)な行為です。待つこと以外に、あなたが能動的に何ができるかを考えていけるといいと思います。人には、消極的な部分と能動的な部分がありますから。あなたの中の能動的な部分はまだ……」

「まだ眠っています(schlafen)」

「眠っているというのは良い表現ですね。積極的な部分はすでにあなたの中に存在しています(es gibt)。だから、その部分をどうにかして目覚めさせてあげるのが大事です。あなたは、今日、怠いと言っていましたが、悲しみが怠さという形で表れてきたようですね」

「私は自分がこんな風に拒絶してしまうのは我儘なんじゃないかと思うことがあります。それと同時に、自分の中の能動的な部分を目覚めさせるのは、自立と繋がるように思います。でも、自立(Selbständigkeit)しているのと我儘(egoistisch)なのとの区別がどこにあるか全く分からないんです」

「自立というと、どういうことを思い浮かべますか?」

「何となく、『責任(Verantwortung)』と近い気がします。これに関して、ここまでは自分に責任があるけれど、ここから先は違うとか。どこまで責任を取るか明確にその線(Grenze)が分かっているのが自立というもののような気がします」

「それがはっきりしないために困る局面というのは具体的に何かありますか?」

「人の機嫌です。身近な人の機嫌にものすごく振り回されるんです。実際に、私が機嫌の悪さの原因(Grund)でなくても、つまり私に機嫌の悪さの責任がなくても、それを私のせいじゃないと突っぱねられない。それで気持ちが揺さぶられてしまいます。不安になって、人の顔色をずっとうかがい、最終的には自分が追いつめられるところまで行ってしまいます」

「そこの境界線がはっきりしたら、自分を守る(Schützen)ことにもつながりますね」

「ええ。その通りだと思います。私は、自分が我儘なんじゃないか、何かを望みすぎているんじゃないかといつも不安になります。自分が望むことに正当性があるかどうかをどうやって判別したらいいか、分からないです。実際、身近な人に機嫌よく過ごしてほしい、八つ当たりされたくない、自分自身を確保したいというのは望みすぎなのでしょうか?これは、自己評価の低さとも関係していると思います」

「誰だって八つ当たりはされたくないものですよ。あなたの中では、距離を取ることと連動して、自分を守るというのがキーワードになっているみたいですね」

「確かに、そうかもしれません。自分の精神的領域に入ってこられるのがすごく苦手なんです。でも、それをうまく止められなくて、結果、自分を守ることができないでいる気がします。

 いま、私は、さっきなぜ泣いたのかを考えているのですが、他にもうひとつ思いつくことがあります。私は、彼に対してもちろん様々な感情を抱いています。ポジティブなものからネガティブなものまで。ネガティブな感情には憎しみ(Hassen)も入っているような気がするんです。人は、私に対して、『あなたは嫉妬しているのよ』と言うかもしれません。でも、そうじゃないんです。私は彼のことを憎んでもいるのではないかと思うのです」

「それに気づき、人に言うのは、とても勇気のいることだと思います。憎しみというのはとても強い感情ですね。そして、憎悪というのは、愛と真逆の概念ですね。あなたの中では、その二つが相反しながらも同居しているということでしょうか」

「私はいま、日本から距離を置いています。それが上手く作用しているような気がします」

「あなたは、憎しみが愛と正反対の言葉だと言った私の言葉に対して、何の反応もしませんでしたね」

「そうですね……。私にとって、愛とは感情ではなく、意志のようなものなのです。それは、時にマゾヒズム的でもあるように思います」

「あなたが、愛という概念を、意志、そしてマゾヒズムという言葉で特徴づけたのは、大変興味深いです」

「私は普段、Liebe(愛・恋愛)という言葉を使いません。何故なら、それらの言葉は私にはよく分からないものだからです。愛が感情ならば、その感情を感じられなくなったら、愛そのものも終わってしまいます。でも、それが意志ならば、感情のようないつの間にか消えてしまうものではなくなります」

「愛が意志ならば、それを人はコントロールすることができますし、コントロールできていることを自負できるかもしれませんね」

「はい。そして、それはとても理性的なもののような気がします。コントロールできるということに安心もします。ただ、それには負の側面があります。感情の変化を見落としがちになってしまうのです」

「あなたがマゾヒズム的と言ったのは?」

「まさに自分の感情の変化を無かったことにするのを意味します」

「さまざまなことを我慢し、苦しんでも自分の意志で関係を維持していますよね。あなたが、あなた自身を攻撃し、苛め抜くというのは、まさにマゾヒズム的ですね」

「まだ時間がありますが、ひとつ聞いてもいいですか?その腕はどうしました?注射器を使ったんですか?まるで、私に気付いてくれと言わんばかりに、特に傷跡を隠していないというような印象があるのですが……」

「ええ。まあ……」

「そのことについて話すのは、気まずいですか?」

「そうですね。前回、何もしないと約束したので気まずいです。

 私はこのセラピーを通して、自分を観察し、分析し、さまざまなことを言語化してきました。そして今、言語化できないものが自分の中に残っている感じがするんです。以前は、そんな核(Kern)があることに気付きもしませんでした。他にもつれているものがありすぎて。あなたは、いま私が言語化できていないことさえもいずれ言語化できると考えているのかもしれませんが、私は、言語の限界があって、表現できないものの核心(Kern)には、到達できないと考えています。それと、血が、結びついているのです。

 私は前回説明したように、注射器を注文した時は、もはやそうしなくてはいけないというような強迫観念のようなものを感じていました。でも、注射器を使ったときは、自分でも驚くほどそういう衝動(Drang)は感じず、まったく感情的ではありませんでした。むしろその逆で、無気力、無関心で、ひたすら冷静でした。空っぽ(leer)だったかもしれません。

 いろいろ試してみて、私は注射器の本体を使わず、注射針だけを使いました。注射針を肘の裏に刺すと、トクトクという鼓動に合わせて、少量ずつ、とぴゅっ、とぴゅっ、と血が出ました。私は血を計量カップに溜めました。そしてちょうど五十ミリリットルくらい溜まったところで針を抜きました。一滴ずつ溜まっていった液体だった血を改めて眺めてみたら、なんだかレバー状になっていました。カップをひっくり返したら、ぷるん、と血の塊が落ちました。手で持ち上げてみると、パンナコッタを手に乗せたような感触でした。生暖かったです。と言っても、想像していたような生暖かさよりは、むしろ人肌くらいと言った方がいいかもしれません。夏のちょっと涼しい日に屋外プールに入った後で、放尿をした時に体が感じる尿の暖かさほどではありませんでした。

 五十ミリリットルの血の塊は、まるで私の小さな心臓のようでした。私は自分の心臓を抉り出したような快感を覚えました。それは自分の心臓であり、宇宙のようでもありました。私は、自分自身の生命を手にしているように思いました。自分をコントロールできるという万能感さえ覚えました。そして、血の塊を自分の手で握りつぶしました。血の塊は指の間をすり抜け、そのまま洗面所に流れていきました」

「なぜ、あなたはそこまで自分自身に対して攻撃的になってしまうか、あなたの考察(Überlegung)はありますか?」

「自分でも分かりません。ただ、自分自身に対して、どうしても攻撃的になってしまう、というか、ならざるを得ないという感じがします。おそらく、他に選択肢がないんです」

「自分を傷つけることによって、ご自身の輪郭をはっきりさせたいとい感じでしょうか? 今回は境界線というテーマがあがりましたが、自分の内と外の境目があなたにとって明白ではないような印象を受けるのですが、その辺りはどのように考えていらっしゃいますか?」

「そうかもしれません。私は、一度、自分が二重になったような感覚に陥ったことがあります。幻聴が聞こえ、自分の声が頭の後ろから聞こえていました」

「その、もう一人の自分、別の自分というのは、あなた自身とは別の人格でしたか?」

「いいえ、同じ人格です。ジキルとハイドのような別人格ではありませんでした。ただ、もう一人の自分を、本来の自分はコントロールすることができませんでした?」

「コントロール不可能というのはどういった感じでしたか?」

「たとえば、人と話しているときに、相手が話しているのに割り込んでしまって、そういう自分を止めることができませんでした。そういう時は、もはや自分で自分を止めることができないので、むしろもう一人の自分を突き放して、好きなようにさせるしかありませんでした」

「幻聴が聞こえていたというのは? 最近はありますか?」

「いいえ、ありません。過去にそういう時期があったことは確かです」

 要するに、統一されているはずの自我が一度崩壊したのだと思います。そのため、常に、どこまでが自分なのかを確かめたいという強い欲求があるんです。その欲求を満たすために、自分自身に対して攻撃的になってしまうのだと思います」

「こうやってあなたと話し、自分のしたことを整理しても、私はまだ血を抜くという行為に対して何の感情もなければ、何の意見も持てません。

 私が飼っているペットは、引っ越しの時にストレスを感じたのか、腕の毛を抜いていました。犬だって猫だって猿だって、ストレスを感じたら腕や尻尾を齧ったり、毛を抜いたりします。人間だって、ストレスを感じた時に自傷行為をするのは、そんなにおかしなことではないように思うのですが」

「あなたは、生物学的に自傷行為の根拠づけをしていますが、動物と人間は、自由意志で何かを決断できるかどうかという点で違います。人間は、自由意志でそれをしないという選択をすることができるのではないでしょうか」

「そうかもしれません。でも、自由意志で止めることができるとおっしゃいますが、それは本当に自由意志なのでしょうか?私には、自由意志が発動される以前に、自傷行為は道徳(Moralität)や倫理(Ethik)によって、はなから、それが問いになる以前に禁止されているように思います。自由意志があるからといって、必ずしも自由意志で『行為をしない』という帰結を導くことはできないと思うのです。自由意志で、何かを『行為する』という選択も、同じ程度ありえるのではないでしょうか。そして、自由意志で『行為すること・しないこと』によって生じた結果も、価値的には同程度だと思います。どちらがより良い帰結で、どちらがより悪い帰結なのか、そこまで明白には判断できないのではないでしょうか」

「このセラピーでは、常にあなたにとってそれがどういう意味を持つかという点に立ち返りたいと思います。あなた自身に当てはめると、いかがですか?」

「私にとって、作為も不作為も、作為Aも作為Bも、同等の意味を持ちます。だから、自傷行為をするのも、しないのも、私にとっては同じことです」

第八章

 楓は希望通りミュンヘンに住むことになった。

 ミュンヘンから列車で、友達が個展を開くというグムンデンの陶器市を訪れた。グムンデンは、水の匂いがする街だった。トラウエン・ゼー沿いの大きな通り、シャルンシュタイナー・シュトラーセを歩き、大通りにつながる細い路地の二階に、友達と、彼女と同じリンツ大学へ通う芸大生の二人が作品を展示していた。

「絵美ちゃん、個展おめでとう!」

「どうもありがとう。今日は来てくれて本当にありがとうね」

楓は一度会場をゆっくり見渡し、それからひとつひとつの作品を丹念に見て回った。絵美の作品は大きく分けて二種類あり、素材はひとつは写真、もうひとつは磁器だった。時間がひとつの大きなテーマになっているようで、チロルの山の大きな写真は、鉱物と比べて短い時間を生きた草木の部分がやすりで削り取られており、削りかすが額縁の内側に落ちていた。磁器の作品は、円形や四角形の箱、そして梯子などいくつかの種類があった。これらはすべて真っ白く、表面はでこぼこしていて、手で触ると自分の神経に細かい目のやすりをかけられた感触がしそうな程度にざらざらしていた。箱をよく見ると、磁器の下には木でできた箱の足が顔を出していた。

「絵美ちゃん、これはどういう作品なの?」

「これはね、大事なものをしまった箱なんだ。すごく大切なものを箱にしまって、でも箱にしまったものの中身を、そして大事なものを箱にしまったこと自体を時間が経つにつれて忘れてしまって、箱の表面には苔がついてしまうの。箱は苔で全体が覆われてしまって、その中身を取り出すことはできないんだけど、ただ箱の存在だけが、かつて大事だったものを暗示しているの。梯子の作品も同じような感じで、かつて行き来していた場所、あるいは理想の場所が梯子をかけた先にあるというのを現わしているんだ。そして、梯子があるということだけが、素敵な場所がどこかにあった、そして今ももしかしたらある、ということを示している。そういう作品なの」

絵美の作品は、彼女の外側から来るさまざまな刺激の組み合わせで作ったものではなく、心の奥にある湖を波が立たなくなるまで見つめたような、とても静謐な作品だった。

 楓は、この苔の箱の作品を買うことにした。真っ白で、箱に生えた苔を磁器で模している作品は、苔というよりも珊瑚に似ていたので、楓はこれに「白い珊瑚」という名前を付けた。白い珊瑚の中に何があるのか、それに今は思いを馳せることしかできない。箱の存在だけが、今は見えなくなった何か大事だったものの存在を示している。箱というそこにある存在(Sein)が、何か(etwas)と関係している(beziehen sich auf)ことを表している。だから、何か(etwas)、は実体(Substanz)としてあるのではなく、存在(Sein)との関係性(Beziehung)の中でネガ像(Negativbild)のようにして浮かび上がるのである。

セラピーの部屋その八

「あれ? そこに植物なんてありましたっけ?」

楓はセラピストの背後にある窓際の観葉植物を物珍しそうに眺めた。

「はい、以前からありましたよ。ただ、大きくはなりました。今までここにある観葉植物に気付かなかったんですね。今日は新たな気持ちでここに来たようですね」

「そうかもしれません。最近は、どうしてここまで距離的にも離れているのに、両親から強い影響を受けるのか、両親によって自分の感情が左右され、刻印付け(prägen)られてしまうのかを考えています」

「何かそれをめぐる考察(Überlegung)はありますか?」

「私の両親は、私の個人的な領域に侵入してくることが多いです。両親から自分を線引きして区別(abgrenzen)し、自分自身を守る(schützen)ことが上手にできていないと思います」

「線引きをして自身を守るというのは、このセラピーの場でも何度も出てきたテーマですね」

「そうですね」

「もしかしたら、パートナーの機嫌(Stimmung)に左右されてしまうというのも、これと関連するかもしれませんね」

「パートナーの機嫌が悪いとすごく不安になってしまうというのは、機嫌の悪さは彼のものであって、自分は関係ないという風にはなかなか思えないことに原因があります。ところで、うちの両親は、ちょっと変わっているんです。たとえば、両親は、『これとこれとこれをミュンヘンに送ろうと思うんだけど、必要ないものはある?』と聞いてきます。それに対して私は、『これとこれは要るけど、これは要らない』と答えます。すると、『じゃあ、全部送るね』と返されるんです。『じゃあ(ok denn)』の意味が全くよく分かりません」

「なるほど。なるほど、そうなのですね。あなたはそれを笑い話に変えていますが、そのエピソードの中にあなたとご両親のあらゆる関係の本質的なものが現れていますね。あなたが欲しい物、あなたが必要な物ではなくて、ご両親が送りたいものが送られてくるんですね。あなたの否定や拒否はご両親に受け入れられることがなかったのですね」

「ここ半年くらいはさすがにそういうのがなくなってきつつありますが、日本で実家を離れていた時から、ずっとそうでした。いや、ほんと、笑っちゃいます。こっちでも買えるような掃除道具なんかも送られてきていました」

「ご両親を前にして、子供(Kind)としてではなくて大人(Erwachsene)として振舞うというのは、あなたにとって居心地の悪い(unangenehm)ことですか?あなたは、大人として振舞いたいとは全く思いませんか?」

「両親に対して一人の大人として振舞えたら自分はもっと楽(angenehm)になれるんじゃないかと思います。でも、私がそうすると、両親との会話は平行線をたどって、全く噛み合わなくなります。だから、私は部分的に大人として振舞い、必ず他の部分では子供(Kind)として、単なる女の子(Mädchen)としての役割(Rolle)を果たすしかないように思います。それに、おそらく両親が変わることはないと思うんです。つまり、彼らが私をいつまで経っても子供とみなすというのは。だから、私の方がやり過ごし方を考えないといけないんです。彼らの言うことを無視したり、あまり重要なものとして扱わないということもできるはずなのに、直接話すとしばらくそれで気分の悪さを引きずってしまうことが多いのを何とかしたいです」

「両親というのは、通常は子供に対して大きな影響を与えるものですから、無視するというのは難しいことだと思います」

「ところで、さっきほんの少しパートナーとの関係が話題になりましたが、両親との関係と男性一般との関係はどこかでつながっていて、両者には因果関係があるように思うんです。男性一般との関係というのは、たとえば、特に以前は男性から触られるなどの嫌なことがあっても、やめて欲しいとすぐに言うことができませんでした。体が強張ってしまって、本当に何も言えなかったんです。まだ推測(Vermutung)しているだけの段階で、この、両親と私の間の線引きと、私と男性一般の間の線引きの二つがうまくいかないことについて、実際どのような関係があるかはっきり分かりません。ただ、なるべく嫌なことははっきり言うようにしているのですが、相変わらず男性との線引きがうまくいきません。私は両者の関係を言語化したいんです。言語化できたら、私は自分の中の問題を何らかの形で解決できるような気がします」

「あなたが今言ったことの中でとても際立つ(auffallend)のは、あなたが、たとえば『それを言語化すること(es)は難しいです』と言うのではなく、『私はそれを言語化したいんです』と、『私(ich)』を主語にした点です」

「たしかに、私の文章には、私のとても能動的(aktiv)な要素が読み取れますね」

「これまでの私たちのセラピーでの対話の中にはなかったことです。とても大きな一歩を踏み出しているのだと思いますよ。そして、言語化する(zum Ausdruck bringen)とは、問題を発見することで、今までもやもやした状態だった問題が明らかになれば、一定の答えが出たのと同じだと思います。難しいことですし、時間がかかるとは思いますが、ここまでは相手に許しても大丈夫だけれど、ここからは自分の領域に侵入しているから駄目(Nein)だというのを、ひとつずつ具体的に明白にしていけるといいですね。それにも、ひとつの訓練が要ります」

「私は、自分を他の誰かから線引きして、自分を守ることを学ば(lernen)なければなりません。そして、駄目な時にそれはやめて(Nein)くれという時のいろいろな表現の仕方も、同時に学ばなければいけないと思いました」

「こういうことを話す際に、どんな気持ちになりますか?つまり、今まで人から自分を区別して線引きしたり、さまざまな感情を知る(kennenlernen)ことができなかったことに対して、悲しい(traurig)気持ちになりますか?それとも腹が立った(wütend)りしますか?」

「普通の人が成長過程で学んできたものが自分に欠けている(fehlen)のは、悲しいです。自分にはどうすることもできませんでした。他の人は完璧(perfekt)な存在なのに対して、私はまるで部分的に壊れた機械(eine teilweisekaputte Maschine)のような気がします。悲しいですし、恥ずかしくて気まずい(peinlich)思いをしています」

「あなたは恥ずかしいと言いましたが、あなたがそう感じるということは、背後に、十分にこれらを学べなかったことに対して、自分のせい(schuldig)だという気持ちが隠されていますか?」

「はい、自分に責任(schuldig)があるように思います」

「あなたの感じる恥ずかしさ(Scham)というのは、非常によく分かりますし、共感できる(nachvollziehbar)ものです」

「私は、以前だったら、自分に何かがどうしようもなく欠けているということを、恥ずかしさのあまり認められなかったように思います。このような話を、私はあなたとしかすることができません」

「ここで話せるというのは、とても良いことだと思いますし、勇気のいることだと思います」

「ここでのセラピーも、あなたにとっては新しいかもしれませんね。私があなたに答えを与えることがないので、たまにあなたが焦れているなと感じることがあります。私から何かを学ぶのではなく、対話(Gespräch)をすることで一緒に答えを探していくという方法(Methode)に関しても、以前よりは慣れてきたと思いますが、これからさらに学び、そして慣れていく必要がありますね」

「はい。最初の頃はすべてが新しかったです」

「あなたは外国へ来て、日本とは違う環境に身を置いて、差異を発見(entdecken)しているところのようですね」

「はい。そして、これまで気付けなかった多くのことに気付いています。私に欠けているものは、本来あるべきもの、あるいはいつの間にか気づいたらなくなってしまっていたものです。だから、本当は自分の内側にあるはずなのに、それを忘れているかのような、あるいは誰かに奪われてしまったもののような懐かしさ(Sehnsucht)を覚えます。だから、それを取り戻し(zurückbekommrn)たいと思います。それはまるで郷愁(Heimweh)のようなものです。奪い取られたものが何なのか、それは今の私にははっきり分かりません(unklar)し、とても抽象的(abstrakt)です。ただ、懐かしさという、私と失われたものの間の関係性(Beziehung)は、非常に具体的(konkret)です。懐かしさは私がはっきり感じている(spüren)感情(Gefühl)ですし、この感情がどこへ向かっているのか、感情が示す方向(Richtung)のようなものは私にとって明らか(klar)です。何か(etwas)が失われたもののように感じるのはここが外国だからかもしれません。外国にいることで、私の存在の輪郭はより明確になり、差異(Differenz)が際立ちます。他の在り方を知ることが、自分自身の発見につながります。私は欠落しているもの(Mangel)を発見します(entdecken)。しかしこれは、無(Nichts)の発見ではありません。そうではなくて、存在していないこと(Nicht-Sein)の発見です。存在していないことこそが箱の中身なのです。存在していないこととは、存在(Sein)のネガのようなもの、存在の否定(Vernichtung des Seins)です。存在の否定には二形態あります。もはや存在しないもの(Nicht-Mehr-Sein)と未だ存在しないもの(Noch-Nicht-Sein)です。もはや存在しないものは過去への憧憬(Sehnsucht)、そして未だ存在しないものは未来への憧憬を含んでいます。存在していないこと(Nicht-Sein)とは、過去や未来への憧れです。未来は、最初から描けるものではありません。ありえた、失われた過去を投影するからこそ未来を描けます。実際の過去はかえってしがらみとなります。ありえたはずのことだと私が思っているものを、今、取り戻したいと思うのは、抗いがたい衝動(Trieb)のようなものです。動力(Triebkraft)は私の内側にあります。そして、その動力とは、私の意識的(bewusst)な学び(Lernen)です。様々な感情を知る(kennenlernen)ことも同様です。無意識(unbewusst)のうちに備えることのできなかったものは、学ぶしかありません。確実に私の人生を豊かにすることが分かっているものを手放さないことは、私の自由意志だからです」

後書き

 ずっと何かが生まれそうだった。その「何か」にどういう形を与えてあげればいいのか、長いこと考えた。他の表現形態を選ぶこともできた。音楽でも良い。絵を描くのでも良い。人と話すのでも。私はいろいろ考えた末、結局、体の中でもやもやしながら渦巻いているものを、小説という形に落とし込むことにした。書き終えて、私は自分が音楽の人間ではなく、言葉の人間なのだということを再認識した。それには、――特に自分が音楽の人間ではないことには――がっかりもしたし、やっぱりなとも思った。結局、自分の限界に挑むのに、私には言葉しかなかった。そのため、執筆過程では、なるべく自分の中での表現に対するタブーをなくし、できる限り言語化することに努めた。その際に、肉体感覚、それも特に嗅覚に着目した。この小説では、音楽にならない、映像にもできない、演劇として舞台で再現もできない、文章でしかできないような表現をすることに努めた。

 『白い珊瑚』の根底には、この十五年くらいにかけて私が抱いた、あるいは抱かざるを得なかった問題がある。最初に、短期間で七~八割を書いた。執筆作業に澱みはなかった。残りの二~三割を書きあげるのにはずいぶん時間がかかった。特にラストをどうするか、かなりぎりぎりまでoffenな状態だった。楓はこのままでは、生きながら緩やかに死へと向かって行ってしまう。しかし、助けてあげたくても、確固たる希望を語ることはできない。なぜなら、私自身が確かな希望を抱けないからだ。私にとって、ラストはバッドエンドよりもハッピーエンドの方がチャレンジングだった。それゆえ、私はより難しい方を選ぶことにした。しかし、前述のように、確固たる希望を語ることはできない。さんざん悩んだ末、自分がなんとか抱くことのできる理想の希望を描くことにした。

 この小説のテーマは、

性と男女の平等

正常と異常

女性間の格付け、自意識と男性からの承認

本能と五感

肉体と心の葛藤

母親からの支配

感情の代替と後から押し寄せる悲しみ

音と記憶

過去の意味の変容

場所を占める事

忘れ去られた大事な事をいかにして愛でるか

等である。そして、小説全体に通底するテーマは、「日常に潜む狂気、狂気に巣くう死の予感、狂気を引き受ける心と肉体の相克」だ。「日常に潜む狂気」に関しては、すでにスティーヴン・キングが多くの著書を出している。小説内では、悪夢が現実生活の質を低下させる話も入れたかったが、筆力が至らなかった。しかし、日常と夢の境界線が曖昧になる点に関しては、今敏の『パプリカ』がすでにやっている。この小説の特徴は主に、「心と肉体の相克」であり、それには先に述べたように、肉体感覚・嗅覚に着目して描いた。

 この小説で、私は文学・哲学・精神分析の融合を試みた。ここでの問題の本質は、哲学でも精神分析でも扱いきれない、本質的に文学のものだったと思う。かと言って、文学的言語だけで網羅できないところは、哲学・精神分析の力を借りた。

 小説を書きながら思考する際に、私は日本語とドイツ語両方の言語を使った。この小説は日本語だけでは成り立たないし、またドイツ語だけでも成立しない。よって、『白い珊瑚』は、日本語的思考とドイツ語的思考の融合でもある。

 文学・哲学・精神分析・日本語・ドイツ語など、様々な要素は有機的に結びつきあっている。結合の仕方は混乱、あるいは無秩序ではない。すべてはひとたび分析され、バラバラにされ、そして立体的につなぎ合わされることを目指されている。

 書き終えて振り返ってみると、この小説が以下の三つから強く影響を受けていたと思う。構成は映画『ローマ法王の休日』と似ていたかもしれない。『ローマ法王の休日』で、法王は神に対して祈りの言葉を持たない。彼は、神とではなく、精神科医と対話した。私も同様にして、この小説の中では徹底的に内在主義を貫いた。現実からの超越は時に人を救うが、時に、今ある苦しみを苦しみとしてひとまず認め、受け止めるという作業を割愛してしまうことにもなるからだ。

 そして、二つ目に、改めて森有正の影響が強いと感じた。デカルト、パスカルの研究をしていた森有正の文章は、常に、「どんな出来事が起こったか」よりも、「その出来事を通して自分がどう変化したか」に取り組んでいる。もちろん、前者よりも後者の方が、物事を自分なりに消化しなければいけないため、書くのに時間もかかるし、よりしんどくなる。自分自身を冷徹に見つめ、身を切り刻むようにして分析しなければそこに至ることはできないからだ。私は、森有正から徹底した主体主義を学んだように思う。

 私にとって、文学的言語は、過去と現在を語るものであり、希望を予感させることはできても、希望そのものを語ることができない。哲学的言語こそ、希望を語るにふさわしいように思う。そのため、小説の終わりは哲学的概念を多用した。ちなみに、この思想は、エルンスト・ブロッホからの影響を受けている。

 この小説は、年齢によって、また男性か女性かによって読み方も読後感も大きく異なるはずである。私はこの小説をある種の告発のつもりで執筆した。小説に流れる問題意識を何らかの形で読者と共有できたら嬉しい。そして、小説をもとに、議論が巻き起こってほしいと切に願っている。

 小説の中のたったひとつのフレーズだけでも、あなたが必要としている言葉で表現できていたら嬉しい。そして、いま自分の感覚に支配されて苦しんでいる人たちが、その感覚は自分だけのものではなく、その辛さは外に開かれうるものだと、少しでも励まされたら幸いである。

著者

『白い珊瑚』

『白い珊瑚』 天草鈴 作

心が肉体から引き離されたとき、人は日常に潜む狂気に無縁ではいられなくなるだろう。 文学・哲学・精神分析・日本語・ドイツ語を用いて、自己という迷宮に徹底的に取り組んだ告発の物語。 この小説のテーマは、 性と男女の平等 正常と異常 女性間の格付け、自意識と男性からの承認 本能と五感 肉体と心の葛藤 母親からの支配 感情の代替と後から押し寄せる悲しみ 音と記憶 過去の意味の変容 場所を占める事 忘れ去られた大事な事をいかにして愛でるか 等である。そして、小説全体に通底するテーマは、「日常に潜む狂気、狂気に巣くう死の予感、狂気を引き受ける心と肉体の相克」だ。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-11-13
Copyrighted

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