*星空文庫

タイムスリップ・ストーム・トルーパー

富士 りんご 作

 木曜日。
 僕が目を覚ましたら、そこは今まで来たことのない、どこかの路地裏だった。
 丁度横に僕と全く同じ姿勢で若い男が一人寝ていた。壁に上半身を持たれかけたまま、俯いている。
 上を見上げると、とげとげしい黒い色のビルが僕の顔を覗き込むように聳え立っていた。

 僕が最後に記憶しているのは、表の大通りの屋台で日本酒を三四杯、レモンサワーを適当に飲んだこと、そうしてよろよろ、帰ろうとしたときに、目の前の細い通路にもたれかかるように、女が一人、立っていたこと、それからがよく思い出せない。
 とても暗い気持ちになっていた。地面にまで垂れ下がってくるんじゃないかというくらいに、伸びきった厚い雲みたいに、なんだか重い気持ちだった。


 「おい」
 いよいよ立ち上がって、自分の家に帰ろうと思った時に、ふと、呼びとめられて、僕は隣の男を見た。
 男は特に何も言わなかった。暗い雲が落ちくぼんでいる朝。

 僕が帰ってまず初めにすること、それは、麻美が首を吊った柱をしんみりと眺めること、それから、箱に入っている新聞紙に包まれた古い電話、黒電話という奴を箱から出して、それを拭くこと。あとは近々来ると言っていた電気屋さんに、電話線の交換を依頼すること。
 ああ、と一つ欠伸をした。


 冷蔵庫に入っていた卵を溶きほぐしているところだった。
 急に、僕が今何がしたいのか、忘れてしまった。
 横にはとりあえず、油がフライパンの上で温められているところだった。
 あれ、と思わず口にしてしまって、今僕は、なにがしたかったんだっけ、と一分弱考えて、思い立って、黄色い液体になった卵を、フライパンの中にとりあえずぶちまけてみた。

 カルシウム、という言葉が、僕の頭の中で尺取虫みたいにうようよ蠢いていた。
 捕まえられそうもない感じ。捕まえたいのだけれど、触りたくないというか、カルシウムって、一体僕の体にとって、どんな恩恵があるのだっけと、思いながら、フライパンの中を意味もなくぐちゃぐちゃかき回す。


 麻美が死んだのは大分前の事だった。家に置いてあった電話の線をむしり取り、柱に括り付けて首を吊った。
 警察に連れていかれた時も、僕は何が何だか全然分からなくて、刑事さんから、こういう事があったと説明されたときに、漸く、麻美の死を知った。
 涙ひとつ零れなかった。
 むしろ、僕は何故か殺人を疑われて、狼狽した。
 「そんなわけないじゃないですか。今でだって、何が何だか全然、訳が分からないんです」
 麻美から、最後に電話があったのはその日の夕方だった。
 おそらく、テレビの上のオーディオから流れてくる、僕の知らない曲が印象的だった。
 今日はどのくらいになりそうなの?
 そう聞かれて、僕は直ぐに、
 いつもの時間になると思うよ。
 と答えたと思う。いつもの時間。麻美は、その電話の直後に、首を吊ったのか、それともしばらく時間を置いて首を吊ったのか、全然分からなかったけれど、目の前の刑事さんがさらに、薬物の可能性もある、なんて言い出した時には、顔を顰めて下を向いたものだった。


 そう言えば、アニーちゃんは河原で死体が発見されたそうだ。猫は死に際は人には見せないという話をどこかで聞いたけれど、本当にそんな感じだった。
 結局、最後まで人間という生き物は、死に際の良しあしでその人の人生そのものまで決めてしまう習性があるらしくて、僕もアニーが死んだときには、河原で死ぬか普通、と後頭部をぼりぼり掻いてその後思い出したように、涙が三四粒流れたくらいだった。

 アニーがネズミを捕ってくるたび、僕は戦々恐々とした。態々ネズミを咥えて目のまえで貪り食うその姿に、僕はある種の野生のようなものを感じていた。
 いや、別に態々ここまで運んでこなくったって、そこらへんで食べて来るならまだしも、目の前まで運んできてそれを貪り食う姿に悪意すら感じられてきて、僕は単純に薄気味が悪かった。
 次の日に血だらけになった軒先にネズミの内臓がバラバラになって散らばっていた時などは本当に気持ちが悪かった。
 アニーが死んでしまった今となっては、それはもう過去の話だった。これからおそらく、そんなことは天地がひっくり返ってもないと思うと少し安心した。

 居間の真ん中で、ピラミットみたいな炬燵の前に腰を下ろして、僕は卵の焼いた物体をスプーンで無心に口に運んだ。
 パキパキと、音が鳴りそうなくらい、機能的な食事。さらにスプーンを落として適当に救い上げ、それを口に運ぶ形。
 両親から連絡があって、毎日一体何を食っているのかと言われて、僕はその、黄色い物体を携帯のカメラで撮影して両親に送った。
 僕的には、コーンフレークに勝るとも劣らない、パキパキした食事だと思っていたのだけれど、こんなもので足りるのかと言われて、僕はそうでもないと返した。



 電車に乗る。
 非常に狭い。僕は、通勤ラッシュというものがここまで熾烈な環境だったとは知らなかった。
 装甲服は通気性が悪くてジメジメするし、一応ヘルメットには通気口がついているから呼吸が苦しいなんてことはないが、どうしても視界が狭くなる。
 この間三連隊の、名前は忘れたけれど、ある人が、痴漢に間違えられて、刑務所に入れられた。
 自分ではやっていないと断固として言い張っていたし、僕もその人が犯人だとは到底思えないけれど、腰のあたりを触られたという女の人は、こんな怪しい素顔の見えないマスク付けてる奴、相当おかしいと怒鳴り散らしていた。
 一応、これが義務なのだ。決して、趣味趣向でこんなむさくるしいマスクを付けている訳ではない。
 匿名性とでも言えばいいのか、このマスクを被っている時だけ、僕は僕ではなく、その他大勢の中の一人になる。
 僕はそれに妙な安心感を覚える。
 それは、例えて言うならば、自動販売機の中に補充される缶ジュースとでも言えばいいのか、この装甲服を着ている時だけ、僕は人ではなく、物になったような気持ちになる。
 僕に思考とか意思はない。とりあえず、肩にかけているビームガンを敵に向けて撃つだけの全自動機械になったような気持ちになる。


 誰も居なくなった終点近くの駅で下車して、おおごとそうにビームガンを担ぎ直して僕は駅のホームに立った。
 駅員さんに軽く会釈をして改札を通り過ぎると、すぐに駅の出口が見える。眩しいくらいに外のロータリーにとまっているバスが輝いて見える。朝の日差しが暗い影の部分と朝の日差しが当たる部分をくっきり分けていた。


 僕らの兵舎はその街の郊外にある。
 そのバスに揺られて二十分位のところで降りて、バス停の向かい側にある簡易テントで作られた兵舎。
 僕はおそらく、というか確実に、三日間、そこで見張り番をすることになる。
 「お疲れ様ですー」
 これが交代の合図だった。
 前の見張り番は既に身支度を整えて、帰る気満々だった。しきりにスマホをいじり、代わりに僕が休憩間の長机の椅子に座ると、立ち上がり、兵舎を後にしていった。
 僕は双眼鏡をして、遥か前方に霞んで見える観覧車を眺めた。
 しばらく眺めて、一つ息をついて、立ち上がった。


 一体、何と戦ってるの?
 この間新しくなった郵便屋さんが興味津々げに言った。
 別に何かと戦っている訳ではないんです、と僕は言った。
 でもなぜか、僕が就職したのがたまたまこういう職だったものですから。
 「随分とまあ物騒なもんですな」
 軽く会釈をして、郵便屋さんは帰って行った。
 帰って行ったというよりも、次の家に向かったんだろうと思った。

 遠い昔に戦争があった。もう戦争はとうの昔に終結して、やれ戦争はもう止めよう。過去の過ちは、なんて言っている時にも、でもやっぱりいざという時になったら戦わなくちゃだから、準備はしておこうよ、という事で、今でも僕たちはここで見張り番をしている。
 僕は別に兵士になることが夢だったわけでもないし、戦争って下らないなぁと思っている人種なのだが、何分、就活が出遅れたおかげで、碌すっぽ勉強もせずに採用されたから、いざ実際になってみると、こういう事だったんだな、と後悔した。
 アムロ・レイじゃないが、何度も脱走を試みたが、その度にとっ捕まり、小隊長から鉄拳制裁を受けた。
 大体僕は、あの時間帯にこの装甲服を着て電車に乗るのが嫌だった。痴漢だ、なんて間違えられれば身もふたもない。
 ビームガンを背負っていてよく警官も呼びとめないな、と不思議に思って先輩に聞いて見たら、ビームガンは厳密に言うと、銃刀法の中の銃や刀類には当たらないからぎりぎりセーフらしい。
 僕も一度だけ、新人研修のときに撃ったことがあったけれど、単発式かよ、と思って悲しくなった。
 アメリカ陸軍やISだってフルオートのアサルトライフルを装備しているのに、これじゃあ、三八式歩兵銃を無理やりビームガンにしたような風だった。
 びょん、という、今まで聞いたこともないような音を発して発射された弾は見事、木でできた人型の的を粉々にした。



 先輩、というか上司に、関西弁をやたら使う人がいる。
 別に関西人という訳でもなく、本人は、テレビで見たお笑い芸人に影響されて、がむしゃらに関西弁を喋っているらしい。
 見張りには最低でも二人必要で、僕はこの人と組んでいた。勤務中に一度も発砲したことないんや、と本人は自慢げに話していた。それを聞けてなんだかほっとした。

「暇やな」
僕が兵舎の外にある折り畳み椅子に腰を下ろして、何もせずに外の景色を眺めていると、隣に椅子を持ってきた先輩が、どてっと椅子に座り、僕と同じように外の景色を眺め出した時には、さすがに周囲を見回した。
「また税金泥棒なんて言われちゃいますよ」
「ええやんけ、別に言わせたい奴には言わせておけば」
僕はこの先輩が一体どういう顔をしているのか、一切知らない。おまけに、このマスクには変声機能も搭載されているから、この妙に高い先輩の声も、本人の地声なのかは分からない。
でも僕は案外、このヘルメットは有用性があると思う。
匿名性、というか、僕の本性がまるで分からない。自分というものを、あまり前面に押し出したくない僕は、このヘルメットは非常に重宝した。
一人で部屋にいるとき、近所のコンビニに行くときも、服は私服でも、必ずこのヘルメットだけは被るようにしている。
なんだか安心するのだ。
「先輩、このヘルメット、いつ外してます?」
薄暗いガラス越しに、先輩が映った。まるで、鏡のように、僕と瓜二つの先輩が、窮屈そうに足を組んで座っている。
「そもそも、外してええんやっけ?」
さあ、と僕は返した。
「他のところはもっと規則緩いらしいで」
「例えば?」
「わしの知り合いは合同研修のとき以外は普通に私服でええんやと」
「私服でいいんならいいですね。この装甲服、通気性悪すぎるし。これで電車に乗るの嫌だし」
「普通に変質者やな」


もし、戦争が明日始まったとしても、僕は無論、戦う気なんかない。ビームガンだって、ほぼお飾りも同然だし、いま撃ってみろと言われて、ちゃんと銃として機能するかも正直怪しい。
壊れれば新しいやつを注文すればいいのだけれど、この装備の中でダントツに高価なビームガンは届くまで相当な時間がかかるらしかった。
ほんとに故障してるの、充電してないだけじゃない、一度ばらしてみた、なんて、数十回、時間にして三時間半、先輩はねだり続けて、漸く発注しようという事になったことがあったと話していた。
僕は別に、ビームガンなど壊れていても、まったく使う気もないし、そもそも使う場面もないから、壊れたままでもいいかなと思ってしまう。それよりも、もしヘルメットが壊れたならばすぐさま注文する。


「お前、まさか、通勤の時もそれ着てるんか?」
僕は先輩にそう言われて少し不機嫌になった。
「そうですよ?」
「お前、アホやろ」
先輩は笑った。無機質なヘルメットの下で、先輩がケタケタ笑っているのを想像するとどこか薄気味が悪かった。薄暗い視界にはさっきのポーズのまま上半身が小刻みに上下する先輩がいた。
「だって、この間小隊長が、“兵士たる者、装備は肌身離さず、いつなんどきでもすぐ出撃できるようにしてなきゃ駄目だ”って言ってたじゃないですか」
「そのくらいの心意気で仕事せなあかんでってことやろ?」
「そういう先輩はいつもどこで着替えてるんです?」
「そら、お前机の前よ」
「毎回、そこで下着姿になってるってことですか?」
「おう」
「こんど、ロッカールーム作ってくださいって小隊長に意見しません?」
「お前が言えばええやんけ、そんなこと、俺まで巻き込むなや」


 この仕事、二日寝ずにいれば一日休みなのだ。
 僕がこの仕事を選んだ理由はそれがすごく楽なことに思われたからだった。ノルマもなければ、忙しくもない、ましてや、恐らく起こることない他国からの侵略に目を光らせる、何となくかっこよかった。だからやってる。それだけが、今僕を兵隊にしている理由に思われた。



 僕が生まれる遥か遠い昔、人類も居なかった遥か昔に、鳥の祖先は卵を産み育てていたらしい。
 僕はそのところを見たことはないが、今僕が解きほぐしていた卵よりもひと回りもふた回りも大きいものだったに違いない。
 かなりおおざっぱに言ってしまえば、鳥は恐竜の子孫であるらしい。
 かなり小柄になって、人間に飼い馴らされてはいるけれども、一昔、いや二昔くらい前では、立場は完全に逆転していたのだろうと思う。
 僕たち人間よりも、遥か遥かの遠い昔に、空を飛んでいたのだ。
 その時に、一体何が見えていたのか、僕は知りたい気にもなった。

 「鳥、ですか」
 「ええ、鳥、です」
 僕はそこまでを話し終えて、本題に戻ろうと話を区切った。
 「できれば、小さなやつで商品にならない奴でもいいんで、一羽譲ってほしいのですが」
 「え、ええ、良いですとも。どちらにしても今日殺処分しようと思っていた奴なんですが、良いですかね」
 案内されたところに行ってみると、そいつは、何かを悟っているように僕を見た。見たと言っても、横顔から目玉をこちらに向けているだけなので、こっちを見ているという感覚は無かった。
 「こいつです」
 足元には化石みたいに黄色く変色した同類の骸骨がバラバラになって、おがくずに上に無造作に転がっていた。
 ご主人曰く、この間野良猫が鶏舎内に侵入してきて、何匹かやられたらしい。

 見るに、そいつは、その殺戮劇の中を掻い潜ってきただけあって、僕たちが歩み寄っても一歩退かなかった。それどころか、どこか野生じみた眼差しをこちらに向けて、一声低く鳴いた。
 如何せん小さい。周りの奴と比較してみると、そのやつの小柄さがよくわかる。稀にこういう成長不良の奴が出てきて、そう言うのが顕著になり次第、殺処分されるらしい。
 「卵は産むんですか?」
 「いや、雄ですから」
 そう言われて、無造作にその鶏をポイと渡された時には、僕も少し暗い気持ちになってきた。


 僕は彼に名前を付けなかった。
 不思議なことに、庭で放し飼いにしても、日が昇るころにはどこかにいって、日が暮れる頃には必ず帰ってきて、餌を啄んでいた。
 僕はそういう時に、卵を焼いたものを口に運ぶのは多少気が引けた。奴もそれを何となく分かっているのか、僕がテレビを見ながらそれを食べていると、低く、警告するように鳴きだしたりしていた。

 友人が僕の家に訪ねて来た時に、僕は丁度隣にいた奴を両手に抱えて出迎えたりした。友人は、面白そうに笑って、
 「随分いい具合に太ってるじゃないか。そろそろ食べごろなんじゃないか?」
 と言った。
 「いや、僕はこいつを、鶏として見てない」
 なんかもっとこう、別な存在だと思ってみてる。
 たとえば、と聞かれて、僕は、一番言いたかった事が何だったのか忘れてしまって、俯いた。
 その間中、奴は僕の腕から離れたいのか、ずっとジタバタしていた。
 ファサファサと羽を揺らす音と、絶叫みたいな奴の声が、静かな部屋に木霊していた。


 僕は彼を観察していた。
 来る日も来る日も、彼を観察していた。
 時間も忘れていた。そのうち、僕自身が化石になってしまうのではないかと、半ば不安になるくらいに、じっと彼を見詰めていた。
 そうして発見したこと。
 一つに、彼はいつも何かを探している。
 辺りをきょろきょろと見回し、ゆっくりと歩き、地面に落ちている僕には見えない何か食べ物みたいなものを啄んでいる。一日中。
 一体何を探して、探し出したところで、じゃあどうするのかとも思ったけれど、僕のそういう考えなんか、まるでお構いなしな感じで、同じところを何回も往復している。
 二つに、一応、戦えるらしい。
 僕がいつものように卵を焼いた奴を口に運んでいたら、彼の前に、まっ黒い猫が躍り出てきた。
 これにはさすがに僕も、卵でむせ返って、急いで牛乳で押し流したりもした。
 そうしていて、奴は一向に取り乱さない。
 いよいよ、彼奴とも今生のお別れかも知れないと思って食い入るように見ていると、奴は、まるで獲物を捕まえるカマキリのように、目にもとまらぬ速さで、野良猫の顔面に蹴りを入れた。
 テレビで紹介されたら、げしっと効果音がつくのではないかというほどの、強烈なキックだった。
 これには猫もまいったのか、彼奴には目もくれずに一目散に逃げ出してしまった。


 「で、いつ食べるの?」
 僕は焼き鳥屋で友人にそう聞かれた。
 「え、いや、食べる、食べるの?」
 冗談なのか、それとも本気なのか、僕には分からなかった。分からなかったけれど、僕は無心を装って串から外したもも肉を口に運び続けた。
 「いやだってさぁ、卵も産まないのに、いつまで飼っとくつもりなの?」
 「愛玩動物だよ、僕にとっては」
 僕は一度だけ、祖父が鶏を解体しているところを見ていたことがあった。
 人間という生き物は、そうまでして鳥の肉が食いたいのかと思うほどにシュールな思い出だったので、僕はああいうことはしたくないと心底思っていた。
 「銃があればなぁ」
 僕は言った。
 「包丁とかでやるのは絶対にやだ。死んでも嫌だ。あいつを見ていると、なんだか僕そのものを見ている気がして、それが心底嫌だ」
 どっちなんだよ、と友人は笑っていた。
 「だから僕は彼奴を食べない」
 そう言って、空になった皿に箸を置いた。


 帰りの電車は大概、西日が赤く車内を照らしていて、時折黄金色に窓ガラスが光る。
 僕は座席に座って、何もすることがなく、二三回、自分の真上と斜め上に下がっている広告を見て、それから、ただ何をするでもなく、目の前の窓の外を眺めていた。
 いつもこの時間になると、だるいやら眠いやら、よくわからない重い感じになる。
 そうして、そんな重い感覚の中に居てもはっきりとわかる、隣からの視線。
 おそらく座っているのは、一つ前の駅で乗った若い女の人だと思った。なんだかこういう時、僕は酷く落ち着いている。
 だって彼女が見ているのは僕ではなく、この少し汚れた装甲服を着、顔面を覆うヘルメットを被った僕なのだ。
 気持ち、視線を横にずらすと、彼女はスマホをいじっていた。
 薄暗いガラス越しの視界でも、彼女の細い指が画面の上を滑っているのが分かった。
 それもそうだ、僕については、何も語れないし何も語られない。僕が素顔でこの電車に乗ったことは、こっちに引っ越してきてから一度だってない。



 プールと言えばいいのか、それとも、海の浅瀬なのか、よくわからなかったけれど、僕は泳いでいた。
 初めて僕はその時、ヘルメットを外していた。装甲服の下に着る、黒い全身タイツのような恰好だったけれど、それは全く水の冷たさを感じさせなかった。
 水温が体温と同じくらい温かいのか、それとも、そもそも僕が居る空間が水中ではないのか、それはよくわかなかった。もし水中だとしたら、これは、本当に素晴らしい透明度の水かもしれない。
 ここへ引っ越してきて久しぶりに、顔の肌に何かが直接触れているのを感じた。
 それはもう、水の感触なのか、それとも、何か温かいものが顔に触れている感触なのかよくわからなかった。
 おそらく、こんな感じを抱くのは、母親の胎内の中ぐらいだと思った。
 僕は水の中で暮らしたいといつか思い始めていた。いつごろ位からか、分からないけれど、もしえらがくっついたのならば、本当に、水の中で生活したいと思っていた。
 水の底に家を建て、水の底に庭を造り、その庭で車を洗車する夢。
 そんなこと、天地がひっくり返ってもないだろうと思っていたけれど、その時の僕は、可能とか、不可能とか、関係なく、何でもできるような気がしていた。

 なんで、そんなに急いでるの?

 麻美の声が聞こえた。洞窟の奥深くから、響いてくるような冷たい声だった。
 「急いでるのか?」
 と言いつつ、僕は防水加工の施された腕時計に目を落とす。
 僕が電車から降りるいつもの時間より、二十分くらい早かったから、ほっとして、また前に向き直る。
 神々しいまでの太陽の光が、梯子のように、その空間に降りてきていた。
 それは、キリンの体毛のような模様を、遥か彼方まで作り出していて、直感で、僕はここに家を建てようと決心した。

 自分が今、どこに向かっているのか分かっているの?

 知るか、と僕は思った。ここにガレージを作ろう、そうして、ここは芝生にしよう、とあれこれ考えていた。

 私は今分かった気がするわ。それは多分、自分が必死に、目を背けてきたことだと思うの。

 はあ、そうですか。


 側頭部に衝撃が走った。
空き缶が地面に投げ捨てられたときの、風が吹いたら転がって行ってしまうくらいの軽い音が、頭の中で響いて、僕の頭が、気持ち傾いた。
おそらく、隣に座っている女が、僕を軽くどついたからだと思った。
 反射的に隣を見ると、女は僕を凝視していた。
 凝視、というよりも、どこか呆れたような、蔑むような目だった。
 何気なく頭を元の位置に戻して、腕時計を確認すると、僕がいつも降りる時間の五分前くらいだった。
 体を背もたれにもたれ掛けて、行儀よくちょこんと座っている女を後ろから見てみると、何事もなかったように真っ直ぐ前を見ているので、僕も前を見ると、途端に電車の扉がぷしゅ、と開いて、女は先に外に出た。
 しばらく固まって、動けなかったけれど、僕も漸くここが降りる駅だったと理解して席を立った。


 濁っていると思う。
 とても、酷く濁っていて、自分の二三メートル先を歩く人の姿もおぼろげで、よくわからなかった。
 僕が息をすると、しゅっ、と通気口を僕の息が通り抜けていく音がする。
 夜の駅の前に立つと、この世の物一切合財すべてが、まっ黒い水の中に沈められてしまったような気持ちになった。
 しゅ、しゅ、しゅ。
 気付くと僕は、この間酔っぱらって眠ってしまった路地裏の辺りに来ていた。
 
 まっ黒いビルの影も、高いところで翻る洗濯物も、全部黒い水の中に沈められてしまったように見えなかった。
 申し訳程度に、細々と、今にも消えそうな街灯がチカチカと細い道を照らしていた。

 今日は随分機嫌がいいねぇ。
 不意に、視界の隅に男が映った。あ、と思った。
 多分、この間僕の隣で寝ていた若い男だった。
 酔っぱらっているのか、歌っているのが僕に見えたらしかったけれど、僕がビームガンを担ぎ直した後、あなたにも聞こえるんですか、と僕が言っている間にも、その歌は流れ続けていた。

 「いい服着てるじゃねぇ。どっかの兵隊さんか、コスプレか?」
 耳鳴りみたいに、ロンドン橋落ちたが聞こえてくる。若い女の声だった。それは丁度、麻美が最後の電話の時にかけていた音楽のテンポとよく似ていた。
 ああ、あれが麻美だったら、なんていうことは微塵も思わなかったし、二度と顔も合わせたくないと思ったけれど、この歌を聞いていると、彼女と麻美の顔が、妙に似ている気がして、かえってそれが不気味で仕様がなかった。
 「はずれの兵舎で働いているものです」
 「ああそう」
 若いというのに、どう見てもそれは、飲んだ蹴れた年配の人のようにみえた。赤いスカルキャップを被っていて、マントみたいな鴬色のジャージを着ている。
 「覚えてます?隣でこの間、一緒に寝てた」
 言いかけて、男が、ろれつが全然回っていない、傍から聞いたら、東南アジアの方の言葉に聞こえてしまうような、流れるような言葉で、男は遮った。
 「ちっくしょう、もう空かよ。酒は神が与えたもうた全人類を救う魔法の液体だって言うのに、連中ときたら百害あって一利なしだとよ。ったく、自分らだって患者から浴びても釣りがくるくらい飲んでる癖して……」
 その後の言葉が、どうしても分からなかった僕は、その男は放っておいて、家に帰ろうと足を進め始めた。
 「おい、まぁまて」
 呼びとめられて、僕は振り返った。
 「一本やれや」
 差し出されたのは、ギルビーズジン。注ぎ口から、手指の消毒用アルコールみたいな臭いが、ふんわりと香ってきていた。
 僕は、一気に飲み干してやろうと決意した。なりふり構わなかった。
 ごつ、とヘルメットの上にビンの口を突き当て、一気にビンを傾けて、不意に思う、やるせなさ、素直に酔っぱらう事も出来ない、自分のもどかしさ。
 ナイアガラの滝みたいに、それはヘルメットの縁から胸の装甲の滴って、地面に落ちて行った。
 びしゃびしゃと、ジンは一気に、僕の足元で水溜りになった。
 僕はなんだか、死んだのに死ねない人になった気がした。もう肉体はとうの昔に土に帰ってしまったのに、骨だけは、生きていた時と同じように、ちゃんとそろって繋がっていて、意識もあるのに、死んでいない。
 酒を飲もうにも、ご飯を食べようにも、それは全部、何もない空洞の肋骨の中を通って、地面にびしゃびしゃと落ちていく。

 思い立って、目の前の男を見た。これは、殴られると覚悟した。身構えると、何も起きない。顔の前に押し出した肘の間から男を見ると、眠っていた。



 部屋着に着替えた後で、ふと、天井の柱を見上げる。
 カメレオンの背骨みたいな細い柱が真横に伸びている。麻美は器用にそこに、電話線を引っ掻け、首を吊った。
 僕がこの部屋に帰って来た時には、もう死体は片付けられた後で、床には白線でできた人型と、鑑識課の人が置いて行った番号の書かれた三角形の札が置かれていた。
 僕は全く寝る場所もなかった。

 僕の無罪が証明されたのはその数週間後だった。それまで、非番の時は必ず警察署に赴き、取り調べの刑事さんとあれはこうで、これはそうで、という話をした。
 恐る恐る、僕の黒電話は、どうなっていると聞いて見ると、昨日工事屋が来ていたようだったけれど、本人が不在だと分かって、帰ったよと詰まらなそうに言っていた。

 あの電話は、うちの田舎のばあさんの家にあった年代ものだった。かかってくると、じりりりと、目覚まし時計みたいな音出して、電話を掛ける時も、番号の書かれた穴に指を突っ込んで回す式の、今ではもうある筈もない黒電話だった。
 電話屋に聞いて見たら、取り付けることは可能だと言われて、早速工事をする段階になった時に、こんなことになってしまって、工事屋には気の毒なことをしたなと後悔した。

 「何から目を背けてたんだ?」
 真っ暗闇の中で、僕は両足を投げ出して座って、両膝の上ぐらいに、その黒電話を置いてみた。
 若干傷がついていたり、黄色くくすんでいるところもあったけれど、僕が子供だった時には何の不可もなく使えていたものだったから、普通に機能するだろうけれど、再度工事屋に依頼してそれから、連絡が来なくなっていた。
 「何をそんなに急いでいたんだ?」
 僕は黒電話を拭きながら、若干、意識が遠くなっていくの感じて、ふっと頭を元に戻したけれど、またグッと引かれたように頭が重くなっていくのを感じた。



 僕は卵を溶きほぐしていた。
 隣を見ると、奴がいる。
 何かを訴えたそうにしているけれど、僕にはそれが何なのか全然分からなかった。
 僕は炬燵の前に座って、スプーンを持った。僕の前には彼が、呆然と立ち尽くしている。ずっと、何も言わず僕のことを見ているものだから、僕も彼を睨み返して、そうして、優雅に、ひらりとスプーンを翻して卵を掬い、口に運んだ。
 清々しい食卓。まるでベルトコンベアみたいな朝食。
 ガソリンスタンドで給油するような、あんな香りが微かに、鼻の中で蠢いていて、僕は少し、スプーンを口に運ぶ動作を止めてみた。
 彼は身動き一つしない。
 一つ、思った。
 ああ、もし明日、僕がこの家から居なくなっても、こいつはここでこうしてじっとして、朝になれば何かを探してうろつき、なんだかわからないものを啄み、朝が来れば鳴き、夜が来れば眠るのだろうか。
 そう思うと、僕は、なんだか少し、こいつを食べてみたいと思った。今すぐ目の前で血抜きされ、消毒された肉になってくれたら、僕は迷わず、それを台所に行って調理し、朝食のおかずに加えることだろうと思った。
 そう思いながら、僕は卵を口に運び、一つ溜息をついた。


 おそらく、僕の家は、白亜紀にタイムスリップしたと思って、差し支えはないかもしれない。
 僕の本能と彼奴の本能と野良猫の本能は全く同じ、探しては啄み、探しては啄む。猫は肉食竜の瞳で彼奴を狙い、彼奴は同じところを行ったり来たりしながら何かを啄み、僕はスプーンで卵を口に運ぶ。
 おそらくこれから先、僕が生きていく上で起こっていく様々なことが、このサイクルで回っていくんだろうなと思った。
 僕はおそらく、白亜紀に入ったのだと思う。

 けれども、僕が口に運ぶ卵が、もし冷蔵庫の中から綺麗さっぱり消え去って、猫が彼奴を捕まえて捕食したとき、僕のこのサイクルは糸もたやすく崩れ去ってしまうような気がする。
 そんなふとした瞬間に、僕の家の中の白亜紀は終わりを迎えるのだと思う。


 「おはよう。元気か」
 にこやかに友人が入ってきて、僕の横に座った。まるでどこか、電車の中の座席に隣同士で座っているようだった。
 僕の隣に腰を下ろす時に、丁度、白光するナイフが見えた時に、僕は、浮かない顔をした。

『タイムスリップ・ストーム・トルーパー』

『タイムスリップ・ストーム・トルーパー』 富士 りんご 作

彼女の死によって、彼は徐々に、タイムスリップを始めていた。(過去作品を繋ぎ合わせたものです)

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-11-12
Copyrighted

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