エンプティネスバン


――伝道者は言う。空の空。全ては空。
           伝道者の書1章2節


激しく咳き込みながら目が覚める。
乾燥して喉がカラカラだ。今すぐ水を飲まないと。水を。
布団を勢いよく剥がし、ベッドから這って出た。
よろめく足。頭がやけに重い。鈍痛がする。
頭の内側、頭蓋骨辺りから誰かがドアを乱暴に、一定のリズムで叩いてるような感覚。
覚束ない足取りで、やっとの思いで3メートル先の台所に辿り着き、水道の蛇口の栓を捻り、口を蛇口に擦り付け、無尽蔵に出る水をむしゃぶりつくようにゴクゴクと飲む。ゴボッという音とともに今したが飲んだ水を全て吐き出し、涙目で、えずくように、咳。
目がチカチカし、目の奥が痛い。目を閉じると万華鏡が見える。
まだ、クスリが切れていないみたいだ。
心の中に潜んでいた憂鬱というダイナマイトが爆発した。空虚感がビッグバンのように広がっていく。重く、痛い。
それにしても、空虚が広がるとは一体なんなのだろう。
ビッグバンというものが一気に有が広がっていく現象だとすれば、一気に無が広がっていく感覚、これは一体何と言おう。Emptiness bangとも言おうか。
宇宙はいずれ終焉を迎えると聞いた。
それはビッグバンで有が無を呑み込んでいったように、次は無の逆襲と言わんばかりに、無が有を呑み込んでいくのだろうか。恐ろしい。
そして、全部が無くなる。希望が無い絶望的な理論だ。しかしそれは推測の域を超えない。
何処かに違う推測があるかもしれない。或いはもっとはっきりとした。
この絶対的な空虚感を埋めるにはクスリしかない。クスリしか。
僕自身に広がる空虚を抑える術はクスリだ。これは間違いない。体験済みなのだ。
何度も、何度も。
しかしもうストックが無い。向精神薬の精神安定剤と睡眠薬で誤魔化そう。
ベッドの横の机の引き出しから処方箋の袋を取り出す。カサカサと無機質な音が鳴る。
袋は3つあった。
3つの袋をぶっ裂き、中の物を床にぶちまける。震える手で中を探る。しかしその中にあったのは錠剤が入っていたであろう空のシートが多量に出てきただけだった。一つずつシートを念入りに確かめるが、一錠足りとも薬は出てこない。
溜まったゴミ袋の中を引っ掻き回すが、錠剤は無い。
不安は募っていく。僕の心の中の空虚が勝ち誇ったような下卑た笑みを浮かべている。
こいつを殺すには快楽しか無い。この心を快楽で満たし、空虚の息の根を止めるしか。
早くクスリを買いにいかないと。床に転がる財布を拾い、中身を覗く。
ペラペラのボロボロの財布の中には1,2,3……と指で慎重に数え、1000円札が5枚あった。
Sもコカインも買えないが合法ハーブ、ケミカルドラッグの類なら買える。
アメリカ村に行こう。その辺に散らばっている服を適当に拾って着、軽く手ぐしをし、財布をジーンズのポケットに入れ、がちゃこんと勢い良く錆びたドアを開けた。
午後1時の空はどんよりと曇っていた。鬱屈した気分は更に募る。
この大国町からアメ村まで約2キロ。それほど遠くは無いが、急がねばならぬ。
急がねばならないことなど本当は無いのだが。
タクシーを拾い、アメ村まで行く。
タクシーから出て、走る、走る。走らねばならないことなど、本当は無いのだが。
酷い空腹の時に飯をがっつくのと同じだ。
僕の中の狂った快楽に対する渇望がそれをさせる。
平日の昼のアメ村は土曜や日曜とうってかわって静かだ。
その周囲とのギャップに通りすがりの人達は怪訝な顔をする。
『シャーマニック』と大きく書かれ、バックに無数の目玉の絵の看板を掲げた店に入った。
赤い木製のドアを押すとカラランと音が鳴った。
開けるとすぐにレジカウンターがあり、そこにはドレッドヘアの馴染みの店長が立っていた。
店長は少し驚いた表情を見せた。
「どないした?翔太。そんなに慌てて。目が血走ってるで」
「錠剤、ちょうだい。4000円で買えるだけ。いつものやつ」
っと僕は息を切らしながら早口でまくし立てた。
言ってる側から嫌な汗がドッと噴き出してきた。
店内にはボブ・マーリーの「no woman no cry」が鳴り響いている。
「なんや。キマるやつなんもなくて慌てて来たって感じやな」
と微笑む店長。
「ほら、新作や。持っていき。トベるで。」
店長は微笑みながらレジの裏からパケ袋(クスリやハーブが一回分入った小さなチャック付きのポリエチレンの袋)を取りだし、カウンターに静かに置いた。
店長の微笑みが天使に見えた。いや、堕天使の類か。
僕はカウンターに置かれたパケを2つ、掠め取るようにポケットにしまい、財布から4000円を取り出して、カウンターに乱暴に置いた。
そしてその場でパケから錠剤を取り出し口の中に放り込んだ。
ラムネでも食べるかのようにとかみ砕き、飲み込む。ちなみに錠剤を噛み砕くのは癖だ。
どんなに苦くとも噛み砕き飲み込む。吸収が早くなるような気がする。定かではない。
店長は頬杖をつきながら、ニタニタと笑いながら言う。
「便利な時代なもんやね。店で堂々とドラッグが買えて、ものの30分でトべるんなんて。この国は無法地帯やな」
僕は落ち着きを取り戻し、首筋や額にべっとりとついた汗を手で拭い去る。
「サンキュー。金作ったらまた来るわ」
と落ち着き払った声で言い、ドアを開け、外に出る。
しばらく歩いていると高揚感が心の隅のほうから徐々にやってきた。
そのじわりじわりとやってくる快楽を噛み締めながら、アメ村を闊歩した。
大丈夫だ。今日は給料日。夜のミーティングまでこれで乗り切れる。
目の前に居たワンピースを着た若い女性に後ろからさりげなく声をかける。
「ねーちゃん。暇してんの?俺も暇してんねんけどさ。え?暇してない?俺は暇してるよ。いや、でもニートじゃないよ。え?聞いてない?なぁなぁ聞いて聞いて。なんの話する?何処行く?」
まるで僕の存在が全く見えていないかのように無視をして早足で歩く女。
しばらく早足で逃げる女に、同じ速度で横から適当なことを喋り続け、もう無理だと悟ると『またね』と言い別れを告げる。
僕の仕事はこれの繰り返しだ。
反応してくれた女はそのまま会話をし続け、連絡先を交換する。
反応さえしてくれればほぼ確実に連絡先は交換出来る。
連絡先を交換するまでに僕がキャッチだということを会話の中で告げるのは7割ぐらい。
後の3割の女にはキャッチだということを言わないのでタダのナンパだと思っているだろうが、それで良い。
女に声を掛けて、水商売や風俗を紹介するだけの仕事だ。もちろん本当に店を探している子もいる。しかし手段を選ばない。他の店から引き抜いたり、騙したり、相手を自分に惚れさせて働かせたりと相当非道なやり方だ。要するに働かせさえすれば良いのだ。
女を店に紹介すれば、その女の給料の8%のマージンが毎月入る。
女が10万稼げば8000円。30万稼げば2万4000円。
女が店を辞めない限り永久バックマージンなわけだ。
だからこそ手段を選ばないし、惚れさせたほうが都合が良いわけだ。

ドラッグでハイになってる僕には怖いものなんかない。
ドラッグは自分自身の存在を最高に勘違いさせてくれる。自分が何様かにでもなったような気分になる。
ハイになったままアメ村からミナミの歓楽街、宗右衛門町、道頓堀橋付近を歩きまわり4時間声をかけ続け、4人の女の連絡先を交換した。中々の収穫だ。
一日中声を掛け続けても1人の連絡先も聞けない時もある。
歩き疲れ、僕と同じようにくたびれた喫茶店で休息を取る。午後3時。タバコに火を付け、煙をくゆらせながらボーっとしてると、ポケットからヴー、ヴー、とスマートフォンが唸りだした。スマホを取り出し、タップする。先輩だった。
「チャッス。大雅先輩」
「何がチャッスや。華依、わかってると思うけど今日給料日でミーティングやから夜7時に本部のマンション来いよ」
それだけ告げて大雅先輩はサッサと切った。
ちなみに大雅先輩の大雅も、僕の華依という名前も源氏名だ。
スカウントマンもホストのように源氏名を使う。どうして夜の仕事の奴らは源氏名が好きなのかと思う。名前が考えられなくて、というよりもどうでも良かったので本名でいこうと思っていると大雅先輩が勝手に付けてくれたのがこの「華依」という名前だ。
全然気に入ってない。頭が悪いナルシストが付けそうな恥ずかしい名前だと思っている。
でも名前なんてどうでも良いからそれで良かった。どうでも良いからそれで良い。
新入りの頃は先輩の監視が酷かった。まるで24時間監視されているかのごとく頻繁に電話が鳴り、イチイチ馬鹿みたいに何処にいるのか、何をしてるのか。と聞いてくる。
サボっていないかの確認だ。しかしある程度店に女を入れ、給料も稼げるようになると信頼され、監視は無くなり安心してサボれるようになる。
一日中働かないで遊んでいる時もある。
しかし給料は完全歩合制なので四六時中遊んでいるわけにもいかない。
キャバクラや風俗で働く女はバックレたりしてすぐに辞める子が多い。
自分の入れた女が少なくなってくると大変だ。
僕はそこまで饒舌で敏腕で美貌の持ち主では無いから大してサボれない。
今は午後5時。給料まで後2時間。クスリは残り1錠。勝った。
もう、空虚が僕の心を支配することはない。
後二時間、この喫茶店でビートルズでも聴いて時間を潰そう。
僕は座席に深くもたれかかり、ゆっくりと目を閉じた。
レット・イット・ビーが心に染みわたっていく。嗚呼、彼らは音楽を変えてしまった。
Back to nature
彼らはヒッピー文化を創りあげた。そしてたくさんの若者はドラッグを覚え、そこで悟りを得た。愛と自由となんたるかを。快楽によって得たラブ・アンド・ピース。
ドラッグに溺れたヒッピー達は現実世界に戻ってきた時に居場所が無かった。
ドラッグによる真理の深みらしきものを得た彼らは虚像の現実世界の住人達には受け入れられなかったのだ。
それにクスリで脳みそもボロボロになった。そのまま精神病院に入院して一生出れなかったり、ホームレスになったり、どうしようもなく荒んだ生活を送ったり。
かくして彼らの人生は終わった。
その意思はニューエイジに受け継がれた。僕達は彼らの子供達なのだ。
などと頓珍漢なことを考えながら目を瞑り、しばらくすると、アート模様の綺羅びやかな二次元の模様達がビートルズのレット・イット・ビーに合わせて踊っていた。気が付くと僕も僕の頭の中で彼らと一緒に踊っていた。
僕はやがてアート模様の綺羅びやかな彼らと同じ姿かたちに変えられ、共に踊り続けた。
僕は歌を歌いながら、ひたすら踊り続ける。

ぼくたちは 背伸びしても掴めるものは大したものじゃない
あるがままに、あるがままに
あるがままに、あるがままに
賢者の言葉をささやくのさ
あるがままにしておきなさい

踊り疲れた僕は、否、僕達は、ふと目を開け、腕時計を見る。
19時10分。
僕はすかさず立ち上がり、勢い良く店を飛び出た。
そしてお金を払い忘れているのを思い出し、もう一度店に入った。
危うく無銭飲食するところだった。日本の法律は厳しい。きっとこういうのでも弁解の余地は無いに違いない。痴漢の冤罪が多いのと同じで。
人生次の瞬間どうなっているか分からないものだ。明日は犯罪者かもしれない。
などと考えながら走る。僕は走る。今日は走ってばかりの気がする。
いや、僕の人生、いつもこうやって切羽詰まって何かに追われている気がする。
何が悪いんだろう。もちろん諸悪の根源は僕だ。しかし僕だけか?
この日本のシステムがそうなってないか?急いで急いで。学校に、宿題に、試験に、課題に、会社に、上司に、いつも何かに追われて追われて、気が付いたら良い歳で、そのうち考えるのもやめるんだろう。
なんだ?僕は一体何を考えているんだ。ドラッグの影響だ。すぐに何かの物事について深く考え始める。それにしてもどうしてドラッグをすると何事かに深く考えてしまうのだろう?
人は何故考える?考えた先には一体何があるのだろうか?
真理を知りたいから考えるのじゃないだろうか?
などとまた考えだす。頭を振る。考えることについて考えるのをやめろ。
考えることについて考えるのをやめるにはどうしたらいいんだ?
そうか、考えることについて考えるのを考えなかったらいいのだ。
しかしこれだと考えることについて考えるのを考えていることになるではないか。
ええい。くそ。この狂った頭め。両手で頭をニギニギしながら走る。傍からみるとかなりコミカルな人だ。コミカルというか奇人というか。
実際両手で頭を頭皮マッサージをするかのようにニギニギしながら走っている僕を見た若い女はクスクスと笑っている。
たぶん僕が僕を観ても嘲笑すると思う。
考えに考えながら走り続けて5分、アメ村の三角公園の隣にあるビルに入っていく。その3階が僕の所属するスカウト団体『シュルト』の事務所だ。
僕は誰にも気付かれないように忍びのごとく静かにドアを開き、日本のサラリーマンのごとく、申し訳なさそうに中に入る。
中には10数名のスーツを着た、髪の毛で上手に遊ぶ、チャラチャラとした若者達がいる。全員スカウトマンだ。
大柄で黒髪、長髪の大雅先輩が後ろを振り向き、ギロっと睨んできた。
その顔には眉、鼻、口、に10個ほどのピアスを付けている。
「何しとんねん」
ドスの声でそう言い放つ。
僕は軽く手を合わせて会釈し、バツの悪い顔をして「すんません」
と消え入るような声で謝った。
「華依、給料や」
一番前で社長の椅子にふんぞり返りながら、給料袋を投げつける潤夜さん。
このシュルトの代表取締役、まぁなんというか社長だ。
僕の給料袋は横にいた同期の竜也に当たる。
竜也が給料袋を拾い、「はい」とフレッシュな笑顔で渡してくれる。
それにしても給料袋を投げ捨てるなんて。倫理の欠片も無い。
ここの連中はめちゃくちゃだ。僕も含めて。竜也は一番いいやつだ。
といっても竜也も竜也で実は残酷なのだが。
女を惚れさせて風俗で働かせる術を一番心得ている。つまるところ、まともな奴なんて1人もいない。
まともなやつはまずこんな仕事はしないだろう。そもそもまともってなんだっけ。
イカれた奴とまともの境界線は?
ミーティングでは何やら小難しい話をしているが右から左に筒抜けだ。
僕の役目はところかまわず女に声をかけ、連絡先を聞いた女にところかまわず営業電話とメールをしまくり、ところかまわず店に入れるだけだ。
それ以外のことには頭がまわらない。というより回さない。
そしてセックスドラッグロックンロールを糧として生きるだけ。それ以外は無用だ。
さて、今日の夜はどの女に電話をし、家に呼び寄せ、ドラッグをキめ、なんの音楽を聴くのか。それしか考えない。それしか考えることは出来ない。
僕は快楽の虜だ。快楽で心を満たす。それこそが僕の生きがい。そのためにはこの職業はまさにうってつけだ。夜の仕事は快楽と隣合わせにあると言っても過言ではない。
果たして、今月の給料はいくらだろうか。前を向いて、ミーティングに参加してますよという顔をしながら、後ろポケットに入れた給料袋をそっと指で摘み、さすって厚みを測る。
悪くない厚みだ。
今僕が店に入れて働いている女は5人。全員風俗嬢だ。
ある1人の女がダントツで儲けさせてくれる。ソープ嬢でその店のナンバー3に入る。
毎月170万近く稼ぐ大物だ。この女だけで毎月約14万も入ってくるのだ。
残りの4人で合計20万ほど。
ということは30万は超えているに違いない。
もっとも、その女達がいつものように稼いでくれていたらの話だが。
などと考えていると、耳鳴りが遠くのほうから鳴り出した。
そのキィンという音は次第に近づいてき、頭の中で鳴り響く。なんて厄介で耳障りな音なんだろう。
「じゃあ、これでミーティングは終わりにする」
社長がやや大きめな声でそう告げると同時にあっけなく解散していく。
帰ろうと事務所のドアノブに手をかけた瞬間、大雅先輩に肩を捕まれた。
「華依、なんか言うことあるやろ?」
これを皮切りにクソッタレ大雅の説教と愚痴がクドクドと始まった。
この野郎はこうやって僕に説教をすることでストレス発散をしている。僕の役目はただ頭を下げてすんません、すんません、はぁ、ほんますんませんでしたぁ、と言い続ける(役目は、)。
しばらくの粘っこい説教の後、晴れてフリーとなった。
給料袋を両手で一気に破き、中身を取り出し、札束を数える。
明細票を見るのはつまらない。万札を数えるその時が至福なのであって。
2、3、4…35万。悪くない。それどころか最高だ。五人のうち、誰の稼ぎが良かったんだろう。みんな、ありがとう。
明日は日曜。仕事は休み。今は午後8時をまわったところ。
まず行くべきところは、シャーマニック。ドラッグを大人買いしよう。
そろそろクスリの切れ目だ。最後の1錠を投入しよう。
パケから錠剤を取り出し、星一つ見えない悲惨な夜空を見上げながら口の中に放り込む。そして、ばきばきと噛み砕き、コカ・コーラで飲み干した。ごきゅりと喉を鳴らす。
しばらく後、クスリは五臓六腑に染みわたる。
事務所からシャーマニックは近い。徒歩5分の距離だ。
4分後、ジャーマニックのドアを開ける。カラランと音がする。雑務をこなす店長がこっちに目をやり、来たかと言う代わりに手を軽く上げる。
「店長、いつもの錠剤とハーブ3万で買えるだけ。後新作を1万円分ちょうだい」
「新作はかなりトぶから量に気をつけてね~」
店長は慣れた手つきで僕のご要望のものをささっと持ってくる。
店にあるリクライニングチェアに我が物顔でどっしりと腰を降ろし、買ったばかりの新作のハーブをその場で開け、持参のジョイントに詰め、ライターで火を付けて思い切って一気に吸い込んだ。ジョイントからヒュホオーっと音がする。
4秒ほど吸い込んだ後、四秒ほど息を止め、天井に向かって肺に溜め込んだ全ての煙を四秒ほどかけて吐き出す。
吐き出して4秒もたたないうちに全身の力が抜け、目が霞む。
「どない?気に入った?」
という店長の声にエコーがかかって聴こえる。
「いいね」
と言った自分の声にもエコーがかかっている。視界がぼやける。まるで視力0.01の人の景色みたいだ。
僕はそのまま馴染みの売人に電話をした。電話の相手は2コールほどで出る。
「まいど。そうか給料日か」
電話の相手にもエコーがかかっていた。
僕はろれつのまわらない状態のまま問う。
「SとLSDある?2パケずつ。後安定剤と睡眠薬。なんでも良いから2シートずつ」
「OKそうだなぁ。全部で……4万でいいよ」
「高いなぁ」
僕は小声で言う。
「アホ。ほんまやったら6万はいくよ。お前は良客やからこんなに負かしたってんのに」
電話の相手は声を荒らげた。
「分かったよ。じゃあいつものバーで」
電話を切り、買った錠剤を1錠頬張り、かみ砕き、飲み込み、ドアを開け、シャーマニックから出る。
「店長、またね」と軽く手を振る。
ドアを開く。カラランと音が鳴る。カラランにもエコーがかかっていた。
何年間も毎日向精神薬と言われる精神安定剤と睡眠薬を飲み続けている。
それはドラッグの切れ目の辛さを間際らすためと、ドラッグの影響によって不眠症になったために睡眠薬を飲まないと一睡とて出来ない)。
まさに寝ても覚めてもドラッグ漬け。
国民健康保険を払っていないため、病院に行くと病的に高くつくので売人から買い続けている。
薬をいくらでも簡単に処方してくれる医者はごまんといる。
売人はそういった病院を掛け持ちして大量の向精神薬を手に入れるらしい。
一億総うつ社会と言われるこの国だ。心療内科は腐るほどあるのだ。
昔、テレビで観たが、地域医療の基本方針となる医療計画に盛り込むべき疾病として指定してきた癌、脳卒中、急性心筋梗塞、糖尿病の四大疾病に、新たに精神疾患を加えて「五大疾病」とする方針を国は決めたそうだ。職場でのうつ病や高齢化に伴う認知症の患者数が年々増加し、国民に広く関わる疾患として重点的な対策が必要と判断した。とのこと。
要はこの国は既にイカれてるってこと。病気の国、ジパング。
酩酊状態のまま、シャーマニックを出て、向かう先はいつものバーへ。徒歩20分。
僕の体と脳は渦巻くネオンの光に呑み込まれていく。
一時の幸せを提供する、偽りの光。それが歓楽街のネオンとその仲間たち。
バー「ムーンチャイルド」の厚い鉄製のドアを開ける。カラランとは鳴らない。
縦長の薄暗いバー。カウンター・テーブルの鮮やかな赤がいつもより増して鮮やかに見える。
「華依、元気?」
と馴染みの薄らハゲの癖にキザなバーテンダー。
「元気やで。今月は働く子おらんかった?」
「おらんなぁ。でも1人、一回ヤった女が俺に惚れててさ、働けゆうたら働くかもわからん」
とバーテンは首を傾ける。
「頼むで」
と僕は親指を立てる。
ここの薄らハゲのバーテンに僕からの紹介で風俗で働く女を紹介してもらう。働けば、その女が稼いだ給料の0.8%のマージンが入ってくるうち、半分をあげるという約束をしてある。
こういう約束をしているホストも何人かいる。
夜の奴らとの連携プレーで上手に稼いでいく。
「マティーニ頂戴」
店長は軽やかにカクテルを作る。シェイクしているその手つきをぼけぇっと眺める。
明らかに気取ったキザなシェイクだ。
「相変わらずキマってるねぇ」
と苦笑いをするバーテン。その苦笑いもなんだかキザだ。一挙一動、全てキザ。
アメ村のジャンキーとして僕は名を馳せている。全く自慢にならないことだが、僕にとっては自慢になっているのだ。
しばらくマティーニを舐めるようにチョビチョビと飲んでいると、ドアが開き、客が入ってきた。カラランとは鳴らない。
ハット帽を被り、アルマーニのスーツを着た、目のクマを蓄えている鉤鼻の男は、僕の馴染みの売人だ。
「まいど」
とハスキーボイスで言い、僕に握手をしてきた。僕はこの握手をした時にお金を渡す。
「土産や」
と僕にコンビニ袋を渡してくる。僕はそのコンビニ袋を小さく畳み、パンツの中の隠しポケットに入れた。
しばらくすると竜也が店に入ってきた。僕は手を上げて応答する。カラランは鳴らない。
「華依ちゃん、今日クラブ行くの?」
「たっちゃんが行くなら行こかなぁ」
竜也は僕の肩を軽く叩く。
「ほなちょっとここで呑んでからいこか」
その前に、と呟くように言って、僕はトイレへと立ち上がり、トイレの中でジョイントにハーブを詰め、吸う。
ジョイントからヒュオオと音が鳴る。何故かカラランと鳴った。
店長と売人と竜也と4人で飲み明かし、馬鹿騒ぎをする。他の客が迷惑がっているが気にしないことにしている。


“ぼくたちは 背伸びしても掴めるものは大したものじゃない”

4杯目を飲んでいる最中にふいにそう、声が聴こえた。
辺りを見回すが何処から聴こえたのか分からない。

“あるがままに、あるがままに”
“あるがままに、あるがままに”

続けてささやくように聴こえる。
しかし、何が聴こえても特に不思議な訳でもない。何故ならキマっているのだから。
だけど、そのささやきは気味の悪いものだったので少し気になった。
「ええ感じになってきたし、そろそろ行こかぁ!」
と5杯目を飲み干したところで竜也が叫ぶ。
「おっしゃ!行くでぇ!」
と裏声った声で叫ぶ僕。

体の芯に響く重低音と暗闇に青と緑のスポットライトがびょんびょんと飛び交う。
クラブで話をする時は耳元に近づいて喋る。それはお互いがどきまぎするものだ。
だからこそナンパには最適なのだ。
竜也とクラブへ行くということはナンパ目的以外の何者でもない。
竜也は耳元でがなりたてるように言う。
「華依ちゃん、クスリもほどほどにしときや。頬コケてきたで」
余計な忠告だ。
アンモニア臭の饐えた臭いのする汚れたハキダメのようなトイレに行き、洋式便所に座り込み、ジョイントする。吐いた煙が天井で動かなくなり、そのまま雲になった。
僕はその雲を残したまま、トイレから出て音に合わせて踊りだす。
次にトイレに入った奴が天井に突如現れた雲に驚かないだろうか。クスリでラリったやつが煙で作った雲だとバレるんじゃないかと少し不安に襲われた。

“ぼくたちは 背伸びしても掴めるものは大したものじゃない”

踊り狂っていると、またささやくように、歌うように聴こえてきた。
構わず踊り狂う。
“あるがままに、あるがままに”
“あるがままに、あるがままに”
声を無視して酒を浴びるように飲み、ナンパをする。
ナンパに失敗し、また踊る。

“賢者の言葉をささやくのさ”
“あるがままにしておきなさい”
「うるさい」
と自分の頭をコブシで軽く叩いた。

ソファー・テーブルに座り、酒を飲みながらタバコをスパスパと吸い続ける。
上のほうに昇っていったタバコの煙がそこでまた雲となってしまった。大変だ。
僕は思わずソファーから立ち上がり、その雲を手で掻き消そうとしたが、雲は消えなかったので諦めてまたソファーに座った。
姿勢が崩れていき、ソファーに体が沈み込んでいく。
どんどんどんどん、沈み込む。おかしい。いくらでも沈み込んでいく。
しまいには天井から僕は遠ざかっていく。
これは底なしだ。何処までも、何処までも。
このままいくと楽しそうだが、地上に戻ってこれなくなりそうなので起き上がった。起き上がると同時にトランポリンのようにボヨンと跳ね返って地上へと戻ってきた。
新作は思いのほか効くようだ。
トイレに行かずにそのままお構いなしにジョイントにハーブを詰めて吸った。
バレないだろう。どうせ合法だ。
吸ったと同時に左から何かにグイッと押される感覚が押し寄せてきて、姿勢を維持出来なくなり、ソファーに倒れ込んだ。
クラブの馬鹿でかい音に合わせて天井の景色が踊っている。
僕は次々に起こる不可思議な現象が余りに可笑しかったのであははと笑った。
金属で電球を叩き割るような音楽が爆音で鳴り響いている。
目を閉じてみた。光の束が高速で暗闇に吸い込まれていっている。
僕自身も光の一つとなり、その暗闇に吸い込まれていくようだった。
僕もこの無限大にある光の束の一部に過ぎないのかと少し哀しくなった。
物凄い速さだ。体感速度は300キロはある。
何処へ向かって行くのだろう。向かう最中は楽しいが、辿り着く先は楽しくない所の気がする。そのうち、少し不安になってきた。

「ゃーん……ちゃーん」
遠くのほうから誰かが呼ぶ声がする。
「華依ちゃーん!」
竜也だ。目を開けると竜也が僕の目の前にいて、肩を揺すっていた。
「お、目ぇ覚ましたか。大丈夫か。痙攣しとったで」
竜也にナンパされたのであろう隣のミニスカギャルが怪訝そうな顔で僕を見ている。
折れそうなぐらい細い足だ。
僕は寝転がったまま親指を立てて大丈夫だというサインを出す。
「ごめん、俺、ちょっと出るわ。また明日な」
と竜也は言い、分かるだろというように竜也の隣にいたミニスカギャルに目をやる。
そして竜也はミニスカギャルの手を引き、クラブの出口へと消えていった。
1人、ポツンと取り残された気分がした。気分がしたというか、実際のところその通りなのだ。
あまり楽しくなくなってきた。幻覚やこの得体のしれない感覚も煩わしくなってきた。
気分が悪い。バッド・トリップ(本来はドラッグの効果によって多幸福感や、楽しい幻覚が得られるのだが、バッドトリップに入ってしまうと恐ろしい幻覚や、激しい被害妄想によって恐怖から錯乱状態に陥る)に入ってしまったかもしれない。
クラブから出て、肩を落として帰路へと向かう。
さっきの“あるがままに、あるがままに”の女の声が僕の耳元で何かをささやいている。
それは、まるで耳元で蚊が唸るかのようにうっとおしかった。僕のことを馬鹿にしている。
頭をゴツゴツと叩きながら早足で歩く。通りすがりの人たちが僕のことをジロジロと見ている。気がする。
土曜の夜、綺羅びやかなネオン街はこれでもかというほど盛り上がっている。
夜の住人や、圧制から解放された昼の住人の喧騒が僕の耳をつんざく。
全ての笑い声が僕を嘲笑している。気がする。
「何やってんのあんた。馬鹿じゃないの」
「死ねよ」「ゴミ」「なんで生きてるの?」
気が付けばそんな怒号が飛び交っている。気がする。
僕は思わず両手で耳を塞いだ。
やばいやばい。叫びたくなるのを抑えて、家へと早足で帰る。
こうなってしまえば、自分が暴れてしまい、大変なことをしでかすかもしれないのだ。
布団の中でグッとこらえてクスリの効果がキレるのをひたすら待つしかない。
ネオンの光が煩わしかった。目がチカチカして痛い。
ここは何処だろう。自分の居場所が分からない。自分の居場所が分からないから、自分の住んでいるマンションが分からない。辺りを見回すと景色がぐるんぐるんと回り、視点が定まらない。脂汗がにじみ出てきた。
「すいません、ここ何処ですか?」
切羽詰まった声で通りすがったB系の若い男に聞いてみた。
B系の男は血相を変えた僕の顔にたじろいだ。
「ひ、東心斎橋だけど……」
東心斎橋、東心斎橋、大国町に行くにはどうしたらいいのか。
分からない。分かるはずなのに、何も分からない。頭が真っ白だ。
このままここにいると……それを考えると、えずきそうになるほど恐ろしくなった。
誰もいない静かなところに行かないと、パニックになりそうだ。
物音一つ聴こえない孤独で薄暗く狭い部屋に行きたい。
「落ち着け、俺。どうする。どうする」
小声でそう呻くように呟きながら辺りを彷徨い歩く。
タクシーが見えた。その時、粘土で出来たようだった頭がパンッと弾け、閃いた。
そうだ、タクシーに乗って帰ればいいんだ。
黄色いのタクシーが光輝き、神々しく見える。僕の救世主。
必死になって手を上げるとタクシーは僕の横で止まり、ドアを開けてくれた。
すかさずタクシーに乗り込み、行き先を告げる。
「大国町駅まで」
僕のマンションは大国町駅から徒歩3分。これだけ近ければ、いくらこのラリってパニック状態の僕でも場所が分かるはずだ。
タクシーが動き出す。僕は安堵した。タクシーの運転手の背中が頼もしい。
あんたは救世主。救世主なんだよ。と思わず声に出したくなる。
しかし、しばらく乗っていると、なんだか見慣れない景色。のような気がする。
果たして、大国町はこっちだったか?おかしい。一気に不安の波が押し寄せてくる。
このタクシーの運転手は本当に大国町に向かっているのだろうか。
「すいません、大国町駅の方ですけど、こっちでいいんですよね?」
タクシーの運転手をミラー越しに見ると疑問符を貼り付けたような顔をして、「そうですよ?」と答える。
怪しい。このタクシーの運転手は何かおかしい。
タクシーの運転手の名前を気付かれないように確認する。吉田泰郎。
吉田?
そういえば、昔大学生の女の子を惚れさせて風俗に入れた。

その子はそこでクスリを覚え、大学を辞め、ホストにハマり、借金を背負い、人生が悲惨な状況になってしまったが、その子の苗字が確か吉田だったような気がする。
もしやこのタクシーの運転手はあの子のお父さんじゃないのだろうか。
復讐。頭の中でその二文字が浮かんだ。僕はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「すいません、ここで降ろしてください」
と震える声で言った。
「え?まだ大国町駅じゃないですよ?」
「降ろしてください!」
僕は声を張り上げた。
タクシーの運転手はびくっと体を震わせ、すぐに止まった。
「な、750円です……」
僕は1000円を渡し、釣りはいらないと言い、逃げるようにタクシーから降り、すかさず走った。
走りながら、時折後ろを振り返った。奴は必ず追いかけてくるに違いない。
路地裏に入り、生ゴミを掻き分け、これ以上出せないぐらいの勢いで走り続けた。
黒ずんだ油や、生ゴミの匂いがまとわりつく。髪の毛もボサボサだ。
路地裏から脱出すると、覚えのある景色がそこにあった。
ここは僕のマンションから一番近いコンビニだ。僕は胸を撫で下ろした。
交差点を右に曲がると、あった。僕のエデンの園。
その名もライフコート生田。ライフコートのドアを開ける。
切れかけた電球が僕を迎えてくれる。集合ポストの304、僕の部屋のポストを確認する。
取り敢えず入っている中の物を全部手に持ち、エレベーターのボタンを押す。
なかなかエレベーターが降りてこないので僕は焦った。
人差し指でボタンを連射する。
誰かが僕を邪魔している。僕を部屋に入れないように、誰かが僕を邪魔をしている。
エレベーターが到着し、開くのが遅い自動ドアに蹴りを入れてやった。
中に入り、3階のボタンを連射する。閉じるのが遅い自動ドアに再び蹴りを入れる。
ドアはのっそりと閉まり、しばらくするとエレベーターが動き出す。
はっとした。エレベーターはまだ来ていなかった。
途中から幻覚を見ていたようだ。
僕は苛立ちながら、人差し指でボタンを連射する。
僕は再びはっとした。もしかしたら今エレベーターに乗っているのは僕を拉致しようとしている誰かかもしれない。あのタクシーの運転手の例がある。
あのタクシーの運転手がエレベータの中に入っている待ち受けている可能性も充分にある。
僕はぞっとした。すかさずすぐ横にある非常階段のドアを開け、駆け足で3階まで昇っていく。カンカンと響く足音が気持ち良い。
302の部屋のドアまで来、急いで鍵を開ける。カチャ、と鍵が開く音。
ドアノブに手をやり、勢い良くドアを開け、そして勢い良く閉め、鍵をかけた。
チェーンの鍵も掛けた。ドアに体を貼り付け、真っ暗な部屋の中をキョロキョロと見回す。

“あるがままに、あるがままに”
女のささやく声が耳元で聴こえる。


激しく咳き込みながら目が覚める。
乾燥して喉がカラカラだ。今すぐ水を飲まないと。水を。
布団を勢いよく剥がし、ベッドから這って出た。
よろめく足。頭がやけに重い。鈍痛がする。
頭の内側、頭蓋骨辺りから誰かがドアを乱暴に、一定のリズムで叩いてるような感覚。
覚束ない足で、やっとの思いで3メートル先の台所に辿り着き、水道の蛇口の栓を捻り、口を蛇口に擦り付け、無尽蔵に出る水をむしゃぶりつくようにゴクゴクと飲む。ゴボッという音とともに今したが飲んだ水を全て吐き出し、涙目でえずくように、咳。

目がチカチカし、目の奥が痛い。目を閉じると万華鏡が見える。
まだ、クスリが切れていないみたいだ。
心の中に潜んでいた憂鬱というダイナマイトが爆発した。空虚感がビッグバンのように広がっていく。重く、痛い。

どんよりとした何かが胸の真ん中を支配する。
封印していた『絶対的な虚無』が目覚めた。
クスリを体内に入れないと。しかし、いくらなんでも最近入れすぎた。
四六時中クスリを入れ続けている。それこそ起きている時はほぼ大体ラリっている。
寝ている時は寝ている時で睡眠薬でラリっている。
ここ何年間ずっと脳はドラッグ漬けだ。
脳をドラッグで何年も漬けた脳のお浸しの完成だ。
違う、お浸しじゃない。
漬け物なんだから、袋の中にドラッグを満遍なく入れ、そこに脳みそを投入して袋の空気を抜き、冷蔵庫に入れて、何年か経ってから袋から取り出しのが脳味噌のドラッグ漬けだ。
それが今の僕の脳味噌。どうでも良い。そんなこと。
この休日は脳みそを休めるためにも精神安定剤と睡眠薬で虚無を誤魔化そう。
これによりそれなりの酩酊状態でいることが出来る。
完全なシラフになると虚無が大口を開けてくる。奴を目覚めさせたままだといけない。
奴を押し込めておかないと。
そういえば最後に完全なシラフで過ごしたのはいつだろう。
などと思いながら処方箋の中から大量の様々な種類の精神安定剤と睡眠薬を床にぶち撒ける。
薬の名前をつぶさに指で確認しながら、10錠ほど手の平に乗せ、一気に口に放り込み、水で流し込んだ。
ごきゅりと喉が鳴る。
即効性のある薬と持続性のある薬を混ぜて飲んだ。薬が効くまで約20分。
20分の虚無を乗り切れば後は、ほんのりとした多幸福がやってくるだろう。
その場で座り込み、置き時計と睨み合いだ。
5分が経過した。後15分。部屋のまわりをうろつく。耐えろ。頭を小突く。
後10分。駄目だ。耐えられない。仕方ない。
即効性のあるハーブをジョイントで吸うことにした。
小刻みに震える手でハーブをジョイントに詰め、ライターで点火し、一気に吸う。
ジョイントからヒュオオオと音が鳴る。
しばらく肺の中に溜め込み、息を止める。溜めれば溜めるほど効くはずだ。
そしてゆっくり息を吐いていく。ゆっくりと、ゆっくりと。
大量の煙が辺りを包んでいく。
いつまでも吐ける。そしていつまでも煙が出る。気がつくと煙は部屋中に蔓延していた。
しかもこの吐き出した煙達は一向に消える気配がない。
部屋が段々と真っ白になっていく。これは全くもって酷い霧のようだ。
床に体が引っ張られていく。僕はそれに抵抗せずに倒れ込む。
しばらく床に転がり、この状況を楽しむ。
ふと気が付く。時計を見る。1時間も経っていた。
寝ていたようだ。否、気を失っていたのだろうか。分からない。
少し頭痛がするが、心はそれなりに穏やかだ。虚無はそこまで、無い。
安定剤と睡眠薬が効いているおかげだ。
今日というこの休日をいかに過ごすかによって、明日からのモチベーションも変わってくる。
しかし時計を見ると既に昼の1時。
今日という休日を満喫するには昨日の時点で既に決まっていたことでもある。
本当ならベッドの中に女が横にいて、イチャつきながら目覚める予定だった。
そして映画でも観ながら、家で怠け呆けながらドラッグを共に摂取し、溢れ出すドーパーミンを放出し続けながらセックスをし、ドラッグの切れ目を睡眠薬によって落とし、そして朝目覚め、Sを打ち、出勤するのだ。
勝負の分かれ道はあのクラブの時点で決まっていた。竜也は見事に勝ち取った。
僕はルーザーだ。ルーザーの休日はどうするべきか。
ルーザーもルーザーなりの休日を過ごそう。
いや、諦めるには、まだ早い。
遊べる女なんていくらでもいるはずだろう。
床に転がる傷だらけのスマートフォンを拾い上げ、片っ端から電話を掛け始めた。
しかし、あいにく誰とも連絡がつかなかった。やはり、僕のようになる前に、みんななんとか予定を付けているのだ。
しかし、どうだろう。全員ウィナーの休日を送っているのだろうか。
ルーザーな休日を送っているのは僕1人ではないはずだ。
などと考えていると気分が落ち込んできた。時計の針は2時を指す。
駄目だ。取り敢えず動かなければ。
取り敢えず外に出よう。その前に一発キメておこう。
アルミ袋から錠剤を一つ取り出し、口に入れる。舌の裏で転がしながら溶かしていく。
苦い。目が覚める。冷蔵庫の中からペプシ・コーラを取り出し、胃に流し込むように飲み干していく。炭酸の程よい痛みで更に覚醒する。
さぁ、出かけよう。金髪をワックスでツンツンに立て、赤と黒のボーダーのぴっちりとしたTシャツを着、革パンツを履く。ゴツゴツとしたスカルの指輪を左手にハメる。
2Gに大きく開けた耳の穴に黒のフレッシュトンネルピアスをハメる。
そして先の尖った黒い革靴を履き玄関の前の大きな鏡で自分をチェックする。
勢い良くドアを開けた。目が痛い。光が視界を遮る。休日にもってこいの天気じゃないか。
何かを期待させるような休日。見慣れたアメ村の風景を猫背だが堂々と歩く。
昼飯を食べていない。ジャンクフードでもがっつくか。
ジャンクフードの店に入り、肉が飛び出たハンバーガーを食べ、コカ・コーラで流し込む。
イヤホンを耳にきつく押し込み、ミッシェルを大音量で聴く。
ミッシェルのアグレッシブな音を体内に染み込ませようじゃないか。
そしてタバコに火を付け、椅子に大きくもたれかかった。
激しい音に呑み込まれていく。まるで自分の体が自分では無いような体験をした。
自分の魂が燃やされながら昇華されていくような気分だ。
しばらく目を閉じ、その感覚を味わっていると、急に音が無くなった。何故だ?
嫌悪感を覚えながら目を開くと、目の前に僕の耳からイヤホンを取り外し、椅子から身を乗り出して、僕を見つめている愛美がいた。愛美の顔との距離わずか30センチぐらい。
くりっとした二重の大きい目であどけない表情をして、含み笑いをしている。セミロングの茶髪が眩しい。たぬき顔と言うか、愛嬌のある可愛い顔をしている。
背は低い。150センチほどだが、そこがまた良い。顔とバランスを保っている。
この女に惚れない男はいるんだろうか?と思うほどだ。
「おぉ、愛美。びっくりしたな。何してんの?」
「暇してんの」
間髪入れずに愛美はそう答えた。
僕は口を尖らせて言う。
「え、じゃあなんで電話取ってくれへんの?一番先に掛けたのに」
ピンクのカシュクールワンピースが良く似合う。
「ごめん、寝てた」と言い、舌をぺろっと出した。あざとい。
愛美はプラダのバッグを机に置き、Sサイズのアイスティーを両手で大事そうに包むようにして持ち、伏し目がちに僕のほうに目を向け、飲み始めた。
「それにしても翔太、頬がコケてるよ。クスリやめないと、死んじゃうよ」
と大げさにため息をつく愛美。
ちなみに翔太とは僕の本名だ。
最近良く頬がコケてると言われる気がする。
ふと横の窓ガラスに写った自分を見ていると、なるほど。確かにコケている。
手で頬を撫でてみる。
何故鏡で見ても気づかなかったのに今頃気付いたんだろう。いつからだ?
椅子にもたれ掛かりながら、笑いながら言った。
「愛美が付き合ってくれたら辞めるわ」
愛美は微笑みながら挑戦するかのように即答した。
「翔太がクスリ辞めたら付き合ってあげる」
僕は机に乗り出して、愛美に問うた。
「それほんまにゆってんの?付き合えるんやったらほんまに辞めるよ」
もう一度大げさに溜息をつき、愛美は言った。
「1年前から言ってるでしょ」
真似をするように大げさに溜息をついて僕は言った。
「でもどうせ付き合ってもヤらせてくれへんもんなぁ」
「アホ、バカ、ボケ」
と愛美は頬を少し赤らめてしかめっ面をした。
愛美とは今から1年半前からの付き合いだ。まだキャッチを始めて間もない頃に、声を掛けた1人が愛美だった。
愛美はすぐに連絡交換をしてくれ、やたら愛想良くキャッチの僕に接してくれた。僕のことがタイプだったらしい。何度もデートをしているがヤらせてくれない。
というのも、愛美は処女だったのだ。なんでもクリスチャンらしく、『結婚するまで貞潔を貫く』と誓っているらしい。鉄壁のバージンロードを歩んでいる。
信じられない。日本にそんな馬鹿みたいな化石人間がいたなんで。
しかもこんな可愛い娘が。
なんだか勿体無い気がする。しかし結婚する男はなんて幸せなんだろうか。
今まで知り合った女の中で、愛美は抜群に良い女だった。なんとか自分のモノにしようとしたが駄目だった。クスリをやめたら付き合ってあげるの一点張りだ。
愛美はアメ村の服屋で働いている。26歳。僕と同い年だ。
「クスリやめて、女遊びやめて、マトモな昼の仕事したら付き合ってあげる」
と愛美は指を折る動作をしながら、付け加えるように言う。
僕は再び椅子にもたれ掛かって言う。
「ハードル高すぎやろ。愛美のことめっちゃ好きやけど、そこまで出来ひんわ」
「しかもエッチも出来ないときたら…」と小声で付け加える。
愛美は僕の目をジィっと見ながら真顔でこう言った。
「あたしのことを悲しませるようなことを平気でする人と付き合えるほど、あたしには愛は無いよ」
なるほど。確かに自分の女がクスリやって男遊びをして夜の仕事をしていたら、少ししんどい。いや、かなりしんどい。辛い。当たり前の話だが。
その後愛美とアクセサリーショップに行き、ゲーセンへ行ってプリクラを撮り、バーに行きと偶然の、否、運命の出会いによりウィナーの休日を過ごすことが出来た。
愛美といる時はクスリはしない。これが暗黙のルールだ。
夜のミナミの街をほろ酔い気分で、並んで二人で歩く。ほどよく冷えた風が、酔って火照った体に気持ち良かった。歩幅の小さい愛美は遅れを取り戻すために早歩きで僕の横に並ぶ。
そのトタタタッと言った感じの少し慌てた歩き方が可愛いのでワザと愛美と歩調を合わせないのだ。
駅近くの、地下鉄へと続く階段付近まで愛美を見送る。
ここでお別れというところまで来て、当たり前のようにさらりと、警戒心を持たれないように僕は言ってみた。

「今日俺んち泊まってけば?もう遅いし。どうせ明日仕事やろ?俺ん家から出勤すればいいやん」
愛美は含み笑いをしながら言う。
「駄目。帰るね。次会う時はクスリ辞めてるの楽しみにしてるよ。バイバイ」
僕の誘いをさらっとかわし、愛美は地下鉄へと吸い込まれていった。
近年稀に見る良い時間を過ごした。クスリをやってる時よりも幸せを感じた。
アインシュタインは、こう言った。
「熱いストーブの上に一分間手を載せてみてください。
まるで一時間ぐらいに感じられるでしょう。
ところがかわいい女の子と一緒に一時間座っていても、一分ぐらいにしか感じられない」
確かに愛美といる時は一時間は一分だ。大雅先輩に説教されている時は一分が一時間に感じる。
恐るべし、相対性。
家に帰るまでの道程を気だるく歩いてるうちにすぐに不安が募ってきた。
寂しさが増してくる。日は暮れて星空も見えない、真っ暗な長い夜。
一体僕は何処へ向かっているんだろう。
辿り着く先はきっと楽しくないところだ。
ポケットに入れていた精神安定剤と睡眠薬のシートを取り出し20錠ほど口の中に投げ込んだ。ラムネを食べるかのようにボリボリと音を立てて噛み砕き、飲み込む。
シラフで1人ぼっちの夜ほど恐ろしく孤独なものはない。しかし睡眠薬さえあればそんな虚ろな夜も怖くはない。安楽の酩酊状態のまま眠りに誘ってくれる。
問題は睡眠薬を飲んでから行動すると、健忘症を起こして、呂律がまわらないまま、ところ構わず女に電話を掛けてしまうところだ。朝になって携帯を見ていつも思い出し後悔をする。

――けたたましい音が部屋中に響き渡った。

反射的に手が動く。力任せに音の鳴るほうを目掛けて手を振り下ろすと、その音は止んだ。
8時を知らせるアラームだ。アラームの音は不愉快で嫌いだ。しかし、こいつのおかげで起きることが出来る。この微妙な関係。
キャッチの仕事は四六時中何時でも可能だ。しかし朝9時に出勤と決まっている。
9時までに事務所のタイムカードを押さないといけない。一回遅刻すると罰金500円だ。
完全歩合制なのに。理不尽過ぎるシステムとなっている。
キャッチの仕事はほとんど自由行動みたいなもんなので、それなりに規制をしないとなまけ癖の強い人間達はサボってしまうのだ。だからこそまだ稼げない新人の時は先輩の目が厳しい。四六時中電話がかかってくる。しかしそれも稼げるようになれるまでの辛抱。
僕はそれに耐えて一端のキャッチとなった。
頭がガァンガァンと一定のリズムで痛い。
スマートフォンを見ると案の定、ラリった僕がやってしまった形跡が残っている。
ほとんどの女は出てくれないみたいだが、暇をしてる時は出てくれる。
喋る内容は半分以上意味不明だが、眠れなくて暇で寂しい夜には、相手はラリってるが故に気を使わないで良く、寂しさ紛れに調度良いらしい。
独りの夜はみんな孤独なのだ。
人生とは『孤独』と『暇』を埋めるために在るような気がする。
そんな哀しいことってあるのだろうか。
フリードリヒ・ニーチェはこう言っていた。
『人間のみがこの世で苦しんでいるので、笑いを発明せざるを得なかった』
どうして人間のみが苦しんでるのだろう。このやるせなさは一体何処から産まれてくるんだ?
そんなことは今まで何度も考えてきたし、過去の偉人達も頭を絞って考えてきたはずだ。
その何千年間の問いの中で分かったのは、何も分からないということだ。
絶望的な皮肉である。人類は救いようのない阿呆だ。
などと思いながら、布団の中で転げまわる。布団が体に絡まる。
起きなければ。500円のために。
第一日目だ。気合を入れないと。勿体無いが使おう。
まとわり付いた布団を懸命に剥がし、よろめきながら立ち上がり、原人のような二足歩行で3歩歩いてから、4足歩行に切り替えて、3メートル先のタンス目掛けて這いつくばる。
そしてタンスの4段目の引き出しを引き、黒いビニール袋から注射器を一つ取り出した。
慣れた手つきで準備をし、静脈に打ち込んだ。瞬時に覚醒される僕。
次元が変わった気分だ。元気に元気にドアを開け、外に出る。朝日と車の騒音が僕を祝福している。
事務所があるマンションのエレベーター前で、しつこいぐらいボタンを押し続ける。
いつものボタン連射。
連射をすると早く来る気がする。そんなことはあり得ないと分かっているのにも必ずそれをする。それはジンクスでもない。あり得ないと分かっていながらやるという愚行。
その愚行はもはや習慣化されている。
ヒュンっと音ともにエレベーターが着地し、ドアが開くとシュルトの社長がそこにいた。
社長がこの時間に事務所にいるのは珍しい。
ディオールの服を着て、レイバンの丸い形のグラサンを掛けている。
右手にはシルバーのアタッシュケース。体格の良い強面の男が2人が背後にいる。
「おぉ、華依。元気か。仕事頑張れよ」
と社長は手を軽く挙げる。
僕は頭を下げて「あざっす」と挨拶をする。
社長は最近羽振りが良い。なんでも、女子高生を働かせた風俗店を裏で営業しているらしい。
完全アウトだ。おかみにバレたらシュルトごと全て消し飛ぶだろう。
危ない橋を渡っている。人の欲というのは限りがない。地位も名誉も、快楽も、決して満足することはない。
鍵を開けて事務所のドアを開ける。ドアを開けてすぐ右にある、タイムカードを機械に挿入し、ジジと短くなった後に、ぽんっと飛び出てくるタイムカード。まだ40分も余裕があった。
何気無しにふと部屋を見当たす。7畳ほどの生活感の無い部屋だ。
前には事務的な大きな机があり、パソコンが置いてある。その横には黒い金庫がある。
僕はその黒い金庫に目が釘付けになった。
金庫のドアが……少し開いている。
少し胸が高鳴った。幻覚か?いや、幻覚ではない。これはリアルだと分かる。
もしかして金が?しかしその思いはすぐに消えた。
社長がこの時間に来るのは金庫の金を持って何処かへ行く時だ。どうやら金庫から金を取り、閉めるのを忘れていたんだろう。そう察した時に、なんだか結構強めの失望感。
金庫をしめておこう。黒く大きい立派な金庫だ。おそらく200㌔ぐらいあるだろう。
持って帰るのは不可能だ。それに動かした時点で防犯装置が作動するだろう。
金庫まで近づき、ドアに手を掛けてから、反射的に金庫の中に手が伸びる。
もしかしたら。という淡過ぎる期待。しかし盗むなんてたいそれたことを考えている訳でもない。興味本位というか、背徳感を味わってみたいというか。
まぁ札束がある可能性なんてほぼ0なのだが。などと考えながらその暗闇の中を手探った。
手は空振りだ。やっぱりな。奥の方まで手を突っ込む。
突っ込んだ瞬間に手に何かの感触があった。嘘だろう。一気に心臓が跳ね上がった。
それを恐る恐る取り出した。
手に握らていたのは100万の帯付き札束だ。しかも3つ。おそらく合計300万。
バレるだろう。間違いなく。社長と遭遇してしまったし。
そういえば社長は金にずさんだと聞いた。いくらずさんでも300万は分かるだろう。
しかし完全に僕だとバレるだろうか。確かめる方法などない。
タイムカードを裏返していない、つまりまだ来ていない社員がいるということだ。
大丈夫だ。バレない。この可能性を無駄にしてはいけない。
千載一遇のチャンスじゃないか。
思いだせ。社長に酒の席で全裸で踊れば5万やると言われて、踊ったにも関わらず、1000円しかくれなかった時のことを。
「なんかお前ムカつくな」と言われ、いきなり、おもいっきり腹を殴られた時のことを。
給料袋をいつも投げられるあの屈辱を。
どうせこの金は違法なことで稼いだ金。シュルトはグレーな仕事や完全な黒の方法で金を稼いでいる。警察には言わないだろう。
ちょっとした天誅だ。高鳴る胸を抑えながら、札束を服の中に仕舞いこみ、早足で事務所を後にする。
エレベーターはマズイ。非常階段のドアを開け、忍者のように忍び足でかつ、駆け足で階段を駆け下りる。
僕は自宅まで走った。爽快だった。周りが止まって見える。
今の僕のこの速さはオリンピックで通用するかもしれない。本気でそう思った。
目の前の障害物を颯爽と交わしながらひたすら走る。息が全く切れない。
自宅のドアを音を立てないようにゆっくりと閉める。辺りが静寂に包まれた。
服の中の札束を確認する。手に取り、震える手を抑えながら一枚ずつ丁寧に数えていく。
1枚、2枚、3枚……
確かに、確かにあるぞ。1つ100万円。3つで300万円。
なんということだ。わずか1時間の間で1年分の給料が手に入ってしまった。
なんという僥倖。
空き巣や強盗をする奴の気持ちが分かり過ぎて辛い。
僕は空き巣の才能があるのかもしれない。このまま空き巣に転向しようか。
本気でそう思った。
今日はもう外に出るのはやめよう。どうせ仕事をサボっていてもバレないしバレても稼いでるからそこまで咎められない。
僕は札束を眺めていた。
眺めては、数え、眺めては、数えとしているうちに日が暮れていた。
覚せい剤を打つと良くこうなる。一つのしょうもないことを何時間も熱中して繰り返す。
毛抜きで6時間かけて全身の毛を抜いたこともある。
この金で何をしようか。しばらくドラッグ漬けの日々だ。
いつもは給料日が近づくにつれ、クスリを投与する回数が減っていく。
初めに使い過ぎるのだ。そして最終的には錠剤を半分かじりつつ向精神薬をチョビチョビと摂取する惨めな方法で薬物酩酊の状況をなんとか維持している。
しかしこれからしばらくはそんな計算もせずになんの心配もすることなくドラッグに身を委ねることが出来るのだ。打ちまくって飲みまくって吸いまくる。
などと考えていると竜也から着信が入る。
すぐに電話を出る。
「たっちゃんどうした?」
携帯越しの竜也の声は上擦っていた。
「華依、アホやなぁお前」
その瞬間、全てを察した。
「華依、事務所に防犯カメラあるの知らんかったんか?金庫の金盗ったやろ。ヤバイでぇ。逃げや」
顔が青ざめる。頭のてっぺんからサァーっと血の気が引いていくのが分かる。
「たっちゃんありがとう」
と一言言い、電話を切った。時計を見る。夜10時。
ボストンバックを用意し、そこに必要なものを詰め込んでいく。
クスリの袋、財布、服、ズボン、パンツ、靴下、入れるだけ入れていく。
もう戻らない覚悟だ。
ある程度入れ、忘れ物は無いか確認していた時に、無情にもチャイムが鳴った。
間違いなく奴らだ。
僕は急いでベランダに出た。ここは4階。下を見降ろす。風が少し強い。
決心をしてパイプに足を掛ける。
パイプをつたって3階の下の部屋、2階の部屋へとスルスルと降りていく。
2階から1階へと降りている時に気付いた。
大雅先輩のBMWが止まっているじゃないか。その車の横でちょうどタバコに火を付けた大雅先輩。
思わず足を踏み外し、ガタンと音が鳴った。大雅先輩が音のほうを見る。
つまり僕の方を。
「華依!コラァ!」
けたたましい怒号が飛んだ。
僕は体を震わせ、勢いでそのまま4メートル下まで飛んだ。
大きい音を立ててアスファルトに上手いこと着地したが右膝に激痛が走った。
大雅先輩が掛けてくる。まるでタックルをしてくるかのように。
奴は元ラグビー選手。ヤバい。ヤバすぎる。僕はブロック塀を乗り越えて全速力で逃げた。
「お前待てや!ぶち殺すぞこらぁ!」
まるで雷が落ちたかのような絶叫、怒号がこだまする。
待つわけないだろ馬鹿。
「待つわけ無いやろボケェ!」
つい、口に出てしまった。今までの鬱憤がそのまま出たようだ。
後ろを振り返る。
大雅先輩は苦虫を噛み潰したような顔をしている。片目がヒクヒクと痙攣している。
「ぬぁんやとぉ……」
ぶち殺す。その名の通り僕は半殺しは間違いないだろう。大雅先輩は傷害罪で何度も捕まっている。肋骨の何本かと鼻の骨は覚悟しないといけない。
大雅がマンションの上のほうを見ながら叫んだ。
「おい!華依がベランダから逃げよったぞ!お前らはよ戻ってこいかい!」
4~5人でこのマンションに来ていたみたいだ。今まで何度も危機的状況を乗り越えてきたが、今回は相当な危機である。
これは乗り越えないと、冗談抜きで明日が無いかもしれない。
明日に向かって走れ。
ランナウェイ、ランナウェイ。
2年間住んでいたこの大国町は僕の庭だ。路地裏をつたって逃げる。しばらく走っていると奴らは僕を見失っていることに気付いた。
しかし油断は出来ない。なにせ複雑に入り組んだ袋小路、曲がり角で出くわすなんていう最悪な状況もあり得る。僕はそのまま大通り目指して走っていった。右膝が痛み出して、右膝を庇うように走った。
無事に大通りに出ると、すぐに前方から走ってくるタクシーを発見し、手を上げながら道路に出てタクシーを無理矢理止める。タクシーはクラクションを鳴らしながら止まった。タクシーの運転手は驚いた顔で叫ぶ。
「危ないですよ!何してるんですか!」
僕はすぐにタクシーに乗り込んだと同時に叫んだ。
「何処でもええから早く出てくれ!」
息絶え絶えにそう言うとタクシーは発進した。
取り敢えず、一段落。ボストンバックの中を確認する。
一番大切なのはクスリと300万があるかどうか。あった。ホッと一息つく。
クスリと300万さえあれば生きていける。問題は何処に行くか。
ミナミにはまず戻れない。シュルトは夜の世界ではかなり名が知れたスカウト団体。
ヤクザとも付き合いがある。だからミナミに居座るなんて自殺行為他ならない。
大阪の歓楽街の何処とも通じている。全て危ない。ということは大阪に居られない。
僕から歓楽街を取るとはこれすなわち死を意味する。
今までキャッチしてきた女や男の知り合いはほぼ全員夜の仕事関係者だ。
僕が300万を奪って逃走しているのは必ずや知られるであろう。
そういえば昔、社長を殴り倒し、社長のお気に入りのオメガの時計を盗んでバックレたやつがいた。
そいつは懸賞金を掛けられて1週間後ミナミのホストで働いているのを、同じ従業員からタレコミがあり、捕まり、半殺しにされ、そのまま闇医者のところへ連れて行かれ、治療をされたのはいいものを、顔を整形されて、とんでもなく醜い顔に整形されたとの話を思い出した。背筋がゾクっとした。
あの話を金庫の金を盗む時に思い出していたなら、金を盗むことはなかったんじゃないだろうか。
あの時は気が動転していた。何も考えられなかった。なんて言い訳しても無駄だろう。
金の誘惑は全ての危険を忘れさせてしまうものだ。
「新大阪まで行って」
落ち着きを取り払った声で運転手にそう告げた。大阪を出よう。東京に行こう。
東京という新天地で1からやり直そう。そうだ、これを機会に東京に行き、ビッグになってやろう。
人生これから。災いを転じて福となす。野球はツウアウトから。
唯一心残りなのは愛美だ。僕は愛美に惚れている。しかし愛美をこんなイザコザに巻き込みたくない。他の奴なんて巻き込んでもどうでもいい。
落ち着いたら連絡しよう。
僕は精神薬の錠剤と合法ドラッグの錠剤を袋から取り出し、口に放り込んだ。
ボリボリと錠剤を噛む音がタクシーの中で静かに響く。


――新宿の、この静かで座り心地が良く、ほど良い広さのネットカフェは100時間パック1万3000円という馬鹿みたいなシステムがある。
1日3000円で泊まれる計算だ。僕はしばらくここを拠点とすることにした。
100時間パックを取り、優雅にブラックコーヒーを飲みながらタバコを吸う。
僕は奴らに勝った。僕はウィナーだ。奴らはルーザー。
さすがに東京まで来たら安全だ。
取り敢えず、この辺りの合法ドラッグショップを調べ、新宿の売人と連絡を取り、クスリのルートは確保した。
クスリと金さえあればなんとかなる。金はまだまだある。
しばらくバカンスということで、この日本の歓楽街のトップである歌舞伎町でしばらく豪遊をしよう。豪遊をするほどの金は無いが。
そして遊び疲れたら働こう。僕は歌舞伎町でのし上がる。
さぁ、僕が主役の夜の世界でのし上がっていく物語、第2部の始まりだ。
2部が終わる頃にはおそらくディオールのスーツに身を包み、葉巻を吹かしながらカッシーナの100万ほどするマラルガンソファにふてぶてしく座る僕とご対面するであろう。

歌舞伎町 眠らない街。東洋一の歓楽街新宿歌舞伎町。
そのスケールはやはり悔しいがミナミとは比べ物にならない。
早速合法ドラッグ専門店でクスリを大人買いをした。
更に約束していた売人と会い、覚醒剤とコカインと向精神薬を買う。
そしてキャバクラに行き、クラブに行き、ぶわぁっと遊び、ネカフェに帰宅する。
昼から夕方はパチンコやバカラを楽しむ。まさに快楽に溺れる日々。快楽に身を捧げる日々だ。
快楽に浸かれば浸かるほど、脳は更に快楽を欲するようになる。
このままいけば一生分のドーパミンを使いきってしまうのではないかと心配になる。
一生分のドーパミンを使いきってしまったらどうなるのだろう。
恐ろしい。それこそ生き地獄じゃないのだろうか。
快楽漬けの今、虚無は襲ってこない。しかし、後ろを振り返ると、絶対的な虚無が待ち伏せしている気がする。薄ら笑いを浮かべながら僕を見つめている気がする。
快楽が無くなり、シラフに戻った時を狙って待ちぶせしているのではないだろうか。
中学生の時、哲学書を読みふけっていた。
その時快楽主義、エピキュリアンという哲学を知った。卑俗な悦楽追究。
これこそ僕の生き方だと思った。クスリも快楽も、現実逃避だと理解している。
僕は現実逃避を極めようと思った。
社会の歯車から外れ、嫌いなことはしない、好きなことだけをする。
これが人生の第一優先だ。楽しいこと、好きなことだけをする。
フラフラ、ふわふわ。そう、人生には意味が無い。
僕達は偶然に産まれてきたんだ。快楽のためにセックスをした結果、その快楽の産物として産まれてきたんだ。快楽の産物の僕が快楽を求めるのは至極当然なこと。
結局最後には死んでいく。虚無に呑み込まれる。それなら好きなことを好きなだけした奴が勝ち組なはずだ。
それに僕と社会には大きな壁があるように感じる。そしてそれはどうも、こえられそうにない。
僕は生涯よそ者だ。そういう星の下で産まれてきたとしか思えない。
僕のことを人は見るが、すぐに忘れる。
誰かと喋るが、次には僕のことは忘れる。
僕と知り合うが、しばらくすると僕のことは忘れる。僕は誰にもインプットされない。
僕はいつか死に、忘れ去られる。そして何事も無かったかのように世界は動く。
僕なんて最初から居なかったかのように世界は動く。
いや、僕が居る頃から世界は僕が居ないかのように動いている。
死んでいようが生きていようが一緒のような塵芥な存在だ。

透明、
否、

半透明、そしてゴミ、


この頃から、シュルトに追われてるのではないかという猜疑心が一段と強くなってきた。
街の中を歩いていると後ろから誰かに付けられている気がする。いや、実際付けられているはずだ。
現に今も後ろを振り返ると、ホスト風の若い男と目があった。
あの目は僕のことを知っている目だ。すぐに走って逃げる。
クスリが切れてきた。近くにあったゲーセンのトイレに駆け込み、ジョイントにハーブを詰めて、ライターで火を付ける。ジョイントからヒュホオッと音がし、煙をおもいっきり吐き出す。
そして精神安定剤と睡眠薬を口に頬張り、念入りにゴリュゴリュと噛み砕いてからゴキュリと飲み干す。
トイレから出て周りに警戒しながら歩く。
携帯が鳴る。キャバ嬢からのメールだった。「今日は来ないの?待ってまーす」とのこと。
こいつも怪しい。昔、店に入れた女と顔が似ている。確か妹がいると聞いている。
あいつの妹のような気がする。いや、そうに違いない。間違いない。
「俺の懸賞金はいくらや?騙されへんぞ」とメールを打つ。
メールの返事は返ってこなかった。やっぱりそうだったのか。
まさか東京にまで追っ手がいるなんて。考えもしなかった。
僕は何処へ行っても追われる身なのか。
後ろのほうから笑い声が聴こえる。
僕を見下し、嘲り、馬鹿にするような甲高い笑い声だ。
僕は半ば狂気じみて叫んだ。
「うるさい!」
笑っていた女は笑うのを止め、僕を不審そうに見ている。
女の横にいた体格の良い若い男が近寄ってきて僕に睨みを聞かせながら言う。
「てめぇ、何だ?」
僕は男に掴みかかりながら、トチ狂ったように頓狂な声をあげる。
「お前もシュルトのまわしもんやな。俺の懸賞金いくらじゃコラ!」
と叫んだと同時に宙を舞う。いつの間にか空が見える。そのままアスファルトに直撃し、頭を打ち付けた。グラっと視界が揺らぐ。
ヒソヒソと周りから声が聴こえる。
「ヤバイんじゃないの?こいつ」
やばい。連れて行かれる!
と思ったが僕に唾を吐きかけてから男と女はその場を立ち去った。
僕はその場で倒れて仰向けのまま、ポケットから合法ドラッグの錠剤を取り出し、口の中で転がした。
耳元で女が囁く声が聴こえる。
“あるがままに”

「うるさい!」
僕は耳を塞いで泣きそうになった。


“ぼくたちは 背伸びしても掴めるものは大したものじゃない”
“あるがままにしておきなさい”

「やめろ!俺にどうしろってゆうんや」
僕は嗚咽をあげながら叫んだ。

うずくまって頭を抱えながら僕は泣きじゃくる。
「独りにしないで……」


周りに人だかりが出来ていた。
何処からともなくビートルズのHey Judeが流れている。本当に流れているのか、幻聴なのか、分からない。
パトカーのサイレンが近づいてきて、やがて僕の目の前で止まる。
警察が何かを言っている。僕はただ「シュルトの奴らが追ってくるんだ」、「真っ暗に呑み込まれる」、「うるさいうるさい」と繰り返し叫んでいた。
意識がところどころで飛んでいて、良く分からない。
警察が僕を椅子に座らせて目にライトを当てている。
Hey Judeは相変わらず流れている。どうやら僕の頭の中で流れているようだ。
と思えば次はベッドの上で寝ていた。横で精神救急外来がどうとか言っている声が聴こえるがどういう訳か僕は体を動かすことが出来ない。首さえも動かない。
次に見たシーンは病院で点滴を打っているところだ。看護師が何人か見える。
あたふたと何かをしている。いや、別にあたふたもしていない。
いつもの日常のごとく動いている。僕は可愛い娘がいるか必死で目で追った。
『三つ子の魂百まで。そして何処ででも』などと思う。
次に意識がはっきりした時、僕の横で医者が何かを僕に対して喋っているが、頭がぐわぁんぐわぁん、景色がゆらぁんゆらぁんとしていて何も分からない。
「あ、あぃー」「うぉー」と声を出すので精一杯だった。
医師の問診は続いていく。Hey Judeは相変わらず流れている。
この時、僕は手足を拘束されていることに気付いた。
次に見たのは僕に対して措置入院がどうのと業務的に何の感情を込めずに僕に喋りかけている眼鏡をかけた、いけすかない奴だった。殴ってやりたい衝動。
僕の枕元に何かを置いて何処かへ行った。
次は救急車で移送されているところだった。革の手錠をはめられている。
Hey Judeは相変わらず流れている。
次は……意識がそれなりにはっきりとしている。
重い鉄の扉、廊下との境目には鉄格子。布団が一つ。剥き出しの和式便所。
3回分のトイレットペーパー、ペットボトルに入った水だけしかない真っ白な部屋。
まだ拘束をされている状態だ。誰かが僕に色々と質問をしてくる。
ドラッグは何をしてきたのか、誰かに追われていると思っているか、電波的な何かがあるか、誰もいないのに声が聴こえるか、などといった内容だった。返事は出来るようになっていたのでそいつの質問に真面目に答えた。
「あ、あぃー」「うぉー」という奇声で。

意識はまだはっきりせずに、視界がゆらぁんゆらぁんと歪み、よだれも垂れ流し状態だ。水も食事も取れない。
大人しくしていると、拘束具が外された。この辺りから意識がはっきりし、飛ぶことは無くなった。Hey Judeもこの頃から流れなくなった。静かだ。
どうやらここは精神病院の閉鎖病棟の保護室で、僕は措置入院、いわば行政命令の強制入院となったらしい。
警察に薬物尿検査をされていないのが唯一の救いだ。
ボストンバックの中には違法なドラッグは既に全部使ってしまい無くなっていたのも助かった。
しばらく様子を観て大丈夫そうなら、この保護室から出られて大広間という、大人数の、テレビがあり、タバコが吸えて、色々と自由がきく場所へ移されるらしい。
そしてそこからまた様子を看て、外に出られるとのこと。
意識がはっきりし出して気付いた。意識ははっきりしていないほうが良いということに。
何故ならこの保護室は見事なほどに何も無い。読んで字のごとく、布団と剥き出しのトイレしか無い。もちろんクスリも無い。
何もなくとも、クスリがあればそれで解決する。しかし、そのクスリが無いのだ。
保護室のドアは鍵がかかっている。
この何も無い、鉄製の真っ白な部屋で独り。
シチュエーション的には面白いかもしれない。そうだ、まるで映画のようではないか。
今の状況を楽しもう。
しばらくベッドの上で三角座りをして、じっとしてみた。
30分後、限界が来た。いくらなんでも、楽しめない。想像力の限界ってやつがある。
1時間後、体が疼いてきた。クスリが欲しい。クスリが。特にリタリンと覚醒剤とコカインが。
狭い部屋の中を時計回りに動き回る。なんだ、ここは?
何故、何も無い?時計さえない。一体なんのために?
どのぐらい時間が経ったろうか。
嫌な汗が全身から吹き出してきた。しかし暴れるわけにはいかない。暴れるとまた拘束具を付けられそうだ。
その時、厳重であろう鍵の開く音ともにドアが開いた。助かった。出れるか?
男の看護師が食事を持って入ってきた。
「夕御飯ですよ」
後ろには3人ほどいて僕の様子を伺っている。脱走しないためだろうか。
僕は看護師に話かけた。
「いつになったらここから出れるんですか?」
「僕たちは全然分からないね。主治医の先生に聞いてみて」
と看護師は食事を置く。
「主治医の先生はいつ来てくれるんですか?」
と間髪入れずに僕。
看護師はうーんと唸りながら少し考えてから言った。
「今が金曜の夜ということは、土曜と日曜は検診が無いので月曜日……は出張で、火曜に帰ってきて、3日後ぐらいだね」
ということは最低3日ここにいろと?
「ということは最低3日ここにいろと?」
思ったことがそのまま口に出た。看護師は申し訳なさそうに答える。
「残念ながら、そういうことになるね」
血の気がサァーっと引いていった。冷たく重いドアは、ゆっくりと閉まっていく。
「ちょっと待っ」
と言い終わる前にドアは閉まり、そして鍵をかける音が響いた。ああ、無常。
この何も無い部屋で、3日。辛い。寝よう。3日間寝てしまえ。するりと布団に潜り込む。
寝れない。夕御飯ということは今は5時か6時ぐらいか?
ラリってる時以外で何もしない時なんて今まで無かった気がする。
モノに溢れた豊かなこの日本、僕の人生を振り返ってみると、常に何かをしている。
たまにぼけっとすることはあるが、そんなに長いことぼけっとしていない。
暇な時でも雑誌や漫画を読むか、テレビを観ながらぼけっとするか、スマートフォンをイジるか、必ず何かをしているものだった。
誰かがこう言っていた。
「人生ってのは暇を潰すために在るんだよ」
確かにそうだと思う。みんな何かをして暇を潰している。
何故暇を潰すのか。それは、暇、という何もしない時間が在ると、ほら、今僕の隣に現れた虚無が大口を開けて待っているかだら。
僕の心を食いつぶし、空っぽにしようとする虚無。
クスリが欲しい。クスリが。体が疼く。足のつま先、手の指先がむず痒くなってきた。
じっとしていられない。ベッドから出て、4畳半の真っ白な部屋をウロウロする。
冷たいタイルの床を歩く度にぺたぺたと音がする。
隣の保護室だろうか。声が聴こえてきた。歌っているようだ。
「Hello,hello,hello how low,Hello,hello,hello,Chou low」
NIRVANAのSMELLS LIKE TEEN SPIRITを歌っているようだ。
僕は思わず、言った。
「あ、NIRVANAだ」
声の主は感嘆したようにおぉっと呟いて嬉しそうに言った。若い男の声だ。
「いいセンスしてるねぇ。分かった?君、昨日からいるよね。昨日はなんか奇声発してただけみたいだったけど、意識戻ったんだねぇ。俺慶太っていうんだ。よろしくね。」
若い男の声はずいぶんと呂律がまわっていなかった。まるで重度の酔っぱらいのようだ。
「俺、精神病院入院とか始めてなんやけど、保護室ってしんどいなぁ。いつから入院してはるんですか?」
と僕
声の主はハハッと短く笑って言った。
「2年ぐらいかな」
僕はえっ?と言い、そのまま驚いて言葉が詰まった。
「俺はシンナーとシャブ中毒でさー、脳みそ萎縮しちゃってたまに発狂するんだよね。今発作出てないから大丈夫だけど。最近発狂しちゃってね。1ヶ月ぶりに保護室入れられたよ。呂律回ってないでしょ?上手いこと喋れないんだ」
慶太は呂律のまわらない舌で続けて言う。
「君はなんで入院したの?」
僕は少し間を置いてから答えた。
「俺は薬物でなんか良く分からんなって暴れて措置入院になった」
「俺のようになる前にやめとくんだね~。おやすみ」
と慶太。
もう寝れるのか。もう少し話をしたいところだったけど。
何時か分からないというのがこんなにも苦痛だなんて知らなかった。そのために時計が無いのか?
布団に潜り目をギュッとつむり意識が無くなるのを願い、無心になってみた。
疲れていたのだろう。しばらくすると眠っていた。
鉄製ドアが開く重い音で目が覚めた。
入ってきた看護師が言う。
「洗面しようか。取り敢えず言っておくけど逃げようとしたりしたら余計ここに入ってもらうことになりますからね」
一時の自由を得られた気がした。気がしただけだ。廊下の洗面所に出ることが出来ただけ。
廊下の奥にドアがあり、そこも鍵がかかっているようだ。おそらくあそこに出れば大広間。そしてその大広間に出る入り口のドアにも鍵がかかっているのだろう。
シャバに出るまでに、まだまだ先は長そうだ。
隣の保護室のドアも開いた。シンナー中毒の慶太だろう。
のそっと出てきた彼を見て僕はぎょっとした。
彼は恐ろしいほど痩せていた。まるで幽鬼のようだ。
その顔は頭蓋骨に皮膚をペタッと貼り付けただけのようだった。
明日にでも死にそうな勢いである。
「やぁ。驚いた?ちょっと痩せちゃって」
と枯れ枝のような腕を上げる慶太。僕はなんだか、嫌悪感で心がずっしりと重くなった。
僕の耳元に手を当ててヒソヒソ声で続けて言った。
「最近飯の中に、毒物入れられてるんだ。だから食べた後に全部吐いてる。気をつけて」
真剣にそう言っている慶太が恐ろしかった。
僕はその時初めて思った。
クスリ、止めよう。
10分ほど洗面をしてから、また保護室に入れられる。しばらくすると朝食が来た。
食べ終わってしばらくすると看護師が食べ終わった皿を持っていく。
隣の房から声が聴こえる。「吐くなよ。次吐いたら拘束して点滴だからな」
僕は慶太に声を掛けた。
「ちゃんと食べな、死ぬよ」
「どっちにしろ死ぬ。死ぬか殺されるか」
と慶太は反論する。
嗚呼、こいつ駄目みたいだ。
僕は僕で耳鳴りが酷い。そろそろ我慢の限界だ。ここまでシラフなのはどれぐらいぶりだろうか。
布団にうずくまり、暴れたい衝動をこらえる。
”あるがままに”

また聴こえてきた。続けて別の声が聴こえる。

「華依、お前ええかげんにしとけよコラ」

続けてまた別の声。

「坂本、迷惑かけるんならもう学校くんなよ。必要無いんだよお前」
中学の時の担任の先生の声だ。

「必要、無いんだよ」

そしてまた別の女性の声
「頭おかしいんじゃないの?」
大雅先輩、中学の先生、女性の声、他色々な声が一斉に僕を煽りだす。
僕は壁に頭を打ち付け、呻きながら必死で耐える。
尋常じゃないほどの汗が。
なんでも月、水、金に風呂に入れるらしい。
ということは明後日までこの汗まみれの服か。
ネトネトとした汗の体感とその臭いが僕のバッド・トリップを助長させる。
向精神薬を一日三回、食事の時に処方されているが、それは幻覚、幻聴を抑える薬だと聞いた。だが今のところ全く抑えられていない。
歯軋りをしながら、寝汗にまみれながら罵声に耐えていた。
どのぐらいかして、びっしょりとしたベタベタ体にまとわり付く服を脱ごうと、布団から出たその瞬間だ。ドアがぎぃっと開いたではないか。
そのドアからひょいと顔を出したのはなんとシュルトの竜也だった。
竜也はヘラヘラと笑いながら言う。
「かいちゃん、だからほどほどにしいやてゆうたやん」
「ディオールのスーツ持ってきたで。これ着な始まらんやろ。後ハンバーガーとペプシ・コーラも買ってきたでぇ。病院食、ごっつ不味いやろ」
竜也は右手に持った大きな袋を僕に見せるように上げる。
「サンキューたっちゃん。やっぱわかってるなたっちゃんは」
僕は顔がほころび、声が弾んだ。
袋を受け取ろうと、手を差し伸べたところで、自分が布団を覆い被さってうずくまっている状態に戻っていた。
はっとして、布団から出たが、竜也はいなかった。
それはあまりにもリアル過ぎる幻覚だった。現実と区別することが出来ないほどの。
僕は部屋の隅っこに移動し、三角座りをし、顔を埋めた。
ふと顔をあげると目の前に、胡座をかいて頬杖をついた愛美がいた。
その目は確かに蔑んでいた。僕は泣きそうな顔をして、愛美に言った。
「愛美、違うって。待って」
愛美に手を差し伸べようとすると、自分が布団を覆い被さってうずくまっている状態に戻った。
この布団を覆いかぶさってうずくまっているこの状態はリアルなのだろうか?何がなんだか分からなくなってきた。
隣の房から慶太がNIRVANAを口ずさみながらたまに、翔太、大丈夫かい?と気遣ってくれた。鉄製のドアが開く重い音で目が覚めた。
看護師が食事を運んできた。
「坂本さん、大丈夫ですか?」
布団を覆いかぶさりうずくまる僕に声をかける。僕は力を振り絞って答える。
「大丈夫です」
平気なフリをしないと、保護室の期間が長引く。
「もう、俺元気っすよ。看護師さん」
と僕はおそらく泣き顔であろう顔を無理矢理笑い顔に造り、無茶苦茶な顔で言う。
看護師さんは苦笑して言う。
「そうは見えないけど」
こうして残り2日を幻覚、幻聴と戦いながらなんとか乗り越えた。
ようやく辿り着いた3日目。主治医とのご対面だ。ここで勝利して、ここから抜け出さないと。
冷たい床のタイルをぺたぺたと音を立てながら、左へ、右へ行ったりきたりする。
今か今かと待ち受ける僕。
しばらくすると廊下のドアが開く音が聴こえた。足音はこちらに迫っている。
まだ食事の時間ではない。ということは。
ドアの鍵が外れる音、そしてドアが開いた。
丸メガネの髭を蓄えた太った主治医だ。ボールペンで頭をポリポリと掻きながら言った。
「主治医の井山です。坂本翔太さんですね。どうですか?体調のほうは」
「もうめっちゃ元気です」
と僕は身を乗り出す。
井山先生はふんふんと頷く。
「誰もいないのに誰かの声が聴こえたり、何か見えないものが見えたり、いるはずの無い人がいたり消えたりする?」
「ありません。全然ありません。正常です」
と即答する僕。
井山先生はう~んとクビを傾げる。
「嘘、ついてない?」
ヤバイ。勘付かれてるのか。さすが精神科の医者。冷静に対処しよう。
「いや、ほんまですよ。嘘のように元気になりましたよ」
と何食わぬ、涼しい顔をして晴れやかな微笑を浮かべて言う。
井山先生はふんふん、う~んと唸りながら何かをカルテに書き込んでいる。
「じゃあ、後3日ほど、様子を観てみましょうね。3日後にまた診察しましょう」
僕はそれを聞き、3秒固まった。
そして次の瞬間、主治医の井山の胸ぐらを掴もうと襲いかかった瞬間に3人の看護師が慌てて僕を取り押さえた。
僕は倒されて3人の看護師に頭と手と足を押さえつけられながら怒り狂った。
「お前ふざけんなコラ!今すぐ出せや。正常やゆうてるやろうが。ヤブ医者。ぶっ殺すぞ!あ?」
こういう状況を井山は慣れているようだ。突っかかってきた時は驚いていたが、すぐに冷静さを取り戻し、井山は「まだ、駄目だね」とボソッと言って、先に部屋から出て行った。
僕はそのまま拘束具を付けられる。

やってしまった。おしまいだ。
手足に拘束具を付けられたままの生活を余儀なくされた。
僕はもう抵抗すまいと心にかたく誓った。
おむつをはめられ、涎掛けを付けられる。たまに看護師が水を運んで飲ませる。
食事も食べさせられる。若い娘なら良いのだがこの病棟には女の看護師がいない。
ひたすら天井を見つめる時間。これは想像を絶するほどの苦痛だ。
虚無が僕の心を支配する。虚無、なのに重い。重いのは絶望が僕の心に乗っかかっているのだ。
虚無と絶望が僕の心を支配しているのか。それとも、虚無がまず僕の心を支配し、そして僕の心をガツガツと食べていく。その後虚無は僕の食べた心を全部その場で吐き出す。その吐き出したのが絶望だろうか。どうでもいい。
取り敢えず、クスリが欲しい。僕はクスリを打っている自分を想像した。
しかしそれもまた虚しかった。
隣の房の慶太がたまに話しかけてくれる。僕は鬱状態だったので、話が出来ない時は出来ないが、話が出来る時は会話をした。お互いロックが好きだったので洋楽のロックの話や邦楽の80年代のロックの黄金時代の話なんてして盛り上がった。
――3日後の絶望後、ドアが、開く。井山先生が入ってくる。
「反省した?」
井山先生はそう聞いてきた。
僕は涙ぐみながら答える。
「めっちゃしてます。すいませんでした」
井山先生はボールペンで頭を搔きながら言う。
「じゃあ、拘束具外しましょうね。しばらく様子見てから、大広間に移りましょう」

大人しく従うしかなかった。
もう、幻覚は見なくなっていた。ただ、目を瞑るとたまに万華鏡が見えて困る。
そして耳鳴りとたまにおこる体の震えが酷い。

この時期から夕方に1時間、大広間に出ることを許可された。
看護師に連れられて保護室のドアから出て、そして保護室の廊下から大広間へと繋がるドアを初めてくぐった時、僕は開放感に包まれた。
大広間は大きかった。真ん中に大きいテレビがあり、喫煙ルームがある。
大きいテーブルが3つ連なっている。
奥のほうに女性のベッドルームに繋がる部屋。そこに繋がる部屋にはドアがあり、鍵を掛けれるようになっている。
男性のベッドルームはその真逆の奥の部屋にあるようだ。
入院する前の所持金からタバコを買ってもらい、喫煙ルームでタバコを吸った。
何日ぶりのタバコだろうか。分からないが、美味しかった。
その時喫煙ルームに男が独りいた。
中年の男だ。名前を増田と言う。
髪が長く、ボサボサだ。吹き出物が酷く、顔に覇気が無い。
「あー、保護室に入ってる人?あー、きついよね。保護室。あー、こういうとこ初めて?」
と増田さん。
増田さんは話始める前に必ず「あー」っと小さく呻いてから話始める。
他にも何人か入ってき、話をした。
何人ぐらいいるのかと聞くと、ここには今15人ぐらいの入院患者がいるらしい。
思ったよりもみんなまともそうだった。久しぶりの会話は楽しかった。
会話するだけでこれだけ楽しいなんて。思いもよらなかった。
しかしそんな一時もすぐに終わり、また保護室に戻される。
本気で帰りたくなかったが、そうもいかず、ドナドナの子牛のように哀しい目をして僕は連れていかれた。みんなは「頑張ってね」と応援をしてくれた。
みんな同じように通ってきた道なんだろう。
なんて優しい人達なんだろうか。感極まって泣きそうになった。
そういった生活を1週間ぐらい繰り返しているうちに診察の時に井山先生が言った。
「では、もう大丈夫そうなので大広間に移りましょうか」
嗚呼っと安堵の声が漏れる。
僕は頭を下げて心からお礼した。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
大倉精神病院、閉鎖病棟、池袋駅から徒歩10分のこの閉鎖病棟は男子女子共同の病棟だ。ここには今、保護室にいる人も含めて15人ほどの患者が収容されている。
その中でも、大広間に頻繁に出てきて喫煙ルームで溜まるメンバーと仲良くなっていった。
何処へいっても仲良しグループが出来るものである。
ここでは男女合わせて9人の患者と比較的仲良くなった。
1人目。幸雄。20歳。躁鬱病。大学の女友達にストーカー行為を働く。措置入院。
2人目。吉田さん。37歳。生活保護を受けているチンピラ。薬物依存。
3人目。新井さん。40~50歳。ほとんど何を喋っているのか分からないから入院理由も不明。
4人目。タケル。27歳。薬物依存。何かの人格障害。
5人目。増田さん。45歳。アルコール中毒。
6人目。みーやん。34歳。統合失調症。入退院を繰り返し、5回目の入院。年下キラー
7人目。ジュンコさん。42歳。鬱病。自殺未遂をし、措置入院。
8人目。結子ちゃん。28歳。境界線人格障害。リストカット、アームカットの傷が痛々しい。
9人目。由紀恵さん。32歳。統合失調症。同じ病院で産まれた同級生が運命の人だという妄想が取れなくて入院。3回目。
10人目。慶太。29歳。薬物依存。かれこれ1ヶ月ほど保護室に入っている。未だ出てこず。
以上である。
大広間に移ってから3日になるが、既にこの9人とはいつもくだらない、どうしようもない会話に華を咲かすようになった。
他の患者はほとんど大広間に来なく、自分のベッドルームに引きこもっているか、もしくは保護室で会話をしたことがない。

「翔太さん、僕ジャガイモ嫌いなんですよ。食べてください」
幸雄がジャガイモだけを上手に皿の隅っこに分けて僕にどうぞと手を差し伸べる。
「そんなんいらんわ。肉ジャガでジャガイモ食べへんとか、ほとんど食べるもんないやろ」
とイラつく僕。
吉田さんが僕が食べているところをお構いなく割って入り、幸雄の皿に箸を持っていく。
「俺がもらうよ」
吉田さんが美味そうにジャガイモを頬張る。
「何処へ行ってもなんでも食べられないと、生きていけんぞ。良くタイにクスリと女買いに行ったけどな、タイの料理は癖が強い。やっぱ日本食が一番だよ」
そこから昼食時間は吉田さんのタイで買った女の話で独擅場となった。
「翔太君は、もうフラッシュバックとか大丈夫なの?」
そう言って、ジュンコさんが僕のタバコに火を付けてくれた。
長い黒髪で綺麗な顔をした人だ。
ボソボソと呟くように喋る。低血圧そうな雰囲気を出している。しかしお腹がやたらとポコっと出ている。どうして痩せてるのにお腹だけ妊婦のように出ているのだろうと気になる。
「なんか、酷い耳鳴りと体の震えと、目を閉じた時に万華鏡みたいな変な幻覚が出て困ってますよ。治るんですかねぇこれ」
と僕は不安気な声で言う。
ジュンコさんはクスッと笑って言う。
「あたしはお医者さんじゃないから分からないけどさ、まぁ治るんじゃない?もうオクスリなんて辞めたほうがいいわね」
「いやぁ辞められますかねぇ」
と頭をボリボリ掻く僕。
タバコの煙で輪っかを作って遊んでいるタケルが会話に割って入ってきた。
「ハッパはやめなくていいっしょ。ハッパは平和の象徴だよ」
それに対してみーやんが反論する。
「駄目だよハッパも。大麻依存症とかなるよ。あたしも若い頃はシャブとかハッパばっかりやってたけど、それのせいでこの病気なったんだからね」
僕は長椅子に深くもたれて目を細めて言った。
「あー、でも、ハッパやりたいなぁ。ハーブも。LもSも」
といってハッパを吸ってラリっている仕草をするとジュンコさんにコラっと怒られた。
幸雄が僕の近くに来て真顔で言う。
「翔太さん、クスリってどんな感じなんですか?興味あるんすけど」
それに対して吉田さんは「俺が、今度」と言いかけたところでみーやんが全てを制するように割って入って幸雄に言った。
「幸雄君、クスリなんか絶対に駄目だからね。退院してからはこの悪いおじさん達とも
絶対に付き合ったら駄目だよ」
みーやんは昔ヤク中で風俗嬢だったがその生活にこりて足を洗って今は実家で家事手伝いをしている。クスリのせいで統合失調になり体もズタボロらしく、かなりクスリに関しては厳しい。
今日は、買い物の品が届く日だった。週に2回、菓子パン、タバコ、日用品等を買える日がある。チェックリストにしるしを付け名前を書くと、翌日に看護師さんが持ってきてくれる。
僕は菓子パンを3つとタバコ3箱、他色々な日用品を買った。
僕は金には困らない。シュルトの黒い金がまだたんまりとある。
しかし金に困ってるやつもいる。そういうやつは乞食になるしかない。
タケルは金が無いからいつも誰かにセビっていた。
みーやんがタケルにタバコと菓子パンをあげているのを目撃した。
あの二人は出来ている。距離感や口調ですぐに分かった。
タケルは年下キラーみーやんを利用してヒモにでもなっているのだろうか。
ふと隣を見ると結子ちゃんが自分の買ったものをチェックしていた。
袋から取り出したタバコはブラックストーンだった。
吸うとバニラ味がする、癖の強いタバコでちょっと気取ったロック好きな奴が良く吸っている。僕も気取ったパンク野郎の服装をしているがブラックストーンは少し気取り過ぎてダサいと思っているので吸わない。
結子ちゃんは気取ったゴシックパンクだ。洋楽のゴシックパンクバンドのMarilyn Mansonが大好きらしい。実は僕も好きで、部屋の中にMarilyn Mansonのグロテスクなポスターを飾っていたほどだ。結子ちゃんは病院の中でもノースリーブの大きくドクロがプリントされた服を着ている。髪はロングの金髪で緑のカラコンをしている。
普通の奴は避けるが、僕はタイプの部類だった。
背は160センチほどで痩せ型だが、胸とヒップはある。
顔は顎がシュッとしていて、目は切れ長で黒のアイシャドーが良く似合う。
鼻は低く、唇は薄い。クールな美人だ。愛美とはタイプが違う美人。
僕は結子ちゃんに話かけた。
「結子ちゃん、ブラックストーンなんや。良いよねそのタバコ」
結子ちゃんは横目で僕を見、少し笑みを浮かべてありがとうとボソッといった。
その仕草や口調がそそる。
その日はブラックストーンをきっかけに喫煙ルームで結子ちゃんに話掛け続けた。
ジュンコさんのこっちを見る視線が少し気になった。
夕方に何人かでテレビを観ていると由紀恵さんが足をバタバタとしながら大きい声で言った。
「あたしも早く外に出たいなぁ!」
後ろのソファーで寝っ転がっていたタケルが呟くように言う。
「そりゃみんなそうでしょ」
みーやんが明るい声で言う。
「退院したらみんなで会って遊びたいね。きっと楽しいよ」
結子ちゃんが鼻で笑って言った。
「頭おかしい連中で遊んだら警察捕まらないかな」
それに対して吉田さんが言った。
「俺達がおかしいんじゃねぇよ。ここの看護師や医者の奴らがおかしいんだ」
と言い、それに対してそうだと言うやつや、それは違うだろうという奴等で反論したりし、夜は更けていった。
こういった感じで精神病院では楽しくやってます。お母さん、お父さん。
などと手紙を書きたくなる。そういえば愛美はどうしてるだろう。
僕の今、唯一連絡を取れるであろう知り合いだ。愛美は俺のこと心配してくれているだろうか。などと考えながら独りでタバコを吸いぼけっとしていると結子ちゃんが隣に座って来た。
距離が近くてドキドキとした。
「今好きな子のこと考えていたでしょ?」
違うドキッが来た。結子ちゃんはある種のことを察する才能があるようだ。
昔付き合っていた女が初対面の男を観ただけで、その男の財布の中身をほぼ完璧に言い当てるという第六感を持った女がいた。当たる確率は90%近かった。
特に女性はそういった第六感を持っている人が多い気がする。
「あ、なんで結子ちゃんのこと考えてたって分かったん?」
と戯ける僕。
結子ちゃんはバーカと言い僕を小突いた。
ジュンコさんが遠くのほうから見ていた。僕と目が合うとすぐに目を逸らした。
閉鎖病棟での青春も楽しんでいます。お母さんお父さん。
精神病院なんてまともに喋れる奴なんてほとんどいないだろうと思っていたが。
実際のところほとんどがみんなまともに喋れる。外の連中と大して変わらない。
しかしそれはおそらくクスリで抑えているだとか、発作が出たりだとか長く付き合っているとおかしいところが出てくるんだろう。まぁ、長く付き合っているとおかしいことに気が付くのは外の連中と変わらないのだが。
僕はてっきり新井さんみたいな奴ばかりがいるんだろうと思っていた。
ちなみに新井さんも良く一緒にタバコを吸う仲間だが、新井さんは喋れない。
喋るが、何を言っているのかは何も分からない。しかし会話の内容は理解しているようだ。YESかNOかだけは分かるので会話に参加は出来る。
マスコットキャラ的な役割を果たしている。
などと平凡に一週間ほどの時が流れた。その間に主治医との診察もあった。
まだ僕は退院出来ないらしい。早く出してくれ。
いつ出られるのかとはっきり言ってくれないところが怖い。
もしかしたら5年後?それは無いだろうけどそう思ってしまう。
事実慶太は2年居るのだから。
朝食を食べ、ソファーに横になりテレビを観ていた。
しばらくすると保護室の方で何やら騒ぎがあったらしく、看護師が何人かあたふたと走り、緊急出動していた。
保護室へと繋がるドアを看護師が開くと、その中での騒ぎが一気に聞こえてきた。
半狂乱になり、わー、ぎゃー、と誰かが騒いでいる。
壁に何かを打ち付けるようなゴーンゴーンという音が鳴り響く。
看護師の「やめなさい!」という声が聴こえる。「出血を抑……」まで聴こえたところでドアが閉まった。
頑丈なドアが閉まってもその騒ぎの音は大広間から洩れて聞こえるほどだった。
慶太が発狂しているということだけ分かった。
その慶太の叫び声や看護師の慌てっぷりから、恐ろしくなり、みんなのテンションは僕を含めて一気に下がった。陰鬱な雰囲気が漂う。
由紀恵さんが泣きそうになりながら言う。
「慶太君大丈夫かな?」
増田さんはそれに大して冷たく言った。
「あー、あいつはもう駄目だろ。あー、駄目だね」
「そんな言い方しなくてもいいじゃない」
と怒りに震えた声のみーやん。
「あー、ホントのこと言ってるんだよ」
と増田さん。
「増田さん、やめなさい」
とジュンコさんが一喝して止める。
しばらくして、看護師が何やら大層な機械などを保護室に持ち運んでいた。
電気ショックがどうとか聞こえた。
みんな気が気ではなかった。全員の顔に緊張が走っていた。
慶太はどうなっているんだろう?そしてどうなってしまうのだろう?
どうしてそうなってしまったのだろう?何がいけなかったのだろう?
間違いは何処からだ?
慶太とは保護室でお世話になった。拘束具を付けられている時以外は洗面の時に毎朝顔を合わせていた。慶太は枯れ木のような手を上げ、骸骨のような顔に笑みを浮かべ、「おはよう」と挨拶をしてくれる。そんな慶太のことを思い出していた。
しばらくすると、騒ぎが止んだ。どうなった?僕達は居ても立ってもいられなかった。
慶太のことはみんな知っていた。僕は保護室で、他のみんなは大広間で同じ仲良しグループだったのだ。
「看護師さん、慶太君大丈夫なの?」
と由紀恵さんが思わず保護室に繋がるドアの前にいた看護師さんに少し大きめの悲痛な声。
「大丈夫だよ。気にしないでいいからね」
と女の看護師さんは冷静を装って笑顔。
みんなはそれが嘘だと直ぐに察した。
しばらくの沈黙の後、診察室にある白いカーテンの仕切りで真ん中にある何かを見えないように周りで囲み、4~5人の看護師が『それ』を運んでいた。
真ん中にある『それ』を必死で隠しているようだった。
いくら頭が悪くても分かる。『それ』は間違いなく慶太の遺体だろう。
僕達は呆然とただ見ているしかなかった。
あの囲いの中には昨日までは生きていた、知り合いの死体があるのだ。
慶太は一体何処で何を間違ったのだろう。
どうして精神病院に入院したのか。どうして薬物に手を出したのか。
何処でどう間違って、こんな惨めで悲惨な死に方を余儀なくされたのか。
僕には分からない。ただ、一つ言えるのはこんな死に方は間違っているということだ。
こんなところに来るのは間違っているということだ。
直接ではないが死体を見たのは初めてだった。
さっきまで生きてきた人間が、今死んでいるのをこの目で見た時、死に対しての生々しい恐ろしさが僕の心を支配した。
生きてる限り希望があるが、死んでしまえば一片の希望も無い。
生きている限り救いがある。その救いが無いのだ。ただ、絶望。
そこにあるのは『お終い』だという。それだけ。
「俺のようになる前」と慶太は言った。
その「俺のようになる」のは人それぞれだ。
一回やっただけで頭がおかしくなてあっちの世界に行き戻ってこれなくなったやつもいる。死んだやつもいる。
僕は後どれぐらいやれば「俺のように」なってしまうのか分からない。
もしかしたら次やれば「慶太のように」なるかもしれない。
クスリはもうやめよう、懲り懲りだ。心からそう思った。心から。

「嘘だろ。慶太死んじまったのかよ」
と力の抜けた弱々しい声のタケル。
それと同時に由紀恵さんが子供のように声をあげてわんわんと泣じゃくる。
それを女性陣は慰めつつもみんなですすり泣いていた。
僕を含め、みんなが泣いていた。
ショッキングなことがあり、それからまた3日経った。
3日も経てばもういつもと変わらない日常へと早変わりしている。
いや、翌日には既にみんな落ち着きを取り戻していた。
人の感情は変わるものだ。さっきまで泣いていたと思えば10分後には笑っている。
感情というのは時に薄情のように思える。
僕が死んで三日後にみんな笑ったりしていれば、おそらく僕は悲しいだろう。
一ヶ月ぐらいは笑ってほしくない。
そういう僕も今は既にケロっとしているわけだが。
喫煙ルームでタバコを吸いながらぼけぇっとしていると、ジュンコさんが静かに横に座ってきた。距離が近くドキドキする。
「今日も、暇ね」
と微笑みながらジュンコさん。
「閉じ込められてたらなんか頭おかしくなってきますね。外の空気吸いたいなぁ」
と僕。
ジュンコさんはタバコの火を付けて、言った。
「あたしは3日後に出られるの」
僕は少し驚いて言った。
「え、いいなぁ。おめでとうございます。でもちょっと寂しいなぁ」
ジュンコさんはタバコをくわえつつ、髪を掻きあげた。その一連の流れがセクシーだ。
「電話番号、教えるから今度うち遊びに来る?昼間は旦那もいないしね」
と言って僕の太ももにトンっと静かに一瞬だけ触れた。
僕の体温は一気に急上昇し、胸が大きく、トクンと高鳴った。
これは間違いなく、人妻のお誘いだった。それ以外には考えられない。
これを断る馬鹿はいるのか。と思った。
「何の話?楽しそうね。あたしも混ぜてもらってもいいかな?」
と、妙に高いトーンで不自然に明るい声で結子ちゃんが言い終わらないうちに、ジュンコさんの横にドカッと座ってきた。僕はまた胸が大きく、ドキリッと高鳴った。
これは嫌悪感のある胸の高鳴りだ。
ジュンコさんは足を組み替えて、顔を横に向けて、「別になんでも」と静かに言った。
しかしそこには憎しみとイラつきに満ちた感情が入っていた。
結子ちゃんは全てを見透かしているかのような顔で僕の顔を覗き見、言う。
「ねぇ、何の話してたの?」
「あ、え?い、いや、他愛もないことだよ」
僕は不自然な笑顔を見せる。
次に結子ちゃんはジュンコさんの方に顔を向けて言った。
「ジュンコさん、退院だってね。おめでとう。もう、会うことはないだろうけど、元気でいてくださいね。旦那さんと末永くお幸せに」
それに対してジュンコさんは顔を横に向けたまま「ありがと」とそっけなく答えた。
その日の夜、タケルの姿が見当たらなかったが、大して気にとめなかった。
たぶんもう部屋で寝ているんだろう。
いつものように、夜9時になると消灯の準備が始まる。
まず喫煙ルームのライターが回収される。ちなみにこのライターはチェーンに繋がれ鍵がかかっていて持ち運びが出来ないようになっている。
このライターが回収され、そして朝7時に再びライターを喫煙ルームにつけてくれるまでタバコが吸えない状況となる。
そして女子の部屋に鍵を掛けるために看護師が女性たちに部屋に戻るようにと指示する。
男はそのまま大広間にいてもいいがテレビも観れないし、タバコも吸えないのでベッドルームに戻らざるを得ない。
「あれ?タケルいねぇぞ」
吉田さんがベッドに寝っ転がりながら、ふと思いついたように言った。
「なんや、大広間におらんかったからもう部屋に戻ってると思ったんですけどね」
と僕。
「一日外泊か?聞いてないけどなぁ。まぁいいや」
と気にもとめない吉田さん。
吉田さんはその後幸雄に過去のオレオレ詐欺でいくら稼いだとか、ドラッグの話等を自慢気に話していた。幸雄はさぞ感心しているかのように相槌を打っていた。
僕はMP3でイヤホンを耳に突っ込んでMarilyn Mansonを聴いた。
精神病院へ入院してかれこれ一ヶ月が経つ。
そろそろ疲れてきた。拘束されるというのは辛いものだ。
しかし怠けるということに関してはこれほどまでに良い環境は無い。
タダ飯を食らい、タバコを吸ってテレビも観て一日中とことん怠惰という生ぬるい湯に浸かっているのだ。
脳みそと体が錆びてきそうだ。実際錆びているのじゃないだろうか。
施設暮らしに慣れる奴の気持ちが分かる。
人間は楽なほうへ楽なほうへと流れていくらしい。
駄目な奴の行き着く先はここか刑務所、外の世界とを行ったり来たりするのだろう。
僕は今、間違いなくそのレールに乗っている。
それでも良いと思う僕とこんなとこで終わる訳にはいかないと思う僕がいる。
その2つの僕は交互に現れる。

目が覚めた。時計を見ると6時だった。
タバコまで後1時間あるが、もう眠れそうもなかったので、大広間に行ってみることにした。
大広間に行くと、何やら女子部屋が騒がしい。
女子部屋の鍵はいつも7時に開けられるのだが、この時既に開いていた。
なんだろう?と思い、女子部屋のほうまで行ってみた。
「違う!みーやんが誘ってきたんだよ!俺は最初断ったんだ!」
タケルの声だ。何故禁断の女子部屋にいるのか。
「最初にあたしに言い寄ってきたのはあんたでしょ!」
みーやんの声だった。
「でも俺は病院の中じゃさすがにマズイって断っただろう!」
この一連の会話で全てが分かった。
タケルは、昨日夜、みんなが気付かないうちにみーやんと計画を立て女子部屋のみーやんのベッドの中に隠れていたのだ。
その夜、情事に耽けた。女子の誰かがそれに気付き、看護師に報告したのだ。
そして今、みーやんとタケルは罪の擦り付け合いをしている。
保護室行きを回避するためには恋人に罪を擦り付けるのなんて容易いことだ。
結局二人揃って保護室へ入ることになった。
吉田さんは馬鹿じゃねぇのと笑い転げていた。増田さんも一緒になってえへらえへらと笑っていた。
翌日、ジュンコさんの退院日だった。
ジュンコさんは荷物を全部まとめ、廊下に出ていた。
廊下に公衆電話があり、その隣にドアがある。
そのドアには鍵がかかっていて、そこから看護師の事務所に入り、そして、事務所の奥のドアが外の世界へと繋がる希望の道だ。
みんなが、廊下に集まり、ジュンコさんに握手等をして別れを惜しむ。
「タケルとみーやんにもよろしくね」とジュンコさんは苦笑しながら言った。
「あたしも出たらすぐジュンコさんの家に遊びに行くからね!頑張ってね!」と由紀恵さん。
「ジュンコさんありがとうございました。また色々相談乗ってください。頑張ってください」と幸雄。
僕は「ジュンコさんバイバイ」と言った。
ジュンコさんは何かを言いたそうに僕の目を見つめた。
隣にいた結子ちゃんから不穏なオーラを感じた。
僕達はジュンコさんが見えなくなるまで手を降った。
「行っちゃったねー」
見えなくなると由紀恵さんがそう言った。
そこには寂しさと嬉しさが入り混じったような感情が入っていた。
みんなが感じていることがある。それはここに居ることは間違いであって、外の世界で生きていかないといけないということだ。
僕達は外の世界から脱落して、今ここに居るのだ。
でも脱落してはいけない。踏ん張らないと。踏ん張って外の世界で生きていかないといけない。何故ならここに居るのは間違いだから。
僕達が一生居るわけにはいかない場所だ。一時的な休息だ。
慶太のように手遅れになる前に、僕達は歯を食い縛って生きていかないといけない。
自分を駄目にする欲に打ち勝っていかないといけない。
結子ちゃんは僕に少し無邪気そうな笑みを浮かべて言った。
「みんな退院しちゃったとしてもあたしが居たら寂しくないでしょ?」
僕は笑顔で返す。
「結子ちゃんはどうなん?」
結子ちゃんは笑って言う。
「質問を質問で返すのはタブーだね」
喫煙ルームで結子ちゃんと二人きりになったのを見計らって僕は言った。
「実は結子ちゃんに言わないといけないことあるねん」
俺は少し深刻そうにそう話を降った。
結子ちゃんは少し真剣な顔になる。
「何?」
「俺、東京に来てすぐぐらいにクスリでパニックなってここに運ばれたやんか。俺、実は大阪のミナミでキャッチしててんけど、そこのキャッチの金300万金庫からかっぱらって、東京に逃げてきてん。だからミナミではお尋ね者ってわけ」
と僕。
結子ちゃんは目を大きく開いて少し驚いた後、尊敬の眼差しを込めて言った。
「凄い。やっぱイカれてるね、あんた」
僕は鼻が高かった。結子ちゃんならそう言ってくれると思った。
どうして僕達は悪いことを格好良いと思うのだろう。それは遠い昔から人間はそうなのだろうか。いつから?元から?
「だからさ、全部捨ててきたわけだから、誰1人として知り合いもおらんねん。でも俺やっぱ大阪が好きやから大阪帰ろうと思うねんけど、俺は1人でやっていける気がせえへん。俺はさみしがりやで弱いからな。結子ちゃん、俺と一緒に大阪で暮らせへん?」
と僕。
「馬鹿ね。あたしが無理って言う訳無いじゃない」
と結子ちゃんは同情した潤んだ目で僕を見つめ、僕の手を握った。
楽しみだ。同棲生活。1人暮らしのようなシラフの時の虚無とはオサラバ出来そうな気がする。
一瞬愛美の顔が浮かび、胸が少し締め付けられた。
結子ちゃんは僕の肩にもたれ掛かる。
僕はそっと優しく結子ちゃんの肩に手をまわす。
このままキスをして押し倒したいと思ったが、それは無理だ。
みーやんとタケルの二の舞いになる。
もしみーやんとタケルのようになったら僕は結子ちゃんに罪を擦り付けるようなことは絶対にしない。全部自分のせいだと言い、潔く保護室に入るだろう。
と考えたが、一瞬ホントか?と思った。いや、ホントだ。と僕はその疑念を打ち払った。
みーやんは幸雄にも言い寄っていたような女性だ。タケルはみーやんを金づるにしていたところもあるし、二人の愛はその程度なのだ。偽善だ。偽善の愛。
しかし僕達の愛は違う。もっと真っ直ぐで純粋なのだ。本物の愛だ。
しばらくピッタリと寄り添っていたが、結子ちゃんは部屋に用事があるらしくまた後でねと言い、女子部屋に消えていった。
先ほどの恋の余韻を楽しみながらボゥっとしていると、いきなり僕の背中に重みを感じた。
結子ちゃんのいたずらだなと思い後ろを振り返り、ぎょっとする。
新井さんが痙攣しながら倒れかかってきていたのだった。
僕は「うおっ!」と情けない声を出し、新井さんから離れた。
新井さんはそのまま地面に倒れこみ、激しい痙攣をしていた。
それにすぐに気付いたタケルが、叫んだ。
「看護師さん!新井さんが発作起こしたぞっ」
新井さんは痙攣をしたまま泡を吹いている。
すぐに看護師さんが駆けつけ、新井さんは3人の看護師に抱えられて、何処かへ連れて行かれた。
前にも同じようなことがあったらしくて大してみんなは動揺していない。
病院の中は色々なことがある。四六時中平和ってこともないみたいだ。

なにはともあれ、診察の日、
「もう、フラッシュバックも無いし、幻覚も無いですよ。問題無いです。元気です」
主治医の井山先生はボールペンで頭をポリポリと書きながらカルテを見つめる。僕のほうに目を合わそうとはしない。
「まぁ最近は大人しいみたいだし、みんなとも上手くやってるみたいだし問題なさそうですね」
フラッシュバックも幻覚も無いのは嘘だ。
夜中寝ている時にバッドトリップに入った時の強烈な悪夢を見て、わぁっと小さく叫んで起きることがある。その時はいつも汗でびっしょりになっている。
そして耳鳴りも酷いし、笑い声が聴こえると自分のことを笑っているんじゃないかとか、ヒソヒソ話が聴こえると自分のことを言われていると必ず思う。
問題無いなんて嘘だ。しかしここにはもう居たくない。
「では命令解除申請を出してみますかね」
やったと心の中で叫んだ。命令解除が申請されると晴れて自由の身となれる。
外に出る前に僕の心は既に外の自由を感じていた。
体より先に心が外に出た感じだ。
看護師に連れられて診察室を出て大広間に出るとまた騒ぎがあった。
吉田さんが胸ぐらを掴み、物凄い剣幕で増田さんを睨んでいた。
そしてそれを看護師が振りほどいていたところだった。
僕は溜息をついた。
「俺のタバコ3箱も盗みやがって!いつも盗んでいたのはお前だろ。ぶち殺すぞこのアル中が!」
どうやらタバコを盗んでいた犯人が見つかったようだ。吉田さんはたまにタバコを盗まれている、犯人は絶対ぶち殺すと言っていた記憶がある。
それにしても人の物を盗むなんて増田さんは相当非常識な人間のようだ。
いや、酒で頭が相当やられているから当然と言えば当然かもしれない。
夜にロック系の音楽の雑誌を読んでいると、幸雄が冷やかすように言ってきた。
「いいですねぇ、坂本さん。結子さんとラブラブで」
結子ちゃん(以降ユイちゃん)と付き合ってるのは周知の事実だ。
あそこまでベタベタしていれば言い逃れは出来ないし気付かない馬鹿はいないだろう。
「ええやろ?お前も早くいい彼女見つけや。ストーカーみたいなこともうしたらあかんで」
幸雄は溜息をついて答える。
「そうですね。いや、僕も今では反省してるんですよ。でもあの時は本当にテンションおかしくてなんか、凄い勘違いしてたんですよ。絶対僕に惚れてるに違いないみたいな。僕に手に入らないものはないみたいな。それでテンションが異常にずっと高くて、とても痛々しいみたいです。みんな僕と付き合うの大変みたいでしたよ。だから友達はほとんど居なくなりましたけどね」
「へぇ、それお前アッパー系のクスリでキマってる時みたいやなぁ。シラフでキマってるってすごいなぁ。脳内麻薬がバンバン出てるんとちゃう?」
と僕。
幸雄は真っ向否定するかのようにぶんぶんとクビを振る。
「そんないいもんじゃないですよ。その時は楽しいけど、急にテンションガタ落ちで全く動けなくなりますからね。ずっと寝たきりですよ」
僕は仰向けになり、頭に手を組んだ。
「なるほど、脳内麻薬を出すのが上手くコントロール出来なくなるんやなぁ」
麻薬麻薬と言ってると僕は麻薬が欲しくなってきた。
僕は、ハーブを吸いこみ、一気に吐き出す場面を想像した。
注射器を腕に刺すところを、鼻からコカインを吸い上げるところを想像した。
体が疼いた。僕は頭から布団に潜り、目をギュッと瞑った。

――僕は荷物をまとめていた。ボストンバックに無造作に荷物を詰めていく。
入院してから物が増えた。全部は詰められないので要らないものは誰かにやったりゴミ箱に捨てていく。
そして大広間に出て、廊下に出る。
みんなが廊下で待ち伏せしてくれている。
みーやんとタケルも一週間の保護室暮らしから出てきたばかりだ。
タケルが握手をして、言った。
「俺達、まだまだこれからだよ。もう、底辺を這いつくばるのは卒業しようぜ」
吉田さんが一言
「仕事困ったら俺に言えよ。カタギじゃないけど紹介するよ」
幸雄が笑顔で言う「頑張ってくださいね。僕もマトモになるので坂本さんもヤク中卒業してマトモになってください」
僕は笑いながらうるせぇと言って幸雄を小突く。
みーやんが満面の笑みでやっほーのポーズのように手を口に当てて言う。
「もう戻ってきちゃ駄目だよ」
由紀恵さんが遠くのほうでガッツポーツを作って見せる。
新井さんが手を振っている。
増田さんは親指を立ててウインクをしている。
最後にユイちゃんが僕の手をぎゅっと握って言った。
「あたしもすぐ出るから。電話する」
僕はユイちゃんの頭を撫でた。
僕はみんなに見送られながら、事務所へ入り、奥へと進んでいく。
唯一この閉鎖された空間から出ることが出来るドアだ。看護師さんが鍵を開ける。
カチャリという音が外と僕を再び繋ぐ音のように聴こえた。
看護師さんがドアを開ける。閉鎖病棟監禁から42日目だった。



――激しく咳き込みながら目が覚める。
乾燥して喉がカラカラだ。今すぐ水を飲まないと。水を。
布団を勢いよく剥がし、ベッドから這って出た。
よろめく足。頭がやけに重い。鈍痛がする。
頭の内側、頭蓋骨辺りから誰かがドアを乱暴に、一定のリズムで叩いてるような感覚。
覚束ない足で、やっとの思いで3メートル先の台所に辿り着き、水道の蛇口の栓を捻り、口を蛇口に擦り付け、無尽蔵に出る水をむしゃぶりつくようにゴクゴクと飲む。ゴボッという音とともに今したが飲んだ水を全て吐き出し、涙目でえずくように、咳。
目がチカチカし、目の奥が痛い。目を閉じると万華鏡が見える。
まだ、クスリが切れていないみたいだ。
心の中に潜んでいた憂鬱というダイナマイトが爆発した。空虚感がビッグバンのように広がっていく。重く、痛い。

「うるさいわねぇ。何してんのよ」
寝起きの苛立った声でユイちゃんが布団の中からそう言った。
余計に憂鬱感が増す。心が重い。
僕は頭をボリボリと搔き、欠伸をしながら言う。
「しゃーないやん。切れ際が一番しんどいねん。ちょっと量多すぎたし、切れ際のための睡眠薬もユイちゃんが全部飲んだからもう無いし」
ユイちゃんは布団を剥ぎ、身を乗り出して僕を睨んだ。
「何よ。あたしのせい?」
「わかった。わかった。ごめんごめん」
僕はめんどくさそうにその声を掻き消した。
そのままユイちゃんは布団に潜り直し、二度寝をした。
僕はアルミ袋から粉を机にばら撒き、ストローで鼻から吸いあげた。
ユイちゃんと同棲を始めて2ヶ月が経つ。
シュルトの黒い金も精神病院から出た時は240万残っていたが、今は残り40万となった。ほとんどがクラブとバーとクスリで消えた。
ユイちゃんとも既に険悪なムードが続いている。このままじゃジリ貧だ。
働かないといけない。またキャッチをしたいところだが、おそらくまだ僕のことはシュルトから忘れられていないだろう。シュルトは関西では名の知れたスカウト団体だ。ということはお尋ね者の僕は自ずと何処にも働けないことになる。
無料のバイト情報誌を持ってきたが20秒ほど目を通すと気分が悪くなりゴミ箱に捨てた。
取り敢えず、今は心の安らぎが欲しい。ユイちゃんと居ても鬱屈さが募るばかりだ。
彼女は、一緒にいると僕のなまけ具合いや、働かないこと、自己中心なことなどをネチネチと愚痴るように言ってくることがある。
あまりにも時間をかけて僕の気に食わないところを愚痴ってくるので何度かキレて部屋の物を投げたりして暴れたことがある。
誰も掃除しないのでその形跡は残ったままとなり、おかげで部屋は酷い有様だ。
どうしてこんなことになったのだろう。頭痛のする頭を叩きながら、僕は愛美のことが頭に浮かんだ。愛美に会いたい。
僕は彼女に何も言わずに外に出て、マンションの一階まで行き、一階の通路で愛美に電話を掛けた。コール音が鳴った時に緊張した。
コール音が続く。出ないか、と諦めかけた時にコール音が止み、ブツッと音が鳴った。
「もしもし?翔太?」
何ヶ月ぶりかの愛美の声だった。その声は驚きに満ちていた。
「愛美、久しぶり。元気やった?」
「シュルトのお金盗んで逃げたって聞いて、電話しても出ないし心配したんだよ」
愛美は泣き出しそうな声だった。
「ごめんな。俺も色々あってさ。でも愛美が心配してくれたってこと嬉しいな」
「当たり前でしょ。大事な友達なんだから」と呆れた声で言う。
友達か。友達。あまり良い響きじゃない。なんだか少し残念な気持ちになった。
「今日、会えない?ちょっとしんどくてさ」
愛美は明るい声で言う。
「いいよ。今日仕事休みだし。暇してたし。でもミナミでは会えないね」
僕達は天王寺駅の近くにある喫茶店で会うことになった。
僕は財布の中身を覗き、クスリと金があるのを確認してから天王寺へと向かった。
途中で髪をセットをしていないことに気付きコンビニでワックスを買い、トイレで入念にセットをした。
そうこうしながら、先に喫茶店に着いた僕はコーヒーを啜りながら愛美が来るのを今か今かと待ち受けていた。
愛美と会えるのかと思うとそわそわする。心が弾む。
ガラスに映った自分をチェックし、髪の毛をイジる。
時計を見て、コーヒーを啜る。タバコに火をつけようとしたところで、後ろから頭を軽く叩かれた。
後ろを振り向くと、愛美が僕の頭にチョップをしたことが分かった。
フラワーレースの刺繍が入った白い透けたブラウスと薄ピンクのスカートというフェミニンなファッションをした愛美が含み笑いをしながら大きく丸い目で僕を見つめている。
「翔太、久しぶり」
僕は抱きつきたくなったが、そういう仲でも無いので嬉しそうに言った。

「愛美、久しぶり。会いたかった。もう愛美としか会われへんし、愛美としか会いたくない」
「どうしてたの?」
真顔になって愛美はそう言った。
僕は今までの事の成り行きを愛美に伝えた。
東京に逃げたこと、そこでクスリでパニックになり、精神病院に強制入院になったこと、退院してからのこと、しかしユイちゃんとの関係は言わなかった。
つまり、今ボクは1人で暮らしていて仕事も出来なくて相変わらずクスリ漬けだと言った。
「クスリ、辞められないんだね」
愛美は哀しい顔で同情するように言った。
「何度も辞めようと思ったよ。もう朝の絶望が嫌だから、一度クスリを全部捨てた。
でも昼には欲しくなって、また売人のとこに行ってた」
愛美は手を伸ばして、僕の手をキュッと握り、言った。
「じゃあ一緒に頑張ってクスリ辞めよ?」
僕は頼りない弱々しい声で言った。
「辞めたら付き合ってくれる?」
愛美は含み笑いをして、可愛い子どもを見るような表情で言った。
「辞めたら付き合う」
やっぱり僕は愛美の事が好きなんだ。それは愛美と初めて会った時から分かっていたことだが。
「翔太がクスリやったり酷い生き方してたら神様が悲しむよ」
「なんだそりゃ」
僕は鼻で笑った。
愛美は時々神様がどうということを言う。神様。聞きなれない単語だ。
高校の時にクリスチャンになってから毎週日曜日に欠かさず教会に行っているらしい。
愛美とは何度か、その『神様』のことで論争をした。
僕は根っからの無神論者だ。
まず、賽銭箱にお金を投げ入れるなんて愚かなことは決してしない。
むしろどうしたらあの賽銭箱の金を盗めるのかということを良く考えるほどだ。
八百万の神もクリスチャンの信じる唯一神も同じく信じない。
「愛美、神様なんておらんよ」
「いるよ」
「おらん」
「いる」
「おらん」
「じゃあ神様が居るってこと証明してや」
僕は挑発するように言った。
「信仰っていうのは目に見えないものを信じるものだよ。あたしは信じてる。翔太が信じるか信じないかは私を信じるか信じないかってこと。それに神様がいないってことも証明出来ないでしょ」
僕は腕を組み、上を見上げてうーんと唸った。
「ニーチェは神は死んだって言ってたよ」
「あれは、証明になってないよ」
「神とかそういうのに頼るのは弱いからやろ」
「そうだよ。あたしは弱いから神様に頼るの」
僕はまたうーんと唸って、今度は視線を下に落とした。
「俺は弱いから、今目の前に間違い無く居る、愛美に頼る」
「そう、あたしは間違いなくここに居る。でもあたしも翔太と一緒で弱いの」
「神様なんかおるかおらんか分からんやん。いるかいないか分からんもんに頼るなんて正気の沙汰じゃない」
愛美は真顔だ。自分の信じているものを否定されたら普通嫌なはずだが、嫌そうな雰囲気は醸しだしていない。真摯に受け止めているみたいだった。
「いるよ。自分の罪が分かるほど、神様が居ることも分かる」
「なんで?」
「自分の罪のために十字架にかかってくれたから」
僕はそこで神様の話を辞めた。
「分かった。もうこの話はやめよ。もっと違う話をしよか」
僕はエピキュリアンだ。快楽主義者。何故かというと、神などという崇高なものは存在せずに、僕が産まれてきたのは偶然で意味が無く、宇宙が出来たのも偶然で意味が無く、全ては偶然で意味が無いからだ。
意味が無いなら何を後世に残しても意味が無い。何を成し遂げても意味が無い。
ならば楽をして気持ち良いことをたくさんしたほうが良い。
しかし最近分かったことだが、楽なことや気持ち良いことが幸せに繋がるという訳でも無いらしい。
僕の考えは非常に浅はかだったかもしれない。
怠惰や快楽の行き着く先は不幸や絶望や空虚だった。
愛美が昔言っていたのを思い出す。
「聖書にソロモンっていう昔の王様が出てくるんだけど、彼は1000人のお嫁さんがいて、世界で一番の金持ちだったの。快楽の限りを尽くしたソロモンはこう言ったの『空の空、全ては空』ってね」

僕はどうしても社会のはみ出し者から抜け出すことが出来ない。
僕と社会には何か大きな壁があるように感じる。
そしてその壁を乗り越えることはどうやら出来ないみたいだ。
僕はしばらくその壁を見上げていたが、登るのは無理だと悟り、背を向けて反対方向に歩いていった。

「じゃあ、またね。いつでも連絡していいんだよ」
愛美はそのまま改札口を入り、ホームへと向かった。
たまに愛美は振り返って手を振ってくれる。
僕は愛美が見えなくなるまで手を振っていた。
角を曲がるところで、一度曲がって見えなくなったと思うと、すぐにひょこんと現れて、笑いながら手を振った。
しばらくそこに立ち尽くし、思った。
愛美と付き合えばよかった。
僕は耳鳴りがする耳を叩きながら激しく後悔した。
結子は手に負えない。愛美が天使なら結子は堕天使だ。
間違いなく。ファッションからしてそうだろ。しかもMarilyn Manson好きだし。
まぁ僕もだけど。それに愛美は神様好きっていうしやっぱり天使だ。
と愛美と結子を思いつく限り比較しながら帰路へと向かった。
ドアノブに手を掛け、僕は大きく溜息を付いた。
ドアを開けた。
すると、タバコを吸いながらソファーに深く座り、映画を観ている結子が居た。
結子は玄関前にいる僕をジィっと見た。そして何かを悟った。
「何処行ってたの?」
全てを察しているかのような静かに、低い声だった。
結子の第六感を忘れていた。
胸が高鳴った。これは恋の高鳴りではなく、嫌悪の高鳴りだ。
「いや、ちょっと散歩と後、服とか見に行ったり……」
結子はしばらくジィっと僕を見た後に一言、そう。と言い、またポテチを食べながら映画を観だした。
バレたか?まさか、僕の顔を一瞬見ただけで分かるなんてそれこそ本当に悪魔、堕天使じゃないか。
ポテチを食べながらボゥっと映画を観ている結子。
それは果たして、何も知らないのか。
それとも、全てを察していながら何も知らないよという演技をしているのか。分からない。
いや、これはドラッグ常用者特有のただの勘繰り妄想じゃないか。
分からない。
取り敢えずシャワーを浴びよう。
「取り敢えずシャワー浴びるわ」
と僕は結子に言った。
「取り敢えずって何が?」
結子は声のトーンを全く変えずに、何の関心も無いようにそう言う。
「いや、特に意味は無いよ」
思わず思ってることをそのまま言ってしまったが、さすが結子。少し変だなと思うところには的確に突っ込みを入れてくる。
僕の墓穴、ボケを確実に突っ込んでくる。関西人さながらだ。
僕は狭いユニットバスでシャワーを顔から浴びながら考えた。
いくらなんでも一瞬でそんなこと分からないだろう。
ただの思い過ごしだ。
シャワーを出て、パンツを履き、タオルで髪の毛をゴシゴシとしながら出てくるとすぐ目の前に結子がいた。
結子は僕のスマホを右手の親指と人差し指だけで持ち、ブラブラと揺らしている。
「クスリをやめたら付き合ってあげるって本当だからね」
メールの内容を直接喋ったかのような調子で結子はそう言った。
確実に愛美からだ。僕は清涼ミントを100粒ほど一気に頬張ったかのように頭が真っ白になった。
「ねぇ、愛美って誰?」
今まで聞いたことがないような甘えているような、猫撫で声でそう言った。
次の瞬間にナイフで刺されてもおかしくない気持ちだった。
背中が汗でびっしょりだ。
結子はそのまま僕のスマホをタップし、誰かに電話をかけ始めた。
「ちょっと待っ」
そういってスマホ取り上げようとする僕を軽やかに避ける。
電話の相手はすぐに出た。
「もしもし、愛美さんですか?あたしは坂本翔太の彼女で、同棲しています」
そう早口で言ってから、少し間を置いた。
結子はすぅっと息を吸って、そして叫んだ。
「人の彼氏に手出すんじゃねぇ!ふざけんなよこの売女が!もう二度と近寄るんじゃねぇぞコラ!分かったか!」
僕は仰け反って結子から3歩ほど引き下がった。
結子は電源を切るとスマホを床にぽいっと投げた。
「ちょっ、愛美は俺とユイちゃんが付き合ってるの知らなかったんやって。だから悪気は無かってんからそこまで言わんでも……」
と僕は思わず咄嗟に言った。
「なんであんたあの女をフォローしてんの?」
と結子はキッと僕の顔を睨む。
「泥棒猫が。翔太は一体どういうつもり?働きもしないで浮気もして……」
結子の愚痴が始まった。もちろんその愚痴は正論であり、自分が悪いことに変わりはないのだが。
しかし僕も言われっぱなしにはなることはなく、反論をする。
「ユイちゃんも働いてないやん。しかも生活費もマンション借りる時の金も全部俺持ちやぞ。文句は言われへんはずやろ」
「あんたが先に一緒に住もうって誘ってきたんでしょ」
などといって喧嘩をしていたが、結局僕が折れることとなった。
結子と険悪なムードだが、しかし僕は結子のことが嫌いなわけではない。好きなのだ。
それに1人になるのが怖かった。
結子と愛美どちらを取ると言われれば愛美を取るだろう。
しかし、愛美に結子のことを隠していたのは完全にバレている。
愛美は結子に怒鳴られて濡れ衣を着せられたみたいだ。
こんな状況で愛美に連絡は取れない。気まず過ぎる。
結局今の状況で頑張るしかない。愛美は今のこの悲惨な現状に現れた桃源郷だったんだ。幻に過ぎない。
『しかし神様、僕はこの底辺から抜け出すことは出来ない。愛美ならなんとかしてくれるんじゃないかっていつも思ってたんだ。あんたが本当に存在するなら愛美とくっつかせてくれ』
と祈った。僕は初めて目に見えない神様とやらに祈ってみた。
祈るだけで行動はしない。何故なら僕は度胸が無いチキンでめんどくさがりで諦めが早く、現状を変えるために動く力が無いからだ。そんな力あるならこんな陰鬱な日常を送っていない。僕には僕を変える力は無い。
この絶望的虚無から抜け出る方法は一つ。悪魔の業。快楽という一時の偽りの幸せであり、これに頼っていれば最後は慶太の二の舞いと分かっているにも関わらず、僕はやめることは出来ない。
僕はアルミ袋から白い粉を机に撒き散らし、何かのカードで均等に分けて、鼻にストローを付け、勢い良く粉を吸った。
僕が鼻で吸った音を聴き、寝ていた結子が起き上がり、フラフラとヨレながら近寄ってきた。
「あたしにも吸わせてよ。もう無くなったの」
結子は手を震わせながら、その表情には悲愴感が漂っていて、僕は哀れに思い、アルミ袋に入った粉とハーブと錠剤をあげた。
二人でキマったその夜、外が明るくなるまで僕達は情事に耽けていた。
快楽の奴隷である僕達は共に退廃の一途を辿るしか道は無かった。
肉体はお互いから噴き出すあらゆる液で混ざり合っていく。
闇の中、快楽に身を任せ、うごめき続ける二匹の醜い生物。

Marilyn MansonのmOBSCENEという歌がコンポから爆音で流れていることに気付いた。

We are the thing of shapes to come
俺達は来るべき形態をした生き物
Your freedom's not free and dumb
おまえの自由は縛り付けられて声も出せずにいる
This Depression is Great
この抑鬱状態は素晴らしい
The Deformation Age, they know my name
歪んだ時代 皆が俺の名前を知ってる
Waltzing to scum and base and
カスや俗物にスイスイ近づきながら
Married to the pain
苦痛と結婚したのさ

The day that love opened our eyes
愛が俺たちの目を開いた日
We watched the world end
俺たちは世界の終焉を目の当たりにした
We have "high" places but we have no friends
俺たちには「孤高」の場所があったけど 友達はいなかった
They told us sin's not good but we know it's great
いけないと言われたって 罪悪の素晴らしさはわかってるんだ
War-time full-frontal drugs, sex-tank armor plate
戦時下の完璧なドラッグ セックス戦車 装甲板

Bang we want it
バーン 俺達はそれを求めてる
Bang we want it
バーン 俺達はそれを求めてる
Bang bang bang bang bang
バーン、バーン、、、

何処かへ堕ちる感覚で包まれる。結子も同じ感覚に今なっているのだと分かる。
堕ちている時は快楽という悪魔に惑わされて分からないのだが、堕ち終わって、地へと着地してみると、やっとその地獄の悲惨さとご対面する。
堕ちている時は哀れでどうしようもないクズな自分を気取り、酔うことも出来る。
色々な青春の形があるが、そういった退廃的な青春に酔うことも出来る。
しかし、実際に堕ち着いた時、本物の絶望と対面した時にはもう酔いは完璧に冷めている。
退廃的生活に憧れて、快楽の虜になり、行き着いた先で、
『取り返しのつかないことをしたんだ』と本当の本当に分かった時にはもう遅い。
それはきっと死ぬ間際だろう。
それさえも分かっているが辞められない。それは本当に恐ろしいことだ。
興味本位で手を出した末路がこれだ。

土砂降りの雨の音を聴きながらベッドの上でタバコを吸っていた。
ふと携帯がチカチカと鳴り、携帯の音が土砂降りの雨を掻き消した。
僕はかかってきた相手をスマホの画面から覗いて驚いた。シュルトの竜也からだった。
すぐに電話を取ると竜也の懐かしい声が電話越しに聴こえてきた。
「華依ちゃん!久しぶりやなぁ。元気してたん?」
懐かしい名前で呼ばれて一瞬誰のことが分からなかった。
「たっちゃん、どうしたん急に。俺まだお尋ね者やんな?」
「そうやで。ミナミにはシュルトが潰れるまで行かんほうがいいなぁ。ところで、華依ちゃん暇してる?久しぶりに遊ぼうや」
竜也は呑気な声でそう言った。まるで僕が尋ね者になっていることなんて全く気にしていないようだ。
「たっちゃん。いつもありがとうな。やっぱり持つべき者は友やな。俺は今毎日が暇やねん。遊ぼう、遊ぼう」

居酒屋と風俗店がゴチャゴチャになったビルが数多く乱立する、京橋の歓楽街のある、バーで僕達は飲み明かすことになった。ローカウンター、ローテーブルのゆったりとした雰囲気のバーだ。
二人で乾杯をし、ウォッカを一気に飲み干した。それは竜也と飲む時にいつも初めに行う儀式みたいなものだ。
竜也はウォッカを飲み干した後にタバコに火を付けた。
「それにしても華依ちゃんが居なかったらシュルトおもんないわ。最近風営法が厳しくなって、キャッチに対してサツが本気で取り締まりだしてやりにくくてしゃーないしな。全然稼がれへんなったよ。もうスカウトマンも見納めかなって」
最近ではシュルト自体も停滞気味らしい。良いタイミングでバックレたかもと思った。
「華依ちゃんはこれからどうすんの?」
竜也は3杯目のマティーニを背中を丸めてチビチビと飲んでいる。
「さぁ。なんかもう仕事もやる気せんくてさ。俺窃盗の素質あるかもしれんから空き巣にでもなろうかな」
僕はオレンジ色のぼんやりとした光を照らしだしている天井の電球を見上げながらそう呟いた。
「いいねぇ。初任給300万やからきっと才能あるで。やる時は俺も呼んでな。俺も一緒にやるわ」
「じゃあ一緒にやる?」
まんざらでもなさそうな反応だったから、僕は真顔で竜也にそう言った。
「え?マジでゆってんの?」
竜也は少し顔を引き攣らせて機械的に笑った。
「ちょっとトイレ行ってくるわ」
僕は膀胱が溜まっているわけでもないがトイレへと向かった。
便座に腰掛けて、ポケットに入れていたアルミ袋を取り出し、錠剤を噛み砕き、飲み干し、しばらくボーっとしていた。
僕がトイレに行くと竜也は僕が何をしているのか知っている。
竜也は相変わらず変わっていなかった。しかし、少しやつれていた。目のクマが酷かった。
竜也は昔からギャンブル狂のところがあり、稼げてない今、余計にギャンブルに手を出し金がまわらなくなっていたのだ。竜也も瀕死の状態なんだろう。
トイレから戻ってくると、竜也がなんだかソワソワしているような気がした。
「これ、奢り。飲んでハイになり」
アブサンだった。
「サンキューたっちゃん。ちょうど何もかも忘れてハイになりたかったところやったんよ」
声が弾んだ。
独特な味わいと強烈な酒精のアブサンは幻覚作用もあり、現実逃避に欠かせないアイテムの一つで、僕の大好きな酒だった。
氷が並々入ったグラスに透き通った綺麗な緑色の液体のアブサンが入っている。
その上にはアブサンスプーンがグラスに乗り、アブサンスプーンの上には角砂糖が乗っかっている。
角砂糖から青い火がゆらゆらと揺れている。
妖艶な酒である。このザラザラとした荒野のようなくだらない世界から、何処か遠くの幻想世界へと連れていってくれそうだ。
僕は青い炎で燃える角砂糖に水を注ぎ、アブサンの中に入れた。
アブサンスプーンで念入りにかき混ぜてから、まず一口、クイッと飲んだ。
一口飲んだ後、竜也のほうを見ると竜也が僕の方を見ていた。
僕と目が合うと、気まずそうに視線を逸らした。
「いいなぁ、美味そうやな。俺もアブサン頼も。なぁなぁ、アブサン一つちょうだい」
「かしこまりました」
バーテンダーが静かに礼をした。
僕はアブサンを2口目、3口目と続けて飲んだ。アブサンはほとんど空の状態になった。
底のほうに少しだけ残っている。
右手でグラスを無意味に円を描くようにユラユラと動かしていると、いつの間にか僕自身が円を描くようにユラユラと動いていた。まるで地球の重力が変わったかのように急に体がズシンと重くなり、今にもテーブルにへばり付きそうになる。
おかしい。クスリとアブサンのダブル効果としてもこんな感覚になったことは今までにない。
「華依ちゃん大丈夫かぁ?なんか今にもぶっ倒れそうやで。アブサン久しぶりに飲んで体がびっくりしたんとちゃう?」
僕は大丈夫と声を掛けようとしてそのままテーブルに突っ伏した。
華依ちゃーんと竜也の呼ぶ声がする。
「華依ちゃん潰れてもうたんか?おーい。しょうがないなぁ」
「ちょっとバーテンさん、もう勘定するんで、すいませんけど、僕の車までこの人一緒に担いで乗っけてもらいますか?」
コォォォンコォォンと頭の中で鳴り響く。今にも気を失いそうだった。
意識が途切れ途切れだ。
気が付くと、竜也の車の助手席にいた。目の焦点が合わない。
「華依ちゃん起きてる?」
竜也が僕の体をゆさゆさと揺らし、顔を覗きこんだ。それはまるで何かを確認しているかのようだ。
僕ははっとした。
意識が半分無いような状態でも不思議と洞察力はしっかりとしていた。
これでも僕は危ない橋を何度となく渡ってきた。この夜の世界で騙し、騙され合いの卑劣で残酷な世界に身を置き、生き残ってきたのだ。
頭の悪い奴や間抜けな奴はたくさんドロップアウトしていった。
僕がこのミナミの歓楽街で残れてきたのは洞察力に長けていたからだ。
トイレから戻ってきた時の竜也のソワソワした行動、僕がアブサンを飲んだ時に目が合った時の竜也が一瞬視線を逸らしたこと。そして今のこの僕の意識が無いのを確認しているかのような行動。
ほんの少しの違和感だった。人は嘘を隠し通すことは出来ない。
人を騙す時、騙す側にはその言動から何らかの違和感を残す。
それは罪悪感やバレないだろうかという恐怖から来るものだろう。
その感情が無い人間は居ない。必ず有る。そしてその怯えから来る違和感は少なからず、必ず言動に出る。
竜也は僕に睡眠薬か何かを酒の中に入れた。僕を騙そうとしている。
だから僕は意識が無いフリを決め込んで竜也を騙すことにした。
竜也はしばらく僕に声を掛け続けた。僕は意識が無いフリをした。
しばらくすると竜也はボソッと言った。
「華依ちゃんごめんなぁ」
そして何処かに電話をかけ出した。電話の相手はすぐに出た。

「もしもし、社長?華依捕まえましたよ。クスリで眠らせてます。暴れてる精神病の患者の意識を落とすために使うような強烈な精神安定剤ですわ。意識全く無いみたいです。24時間は起きないと思いますよ」
竜也はこっちの方を気にしながら小声で喋っている。
「すぐに連れてきますから、懸賞金の30万のほう、よろしくお願いしますね」
ショックだった。竜也は俺を30万で売ったのだ。
確かユダもわずか銀貨30枚でイエスを売ったらしい。
人間の本質は悪なのか?それとも人間の罪がそうしているのか。後者だと願いたい。
唯一の友に裏切られたというショックとともに怒りが湧いてきた。
僕は奥歯を噛み締めた。絶対に意識を失う訳にはいかない。
もしこのままシュルトの事務所まで連れていかれたら、そのまま大雅先輩と社長、その他大勢から集団リンチを食らい、アバラの数本と鼻の骨は確実に折られるだろう。
そのまま闇医者の元に連れて行かれて、社長を殴った奴のように醜悪な顔に整形されるか、手足の指を全部切り落とされるか……おそらく一生使い物にならないような体にされてしまうに違いない。
竜也はそういったことも全て知った上で僕を売ったのだ。僕はショックの後に殺意が芽生えてきた。30万で親友を売ったのだ。
しかし今この状況ではどう頑張っても竜也に勝てない。返り討ちに合うだろう。逃げるしかないが、今このまま逃げてもすぐにとっ捕まる。
車が走りだした時に隙をついて車から飛び降りる。これしかない。
絶好のタイミングを見計らって、その時が来たら一気に行動開始だ。
タイミングを逃すとおしまいだ。
手は動くか?親指から人差し指まで気づかれないように動かしてみる。
足の指も動く。動ける。おそらく走りだすとフラフラだが、動ける。
しばらくすると車が走りだした。
シュルトの事務所へ行くみたいだ。ここからシュルトの事務所まで車で20分弱といったところだろう。
その間に僕の運命は決まる。
車は三車線の道路をゆっくりと走る。
僕は目を半開きにして、意識が無いフリをしていた。たまに竜也が僕のほうをチラチラと見ている。
しばらくすると人通りの少ない街路樹が立ち並ぶ場所に来た。
車は前の信号に合わせてスピードダウンしてくる。
わずか一秒足らずの出来事だったと思う。
僕は一瞬の隙を突き、全身全霊の力を込めて一気にドアを開け、飛び出した。
道路に豪快に10回転ほどゴロゴロと転がった。
竜也は一瞬何が起きたのか理解出来なかっただろう。
意識が無くなっていたと思っていた僕が一瞬で車から飛び出たのだ。
部屋でゆっくりとくつろいでいるといきなりダンプが部屋に突っ込んでくるぐらい理解不能な出来事だろう。
幸い擦り傷だけで骨に異常は無いようだった。すぐに立ち上がり、走った。
やはりフラフラとしている。まるで酔っぱらいの駆けっこだ。視界もめちゃくちゃでほとんど訳が分からない。
しかし死に物狂いで走った。
しばらくすると、竜也が車を脇に止め、外に出て僕を追いかけてきた。
「待て!」と叫ぶ竜也。
僕は商店街に入る前の横にあった路地に入った。
路地に入ると、瓶ビールが転がっていた。
僕は瞬時に判断した。瓶ビールを持ち、竜也が来るのを待ち構えた。
この視界もめちゃらくちゃらボヤンボヤンの状態で果たして上手く竜也の頭をぶっ叩けるのか不安だったが、それよりも裏切られたという怒りの感情に駆られていた。
駆ける足が聴こえる。
人影が路地に入ってきたと同時におもいっきりその人影目掛けて瓶ビールを振り下ろした。
それは竜也の前頭部にモロに直撃した。瓶ビールは気持ちが良いほど粉々に砕け散り、竜也は頭を手で抑え、よろめいた。僕はよろめいている竜也目掛けておもっきり蹴りあげた。
竜也は大の字になって倒れた。頭からは血が流れている。赤黒い血がアスファルトに染み渡っていく。
路地から道路に竜也の胴体が半分出ている感じだが、僕は気にもとめず竜也に馬乗りになった。
竜也は悲痛なうめき声を上げている。馬乗りになり、竜也を見下ろした状態で右拳で竜也の顔を殴った。
竜也はガードをしたが、そのガードを壊すように殴りまくった。
殴っている時に、社長が僕の給料日を投げた時、それを拾ってくれた竜也が思い浮かんだ。
クスリと酒でグチャグチャになってる僕を家まで送ってくれた竜也が思い浮かんだ。
大雅先輩に理不尽に殴られた時に僕の愚痴を聴きながら夜通し酒を一緒に飲んでくれた竜也が思い浮かんだ。
シュルトに入って直ぐに二人でシュルトの寮に入り貧乏生活をしていた時の情景が思い浮かんだ。
どうして今、そんなことを思い出すんだろう。
僕は竜也を殴りながら、涙が頬を伝っていた。顔はくしゃくしゃだ。
「竜也!なんでや!」
竜也はしゃっくり混じりに泣きながら繰り返し言った。
「華依ちゃん。ごめん。赦して。ごめん」
「……めっちゃいい奴やと、おもてたのに」
最後に力なく、竜也を右拳で殴った。ペチンと情けない音がした。
僕は馬乗りになったまま言う。
「お前は、自分が生き残るために経ったの30万で俺を売ったんや。俺の人生を30万で終わらそうとした」
竜也はしゃっくり混じりに泣きながら言う。
「魔が刺してん。華依ちゃん、赦して」
僕はしばらく子供のように泣いている竜也を見下ろしながらボーっと見下ろしていた。
涙は乾いて塩となっていた。
社会適応能力が無いどうしようもない僕達はこうして親友を売ってまでして生き延びないといけないのか。
いや、僕らみたいなどうしようもない奴らに関わらず、何処へ行っても自分が生き延びるために、自分が楽をするために知り合いを、友達を売ってまで生き伸びようとするのだ。
誰かを蹴落とし、自分が這い上がる。そうしないと生きていけないのか。
嘘ついて、欺いて、騙して、僕もそうやって生きてきた。そういった世界の最先端で生きてきた。
嘘ついて、欺いて、騙してきたから今その報いを受けているのかもしれない。
僕はフラフラと立ち上がり、そして竜也を後ろに残し、歩き始めた。頭がぼやんぼやんとする。
強烈なクスリだ。
僕はそのまま家へと帰った。どうやって帰ったのかは覚えていない。
ドアを開けると虚ろな目をした結子がソファーに沈み込んでいた。ソファーの前にある丸テーブル上には睡眠薬のシートと、白い粉がところどころ散らばっている。
僕はその結子の横に座る。
結子は僕を横目で少し見てからボソッと一言言った。
「血、出てるよ」
「友達に売られそうになって逃げてきた」
「そっか」
結子は消え入るような声でそう言った。
結子は境界線パーソナリティ障害という人格障害だ。
感情が不安定で衝動的になっていきなり怒りを爆発させたりする。リストカットやアームカット、自殺未遂を繰り返したりする。
結子は母子家庭で結子と母の2人家族だった。
母親はヒステリックで一度火が付くと気が狂ったように叫びだし、そしてことある事に結子を殴りつけたらしい。
ある時はベルトで背中を叩きつけられた時もあった。今でもその生々しい傷は残っている。
結子は17歳の時に高校を中退し、そのまま家出をして友達の家や彼氏の家を渡り歩いていた。
そしてそのままキャバクラで働くようになり、そこから風俗嬢となった。
僕は散らばっていた粉をカードを使って集めていき、ストローを使い鼻から一気に吸い込んだ。
ジョイントにハーブを詰め込み、吸った。
そして結子の肩にそっと触れた。
結子は壊れたおもちゃのように反応に乏しかった。
次の日、結子が僕の金を服やカバンを買う金に使い込んでいたことが発覚した。
問いただすと逆ギレをされて、修羅場と化した。一体何を考えているんだ。溜息が出た。
結子は自分の金もいくらか持ちあわせていたが、それも無くなり、僕の金を使い込んだのだ。
所持金は残り5万にまで追い詰められていた。
シュルトの黒い金はほとんど黒いことで無くなっていった。
働く気力なんて毛頭無い。参った。僕はもう一生働けないかもしれない。
体が働くことを拒絶している。
僕はシュルトから脱走して今の今まで、事務所の金庫から盗った黒い金の300万で生活してきた。
それはつまり僕は空き巣の才能があるということじゃないだろうか。
経ったの10分で300万の収入を得れたのだ。空き巣だ。空き巣しかない。
思い立ったが吉日。僕は早速空き巣をすることにした。
クスリを体内にぶち込み、残りの所持金5万を持ち、外に出た。
僕の空き巣の方法は簡単だ。ガラスを割って、中に入り、金品を盗み、逃げる。
シンプルイズザベストという。この方法が一番良いに決まっている。
というか他の方法を知らない。
大阪でやるよりも少し離れたところでやったほうが良いような気がする。
神戸の方まで行くことにしよう。昔神戸の三ノ宮に住んでいたことがある。
あの辺りで空き巣を働くことにしよう。早速JRで三ノ宮に行くことにした。
電車に揺られながら考える。今日一日で空き巣に入りいくら稼げるだろうか。
空き巣には自信がある。なんといっても一度成功してるのだ。経験がモノを言う。
まさかこの僕が今から空き巣に行くなんて、ここにいる乗客は夢にも思わないだろう。
三ノ宮駅に着くと、時計はちょうど15時をさしていた。
さすがに駅周辺は賑やか過ぎる。少し歩く。商店街を通り過ぎ、閑静な住宅街まで来ていた。
人通りは少なくひっそりしている。ちょうど良いじゃないか。
まずは手始めにワンルームマンションから行こう。
空き巣をしたのも半年ぐらい前になる。腕が鈍っているかもしれない。ランクの低いところから攻めよう。
しばらく住宅街をウロウロと周っていると入りやすそうなくたびれたワンルームマンションが見えてきた。
縦長のマンションで外から見る限り4階建てのようだ。
マンションの入り口を覗き見た。マンションの玄関には集合ポストがあり、奥へ少し進むと部屋が両隅に2つずつあった。
すると、ちょうど一番奥の右のドアが開いた。
僕は咄嗟に隠れた。ブロック塀が続く曲がり角のところまで行きその角から覗き見た。
しばらくすると男が出てきた。僕がいる方と逆の方へ向かって歩いていく。
若い男だ。男はマンションの駐車場のほうへ行った。
バイクのエンジンがかかる音が聴こえ、大型スクーターに乗った男が颯爽と走っていった。
バイクに乗っていくということは遠くへ行ったということだ。
あの部屋に決めた。鼓動が早くなってきた。落ち着け。
ジーンズの後ろポケットから精神安定剤と睡眠薬を1シート取り出し、シートを破き、錠剤を手に乗せた。
その10錠ほどの錠剤を口の中に頬張り、噛み砕き、飲み込んだ。苦い。
僕は再びポケットからアルミ袋を取り出し、合法ドラッグの錠剤を頬張った。ボリボリと噛み砕き、飲み込む。苦い。
ゴクリと喉の音が大きく鳴ったのを合図に裏へまわってベランダを確認する。
そしてもう一度男が出てきた部屋を確認し、またベランダにまわる。
位置を特定した。コンビニで買った手袋を装着し、背中に隠していたバールを取り出す。
人が居ないのを確認し、ベランダによじのぼる。はっとした。なんと窓が少し開いているじゃないか。
なんてずさんな男だろう。平和ボケした国の若者の象徴だ。
僕はしめしめと窓をするすると開け、カーテンを払いのけ、首だけを部屋の中に突っ込み中を確認する。
5畳ほどの部屋だった。1DK。ベランダから正面には玄関がある。
左に無理矢理スペースを作ったかのように狭いキッチン。右にユニットバス。
部屋は散らかっていた。既に泥棒が入ったかのような散らかりようだ。
部屋に転がっている服やズボンを選り分けて物色していく。
タンスがあったので上のほうから開けていく。タンスの中身もメチャクチャだ。
物で溢れかえっていてそのくせメチャクチャなので物色し甲斐がある。
僕はタバコを取り出し、火を付けた。ゆっくりといこう。どうせ男が帰ってくるのは遅いだろう。
クスリがキマっているせいかまったく動揺も緊張も無い。まるで自分は一流の空き巣かのように感じた。
タバコを吸い終わり、台所でもみ消し、また始める。
チェックした物や服を部屋の隅に投げていった。
こうやっていけば部屋の中にある全てを漁ることが出来る。我ながら頭が冴えている。
何処に宝物が埋まっているか分からないから全て調べつくさないといけない。
しばらく漁っているとベッドの下のほうから2000円が出てきた。
あまり、嬉しくない。
漁っている時にふと思った。良く考えたら、ワンルームマンションに住む若い男に財産なんて無いだろ。
出かけたってことはほぼ確実に財布を持って行ったに違いない。こんな家賃4~5万足らずのマンションに1人で住み、出かける時にベランダの窓も閉めないような若い男にとって財産なんて財布に全て入るぐらいなんじゃないのか。クレジットカードも通帳カードも間違いなく財布だろう。
金庫なんてあるはずがない。溜息を大きく付いた。
ズブの素人も良いとこだ。良く考えなくてもこんなこと普通分かりきったことじゃないか。
駄目だ。ここから出よう。こんなところに居るのは無意味だ。
次は高級マンションにしよう。オートロックをどうやって解除するか考えないといけない。
宅急便の人のフリをして開けてもらうか、それとも誰かが入った時に一緒になって入ったり。いくらでも方法はある。
などと考えながら玄関まで行き、ドアを開けた。ドアを開けてすぐにここの住人のあの若い男が目の前に居た。
男は鍵を右手に持ったまま呆然と僕を見ていた。僕も呆然と男を見ていた。
3秒ほど硬直したまま見つめあっていたが僕が一瞬早く意識を取り戻し、男を払いのけ、逃げた。
しかし男はすぐに僕の服を掴んだ。しばらく男と取っ組み合いをしていたが、足を払われて、そのまま倒れこんだ。クスリが効いてフラフラとして力も入らなかった。
「誰か!警察呼んで!盗人!」
男は叫ぶ。
通りすがりの中年の男がその光景に出くわし、若い男に加担をした。
「盗人か!観念せえよこら!」
僕は二人に取り押さえられ、1人が警察に電話を掛けた。
しばらく暴れていたが無理だと悟った僕は大人しくなり、そのまま抑えられた状態で大きく溜息を付いた。
間抜け過ぎる。サイレンの音が遠くから聴こえてくる。そのサイレンの音は近くに鳴り、やがて2台のパトカーがマンションの目の前で止まった。
4人の警官が僕を捉え、1人が僕に手錠を掛けた。カチリと音が鳴り、手首に冷たい金属の感触がまとわりついた。
そして1人の警察官が僕の目の前で時計を確認した後に僕の方に向き直った。
「16時34分。現行犯容疑で逮捕する」
なんとご丁寧な対応なんだろう。
僕は何か言わないといけないかなと思い、取り敢えず「あ、はい。分かりました」と言ってみた。
4人で僕を抑えて、パトカーに乗せた。
助手席の警官は何やら無線で喋っている。僕は後ろの真ん中にいて、二人の警官が僕の両隣にいる。
無線で警官が「~警察署満杯らしいので姫路の~警察へ連れていくだのどうのこうの聴こえる。
クスリが効いて意識が飛び飛びになってきてなんだか訳が分からない。
だから捕まったのもなんだか夢心地で現実かどうかも良く分からなかった。
ここ最近何が現実なのか良く分からない。この現実逃避行はいつまで続くのだろう。死ぬまでか?
そもそも現実って一体なんだったんだろう。
意識が飛び飛びになる。高速道路を走った気がする。長いこと車に乗っていたような。そうでないような。
取り敢えずパトカーから降ろされた。小さい警察署だ。
中に連行されていく。狭くて暗くてカビ臭い取調室だ。
薄汚れた白い部屋に鉄格子付きの窓。真ん中にグレーの机とパイプ椅子が2つ。
椅子に座らされ、手錠で左手と椅子を繋げられた。しばらくすると刑事らしき人が来た。
なんだか一方的に話していた気がするが、夢見心地で意識も飛び飛びだった。
そのまま調べが終わり、鉄格子の部屋、つまり牢屋に入れられた気がする。

意識がはっきりしたのはエーデルワイスの音楽が流れた時だった。
安っぽいサウンドに乗せてエーデルワイスが流れている。
「朝や。朝や。朝やでー。朝日がサンサン、おはようさん」
中年の親父がリズム良くそう言いながら布団を畳んでいた。
でっぷりと太っていて、丸坊主で愛嬌のある顔をしている。
「おい、布団たたんどけよ」
「あ、はい」
僕は言われた通り布団を畳む。
「しばらくすると看守さん来るから座って待ってたらええよ」
「あ、はい」
僕は会釈した。
「それにしても昨日、お前遅い時間に来たなぁ。起きてもうたわ」
「すんません」
僕は再び会釈する。
「俺西野っていうねん。名前は?何やったんや?」
僕は天井を見上げてしばらく考える。
「坂本です。空き巣……ですかね?後尿検されたけど、覚せい剤やってたんで、陽性出ると思うから、それも」
西野さんは44歳で覚せい剤の売買と使用で捕まったとのことだった。3回目らしい。
この日方警察署は田舎の警察署で小さく、房が二つしかなく、一つの房には三人まで収容出来るようになっている。今は西野さんと僕しか収容されていない。
本来ならば僕は加古川警察署の留置所にお世話になる予定だった。
僕が言える立場では無いのは重々承知だが、悪いやつが多い世知辛い世の中だ。
加古川警察の留置所が満杯で、いくつかの警察署をたらい回しにされた後に、この姫路の離れの、ド田舎にある日方警察署に落ち着くこととなった。
ついに来るところまで来たのだろうか。いずれは捕まると思っていたが。
そこまでショックでは無い。もう自分の人生に対して投げやりなのだ。
ここまでどうしようもなかったらどうしようもない。
ただ結子と連絡が取りたかった。それだけが心残りだ。僕が捕まったことを知っているのだろうか。
「起床~」
と間延びしたような声で看守が3人留置所へと入ってくる。
房の鍵が開けられ、5分以内に房のすぐ側にある洗面台で顔を洗い、歯を磨いた。
そしてまた房に入れられた。
「すぐに俺達の餌が出てくるわ」
と笑顔で手をパンっと叩く西野さん。夏の動物園の暑さでバテているパンダと同じような格好をしている。体型も太ったパンダそのものだ。
しばらくすると看守が留置所の隅にある小窓から朝食を僕と西野さんの二人分を入れてきてくれた。
「お。今日はサンマと味噌汁かぁ」
っと思わず舌なめずりする西野さん。留置所のご飯は白米だった。
取り敢えず食べたが、留置所で初めての食事に緊張し味がしなく、パサパサしていた。
食事を食べた後は昼まで自由らしい。取り調べでいきなり呼ばれるらしい。
僕は取り敢えず寝ることにした。朝食を食べ終えてすぐに隅っこのほうで体を折りたたんでゴロンと横になる。
「なんや、寝るんかぁ。じゃあ俺は本でも読むか」
留置所には何も無いが、知り合いや家族が送ってきてくれた本を2冊まで中に入れられるらしい。
西野さんは覚せい剤を売ることにも使用することにも全く罪悪感は無い。
覚せい剤を売った相手がどうなろうと知ったことではない。自分の責任でポン中になって死ぬのは自分が悪い。しかしこうやって俺を売ったやつは赦せん。とっ捕まえてバチバチにしばき倒したいと言っていた。

――夢から覚め、現実の世界へと引き戻される、あの夢と現の中間地点にいる時の微睡みがとても好きだ。
意識が徐々に戻り始めた時、まず初めに感じたのはこうだ。
コカ・コーラが飲みたい。それも、無性に飲みたい。
口の中でシュワシュワと鳴り響き、そしてキンキンに冷えたあのコーラを。
あの色、あの炭酸と程よくマッチする刺激的な甘さ。喉元を過ぎるほど良い刺激。
完璧だ。
飲みたい。コーラを。こんなにコーラを飲みたいと思うことは今まであまり体験したことが無いのだが。何故、今こんなにコーラを飲みたいのだろう。
しばらく寝返りを打ち、怠惰の余韻に浸っていたが、決断した。
買いに行こう。今すぐコンビニに。決断すると僕は行動が早い。
目を開け、勢い良く起き上がり、ドアを開けようと手を延そうとすると、目の前には鉄格子があった。そして自分が今、留置所の中にいることを思い出した。
自分がこの先進国において法律という範囲の中で平和に、自由に生きられるという恵みに預かっていると思いきや、なんと犯罪を犯したことにより、この先進国において最も自由の利かない場所にいる現実を今、直視している。
コーラを買いに行ける自由があると思いきや、コーラを買いに行く自由すら無い場所にいることに気付いた虚しさったら無い。これ以上の絶望があるだろうか。
思わず3秒ほどの長い溜め息が出た。
「なんや、坂本。辛気臭いのぅ」
と西野さんが鼻で笑う。
僕はげんなりして答える。
「いやあ、俺さっき、寝惚けてて、シャバにいると勘違いして、コーラを買いにいこうと思い起きあがると、今留置場に自分がいたんやって思い出して、めっちゃショック受けたんですよ。あります?そういうの」
西野さんは笑いながら、あるかもしれんなぁと言った。
「お前、入ってまだ二週間やからな、時差ボケみたいな感じのがあるやろ」
と西野さん。シャバボケとでも言おうか。
西野さんが暑い暑いと言いながらTシャツを脱いだ。
その背中には和彫りの刺青が入っていた。
どこかの神社に居そうな、いかつい顔をした神様の入れ墨が彫ってある。
「その刺青はなんかの神様ですか?」
っと西野さんの背中を指差す。
「これはなんかバッカスとかいう酒の神様らしいわ」
「酒好きなんですか?」
「いや、全く飲まれへん」
不思議だ。
しかしここで酒が飲めないのに何故酒の神様の刺青を入れているのか、という質問はありきたりすぎて、なんだか嫌んあり、やめた。西野さんも恐らくその質問をしてほしいはずだ。
おそらくその質問をしてくるのを待っているはずだ。
きっとトンチの聞いた良い訳、良質なネタ話があるに違いない。
だからこそやめた。僕は天邪鬼なのだ。
いつかまた思い出した時に聞いてみることにしよう。
西野さんは暑そうにパタパタと手うちわをしていた。
8月の留置所は冷房が入る。しかし節電のために入れたり切ったりを繰り返す。
冷房を切ってしばらくすると、冷たい風が段々と留置所から去っていく。僕も冷たい風と一緒に出ていきたいものだ。
そして次第にこの隔離された場所は温度が上昇していき、サウナ一歩手前にまで熱する。
そこで冷房が再び入る。これが繰り返されるのだ。
まるで生かさず、殺さずだ。ワザとやってるのか。
ドアが空き、看守が入ってきた。
「36番、調べ。出るぞぉ」
36番、僕に与えられた番号だ。ここに入る前に言われた。
犯罪者は看守からは番号で呼ばれるようになっている。
冷たい響きである。僕にも名前があるんだ。 
などと思ってみるか別にそこまで気にしていない。どちらかというと、今の僕にはどうでもいい。太宰治の「人間失格」を思い出す。
「ただ、いっさいは過ぎてゆく」
そんな感じだ。
留置所の鉄格子は、金属が激しく擦れる音とともに開かれる。
まるで牢屋ですよと匂わせるような、冷たい音である。牢屋なのだが。
牢屋から解放された、と思いきやすぐに手錠を掛けられる。
犯罪者の僕は法で裁かれ罪を償うまで、決して自由は与えられない。
昨日までの自由とはしばらくサヨナラなのだ。
いつもなんでも失ってから気付くものだ。
留置所から外の鍵のついたドアを看守が開けると短い廊下だけの部屋がある。
留置所とシャバの境界線みたいな部屋だ。
その目の前に、また1つ鍵のかかったドアがあり、鍵を開けてもらい、さらに進んでいくと警察署の事務所らしきところがあり、みんなそれぞれ与えられた仕事をこなしている。
そこの端っこを通っていくと取調室がある。
たまに留置所から逃げ出した奴がニュースで報道されるが不思議で仕方が無い。
どう頭をひねくりまわして頑張って考えても、ここから脱走する方法が見つからない。
相当警察官が手を抜いていないとそんなことは出来ないはずだ。
ということは相当警察官が手を抜いているから脱走出来るのだろうか。
僕達の税金で働いているのだからしっかりしてもらわないと困る。
僕は税金を払っていないのだが。
そして取調室に入る。狭くて暗くてカビ臭い取調室だ。
薄汚れた白い部屋に鉄格子付きの窓。真ん中にグレーの机とパイプ椅子が2つ。
椅子に座らされ、手錠で左手と椅子を繋げられた。
思い出した。昨日ここに来た。何を話したかほとんど覚えていないが、相当なクスリの酩酊状態で喋っていた気がする。
ノートパソコンを開いた刑事が僕の目の前にいた。
見事なまでの一重の、身長が低く体格の良い40代半ばの刑事。
「元気しとるか、坂本」
眼光の鋭い一重の目が僕を睨むように見つめながら低い声でボソッとつぶやくように言う。
「はぁおかげさまで」
僕はペコッと頭を下げる。
「何がおかげさまや。俺なんもしてへんがな」
と怖い顔から笑みがこぼれる。
無表情だと怖いが、笑うとなかなか愛嬌のある顔をしている刑事さんだ。
「俺のこと覚えてるか?」
と言いながら刑事はクビを左右に振り、関節の音をコキャリ、コキャリと鳴らした。
何故鳴らした?
「昨日、お話しましたよね。ほとんど意識トんでたんで覚えてないんですけど」
「そうや。俺も会話9割ぐらい何言ってるか分からんかったわ。大変やったぞ。もう大丈夫そうやな」
「タバコ吸ってええぞ」
刑事さんは僕が持っていたタバコとライターを返してくれた。
調べの時と朝の運動の時だけタバコが吸える。しかし素行が悪いと調べの時にタバコを出してくれないらしい。
喫煙者にとっては至福の時である。そして精神病院と同じで買い物リストにチェックをすると水曜日に看守がチェックしたものを買ってきてくれる。
ここでも金のあるやつがそれなりに暮らせるが金の無いやつは乞食になるしかない。
しかし留置所では菓子パンが3つまでしか買えなかった。
タバコはいくらでも買えるみたいだ。
刑事さんはカタカタとキーボードを打ち始める。
後ろには若手の刑事が腕組みしながら立っている。刑事はいつも二人一組だと誰かから聞いたことがある。
「空き巣に入る当日の朝は何時に起きた?」
「確か朝7時ぐらいに目が覚めましたね」
「えらい規則正しい時間に起きるな。仕事もしてないくせに」
「いや、いつもは朝寝て夕方起きたりしてるんですけど、その前の日に早く寝たんで」
「なんでその前の日に早く寝たんや?」
「いや、シャブで2日間寝てなかったんで」
「じゃあ朝7時に起きて、まず何をした?飯食ったんか?」
刑事さんは鬱陶しいぐらい事細かく聞いてくる。
刑事に対していくら口裏を合わせても嘘がバレるのは良く分かる。
僕は必死で当時のことを思い出す。
クスリのせいで頭がボケていて犯行日辺りの記憶がほとんど無い。
というよりも、いつもクスリで頭がボケていたせいで昔のことはなんでもぼんやりとしている。それはクスリのせいなのか。それとも過ぎ去った記憶はそんなものなのか。おそらく後者プラスα前者。
もちろん同棲していた結子のことも聞かれた。結子も共犯だったのじゃないかといの一番に疑われるのは当然だ。彼女は知らなかったのかとしつこく聞かれた。
しかし結子は知らなかったのだ。
今日の調べは昼から夕方まで4~5時間続いた。
刑事は僕達の刑を重くするのが仕事と言っても過言ではないだろう。
調書は裁判官にいかに印象を悪くして作るかを明らかに意識している。
一日の調べが終わる最後に、パソコンで作った調書を刑事が読み上げ、「これでええか?」
と聞いてくる。
「もし、不服なところがあったら言いや。1からまた作りなおすから」
1からまた作りなおすというのがこの上ない狡猾な手法だ。
数時間かけて刑事さんと一対一で狭く息苦しい取り調べ室で問答した僕はすでに疲れて果てていて、いくら不服があろうともいくら印象が悪くなろうとも、1から作り直す気力は残っていない。
「いや、大丈夫です」
と僕は言い、そして拇印を押した。刑事の忍耐力には恐れ入る。

「タバコ美味かったか?」
房に入るとやる気の無いパンダのような格好をした西野さんがそう聞いてきた。
「最高でしたよ」
僕は軽くガッツポーズをする。
「ええなぁ」
そう言いながら西野さんは微笑みながら遠い目をしてタバコを吸う仕草をしてみせた。
夕御飯を食べ終えると、もう調べがあることは無い。檻の中でずっといるのだ。
精神病院で耐性がついているのでそこまで苦ではなかった。
それに精神病院の保護室よりかは何倍もマシだ。
「おい、どうやこれ。便所でマス掻いてきていいぞ」
と西野さんは3流写真週刊誌の裸の女を見せながら下卑た笑みを浮かべている。
セックスとドラッグが出来ないというのは快楽主義の生き方を極めようとしている僕にとっては絶望的だ。しかし不幸とは感じない。
欲望を満たせないのが不幸じゃないということか?
それにしても。結子はどうしてるのだろう。僕が今どういう状態か知っているのだろうか。
気が気でならない。
と思いながらも愛美の顔が頭に浮かんだ。
その日の夢で、結子が天から堕ちていく夢を観た。
綺羅びやかな空だった。キラキラと眩しい雪の結晶のようなものが辺りにたくさんある。
まるで宝石を散りばめたような幻想的で美しい空だった。
そんな空を恐ろしいスピードで堕ちていく結子。
結子には真っ白で美しい羽があった。しかしその羽を開くことが出来ないで、まるで何かにグイグイと押されているかのように、雲を突き抜け、真っ逆さまに堕ちていく結子。
堕ちていく間、結子の羽の色が徐々に変わっていく。
真っ白から灰色へ、灰色から黒へとみるみるうちに変わっていく。
その羽はほとんど黒になりかけていた。
景色は打って変わって薄暗くなっていた。下は真っ黒な霧のようなもので包まれて何も見えない。
まだ見えぬ地の底の方から何やらうめき声や異常なほどの叫び声が聴こえる。
それはこの世では聞いたことが無いほどのおぞましい断末魔のような声だった。
結子はその、まだ見ぬ地獄に向かって真っ逆さまに堕ちていた。
はっと気付く。結子だと思っていたそれは良く見ると自分になっていた。
と思いきや結子にも見える。その顔は結子になったり僕になったりしていた。
マッハの速度で堕ちていると、急に天空から物凄いスピードで降りてきた。
結子、もとい僕は条件反射のように手を差し伸べた。
するとそれは僕、もとい結子の手を強く握ってくれた。
ガクンと強い衝撃とともに僕は空中で止まった。
上から手を強く握っていたのは真っ白な羽を持つ、愛美だった。



「起床~」
と間延びしたような声で看守さんが3人留置所へと入ってくる。
房の鍵が開けられ、5分以内に房のすぐ側にある洗面台で顔を洗い、歯を磨く。
馬鹿げた夢を観た。まるで乙女が見るような夢じゃないか。いくらなんでもフェミニン過ぎる。
夢を誰かに見られたわけでもないのになんだか恥ずかしかった。
戻って20分もすると朝食が出てくる。
「餌や、餌の時間やで」
と、卑下したような言い方をしながら、待ってましたと言わんばかりに手を叩く西野さん。
小さい窓が開き、食事を看守さんに入れてもらう。
「おっ、今日はサンマとタクアンかぁ。よしよし」
と言いながら西野さんは飯にがっつく。
「ええなぁ。今日の俺の朝食よりも豪華やなぁ」
と看守さんが僕達に話かける。
「一緒に入って食いませんか?」と西野さんが笑いながら言う。
一同爆笑する。
「僕焼き魚嫌いなんすよねぇ」と箸で魚をつつきながら僕は答えた。
「最近の若モンは好き嫌いが多いなぁ。なんでも食っとかな刑務所行った時困るでぇ」
とリーダー的な人であろう50代半ばのメガネをかけた小柄な看守は言った。
「いやいや、勘弁してくださいよ。縁起でもない。僕、執行猶予つきますよね?」
「どうかなぁ」と西野さんは含み笑いで答えた。
看守は留置所の中に2人か3人いて、交代で僕達を見張る。看守達の仮眠室や部屋が留置所にあり、大体の場合はそこに居て、何かある時や、たまに会話してくれる時に僕達の房の前に現れる。
奥には女性用の房もあり、たまに女性達の話し声が聴こえる。
顔を見ることが出来ないようになっているので見たことはないがどうやら今はおばさんと、東南アジア系のカタコトの日本で話す若そうな女が二人だけいる。
「運動~」
飯を食らいしばらくすると看守がまた声をかける。
留置所の外に唯一出られる時間だ。
といっても塀に囲まれた狭い天窓だ。まさにこの『名ばかりの運動』の時間のために作られたような場所である。
この運動の時間は僕らのタバコが吸える時間だ。
この時に3本までタバコが吸える。調べが無い時はこの時間が唯一の喫煙が許された時間。
太陽の光が射している。やはり人間は自然と触れ合わないとおかしくなってしまう。
15分の運動の時間。運動というより日向ぼっこと喫煙の時間。

――夢から覚めるあの微睡みの中、ふと結子にメールをしようと思った。
なんだか無性に結子と会いたい。どうしてこんなに会いたいのだろうか。
久しく会っていない気がする。寝ている時、携帯はいつも枕元にある。
が、しかしこの時は枕元には無い。手探りで届く範囲を探り回してみるが無い。
ポケットの中にも無い。
おかしいなぁ、しょうがないなぁと思い目を開けて短く呻きながら上半身を起こした時にやっとここが留置所だと気づいた。
僕はここが留置所だということ、そして結子と連絡が取れないというダブルショックにより、自分の中の絶望感を追い出すかのごとく、深いため息を付く。
嗚呼、僕は一体全体これからどうなるのか。
結子と会いたいが、何かこう粘っこいものを感じる。罪悪感というか嫌悪感のような黒くて重いものが体の真ん中辺りにまとわり付く。
どうして僕がこんな目に。まさか僕がこんなことに。当たり前と言えば当たり前だ。
当然の報いを受けているまでだ。ワルに箔が付くと思えるほどの余裕は無い。
「18番、房隣に移動しよか」
18番は西野さんだ。「へい、わかりやした」と言い、看守が牢屋を開け、西野さんは隣に移動する。
「なんで移動したんすかね?」と隣にいる西野さんに聞いた。
「新しい奴が来るんやろ」
新しい奴。新しい犯罪者が来るということだ。
あまり嬉しくない。殺人犯が来たりしたら恐ろしい。
良く考えると犯罪者と隔離された狭い部屋で同じ飯を食うとは恐ろしいことじゃないか。
殺されてもおかしくない。こういった留置所などで犯罪者が犯罪者に殺されたなんてことは結構あるんじゃないのか。警察が隠蔽するだけで。
しばらくすると留置所のドアが頑丈な鍵が開く時の、大きい音を立てて開いた。
看守の後ろの手錠を掛けられたやや小太りで身長が低くゴムマリのような体型をしているおっさんが俯いたまま登場した。
「はい、この房に入りや」
と看守さんが言い、僕の房の鍵を開けた。気分が重い。
入ってきたゴムマリと目が合い、僕は軽く会釈した。
それにしても変な顔だ。目がこれでもかというほどまんまるで、やたらと大きい。
鼻がミニローラーで引かれたように見事なまでにぺしゃんこで、タコのような口をしている。
手の甲の毛深さときたらもはや人間のそれではない。
何かこう、生理的に受け付けないのでずっとそっぽ向いて無視して話かけるなオーラを出していたのだが、ついに話かけられた。
彼は激しくどもりながら僕に話しかける。
「ぼぼく、福田って言うねん」
「はぁ、そっすか」
目を合わせないで冷たくそう返した。
「ぼぼくな、飲酒運転やねんけどな、どどないなるのかな」
「いやぁ僕全然わかんないっすね」
シラっと答えて目を合わせようとしない僕。


「12番、調べ行こかぁ」
と看守。
「12番はお前のことやで、福田」
と西野さん。
福田さんはそこまで驚くか、普通。と思うほど驚きながら、大きい目をさらに大きくして看守のほうを見る。
近づいてくる看守に福田さんは「ひぁっ!?」と奇声を発し、後退りする。
こいつ馬鹿じゃないのか。僕はなんだかイライラした。
何が起こるのか分からないと言った感じで戦慄している福田さんを、西野さんと看守さん達は「大丈夫大丈夫、刑事と取り調べするだけや」と落ち着かせる。
「だだ、だ、だ大丈夫ですよね?」と何度も繰り返しながら「大丈夫、大丈夫」と励まされながら、凄まじく挙動不審のまま福田さんは取り調べ室へと連れて行かれた
西野さんは笑いながら「ええ相棒やな」と言っている。
気楽なもんだが、こっちは怖い。
「西野さん、良く考えたら留置所ってめっちゃ怖いっすね。どんな犯罪者が入ってくるか分からんから、精神異常者とか入ってきたら、逃げ場無いから殺される可能性とかめっちゃ高いじゃないですか」
西野さんは含み笑いのまま「そうやでぇ。どうする?はっと夜起きたら福田が上から見下ろしながらじぃっと見つめてたら」と脅してくる。
僕は裏返った声で「勘弁してくださいよ!」と少し叫んだ。
「あいつ相当おかしいやつやで。良かったなぁ」と西野さんは他人事のように嫌味に笑う。
しばらくすると福田さんは顔面蒼白状態で目を見開いたまま戻ってきた。
一体何があった。
「けけけ、刑事に、すす、凄い睨まれて脅されましたよ」
「なんて言われたんや?」西野さんは隣の房から少し声を張り上げて聞く。
「うぅう、う嘘つかんと、ちゃんとホントのこといいい言えよって言われました」
「なななんか捕まった時ね、袋にふぅぅって息吐け言われたんですよ」
西野さんは聞く
「それで何mgやったんや?0.25mg未満やったら酒気帯び運転で済むぞ。」
「おおお、覚えてないんですわ」
「そんぐらい覚えとけよ、アホ」
「酒気帯びやったら罰金50万で出れるわ」
福田さんは素っ頓狂な声をあげた
「そそっそそんなお金無いですよ」
「身内が出してくれるやろ。おとんかおかん、おるんか?」
「いいいいますけど、出してくれるかわかりませんわ」
隣の房同士だから少し大きい声でこういった会話が続く。
僕は寝っ転がり、両手を頭の後ろで組みながらその会話を聞いている。
会話が途切れ、しばらくの静寂。
福田さんは急に僕の真似をするかのように、僕の隣で寝そべって両手を頭の後ろで組んた。
なんだか、この人の一挙一動にとても腹が立つ。
そして僕の方に顔を向け、僕の顔を見ながら言った。
「きき君、綺麗な顔してるなぁ」
さも感動するかのようにそう言った。
隣の房で西野さんが笑いを堪えている。
「あ、ありがとうございます」
僕は目を合わせないで引き気味でそういった。
「小室哲哉みたいやね」
西野さんが笑っている。
「いやいや、ロン毛で金髪やからでしょ。髪型ですよ」
「いいやいや、ほんまに似てるよ」
こいつホモなのだろうか。
「トヨタのマークあるやろ?」
唐突に話が飛ぶ福田さん。
「はぁ…ありますね」と僕は相槌する。
「あのマーク作ったんな、僕やで」
「!」という顔で福田さんの顔を見た。
「凄いじゃないですか!天才だったんですね!」
この人の会話の全てがあまりにも狂気じみているので僕はこの人の会話を全部信じている演技をすることにした。単なる暇つぶしである。
「福田さんマジで凄いですね。トヨタのマーク作っていくらぐらい金貰ったんですか?」
「それが、騙されて一銭も貰ってないんや」
僕はあたかも憤慨しているかのようにしている表情を見せてみた。
「最悪じゃないですか。トヨタの社長訴えましょうよ。」
と声を荒らげて言ってみる。
他にも福田さんは、自分は精神病院に何年も隔離され、クスリをたくさん飲まされて、ずっと監禁されていた。とも言っていた。
監禁かどうかは置いといて、おそろくそれは本当だろう。
「36番、調べやでぇ」
お声がかかった。取調室へ入る。
「よぉ、坂本」
パソコンを睨んでいた一重の重い目が僕を捉えた。
低い声、カッターシャツを腕まくりした僕の担当の刑事。
この刑事さん、拳ダコが出来ている。空手でもやっているのだろうか。
刑事は僕の言うことについて疑ってかかってくる。
取り敢えず僕が絶対に隠さないといけないのはシュルトの金300万だ。
しかしそこのところはシュルトが警察に言わない限りバレることはない。
そしてシュルトは警察に言わない。言う訳がない。
僕の奪った黒い金は黒い社会の中で今も循環していっているのだろう。
僕は金を奪ったこと以外は正直に話した。いつもクスリを買っていた売人の名前と連絡先も簡単に口を割った。
口を割れば刑は軽減される。口を割らないで売人を守るほどの義理もあるはずがない。
「そういや、お前の彼女と連絡取ったぞ」
「どうしてましたか!?」
僕は身を乗り出して言った。
「話聞くために警察署まで来てもらって話したけどな、めっちゃ怒ってたぞ。窃盗のことなんか知りません!翔太が勝手にやっただけで迷惑だってな」
と苦笑する刑事。
心に黒い重みが乗っかかってきた。駄目だ。
調べが終わり、房に戻ってくる。
僕は夕飯に一切手を付けずにひたすら横になっていた。福田さんの言うことも全て無視し、
横向きで少し膝を曲げた姿勢で目を瞑っていた。
「なんや坂本、元気無いなぁ。なんかバレたんか?」
という西野さんの声も無視をした。
空虚。もう僕に面会に来てくれる奴は居ない。留置場に誰も面会に来てくれないことほど寂しいことはない。それに、シャバに出てからも、もう僕のことを知っているやつはいない。それはとても孤独だった。
違う、1人いる。愛美だけだ。愛美だけが僕を知っている。
愛美は僕のことを赦してくれるだろうか。こんな僕に愛想つかさずに接してくれるのだろうか。嗚呼、クスリがしたい。体が疼き始めた。
クスリだけは僕を裏切らずにずっと一緒にいてくれた。
しかしクスリと一緒に絶望もいつも一緒にいた。
クスリでラリってもいつかは絶望。シラフでも絶望。やめても絶望。やめなくても絶望。
どうしようもないじゃないか。人生ってなんだっけ。
中学の時の英語の先生がいつもこう言っていた。
「当たり前のことが当たり前に出来る人間になろう」
それが出来る人間はおそらく真っ当に生きていくことが出来る人間なんだろう。
しかし僕はそれが出来なかったのだ。しかし僕はもうこんな生き方、こりごりだ。
こりごりなんだ。助けて欲しい。僕をこの底なし沼から引っ張りあげて欲しい。
僕と社会の間には何かこう、大きな隔たりがある。大きな壁が。
空虚という怪物が大きな口を開いて卑しい笑みを浮かべている。
「お前には無理だ。出来損ないなんだお前は。そういう遺伝子なんだ。そういう星の下で産まれてきたんだ」
何処かで聞いた言葉だ。
酷い耳鳴りがする。頭がもげそうなほど、痛い。

「さぁ、朝や。朝や。おはようさんさん。朝日がさんさん」
と隣の房から西野さん。
一人になっても相変わらずだ。
「ももも、もう起きなあかんの?寝てたらあかんかな?」
と福田さんは頓珍漢なことを言い、僕は低血圧だし、昨日のことがあり余計腹が立ったので無視をした。
まだ布団をたたまずに寝ている福田さんを見て看守さんは眉をしかめた。
「何してんの。はよ起きぃ」
「はは、はい、すいません」
福田さんはテンパりながら起き上がり、布団を畳む。
運動の時間。
福田さんはタバコを持っていないようだ。
持参金があるなら、タバコが買えるが福田さんは持参金が無いらしい。
「さささ、坂本君、内緒で僕にタバコくれへんか?」
と小声で言ってくるがすぐ隣に看守さんがいるのでまる聞こえだ。
「それはあかんよ」
と若い看守に福田さんは怒られた。
福田さんは僕と西野さんの吐き出す煙をタコのような口を更にタコのようにし、必死で吸っていた。
この人は本当に馬鹿なんだと思う。
しばらくすると、新入りが来た。若いやつだ。西野さんの房に入った。
奴は無免許運転だった。
大変だ。次、もし誰かが入ってきて誰も出なかったら房は3人になる。
この狭い房に3人はいくらなんでも窮屈だ。
「ききき君、綺麗な手してるねぇ」
と感嘆しながら福田さん。
「はぁ…ありがとうございます」
「ぼぼぼ僕の手なんかガサガサやで。ずっと紐を編む仕事してたからね」
「はぁ…そうなんですか」

「ききき君、綺麗な手してるねぇ」
と感嘆しながら福田さんが約10分後にまた言ってくる。
「はぁ…ありがとうございます」
「ぼぼぼ僕の手なんかガサガサやで。ずっと紐を編む仕事してたからね」
「はぁ…そうなんですか」
それが4回ほど繰り返された。
「あいつなんかおかしいっすよ」
と隣の房の新入りが西野さんに言う。
7回目に福田さんが「ききき、君、」と言いかけたところで福田さんに面会が来た。
「福田、面会やで。お父さんや」
福田さんは目を大きく見開いて驚いている。
そして福田さんは面会に行ったまま二度と帰ってこなかった。
罰金を払ってもらい、保釈されたのだろう。
看守さんが言うには福田さんの親父はまるでクローンかのように福田さんと姿形がそっくりだったとのこと。
奴はクローン人間ではないのかという話でしばらく盛り上がった。

「36番、面会やで」
僕は勢い良く起き上がった
「誰ですか?」
「さぁ?女の子や」
と看守。
ドクンと一回、胸が高鳴った。
「おぉ、良かったなぁ吉野。フられてなかったか。彼女やろ?」
と西野さん。
僕は鉄格子を握って早く開けてくれと表情で訴えた。
面会室は留置所から出る扉の右の扉だ。2つの扉があり、どちらも面会室となっている。
看守さんにドアの鍵を開けてもらい、面会室に入った。
丸いポツポツの穴がついたアクリルガラスで仕切ってある面会室。ドラマや映画で観るのと全く同じ作りだ。
看守さんが後ろの椅子に腰掛けている。
しばらくするとガラスの向こう側のドアが開いた。
看守さんの後ろから真っ白なブラウスにベージュのカーディガンを羽織り、膝丈のスカートからすらりと伸びる脚が見えたそれはなんと、愛美だった。
「えっ?」
僕は目をまんまるに開き、 1段と大きく胸が高鳴った。
「ここまで来るの電車乗り継いで、バスで揺られて3時間半もかかったよ」
とさぞ疲れたかのように右手で頭を抑える仕草をする愛美。
「翔太、久しぶり。やつれたね」
変わらない顔で変わらない笑顔を見せる愛美がそこにいた。しかし笑顔は僕を気遣った作り笑顔のようにも見えた。まぁ、こんなところに来て満面の笑みを見せることも出来ないだろう。
「愛美、なんで俺が捕まったの知ってんの?知ってるの結子だけやと思ってたけど」
「結子さんがわざわざ私に電話くれて教えてくれたんだよ」
結子が愛美に?何故?あんなに激しく罵倒するほどの愛美に。
分からないという顔をしている僕に愛美は続けて言う。
「結子さんがね、翔太と自分は同じ傷を持っていて、同じ弱さを持っていて、同じように黒いから、二人で一緒にいたら堕ちていくだけだ。そこには幸せなんて決して無い。でも自分と同じ翔太といたい。でもいるならば、結果は目に見えてる。だから決断して消えることにする。って言ってた」
僕は胸が少しキュッとなった。
僕は結子を悪魔呼ばわりして何も分かっていないと見下していたが、実は結子のほうが僕よりも分かっていて、そして決断する勇気を持っていたのだ。
分かっていながらやめられない状況から結子は決断してやめることにしたのだ。
「結子さんは、実家に帰ってお母さんと和解して、二人で暮らしていくんだって。後、結子さんは、」
とそこまでいって愛美は伏し目がちになり口をへの字にしてつぐんだ。
「え?何?」
と僕は身を乗り出す。
「えーっと……」
と頭を搔きながら気まずそうにする愛美。
「結子さんは私に、翔太をよろしくって。あいつはあたしが電話であんたに怒鳴った後に、咄嗟にあんたをフォローした。あいつが本当に好きなのはあんただからって言ってた」
愛美はそのまま顔を下に向けた。耳が赤くなっていた。
愛美は続けて言った。
「いいよ。クスリまだやめられなかったとしても付き合って、いいよ」
しばらく沈黙が続いた。僕は戸惑いと嬉しさが入り混じっていて良く分からなかった。
「え?本当にいいの?」
良く分からなくて気が動転していたのでアホみたいな言葉を発してしまった。
「うん、いいよ」
と伏し目がちで消え入りそうな声で言う愛美。
どうして、愛美はこんなにまでどうしようも無い僕の側に、まだ居てくれるのだろう。
馬鹿なんじゃないだろうか。恋は盲目と言うが、それなんじゃないだろうか。
「ありがとう」
僕は震える声でそう言うので精一杯だった。
僕はアクリルガラスに手を置いた。
愛美は同じように、僕の手に重ねてアクリルガラスに手を置いた。
もどかしいガラス越し1枚の差の重みだ。しかし、繋がっているのをはっきりと感じる。
愛美の手に触れていないが、愛美のぬくもりが感じた。
たったこの壁1枚でお互いの世界の遠さがある。たった何センチのこの差。
「でもクスリやめないといけないよ。絶対にやめさせるから」
と愛美は僕の目を真っ直ぐに見つめながら言った。
さっきまでの伏し目がちな頼りなさそうな目と違って、強く訴えかけるような光の強い目だった。
「うん、愛美がいたらやめれそう」
僕は本心でそう思った。
「翔太、これから私に手紙を書いて。翔太の過去のこと。シュルトに入る前までの翔太がどうやって生きてきたのか。小さい頃から記憶を辿って」
「なんで?嫌や」
「嫌じゃないの。翔太は誰にも話ししたことないでしょ。自分の過去のこと」
「なんで?」
「知りたいから。忙しいの?」
「めっちゃ暇」
「じゃあ書いて。過去のことは別にいいんだけど、でも翔太は過去のことを誰にも話さないことで心の内を隠しているように見えるから。私も書くよ」
僕は腕を組んで上のほうを観ながらうーんと唸った。そして言った。
「いいよ」
愛美はパッと笑顔になった。
「そろそろ時間ですね」
と後ろの看守が腕時計を見る仕草。
「じゃあ、行くね。牢屋の中ってお金無いと辛いって聞いたからお金1万円入れておくから大切に使うんだよ。ここ死ぬ程遠いからあんまし来られないけど、また来るね」
愛美は席を立って、手を振った。
僕も手を振った。
ドアを開けて出る直前も振り返って手を振ってくれた。
ドアがパタンと閉まり、すぐにまたドアを開けて含み笑いをした愛美が手を振り、そしてドアが閉まった。
「ええ子やなぁ」
と後ろの看守さん。
僕は照れ笑いをした。
20分間の触れられない看守付きのデートだったが、心は喜びと自由を感じた。
「良かったやんけ色男」
と房に戻ってくると西野さんがヒュウと口笛を鳴らし、チョッカイを出してきた。
僕はまんざらでもなく笑った。前の彼女とは少し違うのだが説明するのがめんどくさかったのでやめた。
ちなみにもう一人の若い無免許運転の奴はいつも「嫁が、嫁が」と嫁の話をしているが、肝心の嫁は1週間経っても面会に来ず、そのまま親が面会に来て罰金を払ってもらい釈放されていった。何故だろう。
西野さんと僕はまた二人きりになった。
西野さんが調べに行き、20分も経たないうちに帰ってきた。
3人の看守さんに抱えられながら心臓の辺りを抑えてとても苦しそうに呼吸をしていた。
そのまま房の中に入り、汗をボタボタと畳に落としながら西野さんはそのままうずくまるように倒れた。
「大丈夫か?18番。今救急車を呼んだからなぁ」
と看守さん。
西野さんは胸の辺りを抑えながら「すいません、ありがとうございます」と息絶え絶えに言った。
「西野さん、大丈夫っすか?」
とおたおたとしながら震える声で言う僕。
「別に大丈夫や……そういえば、わしが、調べ行った時な、お前の刑事、おったから、今日、調べあるから、タバコ吸えるからな」
とヒュウヒュウと息を鳴らしながら西野さん。
西野さんは心臓発作の様な状態なのにも関わらず、僕のことを気遣ってくれたその言葉にジィンときたものがあった。
西野さんはそのまま看守達に抱きかかえられながら救急車で警察病院に運ばれていった。
そしてそのまま留置所に戻ってくることは無かった。
僕は一人で過ごすことになった。手紙を書きざるを得ない状況に追いやられた。
便箋と封筒を用意し、早速書き始める。そういえば手紙なんか書いたことがない。
僕は、手紙を書き続けた。
その手紙の中で、初めて自分というものを露呈した気がした。

――愛美様へ
今まで手紙というのを書いたことが無かったから、どうやって書けばいいのか分からないけど、取り敢えず読んで意味が理解出来るように書きます。
まず、愛美が面会に来てくれて嬉しかった。結子に会いたいと思っていたけど結子と会うと、嫌悪感に近い、心の中の黒い何かが共鳴して、それが重くなって正直辛いんじゃないかと思っていた。
結子もそうだったんだと思う。その黒い何かがお互いを引き寄せようとしてたんだと思う。
それは結子が言っていたようにお互いが持っている傷であったり弱い何かがだったりするんじゃないかな。その黒い何かに引き寄せられてそれに身を委ねるのは楽だった。
それから離れないととも思う。でも離れられなかった。
たぶん結子も愛美と出会ったから離れることが出来たんだと感じます。
さて、僕の生い立ちを書きましょうか。
僕は17歳まで東大阪市で産まれ育った。
布施駅という駅が近くにあった。それなりに栄えている所だった。回転寿司の発祥の地であったり、スティーブン・セガールがその近くで何年間か住んでいて、セガールの合気道の道場もある。
悪いところで言えば、この地域は全国でひったくりがナンバー・ワンだったりする。
大きい古びれた商店街があり、昔から今まで全く変わっていないところだ。
僕は産まれた時から片親だった。お袋は僕が4歳ぐらいの時に再婚した。
その再婚した男が酒飲みでいつも酒に酔って僕を殴っていた。
足を掴んで床に叩きつけられたり、口が切れて血が出るまでビンタをされたりした。
僕はそこで人の顔色を伺う技術を学んだ。いつもいつも男の顔色を伺って生きていた。
その男は僕が10歳になるまではいたが、ある時お袋を殴りまくって出て行って、それから戻ってこなくなった。
平和が訪れたかと思うと今度はお袋が僕に暴力をふるうようになった。
お袋は毎日僕に罵声を浴びせた。「お前は必要の無い子だ」「タダ飯食わせてやってるんだからありがたくおもえ」
僕が学校の宿題をしていると酒に酔ったお袋が僕に近づいてきて、僕を小突きながらこう言った。
「お前は無理だ。出来損ないなんだお前は。そういう遺伝子なんだ。そういう星の下で産まれてきたんだ」
一番辛かった言葉はこれだ。
「お前なんか好きじゃない。愛してない。産まなきゃ良かった。お前なんか大嫌いだ」
お袋はある時泣きながら僕に抱きついてきて言った。
「お母さんはもう生きていけないよ。辛い。一緒に死のう」
その翌日、小学校から家に帰ってくるとお袋は首を吊って自殺していた。
遺書にはこう書かれていた。
『私は酷い母親でした。翔太ごめんね。こんな世界に産まれさせてしまって。産まれてこなかったら良かったね』
お袋の遺書には産んだことを後悔したということだけで、僕のことを愛していたとかそういったことは書かれていなかったんだ。要するに僕のことは好きじゃなかったんだ。
愛してなかったんだ。
そして僕は児童養護施設に入れられた。
僕はそこの施設の奴と殴り合いの喧嘩をしたり、先生の言うことを聞かないで歯向かったりして中学になる頃には施設に戻らずに夜な夜な仲間達とシンナーを吸ったりしていた。
そして17歳の頃に施設から飛び出してその時鳶職をしながら1人暮らしをしていた友達の所に居候することにした。仕事を転々と繰り返して、住むところも転々としていた。
僕は何処へ行ってもよそ者だと感じていた。僕は必要の無い人間なんだと。上司の目が気になった。
役立たずと思われている気がした。
僕はミナミの歓楽街に入り浸るようになった。そこは居心地が良かった。
そして18歳の頃からキャバクラのボーイの仕事を始めた。
しばらく続いていたが、店の女の子に手を出し過ぎてボコボコに殴られた挙句クビになった。
それからホストや風俗の店員などを兼ねて、スカウトマンのシュルトに入った。
そこからは愛美の知っている通りだ。
僕はずっとクスリによって心の空洞を埋め続けていた。しかしそれはクスリをすることで広がり続けていたことに気付いていなかった。クスリで一時を満たした後に、その空洞は大きくなっているんだ。
でもシラフになって虚無が襲ってきた時にまたすぐにクスリで埋めるから気付かなかったんだ。
クスリが無いときは女やギャンブルで埋める。それはクスリと一緒だ。
とにかく快楽だよ。快楽を貪ると一時的に凌げるんだ。
だけどそれは一時的にすぎないし、虚無は広がっていくだけだった。
クスリは一時の偽りの幸せを手に入れることが出来る悪魔の力だ。
それを使うということは地獄に片足を突っ込むことになる。
僕はずっと現実から逃げていた。現実逃避をして快楽という蜃気楼がかかった桃源郷のようなところにずっといたんだ。それは幻だと分かっているけどそこから抜けられずにいた。
たぶん、僕らのような奴らはクスリや夜の世界に逃げるか、或いは刑務所で生きるしか方法が無いのだと思う。
産まれ育ったところがそういうところだったんだよ。負のオーラだ。継承されていく悪夢だよ。
それに、僕は昼間の社会に幸せがあるとも思わない。
そっちはそっちでみんな病んでいるしお互いがお互いを蹴落とし、傷付けあって生きている。夜の世界よりかはマシかもしれないけど。昼間は昼間で絶望だ。
僕は何処に行けばいいのか分からないし何処に行っても大して変わらないんじゃないかと思う。
問題は日本だけに関わらず、他の国は他の国で別の形の絶望がある。
なら、もうわざわざ生き方を変える必要はない。
僕はここの絶望に留まっていた方が良いというのが僕の見解だ。でも今は愛美と生きたいから愛美の居る絶望へと行く。でも結局そこは絶望だ。

あれは確かお袋が自殺をする二日前のことだった。
お袋に連れられて奈良の信貴山までピクニックに行ったんだ。
家で一緒におにぎりを作って、タコさんウインナーと卵焼きを入れて。
長いこと電車に揺られて。僕はお袋と初めての遠出で終始ワクワクしていた。
たくさん、楽しい会話をしたんだ。そこにはいつものような嫌な言葉は一つも無かった。
広い草原で虫を捕まえたり走ったり、お袋と戯れて遊んでた。
幸せだった。僕が覚えている、お袋との最初で最後の幸せな思い出だ。
いや、僕の人生の中で唯一の、幸せかもしれない。
経った一つの、優しい思い出。僕はあそこにずっと居たかった。
優しいお袋と温かい信貴山の情景。
でも、そこにはずっと居られないんだ。時というのは無常だった。
電車に揺られて帰っている時、窓から夕焼けで赤くなった信貴山を観ながら、信貴山に向かって僕はさよならと言って手を振った。
お袋はそれを見て、同じようにさよならと言って手を振った。
そのすぐ後にお袋は僕を抱きしめて、嗚咽を殺して泣いていた。
お袋はこれでもかというほど僕を強く抱きしめていた。僕は痛かった。
でも、温かかった。安らぎがあった。心をぎゅうっと握られた感じだった。
ずっと握られていたかった。
それは僕がお袋に抱きしめられた最初で最後だった。


そこまで書くと、僕はペンを置き、便箋を封筒に入れた。

書き終えたその夜に新入りが来た。
僕の房に扉がギギっと開く。
渋い顔をした、全身にタトゥが入ったスラッとしたルックスの良い爺ちゃんだ。
「夜中にすまん。ワシは田所って言うんや。よろしゅうな」
と頭を下げる爺ちゃん。
新入りといってもこの62歳の爺ちゃんは大先輩だ。
覚せい剤の所持と使用で逮捕された爺ちゃんの田所さんは前科18犯。
刑務所歴は27年とのこと。
人生の半分は刑務所で過ごしているという、一体どれだけヘマを打てばそれだけ逮捕されるのかと疑問に思うほどだ。
言うことも中々クールだった。
「坂本、お前そんぐらいの事件で初犯やったら執行猶予つくわ。大丈夫や。でも出来るだけ刑軽くするためにな、公判の時は……」
などと色々アドバイスを頂いた。
「もうこの歳なったら人生どうでもええから、刑務所なんか屁でもないわ。前ムショいった時も別に仮釈なんかいらんから自由に暴れたったわ」
「同じ房にガキがおってな、俺にエラそうな口聞いてきたから、あんまイチビっとんちゃうぞこのガキャァって言って、熱々の味噌汁、バシャって顔にかけたったわ」
とご満悦そうな田所爺ちゃん。
武勇伝と田所流人生哲学を聞くのは中々楽しかった。
田所爺ちゃんが入ってきて3日後にまた新入りが来た。なかなか忙しない。
田所爺ちゃんが隣の房に移動して僕の房に新入りが入る形となった。
黒い髪をシド・ヴィシャスのように立て上げた、シャープな顎の鋭い眼光を持つ男だ。
僕と同い年だ。名前は瀬野譲二。
覚せい剤の所持、使用で2回逮捕され、2回目に刑務所の中で、定期的に来るキリスト教の牧師の話を聞き、涙を流してジーザスを信じてクリスチャンになったとのこと。
その後覚せい剤は辞めてまともに職に就き暮らしていたが、上司に執拗なイジメを受けていた同僚をかばい、上司に言い寄りそこで取っ組み合いとなり喧嘩をし、あばらを折り、傷害罪で再び逮捕。半年刑務所に入り、出所して職に就き、まともに暮らしていたが、次は京橋駅で酔っぱらいの中年の男が水商売風の女にちょっかいを出していたところを助けようと酔っぱらいに声をかけると、胸ぐらを掴まれたので反射的に手が出て右ストレート一発で酔っぱらいの鼻を折り、傷害罪でまたもや逮捕され、今に至る。
体を鍛えているのだろう。細いが筋張った硬い筋肉で覆われている。
気さくな奴で、良く看守さんと僕達を笑わせてくれる。
音楽の趣味が合い、すぐに打ち解け仲良くなった。
刑務所ではいつも聖書の話をしたりするので「牧師」と呼ばれていたらしい。
背中には大層な十字架のタトゥと、左胸には『右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ』と刻んであるタトゥを見せてくれた。
「お前、全然その言葉の通り出来てへんのになんでそれ彫ってんの?」
と僕は左胸のタトゥに指を指した。
「俺が一番出来ひんから彫ってんねん。今の俺はこんな強く生きられへんチキンやけどさ、そのうち」
とそこまで言って言葉が詰まる譲二。
「この言葉の意味分かる?」
と譲二。
「いや、分からん。マゾみたいやな」
と僕。
「これはジーザスが言った言葉やけどな、理不尽な事に対して、殴られて殴り返すのは、言ってみれば罪に対して罪に対抗してるんや。悪に悪でお返ししてるんや。
それじゃ悪に負けたまんまや。でもな、右の頬を打たれて左の頬を差し出すというのは、悪に対して義で戦ってるんや。右の頬を打たれて頭を垂れて『ごめんなさい』って謝るのは悪に対して降伏や。せやけど、右の頬を打たれて右の頬を打つのは悪に対して悪で返してるから悪の仲間入りや。でもな、」
譲二は握り拳を作って僕の前に出して見せ、震える声で続けた。
「右の頬を打たれて、毅然とした態度で動じることなく左の頬を差し出すのは、唯一の悪に対する抵抗。悪に屈せず、悪で報いず、相手に悪を気付かせるという、義の真骨頂や。そしてそれこそが唯一の悪に対する勝利や」
情二は立ち上がり、鉄格子を強く握った。
「天安門事件の翌日、戦車の前に立ちはだかった男がいた。後に彼は無名の反逆者と呼ばれた。何人と殺してきた戦車の中の人間は、その経った一人の人間を殺せんかった。なんでと思う?」
鉄格子を握った手が白くなる。
「罪に気付いたんや」
「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ。これほどの、ロックは無いで」
僕は深く感嘆した溜息をつき、胡坐をかいて上を見上げながら言った。
「なんや、俺今までキリスト教っていうんはなんか一番ロックと程遠い生きモンやと思ってたけどめっちゃロックやなぁ。イカすなぁそれ」
譲二は目を輝かせて興奮して僕の目の前に来ていった。
「せやろ!クリスチャンこそ最高のロックやで。聖なるロックや」
譲二は歌うように叫んだ。
「ジーザスイズロックンロール!」
「アホ、うるさい」
と苦笑して叱責する看守。
「でも、クリスチャンってもっと真面目なもんやろ?お前見た目もそうやし、クリスチャンなってもパクられたりしてるやん」
しかめっ面をする譲二。
「クリスチャンになってから俺シャブはもうやってへんぞ。窃盗も恐喝も。ジャンキーで窃盗と恐喝で生活していたような俺がまともに仕事就いて働いてるだけでも凄いことやぞ」
「まぁ、そう考えると凄いなぁ」
と納得する僕。
「せやろ。後はすぐにキレてまうこの性格だけや。だからこのタトゥ入れてんの」
といって譲二は自分の右胸を叩く。
田所爺ちゃんが鉄格子を手で握りながらこちらの房を見ながら、言った。
「キリスト、キリストってなぁ。ここは日本やぞ。日本やったら神道と仏教やろうが。んなもん邪教や。仏はおるけど神なんかおらんわ」
譲二も同じように鉄格子を手で握り田所爺ちゃんの房を睨みながら言う。
「なんでお前がそんなん知ってんねん。ボケ。ニュートンもアインシュタインも神は居ると言ってんぞ。お前はそんな世紀最大の科学者よりも偉いんかよ」
声を荒げる田所爺ちゃん。
「なんやとこらぁ。調子乗っ取ったらいてこましたるぞガキャァ」
譲二は笑いながら言う。
「何がやねん。俺はただ聞いてるだけやろ。お前はニュートンやアインシュタインよりも偉いんかって聞いてんねん。はよ答えろや」
そこで看守達の仲裁が入った。

――「36番、手紙やで」
愛美からの手紙だ。僕は狂喜乱舞した。
一日中留置所の中で何もせずにくだらない会話をし、腑抜けた生活をしていると、手紙が待ち遠しくなる。そして愛美のことばかり考える。
「ええなぁ。どんな娘や?」
と彼女からと察した譲二は寝っ転がったまま匍匐前進で近づいてき、僕の顔を下から覗き込む。
「あっ」
とその時気付いた僕は思わず声が出た。
「どないした?」
と一層僕の顔を覗きこむ譲二。
「そういえば、俺の彼女の愛美もクリスチャンやで。お前と一緒や」
譲二の表情がパッと一変して驚きと喜びに満ち溢れる。
「すげぇな!お前絶対その娘と結婚しなあかんで」
「譲二は彼女おるん?」
と僕はほころんだ顔で言った。
「教会で知り合って結婚した嫁がおったよ」
と譲二。
「離婚したん?」
と僕は聞く。
「死んだ」
譲二は無理に造った痛々しい笑顔でそう言った。
僕は小さい声で、え?と聞き返した。
理解できるまで時間が少しかかった。
「元々重い心臓病やったからなぁ」
「神様守ってくれへんかったんか?そんなん悲しいやんけ」
と僕。
「俺もそう思って初めのうちはキレとったよ。でもな、人間と神様の思いは違うからな。そこはあいつが心臓病やったのは自然の法則や。でもあいつはいつも喜びを持って生きとったよ。俺は刑務所でジーザスと出会った。出所してから毎週教会に行ってあいつと知り合って、付き合ってた。そしてまともに暮らしてたけど、またすぐにシャブに手を出してしまったんや。それでもあいつは一緒にいてくれて俺のために毎日祈ってくれて、俺がシャブをやめれるように最善を尽くしてくれた。そして俺はやめれたんや」
「あのままやったら俺は死んでた。あいつは俺を見捨てずに、献身的に助けてくれた。
心臓病で天国に逝ったのは悲しい。でも全部のことを考えたらそれが最善やってん。悲しいことやけどな。でも天国で会えるからな。強みはそこや。それでも苦しいけどな」
「全部のことって?」
と僕。僕は納得がいかなかった。
「森羅万象。初めから終わりまで。トータルで考えた結果や。それは必ず善い終わり方に神様は導いてくれるんや。人間の罪も勘定してな。それは難しいことやで。だから人間には分からん」
僕は頭ではなんとなく理解したが感情では理解出来なかった。
「ありがとうな」
と譲二は唐突にそんなことを言った。
「何が?」と僕は聞き返す。
「さっき俺の気持ちになって悲しんでくれたやろ。それは俺は嬉しかったから。お前やっぱりいいやつやな。俺の行ってる教会絶対来いよ。俺は執行猶予で出れるか分からん。刑務所半年ぐらい行くかな。どっちにしろ罪を悔い改めるよ。お前は執行猶予で出れるやろ。教会でお前の彼女と3人で会おうや」
隣の房からすすり泣く声が聴こえる。
「どうしたんすか?田所さん?具合悪いんですか?」
と僕は聞く。
田所爺ちゃんはしゃっくり混じりに言った。
「譲二、お前ええやつやな。今までムカついてたけど、ええやつやわお前」
なんだかそう言っている田所爺ちゃんもいい奴のような気がした。
前科18犯という社会的にみると極悪人なのだが。
僕らのいいやつの定義ほど適当なものはない。否、それは全ての人間に共通することだ。
ちっぽけな器の狭い僕らは、人間は、みんなどっこいどっこい、五十歩百歩だ。
しかし、譲二のように、罪を犯しはするが、悔い改めて、良くなろうと頑張っている奴は本当に良い奴な気がする。
「田所さんも教会来てや。待ってるで」
と譲二
「おう、2年半まっとれ。獄中で老衰せんように祈っといてくれや」
と田所の爺ちゃん。
会話が終わり、静かになったところで僕は手紙を丁寧に開封した。
ふわっと愛美の香りがした。
中からたくさんの女子力の高い、水色の可愛い綺麗に折りたたまれた便箋が出てきた。
便箋を鼻に近づけて、一気に吸い込む。愛美の香りがする。甘酸っぱい気持ちで満たされる。

――翔太へ
まず、過去の辛いことを思い出させてしまってごめんなさい。私にはきっと理解出来ないほどの痛みで傷。私もそれを少しでも理解することが出来たと思います。
胸が痛み涙が流れたのは翔太の傷を、全部ではないけど、共感したからです。
私は牧師の娘として産まれ、貧しいながらも愛のある家庭で育ちました。
だから私が言っても説得力がないかもしれない。高みの見物のように感じてしまうかもしれない。
私は、昔友達を見捨てたことがあります。
同じ大阪の大学に行っていた友達です。その子は吉田夏美といいます。
その子はある日、友達に紹介してもらった風俗で働くようになりました。
そしてその紹介してもらった友達と同棲するようになりました。
そしてクスリを覚えて大学を辞めて夜の歓楽街で遊びまわり、借金まみれの悲惨な生活をしていました。
私は何度も彼女に生活を改めて真っ当に生きるように説得しました。
ある時夏美は私に言いました。
「あなたは高いところからたまに、そんなところ危ないから戻っておいで、這い上がっておいでって叫んでるだけ。私のところまで降りてきて手を差し伸べてくれるわけじゃない。こんな地の底から私は1人じゃ昇れない。降りてきて助けてよ」
って。その通りだった。でも私はずっと汚れのない所で生きてきて、怖くて。
私は臆病だった。そしてその子はある時自殺した。

――手が震え、酷い動悸がした。吉田夏美。僕が騙して風俗に入れた女の子だった。
なんという偶然。偶然と思えないほどの。それは必然と言うのだろうか。
否、偶然と必然は決して合間見れない。
全てが偶然か、或いは、全てが必然か。僕はこの時必然というのを感じた。
だとすれば全てが必然となるのだ。
夏美は僕と別れた後に自殺をしたなんて知らなかった。景色が揺れる。力が抜けて手紙を落としそうになった。
僕が彼女を絶望の淵へ陥れ、そして殺したのだ。しかも愛美の友達だ。
胸が圧迫され潰れそうだ。
愛美は僕のことを赦してくれるだろうか。赦せるようなことじゃない。
吐きそうになる。
僕は震える手で手紙を再び読み出した。

――それでも私は夏美には出来るだけ近づいて手を延ばしてた。だからこそ辛かった。
私が翔太に対して付かず離れずだったのは怖かったから。
夏美の時のように手を伸ばし過ぎると、翔太が死んじゃった時に辛かったから。
また大切な人を無くすのは怖かった。
今のままの状態だったらそれほど傷付かないかもしれないって思ったんです。
それはとても自己中心で酷い考え。
自分が傷つきたくないから翔太を見殺しにしたようなもの。
クスリをやめたら付き合うなんて、自己中心の極致でした。
だから、今度は翔太のところまでちゃんと降りてきて、手を伸ばします。
翔太はそういう星の下でなんて産まれていない。誰もそういう星でなんか産まれていない。
負の連鎖は断ち切ることが出来る。悪夢は終わる。虚無に騙されないで。
光は闇の中で輝いています。
翔太は現実が絶望だと思っている。それは今まで絶望だったから。そしてクスリに逃げた。
でもクスリで得れた幸せは偽りでそれはもっと酷い絶望の入り口だった。
そして翔太の現実の中には不幸ばかりだったから、何処へいっても絶望と考えてしまう。
だからクスリと刑務所に逃げる。
でもそれは臆病になって現実と向き合えなくなって逃げているっていうことだよ。
私の世界は絶望ではありません。希望です。だから翔太も私と歩めばきっと、希望。
それに翔太は幸せを一つ思い出したでしょう。お母さんとの思い出。
お母さんと二人でピクニックに行った時、そこには快楽があった?無かったでしょう。
でも幸せだった。幸せを感じることが出来たのはなんでだろう?
そこには何があったと思う?
お母さんは翔太のこと愛していなかった訳ないよ。

手紙はそこで終わっていた。
「なんや、元気無いな?どないした?」
譲二が心配そうに僕の青褪めた顔を覗きこむ。
僕は譲二を無視して、手紙を折りたたみ、ポケットに入れ隅っこにいき、寝転がり、コンクリートの無機質な壁を見つめていった。

2時間ぐらいそうしていたのだろうか。僕は気持ちの整理がつかなかった。
喜び、哀しみ、虚しさ、罪悪感、やるせないほどの後悔、そして絶望と希望が一緒くたになったような矛盾と葛藤の中僕の心はこの留置場の中で彷徨っていた。

唐突に、後ろにいる譲二が歌を歌いだした。
譲二の声は透き通っていて、綺麗だった。その声は留置場の中を満たし、僕の心に浸透した。

――君は愛されるため産まれた 君の生涯は愛で満ちている
君は愛されるために産まれた 君の生涯は愛で満ちている
永遠の神の愛は 我らの出会いの中で 実を結ぶ
君の存在は私には どれほど大きな 喜びでしょう
君は愛されるため産まれた 今もその愛受けている
君は愛されるため産まれた 今もその愛受けている


僕はいつの間にか嗚咽を殺して泣いた。涙が頬を伝い、熱かった。
涙の一部は畳に吸い込まれていった。

翌日の取り調べで、僕はシュルトの金300万を盗んだことを刑事に告白した。
早速刑事はシュルトに確認を取ったが、シュルトからの答えはお金を取られた覚えはない。きっとクスリで頭がやられて変な被害妄想が入っているんだろうとのことだった。
シュルトからすると300万ぐらいの端金なんかどうでも良いのだろう。それよりも黒い金を刑事に調べられるのが怖かったのだ。
ということでこの事は僕の被害妄想だということで話が流れた。
昼食を食べ終え、譲二がきよしこの夜を歌っていた。
綺麗な高い声で田所の爺ちゃんも僕も耳を澄まして聴いていた。
その時ドアが開き看守さんが僕のほうへ来た。
「36番、面会やで」
僕は寝転がっていたが、飛び起きた。
「ええなぁ!」
と田所の爺ちゃん。
「愛美ちゃんか!よろしく伝えといてな!」
と譲司。
面会室のドアが開いた。愛美は既に座っていた。前と同じ服装だった。
愛美は含み笑いをしながらアクリルガラスに手を置いた。
僕は愛美の手に自分の手をガラス越しに重ねた。
厚さ数センチのこの差に、果てしない程の距離を感じた。
「社会と上手にやっていけなかった犯罪者と、社会と上手にやっていけた犯罪者」
と愛美がボソッと言った。
「どういうこと?」
と僕。
「そういうこと」
と愛美。
僕はほとんど意識をせずに咄嗟に口を開いた。
「吉田夏美。俺が風俗に入れた」
そう言った直後、愛美は驚きと戸惑いと哀しみが入り混じった表情をしたが、すぐにその表情を消し、真顔で僕を見つめた。
僕は続けた。
「俺のこと好きなら俺が稼げるように働いてくれって。恋は悲惨なほど盲目だから。だから俺はそれを利用して、だから、俺が夏美を――」
そこまで言うと愛美が愛美の言葉で僕の言葉を遮った。
「翔太じゃないよ」
愛美は僕の目を見つめる。僕はその目を直視出来ずに俯いた。
「翔太と夏美の中で共鳴した黒い点。その闇が夏美を殺したんだよ。翔太悪くないよ。だって翔太は罪を全部認めたから」

しばらく沈黙が続いた。しかしそれは嫌な沈黙では無かった。
僕は俯いていた。

なんでも譲二が言うには2000年前、イエス・キリストは全人類の罪を背負って十字架にかかって死んだらしい。僕はそれを信じたかった。

「ここから出たら信貴山にピクニックに行こう」
僕がそう言うと愛美は顔をほころばせた。目は潤んでいた。

愛美との面会を終え、留置所に戻った時、譲二が僕の顔をまじまじと見つめた。
「なんや?」
「いや、なんか憑き物が落ちたような顔してるなぁ。ええ顔してるで」

「あっ」
とはっとして思わず声が出た。
「なんや?余罪でも発覚したか?」と譲二。
「西野さんに酒の神様の入れ墨を入れた理由聞くの忘れてたなぁ。もう一生謎のままや」
そう言って僕は軽い笑い声を立てた。
「なんじゃそりゃ。っていうか誰やねんそれ」と譲二も笑った。
「まぁ、誰でも言いから取りあえず西野さんが無事なように祈っててや」


僕は明日、拘置所へと移動する。そこから1か月ほどすれば公判だ。
その時に僕が刑務所へ行くか執行猶予で出られるか分かる。
まぁ、おそらく執行猶予だろう。というのがみんなの結論だ。

エンプティネスバン

エンプティネスバン

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-11-05

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