蹴の國秋田

鳥海の巻

 西目スポーツパークは快晴、だけど海からの強風がバックスタンド側から強烈に背中を押してくる。
 少年用のピッチ、そのちょうど僕が向かっている付近に立てられたスコアボードに刻まれた数字。由利、1。象潟、2。時計の針はすでに止まっている。
「鮎川!」
 近いサイドにキャプテンの羽後さん。守るべきゴールを捨て、キーパーグローブをはめたままの左手を高々と振り上げる。
「シロー!」
 遠いサイドでやっしーも呼んでくる。ライオンのように長い髪を振り乱し腕や胸でマーカーを押さえながら。
 他にもポストプレーが何気にうまいガニ、チーム一の長身吉沢さん、少し遠いところでセカンドボールを狙う川辺さん、黒沢さん。
 ベンチには監督とコーチ、薬師堂さん、曲沢さん、久保田さん、西滝沢さん。
 青と白の横じま、由利高原(たかはら)フットボールクラブの仲間たち。
 象牙色のユニフォーム、象潟エレファンツは全員がペナルティエリアに戻った。小学生とはいえ八人でゴールを固められるとどこにもスキがないように見える。
 ペナルティアークに立った主審が腕時計を見た。たぶんこれで終わりだろう、焦る必要もないので青いバンダナで両手、それからボールも拭く。昔ながらの黒と白のデザイン。一度地面について感触を確かめた。夏芝が枯れて地肌も見えている。
 ボールが外に出た位置、ちょうどタッチラインとハーフウェーラインの交差点を右足の爪先で踏み、後ずさりで助走を取る。
 スタンドを見上げた。セミがやかましい。
「来い!」
 一人だけエリアの外にいた前郷さんが寄ってきた。象牙色のユニフォームがそれに釣られ、それが助走の合図になった。両手でボールを持ち、右足から踏み出す。
 振りかぶる。肩から腰に痛みが。こみ上げる叫び声を吐き気と一緒に飲みこんだ。
 スパイクの爪先が見える。両手首にぐっとした重み。その反動で両足を跳ね上げる。上体が自分のものでなくなったようにしなう。
「でやあっ」
 見えたのは、灰色のメインスタンド越しの鳥海山。



 秀麗無比なる鳥海山よ、と秋田県民歌にも出てくる標高2236メートルの山が秋田のものなのか山形のものなのか、仮に秋田のものだとしてにかほのものなのか由利本荘のものなのか。山は何にも言わないけど、ここで生まれ育った由利本荘っ子としては、やっぱり川のほとりから見る鳥海山が一番きれいだと言っておいて損はないと思う。
 白に覆われている山肌は見慣れた僕には当たり前の風景でしかないけど、訪れる人にとっては素晴らしく映るらしい。この冬は雪も少なかったので、街中にもう白いものは見当たらない。山に積もる白い雪は称えられるのに街に積まれた泥まみれの雪はゴミ扱いされるのはなぜだろう。
 子吉川は鳥海山から流れ、本荘平野の穀倉地帯を通り本荘港に注ぐ。昔は渡し舟があって上流からは米を、下流からは海産物や秋田、酒田からの品を運んだそうな。
 そこに数年前、県内で初めての斜張橋として新由利橋が架かった。山と川とをバックに走る羽後線の列車を狙う撮り鉄さんたちがよく三脚を構えており、夏はここでババヘラを売ったらいい稼ぎになるのではないか。
 その橋のたもと、駅側の土手で僕は石を投げる。なるべく平たい石を選んで拾い、三本指で地面と水平に右手を振る。石は波紋を広げて水を切り、八段飛んで沈んだ。
 僕が産まれるわずかばかり前に一市六村が合併し誕生した由利本荘市は秋田県で一番の面積を誇る自治体だ。でもそれだけのうまくいってない者同士が寄せ集まったのだから、特にこれといった特徴がないのも確かだ。人口は八万弱、県の十分の一の面積を占める市としてはややさみしい。東北でも指折りの工業都市であるにかほ、全国的なグルメのある横手や湯沢といった周りの市にに比べると地味。伝統工芸の数々は目を奪うけど職人のなり手は年々減っている。
 あまり地元をディスってばかりいても仕方ないので無理やりにでもいいところを探してみると、やっぱり水はきれいである。
 目の前を流れる子吉川もその支流になる川も底を泳ぐ魚が見えるほど澄んでいる。雨が降っても大して濁らない。
 だから酒蔵が多い。秋田に酒蔵のない街なんてほとんどないけど、由利本荘は特に多い気がする。こないだ学校で二分の一成人式なんてものがあってお菓子が振る舞われたけど、そこで出たのは由利本荘の酒蔵で作った甘酒と酒粕の入ったバームクーヘンだった。
 好きか嫌いかと言われたら、他で住んだことがないから分からないとしか言いようがない。秋田市にはよく遊びに行くし、山形や仙台にも行ったことはある。ただ東京に行った時は電車の混みっぷりが最悪で少なくともここでサラリーマンはできないなと思った。川の向こう側に大学もあるし、秋田市までは特急で一駅、その気になれば一生ここで住むのだって不可能じゃない。
 石を投げる。さっきのより一回り大きい、白っぽい石。今度は十一段も飛んで沈んだ。
 僕が死ぬ頃、この県は消滅する運命にある。
 四月一日付けの秋田県の人口が発表され、ついに百万人を割ったことは東北の遅いサクラのシーズンを前に深く影を落とした。
 当然偉い人も手をこまねいているわけではなく、ありとあらゆる手段を講じて人を呼ぼうとしてる。去年などは県外から百人を移住させる目標が二百人も来たと喜んでいたそうだが、それでも毎年一万人以上減っているので焼け石に水。
 加えて出生率に婚姻率、死亡率に自然増減率、その内因であるがん及び脳血管疾患、果ては自殺率までもが全国ワースト一位を達成。
 でもそんなことを言ったって今僕は生きてる。秋田県男性の平均寿命まで生ききったとしてもあと軽く六十年は残ってる。
 石を投げる。恐らくはかつてガラスだった透明で長細い石だ。川の流れに磨かれてすっかり鈍い光しか放てなくなったそれを投げつける。石は鈍い音とともに跳ねることなく大きな円を描いて消える。
 飽きた。橋の下に潜り、真新しい欄干の前に手をつくと勢いをつけて地面を蹴る。カーンという音とともに靴裏が欄干に当たる。手が震えるのをこらえながら逆さになった川を見ていた。
「四朗さん」
 土手の上からくぐもった声がする。筋肉モリモリ、マッチョマンの変態だ。
「もういいんですか?」
「はい」
 親子ほども年の違う僕にも決して言葉を崩さない、塩入さんはそういう人だ。よく日に焼けたダンボールのような肌をこれっぽっちも動かしたりはしない。第一ボタンまで留めた白のワイシャツはいつもパツパツで、何をどう鍛えたらこんな身体になるのか。
 父の第二公設秘書をしていて、僕ら母子は基本この人を通じて父と連絡を取りあう。どこの人で、何をやってきて、どういう経緯で父に仕えたのか何も知らないし、知りたいとも思わない。
「先生にごあいさつなされますか?」
「父がそうしろって?」
「息子に会いたくない父親はいません」
 ポーカーフェイスの下の、クルミの殻ほどもあるのどの骨がくっと上がるのを見逃さない。この人は嘘をつくとのど仏が動くのだ。
 階段のないところから土手を上る。
「お車は」
「歩きますよ、子どもじゃない」
 少し不機嫌な言い方をしてしまった。
 新由利橋から子どもの足で歩いて十分足らず、目の前が一方通行の狭い道に面した打ちっぱなしの建物が僕の家だ。入口のガレージには黒のワーゲンが停められている。
 看板すら出てないイタリア料理店。自分の店を持つことが夢だった母の城だ。日曜は休みの店内と厨房を抜け、階段を上がって黄色い扉を外側に開く。二階が母と僕の住居スペースになっている。
 扉が開く音とともにいつもと違う匂いが鼻をつく。酒と煙草、そして男と女の匂い。
「おう、四朗」
 その匂いの元が近づいてくる。やはりあまり僕と顔を合わせたくなかったのだろう、下唇を歪めてみせた。僕も笑う、顔の筋肉をめいっぱい使って。
 背は高くないけど元自衛官の柔道家だけあって身長以上に大きく見える。肩をいからせ、のしのしとゆっくり近づいてくる。
 秋田の人間は年を取ると目が青くなる人がたまにいるけど、そのぎょろりとした目もサファイアのようなアイスブルーだ。畳に押し潰され膨れ上がった耳周りの刈り上げた髪も白く、だいぶ呑んだらしく顔が赤い。
「でかくなったな」
「前に会って二ヶ月ですよ」
 そっか、と秋田のイントネーションで言いつつ僕の肩に手を置く。
 佐藤岳矢。僕にとっては忘れた頃に顔を合わせるだけの父親。
 階段をゆっくりと駆け下りる革靴の音を聞きながら居間と、自分の部屋とを横切って一番奥の部屋に向かう。
 木目調の扉を内側に開けると、さっきの匂いが一段と濃厚さを増して鼻を襲う。
 ダブルベッドの上に、うつぶせに横たわる白い体。じゅうたんの上には朝から選んでたブラウスとスカート、薄桃色の下着の上下。枕元に日本酒の瓶とグラス二つ、灰皿の上に折れた吸殻が数本。一応息だけはしてるのを確認するのが僕の役割だ。
 鮎川毬。小柄で卵に目鼻を描いたような、年齢のわりに幼い顔立ちをした母は父にそれなりには気に入られているようだ。
 愛人の仕事は何よりも美しくあること、そして日々の苦労を顔には出さぬこと。だから店を持たされても最近はほとんど気まぐれで開けない。難しい顔をして電卓を叩くよりは父に援助してもらうほうがお互いのためだ。
 昔の船乗りではないけど、父は港みなとになじみの女がいるらしい。一度離婚していて、今の奥さんは東京にいるというのだけは確かだ。
 一人っ子なのに、四なんて数字を僕につけた父は、さぞかし秋田の少子化対策に貢献してるのだろう。
 塩入さんの運転するワーゲンが家から遠ざかる音を聞きながら、大きく息を吐く。たった数秒、父の前で物分りのいい子を演じるだけで、ひどい時には熱を出す。
 母の寝室の扉をそっと閉め、酒臭さ香水臭さのなくなった廊下で、ようやく息を吸う。

 僕は子どもじゃない。
 自分が子どもだなんて思ったことが一度もない。



「おはよーございまーす」
「よう、焼きそば」
「誰が焼きそばだ」
 毎朝ハーレーのトライクに乗って小学校に通ってる僕の担任、結城先生。天然パーマの頭にかなり度のきつい丸眼鏡をかけた顔は目玉焼きを二つ乗せた横手やきそばみたいで、いかにもいじられキャラっぽさが出ている。けど県内屈指の進学校から音大に進学、ピアノにギター、トランペットやバイオリンも弾きこなす音楽科の先生でもある。
「鮎川さん、おはよう」
 そうやって伸ばす大きな手に、青い血管がくっきりと浮かぶ。
 市立城山小学校は本荘公園と隣接する。本荘公園は石垣のない堀と土塁だけの城址で敷地内には市役所、温水プール、資料館なんかがある。
 小学校は一学年二クラス、全校生徒三百人に満たない。校舎は僕が入学した年に建てられたものだからまだ新しい。近隣の三つの小学校が統廃合されたためだ。
 校門には今日の献立のディスプレイがされていて、昼近くになると給食室から食欲をそそる匂いがする。ちらりと目をやると、今日はアレだ! と心の中でガッツポーズ。丸くて厚みのあるあいつ。
 そして、その前にしゃがみこむ黒いランドセルを背負った坊主頭の後ろ姿。
「ガニ、何やってんの」
「あゆかー」
 坊主頭の本名は子吉渡、僕の一つ上の五年生。しかし一年生からもガニと呼ばれ、本人もいたって気にしてない。
 なぜそんなあだ名で呼ばれるかは、彼が立ってこちらを見た瞬間にすぐ分かる。
 ハーフパンツを履いた両足は見事なO脚、いわゆるガニ股。そして横に広い赤ら顔はゆで上がったカニを連想するに十分だ。
「腹減った。さっき朝飯食べたのにもう昼飯食いてえ。死ぬ」
「そんなことで死ぬか」
 ガニが頭をベースボールキャップで小突かれる。五月人形のような凛々しい顔立ち、160センチを越える長身。
 城山小の児童会長、羽後健一。
「行くぞ」
「やだ、めんどぐせ」
「鮎川、足持て」
 担架を運ぶように、ガニの両手両足を二人で持って五年生の教室に向かう。
 学校は好きだ。子どもが子どもでいられる。

 四年二組は二十四人。男子十四人、女子十人。僕は名前が名前なので名簿番号は常に一番。
 やきそばこと結城先生の授業はすごくわかりやすい。おなかから声が出てるから教室の隅々にまでよく声が通るし、勉強のできる児童にもできない児童にも態度を変えない。
 このクラスが一年二年の時の先生は新卒の女の先生で、最初は優しかったけど段々しかめっつらしかしなくなり、毎日のように怒鳴ったり泣き出したり教室を飛び出したりして結局寿退職してしまった。僕はそんなに怒られたりしなかったが、あの頃のクラスのどんよりした雰囲気は今でも忘れられない。
「鮎川さん、読んで」
「はい」
 真新しい教科書は紙の匂いがする。
「いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな……」
 うちの学校は組替えというものが存在しない。だから変えるなら先生を変えるしかない。
 その意味で結城先生は大当たりだった。去年転任してきた時点で年齢も三十過ぎ、その割にはいつもジーンズでどこで買ったのとつっこまれるような変なTシャツをこれでもかというくらい持ってる。今日は白地に国道7号線の看板がでかでかと入ったデザイン。これでもまだましなほうだ。
 自分の思いをちゃんと言葉にして伝えることができる。秋田の男はしゃべらないのを良しとすることがあって、酒を飲まないと口が開かない人が多い中でちょっと珍しいタイプかもしれない。
 何より怒らない。叱ることはあるけど自分の感情に任せて声を荒げたりはしない。
 それでも先生が、一度だけ、大声を出したことがある。
 三年の秋、分数の授業の時。勉強できない組がわかんねーとか騒いでた時に、僕の隣の伊藤さんが突然机につっぷして泣き出した。伊藤さんは文字を左右逆に書いたりしてしまうことがあり、僕らのクラスと特別支援学級を行ったり来たりしていた。算数が特に苦手で、目の前の1/2+1/3=が全く分からず、混乱して大泣きを始めたのだ。
「泣ぐな」
 由利本荘になまはげはいないはずなのだが、眼鏡を外して教壇に置き、混乱の収まらぬ伊藤さんがガタガタと足で揺らす机を両手で押さえると今度は諭すように言った。
「わがんねがっだら何度でも聞け、何度でも教えるがら。伊藤さんがわがるようになるまで絶対見捨てね」
 その日の昼休みから、先生は伊藤さんの机でつきっきりで分数を教えた。前の先生だったら適当にごまかしてただろう。
「……いちめんのなのはな
 やめるはひるのつき
 いちめんのなのはな」
「はい、ありがと。長いね」
 みんなが笑う。いちめんのなのはな、を二十四回も言わされる羽目になった。
「変な詩かもしれないけどこれは目の前に広がる圧倒的な菜の花畑を表現するためです。作者は湯沢に滞在したこともあって、もしかしたら秋田の菜の花を詠んだのかもしれないね。この辺の菜の花が咲くのはまだ先だけど」
 先生一人でクラスが変わる、嘘みたいだけど本当なんだ。
 四時間目が終わって給食になる。今日はパンに牛乳、卵のスープに……
 ハムフライ。レタスの上に乗せられた揚げ物の存在は朝しっかりと確認してあった。
 本荘に住んでいてこれを口にしたことのない者がいるだろうか。いや、いない。横手出身の先生もうちのクラスに着任した最初のあいさつが「本荘といえばハムフライですね」だった。他にないのかよ。
 料理としてはそんなに手のこんだもんじゃない。昔本荘にハム工場があったことから、それに小麦粉をに落とし、溶き卵をからめ、パン粉をまぶして油で揚げたもの。ハムカツと何が違うかと言われると何も違わない。ただこの辺でハムカツという文字は見たことがない。
 分厚くて、安くて、おなか一杯。これに勝てるものなし。食育? なにそれ?
 そういえば伊藤さんが分数を理解したのもハムフライのおかげだった。先生が昼休みを使って教えても伝わらない。伊藤さんはハムフライを細かくして食べるタイプでその日もそうしていた。先生がいきなり席を立ち、自分の皿と伊藤さんの皿とを突き合わせると自分のハムフライをカットしだした。
「1/2は半分にしたハムフライの一個のことだ。1/3は三つにしたうちの一つ」
 今度は僕の皿まで奪い、文句を言う前にハムフライをきれいに六等分にしてしまった。
「二つを六つにしたら一つは三つになるし、三つを六つにしたら二つだ。わがるが?」
 伊藤さんが何かに気づく。
「だがら、1/2+1/3は」
「5/6」
「んだ!」
 この春秋田市の特別支援学校に転校してしまった伊藤さんだが、三年間で一番うれしそうにしていたのは間違いなくあの日だった。
 それを思い出しながら真っ先にスプーンを伸ばす。もう教材にはされるのはごめんだ。
 ソースのつけられてないほうから口をつける。ぎゅっと喉の奥が絞めつけられた。ツンとした悲しみが口から鼻へと抜けていく。
 メンチカツだったのだ。

 六時間目まである日は授業が終わるのが四時を過ぎる。腹立たしさのあまり家ではなく駅に向かって一人歩く。
 羽後本荘駅は新潟からの特急が秋田で止まる前の最後の駅であり、鳥海山へ伸びるローカル線の始発駅でもある。乗客数の減少に悩んではいるが本荘地区と由利地区とをつなぐ市民の足としてなくてはならない存在であり、会社としてもさまざまな企画で盛り上げようと努力している。いくら秋田が車社会とはいえ学生やお年寄りは運転できないし。
 駅舎が見え、その手前の交差点。
 コック帽をかぶったブタの看板はすっかり色あせ、この店が本荘の中心地を見守り続けてきた年月の長さを知ることができる。今時自動ドアですらないガラス戸を開ける。
「シローくんいらっしゃい」
 奥で肉をさばいてる旦那さんと店番の奥さん二人で切り盛りしてる。おばさんは化粧が濃いけど人当たりが良く、僕の名前をいつでも呼んでくれる。
「ハムフライくださいな」
「はいよ」
 すぐに薄い紙に包んだ揚げたてを出してくれる。一枚百五十円なのだが中学生までは百円にしてくれる。なんでそこが区切りなのかと聞いたら、高校生はバイトできるでしょと返された。
 ここのは衣が厚くて固い。それに負けないようしっかりと奥歯を突き立てる。上のはと下の歯とを何度も合わせる。最初は衣の厚さでマヒしていた口の中が次第に慣れ、ハムの甘さと衣の香ばしさが交じり合って噛むほどに味わいが出る。
 目には目を、ハムにはハムを。ハムフライで受けた悲しみはハムフライでしか返せない。そうハムラビ法典にも書いてある。嘘だけど。
「お夕飯、何か買ってく?」
 奥さんが気を遣ってくれるけど黙って首を横に振る。
 うちの母のことはみんな知ってる。あいさつしても目も合わさない大人もいれば、こうやってさりげなく優しくしてくれる大人もいる。
 油でギトギトした窓ガラスの向こうでトンカツを大量に揚げている旦那さんとは一度も口をきいたことはないけど、たまに余ったコロッケなんかを奥さん経由でくれることもあって、僕は子どもらしく笑顔でそれを家に持ち帰ったりする。
「ごちそうさまでした」
 そう言って深々と頭を下げて店を出る。今度はまっすぐ家に帰る。
 ハムフライのいいところは、一枚でおなかいっぱいになれるところだ。たとえ帰って母が酔いつぶれていても、自分で何か作ったり食べに行ったりする必要がない。
「……おかえり」
 空のワインボトルを枕に店の円卓で突っ伏していた母が重そうに頭をもたげる。僕は黙ってグラスに水道水を注ぎ、大あくびをする母に手渡す。今日はちゃんと調理服を着ている。ちゃんと店を開けたんだと思うとちょっとほっとした。
「忙しかった?」
「そうでも」
 表通りに面している店でもないし、橋向こうに学生街があるけど車は店の前一台しか停められない。父が持たせてくれている店だからあくせく働く必要もないのだけど。
「夕飯、ぺペロンチーノでいい?」
 油のパスタ、と聞いてハムフライで満たされた胃袋がぎょっとする。
 無理にでもお腹を空かせようと部屋に戻り布団の上で逆立ちをする。三点倒立から腕を伸ばしたら左腕が耐え切れず、したたかに体の側面を打ちつけた。



 県外の人が秋田といって何を思い浮かべるか。恐らく大半はなまはげ、と答えるだろう。
 確かに間違ってないのだけど、実はあまはげとかやまはげとか似たような風習は県のいたるところにあるのだ。なのになぜかなまはげだけが有名になってしまっている。
 ではなまはげとはどこのものだといえば、日本海に向かって丸い鼻のように突き出した男鹿半島の風習である。大みそかになる赤や青の面をかぶった男たちが包丁や桶を振り回して泣ぐ子はいねがと吠えながら家々を不法侵入、酒飲んで説教した挙句みやげも置かずに帰る狼藉の限りを尽くすのになぜかありがたがられる。何年か前には飲み過ぎて女湯にまで侵入してしまい、マニュアルが作られそうになったとか。
 つまり何が言いたいかというと、僕にとってなまはげはそんなになじみ深いものではない。秋田犬は大館だし、きりたんぽは鹿角、小野小町は湯沢で花火は大曲。
 秋田イコールなまはげと言われればそれは県のイメージ戦略が成功しているからなのだけど、なんかどこか他人事ではある。
 だけどその日、僕はなまはげに会った。
 なぜか五月の日中、それも由利本荘市で。

 ことの発端は父が朝っぱらから来たことだ。父はいつも突然うちを訪れる、妾宅に行くのに前もって断る必要はないとばかりに。
 ただその日は連休で、僕は特に予定もなく家にいた。父が来たら何をするかは分かってるのでそのまま家にいるという選択肢はない。かといってこんな時間から川で石切りなんかした日には肩が上がらなくなる。
「行きたいところはありますか」
 父を運んできた塩入さんはそう言ってくれるのだけど、連休の中日でどこも人が佃煮のようにあふれ返っているだろう。
 三秒ほど考えて、ふと思い出した。
「西目に連れてってください」
 かつて西目町と呼ばれていた由利本荘市西目地区はにかほ市との境に位置する。本荘市街からなら車でさほどかからない。
「西目に何しに」
 塩入さんののど仏が上がった。何かを隠している証拠だ。
「友達がサッカーの試合をしてるんで見に行こうかと」
「サッカー、ですか」
 また上がる。
「東由利はどうですか。黄桜が満開で」
「西目で何か不都合でも」
「いえ、全然」
 もう上がりまくり。
「ただ自分、西目はよく知らないので」
「ナビありますよね」
 サッカーを見たいのは嘘でもなんでもない。ガニこと子吉渡が由利地区の少年サッカーチームに所属していて、連休に西目で試合があると聞いていたのだ。
 運転中、塩入さんは押し黙っていた。この陽気でも相変わらず上着を羽織りYシャツの下にインナーまで着ている。見てるほうが暑苦しい。
 西目カントリーパークに来るのは初めてだった。本来一面のサッカーコートを二面にして使っている。ざっと十を超えるチームが参加する大会のようで、メイン以外は各チームの控え室のようになっていた。
 終わったら電話をくださいと言って塩入さんは逃げるように去った。何がそんなに後ろ暗かったのか。
 ちょうとガニのチームが試合をしていた。ユニフォームは青と白の横じま。白いソックスをはいた足が見事なO脚なので遠目からでもすぐ分かる。背番号は③だと聞いてたから間違いない。
 同じチームのキーパーに見覚えがあると思ったら児童会長の羽後さんだった。一人だけ赤いユニフォームに学校に来る時と同じ帽子をかぶっていた。ベンチには選手が数人しかおらず、少子化をこんなところでも痛感する。
 僕は習い事を一切していない。団体行動が苦手なのでスポーツもしてないし楽器にも興味はない。父親に柔道を勧められたことはあったけどやんわり断った。だからサッカーに関してもまるで素人だ。オフサイド? でさえよく理解していない。
 僕らが体育でやるサッカーはキーパーがゴール前に一人ずつ突っ立って、あと全員がボールに群がる、いわゆる団子サッカーになってしまうのだが、このレベルだとちゃんとサッカーになっている。
 小学生のサッカーは八人でやるのだと初めて知った。ピッチの上に青いユニフォームがきれいな正六角形を作っている。キーパーのすぐ前、六角形の一番下にガニがいて短い、いや、小回りのよく効く足さばきでボールを奪った。学校でのガニとは別人のよう。それと同時にボールを囲むようにコンパクトになっていた六角形が広がる。ガニが六角形の中心にパス。小柄な選手が受けたボールを一度止め、目の前の相手二人の間に低く通した。
 そのタイミングに合わせ、たてがみのような長い髪の選手が飛び出すと猛烈なダッシュで追いつき、右足を振り抜き強烈なシュートを決めた。すると自らもゴールに入り、白いネットを両手でつかんで何度も揺さぶり、叫ぶ。まるで檻を破壊しようとするライオンだ。この人がチームのエースと一目で分かる振る舞いだった。
 途中から見始めたので点数は分からないけど勝ってはいるのだろう、相手がキックオフを急ぎたがってる様子なのも構わずに喜んでる。程なくして審判が長い笛を吹いた。どうやら前半が終わったらしい。
 それにしても暑い。手の甲が真っ赤。日焼け止めを持ってこなかったのが悔やまれる。 
 確か競技場の外に自販機があったはず。気がつけば階段を駆け上がり駆け下り、水分を求めてひとりでに足が動く。赤い自販機を見つけるとさらに加速する。
 右足から腰にかけて衝撃があり、世界が大きく左へぶれた。回りすぎた独楽が倒れる時みたく揺れた体が頭から落ちる寸前、とっさに左手が出た。体重を手のひらで支えるとそのまま腕を曲げて頭をその中に隠し、受け流すようにひじ、肩、腰とついて最後にお尻と寝かせた右足とで止まった。
 柔道はやらんでもいいからこれだけは覚えとけ、そう父に仕込まれた前回り受身は時々僕を救ってくれる。
 じゃない。立ち上がってそちらを見る。手のひらをすりむいたし左足首も若干くじいたっぽいけどそれどころではない。
 見ると女の人がひざまずいていた。長い手足を覆う赤いジャージの背中に大きくなまはげの刺繍、その上にはOGAの三文字。足元には炭酸水のペットボトルから泡を立ててあふれ出し、彼女はそれに顔を寄せていく。
 それくらい弁償しますから、と付け加える余裕はなかった。
「飲まないで!」
「飲まねーよ!」
 それが初めてのやりとりだった。

「コンタクト落としただけだってば」
 その人は笑いながら言った。結局コンタクトは見つからなかったけどワンデーだからと真っ赤な縁取りの眼鏡をかけた彼女の隣で後半戦を見ることになった。
 色白で束ねもしない長い髪は日に透けて亜麻色に輝く。瞳の色はよく見ると純粋な黒ではなく深い藍色。鼻が高く、軽く日本人離れしていた。
 秋田県に似ている、と思った。
 南北に長い土地に、特徴的なのは日本一の深さを誇る田沢湖と日本海に突き出した男鹿半島。彼女の目と鼻は、ちょうど湖のような青と半島のような高さだった。
 一言で言ってしまえば美人。ただ本人は恐らくそれに気にもしていない。
 秋田美人なんていうけど、きれいな女の人は全国どこにでもいる。じゃあなんで秋田だけ美人アピールしてるかといえば、やっぱり平均値の高さなんだと思う。ラーメン屋さんやコンビニで働いてる女性がびっくりするくらいきれいだったりすることがたまにある。
 でもほとんどの人が、自分が磨けば光るダイヤモンドであることに気づかず、原石のまま秋田で一生を過ごす。彼女もそうなのかもしれない。
「顔、赤いよ。使う?」
 そう言って差し出された日焼け止めは、ひんやりとしていい匂いがした。
「きみもサッカーやってるの?」
「友達が出てるんです。青の③とキーパー」
「ああ、由利高原の選手か。どんな子たちなの?」
「ガニはアホで、羽後さんは頑固です」
 彼女の、ああ、の発音に驚いた。
 秋田の人がああ、と言うとたいていはアとエの中間の音を出す。ずーずーなまってる爺さん婆さんだけではなく。けど彼女のああ、はきれいなア、だった。長い髪をかきあげるといい匂いがする。石けんや香水とも違う。なんか心臓が痛くなる。
「ガニってすごいあだ名だね」
「お祖父さんが川でモクズガニ取る漁師なんで」
「私の友達はもっとすごいぞ。ブリコだ。まだ産まれてすらない」
 話してるとやたらとガニのチームのことを聞こうとする。偵察なのかな、とちらっと思ったのでつい聞いてしまう。
「どこかのチームを教えてるんですか?」
「いや、選手だけど」
 今年一番くらいびっくりした。まさか同じ小学生なんて。
「確かに老け顔だけどさ、さすがに二十歳以上に間違われたことはないわ」
 素直に謝るしかない。面立ちに幼さのかけらもなかったことや落ち着いた物腰に完全にだまされた。
「いいけどさ別に。それよりいじってきたね、象潟」
 彼女の言う通り、相手チームはメンバーをごっそり入れ替えてきた。
「ルール違反なんじゃないですか?」
「八人制は入れ替え自由だよ」
 そうなると頭数で劣るガニのチームは普通に不利だ。
「あいつらを見ときな、⑪と⑨と⑩」
 きりたんぽのような細くて白い指先に三人の選手がいる。象牙色のユニフォームはどうしても汗によるしみが目立ってしまうのだが、彼らはまだきれいなままだ。
「メガネが高橋、デカイのが壇ノ浦、チビが金(こん)。三人まとめてTDKって呼ばれてる」
 いくらこの辺が工場地帯だからってそのネーミングはいかがなものか。
 けど笑えたのはその一瞬だけだった。
 真ん中の円から⑩が大きく右に蹴り出した。落下点近くにいた両チームの選手はほぼ同時にでヨーイドンをしたように見えた。けれどあっという間に抜け出したのはゴーグルのような眼鏡をかけた⑪で、ボールを右足に収めた時には独走状態。中央から飛び出したガニが⑪を外へと追いつめる、その肩口を矢のようなボールを通された。
 羽後さんが完全に逆を突かれ、バランスを崩しながら伸ばした指先をかすめてネットが揺れた。技ありゴールに眼鏡が落ちそうなくらい喜ぶ⑪。
「でも、邪魔しましたよねあいつ」
 そうなのだ。ボールが蹴られた瞬間、象牙色の肩をガニにぶつけてバランスを崩させた。
「肩のぶつかりあいはファウルじゃない。たとえファウルだとしても、笛が吹かれなければプレーオンだ」
 なんかすっきりしない。けど確かにあのスピードはすごい。
「高橋のはやさは足の速さより頭の回転の早さだから。東北トレセンだもの」
「トレセン?」
 簡単に言うと東北でも有望な選手が集められて合宿をするらしくて、彼女が言うTDKの三人はその百人の中に入ってるらしい。
「由利高原も羽後と矢島が同じ県選抜だよ」
 ヤシマ、というのはあのライオン丸だろうか。
「羽後さん、キーパーはそんなにうまいですか?」
「ファインセーブを連発するのはスキがあるからだ。羽後はコーチングで味方を動かしてシュートを打たせないから目立たないけどね」
 なるほど、前半ピンチらしいピンチがなかったのはそういうわけか。
「ま、選抜っていっても秋田の選抜だよ。年寄りばっかで子どもの数が少ない県から選ばれたメンツじゃたかが知れてる」
 秋田県のサッカーのレベルは東北でも上のほうとは言えない。全国大会で勝ち進んだなんて話は大昔のことだし、プロサッカーチームがあっても大きなスタジアムがないばかりに上に進めないなんて話も聞いたことがある。
「別にサッカーだけじゃない。県全部がでっかい限界集落で人は逃げていくばっかだ」
 彼女の言葉に間違いはない。なんだけど、ここまではっきり言われると多少はカチンとこないでもない。
「私も出る。こんなとこ、一日でも早く」
 端正な横顔が歪んだ。口を横に開くと鋭い歯がこぼれた。真っ白な肌が赤く染まり、本当になまはげの面のようにさえ見えた。
「全体的に遠いぞ!」
 ガニのチーム、由利高原の監督がベンチを飛び出して叫ぶ。若くて面長で長身、髪も長くてモデルか特撮ヒーローみたいなさわやかさんだ。
「高橋に裏を取られて由利の選手が下がり気味になっちゃってる。選手の間が遠いから奪いにいけない。またやられるぞ」
 予言めいた言葉が当たるのに二分とかからなかった。
 ゴール前の大きな長方形の手前、カマボコみたいな半円の手前で象牙の⑨が山なりのパスを胸で流した時、近くに青のユニフォームが誰一人いなかった。サイドに流れたガニが左足で受けた⑩に寄せていく。そのガニ股をボールが通過した。一番屈辱的なやつだ。その先には走りこんだ⑨。鮮やかにワンツー。ガニが飛び出したスペースを誰も埋めてない。
 思い切り振り抜かれた右足に羽後さんは一歩も動けなかった。
「金が左で持ったら一人じゃ止められない」
 彼女が独り言のようにぼやきながらブラウンの髪の毛を無造作にかき上げる、その仕草でさえティーンズ雑誌の表紙みたいだった。なまはげジャージであることを除けば。
 後は完全なワンサイド。由利高原は三人に七人が押しこまれていた。
 高橋が右サイドをぶっちぎり、今度は狙い澄ましてゴール前に高々と上げた。ガニと⑨が競る。先に触ったのは⑨。ワンバウンドしたボールに羽後さんが必死に右手を伸ばすが、届かない。
「壇ノ浦は高さがあるし、何より強い。五年一人じゃ止められないよ」
 ガニがベンチに下げられた。いつもバカばかりやってるガニが目を真っ赤にして外に出た時はこっちまで辛くなった。
「由利は象潟を倒すことを目標にしてるけど、象潟はその先を見てる。その差だ」
 突き放すような言い方が、上から目線がこめかみに刺さった。
「あなただったら何かできるんですか」
「なんもでぎね」
 明らかにふざけて使った秋田弁だった。
「だけど秋には間に合わせる。何としても」
「秋に大会があるんですか」
「だって秋田だもの」
笑いながら頬杖をつく。中指の付け根が奇妙にふくれている。タコだろうか。
 わあっ、と四方から声が上がった。
 象潟の金がドリブルをしていた。体が小さいので背中の⑩がやけに大きく見える。青のユニフォームはすでに二人が転倒していて、すでに抜いていたのがわかった。
 左足一本、それが分かってるのに取れない。後ろに引けばどんどん離され、前に出ればかわされる。由利の選手は一人ずつがバラバラに向かってゆくしかないのに対して象潟は高橋と壇ノ浦がボールと適度な距離を取りながらマークを引きつけて狙いを絞らせない。もしボールに行けばそこにパスを出されるので動くに動けない。
 最後尾の青いユニフォームがかわされた瞬間、羽後さんが前に。壁を作ってシュートを跳ね返すために。
 ひらりとかわした。左足でボールを踏んで後ろに下げてキーパーの逆を取り自らはターンする。この日初めて使った右足のかかとで無人のゴールに転がした。おちょくられてるかのようなプレーでとどめを刺された。
 羽後さんは気だるげに立ち上がり、ネットに絡まったボールをいまいましげな表情で蹴り出すと立て、と促すけど青の選手は動けない。長い笛が三度吹かれた。
 どっと疲れが出た気がして、その場にうずくまる。見てただけでこんなになるのだからやってるほうはどれくらいなのだろう。
 顔を上げて右を見る。いない。あわてて振り向くと赤い人影は小さくなっていた。あと数歩で出口にさしかかる。
「あの!」
 周りの人の注目が集まるくらいの声が出た。少しぎょっとした表情で振り向いた彼女にさらなる大声をぶつけた。
「僕、鮎川四朗です。お名前教えてください」
「……つぐみ」
 名字は、どういう字かを尋ねる前にその姿は見えなくなった。くすくすという笑い声が聞こえて再びその場に座った。日に焼けたのか顔が熱い。
 どん、という音が足元でした。買った時に口をつけたっきり、一度もふたを取らなかったペットボトルが座席から落ちた音だった。

 誰もいなくなったスタンドはだいぶ日がかげり、あと一時間もすれば日本海がオレンジに染まるだろう。
「そろそろ帰りましょう」
 塩入さんが珍しく急かせる。父が母の家に泊まることは絶対にない。どんなに遅くなっても必ず秋田市の本宅に帰るのだ。
 空のペットボトルを手に立ち上がる。くらっとした。
 今日は本当にいろいろあった。
 ありえないような暑さ、ガニの涙、象潟の強さ。
 そして、そんなものが消し飛ぶくらいの衝撃。
 彼女、つぐみさんのことが頭から離れなかった。


「あ?」
 ガニこと子吉渡は生粋の秋田県民だ。だから驚いた時にはアとエの中間音を発する。
「あゆ、サッカーやりたいの? なんで?」
 まさか本心は言えず、ハムフライをほお張ってしゃべれないふりをする。
 連休明けの本荘公園のサクラはとっくに終わり、今は真っ赤なつつじが咲き乱れる。保育園に通ってた頃は晴れてれば毎日のように散歩に連れて来られた。ガニとは〇歳児からの付き合いで、未満児の頃は同じクラスだったのでよく一緒に来ていた場所だ。
「だっておまえ、運動きれえだべ」
「嫌いじゃないよ。団体行動が苦手なだけで」
「ダメだぁ」
 ガニのお爺さんは川に船を出す漁師だ。今はモクズガニのシーズンで、暇があれば一緒に船に乗って小遣い稼ぎをしている。ガニと呼ばれるモクズガニは小型のカニで、殻を割って味噌を汁にして食べる。爺さんと過ごす時間の長いガニは今時珍しいくらい秋田なまりの小学生だ。
「うちの監督は厳しいぞ。やめとけ」
 羽後さんはハムフライを食べない。揚げ物が給食に出ても衣をはがして残す。プロサッカー選手になるのに余計な油分は禁物なんですと担任を説き伏せたほどだ。ちなみに試合を見に行ったのは二人には伏せている。
「ま、話すてみれ」
 そう言って連れて行かれたのは市役所。由利本荘の合同庁舎は本荘公園の広い敷地内に建てられている。
 受付を我が物顔で通過するガニの後ろをなるべく小さくなりながらついてゆく。階段を上がった先になぜかサインつきのサッカーのユニフォームが額にはめて展示されていた。サッカーにうとい僕でさえ分かるサムライブルー。
「ちっす」
 ガニに呼ばれたYシャツの若い職員はえらいぎょっとした顔をしていた。ランドセルを背負った男子小学生の集団を明らかに快く思ってない表情でいる。
「仕事中に来るな」
 小さな声を聞いて、やっとこの人がガニのチームを率いてた監督さんだと気づいた。あの時はワックスでツンツンにしていた髪を、今日はかっちりとなでつけて額や耳にかからないようにしてる。サイドは刈り上げてツーブロックにしてあるので襟足にかかる髪が若干長い程度にしか見えない。これがこの人なりの世間との折り合いのつけ方なのだろう。
「赤田君、修身館にでも連れて行ってあげたら」
 年配の職員の方が気をきかせてくれた。
 修身館は公園内の高台にある施設で、由利本荘市や本荘城の歴史、三つの房が独特な御殿まりなどが展示されている。
「鮎川四朗君っていうのか。何年生?」
「四年です。四月生まれなので十歳になりました」
「うちは五年からなんだよ。指導者が僕ともう一人しかいなくて小さい子まで面倒見きれないってのと、ある程度ハードな練習をやってるから未経験だとついてこれないかもしれないから」
「でも出たいんです。秋の大会に」
 その言葉にガニまでぎょっとしていた。
「秋の大会って、全少か?」
 ゼンショーというのはよく分からなかったけど、彼女はそう言っていた。秋の大会を目指すと。
「鮎川君、君は足は速いか? 六年生にも走り負けないか?」
 クラスではまあまあ速いけど、六年生に勝てるとは思えない。
「強いボールは蹴れるか? 誰よりも高く飛べるか? ボールさばきに自信はあるか?」
 あの敗戦を引きずっているようだった。そして僕はそのどれにもはい、とは答えられない。
 監督さんはゆらりと立ち上がり、木の細工物の前に立つ。ふすまのような横長のそれは細かい木片を組み合わせて作られている繊細極まりない工芸品だ。
「組子細工は釘や接着剤といったアタッチメントを一切使わず、同じ大きさのパーツを組み合わせるて作られる。少しの狂いでも全てが台無しになる。俺たちが目指しているのはこういうサッカーなんだ」
 それに続く言葉が、胸に痛かった。
「チームのレベルは、ピッチにいる一番弱いやつのレベルだ。あとがどんなに強くても、敵はその弱いやつを狙い続ける。うちに入ることは構わない。ただし他の選手の足を引っ張るようなら悪いけど、試合には出せない」
「こいつ、結城鷹詩のクラスですよ。監督いつも言ってるじゃないっすか、秋田のサッカー選手の中で二番目にすごかったって」
 助け舟を出してくれたのはガニだった。
「ああ」
 やっぱりこの人のアもアとエの中間だった。
 いや、それよりもガニの言葉だ。結城鷹詩は僕の担任、やきそばのフルネームだけど、彼とサッカーがどうしても結びつかない。
「結城先生、サッカー選手だったんですか?」
「向こうのが年上だったから対戦したことははないけど、頭脳派のセンターバックだった。ああ、横手の岡ちゃんなんて呼ばれてたっけ」
「岡ちゃん?」
「試合中でも眼鏡を外さなかったんでな」
 高校が横手の進学校だったのでチームは決して強くなかったそうだけど、彼自身は国体のメンバーに入るほどだったらしい。あのやきそばがサッカー、人は見かけによらない。
「そっかぁ、結城先生の受け持ちの子じゃ無下にはできんな」
 そう言って腕を組む監督さん。まさかこんなことで態度が変わるとは。
「赤田満です。きみの名前は」
「鮎川四朗といいます」
「うちは人数が少ないんでセレクションもない。入るのも辞めるのも自由だ。ただしさっき言った通り試合に出せるかは全く別問題だ。もしユニフォームをもらっておしまいにしたくないんだったら、きみを使わせたいと思えるだけの武器を磨け。俺だけじゃない、チーム全員が納得できるものをだぞ」
 その言葉を残して監督は仕事に戻っていった。一応OKはもらえたものの、どちらかといえば僕は沈んでいた。
「監督、元プロだったから自分にも俺らにも厳しい。だからあんま気にすんな」
 ガニがフォローしてくれたもののあまり効き目を感じられない。
 彼女に今度会える場所は間違いなくサッカーのピッチ上だ。彼女がどんな選手かは全く分からないけど、少なくとも僕も同じ場所に立てないのでは相手にしてもらえないだろう。
 とはいえ、授業でしかボールを蹴ったことのない僕が上級生の中でどうやって居場所を作っていいのか見当もつかない。
「鮎川、さっきの全少ってなんだかわかってるか?」
 羽後さんの問いに黙って首を横に振る。
「全国少年サッカー大会。小学生年代最大のサッカー大会だ」
 まず秋田県を八つの地区に分け、夏に地区ごとに予選を行う。そして優勝したチームが秋に行われる県大会に進み、優勝すると本大会に出場できるという。由利高原フットボールクラブは由利ブロック。ここにはにかほ市のチームも含まれるから、必ずどこかで象牙色のユニフォーム、象潟エレファンツと当たる。
「まだ明るいし、ひとまず蹴ってみるべ。ボールあるし」
 そう言ってガニはボロボロのランドセルからサッカーボールを取り出した。教科書はどうした、と言いながら僕は笑顔を取り戻せた。

「あ?」
 母のア、はガニのようになまってはいない。若い頃水商売で働いてた頃に懸命に直したらしい。今のように方言女子なんて言葉はなかったのだろう。
「サッカー? あんたテレビも見ないじゃない」
「ガニがやってるの見ててやりたくなった」
 我ながら驚くくらいもっともらしい嘘をつきながら来月のカレンダーに赤い丸をつけ、下に時間および「個別面談」と書く。
「ふーん……」
 どうでも良さそうに言って、グラスの赤ワインを空ける。つまみはチーズとスーパーで売ってるがっこ。昨日は白ワインだった。このところ、明らかに酒の量が増えている。
 僕は婚外子として認知されているが、母と父との間には法律上何のつながりもない。もし一方的に関係の解消を告げられても何の後ろ盾もないし、もし父が死んでも母には直接一円も入らない。
 だから母の努力には涙ぐましいものがある。指を傷つけないために野菜すら包丁を使わず手でちぎるし、やけどでもしたら大事なのでうちはオール電化だ。車も持たないし自転車すら乗らない。週に数回秋田市のエステに特急で通い、美容にいいことなら何でも試す。
 父が来る日は朝から鏡台の前に座る。父が香水の匂いを嫌うので体中に天花粉をかけて少しでも色を白く見せる。下着だって新品がたんす一棹常備されていて一度使ったら普段用にしてしまう。
 愚かかもしれない、でもその母に僕は養われている。
「で、コーチいい男?」
 へらっ、と厚い唇の間から赤い蛇のような舌をちらつかせてみせた。
 去年の最初の授業参観をのこと。理科室の実験で母がずっと見ていたのは僕ではなく、真新しい白衣に身を包んだ結城先生だった。去年の個別面談の日、父が来る日のような気合の入れ方でメークしている母を横目に見ながら登校したのは忘れられない。もちろん結城先生は全くそれに気づかず、母の興味も薄れていったのだけど。
「まあ、若いけど優秀な人みたいだよ」
「サッカーやってたんだったらいい身体してるでしょ?」
 聞こえないふりして自分の部屋に戻った。
 キッズ携帯で塩入さんの携帯に連絡する。塩入さんは常に秋田にいて、何かあった時は彼を頼るよう父に言われている。現金がいいのかクーポン券がいいのかまで聞かれて、できれば現金でと答えると一時間もしないうちにわざわざ由利本荘まで来て、ピン札を二枚手渡ししてくれた。
「父は何か言ってましたか」
「まだお伝えしてません」
 のど仏は動かなかったから本当なのだろう。

 次の土曜日、秋田市までガニと羽後さんがつきあってくれた。新装開店中のビル前に羽後さんが用があるらしく着いて行くと
「ウーゴ」
 レモンイエローのチュニックにガウチョパンツ、左肩からトートバッグを提げたベリーショートの女の子が手を振っていた。小柄でやせっぽっち、色黒の顔の中心でくりくりと動く大きな瞳が印象的な女の子だ。
「彼女だか?」
 ガニがにたりと笑いながら尋ねる。
「んだ」
 羽後さんの答えに、ガニが本物のカニのように泡を噴いた。
「おまえのスパイク、こいつに見てもらおうと思って」
「この人、センスないからね。俺が選んでやるんだ」
「だから女が俺って使うなって」
「なんで俺って言っちゃいけないのよ」
 なぜか肩身の思いをしながらスポーツショップへ。彼女さんが勧めてくれたものを履いてみるけど、なかなか合わない。
「偏平足だよな、あゆ」
 ガニ股に言われたくないよ。でも土踏まずがなくて幅が広くて甲が高い。
「きつくない?」
 彼女さんがスパイクを履いた僕の爪先をつつく。むしろ余ってるくらいで靴ずれしないか新お会いになる。
「サルシューなら爪先がきつくてもいいけど、スパイクはある程度余裕持たせたほうがいいよ。特にかかとが痛いと思うように蹴れないし」
 これがいい、と言ってピンクに白のラインが入ったスパイクを持ってきてくれた。スポーツブランドは全くわからないが海外製らしくえらくかわいらしい。
「櫻、選ぶのはおまえじゃなくて鮎川だろ」
「俺のセンスに口はさまないで」
 夫婦漫才のような言いあいが始まって、いたたまれない気持ちになりながらそれを左足から履く。まるでシンデレラのガラスの靴のようにはまった。
「いいっす、これで」
 彼女さんのどや顔でも確かにしっくりきた。そういえば父も靴は舶来物しか履かない。こんなところで血を感じるなんて。
 加えて公認球とすね当ても買うとランチ代がなくなり、四人でファストフードでドリンクとフライドポテトを頼んだ。
「品川櫻です。父の転属で去年の春から男鹿に住んでます」
「木に貝二つに女、のほうな。名前通り難しいやつだ」
 羽後さんの足に軽く蹴りを入れる、サンダルを履いた右足の甲に大きなタコがある。ポテトをつまむ右手の人差し指が途中から不自然に曲がっている。つぐみさんの手にあった大きなタコを思い出す。
 男鹿、と聞いてなまはげを背負ったあの背中を思い浮かべたが、まさか知ってますかとは聞けなかった。男鹿半島は広く、僕は彼女の名字すら知らない。
「もうキスしただか?」
 ガニの後ろ頭をひっぱたく。
 男鹿行きの電車が出る、と櫻さんが立ち上がった。窓の外は小雨がぱらついてる。羽後さんが自分の折り畳み傘を渡そうとするが
「雨は濡れるものだよ」
 そう言って外に飛び出していった。難しいやつ、とはあながち間違ってないのかもしれない。

 翌日午前が初練習だった。まだチームのジャージがないので学校指定のジャージを着て、羽後本荘駅からガニたちと一緒に監督の車に乗せてもらった。荷台もそうだけど座席もCDや雑誌が雑然と積まれてて汚い。
「鮎川四朗です」
 みんなの前で頭を下げる。羽後さんがグローブをはめた手でボスボスと拍手をするとみんながそれに合わせてくれた。
 場所は旧由利町の高原小学校。県の指定文化財にも指定されてる木造校舎だ。目の前を第三セクターの線路が走っているが駅からはかなり歩く。
 小学校、とはいっても廃校になってだいぶ建つ。少子化に加え都市部と郊外との人口の格差が広がりすぎて学校が無くなるニュースにもさして驚きがない。誰も通う者のなくなったグラウンドと体育館がこのチームの練習場所で、由利高原の名称も元々はここの小学校の単独チームだったから。児童が少なくなって他の学校からも選手を集めるようになり、学校がなくなった今では学校の前を通る線路の端から端までに住んでる子どもを集めてる。
「ようこそ高原FCへ。俺がキャプテンの矢島烈だ。濁らないから気をつけろ。うちの蔵にどぶろくはないんだ」
 腕組みしてるのはこないだの試合でゴールを決めたライオン丸だ。
「よろしくお願いします、矢島さん」
「やっしーと呼べ、俺もシローと呼ぶ」
 キーパーの羽後さんが全体をまとめるキャプテンでこの矢島、いや、やっしーさんが試合でチームを引っ張るリーダー。一番前と後ろとに二つの軸となる選手がいることでバランスを取ってるのだとガニが教えてくれた。
「……」
 視線が痛い。あの小さな⑦だ。何か気に障るようなことをやってしまっただろうか。
「前郷、にらんでるにらんでる」
「あ、ごめん」
 謝られた。ただのくせらしい。このチームは真ん中に彼がいないと悲しいほどパスがつながらないのだとこれもガニ情報。
「川辺です。趣味は自転車です」
「薬師堂。五年」
「西滝沢祐次。そっちにいるコーチがうちの親父」
「曲沢です。マガリでいいよ」
「黒沢ですよろしく」
「吉沢だ。ちゃんと吉沢さんって呼べよ」
「久保田」
 代わる代わる自己紹介してくれたがとても覚え切れない。特に沢ってつく名前が多すぎ。
 全部で十一人、僕も含めて十二人。それに赤田監督と恰幅のいい西滝沢コーチ。
 ランニングから始まり、対面パスとか、コーンを使ってのドリブルとか、予想できていた内容の練習が続く。
 少しずつ慣れてきて、気づいたことがある。
 もちろんここは固い土のグラウンドで、もう何年も使われてない校庭なのだけど、小石一つ落ちていない。そしてよく均されているからボールを転がしてもイレギュラーがない。
 これは後で知ったのだけど、隣にある平屋建ての木造校舎も驚くくらいきれいで植木もよく手入れされている。地元の人が定期的に掃除をされているのだという。もう戻ってはこない子どもたちを待ちながら。
「四年にしてはやるでねーか」
 やっしーにほめられた。
 今まで川に向かって石切りしていた時間に、本荘公園でボールを蹴っていただけだ。わりと器用なタイプなのである程度やればそれなりに体が動くようになれるのは助かった。
「水入れろ」
 コーチの指示で休憩。本荘から車でそんなかかる場所でもないのに、やっぱり山は涼しい。やっしーが住んでる線路の端のほうは朝夕まだ肌寒いほどなのだとか。
「城山小だよな。かわいい女の子いる?」
「んー、ノーコメントで」
 そんなたわいもない話もできるようになった矢先だ。
「カニカゴやるぞー」
 監督の声のトーンが違った。みんなの顔が暗くなった。
 それに合わせるかのようにコーチが何か黒い塊を抱えて戻ってきた。それはどう見ても車輪のゴムチューブで、輪になってるものが切って細長くなったものにつなげられている。
「まず見てろ」
 みんなが黙ってそのわっかを頭からかぶり、腰の辺りで縛って固定させる。3メートルほどのゴムでつながった四人が作る正方形の中に羽後さんとガニが入る。ガニはピンク色のビブスを首に通していた。
 周りの四人がボールを回し、ガニがそれを追う。追いながらも伸ばした手の先には羽後さんがいて、羽後さんはそれを払いのけようとする。四人はどうやら羽後さんへのパスを狙ってるらしい。
 羽後さんがうまくガニの後ろを取った瞬間、やっしーが速くて低いパスを羽後さんの足元へ通す。だがガニがかかとでそれを阻む。鬼はやっしーに代わったようで、ガニはビブスを投げて渡し、ゴムチューブに胴を通す。代わりにビブスをつけたやっしーが羽後さんと激しく身体をぶつける音が山中に響いた。
 周りの四人はゴムでつながれてるので無理に広がろうとすれば誰かがバランスを崩すし、パスが逸れても鬼は交代する。だから周りとボールと鬼を同時に見てないとあっと言う間に鬼になる。
 鬼、なまはげ、男鹿と連想したらつぐみさんの顔が急にちらついてなんだかそのことが頭から離れなくなった。
「川辺、鮎川と替われ」
 呼ばれてしまった。恐る恐る近づくと川辺さんが自分が巻いていたゴムを外し、僕につけてくれた。
「これ、うちの店で出た使い古しなんだ」
 そっか、自転車好きって言ってたっけ。
 ボール回しが始まる。とにかく周りの動きに遅れないように必死についてゆくしかない。顔を上げてボールを見てる余裕なんてこれっぽっちもありゃしない。
「うらあっ」
 奇声を発しながらボールにつっかけていったのは僕の前にいたやっしー。腰がぐいっと引っ張られて両足が宙に浮いた。受身も取れずに顔から落ちた。

「痛かったな」
 帰りの車内、ワゴンの助手席に乗った僕を監督が気遣ってくれる。口の中から血の味が消えてくれない。窓の外はだいぶ暗くなっていた。後部座席ではガニや羽後さんら本荘方面に住む五人が寝息を立てている。由利方面に住んでるやっしーらもう六人はコーチが送っていってる。
「こんなんだから低学年の子にはあまり教えたくないし、入ってもすぐ辞めちまう。でも、これしかないんだ。アリがゾウを倒すには」
 監督がハンドルを右に切る。バイパスを下りたらもう本荘市街だ。
「確かにうちの練習ははっきり言ってつまらない。誰だって自分でボールを取ってシュートしたいからね。でも一人が勝手な動きをすれば全部があっという間に崩れる。前にも言ったかもしれないけど、チームの強さは出てる中で一番弱いやつと同じなんだ。だから、強くなってくれ」
 はっきり言って、あの練習に、僕はまったくついていけなかった。勉強にせよ運動にせよ、ここまで何もできなかった経験は今までなかったんじゃないかというくらいだ。
 でも、だからこそ。
「また、よろしくお願いします」
 初めて、監督が笑った。



 六月は、やけに県全体が騒がしかった。
 クマだ。
 もともとマタギのいた場所だからクマの出没情報は毎年必ずあるのだが近年は特にすさまじい。去年は何人も食い殺されて全国ニュースでも流されたが、今年は警鐘を鳴らすためか毎日のように出没情報が発表された。
 そして、ついに。
「由利本荘にもクマが出たそうです」
 結城先生がいつになく強張った表情で言った。ただ着てたTシャツがハゲオヤジがビールジョッキを持って「なまはげ」って書いてあるTシャツだったので緊迫感がゼロ。
 学校で小さい鈴が配られた。銅製のようだが大きさのわりに大きな音が出る。僕らはそれをランドセルの防犯ベルの横につけて登下校した。
「クマだって。クマったね」
 ガニが歩きながら方をぶつけてくる。当然鈴が鳴る。僕をぶつけ返す。調子に乗ったガニが今度はジャンプしながら体当たり。こっちも飛び上がって空中で体当たり。
「おしくらまんじゅうとか、田舎の子かおまえら」
「田舎の子ですよ」
「自分だってそうでしょ」
 羽後さんがあきれる。
「とにかく、しばらく山には近づかないことだ」
 海に程近いこの辺りはまず出ないとは思うけど、強がりでもなんでもなく、クマなんてさほど怖くない。

 父がうちを訪れる回数がめっきり減った。
 そうなると母が目に見えて不安定になる。
 店を開ける回数が減り、反比例して酒の量が増える。店で飲んでそのまま寝てしまうこともあるし、ひどい時はそのまま朝起きてまた飲みなおすなんてことも。
 僕はといえば昼休みや放課後にボールを蹴る毎日なのでどうしてもお腹が空く。給食やハムフライだけでは足りないので朝夕のごはんもごまかしたりせず、ちゃんと厨房で作る。パスタやサンドイッチくらいだけど。
 一人分も二人分も手間は同じなので母にも作るのだが、手をつける様子はまるでない。せっかく作っても食べてもらえないのはとても悲しいことだ。

「それはいぐねえな」
 やっしーが複雑そうな顔をして髪をかき上げた。
 きっかけはやっしーが酒臭かったことだ。蔵開きの日で練習前にちょいちょいしたらしい。監督に酒を抜けとグラウンド十周を命じられたが、生えたら大人なんだよと悪びれる様子もない。どこに何が生えたらなのかは聞かないがとにかく打ち明けてみた。
「酒を作るほうは本当に一生懸命だし、ちょっと菌が入っただけで蔵そのものがダメんなる。日本酒の売れ行きだって落ちる一方だし、そんな中で昔は門外不出だった技術を公開しあって必死に蔵を守ろうとしてる。酒は米と水がんまぐねと作れねからな、その土地が暮らしやすいって証しにもなる。何より秋田の男って飲まねとしゃべれねし」
 酒蔵の御曹司で、いずれ蔵を継ぐつもりでいる彼ならでは。
「酒は百薬の長だけど、薬は用法を間違えれば毒にもなる。楽しいから飲むんでねぐて、辛いことを忘れるためや淋しさを埋めるための酒は底なしだ。ちゃんと飯食ったり、間に水飲んだりしねば確実に人をおがしくする」
 重みのある言葉、耳に激痛が走る。
「でも、まず底を尽かねと始まんねがね」
「底?」
「いくら周りがやめろっつっても聞く耳を持たねのが酒飲みの悪いところだ。人が離れて、自分は本当にダメなやつだって思い知るのが底尽き。それまではいくら手を差し伸べたって無意味だ」
 本人に自覚が生まれるまでは手のほどこしようがない、と。
「さ、今日もカニカゴだ」
 ジャンケンで負け、僕がカニになる。チョキなんか出すんじゃなかった。
 カニカゴというのはモクズガニを獲るためのカゴのことだ。鬼ならぬカニはそこから逃れようとして四角いカゴの中を右往左往する。ところがモクズガニはそのままでは泥臭くて食べられたものではない。
「ミズ!」
 フリーマンの薬師堂さんがボールを呼ぶ。前郷さんに股の間を通されてしまった。秋田でミズと言えば粘り気のある山菜のことだけど、ここでは真水のこと。モクズガニは真水にしばらく漬けておくと砂を吐いておいしくなるため。この練習のゴールだ。
 この練習が興味深いのは、ボールを持ってるほうが守りの、奪いにいく鬼が攻めの能力を磨くことだ。周りの四人はゴムでつながれてるので間隔を開けることができない。ゴムの長さが3メートルなのは一人で守れる距離がそんなものだからだそうだ。そして真ん中のカニはフリーマンと競りながら、文字通り泥臭食らいつくことでボールへの反応やこぼれる角度への読み、何より執着心を芽生えさせるのだと考案者の監督は言う。
 本物のモクズガニ漁師のお祖父さんを持つガニはやっぱりうまかった。カニになってもすぐに「脱走」するし、カゴになっても周りをうまく声で動かしてバランスを取る。
 僕はといえば全然ダメで、いつまで経ってもカゴから抜けられない。
 それでもこの練習が嫌だとは不思議と思わなかった。羽後さんは倒れたら必ず手を差し伸べてくれるし、矢島さんは体の入れ方を教えてくれる。
 許してもらえる、それだけでも居場所がある気がした。

 全国少年サッカー大会秋田県大会、および由利ブロック予選の日程が決まった。
 由利大会は夏休みの毎週土曜日に行われる。ノックアウト方式で我が由利高原FCは第二シードに振り分けられ二回戦からの出場。第一シードの象潟エレファンツは逆の山に入り、二つ勝つと決勝で当たる。九月に行われる県大会に行けるのは優勝チームのみ。
 あまり良くない組み合わせだとガニは言った。
「最初が亀田とだ」
 強いの? と尋ねようとしたらなんとも微妙な顔をされた。
 他のブロックの組み合わせも持ち出して、本命は秋田ブロックの本命は秋田市の山王だの、能代には180センチのキーパーがいるだの、結城先生が指導してる平鹿ブロックのチームは十文字ラーメンズというとんでもない名前だのといろいろ聞かされてたら車が何台も校庭に入ってきた。
 今日は練習試合で、相手チームの選手が何台もの車に分乗してやってきたのだ。運転手はもちろん保護者たち。そういえばうちのチームは人数が少ないこともあり、選手は監督とコーチの車だけで移動が事足りている。
 僕にもユニフォームが与えられた。背番号が④なのは単に空いていたから。
 メンバー登録が間に合わず大きな大会にはまだ出られてないが、練習試合や一日だけの小さな大会には少しずつ出させてもらってる。
 でもまだ時間が短かったり、Bチーム相手にしか出してもらえない。もちろんゾーンディフェンスへの理解が足りなかったり、下級生ゆえの体力的な理由もある。あるけど、それが一番じゃない。
 ①キーパーの羽後さんは高いボールにも果敢に飛び出し、低いシュートにも抜群の反応を見せる。読みも鋭く、何より勇敢な守護神。
 ②控えキーパーの薬師堂さんは五年生でなかなか試合には出られないけど、前線に送るボールの速さと正確さは羽後さん以上かも。
 ③ガニこと子吉渡は空いたスペースを埋めるのに長け、パスを察知するとオフサイドトラップをしかけるディフェンスリーダー。
 ⑤黒沢さんはいつも笑顔で、笑顔のまま相手を潰す。自己犠牲の精神にあふれるというのか、ケガをも恐れないタックルが売り。
 ⑥曲沢さんはチーム唯一の左利きで、左サイドなら前でも後ろでもできる。左足でのクロスボールは名前の通りよく曲がる。
 ⑦前郷さんは五年生ながら誰もが認める好守の要。パスやドリブルはもちろん、周りと協力してボールを奪うのも何気に得意だ。  
 ⑧久保田さんは人の三倍は走る。背はチームで一番、四年の僕よりも低いけど、黙々と走ってはボールを奪って味方につなげる。
 ⑨西滝沢さんは闘争心の塊だ。相手どころか時には味方や審判ともやりあうけどどんな場面でも絶対に勝負から逃げたりしない。
 ⑩吉沢さんはお高い。ユニフォームを汚したがらないほどプライドも高いが背も高い。一対一でのヘディングの強さならチーム一だ。
 ⑪川辺さんはドリブラーだ。サイドでボールを持ったら自転車のようなスピードに乗った突破でチャンスを作ることができる。
 ⑫やっしーこと矢島さんはチームの得点の半分を決める。両足に頭、時にはお腹やお尻でもゴールするエースストライカーだ。
 チームとしてのバランスが取れていて、逆に言うと新入りがつけ入るすきが見当たらない。
 最初に監督にも言われた。何か武器を見につけないと試合には出せないと。
 キャッチ、フィード、カバーリング、タックル、クロス、パス、スタミナ、メンタル、ヘディング、ドリブル、シュート。
 サッカーにはいろんな要素があるが、どのプレーも必ず僕より優っている誰かがいる。
 この中で間違いなく一番と言えるものを大会までに探し出さない限り、僕はチャンスさえもらえない。そのためには、僕はあまりに自分を知らなさすぎた。

 七月、それを知る絶好の機会が学校で行われた。
 スポーツ体力テスト。毎年一回、国民の体力情報収集を目的として行われる。それと同時に、明日から始まる個別面談の材料ともなる。
 小さい学校の利点で、今日は四年生以上が一斉に体力テストを行う。身体測定と同じで、会場となる校庭や体育館や教室を好きな順番で回る。女子は仲のいい子で固まって移動するが、僕はなるべくジャージの群れてないところから回る。並ぶのは嫌いだ。
 真っ先に選んだのは握力。五年生の教室にはまだ数人しかおらず、指の骨を鳴らしている間に順番が来た。握力計を右腕から下げ、歯を食いしばって握り締める。三一キロ。ついで左腕。二七キロ。二回目は体力温存のために抜いた。
 次は体育館で上体起こし。マットの上で二人一組になり一人がひざを立てて寝そべり、胸の前で曲げた両腕を組む。もう一人にその足を持ってもらって腹筋。ガニがいたので先に足を持ってもらった。体を起こすのは簡単だけど、そこからひじとももとがくっつかないとカウントしてもらえない。ガニに煽られながら永遠のような三十秒が終わった。十四回。ガニは涼しい顔で三十回。足が短いと手足をつけるのが楽らしい。
 ぐるりと体育館を見回し、一番空いてたのが長座体前屈だったのでガニと二人で並ぶ。封を切ってないコピー紙の上に折り重ねたダンボール箱を乗せた器具は先生たちのお手製なのだろう。壁に背中をつけ、コピー紙の間に揃えた両足を入れてダンボールの上についた手のひらをぐっと前に出す。屈伸の要領で柔軟性を見るテストだ。三七センチ。まあまあかな。
「ふごおおお!」
 断末魔のような叫びが体育館に響き渡る。ガニは一八センチ。酢を飲め酢を。
 腹筋に負担がかかったのがガニがトイレに消えたので外ズックに履き替え校庭へ。反復横飛びは一番の苦手だった。歩幅がどうしても合わず、ラインに足が届かなかったり、逆に二本を一度に越えてしまったり。でも今年は自信があった。ディフェンスは全員が同じ歩幅で動くのが大事で、ラダー(はしご)を使った練習をしこたまこなしていたのだ。おかげで去年二十回がやっとだったのが倍近い三十九回をこなせた。
 往復持久走、いわゆるシャトルランは五人いっぺんに行われる。先に羽後さんがいて、両足を開いて上体をひねり、股関節のストレッチに余念がない。CDの電子音に合わせて、二十メーター間隔で引かれた石灰のラインの端から走る。音についてけなくなった、あるいは二回連続で線を踏み損なったらアウトだ。最初は長い電子音の間隔が、一分ごとに短くなる。一人、また一人と脱落する。最後に残ったのは僕と羽後さんだった。
 ただ休みのない電子音に走らされているだけの僕と違い、羽後さんは息一つ乱れていない。一度ラインを踏み損ね、もう失敗の許されなくなった僕のはるか先をその背中が駆け抜けてゆく。もう足が動かなかった。結果は六二回だと教えてくれた。
 羽後さんが一人記録を伸ばし続ける中、僕は木陰で水筒を傾けた。筆箱を取り出し、記録を確認する。得点表というのがあり、記録によって1点から十点まであり、これを加算した合計でA~Eの評価がつく。途中経過をつけてみる。握力が十点、上体起こしが五点、長座前屈位は八点、反復横とびが七点、シャトルランが八点。合計三八点。四年生の総合評価ならあと三種目で二一点取ればA評価だ。平均七点ならら夢じゃない。
 次は五十メートル走を選んだ。確か去年は九秒八だった。〇・五秒縮めれば七点になる。五十メートルも五人ずつで行う。六年女子と四年男子のリレー選手がいる組に入った。彼らにすがっていけばタイムも伸びるかも知れない。運動会のような紙雷管ではなく笛でスタートが切られる。
 クラウチングスタートの構えをした時に異変は起きた。右のふくらはぎがヤバい。六十回以上同じ足でダッシュしたツケがきた。とっさに足を前後入れ替える。笛と同時に地面を蹴った瞬間に気づいても手遅れだった。初めの一歩、左足ではほとんど力が出ない。なんとか遅れを取り戻そうと必死に両手を振るが差は広がるばかり。十秒八。去年より一秒も遅いタイム。評価もこれまでで最低の四点。走る運動を続けてしまったこと、前の持久走で思った以上に消耗してたことに気づけなかったこと、何より利き足から踏みこまないとまるでスピードに乗れななかったのはしくじった。
 それでも給食までにあと二種目回らなければならない。顔を叩いて砂場に向かった。
 立ち幅とびは助走なしでラインに爪先をつけて両足で跳ぶ。一回目は置きにいった。普通に足を揃え、正しいフォームで揃えたかかとを砂地につける。思ったより足元がゆるかったのでバランスを崩しかけたが両足を振ってこらえた。一五七センチ。まずまずの距離が出たので二回目はバクチに出た。大きくひざを沈め、掛け声とともに大きく前に。少しでも遠く。爪先から先に落ちる。さっきの足跡より半歩以上前。足底の腱がつった。絶望とともに空を見上げる。お尻に感じる砂は冷たかった。
 二種目で一一点。前半の五種目と加算して四九点。最後の種目でA~Cのどれかに決まる。
 最後の種目はソフトボール投げだった。校庭の真ん中に円が描かれ、そこから中心角三十度になる直線が二本引かれている。円から出ないようにソフトボールを投げ、二本線の間に落とす。なぜかこれだけは評価が女子に異様に甘い。女子は二五メートル以上で十点だが、男子は同じ距離で七点しか入らない。
「男の子のほうがボール投げに慣れてるからかなぁ」
 担当は結城先生だった。ソフトボール投げは並んでる児童もいないのでゆるゆるとした雰囲気だ。そんなこと言っても、僕だって親とキャッチボールすらした覚えもない。
「腕の力だけで投げないことかな。腰をひねり、上体を反らせて全身を使う。あと指の先にまで神経を尖らせる。ボールを離したあともしっかりフォロースルーだ」
 そう言いながら野球のピッチングをしてみせる先生。それを真似て、ボールも持たずにシャドーピッチング。足腰、背中、腕、手、指先。ボールに遠い場所から近い場所へ力を移すようなイメージか。
 あれ、これ何かに似てる。

 父は柔道家としては小さいほうだった。リーチも決して長くなかったので立ち技で柔道着を取るのも難しく、小兵ゆえに体重を利した寝技に持ちこまれるのも嫌った。
 そんな父がどうやって頂点に登りつめたのか。動画サイトで父の名を検索すると現役時代の試合がいくつもアップロードされていて、僕はようやくその秘密を知ることができた。
 映像はどれも保存状態が悪く、歪んでいたり、色あせていたり。それでも僕の知らない、若き日の父の姿はとても貴重なものだった。カラー柔道着もない時代、白い柔道着に黒帯、日の丸を左胸につけた父は今よりも精悍な顔つきで髪も短くて真っ黒、獲物を求める肉食獣のような眼光が劣化した映像からでも伝わってきた。試合前には必ず自分の顔を平手で叩いて気合を入れていた。こんな父を、家でもテレビでも見たことがない。
 外国人選手は小柄な父を見て、まずは必ず両手を伸ばして袖を取りに来る。父は細かなステップでそれをかわし指一本触れさせない。相手が焦れ、さらに腕を伸ばしてねじ伏せにかかる。それこそ父の思う壺だ。伸ばした腕を屈んでくぐり、空いた懐に飛びこむ。片方の襟と袖とをつかむと肩に背負って投げる動作を始め、同時に足も払い相手の下腹部を腰に乗せて投げる。背負い投げと払い腰とを組み合わせたような技。アナウンサーが何度も絶叫する。ヤマアラシ、と。

 四五度の角度で投げたボールは、自分でも驚くくらいによく飛んだ。二本の直線に五メートル間隔に引かれた半円と七つ目と八つ目の間にボールが落ちた。
「三八メートル」
 思わず舌打ちした。あと二メートルで十点になる四十メートルだったのに。
「すげえなあ」
 先生に拍手されたが、まだ納得できてない。
 普通柔道の技は一本背負いとか上四方固めとか形状がそのままつけられる。その中で山嵐という風流な名前は珍しく、柔道小説の主人公の必殺技にもなった。
 柔よく剛を制す、体格のハンデを克服するために磨きに磨いた伝家の宝刀に比べたら僕の打った投げは全然ぎこちない。けど、何かをつかみかけた予感はする。もう一度やればそれがさらにはっきりするかも知れない。手のひら、特に人差し指と中指とに粉をまぶす。ソフトボールは片手に余る大きさだがサッカーボールほどではない。
 今度は少し助走をつけることにした。円の後ろまで下がり、小走りに前に出る。左足を上げて振りかぶり、背中が前に向くほど反らせる。肩から腕、指先をムチのようなイメージでしなわせる。上げた左足を踏みこみ、二本指でひっかけたボールに最後の一瞬まで力を伝える。ボールが離れたあとも自然に逆らわず振り下ろす。
 ボールは伸びた。伸びて、伸びて、さっき越えられなかった四十メートル円のはるか先に鈍い音とともに落ちた。
「記録、なし」
 非情に告げる先生。その指先には、円をしっかりと飛び出した僕の左足があった。

 店の扉を明けると、母は据わった目で座っていた。B評定を少しは喜んでくれると思った僕が愚かだった。足音を立てないように、起きてるか寝てるかも分からない彼女のそばを横切る。ランドセルを自室に置いて母の寝室に入った。今日ならできる気がした。
 父の訪れない寝室は、古びたおままごとの部屋のようだった。ピンクの遮光カーテンのすき間から夕日が差して床を分ける。
 部屋の面積の大半を占めるダブルベッドからタオルケットと枕を下ろし、その端に立つと手を伸ばすとゆっくり頭をつく。
 三点倒立から十本の指に力をこめた。つむじをゆっくりとマットから離して顔を上げる。頭が浮いた。必死に数字を数える。ベッドから落ちた。
「うるさいわね!」
 階段を駆け上がった母が壊れそうな勢いでドアを開けた。吐く息は酒臭く、口の端からはよだれが。黒くて長い髪も、白く塗った顔も、赤くふっくらとした唇も、愛でてくれる人がいなければ何の価値もない。
 クマなんて怖くない。一番怖いのは人間だ。
 緑色が左側から降り下ろされた。こめかみに稲妻が落ちる。床に落ちた赤は血ではなくボトルの底に残っていた赤ワイン。左手で頭を押さえながら足が出口に向かう。罵声を聞き流しながら店のドアを開け、外へ。右のふくらはぎがつりそうだったけど、食い殺されるかもしれない時に屈伸するウサギはいない。
 土手を上がり、土手を下る。
 もうすぐ日が沈むのに、子吉川は鏡のように澄み切っている。ひざまずいて顔を見る。頬骨の上部が紫色に腫れ上がっていた。
 塩入さんに連絡を取る。すぐに行きます、とは言ってくれたがそれまでどう時間を潰せばいいのか。まさか家には戻れないし、かと言ってこの顔で行ける場所はない。
 水は絶えず流れるが川はいつもそこにある。
 橋の上の家路につく車のライトを頼りに足元の石を拾う。石切りじゃなく、肩の上から思い切り腕を振り下ろす。何度も何度も。
 石はそのたび重低音と共に落ち、はねを作って沈む。
 遠く、もっと遠く。向こう岸に届くまで。けど投げても投げても石は川の半分も越えずに落ちてゆく。
 ああ、逃げられない。逃げきれやしない。
 おかしくもないのに腹の底から笑いがこみ上げる。このまま石じゃなくて自分の体を投げ出してみても大して変わりゃしない。
 すっかり日が暮れ、川風で体が冷え切ったころワーゲンが止まった。車体の色もわからないほど暗くなっていた。
「見えますか、何本ですか」
 車の中で塩入さんが揺らす人差し指の動きを両目で追う。名前をフルネームで、お父さんの名前は、今日は何月何日の何曜日ですか。矢継ぎ早に放たれる質問によどみなく答えると近くの温泉に連れて行かれ、車はそのまま立ち去った。
 人は多かったけど幸い知り合いはいなかった。夏場なのに手先足先がかじかんでいたのでぬるいお湯でも十分しみた。傷の痛みがよみがえってきたので早めに上がる。誰にも何も言われなかった。
 塩入さんはもう戻っていて、その足で中国料理屋に連れて行ってくれた。震災を機に仙台から移住した中国人の夫婦がやってる店で、僕はここのセロリが入った水餃子が好きだった。右の奥歯でかんでいると、塩入さんが重い口を開く。店内にはテレビから流れる中国語のアナウンサーの声しか聞こえない。
「先生とご相談しました。一時的にですが、お一人で東京に来られますか?」
 あまりにも突飛な提案だった。
「無論夏休みが終わってから九月の転校にはなります。最初は都立になりますが私立への編入も可能です」
「ちょっと待ってください」
「何があろうと四朗さんをお守りすることが自分の仕事です」
 いつもならつるつるのどを滑る餃子が全く進まない。
「だから、順番が違うじゃないですか。母は先です」
「アルコール依存症の治療施設に入ってもらいます。すでに手配は済ませて」
「勝手に決めないでください」
 そこまで言って、僕自身も順番を取り違えてるのに気づいた。
「今母はどうしてます」
「嘔吐していたので救急車を呼びました。明日には退院できるかと」
 ため息が出る。最悪のタイミングだった。
「酒は怖いです。お人よしの顔で近づいてきて、平気で人生を狂わせてしまう」
 塩入さんが自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「僕はここを、由利本荘を離れません」
「四朗さん」
「父に伝えてください。僕を東京に呼ぶ前に、母に土下座しろって」

 次の日、学校を休んだ。秋田市の総合病院で検査を受けるためだ。送ると言ってくれた塩入さんを押し切って曇天の中一人鈍行に乗った。電車の揺れもダイレクトに傷に響いた。
 幸い、目も脳も骨も異状なし。顔に大きなガーゼを貼られただけだった。どこにも寄らず本荘に戻り、そのまま学校に向かった。とっくにお昼を過ぎていた。
 教室には机と椅子が二つずつ、あとは全て隅に追いやられている。椅子に座って待ちぼうけを食らっていた結城先生があっけに取られた顔で黙って入ってきた僕を見た。さすがに今日はふざけたTシャツを着てはいない。
 よりにもよって、こんな日が個別面談だなんて。
「お母さんは?」
「体調が悪くって」
「その傷は?」
「サッカーで転んで」
「サッカーでそんな傷はつかない」
 そっか、この人は横手の岡ちゃんだった。監督に初めて会った時に聞かされた。
 ゴール前に高いボールが上がるだろ。そうすると眼鏡を外して跳ぶんだ。で、それが終わるとまたかけ直して試合に戻る。そうやって競ったヘディングで負けたところを見たことがない。
「今日はもう帰りなさい。後日、お母さんに改めて学校に来てもらうか、僕が君の家に行く」
「大丈夫ですから。本当に」
「そんな顔で大丈夫って言う人を、僕はもう見たくない」
 先生が眼鏡を外し、机の上に置く。目の前で指を組み、眉間にしわを寄せる。手の甲に青白い血管が浮き出し、その声がみるみるうちに怒気をはらんでいくのがわかる。
「君が何も言いたくないなら今日はもう何も聞かない。その代わり、次に同じようなことがあったら」
「わかりました」
 これ以上この人に言わせてはいけない。本能的にそう察した。先生は深いため息をつき、眼鏡を顔に戻す。
「担任にとって受け持ちの児童は我が子だ。我が子が痛めつけられて黙ってられる親なんかいるかよ」
 もうしゃべれなかった。教室を出て廊下を走る。順番を待ってる保護者がけげんそうな顔で見るのも構わない。内ズックのまま校庭の真ん中まで走った。肩で息をつきながら下を向く。
 一滴、砂に吸いこまれた。後から後から降り注ぐ。からっ梅雨が嘘のような土砂降りだった。
 先生、僕は、あなたの子どもに産まれたかったよ。
 ちりん、ちりん。鈴の音が重なる。
 黒い雨傘を持った羽後さんと、ビニール袋を下げたガニだった。
「け」
 ガニがビニール袋を眼前に突き出す。朝から何も食べてないのに気づいたけど、とても手を出す気持ちになれない。
「く」
 羽後さんが、油ものの一切を遠ざけているストイックな男が袋に手をつっこみ、ハムフライにかぶりつく。
 僕も手を伸ばした。ハムフライには温もりのかけらも残ってない。その冷たさに、二人が待ってくれた時間の長さを思い知る。
「め」
 泣きながらハムフライを食べた者にしか、本当のハムフライの味は分からない。そう知った午後だった。

「おはよう」
 雨の上がった翌日、校門には結城先生。今日はネイガーさんのTシャツだ。
 昨夜家に帰ると、退院した母が戻ってきていた。まるで何もなかったかのように。
 ただ違うのは店からも住居スペースからも、ありとあらゆるアルコールが消えていたこと。みりんすらなくなっていた。
 この状態がいつまで続くかは分からない、分からないけど。
「先生、お願いがあるんですけど」
 さびついた校門の前に立ち止まる。
「おう、金はないけど何でも聞くぞ」
 先生もいつもの眼鏡やきそばだった。
「絶対ですか」
「絶対だ」
「ほんとですね」
「しつけえな」
 目を閉じ、そして開く。
「転回を教えてください」
 アでもエでもハでもへでもない、実に秋田人らしいイントネーションで返された。



 その電話がかかってきたのは夏休み直前の連休明けの夜のこと。
「あ、鮎川。俺、西滝沢」
 コーチかと思ったら息子の祐次さんだった。
「親父が監督と連絡取れないから明日役所に行ってくれないかって」
 次の日下校した足で由利本荘市役所に。あのカッチリヘアがいない。連休に東京に行くと言ったきりずっと休んでるという。職員のプライベートを明かすのはあまり好ましくないんだけども、という前置きつきで住所を教わった。実家は東由利だけど今は川向こうにワンルームを借りているのだという。
 海からの西日を受けながら新由利橋を渡った。いつも送迎してくれる銀色のワゴンが止まっていたのですぐわかった。我々の税金でずいぶんいいところに住んでやがるな公僕め。消費税しか払ってないけど。
 アパート名と部屋番号を確かめ、ノックするが返事はない。まさか、と思いドアノブを握り締めると扉はあっさり外側に開いた。
 カーテンは閉め切られ、腐臭に近いものが鼻を突いた。悪い予感しかしない中、本やらゴミやらで覆われた床を大股で歩く。
「……ひっ」
 さすがに声が漏れた。髪はボサボサ、目は落ちくぼみ、頬はこけてひげは伸び放題、すでに涙もゲロも枯れ果てたような土気色の肌。監督が頭から布団をかぶった即身仏のような姿でベッドに座っていた。
「彼女に会いに行ったんだ」
 部屋にある飲み物の鮮度に一切信頼がおけないのでグラスに注いだ水道水を用意してから話を聞いた。
 監督は高校サッカーで鳴らしたストライカーだったそうだ。あだ名は赤い殺し屋だったそうだが、本人はあまりその頃のことを話したがらない。なんでも相当いきがっていたらしい。大学卒業後首都圏のプロチームで挫折、地元での仕事が決まったのを機に引退したのは知っていたが遠距離恋愛の話は初めて聞かされた。相手は大学の後輩だという。
「前に会ったのが正月休みで、半年ぶりの再会。なのに、会って一言目に言われたよ、妊娠三ヶ月だって。どうやって秋田に帰ってきたかもよく覚えてない」
 あちゃー。
「東京生まれで、一度も実家を出たことがなくて、俺が引退して田舎に戻ることになった時一緒に来てくれって言ったけど保留されて。でもまさか他の男と」
 そこまで言ってあわてて口をつむぐ。目の前にいるのが小学四年生だとやっと思い出したらしい。
「僕は妾腹の子ですから」
 どうやって子どもを作るのかを知った時、人は大人になるのかもしれない。僕が自分を子どもだと思ったことがないというのは、そういう意味だ。
「土曜は何が何でも来てください」
 それでも監督は来なかった。だから僕ら本荘組は第三セクターに揺られて練習に行ったが、山側は大雨で全く練習にならなかった。
 当日も朝起きると雨だった。中止になるんでねえか、なんて話を車を待ちながらしていたが雷は鳴らなかった。予定よりだいぶ遅れて車が来た。
「待たしたな」
 監督はひげは剃っていたが剃り残しも目立った。髪を洗ってただけでもまだましか。
 海側の雨は山側ほどではなく、それでもわーパーがせわしなく動く。しかも監督のハンドルさばきはいつになくあぶなっかしく、道中対向車が直進してくるのに右折しそうになり急ブレーキを踏むこと二回、赤信号に気づかず突っ切ろうとすること一回。明日の魁新報に『少年サッカー団を乗せた車事故、死傷者多数』の見出しが躍ることを覚悟しながらなんとか会場に着いた。由利組はさらに二十分遅れた。度重なる通行止めでえらく遠回りをしたそうな。
 鉛色の空の下、全国少年サッカー大会由利ラウンド開幕。開幕式で先制を行ったのは去年の優勝チームのキャプテン、象潟エレファンツのキャプテン、メガネの高橋。
 第一試合なので急いでピッチに降りる。八人制サッカーは大人用のコートの半面を使う。ベンチがピッチの両端にあって二面のピッチが接してるので隣のコートが入ってくることもよくある。
 サイドステップする久保田さんの動きが軽快だ。笑顔を絶やさず、さかんにスタンドをチラ見してる。
「彼女が見に来ててさ」
 聞いてもないのに答えられた。そんな傷口に五寸釘を打つような仕打ちを。
 監督が完全に使い物にならないので、コーチがホワイトボードに番号を振った円いマグネットを並べる。
「キーパー羽後。ディフェンス右から黒沢、子吉、曲沢。中盤祐次、前郷、川辺。フォワード矢島」
 布陣を説明する時人数を後ろから数える。由利高原FCのシステムは一貫して3-3-1、実際には両サイドが前を追い越さない程度に上がって、フィールドの七人が前郷さんを中心に組子細工のような六角形を描く。
「向こうはこっちをよく知ってるが何をやってくるかはわからん。前半は慎重にな」
 向こうがこっちを知り尽くしている理由はガニから聞いていた。
「やれやれーっ」
「ぶちのめせー」
 稲光もないのに、雷のような声を背に選手が入場する。
 日本海に面した由利本荘市亀田地区は戊辰戦争で新政府軍の領地立退き命令に叛旗を翻し秋田戦争を戦った亀田藩ゆかりの地。そこをホームタウンにする亀田サッカー少年団のユニフォームは暗い緑に亀甲模様が描かれたデザインになっている。
 試合開始早々、ロングパスを亀田の選手が受ける。ガニが右手を上げてアピール。副審が旗を挙げるのを見届け主審が試合を止めた。オフサイドの判定だ。
 オフサイドというルールを一言で説明するなら待ち伏せ禁止になる。パスを受ける選手はパスが出る瞬間、相手の後ろから二番目の選手より前にいてはいけない。もしこの反則がないとサッカーはゴールからゴールへひたすらボールを蹴りあう恐ろしくつまらないスポーツになってしまう。
 オフサイドトラップはそれを逆手に取った戦術だ。パスが出る瞬間、ディフェンダーが一斉に押し上げて相手選手をわざとオフサイドポジションに追いやる。獲物がかかった瞬間、さっとカゴを上げるのはガニの十八番だ。
 亀田の戦術は至ってシンプル。やっしーと前郷さんにマンマーク、それ以外は左右中央に一人ずつ。奪ったら即両方のタッチライン際に張り出したアタッカーにロングパス。強い雨と田んぼのようなぬかるんだグラウンドコンディションにあっては最適の戦術だ。
 逆にうちはショートパスをつないで少しずつボールを運うとするがグラウンダーのボールはぬかるみにはまり前線のやっしーまで届かない。他も亀田の選手に動きを読まれている。元チームメートなのだから当然だ。
「走れ走れ!」
「なんで取れないの!」
 原因は、色とりどりの傘を差したスタンドの大人たちだ。
 サッカーのみならず、学生がスポーツをやるのに保護者の協力は不可欠だ。送迎にレッスン料、用具代に遠征費、お弁当。僕らはその犠牲の上で習い事ができる。
 ところがチームの運営に口を出す親もいる。コーチ気取りで声を出すのはまだまし、うちの子をどうして使わないのかと監督に詰め寄る親、ひどいのになると指導者と関係を持つ親までいるらしい。
 由利高原もかなりひどかったらしく、我慢していた監督がついに一石を投じたのだとか。試合中は子どもを自由にしてくれと。
 チームは分裂した。いや、指導者と保護者が決別した。由利高原を辞めた、辞めさせられた選手が一番多く流れたのがこの亀田で、今日出てる選手の半分が僕が入る少し前まで青と白のユニフォームを着ていたのだ。
 残った選手も複雑だった。この時期に新しいチームに移ってもレギュラーになれないであろう六年生の中で、真っ先に残ると決めたのはやっしーだった。由利っ子が由利以外のチームには移らないと。ガニはお祖父さんが残りたいと言ったガニを両親からかばってくれたという。傑作なのは前郷さんで辞めるやつがいればそれだけ試合に出やすくなると喜んだ。羽後さんは最後まで悩み、一度は引退まで考えたとか。そうやって苦しんだ末に残ったのが十一人で、その事件が起こって最初に入ったのが僕だったのだ。
 今では保護者は試合は見に来て、形通りの応援しかできない。その代わり僕らの送迎の一切を監督たちだけで行っている。
 亀田の保護者はそうじゃない。自分たちが子どもを辞めさせた記憶は監督に追放されたくらいに都合よく置き換わっているのかも。
「モンペは農作業だけにしてくれっての」
 キーパーグローブで頬杖をつく薬師堂さんがうんざりといった表情でぼやいた。
 ベンチから遠いサイドで笛が鳴った。トラップミスで奪われたボールを西滝沢さんが奪い返そうとして緑色のソックスを後ろから蹴倒してしまったのだ。
「わざとこけんな!」
 いらだちをぶつける西滝沢さんを両チームの選手が囲む。薄汚い野次が飛ぶ。主審がまだ納得してない顔の両者に握手をさせて前半が終わった。
「祐次、なんだべ今のは!」
 コーチが最後に戻ってきた息子の濡れた肩をつかんで激しく揺さぶった。コーチは床屋さんだけど練習や試合の日は店を奥さんに任せ、ずっとこのチームに携わってきた。父親は巨漢、息子はやせっぽっちで似てないが気性の荒さは血を感じさせる。
「やめてください」
 その手をはらった手がある。
「今の祐次君は一人の選手だ。私情は捨ててください。これは監督命令です」
 即身仏の目に力が宿っていた。
「久保田、川辺と替われ。久保田が真ん中、前郷が左だ」
 監督の采配は当たった。犬のようにハッスルしまくりな久保田さんが面白いようにルーズボールを拾う。前郷さんのマーカーがそのままサイドについてしまって亀田の真ん中がぽっかり空いてしまっている。
 僕はといえば薬師堂さんとキャッチボール。ベンチではさっきまでにらみあっていた父子が並んで座ってる。
「鮎川」
 監督が呼ぶ。来た。
「次こっちからボールが出たら、いくぞ」
 肩を片方ずつ回す。いつでもいい。
 八人制サッカーは交替自由、ハーフウェーラインを中心にした6メートルからならいつでも出入りできるのでそこで待機だ。空を見上げると若干小ぶりになっていた。ユニフォームのすそで手をぬぐいながらその時を待つ。
 亀田の選手が蹴ったクリアがコーナーフラッグ付近を点々とする。タッチラインから出たのでほっとしてる様子だった。
「行けっ」
 背中を押されて黒沢さんと入れ違いに中に入ると西滝沢さんからボールをもらい、もう一度タッチラインの外に出る。
 軽く助走をつける。左足がラインを出ない程度に前へ。ボールを確実に頭の上を通す。
 ひょ、っと投げた。
 相手を背中でブロックする西滝沢さんの頭上を越えたボールはゴール前に高々と上がる。
 頭から飛びつくやっしー。影のように寄り添っていたマーカーがボールウォッチャーになって、今日初めて自由になった。飛び出したキーパーが猫のようなパンチでかき出す。その落下地点に左から走りこんだ前郷さんが右足で虹をかける。前に出たキーパーの頭上を越えるループシュートがゴールネットにたまった水滴を散らす。
「ナイスシュート」
「キーパーとディフェンスの間にボールを入れると中途半端にクリアするのがあいつらの抜けないくせなのはわかってた。けど、今日はそのボールが出なくてな」
 ベンチに帰る僕に前郷さんがわざわざ礼を言いに来てくれた。
 ロングスロー。これが僕の生きる道。父譲りの鉄砲肩が初めて役に立った。
 亀田はこの失点で崩れた。さらなる失点を防ぐのか追加点を取られても攻めるのか全く見えない。急造チームのもろさだった。
「……!」
「……!」
 聞くに耐えない罵りはついに自分の子どもたちへと向けられた。思わずにらみつける。観客に出すレッドカードはないのか。
「シロー、試合見ろ」
 ベンチに下がったやっしーに顎クイされる。
「おら、根性見せろ亀田!」
 あろうことか、相手チームの応援を始めた。
「試合にも負けてて誰にもほめられない、そんな辛いことねえべ」
 相手を罵れば罰せられるが、ほめても罰せられない。だから僕らはどっちのプレーにも声援を送ることにした。
 タイムアップ。だが整列できず、その場にうずくまる泥まみれの緑色のユニフォームがそこここで震えている。
 真っ先に近くの選手に手を差し伸べたのは羽後さんだった。ガニや前郷さん、タッチ沿いに座りこんだ選手には西滝沢親子が同じ目の高さで声をかける。
 古い映像の中で見た父は、どんな勝ち方をしても喜ぶ前にまず敗者に寄り添っていた。負けた者にも幸あれと願うようにその健闘を称えていたのを思い出した。
 立ち上がった選手たちが整列する間に、向こうの監督と握手した監督が戻ってきた。
「何を話したんですか」
「これからもあの子らをよろしくって」
 気づけば雨は止み、雲のすき間から日差しがはしごのように降り注ぐ。その光を背にした即身仏が、後光の差す仏様に見えた。



 土曜の朝、表通りを走るけたたましいサイレンの音で目が覚めた。まだ七時前だったのでまたすぐに布団をかぶった。
 二度寝して目覚めると十一時過ぎ。集合は一時だったがやることがたまってたので起きた。
 あれ以来母は店を開けていない。定期的に鶴岡の心療内科(やはり県内はまずいらしい)に通院し、化粧もしなくなり僕の作る簡単な食事も口にするようになったが今もそうしてるように自室で寝ていることが多い。
 集合の一時間前に家を出て、昔ながらのラーメン屋でブランチを取ってから駅の待合室に向かう。上りも下りも一時間以上先なので羽後さん一人しかいなかった。
 明日が由利ブロック決勝。相手は当然象潟エレファンツ。高橋、壇ノ浦、金のTDKトリオをどう止めるか、そのためにこの一週間を費やした。今日はその最後の練習、それらをおさらいする内容になるだろう。
「もう、あいつらにだけは負けたくない」
 今週だけでも羽後さんのこの言葉を何回聞かされたか。
 駅舎を出る。いつも定時五分前に来る監督のワゴンが姿を見せない。定時を過ぎてもだ。
 そしてもう一人、いつもこの駅で待ち合わせるガニも。
 羽後さんが監督の携帯に連絡を入れるが運転中でつながらない。この場合削られるのは練習時間なので今のうちに準備運動する。
 両手を広げ、そのまま地面を蹴る。壁や頭の支えがなくても倒立できるようになったのは夏休み直前だった。そのまま歩行する。顔はあまり上げすぎず、足は曲げたまま。逆さまのモータープールにものすごい勢いで車が入ってきたので思わず座りこんだ。
 荷物を積み、自分も乗りこむ。いつもギュウギュウの車内に今日は余裕がある。いつもクソうるさいあいつがいない。
 そのことには何も触れず、監督は車を出す。役所にいる時のカッチリした髪型だった。
「先週までの組み合わせ表だ、ひまつぶしに見とけ」
 県大会出場を賭けた各地区のトーナメント表をプリントアウトした紙の束を回し読みする。赤いマジックで勝ち進みも記入され、すでに代表が決まったブロックもある。結城先生率いる平鹿の十文字もその一つだ。当然チーム数の最も多い秋田ブロックは優勝候補、山王の勝ち上がり方がえぐい。二桁得点と無失点が並んでる。
「山王はもう県大会からでいぐね? 予選とかやるだけムダだ」
「……そうとは限らないですよ」
 自分でも驚くほどつるっと言葉が出た。
 なまはげを背負った背中を、一日も忘れたことはない。
「ならハムフライ賭けるべ」
「いいですよ」
 山王に賭けたのが僕以外の四人。羽後さんまでやけにはしゃいでいた。どこか無理してんじゃないかと思うほどに。
 いつもより遅めにグラウンドに着いた。由利組がすでに待っている。練習は始まらず、監督がコーチと顔をつき合わせて真剣な表情で何か話し合う。アップしながら横目で見てると時折監督が顔を伏せる。失恋どころじゃないなにかが起こったのは明らかだった。
 ようやく集合がかかると、監督が重い口を開いた。
「子吉のお祖父さんが今朝亡くなったそうだ」
 その目は赤く、誰も何も言えなかった。
「羽後と鮎川、練習が終わったら俺と一緒に通夜に行こう。荷物だけ家に置いたらまた駅に来てくれ。服装はそのままでいい」
 練習は試合前日らしく実戦的だった。俊足の川辺さん、長身の吉沢さん、左利きの曲沢さんが仮想TDKとなり三人で攻めてくる。うちのディフェンスも同じ三人なので数的同数にならないため必ず中盤から一人下がらなければならない。
 左右中央の誰が下がればいいか、それを最後尾から指示するのがガニだった。けどガニのポジションに入った黒沢さんは目の前の選手を潰すのが得意なタイプで、中盤と最終ラインの間にできたすき間を埋めきれない。
「鮎川、黒沢と替わって」
 本来の右サイドに戻った黒沢さんは水を得た魚のように対面の曲沢さんに食らいつく。そして真ん中なんてやったことのない僕は吉沢さんをマークしながら、サイドからの二次攻撃にも目を光らせないといけない。
「もっと寄せろ!」
 羽後さん、んなこと言ったって無理。何度もネットを揺らされた。
 ガニの穴を誰で埋めるのか、その解が出ないまま練習時間が終わった。一度駅で解散して家に歩いて戻る。服装はそのままでいいと言われてもシャワーくらいは浴びたかった。
「おかえり」
 驚いたことに母が黒いスーツを着て待っていた。ナチュラルメークに低いパンプス、長い髪はひっつめ、アクセサリーも簡素。
「この辺の票をまとめてくれたの、子吉君のお祖父ちゃんだったのよ」
 監督には直接向かうと電話し、タクシーで斎場に。
「明日、試合なんでしょ」
「来なくていいよ別に」
「来てほしくないの」
「特にそういうわけじゃ」
 こういうところ、やっぱり空気が読めない。
 肉親を失った仲間の前で、サッカーの話を持ち出したりしないか、本気で冷や冷やした。
 斎場は線路沿いにあるホールだった。式は一件だけだったけど駐車場はいっぱいで故人の人徳が偲ばれた。母が記帳を済ませる間、読経が聞こえる斎場を覗きこむ。モクズガニを手にご満悦な遺影が見えた。
 焼香の列に並ぶ。ご遺体の一番近いところで横一列になって頭を垂れる遺族の一番端、釣り半ズボンのガニがいる。いつもへらへらとしている顔からは表情そのものが抜け落ちている。僕らの番になった。慣れた手つきでご焼香する母の隣で僕は手を合わせる。とてもガニの顔を見る勇気はなかった。
 ご遺体に対面する。日に焼けてダンボールみたいだった顔は化粧で不自然に白く、自分が死んだのにも気づいてないような穏やかさだった。ただその組んだ手には無数の傷が走り、先のない指も。この人が長きにわたって川と戦ってきた証だった。
 母が弔問客と話しこんでる間、会場の外で監督たちと落ち合った。羽後さんだけではなくやっしー、前郷さんに西滝沢親子。大人は黒のスーツ、子どもたちは僕と同じ青いジャージで左袖に小さな喪章を安全ピンで留めていた。
「いつもの量を飲んでちょっと早く寝て、朝便所で冷たくなってたんだと」
 早朝の救急車はそれだったのかもしれない。秋田の年寄りらしい最期だった。
「……!」
 意外にも、突然泣き出したのは前郷さんだった。同じ五年生のレギュラーであるガニの姿に、何を感じたのだろう。
「酒は悪ぐね」
 やっしーが絞り出すような声でやっと言う。
 もし誰からも忌み嫌われるような爺だったら、いつもバカばかり言ってるガニがあんなんじゃなければ、誰もこんなにならない。
 明日は決戦なので流れ解散になるがいつまでも母が戻ってこない。斎場の片隅に一人残されて、ぽつぽつとした人の流れを見送る。
 一瞬、目を疑った。
 縁取りのない眼鏡。黒一色の膝丈ワンピース、ハイソックス、ローファー。何より白いうなじがのぞくほどに短く切り揃えた黒髪。
 別人のような装いでも、見間違えたりするものか。日に焼けて真っ黒の僕らとは違い、春に見た時と同じ白い顔。
 今日の彼女はなまはげではなく、秋田小町だった。
 そして、さらに目を疑ったのは。
 彼女が乗りこんだ車。ナンバーも二度見したが間違いない。違うのはなぜか彼女の閉めた助手席のドアが見事にへこんでいたことだけだ。
「四朗、お待たせ」
「あ、うん」
 遠ざかるエンジン音を隠すように振り向く。母にだけは見せてはいけないと本能が叫んだ。
「子吉君、笑ってたね」
 タクシーの中で、え、と思わず声が出た。
「ほっとしたんじゃない? 泣いた目でもなかったし」
 なんで僕は顔を上げられなかったのだろう。
「ドラマの葬式でわんわん泣くのは嘘。本当に悲しい人はしばらく何にも考えられなくなってお通夜だ、お葬式だって追い回されてるうちに少しずつ実感が湧いて気がつけば涙が出てくる。まして子吉さん、昨日までは元気だったわけだし」
 隣の数珠を握る白い手があんな風に固く組まされたら僕は泣くのだろうか。怖くて考えられなかった。

 試合当日は五時に目が覚めた。自分でも緊張してると思ったので布団の中で関節を動かす。肩も背中もガチガチだ。そんなことをしてたら小一時間経ったのでジャージに着替えスパイク、すね当て、ユニフォームと昨晩揃えた一式を確認して忍び足で階段を下りる。
 うっすらほこりをかぶった店のテーブルに、青いバンダナが茶巾に包まれている。どう考えてもお弁当だ。がんばってね、のメモ書きまで。軽く面食らった。
 家を出た。時計の針は六時十分。集合は七時なので軽く三十分は駅で待つ計算だけど神経がたかぶってるのでそんなことは気にはならない。朝っぱらから日差しが強く、セミがやかましい。日曜の朝の駅は閑散としていて部活動に行く野球部員くらいしかいない。
 そこで、信じられないものを見た。
「ガニ」
 ジャージ姿の子吉渡だった。
「今日、友引なんだよ」
 友が引く、親しい人を道連れにするからこの日に葬式は行われない。僕はそんなことすら知らなかった。僕が言葉を失っていると羽後さんも来た。
「親には言ってきたんだよな」
 呆れ顔の羽後さんにそう詰め寄られて目を逸らすガニ。
「帰れ!」
「帰んね!」
 売店のお姉さんが補充のペットボトルを落とすような声が待合室に響いた。誰よりもガニにいてほしいはずの羽後さんが帰れと叫び、誰よりもお祖父さんのそばにいたいはずのガニが帰らないと返す。
 そんな修羅場のタイミングでワゴンが来た。監督は冷静だった。
「お母さんから連絡があったよ。故人もそう望んでるでしょうって」
 ガニが深々と頭を下げた。
 誰も何も言わない車の中で青いバンダナをほどく。サッカーボールのような丸くてでかいおにぎりが一つ。中に梅干、おかか、鮭、昆布が入っていた。
 試合二時間前、西目に到着。由利組もまるで死人にでも会ったような顔をする。
「よく来た」
 やっしーがその背中を手荒に叩く。やっぱりこの人は違う。
 試合一時間前、象牙色のジャージが遅れて入ってきた。宿敵、象潟エレファンツ。大中小、相変わらずキャラたちまくりの高橋、壇ノ浦、金を先頭にピッチへ。
 試合三十分前、ベンチでミーティング。スタメンにはガニの名前が。
「象潟はここまで全得点を前の三人で叩き出してる。TDKが攻めてきたら中盤から誰が落ちるか指示を明確に。加えてこの暑さだ、疲れたら早めに交替しよう」
 試合十五分前、審判団によるスパイクとすね当てのチェック。背番号順に並んで待つ。僕の前はガニだ。主審に靴底を見せ、すねをパンと叩く様子はいつも通り。
 試合五分前、全員で円陣を組む。
「いくど!」
 先発の八人が羽後さんを先頭にピッチへ。象潟の先頭は高橋。二人が握手してコイントス。高橋が勝って向かって右、風上のエンドを取った。
 キックオフの笛。センターサークルの前郷さんが左に蹴り、曲沢さんが左足で大きく逆に振る。TDKの頭上を越えたボールが右タッチラインの川辺さんの足元に。ゴール前に上げようとしたがスライディングでブロックされたボールが足元に転がった。
 そのままボールを持ち、交替ゾーンから中に入る。いきなりだ。 
 副審が立った地点に向かうと前に立つ者がある。小柄な金だ。構わず投げたら顔面にぶつけてしまった。
「なんもだ」
 なりに似合わない渋い声でそう返された。今度は高々と投げたが戻ってきた壇ノ浦に頭でかき出され。一人残っていた高橋につながる手前でガニが蹴り返したが旗が上がる。象潟が上げた最終ラインにやっしーがひっかかった。
 工業都市にかほで結成された象潟はほぼ全員が幼稚園からのサッカー仲間だとか。決して攻撃力だけのチームではない。その支えを背にスピードの高橋、パワーの壇ノ浦、テクニックの金が入れ替わり立ち替わり切り崩しにかかる。
 由利高原は全員で受けて立つ。ボールと、味方と等しく間を取り、簡単に食いついてバランスを崩さないように。それはそれは地味でしんどいサッカーだ。
 その代わりボールを奪ったら周りに味方はたくさんいる。無数にあるパスコースから最善のものを選び、その間にサイドに広がり、クロスに合わせるのが得意なやっしーがゴール前に。久保田さんのクロスは頭で向こう側のタッチまで追いやられた。
「鮎川!」
 まさか前半から向こうのタッチまで投げることになろうとは。こっちのサイドには眼鏡の高橋がいたが、明らかに守備をめんどぐさがってる。助走をラインの前で止め、角度を変えて短く出す。前郷さんがフリーで左足を振るったがクロスバーをわずかに越えた。
「わざわざ来んなよ」
 高橋に舌打ちされたのでもっとやろう。
 こっちがシュートを打たせなければ向こうもロングスローを封じてくる。時間だけが等しく過ぎてゆく前半。
 象潟の後ろ五人は選手は自陣をほとんど出ない。ハーフウェーラインを前にすると金の左足か壇ノ浦の頭か高橋の前のスペースへ長いボールを出す。
 この時は壇ノ浦の頭めがけてゴール前に高いボールを蹴り上げてきた。ガニがそれを読んで上がれ、と叫ぶ。旗が上がらない。オフサイドトラップ失敗。
 ガニが必死に戻る。落下地点をエリア前と読み、ジャンプ。かぶった。向かい風を計算に入れてなかったガニの背後に落ちたボールが壇ノ浦の足元へ。飛び出しの遅れた羽後さんの頭上を破られた。
 先制点を取られたのは痛かったがやるべきことも決まった。前半のうちに取り返す。
 そのチャンスはすぐに訪れた。ベンチ手前側でのスローイン。だいぶ汚れたボールをユニフォームで拭う。手も汗で濡れている。目の前に金、ゴール前に壇ノ浦。
 ライン手前で上体を反らす。背中の後ろでボールの上をわしづかみするように持ち替える。金ののど元をしっかり確認して。
 ジャンプした金の足元に叩きつけたボールは大きく跳ね上がった。壇ノ浦がヘディングを空振り。四枚のディフェンスより前にいたやっしーに。キーパーの脇をボレーで抜いた。
 高校生くらいに見える副審が旗を上げる。年配の主審がそちらに駆け寄り、二言三言確認すると若い副審の肩を叩いてゴールインを認めた。スローインにオフサイドルールは適応されない、だからやっしーはそこにいた。
「なんだべ今のは」
 金に尋ねられたけど笑ってごまかす。
 普通ロングスローは最後までなでるようにボールの下を触れる。そうするとバックスピンがかかって飛距離が出る。石切りで横投げしてフォロースルーをしっかり取ると石は何度でも水を蹴るのと同じ原理で。
 今はそれと逆のことをした。ボールの上を持って押さえつけると強烈なトップスピンがかかる。オーバースローで投げた石は派手な音と波紋と共に川に沈むが、反発したボールは高く跳ね上がる……という理屈ではあるのだが、まさかこんなにハマるとは。
 投げたら僕の出番は終わる。交替スペースに戻ろうとすると。
 スタンドのほぼ中央にいた。鬼の背中。秋田予選は土曜開催だっていうから間違いない。
「鮎川、早く!」
 久保田さんに急かされてあわてて戻る。来てたんだ。うれしい。
「鮎川、顔赤いぞ」
 薬師堂さんが水をくれた。一層気温が上がった気がする。そういえば汗で手が滑りそうだったのを思い出す。ベンチ裏に積んだマイバッグを探る。手ごろなのがあった。
 前半が終わった。戻ってくる八人に水を渡す。やっしーが頭からかぶって頭を振ると水滴が派手び散った。
「西滝沢と鮎川、入れ。鮎川、投げるたび出たり入ったり疲れたろ」
 監督は笑って言うけど、その意図するところは別にあった。
 下げられる右サイドの川辺さんと黒沢さんが金一人に振り回されていたのは確かだ。けど、本当の問題はそこじゃない。
「子吉、お疲れ。しっかり水飲んで、休め」
 物も言えずにうなずくガニ。自慢のカゴは穴だらけ。たぶんまともに食べたり眠ったりできてないのだろう、コーチングの声も出てないから選手の間が古びたゴムひものように伸びきってしまっている。
 それでも、誰も、何も言わない。来てくれた、それだけでよかった。
「おめかよ。やりずれな」
 右サイドバックに入った僕に金が声をかける。もちろんお世辞だろう。この左足をどう封じればいいのか。
 まずパスを出させない、それができなければスペースを消す。ただ黒沢さんの引く最終ラインはガニのそれよりも深めでどうしても中盤とディフェンスにすき間ができてしまう。
 金に前を向いて持たれた。ボールが僕の右を通りすぎる、そこに足を出して弾いた。
 僕の左を通過してボールと再会するつもりであったろう金が悪態をつく。ボールの回転を読んだだけだ。人は嘘をつくがボールは嘘をつかない。
 スローインから再び金。今度は念入りに視線や足でフェイントをかける。釣られないと見るや強引に内側に切りこんだ。前郷さんと二人で挟み撃ち。狙いやすいと見てこちらに来る。股を狙われたが、こちとらガニと違ってX脚だ。すねで弾いた。
「なしてだ!」
 本気で抜きにくる時の金はのど仏が上がる。前半にロングスローをジャンプして止めた時もそうだった。どっかの大人と同じ。
 僕が金を止めたのは向こうにも意外だったのだろう、象潟の攻撃が逆サイドに偏る。タッチライン際を疾走する高橋に必死の形相で追いすがる曲沢さんが不自然にストップしてしまう。ゴール前に戻ったのはとっさの判断。
「あゆ、飛べ!」
 両肘を曲げて飛び上がった壇ノ浦の額が最高到達点でボールを捉えるのと同時に、ガニと二人で左右から体をぶつける。ヘディングは空中でのおしくらまんじゅう、身長の差はどうしようもないがきっちり寄せて自由を奪えばシュートコースを限定できる。力なく飛んだヘディングは羽後さんの胸の中に収まった。
 ガニと壇ノ浦、中学生級の二人に乗られ、背中から落ちた。息ができない。ガニが引っ張り起こしてくれる。右手を引かれた瞬間、痛みが走った。
「……おめみてなチビに」
 壇ノ浦の独り言に口角を上げる。辛い時の笑顔が本当の笑顔だってどこかで聞いた気がする。
 あまりにデカイんで勘違いしちゃったがあんた、あんまりヘディング得意じゃないよね。前半のロングスローもかぶってたし。
 見れば向こう側では曲沢さんが尻餅をついて左足を伸ばしている。足をつったようで立ち上がれない。せっかくつかんだボールをそのタッチラインの外に蹴り出すしかない羽後さん。
 普通ならこういう時、スローインは相手に戻すという暗黙のルールがある。しかしスロワーの高橋は替わりに入ったばかりの黒沢さんに軽くぶつけ、拾ったボールを中央へ運ぶ。
 持ち場を離れたガニがスライディングをかまし、かわされた。まだゴールまでは遠く、一か八かの場面ではなかったのに。エリア内に侵入した高橋の前にはキーパーしかいない。
 最後の砦となった羽後さんをドリブルでかわしにいく高橋。横っ飛びした羽後さんの手はボールではなく足首にかかってしまった。PK。やらかしたのが誰かは一目瞭然。顔も上げられないでいるガニのもとまで行き、立たせる。羽後さんは落ちた帽子をかぶりなおすと無言でゴールに入る。
 キッカーは倒された高橋ではなく金だった。羽後さんは深く腰を落とし、キックと同時に左に飛ぶ。その脇の下をボールが抜けた。
「鮎川!」
 監督に呼ばれた。手にはホワイトボード。
「左サイドに代われ。狙えそうなスローインはどっちサイドでも投げにいけ」
 交替エリアに長身の吉沢さんがスタンバってる。この頭めがけてボールを放りこむスクランブルだ。
「おまえかよ」
 眼鏡の下の目で値踏みでもするように見てくる。曲沢さんの足をつらせた高橋はまだ力がありあまっていそうだ。
 やや右寄りのフリーキックを前郷さんが狙うが壁に弾かれる。あの位置だと曲沢さんが左足で蹴るのだがもうピッチにはいない。向こう側のタッチを割ったボールに走っていく。
 助走をつけて振りかぶると稲妻が背中に落ちた。ボールの感覚がなくなった。どこに落ちたかと辺りを見回すとぼかん、と真上から落ちた。ボールが頭の上を越えなかったのでファウルスローを取られてしまう。
「おどけたことすんなよ」
 誰かの声に笑いながら持ち場に戻るが冷や汗が止まらない。痛みが肩まできた。今日だけで何回投げたか覚えてない。
「なんだおまえ、おかしくね?」
 高橋がおかしいというのは僕のポジション取りだ。普通守る側は相手とゴールを結ぶ直線の上に立つ。けど僕は彼の右、つまりタッチライン側にいた。
 象潟のロングボール。初めの一歩、左肩を高橋の右肩にぶつけながら前へ。高橋の右足がボールにかかる寸前で体を投げ出す。左足のアウトでかき出した。
 くそ、と高橋が吐き捨てる。それもそのはず、ベストのダッシュが切れなかったのだから。
 どんなに足の速いやつでもスタートダッシュを切り損ねたらスピードには乗れない、そしてそれは必ず利き足で行う。高橋は右利きで、ダッシュの瞬間に右から肩で押してバランスを崩すのが理にかなってる。体力測定の失敗が学びになった。
 しかしそれはゴールへのコースを空けてしまうことにもなる。縦パスに抜け出した高橋、猛然とゴールに迫るが主審が何度も笛を吹く。副審の旗が上がっていた。
「は? ラインなんか上げなかったべ!」
 高橋が足元のボールを高々と蹴り上げて主審に注意を受けた。確かにガニはラインを上げなかったが、最終ディフェンダーはセンターバックとは限らない。今の場合、一番深くに立っていたのは僕だった。だから、僕が上がればオフサイドラインも上がる。
 壇ノ浦が落としたボールを受けた高橋、斜めに切りこむ。今度は衝突しないよう体を壁にしてゴールをふさぐ羽後さんの鼻先でマイナスのパスを出す。そこに金の左足が。
「ぐへっ」
 青空に星が散った。
「大丈夫だか」
「なんもです」
 金の気遣いに鼻をさすりながら笑顔を返す。
「なんなんだよおまえ」
 高橋のあきれ顔が上気し、スポーツゴーグルが曇っている。
 僕はこいつにある疑いを持っていたがそれが今確信に変わった。
 右サイドに張りつく動き、決めるよりも決めさせるスタイル、五月の試合でゴールを決めた時の喜びというよりは安心したという様子。
 高橋はシュートに対して苦手意識がある。さっきのPKも羽後さんとの一対一を避けたから起こった。自分で取ったPKも蹴らないフォワードなんてストライカーとは呼べるか。
 残り時間三分を切り、ドリブラーの川辺さんが入る。象潟ベンチも監督から逃げ切れ、の声。やっしーに壇ノ浦、前郷さんに高橋がマンマークにつく。攻めるのがうまい選手は守りもうまいのだ。
 象潟のコーナーで金がキープに入る。コーナーフラッグに添えるように伸ばした手で川辺さん吉沢さんをブロックしながら左足でボールを舐めるように操る。地味だが効果的な時間稼ぎ。やっしーがゴール前で焦れる。自分も奪いにはいきたいが、マイボールが出るまでじっとこらえるしかない。
 右側を駆け抜けるO脚。一度ピッチの外に飛び出したガニがスライディングにいった。こぼれたボールがタッチラインを割る前に両足ではさんでそのまま起き上がってドリブル。飛び出したディフェンダーの前でボールをまたぎ、逆を突く。
 角度のないところからシュート。キーパーが真正面に弾く。拾った川辺さんがクロス。吉沢さんと壇ノ浦が頭で競り合ったこぼれがやっしーの足元へ。ボレーで振り抜く。ゴールマウスの角に嫌われたボールに先に触れたのは象潟。向こう側のタッチラインを大きく越えた。
「シロー!」
 やっしーが手を口に当てて叫ぶ。
「鮎川、来い!」
 羽後さんまでもが帽子を投げ捨てて象潟ゴール前へ。審判も走る。ベンチもスタンドもセミもうるさい。
 逆になんか冷めた。
 別に僕はサッカーが好きなわけでも、この試合に勝ちたいわけでもない。
 ただ、あの人に会いたい。
 湖のような瞳、雪のような肌、憂いを帯びた横顔に。
 あの人が誰なのか、なんであんなに強く惹かれたのか、それはまだぼんやりしている。
 でも、だからこそ、もう一度会わなければ僕はここから進めない。
 パンツからバンダナを取り出して手のひらとボールを拭く。さっきの場所に赤いジャージの人影はない。もう象潟の勝ちを確信して帰ってしまったのかもしれない。
 ボールが出たハーフウェーライン付近からゴール前まではざっと四十メートルはある。片手でもやっと届くかどうか。
 ラインからいつもの倍。距離を取る。父が帰るのを待ちながらの石切りや唯一教えてくれた前回り受身、母に怒鳴られながらの逆立ちに意味があったのならば。
 バンダナを丸め、助走。タッチラインのはるか手前で踏み切りボールを持ったまま地面に叩きつける。空気圧がダイレクトで跳ね返り、その反動で上体が跳ね起きる。右足がラインの上に落ちる。指紋にまで魂をこめて。
 ハンドスプリング。夏休み前、結城先生と二人三脚で覚えた秘中の秘。
 おおっ、というスタンドのどよめきとともにボールが送り風に乗ってぐんぐん伸びる。
 ボールを受けに来た前郷さんと高橋は無駄走りになった。羽後さんと壇ノ浦が飛び上がるが届かない。頭を出したやっしーが後ろから金に両手で突き飛ばされたがファウルはない。
 一双のグローブがボールを包んだ。上体が伸びきったままの体勢で片足で着地したキーパーがバランスを崩し、ゴールネットに倒れこむ。あわてて手を離すが遅い。ゴールインとタイムアップの笛が立て続けに鳴らされた。
 ちなみにこれは記録上では象潟キーパーのオウンゴールになるはず。スローインは直接ゴールに入っても得点にはならないからだ。
 その場にうずくまった。声も出ない。もう右腕は上がらなかった。これがいわゆる肩を壊したというやつなのか。もしかしたら最後になるかもしれない一本を、あの人が見てくれなかったのだけが心残りで、何となくスタンドを見上げる。
 いた。
 さっきとは違う場所、スタンドの向かって右最上段に。
 そしてその隣には、同じ赤いジャージをまとった人影。アフロヘアに日焼けとは違うつやのある褐色の肌。彼女と顔をつきあわせ、大きな目と口をむいて笑っている。
 ああ、あれがブリコか。
 アでもエでもない、由緒正しい秋田県民である僕の絶叫は、ガニの浴びせ倒しによってかき消される。鳥海山が横に倒れた。



 延長戦が始まる中、僕は車に乗った。歩くだけでも激痛が走る状態の僕に真っ先に気づいたのは羽後さんだった。
「無茶すんでね」
 試合が終わるまで待たせられないと判断され、指揮はコーチが代行し監督が運転してくれた。責任を感じてくれたのかもしれない。
 バンダナを包帯代わりに氷で肩を冷やしながら最寄りの病院に向かう車中、なぜか甦った記憶がある。
 小さい頃、大みそかの朝に熱を出した。当番医の小児科は開院前から長蛇の列だった。
 雪も舞っていたし、相当冷えこんだ朝だったはずなのだけど発熱のせいで全く寒さを感じない。母は無言で、ただ僕を抱き上げる腕の感触だけが今も背中に残っている。
 外科病院に着くとすぐに診察室に通された。
「相当無理したねえ」
 中年の女性医師がたまげていた。
 右肩が炎症を起こし、その痛みが広い範囲で出ているだけだった。どんな投げ方したらこんなに筋肉がつくのとか、他の筋肉もバランスよく鍛えればもっと飛ぶようになるよとか柔らかい口調で諭された後、監督がきつくお灸をすえられていた。
 鎮痛剤と湿布が処方させるのを待つ間、他の患者のいない待合室で監督と二人きり。
「鮎川、おまえはたった一人であの三人を止めてしまった。俺はおまえが何もできないと思いこんでいた。自分の、指導者としての力のなさを感じるよ」
「たまたまです」
 たまたま私生児という立場に生まれ落ちた僕は人一倍周りの大人たちに気を遣いながら育った。自分がこうだと思ってる自分、そう思いたい自分、気づかれたくない自分、誰も気づいてない自分、全部違う。そのことにさえ気づけば、人の心はたいてい読める。
 それでも、もし僕が他のみんなと違ったというのなら。みんなは象潟を倒すために戦い、僕はその先に目標があった。その差だろう。
 監督の電話が鳴った。待合室に他に誰もいないのでそのまま出る。
「勝った」
 延長戦でも決着がつかずこんな時間までもつれたそうだ。PK戦の主役はTDKのキックを全て止める神業を見せた羽後さんで、最後はガニが決めたという。
 監督が大きなため息をついた。ずっと背負っていた重い荷物をようやく下ろせたような深い安どの表情だった。
「おめでとうございます」
「何が他人事みたいだな」
 僕はそういう人間だ。
 家に帰り、がっちりとテープで巻いた腕でたたんだバンダナを母に渡した。ありがとう、おいしかったと。
「ごはん、アーンして食べさせてあげようか?」
「お願いですからやめてください」
 普通の親子の会話のようだった。普通の親子だけど。

 その週の土曜日が、試合後最初の練習日。初七日でガニが欠席した。
 僕もスローインを一ヶ月禁止され、別メニューでひたすら足で止めて蹴るを繰り返す。故障したパーツが元通りになるまでの時間はそれまでほったらかしていたパーツを鍛える絶好の機会でもある。県大会まで時間はあるようでない。
 秋田県を八つのブロックに分けた地区大会もすでに七つまでが終了した。
 鹿角ブロック優勝、花輪アンドラーズ。
 北秋田ブロック優勝、大館ルーズドッグス。
 山本ブロック優勝、檜山蹴球団。
 仙北ブロック優勝、フレイヤ大曲。
 平鹿ブロック優勝、十文字ラーメンズ。
 雄勝ブロック優勝、湯沢小野SS。
 ここに由利高原FCと、今日決勝が行われている秋田ブロック決勝の勝者で全て出揃う。
「鮎川、ハムフライな」
 そういえばそんな賭けをしていたのを思い出した。昨年の覇者、山王が勝つに僕以外の全員が賭けた。山王は当然のように決勝に駒を進めている。
 練習が終わると、汗が引くのもそこそこに監督が液晶画面を指でなぞる。こんな山の中でも電波の通りはだいぶ良くなった。
「5‐2だ。延長までいったそうだぞ」
「山王、今年やべんかな? 勝てるかも」
「いや」
 監督が声を詰まらせる。次の一声を発するまでが長かった。
「山王が、負けた」
 練習の汗が一瞬で凍りついたように全てが止まる。
「ハムフライ、ハムフライ」
 僕一人が舞いを踊る。

 もう一度、今度こそ同じ目の高さで会える。
 なまはげの姫君と。

蹴の國秋田

蹴の國秋田

秋田県由利本荘市を舞台にした児童文学です。 サッカーがメインテーマではなく、百年後に消滅することが決まっている秋田県に住む子供たちの生きざまに主眼を置きました。 主人公のおかれた環境は過酷ではありますが、それでも生きていく姿が書きたかった。 これを書いてる頃、私も大変でした。今も変わらず大変です。

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-11-01

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著作権法内での利用のみを許可します。

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