彼の話

彼はあまりにも幼く、満足な文章を編む事は叶わなかったから、私が代わりにその話を、彼の心情まで交えて綴ってやろうと思う。
彼は、幼くして死ぬ事になっている。幼い内に死ぬと言う事が、どれだけ悲劇的なのか、彼には良く理解できなかった。けれども、周りの大人たちの、自分を慈しむ眼を見ていると、どうやら大変な事なのだとは段々見当がついた。
彼は病気が発覚する前と後とで、えらい待遇の違いを、身をもって感じていた。彼は阿呆であったから、良く親にも近所にも叱られたものだが、病気となってからは誰一人、彼を怒鳴りつけるような事はしなくなった。嫌いな食べ物は嫌いと言えば口にしなくて済むし、眠りにつく時間だって好きにして良いが、ただ外で遊びたくとも体の自由がきかないのは不都合であった。代わりに、大好きな母親がずっと側にいてくれるようになったから、満足だ。
病気のせいか、日に日に食べ物も口に入らなくなった。外で遊べない、食えないとなったら、いくら何をしたって叱られなくとも、意味が無い。彼は、勿体無い時を過ごしていると思った。死ぬと言うのは、この生きている時間が終わる事だと漠然と分かっている。終わるからには有限なのだと、何となく理解できる。そうであるならば、一刻も無駄にせず楽しみ尽くしたいところだが、来る日も来る日も彼は寝たきりである。そろそろこの部屋の風景も見飽きた。左方に窓、見渡す角度はいつだって同じ。白い天井、青いカーテン、両親も看護師も、いつも彼を見下ろしている。そして、その瞳はキラキラと輝いている。ーー彼は自分の姿を見た事があまりなかった。だから当然、自分の瞳も両親や看護師と同様にキラキラ輝くものだと考えていた。
ある日母の言ったのが、
「元気になればいっぱい外で遊べるから」
と。すると、彼は元気になりたいと心より思うようになった。
「僕、元気になる」
と事あるごとに繰り返していた。母の瞳はまたキラキラとした。彼はーー彼はこれを見て、どう言うわけか高揚した。母を喜ばせたとか、感動させたとか得意になっていたのか知らん。ともかく、今までに彼の言動次第で、こんな風に母が劇的な表情を見せた事が無かったから、彼が興奮するのも無理は無い。だから本来、『元気になる』とは、以前のように活発に動き回りたいと言う意思表示であったはずが、母を激情させて得意になる方便となった。彼は周囲が思うよりも、ずっと呑気だったのだ。それは、彼が死と言うものを良く理解していなかったのもあるし、大人が死を子供よりは幾分か理解している気になっているつもりであったせいだとも言える。
彼は病になってから、何度か苦痛を味わった。その苦痛ばかりが、酷く嫌であった。彼には、死ねばこの苦痛が終わると言う事が何となく分かった。だから、今度は母に、
「死んじゃえば楽なのにね」
などと打ち明けた事があった。この時の母の胸の内は悲壮と怒りとが混沌としたようで、その表情も確かに劇的ではあったけれど、お世辞にもまた見てみたいと彼に思わせるようなものでは無かった。だから、こんな事を言ったのは、結局一生に一度きりである。彼は何の気なしだが、両親は未だこの言葉を非常に重く受け止めている。
ーー私は、どうして彼の代わりにこう彼の心境を筆述するのかと言えば、彼が現状に不満足であるからに他ならない。彼の見ていた風景は、ちっとも他に比べて悲劇的では無かった。それなのに、可哀想と思われる事が心外である。確かに他人より生きていた期間は短かったかも知らん。皆の記憶からも、幾ばくも無い内に、永遠失われるとも知らん。本来歩むはずだった時間に、どれほど貴重な体験が待っていたかも分からない。それらの損失は、確かに非常に残念ではあるが、彼にはその事を悔やみようが無い。自分の事は、できるだけ覚えていてくれた方が嬉しいが、忘れてもらったって都合の悪い事は無い。それよりも彼の人生は、夢中に彼の母を劇的にさせて面白がったり、やりたい事ができぬ状況に憂鬱になったりーーそう言ったものであったのだ。彼の物語は、彼のものである。他人が憐憫の情を示し、悲劇に仕立て上げられるのには納得がいかない。だから私が彼の心中の表明を代筆している。ーーそれでも悲劇が見たいと言うなら、次のようなエピソードがある。
彼がまだ外に出られるくらいであった頃、漠然と自分は大人にはなれないのだと悟り始めた頃、ファミレスに連れて行ってもらった事があった。これが、精神にこたえる。自分と同じ年代の者が安気な笑顔で無邪気に頬張っているのを見ると、何故自分だけ、という気持ちが心をいっぱいにする。奴らは幸せだ、僕は不幸だ、と彼はひがんだ。ーーと、このくらいの気の病みはあった。だが、人間辛い事は自然と忘れゆく生き物で、また、捉え直す事で肯定的な見方をどうにか案出するもので、自分で自分を不幸だと認識したからと言って、他人に不幸だと思われ同情される筋合いは無いのだ。自分の思いなら自分だけで解決できるのに、どうしようもない他人に否定を突きつけられては、どうもやるせない。
さて、彼は幼くして死にゆく中で、不可思議な世の風体を目にした。目前が、奇妙にぐにゃぐにゃうねっている。うねる内に、涙が見える(その水滴を涙だと意識したのは、彼である)。涙はぽつぽつと視界を濡らし、そこに人の顔が浮き出てくる。人の顔は、歪んだ笑みを浮かべている。歪む内が、またぽつぽつと濡れる。真っ白な背景が少し青みがかって、自分の側に近づくほど緑に濁った。自身の視界には、いよいよ緑が濃くなって、涙の粒だけが判然と影を残した。
皆が忙しく動き回っている。彼の周りを、慌てているのだろうか、随分機敏に動いている。ーーどうして人一人、もうちょっと静かに、明るく死ねないものだろうか。どんな人でもいつかは死ぬってのは、彼だって心得ている。ましてや他人よりずっと死を身近に感じ続けた彼には、何故死が涙を呼ぶのか到底分かり得なかった。ああ、彼も死んだのだ、で、どうして済まされないのだろうーー彼が斯様に考えるのは、不幸であるとも幸せだとも言える。ともかく、彼の意思は明瞭で、そう盛大に、自分の死に際を扱って欲しく無いと言うそれだけだ。
彼は、何を成し遂げた人間じゃ、無論無いし、満足ゆくまで色々を為した者でも無いだろう。人生の価値だとか、厚みだとか、そう言う議論になれば、確かに彼のは希薄だ。だが、そんな脆い、儚いものよりも、一つ確かな証拠と言うのが、彼の思いである。思いは、当時の熱をもって、記憶されている。ーーどこに? そんな野暮を聞いちゃいけない。在ることだけが、確実なのである。そして、その彼の思いと言うのが、先に述べてきた通りである。
最後に見えたのは真緑の森であった。それがいつしか草原に開け、そこを思い切り駆け回った。これに目を細め、瞳を潤わせるのは、罪である。

彼の話

彼の話

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-29

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