*星空文庫

予死夢

野崎くるす 作

 Aの一日は、死から覚めることで始まる。かれこれ十年近くも続いている。あるときはビルから落とされ、またあるときは見ず知らずの奴からナイフで刺され、ダンプカーで跳ねられ、銃で撃たれてと様々だった。
 生温い血溜まりのなか、虫の息で生を希求し、起きたらベッドの上にいる。あれは夢だったのだと息を吐き、喉を潤す。身体にねっとりと張り付いた汗と臨場感をシャワーで流し、糊の利いたシャツに着替えて出社する。
 Aは電車に揺られながら、今朝の悪夢を忘れぬようにと頭のなかで再生する。誰かに首を絞められている。血管が浮き上がり、金魚のように口をぱくぱくとさせながら、蛙が潰れるときのような音を発している。
 それを俯瞰的に眺めている。まるで映画を観ているかのよう。あの瞬間は途切れゆく意識のなかで、これが夢だとは露とも知らず、ただ事態が動くことを待っていた。苦しさはなく、ただ気持ちが悪かった。
 サラリーマン風の中年男性が新聞を開き、その腕がAの右肘のあたりに軽く触れ、その映像は窓の外の景色へと切り替わる。『N女子短期大学』『R美術予備校』『S接骨院』という看板が、右から左へと流れてゆく。
 それを見て、Aの思考がぴたりと止まる。混乱する頭で周囲を窺う。誰もその異変に気が付いてはいない。もしくは気が付いていても、おかしいとは感じていない。隣の中年男性は、呑気に紙面を読み進めている。
「あの……、すいません」
 Aは中年男性に話しかける。中年男性は迷惑そうに顔を上げ、なんだこいつ、といった感じでそれに応える。
「この電車、同じとこを走ってませんか?」
 中年男性は窓の外に視線をやり、「あん? 何いってんだ?」と唇を尖らせる。それを見てしまい、Aは何もいえなくなった。
 謝罪の言葉を述べ、車内を移動する。「だよね」「マジキモい」「数学どうだった?」「七十三」「え、すごくない?」などという黄色い声を抜け、前の車両に。
 代わり映えのしない車内が続く。窓の外を流れゆく景色は長閑な田園風景、小川の遥か向こうに見えるのは、山々の間にひっそりと佇む鉄塔だった。
 間違いない。それを目にするのは今朝で二度目だ。乗客は思い思いの時間を過ごしている。こんな風に車内を移動しているのは、どうやらAだけのようだった。

――次は、×××。次は、×××。お出口は右側でーす――

 やはりおかしい。その駅は自分が乗車した駅だった。この電車はどこから来て、どこへと向かっているのだろう。
 一本の線路は緩やかに左に婉曲し、その先には駅のホームが見えている。コンクリートの壁が迫ってくる。
 電車は止まり、身体が傾く。ドアが開き、乗客が降りてゆく。同じような格好をした人々が乗り込んでくる。またあの看板が流れてゆく。
 そうだ、これは夢に違いない。まだベットの上か、もしくは電車のなかで寝入ってしまったのだろう。
 ということは、死ねば夢から覚められる。この電車が事故にあう。このなかの乗客の誰かにナイフで刺される。不審物が爆発したって構わない。
 カチ、カチ、カチ、カチ……。腕時計の針は無情にも淡々と回り続け、重なり、離れてを繰り返す。乗客の顔ぶれは変わってゆくが、覚えられる特徴はない。
 駄目だ、何も起こらない。普段とは違う。死ななければ、いや、殺されなければ起きられない。Aは必死に打開策を考える。
 その結果、普段は通り過ぎる駅で降りてみた。誰もいない無人駅。延々と田園風景が広がっている。だけれども、何も起きずに時が過ぎる。
 これでは死ねない。いや、一つだけ方法がある。殺されないのなら、自分から死を引き寄せればいい。周囲を走る車はない。首にはネクタイを巻いている。
 喧しい蝉の鳴き声に溶かされて、正常な判断はできなくなっていた。これでこうすれば、この夢から覚められるのだろうか。
 電車が駅のホームに滑り込んでくる。それを駅の外から眺めている。はたして、自分は夢から覚めたことなどあるのだろうか。伸びた指先が、ネクタイの結び目にそっと触れた。

『予死夢』

『予死夢』 野崎くるす 作

  • 小説
  • 掌編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-10-28
Copyrighted

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