SWEET MEMORYS

素敵な思い出はきっと、優しくあまくかおり続ける。

秋の日暮れは濃い金色。
丈の長いスカートを捌いて歩くと、巻き起こった風がふくらはぎにひんやりと触れる。佳乃…じきに小学校に上がる娘が今朝咳をしていたから、夕飯は温かいおうどんに決めて買いものをしてきた。かわいた道の感触はローヒールの靴底に心地よく、ポケットに入れたウォークマンからラジオを聞きながら、私は住宅街を歩いた。
緩く風が流れる。
ふいに、息がつまるほどに甘い香りがした。おもわず足を止めてしまう。
道の脇にはああ やっぱり。金木犀だ。
艶やかな葉に西日を受けて、甘やかな蜜柑色の花は妖しいほど濃厚に、香っていた。丁度 軽くパーマをかけた髪の先あたりの高さに留まって柔らかい。
そっと吸いこむと、ひとつ、古い記憶が蘇ってきた。くっきりと。桜色の口紅をつけて、フレアスカートで歩いていたころ。
車一台、通り抜けるのがぎりぎりの細い道は、昔から変わらない。生まれてこの方住み続けた古い街。

そのひとはいつでもまさにここ、金木犀の垣根の家の角の向こうで待っていた。
私はいま背を向けてきた商店街の、今はつぶれてしまった本屋に勤めていた。インクの匂いになった肺いっぱいに甘い空気を吸って、おもわずふくふくと笑んでしまう丁度その頃に垣根は終わって、角を曲がると私はいつも、真っ直ぐに目に射す西日に顔をくしゃくしゃにしてしまった。
あなたは金色に包まれたまま大きな歩幅で、ゆっくりとやってくる。頭にぽんと置かれる手は硬いぬくもりが秋のよう。肩に頰を寄せるといつもそこは体温が高くて、ニスや古い木のなつかしい匂いに包まれた私は目を閉じて、幸福なため息をつくのだった。
お互いにはやい時間に帰れる木曜日、私たちは仕事を終えるといつでもふたりで歩いた。手を繋ぐことを私は毎度恥ずかしがって、だけど指さきがすぐに冷えてしまうので俯いてこちらから、その左手を迎えにいった。お給料日には本屋の側のケーキ屋でシュークリームを買って行った。すこし寄り道をすると静かな公園があって、昔ながらの、さっくりとかたい皮にたまご色の濃いカスタードクリームが美味しいそれを食べたあとあなたは、ふざけてブランコを漕いだりした。子供の頃以来だ、なんて私も座ってみたその途端に背中を押されて、足を投げ出した透明な空を、憶えている。
ふたりとも珈琲ばかり飲んでいるせいで、キスはしょっちゅう香ばしい味がした。

日が落ちる。
藍色の滲みはじめた空のふちから、つめたい風が首すじを撫でた。あの頃よりお化粧の色味が随分おちついた頰を、爪をみじかく切った指でちょっと摘む。いけない、洗濯物を干したままなんだった。しっかりしなくちゃ。
輝きを刻々とうしなう夕陽に向かって、ぺたんこな靴で歩いていく。花の香りはいよいよ濃くて、やがて来る夜を塗りこめるようだ。ウォークマンから流れるラジオ、聖子ちゃんがうたい始めた。
「ママー!」
角を曲がると、女の子が駆けてきた。まるい瞳、ピンクの運動靴をはいた小さな足。
「佳乃。まだ遊んでいたの」
人さし指で触れたほっぺがつめたくて紅い。
うん、でももうおうちに帰るよ。あのね、早苗ちゃんちでシュークリーム食べたの、お店でつくってるやつ。
「ちゃんとありがとう言った? やっぱり鼻声じゃない。おうどん食べようね」
やったあ。ご機嫌な佳乃を前に、私は自分の口から出た母親 みたいな言葉に驚いた。
…そうだ、今の私のたからものは。
「お揚げさんと玉子のっける?」
「うん!」
温かくしめった指できゅっと握られた右手はもう、大きな左手で包んでもらうことはないけれど。今夜も私は珈琲を淹れる。寝る前には本をひらく。週末には佳乃が漕ぐブランコを押して、
あの頃からまわりつづける日々を、せっせと暮らしていくのだ。

金木犀の香りが、後ろへ遠ざかっていく。
イヤホンを外す刹那にちらっと聴いた、曲の続きが耳の奥で巡る。
過ぎ去った優しさも、…
あの頃あちこちでかかっていた。SWEET MEMORYS、そっと一節口ずさんで、うちへと歩いた。

SWEET MEMORYS

香り、というものは、やたらに記憶を呼び起こしてしまう気がします。

最近ふるい歌ばかり聴いています、このころの曲ってなんだか歌詞も演奏もすごく贅沢。
SWEET MEMORYS、聴いてみてくださいね。

SWEET MEMORYS

金木犀の香りに、ふと呼び起こされた記憶。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-16

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