汚れなき花

 十年が経った今でも彼女のことが好きでいる。私、熊倉雅は女性として、中学一年生のときから、同じ同性の佐藤香織のことが今でも好きだ。私が最後に彼女を見たのは、高校二年生の夏休み、私は自分の存在を相手に気づかれないように、それが最後となる好きな人の姿を見つめたのだった。私にとって香織と過ごしてきた時間は、鮮やかに光って散る花火のように儚く、そして今になっても私は、あの幸福という刹那の輝きの印象を胸に留めている。
 高校二年生の夏休み、蝉時雨は止まず日本特有の湿度っ気の暑さが広がって、眩しい太陽の光を吸った風が紺色のプリーツスカートをひらっと舞い上げる頃、私は忘れられない思い出を胸に残した。私は今でもしばしば思い返すことがある。起床時、見ていた夢を回想するように、完全ではないけれど不器用に、歪な形であのときの思い出が私の脳内を流れていく。それは私が生きている中で一番彼女を愛した、そしてもう会うことはないだろう彼女との別れの季節のことだ。 
 
 一
 私が高校一年生のときの夏休みの八月、私は中学一年生の頃から仲が良かった佐藤香織に告白した。香織は周りの女の子に比べて背が小さく小柄で、顔のパーツは全体的に小さい。けれど二重瞼の目はパッチリと開いていて、それが彼女の丸顔に埋められたパーツの中で一番にインパクトがあった。私は香織の大きくて可愛らしい瞳が大好きだった。香織は言ってしまえば童顔で、実年齢よりも幼く見えるし、余りにも似合っているショートボブスタイルが、余計に周りをそう思わせたのかもしれない。幼いというのは良い意味で、きっと男の人は香織みたいな人を見ると守ってあげたいだとか思うのだろう。実際、香織はすごく可愛かったから。
 私、熊倉雅は、背は平均よりも高く肩幅も周りの子よりも少し大きくて、顔の輪郭もしっかりとしていている。釣り目の両目は目力があると良く言われる。友達にしばしば機嫌が悪いと勘違いされて避けられるのも、この両目のせいだと思っている。そして私は香織とは対照的に、髪の先が胸まで届きそうなロングヘアで、私と香織が二人で並べばクラスイトの子に、仲の良い姉妹コンビだなんて言われたりした。
 私が香織に告白したのは、私達の住む街で開催される、ここら辺では非常に有名な花火大会の日で、翌年の私の手帳にはピンクのインクで、二十日を囲む四角の余白にanniversaryと記してあった。
 花火大会の日、普段は車が通る道が通行止めされて、車の走る音が響かない道路には、その日だけ多くの屋台が並ぶ。屋台の数はとても多く、あれもこれもと食べることに夢中になったら、財布のお金はすぐに底を尽きてしまうだろう。花火大会には毎年約二十万人の人が訪れるというから、この日だけ私の地元は大変混雑する。
 私の最愛の人との記念日となった日、私は地元人だからこそ知る浜日が見える穴場の河川敷で、香織と一緒に花火を見物した。穴場だからといって人がいないわけではなかったけれど、それでも他の場所に比べれば込み具合はだいぶマシな方だ。多くの人は普段は自動車専用道路の、この日だけ花火観賞用のスペースとなる場に座り込んで、ここの地域に流れる大きな川の岸辺から発射される花火を、知らない人に四方八方挟まれて見ることになる。前後左右、手の平一つ分でも動くものなら、知らない人と身体のどこかの部分をぶつけることになるだろう。けれど私達が知る穴場なら、そこまでは込み具合がひどくない。
 花火は空に光を広げ、広がり伸びきった火花は闇に飲み込まれる。花火は一時間の間打ち続けられる。
 私は今でも、あの日の香織と恋人になったときのことを覚えている。河川敷沿いの通行路には、舗装されたアスファルトの所々が、草履に乗った裸足の数だけ隠れた。八月も残るところ十一日となれば、夜になれば薄らと冷たくなる。けれど花火大会、はりきって浴衣を着ていた私達は、二人でその日の十、二十回目程の暑いねを呟いていた。私はその日の自分の浴衣の柄だなんて覚えていない。私が自分のことについて覚えているのは、浴衣の肌着として着用していたキャミソールが、夏の夜の暑さのために微かに汗で濡れていたことぐらいだった。けれど、私は香織の浴衣の姿だけは鮮明にずっと記憶している。香織の浴衣は、彼女の明るさを引き出す黄色地で、浴衣の生地には、カーネリアン、エメラルド、アメシスト色の透き通る花びらが、生地のありとあらゆるところに満開に咲き誇っていた。その中でもアメシスト色の花弁等は一番サイズが大きくて目立ち、ベースの黄色との意外な組み合わせが、可愛いはずの爽やかな明るい色の生地に、クラシックでクールな印象を付け加えた。そして紫系の縞の帯は、香織の幼さに、いつもとは違う引き締まりを与えていた。
 「香織、浴衣似合っているよ。」
 「そうかな?」
 「うん。とても可愛いよ。」
 本当に伝えたい言葉よりも、「暑い」をたくさん言ってしまう、このジメジメとした空気を私は意地悪だと思った。私と香織は浴衣を汚したくないから、道の隅で腰を下ろすことなく突っ立って見ていた。そしてお互いの浴衣の生地が触れ合うくらい、私は香織にくっ付いた。花火が空に打ち上げられている間、香織はずっと星空に混じる火花を見つめていて、私も香織と同じ方向に目を向けるけれど、時々、私は花火の熱にも劣らずに光り輝く、私の好きな人の横顔をちらっと盗み見した。
 あのときの私の視線に香織は気づいていたのだろうか。私はあの夏、胸が息苦しくなるような恋を女の子にしていた。花火が上がっていく空の下、私は世界中、私と香織だけになったような気がした。そして何百発目の花火が夜空に上がったときだろう。私はいつの間にか香織の手を握っていて、その手は私のよりも小さくて柔らかいはずなのに、その時の私には、偉大ですごく遠くに感じる彼女の手の平だった。私が彼女の手を取って、自分に向けられた視線を私は気づかない振りをした。心臓のバクバクという音が花火を打ち上げる音よりも重々しくて、私はバクバクと鳴る鼓動の不発に過ぎていく時間を、一分を一秒のように感じていた。それから何十発の花火が上がった後だっただろう。私は思い切って彼女に告白した。
 「香織が好き。」
 「え?」
 花火に比べれば何の迫力も魅力もない私に、香織ちゃんは夏の夜空の最大のイベントから目を移してくれた。
 「私、香織にずっと恋していた。だから、いつでも香織が私の恋人になってくれればなって思っている。」
 香織は私の急な告白から逃れるように夜空を見た。私は衝動に駆られて告白をしたことを後悔したし、香織が女性を恋愛対象に見ることがないのも分かっていた。だから答え何て香織が口にせずとも大体の覚悟はしていたつもりだった。けれど驚くことに、香織は私の顔は見ずに、いつの間にか打ちあがっていた満開の火の花を見つめて、私に私の予想外の答えを出した。
 「うん。分かった。私、今日から雅ちゃんの恋人になる。」
 私はあのとき、香織が私に恋愛感情を持ってくれたことが、今までに一度でもあったかだなんて聞かなかった。そんなこと、聞かなくても分かっていたから。ただ私は、香織が出してくれた予想外の意外な答えを、それが私に与えてくれた喜びを、散った花火みたく零れてしまわないようにするために、私は何も言わずにぎゅっと彼女の手を握る手に力を入れた。
私は知っていた。香織はあの時、私に気を使ってくれていた。普通、同性に告白する時は、告白する側が相手に嫌われないかと心配する。けれど、私の愛の告白で私よりもこれからかのことを心配してくれたのは香織だった。きっと香織は私と今まで通りの友達でいるために、私と恋人になることを選んだ。けれど香織はきっと理解していなかった。恋愛感情と友情とが程良く混ざり合うことは不可能で、奇跡がくれた安堵の温かな恋の息吹は、私に青春の悲しみだけを残したのだった。

 二
 私と香織が恋人になって二回目の夏休みが来ようとしていた。休み前の最後の土曜日、来週の金曜日から夏休みが始まる。私はこの日、お昼を終えた午後から、自転車を十五分程走らせて香織の家に遊びに来ていた。私はよく香織の家に遊びに行く。香織の家は大きなマンションの八階で、玄関口から一番近い部屋が彼女の一人部屋だった。香織の両親は共働きで夜まで帰ってこない。それに彼女は一人っ子だったので、家の中では私と香織の声しか聞こえない。彼女の両親は毎日、空も暗くなって、マンション内の廊下の電灯が眩しく光る、七時くらいに帰宅する。私はいつも、両親の人が帰ってくるだろう三十分前には、彼女の家から離れるのだった。
話は戻って、玄関から見て左手に香織の部屋がある。彼女の部屋は入り口から見て横に長く、奥行きはそれほどない。言ってみれば長方形型の部屋だ。その長方形左上の角に沿ってベッドが置かれている。その横たわるベッドの対面には勉強机がある。部屋の真ん中には小さなピンク色のテーブル机があって、机の右上の角の方向には、木製の縦に長く幅の狭いクローゼットが置かれていた。
 私と香織は、この部屋にいるときは、いつも彼女が毎夜、横になって眠るベッドに腰を下ろしていた。綺麗好きの子ならば、外服で座られるのを気にしたりするかもしれないけれど、香織は余りそういうのを気にしなかった。そして私と香織だけの空間でのみ、私は恋人として香織に接することができる。外では手を繋ぐことさえ、香織は同性愛の偏見に怯えて許してはくれなかった。だから、私はこの部屋に来たら一番初めに彼女の手を握る。
 「好きだよ。」
 私は香織の片手を私の両手で包みながら愛を呟く。私は彼女の小さな身体に両腕を回しては、何度も自分の思いを告白するのだった。そして、もう我慢できないとばかりに、香織の首や頬に口付けをする。その間の香織は、一言も言葉を発しないし、何を感じてくれているのかも分からない。けれど、香織が私を恋人として愛していないことは、私には分かっていたし、私は彼女の口から愛の言葉を望んだりはしなかった。
 私はお尻に布団の柔らかさを感じながら、ずっと両腕で香織の身体の熱を抱き締めていた。この私の両腕に伝わる温かさ全部が、彼女の私に対する愛情ならばいいのにと思う。
 もう夏休み前だから部屋の中はとても暑く、部屋には冷房が入っていた。私は真っ黒のティーシャツにジーパンという素っ気無い服装で、香織はオレンジ色の生地の薄いパーカーに、ベージュ色のヒラヒラのスカートを合わせていた。
 私がこの日の香織がいつもに比べて、何だか気持ちが沈んでいるように感じた。私のどの言動にもリアクションが薄かったし、本当に私の話を聞いているのかな?という場面がいくつもあった。そしてスマホを見れば五時を越えていたとき、とうとう事は起こった。
 香織が二つの手の平をグーにして、力強く太腿の上に沈めて私の名を呼んだ。
 「雅ちゃん。」
 私は不安に彼女の声が震えていたのを察した。
 「どうしたの?」
 私は胸に銅のような仄暗さと冷たさを含めて、香織の顔に浮かぶ目に見えない予感のサインをじっと睨みつけた。
 「私、雅ちゃんとは友達でいたいの。」
 「え……」
 私は突然、自分の身に起きた衝撃を、対処することができず狼狽えてしまった。
「それってどういうこと……」
 「私は雅ちゃんとは恋人とかじゃなくて、友達、一人の親友として付き合いたい。」
 私は現実から目を背けるために、全く関係のない話をし始めようとした。そして私はついさっきまで二人で話していた、夏休みの計画について話を戻そうとした。
 「な、夏休みの最初にプールとか行きたいよね?」
 「雅ちゃん、私の話を聞いて。」
 私のプールに張られた水まで飛んでいこうとした心は、完全に香織の両手で捕まえられた。私はその手から逃れようとする。その手の中でもがけばもがくほど、暴れれば暴れるほど、香織に嫌われてしまうのは分かっていたけれど、私はこの時だけは、わがままを貫き通そうとした。
 「嫌だ。絶対に嫌だ。」
 「雅ちゃん……」
 私の恋は完全にエゴイズムの塊だった。自分が幸福に感じていれば、相手も私と一緒の幸福を感じているに決まっている。私は当たり前のようにそう信じていた。
 「私、香織と離れるつもりなんか絶対にないから。」
 「離れることなんてないよ。私達はずっと親友同士」
 私は彼女が最後まで話し終わるのを待たずに、彼女の弱弱しい声に自分の我儘な荒々しい声を重ねた。荒れた海には、小さな波の存在だなんて消えてなくなってしまう。もうこのときには、私の心の中に、香織の気持ちの存在だなんて認識していなかった。
 「私は香織と恋人として付き合いたいの!」
 「で、でも……」
 「でも、何なの?」
 香織は私に傷をつけてはしまわないかと、恐る恐る小さな口から、私の強引さに反発するための言葉を吐き出した。
 「私達、女の子同士だよね。」
 「それがどうしたの?」
 「私、雅ちゃんと違って、同性の相手を恋人だなんて思えないよ。」
 「大丈夫。私がこれからたくさん愛するから。いつか慣れる。」
 人間が子孫を残すための本能を、男が女を、女が男を好きになるっていう人間本来の構造を、私がどうしたって変えられるわけがない。そんなことは分かっていた。香織が私と違って同性愛者ではないことくらい理解していた。けれども私は香織を自分から離そうとはしなかった。
 「香織、お願い。私から離れないで。それとも私の他に好きな人ができたの?」
 香織は答えづらそうに、非常に気まずそうに無口になって、私から目を逸らした。
 「嘘だよね……」
 私は彼女の反応を意地悪なお道化だと信じた。だから私は香織が発する言葉に期待した。けれど香織の小さな顔は複雑な表情をしていて、遠くの焦点が小さく見えるように、私は目の前の女の子に、距離感という空っぽの隙間を見出してしまった。
 「私、雅ちゃんとは違って、男の子と恋がしたいの。だって、女の子同士だなんておかしいよ。」
 香織は私に大きな傷をつけないように、小さな声でゆっくりと話した。けれど言葉が私達に傷をつけるのに、声の大きさも口調の早さも関係ない。私達はその言葉の持つ意味を胸に受け取り、その刺々しさに痛みを感じ取る。
 「誰が好きなの?」
 「それは……」
 「教えてよ!私のことよりも好きな人がいるんだよね?早く教えてよ!」
 私は怒っているかのように叫んだ。香織は初めて人に視線を注がれる子犬のように怯えていた。彼女の大きな目は、充分に涙を溜め込んでいて、いつそれが溢れ出してもおかしくないほどに潤っていた。
 「私、繁田君が好きなの。」
 今までにその告白程、私を傷つけたものはなかった。私の心の中のいくつかの物が、その告白によって粉砕されたような気がした。そして壊れた硝子のように固い破片が、胸のあちこちに刺さって、私は胸の痛みに涙が出そうになった。
 「いつからなの?」
 「二年生になったときから。」
 私と香織は一年生の時からずっと同じクラスだったけれど、繁田君は二年生になってから一緒のクラスになった男の子だ。
 彼はいわゆる美少年だった。肌は年中小麦色にほんのりと日焼けしていた。大きな目とキリッとした眉のバランスが調度良く、鼻筋が通っていて、恐らく女の子が好きな顔立ちなのだろう。彼に足りないものと言えば、私より少し背が高い程の身長だけだった。私の背は160cmくらいで、平均に比べれば少し背が高い。けれど私とほぼ身長の変わらない繁田君は、周りの男の子と比べれば少し背が低い方だ。
 私は恐る恐る香織に尋ねた。
 「連絡は取っているの?」
 「うん。」
 香織は答えづらそうに自分のスカートを見つめた。まるで悪事を白状させられている被告人みたいだった。
 私はすぐさま、誰も座っていない香織の隣に置かれていた携帯に手を伸ばした。
 「雅ちゃん、やめて!」
 けれど私は容赦なく、彼女の携帯の中の私の知らない秘密を探った。
 「雅ちゃん!」
 「別に何も思わない。見るだけだから。」
 繁田君とのたくさんの連絡のやり取りを見つけた私は、今更、自分が香織に傷付けられた気がした。私は彼女に恋愛感情を持ってもらうことができる繁田君が急に憎らしくなった。私が男に生まれてこないばっかりに、私は香織に好きになってもらえない。そんな私を自分で呪った。
 「雅ちゃん、やめて……」
 私の愛する人は泣いていた。長い睫毛に一滴の雫が刺さって、毛はその重さに耐えきれず雫を零してしまい、涙は柔らかな肌色の頬を濡らしながら伝っていった。
 「ごめん。」
 私は香織の泣き顔を見て、興奮状態から一度落ち着いて彼女に携帯を返した。香織は両手で涙に暮れる顔を隠していた。普通ならばこういう時、私は可哀そうだとか思わなければいけないのだけれど、私はひ弱くて脆い彼女の姿を見て、それを生涯独占してみたいと感じるのだった。
 香織の弱っているところをじっと見ていたら、私の心の中にはもう、抑えようのない感情が高まってきた。私はその感情に理性を追い越されて、両手で顔を隠して泣く彼女の両肩をしっかりと持って、そのままベッドの上に押し倒した。その瞬間、私は彼女の華奢な身体に覆い被さった。彼女の力の入っていない手は、左右非対称の方向で横たえていた。香織が潤った目で、驚きと不安と緊張を瞳に滲み出して、私のことを見つめた。
 「雅ちゃん?」
 「香織、好きだよ。」
 私は何度も何度も、彼女の顔の至る部分に接吻した。キスの味は塩辛く、私の欲望を味覚では伝わらない甘さで包み込んだ。
 私は香織の唇を奪った。彼女が私のことを愛していないのを知っているのに、私は完全な自己都合で彼女を求めた。
 私は普段、香織の首筋や頬にキスをすることがあっても、彼女の唇に口付けをすることはなかった。私と香織が付き合いだした当初、私は何度も香織の唇にキスをしたけれど、私が彼女の唇から自分の唇を離したとき、彼女はいつも気まずそうな顔をして、私から目を逸らすのだった。私は彼女がまだ私のことを友人としてしか見ていないことを理解していた。だから私は恋人同士の唇を重ねるキスを、彼女に嫌われたくなかったから、もうずっとしていなかった。香織にとって唇と唇を重ねることは、男女間の恋人同士がする性の一線を越えたもので、その行為の相手は彼女にとって私ではなかった。
 
私は何度も香織の唇にキスをした。香織は私の激しい口付けに、弱った小動物のように頼りない息を漏らしていた。私は香織が何も抵抗してこないのを知って、彼女が私のための物であるかのような独占欲に駆られてしまった。私は激情に脳内の細胞を燃やしてしまった。もう抑制機能の利かなくなった脳細胞は、私の暴走を止めることができなくなっている。私は彼女に、今までにしたことがないような深い口付けをした。私と香織の息がお互いの口内で混じりあった。私はこのとき初めて、私と香織が恋人であるという快感に浸ることができた。さっきの話ではないけれども、人は性という欲望の一線を越えた時に、初めてお互いのことを恋人と認めて、愛し合えるのではないかとこの時に思った。その思いは最初こそ薄かったけれど、意識が快感に溶けて朦朧とするほど、香織と舌を絡め合ううちに、私の考えは次第に大きな確信へと変わっていった。香織は今までに出したことがないような、小さな甲高い声を漏らして、私は彼女に恋人として愛されていないということを知りながらも、そのすぐに折れてしまう、たおやかな花のような、か細くて可愛らしい彼女の声を、もっと自分の胸に飲み込んでしまいたいと思った。
 私は香織を愛している。彼女は私の他に好きな男の人がいる。これはもう、偽物の恋愛なのだろうか。けれど私はそのような現実でさえ、私の一途の愛情で変えてしまうことができると思った。自分が彼女を心底愛することで、彼女もいつかは私のことが好きになってくれると今まで信じてきた。
 「やめて……」
 私は香織の言葉も気にせずに、彼女のパーカーの中に手を入れて、服をそのまま上に上げて脱がせようとした。私が自分でも何をしようとしているのかが分からなかった。唯、香織だけは私が何を彼女に求めているのかを察したらしく、両手で袖を力強く握って私に抵抗した。
 「お願いだから、やめて!」
 香織は大きな声で、私を怒るように叫んだ。このときに私はようやく、接触の喜びによる夢のような快感から覚めて、久しぶりに自分の恋人の表情を見つめたような気がした。そして目の前の恋人は、ひどく私に怯えていた。まるで私が彼女を苛めているかのように、私の恋人は敵意を込めた目で私を見た。私は私に向けられた、鋭くて棘のように心を刺す視線から逃れようと、言い訳をするかのようにぼそっと言った。
 「大丈夫だから。」
 「やめて。」
 「私達恋人だよね?」
 「今、生理だから……」
 私は香織からそう聞いたときに初めて、自分がこれから何をしようとしていたのか気付いた。そして自分が犯した愚行に初めて気付いたとき、急に自分の身体中から血の気がさっと引いて、キャミソールが汗で冷たくなっているのを感じた。香織の身体に跨る私はぼおっとして、彼女の顔を上から見下ろしていた。
 「香織、ごめん。」
 私が作り出した、このどうしようもない、息が詰まりそうに窮屈な部屋の空間から、誰かに救いを求めるように私は謝った。
 「ごめん。本当にごめん。」
 私が謝るのを聞いて、香織は目で見えない余りにも重すぎる、情欲感から抜け出せて安心したように、まだ肌の色が黄色ではない新生児のように泣きじゃくった。
 私は彼女が泣いているのを、唯見ることしかできず、胸に次々と湧いてくるのは、後ろめたさに後悔と自己嫌悪感だった。そのため私は恋人の涙を手で拭うこともできずに、やっとのことで自分が彼女の腰に跨っていることに気づいて、一言も声を掛けずに彼女から離れた。
 
私はこの日、初めて香織を泣かせてしまった。私は香織と中学一年生の時から今の高校二年生の時に至って、おおよそ四年間の付き合いだったけれども、これ程に彼女を号泣させたことは今までに一度もなかった。
 私はどうして彼女を傷つけてしまったのだろう。私は彼女に対して、何も疚しい気持ちは持っていなかった。彼女を泣かせたかったわけでは絶対ない。それなのに私はどうして、彼女を泣かせてしまったのだろうか。
 私が彼女を押し倒したとき、私はただ、彼女の体温を感じたいだけだった。彼女の身体を隠されることなく全身に触れたかった。私は決して性欲の衝動性に理性を失ったわけではない。私は彼女の全身の感覚器官に、香織の肌に、私の身体を受け止めてもらいたかった。そうすることでしか、今の私には永遠を約束する愛を感じ取ることができないような気がしたのだ。
 私は床に着いた足の位置を時々変えながら、私に背を向けて横になり腕に泣き顔を沈めている香織を見ていた。私は彼女が泣き終わるまで、何も言うことなくひたすら待った。私はどのくらいの時間を待っただろう。待っている間私はずっと、これからやってくるだろう、決して明るくはない未来について考えていた。
 
 三
 香織を泣かせてしまった翌日の日曜日、私は中々布団から出ることができなかった。恋愛観について完全に自己中心的な私だけれど、それでも昨日に蒸発してしまった、香織の透明色の涙を顧みれば、何だか朝の起床時から自分の情けなさで、両目のレンズを濡らしてしまった。     
昨夜、禄に眠れなかった私が結局、身体が凍り付いたかのように眠りに落ちたのが、夏の夜空と早朝の眩しさとが混じり合う頃だった。そして日曜日にも関わらず、私は学校の日と同じ時間に自然と目が覚めてしまって、それからは変に眠れずにいた。
寝床に沿う壁に付いている窓を隠す、淡い緑色のカーテンに、夏休み前の激しい日光と蝉の大合唱とが、白い光に明度の高くなった繊維から漏れてきた。スマホを見ればもうお昼時を過ぎている。私は薄い掛け布団を使って、自分の住む世界を夜に似せた。その薄闇は私の心理的効果と混じり合って、今まで過ごしてきたどの夜よりも暗かった。私は懐中電灯の代わりにスマホを持ち、液晶から放たれる光だけが、私の胸の辺りを僅かな照明で照らす。私に光を与えてくれる画面に映っているのは、私と今、一番遠いところにいる香織との昨日のメールのやり取りだった。スマホの液晶画面に、指を上に下に弾いて彼女が昨日くれたメッセージを読みながら、私は彼女からのメールを待っていた。けれど液晶に私の指紋が増えるばっかりで、彼女からのメールは一切来なかった。

私が自分からメールを送ろうと思ったのは、もう午後の暑さがピークに達する頃だった。
私は今日、できれば香織に直接会って謝りたいと思っていた。けれど謝りたいという気持ちよりも、許してもらいたい気持ちと、嫌われたくない気持ちの方が上回っていた。
私は香織に「おはよう」とメールを送ってみた。それと昨日の夜同様に、自分が香織を泣かせてしまったことを謝った。ちなみに昨日は、私がメールで今日はごめん。と送った後、香織は「うん」と二文字を返してくれただけで、私はその後、学校の先生にはきっと通用しない、余りにも文字の少ない反省文を香織に送って、それから彼女との連絡は途絶えてしまった。
 私がメッセージを送信してから、ほんの数分後に返事は返ってきたけれど、私はその短い時間に数百と心臓をバクバクと鳴らした。
 香織からの返事には、「今日は体調を崩したから会えない。ごめんね。」と書かれていた。私はその会えないという言葉に、香織の欲求が絡んでいるのかが気になった。けれど香織が生理の時、彼女の人並み以上の頭痛や下腹部の痛みを知っていたので、私は疑うことをやめた。実はというと、私は昨日の香織の言葉を信じていなかった。私は彼女がただ、私という女性と女性同士で、人間最大の性の一線を越えたくはなかったのだろうと思っていた。私にとって香織との身体の繋がりは、例え生態系の不完全さが伴っていようと、愛の確認でもあり約束でもあった。けれど香織にとって女性の私と裸で抱き締め合うことは、どれ程心をごまかそうとしても、脳の電気信号が、私の恋愛観の障害性を断然と否定してしまうのだった。何回も言うけれど、彼女にとって私は、友達以上にはなりえても恋人という存在には決してなれない。そもそも彼女は私に一度も恋愛感情を持ったことなどないはずで、全てが私の屈折された本能の我儘による、彼女にとって私との恋愛は純粋ではない偽物の感情なのだから。彼女には彼女の、男の性を持って生まれてこなかった私との、越えてはいけない性のボーダーラインを、無意識的に自分を守る鎧として備えているはずだ。だからそれを知る私は、彼女の唇に口付けをしないようにしていた。その口付けの後の、言葉にできない香織の表情の違和感が、私の幸福感を現実のやすりで削ってしまうことが痛々しかったから。
私は部屋の暑さに耐えかねて、身体を起こして布団をベッドの隅に放り投げた。そして私はベッドのすぐ側に置かれている、扇風機の電源ボタンを屈み込んで押した。扇風機の風は私の憂鬱を吹き散らしてはくれず、やっぱり精神的に不安定な日に側にあって欲しいのは、純粋に好きな人の身体と心だった。

私はこの日の夜、シャワーを浴びるまでずっと、パジャマ姿で一日を過ごした。体調不良の香織を思って、昼に送ったメール以来、自分から連絡することは一切なかったし、彼女が私に連絡をくれることもなかった。私は彼女が寝込んでいるものだと強く信じた。そして空っぽな一日を送るはずだった夜、私は昨夜眠れなかったのもあって十時くらいには、寝床に入っていた。今日は何もしていない時間がたくさんあったのにも関わらず、寝不足の目は太陽がまだ上っている頃、眠りに閉じようとはせず、大きく見開いてどろどろとした自分の感情をずっと見据えていた。だから時刻が午後十時を過ぎれば、自分の両目が自分では操ることができないようになっていた。    
ベッドに横たわり、もしかしたら私が浅い眠りについていたとき、スマホのメール通知音に私は目を覚ませた。私にメールをくれるのは、大抵の場合が香織だったので、私はメールに浅はかな睡眠を邪魔されても気を悪くすることなく、枕のすぐ側に目覚まし時計代わりに置いているスマホに手を取った。そしてスマホの画面を見てみると、私は携帯に表示された名前に驚いた。それは香織ではなくて、今、私が一番憎んでいた男の子だった。彼のメールには、相談したいことがあるから、電話番号を教えて欲しいとだけ書いてあった。

 四
 私が繁田君と直接話したのは、これが初めてかもしれなかった。電波によって私のスマホまで届けられる彼の声は、いつも耳に入ってくる彼の声よりも擦れていた。彼はいわゆるハスキーボイスだった。私はベッド上で両膝を左手で抱えながら座って、何かに怯えているかのように、背を丸くして彼と通話をしていた。
 「夜遅くにごめん。熊倉に相談したいことがあって……」
 私はその相談事が香織に関することだとすぐに分かったし、できることならすぐにでも電話を切ってしまいたかった。そして案の定、彼の言う相談事とは香織に関することだった。
 「熊倉って佐藤といつでも一緒にいるよな?」
 「うん。それがどうしたの?」
 「俺、熊倉に協力して欲しいことがあるんだ。」
 「協力して欲しいこと?」
 私は彼の今から言うことに対して、完全な予想をしていたし、その答えを耳に入れるのを非常に恐れた。
 「俺、佐藤のことが好きだ。だから付き合いたいって思っている。それで夏休み前に告白しようと」
 私は告白という言葉に過剰反応して叫んだ。
 「やめて!」
 「え?」
 私は彼の困惑した声を聞いて我に返った。
 「やめてってどういうこと?」
 私は弱い者が強い者に切望するように、私の感情の重みで消えそうになっている、淡々とした声を吐き出した。
 「香織に近づかないで。」
 「え?」
 「だから、香織に近づかないで。」
 繁田君は急に敵意を向けられて、恐らく唖然とすることしかできなかったと思う。沈黙が受話口から感じ取れて少し時間が経った後、繁田君は私にお詫びをもとめるような声のトーンで尋ねてきた。
 「どうしてそんなことをいうの?」
 「あなたに香織を奪われたくないから。」
 「どういうこと?」
 「香織は私のものだから。」
 私はこのとき、今日一日の大きな悩みの、胸に沈殿した残り屑が、悩みの種の本人の声を聞くことによって、胸の上へ上へと上昇していった。そして上昇してきた思いが、いつの間にか脳まで達して、私はとてつもなく興奮していたのだった。
 「ごめん。熊倉の言っていること、良く分からないよ。」
 「告白しないで!香織に告白しないで!」
 「どうして?」
 「私が香織のことを好きだから!」
 「好きって?俺は香織と付き合っても、香織を独り占めにして友達と遊ばせないようなことはしないよ。」
 「あなたは何も分かっていない。お願いだから告白するのはやめて!お願いだから……和達しから香織を奪わないで。お願いだから、香織を奪わないで。香織に告白しないで……」
 「どうして、熊倉が俺にそんなことを言うの?もしかして俺のこと嫌いなの?」
 「別にあなたのことなんて、何一つ思っちゃいない。ただ、私が香織のことが好きだから。香織のことが好きだから。だから、私に先、告白させて欲しい。それで無理なら諦めるから。」
 きっとこのとき、彼は突如に沸き起こった驚きのため、何も事情を把握することができなかっただろう。彼は少し黙っていた。そして少し間が空いてから、彼はようやく事を理解したのか私に尋ねた。
 「熊倉ってレズなの?」
 私は目下にある足の先端の爪をずっと見ていた。今まで私の両足は、周囲の高校生とは少しずれのある道を歩いてきた。私は皆とは違うところにいる。きっと誰も私のことなんて理解してくれないだろう。繁田君の口にしたレズの一言に、私は物凄く差別をされたような気がして、興奮と苛立ちが私の全身に、チイサナ滝でもあるかのように流れ始めた。     
「熊倉ってレズなの?」
 「そんな言い方されたくない!私はただ、香織のことが好きなだけなの!」
 「佐藤はどうなの?」
 「どうって……」
 「佐藤もレズなの?」
 「違う……」
 私は香織の同性愛を彼に否定したとき、涙を溢さないように目を瞑ったら、完全的な敗北の告知が瞼の裏側に映っていた。
 「香織を自分の事情に巻き込むのは良くないよ。それって普通ではないからさ。別に同性愛を差別する気は全然ないけれど、もし熊倉が香織に告白しても、大切な友達を困らせるだけだと思うよ。二人は中学生の頃からの仲って香織から聞いた。確かに恋愛は素敵なことだけどさ、今熊倉が香織に告白して気まずい関係になってしまってもいいの?俺はそういう特別な恋愛は、お互いが同じ価値観を持っている者同士ですることだと思うよ。」
 「黙って!」
 「例え熊倉が佐藤と付き合えたとして、熊倉は佐藤と付き合って、佐藤のことを幸せにできるの?同性愛って普通ではないことだし、ましてや香織は普通の女の子なのに、彼女が色々な障壁に巻き込まれても、佐藤はそれでも幸せって言えるの?」
 私は彼の言うことを理解できた。それにもう何度も悩んできたことを、彼は私に再提示してきただけだった。彼の言い分が正しいことくらい分かっている。彼は彼自身が大好きな香織を、小さな身体の中にある純粋な心を、傷つけられないように私に訴えているのだろう。繁田君と香織が教室内で楽しそうに話しているのは、私も知っていた。そのときの私は何も疑ってはいなかったけれど、今思い返せば、彼等はいつも楽しそうに初々しいときめきを込めた視線で、お互いのことを見つめ合って話していた。どうしてもっと早くに気づかなかったのだろう。いや、もしかしたら私自身、その事実から目と思考を逸らすかのように現実逃避していただけかもしれなかった。実際、自分の恋人が他に好きな人を作るかもしれないと、そんなことを疑う方がおかしいだろう。香織を責めるわけではないけれど、今の現状が私には残酷すぎる気がした。
 私は近づく恋の終焉に、悲劇的な悲しみを胸に募らせて、それは水晶体を通して涙に変わって両目からぽろりと落ちた。通話口の向こうにいる繁田君に聞こえないように、声を殺して私は泣き続けた。数度のしゃっくりを恨めしく思った。そしてどちらもが話し出さない空間が重なって、次の一声を発するのに雰囲気が重くなった。私は彼が話してくれるのを待った。
 「熊倉?」
 彼は私の名前を読んだけれど、私は鳴き声を押し殺すのに精一杯で、彼の呼び掛けに答えることができなかった。私はそのまま彼が電話を切ってくれることを切望した。
 「熊倉?聞いている?もしかして泣いているの?」
 繁田君は私が何も言わないのにも関わらず、次々と話し出した。
 「俺、夏休み前に佐藤に告白して、夏休みの部活がオフな日に、一緒にたくさん思い出を作りたいなって思っている。来年は俺達受験生だからさ。俺も週の殆どはテニスがあるし、休みも週に一回くらいだけれど、それでも今年の夏休みが、高校生として思いっきり遊べる最後の夏だからさ。だから俺は夏休み前に香織に告白したいと思っている。俺は真面目に彼女のことが好きだし、男子高校生として佐藤香織を幸せにしたい。」
 私は彼の言葉を何も聞いてはいなかった。いや、正確に言えば一言を除いては、全く私の理解の内にまで入ってこなかった。けれど一つの言葉だけは、私の胸の内をグルグルと締め付けるのだった。その一言は「夏休み」で、それが私の心を縛って、長いロープに繋がれた私の心は、一年前の夏休みの記憶が保管を保管してあるところまで運ばれた。去年の夏休み、香織が私の恋人になったあの日、夜空に次々と大きな花火が打ち上げられた一日が、走馬灯のように次々と私の目の前に現れてきた。
 「夏休み……」
 「え?」
 「夏休みが終わるまで、香織に告白しないで。」
 「俺がさっき言ったこと覚えている?どうして夏休みが終わるのを待たなければいけないの?」
 「お願いだから夏休みが終わるまでは待って!始業式が始まれば、香織に告白しようが何を言おうがあなたの勝手だから!」
 「俺が聞いていることに答えてよ。」
 「花火大会の日に、彼女に告白したいから。だから、待って。せめて花火大会が終わるまでは待って!」
 「花火大会ってどこのこと?言っていることがめちゃくちゃだよ。」
 「源氏花火大会のこと。」
 「熊倉達の地元のやつか。でもどうしてその日なの?」
 「花火大会の日に、私と香織は初めて仲良くなったの。だから最後に終わらせるのは、どうしてもその日が良いの。」
 「終わらせるっていうのは熊倉が振られるってこと?」
 「そうよ。」
 「どうしてもその日が良いの?」
 「うん。お願い。お願いだから、その日が終わるまで待って欲しい。」
 「熊倉がそこまで言うならそうする。けれど、熊倉には俺の気持ちが一切、伝わらなかったんだね。俺は熊倉が香織に告白するのは反対だよ」
 「私の勝手にさせて。」
 「熊倉の恋愛は自己中心的すぎると思うな。」
 私は彼の言うことに何も答えられなかった。たしかにそうだ。私の香織に対する思いは、純粋なものではないかもしれない。私の心に百合の花のような色をした純白な愛があったとしても、私のエゴがそれに溶けてしまって、私の愛は灰色に染まってしまっていた。

 繁田君との電話が終わった後、私はスマホの液晶に目をやったら、充電が減っていることと時間が結構経っていたことに気づいた。もう寝よう。そう思ってまた、横になったけれど、すぐに眠れるわけがなかった。
 私は薄くて頼りがいのない掛布団に潜り込んだ。蒸し暑い夜だったけれど、分厚い、この世の光を全てシャットアウトするような、掛布団が今だけは欲しいと思った。
 
翌日、繁田君は教室内で今まで通り、私に話しかけてくることはなかった。それに私がレズだとか、そのような噂も広まっておらず、繁田君は実際、生れ付きの優しさと真面目さで、クラスメイトの誰からも好かれていた。
 私は香織と一緒にいることで、逆に繁田君に気を使った。私の香織に対するいつものちょっとしたスキンシップも、私を同性愛者だと認識する繁田君にとっては、きっと一つの人間的求愛行動と思われてしまうのだろうか。私は彼にどう思われようが良かったけれど、何故か私は香織への言動一つ一つに、繁田君の顔色を窺ってしまった。このような日が一カ月も続けば、私の神経は参ってしまったかもしれない。けれど夏休みまで、この日を含めて残すところ後四日間だけだったので、私は神経系を病まずに無事、夏休みを迎えることができた。
 
 五
 夏休みが始まってから三日目の日曜日、この日に香織と夏休み初めてのデートをした。七月の始め私と香織は、夏休み中に一度はプールに行こうと約束して、一緒に水着を買いに行った。お互いに優柔不断な性格なので、お互いでお互いの似合いそうな水着を教え合った。私は細くもないお腹を見せるのが嫌だったので、ネイビー色のタンキニを買って、香織は暖色で花柄の、ひらひらとしたスカートタイプのビキニを買ったのだった。
 私は恋人のパーソナルスペースを大幅に侵害してしまったあの日以来、自分から香織の家に行くことができずにいた。私が彼女の部屋に行けば、香織をまた不安にさせるだけだと思ったからだ。だから私はあの日から七月の内、香織の家に行くことは一度もなかった。そのこともあって、私は夏休み初めの日曜日に、二人でプールに行くことにした。
 プール場に着けば、水着は服の内に着こんであるし、後は服を更衣室で脱ぎ去ればいいだけだ。プールの開館時刻に十分程遅刻して来たけれど、女子更衣室にはもうたくさんの人がいた。でも、ほとんどの人が服の下に水着を着ていたし、タオルでてるてる坊主になる人や、またはタオルを巻かずに大胆な素っ裸になって水着に着替える人もいなかった。
そして荷物を預けるロッカーが結構大きかったので、香織が手の届きやすい範囲で、お隣同士仲良くロッカーを借りた。
 香織の水着姿は本当に可愛かった。女子更衣室にはたくさんの人がいるけれど、この中で香織の水着姿を見て、その身体に触れたいと思っているのは恐らく私だけに違いがなかい。香織は温かみのある明るい色が本当に似合う。実際彼女も、そういう色が好きで、彼女が好みで選ぶ色彩が、いつも彼女に自然と似合っていた。香織は華奢なわりに胸が大きく、水着姿になればそれが目立った。彼女の乳房を隠すビキニの膨らみがふっくらとしていて、私はその膨らみの大きさに、男の人のような性的欲求は感じないけれど、どこか愛しくて、母性的な愛のようなものを感じた。
 香織はロッカーのすぐ側にあったベンチに腰を下ろした。
 「雅ちゃん、UVクリームを背中に塗って欲しい。」
 香織は私にチューブ状のUVクリームを渡した。私は長椅子を跨いで彼女の後ろについた。
そして、手の平に適量の真っ白なクリームを出して、両手を使って手の平に伸ばし、香織の小さな小麦色の背中の内から外に向って、クリームを優しく伸ばした。香織の背中はとても綺麗でムダ毛など一切生えていない。私は彼女の小さな背中をパックするように軽く叩いて、クリームを肌の中に馴染ませた。私はその時、言うまでもなく愛情から胸がドキドキとして、真っ白なUVクリームと共に、彼女の背中の温度に溶けていってしまいそうに感じた。
 「ごめんね。自分じゃ背中に手が回らないから。雅ちゃんにも塗って上げようか?ちゃんと紫外線対策はしてきた?」
 「うん。家で塗ってきた。それに私はタンキニだから背中は焼けないし。だから大丈夫だよ。」
 私は自分がタンキニを選んで良かったと思った。私は香織みたいに綺麗な肌をしていないし、それこそ背中にムダ毛が生えていようものなら、そんな背中、恋人に見せられるわけがない。
 私はこの日、香織と今まで通り、プールの水をパシャパシャとさせて、思いっきり彼女と二人で水中遊戯を満喫した。人混みをかき分けて泳いだり、長いスライダーに乗ったりして、そこらの女子高生と変わらないように、楽しさに胸まで浸っていた。けれど時間が経つにつれて、私の穏やかな心中の波に変化が生じた。それというのは、プールデートに来ていたいくつものカップルを見て、何か悪い空気を入れられた風船のように、私の思考はまん丸でない不完全な形に膨らんでしまった。
 私と香織が、中学校にあった二五メートルプールの何倍も広い水面を歩いていると、何組ものカップルが目に映った。あるカップルは仲良く水中で腕を組み合っている。またあるカップルは、彼女の乗る浮き輪を、彼氏が愛する人の瞳に目を奪われながら、ゆっくりと押して人混みに流れていく。またあるカップルは、広いプールの隅の方で手を繋ぎ合って小言で何かを囁き合っていた。私にはどのカップルにも密着という愛の初々しさが感じ取れて、私にはそのカップルらしさと言うものが非常に問題だった。私は午前中の時間ずっと、カップルが眼に入る度に、香織に対する過剰な、ある義務を遂行する欲求に駆られた。

午後の一時過ぎに、お昼ご飯を買いに私達は売店に行って、適当なものを買って、芝生でできている休憩所に腰を下ろした。プールに来てからあっという間に、三時間ちょっとの時間が経っていた。
 私はカレーライスを、香織はきつねうどんを食べる。
 「たくさん泳いだからお腹空いちゃった。」
 香織の肌には、ぽつぽつと水滴が残っていた。水着姿は相変わらず可愛くて、私は恋人として、本当は誰にもこの水着姿の香織を見せたくなかった。お昼ご飯を食べ終わったら、私達はまた泳いだ。私は香織と水の中ではしゃいでいたけれど、午前中に思い浮かんだ一つの考えだけが、どうしても頭から離れなかった。それは私が、今、この時間、香織の恋人としてしっかりと振舞えているのだろうかという疑問と、それを知るために生じる不満と憔悴だった。私達は傍から見れば、ただの女二人でプールに遊びに来ているだけに見えるだろうし、周囲に私達のことをカップルだと思っている人は一人ですらいないに違いなかった。だって私は、香織に対して恋人らしいアクションを一つも起こしていない。プール中の私は彼女に見せる笑顔を作って楽しさを装いながら、私の彼女に対する恋人としての役割とは一体何なのだろうかと考えていた。
 私は香織の恋人として、恋人らしく香織に振舞って、香織に私が彼女の恋人であるということを実感して欲しかった。けれど誰かの目がある外のデートでは、私は彼女に過剰なスキンシップを取らなかったし、ただの友達同士に違いなかった。私は他人の目といったものを全く気にしていなかったけれど、香織が物凄く私達の関係について、周りにそれを知られないように気を配っていたし、私達の関係を知る人は、私と香織以外はあり得なかった。言ってしまえば、香織はそれ程に、同性愛を特殊で普通ではないものと考えていたし、誰かにそれが知られれば、間違いなく差別の対象になると思っていたはずだった。なんせ、彼女は私と違って同性愛者ではなかったから。だから私との恋愛沙汰に彼女自身でも偏見を持っているに決まっていた。
 
私は午後の時間もずっと、私は香織にできる恋人らしいことを考えていた。私がどの様な言動を取れば今日の一日が、一組のカップルのプールデートになりえるのだろうか。結局私にはそれが分からずに、香織の恋人として、彼女の私以外の友人ができそうにないことをやってのけたわけでもなかったし、私は彼女の世間体に対する懸念を恐れて、彼女の腕を組むことすらもできなかった。これでは私と香織は、恋人という条約を交わしただけの、ただの友人同士の関係に変わりはない。私達は人前で、いわゆる社会で、私達二人の体裁はいつも友人同士で、もしかしたら香織は私を今まで私をずっと、自分の恋人と認めてくれていなかったのではないかとさえ思った。いつでも私達は、友達の関係の延長線上にいて、香織自身も心底、私のことを恋人と思ってくれていないのではないかと疑った。これでは猶更、偽物の恋人同士だった。
 
プールの翌日、私が生理になったので、プールに行ったのが昨日で良かったと安心した。 
私は八月になるまでずっと、香織の家にいくことはなく、二人で会うとしても、ショッピングに行ったり、ファミレスに行ったりで、私達が二人きりの空間を作ることはなかった。私はあの、私が香織の身体を強要的に求めて、彼女の心を傷つけて泣かせてしまったことを、ずっと気にしていた。だから当分、香織が私と二人きりになることを恐れるのではないかと思い、彼女の家に行くことはなかったし、カラオケなどの個室の空間も避けるようにしていた。私は香織に気を使いすぎていたのかもしれない。
夏休みが終われば、繁田君が香織に告白する。そうすれば、香織は繁田君の恋人になる。それは間違いないはずだ。だって、香織の恋愛対象になるのは、男である繁田君であって、女の私ではないのだから。私は生まれて初めて、将来、自分の子を授かるための人体構造に嫌気がさした。もし、私が男に生まれたのならば、私は彼女を堂々と愛して恋の力で幸福にすることができたのだろうか。
私は夏休みの間、香織に何をすればいいのだろうか。繁田君に香織を奪われないためには、私は夏休みに香織にどのような言動を取るべきなのだろうか。何も分からないまま七月は終わった。私は夏休みが一日一日と経っていく速さに驚かされた。私は香織と永遠に恋人として結ばれるにはどうしたら良いのか、私はもう一カ月間もない休みで、私に取って最愛の人を失くさないための、人生最大の宿題と毎日向き合っていた。



八月に入った初日の午前中、話したいことがあるから家に来て欲しいと香織から連絡があった。
 私は香織の話したいことが別れ話だと予想した。夏休みが始まってから、香織とは上手いことやってきたつもりだったけど、やっぱり私達は恋人同士ではいられない運命なのだ。私達は手を繋ぐことすら、人前では躊躇してできない。そのような恋愛が長続きする訳がないいだ。
絶望感と悲しみが合わさった重い鉛のような怠さが両肩に乗っかって、今までに経験したことがないような痛みを伴う肩こりに、私は襲われたような気がした。
 私は正午前に早いお昼を済ませ、自転車に乗って香織の家に向った。今日の私の服装は、喪服色のティーシャツに真っ白のパンツを合わせた、私の心が自然に反映したかのような、彩度の全く伴わない格好だった。自転車を漕ぐ中、外は相変わらず暑くて、所々に立つ木が目に入る度に、今にでも頭痛がおそってきそうなくらいうるさくて煩わしい蝉の、私の恋に対するレクイエムのような合唱に耳を痛くした。
 
私は彼女の住むマンション下の駐輪場に自転車を止めたとき、これから起こる事を受け止めるために覚悟を決めた。香織が私にどのようなことを口にしても、私はもう前みたいな失態を侵してはいけないと、上空から直射日光を落としてくる空に誓って深呼吸をした。ぼんやりと空を眺めれば太陽の眩しさに思わず目を瞑って、その目を瞑ったときに訪れた暗闇が、私の人生の結末を暗示しているかのように感じる。エレベーターに乗っている間も、エレベーターが香織の住む八階に近づく度に、私は自分が空よりも高いところにある、ディストピア世界に向っているような気がした。
 香織が家のドアを開けてくれたとき、彼女は少し緊張しているかのように見えた。というのも、いつも私に見せる笑顔の表情が、今日は、何故だか堅くなっているように感じた。香織は相変わらず色鮮やかな、蛍光ペンのピンク色のようなティーシャツに、デニムのショートパンツを合わせていた。
 私は香織の部屋に入れば、部屋の真ん中にあるピンクの机の前に正座した。いつもなら、真っ先に香織の小さな身体を抱き締めるのだけれど、今日はそんなことできなかった。
 香織が私の右隣に、私と同じように正座して座る。机の底辺に私達の身体が収まるくらいに、香織は私に近寄って座わった。
私は恐る恐る香織に尋ねてみた。
 「話って何?」
 右肩に伝わる香織の肩の温もりが辛かった。
 「私、雅ちゃんのことどれだけ思っても、友達としか思えないの。私、雅ちゃんのことが大好きなんだよ?けれど、どうしても雅ちゃんのこと、恋人としては思えないの。私、どれだけ雅ちゃんのことが好きでも、雅ちゃんが私を抱き締めたりだとか、私にキスしたりだとかしたとき、必ず、触れられたくないところをくすぐられるような、言葉にはできない違和感を覚えるの。前、雅ちゃんが私の服を脱がせようとしたことがあったよね?私、あの時すごく変な感じだった。私はこれから目の前の女の子の友達に何をされるんだろうって。でもね、今考えれば恋人同士なら、ああいうことをするのも普通じゃないのかなって。ただ雅ちゃんはあのとき、自分の恋人である私に、純粋にああいうことがしたかったんだよね?それは雅ちゃんが私のこと、すごく愛してくれているからだよね?私、雅ちゃんが私のことを愛してくれているのが、すごく嬉しい。けれど、雅ちゃんが私を恋人として接するとき、私、何故だか胸が苦しくなるの。ごめんね。わがままだよね。私にもこの気持ちが分からないの。何かね、好きなのに好きじゃないみたいな感覚が私の胸の中にあるの。けれどね、私、雅ちゃんとは中学生の頃からの仲だし、雅ちゃんに嫌われたくないし、私だってもっともっと、雅ちゃんが私を愛してくれているように、雅ちゃんを愛したいの。でね、私、考えたの。どうやったら雅ちゃんのことが愛せるのかなって。でね、雅ちゃんとあの日の続きをしたら、私、雅ちゃんのこと愛せるんじゃないかなって。そうしたらきっと、私の中の友達と恋人との区別が雅ちゃんに対してきっちりできて、もっと雅ちゃんのことが好きになれるんじゃないかなって。」
 香織は言いたかったことを全て言い切ったら、私が何か言うのを待たずに、私の両肩に手を置いて、私の愛する彼女の唇を、私の顔に近づけた。そして私と香織は今までにしたことがないくらい長い間、深い口付けをした。私は自分の舌を香織の舌に絡めて、お互いの口から洩れる吐息に夢中になった。私は時間が止まったかのような気がして、夏の暑ささえいつの間にかなくなっていた。私はこの瞬間、香織だけがこの世界にいるような気に陥った。私は何度、どれ程の時間、口づけをしたかも分からないくらい。そして悪い熱に頭がぼっとしているような感覚に任せて、香織の身体を、綺麗な背中に傷がつかないように、ゆっくりと床に押し倒した。
 「雅ちゃん……」
 「駄目?」
 「違うよ。ただ、布団には被りたい。」
 私と香織は夏用の薄いピンク色の掛け布団に頭部以外を埋めた。そしてまた、キスをした。何度も何度も激しくキスをした。まるで海の中にいるかのように、お互いの漏らす息と声以外に何も聞こえず、私達は性の底へと沈んでいった。
 
私達は裸で、薄い布団の中に全身を隠して、薄い暗さに互いの存在を確認するかのように、お互いの身体を求め合った。私は羞恥心に慣れてくれば、お互いの裸を潜めていた掛布団を隅にやって、香織の身体をまじまじと確認した。そして私は香織の柔らかい身体の上に自分の身体を重ねて、言いようのない征服感を味わいながら、彼女の首に両腕を回した。彼女の上半身の全身に口付けをした。香織は私の背中を力の入った指でしがみついた。私はこの愛の快楽に一生、終わりのないような気がした。私の全身には常に、香織の肌の柔らかさが感じられて、私は彼女の全てを包み込みたいという、ある意味母性的な尽くして上げたいという思いに駆られた。

幸福感で肉体的な疲労を感じて、だらりと横に並んだ私達は、互いの目を見つめ合った。私はこのとき、久しぶりに香織の目を見つめたかのような気がした。香織の目はとろんとして、大きな目にはいつもの力量がなかった。そしてその目は私を見ているのにも関わらず、どこか遠いところを見つめているようで、真っ黒の瞳孔に冷淡的な感情が含まれているように感じた。私は目の前で揺らぐ不安から逃れるようにと、香織の唇にキスをした。香織は片手を私の背に重ねた。
「雅ちゃん、身体がすごく熱い。」
私は実際、体温が低いはずなのに、全身が熱くなっているのを自分でも感じていた。けれどそれは、夏の暑さのせいではなくて、興奮のため燃えている心のせいだって分かっていた。そして、私が手で香織の頬に触れれば、私の手の熱のためか、彼女の身体が思ったよりも冷たいことに気がついた。
香織が私の胸もとに顔を埋めて言った。
「これで私達、恋人同士だね。」
「うん。」
「もっと早くにこうしてれば良かったんだよね。そうすれば私達、もっと早くに、本当の恋人同士になれたんだよね。」
私は香織の発言に、彼女が私と身体の関係を持つまで、私のことを本当の恋人と認識してくれていなかったことを知った。そしてまた、裸で抱き合うことが、香織にとって私達が恋人である証明になることを知ることができた。私は香織と身体の関係を持つことで、私はやっと、香織の恋人になれたような気がした。私は香織とのセックスに、友人と恋人との狭間にある境界線を見出だすことができたのだ。
私はすぐ側にある香織の身体を強く抱きしめた。そして彼女の目を見て尋ねた。
「後悔はしてないの?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「私、女だから。香織、こういうことするの初めてだよね?」
「雅ちゃんは初めてじゃないの?」
「私ももちろん初めてだけれど……」
「じゃあ、一緒だよ。」
「私はレズだから。」
私はこのとき、夏休み前に繁田君が私に言ったことを思い出して、普段、自分では決して口にしなかった二文字を、自分を戒めるかのように口に出した。この時、少し泣いてしまいそうな気持がした。
「そんなこと関係ないよ。」
香織は視線を柔らかい敷布団に落としてそう言った。香織の言葉を受け止めた布団は、言葉の重みの分だけ窪みを作ったかのような気がした。私は彼女に再び終わらない口づけをして、また、長い間、お互いの身体をお互いの様々な感情を込めて抱き締め合った。そしてまた、部屋の中で籠る、荒い吐息と甲高い声とを夏の汗がべっとりと濡らした。香織はセックスの初めから終わりまで、羞恥心からか緊張感からか、何かに逃れようとするみたいに、私に身体を触れられたときは目を瞑っていた。

私はこの日以来、毎日、香織の家に行った。そして毎日、彼女とセックスした。私はそうすることで、香織の恋人として自分に自信を持つことができたし、香織が私の恋人であるという、余りにも淡く思われた事実を、はっきりと決定する証明にもなった。私達は裸になって触れ合うことで、お互いが恋人であるという確信を持つことができた。私が新たな愛の形象化を覚えてからというもの、私は偶に学校の先生でいる、カフェイン中毒者かのように、彼女の身体を求めるようになった。私はそれからというもの、香織とはセックス以外何もしなかったし、それだけで私の精神は満たされた。私は愛と幸福の全てを、性による末永い酩酊的快楽の絶頂と同一視した。
私は香織の部屋に入れば、すぐに彼女をベッドに押し倒すようになっていた。もはや本能に逆らう術を知らない猿並みの理性で、私は恋人の身体に自分の身体を摺り寄せて、目には見えない愛を、幸福といった脳波を作り出して、それで私の頭の中を充満させた。けれど私は、香織の心の内を何一つ想像しなかった。香織の心は果たして、私同様に満足していたのだろうか。私は私自身歯止めが効かないほど、彼女の身体の柔らかさに夢中になっていたとき、彼女の心、彼女の思っていることに何一つ気が引かれなかった。それどころか私は、香織には繁田君という好きな人がいることさえも忘れていた。だから私は、彼女に繁田君のことを一度も尋ねなかった。後になっても私は、本当にあのとき、繁田君の存在を忘れてしまっていたのか、それともただ、彼の存在を自己都合のために消し去っていたのかが分からなかった。要するに私は最も大切なことを彼女から聞き出せずにいたのだ。香織が繁田君という異性に対する、自然な本能的愛よりも、私、熊倉雅という同性に対する反自然的な恋愛的愛情の方が、繁田君のことを諦めきれるほどの強い感情であったかどうかということを。


夏休みは束の間に半分を過ぎた。もう来週は、毎年八月の二十日に実行される、私にとって大切な花火大会の開催予定日だ。それは、私が香織に告白をした日。そして、香織が私の恋人になった日だった。
私は今日も香織の家に向った。私は自宅に一人でいるときの、愛する人の肌を感じられない、寂しくて冷たい自分の胸が嫌でしょうがなかった。香織を抱き締めたい。香織の肌の温度を感じたい。もう私の頭にはそれしかなかった。私は今まで、愛は目に見えない高尚な精神だと思っていたけれど、この時の私にとって愛は、目で実際に見られる体感的で、より現実的なものになっていたのかもしれない。私は常に彼女の身体を求めた。毎日、朝から晩まで四六時中、生れてきたままの姿の香織のことだけを考えていた。私の手が思わぬところを触れたときの、彼女の口から洩れる喘ぎ声が、私に絶対的な独占感を与えた。私はきっと、夏休み中ずっと、毎日欠かさずに彼女を求めるに違いなかった。

香織の家に着いた私は、もはや機械的に香織の部屋のベッドに、彼女と二人並んで腰を下ろしていた。そして私はいつものように、香織に長い口付けをしようとして、彼女の唇に顔を近づけようとして、ぼっと欲求に酔ってとろんとした目で彼女を見つめた。すると香織は気まずそうに私の目から視線を床に逸らして、申し訳なさそうな表情をし、落ち着きと焦りを絶妙に交えた冷淡さで、私に言葉を投げかけたのだった。
「雅ちゃん、大事な話があるの。」
私はその言葉を聞いたとき、どれ程、嫌な予感に襲われたことだろう。私はこの部屋から走って飛び出るかのような気持ちで、彼女に何も返事をせず自分の膝元を見て黙っていた。
「雅ちゃん。私、雅ちゃんに言わなければいけないことがあるの。でも、これを言ったら、雅ちゃんは怒ると思う。きっと私のことを軽蔑すると思う。でもね、私、雅ちゃんには嘘を付きたくないから、全部言ってしまおうと思う。
雅ちゃん私ね、繁田君とお付き合いすることにしたの。私達、昨日からもう付き合っているんだ。私から繁田君に告白したの。最低だよね。分かっているよ。私には雅ちゃんがいるし、恋人がいるのに恋人を作るなんて、正気の沙汰じゃないよね。私、雅ちゃんに何と罵られようが、それは仕方ないことだと思う。けれどね、これだけは分かっておいて欲しいの。私ね、自分でも最低なことをしたって分かっているの。でも、そこまでして、終わりにしなくちゃいけないって、そう強く思ったことがあるの。
私、もう雅ちゃんと、こういう性的な関係は終わりにしたかった。勘違いしないで欲しいのは、私が雅ちゃんのことが嫌いだからとか、好きではないからとか、そんな理由だからじゃないよ。むしろ、雅ちゃんのことが大好きだからこそ、私はこの関係を終わりにしなくてはいけないと思ったし、私は雅ちゃんを裏切ってまで繁田君と昨日、お付き合いしようって決めたの。だから雅ちゃん、私と恋人としては、別れて欲しい。」
私はずっと、デニムの素材に包まれた自分の膝元を見つめながら、この瞬間から元恋人となった香織の話を聞いていた。私は香織の言葉をまともに飲み込むことができなかった。それに彼女の言葉をそのままお腹に飲み込んでしまったのなら、私の身体は悲痛というギザギザの棘状のもので、驚くほど大きく膨れて、私は血だらけになって死んでしまうと思う。私は香織の話から耳を背けるために、まるで銅像と化して、全く動かないまま、何故か消えてくれない聴覚の余力で、彼女の言葉を追っていた。そして香織は、私が何も話し出さないのを悟って、一人手に次々と言葉を発した。
「エッチなことをしようって、言い出したのは確かに私だよ。今でも私はあのときの私を許せずにいる。どうしてあんなこと言ったんだろうって。あの言葉のせいで、後から雅ちゃんを余計に傷つけるのを知っていたのに。ならどうして、あの日の続きをしたいだなんて言ったのかだよね。私、前にも言ったけれど、本当に雅ちゃんのことが友達として大好きで、雅ちゃんのことは唯一無二の親友だと思っているの。けれど、雅ちゃんは私のことをそうだとは思っていない。雅ちゃんは、私のことを恋人だって、そう思って愛してくれたの。私、雅ちゃんが愛してくれていることが、自分でもすごく分かっていたし嬉しかった。けれど、その反面、怖さも出てきた。私ね、雅ちゃん程に雅ちゃんのことを愛せないって、そう感じていたの。だって私には女の子の雅ちゃんに恋人としての愛を抱くのって、絶対に無理だから。でも、それでも報いたかった。私を愛してくれている雅ちゃんの愛に報いて、雅ちゃんを傷つけることをしたくなかった。けれど、その気持ちを持てば持つほど、雅ちゃんのことが恋人として愛せなくなるの。だって、私の自分に必要としていた愛は、余りに偽善的で不自然で義務的なものだったから。そんなのって、本当の愛じゃない。言ってしまえば、偽物の愛だって、私はそう思った。これは去年の頃から感じていたの。
私は花火大会の日、雅ちゃんに告白をされて、ちゃんと断っておくべきだった。あの日は、ただ雅ちゃんを傷つかせたくなかった。けれどその考えが、雅ちゃんをもっと傷つかせることになってしまった。最低だ、私。」
そのとき、香織はぼろぼろに泣いていた。両手で涙を拭っては、両手を雨上がりの後よりもひどいくらいずぶ濡れにしていたのだった。
私は香織の泣き顔に同情的な心を一切持つことなく、ただ思い通りにならない欲求心の苛立ちから、腹立たしげに声を荒げて言った。
「香織は私のこと、大好きなはずだよ。だって、大好きじゃない人と、何回もセックスできる訳ない。それとも香織は、好きでもない人に身体を許すの?それに私、全部知っているんだから。香織、私に触られて感じていたよね?だって、声もすごく出ていたし、それに、物凄く濡れて」
「やめて!」
香織が涙声に私の話を遮った。そして、私の顔を向いてきたから、膝元を見ていた私は、涙に濡れている視線に横目で気づいて、彼女の目に顔を向けた。
「私、雅ちゃんに感じてなんかいない。違うの。私、最初から雅ちゃんに嘘をついた。雅ちゃんと初めてエッチしたとき、私は雅ちゃんに全身の素肌を、誰にも触れられたことのないところを、雅ちゃんが優しく指を添えたとき、私、すごく気持ち悪くなって、我慢できなくなった。今自分が、女の子と裸同士になって、自分の身体を託しているって思ったら、一気に越えてはいけない線に足を固めてしまったような気がして、自分がもう二度とそこから引き返せないような気がして、とても、とても怖かった。だから私は目を瞑って視界を閉ざした。それで雅ちゃんの存在は完全に私の目の前から消え去っていたの。」
「目を瞑っただけで私の存在を消せるわけがない。香織が目を何秒閉じていたって、香織に触れているのは私なんだし、結局、香織は私の肌を感じていることになるよね?」
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
香織の涙声は変わらず、彼女はは身体の力さえ失くして私の腕に崩れ落ち、香織の涙のせいで私の服の側面は濡れていた。私の二の腕を包む衣に、小さな海が沈んで隠れた。そして私の毛穴にその涙は居場所を落ち着けたようだった。香織の涙がとても冷たい。
「どうして謝るの?」
私は騙されても良いから、香織に何も言って欲しくなかった。どうせこれから香織が言葉を連ねて語る真実が、私にとって惨たらしく、私の脳内にある幸福感に関連する全ての物質を、容赦なく壊されることを予感していたから。幸福とは、何て脆くて壊れやすいものだろう。幸福は色々な色に光り輝くが、それは幸福が透明色の硝子のように、どの様な色にも綺麗に染まるからであって、幸福はその硝子よりも繊細で傷つきやすく割れやすかった。
香織が私の腕に顔を埋めて泣きながら、私の着ている服の繊維に、香織の感情を吸い取られながら、その果てのない涙に訴えて、私に真実を話した。
「私ね、目を閉じているときにね、何を考えていたと思う?」
私は正直、ほぼ直感でその答えが分かったような気がしたけれど、それでも、自分を傷つけないために、分からない振りを自分にも香織にもしていた。
「そんなこと、分からない。」
「私ね、目を閉じているとき、繁田君のことを考えていたの。今、私を抱き締めてくれているのが、繁田君だと思って、雅ちゃんとああいうことをしていたの。そして身体が変な感じになってきて、意識が朦朧としてくればしてくるほど、私の想像していた繁田君がより、現実的なものになった。そしてね、想像上の繁田君が現実に近づけば近づくほど、私、身体を触れられるのが気持ちいいって、そう思った。でね、私は気づいたの。私がエッチなことをしたい相手は、雅ちゃんじゃないんだって。私がそういうことをしたい相手は、繁田君なんだって気づいたとき、今私がしている恋愛は、私のしたかった恋愛じゃないんだって思った。
私、雅ちゃんとああいうことをしたって、何にも感じなかったの。きっとそれは、雅ちゃんが女の子だからで、私は同性の友達とエッチなことをしたって、何にも感じることができないんだって分かって、私は好きな男の子とこういうことがしたいって思った。
雅ちゃんには悪いって思ってる。本当に悪いことをしたって自覚しているの。でもこれ以上、自分にも雅ちゃんにも嘘を重ねたくない。だって、私は雅ちゃんに対して、恋愛感情を一切持っていないから。今までの私達の恋愛はね、私にとっても雅ちゃんにとっても、偽物の恋愛だったんだよ。だからね、これからは友達でいよう?私と雅ちゃんが恋人でなくなったって、私達が大の仲良しであることに違いはないから。」
香織が話し終わるとき、彼女は自分の口から出す言葉の熱気に涙を全て蒸発させていた。
私はまさにこのとき、悲劇の主人公より他、何者でもなかった。私は心から大切にしていた何もかもを、今日の一日だけで全て失くしてしまった。
「香織がレズに生まれてきてくれれば良かった。」
香織は何も言わなかった。はっきりとした両目は、それがいつもよりも小さく見えるくらいに、弱弱しく俯いていた。私は彼女を見て、その小さな、女の子らしい嫋やかな花のように可愛らしい身体で、私の絶望を慰めて欲しいと思った。そして私は、彼女の身体を両腕で包んだ。そして小さな片耳に口を添えてぼそぼそと私の気持ちを伝えた。
「私達の恋愛って、きっと最初の日から偽りのものだったんだよね。私は別に香織に対して何も怒っていないよ。けれど駄目なの。例え香織が私のことを愛していなくたって、私は香織のことを愛しているから。だから、心は私に向かないでも、香織の身体だけは私の思いのままにさせて欲しい。どんな形でもいいから私は香織と繋がっていたい。それが偽りであっても構わないから。」
私はそう言って、彼女の耳を咥えた。すると彼女は、両手で私の肩を押して、怒ったかのように言った。
「雅ちゃん、おかしいよ!絶対におかしいよ!」
香織なりに必死に叫んだのだろう。けれどこの時の私に彼女の思いは届かなかった。私は今までに出したことがないくらい、両手力いっぱいに、香織の頭を捕まえてキスをした。もうこれが最後といわんばかりに、何度も何度もキスをした。彼女は両手で私の身体を押して、私の乱暴から逃れようとしたけれど、彼女はひ弱だし、私に力で及ぶことは絶対になかった。キスが深まるうちに、香織の抵抗も激しくなって、彼女は嫌悪と恐ろしさに何度か怒りを口にしたけれど、香織も次第に、もうどうにもならないと判断したらしく、反発に疲れ果てた精神と肉体を、感情を殺して私に預けてくれた。
私は余りの興奮のため、強引に入れた自分の舌先が彼女の口に吸い込まれてしまいそうになった。そして私はいつの間にか、彼女の衣類を脱がせようとしていた。
「それだけはやめて!私、もう、恋人がいるの!お願いだから!」
「恋人がいるのにも関わらず付き合ったくせに。」
私が憎たらしく香織を非難すれば、もう彼女は反応することもなく、今にでも泣き出してしまいそうな、不幸と後悔とを表情に出して、ただ、私の欲求を満たす道具のように、何も言わず私の思う通りになってくれた。私はこの日、初めて自分の性の乱暴さに任せて、ただ、自己満足のためだけに、私の大好きな友達の身体を侵した。この時の私に、香織の精神を見つめる視力など持ち合わせていなかった。彼女の身体を、私の失くしてしまった全ての不満の欲求のため、どれ程に強く抱きしめても、愛に飢えた指で彼女の身体のどの部位を触ろうと、彼女の心は私には見えないところにあった。
私はこれが香織との最後のセックスであることを、充分に理解をしていたと思う。だから私は、相手を傷つけないための理性を全て投げ捨てて、自分のために、自分の叶わない安らぎが残した傷を癒すためだけに、彼女の身体を自分のものにした。私に全身を思うがままに触られる香織は、時々、私の名前を呼んだ。その時彼女の顔を見てみれば、彼女は罪悪感に苛まされている罪人のように、運命に対する悲嘆を、涙よりも透明で私の目では詳細を確認できない雫を、彼女は瞳から零しているように見えた。彼女はいつもと違って、行為中ずっと目を開いて、私の存在を、その対象に向けるどの様な感情からかは分からないけれど、しっかりと私の像が視界から零れ落ちて漏らすことのないように見つめていた。

何もかもが終わった後、彼女はすすり泣いていた。裸の彼女は、私に見られていることも気にせず、何で身体を隠すことなく、座り込み両座に頭を当てつけて泣いた。私はそれを裸で正座したまま、唖然として見ていた。
「どうして泣くの?」
「こんな関係になりたくなかった。私はずっと雅ちゃんと普通の友達としていたかった。」
私は完全征服という、すぐに過ぎ去るだろう満足感のあとの余韻に浸るばかりだった。私は彼女に対して雀の涙程も罪悪感による、心の血を流すことができなかった。だって彼女の涙はもう、繁田君のものでしかないから。涙は身体とは関係のあるようで、実は精神に一番関係しているものだから私は、私を愛してくれない彼女の精神を気に留めようとは思えなかった。これはきっと、今までに悪い気持ちの塵の重なりで作られてしまった山のせいで、私の身体をその山の中に埋まってしまい、いつの日かの健全な精神を失くしていた。もう、悪い塵に自分の良心が窒息死してしまったんだと思う。そして私は彼女が泣き止むのを待った。泣き終えた彼女は目を真っ赤にしながら叫んだ。
「帰って!」
だから私は服を着て、彼女の家を出ることにした。まだ外は明るさと蝉の喧しさのせいで、夏の空は海の色にも負けていない。

この日の晩、私の携帯に香織からメールが来た。内容は以下の通りだった。
「もうあなたとは友達でいられません。一生、連絡をしてこないで下さい。」

私はこの日以来、もう香織と連絡がとれなくなった。一度、彼女の家にも行ったけれど、香織は家から出てきてくれなかった。そればっかりか、香織の家に行った日の晩、繁田君からメールが来た。
「もう香織に構うな。度が過ぎれば俺だって黙っていないぞ。」
私はそんなことを言って香織を守ることができる彼が羨ましく思った。そしてまた、彼のメールがきっかけで、私が今香織にとって悪役になっちることを私は悟った。


花火大会の当日、私は消えることのない喪失感と、更に姿を現す欲求心とに、神経が冷たい炎に燃やされていうかのように、身体全身に憂鬱感と動揺、気怠さと動悸を張り巡らして、目を覚ましてからずっとベッドに横たわっていた。私は理性が狂気に飲み込まれた、または理性が狂気と化した精神で、今日私が取るべき計画を企んでいた。
 私は今日、繁田君を殺さなければいけない。繁田君を殺して、私の愛する香織を彼から取り戻さなければいけない。私はそのことだけを一日中、まるで娘を変質者に誘拐された親のような、不安と苛立ちを両手で乱暴に握りしめて考えていた。だって私は香織を愛している。そして彼女のことを世界で一番に愛しているのは私で間違いはないはずだ。私にとって香織と共にいる時間は、絶対的に不可欠なものだった。私にとって香織を愛するということは、それが私の生きている理由と言っても過言ではない程、それが私の生の本分であった。要するに私は、彼女が私の側にいてくれることによって、華奢で幼く見えてあどけなさが残る、私の愛する香織が恋人としていてくれることによって、私は自分が生きているという、地に立ち、空に見守られているという、自分の存在感を今まで見出だしてきたのだった。しかし繁田君に香織を奪われた今、私は自分の存在意義を失くしてしまい、私の脳内にある一部の組織的なものが破損して、私は香織がいないという、もう香織が私の恋人ではなくて他の異性の恋人であるという目の前の事実に、生きていくことへの欲求を失くしてしまっていた。そして私はこのままではいけないと、枯れ果てた心の土地に、褐色の葉ですら一枚も残っていない、涙の酸っぱさで朽ちてしまった大木に、春の訪れる前の胸が高鳴るような、愛を内にたっぷりと含めた蕾を取り戻してやらなくてはいけないと思っていた。私はその最善の術が、繁田君の胸を包丁で一刺しすることだと考えたのだ。
この時の私は正に病的で、きっと自分が計画する事の先に待つ未来などというものは、激情的な利己心に歪められて、私の意識下にはっきりとした形で表されていなかった。なんせこの時の私は、自分が繁田君を殺すことによって、私の愛の偉大さが、熊倉雅の佐藤香織に対する愛の絶対さが、彼女に分かってもらえるはずだと本気で信じていたのだから。私は香織に自分の愛する気持ちを教えて上げようと思った。繁田君を殺すことによって、私は彼よりも香織のことを愛していることを証明しようとしている。私は香織に私の高尚な愛を認めてもらうためにも、必ず彼ら二人を、二十万人の中から見つけ出さなくてはいけない。

時は花火が打ち上げられる約一時間前となり、私は一階にある台所で夕食を作る母に、家を出ることを告げた。父は家にいなかった。
「あら、まだ家にいたの?もうとっくに家を出ていたものだと思っていたのに。」
母がそう思うのもきっと無理はない。私はずっと、自分の部屋で息を殺していたのだから。
「今から出るの。」
「今年は浴衣じゃないのね?去年のやつをまた着ればよかったのに。あれ、可愛かったから。今年は香織ちゃんも浴衣じゃないの?」
「そうだよ。あれだけ人混みがひどいと、浴衣は暑くて仕方がないの。」
「大事なのは風情よ。」
私は母の言葉に薄ら笑いをして、母に背を向けた。今日の私の格好は、白いシャツに半袖のデニムのジャケットを重ねて、夜の色彩のマジックに姿をなくすだろう黒のパンツと合わせていた。そして私は片手に、最近ずっと使っていたポシェットの代わりに、去年使っていた大き目のトートバッグを握りしめていた。理由は言うまでもなく、包丁を鞄の中に忍ばせるためだ。包丁は昨夜、家族の者が皆寝ているのを確認してから、真夜中の色をしたトートバッグを手に、台所の物を盗んだ。台所の開き扉の裏に、包丁を収納するための差込口があって、確か四本くらいのナイフが収納してあって、その中から一本を私は抜き取った。それを抜き取るとき、刃の尖端が電球の光を反射して、私は普段、料理に刃を用いる時とは違う、刺々しい緊張感にお腹の中を痛めつけられた。高鳴る胸に頭がくらっとして、開かれた収納庫の中に吸い込まれそうになった。私は鋼の色をじっと凝視した。そして、刃の表面を人差し指を縦に滑らせた。刃は冷たかった。刃に触れる指と同時に、私の背筋も冷たくなったのを、私はしっかり意識したのだった。

家を出れば、もう六時半を越えていたけれど、まだ外は微妙に明るかった。屋台が並ぶところまで、私の家からは徒歩十分程で行ける。私は先程から止まらない動悸に困り果てていた。自分は本当に自分の考えを行動に移すのだろうか?いくら失恋で頭がおかしくなっていたからって、人を刺せばどういうことになるかくらいは分かっていた。私は即、見知らぬ誰かに差し押さえられ、夜の蝉時雨かとばかりに、パトカーが数台、サイレンを鳴らしてやってくるだろう。そして私は逮捕される。それが私や家族の者の未来に、どういう影響を及ぼすかも、それくらいは考えついているつもりだ。私はそれでも、繁田君を刺すつもりなのだろうか?私は家からいくつもの屋台が並ぶ大通りに出るまでの十分間、ひたすら狂人と化した熊倉雅に、微かに残る理性の欠片を片手で強く握りしめ、終わることのない自問自答を続けていた。そして手に強く握りしめた硝子の破片のように鋭い理性の欠片に、手の平は真っ赤になり、大量の血が溢れているようだった。
私に残された微かな理性までもが、正しい私を傷つけようとする。もう、私には悪徳しか残っていない!私は自分の運命を理解した。私は、繁田君を刺すことでしか、自分の失恋の悲しみから逃れられない。それがどうしてなのかという、根本的な訳は一切分からなかった。けれど、彼を傷つければ、私の精神は少し癒されるだろうという、自分でも意味の分からない自信があった。
私は復讐者なのだろうか?でも、誰に対して?繁田君?それとも香織に対して?いや、そもそも私の殺人未遂に当たる計画の動機として、復讐だなんて考えはこれっぽっちもない気がした。私は第一に佐藤香織に、私の彼女に対する愛情の偉大さを、自分の人生さえも恋の炎を大きくするための紙屑とする、熊倉雅の佐藤香織に対する嘘偽りのない純粋な愛を彼女に感じ取って欲しかった。そうだ。だから、私は行動に移す。もう、何も怖くない。私は、私の愛を好きな人に確証するために、私の好きな人の彼氏の血の雨を、黒いアスファルトに降らせようと誓った。

私はいつの間にか屋台の並ぶ大通りに出た。右にも左にも長い屋台の列が続いている。通りは大勢の人で賑わっていた。私は辺りをざっと眺めた。そして、私は二人がいないことを確認して、安堵の溜息を吐き出してしまった。私は心の中で漠然とする破壊衝動の闇に混じる、潔白さを装った悪事に対する怖れが、真っ白い霧のように漂っていることを認めていた。私は繁田君を殺してしまうことに対して、強い欲求と、その欲望の塊と同じ大きさ程の恐怖を抱いていた。もしかしたら私は、彼等を見つけたとしても、何もせずに見て見ぬ振りをして何処かへ行ってしまうかもしれない。けれど、それでは私の自負する香織への愛は、私の空想の中だけのものになってしまう。私は今日、照明しないといけないのだ。何が何でも香織に、私が彼女のことを愛していることを、私の愛の真っすぐさを、香織に分かってもらわないといけない。そうだ。私は刺す。私は彼を刺して、ここに、誰も越えることができない永遠の愛を立証する。
私は右に曲がって、一人、人混みの中をきょろきょろと見回しながら、右肩には包丁の隠されたトートバッグを、そして右手左手には、冷や汗を握り締めた。手の平の汗は、私の熱くなった肌に温められた挙句、興奮による震えに振動して、きっと忙しないに違いなかった。
屋台は道の両端にみっちりと並んでいた。屋台が挟む道というのは、普段は車道であるので、車二台が入る程の間隔がある。その中に、人がみっしりと詰まっているものだから、浴衣だなんて着ていたら、いくら夜だからといっても、人混み特有の蒸し暑さに身体は火照ってしまう。去年の夏、浴衣が熱くて仕方なかったのを思い出すと同時に、私は幸せだった頃の記憶を思い出してしまった。ただ、片思いに溺れていた私は、叶わないだろう恋に息を苦しくしながらも、恋が実らないからこそ感じられる初々しい幸福に、あの頃の私はどうして気が付かなかったのだろう。香織の言う通り、私達は付き合ってしまわない方が良かったのかもしれない。人は冷たさを伴わない感情の水に溺れてしまったとき、そこから逃れること諦めて、息のできない苦しさに耐えて慣れてしまった方が、後から感じる身体の安定した温かさに安心してしまうのかもしれない。
私はずっとずっと右車線の道に沿って歩いた。屋台はずっとずっと先まで伸びている。私は屋台の横幕には目もくれず、ただ、反対側から歩いてくる人の顔をひたすら確認していた。たまに、地元の友達や同じ高校の子達も見かけたけれど、そんなことはどうでもよかったし、気づかない振りをしていた。そして歩き続ければ、屋台の切れ目が見えてきた。そして私の頭の中には、一つの考えが浮かんだ。私は香織たちがこの花火大会に来ていると思い込んでいるけれども、それはもしかしたら私の予想に過ぎず、二人はこの花火大会に来ていないのではないだろうか。私はそう考えると、何故か急に、積み上げてきた覚悟の積み木が、バラバラっと崩れてしまったかのように、高い思いの壁が消えてしまったことにほっとしてしまったのだった。
道の両端に屋台がなくなったから、私は今歩いてきた道を引き返そうと後ろを向いた。すると、前方から私を呼ぶ声がした。
「熊倉さん?」
数人の浴衣を着た女子が、私の方に向って歩いてきた。
「本当!雅ちゃんだ!」
「久しぶり!雅ちゃんとは卒業以来だね!」
目の前には四人の女性がいて、皆、中学生の時の同級生の子達だった。
「熊倉さん一人なの?」
「いや、友達と逸れた。」
そして名前も覚えていない、黄色の浴衣を着た子が、今の私が一番聞きたくないことを口走った。
「そういえば、さっき香織がいたよ!結構、イケメンな彼氏と手を繋いで、すっごく良い感じだった!」
「香織ちゃん彼氏できたんだね。何か意外かも?」
「香織ちゃん、すごく幸せそうだったな。」
「何か妬いちゃうよね?」
その発言で皆がどっと笑った。
 「どこで見かけたの?」
 私はまじまじと彼女たちを見つめて、含み笑いの一切ない、真剣な声のトーンで尋ねた。私が思いの外、深刻そうな表情をしていたのか、皆の表情からは笑顔が消えて、戸惑いの引き笑いが代わりに現れて、一人が、私の今から向かおうとする方向に指を指した。 
「ずっと真っすぐの、クレープ屋の屋台で見かけたの。もう先には、屋台がちらほらしかなかったから、かなり奥の方だったと思う。」
 「ありがとう。」
私はお礼を言って歩き始めた。

私はずっと歩いた。運命の時をただ、ひたすら待ち続けて、鉛がついているように重たい足で、無理やりに一歩一歩を踏み出した。
全身の汗がすごかった。もう、倒れそうなくらい身体が熱かった。おでこに片手を置いてみると、すごい熱が感じられた。頭がくらくらとして、もう呼吸をするので精一杯だった。私は失神してしまいそうな不安に襲われた。もうこれ以上歩けない。けれど運命の瞬間はやってきた。
 どれくらい歩いてきたのだろう。私から見た右側の、反対車線から、香織と繁田君が歩いてきた。
私は脳が全身を張り巡る神経の熱さにくらっとするために、目の前の現象が夢のように感じられた。しかし確かに向こうから二人は歩いてくる。私の胸の動悸は今までにスイッチが入っていなかったかと思われるほど、ブンブンと回転しだして、トートバッグの中の刃物の柄を握りしめた手が震えた。私は走って行こうと思って、まだ十メートル程向こうにいる香織を見た。するとそのときだった。私の視界には、まだ遠くにいながらも、今までに私に見せたことがないような、恋の初々しさと心地よさとに抱き締められた、繁田君と握り合う手の中に愛しさをたっぷりと詰め込んだ、幸せそうな香りの表情がそこにはあった。香織は繁田君の方を向いて、何か恥ずかし気に語り掛けて、控えめに笑っていた。
私は足が急に動かなくなって、そのまま立ち留まったまま、やってくる二人を見つめていた。私の心にはこの時、今までに感じたことのないような、気持ちが、考えが生れていた。それは、今までの私には到底理解できないような、私の恋愛に対する満足感だった。それは今までに感じたことがないもので、私は新しく発見した自分の恋愛観に驚愕した。
私はピクリとも動かない両足で立ち止まり、こちらに向かって歩いてくる佐藤香織をじっと見つめた。私はこのときになって初めて、香織が去年と同じ浴衣を着ていることに気づいた。もうこの時、辺りは暗くなっていたけれど、色彩の強い彼女の浴衣は一際に目立っていた。その眩しい浴衣の彩度が、自分と彼女の間にある、大きな隔たりを作ってしまっているような気がした。
私はだんだん縮まってくる彼等との距離にはっと気づいて、慌てて、地に深く根を張った雑草を引き抜くような心持ちで、足一杯に力を動かして、彼等に私の姿が見られないように、左側一杯に寄った。けれどこのときもまだ、左手にはトートバッグを持っていて、右手は包丁の鞘を掴んだままだった。
 香織が近づいてくる。香織の顔がこちらに近づく程に、私は彼女の醸し出す、幸福という雰囲気をしっかりと読み取ったのだった。そして、私が香織の幸福を感じる程に、私の魂は彼女から離れていくような気がした。
 そうだ。私は香織のことが恋愛の対象として大好きだけれども、彼女が私と同様の気持ちで愛しているのは、男の子である繁田君だ。その対象は間違っても、彼女と同性である私ではないはずだ。
 繁田君は灰色のカーディガンに青色のスリムパンツを合わせた、学生風のラフな格好だった。彼は堂々と胸を張って、香織の右手を握りしめていた。そして時々、彼女の方を向いて小言を呟いて、二人でにっこりと微笑み合うのだった。二人は手を繋ぐ喜びに素直になって、きっと心はふわふわと、綿飴のように柔らかく、甘くなっているに違いない。そして私は、彼等が私に気づかずに横を通り過ぎたことを、二人が視界から消えてから気づいたのだった。
 私は二人を追うことはせず、ずっと立ち止まって、幸せそうに微笑む香織を思い出していた。きっと私の周囲の人は、私のことを不思議に思っていただろう。なんせ、横になれずに死んでしまったかのように、その場で固まってしまって一歩も動かないのだから。
 「お姉ちゃん体調が悪いのか?」
 横から屋台を商っている、もう子どもが二人か三人はいそうな、少し顔の厳つい男性が私に声を掛けてきてくれた。
 「いや、大丈夫です。」
 私はぼそっとそう言って、右手を柄から離しその場から離れた。
 私は何処を目指すことなく足を動かした。どうして私は繁田君を刺さなかったのだろう。一体、私の心に、どの様な変化が起こったというのか。私はまだ目の前に、幸せそうに彼の手を握る香織の姿が、それが消えることない幻影のように、ずっと香織の存在を認識していた。私と恋人であった香織が、きっと一度も私に見せたことのない、余りにも女性的な表情……私はこのとき、初めて彼女が女性であることを知ったような気がした。そして私は、自分が彼女を幸せにできない存在であることを、香織が男の子と手を繋ぐところを初めて見て、痛感させられた。私には香織を幸せに、私と彼女を結ぶ恋愛では、彼女の心を満足させることはできない。私が今までに抱いていた恋愛観が、ただの利己的なものにすぎないことを私は知った。私の恋愛に対する考えは、余りにも自己中心的で、きっと香織の心境だなんて、今まで一度たりとも考えたことがなかった。でも、男子の手を幸せそうに握る香織を見て、私は自分の胸の中に、新しい恋愛観が生れたことを知った。それは全体に棘が付いていて、受け止めるには余りにも痛々しく、けれどそれを放ってしまえば大切な人を傷つけてしまうという、私にとっては辛辣なものだった。私は繁田君を殺そうとしなかった。きっと私は、愛がどういうものなのか、本当に私の心を満たすものは何であるのか、それがぼんやりとながらも、一瞬で、理解することができたのだと思う。私は自分の物的欲求よりも、佐藤香織の幸福感を大事にし、自分の寂しさや孤独感よりも、彼女の幸福に満ち足りる心を、第一に優先し、それが人を愛することだという、新しい価値観で自分の脳内を革新させたのだった。

 気が付けば私は自宅の前に立っていた。
 家に入れば電気が付いていたけれど、誰も人はいないようで、誰かの話し声も全く聞こえなかった。私はすぐさま、玄関口からすぐ近くにある階段を上って、階段を上り終えたらすぐ右手にある私の部屋に入った。

 十
 私は部屋に入って数歩程進めば、地震で割れる窓ガラスのように、その場に壊れ落ちた。そしていつの間にか、両手の拳を床に落としていて、私は自然と土下座をしているような体制になっていた。まるで自分が常に呪っていた運命に許しを請うかのように、私は自分の存在に対して否定的なって、何かをやり過ごしたと狂った神経が叫んでいるみたく、どこからともなく破壊衝動が沸き起こってくるのだった。
 この時の私の心を占めるものは三つあった。一つ目は言うまでもなく、砂糖香織という恋人がいなくなったという、一生消えることのない絶望感と消失感だった。
二つ目は、自分の欲情に関係なく香織の幸福を喜ぶことができた、自分の内に存在する、本当に愛する人に向けられた、美しく綺麗な愛を認めることができた、素直な喜びと誇りだった。しかし一つ目の思いがもたらす苦しみと、二つ目の思いがもたらす感情が、余りにも相対的であったため、私は心の中で痛々しいほどに引き離し合う二つの思いの大きな磁石が、その大きすぎる反発し合う磁力のため、私の心を今でも壊れそうなくらいに痛々しい隔たりを作るのだった。
私は香織の幸福を願っているというのに、今でも香織を攫って監禁したい程の、強欲的な感情に駆られるのだった。私は香織が幸せであればそれだけで自分も喜びを感じられるような、高尚な気持ちを持っているのにも関わらず、私はまた、香織の身体を求める性的なのかどうなのか分からない欲求間に襲われるのだった。私は結局、自分が何を望んでいるのかが理解できなかった。私はこうした、猛烈な精神の錯乱の終わることなき日々を想像しただけで、一瞬にして一生に受ける定めの絶望感の全てが身体に憑依された気がして、現実を見る恐ろしさに心はぎょっとした。
夏休みが明けた学校生活で、公然と恋人として付き合うだろう二人を、私はまともに目をやれるだろうか。私か香織の幸福を愛している自分の気持ちに気づきながらも、私は自分の居場所から遠く離れて笑う香織がいる事実が長期にわたって私の目に映れば、私は果たして正気でいられるか自信がなかった。それに私のこのような感情が、無意識にも心から肌を擦り抜けて教室中に蔓延すれば、きっと私の愛する香織を困らせることになるのではないだろうか。私は今日見た、自分の大好きな人の幸福に浸る笑顔を、誰からも熊倉雅からも奪われて欲しくなかった。そして私はその考えから必然的に、自分の存在の不要さに気づかされた。自分の存在の消滅が佐藤香織の無垢な幸せに繋がることを私は悟った。

 私を煩わせる最後のものというのは、私が繁田君を刺すことができず、香織に愛の立証ができなかった後悔だった。私は繁田君を包丁で一刺しすることで、香織に私の偉大で迷いのない愛の決意を感じてもらおうとした。私からすれば香織に、私が彼女のことを愛していると、この世界で他の誰よりも愛していると理解してもらうことが、繁田君の命よりも私の将来性よりも重要なものになってしまったのだ。けれど私は、澱みない純白な愛の証明をするのに失敗した。私は何が何でもこの証明だけはしておきたかった。そして私は何も考えず、繁田君の血で赤色に染めるはずだった包丁をバッグから取り出した。刃の部分に巻いてある新聞紙を何も考えない無邪気な頭で捲る。そして私の頭には驚くべき企みが生じた。この包丁で私を刺せばいいのではないだろうか?私は自分の腹部を一刺しすることで、自分の死んでしまった恋心に殉死するべきではないだろうか。もし私が死んでしまえば、私は一生香織に対して強欲なエゴを出すことなく、純粋に彼女の未来を願ったまま死ぬことができ、またその敗れた恋に対する殉死が、香織に私の熱い心を立証することになるのではないだろうか。それに、繁田君を殺してしまうかもしれなかった企ての罰に、自分がそれ相応の罪を受けることができる。私は初めからしぬべきだったんだと、完全な敗北感と微小な勝利の酔いに心を支配されながら、死ぬことを決意した。

 私は両手で包丁の柄を持って、刃を自分の腹部に向けた。そして刃と腹部の空間を拳一つ分までに狭めた。けれど私は、死にたいと心では思いながらも、刃が服の繊維さえ傷付けずにいるのだった。私は自分を苛立ちを覚えて責め立てた。私はしを望んでいるわけではない。私は死ななければいけないんだ。自分の失恋に殉死するために、私の香織に対する愛が、自分の命よりも偉大で大きなものであることを証明するために、私は必ず死ななければいけない。

 私が包丁を握りしめたまま、中々決意を実行に移せずにいると、ドンッと花火の音が聞こえてきた。最初の一発目の音が聞こえれば、そこからは二発目、三発目と連続的に大きな音が鳴り響いた。私の意識は天に昇っていく花火の音に乗っかって、どこか遠い所へ行ってしまっていた。「ここはどこ?」私はそう思って隣を見れば、何と、私の側にいるのは私の手を握る香織だった!私は自分でも呆れる程の妄想をしてしまっていた!そして私はぼろぼろと涙を溢した。寂しい。寂しかった。私は香織が隣にいない、今年の花火大会が寂しくて、涙が両目から止まらなかった。
 私は絶望感に似た寂しさから逃れるために、刃を服に触れさせた。すると、何故か肌に刃が刺さった訳でもないのに、服が赤い血で染まっていくように見えた。きっとこれは私の本能的な防衛機能が、自分の狂った精神に死の恐怖と危機感を与えるために違いなかった。私はじっと、温かみのない妄想上の血を眺めた。すると、私の身体全体が血まみれになっていくような気がした。私はその血に汚れ的なものを感じた。綺麗な真っ赤色ではなくて、少し黒っぽくてドロドロとする自分の血に、私はそれがこの世の中で最も醜いような、言葉では上手に言い表せられない嫌悪感を持った。そして私は、自分の身体がその血に汚れていくような気がして、ぞっとして手に持つ包丁を側に置いた。それから私は身体を丸めて床に頭を落とした。そして自分が汚らわしい女であることを運命に暗示された気がして、この世の全てのものを恨むかのように悲鳴を上げて発狂した。
 
 私は花火をどこかで見終えた両親に見つかるまで、ずっと発狂していた。両親が狂った私を見つけてからの話は、情けなさしか見出だすことのできないみっともない話なので、私はここに記そうとも思わない。けれどこの日を境に私の生活が一変したのは事実で、私は学校の代わりに病院に転校することになり、もう高校生活を送ることもなくなった。そして今、私は香織との出会いから十年、香織との別れから六年が経つ私は、もう高校生の頃に住んでいた場所から遠く離れた所に住んでいるし、きっともうこれからずっと佐藤香織と話す機会もないだろう。けれど一つ絶対に変わらないことがある。それは、私が佐藤香織を今も愛し続けているということだ。
 私は香織と出会ってから十年間、ずっと彼女を愛しているし、今でも彼女を心の底から愛している。きっとこの愛は永遠で終わることがないだろう。私は一生死ぬまで、佐藤香織のことを愛し続ける。


 

汚れなき花

汚れなき花

ナルシズムをテーマに書いた小説です。 去年に書いた作品で、賞に落選しましたので星空文庫に掲載させて頂きます。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-10-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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