ぶどうのはなし

ぶどうの香りが風に乗ってきた。

 もうそんな季節になったのかと、茜はプリントを捲る手を止めて、庭に視線を移した。自分が産まれる前からそこに立っているぶどうの木が、今年もぷっくりとした、大きな実をつけている。店で売っているものよりも酸味が多いが、充分に食べられる程度には味も美しいぶどうを実らせる木だった。
 茜はいそいそと庭に下り、いただきますと断ってぶどうを一房もいだ。それを家の中に持ち帰り、水でさっと洗い、枝をちょきんと半分に切り、それぞれを二つの皿の中に置いた。そのうちの一つを、仏間に持って行く。
「今年もぶどうが取れましたよ」
 茜は誰もいない仏間に話しかけた。水滴がついたぶどうが乗った皿を仏壇の前に置き、鈴を叩く。
 チーン。
 凜とした音が仏間に響く。
「お父さん、お母さん、アキ、今年も召し上がれ」
 両手を合わせ、目を閉じながら茜は呟いた。仏壇には、二年前に交通事故で亡くなった両親と、去年老衰でこの世を去った飼い猫が仲良く寄り添っていた。

 昼過ぎになると、小さな子どもたちがやってくる。茜がこの家で、小学校低学年向けの簡単な塾をしているためだ。
 子どもたちは、テーブルの上に置いてあるぶどうを目ざとく見つけた。
「せんせー、ぶどうがある!」
「たべていいの?」
 いいよ、と笑いながら返した途端に、ぶどうに手を伸ばす子どもたち。勉強そっちのけですっぱーい! とあちらこちらで叫び声が上がるので、茜はその度に声を出して笑った。
 こんな山の麓、どこからどう見ても田舎だ。ここに来てくれる子どもたちは少ない。ここに住んでいる子ども自体が少ないのだ。それでもここに来てくれる子どもは毎日のように来てくれたし、皆笑っていた。広い古民家に一人で住んでいる茜には、彼らの笑顔が眩しかった。

 太陽も山の木々に隠れ、赤い闇に包まれる頃、子どもたちは家に帰っていく。それを見送り、さあ今日のプリントを採点しなきゃと意気込んで家に戻ろうとすると、一人の少年が庭に立っていた。ぶどうの木をじいっと見つめている。
 教えている中にあんな子はいただろうか。妙に整った格好をしており、山の中で育ったようには見えない、静かな雰囲気を持っていた。
 声をかけようとした瞬間、
「茜ちゃん?」
 少年の方から声をかけてきた。茜は面食らい、どうして自分の名前を知っているのか、どこかで会ったことがあったか、疑問が二秒ほどで頭の中を駆け巡る。
「僕、ぶどう好きなの。これ食べてもいい?」
 状況が読み込めない中、少年がぶどうを食べたがっているという情報だけ得た茜は、ひとまず彼を縁側に座らせて彼の希望を叶えてやった。

「おいしいねえ! ぶどう好きなのに僕一回しか食べたことないんだ」
「そうなの。……ね、きみどこから来たの? どこかで会ったことあったかしら?」
「わかんない!」
 こんな調子で、彼について聞いてもわかる情報は全くなかった。
 ぶどうをお腹いっぱい食べて満足したのか、少年はくるりと家の中を見回すと、じゃあバイバイ、と言ってあっという間に走り去ってしまった。
 もう暗くなるし見送ろうと思い、茜は急いで追いかけたが、もう少年の姿はどこにもなかった。

 それ以来、少年は毎日茜の家に来た。
 彼が来るのは決まって夕方だった。子どもたちを見送ったと思えばすぐに庭にいるので、自分の教えている子の中に彼が紛れ込んでいないか一人一人よく見たが、少年はいなかった。彼はいつも、いつの間にかぶどうの木の下にいた。
 どうやらぶどうが大好物らしく、甘えてくる姿が愛らしいので、子ども好きな茜はついつい毎日食べさせる。子どもたちが酸っぱい酸っぱいと言って大げさに喚きながら食べるぶどうを、彼は心底美味しそうに食べた。
 やがて庭の木のぶどうを食べ尽くしてしまっても、山から採ってきたよと言って少年はぶどうを茜にくれた。そうして縁側で一緒に食べるのが日課になっていた。こんな小さな少年がどうやって山でぶどうを採るのだろうと思い、お父さんやお母さんと一緒に採ったの? と問うても、少年は曖昧な返事をするだけだった。
 秋も深まり、金木犀の香りが鼻を優しくくすぐっても、少年は毎日やってきた。まだ日の差す時間は縁側の座布団の上ですやすやと寝る日もあった。茜が縁側でプリントを整理しているとき、誤って紙で手を切ったときは、家の間取りを教えたこともないはずなのに、勝手知ったかのように少年は駆けていき、救急箱を持ってきた。

 真っ赤に燃えた紅葉が足元に降り積もっている。
 庭は赤い海のようだった。
 今日は塾はお休みで、茜は昼から縁側に座ってぼうっとしていた。
「茜ちゃん」
 ざっ、ざっと紅葉を踏み、少年がいつものようにやってきた。右手にはひときわ大きいぶどうの房が握られている。
「この山で最後のぶどうなんだ」
 もう秋も終わりだねえ、なんて大人びた口調で話してみる彼に、茜はくすりと笑った。
 ぶどうの季節はもう終わる。
 しかし、この広い山で最後のぶどうがどれかなど、人間の子どもにわかるはずなかった。
「おいしいねえ茜ちゃん、ぶどうおいしい」
 僅かな水音を立てて食べるその姿は、茜が昔から何度も見ていたものだった。
「言ったっけ? 僕ぶどう食べておなかこわしたことあるの。それでもうぶどう食べちゃだめになったんだけど、もう食べても大丈夫みたい。うれしい」
「そっか、良かったねえ」
 茜の声は震えていた。

 太陽が紅葉のように赤くなり、地面に眠ろうとしている。空気はひんやりと沈み、夜の風が鼻をくすぐった。
「じゃあ、僕もう行かなきゃ」
 少年が縁側を立つ。いつもならまたね、バイバイと言って茜は彼に手を振る。しかし今日は振るはずの手を伸ばし、茜は少年の腕を優しく掴んだ。
「待って」
「……僕、帰らなきゃ」
「待って」
 少年は振り返り茜を見るが、茜は俯いたまま手を離さない。彼女の目には、涙が溜まっていた。
「アキ」
 茜がそう呼ぶと、アキと呼ばれた少年は一瞬驚き、すぐに観念したように笑った。
「気付いちゃったかあ」
 そりゃそうか、と言いながら恥ずかしそうに笑う。
 茜はアキの腕から手のひらまで自分の手を滑らせ、彼の手をしっかり握った。
「ごめん」
 茜が声を絞るように呟く。なにが? とアキが返すが、茜の目には、アキが茜の元から旅立った日の光景が浮かんでいた。

 ーーアキがもう長くないのはわかっていた。
 だからなるべく一緒にいるようにした。
 あの日は、こんな風に気持ちいい秋の日だったの。
 アキを見たら、縁側の座布団の上で気持ち良さそうに寝ていたから、安心したの。
 わたしも自分の部屋に戻って、つい寝てしまったの。
 そのときアキにぶどうをあげる夢を見た。
 だから、夕方起きて、最後くらいぶどうをあげようって。
 アキがぶどうを食べて下痢しちゃってから一度もあげなかったけど、最後くらいあげようって。
 日が沈みかけて暗くなった家の中を歩いた。
 縁側を覗いたらもう、アキは冷たくなっていた。

「ごめん。……ごめん、アキ」
 茜のくしゃくしゃに歪んだ顔に、無数の涙が伝う。
「最後……一緒に、いて、あげられなくて、ごめん……」
 アキの手を握る茜の手には力がこもり、泣いているせいか体温がどんどん上がっていった。
「茜ちゃん」
 アキが茜の手をさすった。
「ぶどう、すごくおいしかった。初めてあんなにいっぱい食べた。ありがとう」
 アキは続けた。
「……毎日お祈りしてくれて、ありがとう」
 茜が顔を上げる。涙でぼやけた視界の奥に、アキの笑顔が見えた。
「……アキ」
「茜ちゃん」
 ひときわ凛としたアキの声が、秋の空に響いた。
「幸せをくれて、ありがとう」
 もうこの山にないはずのぶどうの匂いが、一瞬、とても芳醇に香った。茜の手をするりと抜けていくアキの手は、ふさふさの毛に包まれていた。

 茜が目を覚ましたときは、もうお月様が紺色の空に昇っていた。
 ぶどうの香りも、もうしなかった。
 庭の茂みから、リーンリーンと鈴虫の鳴き声がする。

 縁側の座布団に、白い猫の毛だけが残っていた。

ぶどうのはなし

ぶどうのはなし

「……僕、帰らなきゃ。」 山の麓で暮らす女性の元に、一人の少年が訪ねてきた。彼らは毎日一緒にぶどうを食べた。 秋の終わり、少年が彼女に告げたこととは​。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-07

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