ケース・ビットウィーン・コネリー・アンド その②

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=第一章= ンゴイ・バンバ・コネリーの場合
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 私は今までの人生を誰でもない自分のために歩んだことがあっただろうか。きっと、こんな風な問答の最後には「自分とは」などというばかばかしい沼に陥るのだ。大概の場合は、思考の沼に、戯言の腐り場に足を取られてしまう。思考が鮮明なのはものの数分で、その後は考えることが億劫になるほどの遠回りに迷い込み、あげく辿り着けずに力尽きるのだ。物は有限である。生きている限りすべてのものに終わりが来る。私の命が限られた時間しか与えられていないからだ。ああ、頭が重い。初めに思いえがいた理想など、とうに忘れてしまった。今私を動かしているのは、焦燥感、不安、焦りだ。思考が鈍くなっているのを感じる。それが、私を焦らせる。時間がないぞと焦らせる。ああ、私はまだ準備ができていないのに。時間は私を今いる部屋から追い立てて、予定表を睨みつけながら私をたきつける。私は、私のほとんどは、きっとあの後ろに残した部屋にまだおいてあるのだろう。
 それが何なのかわからないほど離れているのに、それをもう二度と手に入れることはできないと知っているのに、私はたまに過去に思いをはせる。本当にどうしようもないのに。選択は私だ。残してきた部屋は私だ。それならきっと、あの時間も私だったのだろう。鈍くなっていく思考に焦燥しながら、私は死んでいくのだ。まだ見ぬその死ははたして私なのだろうか。

 自分が誰かなど当に忘れてしまった私は、己を捨てて収穫の時を待つ。生きとし生けるもの。私たちは(ふくろう)だ。今宵も夜がそこまで来ている。

***

 今日もアリシアは軽快に廊下を歩く。朝露が滴る廊下の窓はアリシアを映すために光を何倍にもして反射させる。黒縁メガネと緑色のブローチを控えめに抑えた紺色のスーツ姿は、レストランで働くときの可憐な彼女からは連想できない。起きたばかりの生徒たちもアリシアに対する反応は鈍い。しかし、そんなこと関係ないと言わんばかりにアリシアは全校生徒に挨拶をする。
 「おはようございます。いい朝ですね」
 授業を受け持たない研修教師であるアリシアにとって朝礼はかけがえのない日課だった。男子生徒は短い挨拶を返す。女生徒は簡単に挨拶を済ませて雑談を始めた。朝の始まりは軽快でなくてはいけない。
 「オハヨウゴザイマス、先生」
 ンゴイ・バンバ・コネリーも教室の中からアリシアに声をかける。

 ンゴイ・バンバ・コネリー。この少年は校内一の有名人だ。この学校を支援している財閥の養子であり、なおかつラタタタムという部族の一員という、複雑な肩書きを持つ転校生だもの、当たり前のことだけど。なにごとにも勉強熱心な彼の態度にはアリシアは好感を持っている。
 「俺、ンゴイ・バンバ・コネリー。好キナ食べ物ハ虫ダ。俺、虫人間」
 転入の際に放った奇才極まる自己紹介のせいでンゴイはつねに男子生徒に囲まれていた。女生徒はというと、そうでもない。金髪のベリーショートに前髪を垂らしたアマンダ・スチュアートが好奇心からンゴイの好きな晩御飯の献立を聞いたときに起こった事件が原因だ。
 「俺、ゲテモノ食イ。ゲテモノ、チカラクレル。ゲテモノ好キ。俺ノ好ミ、トテモ言葉二出来ナイ」
 ンゴイの家庭環境を危ぶむ発言だった。虫人間と来てゲテモノ食い。この少年と日々接している人は、おそらくクリスティだとアリシアは睨んでいる、ひどく歪んだ先入観をラタタタムの民に抱いているに違いない。そして、この事件の噂はコネリー財閥に取り入ろうとする女生徒群を大いに足踏みさせた。語り継がれるうちに献立の話はいつの間にか女性の好みにかわり、あの片言のンゴイがゲテモノに対する熱弁だけはすらすらと語ったという尾ひれまでついた。

 銘々の女子生徒たちには自分は決してゲテモノではないという自負がある。彼に好かれるということは、つまり、自分がゲテモノ認定をされているということなのだ、と彼女たちは理解した。

 そうしてンゴイの自己紹介はアマンダとその他大勢の女子をややこしいスパイラルにいざなった。よって、才色兼備のンゴイはその肩書きにゆえにはやし立てられることがないまま、そっと放っておかれている。本人もあまり顔を見られるのが得意じゃないらしく、安堵していた。なにせ、ンゴイは赤面症なのだ。

 「ンゴイ君、おはようございます。学校は慣れましたか?」
 ンゴイは嬉しそうに返事をする。
 「俺、コノ国スキ。イロンナモノガアル」
 そういえばンゴイ君には今目の当たりにしている文化自体が新しい、と思い出してアリシアの野望が再起する。アリシアが未開の部族に憧れるように、未開の部族のンゴイ君も今の生活に憧れていたのかもしれない。
 「へぇ、先生は嬉しいです。ンゴイ君の故郷にも良いものはあるはずですよ」
 アリシア自身もともと好奇心が旺盛だった。特に人類文化学についてはいろんな気持ちがある。出来るならいま在籍している大学院を卒業した後、ンゴイの故郷にも足を運びたい。そのための資金集めとしてこの小学校に研修として籍を置いていることもあるし、休みの日にはレストランで働いている。彼女の弟はアリシアの無理な掛け持ちにハラハラしているが、本人はそんな苦難などなんのそのだ。小学生の先生としては「良い子は真似しちゃダメ」なオーバーワークではあるけれど。
 「カミサマノ国、俺ノ森デ見タ事ナイモノバカリダ」
 こっちに越してきてもう一ヵ月経つというのにンゴイはいまだに新鮮な面持ちで物事を受け止めている。やはり、若さというのはいい。たまに変な言い回しが入ると驚いてしまうが、ンゴイは親切で正直な少年だ。そんな青少年が自分の文化を理解しようと努力してくれているのを目の当たりにするのは胸に来るものがある。
 「ンゴン君の故郷はどんなところだったんですか?」
 クリスティから聞いているンゴイの情報はラタタタムという部族が住んでいる未開の森があるということだけ。出来れば自分自身で体感したいアリシアであるけれど、思い出したら吉日だったという後悔になる前に未開の地の何たるかをンゴイに直接聞いてしまうのも一興だとアリシアはぱっと判断した。もともと好奇心に逆らえない自分を制御できる性質ではない。
 「俺ノ故郷ハ森ダ。ココト違ッテ」
 「自然以外はなにもない所、ですか?」
 「ソウデス」
 ンゴイは覚えたての敬語でアリシアに応える。
 「楽しそうです」
 
 「え!どこが!?」
 突然会話に乱入してきたのはクラスのお調子者、マイキー・マイクだ。
 「ンゴイは都会を知らなかったからいいけど、俺なんて一週間も田舎暮らししたら発狂しちゃうな!先生もそうでしょ!?」
 マイキーはクラスの人気者の座をンゴイに取られて以来、卑屈にンゴイをつつくようになった。
 「だってンゴイはテレビもラジオも知らなかったんだぜ!?」
 しつこくンゴイの隣で捲し立てるマイキーにンゴイはうんざりする。
 「森ト話セルナラ、キット、アリシア先生モ楽シイ」
 ぱっとアリシアは目を輝かせる。
 「森と会話ですか!?」
 やっぱり!まだ知らない文化がラタタタムにはあって、それが未だかつてない知識を養う土壌になっている。アリシアは平時よりもすこしだけ高鳴る鼓動に気付いて、心臓が飛んでいかないように胸を押さえた。森と会話。それはいかなる意味なのだろうか。

 「森の声が聞こえるっていうのは、どんな感じなんですか?」
 「きっとイマジナリーフレンドだよ。一人で声を作って、一人で返す変な一人遊びさ。ンゴイはまだ子供なんだ」
 マイキーがンゴイを茶化す。イマジナリーフレンドは低学年の子供が作る想像上の友達のことだ。子どもには空想と現実が区別できずに、ぽっと作ってしまった脳内のイメージに現実と似たような反応をしてしまう場合がある。それがイマジナリーフレンドとの関係の始まりだ。
 「変な幻聴が聞こえて来るようにならないといいけどな」
 マイキーのヤジにンゴイは手を横に振った。
 「オババガ森ノ声、ラタタタムノ皆二知ラセル。普通二シテタラ俺モ聞コエナイ、デス」
 アリシアはンゴイの言葉を逃さないように耳を澄ます。きっとオババというのはンゴイの元居た集落のシャーマンに当たる人なのだろう。シャーマンはいろんな儀式を通じて村に助言をする存在だ。不可視世界の存在がシャーマンに乗り移るポゼッションという儀式は人類文化学では有名な話で、交霊を通じてシャーマンは村社会を監督する。これはかつての大国でも使われていたと言われる技術だ。
 「その森の声は、どんな声なんですか?男性なのか女性なのか、それとも聞く人によって変わるものなんでしょうか?」
 最後の質問は少しオカルトじみているが、アリシアは学徒として、しっかり確かめなくてはならない。もはや、現在の小学校の研修教師という肩書きを忘れかけているアリシアだった。
 「森ハ長生キ。ラタタタムノコト、全部覚エテイル。デモ、クチガナイ」
 不意なアリシアの食いつきにンゴイは赤面しながらも応える。
 「困って前言撤回か?」
 マイキーが鬼の首を取ったようにはやし立てる。元・クラスの人気者はいつの間にか卑屈になってしまった。クラスの学生がみんな集まる前だから大した問題にならないが、早朝から最前列に座るアマンダはあからさまにマイキーを嫌がっていた。
 「森ノ声聞ク時、耳ツカワナイ」

 「あー、はいはい。ンゴイは聞こえないんだろ。イマジナリーフレンドがいるなんてバレたら大変だもんな」
 女子の目線を無視してマイキーははやし立て続ける。見かねたアマンダが席から立った。
 「あんた、朝からうるさいのよ」
 アマンダはうっとおしそうに金髪の前髪をかき上げる。それを見てムキになるマイキー。
 「なんだよ、アマンダもンゴイの味方かよ。ちょっと前まで俺のことが好きだったくせに」
 マイキーの三白眼がアマンダを睨む時、ピリッとクラス全体に凄みが伝わった。
 「な、なにいってんの、バカ!」
 アマンダは少し動揺して頬を赤く染める。それをみてマイキーはニヤリと笑う。
 「ンゴイはゲテモノが好きなんだってよ。ピッタリじゃんか」
 大きく開かれたアマンダの眼にはうっすらと水分が溜まり始めている。それほどまでに「ゲテモノ認定」はクラスの女子に恐れられていた。
 「私はちがうもん!ほんっと、見てらんない」
 きーっと怒るアマンダに、ひらひらと躱すマイキー。この1ヵ月で恒例となったひと悶着をした後、二人はやっとそれぞれの席に座る。ンゴイとアリシアは静かにそれを見守った。アリシアはふと我に返って教壇をみる。話に夢中になって自分の教師としての役割を忘れるところだった。
 「先生、アマンダが生理なんだって」
 マイキーは消しゴムをアマンダに向けてひょいと投げる。
 「マイキー君!」
 あまりの粗相にアリシアは声を上げた。現代っ子は知識の割に道徳が足りない。人類文化学と同じくらいに道徳の授業は大切だ。でなければ、知識になんの意味があるだろうか?悪戯っ子に余計な悪知恵を与える以外ないはずだ。
 「マジで、バカ!!もう知んないから!!」
 立ち上がり、アマンダはダンっと自分の机をたたいた。気が付けば教室はちらほら学生が集まってきている。
 「血ダ」
 
 「え!?」
 アマンダが振り返る。自分の席からンゴイの席へと視線を泳がせた。
 「ンゴイ君!!」
 アリシアは信じられないような目でンゴイを見る。
 「血ハイロンナ情報ヲ持ッテイルンデス。嘘ヲツイタリ隠スコトガナイ」
 アマンダは涙目で消しゴムをンゴイに向けて全力で投げる。
 「男子ってほんとサイテー」
 消しゴムを顔面数センチでキャッチするンゴイと泣き出すアマンダ。
 「マイキー君とンゴイ君は休み時間に職員室にきなさい!」
 それを見てさっきまでへらへらしていたマイキーは少し不機嫌になった。
 「でも、ンゴイは常識がわかんないんだからセーフなんでしょ?」
 「本当にいい加減にしなさい、マイキー君!」

 お昼休みの告げるチャイムが鳴る頃、職員室でアリシアは二人を待っていた。問題はマイキーの減らず口だ。ぺらぺらとよく喋るマイキーはたまにふと哲学的なことを口にする。聞き逃しそうになるくらい普段はうるさいマイキーだが、教師として疑問は解決してあげたい。「常識がわからなければセーフなんでしょ」。文化の違いが常識の違いになるとしたら、マイキーの言う通りンゴイはまるで違う世界を生きてきた少年だ。常識もなにも知らないし、誤らずとも常識の地雷を思い切り踏み抜くこともあるだろう。それは断罪されるべきことなのだろうか?普通の教師なら、個人の思想を無視してでもンゴイを責めるだろう。それが出来ないのはアリシアに原因がある。

 「先生は怒っています」
 マイキーとンゴイは時間通りに職員室に来た。白々とトボトボと。二人とも並べてみれば常識の壁など感じない、ただの年相応の少年たちだ。
 「ドウシテ?」
 お互いの常識がかみ合わない場合、どちらかが無理をして受け入れるしかないのだろう。大人のアリシアにはそれができる。そもそも外の世界に憧れがあるアリシアだ。もし、彼女が未開の地の住人と話し合いをする場合なら、憧れがある分アリシアはすんなりと常識をすり合わせることができる。しかし、もしその大人の寛容さをアマンダに強要した場合、異文化共存は傲慢に姿を変える。ここは彼女にとって「勝手がわかる場所」でンゴイは「教えを乞う」立場にあるよそ者だからだ。それがわかっているからアリシアは身動きが取れなくなる。未開の地からきたンゴイなど、よそ者どころかエイリアンだろう。エイリアンに合わせて生きることなど、当たり前だが、いまだ映画でも実現していない。ひと悶着ふた悶着しながら結果的に悪役を倒すことでお互い尊敬し合い、解決するのが映画でよくある手法だ。もちろん、学校内で悪役など作れるはずもない。教師としている自分と学徒として異文化をリスペクトしたいエイリアン好きの自分。人に常識を問う場合、どちらの自分でいるべきだろう。人に教えるというのはとても難しい作業だ。
 「わかりませんか?」
 安易な問いだ。アリシアも知らないことをンゴイが応えられるとは思えない。それはため息に近かった。
 「下品なジョークをしたからっすか?」
 マイキーが職員室の窓を眺めながめると、窓の外では少年少女がボール遊びをしている。ンゴイが来るまでマイキーが一番得意だった遊び。アリシアはそのことを覚えている。
 「あれはジョークとは言いません」
 「ンゴイがバカなアシストをしたからね」
 マイキーの苦し紛れの言い訳にンゴイはシュンとしていた。
 「俺ハ、ジョークシテイナイ。先生ノ質問二コタエタダケ」

 「どういうことですか?」
 アリシアはンゴイに尋ねる。
 「森ノ声、耳カラキコエナイ。デモ、血ヲミル」
 動物の血がかかさず流動しているように、植物の茎には血が通っている。それをラタタタムの呪呪(ジュジュ)は読み解くことができるらしい。呪呪というラタタタムの集落のはずれに住む祈祷師ならば植物の樹液を解析がして、そこからメッセージを受けることができるとンゴイは言った。
 「ンゴイ君はあの時、マイキー君がアマンダちゃんに言ったこと、聞いていましたか?」
 マイキーはンゴイに向けて思いっきりあっかんべーをした。
 「絶対聞き取れてないよ。俺、早口で言ったもん」
 こいつ、俺のこと無視するし。マイキーはボソッと付け足した。ンゴイはむっとする。アリシアはマイキーのほっぺたをつねった。言葉が伝わらないのを何かのせいにするのは差別的だ。学校の先生として見逃せない。
 「生理ガドウノコウノ」
 「聞いていたんですね。なら、やっぱり先生は怒っています」
 アリシアはンゴイに向き直る。
 「ドウシテ、ナンデス?」

 「バッドタイミングです。そう、バットタイミング。回避できたでしょうに」
 なんて、今は曖昧な原因でしかンゴイを叱ることが出来ない。言葉を短く区切る起こり方に頼るのは自分が未熟な証拠だ。言い訳が出来ないように自分から言葉を切る。バットタイミング、それ自体は悪くない。状況が悪かった。これでは怒っているようで慰めている。
 「俺ハ先生ト話シテイマシタ」
 「アマンダちゃんも話に加わっていました。そういうところ、直さないと紳士になれません」
 雑な理由でしかンゴイを諭すことができないアリシアは、そしてンゴイの語彙力を正しく把握できないアリシアは「せめて紳士に似た意味があれば幸いだけれど」と頭の中で辞書を引く。
 「紳士。つまり、良い大人になれませんよ」
 困ったように笑うアリシアに、困ったようにンゴイが返す。
 「善処シマス」
 「先生、俺も」
 「とりあえずマイキー君とンゴイ君はアマンダちゃんに謝りなさい」
 「謝るも何も、あの後あいつにめっちゃ蹴られたよ。ンゴイは何にもされてないけど」
 マイキーは最後まで悪態をついた。結局、もっと怒るつもりだったのに疲れてしまったと、アリシアは笑った。

 「なんてことがあったんですって」
 クリスティはクリームソーダの入ったコップをかき混ぜる間、瞬きをせずに回る氷を眺めていた。
 「家のンゴイがご迷惑おかけしてアリシアに申し訳ない」
 アイザックは頭を垂れる。レストランにアリシアの姿はしばらく見ていない。
 「こちらからンゴイ君に強く言っておきます」
 「僕からもなにか出来ないだろうか」
 クリスティはウェイターが運んでいるグリーンサラダをみる。サラダはクリスティとアイザックがいるテーブルを抜けて別のテーブルに運ばれた。
 「今回は私たちの出る幕はないんじゃないでしょうか」
 氷がコップにぶつかる音が鳴る。
 「やけに消極的だね」

 「ンゴイ君のことでやることがいっぱいあるんですよ。前回いった森が何処の国に所属しているか知ってますか?なんと三カ国で分けられるそうです」
 「もう1カ月もたってるのに解明が終わってないのかい?」
 適当なんだな、とアイザックは萎む。たしかに先月あの森に行ったときは何か手続きをしたような気がする。
 「それこそお役所の窓際係りに言ってくださいよ。ラタタタムの民があの森に存在することにいろんな問題があるそうで」
 かき混ぜられた氷を追って目を回しかけているクリスティをアイザックは眺めている。
 「マイキーっていうンゴイの友達はンゴイが気に入らないんだろうな」
 「わかりますよ。あの子は勉強も運動も良くできるし、それにコネリー財閥の養子ですから」
 嫉妬。そういう話はよくありそうだ。自分が戦えるフィールドで戦うしかないマイキーはいま悪戦苦闘しているんだろう。人気者の座を諦めてしまえば楽になることを知らない。嫌われないように取り繕えばそれだけ嫌われてしまうことを知らない。先人は口をそろえて「長いものには巻かれろ」という、その意味を知るには小学校では早すぎる。

 「クリスティも僕の家の養子だったしね」
 「はい」
 クリスティは遠く見る目で外を見る。
 「重圧がありすぎたから、成人して捨てたんですよ。コネリー姓を」
 雨が降りそうだ。それは何かの予兆ではなく、ただ天気が変わりそうだ、という意味で。
 
 「それでは、これはどうです?」
 ポツポツと降る雨は二人に届く前に屋根に遮られる。
 
 今回の作戦はこうだ。マイキーは転校早々人気者になったンゴイが気に入らない。事実、ンゴイはマイキーが手に負えるような相手ではない。それを知らないからマイキーは歯向かうのだろう。それならば、マイキーがラタタタムの民としての人生を体験すればいい。

 「クリスティにしてはあんまり冴えた案ではないね」
 「男の子の気持ちなんて私には分かりかねます」
 「だからって、今のでは本当に不自然だ」
 「善処します」
 
 ではこうだ。アリシアが仲介するのは失敗したのだから、全校生徒を巻き込んでしまえばいい。アリシアに頼んでなにかしらの大会を開催、マイキーとンゴイを張り合わせる。アマンダという娘もなんだかややこしい感じなので三つ巴で頑張ってもらおう。

 「あんまり投げやりだとな」
 「私はやることがあるんです」
 「だったら、休暇をあげるよ」
 「いえ、集中できる仕事があるのはいい事ですよ」
 「休暇で思いついたんだけど」

 こういうのはどうだろう、とアイザックは続ける。気付けば雨は強く降り始めている。

 マイキーは巻かれるばかりで巻き付くことをしたことがないのだろう。長いもの同士が巻かれてしまえばそれはねじれに変わる。視点を変えると現象はさらに簡単になる。簡単に言うと、ンゴイとマイキーというねじれた二本の長い糸が作り出す直線は、アマンダという点を一度介することで三角形になる。逆に言えばクラスの輪から外されてしまったマイキーはアマンダとンゴイのおかげで辛うじて円の形を保っているのかもしれない。歪な、だけど三角形の形をした円。仲良し円満となるのではないだろうか?こじつけが過ぎるともおもうが、丸く収めるには仕方がない。
 ならば答えは簡単だ。修学旅行で友愛を深めればいい。それこそ、同じ学年の生徒を全員巻き込んで。同じ時間を自分とは全然違う人たちと過ごす。それはきっと学生にしかできない解決方法だろう。張り合わせるのではなく、手を繋ぐためでもなく、ただ一緒にリラックスすることが解決に繋がるかもしれない。時季外れの修学旅行も実現は可能だ、アイザック・J・コネリーなら。なぜなら、コネリー財閥はンゴイの通う学校を資金援助できるのだから。

 ほら見たことか、とクリスティは笑う。やっぱり雨は不運の予兆ではないらしい。その証拠にアイザックの案は冴えている。降り出した雨は変わった景色を気付かせるだけ。

 正直な話をするとふたつめのクリスティの提案と大した差はないが、それもありだとクリスティは言わずに思った。
 「上手くいくといいですね」
 アイザック・J・コネリーに出来ないことはない、とクリスティはやっと二人の前に出されたサラダをざくざく頬張る。

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=第二章= 学友たちの場合
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 修学旅行実施の噂はすぐに学校中に広まった。
 「やっぱり、持つべき友は財閥の後ろ盾を持つ男だよな」
 そういってンゴイの肩を叩くのはダニエルズ・アンジバルだ。彼は今クラスで二番目に人気がある優男だ。マイキーがかつて人気者の座にいた時も、ダニエルズは2番手だった。誰とでも仲良くできるダニエルズはその性格も幸いして、いつもいいところに収まるスポット・ダニエルズと呼ばれている。
 「なんだか含みのある言い方ね」
 アマンダはダニエルズをたしなめる。ンゴイが転校してきてからというもの、クラスの男子が卑屈に見える。急にスクールカーストが変わるのを目の当たりにするのは嫌な感じだ。この感じはいつもマイキーと喋っていたダニエルズがここ最近まるで面倒ごとの様にマイキーを煙たがることが由来していた。ンゴイに挑発的なマイキーは、事実面倒くさいのだろう。ダニエルズとマイキーが話す回数は減っていった。

 「まぁまぁ、本当に修学旅行がンゴイ君のおかげなんだとしたらそれはいいことじゃん」
 アマンダはなんにでも目くじら立てすぎだし、とカトリーナ・フレドーラは女子群の中から笑う。こちらの女子も誰とでも仲良く出来るタイプだ。カトリーナはスクールカースト内ではお嬢様キャラで通っている。
 「私的には何処に行くか、早く決めたいんだけど」
 紅いリボンで束ねられた巻き毛が元気に揺れる。カトリーナの言う通り、修学旅行の準備をしなければいけないものの行き先はまだ決まらないでいた。各学年の行き先は先生に一任されている。

 「場所はもう決まってるんじゃなかったっけ?」
 文庫本のやや上から目だけをだして、ジェニファー・モモ・クラハシは尋ねる。短く整えられたキューティクルにエンジェルリングが輝いてる。色素が薄く栗色をした彼女の髪はボブヘアーに整えられてある。
 「バカ。誰があんなところに行くんだよ」
 マイキーは不機嫌そうに悪態をついた。
 「そうかぁ」
 つまらなそうにジェニファーは再び、本に視線を落とす。今彼女が読んでいるのは河童が踊っている表紙の本だ。
 
 職員室で先生に直談判に来ているのは学級委員長のニコラス・ラバーラストとアリシアだ。ニコラスは前髪が整っているのを確認すると、教頭先生の方を向き直した。
 「教頭先生、修学旅行で古墳はおかしくないですか?」
 アリシアはニコラスの横で彼のアシストに徹することを約束していた。それは悪戯な気持ちではなく、本心から生徒たちがしたいようにしてあげる方がいいと思ったからだ。コネリー財閥がこの修学旅行を援助するにあたって、何か意図があるはずである。逆に、古墳探検は教頭先生の独断と偏見で決められたものだ。
 「せっかくの機会ですし、出来れば子どもたちに刺激がある所がいいと思うんです」
 きっとアイザックとクリスティならそうするだろう。彼らが望むお金の使い方をするべきだと思う。どうせ古墳探検は低学年の時に強制的に行かされてきた生徒ばかりだろう。この教頭先生は何かにつけて古墳に行きたがる。それはアリシアがこの学校に在学していた時から変わらない。
 
 「古墳は大切な文化遺産ですよ。アリシア先生」
 教頭先生がアリシアをみる。アリシアは注意しながら教頭を説き伏せにかかる。
 「教頭先生の言い分は分かります」
 この学校の教頭先生は議論好きで下手に反論すると嬉々として立ち向かうことで有名だ。二対一で立ち向かうには意味がある。アリシアはポンっと、教頭先生の死角でニコラスの背中をたたいた。
 「先生。僕たち、低学年の時に一度古墳に行きました」
 「では、今回そこで勉強する意味も分かるでしょう。ニコラス君」
 ニコラスは出来るだけ反論をせずに、自分の意見を切り出す。この古墳好きを切り崩すのは骨が折れそうだ。

 「先生、そこなんです。僕たちは去年の歴史の授業で古墳のことを習いました」
 「ええ、その通りです。よく覚えていましたね。今回の旅は良い復習なります」
 教頭先生の言い分はまるで用意されていたかのようにすらっと出てくる。アリシアはそれとなくニコラスの自立性を強調しなければいけないようだ、と口をはさんだ。
 「学生たちが今回の修学旅行の行き先が古墳に反対なのは、まさにそれが原因なんです」
 ね?と、アリシアはニコラスに目配せした。
 「どういうことですか?はっきりおっしゃいなさい」
 ニコラスの目がキラリと光る。
 「一度行ったことがある所に今回の修学旅行で行きたくないんです」
 ニコラスの直球勝負に、おぉ!とアリシアは小さく歓声をあげた。教頭先生はどうやら聞く耳を持つ様だ。
 「今回の修学旅行は僕たちが何も払っていません。ンゴイ君のご家族がご資金を出してくれたと聞きました」

 ンゴイは教室で皆の話を聞いていた。
 「皆ハ何処二行キタインダ?」
 真っ先にはいはい!、と手を挙げたのはカトリーナだ。
 「カトリーナは歓楽街がいい!いろんなところで写真撮るんだー!」
 その次はダニエルズ。
 「俺は首都に行ってみたいな。政府要人のツアーとかできるんじゃね?ンゴイが頼んだら」
 私は、と最前列の席からアマンダがンゴイに声をかける。
 「音楽の街に行ってみたいな。もし行けるならだけど」
 ジェニファーは本を読みながら、「私はどこでも」とだけ言った。
 「ドウシテ?」
 ンゴイは不思議に思って聞いた。
 「私は別に行きたいところないもん。みんなに合わせるよ」
 ジェニファーは本を持っている方の手をひらひら揺らした。

 「マイキーハ」
 ンゴイはマイキーの席の方を向く。
 「どこでもいけんのかよ?」
 マイキーは机に突っ伏したままつぶやく。
 「多分イケル」
 「持つべきものは財閥の里親だな」
 ジェニファーが本をぱたんと閉じる。そのせいで最後の一言を誰が言ったのか、ンゴイにはわからなかった。
 「本当に何処でもいいよ。古墳じゃなければ」
 ジェニファーはお話に句読点を打つように、静かに念を押す。
 「まだ私たちが決めれると決まったわけじゃないんでしょ?」
 冷たく言い放つジェニファーにカトリーナは、あー、ニコラスまだかなー、と女子群の中に戻っていった。

 「だからですね、教頭先生」
 クラスでわいわい意見が飛び交う中、ニコラスは奮闘中だ。
 「古墳に無料で行こうというのは良くないと僕たちは考えたんです。だって、古墳は近いじゃないですか。それこそ、僕たちが大人になったら車で2時間も走らせればすぐ着きます。そんなところに学校の行事で行ってしまうのは、むしろ僕たちの将来を狭めることになると思ったんです」
 教頭先生は頭を捻らせる。
 「よくわからないです、ニコラス君。君はどうせ無料なら遠い所に行きたいと?」
 ニコラスはうなずく。しかし、教頭はしかめ面を見せた。心象がよろしくないのだろう。
 「実はニコラス君の言う通りなんです、教頭先生」
 だったらアリシアの出番だ。
 「私たちは自分たちで経費を何割か肩代わりしてでも遠くに行くべきです」
 「なぜ必要経費内で収まる旅をわざわざ大きくするんです」
 子どもの我が儘ではなく、理にかなった意見であると教頭にアピールするためにアリシアはいる。そういった役割分担をクラスの皆と約束したのだ。

 「そのことなんですが、私たちは簡単な旅や無料の娯楽というものに慣れてはいけないと思うんです。私にも将来世界を旅をして見識を広げるという夢があります。未来の私がその軌跡を思い出すとき、その旅が無料であったなんて決して思いたくない。それは私の軌跡がそのまま私の努力の形であるべきだからです。教頭先生、私は学生であったことの思い出が無料で賄えることに反対なんです。これは例えですが、”夏草や 兵どもが 夢の跡”、という詩があります。戦場の跡地に想いを馳せる異国の旅人が詠んだ俳句という詩です。この人だって、きっと全ての体験が簡単で無料だったら彼はこの詩を詠まなかった」
 教頭はアリシアの意図を掴めないで、困ったようにニコラスの方を見る。
 「どういうことですか?アリシア先生」
 「この詩は、かつての戦場の生い茂った夏草に人命が儚く散るほどの夢を託した場所を連想するというものです。人の想いが夏草に新たな価値を乗せたんだと、私は考えます。それに引き換え、無料の体験というのは、まるでお試し版のパンを試食しているみたいに記憶も短く、味も薄い」
 アリシアはここぞとばかりに教頭先生の手を握る。
 「何度も古墳に無料で行く体験は、古墳の価値を下げます!」

 「無料では価値がないから今回の修学旅行をキャンセルしたいということですか」
 極論すぎるアリシアの理論は、そのまま受け取ると好意を突き跳ねる言動だ。ニコラスは「これはまずい」と修正を入れる。

 「僕たちは自分の力で修学旅行をグレードアップさせたいんです!たとえば、学年で平均点を底上げするだとか、もしくはレモネードを売るなりして、それでもし結果が残せたのであれば古墳以外の何処か遠くに社会見学旅行としていかせてほしいんです。後学の為に、教頭先生」
 真っ直ぐなニコラスの眼差しは教頭先生を貫いた。

 「ニコラス君、君の言い分はわかりました。では、その両方をなさい。私は最初から今回の話に決定権は持っていません。しかし、先生は生徒の熱意に負けました。ニコラス君とアリシア先生が申されたことはクラス全員の意見なんですね?」
 ニコラスとアリシアは咄嗟に頷く。
 「はい、教頭先生!」
 「分かりました。そういうことなら私に任せなさい。旅行会社には私が掛け合いましょう」
 二人は小さくガッツポーズをした。なかなかしんどい条件が付いたものの目標である古墳の回避は達成された。正直、朝礼で古墳見学と聞いたとき、一番拒否反応があったのはアリシアだ。古墳探索はもはやこの学校の伝統的罰ゲームだった。
 「アリシア先生!」
 突然の教頭先生の呼び止めに、内心がバレたのではないかと飛び上がる。
 「はいっ!」
 「良いクラスを持ちましたね。貴方が在学していたころを思い出しましたよ。もし大学院の授業をお休みいただけるなら、先生もぜひ楽しみましょうね」
 もう参加人数に入っているものだと思っていたアリシアは驚いた。知らずに手伝って自分が救われた形だ。
 「はい!!」

 修学旅行の為の苦行は生徒たちを駆り立てた。そして、生徒の頑張りを目の当たりにした教師たちもまた授業に精を出した。

 休日にも生徒たちは学校に通い、レモネードを作る。
 「レモネードの作り方は知ってる?」
 アマンダはンゴイに声をかける。
 「レモンヲ絞ッテ砂糖ヲ入レル」
 それじゃぁ、普通のレモネードだ。イェルバ・マテの葉を入れよう、とダニエルズが提案する。
 「ちょっと普通じゃない方が売れるんだって」
 元気が出て、風邪の対策にもなるはずだ。ンゴイのクラスは多国籍の生徒が集まっているので、全てをフュージョンしていろんな種類のレモネードが作り始めた。パパイア・レモネード、マンゴー・レモネード、レモネード・マテティーなどレモネードにあう品種は多い。
 
 カトリーナはだらだらと会計をするマイキーに愛想をつかしたようにンゴイの元にやってきた。
 「マイキーったら、やる気ないのを隠しもしないんだけど」
 ンゴイはレモンを絞りながらマイキーの方を見る。
 「マイキーハ、俺ガ来ルマデ、アンナ風ジャナカッタノカ?アマンダガ、ソウ言ッテタ」
 そんなアマンダも今はマイキーを煙たそうにしている。
 「アイツは昔っからあんなだったよ。ンゴイ君が気にすることじゃないし。ちょっと運動が出来たから皆はやし立ててただけさ」
 ダニエルズもレモンを絞りながら会話に入ってくる。
 「あいつはやる気ある時とそうじゃない時のムラが激しいからな。ジェニファーほどじゃないけど」
 そういえば、ジェニファーは土日の売り場には姿を現していなかった。
 「協調性があんまりないんだよ、あの二人は。マイキーはこっちが合わせないと不機嫌になるし、ジェニファーは学校の行事に無関心みたい」
 ニコラスがダニエルの横で砂糖水を搾りたてのレモンに加える。
 「アリシア先生だって、仕事の合間に手伝いに来てくれるのにね」

 会計の計算が終わったアマンダはンゴイの元にやってくる。
 「ねぇ、ンゴイ君。もしこの後暇なら私たちと図書館にいかない?勉強が追い付いてないんだよね」
 ンゴイはアマンダとダニエルズと共に図書館に行くことを承諾した。
 
 「今日の売り上げだけで100杯完売だってさ」
 ダニエルズは石ころを蹴りながら二人の前を歩く。
 「休日でも学校に皆来るんだね」
 「そりゃぁ、野球のクラブチームとかあるからな。えいっ」
 アマンダとダニエルズは慣れた様に街中を歩く。ンゴイは街並みを眺めながら図書館に向かう。

 この街はラタタタムの民が暮らす森とは全然違う。喧噪はうるさく、それなのに互いが互いに無関心だ。慣れない人混みも他人は他人に無関心と思えば楽だった。転入時はいろんな質問に押しつぶされそうになったンゴイだが、皆の関心はそこまで長く続かない。一致団結するのは体育の時間や、レモネード販売の時くらいで、あとは大方自由に振る舞うことが許された。皆が皆好き勝手言い合う環境がまだうまく現地語を話せないンゴイには助かる。

 「ンゴイもクラブとかやればいいのに」
 ダニエルズが蹴り続けていた石は遠くの所で二つに砕けた。
 「俺ハ、家ガ厳シイカラ、他ノコトヤッテル時間ガナイ」
 ンゴイはアマンダと会話しながら、ダニエルズの石の行方を見守る。
 「大変そうだよね、急に御曹司になっちゃうと」
 蹴り上げた石がまた砕けた。
 「礼儀作法カラ、基本教養カラ、沢山アル」
 「へぇ、私だったら逃げ出しちゃうな」
 ダニエルズは諦めてとぼとぼと戻ってくる。
 「頑張レバ、ディナー二虫ガ出ルカラ、ヤメラレナイ」
 「へぇ・・・」

 一行は図書館につくとンゴイの為に新しい図書カードを発行した。
 「ココデハ、本ヲ借リラレルノカ!?」
 ンゴイは目をキラキラさせて本棚の列を行ったり来たりしていた。
 「あんまりうろうろするなよ、ンゴイ」
 おいっ、とダニエルズがンゴイを捕まえる。
 「読みたい本は受け付けで頼めば場所を教えてくれるわよ」
 
 「コノ本ハ誰ノ物ナンダ?」
 「ここにある本は税金で揃えてあるものだから、基本的には私たち全員のものよ」
 「誰二オカエシヲ、スレバイインダ」
 「恩返しなんて考えなくていいのに。無料なんだから」
 アマンダは笑う。
 「律儀だね、ンゴイは」
 ダニエルズとアマンダは席について鞄から宿題を取り出した。
 「受ケタ恩ハ、スグ返サナイト、アブナイ」
 ンゴイは虫について書かれた図鑑を手に二人の横に腰かけた。
 「返セナイ時二催促サレタラ、身ヲ粉二シテ、返サナイト、イケナクナル」
 向かいの席に座っていた影がくすくすと笑った。
 「君、どこから引っ越してきたの?少年院でおそわりました、みたいなこというんだね」
 ジェニファーだ。学校で姿を見せなかった少女が、一人で図書館に佇んでいたのだ。

 「ジェニファー!本を読んでたからレモネード販売に来なかったの?」
 アマンダはジェニファーの方を向いて怒る。
 「休みの日は好きなことをして過ごすって決めてるの」
 ジェニファーはいつもの様に手をひらひらとなびかせる。
 「あんた、いつも本読んでるじゃない。現実的じゃない知識本ばっかり」
 アマンダは周りを気にしながらジェニファーに詰め寄った。
 「レモネードよりこっちの方が面白いんだもの」
 だってさ、とンゴイとダニエルズは後ろで笑う。

***********
=第三章= 鉄の街の場合
***********

 修学旅行を控えたンゴイたちの時間は瞬く間に過ぎた。目標を持った生徒の成績は順調に伸びたし、レモネードの売り上げは各学年の学生たちの助けもあり大反響だった。今年度の修学旅行が遠出になるのなら来年度もよくなるに違いないと、特に低学年が売り上げを伸ばしてくれた。生徒の健気な姿勢に教頭先生も多少のマッチポンプ作戦は見逃すことにしたらしい。レモネードの売り上げが推定1500杯を超えた時、修学旅行の行き先が決まった。

 修学旅行の前日、ンゴイはなかなか寝付けなかった。飛行機のことを考えるとどうにも不安になる。あの上空を舞う飛行機という鉄の鳥は森でもよく見かけた。前回飛行機に乗ったときはオババが羨ましいだのレディファーストだのうるさかったが、あれは良いものではないとンゴイは確信している。飛行中はガタガタと揺れるし、気圧の影響か鼻水はわんさか垂れてくるし、空気はまずく息苦しい。窓を開けると嫌な顔をされるうえに、開けてまでみる景色などない。飛行機の羽と平行に窓をつけても目に飛び込んでくるのは青色の空間が広がっているだけだ。知識に乏しいンゴイでさえも空自体に見るものはないと知っている。星を読む祈祷師は何百年も前から大気圏の外側に並ぶ星の位置を隅から隅まで知り尽くしている。大地を這う蛇の通った痕跡を星の列に見立てて占いをすることもある。安直に言ってしまえば、見上げずに飛行機の窓から覗く空は本当につまらない、夜空は特に。

 三日月を見上げているとンゴイの部屋にアイザックが入ってきた。
 「寝れないのかい?」
 アイザックはベットの横に据えてある椅子に腰かけた。
 「飛行機ガ嫌イナンダ」
 アイザックが持ってきたスコーンを一緒になって食べる。
 「今日の晩御飯はチキンだっただろ?」
 呪呪なんだから鳥の力を借りればいいじゃないか、とアイザックは言う。
 「アノ鶏ハ、空ヲ飛ンダコトガ、ナインジャナイカナ」
 先進国の文明は不明瞭なことを多く残しすぎる。仲介役が多すぎて、何処の鳥を食べているのかも、誰の本を借りているのかも分からない。ンゴイの住んでいた森では、送り主不明はあまりいいことではない。誰に何を借りているかわからなければ、知らぬ間に知らない人に多大な借金を作っていることと同義だ。ラタタタムの民は誰だって呪いをかけることができる。たとえば、畑を貸してその代わりに年頃の子を働かせる。それは、紛れもない呪いの一種だ。誰かの畑を耕す間、他の誰かが自分の時間を犠牲にする。
 まだまだ国というものの全貌が捉えきれないンゴイは食べて力を得ることに失敗していた。
 「お菓子はもう詰めたのかい?」
 アイザックは物がいっぱいに詰まった袋を見る。旅の栞と書かれたパンフレットが中に入らず、クルクルに丸められて刺さっている。
 「少し足りないならこの飴を持っていくといい」
 「紅イナ」
 アイザックは鞄のサイドポケットに飴をいれる。
 「この土地の子どもだったら誰でも好きな飴さ。それと、カメラも持っていくといいよ」
 いっぱい楽しんできなさい、とアイザックはンゴイの頭をなでる。

 「アイザックハ、俺ガ明日行ク所、何処カ知ッテルカ?」
 アイザックの手が布団越しにンゴイを軽いテンポで叩く。心臓の鼓動とシンクロしているような心地よいテンポで。
 「いや、僕もこのところ忙しくてちゃんとは確認していないな」
 ンゴイは眠りに落ちていく。小さく呟くように街の名前を声にした。ンゴイをあやす手が一瞬だけ止まる。そのテンポはンゴイの覚醒を邪魔しないように、少しずつ遅くなっていった。
 「鉄の街か。僕も12年前に行ったことがある。ちょうど君くらいの歳の頃に」
 
 「楽しんでいっておいで」

 ガタンッ

 昨晩の夜更かしのせいでンゴイは飛行機の搭乗中をほとんど寝て過ごした。

 ガタンッ

 目を覚ました時には窓の外はすっかり白銀の世界だった。そこは雪が降りしきり、そして太陽の光を反射している。太陽の熱は層の薄い雪を溶かし、そこから這い出すアスファルトの色は石炭よりも黒い。飛行機を出たンゴイが初めて感じたのは香辛料の香りだ。なにかのスパイスが煙突を伝って空に溶けて、雲をかき回す。海外の空気は肺を通って体中に真新しい気体を循環させる。

 飛行場を出ると独特な香りは一層強くなって、それに比例して空は晴れわたる。それはそうと、外は寒かった。歩道のはずれには防寒具に身を包めてクラムチャウダーを注文する列がずらずらできていて、点呼が終わった班が次々にその列に加わった。時刻は正午、ちょうどお腹がすいたころだ。
 「俺たちも行こうぜ!」
 ダニエルズとマイキーが列に加わるために駆け出す。ンゴイの班はダニエルズとアマンダ、そしてマイキーで形成されている。
 「男子ってホント子どもよね。走ったりしたら危ないのに」
 アマンダが言った瞬間、マイキーが凍ったアスファルトの上をつるっと滑った。
 「っぶねー!」
 アマンダはマイキーを見て笑う。
 「ばーか」
 転んだ時に咄嗟に地面を突いた彼の左手は擦りむいていた。なんだよ、とマイキーはバツが悪そうにしている。
 「手、貸しなよ」
 アマンダは傷口を絆創膏でふさぐと、ほいっとマイキーの背中をたたいた。
 「いらないよ、こんなの!」
 今度は地面を注意しながらクラムチャウダーを注文する。
 
 「少しだけ休憩したら声をかけてくださいね!」
 アリシアは学校の生徒しかいない屋台テーブルで声をかける。

 ホテルへの道中、白と黒のモノクロで彩られた街並みでは昔の無声映画の様なシックな建物が立ち並ぶ。ンゴイのかじかんだ手を前列のニコラスが気付いて手袋を貸した。
 「そういえば、ンゴイ君は雪を見たことがないんだよね」
 ンゴイの記憶の中では何処も雪は降らない。ラタタタムの居住区では雨期にたびたび雪の代わりにスコールが降っていた。
 「雪ハ冷タイナ。目ノ前ガ真ッ白ダ」
 刺すような寒さにンゴイは身震いした。たまらず吐き出したため息が白く空に伸びていく。
 「雪の結晶は全部違う形にできてるんだって」
 すごいでしょ、とカトリーナが雪を丸めて投げてくる。
 「自然の中には全く同じものはないの。例えば、ンゴイ君の顔も右側と左側では全然違うんだから」
 誰かがニコラスの背中に雪を滑らせて、ニコラスはたまらずひゃっ、と声を出す。その後ろでジェニファーはつまらなそうに欠伸をかいた。

 ザー、ザー、
 『…こちらに……きて』
 突如聞こえてきたラジオから流れでたような音声にンゴイは振り返る。気が付けば目の前にはおびただしいほどの苔に覆われた巨大な廃屋がそびえたっていた。

 しかし、ンゴイの後ろには誰もたっておらず、ンゴイは困惑した。
 「ジェニファー、俺ヲ、ヨンダ?」
 旅の栞という旅行用パンフレットを確認しながらジェニファーは応える。
 「いいえ、呼んでない」 
 「ナニカ、聞コエナカッタカ?」
 キョトンとした顔でアマンダは周りを確認する。
 「何も聞いてないけど…」
 ダニエルズは身震いする。
 「バカ。やめろよ、ンゴイ。ただでさえ寒いのに気味悪くなるようなこと言うな」

 「なんだよ、ンゴイ。怖いのか?」
 ガーゴイルの像が門にそびえたつ古びた廃屋を前にマイキーはンゴイを茶化してくる。
 「ワカラナイ。声ガシタンダ!」
 むっとンゴイはマイキーを睨む。周りを見回してもやっぱり声の主を見つけられない。
 「またお前しか聞き取れない声か!?」
 『…こっちを…向いて』
 「ホラ、マタ。俺タチヲ、呼ンデル」

 突如、マイキーが何かに首を引っ張られる動作をした。
 「わ!助けて!!」
 マイキーの喚き声に一同は固まる。
 「マイキー!!」
 アマンダとダニエルズがマイキーの袖を掴む。よじれて、ねじれて、
 「嘘だよ」
 ひねくれもののマイキーはニヤリと笑う。
 『「…こっちに…おいで…お嬢さん」』
 誰かの声とマイキーの声がダブって聞こえる。

 マイキーは思い切りアマンダを抱き寄せた。
 「ほんと、やめてってば!」
 アマンダは泣き始めた。それを見たマイキーはすぐさま抱きしめるのをやめてアマンダの口をふさぐ。
 「ただの冗談だろ。怖がり」
 「うっさい!」
 「泣くなよ。先生が来ちゃうだろ?」
 アマンダの泣き声に最前列からアリシアが飛んできた。
 「どうしたの?大丈夫?」

 アリシアが泣き止まないアマンダをお世話し、そうこうしているうちに目的地のホテルにたどり着いた。ホテルで一同を待っていたのはフルーツなどの軽食だ。酸味の利いたグレープフルーツに甘いイチゴが添えてある。先ほどクラムチャウダーを食べたばかりだというのにみんなすぐに飛びついた。甘酸っぱいスイーツにアマンダも機嫌を直すよう、アリシアが彼女をなだめる。頭をなでられて、アマンダはやっと落ち着いた。

 「でも、意外だったよな。アマンダが怖いの苦手だったなんて」
 ホテルの部屋でダニエルズはなんとなしに口を開いた。
 「アイツ、いつもうるさいからいい気味だぜ」
 夜、寝返りを打ってマイキーがぼやく。男子の寝室では枕投げで遊んでいたのを教頭先生に見つかって以降、部屋は消灯されてしまっている。
 「お前、ちょっとはアマンダのこと考えてやれよ。何も狙い撃ちで攻めなくてもよかったじゃんか」
 「はぁ?俺は別に何もしてないぞ。怖がってたのはアマンダだけじゃないんだろ。なんか聞こえてたんだったらそれくらい俺の演技が迫真に迫ってたってこったな」
 ダニエルズは黙りこくる。そして、
 「ンゴイ。あの時なんか聞こえたよな?」
 彼はンゴイに話しかける。
 「聞コエテイタ。誰カヲ、呼ンデル声」
 ンゴイも今朝のことが気になって眠れなかったのだ。部屋ではニコラスだけが眠りについている。

 「ばっかじゃね?お前はいっつもありもしないことばかり考えてるからへんな幻聴が不自然とも思わねーの」
 マイキーはまたも寝返りを打つ。横に伸びた彼の目はまっすぐンゴイを見ていた。
 「でも、俺もきいたんだって」
 ダニエルズの返答にマイキーは舌打ちをする。
 「なに?お前ら寝たくないの?」
 マイキーがアマンダに謝ればいい話なんだよ、とダニエルズが強めに叱咤する。
 「いいぜ。明日の自由時間にあの屋敷に行ってきてやる。ンゴイ、お前カメラ持ってきてたよな。撮ってきてやるよ。心霊写真があるなら、お前の話も信ぴょう性でるぜ。それ見せて、全部こいつのせいでした、って言えば満足なんだろ?」

 そして次の日、自由時間が過ぎた後もマイキーは帰ってこなかった。
  
 マイキーの不在は朝礼ですぐさま報告された。生徒たちには避難勧告が出され、ほぼホテルに軟禁状態にされていた。ダニエルズは膝を思い切り握りしめる。
 「俺、本当にマイキーがあのマンションに入っていくなんて思ってなかったんだ」
 ンゴイはダニエルズの横で彼を慰める。あまりにも痛々しい彼の悲痛を見かねてのことだった。
 「ヤッパリ、マイキーガ、居ルトシタラ、アノ屋敷̪ダト思ウ」
 「だよな、あいつ昨晩肝試しがてらに行くって言ってたもんな。でも、どうして1人なんかでいったんだよ」
 職員ルームから帰ってきたニコラスが二人の会話に聞き耳を立てていた。
 「マイキー君はその、古びた屋敷に行くって言ってたんだね」
 ダニエルズは目を輝かせてニコラスを見た。
 「そうなんだ!だから、先生達であのマンションをくまなく探せば、見つかるはずなんだよ」
 ニコラスは難しそうな顔をして手のひらを顎に当てる。
 「それは、困難かもしれません。それをしたら僕たちは不法侵入だ」
 「そんなこと言ってる場合かよ!」
 ダニエルズは顔を真っ赤にして激怒した。
 「マイキーが危ないんだよ!ここは俺たちの地元じゃない。道行く人も知らない人ばかりだ」
 ダニエルズはニコラスの胸倉を掴む。咄嗟のことだった。
 「彼が一番知ってる場所はこのホテルのはずなんだけどね」
 ニコラスは平然とダニエルの拳を払いのける。
 「だけど、一度先生方に連絡してみるよ」

 ニコラスはアリシアの元に戻った。教頭先生も含め、先生一同は沈んでいた。無理をして手にした遠出の修学旅行は、失敗に終わったのだ。義務教育に自己責任などない。全ては教師の責任だ。だが、アリシアを苦しめていたのはそんなことではない。自責の念だ。アリシアはマイキーがアマンダにちょっかいを出していたのを知っていた。だからこそ、アマンダに過保護なほどに接していたのだ。それがどうだ。学年の問題児を見張らなかった自分は大切な生徒を失いつつある。

 「先生、マイキーの居場所が分かったかもしれません」
 ニコラスはアリシアに向かって言い放つ。
 「ホテルの道沿いにあった大きな屋敷があったじゃないですか?」
 「ありました。マイキー君がアマンダちゃんを泣かしたところですよね」
 「どうやら、そこに行ったみたいなんです。カメラを持って、心霊写真でも撮るつもりだったって」
 ニコラスの言葉に教頭先生が激高した。
 「なんて馬鹿な。あまりにも道徳がなさすぎる。あの屋敷は他人のものです。それを勝手に入るなど、法律に反している!」
 アリシアは教頭先生の顔色をうかがう。
 「救助隊を呼ぶのにどれくらいかかるんでしょうか?」
 教頭先生は、それこそマンボウが雑菌を除去するために自らの体を海面に叩きつけるように机に突っ伏した。
 「今から先生方と捜索しますから、貴方たちはじっとしていなさい’」
 
 アリシアはホテルマン達が廃屋について話しているのを聞いていた。
 「あの屋敷を所有していた家は貴族としてはかなり有名だったのですが、十何年前に没落して、今は所有者が何処にいるかわからないんですよ」
 アリシアには次に教頭先生が発する言葉を先読みすることができた。
 「宅内を探すにしても誰に許可を得ればいいか、分かりかねます」
 わかることは、このままではマイキーは救えない。彼はどこかで凍えているはずだ。外は吹雪が降り始めていた。
 「とにかく警察に連絡しましょう」

 「俺、マイキーを探す」
 ダニエルズは部屋を飛び出した。
 「僕はこの部屋で待ってる。もしマイキー君が帰ってきたら連絡するよ」
 ニコラスはドアの向こうでダニエルズを見送る。
 「俺ハ、ドウシヨウ…?」

 玄関を出た二人を待っていたのは意外な人物だった。それは、カトリーナ、ジェニファー、そしてアマンダだった。
 「夜の肝試しって楽しそうじゃん?やばかったら逃げるけど、そこまでよろしく!」
 カトリーナは既にヤバいことが起こっていることを把握していないようだ。
 「私は寝れないから、落ち着く静かな場所に行きたい」
 ジェニファーはもっと事態を把握できていない。
 「マイキーを探しに行くんでしょ?」
 足が震えて、まともに立つことすらままならないアマンダだけがこの捜索の意味を理解していた。

 門を守るガーゴイルの像は夜になると凄みを増して睨んでくる。まるで、侵入者を一人残らず噛みちぎってしまうような歯をしている。歯並びは悪く、噛み合いはしないだろうから、噛まれる鈍い痛みは彼らが肉を髪切れるまで、気が遠くなるほど続くのだろう。
 門の外側の木々は生い茂っていて屋敷の中が見渡せないようになっている。それでもわかるのは大量の藻だ。生い茂った緑ではなく、枯れ腐り落ちそうな土色をしている。
 
 「どうやって中に入る?」
 ジェニファーが皆に尋ねる。この時ばかりは彼女も本を持ってきていなかった。
 「入れないならそれでいいんだけど」
 その時、カトリーナがジェニファーの細腕を握りしめた。痛みに顔をしかめるジェニファー。
 『「こっちよ。来て」』
 カトリーナは不慣れな手つきで木々の中の抜け道を通る。蜘蛛の巣がそこら中に張り巡らされている。玄関を抜けると古びたアンティークが埃をかぶったまま放置されている。
 『「なんだか、わかるの』。嫌だ」
 カトリーナは虚ろな目をしてキッチンらしい部屋に向かった。彼女の声はラジオのような音とダブって聞こえる。
 『「大変。水が出ないわ』。なにこれ、嫌だ!」
 蛇口を回し続けるカトリーナ。蛇口のノズルが外れた時、赤黒い水が一気にしぶきあげる。
 カトリーナの変貌に一番驚いたのはダニエルズだ。
 「なぁ、なにやってるんだよ!」
 
 『「作法も知らぬ小童!!」』

 ラジオを通したような声がカトリーナの頭の中に響き渡る。頭を抱えても声の主はつかめない。

 『私たちはやり直したいだけ。古い生活を、失敗のない生活を』

 今度の声はカトリーナにしか聞こえなかった。どこを見渡しても声の主の姿は見当たらない。ただ、会談の横にそびえたつ’彫像が漆黒の涙を流している。
 「私の中から出て行って!」
 カトリーナの悲痛な叫びは声の主には届かず、ただ級友を怯えあがらせるだけだ。
 「お前、変だよ。やめろよ」
 ダニエルズがカトリーナを羽交い絞めにする。
 『「わたしは、お茶をいれたいだけ」』
 カトリーナの頭の中の音をなぞって口から言葉が出てくる。
 『「久しぶりのお客さんですもの」』
 彼女は力尽くで羽交い絞めから抜け出すと、今度はキッチンの隅にうずくまる。
 「助けて、みんな。私、変なの」
 カトリーナは泣き出した。それに釣られてアマンダも泣き出す。ジェニファーは信じられないものを見るような目でカトリーナを見ていた。
 『私、変なの、だってさ』
 カトリーナにしかきこえないラジオの音がこだまするようにあざ笑う。
 恐怖におびえるダニエルズは、どうすることも出来ずに、
 「お前、どうしたんだよ」
 『「何かが頭の中にいるの」だってさ』

 いつの間にか、言葉を話す主導権はカトリーナから謎の音に替わっていく。
 『「こわいよ、たすけて」だってさ』
 涙を流しながら、カトリーヌは笑う。
 『「なんで、わたしが」だってさ。お前が一番適任だからに決まってるじゃない』
 ダニエルズが叫ぶ。
 「どうなってんだよ!!?」

 『もう貴方はカトリーナじゃないの』

 頭の声がカトリーナに直接語り掛ける。

 『嗚呼、私の愛おしい主様。梟がまた一羽増えました』

***********
=第四章= 悪霊たちの場合
***********
 
 「オバケが憑依したんだよ」
 様子がおかしいカトリーナをみながらジェニファーが言う。
 「私、知ってる」
 目の前にいるカトリーナの中に誰かが入ったというのだ。
 『「貴方はだれなの?」』
 情緒が不安定なカトリーナはジェニファーに詰め寄る。
 「幽霊って定員オーバーを狙ってるんだって。一つの体に魂は一つしか入らないでしょ?こうやって何度も質問して誰が誰かわからなくなった体から元の宿主を追い出すの」
 だから、個人情報は教えないで。と、短くダニエルズとアマンダを抑止する。
 
 カトリーナはジェニファーを恨めしそうに睨みつける。
 「なんでカトリーナが憑依されちゃうのよ!?」
 アマンダは泣きそうになりながら、それでも強いまなざしをカトリーナに向ける。友達を助けなくてはいけない。
 「名前を呼ばれて応えちゃったんじゃない?」
 ジェニファーはカトリーナから距離を取る。
 「そんなことで」
 「憑依できちゃうよ。オバケだもん」
 
 「その子から出て行ってよ」
 ジェニファーはカトリーナに向かって大声を出す。
 『「貴方はだれなの?」』
 「あんた、なんでそんなこと知ってるの?」
 「私いつも本読んでる」
 どこでどんな知識が役に立つなんてわからないでしょ、とジェニファーは言う

 カトリーナはダニエルズたちを振り切って屋敷の奥へ奥へと進んでいく。

 「奥の方にマイキーがいるのかな?」
 ジェニファーはいう。
 「進むっていうのかよ」
 ダニエルズはジェニファーを止める。
 「でも、カトリーナもいっちゃったし、い、行かないと」
 ひと時考えた後、アマンダを含む一行はさらに進むことにした。
 「私にまかせて」
 ジェニファーは至極楽しそうに笑ってみせた。彼女は読書で得た知識を試したいのだ。

 *

 屋敷の前にンゴイは立つ。ガーゴイル像は梟の様に大きな目玉をぐりんっとこちらに向けている。
 「魔ノモノニ、問ウ」
 久々に装着された呪呪の仮面はすぐにンゴイに馴染んだ。
 「俺ノ友達ガ、先刻コノ屋敷二来タハズダ」
 ン後にの目の前にゴウゴウと紫の触手のような炎が可視化する。
 「相違ハ無イカ」

 『その友の名を教えろ』
 「名前ヲ知ッテドウスル?」
 『探してやろう』
 ガーゴイルはニヤリと笑う。動くはずのない翼がギシりと動いた気がした。
 「呪呪ヲ相手二、嘘ハツケナイ」
 蒼い視線がガーゴイルを貫く。刹那、彼の像の後ろを揺らめく炎が少し縮こまる。

 『…身代わりにするのよ』
 「自分ハ自分。他ノ人二替ワリ、出来ナイ」
 ンゴイは足をダンっと鳴らす。
 『私ではない。すべての梟は主のために動く』
 「魔二堕チテ、マダ主従関係カ?」
 『やり直すのだ。大切な主を守れなかった過去を』

 「悪い気がする方に行けば、カトリーナがいるはずなの」
 ジェニファーは急ぐその先にカトリーナがいることを信じて足早に歩を進める。
 「あんた、気なんてわかるの?」
 アマンダは躊躇しながらジェニファーに付いていく。
 「わからないわ。わからないけど本によれば硫黄の匂いがするはず」
 「何も匂わないけど…」
 ダニエルズは出来るだけ二人を守れるように後ろを離れずに歩く。
 「私も直観に任せているだけ」
 ジェニファーが扉を開くと、そこには項垂れているカトリーナが座っていた。

 『「ごめん…」貴方の名前、わかったわ』
 カトリーナはぱたり、と倒れ込んだ。
 『ようこそ、ジェニファー』

 今度はジェニファーに向けてラジオ音声によく似た声が聞こえる。
 「私は貴方の手駒にはならないわ」
 ジェニファーは素早くカトリーナを抱える。
 『なんて、言いながら頭の中では怯えてるのね』
 ジェニファーはカトリーナをダニエルズに預けると頭痛に耐えるようにうずくまった。
 「そんなことない。貴方はどうなのよ」
 『そんなことない。貴方はどうなのよ、だってさ』
 声の主はジェニファーをあざ笑う。
 「貴方の名前はなんなの!?」
 アマンダがジェニファーの隣に押し入った。
 「駄目!!」

 ジェニファーの制止をまたも姿も見せない主に笑われる。
 『オバケと関係を作ったらダメ、だってさ。それも本に書いてあった?』
 「うるさい」
 頭を抱えるジェニファーに
 『「私たちは、梟」』
 そういったのはカトリーナだった。
 『梟は一匹ではないの?だってさ。その通り』
 あははとひしゃげた高笑いが屋敷中に響き渡る。

 「アンタなんて心の声を呼んでるだけじゃない!」
 アマンダはジェニファーの背中をさする。
 『そう』
 姿を見せない梟はカトリーナを伝ってニヤリと笑う。
 『今度はこの子、やめてっていうわよ』
 「やめて!」
 ジェニファーは大粒の涙をひとみに溜めていた。
 『ほらね。私は心を読んでるんじゃない。コントロールしてるの、だってさ』
 アマンダの頭の上に疑問符がつく。
 「今のはジェニファーが言ったの?」
 アマンダの質問にカトリーナはぐりんと振り向く。眼は充血して、そのくせ身体はダニエルズにしな垂れている。
 『そう、だってさ。ほら、今度はうそつきっていうわよ』

 しかし、ジェニファーは何も言わずに歯を食いしばっていた。
 「い、言わないじゃない!」
 ただの予想じゃない、とアマンダはカトリーナに向かって叫んだ。
 『ジェニファーは私に先に言われたから思わず黙ったのよ』
 梟はカトリーナの身体を借りてニタニタと笑う。
 「しっかりしろよ、カトリーナ!」
 ダニエルズはカトリーナを揺さぶる。梟が取り付いていない時の彼女は空中を虚無に見つめている。

 『揺さぶらないで、頭が痛い!』
 梟は突然雄たけびをあげた。ダニエルズは咄嗟にカトリーナを抱き寄せる。
 「今の、どっちだ…?」
 「『カトリーナはもういないわ。貴方の腕の中にいるのは一匹の梟』」 
 ダニエルズはジェニファーを見る。
 「ジェニファー!どうしよう?憑依ってどうやって解くんだ!?」

 ジェニファーはダニエルズとアマンダの方を振り返る。
 「わからない。さっきから試しているんだけど」
 『本に書いてあることしかわからないの。だって私、空っぽだもん』
 梟の笑い声がジェニファーの声をかき消す。
 『だってさ!』
 「うるさい!私はそんなこと言ってない!」
 『私は貴方の心の声をなぞってるだけ』

 『私はこの子に憑りつけないわ、だって空っぽだもの』
 「え?」
 アマンダは驚く。ジェニファーが梟相手に押し始めている?
 『だってさ』
 カトリーナが舌を出した。
 『私にそんなこと言わせて面白い?ジェニファー』
 充血した目をジェニファーはアマンダに向ける。さきほどの梟の言葉はジェニファーの頭の中を梟がなぞっただけらしい。
 「『ダメ。どうしたらいいか、わからない」だあってさ』
 ついにジェニファーの声は梟の声とダブってしまった。
 「『逃げて、だってさ、だってさ、だってさ」だってさ。あら、おかしくなっちゃったかしら?』

 アマンダはダニエルズの腕をつかむ。
 「どうしよう…ジェニファーが憑りつかれたみたい…」
 ダニエルズはアマンダがつかんだ方とは反対に抱きかかえているカトリーナを気にかけながら後ずさった。
 「やっぱり、俺たちだけじゃ駄目だ!こんなところ来るべきじゃなかったんだよ!」
 「大人に任せてどうにかなるわけじゃないでしょ!」
 アマンダの激高も空しく、ジェニファーは目を真っ赤にして二人に近づいてくる。

 アマンダは目を固くつむった。ダニエルズを掴んだ腕がぐいっと引っ張られる。ここから逃げないといけない。そう思うとダニエルズの体は一目散に出口に向かっていた。

 大丈夫。ジェニファーの動きは鈍く、アマンダもカトリーナも引っ張っていくには十分に軽い。マイキーはまだ見つかっていないけど、この屋敷にいるとは限らない。今は自分の安全が第一だ。

 しかし、悪いことはタイミングの悪い時に起こる。

 カトリーナが起きなければ、あるいは、ダニエルズがカトリーナを抱えていなければ、アマンダとダニエルズは逃げきれていたのかもしれない。しかし、カトリーナは起きてしまった。目を真っ赤にして、ものすごい勢いで来た道を戻ろうとする彼女をダニエルズは止められなかった。

 「どこに行くんだよ!?」
 ダニエルズの制止は振り切られる。
 「どうしよう。カトリーナまでどっかに行っちゃった…」
 ダニエルズはアマンダを見る。

 アマンダからの返事は返ってこなかった。少しの沈黙の後、

 「『私、どうしたらいい?』」
 アマンダの口から出た言葉は、虚しくも梟の声がダブっていた。

***********
=第五章= 予言の呪呪の場合
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 ダニエルズは玄関で途方に暮れていた。ジェニファーも、カトリーナも、そしてアマンダさえ、悪霊の手に堕ちてしまった。ただ一人、ダニエルズだけが残っていた。一人、虚しさに追い込まれるダニエルズ。アマンダもどこかに行ってしまった。それは、絶体絶命の危機だった。マイキーは依然行方不明のままで、ダニエルズにはこのままホテルに戻っていいのかもわからない。

 体温が低くなっていくのを感じる。これからどうしていいか、ダニエルズにはわからなかった。
 「次はきっと俺だ」
 最悪な予感がダニエルズの脳裏によぎる。背筋をなでる粘着質な冷気は梟の到来を告げる。

 『お前で最後だ』
 梟の声色はアマンダやジェニファーたちに近づいていた。
 「お前、何が目的なんだよ!」
 『私たち梟の大義は主様をお世話すること以外にない』
 ぬるぬるとダニエルズの首筋を冷気が練り歩く。
 「俺たちが何かしたっていうなら謝るから、みんなを返してくれよ」

 『いや、お前たちは何もしていないよ』
 あはは、と梟は嗤う。その笑い声にカトリーナやアマンダの声が重なるほどダニエルズは追い込まれていく。
 『私たちがお前たちを見つけただけ』
 「そんな…」
 『一緒に暮らせば大抵のことは気にならなくなるさ』

 梟の声は高く、屋敷中に響いているらしかった。何度もこだまが聞こえる。
 『こっちにこい。私たちにすべてを委ねて…』
 急にダニエルズに眠気が襲った。眠気に負けると憑りつかれてしまう、そんな予兆があったというのに彼の眼は徐々に閉じていく。
 「『あはは!これで全員だ!』」
 ダニエルズの口から出た言葉に本人は驚きさえしなかった。視界は泥のように脈打って視点が合わない。

ケース・ビットウィーン・コネリー・アンド その②

ケース・ビットウィーン・コネリー・アンド その②

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-05

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