二つの私論の補てん(2)

今なら耐えられるでしょう

今なら耐えられるでしょう(2017/06/04)

さて前章では「善」と「美」と題して、普遍を意味するたった二つのワードである「善」と「美」を論点の中央に据えて、この2017年が大きな時代のうねりのさなかにあるという前提のもと、domesticとuniverseの概念を絡めながら私論を展開した
一言でいえば、大きな時代の変化とはすべての人々に恩恵をもたらすものではなくそこには各所で悲喜こもごもがみられるであろうということである、したがってそれが時代の要請であることは認識できているにもかかわらず、それに抗う若者たちが多く現れたとしてもそれは実はそれほど不思議なことではないのである、なるほど変化=衝撃と理解する人々もいるのであろう、だがこの考え方を正しいとすれば、きっとその変化の後には「勝ち組」と「負け組」が明確に表れるのであろう、99.9%の確率でここでは「僅かでも上をいくものがそこにある利益のほとんどを独占する」が否定されていない、故に20世紀と同じ現象が再現されるにすぎない、もし「最大多数の最大幸福」を望むのであれば、個人または企業の利益よりも社会全体の利益が優先されるということでなければならない、だがここに人類が到達するには甚だ僭越ながらあと200年はかかる、おそらく火星への移住を試みた連中が地球に帰還し、火星には私たちが望んでいたものがほとんどなかったということが明白になってからであろう、私たちにはこの地球という惑星しかないのだということが遍く理解されて初めて人類の歴史は変わる
そういう意味ではこの21世紀初頭においてdomesticとuniverseが終わりの見えない鍔迫り合いを演じるのはもしかしたら22世紀以降のことを考えた場合有益な何かを未来に残すことになるのも知れない、なぜならば膨大な記録が残されることが予想される以上、22世紀の人々は20世紀と21世紀を容易に比較することができると考えられるからだ、すでに述べたように人間は皆「後で気付く」存在であるため、よほど優秀な人以外はその時には何が真の争点であるのかさえわからない、そして「次」の人々の世代になって初めて「そういうことだったのか」ということがわかるのである、だからこそ私たちは「伝える」ことをやめてはいけない、きっと時に「伝える」は勇気を必要とするであろう、もしかしたら悪意のある守旧派の一部は記録の抹消をも目論むかもしれない、無論、そのようなことがあってはいけないのだが、しかしそのような事態に陥らないようにするためには私たち特に三十代以降の、つまりある程度の経験があり、そして物事の善悪を判断するのに十分な知識を有し、また理性という点でも問題ない、少なくともdomesticとuniverseそれぞれの長所短所が理解できている人々の個々の運動のようなものが重要になるのである
そういう意味では以下述べる「今なら耐えられるでしょう」はそのような世代の人々にこそ理解されるべきものであるのかもしれない

さてこの章で述べる「今なら耐えられるでしょう」は前章までとはややその趣を異にし、本来の私のこだわりである「神」に焦点をあてたものとなる
すでに前章において私がこの私論を書き始めたその動機の一つが「なぜ人生はこんなにも辛いのか」にあると述べた、この章ではその答えの一端となりうるものがこれまでと同様に私風の文体と考察によって論証されていくことになる

果たして諸君はこの章のタイトルを聞いてまず何を思ったであろうか?
「今なら耐えられるでしょう」
私は思う、神は信仰を知ることができる者にもそうでない者にも実は「偶然」という名のもと秘密の信号を常に発し続けているのだと、だが私たち人間には皆その時々の都合というものがあり、したがってたとえ信仰を知る者であったとしてもその秘密の信号によって神が伝えようとしていることが脳裏をかすめることはあっても一つの確固たる認識にまでそれが至ることは稀なのである
だがここでひとつの条件をクリアすることができていればもしかしたらそのような事情は変わるかもしれない、すでに私はその文言を繰り返しこの私論において記している

自分が何を好きで何をやりたいかがわかっていること(a)

このたった一つの条件さえクリアできていれば、彼は神の発する信号を理解することができるかもしれない
巷でよく言われることに以下のような文言がある

チャンスは常に最悪のタイミングでやってくる(b)

言いえて妙な指摘である、ではなぜチャンスは常に最悪のタイミングでやってくるのか?
もし(a)をクリアできているのであれば、瞬時にしてそこにあるものがチャンスであるか否かの区別がつくであろう、そして彼はそこにある何とも不可解な法則に気付くであろう
いつものように最悪のタイミングでやってきたチャンス、c、d、e
このcとdとeには(a)をクリアできている人にしかわからない関連性がある、これはおそらく負の経験にのみ特有なものであり、正の経験の連続からは生まれえないものではなかろうかと個人的には思うが、この漆黒の闇でこそ確認できる微かな光の連鎖のようなものは、(a)をクリアできている人には実に大きな意味を持つことになる、ここでは一定量の孤独が必要になる(自分を顧みる瞬間を何度か経験しなければならない)と思われるが、失敗にせよ、挫折にせよ、それが複数回連なればそこには彼にしかわからない教訓めいた文言がある意味決定的な力をもって認識の中枢に達することになる、そしてそれは若い時にはともかく四十代以降の、つまり人生を俯瞰できる年齢になって初めて一つの体系だったものとなり、三次元的な奥行きを持った認識としてその後の人生における様々な意思決定に実に重要な作用を及ぼしていくこととなる
ここで彼の脳裏に埋め込まれるべき文言、教訓は人それぞれによって異なるので、私が決定的な文言をここに記すことはできないが、だが一つだけ普遍的な意味を持っていると私が断言できるのは、神は信仰を知り且つ(a)をクリアしている人にだけまるでその時を特別に測って、またその瞬間を何年も待っていたかのように、必要な時に必要な数だけ、試練のようにも見える負を与えるということだ
したがってこの文言になるのである

今なら耐えられるでしょう

そういう意味では神は背負いきれない負を彼に課すことはないというのは正しい、すでに万物に公平であるために神は沈黙を貫いているのだと書いたが、しかしその一方で私は神には理想があるのだとも書いた、だから人間を不完全に造りながらもしかし同時に知恵を与えたのだ、と
では万物に公平でありながら、にもかかわらずそれと並行して理想を追求するにはどうすればもっとも合理的にそれを行うことができるのか?
そこにあるのは「沈黙」と「暗示」である
神の発する信号は限られた人にしか伝わらない、だがそれは膨大な時間を想定しプログラムを組んだ神にとっては理に適ったことではあってもその逆ではないのである、ここにある種の霊的な存在の介在を認めることも確かに可能であろう、それは不可視的な価値のその最も根源的な部分に横たわる普遍であるが故に通常の状態では99.99%の確率で認識することのできない、しかし究極の善のための神の永遠不変のメッセージ
どうやらここで久しぶりにこの言葉が出てくることになるようだ

負の肯定

負を否定するのであれば、おそらく神のメッセージに気付くことはあるまい、この世の普遍を示しているのは「善」と「美」の二つだけだが、この両者は常に密接に絡み合っておりだからこそ神に悪意を認めることができないのであるが、「善=美」であるのであれば、信仰と(a)をクリアした者のみが到達可能な境地にこの「善=美」をそのまま重ね合わせることも可能なのであろう、なぜならばそのような人は負の肯定を知るが故に究極の善の認識も同時に備えているであろうと思われるからだ、これは神に悪意がないということが前提になっていなければ成立しない方程式であり、故に神はすべてを救うという結論に最終的には達するものでもあるといえるであろう

神に悪意はない、だから神はすべてを救う、だから神は善を知りうる精神的な境地に到達可能な人々にはそこに差別が生じないような配慮をしたうえでそれとなくいくつかの信号を彼にしかわからないように彼の意識の周囲に漂わせる、そしてそこには衝撃がない、霊的な経験に近いものであるからそうなるともいえるが、もっと踏み込んで言えばそこには以下の文言が当てはまるともいえるのである

真実

確かにここでこの言葉を用いるのはやや僭越であるかもしれない、だがここでそのようなリスクを冒してでもこの言葉を用いる価値はあると思う
究極の善は特別な人にしか認識できないものだ、そしてそのような人は必ず同時に美をも知っている、そしてそこから普遍が生まれ信仰へと至る
だが人生はあまりにも短いがために多くの場合その手前で人生は終了する、そういう意味ではこの「今なら耐えられるでしょう」の真意を理解できる人こそが新しい時代のその旗手足りえる人なのであろうが、当分の間そのような人は少数派に甘んじ続けることになるのであろう
だがすでに述べたように時代はminority’s powerの時代へと突入している、だからdiversityになるのであるが、この大きな時代のうねりの後には正と負の拮抗状態こそが生み出す何か象徴的な扉が待ち受けているのであろう、そして然るべき役割を担った者がいつか登場しその扉を開ける、だがこの章ではここまででよいであろう
では次の章へと進もう

洞察

洞察(2017/06/11)

さて前章では、「今なら耐えられるでしょう」と題して、善と美という人間が認識できるたった二つの普遍を知る者が、信仰と「自分が何を好きで何をやりたいか」を得、また知った時にその者は神からどのような信号を受け取るのであろうかということを書いた
言うまでもなく、信仰を知らない者はいかに優れた頭脳を持っている者でもこの境地に達することはない、また僭越ながら前章の最後でも触れたようにここには真実と解釈しても差し支えないような霊的な普遍性があるため、そこには衝撃はなく、それを知りえた者はむしろ昨日よりもより深く静かな境地に達するのである
ここでは前々書である「曇天の日には収穫が多い」で繰り返された文言「負の肯定」が重要な役割を果たしている、前章でも「チャンスは常に最悪のタイミングでやってくる」と書いたが、これは信仰を知る者にとってはむしろ当然のことであり意外なことでも何でもない、私たちは順風満帆の時に神を思うことをしない、だから神はその人物が神により選ばれたことをさりげなく示すためにこそ、前章の(b)、つまり最悪のタイミングでやってくるチャンスを繰り返すことでそれを彼に伝えているのである、故にやや意地悪な言い方をすれば最高のタイミングでチャンスがやってきた時にはそこには神はいないということになるのでその方がむしろ要注意ということになるのかもしれないが

なぜよりによってここでこうなるのか……

だがそれは神(神の使者)が貴兄のそばにいるという絶対的な証拠、なぜ神が選ばれた者ではない者に試練を課すのか?もし貴兄が何らかのチームのリーダーなら、勝利した愛弟子には家康公のようにこう告げるであろう
勝って兜の緒を締めよ
これは重要な説教だ、なぜならば不思議な負けはないが不思議な勝ちはあるからだ、つまりフロックで勝利するということもある、だから勝ったからといって浮かれてはいけないということである
真実とは深くそして静かだ、そこには衝撃はない
僭越ではあるがこの前提に立つことでこの私論において私が述べていることはおおよそ辻褄が合うのだ

真実をもっとわかりやすく例えると?
それは六等星の輝き
つまりそれは漆黒の闇の中でしか確認できないのだ
なぜ神はそのような場所に真実を?
神に選ばれた者がその真意を理解した時に、大言壮語の結果それが彼から後継者に伝わることを神は危惧したからだ
なぜ?
重要な言葉は然るべき方法によって伝えられないとその価値を失ってしまうからだ
ということは?
何を言うかではなく如何に言うかである
それで神の真意が伝わるの?
然るべき後継者がそこに現れれば伝わる、なぜならばそこには前任者を深く理解した後継者にしか行うことのできない斟酌の余地が生じるからだ
斟酌とは?
真実を、少なくともその一端を知りうる者だけが到達可能な六等星のような微妙に輝く、つまり光が多い場所では決して見えない微かな光の瞬きの存在に気付くことのできる、そのような洞察力を持った者だけが行うことのできる静謐な瞬間を誕生させることのできる能力
そのような能力を持つ人はどれくらいいるの?
ほとんどいない
では真実は伝わらないのでは?
ほとんどの場合真実は伝わらない、だがそこにはおそらく神の信じられないほど周到な計算があると推測される、すでに人生は渦巻き状に進むと書いた、この「渦巻き状に進む」をキーワードにすれば、このあたりのところは理解可能だ、それは太陽系の惑星の軌道を連想することでもおおよそ理解できる、そこには直線的な動きがない、すべてが曲線的にそして規則正しく動いている、きっとすでに数十億年がこの太陽系だけでも経過しているのであろう、そのように考えるとこの宇宙という空間では1000万年か1億年が1単位なのであろう、私たちホモサピエンスの歴史は30万年くらいだと言われているので、そのように考えれば考えるほどこの世の終わりと私たちが想像するもののすべてが絵空事に過ぎないことがわかる、例えていえば3歳児が人生を、そして神を語るようなものだ、確かにそのような事例が生じれば面白いだろう、だがそれは真実には程遠い、故にこの私論も真実には程遠いのだが、この言葉の重要性を認識できればこのような私論も無駄ではないように思える

洞察

しかしここでいう洞察とは裏を読む能力のことではなく、微かな瞬きや僅かな隙間に気付くことができる能力のことである、したがって、光溢れる世界の住人はかなり高い確率でこの洞察を身に着けることはできない、目に見えるものも目に見えないものも、大いに不足していてこそこれが備わるのである
不足から生まれるものは何か?
もうすでにその言葉を何度も私は記している

工夫(minority’s powerがこれを担保する)

そして工夫の結果生まれた最初は思いつきにすぎないようなものを、一つの体系づけられたものとして完成させるために必要不可欠なものが洞察である
ではそもそも「~ない」から生まれる工夫のその源泉となるものは何か?
それは「それが好き」か、または「それに強い関心がある」のいずれかである(主体的かつ積極的な精神の運動)
だからそれらは最終的にはきっと誰にでも備わっているはずの能力である洞察力を磨ききることができるのである、さらに言えばここには損得勘定がないか、またはあってもかなり少ない、なぜならば強い好奇心が一定の結果を伴ったときに生まれる喜びは、預金通用の残高を確認する喜びにはるかに勝っていると考えられるからだ、故にそのような人は役職を希望しない、そのような人は権限を希望する、つまりこういうことだ

出世は望まない、代わりに自由をくれ

彼は天国に預貯金を持っていけないことに先天的に気付いているのかもしれない、ここには潔さがあると同時に六等星の輝きを知る者だけが知るすべての障害を越えうる普遍性がある
では、それは何か?

神の領域

ここでは科学と宗教の境界線すらない、すべてを知る者は法則を知る者であり、また神を知る者だ、どうやらこの私論においてここで初めて主観と客観とが一つになった
では主観と客観とが一つになるとはどういうことか?
それはこういうことだ

矛盾の消滅

この世に矛盾はなくすべてが理に適っている
死も悲劇も、さらに言えば「滅」も「壊」も、すべてが理に適っている
そしてこうなる

あるものがある

そう、「あるものがある」、ただそれだけのことだ、進化した結果そうなったのか、進化とは関係なくそうなったのか?
いずれにせよ、あるものがあるだけだ

ではその入り口は?
六等星の輝き
でもそれは光があると見えない
だから洞察する能力が必要になる
どうすれば洞察力が身に着くの?
そのためには以下の言葉がカギになる

霊感、インスピレーション

それについては次の章で述べよう

霊感、インスピレーション

霊感、インスピレーション(2017/06/14)

さて前章では、「洞察」と題して選ばれたる者だけが神の信号を得、または知ることができる、故にそれは最悪のタイミングでやってくる、なぜならば順風満帆の時には人は神を思うことをしないため、神の真意が彼には伝わらないからだと書いた、ここでは「負の肯定」が強く意識されているが、しかしこれはおそらく光溢れる世界の住人には伝わりにくいであろうとも書いた、なぜならば真のチャンスである六等星の輝きに気付くための洞察力は「工夫する」の延長線上にあると考えられるからだ
工夫は99.9%「~ない」から生まれる、果たして満ち足りた生活をしている者が「面白い」だけを理由に工夫をするだろうか?(失敗すれば損益が生じる)
上へ行けば行くほど人は下へ降りることができなくなるだけではないだろうか?
ここはかなり根源的な問いであるが、つまり千差万別の部分があるがために紋切り型の問答は成立しないと考えるべきであろうが、しかし同時に私はこういう風にも思う

最終的到達点に達するためにはその対象(ここでは彼が得たいと思っているものを指す)との距離感が重要になるのだと
この「距離感」については次の章で述べるが、対象に近づけば近づくほど私たちはある言葉に染まる、きっとそれはかなり高い確率で間違いあるまい
その言葉とは?

偽り

言うまでもなく「得る」ためには「代償」が必要になる、対象(当然複数ある)が近づけば近づくほど「手に入るかもしれない」という思いは強まる、確かにてっぺんにあるものを得ることができるのはごく少数の人だけだが、それよりもう少し下、相撲の番付でいえば、前頭三枚目くらいのものであれば何とかなるかもしれないと思うだろう、そしてそれが目前までくればどうしてもそれが欲しくてほしくて仕方なくなる、それでどうなるのか?
相撲に例えればこれである

変化

もちろんこれは禁じ手ではない、だがあまり喜ばしい勝ち方でないのも事実だ、特に若い力士が勝ち越し目前とはいえ変化で勝ち星を手にしたら相撲ファンでなくとも「若いのにこれでは次につながらない」と思うだろう、だが対象がすぐ近くにあれば人はやはり変化をするのである、これは弱さの問題でもあるがそれ以上に人間の内面の根幹の部分に関する問題でもある(目の前においしいものがあればつい欲が出るのは人間として当然のことでもある)のだろうが、多少の嘘偽りがそこに混じっていても、それを手に入れるためであれば仕方ないという面もある
だから勝負の世界はともかく、対象をあまり近くに見ない方がよいのである

翻ってこの章のタイトル、霊感、インスピレーションである
私は思う、光は減ずれば減ずるほどインスピレーションには有利に働く、と
なぜか?
光が減ずれば減ずるほどこの言葉も力を失うからだ

偽り

「霊的な体験」とはおおよそそのようなものだ、ほんとうにそれを経験した者はそれをあまり口にしたがらない、むしろそこに「錯覚」の要素がある程度入ったときの方が人はそれを口にする、「霊」とは厳かなものでありまた容易に触れてはならないものだ、私はきっとどこの神社にもあるのであろう「ご本尊」を直に目にしたいとは思わない、それは恐れ多いことだ、「霊」は感じるものであり、自分が納得できさえすればよいものだ、確認しまた他言するようなことではない
人はきっと真実に近づけば近づくほど無口になる、それは真実とは「畏まるべき」ものであることを知っているからだ、だから真実を明らかにするべき場所、たとえば裁判所などは何ら疚しさのない者でもいささか敷居が高いような印象を受けるのである
そして「霊」にはそれがあるような気が私にはする、「霊」と聞いて諸君はまず何を思い浮かべるであろうか?
墓場
それもあるだろう、だが墓場も子供ならともかく大人であれば不躾な振る舞いをすることなど許されないことは誰でもわかることだ、なるほど墓場は光とはかなり縁遠い印象もある、「霊」とは心象的には第一に墓場であるともいえるのかもしれない
ではインスピレーションの対照的な存在は何か?
マテリアルである
ということはインマテリアルなものの象徴的な存在にインスピレーションはなりうるということなのか?
だがこのように想定することは可能であろう
「霊」とは私たちの認識が偶然の結果(多くの場合それは偶然の結果であろう)、真実の扉に達するときに渡る最初の橋の役割を果たすものであると
それは「やはり」ではなく「まさか」
少なくとも何か肯定的に評価することが可能なものが生み出されるときには、必ず(そう言い切ってもよいかもしれない)私たちの期待や予想を裏切る形でそれは訪れる、しかしそれ故に神の意思を反映させたものと解釈することのできる、そのようなものの総称がインスピレーション、霊感であると

天才とは1%のインスピレーションと99%のperspiration(発汗)である

このperspirationを肉体の汗のみならず魂の汗と解釈することも可能であろう、万物は対象を求める、なぜならば神もまたそうであるからだ、では神の対象とは何か?
理想である
では神の理想とは何か?
善である
だから神には悪意がないのだ
では善とは何か?
美である
だからこの世のすべては美しいのだ
ではなぜ神の善はいまだ達成されないのか?
達成されていないのは人間の世界だけだ
ではなぜ人間の世界だけ達成されていないのか?
人間の中から神になろうとするものが出てこないような状況で、善が遍く行き渡るためには膨大な時間が必要であるからだ
なぜ神に膨大な時間が必要なのか?
神もまた二人いるからだ
なぜそう言えるのか?
神が二人いれば、そこにはバランスが必要になるからだ
それはどういうことか?
AとBを足した数が常に一定でなければならないということだ、神が一人ならば神は時間を自分だけの判断で調節できる、しかし神が二人いれば、この世も二つあるということになるためお互いがお互いの都合を見極めながら今もなお続く天地創造を進行させていく必要がある、片方が膨張すればもう片方は縮小せざるを得ない、そうでなければAとBの合計が常に一定ではなくなるからだ、これは神のジレンマではなく神の設計図に書かれてある単純だが永遠不変の定理である、そうすることで神はこの世の「始まり」と「終わり」を最も理想的に調節することができる、最終的にはAがゼロになれば、Bは100になる、そしてBがゼロになればAは100になる、またAにおいてもBにおいてもすべての被創造物がプラスマイナスゼロにならなければ、次の周期に進めない、故にそこでは結果ではなく過程がすべてになる、最後はゼロにならなければ次へは進めないのだ、このことはこの世に永遠といってもよいほどの時間を設定しなければ神のプログラムが成立しないことを意味している、結果がすべてならばできるだけ早く結果が出た方がよいからだ、だが神は永遠を選択した、これだけでも過程がいかに重要であるかを確認することができる、事実この世の果てを私たちは見ることができるのだろうか?

おそらく私たちが確認できるこの世の果ては、すでに過ぎ去ったものの残骸かまたは神が私たち人類を創るときに同時に創造した世界のその切れ端の一部にすぎないであろう、無論それも世紀の大発見だが、しかし僭越ながら真の大発見は個人の心のうちにある、それは実に静かに現れ、静かに進行し、そして静かに消え去る
そしてここには衝撃がない
ベテルギウスが超新星爆発を起こしたか、または起こす寸前であるというのは間違いない事実なのであろう、その時果たしてどれほどの衝撃が人類を見舞うのか非常に興味深いところだ、私の論理でいえばベテルギウスの超新星爆発によって人類が終末の時を迎えることはないということになるが、すでに回帰が進行中であろうその未来の瞬間において人類はどのような行動をとることになるのだろうか?
私は思う、ここでの人類の反応は二つの言葉によって説明されうるものであると、一つは無論「科学」であり今一つは「信仰」であろう、このベテルギウスの超新星爆発がたいへん興味深いのは、これまでガリレオの逸話などによって対立関係にあったと解釈されてきたこの二つの世界がもしかしたら完全に一つになるのではないかと推測されるということだ
科学の世界では超新星爆発が600年以上の時を隔ててではあるが観測されることで、ブラックホールを含む天文学の数多の謎の解明が一気に進むのであろう、また精神的な世界ではおそらくホモサピエンスの長い歴史においても数度しかなかったであろうこの天体ショーによって私たちはこの世の普遍的な法則の一
端に触れることで「私」の対象が何であるかに思いを馳せる機会が格段に増えるであろう
地球から天文学的にはすぐ隣でしかないような場所で超新星爆発がここで起きることの意味は「まさか」であるが故に私的には神の周到な計算が証明されたのだとしか思えないが、きっと今よりもはるかに明るくなる夜空に未来を生きる人々は人類の過去、現在、未来を少なくともこの21世紀を生きる人々よりは合理的に且つ宗教的に眺めることになるのであろう
これは「霊」にもつながる現象である

事実が数式によって解明されたとしてもそこに神秘の入り込む隙間が消滅することを必ずしも意味するわけではない、なぜならば私たちはいかなる手段を用いたとしても未来を知ることはできないからだ、未来を知ることができないということは言い換えれば人生に保障はないということを意味することにしかならないということだ
果たして保障がない人生において人はその代りに何を欲するのであろうか?
無論それは個々人によって異なる、だが一つだけ言えるのは真に保障がない人生において人が欲するのはマテリアルではなくインマテリアルであるということだ
どうやらここでまたあの一句が繰り返されることになる
「人はパンのみにて生きるにあらず」
死後の世界を想像できるのは人間だけだ、故に信仰を知ることができるのも人類だけだ、この世が「有」と「無」とによってできているのであれば全知全能の創造主がそこに一定の法則と理想を織り込むのはむしろ当然のことではあるまいか?
法則だけがあって理想のない世界
もしも私たちが砂漠の真ん中に都市を建設しようとすると想定したとき(技術的な問題等がそこにはないと仮定する)、そこにルールを決めるのは無論であるが、しかし同時にそこをこれまで見たこともないような理想的な都市に発展させていこうと考えるのではあるまいか?それともそこにおいて利益が確実に見込めることの方を優先させるであろうか?
人間でさえ理想を追求するのになぜ神が理想を追求しないと考えるのか?

僭越ながら洞察とは最新の科学でも覆いつくすことのできない部分を補完するための善の精神にのみ許された多分に空想的なしかし精神の救済につながる可能性の高いフロンティアの入り口に到るためのチケットのようなもの、そしてインスピレーションとはそのきっかけをつくる洞察と不可分の瞬間的な感性のひらめき
だがここでも「善」が決定的な優位を占めていなければならない、特に科学が核の開発に成功したこの20世紀以降の世界において、「善」が喪失されないためにも精神的な、つまりインマテリアルな世界および価値観が果たすべき役割は実に大きい
核は自衛のための手段にはならない
これを実現させるのはただ「善」を奉じることのできる精神の普遍的ともいえる連帯のみ、だからuniverseがこの21世紀を生きる私たちのための重要なキーワードになるのだ
異邦人間においても有効な連帯を可能にする精神の一連の動き
私たちはいったい何を分かち合えるのか?
それは「善」と「美」である
きっとこの二つは科学とも矛盾しない
ベテルギウスの超新星爆発がそれを証明するであろう

この章ではここまでにしよう

距離感

距離感(2017/06/21)

さて前章では、「霊、インスピレーション」と題して、私が本来この私論を書き始めたその原点に立ち返り、神=普遍を「信仰」をキーワードにしていつものように考察を行った、前章では科学が私とは無縁の分野であるにもかかわらず顔を出しているがここではやや僭越な表現を繰り返しながらもしかし私の真意というものは諸君にもおおよそ正確に伝わったのではなかろうか?
この2017年以降を変革の時期と捉えるならば、私たちはマテリアルとの拮抗状態が崩れて久しいインマテリアルなものの価値の復活にも関心を注がなければならない、しかしそれは科学の否定にはつながらない、なぜならば科学と宗教との間に矛盾はなくそれをベテルギウスの超新星爆発が証明するであろうと書いた、また両者をつなぐキーワードは「善」でなければならず、特に科学者が核開発に成功したこの20世紀以降においてそれはやや深刻な問題ともなっていると言えるのである

さてこの章では「距離感」と題し、前章、そして前々章で書いたことも一部踏まえながらしかしそれ以上にこの私論が私的な幸福論でもある点を振り返りながら、「悩みの相対化」にもつながるであろう一歩踏み込んだ分析を行いたいと思う

私はすでにこう書いた
神とは「私」の唯一の対象である
また私はこうも書いた
万物は対象を求める
以下この前提で論述を重ねていくことになるが、私的にはこの二つの文言の間に矛盾はない、だがもう少し慎重かつ幅広い説明が必要であるとも思う
「私」の存在は神によって証明される、だが哲学的なレヴェルの推論は脇に置くとしても、様々な対象との関係によって私たちの日常生活というものが形成されていることは疑う余地がないところだ、車の運転一つとっても特に視覚により得られた情報を重視しながら、私たちは車の運転の目的である「安全に目的地にまで達する」を日々実現させていることがわかる、ここでのキーワードは「安全」であり、または「円滑に」であろう
安全かつ円滑にスケジュールをこなしていくためには、私たちは個人的な用事であれそれ以外であれ、五感によって得られた様々な情報を脳によって適時合理的に処理しながら「今」から「次」への「通常の動き」をおおよそ無意識的にその瞬間、瞬間で実現させている
だがこのような無意識的な精神と連動したフィジカルな動きにおいてもそれは必ずしも常に円滑に進行していくわけではない、大小さまざまなトラブルがその途中に起こり、そのストレスを必ず伴うそれらの負は「なぜここでこうなるかなあ」などというつぶやきと伴に、私たちの経験の中で日々「抗いきれないもの」として当然のように定着しまた定着しつつある
だが私はこうも思うのである
私たちの日常生活において、それらの「抗いきれないもの」から生じる虞のある不測の事態を最大限回避するためにも何らかの工夫を用いることによってそれら「抗いきれないもの」をうまく処理することができるのではないかと
ここで出てくるキーワードが「距離感」である

さて諸君再び頭の中に黒板を用意していただきたい
存在としての「私」の対象は神のみだが、日常における私の生活の対象は無数にある、それは納得していただけるであろう
さてその無数にある対象のうち5つくらいを黒板に書き込んでほしい
Aが私であるので、対象はb、c、d、e、fの5つだ
そしてこれらのうち最も重要なのがbであり進むにつれて重要度が低くなる、つまりfがもっとも重要度が低いということになる
私たちが脳内で情報処理を行うとき必ず物事の優先順位をつけ高い方から順にそれをこなしていくようにする、ここも異論あるまい
無論仕事が優先だが、ひどい空腹状態にあるときなどは順番が変わることもある、しかしここでは仕事の話は一旦脇に置く、なぜならば仕事優先は明らかなのでそれを考慮に入れると「距離感」の任意性が失われてしまうため、私のこの章での論理の説得力が極端に低下するからだ、したがってここではbからfまですべて仕事以外の用事であると仮定する
そして仕事以外と割り切ることで「距離感」にも二通りあるということがここで確認できる
優先順位をつけるため自然に生まれる対象との距離感と、それぞれの対象をもっとも安全かつ円滑にさらに言えば理想的にこなすための距離感である

まず前者の優先順位をつけることによって生まれる距離感であるが「仕事は別」と割り切っているので、ここでもっとも理想的に距離感を保とうとすれば、個人的に「好きなもの」とか「やりたいこと」とかが顔を出すことになる、おそらくここの部分が曖昧だと仕事では能力を発揮できる人も、仕事とは別の次元の話になると対象との距離感を保てないが故に何をやっていいのかわからないというような、つまり「定年後、この人大丈夫かな?」という状態に陥るかもしれない
確かにここは余計なお世話の範疇なのだが、日本は典型的なサラリーマン社会であるので仕事以外の部分での対象を見つけられないと、仕事という対象を失ったときに仕事とは別のもの(本来、趣味などがここに入るのだが)との距離感がわからないということになり、相当困ることになるのではないかという気がしますが、いかがでしょうか?
特にこれからは人生百年の時代が遅かれ早かれやってくるので、とりあえずここでは僭越ながら個人的見解を述べさせていただきました

しかし趣味など個人的な世界を仕事以外の部分でおおよそ確立できている人であれば、後はこの距離感をうまく測ることができればそれで問題はないということになる、すでに何度も述べているように感受性豊かな14~21歳までにある程度、「夢=なりたい自分」を経験できていないと50歳過ぎて新しい自分を発見することは難しいのかもしれない、14から21歳であるのでここは「善」については織り込み済みという表現を用いてもそう差支えはあるまい、確かに海外ではまっとうな教育を受けられない少年少女も多いため、極めて不幸なことに善から離れていく若者たちも多いのであろうが、やはりこれは私たちが考えるべき人権上の深刻な問題である
さて距離感であるが、言うまでもなく私たちは同時に二つ以上のことを行うことはできない、また若い時分であっても自由に扱える時間には限度がある、そのように考えると日頃からこの「距離感」というものを意識的にコントロールする、つまり「近づけたり、遠ざけたりする」訓練を行っておくと、きっと年老いてから役に立つのではないかという気がするのである
特に日本のように「平和」と「繁栄」の両方を高いレヴェルで実現させている国に住む人々にとっては、この世には面白いもの、興味をそそられるものは無数にあると考えられる、したがってそのような地域に暮らす人々にとってはこの信じられないほど有り難い現状はしかしその一方で対象が増えすぎたが故に時間的にも能力的にも、また金銭的にも困窮するという事態を招くかも知れない、これはきっと人類史上初の現象となるであろう
この「面白いもの」中毒現象はおそらく不眠などの何らかの神経機能障害をそれらに興じる特に若者たちにやがてもたらすことになると考えられるが、ここではそれについては触れずにあくまでも距離感をキーワードに論を進める
なぜ面白いものに優先順位をつけるのが難しいのか?
それは一つは自分がほんとうに「何が好きで何をやりたいか」がわかっていないからだが、もう一つは対象との距離感がうまくとれていないことにその原因があると思われる

さてここで先ほどのbからfまでの5つの対象が出てくることになる、ここでのキーワードは「充実した毎日(日々)」である
私はすでにクリエイティヴな精神にとって隙間がないということはプラスにならないと繰り返し記している、また休日を除いてスケジュール帳がすべて埋まっている人も真の優しさとからは遠い人だとも書いた、精神の余裕等は隙間から生まれる、それは心の問題だけではなく、街も適度の隙間がそこにないといわゆる「退避スペース(ここでは精神的な意味だが、都市も隙間がないと火災の時などに延焼が拡大するのではないかという気もする)」の消滅につながり感受性豊かな人ほど圧迫感を感じるであろう、したがって都市計画においては実は地方の人口60万人くらいの都市のように結果的にではあっても公園、河川、空き地のような「隙間」がそこにあることで、特に感受性の強い若者などは持ち前の想像力を発揮させることができるのである
そしてこの隙間こそがこの章で述べている距離感に通じるものなのである
ここで例として挙げているbからfの5つの対象も数的にはちょうどいい感じではなかろうか、bがもっとも優先順位が高いのでこれをまず念頭に予定を組んでいく、無論金銭上の問題がどこかで生じるので、eやfについては場合によってはキャンセルする、コンサートなどを例にとればわかりやすいであろう、音楽が好きならいろんな音楽を聴くであろうが、もしジャズが好きならジャズのアーティストのライヴを3つか4つピックアップして、それを基準にしてそれ以外の、つまりロックやフォークやクラシックのライヴを調整していく
ここで「調整」というワードが出てきたが、このワードも「距離感」を意識するときに併用するとより納得のいく結果に結びつくかもしれない
また「充実した日々」を考えたときに必ず考えなければならないのがコストパフォーマンスである、したがっていくら音楽好きでもチケットが高いとそれは残念ではあるが優先順位的には下がるということになる、ここでも工夫が必要になる、金銭的に恵まれている人は時間的余裕を持てない、時間的余裕を持てる人は金銭的余裕を持てない、この辺りは充実した日々を送るための永遠の課題であろう
ここで重要なのは優先順位の最も高いつまりbをいかにして確保していくかである、コンサートであれば時間が予め決まっているので、時間の調整をきちんと行っておかないとチケットは買ったのにその日は地元にいないのでコンサートに行けないということになってしまう、また遠隔地のコンサートであれば台風などで行けなくなることもあるので、その辺りは飛行機ではなくJRをつかって前泊するといった工夫も必要になるかもしれない
この辺りはやや細かい表現になっているが、距離感を上手に保つとはそういうことである、充実した日々はポジティヴシンキングにつながり、それは最終的にはより理性的な精神の運用につながる
すでに自由とは「自己を理想的に規律すること」と書いた、ならば感情の赴くままに前から来たものを受け止め続けるのではなく、もし自由を望むのであればだが、自分のdisposition(性質)を客観的に捉え、理性的に判断することが必要なのである
ここでもう一つ重要なワードがあるので記しておかなければならない
それは「選択」である
すでにbからfまでの5つを選択しているが、この5つはいかにして選択されたのか?
つまり現在の日本であれば地方都市でも充実した日々のための選択肢は無数にある、ではどうやってそれを5つくらいにまで絞るのか?
私はすでにそのためにキーとなる文言を記している
「夢=なりたい自分」
これは青春期のみを指す言葉ではない、青春は一度きりだが人生は「たそがれの扉」(「曇天の日には収穫が多い」参照)を開ける前と後の二回あると考えられる、特にこれからは人生九十年、百年の時代であるから尚更そうであろう、したがってここを忘れてしまうとまたはそれがないまま大人になってしまうと、このbからf(またはg、h……)の5つくらいまでに絞るための判断材料が見つからないのである、つまり「私はこういうとき必ずこれを選択してきた、なぜならば私はこれが好きだからだ」がないまま成長してしまうと、たとえbからfまでを選択できたとしても今度はそれらに優先順位をつけることができなくなるので、うまくそれら対象との距離感を調整することができなくなり、結局ガイドブックに書かれてある通りの行動しかとれなくなる、早い話「感動」が彼の人生には絶対的に不足していていたのだ
これはかなり深刻な問題であるが、実は1980年代からあるこのような悲劇的現象はその後のデフレ、リセッションにもかかわらずまったく改善されていないようだ、おそらく「感動」が少なくともその青春期において著しく不足していた人はこの私論を読むこともないのであろうが、もし可能ならば今からでも何か「夢=なりたい自分」につながるようなものを模索するべきだ、すでに人生を豊かにするものは旅と読書であると書いた、僭越ながらこれは精神的な意味においての「さまよえる中年」にとっては一つの指針となるのではなかろうか?

「距離感」とは「充実」であり、「合理的」であり、そしてより理想的な「自由」である
もう一つの距離感については次の章で述べる

距離感Part2

距離感 Part2(2017/06/23)

さて前章では、「距離感」と題して、大所高所からの意見ではなくもっと日常生活に則した、いってみれば実務的ともいえるような細かい精神の動きをうまく抑制することでのみ起こりうる「最大限の自由で合理的な充実感」の獲得のための一つのメソッドを提案した、宗教も歴史も出てこないこの提案はしかし人生を乗り切るための何らかのヒントを求めている人々には少なくともマイナスにはならなかったのではないかという秘かな自負が私にはある、事実この距離感を無視したままでは車の運転は無論、料理も、いうまでもなく仕事、そして人間関係もうまくいかないのではないかとも私は考えているのである
様々なストレスが日々私たちを襲うのは文明社会を生きるが故避けられないことなのであろう、しかし強烈なストレスの一方で現代社会、つまり頂点に昇りつめたとも思える高度情報化社会は20世紀までは考えられなかった新たなコミュニケーションの形を私たちに提示してもいる、ならば私たちは私たちの間に生じる不都合を進歩しすぎた高機能社会のせいにするのではなく、可能な限りそれとうまく付き合おうと努めることでおそらく生まれるであろう何らかの解決策にその突破口を見出そうと最大限試みるべきだ、このように考えると何か難しいことのようにも思えるがおそらくそうではあるまい、なぜならば一個人が能力的に許容できる範囲を大幅に超えたツールやメソッドがその瞬間においてはともかく長続きするとは思えないからだ、おそらくその答えの一端をまもなくお目見えする第五世代型スマートフォンに見ることができるかもしれない、通信速度は100倍になり、メモリーは1000倍になる、だがいったい誰がその能力を余すことなく引き出せるというのか?
2000年SACDというものが発売された、従来のCDの4倍の高音質というのが売り文句でありまた、ソフトも多く発売された、これはほぼ同時期に開発されたDVDオーディオと並んで市場を席巻すると思われたがそうはならなかった、iPodが発売されたこともあるが、早い話、音質が良すぎたのだ、あまりにも音が良すぎたが故に一部のクラシックのファン以外はプレーヤーが高価なこともあり、敬遠せざるを得なかった、1980年代後半に発売されたDATもそうである、これはアナログよりも高音質のCDの音源を録音するために新たに開発された記録媒体だが、高価であったことと、カセットテープ(ハイポジ、high positionがブームになった)でも十分CDの高音質を再現できたので、まったく売れなかったのだ、数値的には高レヴェルが証明されているのに、特に若者の情報処理能力がそれについていけないがために起こった、プロからすれば誠に残念な事象
いかなるツールであれ人間がそれを作る以上、人間の能力の限界を超えたものは支持されず故に生き残ることはあるまい、だがそこに利が期待できる以上、誰かが先導役となって一時的ではあれ何らかの現象を起こさせようと試みるかもしれない、カジノや最近の競馬で見られる3連単などはその代表的なものか?うまくいけば儲かるが実際にはリスクが高すぎて終わってみればマイナスの方が多かったということになる
ではそうならないようにするためにはどうすればよいのか?
一つは「便利なものには副作用がある」と決めてかかってうまい話には一切耳を傾けないことだが、それでは次世代のための言葉を残すことはできないであろう
ではどうすればよいのか?
その答えにつながるかもしれないものが「距離感」という言葉のなかに潜んでいる

この章では前章で述べたものとは別の「距離感」について述べることにする

前章ではAという主体がbからfまでの5つの対象を選別し、それらを優先順位順に並べ時間や財布の中身と相談しながら調整していくことで、「充実した日々」の実現を試みるということであった、この章ではそれらbからfまでのそれぞれの対象のうち一つを選んでその一つの対象との距離感を上手に測るということをその主眼とする
常識的に考えてもっとも優先順位の高いものを例として取り上げるが、やや細かい表現も多くなろうかと思われるので、その辺りのところは予め承知いただきたい
この章での距離感についてまず指摘しておかなければならないのは、その対象を一つに絞るということである、故に優先順位をつけることが必要になるのだが、それができれば対象を一つに絞ることがすぐにはできない場合でも、その対象を優先順位2番目、3番目とうまくバランスがとれるように頭の中で整理し、また大まかであっても時間設定をすることも可能になるということである
ここでのキーワードは前章でも出てきた「隙間」もあるのだが、もう一つあげられるのが「冷たさ(クール)」である
もう少し踏み込んだ言い方をすればそれに対してやや「突き放した」姿勢を維持するのである
これは「抑制」にもつながる表現である
優先順位一位であるにもかかわらずそれを突き放すことであることが実現する
即ち俯瞰、である
無論あまり突き放し過ぎてもいけないのだが、俯瞰できれば私たちはあることから解放される
それは「窮屈さ」である
俯瞰は余裕を生む、故に俯瞰できなければ時間的なまたは金銭的な余裕がない時に精神的に追い詰められたが故にそれが優先順位一位という、ただそれだけのために無理なスケジューリングや出費につながってしまうのである
ここは「曇天の日には収穫が多い」で述べた「捨てる」や失敗したときの合言葉「待て、まだ次がある」にもその底辺でつながっている考えでもある
複数の対象を選別し優先順位をつけ高い方から順に然るべき方法で、つまりやや突き放したように俯瞰して処理していく
これはこの21世紀が超高度情報化社会であると言い切れるからこそ成り立つ論理であるが、そのように考えると一歩間違えると鬱や不眠、引き籠もり、拒食(過食)症などに襲われるかもしれないと思われるこの21世紀前半という時代はやはり少し恐ろしい時代と言えるのかもしれない

ここで少し論点を変えよう
私はこの私論を書き始めてから特にこのように思うようになってきている
精神の均衡状態をある一定の部分に集中させることでそれまでは決して見えてこなかった少なくとも自分にとっての真実が見えてくるようになるのではないかと
実は前章とこの章で書いている「距離感」もそのための一つの材料となりうるものであるということができる
横軸に選別があり、縦軸に俯瞰がある、前者は戦略であり、後者は戦術である
その交わった点をある地点にまで導くことによって「自分にとっての真実」が見えてくるようになる
問題はその「ある地点」がそう簡単には見えてはこないということだ
これは大げさに言えば一種の「悟り」のことであるが、そこまでいかなくても鬱や不眠を回避するための何らかのヒントの会得にはつながるのではないかという気がする
ここではある種の主体の理想とする状態が垣間見える、ここに善を当てはめるのも十分可能であろう、善を奉じない者が「距離感」をキーワードに対象と自分との間の最も望ましい状態を模索するとは思えないからだ(かなり知能指数の高いテロリストはこの例外かもしれないがそういう人は少ない)、誰でも自分が「何を好きで何をやりたいか」が明確にわかっている者は、それを部分的にではあっても実現させようと試みるが故に適度の緊張と弛緩の繰り返しによる継続的な精神およびフィジカルの連動した運動または活動を日常において自身に無意識のうちにも課すようになる、それはそれ以前よりも忙しい日々につながるにもかかわらずそこには夢を持たないような者であればきっと経験できないであろう充実感があるのである、夢や希望を持って毎日を過ごす者の方がそうでない者よりも苦悩することも多い代わりにまた笑顔も多く見られるように思うのはきっと私だけではあるまい
そのような夢追い人は幾つかの試練を味わうが故に現実というものがどういうものであるかもまた自然と知るようになる、そして悔恨や屈辱、または敗北感を多く経験しながらもしかし最終的にはその理想に最もふさわしい定住地を精神的なレヴェルにおいて見つけることになる、故にそこにたとえ成功はなくとも彼にはもう迷いはないのである
そしてそのような彼、彼女こそが100%ではなくとも発見可能なのが上記した「ある地点」なのである

想像力も、創造力も理性的に示される「ある地点」と主体が持つ理想とが見事にシンクロしたときにのみ本来有する力を最大限に発揮することができる、迷いがない者の行為、発言というものはしばしばそれを見る者を圧倒する、そこにおいて技術がまったく関係ないとは言い切れないが、迷いがないとは嘘がないということであり、もっと踏み込んだ表現を用いれば時に「はらわたを見せる」ということでもある、真実は静謐なものからのみ生まれしたがって嘘が少しでも混じれば暫定的には頂点を掠めとることはできても、歴史の荒波に耐えうることはできまい、ここは本質的な問題であり故に高等な問題ではない、芸術家という肩書を持たない者でもこれは十分理解できる話である、人間であれば誰でも持つ二面性(本音と建て前でもある)の最も合理的な関係において実はそこに情念の入り込む余地はなく、行き着く先は常に「にもかかわらずの平穏」である
だからこそ人類は文明というものを短期間に宇宙の真理を解き明かすことができるかもしれないという地点にまで到達させることができたのである、そしてここに見られる冷徹なまでの静寂と絶対値ゼロの無振動の世界は「人類共通の」という表現を使っても差し支えないであろうと思えるほどの普遍性を有しているのである

Universe

切り口をどこに設定してもやはりこの言葉が出てくる、ここは「道徳」ではなく「信仰」の出番である、たとえホモサピエンスが神との比較において著しい不完全性をすでに露呈させているのだとしても、私たちが理想を語る以上、この本質的な議論の中心においては万事において決して一切の譲歩を許してはならない
なぜか?
このような発言を一日本人が行うことを何卒甘受願いたい
それは私たちホモサピエンスが神の理想を実現させるその一翼を担うことができると私は確信しているからだ
なるほどそのためには信じられないほどの時間の経過というものがこの期に及んで尚も必要になるのであろう、そしてそれを考えると一介の人生というものが何とも枯れ葉のように儚い存在に思えてくるのではあるが、だがここでそれでも尚「信じる」を選択するのであればきっとアリストテレスの時代より私たちの果たすべき責務というものは数えきれないほどの変遷を経ているにもかかわらず何も変わっていないのであろう
私たちはすべて「数多の変遷にもかかわらず生き残った者」の末裔である、理想を語ることを情念の故にであろうか受け入れなかった者は皆淘汰されたのだ、30万年という時間はこのような過程を論ずるには十分すぎるほどのものであろうか?
きっとそれでもまだ足りないのであろうが、信じるとは「にもかかわらず前進する」ということだ、今日もまた正しいが故に斃れていく者たちがいる、いったい誰がその遺志を受け継ぐのか?ここに衝撃は要らない、ドラマティックでも何でもない静かな時間がしばしそこに流れるだけだ
99%の忘却、だが残りの1%が彼の偉業を引き継ぐことができれば時代は変わる
なぜ時代は変わらなければならないのか?
普遍的な理想がそこにあるからだ
なぜ普遍的な理想を私たちは叶えなければならないのか?
そこに真実があるからだ
では真実とは何か?
すべての命の最終的に善的な救済のことである
ではまず無力な私は何をすればよいのか?
それはこれであろう
祈り
だがそれについては次の章で述べる

さて話を実務的な段階まで戻そう
優先順位一位の対象は一定の意志の力を必要とするが、それを引き出すのが夢または目標である、そしてその夢または目標を引き出すのが「感動」である、そしてその感動の源となるのが「感じる力」である
だから感受性豊かな青春期において「いかに生きるか」が問われるのである
優先順位一位は彼が瞬間熱の虜にならない限り、まるで惑星のようにそこに存在し続ける、そして彼が彼の「やる気」の源泉になっているものや人生の本質と思えるもの(17歳くらいでこれはわかるようになる)を、何らかの理由によって覆い隠さない限り、それは彼の人生の精神的支柱となりうるし、そうあり続ける
正直な話ここでは「孤独」を避けて通ることはできない、私たちは物心ともに常に何かとつながって生活しているが、しかしこの「つながる」においてその優先順位一位とのつながりを重視しなければもしかしたらいつか後悔を味わうことになるかもしれない、だがここは選択の難しいところでもある
私は慣習をただ踏襲することよりも夢を追うことの方が人生においては価値を持つのだということがもっと社会的に認知されるべきではないのかと書いたが、しかしこれは保険と保障の喪失が起こりうるかもしれないこの21世紀初頭、もっと本質的な議論として重視されてもよいのではないかと思う
対象は遠すぎてもうまく認識することができないが、近すぎても結果的に空回りするだけであろう、対象との距離をうまく測るには「これだけ」ではなく幾つかの「こっちも」が必要になる、一言でいえば複眼的であることが求められるのである
無論、人は一度に複数の作業を行うことはできないので、そこは優先順位をつけなければならないのだが、b→c→d→e→fの循環が生まれることによって優先順位一位との適度な関係を保つことができるのではないか、つまり「抑制」と「俯瞰」を比較的高い確率で概ね常に維持できるのではないかという気がする
最後にもう一度この言葉を述べておこう

シンクロ

若い諸君にはこれだけで判断の際のヒントになるのではないか、君が真に感動を知る者であるならば、インスピレーションが君の夢または目標を支える意志が目指すべき場所を指し示すであろう、正確を期す必要はない、そこに嘘がなければよいのだ
しかしツールと選択肢が増えた分、それはなかなか難しいものになってきているのかもしれないが……

祈り

祈り(2017/06/25)

さて前章では、「距離感」Part2と題して、私と優先順位一位である対象との適切な距離感の維持について語った
この「距離感」というものは複数の対象に優先順位を付けた場合でもそのうちの一つを選択した場合でもまったく同じ意味を持つ

最大限の自由で合理的な充実感

これは青春期を生きる者に限らないどころかきっと還暦を過ぎた者にとっても日常生活のためのもっとも重要なこだわりとなりうるものであろう
安全かつ円滑な時の流れというものは何らかの目標を持つが故に理性的に物事を判断するつまり冷静沈着さを自身に課している人々からすればいわゆる「二度手間」を省くという点でもきっと常に意識されていることであり、その結果自然と身に着くものなのであろうが、これは演繹的に考えても「距離感」を測るための第一歩であり、そういう意味では僭越ながらこの「距離感」をうまく測ることが幸福な人生のための実に重要な意識、認識の運用つまり知的なそして冷淡な精神的作業につながるのである
ここでは損得勘定というものが多くの場合排除されているかまたはそうなるべきである、なぜならばこの「最大限の自由で合理的な充実感」というものは「感じる力」のみによって育まれる「自分が何を好きで何をやりたいか」をある程度であったとしても認識していることが絶対条件であるからである
果たして損得勘定は時に「好き」を下回るのであろうか?
この答えがYesであることを私は望むがしかしそれは個人の希望的観測でしかあるまい
すでに結果が決まっているのであればできるだけ早くゴールに到達した方がよいと書いた、無論人生において究極的には保証などまったくない、だがその時点における比較的高い可能性に賭けることはできる、さらに言えば賭けが功を奏することもある、また決して「追求」を旨としていたわけではないのにてっぺんとまではいかなくとも真ん中より上くらいに達することもある、きっと時代が変遷してもそのような例が尽きることはあるまい、だがだからこそ個の視点、ヴィジョンが重要になるのである、それは個の熱情と重なり時に壮大な夢物語を描く、まったく現実的ではない彼の戦略はしかし客観的一貫性がそこにある場合、彼の運命をどこかで一変させることになるかもしれない
揺らぐことのない善的な意志は最終的には運命をも屈服させる
迷いがないとは嘘がないということだ、自分の最大の弁護人は自分自身であるべきだ、そして「ある地点」を一度でも経験するものは確信するが故に、それの「継続」に成功する、限りなく直線に近い道を行く者こそ最も多くの勇気を必要とする者である、なぜならばそこには遮蔽物がないからだ、「隠れる」は能動的には想像および創造のための一時的な休憩所だが受動的には「ごまかし」のための便利な一手段に過ぎない、故にここではこのように結論付けることもできよう

距離感を測る、そしてそれを理性的、理想的に調節するとは、より多くのリスクを受け入れるということであり、また事前における迷いの原因となるものを排除するということである

それではこの章のテーマ「祈り」に入ろう

さて諸君、「祈り」と聞いて諸君はまず何を思い浮かべるであろうか?
おそらくそれは自らの希望に沿った結果が出るか出ないかがわからないその切羽詰まった状況において何とか良い結果、少なくとも悪い結果が出ないことを必死になって願うその様子であろう
きっと彼または彼女は両手を胸の前で合わせ目を閉じ一言も発することなく事の推移を見守っているのであろう
だがここで私が言う「祈り」とはそれとはややその趣を異にしている、私がここで言う祈りとはその対象となるべき言葉を認識することから始まる
その対象となる言葉とは?

なぜ祈りの対象となる言葉が罪なのか?
実はこの辺りは微妙な表現が続く箇所となる、だからここまで取り上げることができなかったのだ、しかし逆に言えば前章、および前々章の「距離感」よりも一歩踏み込んだものとして認識されるべきものでもある、そしてこの罪⇔祈りはすでに究極の善について私見を述べたが故に私にとっては避けられない課題であるともいえるのであろう
私はすでにこう述べた
人間以外のすべての動植物にとってその存在の拠り所となるべきものは「喜び」である、なぜならば彼らには知恵がないからだと
この前提で議論を進めれば間違いなく私たちは「祈り」にたどり着く、私たち人類が神の理想を叶えるために今後も存在し続けていかなければならないという前提に立ったときに初めてそれは「義」となり、私たちの日常行為を一方では縛りまた一方では解放する、そこにあるのは永遠であり、バランスの取れたほど良い状態でありまたしばしばヒューマニズムを孕んだ未来へと向かう高次元の意志の運動である
これはきっと究極の善の問題でありまた究極の存在の問題でもあろう、1950年代、まだ世界の人口が20億人台であったときにはこのようなことを考える必要はなかったのだ、だがその後人口は爆発的に増え、この2017年地球の人口は75億人に達しようとしている、これは私たちが特別に時間を設けて考えるべき問題にすでに達していると考えてもまったくおかしくない数字である
果たして私たちの胃袋は今後どのようにして食の問題と接していくべきなのであろうか?
なぜ「祈り」がテーマなのに食の話が出てくるのか、しかしそこには矛盾はないどころか極めて切迫した事情があるのである、これは精神の問題だけではあるまい、果たして100年後私たちは火星で栽培された農作物に希望を託すことはできるのであろうか?また遺伝子組み換え作物は間もなく100億人を突破するであろう現状の保険として有効なものとなりうるのであろうか?
だがもしそうだとしても人類がこの地球でしか生き残ることができないのであるならば、私たちはこの人口の問題から今後もしかしたら永遠に逃れることはできないのかもしれない、それとも時々耳にするY染色体の不具合が進み結婚が出産につながらないという時代がほんとうにやってくるのか、そしてそうなった場合医学の進歩にも、もはや期待をかけることができなくなるのか、いずれにせよ人類史上初めての時代にすでに突入していることは間違いなさそうだ
この章で述べることが上記したことの解決に大きく寄与することはあるまい、だがこの宇宙世紀を生きる人々がいつか原点回帰を試みる時(必ずその時はやってくる)、もしかしたら「祈り」は人間の本質は何かという、この21世紀初頭、多くの人々は思いつくことさえしない人類の存在の根幹主題に僭越ながら何らかの一石を投じることになるかもしれない

私たち人類はなぜ30万年もの間この地球という惑星に存在し続けることができているのか、また私たち人類はなぜ今もなお食物連鎖の頂点に立ちまるで全存在のチャンピオンのように振る舞うことができているのか?

果たして私たちホモサピエンスはそれに相応しいほど偉大なのか?

おそらく諸君の99%はここでYesともNoとも言い切れないのではあるまいか?
きっとこういうことなのであろう
私たちは常に何かを得ているが故に何かを常に犠牲にしている、だが文明というものの進歩のスピードが速くなりすぎたために、過ぎ去った風景に気を取られている暇がなくなったのだと、「得る」ことだけを考え「失う」ことにはできる限り神経を使わない、それはきっと結果至上主義の王道を行く最も現実的なメソッド
スローにはそれなりの、ファーストにはまたそれなりの、つまりそれぞれの速度に見合ったそれを奉じる人々には絶対的な価値を持つその時点における最も望ましい判断のための基準がある、だがそれは「共通」であるが故に必ずしも異邦人間においては通用しない、diversityではなくdomesticな法則なのだ
果たして「得る」だけで「失う」ことのない人生などあるのであろうか?
この世はすべて二つで一つである
ならば「得る」もまた「失う」と常にセットで考えられるべきではないのか?

さて本題に戻ろう
「祈り」とは何か?
それはこうであろう
失われたものたちに対する畏敬と感謝の情感を有する人間一人一人が善的な存在になりうることをそれでも尚信じる者たちのそれぞれの存在の対象を知るまたは模索するが故の精神の旅路のうち根源的かつ最も美しい形をとるもの
したがってきっとこうも言えるのであろう

罪とは第一に存在の罪である

これ以上僭越な表現はあらゆる古典文学を総ざらいしてもそうは見つかるまい、だがここまで述べてきた以上私はこのように表現せざるを得ない、ここはたそがれの扉を開けた者にしか理解不可能でありまた発言自体社会的にも許容されえないものであろう

究極の善、私はすでにそれについて述べている、私の諸々の発言の責任は私自身が論理的にまた社会的に一貫性を持つものとして多くの人々に受け入れられるように今後もどのような形式であれ負っていく他あるまい
善とはきっとそのようなものだ
衝撃はそこにはなくただただ昨日と同じような風景が広がっているだけなのに、たんぽぽの種子のような綿毛がしかし明らかに昨日までとは違う結果をさりげなく示している、そして人々はいつものようにそのことに後で気付く
しかしきっといつかそのような人々は増えていくのだ

祈りを知る人は善を知る人であり故に普通の人である

二つの私論の補てん(2)

二つの私論の補てん(2)

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-05

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著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 今なら耐えられるでしょう
  2. 洞察
  3. 霊感、インスピレーション
  4. 距離感
  5. 距離感Part2
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