無慈悲症候群(ブルタリティ・シンドローム)

無慈悲症候群(ブルタリティ・シンドローム)

 上の階の足音は一時間以上、続いている。
 ユイはベッドにひざを抱えて座り、暗闇を見つめていた。眠い。眠りたい。だが横になってうとうとしても足音ですぐに目が覚めるので、あきらめて身体を起こしている。
 時刻は午前一時を回っている。
 真上の部屋に新しい住人が引っ越してきたのは二ヶ月ほど前。毎晩この時間になるとその人物は部屋をうろつき出し、下階のユイの部屋へけたたましい足音を響かせてくる。一体何をしているのか見当もつかない。
 天井の蛍光灯のひもが足音のたびに震える。ユイはこめかみを押さえた。下の階の人間が夜も眠れず苦しんでいるなんて、上の住人は気付いてもいないのか。
 頭上からの音には強い圧迫感がある。隣の部屋の水音や下の階のテレビの音などはユイもあまり気にならないが、この足音だけは耐えがたい。
 ユイは毛布に鼻先を突っ込んで目を閉じた。静かに眠りたいだけなのに。それだけのことなのに。
 一度だけこの状況を上司に相談したことがある。ユイにとっては最大限に勇気を振り絞った上での行動だった。
 この部屋は民間のマンションの一室だが、賃料を払っているのはユイの勤め先である厚生労働省なので、何かあったら管理人ではなく上司へ報告するように言われていた。
 苦情を訴えられた課長のシノハラは、部屋に入ってこの足音を耳にした三秒後に「大したことはない。我慢しろ」と言い放った。
 ユイにとってシノハラはこの世で一番苦手な人間だった。だが緊張と不安に体を固くしていたユイもさすがに言い返した。
「そんな、音のたびに天井の、電気のひもが揺れてるんですよ? 大したことある……と思うんですが……」
 シノハラににらまれて、反論は尻すぼまりになった。
「我慢しろ」とシノハラは繰り返した。それ以上、続きはなかった。シノハラはもう何も言わなかった。話はおしまいだった。
 ユイは涙をこらえ、シノハラを見た。艶のあるロングヘアを左右に垂らしたシノハラもこちらを見つめている。シノハラの切れ長の双眸はなまじっか美しいために、相手を萎縮させる。シノハラは厚労省の第三厚生局で間違いなく一番の美女だが、男性職員たちをときめかせるようなことはない。むしろ恐怖され、避けられている。
 別れの言葉もなくシノハラは帰っていった。
 以降もずっとユイは上階の足音と戦っている。
 いつまで続くんだろうとユイは思う。こんな毎日が一体いつまで続くんだろう。
 夜になるのが怖かった。いつ上の住人が帰ってくるかと思うと身構えてしまい、無音の間も安らげないのだ。
 シノハラには大したことではないと言われてしまった。わたしだけなのかなとユイは考えた。この程度の足音、普通はなんともないのかな。わたしが細かいことを気にするタイプだから悪いのかな。もしわたしが神経質な人間じゃなかったら苦しまずに済んだのかな。
 不意に静寂が訪れた。五分ほどユイは、注意深く上階の様子をうかがった。
 嘘のように静まり返っている。静けさがかえって耳に痛いほどだ。
 さらに五分待ってユイはやっと肩の力を抜いた。
「終わった……」
 上の住人は「行進」を終えたらしい。いつもこんなふうだ。唐突に終わる。そのタイミングは毎日バラバラでなんの規則性もない。
 さあ寝よう。倒れるように横になり、ユイは布団を被って目を閉じた。
 頭が冴えて眠れない。体はクタクタだし、睡眠不足なのに寝付きが悪い。また音がし始めるんじゃないかと思うと落ち着かないのだ。
 三十分ほど悶々として、やっとうとうとしてきた。このまま昼過ぎまで眠らせて。祈りながらユイは意識の暗闇に落ち込もうとした。
 枕元の電話が振動した。ユイは目を見開いた。着信を告げるバイブレーションに心臓が早鐘を打ち始める。
 スマホの液晶には「BSDD」と表示されている。
「はい」ユイは電話に出た。
「寝ていたか」とシノハラが言った。
「起きていました」と答え、ベッドに身を起こした。
「ターゲットが発症した。家だな? 支度をして待っていろ」
 シノハラは電話を切った。
 ユイはため息をついた。泣きたい。やっと眠れると思ったのに。仕事だ。
 電灯のスイッチを入れた。蛍光灯が部屋を照らし出した。ベッド脇のチェスト、テーブル、洋服ダンスは白。棚と兼務の収納用のカラーボックス、絨毯、カーテンは黒。白黒映画のような彩りのなさ。
 ユイはパジャマ代わりのスウェットを脱ぎ、ブラジャーを着けた。上にインナーとグレーのセーターを着て、チェストの引き出しを開けた。赤いメガネ型ウェアラブル端末を取り出し、かけた。
 しゃがんで壁とチェストの裏板の間に手を突っ込む。裏板には切れ目が入れてあり、隠し戸棚になっている。中からオートマティックの拳銃を取り出す。黒光りするシグ・ザウエルP226。
 セーターの上にショルダーホルスターをつけ、P226をしまってスカートを履いた。鏡の前に立ち、軽くウェーブがかった黒髪を丁寧にブラッシングした。
 ヘアブラシをにぎりながら自嘲気味に思う。髪型を気にするなんて滑稽だ。身づくろいなんてナンセンスだ。
 これから人を殺しに行くのに。
 ブラシを置いてホワイトレザーのジャケットを羽織り、ホルスターを隠すと電話が震えた。
「着いた」とシノハラは言ってすぐに切った。
 ユイは部屋を出た。階段を降りてエントランスに出ると、ガラス扉の向こうにシノハラのクーペが見えた。
 ユイが助手席に乗り込むとシノハラはすぐにエンジンを始動させた。マンション前の路地へ車を出しながら聞いてくる。
「体調」
「問題ありません」とユイは答える。
「銃」
「本体、マガジン共に問題ありません」
「端末」
 ユイはメガネ型ウェアラブル端末のスイッチを押した。
「問題あ……」
 息を止める。そう言えば前回使ってから充電していない。
 顔がカッと熱くなる。何度もスイッチを押すが端末は作動しない。
「じ、充電を忘れていました……」ユイはどもりながら謝った。「申し訳ありません」
 シノハラは何も返さない。
 赤信号でクーペは停車した。シノハラが左手をハンドルから持ち上げる。ユイはぎゅっと目を閉じた。殴られると思った。だが覚悟した痛みはない。シノハラはダッシュボードを指した。
「予備電源が入ってる」とシノハラは言った。「次から気をつけろ」
 ユイは黒い長方形の電源を取り出し、顔から端末を外した。震える指で苦労して端子をメガネのつるの穴に差した。


 幹線道路上でシノハラが「回転灯を回せ」と命じた。道が混み始めていた。ユイはもう一度ダッシュボードを開けて赤い回転灯を取り出し、屋根につけた。
 サイレンが響き渡る。シノハラは悠々とハンドルを回し、一般車両を押しのけて車を直進させた。


 現場は四階建てのファミリー向けマンションだった。所轄の警察が前の道路を黄色い規制線を貼って封鎖していた。
 シノハラが車を降り、ユイも続いて降りた。寒い。空気が冷え切っている。
 マンションの真ん前に覆面パトカーが停まっている。そばにベテランらしき年かさの刑事と、精悍な若い刑事が立っている。
 シノハラは二人に声をかけた。
「お疲れ様です」
「お疲れさんです、待ってました」ベテランの刑事が返した。
 若い刑事はけげんな顔をする。シノハラとユイを見てしばたたく。
 ベテランが説明した。
「お前は初めてだったな。BSDD――無慈悲症候群処理課(Brutality Syndrome Dealing Division)、今回の事件を専門に扱う部門のひとたちだ。BS発症者を処理(ディーリング)するんで、その隊員はディーラーって呼ばれてる」
「警察にそんな組織が?」若手刑事が首をかしげる。
 シノハラが手帳を取り出して身分証のページを開いた。顔写真と「特殊処理官」の肩書を示す。
「我々は厚生労働省の特別司法警察職員(※警察官と同等の資格を有する警察官以外の公務員)です」とシノハラは言った。
「厚労省?」若手がたずねる。「マトリ(※麻薬取締官)みたいなものですか?」
「違います」シノハラは首を振った。「我々が相手にするのは「病人」ですから。「犯罪者」ではなく」
 シノハラと刑事が話している後ろで、ユイはマンションを見上げた。二階の右端の部屋だ。激しく吹き上げた血のあとが窓に黒々と付いている。
 雨の日の頭痛のような憂鬱がせり上がってくる。
「ではよろしくお願いします」と言ってベテランが敬礼した。若手もそれにならったうえ、律儀に右手を差し出してきた。
 シノハラが握手する。若手はユイにも手を差し伸ばす。ユイは息を止め、ためらってしまった。いけない。拒否すれば気まずい空気になる。
 意を決して手をにぎる。大きくてゴツゴツしている。現場の警察官の手。
 手を離すとユイは後ろを向いた。そっとウェットティッシュを取り出して手のひらや指の間をふいた。
 ティッシュを丸めてポケットに突っ込んで振り返ると若手が目を丸くしていた。隠し切れず見られたらしい。ユイは硬直したが、若手は不快そうな感じでもない。珍しい生き物の珍しい生態を目撃したような、ア然とした表情。


 車へ戻る女ふたりの背中を見送りながら、若手はベテランにたずねた。
「二人だけなんですか?」
 ベテランはうなずいた。遠くを見る目になっているのは心が早くも現場を離れ始めているからだ。
「第三厚生局のBSDDにはあの二人しか所属してない」
「えっ」
 若手は驚いた。現場に来たのが二人だけか? という意味で聞いたのに。
「組織自体が二人だけ?」
「そうだよ」ベテランが若手を見た。
「BSDDはどこも少数精鋭だ。相手は必ず単独だからな。でもまあ第三厚生局の「二人」ってのはダントツの少なさだ」
「たった二人で……そりゃ大変だ」
「しかも女手だ。大したもんだよ、きれいな仕事でもないのに」
 ベテランは腕を組んだ。
「俺たちにとっちゃ大助かりだがな。BSの連中は微妙な存在だ。正気じゃねえんだから穏便なやり方じゃ制圧できない。だが連中は一応、犯罪者でなく病人だ。武装した警官隊が射殺なんてしちまったら一大事。人権派のメディアやネットがうるさく吠えてくる。でもBSDDなら警察ほどマスコミも注目しないし、世間の認知も低い。目立たずに泥をかぶれるってわけさ」
「なるほど」若手は現場の窓を見上げた。「あの性格きつそうな美人が突入する隊員で、潔癖症の女の子は秘書かなにか?」
 ベテランは笑った。
「あのべっぴんさんはBSDDの課長殿だ。元はマトリで、厚労省のキャリア組さ。もう一人のお嬢ちゃんこそ偉大なる戦士様だよ」
「あの子が?」
 若手はシノハラたちを振り返った。
 ベテランは冷え切ったボンネットに手をつき、つぶやくように言った。
「十分で終わっちまうよ」


 シノハラは運転席へ戻り、カバンからタブレット端末を取り出した。外のユイへ「始めよう」と告げる。
 ユイはウェアラブル端末の電源を入れた。カメラが立ち上がり、シノハラのタブレットの液晶にユイが今見ているものが――シノハラの横顔が映し出される。
 シノハラがうなずいた。ユイはジャケットの内側に手を差し入れた。同時にユイの視界は暗くなる。周囲の音も遠くなる。ちょっと不快だ。この感覚、いまだに完全に慣れることができない。だが一度「交代」が始まるとユイにはどうしようもない。
「交代」は自動的で、ユイの意思では制御できなかった。
「調子は?」
 シノハラの声が厚い壁越しのように聞こえる。
 仕事が始まった。


「調子は?」
 シノハラがたずねると、外に立つ「彼女」はジャケットの内側からゆっくり銃を引き抜いて「問題ない」と答えた。
「ユシーヌ、状況を説明する」
 シノハラは「彼女」の表情をうかがう。「彼女」は無表情にこちらを見つめる。レンズ越しの瞳は底なしの井戸のように空虚だ。ユイとはまるで別人だ。
 目の印象が違うのは「交代」にともなって瞳孔の大きさが変わるせいだ。そう分かっているが、何度見てもユイとの目つきの違いに威圧される。毎回シノハラは「彼女」――ユシーヌの瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚える。
 シノハラはタブレットに目を戻し、手短に説明した。
「現場は一階右、最奥の一○四号。2DKのファミリー向けマンション。父、母、中学生の娘、幼稚園児の息子の四人家族。発症者は母。家族の安否は不明。発生から四十分経過」
「了解した」ユシーヌは低い声で言い、銃の遊底を引いた。無言で歩き出す。
 シノハラは動き始めたタブレットの画面を見ながら息を吐いた。
 慣れない。あの目には、やっぱりどうしても。ユイと出会って五年たつのに、ちっとも見慣れた感じがしない。
 シノハラ自身も冷たい目つきをしていると自覚している。ユイが自分の目つきに怯えていることも知っている。だがユイ――ユシーヌのはそんな次元じゃない。血の通った人間の目つきじゃない。死神だ。空っぽすぎる。ユシーヌの目にはなんの表情もない。これから人を殺そうというのにいきれや力みがまったくない。興奮、動揺、悲哀、躊躇、決意――そういうものが一切ない。
 だからこそ、この仕事に適任だ。感情がないということは極限まで冷静ということだ。感情は手元を狂わせる。正確な仕事の邪魔をする。
 ユシーヌはニホン人が箸を使って食事をするくらい簡単に人を殺せる。無限に冷静に。
 タブレットはマンションの廊下を映し始めた。暗がりに白く浮いているのが一○四号室の玄関だ。
 シノハラの目元や首筋が熱くなる。ユシーヌの仕事が始まるとき、ヒーロー映画に食い入る子供のような気持ちになる。タブレットの映像にかじりついてしまう。
 ユイは解離性同一性障害(多重人格)で、「ユシーヌ」は彼女の別人格だ。ユシーヌの手がドアノブに伸びているが、それをユイ自身は見ていない。ユシーヌが表にいる間ユイは、彼女自身が表現するところの「意識の暗がり」にいて、音だけをかすかに聞いているのだそうだ。ただしユシーヌの考えていることだけははっきり分かるらしい。
 シノハラは録画開始アイコンをタッチした。


 ユシーヌは一○四号室のドアを見た。鉄製でなかなか重厚だ。開けるときに少し音がするかもしれないが、唐突な攻撃には盾に使えるだろう。
 ドアを開ける。オレンジ色の明かりが漏れる。物音はない。思い切って大きく開く。
 ユシーヌは銃を構えながら室内に踏み入った。
 ひどい散らかりようだ。端に置いてあった棚が倒れ、ガラス瓶や子供のおもちゃが廊下に散らばっている。足の踏み場もない。
 そのただ中に少女が倒れていた。腕と足を広げて大の字になっている。喉元に細身の包丁が突き刺さっていて、血が廊下を濡らしている。脈を見るまでもなく絶命している。
 ユシーヌは周辺の床をチェックした。少女は廊下の進路をふさいでいる。周りには様々な物が隙間なく転がっていて、不用意に踏んだら大きな音を立ててしまいそうだ。
 ユシーヌは迷わなかった。少女を踏みつけて直進するのが安全だと判断した。
 成長途中の――もうそれ以上成長することのなくなった未熟な胸にブーツを乗せた。全体重をかけると、ごぼっ、という音がして、喉の穴から血があふれた。
 遺体を踏み越えた先に障害になるようなものはなかった。ユシーヌは前進した。
 左手にトイレと風呂場が並んでいる。その向かいにドアが開きっぱなしの部屋がある。ユシーヌは銃を押し出しつつ中をのぞいた。夫婦の寝室のようだ。ベッドに寄りかかるようにして男が床に尻をついている。体をこちらへ向けているのでユシーヌと正面から向かい合う形になる。だがその目は閉じている。喉を切り裂かれ、自分自身と床を真っ赤に染めて絶命している。
 父、娘は死亡。
 ユシーヌはさらに廊下を進んだ。正面はダイニングキッチンのようだが、電気は消えている。キッチンの手前にやはりドアが開きっぱなしの部屋がある。ユシーヌは立ち止まった。
 がたがた、という物音がする。
 ユシーヌはそっと入り口の壁に張り付いた。
 いる。
 部屋の奥に一人、いる。
 ユシーヌはくるりと回転し、入り口へ体をさらした。
 パジャマ姿の女の背中が見えた。女は床にひざまずき、小刻みに震えている。床には血だまりができ、窓や壁にも赤いものが飛び散っている。
 女が振り返った。怒ったサルのようなしわくちゃの顔をしている。年齢は三十代後半といったところだが、顔面の筋がすべて浮き出しているため、年齢不詳の凄まじい容貌となっている。
 ユシーヌは銃を狙いすまし、女の目を観察した。白目が青黒い。無慈悲症候群(BS)の病態だ。
 女はよだれを垂らしながら立ち上がった。前が開いて血染めの白い胸がのぞいている。瞳に感情的な光はない。人形の目のように力ない。
 女は獣のようにうなり、こちらへ走り出した。
 ユシーヌは引き金を引いた。乾いた破裂音と肉のはじける音が響いた。弾丸は女の額にヒットした。
 よろけながら倒れこむ女をよけ、ユシーヌは銃を構え直した。うつ伏せになった女の額から血が流れ出し、床に赤黒い池ができた。
 ユシーヌは銃を下ろした。女が先ほどまでかがみこんでいた方を見る。血まみれの幼い男の子が横たわっている。
 ユシーヌは男の子のそばにかがみこんだ。男の子はとろんとした焦点の定まらない目で天井を見ている。
 腹部を何箇所か刺されている。喉や胸などの即死部位への攻撃は受けていない。それをやられる前にユシーヌがこの部屋へ踏み込んだのだろう。
 男の子の顔をのぞき込むと、目がユシーヌへとわずかに動く。生きている。
 ユシーヌは電話を取り出してシノハラへかけた。
「処理完了。発症者は射殺した。生存者は一名。発症者の息子と思われる。腹部を複数箇所刺され、重体」
「了解。見えている」とシノハラが答える。
 ユシーヌは電話を切り、銃に安全装置をかけた。
 そして「疲れた、交代するぞ」とつぶやいた。


 つぶやきが聞こえると、強い光が頭上に降り注いでユイはハッとする。スポットライトのようだといつも思う。中空の暗闇から光が差し込んでくるイメージ。
 ユイはゆっくりまぶたを上げた。血まみれの男の子が目の前に転がっている。息を飲む。
 ユシーヌは仕事を終えるとさっさと意識の影に引っ込んでしまうので、ユイは毎回こんなふうに現場にいきなり放り出される。
 ユシーヌが表面にいる間は真っ暗な部屋に閉じ込められたように何も見えなくなり、周囲の音も聞こえにくくなるが、ユシーヌの声と考えていることは分かるので、そこに重傷を負った子どもがいることは目を開ける前から知っていた。だが分かっていてもいざ目にすると動揺する。被害者が子どもだとなおさらつらい。
「あの……大丈夫?」
 ユイは震えながら声をかけた。
 男の子が瞬きをする。うつろな目つきで、ユイがそこにいるのを分かっているのかも分からない。
「ねえ、わたしはもう行っちゃうけど、救急車がすぐ来るからね」
 ユイは後ずさりしながら言う。
「きっと助かるから、がんばってね」
 男の子は離れゆくユイを見ようともしない。
 ユイは逃げるように廊下に出た。玄関前に喉に包丁が刺さった少女が倒れていて、悲鳴をあげた。ガラス片やおもちゃが散らばっていたが、ユイはブーツの底で騒々しく踏みつけ、遺体に触れないようにドアノブに飛びついた。


  ――――


 午前中のカブキ町は人出が多くない。映画館のある一丁目は団体観光客などでそこそこ賑わっているが、大量の人であふれ始めるのは夕方からだ。早い時間帯は客引きもおらず静かだ。
 午前十時、メイジ通りから道二本隔てた路地をリクは歩いていた。ラブホテルと古いマンションが建ち並ぶ静かな場所だ。
 ゴールデン街の手前の十字路を右に折れると、区役所通りにぶつかるまで雑居ビルがぎゅうぎゅう詰めの通りに出る。
 リクは右の頬をさすった。刺すような痛みが走る。指を見ると少し血が付いている。
 ポケットティッシュで頬を軽くたたいた。
 雑居ビルのひとつにリクは入った。六階建ての古い建物で、三階にはヤクザの組事務所が入っている。
 仕事仲間のワダによると、カブキ町のヤクザの縄張りは非常に複雑で、分かりやすい境界線が引かれていないために同じビルの隣り合った店が別々の組にみかじめを支払っている、ということが珍しくないそうだ。
 実際リクの職場がみかじめを払っているのはここから五分も歩いたところにあるKという組で、同じビルに入居している三階の組には一銭も払っていない。それでいて職場と三階の組の関係が悪いという話も聞いたことがないので、この街ではそれが普通なのだ。
 リクは階段で地下に降りた。踊り場でアンモニア臭が鼻をついた。風俗店の客が夜中に酔っ払って立ち小便をしていったんだろう。
 地下二階の薄暗い廊下の先に鉄の扉がある。リクはナンバー錠を解除し、中に入った。
 目の前にガラス張りのケージがいくつも並んでいる。どのケージにも白い毛並みの、猫と犬を掛け合わせてキツネの鼻を付けたような珍妙な生き物が入っていて、ドアを開けたリクを一斉に見る。
「イム」という名前の動物だが図鑑には載っていない。数種類の動物を特殊な方法で交配して生み出した人工生物だ。その存在は動物愛護管理法、医療法、商取引法などいくつもの法律に触れている。海外の資産家にペットとして人気があり、結構な額で売買されている。イムを扱うイリーガルなペットショップや交配を行う「工場」は全国に複数存在し、ヤクザや犯罪集団の資金源となっている。
 リクはこのペットショップに二年勤めている。いつ警察の手入れがあってもおかしくない職場だ、本当はこんなところで働きたくなどない。だが給料が抜群に良いので背に腹は変えられない、とあきらめている。
 ロッカールームには数人の従業員がいた。
「おはよう」
 リクの隣のロッカーでエプロンを付けているワダが言った。リクも会釈し「おはようございます」と返した。
 ワダは三十代前半の丸刈りで細身の男だ。銀縁メガネの目つきは鋭く、外を歩いているとよくヤクザに間違われる。もちろんカタギだ。
 ワダがリクに何か言った。リクの耳には「ドーイアンア」と聞こえた。
「え?」とリクは聞き返した。
「その傷、どうしたんだ?」とワダが質問し直した。
「ああ……マンションの階段でコケました」とリクは答えてロッカーを開けた。
「ふーん、気をつけなよ」
 ワダはロッカールームから出て行った。
 カバンを放り込み、青い作業着に着替えながらリクはため息をつく。「どうしたんだ」という言葉が「ドーイアンア」と聞こえたことにイラ立っていた。ワダに対して怒っているのではない。きちんと聞き取れない自分自身にイラ立っている。
(落ち着け……落ち着け……落ち着け……落ち着け)
 頭が冷えてくるとエプロンを身に着け、リクは鏡を見た。血は止まっているが、頬には青あざができている。
 今朝あったことを反芻する。
 自宅マンションを出てすぐのこと。せまい歩道の真ん中にサラリーマン風の男が立っていた。スマートフォンの操作に夢中になっているようで、自分が道をふさいでいることに気づいていない。
 リクは体をよじって横を通り抜けたが、その際に肩が軽く触れ合った。男は盛大に舌打ちをし「何ぶつかってんだよ」とリクにもはっきり聞こえる声で言った。頭にカッと血がのぼり、リクは男を振り返った。その時ちょうどやってきたタクシーを男は停め、さっさと乗り込んで走り去ってしまった。
 リクの怒りは行き場を失った。
(やばい……やばい……)
 リクは職場と反対の方向へ足を向けた。ショクアン通りの向こう、ヒャクニン町を目指した。
 横断歩道を渡ってせまい路地に入る。昼間でも薄暗いこの辺りは、昔はかなりにぎわったコリアタウンだったそうだ。リクがシンジュクに引っ越してきた時にはチンピラやヤクザ崩れ、自称ギャング、ケンカ屋、不良などのたむろする、ブロンクスのような危険地帯に生まれ変わっていた。
(落ち着け……落ち着け……)とつぶやきながらリクは足を早める。
 古いビルの裏手に若い二人組がいた。エアコンの室外機に腰かけてタバコ片手におしゃべりしている。一人はテカテカ光るダウンジャケットを着て、鋭角にカットした髭をたくわえている。もう一人はベースボールキャップをかぶり、ダボついたスタジアムジャンパーを袖まくりして、タトゥーだらけの太い腕をのぞかせている。
 リクが近づくと二人は話すのをやめ、敵意丸出しの目つきでにらんできた。
 リクは二人を交互に見下ろして言った。
「タバコ恵んでくれよ」
「あぁ?」
 ダウンを着た男が首をかしげた。低い声でさらになにか続けたがリクには聞き取れなかった。息が口元の空気を白く染めるばかりだ。でも想像はつく。断る、という意思を、可能な限り下品かつ乱暴な言葉で表明したのだろう。
「何でもいいから箱ごとよこせよ」とリクは続けた。
「なんだとコラ」
 スタジャンの男が室外機から降りた。しゃべるたびに男たちの息が白くなる。朝から冷え込んでいて、路地は冷蔵庫のように寒い。
「死にたいんか、てめえ?」スタジャンがリクの顔をのぞき込む。
 リクは「死んだら楽になれるだろうか」と考えた。死んだらもう、こんな苦しみは味わわなくて済むのだろうか。
 だが死に場所はここではない。ゴロツキに殴り殺される最期なんてゾッとすらしない。
「なに黙ってガンくれとんじゃ!」
 スタジャンが拳を突き出した。リクは我に返って避けた。相手が瞬時こちらを見失った隙にパンチを叩き込む。もろに拳を受けたスタジャンがその場に転がると、ダウンの男が「このガキぁ!」とさけんでリクの右頬に拳を繰り出した。
 今度はもろに受けてしまったが転ぶのは堪える。間合いを詰めてきたダウンの足にローキックを繰り出した。無理な体勢からの威力のない蹴りだが、予想外の攻撃にダウンは視線を下げた。
 その鼻っ柱にリクはアッパーを叩き込んだ。ダウンがのけぞって地面に倒れこんだ。
 二人ともうなりながら殴られた部位を押さえ、血を流している。動けないほどのダメージではないだろうが立ち上がってくる気配はない。戦意を喪失したようだ。
 リクは肩で息をしながら右の頬に触れた。激しく痛むがそんなことはどうでもよかった。
 怒りは二人を殴り飛ばしたことで消えた。嘘のようにあっさりと。代わりにもっと重苦しい感情がせり上がってくる。
 二人の男にただ申し訳ないと思う。彼らは不運にも自分のような人間に絡まれたせいで痛いを思いをした。先に手を出したのは向こうだが、こちらが手を出すように仕向けたのだからこちらが悪い。
 罪悪感と息苦しさでリクはうつむいた。
 ――いつになったら終わるんだ。
 元来た道を戻る。その足元に男たちが吸っていたタバコが転がっていた。
 タバコをよこせ、と言ったことなどもう忘れていた。そもそもリクは喫煙者ではなかった。


  ――――


 二日後、オオクボとトヤマ町の境目にある第三厚生局へ出勤するため、ユイは久しぶりに電車に乗った。所属する無慈悲症候群処理課(BSDD)に用があるのだ。
 ユイの勤務形態は特殊だった。基本的には自宅待機で、毎朝定時に出勤してタイムカードを打刻するような生活は一度もしたことがない。シノハラの呼び出しがあるまで、ひたすら自宅で息を潜めて暮らしている。
 元々外出が好きではないので生活っぷりはほとんど引きこもりだ。結果的に月のほとんどが休日のようになってしまうのだが、その代わりいざことが起こるとシノハラの電話は時間を選ばずかかってくる。早朝だろうと夜中だろうと叩き起こされ、現場に急行しなければならない。
 今朝は八時頃に電話がふるえた。
「新しい監視ターゲットが増えた」電話口のシノハラは言った。「適当な時間にこちらへ来い」
 ユイはシャワーをし、朝食をとって、存分にぼやぼやしてからマンションを出た。ゆっくりした出発になったのは電車が混む通勤時間帯を避けるためだ。人の多い空間は冗談抜きに苦痛だった。満員どころか乗車率七十パーセント程度の電車でもユイは冷や汗びっしょりになる。
 だが今日はついていなかった。近接する別路線で人身事故が起き、向こうの乗客がこちらの路線になだれ込んできたのだ。時間帯と不釣り合いにひどい混雑になってしまった。
 ユイが乗車した次の駅で、足を乱された人々の濁流がなだれ込んできた。その人波を目にした瞬間ユイの背筋は凍りついた。車内はあっという間に寿司詰め状態となり、ユイは呼吸を止めた。
 全員が少しでも快適な空間を確保しようと、肩や二の腕で前後左右の人壁を押した。ユイも自分の意志と関係なく、見ず知らずの人々とへし合う羽目になる。
 心拍数が跳ね上り、涙があふれそうになる。
 人間が多すぎて電車は一分遅れで出発した。ユイの体は車両の真ん中あたりまで押し流されていた。両腕にも背中にも胸にも赤の他人の体が密着する。吊り革を握りしめる手に汗がふき出す。
 深呼吸する。何度も。だが深い呼吸を繰り返しているとかえって息苦しさが増してきて、さらにつらくなる。
 人身事故の影響で電車が遅れ、車内が大変混雑しております、というアナウンスが流れた。
 ユイの周囲で何人かが舌打ちをした。その事故のために予定を狂わされた人々。みなイラ立っていた。
 ユイの隣に立つ太った男がつぶやいた。
「一人で勝手に死ねよ、バカ野郎が」
 ユイは男を横目で見た。もこもことしたニットコートを着て、手荒れのひどい指でスマホをいじっている。三十は過ぎていると思うが顔中にニキビのような吹き出物が散っている。
 男はずっと貧乏ゆすりをしている。ユイは気になって仕方がない。密着して立っているから揺れをもろに受けてしまう。
 ユイはうつむいて全身に力を込めた。自分を石のように硬くして、不快感を軽減しようと試みた。涙ぐましい努力と言えた。だが汗がますますふき出すばかりだった。
 厚生局の最寄りのオオクボ駅まではあと十分ほど。ユイは浅い呼吸を繰り返しながら、その時間を永遠のように感じた。


 リクはスマホをいじりながら、目の前の乗客の青白い顔を見た。軽くウェーブした黒髪の、二十歳そこそこの若い女だ。細身の体に白シャツと黒いセーターを合わせて灰色のコートを羽織り、まるで白黒映画の登場人物のようだ。
 一つ前の駅で大量の人波に押され、ちょうどリクが座っている真ん前に移動してきた。予想外に満員となった車内に困惑し、居心地悪そうにしている。
 どこかで見た顔か? とリクは考えていた。
 目が大きく色白で、どことなく薄幸そうな雰囲気。
 うまく思い出せないがじっと見つめ続けるわけにもいかないので、リクはスマホに目を戻した。
 妙に意識がざわつく。落ち着かない。
 変に思われない程度にチラ見をしながら、知らない顔だと思う。けれど何か気になる。リクは頭を回転させた。しかし何も思い出せない。女の顔はリクの記憶の様々な顔と一致しない。
 リクはあきらめてスマホのニュースサイトに目を落とした。記事の見出しを見るともなくながめる。
 ぼんやりと画面をスクロールさせていたら、ある見出しにリクはハッとした。
「都内でBS発症者が家族を殺害」とある。
 記事ページに飛ぶと、一昨日の深夜にシンジュク区内でBS患者が暴れて家族三人を殺害した、ということがシンプルに書いてあった。発症者は三十代の女性で、その場で当局によって射殺され、夫と娘は現場で死亡、息子は重体で発見されたが病院に運ばれて間もなく息をひきとった、とある。
 リクは長い息をはいた。少し遠くを見たくなって――と言っても目の前は人だらけだが――顔を上げた。
 その時、女の様子がおかしいことに気がついた。額に玉の汗を浮かべ、ちらちら隣の太めの男を見ながら浅い息を繰り返している。つり革を握る手も震えているし、顔色も先ほどよりもさらに青い。あまりの混雑に本格的に体調を崩したのだろうか。
 リクは男のほうを見た。スマホをいじりながら激しく貧乏ゆすりをしている。
 女の苦痛の理由が分かった。自分がこの女の立場でも同じように感じて震えただろうな、と思った。
 リクは満員電車のような前後左右を他人に囲まれる空間がひどく苦手だった。パーソナルスペースが広く、神経質で潔癖。他人の体が自分に触れるのは、かなりストレスのたまるシチュエーションだ。
 このひともそうなんだろうな、とリクは女を見て思った。
 それから数秒間迷ったすえ、リクは女に声をかけた。
「大丈夫ですか?」
 女は薄目を開けて「え?」といった感じでしばたたいた。
 リクは座席から尻を浮かせた。
「座ってください」
 女は一瞬、首を振りかけた。だが太目の男をもう一度横目で見ると、口を動かした。よく聞き取れなかったが、唇の動きで「ありがとう」と言ったのだと分かった。
 女が座席に座り、リクはその前に立った。女は呼吸を整えるようにゆっくり肩を上下させる。
 隣の男は貧乏ゆすりを続けている。
 こりゃひどい――リクは男を見た。神経質なタイプじゃなくても耐えられないな、これは。
 ただでさえ満員のぎゅう詰め状態で不快だというのに、こんな図体の人間に体をこすり付けてこられたんじゃたまらない。
 リクは男の側の腕を大げさに上下させた。男が弾かれたようにリクを見る。「なんだよ?」というイラついた表情。
 リクはゆっくり首を回し、殺意のこもった鋭い目つきで男をにらみつけた。男は驚いて目をそらし、そのままじっと動かなくなった。


 新たにターゲットになった人物の写真にユイは目を丸くする。これ、さっきのひとだ、間違いない――。
 オオクボの第三厚生局、一階東側廊下の最奥、こじんまりとした部屋にユイはいた。電車を降りて冷たい北風を浴びたら汗があっという間に引き、今さっきやっと人心地を取り戻したところだ。一枚の写真を前に、ソファーに膝をそろえて座っている。
 ユイは執務机のシノハラを見た。机上に目を落として何か書き物仕事をしている。多分おとといの「処理」に関する書類を作成しているのだ。
 ユイは写真に目を戻した。交差点に立って信号待ちをしている若い男。当然、盗撮だ。しかし男はまるでカメラに気づいているかのように、切れ長の鋭い目をまっすぐ真正面へと向けている。さっき席を譲ってもらった時よりも少し髪が長く、頬に貼ってあった絆創膏もない。
 写真の男はあの親切な男と同じ顔をしていた。間違えようもなく同一人物だ。
 なのにユイの中で二つの顔が一致しない。頭では同じだと思うのに、心が同じだと認識しない。奇妙な感覚だ。
 ユイはもう一度シノハラを見た。この男について何か言いたくて、しかし言えることなど何もないと気付き、黙る。
 この無慈悲症候群処理課(BSDD)のせまい部屋には、資料の詰まった棚と執務机、そして他の課から譲ってもらった応接セットがひと組あるばかりで、あとは何もない。課というよりその課の課長室といったおもむきだが、BSDDの占有する部屋は第三厚生局ではこの一室のみだ。人員がシノハラとユイの二人だけなので、それで充分なのだ。
「キクチ・リク。二十歳。発病から五年だ」
 顔を上げずにシノハラは言った。
「ユイちゃんの一個下だね」と、ユイの正面でソファーにかけているスーツ姿の男が言い足す。
 ユイは男を見た。男は読んでいたスポーツ新聞をたたみ、続けた。
「五年前というと、厚労省が無慈悲症候群(BS)の患者のデータを収集し始めた時期だ。多分、データから漏れちゃったんだね。調査を開始した当時はデータや情報の管理が良くなかったから、こういう隠れた患者が今も結構いるんだ」
 男は優雅に足を組んでいる。まるで課員の一人のようなくつろぎっぷりだが、そうではない。男はシノハラの弟で、国立総合医療研究所(総医研)の研究員であるシノハラ・タクミ。精神医療の専門家で、過酷な仕事を担うユイのメンタル面のケアと無慈悲症候群に関する医学的なアドバイザーを、厚労省からの嘱託を受けて担当している。
 シノハラより二つ年下の三十歳。顔は似ているがそれ以外にこの姉弟には共通点がない。めったに笑わず、常に威圧的なオーラを醸し出しているシノハラと違い、タクミはいつも優しげな笑みを浮かべていて、爽やかで気安いタイプの人物だ。実際言動も穏やかで誰とでもすぐに打ち解けられるし、ひとを悪し様に言うこともほとんどない。厚生局の女性職員にもとても人気がある。
 だがユイはタクミに対し、表面的な評判とは違った印象を抱いている。
 タクミが精神医学の道に進みながら、医者にならなかったことについての話だ。
 病気を治すことにまるっきり興味がなく、ただ純粋にひとの心の底の狂気に興味があるだけ、と本人が以前言っていたのをよく覚えている。どこの誰の心が壊れようと治療したいなんて全然思わない、むしろ壊れるだけ壊れて極限まで行ったところを見てみたい、とも話していた。いつもの穏やかな笑顔で。そこに悪意は感じられなかった。だからこそ「やばい」と思った。
 シノハラとは違う意味で、ユイはタクミのことも怖かった。少なくとも気の置けない人とは感じられなかった。
 今日タクミは、新たにBSDDの監視対象となった人物の情報を総医研から持ってきた。ハッキングの可能性を考慮し、電子データではなく紙に印刷したものと写真をわざわざ届けてくれた。
 ユイはもう一度対象者の写真に目を落とした。そしてさっきの人、BS患者だったんだ……と改めて思い、息をついた。
 ということはいつか発症したら、わたしがこの手でさっきのひとを――
「どうした?」シノハラが書類から目を上げて、尋ねた。
 ユイは首を振った。
「いいえ、別に」
 その時不意にドアの外が騒がしくなった。誰かが誰かをなだめるような声と、「いいから、会わせてくれ」という大きな声が同時にした。
 シノハラ、タクミ、ユイの三人はドアを見た。
「分かりました、分かったからちょっと落ち着いてください、あ、ちょっと!」という男の声――これはユイも知っている、受付窓口の職員のものだ――がし、いきなりドアが開いた。
 ドアを開けたのはMA―1タイプのジャンパーを着た、痩せ型の見知らぬ男だった。
「うちの妹を殺したのは、あんたたちか」
 男はいきなり大声で言った。
 シノハラが「ここは無慈悲症候群処理課です。どなたですか?」と尋ねる。
 男は自分を落ち着かせるように一息ついた。年齢は四十前後、短く刈った職人のような髪型で、表情はこわばり青ざめている。
 男は声のトーンを落としながら答えた。
「俺はおととい、あんたたちに撃ち殺されたBS患者の兄だよ」
 ユイは息を止めた。わたしが殺したひとのお兄さん。
「言っとくが暴れようとか恨みを晴らしたいとか、そんなことをしたくて来たんじゃない」
 男は感情を無理に抑えた震え声で言う。
「でもたったひとりの妹を殺されて、俺はたまらない気分だ。遺体を見たがひどいもんだった……。父や母にはとてもそのまま見せられなくて、遺体修復を頼んだくらいだ」
 男は正面のシノハラをじっと見る。
「俺が知りたいのは、妹は本当に殺されなきゃいけなかったのか? ってことだ。生きた状態で逮捕して牢屋みたいなところに入れるとか、そういうことはできなかったのか? きちんとした説明をしてくれ」
「できませんでした」とシノハラは表情筋をピクりともさせずに答えた。
「一度発症したBS患者を、おとなしくさせる方法はありません。どのような手段を講じても、患者の攻撃性を抑えることはできません。治療法も存在せず、会話もできないので説得も無理。我を忘れたような暴力を医学的に抑制することはできません。山奥などの人里離れた土地でもなければ、常に発症者の周囲は緊急的な状況となります。そのような状況下では、発症者を射殺せざるを得ません。他の人間の生命を救うために、他に取り得る選択肢はありません」
「ちなみにですが、例え周囲に人も物も何もない状況でも、最終的に攻撃の矛先は自分自身に向かってしまう――失礼、わたしは精神医療の専門家です」とタクミが言い足した。「つまり発症者は最終的に自殺してしまいます。また脳内のホルモンバランスが著しく崩れるためか、攻撃性以外の欲望がほぼ無くなる。ですから仮に牢屋のようなところへ閉じ込めて体を拘束しても、眠ることもせず食事もとろうとしないため、どんどん衰弱し、遅かれ早かれ死に至ります。助ける方法はないのです」
 シノハラ姉弟を交互に見やる男の顔に絶望の影が差す。患者の兄ならそれなりにBSに関する知識があるだろうから、無慈悲な答えは予想していただろう。
「くそったれ」男は絞り出した。「本当に……本当にどうにもできなかったのかよ」
「できませんでした」とシノハラが答える。
「前の日に俺は妹に会ったんだ」と男は言った。「あいつに殺されちまった甥や姪にも、だ。その時はなんともなかった。俺が持ってきたお土産の菓子を開いて、茶を淹れて、三人とも――親子で笑ってた。幸せそうに笑ってたんだ。なのに、なんで……何でこんなことに……」
 シノハラは無言で男を見ている。何の表情もない。ユイにはシノハラが何を考えているのかまったく分からない。
 ユイ自身は罪悪感と、自分が今にも糾弾され始めるのではないかという恐怖で身の置き場もなかった。ソファーの上で縮こまるばかりだ。
「一体、なんなんだよ……」男は顔を上げ、誰に尋ねるでもなく言う。「BSって一体全体なんなんだよ、ちくしょう」
「不明なことばかりの疾病です」とタクミが冷静な声で答えた。「患者さんのご家族ならご存知かもしれませんが、正式名称はbrutality syndrome(ブルタリティ・シンドローム)。略してBS。無慈悲症候群とも呼ばれています。その名のとおり、発症した患者さんは慈悲の感情を失ったかのように暴力的になり、周囲を無差別に攻撃し始めます。現在の研究では、BSが精神的な疾患なのか、細菌感染や脳の損傷などの外的な要因による疾患なのか、それすら分かっていません。判明しているのは凶暴化するという症状のみ。症状は不可逆的で、現在確認されている回復例はひとつもありません。原因がまったく分からないので根治させることはもちろん、対症療法さえまったく確立されてはいないのです。抑うつ薬の投与や催眠療法も一切効果なし。できることはただ、発症された方以外に被害が及ばないよう気をつけること。それだけです」
「じゃ、一度かかっちまったらもうどうすることもできないのかよ?」
 男が尋ねると、タクミはうなずいた。
「現在の医療技術ではどうすることもできません。ただ発病が確認されてから実際に発症するまでの期間は、ひとによってマチマチです。早ければ数週間、遅ければ数年といったところですね。この違いは、詳細は不明ですがストレス――特にいら立ちや怒りの量の多寡にあるらしいことは分かっています。ストレスを感じないようにすることで発症を遅らせることは可能なのです。けれど、現代社会を生きる上でストレスを完全に抑え込むことなど不可能だし、「BSにかかった」ということがそもそも大きなストレスとなってしまう。白目部分に特徴的な青黒い斑点が現れる病態があり、これは患者さん自身も鏡で簡単に確認できてしまうので、告知せずに隠すというのも難しいです。一度発病して「カウントダウン」が始まってしまうと遅かれ早かれ発症し、患者さんは自我を失って暴れ始めてしまう。最悪の結果はほとんど避けられないのです」
「ほとんど、って言ったか? なら大丈夫な場合もあるのか?」と男は尋ねた。
「発症する前に、将来を悲観して自殺した例があります」
 タクミが答えると、男はつきものが落ちたように表情を失った。そして床にがくっと両膝をついて、さめざめ泣き始めた。
 ユイは男の震える肩を、自分も小さく震えながら見つめた。


 男が職員に伴われて部屋を出て行く前に、シノハラの目は早くも書類に戻っていた。精緻なリズムでペンを動かし、書類の空欄を埋めていく様子はまるでサイボーグだ。
 シノハラが作成しているのは、BSDDによって親族を「処理」された人間――つまり今の男――に支払われる、遺族補償金の申請書類だ。
 残された者はそんな仕組みの中で無理矢理に家族の死を受け入れさせられる。いくらかの金で、大切な人間が射殺されたというおぞましい事実を容認させられる。指定口座に金を振り込まれたらそれでおしまいなのだ。
 ユイは男が膝をついていた辺りの絨毯を見た。点々と涙のあとが残っている。


 ユイが厚生局を出たのは午後一時頃。外へ出た途端、強いビル風が吹きつけてきて、思わず自分の体を抱いた。
 入り口の階段を降り、ユイは駅の方へ向かって歩き始めた。空は冬晴れで雲ひとつなかったが、気温は低く、陽射しは安っぽい蛍光灯のような寒々しい色をしていた。
 体も心も冷え切っていた。このままひとりっきりのマンションに帰るのは絶対に嫌だった。先ほどの男が心に重くのしかかっている。今ひとりっきりになったら間違いなく憂鬱の深みに落ち込んで、簡単に這い出せなくなってしまう。
 昼間の部屋は物音が滅多にしないので落ち着けるのだが、今はにぎやかな場所のほうが安心できそうだ。
 ユイは駅の近くの喫茶店に入った。ちょうどランチタイムで、スーツ姿の人々で結構混んでいた。食欲はまったくないので、温かいコーヒーでも頼んでゆっくりしようと思った。
 ユイが中に入ると、手を離したドアが閉じるより早く後から若い男が入ってきた。ユイはなんとなく振り返って「あっ」と声を出した。
 席を譲ってくれた男がそこにいた。BS患者の――確か名前はキクチ・リク。
「あ」とキクチ・リクの方も口を丸くした。
 ユイは唐突なキクチとの再会に一瞬混乱し、それからほとんど反射的に頭を下げた。
「先ほどはどうもありがとうございました。すごく助かりました」
 キクチはきょとんとした顔でしばたたいてから、何か言いかけて口を開いた。
「大変お待たせいたしました、二名様ですね。おタバコはお吸いになられますか?」
 そこへフロア係の店員がやってきて、指を二本立てた。
 今度はユイがきょとんとした。ああ、自分たちを連れだと勘違いしているんだ。
 キクチは困惑した目でユイと店員を見ている。
「あのぉ、二名ではないんですが」とユイは店員に言った。
 店員は困り顔になり、「失礼いたしました。ただ今、二人用のテーブルがひとつ空いているだけなので相席でないとお待ちいただくことになりますが、よろしいですか」と言う。
 ユイは「相席でもいいかな」と思った。見ず知らずの人間との相席なんて普段なら断固拒否するところだが、この時はキクチにもっときちんとお礼を言いたいという気持ちのほうが勝った。彼がBS発病者であるということも気持ちを後押した。ユイの目の奥にはまだ先ほどの男の涙のあとが、生々しく残っているのだ。
「あのっ」とユイは思い切って声をかけた。「もし良かったら、わたしと相席しませんか?」
「ん?」とキクチが耳を傾けてきた。聞こえなかったようだ。ユイは少し大きい声で言い直した。
 キクチは顔を離して微笑んだ。黙っていると目つきの鋭い冷たい男という感じだが、笑顔は柔和で優しそうだった。
「かまわないよ」


 一番奥の席に二人は案内された。向かい合って座り、ユイはカフェオレを、キクチはサンドイッチとブレンドを注文した。
 品物が運ばれてくる前に、ユイはもう一度頭を下げた。
「席を譲っていただいて本当に助かりました」
 キクチは笑って首を振った。
「気にしないで。もしかして俺と同じじゃないかなと思ったんだ。だからあなたが苦しんでるのがよく分かった」
「え?」ユイはしばたたいた。
 品物が運ばれてきた。二人とも飲み物に一口、口をつけた。
 キクチはサンドイッチを手にとって、それを見ながら続けた。
「俺も満員電車ってすごく苦手なんだ。知らない人と体が触れ合うのってすごくつらい。我慢してると冷や汗が出てきてさ、胸がギュッと苦しくなってくる」
「あ、一緒です」ユイはうんうんうなずいた。「わたしもすごく苦手で……さっきもそれでつらくて、今にも倒れそうでした」
 キクチもうなずき返し、苦笑した。
「それに隣に立ってた男、ひどかったな」
 ユイも苦笑いする。
「ひどかったですね」
「満員電車で、よくあんな貧乏ゆすりができるもんだよなぁ」
「本当に」
 思い出すだけで身震いする。
「最悪でした。だからこそ席を譲っていただけて本当にうれしかったんです」
 キクチはもう一度微笑んで首を振り、サンドイッチにかぶりついた。
 ユイは「やっぱり相席にして良かった」と思った。お礼もきちんと言えたし、それに何より神経質な苦しみを理解して共感してもらえたことがうれしい。
 不意に唇がにやけそうになったので、ユイはあわててカップに口をつけた。
 そして、彼がわたしと同じならわたしの代わりにつらい思いをさせてしまったのでは、と思って尋ねた。
「ごめんなさい、人混みが苦手なら席を譲ってくださった後つらかったでしょう?」
 キクチはサンドイッチを飲み込み、コーヒーを一口飲むとユイをまっすぐ見た。
「本当に気にしなくて大丈夫。あまりに苦しそうで見ていられなかった」
 ユイはうなずきつつ、ぼんやりとキクチの目を見つめた。写真のきつい目つきとは別人のような温和な眼差し。こげ茶色の虹彩と瞳に吸い寄せられそうな心持ちになる。だからさっきうまく顔が一致しなかったんだ、と思った。写真のキクチと今のキクチとでは、目の感じが全然違う。
 唐突に顔が熱くなってユイはうつむいた。何となく早口になる。
「あんなに混んでいなければご苦労をおかけせずに済んだんですが……あの時間は空いてると思ってまして……」
「ん?」キクチが身を乗り出して耳をユイへ向けた。ユイはもう一度、同じことを繰り返した。
 キクチは「ああ」とうなずいた。
「人身事故があったせいみたいだね。飛び込み自殺だって」
 彼はカップのコーヒーに目を落とし、小さく付け加えた。「気の毒に……」
 ユイは少し勢いづいてうなずいた。
「わたしもそう思います。ああいう時って舌打ちしたり、他の人に迷惑かけるなとか言う人がいるけど、わたしはそんなふうには思えない」
 ユイはカップを両手で包み込んだ。
「電車に飛び込まなければいけないくらい思い詰めるなんて、ただただつらかっただろうなって思う。本当に本当につらかったんだろうなって」
「そうだな」とキクチはうなずき、またユイをまっすぐ見て微笑んだ。
「俺もそう思うよ。電車に飛び込むって並大抵の気持ちでできることじゃない。それができてしまうって、一体どれだけ苦しいものを抱えてたんだろうな」
 ユイはほんの数秒、四年前のことを思い出した。春だったが気候が急に冬に逆戻りした、とても寒い日だった。
 その日、ユイは死のうとした。手首を切って自殺しようとした。だが死ねなかった。正確には死なせてもらえなかった。ユシーヌに止められて――。
 ユイはカップに口をつけたままキクチを見た。キクチも伏せ目がちにコーヒーをすすり、物思いにふけったような顔をしている。
 ひょっとしたらこの人も――とユイは思った。なんの根拠もない、直感だ。
 この人も死のうとしたことがあるんじゃ――
 もしそうなら理由はなんだろう。やはり……BSを苦にしてだろうか。もしそうなら……
 もしそうなら、わたしはまるっきり死神だ。
 心が暗い影に覆われる。
 ――わたしはいつか、この人に銃を向けるのか。この優しそうな人に向けて引き金を引くのか。
 なんて残酷な人生だろう。
「キクチさんは、優しい人ですね」ユイはぽつりと言った。そしてしまったと思い、我に返った。名前をまだ尋ねていないのにキクチさんと呼んでしまった。
「ん? 何?」とキクチは耳を傾けてくる。聞こえていなかったようだ。
 ユイはホッとすると同時に、何度も聞き返されるのが心配になった。
「ごめんなさい、わたし、声小さいですか?」
 キクチは一瞬目を大きくした。だがすぐに穏やかな顔に戻って自分の耳を指差した。
「いや、俺は少し耳が悪いんだ。気持ちゆっくり目に話してくれると助かるよ」
「そうだったんですか」
 まったく予想外の答えでユイは目を丸くした。
「ごめんなさい、ちっとも気付かなかった」
「だろうね。気付かれることはまずない」
 キクチは笑い、残りのコーヒーを一気に飲み干した。サンドイッチはすでに胃の中だ。
「音が聞こえなくなるわけじゃないんだ、俺のは」とキクチは説明した。「人の言葉がうまく聞き取れなくなるんだよ。それがこの病気の特徴。その他の音は普通に聞こえる」
「人の言葉だけ?」とユイは尋ねる。
「ああ。母音だけがよく聞こえて、子音がうまく聞き取れなくなる感じ」
「はあ」うまく想像できない。
「例えば『おはようございます』が『オアオオオアイアウ』……みたいに聞こえるんだ」
 ユイはしばたたいた。
 キクチは苦笑した。「俺の場合はそこまで重症じゃないけどね、極端に言えば、そんな感じ」
「それは……すごく大変ですね」
 心から気の毒に思う。BSだけでも大変だというのに耳の病気まで抱えているなんて。
「うん……なかなか大変だよ」とキクチはうなずいた。「でもまあ何度か聞き返せばだいたい聞き取れるから。普通に生活する上で不便はない」
 リクは通りかかった店員に追加のコーヒーを頼んだ。ユイもカフェオレをお代わりする。もう少しキクチと話をしたかった。
「名前を聞いてもいい?」とキクチが二杯目のコーヒー片手に尋ねた。
「ヤザワと言います」とユイは答えた。キクチが聞き取りやすいよう、気持ちゆっくりとした口調で声もやや大きく。「ヤザワ・ユイ」
「ヤザワさん」とキクチは繰り返し、それから自分も名乗った。「俺はキクチ・リク」
 ユイは「もう知ってる」と思いながらうなずいた。
「キクチさんは学生さん?」とユイは尋ねた。タクミが持ってきたデータには、ほぼ病気のことしか書いていなかったのだ。
 キクチは首を振った。「いいや、もう働いてる。ヤザワさんこそ学生?」
 ユイも首を振った。
「わたしももう働いてます」
「なんの仕事してるの?」
「えと……」ユイは少し迷ってから、答えた。
「公務員です」
 キクチは意外そうな顔でしばたたいた。
「役所とかで働いてるの?」
「いえ……厚生労働省の職員です」
「厚生労働省?」キクチは目を丸くした。「ヤザワさんって、もしかしてエリート?」
「全然、全然違います」ユイはブンブン首を振った。本当に全然違うのだ。エリートなんかとは程遠い、つらくて苦しくて誰も幸せにできない汚れ仕事。あなたたちにとって最低の仕事の担い手。死神みたいな仕事――。
 急速にユイの気持ちが沈んゆく。
 キクチが残りのコーヒーを飲み干して、立ち上がった。
「じゃ、俺はそろそろ行くよ」
 ユイはハッとし、あわてて自分もカフェオレを飲み干した。
「ここはわたしが払います」
「え?」とリクが聞き返してきたのでユイは「いけない」と思い、ゆっくり言い直した。
 キクチは笑って首を振った。
「ごめん、今のはびっくりしただけ」
 ユイも少し笑った。
 キクチは改めて首を振った。
「気を使わないでいいよ」
「いいえ、払わせてください」とユイは食い下がった。「本当に感謝しているんです。おしゃべりにも付き合わせちゃったし……」
 キクチは上向いて何かを考えた。
「じゃあ」
「はい」
「ここはごちそうになるよ。その代わり今度お返しをさせて」
「はい?」
 カバンから財布を出そうとして、ユイは目をパチクリやった。
「次の日曜日は空いてる? もし良かったらご飯を食べに行こうよ」
 ユイは息を吸い込んで、止めた。パッと目の前の霧が晴れ、キクチの顔が急にはっきり見えるようになった。
「空いてます」ユイは勢い込んで答えた。心がドキドキと躍る。「ぜひご一緒させてください。あ、でもおごってくれなくていいですよ」
「じゃ、次の日曜日」とキクチは微笑んだ。
 ユイがキクチの分も会計し、二人は連絡先を交換して別れた。


 ユイと別れてからリクは、喫茶店の近くの美容院で髪をカットしてもらった。終わって出てきた時には早くも陽が色づいていた。
 リクはそばの建物のガラスに映る自分を見て、髪を撫でた。適当に目に付いた店に予約もなしで飛び込んだのだが、うまく客の途切れたタイミングに当たり、すぐにやってもらえた。その上なかなかうまい美容師だった。運が良かった。
 今日はもともと隣町の、馴染みの美容師のいる店でカットをしてもらうはずだった。ところが出向いてみると急病でその美容師は休みを取っており、なら今日はいいと断ってとんぼ返りする羽目になった。本当は髪を切った後オオクボの書店で買い物をして、どこかでコーヒーでも飲んでから家へ帰るつもりだったが、予定が変わって先に書店へ行って、あとは休日をどう過ごすか自分でも分からなくなった。
 ついてないな、とその時は思ったが結局はラッキーだった。おかげでヤザワ・ユイという、ちょっと薄幸そうだが可愛い女の子と出会え、食事の約束までできたのだから。気持ちが浮き立っていたので、初めての店で髪をカットしてもらおうという気にさえなれた。いつもなら見ず知らずの人間に髪を触られるなんて、絶対に嫌なのに。
 地下鉄のホームで電車を待ちながら、改めてユイの顔をリクは思い出す。
 間近で落ち着いて見ると、ぱっと見の印象以上にきれいな女の子だった。電車内では苦痛で表情が歪みっぱなしだったが、向かい合ってみるととても端正な容貌の持ち主だった。どことなくおどおどした雰囲気を漂わせていたが、そのいたいけな感じがかえってはかなげで好ましかった。
 リクは自分の発言を思い出す。耳のことだ。耳が悪いことを何のためらいもなく言えた。我ながら驚きだった。もう絶対に誰にも耳の話はしないと決めていたのに。ヤザワ・ユイにはあっさり言ってしまった。どうしてなのか自分でも分からない。
 だがすごく清々しくて、ウキウキとした気分だ。
 口元が緩みそうになるのをリクは堪えた。そして「こんなふうに良い気分になるのはいつぶりだろう」と思いながら頬をかいた。治りかけの傷がむずがゆい。
 電車が来た。空いていた。座席もちらほらあいている。リクは座席の端っこに腰掛けた。
 ドアが閉まる直前に二人連れの男が乗り込んできた。一人は上下白いジャージ姿でパンチパーマの、三十代半ばのガラの悪い雰囲気。もう一人は派手なスーツ姿で、リクより三つ四つ上のホスト風の若者。
 二人はリクの斜め向いに腰掛けた。だらしなく足を開き、二人で三、四人分の座席を占領する。
 この時点でリクは少しいらついたが、深呼吸をして気にしないようにした。
「あの女、どうなったんスか?」とホスト風の若者がパンチパーマに聞いた。リクにさえはっきり聞き取れる大きな声だ。
「直前になってやだってめそめそし始めてよ、脅しつけてやったよ」とパンチパーマがさらに大きな声で答えた。
「マジっスか? てめーから面接に来といてどうしようもねえアマっすね」とホスト風が言う。「五歳のガキがいるんでしょ?」
「ああ。旦那がシャブ中でよ。DVがひどくてガキ連れて逃げてきたんだ」とパンチパーマが答えた。
「しかしよ、歳も歳だしブスだし、ソープにでも沈んでもらわなきゃ使えねえよあんなの。そう言ったら真っ青になっちまって、泣きながら「本番はないって言ったじゃないですか」ってさ。甘ったれてんじゃねえよな、モデルみたいな美人が風俗の面接にくる時代だぜ? あんなブサイク、しかも顔に殴られたあざ作ってるやつがフェラだけで稼ごうなんて虫が良いんだよ」
「それでどうしたんスか?」
「愛する旦那さんのところへお帰りください、って言ってやったよ」
 二人は大きな声で笑った。
「結局納得しやがったけどよ、今にも自殺しそうなツラしてたな。今頃ほんとに電車にでも飛び込んでるんじゃないか?」
「お、そう言えば」とホスト風が何かを思い出して言う。「今日ニシシンジュクの方で飛び込み自殺があったらしいっスよ。その女だったりして」
「そしたらマジうけるわ」
 二人は爆笑した。他の客は硬い表情で彼らの方へ視線を向けないようにしている。あるいはスマホをいじっている何人かは、SNSに迷惑な乗客についての書き込みを行っているかもしれない。
 リクはうつむいて下唇を噛んでいた。ももの上のこぶしに汗をにじませながら、激しい怒りと必死に戦っていた。
 ――落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け……
 呪文のように胸の内で繰り返す。
 二人の男に無言で蹴りを入れたかった。今すぐいら立ちに身を任せて暴れてやりたかった。
 その話に出てくる女には何のこだわりもない。顔も名前も知らない。実在するのかも分からない。だが自分とは無関係と思っても、リクは自分の内部で燃え盛る感情を抑えることができない。男たちの傍若無人っぷりを気にせずにやり過ごすことができない。
 荒い呼吸を繰り返しながら絶望的な気持ちで考える。
 ――BSにかかってからだ、こんなふうになっちまったのは。
 男たちの大声が車内に響き続けている。リクは全身に力を込めて、自分の中の鬼を抑え込む。
 昔はこんなに怒りっぽくなんてなかった、俺はもっと穏やかな人間だった、とリクは思った。こんな時だって多少うざいとは思ったかもしれないが、こんなクソみたいな連中ごときにいちいち本気でムカついたり、イライラしたりなんてしなかった。クールに受け流して何も気にせずにいられたんだ。心がこんなに圧迫されることなんかなかったんだ。俺はそういう人間だった。穏やかな人間だった。なのに、なんでこんなことになっちまったんだ。クソッタレ。なんでだ。
 落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け……
 いくら言い聞かせても心は落ち着かない。腹がいら立ちで熱くなる。
 リクが怒りをこらえている間も、男たちは女の話を続けていた。
 リクはじっと耐えた。怒りに飲み込まれてしまわないように体と心を石に変えた。
 もし飲み込まれたら――


 最寄駅に着くとリクは早足で電車を降りた。
 改札を通る時には小走になっていた。階段を駆け上がり外に出たら、冷たい夜風がいきなり顔面に吹き付けた。
 体を縮めながら自宅マンションまでの道を歩き始めた。頭の中は男たちへの怒りでいっぱいのままだ。
 酸素が足りない。肩を上下させてリクは肺に酸素を送り込んだ。しかし息を荒くしていると胸に締め付けられるような痛みが走り、余計気分が悪くなる。
「落ち着け落ち着け落ち着け……」
 リクは必死に言い聞かせた。
 爆発させたら終わる。飲み込まれたら終わる。俺は終わる。俺はまだ狂うわけにはいかない。死ぬわけにはいかない。もし俺まで狂ったちまったら、あいつは――
 リクは必死に怒りと戦った。
 自宅はカブキ町の外れにある八階建てのマンションだ。最上階の八○四号室を借りている。家賃は人に話すと必ず驚かれる。建物は古くないし、部屋も広く壁も厚くてきれいだが、場所柄ヤクザが多く住んでいるため相場よりはるかに安いのだ。その上リクが住んでいる部屋は、以前殺人事件のあった事故物件なのでさらに安い。
 リクはエレベーターに乗り込んで背を丸めた。
 こんな場所に好き好んで住んでいるわけではない。だが家賃の安さは大きな魅力だった。職場まで歩いて行ける立地でもあるし、納得せざるを得ない。
 リクはエレベーターを降り、八階の廊下を暗い足取りで歩いた。部屋に入るとよろけるように壁にもたれかかった。
 深くため息をつき、つらい、とつぶやいた。
 五年前に戻りたい、とリクは思った。こういう気持ちになると必ず思う。
 あの頃の俺はちょっとやそっとのことでイライラするようなチンケな奴じゃなかった、穏やかな人間だった、と電車内で考えたのと同じ思考を繰り返す。
 細かいことは気にしない、だいたいのことは大雑把に受け流せるおおらかな人間。あの頃に戻りたい。他人の言葉にも態度にも鈍感でクールで、優しくいられたあの頃に。
 リクはノロノロと靴を脱いだ。膝や足首が運動量と不釣り合いに疲れている。床に吸い寄せらそうになる体を強引に引きずってキッチンに入る。夕食を作る気力などない。冷蔵庫から缶ビールを取り出して、居間のベッドにどっと腰掛けた。
 みぞおちの辺りにいら立ちがわだかまっている。部屋に入ってもちっとも落ち着けない。
 苦しい、とリクは思った。毎日のように何かに腹を立てること自体もつらいし、それに――
「怖い……」震える指で缶を開け、声に出す。
 いら立てばいら立つほどに自分は崩壊に近づく――その恐怖感で気が狂ってしまいそうだ。このまま怒りに飲み込まれてBSを発症させ、自分は悪魔に変貌してしまうのか。それは自分の死の想像よりも恐ろしい。
 何とかあと四年。リクはビールを流し込みながら祈る。あと四年でいい。あいつが社会に出るまではせめて――一人で生きていけるようになるまではせめて――
 不意に窓際に気配を感じ、視線を転じる。
 上半身裸の男がだらしなく足を開いて床に尻をついていた。口をわなわな震わせ、怯えきった目でリクを見上げている。
 リクはうんざりした気分で息を吐いた。
 男の体中には生々しい銃創がいくつもある。血がこんこんとあふれて床に溜まりができているが、その血も体も半透明で背後の窓や夜景が透けている。
 男はすでに死んでいる。もしリクの幻覚でなければ幽霊。地縛霊というやつだ。
 この物件の安さの理由だ。
 幽霊は小さいがはっきりした声で「助けてくれ、助けてくれ、楽にしてくれ……」と言っている。
 リクは幽霊を見ながら、しかし頭では電車の二人組のことを悶々と考えている。いら立ちの方が、成仏できない幽霊などよりよっぽど重大事項なのだ。
 幽霊は背中から手首にかけて昇り竜の刺青を背負っている。彼はこの部屋の前の住人だろう。ある暴力団の幹部だった男。リクが引っ越してくる三ヶ月ほど前に、部屋に侵入したヒットマンに何発も弾丸を食らって殺された男。――と、以前リクは教わった。
 初めて見たときはリクも心の底から驚いたが、今ではもう慣れた。今日のようにいら立ちのひどいときなどは彼が出現してもまったく心動かされない。普通にイライラし続けていられる。
「助けてくれ、助けてくれ……」と幽霊は繰り返している。
 リクはぼんやり幽霊を見つめ、さらにビールを飲んだ。
 越してきて三日目におしゃべりな隣人が、聞いてもいないのに前住人の最期について詳しく教えてくれた。隣人は傷んだ金髪に濃い化粧の、水商売らしい四十前後の女だった。よく通る金切り声はやかましいくらいに聞き取りやすかった。
 前住人――この幽霊――の名前はマナベ。主にトウキョウの東を縄張りとする中規模暴力団のそこそこ上の方の幹部だったヤクザだ。
 事件が起きたのは早朝だった。隣人が遅い時刻に帰宅してベッドでウトウトしていると、マナベの部屋から銃声が聞こえた。
 一発目の後マナベの大声がした。
「野郎、ひと思いにやれや!」
 銃撃された直後とは思えない、張りのある声だったそうだ。
 二回目の発砲音が聞こえた。
 やはり大きな、しかし一発目よりも苦しげな声で「クソが、やるなら早くやれよ!」とマナベが言うのが聞こえた。
 三発目の前に少し間が空いた。隣人は、わざとノロノロやって苦しませたかったのよ、と言った。
 三度目の発砲音。マナベの声は悲痛なものに変わった。だが声量だけは衰えなかったそうだ。
「頼む、頭を撃ってくれ、痛えよ!」
 だがヒットマンは最期まで頭を撃たなかった。また少し間を置いて四発目。
「助けてくれ、もうやめてくれ、楽にしてくれ!」
 しばらくの間、マナベの「助けてくれ」という叫びが聞こえ続けた。
 それから立て続けに何発か(四、五発と隣人は言った)発砲音がして、隣家は静かになった。――
 隣人の話を思い出しながら、リクは缶に残った最後のビールを飲み干した。
「助けてくれ……助けてくれ……楽にしてくれ」
 マナベが口を動かし続けている。死ぬ直前の再現なのだろうか。マナベは霊として現世にとらわれている間、こうして死の際の苦しみを味わい続けるのか。
「助けてくれ……楽にしてくれ……」
 リクは助けを乞うナマべの霊をにらんだ。マナベに対する怒りが急にこみ上げた。腕を振り、思い切り空のビール缶を投げつけた。缶はマナベの体をすり抜け、後ろの窓にぶつかって床に転がった。
「うるせえんだよ、クソヤクザが!」とリクは怒鳴った。「いつまでもグジグジグジグジ大概にしろや! 成仏もできねえ腰抜け野郎! 口を閉じやがれ!」
 マナベは素直に口を閉じ、しかし恨めしそうな目でリクをにらんだ。リクは亡霊であるマナベさえも上回る剣呑な目つきで、にらみ返した。
「死んで、もう楽になってやがるくせに……」とリクは言った。「助けてほしいのはこっちだクソッタレ。黙ってやがれ」
 不意にスマホが震えた。リクは眉間にしわを寄せてスマホを取り出した。メッセンジャーアプリの通知が来ている。
「あ」と声を出した。ヤザワ・ユイからだ。
『先ほどはどうも。日曜ですけど、夕方の六時頃の待ち合わせはいかがでしょうか? 早すぎますか?』
 頭上からパッと光が降り注いだようにリクは感じた。全身を柔らかなぬくもりで撫でられるような感覚。
 リクはスマホを見つめてぼんやりした。そうか、結局は何事も最後はうまくいくんだ。そう前向きな気持ちになる。
 胸の澱が消え、軽やかな喜びが胸に満ちる。なんてこった。たった数行のメッセージで逆転しちまった。自分の気分が全部丸ごと。
 自分の単純さに思わず笑う。女の子とのデートの約束は最強だな、他の何よりも。男にとって最強の出来事だ。
 リクは返信した。『日曜日、六時で大丈夫だよ。今度は俺のおごりだからね。ヤザワさん、何か食べたいものはある?』
 返信してから、ふと窓を見た。マナベはいつの間にか消えていた。リクは床に転がる空き缶を見て胸に痛みを覚えた。さっきは悪かった、と心の中で謝った。


 日曜、ユイはうきうきとうわついた気持ちで家を出た。
 玄関のドアを開けるのがこんなにも喜ばしいなんて夢のようだ。メイクにはいつもの倍の時間をかけたし、服も買うだけ買ってほとんど袖を通していなかったブランド品をクローゼットの奥から出した。
 店はユイの方から「行きたい店がある」と提案した。シンジュク駅南口から歩いて数分のビルの、半地下にある寿司屋。買い物などに行った帰りに何度か店内を覗いて、いい雰囲気だなぁと思っていた店だ。
 回転寿司ではないが決して値段も敷居も高い店ではないし、気軽にちょっと美味しいものを食べるのに、ちょうど良さげな所だった。これなら仮にキクチ・リクがおごってくれるのだとしても(ユイにそれを当てにする気はなかったが、どうしてもと言われたら素直にごちそうになろうと思っていた)よほど大量に飲み食いしなければ、万が一恥をかかすこともないだろう。
 六時十五分前に南口改札を出ると、そこには既にキクチがいた。二人は簡単な挨拶を済ますとすぐに店へ移動した。ユイがキクチを案内する形でヨヨギ方面へ。
 五分ほどで目当ての店に着いた。ユイは受付の店員にカウンターではなく奥のテーブル席をお願いした。キクチの耳のこともある。威勢の良い職人の目の前より、静かな隅っこの方が落ち着いて話ができそうだと思ったのだ。
 向かい合ってかけて、握り二人前と生ビールふたつを注文した。おしぼりで手を拭くとユイはそれを丁寧に折りたたみ、テーブルの縁に対して平行になるように置いた。前を見るとキクチも同じことをしていた。
 ユイは割り箸の位置もやはり縁に平行になるように直した。目の前ではキクチも箸をまっすぐに置き直していた。
 二人は目を合わせ、同時に吹き出した。
「まっすぐにしたくなりますよね」
「なるなる。一緒だね」
 たったそれだけのことで、ユイはキクチと気持ちが通じ合ったと思えた。
 ビールと丸桶入りの寿司が運ばれてきた。二人は乾杯した。
「一緒なの、なんかうれしいです」とユイは一口飲んでから言った。
「いつもなら神経質な自分を意識するとすごく嫌な気分になるのに。キクチさんと一緒だと思ったらなんだかおかしくて、笑っちゃう」
「うん、俺も」とキクチは口元の泡をぬぐいながら言った。「なんか楽しいね」
 同意してもらったらユイはさらにほっこりした気分になった。もっと自分のことについて聞いてもらいたくなる。
「わたし、道を普通に歩くのも苦手なんです」とユイは言った。キクチがマダイの握りを頬張りながらうなずく。
「別に人混みじゃなくて、普通の通りを歩くのもすごく苦手なんですよ」
「理由を当ててもいい?」
 キクチが楽しげにユイを見る。
「人とすれ違う時に、避けるのがストレスだからじゃない?」
「正解です」ユイはにっこりうなずいた。
「人とすれ違うのが大の苦手なんです。例えば正面から歩いてきた人が歩きスマホとかしてて、わたしだけが端に寄って向こうが少しも避けてくれないと、すごく悲しい気分になって気持ちが沈んじゃうんです。我ながらバカみたいなことを言ってるなって思うんですが、自分がないがしろにされてるような気持ちになるというか……そんなの考えすぎで、世の中の大半の人はどっちがどれだけ避けるかなんて気にもしない、って分かってるんです。だけど一度気分が落ち込むともうダメで。外に出ること自体が怖くなってくるんです」
 キクチは笑った。馬鹿にするような冷たい笑いではなく、温かな共感の笑い。
「すごく分かる」とキクチは言った。「怖くなるって言っても他人が怖いんじゃないんだよな。外に出たらまた何か小さいことでイラ立ったり落ち込んだりするんじゃないか、って思うと動くのが嫌になってくるんだ。自分のハートのナイーブさが怖いんだよね」
「そうですそうです」ユイは満面の笑顔でうなずく。
「出かけたらまたわたしは何か小さなことで暗い気持ちになるんじゃないか、ってことが心配なんです。ならどこも行かずに、じっとしていたいって思うんです」
「驚いたなァ……」
 キクチはつぶやくように言う。
「丸っきり一緒だ。自分以外にそんなことを気にしてる人がいたんだ」
「わたしもびっくりしてます」とユイも言った。「こんなこと、誰にも理解してもらえないって思ってました」
「ヤザワさんは昔から神経質な方だった?」とキクチが聞いた。
 ユイは少し考えてから、うなずいた。「多分……昔からこうだったと思います。キクチさんは?」
「俺は……中学生の頃からかな。その前はむしろ大雑把な性格だったと思う」
 キクチはビールを一口飲み、笑った。
「遊んだおもちゃは出しっ放し、トイレの電気は消し忘れて付けっ放し、それで親に怒られてもあっけらかんとしてた。今じゃスマホのフリック入力ミスっただけで、イラってするような人間だけど」
「それ、すっごく分かります。フリック入力をミスると落ち込みますよね」とユイは、また笑顔になった。
 そんな調子で話は盛り上がった。二人は互いの神経質さを披露し合い、共感し、「分かる分かる」とうなずき合った。キクチはずっと楽しそうな笑顔で、その笑顔を見るユイもずっと笑っていた。こんなに笑ったのは何年ぶりか思い出せないくらい、ユイは笑った。
 途中、頼んだ品を店員が忘れて持ってこないという一幕があった。小さなことだが、これもひとりだったらすごく嫌な気持ちになって、良い気分も消えてしまっただろう。
 だが目の前にキクチがいると、不思議と細かいことが気にならないのだ。彼の笑顔を見るとスッと心が軽くなって、穏やかな気持ちになる。
 喋っているうちにキクチのジョッキが空になった。下げに来た店員がキクチに「新しいお飲物をお持ちしましょうか」と尋ねた。やや早口の店員で、キクチは「え?」「ん?」と二度聞き返した。
 ユイは「新しい飲み物はいりますか、って」と代わりにゆっくり言って上げた。
 キクチはうなずき、「アルコールはとりあえずいいかな。お茶ください」と頼んだ。
 運ばれてきた湯のみに口をつけ、キクチはほっと息を吐いた。それからボソッと言った。
「ヤザワさんといると、楽しいな」
「え?」と今度はユイが聞き返した。
 キクチは照れくさそうにうつむいた。
「いつもならさ、二度も同じことを聞き返したら俺、結構いやな気持ちになって、ヘコむところなんだよ。だけど今は全然そんな気持ちにならない」
 ユイはじっとキクチを見つめてうなずいた。キクチは続けた。
「ヤザワさんといると楽しい気持ちの方が勝って、細かいことが気にならなくなる」
「わたしも」ユイは身を乗り出す勢いでうなずいた。「わたしも一緒です。キクチさんと一緒だと気にならない。すごく楽しい。すごく……」
 ユイは黙った。キクチも何も言わずにユイを見た。
 ユイの心臓が激しく高鳴る。
「この後、まだ時間ありますか?」とユイは聞いた。
「うん、ある」とキクチは答えた。
「場所を変えて、少し飲みませんか?」
「いいよ、喜んで」
 ユイの全身が熱くなる。いったい自分がどこへ向かおうとしているのか見当もつかないが、その不明確ささえ心地良い。胸の奥で興奮が首をもたげている。興奮は、ユイを不断に苦しめる過敏な神経を麻痺させている。今は何も考えられなかった。キクチのこと以外、何も。
「じゃあ、お店はどうしま――」
 言いかけて、バッグから振動音がした。背中に冷水をぶちまけられたような気がした。
「ごめんなさい」と断ってスマホを取り出し、液晶を見て真っ暗闇に突き落とされた。
 BSDD。シノハラから。顔面蒼白で電話に出る。
「今どこだ」とシノハラが言った。
 ユイは小さな声で店の名前と、だいたいの場所を告げた。
「ならキノクニ屋の前に移動しろ。そこで拾う。銃は?」
「持っていません」
「ではこちらで用意する。端末は?」
「持っています」
「三十分以内で着く」
 電話は切れた。ユイはスマホをしまい、顔を上げた。キクチがぎょっとした表情で尋ねる。
「どうかした? 顔、真っ青だ」
「ごめんなさい」ユイは死にそうな声で謝った。それからハッとして、大きめの声で「ごめんなさい」と言い直した。
「急なお仕事が入ってしまいました。すぐに帰らなきゃいけません」
「え? 今日休みじゃなかったの?」とキクチが目を丸くした。
「はい」とうなずいたまま、ユイは悲しさとやり切れなさで消えてしまいたくなる。
「本当にごめんなさい……わたしが担当しているご病気の方の容体が急変したという話で、上司からすぐに来い、と……」
 説明しながらユイは本当に泣きそうになってきた。
 これからだったのに。これから、きっともっと楽しい夜になったのに。絶望感が毒素のように全身に回り、力が抜ける。
「そうなんだ……公務員だから、日曜は全休かと思ってたよ」とキクチは言って、後ろ頭をかいた。「知らずに誘ってごめんな。ヤザワさんは大変な仕事をしてるんだなぁ」
 ユイはぶんぶん頭を振った。「キクチさんは悪くありません。謝らないでください。わたしのほうこそ本当に申し訳ないです。こちらからもっと飲もうと誘っておいて……」
 ユイはうつむいた。
「本当にごめんなさい。もっと一緒にいたかったです」
 ユイはのろのろと立ち上がった。体が鉛のように重かった。だがのんびりしてはいられない。シノハラが来てしまう。仕事を忌避することはできない。今日だけ休ませてくださいと頼んでも、シノハラがそんな甘えを許すはずがない。
「大丈夫?」
 キクチが心配そうにユイの顔をのぞき込んだ。キクチの瞳は優しげで、深く澄んだ色をしていた。
 会計ではキクチがおごってくれた。ユイは何も言わずにごちそうになった。抵抗するポーズを取る気力もわかなかった。
 外の気温はかなり下がっていた。冷たい空気に触れるとユイはますますみじめな気持ちになった。
 街の風景は実際以上に冷たく感じられた。人通りは昼間より多いくらいだし、様々な店の電飾やネオンはどぎついほどに明るいのに、ユイには何もかもが真っ暗だった。
 先に店を出ていたキクチが振り返った。キクチだけはあたたかな光だった。ユイは別れの言葉も口にできず黙る。
「ヤザワさんって、いくつ?」
 キクチが尋ねた。
「え? 二十一……」とユイは答えた。
「じゃ、俺よりひとつ上なんだね。良かったらタメ口で話してよ」
 キクチが微笑む。ユイの心が少しだけ軽くなる。
「うん……じゃあ遠慮なく、そうするねキクチさん」
「リクって呼んでよ」とキクチは言った。
「リク」
 ユイの胸が高鳴る。
「ねえ」ユイはリクの目を見上げた。「わたしのことも、ユイって呼んで」
「ユイ」とリクは言った。「今日は楽しかった。すごく」
「わたしも」とユイはうなずく。
 すっと、リクが右手を差し出した。
「ユイは握手、大丈夫な人?」と尋ねる。
「苦手」とユイは答えた。
「俺も」とリクは笑う。
 ユイは微笑み返してリクの手を握った。
「でも、リクなら平気」
 リクの手はあたたかった。それだけで全身の寒さを忘れられる気がした。
 手を離してもユイは目を離さなかった。
「また、会ってくれる?」
 リクはうなずいた。
「ああ。絶対に連絡するよ」


 ユイはキノクニ屋の前でぼうっとシノハラを待ちながら、右手を握ったり開いたりした。そうするとリクの温もりが手に蘇るような気がして。
 高級ブランドのきらびやかなウィンドウを眺めるともなく眺め、ユイは自分の身に起きていることの意味を考える。
 良いことが起こったのか?
 それとも、最悪の事態か。
「リク」と名を呼んだこと。「ユイ」と名を呼ばれたこと。別れ際に再会を約束したこと。
 幸福だった。すべてがこの上なく幸せな出来事だった。いま人生でいちばん、気持ちが高ぶっている。
 でも、とユイは思う。ため息をつく。
 こうしてシノハラを待っているということが、リクとのやり取りを悲しみで塗りつぶしてしまう。もし今後、リクともっと仲良くなれるような素敵なことになったなら、悲惨な結末に至る。
 リクはBS発病者で、自分はBSDDのディーラーなのだから。
 ウィンドウの横の線路脇には、消費者金融の看板がいくつもかかっている。
「○○万円まで即融資」「車に乗ったままご融資」「面倒な審査不要で借り入れ可能」などの文字が、音を立てて走り過ぎるチュウオウ線快速をバックに浮かび上がっている。
 シノハラのクーペがやって来た。ユイはカバンからウェアラブル端末を取り出した。


 現場は独身者向けのワンルームアパート。一帯は大通りからせまい道に入って、徒歩三分ほどの静かな住宅街だった。車二台ギリギリすれ違える細い道の先が現場だ。
 シノハラは、すでに到着している所轄のパトカーの背後にクーペを停めた。
 ユイは車から降りたところで、いつもどおりユシーヌと「交代」した。ユシーヌは一瞬硬直してから、そのままユイの動きを引き継いで、なめらかに銃のスライドを引いた。安全装置を解除し、発症者のいる部屋へと向かう。
 アパートは静まり返っている。外廊下と目と鼻の距離に塀が迫っているので、道路側の物音も聞こえない。
 全戸留守というわけではないだろう。他の住人は発症者が暴れ始めたために自主避難したか、警察の指示を受けて家の鍵を閉め、息を潜めているのだ。
 ユシーヌは一○三号室の前に立った。突然、物を激しく打ち付けるような大きな音がした。音の感じから、発症者が部屋の奥で何かを壁に叩きつけているのだと分かった。
 一人暮らしの二十代男性。知り合いを家に呼んだりしていなければ被害を受けている人間はいないはず。一人で家具などを相手に暴れているのか。部屋中を破壊し尽くしたら外へ出て、今度はその辺の人間に襲いかかろうとするだろう。いま外にいるのは銃を構えたユシーヌだけだが。
 ユシーヌは少し間を置いてみた。だが発症者が玄関へ近づいてくる気配はない。ドアノブを回した。鍵はかかっていないようだ。
 ドアを開けた。正面、部屋の隅にうずくまっている発症者が目に入った。上下スウェット姿の若い男。六畳ほどのフローリングの部屋で、男は窓の下で唸り声をあげて頭を振り乱している。その周囲には倒れたカラーボックスと、様々な小物類が散らばっている。
 男は振り返って、何の躊躇もなく飛びかかってきた。ユシーヌも躊躇せず引き金を引いた。
 弾丸は男の右側頭部を粉砕した。
 ユシーヌは電話を取り出し、シノハラにかけた。発症者を射殺したと告げ、それからふっと息を吐くと意識の裏側に戻った。
 表に戻ったユイは自分の足元の惨状に、思わず口元を押さえた。頭蓋に穴を開けられた男は、フローリングに大量の血と脳漿を撒き散らしていた。
 ユイは体の向きを変えて、死体を見ないようにした。
 銃口の微妙な角度や相手の動き方によって、死体が特別凄惨になることがある。もとよりきれいな射殺体などあるはずもないが、頭が吹き飛んで脳ミソをぶちまけているというのは、中でもかなりのグロテスクさだ。
 ユイにはもう一つショックなことがあった。男の年齢や背格好が、リクに似ている気がしたのだ。突っ伏していて顔が見えないので余計にそう感じた。
 わたしはいつか、こんなふうにリクを殺すんだ。
 ユイは両手を胸元で組み合わせた。祈るように。そのか細い右手には、黒光りする銃が握られたままだ。


 シノハラのクーペへ歩きながら、ユイはリクの顔を頭に思い浮かべた。
 薄っすらと、本当に薄っすらとだが、胸に温かい感情がわく。リクのことを思うと少しだけ心が軽くなる。
 恋に落ちていた。


 またやってしまった。
 リクは歩きながら左の頬を撫でた。やっと右の傷が消えたと思ったら、今度は左だ。
 傷を撫でる風が異様に冷たかった。幸福の後に押し寄せる真っ暗闇は、落差の分いつも以上にこたえる。
 リクは嘆息する。慣れないな、と思った。何度やったところで、くだらないケンカに慣れることなんてできない。せめて落ち込んだりせず、虚無的な気分にでもなれたらマシなのに。そう、せめて頭を空っぽにできればまだ――。
 実際のところ殴り合いの果てには、自分を責め、運命を呪う重苦しい感情が残った。
 ああ本当に痛い。いろいろと痛いな。リクは顔をゆがめた。物理的な傷も心に受ける傷も、どちらも平等につらかった。この痛みと戦っていると自尊心が無限にすり減ってゆく。自分はこの世にいない方がマシな人間なんだと思えてくる。
 そんなふうに考えたくなんてない。だが考えてしまう。心が暗い思いに占領される。
 どうしようもないんだ、とリクは自分に言い聞かせた。我慢して怒りを溜め込んで、発症までの時間を縮めてしまうよりはずっとマシだ。
 俺はまだ狂うわけにはいかないんだ。
 リクは立ち止まり、大きく息を吸って大きく吐いた。腹の底の淀みはそんなことで吐き出せやしない。リクの気力は日に日に奪われる。こぶしを握ってこらえないと、体が地面と正面衝突しそうになる。
 シンジュクでユイと別れた後、最寄駅で電車を降りてカブキ町の周縁部を歩いていたら、三人組の酔っ払いに絡まれた。客観的に見れば大したことではなかった。気のふくれた酔っ払いがくだらない言葉を他人にかけていくなんて、歓楽街では日常茶飯事だ。だがリクは無視しきれなかった。小声であったなら聞き取れなかったかもしれないのに。酒の勢いか明瞭すぎる大声だった。瞬間的に頭に血がのぼり、ナンセンスな暴言を聞き流さずに言い返してしまった。酔っ払い達は色をなし、リクも剣呑な目つきで一人一人を丁寧ににらみつけた。
 幸福な気分は吹き飛び、リクの心はイラ立ちに支配された。
 あとはいつものパターンだった。リクが二人をのしたところでケンカは終わった。仲間がやられた途端、残された一人は急に泣きそうな表情になり、「すみませんでした」と平謝りし始めた。リクは黙ってきびすを返した。
 リクは左頬にかなり強烈な一発を食らっていた。一人目の拳を避けて体勢が悪くなったところを別の一人に思い切りやられた。拳がクリーンヒットした瞬間は意識が飛びかけたが、何とか踏みとどまり、殴ってきた相手に蹴りを浴びせた。
 せっかくの気分を台無しにされたこともきつかった。ユイとのデートはすごく楽しくて、久しぶりに掛け値なしの幸福感に満たされていたのに。それがクソみたいなケンカのせいで台無しになった。胸には鈍重な苦しみだけが残った。
 帰宅したリクは靴も脱がずに壁にもたれかかった。筋肉が綿になったみたいだ。力が入らない。つらい、と声に出し、いつものように「昔に戻りたい」と過去を夢想した。
 うなりながら靴を抜いで家に上がると、リクは居間のベッドに腰掛けた。
 スマホを取り出し、時間を確認し、電話をかける。
 数秒の呼び出しの後、「もしもし」と相手が言った。
「もしもし」とリクも言い、続けて聞いた。「調子はどうだ?」
「元気だよ」と相手はかすかに上ずった声で答えた。
「リンコ」リクは相手にゆっくりと呼びかける。「正直に言えよ」
 リンコは数秒間黙った。そして言った。「……一回だけ、あった」
「そうか」リクはため息をつきたくなるのをこらえ、意識的に落ち着いた声を作った。「怖かったか?」
「うん」とリンコは言った。
「大丈夫。全部、幻だ」リクは目を閉じ、優しい声色を意識して言い聞かせた。「今のお前を怖い目に合わせるやつなんて、いない」
「うん」とリンコは電話口でうなずく。
「もしそんなやつがいても、心配するな、俺がついてる」
 リンコは数秒置いてから、返す。
「ありがとう、お兄ちゃん」
 リクは声の調子を変えて尋ねた。
「他に何か変わりはあったか?」
「ううん、大丈夫」
 リンコはリクのために気持ちゆっくりにしゃべってくれる。リクはリンコの声色に注意深く耳をすませる。
「毎日、結構楽しくやってるよ。学校は面白い」
「そうか。それなら良かった」
 リンコの声に変化はない。本当のことを話しているのだ。リクはほっと息を吐いた。リンコは兄に心配をかけまいと、何か悩みがあってもしばしば嘘をついて隠そうとする。そう言うときはやや声が上ずるのでリクにはすぐに分かる。「言葉」は聞き取りづらくても「音」にはむしろ敏感な方なのだ。
「昨日、銀行に仕送りを振り込んでおいた」とリクは言った。
「うん、ありがとう」とリンコは返す。
「金は足りてるか?」
「充分だよ」
「何か入り用になったら、すぐに連絡しろよ」
「うん」
 じゃあもう切るな、とリクが言おうとしたところでリンコが付け加えた。
「お兄ちゃんは変わりない?」
「ああ」リクはうなずいた。右頬を撫で、その痛みに苦笑いを漏らしてから不自然なく続ける。「変わりないよ。元気にやってる」
「それなら安心」とリンコは言い、少し笑った。
「兄貴の心配をしようなんて、十年早い」
 リクは冗談めかして言った。リンコは楽しそうな笑い声を聞かせてくれた。
「じゃ、もう切るな」とリクは言って立ち上がった。
「うん、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
 リクは電話を切ってキッチンへ行った。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ベッドに戻る。プルタブを引いて口をつけたところで、マナベの霊と目があった。いつの間に現れたのか。ちっとも気づかなかった。一口ビールを流し込み、リクは血まみれの亡霊を眺めた。
「助けて……助けて……」とマナベは、今夜も陰気な声で助けを求めている。
「なんの意味があるんだ?」
 リクはマナベに尋ねた。別に答えは期待していない。これまでにも何度かコンタクトを取ろうと試みたが、答える気がないのか、マナベはリクの投げかける言葉には一切反応しない。せいぜいこの間のように、大声で怒鳴った時に恨みがましい目でにらみつけてくる程度だ。
「助けて……助けてくれ……」
 半透明の血を身体中の穴から流しながら、マナベは同じ言葉を繰り返す。
「あんた、もう死んでるんだぜ」
 リクは右手が冷たくなったので左手に缶を持ち替えて、さらに話しかけた。
「いくら助けろって言われても、助けようがないじゃないか」
「助けて……助けて……」
 マナベはリクを無視して、繰り返す。
 リクはビールを飲みながら、死してなお苦しむマナベを冷たい気持ちでながめた。
 死ぬことさえ救いじゃないってことなのか――リクは考える。
 ――俺が死んでもこいつのようにあの世に行けず、地縛霊になって苦しみ続けるのかな。俺が死ぬとしたら多分、こいつみたいに銃で撃たれて……だろうな。BSのせいで狂って暴れてるところを、親父のように警察に撃ち殺されちまうんだ。
 リクは久しぶりに父のことを思い出した。
 ビールを三口分ほど一気にあおる。
 親父はちゃんと成仏したのかな。
 リクの父もBSだった。五年前、自宅で発症して暴れていたところを当局によって射殺された。
 あの日――母から泣き声の電話がかかってきて、あわてて外出先から戻ってみると、玄関の前の道路にパトカーが何台も停まっていた。
 リクは頭を振った。わざわざ思い出したいことではない。
 両手で缶を握って、ため息をつく。
 不安だ。一体自分に残された時間はあとどれくらいなのか。
 リンコの顔を頭に思い描く。やや面長な兄と違い丸顔、両目も兄と反対に垂れ目がち。ツンとした鼻筋と小さめの唇、そして緩やかな頬の稜線のために年より幼く見られることが多い。――それが最後に会った時点でのリンコだ。もう一年以上会っていないが変わっただろうか。電話の声に変化はなかったが、見た目は大きく変化していておかしくない。そういう年頃だ。
 せめてあいつが――リンコが社会に出て独り立ちするまでは。それも無理ならせめて今後の学費を貯められるまでは。
 リクは祈るように思う。
 それまでは――なんとか発症しないでくれ。
 それは勝ち目のない戦いに思えた。今日だって酔っ払いのしょうもない冷やかしに切れて、殴り合っているような体たらくだ。
 限界はそこまで来ている。いつ最後のラインを越えてしまってもおかしくない。リクには分かる。医学の知識なんてゼロだが、直感的に分かるのだ。リクは地上数百メートルの高さで綱渡りをしている。落ちたら確実に死ぬ。命綱などない。あるのはバランス棒だけ。見知らぬ人間と殴り合いをすることでぎりぎりの平衡を保つ、ぼろぼろのバランス棒だけ。
 スマホが振動した。リクはビクッとして缶を落としかけた。
『先ほどはごちそうさまでした。そして本当にごめんなさい。この埋め合わせは必ずするね。また近いうちに、一緒においしいお酒を飲みたいな』
 ユイからだった。リクの肩からすっと力が抜けた。スマホを持つ手にぬくもりが戻り、鼓動が早くなる。そして目の前が少し明るくなる。
 何とかなるさ、とリクはにわかに弾み出す心で思い、同時に、ほんと単純だな俺、と思った。
 ユイの言葉は魔法だった。簡単に心の憂鬱を消し去ってしまう。
 悪いことばかりじゃないさ、人生。偶然出会った可愛い女の子と仲良くなれたり、良いことだってある。俺はついてる。深く考えたって何も変わらないなら、今は落ち込んで考え込むよりもユイのことを考えようじゃないか。
 メッセージひとつで楽観的になれる自分をリクはうれしく思う。自分にはまだそれくらいの余裕や情緒は残されているんだ、と勇気がわいてくる。
 返信内容を考えながら、リクはひとりで笑いを漏らした。


 ユイは家で工事業者の到着を待っていた。リクとのデートを不本意に中断してしまった日の、二日後だ。
 ひと月ほど前に、マンション全体をオール電化にすることが管理組合で決まった。ユイの部屋の工事は今日の昼ごろと指定されていた。オール電化など望んでいなかったが、部屋の借主である厚労省が組合の決定を受け入れてしまったので、自分で家賃を払っていないユイには拒否できない。
 ユイにはなんの事前説明もなかった。ある日、唐突にポストに工事の日取りの書かれた紙が放り込まれていたのだ。一方的な通知に、ユイはポストの前で立ち尽くした。立ち入り工事であるとの説明を読んで、猛烈な憂鬱に襲われた。
 当日、朝からそわそわと過ごしている。こういう時ユイは何も手につかなくなる。部屋の中でじっとし、繰り返し時計を確認してはため息をつく。
 家に知らない人間をあげるのは嫌だった。別に部屋が散らかっているとか見られて困る物があるとか、そんなことはないのだが(銃はきちんと隠し戸棚にしまっているし、万が一の場合でも身分を明かして携帯許可証を示せばいい)、何か言葉にできない嫌悪感があって、他人に自宅の床を踏まれたくないのだ。
 そもそも見ず知らずの人間と、同じ空間に二人きりになるのが気詰まりで嫌なのだ。向こうは仕事をしに来るだけなのだから気にせず放っておけばいいのだが、無言は気まずいと思ってしまう。と言って、電器工事の技術者とトークしたい話題などない。
 また時計を見た。十一時五○分。予定では十二時から十二時半の間に来ることになっているので、もうじきだ。
 ユイはテーブルに頬杖をついた。ふと思いついて、スマホのメッセージアプリを立ち上げた。
 二日前のリクとのやりとりを読み直す。
『先ほどはごちそうさまでした。そして本当にごめんなさい。この埋め合わせは必ずするね。また近いうちに、一緒においしいお酒を飲みたいな』
『気にしないでいいよ。忙しくて大変だね。仕事はうまくいった?』
『ありがとう。何とか無事に仕事は終わったよ。でも今夜は本当に残念だった。リクは来週か再来週、どこか空いてる?』
『来週なら、また日曜日。再来週なら水曜日が休み。でもユイのほうの都合にできるだけ合わせるよ』
『じゃあ、来週の日曜日でいい? ただ、もしかするとわたし、今日みたいに急な仕事が入ることもあるかもしれないの。そういうのは月に数えるほどなんだけど……運が悪ければ……』
『その時は仕方がないよ。俺の方は大丈夫だから、本当に気にしないで。じゃ、日曜日に会おう。今度は少し遅い時間にしようか。またシンジュクの南口でいい?』
『うん、大丈夫。じゃあ夜の八時とかでいいかな?』
『いいよ。次の日曜の夜八時に』
『うん、楽しみにしてる』――
 頬が自然と緩んだ。なんて素敵なんだろう。なんて幸福なんだろう。次の日曜日にまたリクと会える――それだけでこの一週間を乗り越えていける、という気持ちになれる。
 今度こそゆっくりしたい。もっと長い時間、リクと一緒にいたい。お願いだからもう電話はかかってこないで。
 リクとのあれこれを想像すると、心が躍り、不安が消え、喜びで家の中が輝き始めた。わたしにも未来があるんだという前向きな気持ちになれた。
 リクがこの家に来ることもあるかもしれない、とユイは思った。先走りすぎかもしれない。だが想像するのをやめられない。テーブルをはさんで目の前でくつろぐリクを思い描くと、全身が甘やかな感覚に包まれる。
 でも心の片隅でユイは考えている。
 リクが発症したら――。
 正気を失って、暴れ始めたら――。
 考えたくはない。だがその日は必ず、そう遠くない将来やってくるだろう。
 リクに惹かれてはいけないのだ。猛烈に惹かれつつある自分を意識しながらユイは考える。浮かれている自分へ、同じ自分が警告を発する。あなたは今、取り返しのつかないことをしでかそうとしている。自分のすべてを破壊しかねない危険な場所へ足を踏み出そうとしている。
 だがユイはリクに会いたかった。会って、もっともっと彼を深く知りたかった。リクが頭の中に現れると、他のことが何も考えられなくなってしまう。同時に浮かれた落ち着かない気分にもなる。飢えにも似た、身を焼かれるような思いだ。
 止められない。でも止めなければ――
 インターホンが鳴った。ユイは想像を打ち消して立ち上がった。モニターに作業着を着た中年男性が映っていた。


 工事は三十分ほどで終わった。無言の気まずさを感じることなどなかった。作業員はかなり集中した様子で、声をかけるなんてどう考えても場違いだった。何の話題もないけどどうしよう、などと心配したのがバカみたいだ。
 作業中、ユイは居間の床に座ってぼんやりリクのことを考えて過ごした。
 作業を終えた作業員が説明書を手渡して帰ると、さっそく新しいコンロを使ってみることにした。ヤカンに水を入れ、平べったい円盤の中央に置き、加熱スイッチを押す。
 電源が入らない。説明書を読んでみると、どうやらIH対応の器具でないとセンサーが反応しない作りになっているらしい。
 仕方がないので鍋で湯を沸かすことにする。湯を張って円盤に乗っける。が、やはり加熱は始まらない。
 他の鍋やフライパンも試したが、なんと全滅だった。家にある調理器具はすべてIH非対応だった。
 ユイは呆然とコンロの円盤に手を乗せた。冷たい。当たり前だが本当に冷たい。フローリングの床より、ステンレスの流し台より、そしてユイ自身の手よりも。
 床にへたり込んだ。たかがこんなことでと思いつつも本気で落ち込んだ。
 わたしの人生はいつもこう。
 IH対応の器具がないから落ち込んでいるのではない。こういう状況が昔から無限に繰り返されているような気がしてつらいのだ。運命、宿命、巡り合わせ――大げさな言葉を思い浮かべてしまうほどに、自分の人生はいつだってダメな方へ流れ、うまく回らない。
 ユイは何事についても間の抜けた、冴えない状況に陥りがちな自分を改めて苦痛に感じた。
 たまたまIH非対応の器具ばかり買い求め、デートの真っ最中に仕事の電話を受けてしまう、そんな星のめぐりの悪さを、治療法のない宿痾のように重く感じた。
 こういうちょっとしたことはもちろん、ちょっとしていないことでも、とにかく自分の人生はいつもこうだ。わたしは何をしてもうまくいかない。いつも間が悪い。周囲にも一緒にいて楽しめない、肩の力を抜けない、性格の合わない人間しか集まらない。生まれた時からずっとそう。幸せという感覚からこれでもかってくらい遠い場所を歩いている。運命は悪い方へ進み、だいたい最低な結末に至る。いつだって必ず。
 ユイの頭は自己憐憫の念でいっぱいになった。苦しい。つらい。重い。
 スマホを手に取り、再度、リクとのやりとりを読み返す。
 呼吸が落ち着いてくる。元気が戻ってくる。リクとまた会える。また会えるんだ。そう考えると心の圧力が下がる。気持ちが軽くなってくる。
 よしっ、とユイは立ち上がった。少しは体も軽くなった。
 コートを羽織り、ポケットに財布を突っ込んで近所の金物屋へ行くことにした。新しい調理器具を買うのだ。


 新しいヤカンや鍋の入った紙袋を提げて、ユイは商店街を歩いた。どれも「IH対応」と表記されていたコーナーに売ってあった。そんなコーナーがあったのは今日初めて知った。
 商店街の人通りは少ない。買い物客で混み始めるには早い時間だ。
 ユイの足取りは軽やかだった。リクのおかけだ。近い未来に楽しい予定や予感があるのは、幸福なことだった。帰ったらリクにメッセージを入れてみようと考えた。次に会ったらどこの店へ行こう。居酒屋みたいなお店より、しゃれたバーの方が静かに飲めそう。できるだけ落ち着いて話したいし――。
「あっ」と、ユイは立ち止まった。
「あっ」と口を開いて、向こうも立ち止まった。
 顔にあざを作ったリクが、目を丸くして立ち尽くしていた。


 買ったばかりのヤカンに水を入れて、コンロの中心に置いた。今度はちゃんとスイッチが入った。
 お湯が沸くのを待つ間、ユイはじっと黙っていた。キッチンで何か話しても、居間にいるリクには聞き取りにくいだろうと思ったから。
 意外なくらい早くお湯は沸いた。ガスコンロよりずっと熱効率がいいようだ。
 ヤカンのお湯をふたつのカップに注いだ。
 リクは居間のテーブルに前に、じっと座ってうつむいている。ユイの部屋にいるのを、何かの間違いのように感じているみたいな険しい表情で、テーブルの上に握り拳を置いている。左の頬骨のあたりに赤黒いあざがあり、右のまぶたも腫れている。
 ユイは湯気の立つカップをテーブルに置いた。一つはリクの前に、もう一つは自分の前に。
 リクは小さく「ありがとう」とつぶやき、コーヒーの表面へちらっと目をやった。よく見ると唇も切れて、うっすら血がにじんでいる。
「今日はどうしたの? この辺に職場があるとか?」
 ユイは腰を下ろして尋ねた。
 リクは首を振った。「知り合いがこの近くでレストランをやってるんだ。昼飯を食いに行くところだった」
「そっか……」ユイはカップに目を落とし、言葉を探した。「じゃあ家に呼んじゃって迷惑だったかな。ごめんね、気が利かなくて」
「いいや」リクはカップを手に取った。口はつけずに続ける。「別にいつでも行ける」
 ユイはただうなずいてコーヒーをすすった。苦い。砂糖を入れ忘れていた。だが、もう一度キッチンへ立つ気にはなれない。リクから目を離したくない。
 リクもコーヒーをすすった。ほっと息を吐き、テーブルの上の拳をゆっくりと開いた。ユイを見る。
「何も聞かないんだな、傷のこと」
「聞いていいの?」ユイもリクを見た。「いいなら、教えてほしい」
 リクはまたうつむいた。
「俺、BSなんだ」
 ユイは目を見開いた。まさか、と思った。リクがBSなのはとっくに知っているので、病気であることに驚いたのではない。リクが自分からBSであると明かしたことに衝撃を受けたのだ。そんな告白、想像もしていなかった。症状が症状だけに患者は差別を恐れて、普通はBSであることを隠そうとする。白目の青味も言われなければ気付かない程度のものだし、わざわざひとに告げるメリットはない。
「BS、知ってるか?」とリクは尋ねた。
「うん……知ってる」ユイはうなずいた。「一応、厚労省の人間だから」
「なら分かるだろうけど、この病気は怒りとかイラ立ちが一番の天敵だ」
「うん」
「ストレスを溜め込むと、それだけ病気が発症しやすくなる」どこか他人事のような口調でリクは説明する。「もしイライラを感じたらすぐに発散しないといけない。ストレスをそのまま放置しておくと発症して自分を失い、暴れまわって、まともな状態には戻れなくなる」
 ユイはうなずきながら、リクの表情に目を奪われていた。口ぶりの淡白さとは裏腹に、顔は苦渋に満ちている。深い悲しみと激しい疲労が、何かの汚れのように顔面に張り付いている。見ていられないと感じるのに目を離せない。リクは自分の病状を明確に把握し、絶望している。
「俺は神経質なタチだから一日に一回は何かしら、イラっとしてしまう」とリクは言った。
「そのいら立ちがどうしてもやり過ごせないときは、発散するためにケンカをする。適当な人間を捕まえて挑発して、胸のもやもやがなくなるまで殴り合う。ヒャクニン町やオオクボの路地裏には、相手になってくれるチンピラがいくらでもいるからな」
 ユイは黙ってうなずいた。それで傷だらけなのか。
「今日もそうさ。くだらない理由だよ。家を出てすぐ、二人組のサラリーマンがせまい道を並んで歩いてた。俺とは向かい合う形だ。三人は並んですれ違えない。でも二人組はおしゃべりに夢中で俺には目を向けない。仕方なく俺は強引に横に避けて二人組をやり過ごしたが、そばに止めてあった自転車に袖を引っ掛けてつんのめっちまった」
 ユイはその場面を想像した。ああわたしには分かる、と思った。わたしだったとしても、不快な気持ちで頭がパンパンになって、少なくとも半日は落ち込んで過ごすだろう。
「別にそれでケガをしたってわけでもない」とリクは続けた。「誰かがそれを見てて俺が恥をかいたわけでもない。つまりなんの実害もない。何かあったとすれば、俺の中に強いイラ立ちが生まれた、それだけだ」
 ユイは両手をにぎりしめた。満ち足りた人間は「たかがそんなことで?」と唖然とし、顔をしかめ、心がせますぎると非難するだろう。だがこの世には、たかがそれしきのことで耐え難い苦痛を覚え、打ちのめされる人間もいるのだ。ユイにはリクのつらさの悲惨なまでの根深さが理解できた。リクにとってそれがどれだけ残酷な苦痛か、理解できた。
 リクが哀れでならない。
「俺は耐えられなかった」とリクは言い、一口コーヒーを飲んだ。
「リク、かわいそうに」とユイは言った。
 リクは一瞬、唇を固く結んだ。唇の傷から血がにじんだ。
 ユイの言葉には何も返さずに、話を続けた。
「俺は予定を変更して、飯を食いに行く前にヒャクニン町の路地に入った。頭の中は真っ赤に燃えてて、胸はゲロが詰まってるみたいに最悪の気分だった。ウロウロしてたら人相の悪いチンピラがいたんで、すぐにケシかけた。意外に手強くて、俺も結構ひどくやられた。でも何とかアゴに二、三発食らわしてグロッキーにして……深呼吸をしたら、もう俺の中の危険は去ってた。腹の底のストレスは消えてた。俺は……生き残った」
 ケンカに、という意味ではない。
「そうやって俺は自分を保ってるんだ」とリクは続けた。「そうでもしないと、すぐにでも狂ってしまいそうだから」
 リクは顔を上げた。その顔を真正面に見てユイは涙の発作に襲われた。リクは親とはぐれた迷子のような顔をしていた。大声で泣き出す直前の、自分がたったひとり取り残されたことに気付いた瞬間の、弛緩した無表情。なんて覇気のない顔。なんて苦しそうな顔。疲れ切った顔。ユイは涙をこらえながら「リクは本当に泣き出すんじゃないか」と思ってハラハラした。
 だがその直後、ユイは「いや、この顔、わたしは知ってる」と思い直した。
 わたし自身だ。
 仕事のことやシノハラのこと、騒音や、その他にも絶え間なく襲い来る多種多様なストレス。生きにくさに心が疲弊しきっている日、洗面所の鏡に映っているのはこんな顔じゃないか。青白い、まるで幽霊のような顔。打ち沈んだ、生きているのにすでに死んでいるとしか思えない顔。
 ああ……。ユイは嘆息した。
 この人の中にはわたしがいる。わたしたちはおんなじだ。
 ユイはカップを置いた。右手をリクの左手にそっと、重ねた。
「いや? 触られるの」とユイは聞いた。
 リクは首を振った。
「ユイなら、いい」
 ユイは五指をゆっくり内側へ折った。リクの手を包み込むような気持ちでにぎった。
 重なり合う手を見つめ、リクは言った。
「俺、中学生の妹がいるんだ」
 リクの目元が少しだけ緩んだ。
「セタガヤの寮のある学校にいる。親父もお袋も死んだから、学費とか生活費とか払ってやれるのは俺しかいない」
 うん、とユイはうなずいた。リクは続けた。
「俺はあいつが社会に出て、独り立ちできるまではがんばりたいんだ。せめてあと数年、発症せずに自分を保っていたい。俺がいなくなってしまったら、あいつは生きていけない」
 リクは息を吐いた。それからふっと力なく笑った。
「妹が一人で生きていけるようになったらその時は、俺はもう狂ったっていいんだ」
「リク……」
 ユイは立ち上がった。
 リクの横にしゃがみ、彼の頭と肩に両腕を回した。リクはされるがままにユイに抱かれた。
「いや?」とユイはリクの耳元で聞いた。
 リクの口端がわずかに上がった。
「いやなわけない」
 ユイは腕に力を込め、リクの髪の毛に自分の頬をつけた。リクも手を伸ばし、ユイの後ろ頭を撫でた。
 リクの匂い。ユイは深呼吸した。全身が心臓になったみたいに鼓動が激しい。
「リク、キスは無理?」とユイは上ずった声で尋ねた。自分の深いところが猛烈にうずいていた。
「大丈夫」とリクは答えた。
 二人は唇を静かに重ねた。リクの口腔の温もりが自分の口内に入り込んだ瞬間、ユイの中で最後の遠慮が吹き飛んだ。夢中で舌を差し入れると、リクの舌も獣のように伸びてきた。
 口を離し、リクの首筋にユイは抱きついた。温かかった。何でこんなに温かいんだろうと不思議に思うくらい、リクの体は熱っぽかった。
 温もりは皮膚や肉を越えて、ユイの中心部まで浸透した。ユイは吐息を漏らした。頭がしびれた。いつも心を支配している繊細すぎる思考が消えた。互いの体が溶け合い、融合するイメージで脳内が満たされる。なんて幸福なんだろう。ふたつの体が境界なく合わさって、わたしたちはひとつの生き物になるのだ。
「ベッド、行こう」とユイは耳元で言った。


 裸で絡まり合っている間、ユイは何の不安も抱かなかった。心は素直にリクを求めた。ちゃんとできたことに驚いてしまったのは、もう行為が終わった後だった。セックスをしている間は無我夢中だった。あふれ返る幸福に我を忘れ、自意識を抱く余裕もなかった。
 体の奥底が熱い。体内にリクの温もりをきちんと残してもらえたような、そんな感覚。
 ユイの腹に放出した精液を拭き取ったティッシュを持って、リクがキョロキョロしている。ユイはリクに自分の顔を寄せ、「ベッドの下にゴミ箱、あるよ」と言った。
 リクが心地よさげなうなり声をあげて、ユイの隣に横になる。まくらがひとつしかないので彼にはクッションを敷いてもらっている。ユイは布団の中で彼の手を握った。
「すごく気持ち良かった」とユイは夢を見るような口調で言った。
「ん?」とリクが聞き返す。
 ユイは同じことを繰り返してから「声ちっちゃくて、ごめんね」と言った。
 リクは微笑み、首を振った。
「大丈夫、ユイの声は聞き取りやすい方だ」
 リクは握られた手に力を込めたり抜いたりして、ユイを刺激した。
 リクは続けた。「ユイなら聞き返すのも苦にならない。むしろもっと聞き返して、ユイの声をたくさん耳に入れたいくらいだ。耳元で話しかけられるの、すごく気持ちが良いよ」
「ほんと?」
「本当」とリクはうなずいた。「ユイの声はすごく心地いい」
 ユイはリクの体にぴたりとくっついた。胸の鼓動に耳をすませる。規則正しいリズム。こちらが女なのに、母親の胎内にいるような気持ちになる。
 リクは眠たげに目を細め、天井を見つめている。ユイは思い切って、言った。
「セックスでこんなに幸せな気持ちになるの、生まれて初めて」
 リクがユイの腹に手を置いた。
 ユイは続けた。「わたし、ずっと怖かった。セックスをするの、すごく。なのに、なんでかな、リクとするのは全然抵抗なかったよ。リクに抱かれて、わたしすごく幸せでうれしくて……素敵だった」
 リクはユイの腹に乗せた手をゆっくり左右に動かした。
 ユイは少し迷った。迷っている間、胸に小さな不安がきざした。でも結局は話すことにした。リクもつらい告白をした。自分も苦しかった過去を全部話してスッキリしてしまいたい。そうしてリクと気持ちの上で対等になりたいと思った。BSという重いものを抱えているリクなら、わたしの過去も受け止めてくれるのでは、という期待もあった。
「ねえ、リク」とユイは言った。「少し重い話、してもいい?」
「いいよ」とリクはうなずいた。
「わたし、子供の頃ね……」少しだけユイは言い淀んだが、言った。「ずっと父親に虐待されてたの」
 言いながら右手に力を入れる。リクが優しく握り返す。
「毎日ひどいことをされた。七歳とか八歳の頃から。地獄だった」
 ユイは一語一語ゆっくり話した。確実に聞き取ってもらいたくて。
「つらくてたまらなかった。何度も殴られた。性的な虐待もされた。小さい頃は泣いてばかりいたわ。つらくて悲しかったのももちろんだけど、泣くことで少しでも真っ暗な気持ちを吐き出して、苦しみに耐えようとしてたんだと思う」
「うん」とリクがうなずいた。
 ユイは続けた。「だけど、いつかそれも許されなくなったの。わたしが泣くと父親が余計に不機嫌になることにある日、気づいたから。十歳くらいの頃かな……。小さい頃は人間の感情の細かい変化とかそんなのよく分からなかったけど、その頃には自分が泣くと、父の暴力がよりひどくなることが理解できるようになった。殴られて泣いてるのに、泣くとまた殴るのよ。泣くこともできないなんて本当につらかった。とっても苦しかった」
 リクは黙ってうなずく。ユイはリクを見た。悲しげな目をしているが、冷静で落ち着いた表情だ。
 ユイはホッとして続けた。
 「わたしはいつもビクビクして落ち着かなかった。父親の暴力は時間とか理由とか、そんなの全然関係なかったから。始まるのはいつも突然のきまぐれ。夜中でも髪をつかんで起こされて、そのまま殴られたり、いやらしいことをされたり……そんなのがほとんど毎日だったの。二十四時間、気の休まる時がなかった。父に虐待されてない時間は、どこかへ逃げ出すのを夢見て過ごした。両腕が翼になって、窓から外へ羽ばたいて飛んでいけたら、とかそんな幼稚な想像。でも、仮に逃げ出すチャンスがあったって、実際には逃げ出せなかった。父親と二人暮らしで、他に頼れる人なんかいなかったし、自分で働くには幼すぎた。母の顔は知らない。親戚の付き合いもない。わたしは生きるために父親の暴力を我慢しなきゃいけなかった」
 ユイがそこまで話すと、リクが仰向けていた体をユイの方へ向けて抱き寄せてくれた。ユイはリクの胸に額を付けた。
 ユイは続けた。
「わたしが十五になった時、あの頃が最悪だった。父に売春をさせられたの」
 ユイは当時を思い出して身震いした。リクが腕に力を込めてくれる。リクのぬくもりに勇気付けられて言葉を絞り出した。
「父親が連れてきた見ず知らずの人と寝る……ぞっとするなんてものじゃなかった。イヤでイヤで涙も出なかった。とてもじゃないけれど耐えられなかった。そればっかりはいくらなんでも我慢できなかった。わたしには無理だった……」
 ユイはリクの胸に額をこすりつけた。そうするとリクの肉体が削れて、彼の体内に入り込んでしまえるかのように。
 ユイは息を吐き、続けた。
「でもね、そのすぐ後に父親が死んでくれて……わたしはやっと解放された。地獄のような毎日がやっと終わってくれた」
 ユイは黙った。これで話はおしまいだった。
 リクも黙っていた。まだ続きがあるかもしれないと思って待っていたのだろうか。やがてユイが話し始めないと分かると、リクは言った。
「つらかったな、ユイ。本当につらかったな」
「うん、つらかったよ」
 ユイはうなずき、つらかったと繰り返した。それから「リク、抱きしめて、強く」と請うた。
 リクはユイの頭の下に腕を差し入れ、もう片方の腕でユイの背中を引き寄せた。ユイもリクにしがみ付くように、胸に改めて顔をくっ付けた。
「今でもね、わたしいつも何かに怯えてるの」とユイは言った。うん、とリクがうなずいた。
「毎日毎日、意味もなくビクビクした気持ちで過ごしてる。こどもの頃、何か良いことがあったり、ちょっと楽しいって思えることがあると、次の瞬間には父親に乱暴されるんじゃないかって不安になってたせいだよ。怯えるのが癖になってるんだと思う。今も、何事もない静かな一日を過ごしても、この後きっといやなことが起こるはずって思って憂鬱になる。具体的に何に不安になってるのかは分からないの。分からないまま怯えてる。つらいことがこれから起きるんじゃないか、良くないことが今にも起こるんじゃないかって予感にびくびくしてる。ぜんぜん気持ちが落ち着かない。体の力を抜ける瞬間がなくてつらい」
「分かるよ」とリクは言った。「俺には分かる」
 安っぽい共感ではない。リクは本当に分かってくれている。そう確信できる。
「リク」とユイは呼びかけた。
 リクのあごの動きがユイの頭に伝わり、うなずいたのだと分かる。
「リクと抱き合っていた間はね、そんな怯えが消えたよ」とユイは言った。「すごく温かな気持ちになれた。幸せだって思えた。こんなに穏やかな気分になるの、生まれて初めて」
「俺もだよ」とリクは言った。「俺もユイと抱き合ってると、イヤなことを全部忘れられる」
 ユイはリクの胸から顔を離し、彼の唇にキスをした。リクが舌を絡ませてきた。ユイの体の深みがうずき始める。
「リク、もう一回したい」
 リクはうなずいて、ユイの首筋に顔を埋めた。


 ユイとリクは本格的に恋に落ちた。
 二人の生活はそれほど変わらない。ユイは仕事の内容をリクにひた隠しにしながらディーラーとしてBS発症者を殺し、その度にリクのことを思って落ち込んだ。
 リクも違法ペットショップで働きながら、毎日何かにイライラしてはそれをケンカで発散させる綱渡りの日々を過ごした。
 二人は逢瀬を重ねた。会って話して抱き合えば、その間だけは苦しみを忘れられた。現在の苦痛、未来への暗い予感、過去のトラウマ。全部忘れて互いが互いのぬくもりに溺れることができた。
 抱き合っている間だけは幸福だと錯覚できた。


 ある晩。ユイとリクはユイの部屋のベッドにいた。夜中の一時頃。抱き合った後、二人はとりとめのないおしゃべりをしながら合間にキスをしたり、互いを愛撫したりしてバラ色の時を過ごしていた。
 不意に頭上からけたたましい足音が聞こえ始めた。頻度はだいぶ減ったが、今でも時折、上の住人は真夜中の行進をして騒音を響かせてくる。
 ユイはぼんやりと電灯の紐が揺れるのを見た。ストレスで胸が圧迫される感覚はない。
「すごい足音だな」とリクが呆れた様子で言った。
「うるさい?」ユイは尋ねた。
「別に」と答えてリクはあくびをした。
「わたしも」ユイも急激にまどろみ始めた意識の中で足音を聞いた。
 リクの胸に抱きつき、目を閉じて続ける。
「リクと一緒だと気にならないわ……」


 別の晩、やはりベッドの中でリクが妹のことを詳しく話してくれた。
「妹のリンコはPTSDなんだ」とリクは天井を見ながら言った。布団の中でユイの手をぎゅっと握っていた。
「前に両親はもう死んだって話したよな。まず親父が死んだ。お袋は親父の死が原因で心を病んで、後を追うように自殺してしまった」
 ユイは目を見開いて、空いている方の手を握り合っている手に重ねた。
「親父は……結構ひどい死に方だったんだ」とリクは絞り出すように言う。
 ユイはただうなずき、続きを待ったが、リクはなかなか次の言葉を口にできなかった。
「殺されたんだ」とかすれた声でやっと言った。
「誰に?」とユイは思わず尋ねた。
「分からない」とリクは言って、目を閉じた。何かに耐えるように眉間にしわを寄せる。
「あの頃、俺たち一家はサイタマとトウキョウの都県境に住んでた。ある日の昼間、おふくろから取り乱した電話がかかってきた。あわてて帰ったら、家の前にパトカーがいっぱい停まってた。あの光景は子供心にも最悪だったよ」
 ユイは黙って、握り合う手に力を込めた。
 リクはそれ以上、父親のことは詳しく話さなかった。ユイは気になったが問うことははばかられた。本人が話そうとしないなら、多分聞いちゃいけないのだ。
 リクは続けた。
「親父が殺された現場には妹もいたんだ。幸い妹は無事だったけど、親父が死ぬ瞬間を目の前で見ちまった」
 ユイは目元をゆがめてうなずいた。
 無関係な人間の惨殺死体を見るだけでもつらいのに、肉親の殺される場面を見てしまうなんて想像を絶するトラウマだろう。ユイは心底からリンコをかわいそうに思ったが、安易な言葉は口にできなかった。黙って話の続きを待った。
「妹は激しいショックを受けて、心に深い傷を負った」とリクは続けた。「事件の後、夜中に泣きながら目を覚まして親父のことを呼ぶんだ。病院で診てもらったらPTSDだって言われたよ」
「……気の毒に」とユイは言った。
「うん、俺もそう思う」リクはうなずき、少しだけ笑顔を見せた。
「今、妹さんはどうしてるの? セタガヤの学校に通ってるって言ってたけど……」とユイは聞いた。
「症状はだいぶ落ち着いたよ」リクは答えた。「医学のことはよく分からないけど、年月とともにある程度回復する場合もあるらしい。でも完治にはまだまだだ。今も月に一、二回はフラッシュバックを起こしたり、悪夢を見ちまうんだ」
「そうなの……」
「親父が殺されるシーンが頭に浮かぶんだって言ってた」
 リクは片腕を額に乗せた。
「自分ではどうすることもできないんだ、って。見え始めたら部屋の様子――カーテンのひだとか、テーブルの上のホコリまで、細部も全部見えてくるんだそうだ」
「つらいね」
「すごくつらいだろうな。フラッシュバックや悪夢のたびにリンコはすごく不安定になる。自分でもそれがPTSDによるものだって理解してるから、ちゃんと時間をおけば落ち着いてくるんだけど、直後は本当に苦しいって言ってた。自分が当時に戻ったような気分になって混乱して、涙が止まらなくなるって」
 ユイはリクの手を撫でる。言葉より体温のほうが、リクを慰められるような気がした。
「いろいろ悩んで、リンコをセタガヤの、寮のある中高一貫校に入学させることにしたんだ」とリクは続けた。「そこは精神医療の専門スタッフとかスクールカウンセラーが常駐してて、いざって時のケア体制がすごく充実してるんだ。もちろん入学の時にはリンコの病気のことも話した。教師も医療スタッフもすごく親身になって話を聞いてくれて、信用できるなって思ったよ」
 ユイは尋ねた。
「さみしくはない? リクは」
「俺?」
 リクは眉を上げ、ユイを見た。それからおかしそうに笑った。
「俺は大丈夫さ。あいつも……大丈夫だと思う」
 ユイも釣られて微笑んだ。
「幸いクラスメイトにも恵まれて、学校はすごく楽しいって言ってるよ。PTSDの問題以外は、充実した学園生活みたいだ」
「それなら良かった」ユイは目を細めた。
「きついのは学費がなかなか高いってところかな」とリクは苦笑した。「学校でも何でも、良いものは高い。だから俺、イリーガルな店で働いてるんだ。真っ当なところが本当はいいけど、普通の職場じゃ普通に安い給料しかもらえない。俺には学歴も特殊技能も何もないから、ちょっと変な職場じゃなきゃとてもリンコの学費は払ってやれない」
「リク、わたしも協力したい」とユイは真面目な顔で言った。「本当に困った時は、絶対遠慮しないで相談して」
「ありがとう」リクは微笑んだ。「でも今のところはひとまず大丈夫さ。俺もリンコも食うには困ってないし、寝室にはちゃんと屋根がある」
「今のところ」という言葉に少しだけユイの心は痛んだ。何気ない言い回しだが、リクにとってそれは真剣な言葉なのだ。今のところ――それは明日にだって崩れてしまうかもしれない。BSが発症したなら妹を養うどころではなくなり、ユイとの関係も終わる。そしてユイはリクを――
 リクを――
 ユイは涙ぐんでしまった。心配をかけたくなくてユイはリクの首筋に、冗談っぽく抱きついて涙を隠した。
「リク、好きよ」と耳元でユイは言った。「わたしがついてるからね。リク、わたしがついてるから何も心配しないでね。困った時はなんでも言ってね」
「本当に困った時は」リクは笑みを漏らし、ユイの後ろ頭を撫でた。「必ずユイに相談するよ」
 それからリクはぽつりと言った。「せめて後四年、がんばれたらなぁ……」
「四年?」抱きついたまま、ユイは聞いた。
「あと四年、今の調子で働ければリンコが高校を出て大学に行けるくらいの金を溜められる」とリクはまどろんだ声で続けた。「それまでがんばることができたら俺は安心だよ」
 ユイは胸が締め付けられた。なんて悲しい望みだろう。だってリクは自分の死について語っているのだ。あと四年がんばれれば、発症してもいいと言っているのだ。
 四年というのが発症をこらえる期間として長いのか短いのか、ユイにもよく分からない。だが二十歳の人間が死を意識する時間としてはあまりに短すぎる。
 しかし、それは現実的な考え方でもある。BSは事故や自殺、突発的な病気等で患者本人が死なない限り、いつか必ず発症する。近い将来に訪れる最期の時をしっかり見据え、残り少ない人生でやるべきことは何か、きちんと考えておくのは賢明だと言えた。
「リクは優しいね」ユイはわざと明るい声で言った。「妹さん思いで本当に優しいお兄さん。素敵よ」
 リクは苦笑いする。
「本当に優しい人間は、顔にあざを作ったりしないよ」
 今日のリクは目元を赤黒く腫らしている。
「痛む?」とユイは聞いた。
「大丈夫」とリクは答えた。
 ユイはリクの匂いを嗅ぎながら考える。
 死を意識せざるを得ない自分よりも妹のことを真っ先に心配したり、自分も神経症なのに満員電車で苦しんでいるユイを助けてくれたり、本当にリクは優しい。そんなひとが見ず知らずの人間を殴り、また殴られる。いったいどんな気持ちだろう。どんなに苦しいことだろう。どんなに悲しく、つらいことだろう。
「リク、なんでも言ってね」とユイは繰り返した。「遠慮なんかしないで、つらいときや困った時はわたしに話してね。わたし、リクの力になりたい」
「ああ」とリクはうなずいた。「ありがとう、ユイ」
 お礼の言葉だけじゃ足りない。言葉だけでは体の奥の悲しみまで散らない。ユイは首筋に顔を埋めたまま、左手でリクのほおを撫でた。リクが心地よさげに息を漏らす。ユイは左手を胸へ下ろす。さすりながら腹まで下ろす。しばらく腹を撫でていると、リクの手もユイへ伸びてくる。
 リクはユイの太ももを少しだけ愛撫すると、手を尻へ伸ばした。ユイはあえぎを漏らした。
「前も……」とユイは切なく請う。「すごく疼くよ」
 リクは無言でうなずき、上半身を起こしてユイに覆いかぶさった。
 リクと体温を交換しながらユイはためらうことなく乱れた。いやらしい言葉を口にして、淫靡な笑みを浮かべ、舌を伸ばし、唾液を絡め合わせた。リクの顔、唇、指、胸、性器へ感情のすべてをぶつける。心を愛おしさで、体を快楽でいっぱいにしなければ、絶望の暗みに落ち込んでしまいそうだった。
 リクはいつか、発症する。
 わたしはいつか、リクを殺す。
 考えずに済むならそんなこと考えずにいたい。あまりに重すぎるし、考えたところでどうにもならない。ユイは頭からBSを振り払いたい。どんな悲しみも過酷な未来も、わたしたちには存在しないのだとウソでもいいから思い込みたかった。
 たとえそれが、抱き合っている間だけの幼稚な幻想に過ぎないとしても。


 ユイは真っ暗闇を歩いている。いつから歩いていたのかも、どこを歩いているのかも、どこへ向かっているのかも分からない。自分が何も分からないということを自覚しても、歩くのをやめられない。
 目の前の地面に丸い背中があった。リクだ。白いシャツを着たリクの後ろ姿が、暗闇に浮かび上がっている。
 声をかけてはいけないと本能的に思った。声をかけずにこの場を離れなければいけない。
 しかし身体は動かない。まるで釘付けされたように足裏が地面から剥がれない。
 リクが不意に振り返った。「あ……」とユイは口を洞にした。リクは発症していた。肉食獣のような殺気立った表情でユイをにらみつけてきた。剣呑なしわを顔全体に刻み、白目がたくさんの斑点で青く染まっている。ユイはその場にくずおれそうになった。でも驚きはしない。こうなることを初めから知っていたのだから。
 リクは言葉にならない唸り声を上げて、ユイを威嚇した。
 ユイは後退りしようとして不意に右手に重みを感じた。いつの間にか拳銃を握っている。
 ユイは「できない」と思った。わたしにはできない。リクを撃つなんてできるわけがない。
「撃て」と背後から声がする。振り返るとシノハラが立っていた。無感情な目でユイを見ている。
「撃て」とシノハラは繰り返した。ユイの銃へあごをしゃくり、一本調子に続けた。
「発症者を殺せ」
「無理です」とユイは震え声で言った。「できません。わたしには撃てません」
 しかし腕が勝手に持ち上がる。ユイは「え?」と思うが、いつの間にかあたりは無人の真っ暗闇で、シノハラもリクも消えている。
「やれ、ユシーヌ」というシノハラの声が離れたところから聞こえる。人格がいつの間にか交代している。
「やめて!」とユイは叫んだ。「ユシーヌ、やめて。お願い、撃たないで」
 銃声が響いた。ユイは息を吸い込んで止めた。そして言葉にならない叫び声を上げた。


 薄暗い天井を見上げていた。カーテンに明け方の光が透けている。
 いつ目覚めたんだろう? 大きく深呼吸しながら一連の出来事を振り返り、自分が叫んだところまで思い返した。
 夢だった。
 耳の奥に自分の叫びがこびりついている。言語を獲得する以前の原始人のような、言葉にならない叫び。叫ぶ以外もはや何もできなくなった人間の、獣のような叫び。
 喉がからからに乾いている。
 横のリクを見る。
 リクは少しだけ唇を開き、寝息を立てている。なんて穏やかな寝顔。
 ユイは泣き出した。あふれ返る水分をどうすることもできなかった。
 リクが目を開けた。声を押し殺して泣いているユイを見て、目を丸くする。
「どうした?」
「夢を……」ユイの声は震えた。涙でうまくしゃべれない。「夢を見て……すごく怖い夢……」
「どんな?」とリクが聞く。
 ユイは泣きながら首を振った。リクはそれ以上聞かず、ユイを抱き寄せた。
 温かい、とユイは思った。
「大丈夫」とリクは優しげな声で言った。「ここは夢の中じゃない。もう怖くない。大丈夫」
 ユイはリクの胸に額を押し付けた。涙は止まらない。止めようがない。リクのスウェットがどんどん濡れそぼっていく。
 ここはまだ夢の中よ、とユイは心の中で言った。だって現実も夢と何ひとつ変わらないもの。


 リクはペットフードを台車に乗せて、ペットショップ内を歩き回っている。イムに餌をやる時刻だ。イムの数はおびただしいので餌も大量だ。台車も重い。下段の檻に餌皿を設置するのにいちいちしゃがまねばならないのも面倒だ。なかなか体力を使う。だが頭を使う必要はまったくないので、リクはいつも体を動かしながら物思いにふける。
 犬のようでもあり猫のようでもありキツネのようでもあるイムが餌にありつくのを見て、人間に売買されるためだけにこの世に生み出された存在について考える。
 イムの寿命は短い。少なくとも犬や猫よりはずっと。健康体でもせいぜい産まれてから四、五年ほどで死ぬ。体力・筋力が絶望的になく、少し動き回るだけですぐにヘトヘトになる。そのため、その短い寿命でさえ人間の庇護のもとでしかまっとうできない。野生ではとても生きられない。
 それらはたぶん、違法薬物を使った無茶な交配の影響だ。イムたちには自然界で生きるという選択肢が初めからない。生まれてから死ぬまで、ずっと自然の摂理の外にいる。
 いったいこいつらは何なんだろう、とリクは考える。ただイリーガルな人々の金のためだけに存在するこの生き物。
 長くここで働くうちに、リクはイムについてあることに気がついた。一見どれも似たり寄ったりで個体差の少ないイムたちに、三種類の傾向や性格があることを発見したのだ。
 ひとつ目は凶暴で、人が近づくと牙をむいて威嚇するタイプ。犬に似たうなり声はそこそこ立派だが、体力のない生き物なので危険はまったくない。仮に襲いかかられても、払いのけたり、抑えつけたりするのは造作ない。
 二つ目は、人が近づくと檻の奥に引っ込んで身を縮こめるタイプ。餌皿を入れてもすぐには食べようとせず、リクが檻から離れてはじめて口をつける。大きく見開かれた瞳は、どことなく他のタイプより潤んでいる気がする。
 三つ目は、ただひたすらに無気力なタイプ。リクが近づいても、餌皿を入れるために檻を開けても、無反応に寝転がっているだけ。リクがそばを離れてもなかなか餌を食べ始めない。食べることにさえ気力をふりしぼれない。まるですべてをあきらめ、考えることをやめた廃人だ。真っ黒な眼球は光も乏しく、二つの穴が並んでいるだけのようだった。
 イムに三タイプあると気づいた時、リクはやりきれないような奇妙な親近感を抱いた。
 どれもまるで俺じゃないか。
 些細なことにイラ立ってケンカに明け暮れる自分。発症への恐怖と不安に押しつぶされそうになっている自分。
 そして、すべてあきらめて楽になりたいと怠惰な欲望を抱いてしまう自分。
 特に三つ目の意識は強烈だ。我ながら本当に危険を感じるので、普段は努めて考えないようにしている。
 すべてをやめてしまえば楽になる――それは魅惑的な観念だ。病気に抗うことも、妹のことも、自分にプレッシャーをかけてくる何もかも、この手から投げ捨ててしまったら――もうこんな苦しみ、味わわなくていいのだ。
 リクは餌皿に餌を入れながら、首を振った。
 ――だめだ。こんなこと考えてはいけない。こんな考えに支配されちゃいけない。発症する前から自分を見失ってどうするんだ。
 ユイの顔を思い浮かべる。ユイの笑顔。顔の次は体。耳元で囁く声。温もり。ユイのすべて。
 心が少し、軽くなる。
 最後の檻の列に至った。この一列を片付けたら餌やりはおしまいだ。
 ワダがいた。キビキビとした動きで床にモップをかけている。口笛でリクの知らない曲を吹き、そのリズムに乗ってモップを前後に踊らせる。気むずかしげな表情と口笛の陽気さがアンバランスで、リクはちょっと笑った。
 リクが台車を押しながら近づくとワダは手を止め、「リク」と呼びかけた。
「それ終わったら、クィウイオオ」
 リクは「え?」と聞き返した。
「餌やりが終わったら、一服しよう」とワダは言い直した。
 ハイ、とうなずきながらリクは餌やりを続けた。リクの心に小さな染みが生じる。
 ワダの言葉が聞き取れなくて、怒りを覚えていた。いつものことだ。だが何度も繰り返したからといって、痛みに慣れるわけではない。
 一度で聞き取れず、二度三度と聞き返さねばならない自分の病気が心底煩わしい。そして二十年も付き合ってきた病気を、いまだに受け入れられずにいる自分にもイラ立つ。
 リクは息を荒くする。
 落ち着け、落ち着け……
 リクはもう一度ユイを思い浮かべた。頭から指先まで、ユイの温もりの記憶を総動員する。
 リクは戦っていた。勝ち目がなくとも戦うしかない。生きるために――
 しだいに気分が静まってくる。すると今度は無気力な脱力感で体が重たくなる。戦闘の代償のような空虚な気分。こんなことをいつまで続ければいいんだ、という未来へのむなしさ。
 そんな感情を少しでも誤魔化すために、リクは昔のことを思い出す。
 十四歳だった。まだ家族は崩壊しておらず、リクがBSを発病するのも一年先だ。嵐の前のような静かな時期だった。だが、ひとつだけリクは大きな――リクにとっては本当に大きな――経験をした。
 当時、リクはクラスメイトの少女に恋をしていた。
 小さな頃の遊びのようなものを除けば、それが初恋だった。彼女の何に惹かれたのか、今ではもう思い出せない。だが、彼女のことを考えると幸せと不安が同時にやって来る、あのひりつく感覚はリアルに覚えている。
 リクは彼女に自分のすべてを知ってほしいと欲した。
 ある日、リクは耳の病気のことを話した上で告白した。好きだという気持ちと、感音性難聴という自らの病気について、勇気を振り絞って話した。
 彼女は告白を受け入れてくれ、病気のことも気にしないと言った。
 わたしもリクのことが好き。病気なんて、全然気にしないで。遠慮なく何回でも聞き返してくれていいよ。そう笑顔で言ってくれた。リクは直前までに積もりに積もった不安の反動で、最高潮に舞い上がった。
 だが彼女は病気を受け入れてくれはしたが、理解してはくれなかった。
 元々、正確に理解してもらうのが難しい病気なのだ。
 彼女はある時、リクが他の女子と普通に話していることをなじった。耳が聞こえないとか言って、あの子とは普通に話してるじゃん、あの子はわたしよりずっと小さい声で話してるのに、嘘つき、と。
 リクは誤解だと説明したが、彼女にはうまく伝わらなかった。声によって聞きやすかったり聞こえにくかったりすること、聞き取りやすさは声量に比例するとは限らないことを、ちゃんと分かってもらえなかった。
 結局、その行き違いをきっかけに初めての恋は終わった。
 彼女の怒りには単純な嫉妬も含まれていたのかもしれない、と今のリクには想像できる。単に他の女子と楽しそうにおしゃべりしてるのが気に障ったのだろう、と。
 だがそう考えてもなお、リクの心の傷は今も血を流している。
 あの日以来、耳のことは誰にも話さないと心に誓った。あんな気持ちを味わうのは二度とごめんだった。血肉をさらけ出している傷を、さらにナイフでえぐられるなんて冗談じゃない。
 すべてのイムに餌をやり終え、台車を元の位置に片付けた。
 リクはユイを思う。
 ユイにはどうして言えたんだろう。なぜあんなに自然に言えたんだろう。あれほど恐れていたのに。耳のことは二度と人には言わないと決めていたのに。
 自分でも分からない。だが後悔はしていない。後悔どころか、リクはユイに言えたことを心から良かったと思っている。
 ユイの前でだけは俺は本当の俺になれるんだ、とリクは思った。恐れも怒りも脱ぎ捨てて、本来あるべきはずの自分になれるんだ。


 休憩室ではワダが缶コーヒー片手にタバコを吸っていた。四畳半もないせまい空間に、長椅子が二つと自動販売機が置かれ、その間に灰皿がふたつ並んでいる。
 長椅子にはワダしかいなかった。リクもコーヒーを買って、ワダの横に腰を下ろした。
「今日は一段と冷えるな」とワダが言った。「雪でも降りそうだ。まったくふざけた天気だ」
 これくらい距離が近ければ、ワダの太い声はむしろ聞き取りやすい。
「エサ、足りたか?」とワダが煙をくゆらせながら尋ねた。
「ギリギリ足りました」とリクはうなずいた。オーナーが仕入れを忘れていて、今日は微妙な量しか在庫がなかったのだ。
「どうしようもないよな。大事なペットのエサだぜ? もし餓死させちまったら、今度は俺たちが餓死する番だ。オーナーのバカ野郎が、死ねばいいのに」
 リクは吹き出した。
 ワダは口が悪い。その上いつも眉間にしわを寄せ、ピリピリした雰囲気を醸し出しているので、彼を毛嫌いする同僚もいる。
 だがリクにとっては不思議と気の置けない人間で、ウマが合った。ワダが口にする文句も、嫌なことを溜め込みがちな自分の代わりに不満を吐き出してくれているような気がして、一緒にいて楽しいくらいだった。そういう人間はリクにとって、とても貴重な存在だ。
 リクはコーヒーを飲みながら、以前ワダが「俺はすごく神経質な人間なんだ」と言っていたのをふと思い出した。実際そのとおりで、だからワダはいつも不満を口にし、眉根を寄せて仕事をしている。
「ワダさん」とリクは思い切って口を開いた。
 ワダは二本目のタバコに火をつけながら「なんだ?」と聞いた。
「ワダさんは前に、「俺はすごく神経質だ」って言ってましたよね。「細かいことがやたらに気になって、いつもどうでもいいことにイライラしてキツい」と。ワダさんは普段、どうやってストレス発散してます?」
「うーん?」ワダは意外そうな表情でリクを見る。普段無口なリクに急に質問されて、驚いたのかもしれない。
「簡単さ。俺は嫌なことは全部、絵にぶつけてるんだ」
 ワダはタバコを絵筆に見立てて空を舞わした。
「絵に?」とリクは聞き返した。
「そう。俺はガキの頃から絵を描くのが好きなんだ。今も夢はプロの画家になることだ」
 そんなことは初めて知った。ワダはこれまで絵について、誰にも一言も話したことはなかった。
「休みの日なんか朝から晩までずっと部屋にこもって描いてるんだ」とワダは言った。好きなことについて話せるのがうれしいのか、珍しく笑顔になる。
「俺の絵のテーマは全部「イラ立ち」だ。イラ立ちなら売るほどオレん中にあるからな、そいつを燃料にすりゃいくらでも描ける」
 リクは強く興味を惹かれてうなずいた。思った以上に示唆的な話だ。
 ワダは続ける。
「筆を握ってキャンバスに向かってさ……いや、その時俺はキャンバスじゃなくて、自分の中身と向き合ってるんだ。自分の中の深いところにあるいら立ちの根源、負の感情そのものっていうのかな、そいつをじっとにらんでるんだよ。だってそれを描こうしてるわけだからな、描くべき対象をよーく観察するのは絵の基本だ。それが目に見えるものであれ、目に見えないものであれ」
 リクはうなずいた。
「絵を描いてる時の俺は、この世に自分一人が取り残されたような気持ちになる」とワダは続けた。「でもいやな感じじゃない。それどころか最高にハイだ。俺は誰かを喜ばせたくて絵を描いてるわけじゃ全然ないのさ」
「え、じゃあなんのために?」とリクは聞いた。
「ただ俺自身のために」とワダは答えた。
「俺は他人の存在なんか完全に忘れて描いてる。それはものすごくエキサイティングで、気が狂いそうなくらい楽しい時間だぜ。何枚だって描けるし、これからもたくさん描きたいって欲が俺の中であふれ返ってる。ネタが切れることなんて、まずないね。俺の絵の原動力は俺の神経質さや怒りで、そしてありがたいことに、俺はとてつもなく神経質でイライラしやすい性格ときてる。この性格のせいでクソいまいましい気分を味わうこともしょっちゅうだが、それも全部絵を描くためのエネルギーだと思えば、むしろありがたいくらいさ」
 リクは唾を飲み込んだ。
 ワダは続けた。
「もし仮に俺が穏やかな腑抜けみたいな性格になっちまったら、俺は絵筆を折って自殺しちまうかもしれない。俺はイラ立ちを糧に絵を描くのが最高の幸せだと思ってるからな。俺は神経質な性格で構わないんだよ。まあいろんなことがいちいち気に障るのはきついけど、でもだからこそ俺は納得のいく絵が描けてるんだ。その喜びや楽しさに比べたら、神経質でつらいのなんか小さいもんさ」
 リクは大きく深くうなずいた。そしてワダに悟られないよう小さくため息をついた。
 俺にはない、とリクは思った。ワダさんの絵に相当するものが俺には何もない。
 リクは自分でも驚くほどに強い涙の発作に襲われた。あやういところを、コーヒーをあおるふりをしてなんとかごまかした。
 リクは缶コーヒーをもう一本買うために席を立ち、ワダに背を向けて唇をかんだ。
 ワダが羨ましかった。狂おしいくらいに羨ましかった。こんなに人を羨んだことなど生まれてこのかたない、というくらいに。
 絵を描くことについて自信たっぷりに語るワダに、リクは感銘と憧憬と、そしてわずかに嫉妬の念を抱いた。
 ――ワダさんは俺やユイと同じタイプの人間だ、なのに俺たちとはまるで違う世界に住んでる。
 リクは二本目の缶コーヒーのタブを開けながら、自分の空っぽさに心底がっかりする。そしてむなしく考える。俺にも絵とか音楽とか、心の鬱屈を昇華できる趣味があれば……この人生も少しは違ったものになっていたんじゃないか?
 ワダが休憩時間を消化して仕事に戻るのを見送ると、休憩室はリクひとりになった。
 うつむいて考える。
 確かに自分にはリンコや、最近じゃユイという自分自身よりも大切に思え、かけがえがないと感じる存在がいる。それは素晴らしいことだし、今自分が自暴自棄に陥らずに何とか生きていられるのは彼女たちのおかげだ。それは間違いない。だがワダにとっての絵が純粋にワダ自身に属するものであるのに対して、リクにとってのリンコやユイはいかに愛おしくとも、リク自身ではない。
 ワダは他者ではなく、他でもない自分自身の中にイラ立ちを解放する機構を備えている。
 俺はからっぽだ、とリクは感じた。リクの中にそんな力強さはなかった。イラ立ちを浄化したり、別のものに変換したりする資質や情熱などまったくなかった。リクひとりでは日々のストレスに打ち勝つことはできない。自らの力で自らを癒したり鼓舞したりすることはできない。
 ユイに会いたい。リクは猛烈に感じた。今すぐユイに会って、抱きしめたい。
 自分の弱さが心にしみて耐えがたかった。リクは時計を見た。今日は朝から晩までフルで入る交番なので、まだ退勤までは三時間ある。
 リクは残りのコーヒーを一気に飲みきった。喉がひどく渇いている。こんなぬるいコーヒーでは癒せない。
 ――ユイ。
 リクは心の中でユイを呼んだ。
 会いたい。自分のからっぽさを埋めてくれるのはユイしかいない。
 リクはいついかなる時もユイに溺れていたかった。ユイの中に永遠に入り込んでいられるなら、溺れ死んだって本望だ。


 その日の帰り道、リクは久しぶりに「あの日」のことを長々と思い出した。思い出したくなどないのだが、ワダの話にすっかり動揺していて、余計な記憶を心の底から次々引っ張り出してしまう。頭を振ってもユイの顔を思い浮かべても、考えずにすませることができない。
 リクは十五歳だった。季節は秋も深まった十一月末。家の近所の公園の緑も紅葉に色づいていた。
 リクは友達の家に遊びに行っていた。スナック菓子を食べながら絨毯に寝転がってダベっているときに、電話はかかってきた。
 電話口の母は泣いていた。自身の耳の病気と母の涙混じりの話し方のために言葉は半分も聞き取れなかったが、父が発症したということはなんとか理解した。
 あわてて帰宅すると自宅の前はパトカーだらけで、玄関まで近づくこともできなかった。警察官の一人にこの家の住人だと告げても「危険だから離れなさい!」と乱暴に追い払われるだけだった。
 首を左右に振ると離れたところに母を見つけた。母は両側から女性警官に支えられ、立っているのもやっとという感じだった。
 リクは母に近寄った。母はリクを見ると泣き方を激しくした。
「お父さんが発症して……」と母は言った。
「父さんは家の中なの?」
 リクが尋ねると、母は子どものように大きくうなずき、そして続けた。
「リンコも中に……」
「え?」とリクは聞き返した。予想外の言葉にてっきり病気による聞き違いかと思ったのだ。だが母は繰り返した。
「リンコも中にいるのよ」
 全身の血の気が引いた。
 玄関の方を見た。パトカーと警察官で視界が遮られ、様子は分からない。
 白黒のパトカーの中に色鮮やかなスポーツカーが一台、停まっているのが見えた。オレンジ色の大きなクーペ。
 リクは他に見るものもないしできることもないので、そのクーペをぼう然と眺めた。心はリンコのことでいっぱいだ。心配のあまり体に力が入らない。できるなら家の中に飛び込みたい。だが中学生のリクは無力だった。発症した父と戦う以前に、警官の壁を突破することもできない。
 長い時間、そこに突っ立っていた。記憶では何十分にも感じるのだが、実際にはどれくらいの時間だったのか。
 唐突に銃声が響いた。音は大きいが、意外に地味な破裂音だった。同時にクーペのドアが開き、運転席から髪の長い女が降りてきた。制服ではなく青っぽいスーツ姿で、私服刑事だとリクは思った。
 それから周囲の警察官がざわめき出し、リクの胸もざわついた。何が起こったんだ? 父は? リンコは? いったい何がどうなったんだ。
 目の前の警官がその場を離れたので、リクの視界に見慣れた玄関が映った。駆け寄りたかったが、横にも後ろにもまだ警官がいるので我慢した。
 母を支えていた女性警官に、別の警官が走り寄って耳打ちした。女性警官が母に言った。
「娘さんは無事です」
 母は泣きはらした目を見開き、警官を見た。
「無事? リンコは無事だったのね?」と母が確認すると、女性警官は大きくうなずいた。母はその場にへたり込んだ。
 リンコは無事だった。リクもひとまず胸を撫で下ろした。しかし、じゃあ父さんはどうなったのか?
 尋ねるまでもないと思った。BS発症者が最後どうなるか、患者の家族なら誰だって知っている。それでも心臓が恐ろしいほどに高鳴った。全身がわなわなと震えた。
 その時、玄関のドアが開いた。リクは息を飲んだ。自宅から出てきたのは見ず知らずの少女だった――少なくとも大人とは思えなかった。リクと大して年の違わない「女の子」に見えた。
 女の子の顔形はぼんやりしていてよく覚えていない。それよりも、ある色が記憶に鮮烈に残っている。
 赤、だ。
 彼女は全身黒づくめだった。黒の上着に黒のスカートに黒のブーツ。まるで喪服だ。右手にはやはり真っ黒な拳銃が握られていた。彼女は拳銃をコートの内側にしまいながら歩いていた。その姿にリクの目は吸い寄せられた。辺りはざわついていたはずだが、不思議なほど音の記憶はない。彼女のまとう静やかな雰囲気に、リクの心は支配されていた。足音もなくゆっくりと歩む彼女の姿は、不気味なまでに静謐としていた。
 女の子は鮮やかな赤の眼鏡をかけていた。眼鏡だけがモノクロの世界で奇妙に浮き上がっていた。それ自体がひとつの生き物のように生き生きと空中を動いて見えた。
 女の子はクーペから出てきたスーツの女と、何か言葉を交わした。そして二人で車に乗り込むとサイレンを鳴らし、周囲の人をかき分けるように走り去った。
 この後のことはよく覚えていない。リンコはほとんど無傷で助け出され、一応病院へ運ばれた。リクと母も警察の車で病院へ行き、そこで父が射殺されたと聞いた。
 リンコは父が撃ち殺される瞬間を目の前で見てしまっていた。それがリンコの心に深い傷をきざんだ。
 一度だけ、その時のことをリンコは話してくれた。リンコは発症した父に壁際に追い込まれた。襲いかかられる一歩手前、銃声が響いた。父はその場に崩れ落ちて動かなくなった。倒れた父は首を血で真っ赤に染めていた。背後から完璧な正確さで延髄を撃ち抜かれたのだ。父から顔を上げると黒づくめの女の後ろ姿が見えた。玄関へ向かう女の右手には銃が握られていて、リンコは「あのおねえさんがパパを殺したんだ」と分かった。
 母は父がBSを発病した時から心のバランスを崩していたが、父が射殺されたことをきっかけに本格的に精神を崩壊させた。
 あっけなかった。父が死んで二ヶ月後に、自ら頚動脈を切って自殺した。首を真っ赤に染めて死んでいる様は、警察で見た父の死体の状態とそっくりだった。
 リクは絶望しかけた。彼はまだ十五で、頼れる人間もいなかった。自分も死んで両親の元へ行きたい、と本気で思いさえした。しかも不幸の圧力はそれだけでは終わらなかった。十六歳の誕生日の直前、リクも父と同じ病気を発病したのだ。
 その時は真っ先に「死のう」と思った。「死にたい」ではなく、「死のう」とすんなり思った。
 だがギリギリのところで踏みとどまれたのは、リンコの顔が思い浮かんだからだ。リンコを守れるのは自分しかいなかった。リクがいなくなったら、PTSDを抱えた中学生の少女に生きる術などないと思った。リクは歯を食いしばって死の誘惑を耐え抜いた。
 今でも耐え続けている。


 ――――
 
 大寒を過ぎてますます気温が下がり、ユイが布団から出る時刻も遅くなりがちになった。特にリクと布団に入っている日で、なおかつ彼が休日だと、ぬくもりから離れたくなくて普段以上に寝坊した。
 ユイもリクも、そんなだらしなさをやましく思うような人間ではなかった。むしろ昼近くまで抱き合い、まどろむのは、何物にも代えがたい幸福な時間だった。
 今朝のユイは久しぶりに早起きした。リクとは一緒でなく、物理的にも精神的にも冷たい朝だった。布団から出たくなかったが、厚生局へ出勤する用があったので仕方がない。毎年この時期には公務員全員に義務付けられている健康診断を受けねばならない。その問診票を受け取るために、BSDDへ顔を出さなくてはならないのだ。
 電車の座席にかけ、景色を眺めながらユイはため息をついた。早い時刻だが土曜日なので空いている。
 健康診断は嫌いだった。メンタル検診でいつも「悪い」か「かなり悪い」にチェックを入れられてしまうからだ。自分でも精神的に健康な人間であるなんて一ミリも思っていないが、そのように断定されてしまうのはやはり嫌な気分だったし、傷ついた。
 BSDDに着くとタクミがいた。体を斜めにして、二人がけソファーをひとりじめして新聞を広げている。
「おはよう、ユイちゃん」
 読んでいたスポーツ新聞をたたんで、タクミは足を組み直した。
「今日はどうしたの?」
「問診票をもらいに……」
 ユイは真正面の無人のデスクを見て答えた。
「姉さんは、いま出ちゃってるよ」
 タクミもデスクに目を向ける。
「すぐに戻りそうですか?」
「うん。朝ごはんを買いに行っただけだから」
 ユイはうなずいて、タクミの向かいのソファーにかけた。
 タクミはスポーツ新聞に戻った。熱心に野球面を熟読している。ここでは会うタクミはだいたいいつもそうだった。厚労省との契約があるのでこうして定期的にBSDDへ顔を出しているわけだが、ユイには売店で買ったスポーツ新聞を読みに来ているだけにしか思えない。
「今って、野球やってないですよね」とユイは聞いてみた。
「うん」タクミは新聞から目を離さずうなずく。「でもストーブリーグが熱いからね。毎日、いろんな動きがあるよ」
「ストーブ……?」ユイは首をかしげた。
「簡単に言うとシーズンオフ中の人事異動のことさ」タクミは新聞の横から顔をのぞかせた。「監督が変わったり、コーチ陣が刷新されたり、選手がトレードされたり、ね」
「ああ、そういうのって今の時期にやるんですね」
「シーズン中にも人が動くことはあるけど、ほとんどのチームはシーズンオフの間に済ませちゃうね。ペナントレースが始まる前に基本的な陣容を固めておかないと、事前の戦略を練られないからね」
 タクミは新聞に目を戻して続けた。「そういう人の動きを毎日チェックするのがまた面白いんだ。例えばあるチームがピッチャー、それも長いイニング投げさせるのには向いてないけどワンポイントで強そうな選手を狙ってる、みたいな話が出れば、チームがどういうビジョンを持ってシーズンに臨もうとしてるのか、ある程度知ることができる」
 タクミは嬉々として語る。野球に興味のないユイにはよく分からないが、そういうところまで細かく見ているということは、タクミの野球好きのレベルは結構なものなのだろう。
「タクミさんって、どこのチームのファンなんですか」
「特にどこってのはないなぁ」とタクミは答えた。「強いて言えばどこも好きだよ。プロ野球のユニフォームを一度でも着た選手は、全員僕にとってスーパースターだから。僕は全チームの動向が気になるんだ」
「ふーん」
 応援するチームがなくてもそんなにハマれるものなのか、とユイは思った。
「この選手、知ってる?」
 タクミが今まで読んでいた記事をユイに見せてくれる。スポーツ選手らしいさっぱりした髪型の人物が、記者会見場で沈痛にうつむいている写真が載っている。顔の横に「引退」と大きく書かれている。
「あ、知ってますよ」とユイはうなずいた。「タケナカっていう選手。結構有名な人ですよね。何年か前に三冠王を取ったとか……」
「そうそう」タクミはニコッとうなずいた。「すごい大物選手だ。このチームの歴史に名前を残すくらいのね。でも今年チームから戦力外通告を受けて、現役を続行しようとしたけど結局どこのチームも取ってくれなくて泣く泣く引退に追い込まれてしまったんだ」
「え? こんなすごい選手が?」
「そう」タクミはうなずいた。「どんなに実績のある選手でも、「いま戦える選手」でないならあっけなく戦力外になってしまう。タケナカももういい歳だし、去年はケガもあって一軍の試合にはまったく出場してないしね」
 タクミは新聞の記事を少しさみしそうな顔で見る。個人的に好きな選手なのかもしれない。
「でも、彼ほどの選手ならまだ幸せだよ」とタクミは言った。「この後の就職先にも困らないだろうからね」
「就職?」ユイは首をかしげた。
 タクミはタケナカの写真を見つめ、目を細めた。「現役を引退するってことは、要するに仕事を失うってことだから。新しい就職先が必要さ」
「でもものすごい金額をもう稼いでますよね」
 タクミは笑ってうなずいた。「僕らには想像もできない額をね。けど野球選手――特に大物と言われる選手って、豪快でプライドの高い人が多くてさ、出て行く額もハンパないんだ。一晩の飲み代で何百万円も散財したり」
「一晩で?」ユイは目を丸くする。
「そういう金銭感覚はそうそう治るものじゃないから、やっぱり引退後も何がしかの定収入はあったほうがいいのさ。タケナカならその点、コーチとかの仕事は引く手あまただろうからほとんど心配はなさそうだね。少なくとも五、六年は安泰じゃないかな。コーチとしてそこそこの実績を残せれば、人気のある人だから古巣の監督にもなれるだろうし」
「なるほど」
「けど彼のような大物でない選手は悲惨だよ」
 ユイはしばたたいた。タクミはユイを見た。
「野球界では毎年たくさんの選手が引退してるんだ。それもまだ二十代半ばの若い選手たちが」
「そうなんですか?」
 そのようなイメージはユイにはまったくない。
「野球に興味がない人にはピンとこないかもしれないけれど、実は若くして首を切られる選手ってすごく多いんだよ」タクミは新聞をめくりながら言う。「球団だって無限にお金があるわけじゃないから、入団から四、五年してもまったく芽の出ない選手は解雇せざるを得ない」
「ああ――」
「彼らは実績がないから、野球界で再就職するのはすごく難しい。コーチや監督業は論外だし、球団職員だっていくつも空きはない。解説者だって人気者でなきゃ到底無理。となると、野球とは関係ないセカンドライフを考えなきゃならない。でもね」タクミは言葉を切って、息をはいた。「こどもの頃から野球ばかりやってきて、野球以外のことをほとんど何も知らない若い子たちが、いきなり外の世界に出て野球と無関係な仕事をやっていけるかと言ったら、なかなか難しいよ」
「そう――でしょうね」
「人生がうまくいかなくて、生活を破綻させてしまう人も多いそうだよ。クスリに手を出して捕まった人間もいるし、犯罪組織みたいなのに取り込まれて警察沙汰になった人もいる。自殺してまう人もいるね」
 タクミはもう一度タケナカの記事に戻り、淡々とした口調で言った。
「使えないと判断された人間に待つのは、ただ厳しい現実のみ。冷酷な世界さ」
 ユイは神妙な気持ちになる。冷酷な世界――最後の言葉は他人事とは思えない。
 もしわたしが最後の最後でリクを殺せないとなったら、シノハラはどうするだろう、とユイは考えた。
 実際にはユシーヌがわたしの意思と無関係に銃を撃つだろう。でももし万が一、わたしがその選択権を得たら……間違いなく、殺せない。そんなこと想像するだけでも泣きそうでゾッとするのだ、殺せるはずがない。
 そうなったらきっと、わたしはシノハラに恐ろしい仕打ちを受けるだろう。シノハラの命令は絶対だ。シノハラにとってBS発症者を殺せないわたしなんて何の価値もないはずだ。解雇なんて生易しい処置では済まない、きっと。
 わたしは殺戮マシーンだ。シノハラにとって純粋な殺戮者だ――。
 わたしも冷酷な世界を生きてるんだ。わたしの人生にこそ、厳しすぎる現実しかあり得ない。他の道なんてありはしない。
 ドアが開き、シノハラが鋭い目つきで入ってきた。コンビニのビニール袋を提げている。
「おはようございます」とユイは背筋を伸ばして挨拶した。
「お帰り」とタクミが新聞から目を離さずに右手を上げた。
 小さくうなずくだけで言葉は発さず、シノハラはつかつか歩いてデスクにかけた。無言で引き出しを開け、緑色のビニールに入った問診票を取り出した。
 ユイは問診票を受け取り、ソファにかけ直してビニールを開いた。問診票には去年の結果も記載されている。それに目を通していたら、
「そう言えばユイちゃん」とタクミが不意に言った。「最近さ、なんだかちょっと変だね」
「え?」顔を上げ、タクミを見る。タクミは新聞を下ろしてユイへ妙な笑顔を向けている。
「すごく機嫌がいいなぁと思えば、急に沈み込んじゃったり……ここのところテンションの上下が極端じゃない。何かあったの?」
 ユイの心臓が高鳴り始めた。
「別に……何も」
 シノハラも机上の書類から目を上げて、ユイを見た。ユイは去年のメンタル検診の結果「かなり悪い」を見ながら、
「わたし、もともと不安定ですから」と答えた。
「まあ確かに」とタクミはうなずいた。けど、と続ける。「ちょっと前までのユイちゃんって四六時中沈んでて、いつ会っても何かに耐えてるような感じで……常にいじらしい雰囲気を漂わせて、ある意味でとても安定してた。悪い方向でだけど」
「そう……でしたっけ」
 ユイは曖昧にうなずいた。背中に冷や汗が浮く。うつむいてそちらを見ないようにしているが、シノハラの視線を痛いほど感じる。
 タクミは続けた。
「それが最近は珍しくご機嫌そうだなぁと思ったら、次の瞬間にはいつも以上につらそうに沈み込んでいて……明るいユイちゃんと暗いユイちゃんを行ったり来たりしてて、なんだかあわただしいじゃない」
「そうでしょうか……自分ではよく分かりません」
 シノハラの顔もタクミの顔も見ることができない。
「彼氏でもできたのかな?」
 タクミが核心をついた。自分でも分かるほどユイの顔はこわばった。全身がカッと熱くなり、胸が早鐘を打つ。
 ユイは勢いよく顔を上げて真正面にタクミを見た。
「彼氏なんて、いませんよ」
 唇も震えていた。顔も多分真っ赤だった。
 視界の端に、じっとこちらを見つめているシノハラが見えた。シノハラの顔はどうしても見ることができなかった。ユイは問診票をビニールにしまい直すと、「お疲れ様でした」と頭を下げた。
 ドアへ歩く間も、背に冷たい視線を感じた。


 外へ出ると、すぐにリクに「会いたい」とメッセージを送った。
 もしキクチ・リクと付き合っているのを疑われているのなら、会わないほうがいい。だが会いたい気持ちを抑えることなんてできなかった。
 膨れ上がった不安は、部屋でひとり抱え込んでやり過ごせるようなレベルではなかった。リクの顔を見ないと心がダメになりそうだ。もしバレたら(バレていたら)、そのまま放っておいてくれるなんてことはあり得ない。リクはBSなのだ。間違いなくシノハラから何かひどいお達しがある。
 ユイは電車に乗って、座席の端っこに腰掛けた。足が震えた。不安すぎて、駅へ来るまでに何度もへたり込んでしまいそうになった。
 スマホを握り締め、ユイは車窓をながめた。朝は晴れていたのに、真っ黒な雲が空を覆っている。街並みが薄灰色の幕をかけられたように暗くかげっている。
 スマホが震えた。取り出して見ると「仕事の後、夜そっちへ行くよ」というリクからのメッセージを受信していた。
 ユイは目を閉じて、スマホを胸に持っていった。「夜まで長くてつらい」という気持ちと、「夜に会えるのが楽しみ」という気持ちで心がいっぱいになった。
 一刻でも早くリクに会って、リクに抱きしめてもらって安心したい。でないと押しつぶされそうだ。


 八時、リクがやって来た。
 少し疲れた顔をしていた。もともと暗い顔をしていることの多いひとだが、街で「ケンカ」をした日は特に疲弊感を顔面に漂わせる。ケガらしいケガがないようでも、ああやったんだ、とユイには分かった。でも何も聞かなかった。心が疲れてどうしようもない日はユイにだってある(今日がまさにそうだ。厚生局でのやりとりはリクにこそ話したくない)。どうしても話したいときは自分から話し始めるだろうし、そうしたらユイもいくらでも聞いてあげるつもりでいる。でも何も言わないなら、あえて何も聞かないことにする。そっとしてあげようと思う。
「何か、ご飯作るね」
 リクをテーブルの前に座らせて、ユイはキッチンへ行った。手の込んだものを食べさせたいが、あいにく今日はややこしい料理を作る気力がない。とりあえず簡単な炒め物でも、と思ってユイは冷蔵庫のドアに手を伸ばした。
 背後にリクが立つ気配がした。ユイは「ん?」と思ったが、振り返らずに冷蔵庫を見たまま動きを止めた。予感に胸がドキドキした。体の奥が疼き出す。
 リクがユイに抱きついた。筋肉質の腕をユイの腹へ回し、体と体を密着させてくる。
 リクの手に自分の手を重ねて、ユイはギクリとした。その冷たさ。外は相当冷えていた。リクの指も生きた人間とは思えないほど冷たい。ユイはリクの指をにぎり、その動きをさえぎった。
「手……冷たい」とユイは言った。
「ユイの手は、あったかいな」とリクは答えた。「いや、全部あったかい」
 リクはユイの首筋に唇をつけた。
 ユイは小さく息を漏らし、それから「ねえ、今日はどうしたの?」と尋ねた。
「別に……いやか?」とリクは聞いてきた。
「いやなわけないでしょ」
 ユイはリクの腕を振りほどき、振り返って真正面からリクを見た。そしてそのままリクへ抱きついた。
 キスをした。舌を絡めながらユイは右足を持ち上げ、リクの太ももに巻きつけた。リクの下半身と自らの下半身を密着させ、リクの舌に吸い付いた。
 ユイは息を荒くした。唾液を交換する合間にも「リク、リク」とリクの名を呼んだ。
 リクがユイの首筋にキスし始めたところで、ユイはベッドへ誘った。リクはいきなりユイを抱き上げた。
 ユイはビックリして思わず笑い声を漏らした。リクもニヤつきながら寝室へ移動し、覆いかぶさるようにしてユイをベットへ下ろした。
 リクはユイの唇をふさぎ、同時にシャツの上から胸を愛撫した。ユイはリクの後ろ頭に両手を回す。彼の髪の毛をくしゃくしゃにかき回し、あえぐ。
 ――忘れさせて。
 ユイは思った。
 ――イヤなこと全部、忘れさせて。
 リクと抱き合えば、本当にすべての不安が消えてしまいそうになる――。
 しかし完全に忘れることはできない。ユイにもそんなことは分かっていた。ユイは体を熱く燃やしつつも、頭のどこかで冷静に考えている。当然だ。どんなに忘れてしまいたくても、完全な忘我の境地になんて至れない。わたしは聖人じゃない。心と体の片隅に、暗い思いはしっかりとこびり付いて、その存在を主張し続けている。
 だが溺れてしまいたかった。完全でなくてもいい、できるかぎりでもいいから、リクの海で溺れて窒息したかった。
 ユイは一旦リクから体を離し、服を脱いだ。
 ブラジャーを外しながら、思う。
 ――もしこれがバレたら。
 リクもジーンズを脱ぎ、パンツも脱いで全裸になる。リクがいたずらっぽく、ユイのブラジャーを奪った。ユイは笑う。
 ――シノハラにバレたら、私たちはどうなるんだろう。
 二人は抱き合った。
 ユイは上になりたいとリクに言った。リクもうなずいて、ユイと体の位置を入れ替えた。
 ユイは気持ち良さげなリクを見下ろしながら、腰を動かした。腕はリクの肩に置いていたが、感じている間にその指先が意図せず首筋へ移動した。
 リクがユイの頬をさすりながら言った。
「そのまま力入れたら、俺、絞め殺されちまうな」
「ホントだね」とユイは答え、一番確実に殺せるポイントを探るようにリクの首を撫でた。わたしは本当にいつかリクを――という思いが、身体中に満ちる幸福感と快感の狭間に泡のように立ち昇る。
「いいじゃない」とユイは言った。「好きな女に殺されるなんて素敵でしょう?」
 泣きたかった。でも出てくるのは涙より喘ぎだった。今まで感じたこともない、ゾッとするほどの快楽に貫かれた。悲しいのに、悲しみでおかしくなりそうなのに、リクが愛おしくて、体がますます反応する。
「ああ」下から腰を突き上げながら、リクは答えた。「最高だな、それ」
 ユイはオーガズムに頭を白くしながら、のけぞって痙攣した。
 不安になればなるほど、悲観的な思いに支配されるほどに、リクが欲しくなる。激しく抱かれたくなる。リクの体温に包み込まれたくて、我慢できなくなる。


 一週間が経った。その間にユイは健康診断を受けに厚労省指定の病院へ行き、案の定メンタルについてやや疲弊していると言われた。しかし「悪い」「かなり悪い」だった以前に比べれば少しマシになっている。リクのおかげだ。
 仕事はずっと休みだった。発症者は現れず、ユイは銃を握らない平和な七日間を過ごした。いつ電話が鳴るかと思うとなかなか気は休まらないが、それでも一週間、人を殺さずにいられるのはありがたかった。
 リクとは一日置きくらいに会った。いつもリクに仕事終わりに、ユイの家に泊まりに来てもらった。
 リクはユイの家の方が落ち着ける、と言った。ユイも何度かリクの家に泊まりに行ったが、カブキ町という場所柄もあるのか、彼のマンションは確かになんとなく落ち着けなくて、これならわたしの家のほうが良いな、と思った。それから本気か冗談か分からないが、この部屋はたまに血だらけの幽霊が出るんでそんなものをユイに見せたくない、ともリクは言った。


 リクと一緒ではない日曜日の朝だった。午前八時、電話のバイブレーションでユイは目を覚ました。寝返りを打ちながら、ああついに発症者が出たか、と憂鬱な思いでまぶたを押し上げた。
「寝ていたか」と電話口でシノハラが言った。
「はい……でも起きるところです」とユイは寝起きの声で答えた。
「まだ寝ていていい」とシノハラが言った。
「え」ユイは予想外の言葉に絶句した。
「今日の昼頃、空いているか?」とシノハラが尋ねた。
「はい……空いていますけど……」
「厚生局の前の通りのステーキ屋を知ってるか? ビルの二階だ」
「はい……知ってます」
「十二時に来い。昼飯をおごる」
「えっ? 何ですか?」
 思わず聞き返す。
「昼飯をおごる、と言ったんだ」シノハラが有無を言わさぬ調子で繰り返した。
 ユイは返事を思いつけず、黙った。
「イヤか?」と、シノハラが感情の読めない声で問うた。
「いえ、そんな……」ユイは焦って反射的に答えた。「ありがとうございます、ごちそうになります」
 そして見えないのに何度も頭を下げた。
「では十二時に」と言って、シノハラは電話を切った。
 しばらくユイは腕も下ろせず、ぼう然とした。
 シノハラが――昼ご飯をおごる?
 信じられなかった。というか、純粋におごってくれるだけのわけがないと確信した。おごるなんてこの五年間で一度もなかったのだ。一緒に食事に行ったことすらない。
 何の話だろう、と考えざるを得ない。二人できちんと向かい合って話したい何か。
 心当たりは一つしかない。リクとのことしかない。ついにバレたのだろうか?
 猛烈な不安と恐怖で真っ暗になる。
 リクに連絡を――と思ったが、ユイはスマホをベッドに投げ出した。リクを頼るわけにはいかない。リクはわたしのことをただの公務員だと思っている。何をどう相談するというのか。
 息が苦しい。胸が締め付けられる。
 ユイは絶望的な気分で頭を抱えた。泣きそうだ。どうすればいいんだろう。何か逃げる方法はないだろうか。
 そんな方法ありはしない。シノハラにごまかしや嘘など通用しない。観念してステーキ屋に行くしかない。
 ユイは祈るように思った。別に他意はないのかもしれない。純粋に、たまには部下にご飯でもおごってあげようと考えただけかもしれない。
 むなしかった。そんな気まぐれ、シノハラが起こすはずがない。だがそんなわずかな希望にでもすがりつかねば、今にも気が変になってしまいそうだ。
 ユイはノロノロとベッドから降り、ともかく朝ごはんを食べようと思った。だが冷蔵庫の前に立つと、一ミリも食欲がないばかりか、緊張で吐きそうなのを自覚して、やめた。
 シャワーを浴びよう。せめて体をさっぱりさせよう。
 ユイは浴室へ入った。
 シャワーヘッドを浴槽に向け、蛇口をひねる。指先を水流に当て、お湯になるのを待つ。その間にも頭が勝手に最悪の結果を描き出そうとする。
 リクのことでシノハラに糾弾される――。ユイは必死に、想像を打ち消そうとする。まだそうと決まったわけじゃない。全然別の話かもしれないんだし、そもそもご飯を食べるだけで話なんてないのかもしれないし。予断はやめよう。落ち着こう。深呼吸をして、冷静になろう。息を吸って、ゆっくりはいて。落ち着くのよ。落ち着いて、落ち着いて。
 どれくらいそうしていただろうか。たぶん三分は息を整えていた。不意にくしゃみが出て、ユイは我に返った。震えが背中を這い上り、全裸の体が真冬の寒さを突然思い出した。ずっと冷水のシャワーを浴び続けた指先の感覚はなくなっている。あわてて指を引っ込め、ユイは水道のハンドルを見た。間違えて水の方をひねっていた。


 ステーキ屋は厚生局の真ん前のビルの二階にある。進むことを拒む体を無理やり前に押し出し、ユイは階段を上った。
 店が見えてくるとユイはますます憂鬱になった。想像していたのと違い、店構えが高級そうなのだ。光沢のある真っ黒な壁に、銀色の筆文字の書体で店名が書いてある。ステーキ屋というより料亭のようだ。
 庶民的なステーキハウスを思い描いていたユイは、いきなり鼻先を殴られたような気持ちになった。
 入りたくないが、ここまで来て逃げ出すわけにもいかない。息を止めて入り口をくぐった。肉の焼ける良い匂いがしたが、食欲はわかない。
 カウンター席が伸びていて、その奥に壁で仕切られた個室が並んでいる。思ったより広い。間接照明を駆使したシックな内装が、やはりステーキ屋っぽくない。
 レジスペースの奥から黒い和装の店員が出てきた。ユイが待ち合わせだと告げると、一番奥の個室の前まで連れて行かれた。胸が圧迫される。こんなせまい空間でシノハラと二人きりで食事。何の罰ゲームだ。
 店員が引き戸を開け、笑顔でユイをうながした。ユイは観念して中に入った。シノハラがウイスキーの入ったグラス片手に壁を見つめていた。店員にもユイにも何も言わず、こちらへ目を向けようともしない。
 ユイはなんと声をかければいいのか分からなかったので、ただ黙ってシノハラの向かいに腰を下ろした。
 シノハラが戸を開けたまま控えている店員に、コウベ牛のサーロインをふたセット注文した。コウベ牛と聞いてユイの胃がさらに縮こまった。メニューがないので値段は分からなかったが、ものすごく高いはずだ。
 これから食べる料理はただの昼ご飯ではない。地獄への片道切符だ。膝の上でぎゅっと両手を握る。その両手に汗がにじむ。
 店員が行ってしまうとシノハラと二人きりだ。なんて気まずいんだろうとユイは思った。
 なんでもいい。話題を探した。無言にならずに済む話題。軽く話せる日常会話。気楽な雑談。何かないか。何か――
 上目がちにシノハラを見て、ユイは理解した。わたしは何を今更なことを考えてるんだろう。今まで一度でも、この人と気楽な会話なんてしたことがあったか? ――ない。
 シノハラはユイの知る人間の中で、最も「気楽な会話」から遠い人物だった。いつも無表情・無感情で、何を考えているのか分からない「怪物」だった。その心に近づきたいと思ったことはないし、近づこうにも取っ掛かりが全然ない。
 五年間も上司と部下として仕事をしてきた。なのに、ユイはシノハラのことを何も知らなかった。好きなものや嫌いなものは? 趣味はあるのか? 休みの日には家でどんなふうに過ごしているのか? それ以前にちゃんと休みを取っているのか? だって、シノハラ以外から発症者の連絡が来たことは、一度もないのだ。
 ユイはこれまで以上にシノハラを遠く感じた。目の前にいて、部下として食事を、それもこんな立派な店でご馳走になろうとしているのに、シノハラはどこの誰より未知の存在だった。
 斜め上へ向けた――つまり決してユイを見ようとしないシノハラの両目を、ユイは見た。何の感情もうかがえない。だからこそ怖い。あらゆる言葉を跳ね返しそうな、排他的なオーラをまとっている。「黙っていろ」と無言で言われているような気分になる。
 料理が運ばれてきた。シノハラとユイの前に見るからに高そうなステーキが並べられる。肉も皿もつけ合わせの野菜も、何もかもハイセンスで良質で、ユイの知るどんなステーキとも格が違った。
 シノハラが食べ始めたので、ユイもナイフとフォークを取った。暗い気持ちでナイフを当て、一切れだけ口に運んだ。
 吐きそうになった。肉もジューシーな肉汁も、こんな状況でなければたいそう美味しいのだろう。まるで生ゴミを口に入れているみたいだ。喉が、胃が、消化器官全体が食事を拒絶している。
「ユイ」とシノハラが言った。
 ユイは口元を押さえ、涙目でシノハラを見た。
「無理に食べなくていい」
 怒っているふうでも失望しているふうでもない。だがユイはよけい苦しくなった。したくない食事をしているのとはまた別個に、泣き出したくなった。
 ユイは自分でも意外なほど唐突に、そして強烈に思った。
 どうしてわたしとシノハラはこんなに分かり合えないんだろう――
 発作的な悲しみがわき上がった。そんな悲しみを感じる自分に、さらなる悲しみを感じる。
 分かり合いたいなんて一度たりとも思ったことはないのに。
 シノハラとのコミュニケーションは必要最小限にとどめ、互いの生活に深入りするようなことは絶対にしないほうがいい、とユイは思ってきた。食事なんて一緒にしたくないし、ましてやこんな不安な気持ちで高級な料理をおごってもらうなんて最悪の苦痛だ。余計なことはせずにほっておいてほしかったはずだ。
 あんまりだ。ユイは決死の思いで肉を飲み込み、うつむいた。こんなの最低だ。シノハラへの思いは恨む気持ちと、それをはるかに上回る恐怖感だけでじゅうぶんだ。それだけでもつらいのだ。そこにさらに理解し合いたい・でもできない苦しみまで加わるんだとしたら、もう心がパンクしてしまう。あんまりだ。ひどい。つらい。残酷にもほどがある。
「どうしてですか?」ユイはナイフとフォークを握りしめたまま、尋ねた。
 シノハラが肉を切るのを止めて、ユイを見た。ユイも目に涙をためてシノハラを見た。
「どうして今日、わたしを呼んだんですか?」
 シノハラが二度素早く、瞬きをした。ごく小さなことだがユイはハッとした。それはシノハラがユイに初めて見せた動揺だった。
 シノハラは数秒ただ肉を見下ろした。それから落ち着き払った声で、「まず食事をさせてもらってもいいか?」と尋ねた。
 今度はユイがしばたたく番だった。些細なこととは言え、シノハラにおうかがいを立てられたことなんてはじめてなのだ。
 ユイは目をぬぐい、「はい」とうなずいた。
 シノハラは食事を再開した。ユイは黙って、シノハラが肉を切り、口へ運ぶのをながめた。ナイフの動きもフォークの動きも常に一定のスピードが保たれ、肉を切るサイズも毎回同じ。規則正しい食事だった。食事というより、何かの職人の熟練した作業のようだ。隙もなければ味気もない。この店へ来るのははじめてではないようだが、シノハラは果たしてこのコウベ牛を美味しいと感じているのだろうか。
 シノハラは淀みなく食事を続け、皿をきれいにした。
 店員が現れ、シノハラの皿とほぼ全て残した状態のユイの皿を盆に乗せた。シノハラはウィスキーのロックを注文し、それからユイを見た。飲み物ならまだなんとかなるかもしれないと思い、ユイはアイスコーヒーを注文した。
 店員が出て行った後もふたりは無言でいた。飲み物が運ばれてくると、やはり無言で一口ずつ飲んだ。
 シノハラがグラスを置いた。ユイはコーヒーを飲み込んでシノハラを見た。
 シノハラはグラスから目を上げず、言った。
「お前をコウカク(※尾行などによる行動確認)した」
 ユイは息を吸い込んで、止めた。予想していたとは言え、言葉にされるとやはりショックだ。
 シノハラはユイを真正面ににらんだ。いつも以上に冷たく厳しい表情だった。
「キクチ・リクと別れろ」
 ユイは息を吐き、うつむいた。頭がぼんやりして「自分はここにいる」という現実感が薄れてくる。ひざの上の拳が震え始める。
 シノハラはじっとユイの頭のてっぺんを見つめた。
「私は近い将来、必ずキクチ・リクの殺害を命じる」とシノハラは言った。
「つらい思いをするのは、ユイ、お前だ」
 ユイは何も返さず、うつむいたまま小刻みに首を振った。
 シノハラは小さく息を吐いた。
「仲が深まれば深まるほど苦しくなるぞ」
 ユイは子供のように首を振るだけ。
「お前は、その時できるのか?」
 ユイは答えない。ただ肩に力を込めて震えを抑え込もうとしているのはシノハラにも分かった。そのためにかえって震えがひどくなっている。哀れだな、とシノハラは思った。
「それとも逃げるか?」シノハラは少し語気を強めた。「私の命令に背いて逃げ出すか?」
 ユイは答えない。
「私を裏切るなら、二度と日の当たる場所には出さない。私は容赦しない」
 ユイは首を振ることもせず、微動だにしなかった。シノハラは続けた。
「もっともお前が逃げようとしたところで、きっとユシーヌがお前を止めるだろう。ユシーヌは今の立場を失いたくはないはずだ。合法的に殺人のできる現状を維持したいはずだ。そしてお前にはユシーヌに抵抗するすべなどない」
 ウィスキーのグラスを揺らす。氷が音を立てる。無言のまま固まったユイから目をそらし、続ける。
「自殺さえ、お前はユシーヌに阻止されたのだから」
 ユイは何の反応も見せない。シノハラはグラスから手を離し、テーブルの上で左右の指を組んだ。そしてもう一度言った。
「キクチ・リクと別れろ」
 ユイが顔を上げた――シノハラが何かを思う間もなかった。
 シノハラの指はほどけていた。猛スピードすぎて何が起きたのかまったく認識できなかった。ユイに左手首をつかまれ「あっ」と声を上げた時には肉切りナイフが当てられ、シノハラは崖っぷちに追い込まれていた。
 シノハラは唖然とユイを見る。ユイの顔から表情が失せている。吸い込まれそうなうつろな瞳。
 ユシーヌ。
 シノハラはしばたたいた。なぜユシーヌが出てくる? どうして? なぜ?
「ユシーヌ……どうしてだ?」
 シノハラは自分の手首に当たるナイフを見た。するともうそこから目が離せなくなる。喉が急速に乾いて声がかすれる。
「どうして、お前が出てくる?」
 ユシーヌは椅子から尻を浮かせ、上体を伸ばしてテーブルに肘をつき、シノハラを覗き込んだ。シノハラがナイフから目を離せなくなったので、わざわざその視線に入り込む体勢になったのだ。
「ユイの好きにさせろ」とユシーヌが言った。
 ぞっ、とした。なんて冷たい声だ。何度も聞いたはずのユシーヌの声なのに。シノハラは心の底から震えた。全身が粟立った。
 ユシーヌの瞳にこわばった自分の顔が写っている。生きた心地がしない。自分の手首の前にユシーヌの顔があるので、ナイフが見えないのだ。今にも切られるんじゃ――そう思うと汗が噴き出す。
 シノハラは必死に声を絞り出した。
「なぜだユシーヌ。あの男なんてどうでもいいだろう?」
 ユシーヌの表情筋は動かず、まばたきさえない。
「なぜユイの味方をする?」シノハラは震え声で続けた。「お前は、ユイがディーラーとしての立場を失ってもいいのか? お前は好きに人を殺せる今の状況を求めているんじゃないのか? お前は生まれながらの殺し屋じゃなかったのか? お前は……」
「もう一度だけ言う」
 ユシーヌはシノハラをさえぎって、言った。
「ユイの好きにさせろ」
 ユシーヌはシノハラの手首をつかむ指に力を込めた。
 シノハラは総毛立った。下腹部の筋肉が収縮する。
 ――ユシーヌは本気だ。本気で殺す気だ。うなずかないと殺される!
「分かった」シノハラは汗だくで言った。「分かった。分かったから離してくれ」
 ユシーヌはあっさり手を離した。シノハラはあわてて腕を引き、自分の手首をさすった。
 ユシーヌは尻を椅子に戻さずに立ち上がり、シノハラに背を向けた。
 シノハラは震えの治らない声で、引き戸に手をかけるユシーヌに言った。
「待て、ユシーヌ。待て!」
 ユシーヌは無視して戸を開ける。シノハラは無事だった手首を握りながら大声で続けた。
「私はユイのために言ったんだ。後悔するぞ! 別れた方がいいに決まってるんだ!」
 ユシーヌは動きを止めなかった。個室から出て後ろ手で戸を閉め、出入り口へ歩き始めた。
 三歩歩いたところでユシーヌは「疲れた」とつぶやき、意識の奥へ引っ込んだ。
 歩きながらユイは浮上した。一瞬足がもつれたが、転ぶことなく歩みをユシーヌから引き継いだ。
 ――ユシーヌ。
 レジカウンターの店員にお辞儀で見送られながら、ユイは心の中で呼びかけた。
 ――ありがとう。
 ユシーヌは応えなかったが構わず繰り返した。聞いてくれている、と確信していた。
 ――本当にありがとう。


 シノハラは壁を見つめた。ゆっくり呼吸し、恐怖が薄まってゆくのを待った。
 恐怖――そう、恐怖だ。シノハラは思った。ユシーヌに脅されて心の底から恐怖した。危うく失禁するところだったのだ。
 だが、とシノハラは思う。それだけじゃない。この気持ちはそんなシンプルなものではない。私も落ち着いたものだ。恐怖は順調に小さくなる。手首にはナイフの感触が生々しく残っているが、心の震えはおさまろうとしている。
 グラスのウィスキーは氷の大半が溶けて、水割りのようになっていた。
 シノハラは薄いウィスキーを一気に飲み干し、店員を呼んでロックをお代わりした。
 新しいウイスキーはうまかった。アルコールというのは飲む人間の気持ちに感応するものだな、とシノハラは不意に感心した。心持ちが良ければ良いほど、酒もまた心地よく人を酔わせる。
 先ほどのユシーヌの目を思い出した。深い、がらんどうの穴のような瞳。平常心でいられる人間がいるものか。あんな恐ろしくも魅惑的な瞳ににらまれて。
 思わず笑みが浮かぶ。
 あの目、とシノハラ思った。あの目だ、いつだって私が求めていたのは。
 シノハラは、出会った頃のユイ――ユシーヌの姿を思い浮かべた。
 返り血で真っ赤に濡れそぼり、感情のかけらもない瞳でシノハラを見つめたユシーヌ。
 五年前。あの目に見つめられて、シノハラの人生は根底から変わってしまった。
 シノハラはウィスキーを口に含み、舌の上に広がる香りをじっくり楽しんだ。飲み込むと、鼻から息を抜いた。それでおしまいだ。恐怖は完全に過ぎ去った。
 代わりにシノハラの全身は、きらめく宝石のような興奮に包み込まれた。官能的な感情だ。
 まるで恋だな、とシノハラは思い、軽く吹き出した。
 恋か……傑作だ。
 冷静に考えても、あながち恋という連想は的外れでない。こんなに誰かに心をときめかせ、惹かれてしまう経験が恋以外にあるだろうか?
 何も変わらない――シノハラは思った。
 あの頃と何も変わっていない。そう、それでいいんだユシーヌ。それでこそ私が求めた怪物。生まれながらの殺戮者。ピストルを構えた抜き身の刃。それでいいんだ。お前はそれでいいんだ。
 ユシーヌがなぜキクチ・リクを庇うのかは、よく分からない。だがそんな疑問も、いま胸に去来する快感に比べたら瑣末なものだ。
 シノハラは満足していた。この場に死体となって転がっていたかもしれないのに、全身くまなく幸福だった。
 ――私も、今日という今日は認めねばなるまい。
 シノハラはウィスキーを舐めながら思った。
 ――私はユシーヌに魅せられているんだ。ただそれだけだ。
 ただそれだけ。
 ユシーヌの目――あの純粋な殺意そのものを私は求めているんだ。敵討ちとか、恨みを晴らすとか、そんなもの全部自己欺瞞だ。くだらない嘘八百だ。
 そう言えば、ユシーヌの目を間近に見たのなんて本当に久しぶりじゃないか。
 ユシーヌが仕事中は車の中にいるので、シノハラが彼女の迫力を生で体感する機会はないのだ。まさかその殺意が自分に向けられるなんて、予想もしなかったが。
 ――鮮烈だったな……
 珍しくアルコールが回り始めた。


 五年前、シノハラは二十七歳だった。厚労省の危険薬物対策局に所属するキャリア組で、いちマトリ(麻薬取締官)であると同時に、腫物のように扱われるエリートでもあった。
 学生時代はぼんやりと警察官を志望していた。だが養父である叔父が厚労省の高官で、厚労省への就職を強く推薦してくれたので進路を変えた。シノハラが「できれば警察官になりたい」と言うと、叔父は「似たような仕事だ」と言って危険薬物対策局にキャリア入省させた。
 一連の就職活動において、シノハラは常に受け身だった。警察官になることに備えて法学部へ進学したり、武術を習ったりしていたのに、いざ厚労官僚になる進路が決まっても特段の感慨はなかった。
 学生時代のシノハラは、ぼんやりとした膜に脳と体を覆われたような気分で生きていた。警察官になるという目標はあったが、何が何でも叶えたい夢というわけでもなかった。何か目標がなければ生きること自体をやめたくなりそうな人生だったから、一応警官を志望していたにすぎない。
 この「膜に覆われた」ような感覚は就職後も続いた。協調性はイマイチだが頭は切れ、勇気もあり、仕事もできたのでキャリアから落ちこぼれたりはしなかったが、仕事を楽しいと感じることもまったくなかった。何の充実感も達成感もないまま、シノハラはただ惰性で働いていた。


 その夜、シノハラは公務員宿舎への帰路を重い足取りで歩いていた。何か嫌なことがあったわけではない。足や体が重いのはいつものことだった。
 交差点の前で立ち止まると同時に、ため息が出た。これもいつものことで、気を抜くとシノハラはため息ばかりついてしまう。
 背を丸め、体を引きずるように横断歩道を渡る。
 シノハラは毎日、家を出て、仕事をし、また家へ帰れている自分にほとんど驚嘆していた。楽しいことなんてひとつもない。仕事に対するやりがいも全然ないのに、よく自分は気も狂わずに毎日を過ごしていられるな、と。
 不幸な中毒者を増やさないために薬物の流通ルートを根絶やしにしよう、という仕事の目的は理解できるし、その理念には共感もしていた。それが実現可能かどうかはともかく、少なくともマトリという仕事がこの世に必要なのは間違いないと、確かに思っている。
 だがそういった社会的な意義と、自分自身の喜びがシノハラの中でまったくシンクロしないのだ。マトリの仕事にシノハラの心はちっとも燃えない。
 ひとは「仕事なんてそんなものさ」と言うかもしれない。だがシノハラは直感的に、ここにはもっと根本的な問題が隠れていると思っていた。
 宿舎へ歩きながら、シノハラはいつまでこんな日々が続くのかと考えてしまう。今いる場所はきっと自分のいるべき場所ではない。しかし、では自分は本当はどうしたいのか、今より人生を楽しくするにはどうすればいいのか、などと考えたところで妙案は浮かばないのだ。一ミリたりとも。
 これじゃゆっくりとした自殺だ、とシノハラは思う。なんの喜びも楽しみもなく、ただいつか必ず来る死へ向かって前進するだけ。
 憂鬱だった。何に対して憂鬱なのかは自分でもよく分からない。強いて言えば生きること自体が憂鬱で、大儀だった。何もかもが面倒でつまらなかった。
 それは社会に出てからの話ではなかった。子供の頃からそうだった。
 あの日からずっと、シノハラは自分を取り巻く世界のすべてに絶望に近い感情を抱き続けていた。
 シノハラは十歳の時、両親を失った。
 夏休み中の、ある夕刻の出来事だった。自宅マンションの地下駐車場での惨劇だった。
 その日は朝から家族でレジャーに出かけていた。今はつぶれて無くなってしまった、都県境の街にある遊園地。お盆休みを取った父の運転する車には、父と母、シノハラと弟のタクミの一家四人が乗っていた。
 シノハラもタクミも思い切り遊んで、夏休みの一日を存分に楽しんだ。午後五時。自宅へ向かう車中で姉弟は疲れて眠ってしまった。だから現場となった自宅マンションの駐車場で車から降りたとき、シノハラは半分寝ぼけていて、頭がはっきりする頃には惨劇は半分くらい終わっていた。
 その人物がどこにいたのか、シノハラにはまったく記憶がない。いつの間にか自分たち家族のそばに立っていて、ナイフを振り回していたのだ。若い男だったことだけ覚えているが、顔は分からない。いや、分からないというより、顔面に刻まれた深いシワのせいで、シノハラの記憶の中で男は怪物のような漫画的な造形なってしまって、正確な容姿を思い出せないのだ。
 男はBS発症者だった。
 曖昧にしか思い出せない、何もかも。両親の叫び声や、男の怒号や、駆けつけた警察官の大声など、シノハラには音の記憶しかない。
 どこかの時点でシノハラは気を失ってしまい、気付いた時には病院のベッドの上だった。
 両親の死亡は現場の救急隊員によって確認された。死因はふたりとも出血多量によるショックだった。
 それからは何もかもが、自分やタクミ抜きで猛スピードで動いていった。
 自分たち姉弟は父の兄である叔父に引き取られ、生まれ育った町からトウキョウに引っ越した。新しい家に机や本棚などを運び入れ、新しい学校に転入した。ふと気付けば、新しい生活が否応なしに始まっていた。
 その頃にはもうシノハラは友達と遊んでいても、男の子とデートをしていても、心の底の底が空っぽであることを自覚していた。この世界の何ひとつ、シノハラには楽しいと思えなかった。心と身体を薄い膜のようなもので覆われた感覚。膜はシノハラの目から世界の輝き奪った。肉体から軽やかな瑞々しさを奪った。別に本当に色盲になったとか、運動神経が悪くなったとか、そういうことではない。でも両親が殺されて以来、どことなく目の前が濁っている気はしたし、身体が重くなった気もした。
 警察官を志望したのは、深い考えがあってのことではなかった。法の執行者となり、悪人たちを正義の元に取り締まれば、こんな絶望的な気分も少しはマシになるのではないか。シノハラはそう考えた。
 しかしそれは残念ながら間違いだったと、ここ二年ほどのシノハラは結論しつつあった。
 自分の中に根を張った虚無感に、正義の行使なんて何の意味も持たなかった。たとえ覚醒剤の密輸ルートをつぶしたとしても、麻薬カルテルを壊滅させたとしても、生きることが大儀で重苦しいという感覚は多分消えない。わたしはこのまま変わらない。
 この時点でBSDDへ強引に異動することも、叔父の後ろ盾があったので可能だったはずだ。もちろんシノハラもディーラーになった自分を頭に思い描いてみたりはした。麻薬のディーラーではなくBS発症者へ、違う意味でディーラーとなった自分が銃を向けて発砲する。その様を何度も想像してみた。両親を殺された恨みを込めて、悲劇のヒロインよろしく引き金を引くのだ。
 しかし特別な感慨はまったくわかなかった。ちょっと失望してしまうほどに、その想像はなんの気持ちの高まりも生まなかった。異動してみるまでもなかった。マトリして働く現在となんら変わらないむなしい毎日が多分、ディーラーとなった後の人生にも続いている。それが見えてしまった。
 思いもよらない何かが自分には必要なのだ。事態を急転直下、取り返しのつかないほどに変化させてしまう何か。それが何なのかは、さっぱり分からない。
 公務員宿舎がもう目と鼻の先、というところでシノハラは一人の少女とすれ違った。なんとなく少女を一瞥し、シノハラは思わず立ち止まった。振り返って、歩き去ろうとする少女の背中を見る。
 その後ろ姿が街灯の光の中から闇へ没してしまう寸前、シノハラははっきりと見た。少女は真っ白いワンピース一枚しか身につけていなかった。
 秋も深まった季節。それも昼間でなく夜。シノハラ自身、最近は厚手のコートを出そうかと迷っていたところだ。
 クスリか――?
 シノハラは考えるのと同時に歩き出していた。覚醒剤などを使用して、寒さを感じなくなっているのかもしれない。もしそうなら逮捕、あるいは保護して近くの警察へ連れて行かねばならない。
 シノハラが歩き出してすぐ、白のワンピースが暗闇にひるがえり、脇の路地へ入り込んだ。シノハラは早足になり、後を追った。少女は路地をまっすぐ、よどみない足取りで歩いていく。その数メートル先の背中にシノハラは声をかけてみることにした。マトリに職務質問をする権限はないので無視されたらそれまでだが、明らかに異常な様子なら、警察への応援要請も含めて何らかの対応をせねばならない。
 だがシノハラは喉元まで出かかった声を押しとどめ、息を飲んだ。
 少女が街灯の下に差し掛かったところで、右手付近でうっすらと何かが光った。
 抜き身のナイフだった。それも、光の大きさから相当に物々しい品だ。ダガーナイフか。
 シノハラは一気に緊張した。決定的だ。少女はまともではない。間違いなく刑法に抵触する状況で道を歩いている。
 どうするべきか――シノハラは頭を回転させた。慎重にやらないと。もし本当に薬物中毒でオカシクなっているのなら、変に刺激するのもまずい。すぐに警察に協力要請し、少女の動向はひとまずこっそりうかがうだけに留めよう。帰宅中のシノハラは当然、拳銃等の武器を携行していない。
 まず一一〇番だな、とシノハラは決め、電話をポケットに探った。少なくとも自分一人での対処は危険すぎる。抵抗されれば自分のみならず、周辺住人にも被害が及ぶかもしれない。
 シノハラは道の端に寄り、少女との距離を保って歩きながら電話を取り出した。
 少女が突然、こちらを振り返った。シノハラは虚をつかれ、硬直した。暗がりで表情は分からないが、体の動きから少女も背後のシノハラに相当驚いているらしいことが分かった。
 少女は身を翻して走り出した。シノハラも電話を握ったままあわてて追いかけた。
「警察です、待ちなさい!」とシノハラは叫んだ。警官ではないのだが、麻薬取締官と名乗っても伝わらないのでは、ととっさに思った。
 少女は止まらない。猛スピードで駆けてゆく。シノハラも必死に足を動かしたが、距離は縮まらない。少女の脚力はかなりのものだ。
 三十メートルも走ると、少女は脇のアパートに入り込んだ。
 少女の家か? シノハラもアパートへ走り込んだ。そこは敷地の北の端で、シノハラは左手を見た。アパートの外廊下の灯に照らされ、白のワンピースが一番奥の部屋に入るのが見えた。
 シノハラはゾッとした。ほとんど天啓に撃たれるような激しさで背筋が凍えた。
 その感覚の謎は今も解けないでいる。改めて考えてみてもシノハラ自身、あの時何にそこまでショックを受けたのか分からない。シノハラが目にしたのは、灯によってオレンジに染め上げられたワンピースと、暗がりでもはっきり見えた少女の横顔――なんの表情もなく完全な無表情だった――、そして右手のダガーナイフ、それだけだ。それだけで、シノハラは催眠術にかかったかのように惚けてしまったのだ。
 法の執行者として冷静であろうとする心が「一一〇番しなければ」と考える。だがその意に反してシノハラは電話をポケットにしまってしまった。そして少女が入っていった部屋目指して歩き出した。何をしているのか? 自分でも分からない。
 各部屋からは何の物音もしない。シノハラ自身の衣擦れと足音以外、何も聞こえない。
 地面のコンクリートの冷たさが靴越しに伝わる。さっきよりずいぶん寒さが強くなっている。だが寒いとはまったく感じない。シノハラの意識は奥の部屋に吸い寄せられていて、他の何も知覚できない。
 部屋の前に立った。ドアのペンキがあちこち剥げ、木の地肌が見えている。ゴミのたっぷり詰まったビニール袋がドアの横に放置されている。暗くてよく分からないが、敷地と外を隔てる壁の間にも様々なガラクタ類が積み重なっている。
 シノハラはノックせずにノブを回し、そっと引いた。抵抗はなかった。
 思い切ってドアを全部開いた。中は古びた和室の一間だった。
 シノハラの目は真正面のふたりの人間に釘付けになった。窓の脇に少女がしゃがんでいて、その前に中年の男が寝ている。壁に寄りかかり足を投げ出し、そばにウイスキーの瓶を転がしている。
 シノハラが瞬時に確認できたのはそこまでだ。ドアを開けてから二秒も経たずに、少女の行動によって思考は断ち切られた。
 突然の闖入者に一瞥もくれず、少女はナイフで男の喉を裂いた。シノハラは声もあげられなかった。少女の動きにはわずかな淀みもなく、表情も変化しなかった。あまりに自然で静かで、何だか魚でもさばくような斬り方だったので、シノハラはぼう然と殺人を見守ることしかできなかった。
 噴き出した血が、男自身と少女を濡らす。
 男が目を開けた。まぶたを目一杯に上げ、驚愕と困惑の表情で少女を見た。何か言おうと口を開くが、喉を裂かれているので声にならない。男の眉が上がったり下がったり寄ったり離れたりする。思いを口の代わりに表現しようとするかのように。
 哀れで、無様で、醜いとシノハラは感じた。少女は落ち着き払い、無表情で、淡々としていた。少女の立ち振る舞いが場の空気を支配していた。
 シノハラは騒ぎもせず、通報しようとも思わなかった。まして少女の身柄を確保しようなどとは微塵も考えられない。ただ黙って突っ立っていた。
 魅入られていた。少女に心を鷲掴みにされていた。後で考えても、シノハラにはそのようにしか当夜の自分の行動を説明できない。
 少女は喉を裂いた余韻もないまま手を振り上げ、口をパクパクさせる男の胸にナイフを突き立てた。男が喉の奥で「キュッ」という、動物の赤ん坊のような声を上げ、硬直した。見開いた目が生者の光を急速に失っていった。
 少女は髪の毛の先から返り血を滴らせ、立ち上がった。シノハラを見る。
 シノハラは少女と目を合わせる。なんて無垢な表情だろう、と感嘆する。たった今、大の男を殺したばかりだというのに。どこまでも虚ろで純粋な無表情。ガラス玉のような瞳に、人を殺すほどの激越な感情は一切見えない。だからこそシノハラは恐ろしいと感じた。
 同時に、全身の筋肉が弛緩しそうなほど美しいと感じた。
 シノハラは死神と出会ったのだ。
 死神――当時のそんな幼稚な感慨は、しかし正しかったとシノハラは思う。今でもシノハラにとって少女――ユシーヌは死神そのものだから。
 だがあの時、死神のごとき少女は唐突に変化した。
 無表情がいきなりキョトンとし、大きな目をしばたたかせた。まぶたが上下した途端、眉を超えて流れ落ちていた血が目の中に入り、少女は苦痛に顔を歪めた。目をこすり、ゆっくりまぶたを上げ、そしてその手に握られたナイフに視線を留める。
 口がわなわな震え出した。シノハラは混乱した。どう見ても今はじめてナイフに気づいた様子だ。
 少女は足元を見た。そして今さっき自らが殺した男の死体に、引きつった悲鳴を上げた。
「え、え、なにこれ?」
 少女はナイフを手放し、尻餅をつき、自分の体を抱いた。
 シノハラはその瞬間、悟り、ひらめいた。
 この少女はもしかして――。
 それから猛スピードで怒涛のような考えが頭にあふれた。それはシノハラにとって奇跡のような、神がかり的な思考展開だった。一瞬で、これからこなすべき面倒な段取りと自分の望みを明確に把握したのだ。
 この少女を私のものにしたい、とシノハラは思った。強烈に思った。欲望がシノハラの中を電撃的に駆け抜けた。私の部下にして、手元に置いておきたい。こんな人物にはきっと二度と出会えない。この機会を逃したくない。誰にもチャンスを奪われたくない。
 もとより論理的な帰結などではなかった。直感だ。この少女は自分のつまらない人生を変えてくれる、とシノハラは瞬間的に確信したのだ。あらゆる理由やロジックを飛び越えて、いきなり結論に達したのだ。
 警察に通報するなんてもってのほかだ。たとえすべてが失敗に終わって、私自身が職務規定違反で逮捕されたってかまわない。通報はしない、絶対に。この少女の存在を誰にも知らせない。どうなったっていい。こんな人生にもともと未練なんかありはしないのだ。
 まずはタクミに連絡しないと、とシノハラは考えた。タクミならきっと分かってくれる。いや分かってくれなくてもいいんだ。ただ少なくとも興味は持つはずだ、この少女に。
 シノハラは手帳を取り出した。男とシノハラを見比べて震えている少女にそれを提示した。
「厚労省薬物対策局の警察官です。あなたは事件に巻き込まれました。緊急事態につき、あなたを保護します」
 シノハラは落ち着き払った声で告げた。麻薬取締官と言っても混乱状態にある少女には理解できないだろうから、引き続き警察官と名乗っておいた。
「何が……何があったんです? わたし……わたし……?」
「落ち着いて。もう大丈夫」とシノハラは言った。「安心して、私の指示に従ってください」
 シノハラは玄関からせまい板の間に上がり、少女の落としたナイフを拾いあげ、刃をハンカチで包んだ。そしてしゃがみこんだ姿勢で少女を見て、精一杯優しげな声を作り、「もう大丈夫」と繰り返した。
 少女はまつ毛を震わせながら、シノハラへうなずいた。
 シノハラはタクミに電話で手短に事情を話し、車で迎えに来てもらった。その際、バスタオルと白衣と大きなビニールを持って来させた。少女の肌を濡らす血を拭き、白衣に着替えさせ、血塗れのワンピースとタオルをビニールに放り込んで硬く口を結んだ。
 だいたいどんな時も飄々としているタクミも、さすがにこの現場の凄惨さには目を丸くしていた。ただそこは医学者だけあって、馬鹿でかい悲鳴を上げるとか腰を抜かすとか、そんな間の抜けた反応は見せなかった。
 シノハラは少女を車の後部シートに乗せた。そしてそばに立っているタクミに、小声で話しかけた。
「お前のところに連れて行くのは大丈夫なんだな?」
 タクミはうなずいた。
「僕の研究室なら問題ないよ。でも血まみれのワンピースと凶器がちょっと厄介かな」
「それは、後でこちらで処分する」
 シノハラは黙ってシートにかけている少女を一瞥して続けた。
「私の想像が正しければ少し手荒なこともするが、声は漏れないか?」
「研究室の防音はかなりしっかりしてるよ」
 タクミはうなずいた。
「でもその想像、かなり危ういよね。だってなんの根拠も、事前の情報もないんでしょ?」
「もちろん、ない。今夜、出会ったんだからな」とシノハラは真剣に言った。「しかし私はそれほど突飛な想像でもないと思うがな」
 シノハラは先ほどの電話で、少女は解離性同一性障害(多重人格)の疑いがある、とタクミに告げていた。そのように考えれば、先ほどの唐突な取り乱し方も納得できる。殺人を終えたところで、少女はある人格から別の人格へと、人格が交代したのではないか。ある人格の時の行動を別の人格がまったく知覚・記憶できない、というのは、解離性同一性障害における典型的な症例だ。
 さらに想像をたくましくすれば、殺された男はこの少女の父親で、この少女を虐待していたのではないか、ともシノハラは思っていた。もちろん根拠などあるはずもなく、部屋の内外の荒んだ雰囲気から直感したまでだ。ただ解離性同一性障害の発症原因として、家族(特に親)による虐待がデータの最上位に来るのも事実だ。(「虐待を受けているのは自分ではなく別の人間だ」と脳が思い込むことで極度の苦痛を回避するという、乖離のメカニズムが働き、新しいパーソナリティが生まれる)
 シノハラは後部シートに乗り込み、少女の隣に座った。
 少女は不安そうに目を伏せ、自分の足元を見つめている。
 シノハラは耳元に口を近づけ、小声で、「警察へ行く前に病院へ行きます。まずあなたにケガがないか調べないといけないから」と言った。
 少女は今にも泣き出しそうな瞳をシノハラへ向け、しばたたいた。
「到着するまでに、いくつか質問をさせてね」
 シノハラは優しい声で続けた。少女はこくりとうなずいた。
「あなたの名前は?」
「ヤザワ・ユイ、です」
 消え入りそうな声で少女――ユイは答えた。
「いくつ?」
「十五歳」とユイは答えた。
 シノハラは意外に感じた。もっと幼いと思っていた。
「ありがとう。私はさっきも言ったけれど、厚生労働省の薬物対策局の捜査官シノハラ・フユミです」シノハラは改めて名乗りながら手帳を取り出し、「麻薬取締官」と書かれた身分証のページを示した。
 シノハラが身分を正式に明かしたことで、ユイも少し安心してくれたようだ。表情がややゆるんだ。
「もう少し、聞いてもいい?」とシノハラは尋ねた。ユイは「はい」と声を出してうなずいた。
「さっきのアパートはあなたのお家?」
「はい」
「つらい質問かもしれないけど、さっき亡くなっていた人をあなたは知ってる?」
「はい、わたしの父です」
 シノハラは深くうなずいた。それから続けた。
「どうして亡くなっていたか分かる?」
「分かりません……」とユイは首を振った。
 シノハラはじっとユイの顔を見つめた。嘘をついているようには思えない。だが悲しんでいるようにも見えないし、今は取り乱した感じもない。
「あなたはいつからあの場所にいたの?」とシノハラは尋ねた。
 少女は口元に拳を当て、一生懸命に思い出そうとしている様子。だが、おどおどした目つきでシノハラを上目遣いに見ると言った。
「ごめんなさい……思い出せないんです」
「大丈夫よ」シノハラは作り笑いで微笑んだ。
「そういうふうに突然身に覚えのない場所にいたとか、記憶がなくなるとかいう経験は、さっき以外にもあった?」
「はい……あります」とユイは答えた。
「ここ最近、そういうことが何度かありました」
「それはどういう時?」とシノハラは尋ねた。
「それは……その……」ユイは言い淀み、シノハラから目をそらした。
「これは捜査に必要になるかもしれない質問だから、がんばって答えてほしい」とシノハラは言った。「答えにくいことでも私は秘密を守るわ。もちろんこの人も」運転席のタクミの後ろ頭を指差す。
「……分かりました」ユイはうなずき、小さな声でつぶやくように言った。
「父に……殴られたりする時に、よく……」
 やっぱり、とシノハラは思った。
 ユイはシノハラの表情を不安げにうかがっている。が、シノハラがまったく驚いたり眉をひそめたりしないのを見るとホッとしたようで、続けた。
「父は不機嫌になると、しょっちゅうわたしを殴りました。怖かったです。いつ父の機嫌が悪くなるかと思うと、全然心が休まらなかった」
 うんうんうなずき、シノハラは憐れむ表情を作った。
「つらかったわね」
「ハイ、とっても」ユイはこくりとうなずく。
「最近は父に一発でも殴られると、周りが真っ暗になって……どこか灯のないせまい部屋に閉じ込められるような感覚になるんです。うまく言えないけど、押入れの中に閉じこもったみたいな感じで……」
 また不安げにユイはシノハラを見た。シノハラは「大丈夫、分かるわよ」という気持ちを込めて微笑み、うなずいた。
 ユイは続けた。
「そういう状態でしばらくじっとしてると、周りが暗闇からまた元の部屋に戻ってるんです」
 シノハラはちらっとハンドルを握る弟の方を見た。じっと黙っているタクミも、興味深く耳を傾けているはずだ。
「するともう暴力は終わってるんです。身体中は痛かったり、血が出てたりするけど、殴られたり怒鳴られた記憶はまったくないんです」
 これはもう間違いないだろう。シノハラの中で激しく気持ちが昂ぶる。しかしなぜ昂ぶるのか、シノハラ自身にもよく分からない。分からないが、こんなふうに細胞が踊り狂うように気持ちが昂揚するのは何年振りだろう。楽しい。心が燃える。力がみなぎる。
「本当につらかったわね。今までよく耐えたわ。もう大丈夫だからね」
 シノハラが優しく言うとユイはしばたたき、わずかだが笑みを浮かべた。


 トヤマ町にある国立総合医療研究所(総医研)に到着した時、時刻は十時を回っていた。タクミが専用の駐車スペースに車を停めると、シノハラは不安そうなユイの手を握り、彼女を導くように車を降りた。
 先頭を歩くタクミがカードキーで玄関ドアを開け、三人は建物内に入った。時間が時間だけに、エントランスホールもすぐ脇の喫茶室も真っ暗だ。研究員は何人か残っているはずだが、廊下では誰ともすれ違わなかった。
 タクミの研究室へ入る際、ユイは少しだけ足を止めてためらいを見せた。抵抗というほどのものでもなかったが、戸惑ったような目でシノハラの表情をうかがう。何かがおかしいと思ったのだろう。
 シノハラは握った手を無言で引っ張って、ユイの足を動かした。ユイは他にどうしようもなく、中に入った。
 全員部屋に入ると、タクミが速やかにドアの鍵をかけた。冷たい施錠音に、ユイは青い顔でドアを振り返った。シノハラはそんなユイに一瞥もくれず、言葉もかけず、無視して腕を引っ張った。
「あの……」消え入りそうな声でユイが尋ねた。「ここはお医者さん、なんですよね……?」
「そうだ」優しい声色を作ることもやめ、シノハラはぶっきらぼうに答えて、タクミを指差した。「彼は私の弟で、この研究所に勤める精神科医だ」
「ちょっと間違ってる」とタクミはにっこり笑う。「僕は医者じゃなくて、研究者さ」
「医学の世界の人間という意味では同じだ。――こっちへ来なさい」
 シノハラはユイを隣の資料室へ引っ張った。ユイはおびえた表情で従う――従わざるを得ない。
 資料室は高い棚がいくつも並ぶ、ちょっとした書庫のような部屋で、せまくるしく圧迫感があった。窓もない。
 隅のデスクのイスをシノハラは乱雑に引いた。そして自分の目の前に据えると、ユイに「座りなさい」と命じた。
 ユイはシノハラとタクミを交互に見つつ、腰掛けた。
 シノハラはタクミに「昔の患者用の拘束具があったな? 持ってこい」と耳打ちした。
 タクミは一旦資料室から出て行った。
 シノハラはユイを見下ろし、少しだけ笑った。安心させるために微笑んだのではない。ただ楽しくて、心から笑いがこみ上げたのだ。
「これから、お前を拘束する」とシノハラは告げた。
「コウソク……?」ユイはすぐには言葉の意味が理解できず、首をかしげた。すぐに目を丸くし、「え、どうしてですか?」と尋ねた。
「落ち着いて、聞きなさい」シノハラは前かがみになり、ユイに顔を近づけた。
「お前の父親を殺したのは、お前だ」
 ユイは唖然と口を洞にし、激しくまばたきした。
「そんな……わたし、そんなこと、してません」
 シノハラはじっとユイの目を見つめて、続けた。
「私がアパートに入ってすぐ、お前はナイフで父親の首を切り、胸を刺した。私はしっかり目撃した。間違いない」
「そんな……そんなこと、わたし……」
 ユイは困惑した表情で弱々しく首を振る。本人にも否定しきれないのだ。記憶がないから。
「お前は多分、多重人格だ」とシノハラは言った。「多重人格――どういう病気が知っているか?」
 ユイは自信なさげにうなずいた。
「お前は父親から虐待を受けている時、いつもまったくの別人になっていた。だから記憶がないんだ」
 ユイはシノハラから目をそらす。
「今回の事件は多分、お前から虐待の苦しみを受け持たされていた人格が反攻に出た――ということだろう」
 ユイは黙っている。記憶がない以上、コメントしようもない。
 タクミが戻ってきた。クリーム色のごわついた上着と太いベルト状のものを抱えている。
「万が一その凶暴な人格が現れた時のために、拘束させてもらう」
 シノハラが告げると、ユイはタクミを見て泣きそうな顔になった。誰だってこんな物々しい拘束具を見せられ、それを着せると宣告されたらそんな表情になるだろう。
 タクミが慣れた手つきでユイに拘束具を着せてゆく。抵抗してどうなるものでもないからか、ユイはおとなしくされるがままになっている。
 上着は両袖が胴体と一体化しているもので、これでもう腕の自由は奪われた。
 さらにタクミは長いベルトでユイの腰をイスに固定した。その際タクミは「痛かったら言ってね」と、歯医者の診察のような口調で言った。続いて右足首、そして左足首を短めのベルトで固定する。
「よし」とシノハラはうなずき、身動きの取れなくなったユイを見下ろした。細身の少女が拘束具を着せられ、おびえた表情を浮かべている様子は、なんとも嗜虐的で哀れを誘った。
「お前の父が死ぬ直前、お前は外にいた。そのことは覚えているか?」とシノハラは質問した。
 ユイは少し考えてから、うなずいた。
「覚えていることを話せ」
 命じられてユイはうつむき、唾を飲んでから話した。
「九時少し前、父のお酒がなくなって買いに行かされました。その時、わたしがお財布をどこに置いたか忘れてもたもたしたら腰のあたりを軽く蹴られました。お酒がなくなってイライラしてたんだと思います」
 シノハラはうなずいた。
「それから……」ユイは少し黙った。
「どうした?」
「それからは、曖昧なんです」とユイは申し訳なさそうに答えた。「外に出たところまでは覚えています。アパートの門を出たのも……かろうじて」
「その先は?」
「分かりません……ごめんなさい」ユイは震えながら言う。「それから先は、いつものように真っ暗な部屋に閉じ込められたようになって、それで……」
 シノハラもタクミもじっとユイを見る。ユイはまるで二人の視線にくすぐられてでもいるように、もぞもぞと身体を動かした。
「気付いたら、目の前で父が血まみれになっていたんです」
 夜道で見かけた時、すでにこの少女はヤザワ・ユイではなかった、ということか。
 シノハラはかがみ、ユイに顔を近づけた。
「自分から、暗闇に閉じこもることはできるか?」
 ユイはしばたたいた。それから首を振った。
「できません。いつも勝手になるんです」
「そうなるのは、父親に殴られたり蹴られたりした時だけか?」
 シノハラが聞くと、ユイは少し間を置いてからうなずいた。
「……そうです」
 シノハラはユイの目をじっと見る。ユイは目をそらす。
「他にもあるな」とシノハラは言った。「正直に全部話せ」
「……はい。犯された時にも」
 やっぱり、とシノハラは思った。身体を伸ばし、ユイを見下ろして言った。
「わたしはお前の中のもう一人のお前に会いたい。お前の中のもう一人を、殺人の容疑者として取り調べなければならないからだ」
 ユイは戸惑った表情でシノハラを見上げる。
「お前が自分の意思で人格を変えられないなら、かわいそうだが無理やりする他ない。――どちらがいい?」
 シノハラは尋ねた。ユイは眉を寄せた。シノハラはぶっきらぼうにもう一度尋ねた。
「殴られるのと犯されるのと、どちらがいいんだ?」
 ユイは顔色を失った。
「他に今すぐ人格を変える方法があるか?」シノハラは斜め後ろのタクミに尋ねた。
 タクミは後ろ頭で両手を組む。
「今すぐってことなら、まあ他にないね。ただ後者のやり方なら僕はごめんだよ」
「では殴るしかないな」
 シノハラはいきなりユイの頬を張り手した。大きな音が資料室に響いた。
 ユイはぶたれた勢いで右を向き、目を見開いて硬直した。衝撃で声も上げられない。
 続けざまにシノハラはユイのあごをつかみ、正面を向かせ、右手の甲で右頬を張った。今度はユイも殴られるとすぐにシノハラを見上げ、涙目で首を振った。
「やめて……!」
 シノハラは手を振り上げ、また右手のひらで左頬を張った。
 ユイが息を荒げる。シノハラを怯えと苦痛の表情で見上げ、ただ首を振る。
 シノハラは無視し、さらに力を込めてもう一度左頬を張り、間をおかずに甲で右頬を、連続で殴った。
 ユイの唇が切れ、血があごを伝った。
 シノハラはユイに変化がないか、観察した。
 ユイは犬のように口を開け、激しく呼吸している。口の中も切ったらしく、息と一緒に血もしたたらせる。
「これは捜査に必要な行為だ」シノハラは冷静に告げた。「早く別の人格が出てこないと、これが延々と続くぞ。取り調べが始められない」
「姉さん、どうしたのさ?」背後でタクミが呆れた声で尋ねる。「熱くなりすぎじゃない?」
 シノハラはちらっとタクミに目をやり、「もう一度会いたい」と言った。
「この娘の中の、もう一人の人物に会いたい」
 シノハラはユイの左右の頬を、また二連続で張った。
「出てこい」とシノハラは言った。「出てこなければこの娘は殴られ続けるぞ。私はこの目で見たんだ。犯人はお前だと分かってるんだ。出てこい!」
 そう大声で言われても、ユイにはどうすることもできない。顔を血と涙で濡らし、シノハラを見ることしかできない。
 シノハラは小さく息を吐き、ももの横で右拳を握った。それを素早く弓引きし、正面からユイの顔面に叩きつけた。
 拳が鼻先にぶつかる直前、ユイの目が絶望に見開かれた。
 鈍い音が響き、イスが後ろへ大きく揺れた。背後へ倒れこみそうになるのをシノハラが両手でつかんで押さえる。ユイの首だけが大きく前後に揺さぶられる形となる。
 背後でタクミが息を飲む。シノハラは特別司法警察職員として専門的な訓練を受けているので、格闘は素人ではない。そんな人間がただの細身の少女――それも拘束され、避けようのない――を正面から拳で殴ったりしたら、ちょっとしたケガでは済まない。
「姉さん、やりすぎだよ」さすがのタクミも鋭い声を出した。「その殴り方じゃ殺しかねない」
「こいつこそ、もう殺してるじゃないか」
 肩で息をしながらシノハラは言った。
「こいつは父親殺しの外道だ。構うものか」
「姉さん」
 タクミが怪訝そうに眉を寄せる。
「世の中ってのは、おかしなものだ」シノハラは薄く笑った。「目の前で親を殺された人間もいれば、目の前の親を惨殺する人間もいるんだ……笑えるじゃないか」
 タクミは落ち着きを取り戻した声で、言った。
「僕はあんまり笑えないね」
 シノハラはユイに意識を戻す。
 ユイは肩で息をしながら声も出せずにうつむいている。腹やももを唇や鼻、口内からあふれさせた血で汚している。シノハラは深呼吸して、ユイの頭頂部を見つめる。
「やめて……やめて……」消え入りそうな涙声でユイは繰り返している。「助けて……助けて……」
「次は膝だ」とシノハラは無感情な声で告げた。「鼻先に膝を叩き込む」
 荒くなっていたユイの息が止まった。シノハラはかまわず両手でユイの頭をつかんだ。
 その瞬間の心臓の高鳴りをシノハラは今も忘れない。「彼女」のこの世のものとは思えない不気味さを、シノハラは生涯忘れないだろう。
 不意にユイが顔を上げた。その目を見た瞬間、それがヤザワ・ユイではないとシノハラには分かった。シノハラの胸が激しく脈打った。ユイの目――まるで小さな洞穴のような真っ暗な目。宇宙空間のような虚無的な瞳。吸い込まれそうなほどに澄んでいて、ブラックホールのように静謐としたふたつの目。先ほどまで色濃く浮かんでいたおびえや苦痛は、もはやどこにもない。
 シノハラは手を離し、思わず一歩下がった。ユイに対して言葉にできない危険を感じた。
 ユイは無言でシノハラを凝視している。その顔面は無残に腫れ、血で濡れたままなのに、表情にはなんの色もない。マネキンのように無感情で無表情。しかし生気がないわけではなく、むしろ先ほどまでのおびえたユイより存在感も迫力も増している。
「君が、もう一人のヤザワ・ユイさん?」
 タクミがシノハラのすぐ隣で尋ねた。シノハラは我に返ってタクミを横目で一瞥した。
「そう、こいつだ」シノハラは早口で言った。「こいつに私は会いたかったんだ」
 シノハラは下腹に力を込めた。そうしないと「彼女」に近づく勇気がわかなかった。拘束されているのだから危険はないはずなのに、勘が「こいつは危ない、気をつけろ」と告げてくる。
 シノハラは「彼女」の真ん前に立つ。口の中が乾く。「彼女」もシノハラを真っ黒な瞳で見上げる。シノハラの頭に「彼女」が拘束具をぶち破って襲いかかってくる幻想が浮かんだ。怖い、と正直にシノハラは自分の感情を受け入れた。
 だが同時にシノハラは、言葉にできないくらいの昂揚も感じていた。喜び、と言ってよかった。シノハラは今夜「彼女」に出会えたことを心の底からうれしく思った。その感情が一体なんなのか自分でもよく分からなかったが、「この出会いは一生に一度あるかないかの貴重な奇跡なのだ」ということは、シノハラには確信的に理解できた。
「お前は、お前の父親を殺した。ダガーナイフで首を斬り、胸をえぐった」シノハラは声が震えないよう注意しながら言った。
「間違いないな?」
「彼女」は表情を変えないが、小さくうなずいた。意思の疎通は可能なのだと分かり、シノハラは少しホッとした。
「見事だった」とシノハラはつぶやくように続けた。
「お前の殺し方、一ミリの無駄もなく鮮やかで……そして何より、躊躇がなかった。気味が悪いほどに冷静だった」
 じっ、とシノハラを見つめながら「彼女」は聞いている。
「素晴らしかった」とシノハラは、恐怖とは別の理由で心臓を高鳴らせながら言う。「あのためらいのなさは本当にすごい。人はどんなに強い殺意を抱いても、いざとなったらどこかに躊躇が表れたり、逆にやけくそになって落ち着きを失ってしまうものだ」
 シノハラは腕を組む。
「お前にはそういうものが一切なかった。清々しいほどの遠慮のなさだった。それはある種の職業においては重要な素質だ。殺しの際に腕が縮こまらないのは、貴重な才能だ」
「姉さん?」タクミが、ひとりでしゃべり続けるシノハラに声をかける。
「こいつは使える」とシノハラはタクミに言った。「もうすぐ第三厚生局にBSDDが新設されるのは知ってるな? こいつをディーラーとして採用したい。そうしたら私もそちらへ異動させてもらおうと思う。こいつを私の部下として使いたい」
 タクミは手を叩いて笑った――こういうときに笑えるのが弟の長所であり、世間的には短所でもある。
 タクミは言った。「本気で言ってるの? いつも冷静な姉さんからは考えられない、無茶な思いつきだな」
「直感だ」とシノハラは言った。「こいつに会った瞬間、なぜかこいつをディーラーとするアイデアが頭にひらめいたんだ」
 シノハラは「彼女」へ目を戻した。
「お前を厚労省の職員として採用する」
「彼女」は無言でいる。
「もし断るなら、お前は二度と陽の当たる場所には出られない」とシノハラは言った。「お前は殺人を犯した精神病者だ。刑務所か閉鎖病棟に閉じ込め、死ぬまで二度とその拘束具を脱げないような人生を用意してやる。私は本気だ」
「彼女」はやはり無言で、表情も変えない。だがシノハラから目も決してそらさない。
「私の部下になれ」シノハラは恐怖も忘れて、「彼女」に顔を近づけた。「私の部下になって、父親をやったように次々に殺せ。私のためにBS発症者どもをひとり残らず狩れ」
「殺せばいいのか?」
 はじめて「彼女」が口をきいた。低く、抑揚のない話し方。
「そうだ」シノハラは頬を熱くさせてうなずいた。「BS発症者を殺せ。私の部下である内はいくらでも殺させてやる。好きなだけ殺させてやる。殺せ。私のために殺し続ければ、外を大手を振って歩ける自由を保証する」
「分かった」と「彼女」はあっさりうなずいた。迷うような素振りはなく、拍子抜けなほど簡単な受け入れた。「お前の部下になろう」
 シノハラはしばたたき、言葉を失った。心がスッと冷える。失望したわけではないが少々戸惑った。もっと抵抗され、拒まれると思っていたのに。振り上げた腕の持って行き場が分からなくなってしまった。
「姉さん」とタクミが呼びかける。振り返ると、タクミは複雑そうな表情でシノハラを見ていた。
「まさか、復讐ってことかい?」とタクミが聞く。
 シノハラは一瞬、頭が空っぽになった。マヌケな話だが、尋ねられるまで「タクミにはそのように思えるのだ」ということがちっとも分からなかった。
 シノハラは「ああ」とうなずいた。「両親を殺したBS発症者たちを、こいつを使って狩ろうというわけだ」
「本当に?」タクミは疑わしそうに首をかしげる。シノハラは無言でうなずいた。
「少し意地悪な質問だけど」とタクミは言った。「姉さん、自分でやらないのかい? BS発症者に父さん母さんを殺されたのは僕たちだ。この子じゃないよね。叔父さんの口添えがあれば、姉さん自身が現場のディーラーとして異動させてもらうことも可能だよ」
 それでは意味がないのだ、と現在のシノハラならはっきり分かる。なぜなら復讐なんて本当はどうでもいい口実にすぎないのだから。そんなことがユシーヌを採用した理由ではないのだから。ただユシーヌの人間的な情緒を超越した、それこそ怪物じみた殺しっぷりを楽しみたいだけだったのだから。
 しかしこの時のシノハラは、自分でも自分の気持ちをきちんと理解できていなかった。いや、できていたのかもしれないが、自分の心を正直に見据えることができなかった。
 だからシノハラは自分に嘘をつかず、しかし本質的ではない答えを口にしてごまかした。
「正直に言って、私は怖い」とシノハラは言った。「私もマトリとして危険な仕事を続けてきた。狂ったヤク中を相手に銃を抜いたことも一度や二度じゃない。だがBS発症者はその比じゃない。少なくとも私の中で奴らは何よりも怖い存在だ。多分、トラウマがあるんだろう」
 シノハラはタクミをちらっと見た。「そういうのはお前の専門だがな」
「何だか、らしくないな」とタクミは言って微笑んだ。「姉さんが「怖い」なんて言葉を口にするのは、意外だな」
 シノハラはこの話を早くやめたくて、ただ薄く笑った。それから尋ねた。
「お前はどう感じる? この娘がBS発症者を次々に始末していってくれる……気分がスッとしないか?」
「別に」タクミは首を振った。「父さん母さんを殺した発症者は、もうこの世にいないよ。他の発症者を殺したところで僕は何も感じないね」
「クールなものだな」シノハラは息を吐き、続けて尋ねる。
「では、やめるか?」
 タクミは首を振った。
「いや、やろう。殺しっぷりの凄さが姉さんの言うとおりなら、この子はすごくいい研究材料になるよ。とても惹かれるね」でも、とタクミは再度否定した。「復讐云々はどうでもいいよ。僕はこの子と、今現れてる「この人格」にしか興味ないね」
 現在のシノハラなら、このタクミの言葉に感じ入ってしまう。全く同感だ、と今更ながら同意する。
 ――私も同じだったんだ。復讐なんて欺瞞もいいところだ。私もただ、純粋にユシーヌにしか興味がなかったんだ。
「なら何の問題もない」とシノハラはタクミに言い、「彼女」に向き直った。
「お前のことはなんと呼べばいい?」
 シノハラが尋ねると「彼女」は低く、ゆっくりと「ユシーヌ」と名乗った。
「では、ユシーヌ」
 シノハラは手を差し伸ばす。その指先で遠慮がちにユシーヌの頭に触れる。ユシーヌはわずかに視線を上へ動かしたが、嫌そうなそぶりは見せない。シノハラは思い切って手のひら全体をユシーヌの頭に乗せた。
 ほんのわずかに「愛おしい」ような気持ちがわいた気がしたが――昂揚から来る感情の混乱に過ぎなかっただろう。
「今からお前は私の部下だ。特別処理官……BSディーラーだ。厚労省へようこそ。――おい、タクミ」
「え? 何?」
 タクミは、眉を上げてしばたたいた。
「何じゃないだろう、拘束具を外して――いや、その前に救急箱だ」
 シノハラはユシーヌの血まみれの顔を見て言った――血まみれにしたのはシノハラなのだが。
「お前も医者の端くれなら、傷の手当てくらいできるな?」
「はいはい、できますよ」タクミは微笑んでうなずき、しかし細かく指摘した。「僕は医者の端くれですらないよ。病気やケガの治療になんて興味ないもの」
「弟ながら、狂った奴だ」と言ってから、シノハラは心で苦笑した。人のことを言えた身ではないか。タクミも、ユシーヌも、そして私も――ここには狂人しかいない。しかも私たちが今後相手にするのは、病気のためとはいえ極限的に狂ってしまった、暴力性の塊のような連中だ。
 私たちはみな狂っている。狂った者が狂った者を狩る地獄の底を生きている。
 そんな薄汚れた底にあって、ユシーヌは宝石のごとく輝いている。とびっきりに冷酷で、残酷で、そして美しい。ユシーヌの美しさに私もまた狂わされたんだ――ステーキ屋の個室でひとりウィスキーを舐めながら、五年越しでやっとシノハラは自分の欲望を認めた。
 そう、復讐なんてどうでもよかった。そんな真面目ぶった野暮な目的ははじめからなかった。私の中にあったのはただひとつ。奇跡的に出会った「愛しい」ユシーヌとともに、狂気の只中を生きてみたい。そんな欲求だけだった。それがたまらなく楽しくて、楽しすぎて、やっと私は人生の充実感を取り戻したのだ。
 あの夜、なぜユシーヌがナイフを持ってわざわざ外を歩いていたのか、それは本人に確認していないので分からないし、別に興味もない。多分あのせまく殺風景なアパートではナイフの隠し場所がないので、道端の草むらにでも忍ばせておいたのを酒を買いに出る振りをして回収した――そんなところだろう。
 なんにせよ、それはシノハラにとってとてつもなく幸運な出来事だった。「あの日、お前は一生分の運を使い果たしたのだ」と神に言われたって納得できる。あの日あのタイミングでユシーヌが外を出歩いていなかったら、今もシノハラは憂鬱で真っ暗闇の日々を送り続けていた――いや、もしかしたら自殺してこの世にいなかった可能性さえあるのだから。


 ステーキ屋を後にしたユイは、とてもこのまま家に帰る気になれなかった。殺風景な部屋でひとり夜を過ごすなんて、想像するだけで気が狂いそうだ。
 リクに電話をかけた。
「リク、会いたい」と間髪入れずに伝えた。他にどんな言葉も出てこなかった。リクは「いまどこだ? 俺はシンジュク駅の近くにいる」と返した。
「私も割と近く。東口で会おう」
「東口の広場か? 大丈夫か?」
「うん」ユイはうなずき、続けた。「早くリクに会いたい」
 何かを感じ取ったようで、リクは了解してすぐに電話を切った。


 平日の昼間だというのにシンジュク駅東口は人であふれ返っている。駅から出てくる者、駅へ向かう者、歩きすぎる者、立ち止まる者。
 ユイには全員がたくましく前向きに生きているように見える。全員が幸せな人生を送っているように見える。もちろんそんなはずはなくて、想像を絶する不幸にのしかかられ、今にもその場に崩折れてしまいそうな人だってきっといるだろう。それはユイにも分かっている。「わたしだけがつらい」わけでないことを理解できないほど、ユイも子供ではない。
 だけど、そう理解できはしても、そう感じることはできなかった。自分の心に張り付く不安のフィルターは、他者をやたら大きく見せた。
 ユイはリクの顔が現れるのを心焦がして待った。立ち尽くすユイのそばを、人々は足早に通り過ぎていった。そのカバンやコートの裾が体に触れるたび、ユイはストレスを感じ、ますます心をすり減らした。やはり人ごみは苦手だ。本当に、冗談抜きで苦手だ。
 ユイは泣きながらしゃがみ込みたくなった。苦しい。不安で不安でたまらない。自分とリクの近い将来がどうなってしまうのか。ユシーヌの脅迫によって、シノハラもあの場ではユイの好きにさせると明言したが、そんな約束、反故にされるに決まってる。基本的に弱みを握られているのはこちらなのだ。
 父を殺したこと。
 BS発病者と付き合っていること。
 どうすることもできない。過去は変えようがない。そしてリクを愛している。
 ユイはリクを探して荒く息をした。体、頭、心、全部が重たい。ただ生きているだけで息が切れる。
 人だらけの広場内でも、ひときわ人の密集している一角がある。ユイは何となくそちらを見た。多目的スペースになっていて、ちょっとしたステージがある。アイドル風の女が何かのイベントを行っていた。
 ユイのいる位置からステージは遠く、それが誰なのかまったく分からなかったし、興味もなかったので、マイクでしゃべっている声もほとんど耳に入らなかった。
 不意に拍手が起こり、女が歌い始めた。
「雪の舞うくもり空
 わたしはひとり
 あなたを待ってる
 手をつないでうちに帰ったら
 特製のシチューを作るわ」
 歌を聴いて、ユイはその歌手がヒラタ・オリエだと気付いた。
 三年ほど前までかなり人気のあるアイドル歌手だった。覚醒剤の所持と使用で逮捕され、それ以来、表舞台から姿を消した。最近細々と活動再開したと何かのニュースで見た記憶がある。
 アイドルになんの興味もないユイでも、当時ブドウ館ライブや単独ホールツアーを次々に行い、たくさんのメディアに登場していた彼女のヒット曲はいくつか口ずさめる。
 ユイは人垣の向こうで歌うヒラタを眺めた。かつてのヒットソングを歌い、踊りながら、満面の笑顔を人々に振りまいているヒラタの姿は見ていてつらいものがあった。一度は上り詰めた人間が自業自得とはいえ、寒空の下の小さなステージで、下積みアイドルのようなパフォーマンスをしている様子は、胸を締め付けられる光景だった。
「あったかい未来
 あったかもしれない未来
 あなたの手のぬくもりが
 今は蜃気楼のように遠い」
 ヒラタの歌が二番に入る前に、人ごみをかき分けてリクが現れた。ユイはたまらない気持ちになって、駆け出してリクに飛びついた。
 リクはユイを抱きとめながら、耳元で「人ごみ、つらいよな」と言った。
 ユイは子供のようにうなずき、「うちに帰ろう」と言おうとした。だが言葉が声になる前に、帰りたくない気持ちがわいて少し黙った。このままどちらの自宅へも帰りたくない気分だった。今はなぜか、四方を壁に囲まれた空間にいたいと思えなかった。
 ユイはふと思いついた。リクの故郷。思いついたらもうそれ以外選択肢はないという気になった。
「リクの生まれた街に行きたい」とユイは言った。
「え?」とリクは高い声を出して聞き返した。「俺の?」
「もし、リクがイヤならいいけど」
 ユイは、リクから顔を離して言う。
「もし大丈夫なら行ってみたい」
「まあ……いいよ」リクは戸惑いつつもうなずいた。「実家があった辺りには行きたくないけど、それ以外なら」
「うん」
 ユイはリクの手を引いてタクシー乗り場へ歩き出した。トウキョウとサイタマのほぼ境目の街だから、車でじゅうぶん行ける。電車には乗りたくなかった。万が一、また事故などで混雑していたらイヤだったから。
「何もない街だぞ」とリクは言った。
「いいの」とユイは答えた。
 タクシーに乗り込み、ユイはリクの故郷の街の駅名を告げた。運転手がナビに行き先を打ち込む。ナビが聞いたことのない警告音を発した。
 運転手が振り向いて、「すみません、身分証の提示をお願いします」と言った。
 言われてユイは思い出した。このタクシー会社はある程度の長距離の場合、身元の分かるものを見せて情報入力しないと乗車拒否されるのだ。かつて乗り逃げ客が多発したことがあり、それ以来の対策だとか――。
 ユイの隣でリクが息を呑む気配がした。ユイはリクを見た。困り果てた横顔に、ハッと思い至った。
 身分証になるものを何も持っていないのだ。十代半ばで両親を失い、そのまま上京し、妹のためにイリーガルな職場で働くような身持ちなのだ、不思議はない。
 ユイはすぐに行動していた。運転席へ身を乗り出し、自分の手帳を取り出すと、リクからは見えないように気をつけながら「厚生労働省・特殊処理官 特別司法警察職員」の表記を運転手に示して、「わたしはこういう者です。訳あって急がなくてはなりません。ご協力をお願いします」と小声で言った。
「警察職員」の文字の威力は絶大で、運転手は目を丸くするとすぐに車を出してくれた。
 シートにもたれ直すユイを、リクがあっけにとられた表情で見ている。ユイは何も説明しなかった。問われればBS関連のことを除いてある程度説明するつもりだったが、リクは何も聞いてこなかった。
 ユイはリクの手に自分の手を重ねた。リクは手を裏返して手のひらとひらを合わせ、指を絡めた。


 駅前のロータリーで二人は降りた。そこは東口で、デパートや商店街のある西口に比べると閑散としている、とリクが教えてくれた。
 ユイはロータリーからつながる道路の先を眺めた。市街地ではあるが、トウキョウの中心と違って大きな建物が少なく、見晴らしがいい。空の彼方は冬晴れの淡い青で、雲ひとつなく澄んでいた。そしてトウキョウより風が冷たい気がする。これも遮る建物が少ないからなのかもしれない。
 目の前にバスが停まった。数人の客――大半は中年ないし初老の女で、みな地味な格好をしている。ユイは行き先表示の町名を見た。無論知らない名前ばかりだ。
「このバスはどこへ行くの?」とユイは聞いた。
 リクは「市街地から離れて、西の方だな」と答えた。
「どんなところ?」
「そうだなぁ」リクは返答に困っている。「何もないところだよ」
「なんにも?」
「サヤマ丘陵っていう丘陵地帯が広がってるんだ。土地がボコボコ隆起してて、いろんなところに山っていうほど高くない丘がある。あとは取り立てて何もない。せいぜいお茶畑があるくらいかな」
「ふーん」平べったい土地で育ったユイにはうまく想像できない。
「あと野球場とかサヤマ湖って湖とかがある。昔は遊園地もあった」
「今はもうないの?」
「何年も前につぶれたよ」
「行ってみたい」と言ってユイはリクを見上げた。「だめ?」
「別にいいけど……」リクは苦笑する。「本当に何もないぞ。田舎の住宅街って感じで」
「いい。何もないところ、わたし嫌いじゃないから」ユイは小さく息を吐いた。
「にぎやかな場所はすごく疲れる……」
「そうだな」リクはうなずいて、ユイの肩を撫でた。
 ユイはその手に自分の手を重ねた。
「それにわたし、他に何もなくても、リクがいてくれたらもうそれで幸せだから」
 リクはユイを見た。ユイもリクを見る。リクは少しくすぐったそうな笑みを浮かべたが、ユイは笑わなかった。のろけのつもりは毛頭なかった。心の底から実感としてわいた言葉だ。
「これからもずっと、リクがいてくれたらわたしは幸せだよ」
 ユイが重ねて言うとリクも笑みを消して、真剣な顔になった。
「ユイ」リクは尋ねた。「何かあったんだな」
「うん」ユイは素直にうなずいた。
「話したいならなんでも聞く」リクはユイの腰を抱いた。「話したくなければ無理に聞かない」
「ありがとう、リク」ユイもリクの腰に腕を回した。
 ユイはバスを指差した。
「乗ろう」
「ああ」


 乗客はユイとリクだけだった。二人掛けの席に並んでかけ、ユイは無言で窓の外を眺めた。出発して数分もするとビルや商店はほとんどなくなり、車窓は住宅ばかりとなった。
 家ばかりなのはトウキョウの住宅地だって同じはずだ。だが、こちらはどことなく風景に華やぎがない。なぜだろうとユイはぼんやり考えた。ややあってマンションより一軒家の方が、それも古い一軒家が圧倒的に多いからだと気づいた。空が広く、家々の壁がくすんでいるのだ。
 ユイは街並みに薄っすらと好ましさを感じた。「あ、この雰囲気はトウキョウより落ち着くな」と思って、少し心が軽くなった。
 真昼間なのに歩いている人がいないのにも、なんとなくユイは優しい印象を持った。家は多いので人口は少なくないはずだが、本当にバスは誰ともすれ違わないし、追い越さないし、新たな客も乗車してこない。車窓も車内も寂寥感にあふれている。
 その静けさがユイには不思議と心地よかった。
 ユイは、童謡「ふるさと」に描かれるような「美しい」田舎のイメージにはあまり惹かれない。わたしは「田舎」には興味のない人間だ、とずっと思っていた。しかしこういうタイプの「都会ではない」街には、なぜか胸がドキドキするほど惹かれることを今知った。リクが「何もない」と表現する、文字どおり何もない街並みからなぜか目が離せなくなる。
 高いビルも人気の飲食店もない住宅街の、ひとつひとつの平凡な家にも誰かが暮らしている、ということが胸に迫った。中にはわたしのような人間もいるかもしれない。今まさに通り過ぎた平和そうな一軒家の二階の窓の向こうで、誰かが膝を抱えて不安に震えているかもしれない。
 そんなことを思うと、ユイはこの静かな風景の裏側に、勝手に狂気を見た気になった。穏やかな景色が、穏やかなだけではない奇妙な力を隠し持っているように思えた。もちろん全部ユイの想像に過ぎないのだが、その想像が正しいという可能性もあるのだ、と思うと、ユイは窓の向こうを流れてゆく「何もない街」に奇妙な迫力を感じる。
 ユイはじっと景色に食い入った。
 やがてバスは、かつて遊園地のあった街のバス停に停車した。そこはタクシーを降りた駅よりはるかに小さな駅の真ん前だった。
 ユイとリクはバスを降りた。このバス停で二人と入れ替わるように、ようやく数人の新しい客が乗った。
 ユイは目の前の、申し訳程度に立ち並ぶ小さな店やコンビニを眺めた。なんて静かなんだろう、と思った。なんの音もしない。風の音だけ。その風だって特別強いわけではない。でも微妙に高さの違う複数の風の音を聞き分けられるくらい、他に何の音もしない。
 空はさらに広くなっていた。相変わらず雲ひとつない。
 歩き始めると、住宅一軒一軒がどれもかなり大きいことに気づく。立派な生垣を茂らせていたり、門の向こうに広い庭を有していたり、敷地に余裕がある。
 豪邸という雰囲気ではなく、古い農家のような感じだ。実際、農具を入れておくような納屋がある家も多い。だが畑はあまり多くない。ところどころでお茶畑が広がっているのに出くわすが、いわゆる農村地帯のようなイメージ――田畑や山・森などの自然が周囲に広がっている、というそれこそ「ふるさと」のような光景はない。
 地味な住宅街だ。まさに「何もない」住宅街。色彩に乏しく、くすんだ町。都会でもなく、しかし田舎とまでも言えない中途半端な町。
 ユイはそんな町並みに心地よさを覚える。
 静かだ、とリクと手をつないで歩きながら思う。人の足音も車の音も、何もない。まるで建物を残して人類が滅亡した世界に、二人だけで生き残ったかのよう。不思議なくらい誰ともすれ違わない。人の姿がどこにもない。
 車通りの少ない国道。辻に立つ道祖神らしき石像。小さな、しかししっかり補強された都市河川。そして遠くに見える丘の緑。
 ユイの心に熱い感情があふれてくる。この感情はなんだろう……自分でもよく分からない。油断すると涙ぐんでしまいそうなほど強い、しかし温かな感覚だ。
 懐かしさだろうか。それはかなり近い気がしたが、違う。ユイは生まれて以来トウキョウから出たことすらほとんどないのだ。こんな町並み、記憶のどこにもない。
 なのに――
 わたしはここで生まれるべきだったんだ、とユイは不意打ちのように思った。
 わたしの本当の家は、そう、リクの実家の近所で、リクは子供の頃から仲の良い幼なじみで、わたしたちは小さい時からもう互いに惹かれあっていた。子供時代はただの友達のまま当たり前のように毎日一緒に遊んで、思春期になると照れ臭くて距離ができてしまう。リクは中学時代に両親を失い、BSを発病する。リクをわたしは心から支えてあげる。そうして二人は友達から恋人になる。素直になって結ばれて、愛し合う。妹さんのこともリクはひとりで抱え込む必要なんかなくて、わたしも精一杯協力してあげる。――
 想像した。隣を歩くリクの横顔を見上げた。リクは複雑そうな表情で目を細め、道の先を見つめている。
 胸いっぱいに愛おしさと切なさが押し寄せる。ユイはまた泣きそうになり、目を伏せる。
 わたしのこれまでの人生は全部間違いだったんだ。わたしたちはもっと早く、出会っていなければいけなかった。生まれた時からの幼なじみでなくても――せめて、リクがBSを発症する前に出会っていたかった。そしてもっともっとたくさん、長い時間を一緒に過ごしたかった。
 眼前にはお茶畑が広がり、小さな川が流れ、遠くに丘へ続く坂道が見えた。たくさんの古い家と新しい家が並ぶ。空気がまぶしい。この場所のすべてが、大きな布のようにユイを包んでくれている。
「この町に生まれたかった」とユイは言った。
「え?」リクが聞き返す。
 ユイはリクの耳へ顔を向けて、「この町にわたし、生まれたかった」ともう一度言った。
 リクは意外そうにしばたたいた。
「そう……か?」
 ユイは微笑んだ。こちらで生まれ育ったリクには感じられないのかもしれない。にぎやかすぎず、自然が深すぎる土地の閉鎖性もなく、程よい距離感でわたしを受け入れてくれる、このぬくもり……
 自分の心を癒してくれる土地を知ることができた喜びと、どうしてここが自分のホームタウンでないんだろうという悲しみを同時に感じながら、ユイは歩き続きた。
 だんだんと家が少なくなり、視界がますます開けてきた。強い風をもろに受けてユイの髪が舞い踊る。
 道の横の地面が坂になって盛り上がってきた。自然の丘というより、人工的に盛った山に見えた。土と枯葉の匂いがした。
「もうすぐ遊園地だ」とリクが言った。「今はその跡地、だけどな」
 大きな広場と、その先に連なって並ぶ三角屋根のゲートが見えてきた。
 思わずユイは「わあ」と声を上げる。遊園地に遊びに行ったことなど一度もないが――いや、ないからこそ心が躍った。派手で大仰なゲートは異界への入り口に見えた。おとぎ話に出てきそうなファンタジックなデザインに心を奪われた。
 ゲートの屋根には西洋の城のようなとんがった尖塔が付いている。ユイは尖塔を仰ぎ見た。真っ青な空を背景に真っ白な塔がそびえている様子は、白昼夢のように非現実的で、蠱惑的だった。
 遊園地内へ続くせまい通路は三つあった。どれも重々しい鉄板で閉鎖されている。在りし日にはチケット担当の係員が立っていたのだろうが、今は園内をのぞき見ることもできない。
 チケット売り場の窓口もある。窓は視界を遮るほどに濃い黄色に変色している。
 ユイはゲートに背を向けて、広場全体を見渡した。中央には時計がそびえ、その周りを古いベンチが囲んでいる。隅っこの方には、薄汚れた動物の乗り物が打ち捨てられている。百円で動くパンダやキリンだ。
 ユイとリクは一番マシなベンチにかけた。木材が古くなって毛羽立っていて、よく確認してから腰を下ろさないとケガをしそうだった。
 風が音を立てて吹き抜けていく。つらいほどではないが、やや寒いとユイは思った。
 ユイはリクに体をピタリと寄せ、彼の腕に自分の腕を絡めた。耳元に口を近づけ、言った。
「今日ね、上司に叱られちゃったんだ」
 リクは首をかたむけて、うんとうなずいた。ユイは続けた。
「すごく怖い人でね、にらまれただけで身体が縮こまっちゃう。何か言い返すなんてあり得ない」
「うん」
「その人に、わたし、生まれて初めて反抗したんだ」
「うん」
「どうしても、納得がいかなかった」ユイは言葉を噛みしめ、少し黙った。
「……今日だけは、どんなに怖くても「分かりました」ってうなずくわけにいかなかった」
「うん」
「そうしたら、向こうも最後には一応折れてくれた。本当に心から折れてくれたわけではないと思うけれど、こっちの主張を渋々受け入れてくれた」
「うん」
「わたしなんだか、たまらない気分になっちゃった。なんだか……うまく言えないけど、上司との関係がいよいよ苦しくなってきた」
「受け入れてもらえたのに?」とリクが尋ねる。
「うん」とユイはうなずいた。「受け入れてはくれたけど、こちらの気持ちは全然分かってもらえたって感じじゃなかったの。いやいや、というか……」まさか自分の別人格が脅迫したとは言えない。
「その上司のこと、ユイは嫌いなのか?」とリクは尋ねた。
「……」
 ユイは黙った。すぐにうなずけない自分に少し、驚いた。
「少なくとも好きじゃない」とユイは答えた。「いろいろひどい目にあわされたし……でもね、今日、叱られて、それに反抗したりしてるうちに、すごく悲しいような、さみしいような変な気持ちになったの」
「悲しい?」
「うん……」とユイは自信なさげにうなずいた。それから、この気持ちを正しく表現する言葉は多分ない、と思いながら話した。「今までは、あの人はわたしの上司ではあるけれど、でもこの世でわたしから一番に遠い人――みたいに思ってたんだ。わたしとはまったくタイプの違う人で、どこにも共通点はないし、生まれも育ちも全然違うし、歳も離れてるし、共通の話題もないし、一緒に笑い合うことなんて絶対にない。そういう遠い人だから、あの人のことが何も分からなくてもいいし、向こうがわたしのことを理解してくれなくても構わない――そう当然のように思ってた。なのに今日は、なぜかそう思えなかった。わたしはあの人のことを何も知らない、あの人もわたしのことなんて何も知らないし知ろうともしてくれない……そう思ったら、すごく悲しくなった。涙が出そうなくらい、いたたまれなくなった。どうしてわたしたちはこんなに分かり合えないんだろう? どうして心が一ミリも通い合わないんだろう? 五年間も一緒にいて、一緒に仕事をしてきたのに、なんでわたしたちは何もかもがズレてるんだろう。そう考えたら、とっても悲しくなった」
「うん」リクはうなずき、腕をほどいてユイの頭を引き寄せた。
「疲れちゃったよ、わたし」とユイは言った。頭が触れ合うほど近付いているので、つぶやくような小声でも聞き取ってもらえる。
 リクが腕に少し力を入れる。ユイは抗わず、リクの右腕に抱きしめてもらう。ユイも左腕をリクの背に回し、指先で彼のダウンジャケットをつかんだ。
 ユイは改めてゲートをながめた。外壁の白はところどころ茶色く汚れ、コンクリートの地面との境目からは枯葉色の長い草が伸びている。
「わたし、廃虚って好きなの」とユイは言った。「なんだか落ち着く」
「うん」とリクがうなずく。
「ながめてるとね、ちょっとさみしいような、でも穏やかな気持ちになるんだ」とユイは続けた。「わたし、小さい頃からにぎやかな場所とか華やかな雰囲気とか、すごく苦手だった。そういうところにいると、いまだにそうだけど、心が圧迫されるような気持ちになる。だからかな。廃墟って大抵、そういう雰囲気から程遠いでしょ。こういうテーマパークの廃虚なんかは特に……。にぎやかだった時代を想像できるから、かえって今の荒れっぷりがさみしげに思えるの。ワビサビってやつかな? そういう感じ、すごく落ち着くわ」
「うん」とリクはうなずき、「すごく分かる」と続けた。
 ユイはリクの共感がうれしい。
「華やかさとか、にぎやかさから、何億光年も離れた世界」とユイは続けた。「廃虚にはそこに生きていた人たちの記憶が影のように染みついてるわ。例えばこの遊園地なら、たくさんのお客さんでにぎわっていた記憶。小さな子どもたちのうるさいくらいの笑い声や、デートしてるカップルのささやき声。そういうのが今にも聞こえてきそう。でも、そこにはもう誰もいない。その寂しさ……わたしは好きよ。夢の跡が心にしみる。ただの記憶だとしても――ううん、人間の体温が残ってるくらい生き生きと息づいた記憶なら、それはもう現実と同じくらい重みを持つわ。たとえ幻であっても。それが良い記憶であれ、悪い記憶であれ。たった今ある現実と同じくらい、心にとって重い意味を持つこともあるわ」
 こんな話、面白くない? とユイは尋ねた。リクは首を振る。
「もっと話してよ」
 ユイはホッとして続けた。
「どんなにまぶしく輝いていたものでも、いつか朽ち果て、消えていってしまう。昔の記憶を残して、骨組みだけを残して、魂を失っていく――それが、わたしの中の廃虚のイメージ。なんだか私の心にはしっくり来る。しんみりした気持ちになって、でも安心するの。うまく言えないけど……」
「大丈夫、分かる」とリクは言った。
 ユイは微笑み、続けた。
「わたしも、誰も彼も、みんないつか必ずこの世界から消えてしまう。この遊園地と一緒。それはとても悲しくてさびしいこと。だけど決して堪えがたいほどの悲劇じゃないんだ、って思えそうな気もするの。そうやっていつかこの廃虚のように、楽しかった頃の記憶をどこかに残しながら消えていくのも、悪くないんじゃないかな、って」
「ユイ」とリクが言った。「俺も楽しい記憶を、お前の中に残せてるかな?」
 ユイは両手にぐっと力を込めた。そうして涙をこらえた。
「もちろんだよ」とユイは答えた。「私の楽しい記憶は全部リク、あなたよ」
 リクはユイの目をじっと見た。
「もっと俺の記憶を残したいよ。お前にとってはつらいだけかもしれないけど」
 ユイは胸が苦しくて目をそらしたくなった。でもそらしてはいけない、と思った。
「俺は近い将来、必ず発症する」
 リクは穏やかな口調で言った。
「俺には分かるんだ。俺の精神はだんだんもろくなってきてる。少しずつ着実に、俺はBSに飲み込まれようとしてるんだ」
 ユイはゆっくり、うなずいた。同時に、分かるものなんだ、とびっくりもした。それはどんなにつらいことだろうか。一歩一歩迫ってくる破滅を感じながら生きるのは、どんなに苦しいだろう。
「ユイの中に、もっともっと俺の記憶を残したい。そうすればこの世から消えちまうのも、そんなに悪いことじゃないと思えそうだ」
 リクは静かに続ける。
「好きな女の中に何かを残せるなら、百年生きて何も残せないよりずっと上等な人生だよ。そうだろ?」
 リクの笑顔に、ユイは堪えきれず涙をこぼした。
「最高の人生よ、リク」ハナをすすりながら、ユイは言った。「あなたは最高の人生を生きてるわ。わたしが保証するよ」
「だよな」とリクが微笑む。
 その微笑みにユイは抱きついた。
「わたしがあなたの記憶を抱いて、百歳まで生きてあげる。絶対に死なないで長生きしてあげる。だから寂しくなんかないからね、リク。あなたはわたしと一緒にずっとずっと生き続けるのよ」
「悪いなユイ」とリクは、ユイの背中をさすりながら笑った。「重い荷物押し付けちまうなぁ」
「平気だよ」ユイも少し笑った。「わたしこう見えても、けっこう力持ちだから」
 二人はしばらく無言で抱き合った。風が二人のそばを吹き抜けていった。
 冬の陽がうっすら色づき始めていた。
 ユイはリクと手をつないだまま、ベンチから立ち上がった。そして何の深い考えもなく、つぶやいた。
「中、入れないかな……」
「え?」とリクが聞き返す。
 ユイはリクを見て、大きめの声で言い直した。
 リクも立ち上がり、敷地に沿って伸びる歩道を指差しながら、「ちょっと歩いてみよう」と言った。
「どこかに柵の破れ目くらいあるんじゃないか」
 二人は柵を注意深く見ながら歩いた。するとおあつらえ向きに、人ひとりが通り抜けられそうな穴が見つかった。自然にできた穴ではない。柵はペンチか何かできれいな円形に切り取られている。明らかに誰かがいたずらであけたものだ。
 まずリクが潜り抜け、続いてユイも背を丸めて遊園地内に侵入した。
 心がにわかにおどり出す。草の上を四つん這いに進んでいると、ちょっとした冒険をしているようで、非日常感が込み上げてくる。穴をくぐり抜けて立ち上がっても、足取りは軽い。
 リクの手をにぎり直し、ユイは自然とはしゃいだ笑いをこぼした。
 そこはちょっとした雑木林のようになっていた。鬱蒼とした森ではないが、開けた場所までは距離がありそうだ。
 二人は草木をかき分け、いたずらっぽい笑みを交わし、やがて遊歩道のような道に出た。目の前には巨大な船が威容をさらしている。「バイキング」とか「ポセイドン」などと呼ばれる、ブランコ状の大きな遊具だ。
 ユイはぼう然と船をながめた。不思議な光景に圧倒された。遊園地がどういう施設か、もちろん知らないわけではない。しかし行ったことは一度もないので、この目でこの手の遊具を見るのは生まれて初めてなのだ。
 なんだか夢の世界にいる感じがした。テンションが上がる。
 リクは目を細めて、辺りを見回している。
「リクはここに来たことあるの?」
 ユイが尋ねるとリクはうなずいた。
「小さい頃にな。でもほとんど覚えてないや。こんな感じだったかなぁ。もっと道幅とかも広かった気がするけど」
「リクが大きくなったんだよ」
「そういうことかな――確か、こっちにでかい広場があった気がする」
「行ってみようよ」
 歩きながらユイは周囲の遊具を見渡した。
 往時のにぎやかな雰囲気を残しつつも、どれも色あせ、さび、ホコリにまみれ、朽ちつつある。
 ジェットコースターの鉄骨は茶色く変色し、メリーゴーランドの馬はあちこちでペンキが剥がれ、空中を小さな飛行機で飛び回る遊具はたくさんの蔦が絡まって、まるですがりつく亡者の群れに動きを封じられているかのようだ。
 観覧車乗り場の脇の地面には外れたカゴが横たわっているし、その先の巨大なプールは水がかれて、底に木の葉が積もっている。
 風化の波に飲み込まれようとしていた。ここにあるすべてが世界ごと死につつあった。だが、生々しい。にぎやかだった頃の音の洪水が耳に聞こえてくる。
 アトラクションは死にゆく現在と過去の生を、同時に発散していた。空気に混じる記憶のざわめきが恐ろしく濃密だ。
 ユイはそれを心地よく思う。畏怖を抱かせる何かが園内に充溢している。祈りを捧げたくなるような神聖さと、そして悲哀が同居している。
 やがて二人は開けた場所に出た。広々とした見晴らしのいい場所だ。向かって左側の端に白いイスやテーブル、パラソルが乱雑に押しやられている。
「フードコートか何かだったんだろうな」とリクが言った。
 当時はたくさんの人でにぎわい、様々な料理の匂いが漂っていたのだろう。それを偲ばせるものはイスとテーブルとパラソルだけだ。あったはずの建物群は完全に撤去されて、跡形もない。
 ユイとリクは手近なイスに腰を下ろした。イスもテーブルも二人の頭上に広がるパラソルも、近くで見るとかなり汚れている。元の白が陽に褪せて黄色っぽくなり、乾いた泥があちこち付着している。
 ユイは自分のイスをリクのイスにぴたりとつけた。リクの肩に頭を乗せ、広場を見渡す。傾きつつある冬の陽が、ひび割れたコンクリートを照らしている。
 やっぱりわたしは好きだな、とユイは思った。廃遊園地のこの静かな雰囲気。大切な人とふたりで、風の音だけを聞きながら眺める。
 ユイはハッとした。今この時はわたしにとって最高の思い出になるんじゃないだろうか。好ましい風景の中で、リクと一緒に止まったような時間を過ごす――。そんな贅沢な時間の使い方は他にない。
 わたしは今、最高の思い出の中にいるんだ。いつか思い出したときに、あの時わたしとリクはこの世界に間違いなく存在していた、と確信できる、そんな時間を過ごしてるんだ。
「今この瞬間」をもっと堪能したい。ユイは燃えるように思う。
 ユイはリクの横顔を見上げた。リクは西日に目を細めている。見慣れた顔だが見飽きることはない。決して、飽きることはない。
 ユイはリクの頬に触れた。リクは不思議そうにこちらを向いた。
 ユイの中の熱情が激しくうねって全身を支配する。ユイはリクの後ろ頭へ両腕を回した。唇を重ね、舌を差し入れ、絡め合わせた。
 ユイは唇を離して「抱いて」と言おうとした。
 不意に声がした。ユイとリクは声のした方を見て硬直した。広場の入り口の方だ。
 また聞こえた。何を言っているのかは分からないが、確かに人の声だ。数人の男たちが大きな声でしゃべっている。ユイはその雰囲気に剣呑なものを感じた。
 声はどんどんはっきりし、やがてその主たちが広場に姿を現した。
「あ?」と先頭を歩いていた男が素っ頓狂な声を出した。
「なんだ、こいつら」
 その後ろからぞろぞろと何人もの男たちが登場する。全部で八人。体格も格好もてんでバラバラな若者たち。年齢はみな二十代前半といったところで、共通してハードな印象の髪型をし、気の短そうな雰囲気を漂わせている。
 地元の不良か。
 一番最初に現れた、スタジャン姿の男が前に出た。ユイとリクを金髪頭を振って観察する。
「こんなとこで青カンかよ」
 ユイはリクの身体にぴたりと抱きついたままだ。そう思われても無理はないし、事実これからまさに「青カン」をしようとしていたので笑えない。
「遠慮なく続けろよ」と、短髪の後ろから出てきた男が言った。こちらはゴリラみたいな面構えで、似合わないスパイキーヘアで髪型をキメている。
「俺らが客として見ててやるよ。動画も撮ってやろうか?」とゴリラ男が続けた。
 他の連中も下品な笑い声を上げた。
 そっか、こういう場所はこういう連中の溜まり場になってるんだ……
 ユイの中で廃墟に対する好ましさが急激にしぼんでいった。迂闊だった。柵にきれいに穴が開けられている時点で、予想してしかるべきだった。
 ユイは面倒に巻き込まれたことに意気消沈し、唇を噛んだ。
 金髪がバカにしたように言葉を投げてくる。
「そんなにこわがるなよー。ここは俺らのシマだけど、自由にやらせてやるよ? 好きなように気持ちいいことやんなよ。それともそのにいちゃんの代わりに、俺らがやってやろうか?」
 リクはうんざりした思いでため息をついた。無事切り抜けられないかもな。相手は八人。しかもこちらはユイを抱えた状態。いつものケンカとはわけが違う。
 だがこうなってしまったものは仕方ない。じっとしていても埒があかない。
 リクはゆっくり立ち上がり、横に一歩動いてユイをかばう格好になった。
「お? なんだ、やんのか?」と金髪がすごんだ。
「彼女の前だもんな、いいカッコしなきゃな」とゴリラが肩をそびやかしながら言った。
 リクは金髪かゴリラのどちらかをできるだけ素早くのしてしまおうと考えた。誰かひとりを危なげなくボコボコにすれば、こういう連中は必ず全員そろってひるむ。その隙にユイの手を引いて逃げよう――。
 リクは真正面の金髪に狙いを定めた。
 思いっきりガンをつける。向こうが挑発に乗って近寄ってきたところをやる。自分からは動かず、相手自身に蹴りの射程に入ってきてもらう。
「何、ガンくれてんだテメェ」
 思惑どおり、金髪が笑みを消してにらみ返してきた。リクはその足元にツバを吐いた。
「このやろう!」
 金髪がこちらへ足を踏み出した。リクは間合いを図り、自分も歩き出すような動きで腹に蹴りを叩き込もうと、足を持ち上げた。
 その瞬間――風が駆け抜けた。
 リクの横を、鋭い足音とともに。
 いきなり金髪が吹っ飛んだ。高々と上がる黒いハイヒールが、彼の頬に突き刺さった。
 リクは硬直し、瞠目した。
 プロの格闘家のような、完璧なフォームのハイキック。リクは何が起こったのか理解するより、まずその蹴りの美しさに圧倒された。
 蹴りを放ったのがユイだと一拍遅れて分かると、リクの頭はパニックになった。
 ――え? え?
 ユイの背中がリクと金髪の間にある。その金髪はユイの足元に転がっている。左の頬を下にして、地面に身体をつけている。半開きの目は明後日の方角を見、口からはだらしなく舌が覗いている。
 気絶しているのかとリクは思ったが――実際、数秒意識は飛んだだろう――表情を苦悶に歪めると「あおぅ……あぁあう……」と途切れ途切れにうめき始めた。
 不良たちは静まり返って、倒れた金髪を見ている。全員表情を失い、目を丸くしている。
 リクが冷静さを取り戻す前に、ユイは次の動きに入った。
 今度はゴリラが犠牲者となった。ユイはハヤブサのような動きで彼の右膝にローキックを入れた。叫ぶ間も与えずに続けて腕を取り、肘を捻じ曲げた。
 骨の折れる乾いた音が響いた。ゴリラは仰向けに倒れ、大声で悲鳴を上げた。
 他の不良たちはその場に釘付けとなった。全員、真っ青だ。まるで亡霊の群れのように。
 驚いているのはリクも同じだ。身体を斜めに開き、堂々と背筋を伸ばすユイの後ろ姿にぼう然とする他ない。
 どうなってるんだ? これは一体何なんだ?
 目の前の背中がユイのものとは思えない。もちろんそれはユイだ。見慣れた後ろ姿。リクの恋人、ヤザワ・ユイ。お気に入りのグレーのコートを着た、小さな背中。
 だが――同時にリクの知らない人間がそこには立っていた。華麗な足技を繰り出し、不良たちを一瞬で黙らせてしまうユイなどリクは知らなない。想像したこともない。
 ユイの無言の背中は武人のような静けさと殺気にあふれていた。八人の不良なんかより、いま目の前にいるユイの方がよほど絶望的な存在だと感じた。いつも何かに怯え、自らの神経質さに苦しめられるユイとは似ても似つかない。こちらを振り返ったら本当に別人なんじゃないか――そんなはずはないのだが、本気でそんな気がした。


 真っ暗闇に囚われたユイの頭上に光が降り注いできた。交代だ。思ったより早かったが、それでもユイは「早く早く」と焦った。
 ユシーヌと入れ替わる。瞼の裏を見ている自分を意識する。多分、ユシーヌが引っ込んだということは危険は去っている。だが心配なのはそんなことではなかった。ユイは恐る恐る目を開けた。
 自分の足元に、先ほどまで粋がっていた不良が二人倒れていた。ひとりは口と鼻から血を流し、もうひとりは腕をとんでもない方向に折られているが、どちらもうめき声を上げているので生きてはいる。
 ――良かった……
 ユイは心底ホッとし、肩の力を抜いた。
 意識の暗闇にいる間、ユイはずっと気が気でなかった。もしかするとユシーヌは不良たちを殺しているんじゃないか――。ユシーヌが何を考えているのか、どこまでユイの常識を超えた行為をしでかせる人物なのか、その辺のことはユイにもいまだよく分からない。が、リクのことはともかくとしても自分(ユイ)の身を守るためなら、ユシーヌは躊躇なく相手を殺すだろう。その程度のことではためらいもしないだろう。
 言うまでもなく人殺しなんてしたくないし、だいたい殺しなんてやられたら大変に面倒なことになる。勤務時間外に正当防衛とはいえ殺人なんてしでかしたら、シノハラには大目玉を食らうし、一応ユシーヌによって了承させた「リクとのこと」も間違いなくおじゃんになるだろう。
 リクのこと――ハッとユイはリクのことを思い出し、そして背筋を冷たくした。振り返ると、リクは見たこともない目つきでユイを見ていた。知らない人間を見るような、困惑しきった目。
 ユイは深い穴に落ち込んだ。その場にへたり込みそうになった。
 ユイは力を振り絞って足を踏み出した。リクの戸惑いの表情に変化はなかった。
 ユイはリクの手を取った。
「行こう」


 柵の穴をくぐり、道路へ出ても二人は無言だった。リクは何か言いたそうな顔をしていた気がするが、そもそもユイはリクの前を歩き、後ろを振り返らなかったので、彼がどんな顔をしていたのかもよく分からなかった。そしてわざわざ改めてリクの方を振り返る勇気を、ユイはどうしてもふりしぼれなかった。
 駅までの道は、行きと違って大勢の人が歩いていた。暗くなり始めの黄昏時。家路を行く人々や買い物帰りの主婦などでにぎわっていた。喧騒はユイの心をますます孤独にした。まるで街にまで見捨てられてしまったような気分だった。
 駅前のロータリーまで来て、ついにユイは耐えられなくなって立ち止まった。
 足が止まったら堰を切ったように涙がこぼれ始めた。泣きたくなんかない。でも涙が止まらない。
 震える肩にそっと両手が乗る。ユイは振り返った。微妙な笑みを浮かべた、明らかに困惑しているリクがいた。ユイはリクに抱きついた。そしてさらに泣いた。
 二人をじろじろながめながら人々が歩き過ぎる。
「ごめんね」とユイは謝った。「ごめんね、びっくりさせてごめんね」
 リクは何も返さず、ただ後ろ頭をゆっくり撫でてくれる。
「わたし、リクの思ってるような普通の公務員じゃないの。厚労省の特殊な捜査官なの」とユイは泣きながら言った。「警察みたいなもので……特別な訓練を受けてる。格闘訓練とかも受けてるから、さっきみたいに……」
 リクは少し息を吐き、「だからタクシーもすぐに出てくれたんだな」
「ごめんね、あんな姿見せちゃってごめんね」
「え?」
 ユイは吐き出すように言った。
「見せたくなかった。リクには見せたくなかった……あんなわたし、見せたくなかった」
「ユイ……」リクは困ったように言う。「大丈夫だよ。俺は大丈夫。なんとも思ってないから……大丈夫」
 ごめんね、ごめんね、とユイはただ繰り返した。リクはその間、ずっと抱きしめてくれていたが、ユイは震えるほどの寒さを感じた。日が落ちるとともに、気温も一気に落ちていた。
 もう風の音は聞こえなかった。駅前の喧騒で、風の微弱な音など聞き分けられなかった。


 自宅は冷え切っていた。ドアノブも玄関のコンクリートも、凍りついたように冷たかった。
 一歩足を踏み入れてドアを閉めた途端、ユイの全身から力が抜けた。ふらふらとベッドまで歩き、どっと腰を下ろしてうなだれた。
 遊園地に入りたいなんて言いださなきゃ……
 ユイはタクシーの中でもずっと後悔し続けた自分の行動を、また悔いた。そんな好奇心出したりしなければ、リクにユシーヌを見られたりしなかったのに。
 リクと出会い、恋をしてからというもの、いつか自分がBSディーラーだとバレる日が来る、ということはどこかで意識していた。にもかかわらず、ユイは「ユシーヌをリクに見られる」ということについて、どういうわけか今日まで想像すらしていなかった。
 リクは明らかにドン引きしていた。口では何とも思っていないと言っていたけど、動揺していた。あんな乱暴な姿を見せてしまったんだ、当然だ。
 リクに嫌われただろうか――。ユイは頭を抱える。いやそれどころか怖がられただろうか? こいつは危ない人間だと警戒され、恐れられてしまっただろうか? そんなの最低だ、最悪だ。嫌われるだけでもやりきれないのに、恐怖までプラスされたらもうわたしはおしまいだ。BSうんぬん以前にわたしたちはもう終わりだ。
 もしリクに嫌われてしまったら、今のわたしの人生には何の価値もない。わたしは本当にひとりぼっちになる。死にたい、死んでしまいたい。でも死ぬことすら許されない。わたしが死のうとしてもユシーヌがそれを止める。――そんなの当たり前だ、ユシーヌにだって生きる権利がある。わたしと一緒に死ななきゃいけない義理なんてない。たとえわたしが死にたいと考える原因がユシーヌの暴力にあっても。
 そんなふうに懊悩しているうちに、額が痛み始めた。ストレス性の頭痛だ。ごく稀に、とんでもなく心が追い詰められた時に起こる。ユイは絶望と不安に痛みまで加わって、ますます頭を抱えた。
 だめだ、痛い。ユイは我慢できず、ベッドの上を這うように移動し、チェストに手を伸ばした。中に鎮痛剤があるはずだ。薬を飲んで少し横になろう。
 ユイは引き出しを開けた。唸りながら頭を持ち上げ、中を覗いた。
 鎮痛剤の横にウェアラブル端末がある。いつもそこにしまっているのだからあって当然だ。だがユイは予想だにしない衝撃を受けた。端末を見た途端、ユイの中で激しい怒りがわき上がった。脳みそが沸騰し、顔面が燃え、震えが手足を駆け抜けた。それは今まで感じたこともない発作的な怒りだった。
 ユイは叫んだ。
「ちくしょう!」
 喉から出てきた声は、自分の声とは思えないほどしゃがれ、憎しみに満ちていた。
「ちくしょう! ちくしょう!」
 叫ばずにはいられない。腹の底から噴き出してくる感情を止められない。
「ちくしょう!」
 どうしてこんなことになる? どうしてわたしはいつもこんな目に遭う? BSディーラーになんてなりたくなかった。あんな父親の元に生まれたくなんてなかった。あんな分かり合えない上司の下で働きたくなんかなかった。多重人格になんてなりたくなかった。こんなつらいことばかりの人生なんていやだ。全部全部、何もかもいやだ。こんなクソみたいな人生、わたしはもういやだ。いやだいやだいやだ。わたしが何をした? わたしは何も悪いことなんかしてない。ただ好きな人と一緒にいたい、少しでもいいから幸せになりたい、それだけなのに。ただそれだけなのに。それだけのことも許されない。いつだって全部、わたしの行ってほしくない方へ進む。いつだって、わたしにとってつらくて苦しい方へ人生が進んでしまう。どうして? どうしてこんなことになるの? どうして何ひとつうまくいかないの? どうして? どうしてなの?
「ちくしょう!」
 ユイは叫びながら、ウェアラブル端末を手に取った。そしてそれを雄叫びとともに壁に投げつけた。壁にぶち当たった端末は乾いた音を立てて、床に落ちた。
 と同時に電話がなった。ユイはびくりと痙攣し、瞬間的に現実に引き戻された。
 液晶にはBSDDの四文字。
「何かあったか?」
 電話に出たユイへ、シノハラが落ち着き払った声で尋ねてくる。一瞬何のことか分からなかったが、応答の声がかすれていたからだとすぐに理解した。息が上がっていた。
「いえ……何でもありません」とユイは声を落として答えた。
「発症者だ。……キクチ・リクじゃないから心配するな」
 憎たらしいほどに冷静な口調でシノハラは言う。
「はい」とユイは答えるしかない。それにしても、ほんの数時間前にユシーヌに殺されかけたというのに、シノハラはどうしてこんなに落ち着いていられるんだろう、とユイは急速に冷えてゆく心でぼんやり考えた。
「自宅だな? 迎えに行く。準備をして待っていろ」と言ってシノハラは電話を切った。
 沈黙したスマホを見つめて、ユイは涙を拭った。立ち上がり、床の端末に歩み寄った。
 つるは折れ曲がっていないし、レンズにひびも入っていない。持ち上げて電源ボタンを長押ししてみれば、問題なく立ち上がる。壊れてはいないようだ。
「良かった……」とユイは思い、息をついた。
 部屋の中なのに、背中を冷たい真冬の風に撫でられたような気がした。


 リクは冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、ベッドへ移動するより先にプルタブを開け、一口喉へ流し込んだ。
 冷蔵庫の扉を見つめて、ため息をつく。心に不安がわだかまっている。うまく言葉にできない、ユイに対する不安。
 何か言葉をかければ良かったかな? とリクは思った。帰りのタクシーの中でも二人はほぼ無言だった。本当はユイが何者なのか、特殊な捜査員というのはどういう仕事なのか、警察とは違うのかなどとても気になったのだが、ユイがあまりに憔悴していたので何も聞けなかったのだ。
 それでも無理に何か言ってみるべきだったかもしれない――ベッドに腰掛け、ビールを飲みながらリクは思った。
 あれじゃユイは余計つらい気分になったかもしれない。あいつは「こんな姿を見せてごめん」と言った。多分、乱暴――とは別に俺は思わないが――な姿を彼氏に見られたことを恥じていたんだろう。しまったな、とリクは思う。別にそんなこと本当になんとも思わないのに、俺もびっくりして気の利いたことを何も言ってやれなかった。
 びっくりしたのはユイに格闘家みたいな一面があったからというよりも……そういうことじゃなくて……
 リクは「あ」と思った。今日はリンコへ電話する日だ。スマホを手に取った。
 電話口で「もしもし」とリンコが言った。
「もしもし、俺だ」とリクも言った。「何か変わったことはあったか?」
「わたしは何も変わりないよ」とリンコは答えた。「お兄ちゃんこそ何かあった?」
「え?」リクは言葉に詰まった。不意打ちを食らった。
「お兄ちゃんは、何かあったの?」聞き取れなかったと思ったようで、リンコは繰り返した。「なんか、今日は声の調子が違うね」
 リクは苦笑いする。なかなか鋭いな。
「まあ、ちょっとな……」とリクは答えた。
「彼女さんとケンカでもした?」
 リンコが含み笑いする。
「そんなことはしない」とリクは答えた。「いや、したな。まあ俺とじゃなくて、ユイがひとりでしたんだけど」
「え、どういうこと?」
 二人でいるところを不良に絡まれたのだが、その不良をユイが倒してしまったのだとリクは説明した。
「すごい」とリンコは興奮した調子で言った。
「ユイさんってすごいね。すごく強いおねえさんなんだね。かっこいいね」
「ユイにそんな面があるなんて、俺は今日まで知りもしなかったけどな。恋人同士だっていうのに」
 リクはちょっと誇らしいような気持ちになったが、それを表に出すのは妹相手に恥ずかしい気がして、冗談っぽく言った。
「普段は強そうどころか、むしろ人一倍弱々しい感じの人間なんだけどな。どこにあんなパワー隠してたのか……」
「それでお兄ちゃん、動揺してるの?」とリンコが聞く。
「動揺? うーん……動揺なんだろうか」リクはベッドに寝転がった。「俺はただ、不良を蹴り上げてたユイがいつもと別の人間のような気がして、妙な感じなんだ」
「いつも弱そうな人が、急に強くなったから?」
「まあそれもあるんだが、それだけじゃないんだ」
 リクは自分の感じている何かの正体を探りながら、しゃべった。
「あいつはすごくショックを受けていて、何度も俺に謝ったよ」とリクは言った。「こんな乱暴な姿を見せてごめん、リクには見せたくなかった、って。まあ俺は助けてもらってありがたいって思ってるくらいで、そんなことまったく気にしちゃいないんだけど……ただ、戦ってる最中のあいつが、あまりにもいつものあいつと雰囲気が違ったんで、何だか釈然としないんだ。ユイが思いがけずケンカ慣れしていたってことだけじゃなくて、なんというか、立ち振る舞いとか、立ち姿とか、動きとか、そういう細かい雰囲気までまるで別人のように思えた。何だか他人の魂でも乗り移っちまったみたいで、「これはユイじゃない」って直感したんだ」
 リンコは真剣に聞いている。
「感覚的な話だから、俺にも自分のもどかしさをうまく言葉にできないんだが……落ち着かないんだよな。あいつは、多分何かを隠してるんだと思う。俺にも言えないような何かを」
 父親に強姦されていたことまでカミングアウトしたユイに、今更どんな隠し事があるというのか? リクには想像もつかないが、何となく不良をのした後のユイは、物事の核心をこちらに伝えなかった気がするのだ。
「本当はいろいろ質問したかったんだけど、ユイがあんまり落ち込んじまってたんで、俺は何も聞けなかったよ。ひとりになりたいって言うから家まで送って、今夜は俺はぼっちだ。結局なんにも聞けずに家に帰ってきちまった」
「お兄ちゃん、あんまり気にしすぎないほうがいいよ」とリンコが言う。「本気で戦わなきゃいけないって状況になったら、誰だっていつもの自分とは違う人になっちゃうと思うもの」
「うん、そうだよな」リクはうなずき、息を吐いて続けた。「でもなんだか複雑な気分だ。ユイに俺の全然知らない顔があったんだ、と分かったら、何だかあいつが少し遠くに行っちまった気がしてさ」
 妹相手にちょっと泣き言が過ぎるかなと思ったが、別にリンコは気にしていないようだ。
 リンコは意外なほど落ち着き払った口調で言った。
「大人になれば誰だって、秘密のひとつやふたつ、できるものだよ。家族にも彼氏にも、誰にも話せない秘密。大切な人だからこそ話したくないっていう秘密」
 リクは天井に向けてしばたたいた。それから上半身を起こして苦笑した。
「生意気言うじゃないか。お前も秘密があるのか?」
「それこそ秘密」とリンコは答えた。
「まあ、お前はまだ子供か」
「割と大人だよ」
 リンコは笑いを含んだ声で返した。


 電話を切った後、少し気持ちが軽くなっていた。リクは気分良く残りのビールをあおった。
 飲み干して顔を戻すと、窓の前に久しぶりにマナベの霊が現れていた。リクは何を思うでもなく、ぼんやりとマナベをながめた。
 今夜のマナベは不思議と静かだった。いつものうっとおしい懇願もなく、黙ってリクに見ていた。目つきがなんとも哀れっぽい。なぜ今夜だけそんな目でこっちを見るのか、リクには分からない。元より幽霊の考えることなんて生身のリクに分かるはずもない。
 三十分ほどして消えるまでマナベはずっと、こちらを哀れむような表情を浮かべていた。


 翌日、ユイは最悪な気分で目覚めた。ぼんやりした視界の中で、ゆっくりと、だが確実に天井が回転している。
 昨夜はめったにしない深酒をしてしまった。
 昨日の発症者は七十代後半の老人だった。仕事は何の問題もなくスムーズに終わった。若い人間と違い、相手が年寄りの場合、仕事はいつもよりずっと簡便になる。体力が若者とは比べ物にならないからだ。
 ユシーヌによる処理後、ユイは表に戻ってくると嘔吐した。遺体を見て吐いたのは二年ぶりくらいだ。
 弱々しい老人であったことも、額を撃ち抜かれたひどい死体であったことも、シノハラとの一件も、リクにユシーヌの姿を見せてしまって落ち込んでいたことも、等しくユイの内臓にダメージを与えた。ユイの心がもはや限界だったのだ。少しの刺激にも耐えられないほど、精神疲労がたまりきっていた。
 自宅に帰ってきたのは午後十時過ぎだった。ユイはウィスキー入りの袋を提げていた。肴の類は何も買わなかった。冷蔵庫には肉や野菜が入っていたが、何か作る気力はわかなかった。
 ユイは最初は水割りから始めた。晩酌をしない人間なので、それでもじゅうぶん酔えると思った。だが酔えなかった。頭はずっと冴え渡り、グラスや瓶を持つ手先も確かなままだった。
 それで氷をグラスに入れて、ロックで飲み始めた。始まりはシングルだったが、三杯目からダブルになった。そこで少しだけ魂が体から抜け出し始めた。
 周りにあるものも自分の中にあるものも、全てが自分の中心から遠のいてゆく。五杯目からはストレートにした。効果はてきめんで、ユイは急速に前後不覚に陥った。眠りに落ちる直前には意識を半ば失っており、もはやその時の一杯が何杯目なのかも分からなかった。
 カーテンさえ閉め忘れていて、昼の陽が部屋全体を照らしている。唸りながら時計を見ると十二時を過ぎている。半日以上爆睡していたことになる。しかし疲れが取れたような感覚はゼロだった。ひどい倦怠感で目を開けているのもつらい。体の節々にだるさがこびりついている。二日酔いのためだけとは思えない。
 ユイはリクの顔を思い浮かべた。心が重苦しい。むしろ酒に逃げたことで、よけい苦しみが増した気がする。
 起き上がろうという気にはとてもなれない。が、目は完全に醒めているので、眠りの中に戻ることもできない。
 消えてしまいたい――。
 ユイは思った。胸が吐き気でムカムカした。もうこの世界から消滅して、自分に関するすべてをなかったことにしたい。
 電話がなった。ユイは機械的に腕を伸ばし、スマホを手に取った。画面を見て目を見開く。リクからだ。
「もしもし」自分でも驚くほどかすれ切った声。
「もしもし、寝てたか?」とリクが聞いた。
「大丈夫、ちょっと前に起きたところ」
「そうか」リクはホッとした調子で言い、少し間を置いてから続けた。「今、職場で昼休憩中なんだ。なんだかユイが心配で、電話かけちまった」
 ユイの心に、ぽっと火が灯る。
「俺、ちょっと後悔しててさ」とリクは続けた。「帰りのタクシーで、もっと声をかけてやればよかったって……。ユイがすごく落ち込んでるの、分かったのに。ごめんな」
「ううん、全然気にしなくていいよ」
 ユイは明るさを取り戻した声で答えた。
「俺は、――何て言えばいいんだろうな……」リクは言葉を探し、続ける。「うまく言えないけど、どんなことがあろうと、ユイのことを信じてるよ。何があっても俺はユイの味方だ。だから、もし俺のことで少しでも気落ちしたり不安だったり悩んでるなら、何の心配もないからな」
 うんうんうなずきながら、ユイは幸福感で泣きそうになる。
「俺の、ユイへの気持ちは何も変わらないよ」
「リク……」涙の波が収まるまでは、彼の名を呼ぶことしかできない。
「むしろ遊園地でのことは、無傷で助けてもらって感謝してるくらいだ」リクは笑いながら冗談めかして言う。「俺がケンカで無傷で済むなんて、珍しいことなんだからな」
 その笑いにつられて、ユイも笑いを漏らした。
「リク、ありがとう」
 今の会話でもう、心の重苦しさはきれいになくなった。ユイの消えたいという願いは叶ったのだ。消えたのは自分の中の憂鬱だが。
「ねえ、リク」ユイは思い切って言った。「まだ少し時間あるなら、聞いてほしいことがあるの」
「なんだ?」
 リクには知っていて欲しかった。少なくとも、あの時の自分がどういう状態だったのか、それは知っていた方がリクにとってもいいはずだ。
「わたしね、前に父親に虐待されてたって話、したでしょ。その影響でね、心に病気を負ってるの」
「病気?」リクが心配そうな声で尋ね返す。
「うん」とユイはうなずき、言った。「解離性同一性障害……聞き馴れない病名だよね? いわゆる多重人格のことよ」
「多重人格……」鸚鵡返しにして、さすがにリクは絶句した。
「びっくりさせてごめんね。でもこのこと、ちゃんと話さなきゃって思ったの」とユイは続けた。
「あの時のわたしは、普段のわたしとは違う人格になってたんだ。だから実はわたし自身、あの不良をどういうふうに倒したのか、全然覚えてないの。別の人格が出てる間は、わたしは真っ暗闇に囚われたようになって何も見えなくなっちゃうから」
「なんてこった……」
「黙っててごめんね。リクに、別の人格になってる時の姿を見せることはないと思ってたから、話さずにいたの。できれば知られたくないことだったし」
「そうか……」リクが息を吐く。「さすがにびっくりしたよ。予想もしてなかった」
「ショックだった?」
「いいや。それより、つらかったなユイ」
 リクが情のこもった声で言う。
「本当につらかったな、苦しかったな。かわいそうに。でも俺がついてるからな。何もしてあげられないけど、俺はこれからもずっとお前の味方だからな」
「リク……」
 またユイの目元に涙がこみ上げた。
「ありがとう。すごくうれしいよ。リク、愛してる」
「ああ、俺も愛……」リクは言葉を切った。「ひとが来た……悪い」
 ユイは泣きながら笑った。
「じゃ、また仕事の後でな」
「うん、がんばってね」
 ユイはスマホを置いて、ふらつく足でキッチンへ行った。冷蔵庫からミルクを出してコップに注ぐ。一気に飲みきって、窓の外を見た。
 周りに背の高いマンションがあるので大した景色はない。ユイは冬の光そのものを見た。色味の薄い、寒々とした陽の光。他の季節のより、冬の陽の方がユイは好きだった。
 何もしない間ができると、また不安が滲み出してくる。昔からそうだ。何かひとつ問題が解決すると、新たな心配を心が勝手に探し出す。息をつける時間は持続しない。
 ユイは「これからもずっと味方だ」というリクの言葉を反芻した。「これからもずっと」というのがいかに短い時間か、ユイは知っている。終わりは、次の瞬間に訪れたって不思議でない。
 ユイはベッドに寝転がり、まくらに頬をついた。小さな声で「リク、愛してる」とつぶやいた。
 心の底からリクを想った。だからこそユイは、遠くない未来にやってくる終わりを想像せずにいられなかった。リクを想えば想うほどに想像はユイを侵食する。「キクチ・リクが発症した」という声を、耳の奥に思い浮かべてしまう。
 何度その瞬間を想像しても、自分がどう動くのか、どう選択するのかは予測できない。
 想像できないし、したくもないのだ。どのみち選択肢などない。リクが発症する、という未来に対してどんな抵抗ができる? どうせその時が来たら経験せねばならない。なら、想像の中で事前に何度も苦しむことはない。
 ユイは寝返りを打った。とりあえず酒が抜けるまでは横になっていよう、と思った。
 視線の先、チェストの上にウェアラブル端末がある。いつもちゃんと片付けていたが、リクにユシーヌを見られたら何だかどうでもよくなってしまい、放り出してある。
 ユイは天井へ顔を向けた。端末を視界に入れておきたくなかった。


 仕事を終えてビルから出ると、リクはわけもなく空を見上げた。久しぶりに見た故郷の空とは比べものにならない、せまい空。星なんてひとつも見えない。カブキ町では風俗案内所や飲み屋の電飾が星だった。
 カブキ町の店舗は入れ替わりが激しく、いきなり潰れ、空いた物件にすぐ別の店がオープンする。星が燃え尽き、残りのガスから別の星が生まれるように輪廻転生する。
 リクは歩き出した。気持ちは落ち着いていた。ユイの病気について知ったのが大きい。
 多重人格というのがどれほどユイの生活に影響を与えているのか分からないが、ともかくあの時のユイが別人に見えたのには合点がいった。ちゃんと理由があったと知って、頭を切り替えることができた。
 後でリンコに電話しよう、とリクは思った。リンコも昨日の話は気になっているだろうから。
 職安通りに出たところで電話が鳴った。取り出してみると、覚えのない番号が表示されていた。
「もしもし」
 警戒しつつリクは出た。
「もしもしっ」と相手は予想外に大きな声で返してきた。
「はい?」とリクは聞き返す。
「キクチ・リクさんですか?」と相手が緊張した、刺すような声で尋ねる。
「そうですけど」リクは胸をざわつかせながら答えた。
「私はカラスヤマ学園のスクールカウンセラーのミヤタと申します」
「ああ、はい……」
 リンコの通っている女子校のカウンセラーだ。
「妹さんのことでお電話しました」とミヤタは重苦しい声で言った。「リンコさんがケガをされました。今、病院に運び込まれて治療を受けています。私も病院からかけています」
 リクの心臓が激しく動き始めた。
「何があったんです?」とリクは聞いた。「ケガというのは、どういうケガなんですか?」
 ミヤタは即座に答えず、言い淀んだ。
「落ち着いて聞いてください。出血多量で意識がなく、現在集中治療室に入っています」
 リクの全身を悪寒が駆け抜けた。出血多量? どういうことなんだ?
「何があったのか教えてください」
 リクは早口で尋ねた。
 ミヤタは数秒、間を置いた。電話中に差しはさむには長すぎる間だった。リクは、最悪なことが起こったのだと悟った。
「手首を切って、非常に危険な状態にあります」とミヤタは言った。
 目の前が真っ暗になった。万力で頭を左右から締め上げられるような圧迫感に襲われ、両耳が詰まった。周囲の音が遠くなる。ホワイトノイズに似た耳鳴りが走る。
 リクは強く混乱した。リンコのことと突然の難聴の悪化に焦った。ミヤタが何か言っているがよく聞き取れない。耳鳴りで声がぼやける。
 リクは大声を出した。
「もう一回言ってください! 俺は耳が悪いんです!」
「ご本人から聞いているかもしれませんが」ミヤタはゆっくり大きな声で言い直してくれた。「最近リンコさんはフラッシュバックを繰り返していて、かなり不安定な状態でした。私たちも心配していたのですが……」
 なんだそれは。そんな話、何も聞いていない。昨日の電話でリンコは「何も変わりない」と言っていた。フラッシュバックなんて一言も――。
 隠したのか。血の気が引く。そして俺はそれを見抜けなかった。
 リクは横のビル壁にもたれかかった。
「リクさん、大丈夫ですか? 聞こえています?」
 黙ってしまったリクに、ミヤタが大きな声で聞いてくる。
「大丈夫です……」と答えるだけで精一杯だ。
 リクの深いところから毒素が噴き出す。頭の中がぐしゃぐしゃになる。
 リクはこれまで感じたこともないほどに激しく、やり場のない怒りを覚えて震えた。
 なんでだ、とリクは壁に拳をついて思った。どうして俺たちはいつもこんな目に遭うんだ。あまりにもひどい。あまりにもむごい。親父は殺され、おふくろは首をつり、今度はリンコが手首を切った。どうして? どうしてこんな目に遭う。俺たちばかりがいつもいつもこんなどうしようもない不幸に見舞われる。どうしてだ? 俺たちが何をしたっていうんだ? 俺たちはただ、平和に、普通の暮らしをしたいだけ。ただそれだけなのに、どうしてそれを邪魔されなきゃいけない。いつもいつも、何ひとつうまくいかない。もういやだ。何もかもいやだ。俺はもう全部いやだ。クソが。クソッタレが。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうちくしょうちくしょう。
 ミヤタが何か言っている。だが遠い。聞き取れない。
「聞こえない。もう一度言ってください!」と、リクは大声で言った。
「どうか病院へ」とミヤタは言った。「もし来られるようなら、どうかリンコさんのそばにおいでください」
 病院名を聞き、リクは電話を切った。しかしとても病院になんて向かえる状態ではない。リンコのことは胸が張り裂けそうなほど心配だが、リク自身が今にもばらばらに吹き飛びそうだ。
 本当に危険な状況だった。発症が目の前に迫っている。はっきり分かる。
「落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け……」
 繰り返しながらユイの顔を思い浮かべる。ユイ。ユイだけが救い。ユイだけが俺を鎮めてくれる唯一の存在。
 リクは早足で歩き出した。息を荒げ、タクシーを探した。


 ドアの鍵が開けられる音がした。ユイが玄関へ出ると、ちょうどリクが合鍵で入ってきたところだった。
「リク」ユイはびっくりして言った。事前連絡なしに来るのは初めだ。いつも律儀に「これから行くよ」と電話やメッセージをくれる。


「いらっしゃい。どうかしたの?」
 そうユイに聞かれても、リクはうまく答えられなかった。発症しかかっているから慰めてくれ、とは言えない。少なくともここへ来るまでに聴力が戻ったことにはホッとした。強いショックによる一時的な症状だったようだ。
「えと……昼間の続き」とリクは答えた。
「昼間?」
「ちゃんと言えなかっただろ」
 リクは靴も脱がず、自分の方へユイを引き寄せた。ユイはちょっと驚いたふうに目を丸くし、抱き寄せられた。
「愛してる、ユイ」とリクは言った。
 ユイがリクを見た。彼女は戸惑ったようにしばたたいてから、顔をほころばせた。


「リク、わざわざそれを言いに来てくれたの?」
 尋ねるとリクはこくりとうなずいた。
 違う、とユイは直感した。リクはそんな盲目的な勢いで恋人の家に駆けつける人間じゃない。何かあったのだ。
 何か――だがそれを考えるのはやめにした。リクの声は媚薬だった。愛のささやきにユイの腰回りが沸騰し始める。脱力感でとろけ落ちそうになる。
「わたしも――」と言いかけた口をリクの唇にふさがれた。リクの舌はいつも以上に激しくうねった。


 ユイの口内のぬくもりをリクはむさぼった。胸の内を暴れ回る毒蛇を抑え込むために。ユイは鎮静剤だった。彼女の体温にはリクの魂を癒す特殊な効能があるのだ。
 ユイへの愛おしさが怒りに勝った。
 リクは舌をユイの首筋に這わせた。右手を胸の膨らみに持っていき、左手を尻の丸みに伸ばした。


 ユイは喘ぎ声を上げた。その声の大きさに自分で少し驚いた。
「外に聞こえちゃう」
 ユイは玄関ドアにもたれかかりながら言った。
「聞かせてやれよ」
 リクはユイを撫で回す。右手が胸を離れ、下半身へ向かった。触れられた途端、ユイはさらに大きな声を出した。
 こんなこと初めてだ。ユイはドキマギする。ベッドにも行かず、靴さえ脱がずにリクが求めてくるなんて。リクがこんなに情熱的で野生的なセックスをしようとするなんて。
 気が変になりそうなほどの幸福感で、ユイは身もだえる。
「リク、だめ」
 ユイはリクに背後からパンツを下ろされた。すると膝裏まで愛液が垂れた。
「何がだめなんだ?」とリクが耳元でささやいた。
「ううん、やっぱりダメじゃない。来て」
 リクに後背位で突かれながらユイは喘いだ。外に聞こえたって構うものか。そんなことどうでもいい。今この時――今この瞬間の悦びだけが生きるすべてだ。未来にも過去にも最悪な時間しか存在しないなら、他にすがり付けるものなんてないじゃないか。他に何もないなら選択肢もない。
 ユイはリクに溺れた。溺れている間だけユイは心を解放し、生きることを楽しめた。


「やばいよ、外に完全に聞こえてるよ」
 ユイが喘ぎながら言う。
 リクは答えずに激しく腰を動かした。愛おしさと快感で怒りは薄れている。だがリクは理解してもいる。この安心感も悦びもまやかしに過ぎない。刹那的な癒しでは長期的には何ひとつ乗り越えられない。ユイから肉体を離した時、再びリクはリンコが瀕死の重傷を負っているという現実と戦わねばならない。リンコが死ぬのを想像すると目の前が真っ暗になる。そうなったらもう自分は耐えられない。ユイをもってしても、俺の心は折れてしまう。
 リクはひたすら腰を振った。今はいい。許してくれ。考えたくないんだ。逃避させてくれ。俺はあまりに考えすぎた。これまで余計なことを考えすぎた。思考が敏感すぎた。ストレスが絶え間なかった。いつだって。
 せめてユイとセックスをしている間だけは、全部忘れたい。全部投げ出してユイに溺れたい。ユイとひとつになって、俺は俺であることを忘れてしまいたい。
「ユイ、愛してる」
 リクは叫ぶように言った。


 大声で言われた途端、全身のマグマが炸裂し、ユイはオーガズムを迎えた。後で赤面してしまうほどに激越な、獣のような声をあげて体をのけぞらせた。


 自分でも信じられないくらい大量の精液をユイの首筋から背中、尻にかけて放出し、リクは息をついた。


 ユイは内ももを痙攣させ、全身で息をした。振り返るとリクが気だるげに、そして愛おしげな笑みを浮かべてユイを抱き寄せた。キスをし、舌を絡め、互いの体を触った。
「リク……」とユイはかすれ声でリクを呼んだ。「愛してるよ」
「俺も、愛してる」
 ピロートークと後戯によって、またユイの中の火が盛り始めた。
 ユイは腹に固い感触を覚えた。思わず吐息を漏らした。
「もう一回する?」とユイは尋ねた。
 リクはうなずいた。


 ベッドに移り、今度はゆっくりと、互いの体を隅々まで味わうように愛撫し、交わった。
 皮膚と皮膚を密着させていると、ユイは淡い焦燥感を覚える。
「リク。体が邪魔だよ」とユイはリクの耳元で言った。
「体が?」とリクは聞き返した。
「リクとひとつになりたいのに体が邪魔する」
 ユイはリクを強く抱きしめた。
「これでもまだ足りない。わたし、距離ゼロまで近づきたい。リクと完全に重なり合いたいよ。でも体同士がぶつかって、これ以上近づけない。くやしいよ」
 リクは微笑み、強く抱きしめ返した。
「本当だな」とリクは言った。「体が邪魔だな」
 煙になりたいとユイは思った。肉体を脱ぎ捨てて煙になって、空中でリクと融合したい。あっという間に、わたしたちはどちらとも判別不能な状態に混じり合うだろう。二筋の煙はうねり、絡まり合って、個性と区別を失うだろう。わたしとリクの境界線はなくなる。わたしたちはひとつ――いや、ゼロになる。あらゆるものから解放されたゼロ同士になって、風に吹かれてどこかへ飛び去るのだ。
 なんて心地よくて、だらしがなくて、幼稚な幻想だろう。体を持って今ここにいるわたしたちは、この体を引きずって、行けるところまで行くしかない。
 悲しかった。ユイはリクに突かれながらこっそり涙ぐんだ。


 腰を動かしながら、リクはふとその存在に気づいた。ベッド脇のチェストの上に、赤い縁の眼鏡が投げ出されている。
 あれ、ユイって眼鏡かけるのか? と、ぼんやりリクは思った。それから自然と頭の中で、その眼鏡をかけたユイの顔が思い浮かんだ。
 瞬間、全身が脈打った。
 リクは目を見開いた。思い出した。眼鏡をかけたユイの顔――その顔を知っている。そう、知っている。はっきりと明晰に、俺は知っている。
 電車の中でユイを見た時の既視感はこれだったんだ――リクは血の気が引く音を耳の奥に聞きながら思った。
 猛スピードで頭の中のバラバラのピースが合体した。リクは真実のすべてを理解した。
 あの日、俺の家の玄関から出てきた黒服の少女。赤い眼鏡をかけた、俺と大して年の違わない少女。
 特殊な捜査官。
 戦闘にも長けている。
 厚生労働省の職員――そりゃそうだ、BSは病気なんだから警察でなく厚労省が扱うんだ。
 なんてこった。ああ、なんてこった。
 俺は全部思い出した。思い出しちまった。なんてこった。
 ユイはあの時の少女だ。
 リクは止まらずにユイを突き続け、彼女の喘ぎを聞きながら叫び出したくなった。
 俺の親父を殺した。母を自殺に追い込んだ。そして、親父を目の前で殺されたリンコはPTSDになり、手首を切った。
 リクの中で、肉体を燃やし尽くそうとするような激烈な熱の塊が生じた。
 BS発症者を専門に殺す機関がある、ということはどこかで聞いて知っていた。だが、リクはそれを警察の一部門だと勘違いしていた。厚労省の捜査官――そういうことか。そういうことだったんだ。
 リクの中で熱源が爆発した。
 一瞬のことだが決定的だった。最後の鉄槌だった。ユイに対してほんのわずかな時間だが、許しがたい怒りを抱いてしまった。
 ユイこそ、リンコが集中治療室に入る羽目になった原点だ。ユイがリンコの目の前で親父を殺したから、あいつは心に深い傷を負った。フラッシュバックに苦しみ、自ら刃物で――。
 それはユイにとって、どうすることもできないことだったのかもしれない。いや、おそらくそうなのだろう。ユイは好き好んで人を殺す仕事を選ぶような人間じゃない。多分、多重人格であることも深く影響しているのだろう。これはユイが一人責められるべき問題ではないのだ。
 だがもう遅かった。そのように考えてみたところで発症はすでに始まっていた。リクにははっきり感じることができた。自分の中の深い部分が決定的に損なわれた。
 それは「受容」だった。外側からの衝撃で心が壊れたというより、既に取り返しのつかないほど壊れていたのを、リクが受け入れたにすぎなかった。リクはギリギリのところで目を背け続けていた己の崩壊を、ついに認めてしまったのだ。
 嫌になるくらい戦ってきたイラ立ちや怒りの大元を見てしまった。その大元とはユイだった。それはリクにとって耐えられる事実ではなかった。
 リクはユイから体を離した。ユイが火照った顔を、少し戸惑い気味にリクの方へ向ける。
 リクはパンツとズボンを履き、シャツを羽織った。震える指でボタンを留める。
 ユイが体を起こし、表情を失って尋ねる。
「リク、どうしたの?」
 リクはしかし、まだ戦っていた。内部の崩壊を少しでも長引かせようと必死になっていた。
「俺……」と声を震わせながらリクは答えた。「その眼鏡かけてるお前、見たことがあるんだ」
 ユイの顔色が変わった。
 リクは父親のことも話そうかと思ったが、すんでのところで自分を抑えた。もしかするとユイは何も知らないのかもしれない。かつて自分が殺した人間と俺が親子だと、知らないのかもしれない。もしそうなら知らないままでいい。仮に知っていても、俺がそのことにまで気付いてしまったとは伝えないほうがいい。
 そんなことをしたら、ユイまで狂ってしまうかもしれない。


 ユイは自分でも驚くほど落ち着いていた。顔面から血の気が引くのは自分でも分かったが、それだけだった。自分が何者なのかリクにバレたら、もっと取り乱して、泣きわめいて許しを請うものと思っていたのに。
 ユイの心に広がったのは、ただの暗闇だった。ひたすらに暗い、悲しみの闇だった。
 その時が来てしまった。
 ユイは黙ってリクを見つめた。彼の手は震えている。
 リクが力なくを微笑んだ。
「実はさっき、リンコが手首を切ったって連絡があったんだ」
 ユイは目を見開いた。今夜のリクの様子がおかしかった理由を理解した。
「俺はもう、おしまいさ」
 リクが言った。不思議と絶望的な響きはない。すべてを諦め、悟った人間の淡々とした口調。
「リク……」
「俺はもうすぐ、俺じゃなくなる」とリクは言った。「ユイの知ってるキクチ・リクじゃなくなるんだ」
 リクの目元にうっすらと光るものが浮かんだ。
 それを見た瞬間、ユイの胸に絶望感が一気に押し寄せてきた。わたしはリクを失おうとしてるんだ、たったひとりの特別な人を失おうとしているんだ、という圧倒的なリアルが胸にあふれた。
 リクの目から涙が一筋、こぼれ落ちた。
 なんて優しい笑顔だろう、とユイは思った。
「なあ、ユイ」と震える声でリクは言った。「ひとつ……いや、ふたつお願いがあるんだ。いいか?」
 ユイも泣きながらうなずいた。
「もしもリンコが助かったら……リンコのこと、お前に頼みたいんだ。他に頼れるやつなんていないからさ」
 ユイはうんうんうなずいた。
「それから……」リクは言って言葉を切った。そして数秒間、きつく目を閉じた。
 ユイは待った。
 リクは目を開き、ゆっくり息を吸い、ユイをまっすぐに見て言った。
「俺が発症したら、すぐに殺してくれ」
 ユイは奥歯を噛み締めた。
「つらいこと頼んじまって、本当にごめんな」とリクは言った。「けどさ、俺にとっては、もう……最高の最期だよ。好きな女に殺してもらえるなんてさ。それ以上にいい死に方なんて、ないよ」
 ユイは嗚咽した。嗚咽しながら四つん這いになり、リクに抱きついた。
「リク!」とユイは叫ぶように言った。
「心配いらないよ。何も心配いらない! わたしがちゃんと殺してあげる。苦しませないよ。心臓を撃ち抜いてあげる。だからもういいんだよ。もう楽になっていいんだよ。もうリクは何も苦しまなくていいんだよ。もう全部終わるんだよ。苦しいのはもうおしまい。リクは解放されるんだよ。リクは救われるの。やっと救われるんだよ!」
 ユイの涙がリクの首筋を濡らした。
「リク、愛してる! あなたに会えてわたしは本当に幸せだったよ。ありがとう!」


 リクは最後の抵抗もやめ、目を閉じた。
 全身が猛烈な多幸感に包まれる。怒りや悲しみが全部吹き飛んで、これまで感じたこともない大きな安堵が心の底から噴き出してきた。
 ああ……、とリクは声を出した。
 まぶたの裏には穏やかな光があった。そんなはずはない、ただの幻だ、と考えても光は消えない。まばゆい輝きがリクの瞳を射る。
 真っ暗闇の中に光がぽっかりと浮いているのは、異様かつ荘厳な光景だった。リクは宇宙空間を漂っているような気がした。その体はまっすぐ光へと向かっている。そのまま光に飲み込まれようとしている。リクが進んでいるのか、光のほうが近づいているのか、どちらか分からないし、どちらでもいい。
 リクを包むとろけるような温もりがどんどん強くなる。力が抜け、意識が頭から剥がれ落ちる。何も考えられない。考える、ということからリクは解放されてゆく。
 ――そういうことだったんだ……
 リクは潰えようとする意識の片隅で理解した。
 ――あきらめちまうことが最後の一撃で……最後の救いだったんだ。
 リクはゆっくりと光に突入する。無意識に雄叫びを上げた気がしたが、実際には口は少しも動いていなかった。リクは心の切れっ端の中で獣の咆哮を上げていた。
 官能的なまでの幸福と開放感が、光の中心点からリクへ向けてあふれ出した。
 そしてリクは光に飲み込まれる。輝きを大きな波のようにかぶり、溺れるように事切れる。


 リクはBSを発症した。


 リクの震えが止まった。鼻をすする音も聞こえなくなった。
 ユイはそっとリクから離れた。ベッドを降り、速やかにチェストの裏に回った。隠し戸棚を開け、P226を取り出した。
 リクが顔を上げた。ユイは心臓をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。見慣れたリクの顔は、これも見慣れた発症者の歪み切ったそれに変わっていた。BSを発症したのだから当然だ。もはやリクではない。リクはいなくなった。永遠に消えてなくなった。
 悲しみに浸るより早く、次の瞬間には人格がユシーヌに変わっていた。そのためユイがリクの顔を見たのは一瞬だったが、しかし顔かたちをはっきり頭に焼き付けるには十分な時間だった。ユイは意識の暗闇で、改めてリクを失ったことを痛感した。
 ユシーヌは素早く銃を構えた。だが同時にリクは動いていた。身を低くし、無言で突っ込んできた。とっさにユシーヌは右によけつつ、蹴りを放った。蹴りはリクの太ももにヒットしたが、リクは怯まず、すぐにまたユシーヌに飛びかかる。ユシーヌは左によけた。そこへリクが間髪入れずに拳を出す。さすがにケンカ慣れしている。動きに無駄がない。
 ユシーヌはすんでのところで拳を避けた。拳はユシーヌの顎をかすめ、空を切った。
 隙ができた。ユシーヌは思い切って間合いを詰め、左ストレートを繰り出した。リクの右ほほに直撃する。鈍い音が響いた。頬骨が折れたのだ。
 しかしリクは堪えた。よろけるも倒れず、そのままユシーヌを見ずに蹴りを出した。とっさに膝を曲げ、ガード体勢をとったものの、蹴りはユシーヌの裸の体に当たった。ユシーヌは一瞬眉を上げた。発症者がユシーヌの体に触れることは珍しいのだ。
 リクは止まらず、唸りながらさらに拳を突き出した。
 これは読んでいた。ユシーヌは体をひるがえし、横からリクの手首をつかむと、リク自身の勢いを利用して彼を壁に向かって投げ飛ばした。リクは肩を強打し、膝をついた。だがここでもリクは止まらず、すぐに振り返って、ユシーヌへタックルをしようと身構えた。
 そこにユシーヌの膝蹴りが真正面から入った。小さな穴から空気が漏れるような奇妙な悲鳴を上げ、リクはのけぞった。
 ユシーヌはゆっくり足を下ろす。リクは尻をつき、鼻から大量の血をふき出す。
 それでもなおリクの瞳の光は消えない。青い斑点を散らした目の奥に闘志が燃えている。
 ユシーヌは銃を構えた。銃口をまっすぐリクの眉間に向け、狙いを定めた。
 ――ユシーヌ、待って!
 ユイはユシーヌを止めた。かろうじて聞こえる音から格闘が終わったことを察知したのだ。
 ――お願い、ユシーヌ。最後はわたしにやらせて!
 ユシーヌは銃をリクに向けたまま、眉根を寄せた。
 ――リクに頼まれたの、殺してくれって。わたし約束したの、わたしが殺してあげるって。ユシーヌ、お願い!
 ユシーヌはしばし黙り込み、それからつぶやくように言った。
「分かった」
 頭上に光が差し、ユイは意識の表に戻った。まず腕に重みを覚えて驚いた。P226はこうして突然持たされてみると、信じられないほどに重い鉄の塊だった。
 銃口の先にボロボロのリクがいた。ユシーヌの打撃を顔面に食らい、鼻を折り、頬を腫らせ、血まみれになったリクがいた。だがユイはもはやショックを受けなかった。人格が変わる直前に見た発症者の表情のインパクトの方が、はるかに強かったから。
 むしろケガのために顔面のシワが少なくなった今の方が、発症前のリクらしい。
「リク……」ユイはつぶやいた。
 リクはユイをじっとにらむ。
 引き金を引かなきゃ、と思った。
 だが指が動かない。
 リクなのだ、目の前にいるのは。――そう思ったら、ユイの指は凍りついたように動かなくなった。
 リクがゆっくり立ち上がる。銃への警戒のためか、いきなり飛びかかるようなことはない。緩慢な動きだ。
 ユイは、撃たなきゃ、ともう一度思った。
 思う間にもリクが一歩二歩と間合いを詰めてくる。
 ユイは奥歯を噛み締めて、トリガーにかかる指に力を送り込もうとする。
 しかし動かない。引き金を引けない。
 リクの血だらけの顔が近づく。
 ああ、リクだ、とユイは思う――思ってしまう。
 どんなに血まみれでも、白目を青くしていても、これはリクだ。リク以外の何者でもない。
 リクが腕を伸ばす。指先が銃を過ぎて、ユイの眼前に迫る。ユイは動けない。何もできない。
 リクは脇の下に銃を通した。これでもう、引き金を引いても弾丸は壁に穴をあけるだけだ。
 ユイは「だめ、できない……」とつぶやいた。
 リクの指がユイの首に狙いを定めた。何度も撫でてくれた大きな手。目を閉じれば、その感触を生々しく思い出せる。大好きなリクの手。
 指先が首筋と喉にかかった。ユイは観念した。
 そして世界は暗転した。


 発砲音と同時にユイが目を開けると、そこは見慣れた意識の暗がりだった。
 何が起きたか理解すると、ユイは声を出して泣いた。でもそれは頭の中の出来事なので、外には涙も声も漏れていないはずだ。
 ユシーヌは決して泣いたりしない。


 警察へ通報したのは、発砲音を聞いた階上の住人だった。
 電話で叩き起こしたタクミとともにマンションに急行したシノハラは、所轄の警察官から現場の状況を聞いた。
 ユイは部屋の中央に全裸でへたり込み、銃をにぎって泣いていたそうだ。その目の前には、心臓を撃ち抜かれたキクチ・リクの死体が転がっていた。無施錠の玄関から入った警官に、ユイは泣きながらも落ち着いて身分を明かし、シノハラに連絡を頼んだ。……
 シノハラは眠そうに目をこすっているタクミと並んで、通報者の住人を見た。マンションの前で警官二人に付き添われているのは、七十代半ばくらいの老婆だった。シノハラは前にユイから、上の階の足音がうるさいと相談を受けたことを思い出した。足音の感じからてっきり若い男かと思っていたが、そこにいるのは細身で上品な身なりの、いかにも弱々しい年寄りだった。老婆はすっかり怯えきり、「すぐに引っ越したい、こんなところ怖くてもう住めない」と取り乱しながら喋っている。
 マンションから黒い袋に詰め込まれたキクチ・リクの遺体が運び出される。シノハラは歩み寄り、袋のジッパーを開けて顔を確かめた。鼻は潰れ、唇も血みどろだが、うっすらと微笑を浮かべている。
「BS発症者の死に顔って、安らかだよね」
 タクミが言った。
「そうだな」
 どういうわけか、表情が分からないほど損傷の激しい者を除き、発症者はみな穏やかな顔で死んでいる。理由は不明だ。死者に尋ねるわけにもいかない。
 しかし何となくだがシノハラには分かる気がする。BS患者にとって死とは、究極的には救いに他ならないからだ。
 患者たちには生きることそれ自体が苦痛だ。彼らは現在はもとより、未来にも明るい希望は一切持てず、常に発症の恐怖に晒されながらいつ果てるとも知れない地獄の時を過ごしている。しかもBSは自分だけでなく、近くにいる人間をも危険にさらしてしまう。怯えと不安を四六時中感じながら生きるのは過酷で耐えがたいだろう。逃れる方法はたったひとつ。「明日が来なくなる」ことだ。死んでしまえばもう、明日の有無に心をわずらわされなくていい。
「あなたはもう怯えなくていいんだ」とシノハラはつぶやき、袋のジッパーを上げた。警察官たちが「よし、行こう」と言い、キクチ・リクの遺体を運び去る。
「ユイは?」
 タクミを振り返り、尋ねた。
 タクミは上着のポケットに手を突っ込み、肩を丸めながら一方をながめている。
「だいぶ落ち込んでるね」
 マンションの出口の植え込みに、ユイは腰を下ろしていた。周囲に人はおらず、ひとりぼっちで身体を縮めている。


 雪が降り出した。舞い落ちる雪片が回転灯に照らし出される。風にあおられて揺れながら、地面にぶつかってすぐに消える。決して積もらない雪。空から降下するだけの数時間の命。
 ユイは空を見上げた。年が明ける前は降らなかったから、初雪だ。
 一緒にこの雪を見たかったな、と思ったらまた泣けてくる。
「約束、守れなかった……」
 ユイはつぶやいた。
「できないと思っていた」とユイの中から声がする。
「ごめん」ユイはうつむいた。「結局あなたにさせてしまった」
「気にするな」とユシーヌは答える。「当然のことをしたまでだ。お前を傷つける者はすべて、私が排除する」
「うん……ありがとう」
 ユシーヌはためらいなくリクを撃った。もちろんユイの中にユシーヌを恨む気持ちなどない。
「お前に危険が迫ったら、私が払いのける。それが私の役割――私の生まれた理由だ」
 それが本当の理由なんだ、と今やっと理解した気がして、ユイは目を見開いた。
 ディーラーになれという話を受け入れたのも、断ったらわたしがさらにひどい目に遭わっていたはずだから。昔、手首を切って自殺しようとして、ユシーヌにナイフを捨てられてしまったのも、わたしを生かすため。父を殺したのも言うまでもなく、わたしが生き延びるため。
 ただそれだけなんだ。すごくシンプルだ。
 ユシーヌはわたしを生かそうとしている。そのために出現した。ユシーヌはわたしの中の、生きたいと思う心そのものなんだ。
 わたしが生き延びるには、結局ユシーヌがディーラーとして仕事をこなす他ない。ディーラーをやめたら、わたしに生きる術なんてない。だってわたしには何もないもの。たったひとりだけいた大切な人も、今日失ってしまった。わたしにはユシーヌしかいない。ユシーヌがつらい仕事を請け負ってくれるから、わたしは生きていられる。
 こうして息をして、悲しんで、涙を流していられる。
「つらいなんて思っていない」とユシーヌが言う。「天職だと思っている。心配するな」
 ユイは涙を拭き、もう一度言った。
「ユシーヌ、ありがとう」
 足音がして、ユイは顔を上げた。シノハラがこちらを見下ろしている。
 シノハラは何も言わない。だがいつもの威圧感はない。見慣れた冷徹な無表情でもない。うっすら哀しみと、そしてそこはかとない戸惑いがその顔に浮かんでいる。
 数秒、沈黙して見つめあったのち、シノハラは自信なさげな口調で言った。
「つらかっただろう。……すまない、私はこういう時、なんて言葉をかければいいのか分からないんだ」
「大丈夫です」とユイは微笑んだ。微笑んでから、これがシノハラに見せた生まれて初めての笑顔だと気付いた。
「わたしだって、課長の立場ならなんて言葉をかければいいのか悩みます」
 そしてそれは生まれて初めて示した、共感だった。
 シノハラも小さく笑った。この人の笑顔を見たのは何年ぶりだろう。
「ねえ、厚生局に移動しない?」
 タクミが姉のクーペを指差して言った。
「雪まで降ってきて寒すぎるよ。僕は寒いのが本気で苦手なんだ」
 ユイとシノハラは震えているタクミを見て、また小さく微笑んだ。
 シノハラがくるりと背を向けた。
「行こう」
 ユイもうなずいて、立ち上がった。


 ――


 ユイはシンジュク駅のケイオウ線ホームの壁際に立っている。電車が停まるたびに首を振って、降車する客の顔を確認する。無意味な行為だ。待ち合わせをしている人物の顔を知らないのだから。
 だが探さずにいられない。そもそも改札の外で待てばいいのに、もどかしくてホームに入場してしまった。
 一秒でも早く、会いたかった。それらしい人間が現れるたびに、ユイは緊張に胸を高鳴らせた。
 ユイがホームにやって来てから四本目の電車が停まった。急行だ。大量の人間でぎゅうぎゅう詰めで、見ているだけで憂鬱になる。呆れるほどたくさんの人間がホームになだれ込む。
 ユイは一人の少女に視線を止めた。直感的に、彼女だ、と思った。なぜそう思ったのか自分でも分からない。遠目には特に兄と似て見えたわけでもなかったのに(涼しげな目元の感じやあごのラインは、近くまで来るとよく似ていた)。
 少女はユイと目が合うと、不安げな表情で近づいてきた。
「ヤザワさんでしょうか?」と少女が尋ねた。
「はい」とユイはうなずいた。「キクチ・リンコさんね?」
 その名を口にした途端、哀しみと喜びで胸いっぱいになった。リクが大切に大切に思っていた、最愛の妹。
 リンコは丁寧に頭を下げ、「兄が大変お世話になりました」と言った。
「いいえ、わたしのほうこそとってもお世話になりました」とユイは首を振った。
 リンコは十四歳という年齢よりはるかに大人びて見えた。ユイは彼女の左手を見た。大きなリストバンドを巻いているその下に、白い包帯が見える。
 リンコを年齢以上に大人びさせているもの――。その労苦を思うと心が締め付けられる。
「無茶を言ってごめんね」とユイは言った。
「いいえ、とんでもありません。とてもありがたいです。わたしには兄以外、頼れる人なんていなかったから……」
 数日前にユイは決断をした。リンコを引き取り、一緒に暮らすことにしたのだ。もちろんいろいろと悩み、葛藤した。まず彼女にとって今の環境が、結局は一番適切なのではないか、という迷いだ。学校の寮から出してしまうことは、リンコにとって急激かつ大きな変化だ。かえって悪いことかもしれない。
 ユイはシノハラに相談した。それはとてつもない勇気を要する行動だった。階上の騒音を相談した時のように、ただ冷たく突き放されるだけかもしれない。そうしたらユイとしては早くも八方ふさがりだ。
 ユイは何のアポもなくシノハラを厚生局に訪ねた。事前に連絡するほうが怖かったのだ。いきなり会って直接話すほうがマシに思えた。
 ユイから「リクの妹を引き取りたい」と言われたシノハラは、じっとユイを見つめた。ユイが恐れていたような冷徹な目でなく、心底意外そうな、驚いたような目つきだった。
 ユイはさらに詳しく、リンコの病気についても話した。するとソファーにかけてスポーツ新聞を広げていたタクミが言った。
「もし妹さん本人が、ユイちゃんと一緒に暮らしてもいいって言うなら、構わないんじゃない?」
 シノハラとユイは、タクミを見た。
「ユイちゃんがきちんとその子について責任を持てるなら、ね。その子にとっても、信頼できる人が近くにいたほうが良いと思うし」
「お願いします、課長」
 ユイは改めて、頭を下げた。
「リンコさんにはリク以外に、頼れる人はいませんでした。わたしじゃリクの代わりには役不足かもしれないけれど、彼女の助けに少しでもなりたいんです」
「ユイ」シノハラは小さく息を吐き、言った。「お前は、その少女の兄を殺した」
 ユイは頭を上げ、背筋を伸ばした。
「はい」
「殺させたのは私だ。その意味でお前に責任はない」
 シノハラが付け加えた。ユイはしばたたいた。リクを「処理」して以来、シノハラは少し変わった気がする。
 シノハラは続けた。
「しかしキクチの妹にとっては、そんなことは関係ないだろう。お前は兄を撃った人間だ。彼女にすべてをきちんと話すことができるか?」
 シノハラの問いが突き刺さる。ユイは一瞬ためらってから、静かにうなずいた。
「話します」ユイはシノハラから目を離さず答えた。「わたしは話さなきゃいけません」
「その時、お前は強く恨まれるかもしれない」とシノハラは続けた。「それでも、お前は彼女のために尽くすことができるのか?」
「できます」
「分かった」シノハラは机の上の書類に目を戻した。「好きにしろ」


 ユイが出て行った後、シノハラは机から目を上げずにタクミに言った。
「お前の高校時代の友人に、不動産屋に勤務してる人間がいたな?」
「うん、いるよ」タクミもスポーツ新聞から目を離さず答えた。
「手頃な2Kのマンションを探してもらえ」
 タクミは「え?」と聞き返し、新聞の横から顔を出した。
「なんの話?」
「二人で住むなら今の1Kじゃ手狭だろ」
 いかにも面倒くさそうにシノハラは言う。
 タクミはしばたたいた。姉の見慣れたぶっきらぼうな横顔が、照れたように赤くなるのを目を丸くして見つめる。
「うん、分かった」タクミは勢いよく立ち上がった。「さっそく相談に行ってくる」
「今すぐにか? 別に急ぎじゃないぞ」
 シノハラは戸惑った様子で弟を見る。タクミはコートをはおり、電話をポケットに突っ込んで本当に出かける気だ。
「時期も時期だし、すぐ動いた方がいいよ」タクミは微笑んで言った。「いくら友達でも、良い物件がなくちゃ便宜を図ってもらえないからね」
 シノハラは鼻から息を抜き、所在無げに机の上を見渡した。それから急に思い出したように書物仕事に戻った。
「暇な男だな」
 さえない嫌味にもタクミは表情を変えない。うれしそうにニコニコしている。
「そう言う姉さんは忙しそうだね」
 タクミは姉の後ろで立ち止まり、書類をのぞき込んだ。
「溜まってる申請書類の処理、お疲れ様。ところでその遺族補償金の額面、ひとつゼロが多くない?」
 書類の名前欄には「キクチ・リンコ」と印字してある。
「バカなことを言うな」とシノハラは、タクミを振り返りもせずに返した。「わたしがそんなつまらない間違い、するはずないだろう」
 
 シノハラの許しを得た数日後、ユイは退院したリンコに電話した。番号はリクのスマホに残されていた。
 時々声を震わせながら、ユイは話すべきことを話した。罵倒されることも覚悟していた。だが、リンコは取り乱さなかった。それどころか彼女は電話口でユイを慰めさえした。
 リンコは言った。
「兄が近いうちに発症して、死んでしまうことは覚悟していました。とてもつらいことだけれど、でも兄は死ぬことでやっと楽になれたんです。兄自身も、死ぬこと以外、自分には救いがないと分かっていたはずです」
 ユイはリンコのあまりにしっかりとした口調に驚きながら、ただうなずいた。
 リンコは続けた。「一番つらいのはユイさんだと思います。わたしも兄がいなくなってとても悲しいけれど、でもユイさんの悲しみにはきっと及びません。ユイさんのつらさを思うと、本当になんて言えばいいのか……分かりません。わたしには、ユイさんがしたことの苦しみを想像することもできない。兄のために苦しい思いをさせてしまって、本当にごめんなさい」
 そのように言われて、ユイのほうが我慢できなくなり激しく泣いてしまった。リンコの信じがたい優しさに、ユイの心は完全に決壊してしまった。
 涙の発作が落ち着くと、さすがに少し決まりが悪くてユイは何度もリンコに謝った。
 それから「リンコの身元を引き受けたい」という話をすると、リンコはそちらの話にこそ驚いていた。
「マジですか!?」と、突然年齢相応の言い方になりながら、今度はリンコが泣いた。涙声で「よろしくお願いします。とてもうれしい。ありがたいです」と言った。……


 二人は無言で見つめ合い、それからどちらともなく笑った。
「いざ会うと、なんの話をすればいいのか分からなくなっちゃった」とユイは言った。
「わたしもです」とリンコも微笑む。
 笑うときの目がリクによく似ていて、ユイはドキりとした。
「リンコさん、改めて本当にごめんなさい。わたしはあなたのお兄さんに、決して許されないことをした。その上、彼のためになるようなことはほとんど何もしてあげられなかった」
 ユイは神妙な気持ちで頭を下げる。
「頭を上げてください」
 リンコの声はどこまでも優しい。
「それは間違いです。ユイさんは誰より兄のためになることをしてくれたんです。電話で兄はよく言ってました。「ユイのおかげで、毎日が楽しくなった」「ユイのおかげで自分の居場所があるって思えた」って、しょっちゅうのろけてました。あんなに幸せそうな兄の声、わたしはもう何年も聞いていなかったんです。ありがとうございました。ユイさんのおかげで、兄は最期の時まで幸せだったと思います。兄には幸福な居場所があったんです」
 ユイはまた泣きそうになった。あふれそうになる涙をぐっとこらえて、ユイはリンコに歩み寄り、抱きしめた。
「あなたにもちゃんと居場所があるわ」とユイは言った。「わたしがいる。これからはいつだって、わたしがいる。わたしがついてる。何があろうと、わたしはリンコさんの味方よ」
 リンコは、リクがいつもしてくれていたようにユイの後ろ頭を撫でてくれた。まるでリクが乗り移ったかのように、優しく――。
 やがて体を離した二人は、本当の姉妹のように並んでホームを歩き始めた。(了)

無慈悲症候群(ブルタリティ・シンドローム)

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2017-10-01

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