新郎のための薬

  茶色の薬瓶は、新郎用のドレッサーの前で静かに開けられるのを待っていた。俺のヘアメイクをさして時間もかけずに終えたスタッフは、式場担当者に連絡を入れ、そそくさと引き上げていく。
 薄いドアを一枚隔てた隣室では、睦美がメイクアップの真っ最中のはずだ。ごくりと唾を飲み込み、俺は薬瓶に手を伸ばす。
 琥珀色のガラスに閉じ込められた、液体の揺らめき。
 ()じ込まれているコルク栓に指をかけたそのとき、ノックもなしに廊下側のドアが開いた。
「じゃーん! サプライズカメラでーす! 直隆、おめでとう! 今の心境をひとこと」
 旧友の慎二と広臣が、ハンディカムとレフ盤を手に雪崩れ込んでくる。
 慌てて、薬瓶をもとの場所へ戻す。
「ノックくらいしろよ、サプライズだからって」
「いいじゃん、どうせ暇だろ。俺の時もそうだったよ。ひとりぼっちだと、緊張するよな、本番までの時間」
 広臣は、頭を心持ち反らせながら、ぐるりと室内を撮影する。
 つい先ほども、姉夫婦から同様のサプライズ攻撃を受けた俺は、
「むしろ、ひとりになりてーんだよ」
 と、二人を張り手で追い出そうと試みる。
「なんだよ、一生の思い出になるだろー」
 慎二がぶーぶー言いながら、するりと俺の手をかわし、背後で、おおっ、と声をあげた。
「これ、なんだ? この小瓶」
 げっ、見つかった? なんて目ざといんだ。
 なんとか、ごまかさないと、睦美にばれたら、元も子もない。
「おまえら。あのな、本当に頼むから、今すぐ出てってくれ」
「ええ? なんだよ、それ。栄養ドリンクか?」
「なんでもいいだろ」
「あ、なるほど、元気になるやつね。新婚初夜だもんなー、ひっひっひ」
「下品な笑い声をたてるな」
 自棄になった俺は、瓶の栓を開ける。想像よりも小さく、しかし小気味のよいコルクの音。
「直隆、おまえ、今飲むの?!」
「おいおい、ちょっとまだ早いんじゃないのか」
 あわあわと駆け寄る二人を尻目に、中身を干した。
 ぐびっ。おえっ。どろりと粘り気のある液体が、唾液と混じりあう。
「おおえええ?!」
 
 これ、ホントに《あれ》に効くのか?
 まずい。というか、舌がしびれるほど、渋い。
 喉をおさえたまま、床に膝をつく。
 まともな薬とは思えない。
 俺、あの薬屋にまさか……
 だまされたのか?!

 ちょうど一週間前のことだ。池袋の居酒屋で会計を済ませて外に出ると、霧のように細かな雨が降っていた。
「じゃーな、次会うときは結婚式だな」
 終電が近い、という広臣が折り畳み傘を広げ、さっさと帰っていった。傘の用意がない俺は、駅のタクシー乗り場を目指し、急ぎ足で歩き出す。
 ところが、歩けど歩けど、駅につかない。
 独身最後の飲み会、ということで、酒好き連中に連れ回され、さっきの店で確か、4軒目だったと思う。ただでさえ複雑に広がる池袋の歓楽街の、裏路地まで自分が把握しているはずもない。それなのに適当に歩き出してしまったのがいけなかった。
(迷子じゃねーか)
 辺りを見回しても、似たようなネオンサインの並ぶ雑居ビルばかりだ。
 スマホの電源は、すでに落ちている。余興の段取りを、動画で何度も確認したせいだ。見覚えのある建物も、目に入らない。
 いや、だいじょうぶだ。
 ていうか、飲み直そう。
 そんで、そこの店で、駅までの道を聞けばいい。
「あははー、俺、飲めば飲むほど、ナイスだなあ」
 酒が入ると、俺はポジティブになる。周囲を見渡すと、人がやっとすれ違うほどの路地の中に、ぽうっとオレンジ色の明かりがやさしく灯る店があった。霧雨に濡れ、全身が冷え切っていた俺は、暖かそうなその光に誘われるように引き戸を開けた。古民家風の居酒屋か。がたがたと鳴る戸の中に、座面の丸い小さなスツールが2、3脚、土間に置かれていた。
「すみません、まだ、やってますか?」
 店の奥に向かって声をかけたところで、妙な香りに気が付いた。粉っぽいような……薬の匂い。土間のスツールに腰かけて、もうひとつ奇妙に思う。
「お品書き……」
 メニューの類が一切ない。店内を見渡すと、ガラスのショーケースと、壁一面を埋め尽くす小さな引き出し。
「いらっしゃいませ」
 不意に、透き通った女の声が響いた。ショーケースの奥、ビーズののれんで仕切られた部屋がある。ぱらぱらと、ビーズの音を軽やかに立てながら、すらりと背の高い女性が顔をのぞかせた。27、8歳くらいだろうか。色白で、ショートカットの前髪を金色のピンで留めている。
 その姿に、なぜだかほっとして、力が抜けた。ふにゃあ、と猫のように背中が丸くなる。
「あの、ごめんなさい、お酒、ないっすよね。そういうお店じゃないんれすよね」
「うちは、薬屋です」
 と、彼女は壁のポスターを手のひらで示した。ほっぺたの赤い少年の絵の下に、大きくレトロな角ばった字体で、
「メ、ア、ド、ノ? メアド?」
「のどあめ、です」
 ああ、昔は横書きを逆から読むんだったっけ。
「うちは、高いですよ」
「え?」
「薬、うちのは、一番安いのでも、1万円です」
 にっこりと女性は首を傾げ、板の間からサンダルに履き替え、土間に下りてきた。レトロな店構えによく似合う、古風なブラウスとスカート姿だ。
 それにしても、薬で一万円ってことは……
「薬は薬でも、まさか、『ダメ、絶対』なやつ……ですか?」
 彼女は堅気に見えるけど、あのビーズのれんの奥にはヤバい連中が潜んでいるのか? だとしたら、とんでもないところに来てしまった。すぐに、逃げなければ。
 気持ちは焦るが、足がすくんで立ち上がることができない。
「ダメ、ではないですよ」
 くすっと、彼女は笑みをこぼす。口元を隠す仕草が、清楚で可愛い。可愛いが、ますます油断できない、という気持ちにさせる。
「いや、でも、1万円って……僕、ここを居酒屋と間違えただけなんで。もうすぐ、いえ、いますぐ、失礼します」
 すっと、乾いた手拭いが目の前に差し出される。
「雨、もう少しで止みますよ。さっき、ラジオで言ってました」
「はあ」
「ちょうど、お茶を入れたところだったんです。そのままじゃ、ほんとに風邪薬が必要になっちゃいますよ。ちょっと待っててくださいね」
 止める暇もなく奥へ消え、ほどなく湯気の立つ湯飲みをお盆に載せて運んできた。
 ふうふうと息をかけて、彼女が自分の分を口にする。
「少し熱いかもしれませんが、普通のほうじ茶ですから」
 そう言われると、飲まないと悪いような気がしてくる。
 恐る恐る白磁の茶碗の中身をすすると、仄かに甘味のある、優しい味がした。
「あったまる……」
 胃袋のなかに、熱い液体が染み渡り、血の巡りがよくなるのがわかった。頬や手足が、ぽっと熱を帯びる。深く息をつくと、また、薬の匂いがした。
「お客さんは、運がいいんですよ。もう閉めてしまうとこでしたから」
 女性店員は今度は歯を見せて、無邪気に笑った。
「ところで、何かお望みはないんですか?」
 彼女は、茶碗をまるで小鳥でも抱くかのように、両手で包みこむ。
「望み?」
「うちはオーダーメイドの薬屋なんです。お客様の望みに合わせて、特別なものをお作りしています」
「特別……? あ、味とかってこと?」
「いいえ。効能が特別なんです。少し、試供品をお持ちしましょうか」
 女性はまたしても、俊敏な動きで板の間にあがる。数十はあるだろう引き出しから、迷う様子もなく数点の薬品らしきものを取り出した。
「例えば、こちらは、銅像になるための薬です」
 油紙、というのだろうか。表面がてかてかした茶色の紙包みを手のひらで開いて見せる。中には、直径5mmほどの赤紫の丸薬がひと粒、ちょこん載っている。
「銅像?」
 思わず眉間に皺が寄る。薬で銅像になるって、一体どういう意味なんだ。頭の回転が良くなって、何か世の中に貢献し、銅像が立つとでもいうのだろうか。いくら酔っぱらっていても、聞き逃せない。
「ご発注された方は、どうしても、銅像のように身動きせずにいる必要があったのです。こちらを飲むと、1時間、姿勢を微動だにできなくなります」
「まばたきは?」
「1分に1回程度まで減らせます」
 それがどのくらいすごいのか、ぴんと来ない俺に、普通は20回くらいです、と彼女が言い添えた。
「へえ」
 と唸り、じゃあこれは、と、となりの、赤い和紙でキャンディのように包まれたものに目が行く。
「それは、生き物を集めることができる薬です」
 包みを開くと、水晶のように透明な丸い飴が現れた。
「生き物を、集めるって……羊飼いみたいな?」
「ちょっと違います。そこらじゅうの虫から獣から、すべてが周囲に集まる呼び声を出せるようになります」
「人間も?」
「人間も、です。依頼主は、どうやら山中で使われたようですが」
 ううむ。信じていいのか、まったく判断が下せない。
 ほかにも、薄いパラフィン紙に包まれた紫色の粉薬や、血のりのように赤い膏薬など、なかなかに怪しいラインナップが並ぶ。
「取扱われている薬の傾向は、わかりました。でも、俺にはそんな人智を超えた望みはありませんから」
 薬を載せた彼女の手の平を押しやる。
「そんなはずはありません」
 断わられても、一向に動じず、彼女は薬たちを引き出しへ戻しながら、
「ここへたどりついた方は、必ず、望みを抱えています。自分ではどうすることもできない、差し迫った望みです。最近、何かを諦めたこと、ありませんか?」
 穏やかな声だったが、つられて考え込まずにいられなかった。諦めたこと……それは、確かにあったから。
「今度、結婚するんですけど」
 つい、口が動いていた。彼女は、振り返り、こちらに戻ってくる。
「相手の女性、結構、大きいんです。身長は俺より高くて、しかも、ぽっちゃりしてて……体重は、80キロ近いと思います。俺は、彼女が太っていることは、まったく気にしていないんです。顔はかわいいし、汗かきでもないし」
 ふわり、とスカートをひざ下にまとめながら、女性店員がスツールに座った。
「でも、この前、結婚式の前撮りをしたんです。和装だけ。待合の部屋に、写真のサンプルっていうのがあって、アルバムみたいになってるんです。このコースならこれだけの種類が入ります、という見本ですね。それで……」
 その中に、洋装、つまりドレス姿の写真もあった。何気なくページをめくっていた彼女の手があるページで凍りつくように止まった。
 タキシードを着た新郎と、純白のドレスの花嫁が、教会の中から外へ出ていくシーンだった。赤い絨毯の敷かれた階段を、降りていく二人。ゲストが撒いたのだろう、ピンクの薔薇の花びらが一面に散っている。
 でも、睦美が心なしか潤んだ瞳で見ていたのは、教会でも、花びらでもなく、花嫁の姿だった。写真の中の花嫁は、軽々と新郎に抱きあげられていたのだ。
「姫抱っこ、というヤツです」
「ああ、倒れた白雪姫を、王子が抱きあげる感じですね」
 女性店員は、両手を前に差し出す仕草をした。背中と膝の下を両手で支え、横ざまに抱き上げるあのポーズだ。
「やっぱり、憧れますか?」
「お姫様になりたい女性は、多いでしょうね。とくに、結婚式となると、一生の記念です。肌質改善や、ダイエット用のお薬を注文に来られる方も多いですから」
「ですよね。だから、俺、筋トレ始めたんです。80キロの睦美を抱き上げるために、ジムに通って、トレーナーにメニュー組んでもらったんですよ。ただ、もう間に合わなさそうで……」
 ああ、と、見透かすように彼女は微笑した。
「あ、ごめんなさい。あまり腕っぷしは強くなさそうですもんね」
 無理もない。スレンダー、といえば聞こえはいいが、俺の体重は時に50キロを下回る。その腕力は推して知るべし。80キロはおろか、5キロの鉄アレイを1分持ち上げるのだって、上腕筋が悲鳴を上げる。
「情けないですよね」
 話していて恥ずかしくなり、頭を掻いた。
 こんなことで挫折して、本当に睦美を幸せにできるのだろうか? そんなに気にするくらいなら、いっそ、世界道場破りの旅に出て、帰ってくるまで挙式を待ってもらうくらいの本気を見せればいいんじゃないか?
 もし友達が同じことで悩んでいたら、きっとそう発破をかけただろう。
「奥さまは、気にされないと思いますよ。現に、こんなに旦那様から愛されているじゃないですか。ゆっくりトレーニングを積んで、いつかお姫様だっこをしてあげれば、それでいいんじゃないですか?」
 俺の落胆ぶりに困惑したのか、うーん、と小さくうなりながら、女性店員が首を捻る。
 不思議だ。なぜこの女性店員に、こんなにペラペラと個人的な悩みを打ち明けているんだろう。
 まるで、羞恥心が麻痺してしまったみたいだ。
 脳内のどこかで「もうやめろ」と誰かが囁いている。その一方で、挙式とは無関係な誰かに、悩みを聞いてほしくもあった。
 そうだ……このことは誰にも言えなかった。ジムのトレーナーにだって、「全長170センチ、80キロくらいのものを持ち上げたい」としか希望を伝えていなかった。大好きな睦美が標準値から大きくそれた肥満体だということは事実だとしても、他人から「重たい」だの「太ってる」だのという言葉を聞くのは、胸が痛むからだった。
 この薬屋の店員は、なぜだか、身体的な特徴を悪しざまに指摘することはないように思えた。きれいな言葉づかいと、見ず知らずの俺に対する、おせっかいな行動。その奥に、人の心に寄り添う、繊細な心配りを感じられたからかもしれない。
 だから、誘い込まれるように、心の内をさらしてしまう気がした。
「……いつか、と言っていたら、いつになるかわからないし。それに、彼女の兄貴の目もあるんです」
 奥さまにはお兄さんがいらっしゃるんですね、と彼女は相槌を打つ。
「ええ。彼女と同じく大柄で、柔道をやっています。一度、腕相撲をさせられたんですが、僕なんてひと捻りでした。瞬殺ですよ。正直、僕のことをたよりなく思っているらしくて、ことあるごとに、『何かあったら俺に言えよ』ってアピールがすごいんです。早い話が、俺は男として認められてないんです」
「男の沽券に関わる、というやつですね」
「コケン?」
「男としての価値が問われている、といえばよいでしょうか。姫だっこを成功させるのは、奥様のためでもあり、ご自身のプライドのためでもある、というか」
 彼女は窓の外の雨の様子を見透かすように、遠くに焦点を合わせ、唇を軽くひき結んだ。なにか、考えているようだ。しばらく、その表情で押し黙ったかと思うと、ぽつりとつぶやく。
「できなくは、ないか」
 やたらと低く、老人のそれのように重々しく声が響いた。これまでの可愛らしさとのギャップに、鳥肌が立つ。仕事人の顔を垣間見た……あえて表現するなら、そんな感じだ。
「大体ですが、3万円」
「え?」
「ご予算、3万円でお作りします。姫だっこができるようになる薬」
 一転、憑き物がとれたように、晴れやかな笑顔をこちらに向けて、彼女が言った。
「さんまんえん?」
「ええ、どうします?」
 高いに決まってる。
 式場に前金を振り込んだせいで、俺の口座はほぼ素寒貧(すかんぴん)だ。
 いや、でも、ジムの料金も3万くらいだった。それを思えば、同額で体力と時間をかけても達成できなかったことが、薬を飲むだけで叶うのだ。
「待った。そんな薬が本当にあったら、スポーツ選手なんかがバンバン使って大変なことになるだろ? ドーピングだ」
 ぼったくりなら、これで怯むはず。酔っぱらっていても、見事な切り替えしだ。
 さすが、俺。
「結婚式にドーピング検査はありません」
「そりゃそうだけど」
「中毒性のある薬物も使いません」
 すっと音もなく立ち上がり、俺を見下ろす。
「人間の一生って、とっても短いんですよ。本当に、一瞬で終わってしまう。その中で、誰かのために祈ったり、願ったり。滑稽ですよね」
 微かな苦笑。彼女みたいに若い女性が人生短いだなんて……身内と死別でもしたんだろうか。思いのほか、この齢までに苦労している子なのかもしれない。
「私は、人生を変える薬を作ることができます。あとは、あなた次第です」
「俺次第って……そんなこと言われても、マジで持ち合わせもないし」
「では、こういうのは、どうですか。三万円の価値があるものを、私に提供してください」
 三本の指を突き出されても答えようがない。えっ、まさか、肉体労働ってことか?
 戸惑う俺の顔を満足げに見下ろし、彼女は続けた。
「挙式と披露宴に、招待していただけませんか」
「きょ、挙式? 俺と?」
 あまりに唐突で、一瞬、花嫁姿の彼女が脳裏に浮かんでしまった。ちがうちがう。
 結婚してくださいとか、そういうんじゃない。
「ゲストとして呼んでいただけませんか? 薬が私からのご祝儀、ということになります。これもご縁です。お客さんにとっても、メリットですよ。私が出席するということは、薬の効果を保証するということにもなるんです。その場に立ち会って、失敗したら、お代はいただきません」
 理論的にはあっているような……アルコールに浸った頭では、内容を精査するのに時間がかかる。
「でも、なんでまた。薬屋さんのほうは、現金がいいんじゃないですか」
 披露宴でフルコースのディナーが出たとして、1食分の食費にしかならない。売り上げとして打倒なのだろうか。
「3万円の現金で、結婚式の招待状は買えません。私、結婚式って、出席したことないんです。この先も当分、招待状が来る予定はないですし。だから、行ってみたいんです。盛装して、フルコースのお料理を、華やかな空気のなかで楽しみたいんです」
 20代の女性が、結婚式に出席したことがなく、その席に憧れるのはなんとなくわかる気がした。俺の年下の従兄妹も、ドレスや靴を買い、当日を楽しみにしているらしい。
「式場のほうに聞いてみないと」
 つい、口からそんな言葉が零れていた。招待状も席次表も間に合わないが、席だけなら用意できるだろう。
「よろしくお願いします」
 彼女が深々と頭を下げる。
「あ、いや、あの……はい」
「では、出席できるようになりましたら、店の電話にご連絡ください」
 彼女が店の入り口にある、黒電話を指さす。アンティークにこだわっているのだろう、ダイヤル式だ。その電話の前に、名刺サイズのカードが置かれている。女性店員は立ち上がり、カードを僕に一枚手渡した。
『日月薬局 03-××××ー××××』
 そっけなく、店名と電話番号だけが、桃色の紙に印字されている。
「あの、まだ、注文すると決めたわけじゃ」
「ええ。お電話を持ちまして、ご契約とさせていただきます。薬と納品書は、式場にお届けします」
「じゃあ、注文しないと決めたら、電話しませんので」
 突然、ぐらっと尻の下のスツールが揺れた。慌てて立ち上がると、スツールに混じって巨大な亀の甲羅がひとつ、揺れ動いている。4本の太い足が現れたかと思うと、黒い瞳のついた、小さな頭が、ゆっくりとこちらを向いた。
「この椅子、亀、なんですけど」
「ごめんなさい、そんなとこにいたなんて……リクガメの留吉です。雨音が好きだから、こっちに時々来ちゃうんです」
 女性店員が、ほらおいで、と手を叩くと、嬉しそうにつぶらな瞳で彼女を見上げた。
「変なお店ですね」
 もう、理解が追いつかない。
 そうか、これ、夢なのか。橙色の照明に照らし出された、板張りの壁も、ガラスのショウケースも、ショートカットの女性店員も、亀も全部、夢。
 そう思ったあたりから、記憶に靄がかかり、気が付くと俺は自分の部屋のベッドに倒れていた。
 あっ、と声をあげて飛び起きる。
 朝の光の中で、あわててジャケットのポケットを探ると、ちゃんと桃色のショップカードとタクシーの領収書が入っていた。
 夢じゃなかったのか。
 深いため息とともに、俺は再び布団の上に倒れこんだのだった。
 
「直隆、おい、大丈夫か」
 駆け寄る友人ふたりに抱きかかえられ、椅子に座らせてもらう。胃袋から食道、喉と口内全域に渋さが広がり、
「みず、みず」
 とあえぐつもりが、
「りじゅ、りじゅ!」
 になってしまったが、そこは旧知の友人ふたりである。
「永訣の朝か」
「宮沢賢治の妹か」
 と突っ込みながら、すぐに廊下の外のスタッフに水を持ってこさせた。
 水差しひとつまるまる飲み終えるとようやく、渋さが収まってきた。
「ああ……まずかった……」
 何か口直しに甘いものを口にしたかった。慎二と広臣は、ラベルのない瓶をかわるがわる調べ、匂いをかいだりしていた。
「強壮剤でそんなまずいのあんのかよ」
「顔色ひどいぞ、ちょっと休めよ。もうすぐ受付始まるし、俺たち行くからな」
 二人がいなくなると、俺は部屋の隅にあるコーヒーポットの横から、スティックシュガーを見つけだし、口に注ぎ込む。舌がほぼ麻痺してしまったのか、甘さがほとんど感じられない。
 次に俺がやるべきこと。
 それは、何か重いものを持ち上げて、本当に薬の効果が現れるか、試すことだ。
「椅子、じゃ軽すぎるな……」
 ドレッサーは備え付けだし、部屋の中には動かせるものがあまりない。建物の中で何かないか、探してみよう、と部屋のドアを開けると、
「新郎さま、よろしいですか」
 式場スタッフとカメラマンに鉢合わせした。
「このあとですが、ご新婦さまとご一緒にお写真をお撮りしまして、式場へご案内いたします」
「あの、ちょっとだけ待ってもらえませんか」
「何か、ございましたか?」
 スタッフの目の奥が光った。顔は笑っているが、一分たりとも式進行を遅らすまいという緊張・情熱・使命感が炎熱のごとく渦巻いているのがわかる。そもそも俺には、80キロの物体がこの建物のどこにあるのか見当もつかない。
「いえ、なんでもないです」
 では、こちらへどうぞ、と新婦の控室に通される。ふんわりと薔薇の香りが漂う中、まぶしいほど白いウエディングドレスをまとった睦美が、こちらを向いた。
 ふくよかな体を覆うドレスは、すべすべとした光沢のあるシルク。色白だが血色のいい睦美の、ピンクがかった肌によく似合っている。
「いかがですか、ご新郎さま」
 着付けとメイクを担当した女性スタッフが、得意げに尋ねる。
「とってもきれいだよ」
「なおくんも、いい感じだよ」
 睦美がにっこりと人のよさそうな笑顔を見せる。普段からキレイに化粧をする方だが、今日は睫毛や口紅を濃いめにメイクし、より華やかだ。高級猫のような品のある顔立ちが、キラキラと輝くアクセサリーに引き立てられ、お姫様、というよりは、女王様、の風格が漂う。
 はっ、見とれている場合じゃない。
 今、この場で練習させてもらうか? でも、もし失敗したら、せっかくの幸せムードに水を差すことになる。
「じゃあ、こちらを背景にお撮りしますよ」
 俺の胸中など知る由もなく、撮影は進んでいく。
「はい、お顔をもう少しあげて、さげて、右に傾けて、ひじをあげて、あげすぎです、今度はお二人、見つめあいます」
 細かな指示に沿い、脇腹の筋肉を震わせながら、考える。
 どこか、どこかで試す機会はないだろうか?
「なおくん、汗すごいよ」
 睦美がハンカチを差し出してくれた。
「深呼吸して、ね」
「うん、緊張してるみたいだ……ありがとう」
 汗をぬぐうと、今度は下半身にもやもやとした違和感を覚えた。
 トイレに行きたい。さっき飲み干した水差しの水が、体の内側から放出を願っている。
「では、式場へご移動となります」
「あの、ごめんなさい、ちょっと待っててください」
 スタッフを振り切り、廊下へ飛び出す。確か、親族控室を通り過ぎたあたりに……。きょろきょろしながら走っていると、曲がり角から歩いてきた男性にぶつかった。
「あっすみません」
 見上げるほど大きな体。肩幅の広いスーツに紫のネクタイ。睦美の兄さんだ。
「なんだ、新郎が何やってんだ。今日はよろしくな」
 妹の晴れ姿を楽しみにしているのか、いつもよりテンション高く、俺の背中をたたく。うっ、限界が近づいてきた。
 でも待てよ。この人に会えたのは、千載一遇のチャンスなのでは。
「お義兄さん」
「ん?」
「お願いがあるんですが」
「なんだ、改まって。もう時間ないだろ」
「いえ、今じゃなきゃダメなんです! お義兄さん、ちょっと、よろしいですか?」
 説明している暇はない。時間的にも、膀胱的にもギリギリだ。俺は、巨体に挑むように体をかがめた。きょとんとしている相手に向かい、一気に距離を詰める。ずんっと胸に相手の体が当たる。ぐん!と足をすくい、よろけた胴体を掬うようにキャッチする。すかさず、腰に力を入れ、踏ん張る。普段の俺なら、しりもちをついて、お義兄さんの体ごと後ろに転げる体勢だ。
「てめえっ」
 抵抗しようとする彼に構わず、
「ぬおおおお」
 全身の力を込める。自分の両腕が、鋼のように固くなる。背中から腰、そして足へと自然に重力が流れ、靴の裏が絨毯にメリメリと沈み込む。ふわり、と一瞬浮き上がったお義兄さんの背中とひざの裏を、がしっと腕が受け止めた。
「お前……」
「お義兄さん、ありがとうございました」
 髭の剃り跡が見えるほど間近に迫る顔に、そう囁き、そっと絨毯におろす。やった、成功だ! にやにや笑いがこみ上げる俺を、怪訝な顔でお義兄さんが見下ろしている。
「なおくん?」
 聞き覚えのある声が廊下の向こうから、響いた。まずい、睦美だ。
「ちょっとトイレに行ってきます」
 お兄さんに言い残して俺は用を足しにその場を離れた。再び廊下に戻ると、心配顔の睦美とスタッフに取り囲まれ、体調は大丈夫かと念押しされる。
「なんだか変だよ、いつもと違うよ、なおくん」
 つやつやとグロスの光る唇を尖らせ、睦美が俺の顔を覗き込む。
「それは……緊張してるんだよ」
「お兄ちゃんも変だったし」
「妹の結婚が、切ないんじゃないかな」
「お二人とも、少々お急ぎくださいね」
 スタッフがインカムで何かやりとりをしながら、にっこりと笑った。相変わらず凄味のある眼力にビビりながら式場入口へと移動する。
 さらさらと、睦美のドレスのベールが引きずられる音が、耳に心地いい。入口に到着すると、簡単な段取り確認のあと、新郎の入場となった。
 荘厳なチャペルにパイプオルガンの音楽が鳴り響く。
 ゲストの視線にさらされながら、移動し、睦美の入場を待つ。俺のタキシード姿に、おめでとう、という歓声に混じり、冷やかすような笑い声があがる。奥の方のスタッフが、口でメガホンをつくり、こちらに何か言おうとしている。視線を合わせると、指で下を何度も示すので、頷いて祭壇に続く階段の下で待った。
(心配性だな)
 睦美が入場し、腕を組んで司祭の前まで、階段を上る段取りだ。ちゃんとここで待ってるじゃないか。
 睦美は父親の腕をとり、しずしずと、歩くシフォンケーキのようにバージンロードを進んできた。
 指輪の交換、誓いのキスと、式は進む。
 拍手とため息、親族席では、睦美の兄が男泣きに泣いている。
 カメラマンは、カメラを何度も構えなおして写真を撮っている。
 薬屋の店員さんはどこに座っているんだろう。
 睦美を姫だっこするのは、この階段を降りるときと決めていた。しっかり見ていてほしい。そして心おきなく、ディナーを楽しんでほしい。
 俺の心は、晴れやかな自信と、すべての人に対する感謝に満ち溢れていた。それもこれも、全部、睦美のおかげだ。
「それでは、新郎新婦が退場します、盛大な拍手でお送りください」
 司会の声が歌うように響くと、俺は睦美を抱きしめた。
「なおくん?」
 おおっ、と会場がどよめく。ごくり、と唾をのみこみ、柔らかなドレスを巻き込むように、睦美の体を抱き上げた。
 せえの、と全身の力を腕に込める。
 ふわん。
 あ、あれ?
 さっきのお兄さんに比べたら、まるで羽のように軽い。そして、腰がめちゃくちゃ細くなっている。いつもなら、たぷんと波打つ贅肉がない。
 睦美もダイエット、頑張ったんだ。
 俺が気付かないうちに、甘いものを我慢したり、運動したり、自分を磨いたんだ。
 そう思ったら、薬に頼った自分の情けなさやら、晴れの日に向けて努力する睦美の姿やらが胸の中で交錯し、ぶわっと涙がこみ上げてきた。
 一段一段、階段を下りる。
 涙は止まらず、睦美のドレスの上にぽとぽとと零れ落ちる。俺の腕に体を預ける睦美も、くすんと鼻をならした。
 いい夫婦になろう。
 自然と胸の中から、言葉が湧きあがってきた。
 自分のためでなく、相手のために、努力できる夫婦に。
 拍手と歓声のなか、睦美を抱いたまま、ゆっくりと歩いていく。
「おめでとう、直隆!」
「幸せになれよ!」
「ありがとう、ありがとう」
 もうすでに俺は幸せだった。この世界のすべてに、ありがとうを言ってまわりたい気持ちだ。式場の一番後ろのほうに、慎二と広臣がいた。見慣れたバカ面も、笑顔のせいか輝いて見える。
「やったじゃん、直隆!」
「ありがとう」
「おめでとう、チャック全開!」
「ありが……」 
 ……チャック? 
 全開?
 もしかして、トイレに行ったときから?!
 人生には3つの坂があります、と誰かが遠くで言ったような気がした。

 トラブルはあったものの、眼力鋭いスタッフのおかげで、披露宴が無事にスタートする。
 薬のお礼を言おうと思ったのだけれど、用意した席に、薬屋の彼女の姿はなかった。
 お色直しのときに式場スタッフに尋ねると、食事を持ち帰り用に包んでもらい、ご祝儀袋を残して先に辞去したという。
「急な仕事が入ったとおっしゃっていました」
 高額な薬の依頼が入ったのだろうか?
 「日月薬局」名義のご祝儀袋のなかには、夫婦両名のあて名で納品書が入っていた。
 
 【 ・姫だっこ用筋肉増強剤……1瓶
  ・短期痩身薬……1包       】

「睦美も?」
「なおくんも?」
 見事な毛筆で和紙に書かれた納品書を手に、二人で吹き出す。
「なんだー、私たち似たもの同士だね」
「二人合わせて、3万円にしてくれたのかな」
「あとで請求書が届いたりして」
 睦美は会社内の同僚から、都市伝説としてその薬屋のことを知ったのだという。
「今度、お礼に行こう、ふたりで」
「二度目はたどり着けないらしいよ」
 大真面目に睦美が言った。
 そんな馬鹿な、と俺は笑う。
「望みを叶える薬屋なんだから、望めばきっとたどり着けるよ」
 池袋の小さな路地裏に、その店はある。粉薬のにおいがする、レトロな木造の店。人間の持ち時間の範疇で、ささやかな願いを叶えてくれる。
 短く儚い人生を、ほんの少しだけ、輝いたものにするために。
  

(了)
 

新郎のための薬

新郎のための薬

結婚間近の俺が迷いこんだのは、池袋の路地裏にひっそり佇むレトロな薬屋。「【叶えたい願い】はありませんか?」謎めいた女性店員が問いかける。確かに俺には、あきらめた願いがあった……。ちょっと笑えて、ちょっと泣ける。小粒サイズのファンタジックコメディ。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-29

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