いつか来た道ーーある女の告白

いつか来た道ーーある女の告白

(5)

 わたしは彼の思わぬ言葉にたじろいだ。とたんに狼狽して、
「あら、嘘じゃないわよ」
 と、強い口調の喧嘩腰で言っていた。怒りがわたしの心を捉えていた。
「だって、準備なんて何もしてないじゃない」
 と彼は言った。口調は穏やかだった。わたしを脅迫しているなどとは思えなかった。しかし、それでもわたしの心には彼の存在が、重苦しい程の圧迫感でかぶさって来た。
「してるわよ。誰がそんな事を言ったの?」
 わたしはまなじりを決するような口調の、厳しい言い方で言った。
「誰も言わないよ。だけど分かっているんだ」
 と彼は、なぜか嬉しそうな気配さえ漂わせて言った。
「何を言うの、あなたは。変な事を言うのね」
 わたしはますます喧嘩腰になっていた。
「じゃあ、今夜会って、どんな準備をしているのか教えてよ」
 と彼は言った。わたしを追い詰めて来るかのような言い方だった。
「なぜ、あなたにそんな事まで教えなければならないのよ」
 わたしは言い返した。
「パリへ行くなんて嘘だからさ」
 彼は言った。
「嘘じゃないわよ」
「ぼくの腕の注射の跡を見たんでしょう。それで、ぼくが怖くなったんでしょう」
 彼は直截に言った。ふざけてでもいるかのような言い方だった。
 わたしは息がつまった。あの夜のわたしに彼は気付いていた・・・・。
「何を言ってるのよ。変な人ねえ」
 わたしはようやくそれだけを言った。
「クスリ(麻薬)を使っているぼくが怖くなったんでしょう?」
 彼はだが、自信に満ちた口調で言った。その響きの中には、始めて冷酷な色合いが混じっていた。事実わたしは、彼の口調に恐怖を覚えた。体中を冷たいものが走り抜けた。
「電話を切るわよ」
 わたしは乱暴に言って受話器を置いた。
 受話器を置いてもわたしの混乱は収まらなかった。これからどうしょう? 彼はどんな行動に出て来るのだろう? わたしは何をしたらいいんだろう? 麻薬常習者の彼・・・・。そんな彼との関係がもし、世間に知られでもしたら、わたしが今日まで懸命になって築いて来たもののすべてが、水の泡となって消えてしまう・・・・。彼との関係はなんとしてでも断ち切らなければならない。世間の誰にも知られないうちに。世間の誰にも知られないように・・・・。  
 その日、彼はそれ以上の電話はして来なかった。翌日もまた、なかった。それでもわたしは、彼がこのまま引き下がるとは思っていなかった。きっと何かまた、別の手段を考え来るだろう。ーー事実、四日目に彼はわたしの事務所へ大型の封書を届けて来た。封書には中沢とだけ書いてあった。住所は書かれていなかった。わたしは彼への激しい憎悪に捉われながら分厚い封書の封を切った。中から出て来た写真を手にしてわたしは、めまいに襲われた。ベッドの上であられもなく中沢と絡み合っている、裸のわたしが写っていた。まともにわたしの顔が見えていた。六葉のそれぞれが違っていた。何処のホテルで撮られたものだろう・・・・?
ホテルの部屋は目星が付いた。いつ撮られたのかは全く分からなかった。わたしは次々に投げ出した写真を急いでかき集めると、素早く手の中で引き裂いた。こんな写真を誰かに見られたら堪ったものじゃない ! わたしは更に、細かく切り裂いた。写真は形も見えなくなった。わたしは続いて、小学生が書いたような下手な字の中沢の手紙を読んだ。『二人の記念の写真を送ります。もし、ぼくと会えないのなら、この写真を買って下さい。まだ他にも、いろいろあります。詳しい事は会ってくれた時に話すから』
 翌日、早速、中沢からの電話があった。
「写真、見てくれた?」
「あなた、ずいぶん卑怯な人ね」
 彼は電話の向こうで小さく笑った。ほくそ笑んでいるかのようだった。
 わたしは新宿歌舞伎町のコマ劇場裏にあるバー【ダイアル M】で会う約束をした。

 わたしが記憶している【ダイアル M】は、ありふれたバーだった。十人程が座るといっぱいになるカウンターと、四つの椅子席があった。まだお金がなかった頃に、よく足を運んだ店だった。しかし、十数年ぶりに入った店内は、すっかり変わっていた。馬蹄形をしたカウンターだけが店内の全部を占めていた。若者だけが多かった。わたしは人目に付かない事を願って、右隅の一つの椅子に席を占めた。中沢は約束の時間、午後十一時きっかりに扉を開けた。店内は客の姿はまばらになっていた。すぐに中沢はわたしを見付けると、ああ、という顔をした。わたしはカウンターの奥の壁一面を覆った鏡の中で彼を見ていた。彼はわたしがまだ、気付いていないと思ったらしかった。すぐにわたしの背後に来て、いかにも親し気な様子でわたしの肩に手を置くと、
「今晩は」
 と言った。
 わたしはブランデーの入ったグラスを両手に包んでカウンターに肘をつき、顔だけ彼に向けた。
「こんばんわ」
 とわたしは言った。感情のない声だった。わたしに取っては、戦闘開始の合図のようなものだった。
 中沢はすぐにスツールを引いて、わたしの隣に腰を下ろした。
「ばかに地味づくりだったから、違うかと思った」
 と、皮肉とも嘲笑とも取れるような言い方で言った。
 わたしは彼の言葉には答えず、両手に包んだグラスの中のブランデーを少し口の中に流し込んだ。
 二十代半ばかと思われるバーテンダーがそばに来た。
「ロック」
 と中沢は愛想よく言った。
 わたしはそんな彼とは関係がないかのように、カウンターの奥の棚に並んだ様々なボトルやグラスを映し出している、鏡の中を見ていた。その鏡の中にはわたし自身がまるで他人のように見えて、わたしの眼に映っていた。化粧を落とし、イヤリングを外して、首まで埋まる朽葉色のセーターをざっくり着こんだ中年女・・・・。それを見ているわたし。二人のわたしがそこに居た。どちらも自分のようであり、自分ではないかのようだった。真実のわたしはいったい、何処にいるのだろう?・・・・

 

いつか来た道ーーある女の告白

いつか来た道ーーある女の告白

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-09-25

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