移住

仁科 哲夫 作

 大阪から南九州の南郷町に移ってきて、十二年半になろうとして
いる。温暖な気候と、新鮮な魚介類、地産野菜、県産の畜産物に恵
まれたここの暮らし方が良かったのか、八十爺と七十婆が老々介護
の苦界に沈むこともなく、のんびりと過ごしております。もし大阪
にいたら、どちらか、あるいは両方ともベッド暮らしかもと話し合
っております。

 公営住宅の三階の南の窓からは、外浦(とのうら)湾を一望し、
日向灘に向かうところに円錐形の岩礁ーこの地方では”ばえ”と呼
んでいるーがあります。その形がフランスの世界文化遺産、モン・
サン・ミッシェルにそっくりです。さっそくこれをプチ・モンサン
と名付けました。

 ここは外浦湾に北から注ぐ潟上川の右岸、標高二百メートル足ら
ずの西の山に挟まれた細長い地形です。川の護岸と国道の間を宮崎
名物のパームツリー並木が飾り、川水が混じりあう汽水域のあたり
に、国道をへだてて集合住宅が南向きに建っている。

 小高い山は南へと廻り、なだらかな稜線を描きながら海に迫って
ゆく。その少し手前の岸壁には、国立日南海中公園を巡る水中観光
船、マリンビューアーなんごうの待合所の大きな二階建てがある。
オレンジ色に輝く方形の屋根は、山に海、空と島の青い色調の中で
絶好のコントラストをえがいている。

 山には鶯が鳴き、ツバメが軒をかすめる。朝日に輝く紺碧の海、
月光にきらめくさざ波、朝霧にすっぽりと包まれ、鰹船のマスト
がかすかにのぞく乳白色の世界。この景色は何ものにも代えがた
いものがある。最初はここでニ、三年暮らし、事情がわかったら
もっと良い所に移るつもりでいたが、ここがいちばん気に入って
いる。

 平成十二年四月にこちらへ移住してきた。移住といえば大げさ
かもしれない。私たちが住んでいた豊中市は摂津の北になるので
北摂と呼ばれている。大阪府は旧国名の摂河泉三国を指します。
河内は東部、和泉は南部、摂津は北部の国です。同じ大阪弁でも
摂津と河内では地元の人が聞けば、大阪弁と京都弁ほどの違い
があります。京都といえば、焼香順まで違ってくる。大阪では親
族が終わってから一般参列者の焼香に移るが、京都ではこれが逆
になる。義理で参列する場合でも、ゆっくり行くと京都でははず
れてしまう。まして遠く離れた南九州、血縁、地縁のまったくな
い新天地へ乗り込むからには、開拓移民のようにまなじりを決し
手という気持ちも幾分かははたらいていたからだ。

 外浦地区は戸数四百、千三百人ほどの漁業の集落である。外浦
漁協に所属する鰹一本釣り漁船も十隻ちかくいるようだ。漁港の
船溜りにはエンジン付きや船外機付きの小舟がひしめいている。
ひょっとしたら、ここの人たちはほとんどが縁続きで、よそ者を
嫌う土地柄かもしれない。家々の序列もキッチリと決まっており、
隣近所の懐具合から、その日の晩のおかずまでお互いに知り尽く
している。その間に割り込んできたよそ者として、村八分にされ
るかもしれないと恐れた。

 いや、漁村というのは山里とちがい、海のかなたからの異邦人
には慣れているので、開放的な伝統を持っている。外来者を温か
く迎え入れてくれる気風を受け継いでいるはずだと、心配する女
房に言い聞かせてはみたが、別に確信んがあったわけではない。

 前夜に大阪南港から乗り込んだフェリーは九時過ぎに鹿児島県
志布志港に着岸した。ここから南郷町までは五十キロほど。山間
の二桁の国道と、海沿いの三桁の国道がある。どちらも片側一車
線で、山川は走りやすいが単調だ。青く広がる日向灘を満喫しな
がら、縫うように崖っぷちを走って外浦に着いた。
 
 午後に女房と二人、手土産をたずさえて隣近所へ挨拶まわりに
でかけた。といっても外浦団地、なぜか一棟だけの集合住宅なの
に団地となっているが、このあたりでは漁民アパートでとおって
いる。その四階十六軒だけである。挨拶ができたのは十戸ほど。
なかには朴訥を通り越してぶっきらぼうな男の人もいたが、ほと
のどはにこやかに応対してくれたのでほっとした。

 驚いたことに午後遅く、お向かいの奥さんから鰹の半身をドン
と差し入れてくれたのには感激した。早速その夜に半分を刺身、
残りを次の日にタタキで舌鼓。大阪で食べていたのとは歯ごたえ
からして違っていた。翌日からの行き帰りの時に挨拶を交わす団
地の人たちの宮崎訛りからは、穏やかなぬくもりが伝わってくる。
私たち夫婦の心配はまったくの取り越し苦労だった。

 空気はきれいで景色は抜群、魚はうまくて人々は親切と、何か
ら何までいいことづくめのようだが、現実はそんなに甘くはなか
った。最初のつまづきは、引っ越し前に審査を通り女房と町役場
を訪れて、転入手続を済ませた後に起こった。マリンビューアー
で昼食をとり、その先の漁港の構内に廻るとひっそりと静まりか
えっていた。不審もいだかずに人影を探した。船具の修理をして
いる人を見つけ、朝の水揚げは何時ごろかと尋ねた。パイプにぺ
ンキを塗りながら、ここでは魚は揚がらないというそっけない答
えが返ってきた。

 私は女房に、水揚げを手伝えば魚は分けてもらえるので、買わ
なくて済むとタンカをきっていた。甲子園や堺の浜で地引網を手
伝えば、たとえ通りすがりであっても、いくらかの分け前にあり
つけるものだと、子供のころに聞かされていたからである。女房
のいまどきそんなうまい話がと、冷ややかな態度が気に入らなか
った。この現実主義者メ、今に見ておれと、明かすはずの鼻がペ
チャンとつぶれてしまった。

 南郷第一夜は段ポール箱に埋もれて、北側の和室に布団を敷い
た。翌朝早く、キン、コン、カンとチャイムの音に飛び起きた。
だが玄関からではない。その硬い響きは窓の上の壁に取り付けら
れた、防災行政無線器からの覆いかぶさるような音で、六時の時
報音が少し間をおいて続いた。二人はぼやきながら、もんもんと
していると、キッチリ四十五分後に、今度はピン、ポン、パンと
二回続き、「町民の皆様、お早うございます。こちらは南郷町役
場です。献血のお知らせをいたします。何時何分からどこそこで
・・・・」 延々と続き、ご丁寧にも繰り返した後で、「以上で
放送を終わります。南郷町役場からでした」とやってくれた。い
くら若い女性の宮崎訛りでも、魔女の呪いのようにふさいだ指の
間からわりこんでくる。

 正午の時報、午後五時には夕焼け子焼けのメロディが集落の北
側と漁協にそびえる鉄塔のスピーカーから、防災無線器に同調し
て響き渡る。時報は毎朝、連絡放送も三日に一度はがなりた
てる。そのほかに、漁協、農協放送に加え、消防団員への出動要
請のけたたましいサイレンは、たとえ丑三つ時であろうともお構
いなし。やめてくれと叫びたいところだが、新参者である以上は
我慢のしどころとあきらめた。しばらくすると、不思議なことに
朝の時報や連絡放送にも目が醒めなくなった。

 ほかにも、新聞の夕刊がない。テレビは四チャンネルしか映ら
ない、パチンコ屋は三軒あっても本屋がない。眼医者はいないし、
耳鼻咽喉科や皮膚科も隣町まで行かなければならない。団地の建
物は古くて設備が悪いなど、不便な点はたくさんある。

 しかしものは考えよう。無い物ねだりに明け暮れても始まらな
い。何事もくよくよしないことが肝心だ。どうせこの世は穢土苦
界、何から何までそろうわけがない。足りなければ身近にひそむ
豊かさを見出す心構えで足るを知り、あるがままを素直に受け入
れる。今をかぎりに生きることこそ大切というもの。その和が世
の移り変わりになることも、ようやくわかるようになってきた。

 さざ波にきらめくあしたにとも綱を解き、日長、外海を漁り、
暮れなずむ湾内に航跡を残して帰ってくる、小さな漁船を眺めな
がら暮らしていこう。宮崎ホスピタリティにつつまれ、願わくは
天寿を全うして、この地に骨を埋めたと願っている。

移住

移住

三階の南の窓からは、外浦(とのうら)湾を一望し、日向灘に向 かうところに円錐形の岩礁ーこの地方では”えば”とよんでいるー があります。その形がフランスの世界文化遺産、モン・サン・ミッ シェルにそっくりです。さっそくこれを”プチ・モンサン”と名付 けました。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2012-08-26

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