リラの花が咲く頃に 第7話
第7話です。ここまで読んでくださる数少ない読者様感謝感激でございます。
第7話「ほしいものを手に入れるために大切なことは」
PM20:00 東区某所。
大佛家(おさらぎけ)の居間には、れなとその兄が昔幼い頃に使っていたアップライトピアノがある。みゆはそのアップライトピアノを弾いていた。
不協和音の旋律だけが部屋に鳴り響く中、みゆのiPhoneが2回振動した。
ーーブッブッ
体に伝わるバイブ音に気づいてピアノを弾く手を止めると、パーカーのポケットからiPhoneを取り出す。通知を確認すると諒からLINEのメッセージが来ていた。
「諒くん…」
諒からみゆへLINEをすることはとても珍しいことだった。いつもならば諒がボーカルを務めるバンドのLiveへの誘いくらいのものであるのだが、今回は違った。
『今から丘珠来れる?』
Liveではなく丘珠…つまり、北丘珠の佳奈子が住んでいる猫宮家(ねこみやけ)の向かいの一軒家、坂内家(さかうちけ)に誘っているということだろうか?
みゆは早速返信する。
『行けるよ』
しばらくして諒から返信が返ってきた。
『来てほしい』
諒からLive以外に『来てほしい』など今までならばあり得ないことだった。再会から3ヶ月程にして漸く想い続けてきた彼にLive以外に誘いを受け、みゆは嬉しくて体じゅうから何か湧いてくるものがあった。ピアノ周りを片付けるとみゆは台所に立った。
「諒くんの好きなもの、作ろう」
冷蔵庫にあるもので彼女は手際良く調理を始めた。この世で最も“欲しいもの”を手に入れる為に…ーー
ーーガチャ
店長である母の仕事の手伝いを終えてれなが帰宅し玄関のドアを開けた。奥の台所から何やらいい匂いがしてくる。
(ん?なんかいい匂いする…お母さんはまだ事務所で仕事してるしお父さんもお兄ちゃんもまだ店…)
れなは明かりを点さないまま恐る恐る足音を立てない様に奥の台所に向った。台所に近づく程に匂いは増し、小気味よい包丁の音が聞こえてきた。
れなはそっと北欧調モダンデザインの水玉模様の暖簾を避けて中の様子を確かめると、金に染めた癖毛の長髪をポニーテールに束ねて背中に垂らした、エプロン姿のみゆの後ろ姿が見えた。
(なんだ、ミュウか。何作ってるんだろう?)
胸を撫で下ろしてみゆに声をかける。
「ミュウ、ただいま」
みゆは振り向かないまま、いつもの淡々とした口調で「…お帰りなさい」と言った。
「何作ってるの?めっちゃいい匂いしてるし、ごはんまだだからお腹すいちゃったよ」
食卓に目を向けると大皿に大量に盛り付けられたザンギと卵焼き、肉じゃが、ケチャップライスに薄切り肉のトンカツをのせデミグラスソースをかけたエスカロップ(通称赤エスカ、道東地方の料理)などが隙間なく所狭しと並べられていた。そして今みゆが切っているのは札幌黄(さっぽろき)という丘珠名産の幻のたまねぎである。
「ミュウ…こんなに作ってどうすんの?佳奈子にでも食べさせる気?」
大食いの佳奈子ならばひとりで全て平らげることだろう。しかしみゆは首を横に振る。
「諒くんに持っていく分と、大佛家4人分の今日の夕食分、そして明日1日分のメニューです」
そうきっぱり答えると、切ったたまねぎを大鍋に投入し茹で始めた。傍にだし入り白味噌があるので味噌汁を作るのだろうか。
「そう…。てかまたなんで?」
「先ほどLINEで諒くんに呼ばれまして。なんとなくこのタイミングで呼ぶということはかなり落ち込んでいるのではないかと思われたので、微力ながら私の手料理で励まそうかと」
れなは思い出した。諒は昨日長年片想いしてきた佳奈子に振られたばかりである。諒なりにかなり落ち込んでいるはずだ。
「そうだね…失恋の後は精神的にきついはずだよね」
れなも初恋の先輩に振られたときとても落ち込んだ。その時れなを励ましてくれたのはラジオの深夜番組だった熊木杏里の「夢のある喫茶店」という現在でも放送時間を変更して放送されているラジオ番組だった。あのラジオから優しく柔らかな声と繊細な歌を聴いていると、心を縛り付けていた悲しみから一本一本丁寧に解放されていく感覚があり、気づけば涙が引いて励まされて毎週聴くようになっていた、そんなことを思い出した。
しかし、繊細な過去を振り返るのも束の間、気がかりなことがあった。
彼を励ます為の手料理…という程の量、メニューではない、ということだった。諒は佳奈子程食事に執着するタイプではなく、セイコーマートのガラナとザンギが少し、またホットシェフの弁当があれば豪華というタイプであり、坂内のおばあちゃんが居なければ栄養が偏ってしまう、そんな食生活を送っているやつである。また、手料理は坂内のおばあちゃんや親しい人など心を開いた人間が作ったものしか与えても口にしないのをれなは知っていて、バレンタインデーなど大量に貰って溜息を吐く姿を毎年見ていた。
そして、どうもみゆでは何か不安で仕方ないものがあった。日頃、一緒に仕事や日常を過ごしていて、みゆは諒の事になると途端に感情を表し、目に余る行動を起こす傾向にあるとれなは分析していた。恋をしていれば誰だってそうなってしまうのはわかるが、どうもみゆに至っては何か企んでいるのではないかという気がしてならなかった。
たまねぎを茹でている間に洗い物をするれなは思い切ってある事を聞いてみることにした。
「ミュウ…」
「はい?」
「諒のこと…好き、なんだよね?ミュウの中で何番目に好きなの?」
みゆの口元に珍しく笑みが浮かぶ。
「はい、2番目に。この世での1番は別にいます。その方はいつもお空から、または道端の花などから私たちを見守っていらっしゃいます。だから軽々しくその方を1番にしてはいけないのです。たとえ恋人や伴侶であろうとも」
(なんか…急に宗教みたいなこと言いだしたな…)
れなは途端にみゆが怖くなったが冷静を取り戻し、考え導かれた答えは、みゆの恋はもしかしたら“別の目的”が隠されているのでは?ということだった。もしかしたらこの手料理ももしかしたらその“別の目的”を果たすための用意した“道具”なのではないか。勧誘には美味しい手料理を用意して相手を釣り、勧誘の方向に持っていく方法がある。恋愛にも相手の胃袋を掴めというのがあるがそれと同じである。
しかし、今のれなには恐ろしくてその事を問いただす勇気はなかった。19歳のれなには本音を聞くことより、友情を壊し、一見強く見えてガラスの様に弱い自分の精神まで壊してしまうことのほうが怖かったのである。
仕方なく今はみゆに任せることにした。
「そっか…。諒のことミュウに任せるわ」
そして本当は弱く、友達にお人好しのれなは、みゆの恋の成就を願ってしまった。
「あと…諒への恋が成就することを祈ってるね」
本音ではない。本当はこんな何か企んでいそうな女に長年の幼馴染をくっつけたくなんかない。
しかし、洗い物をする手を止めてまでみゆは人が変わった様に目の色を変えて喜んだ。
「祈ってくれるんですか?!嬉しいっ!本当にれなさんって良い人!」
みゆが泡だらけの手で長身のれなに抱きつくと、背中まで伸びたれなの黒髪の毛先が泡がつき泡だらけになった。
「ちょっ!あんた人のこと泡だらけにしないでよ〜」
「ごめんなさいっ!私ったら…」
そうこうしているうちに、たまねぎを茹でている大鍋はグツグツと音をたてはじめた。
「これ、そろそろ味噌溶かなきゃダメじゃない?」
「あ!忘れてましたっ嬉しすぎて」
「私洗い物するから味噌汁作っちゃいなよ」
みゆは慌ただしく味噌を溶き、重箱に料理を詰めると片付けはれなに任せて急いで大佛家を出た。
先生と生まれて初めて互いを求めて愛を確かめ合う時間を過ごした佳奈子は腕時計を見て切ない表情を浮かべていた。そろそろ夢から覚めて
家に帰らなければならないのだ。
「また会えるんだからそんな顔するなよ、な?」
「うん…」
デートという夢の時間から現実から引き戻される辛い感覚は、恋愛をしている限り切っても切れない関係にあるとこの頃佳奈子は感じていた。何でも始まれば終わりがある様に、デートにも同じことが言えるのである。それをわかっていても切ないのはまだ恋が愛に変わっていない証拠。つまり佳奈子の先生への想いというのはまだ恋している状態で、愛にはまだ程遠いのだろう。
「先生…?」
「なした?」
薄暗い部屋の中、切ない気持ちからか佳奈子は先生に甘える様に抱きついた。
「…帰りたくないよ」
一緒に居たくて思わず本音が出る。
「俺もほんとは帰したくない」
先生の大きな両手が佳奈子の白い肌をスゥーと滑って柔らかな頰に触れると、赤くグロスで濡れた唇に優しくキスが落とされた。一度唇を離して互いを見つめるとまた口付けて名残惜しくキスを繰り返した。
繰り返した後重ねた唇を離して先生はぎゅうと佳奈子を大切そうに抱きしめると、辛そうな表情で天井を仰ぎ見た。
「…本当に帰れなくしちゃいそうだ…佳奈子、支度しよう」
切なさを感じながら身支度を整えると2人は北丘珠の燕家に向かうため車に乗り込んだ。
環状通東の駅前通交差点に出てくると佳奈子はふと視線をバスターミナルの方向に向けた。見覚えある160センチ程の身長にふわふわ癖毛の金髪の長髪、色白の華奢な女が、大荷物を抱えてバスターミナル横を歩いてバスターミナルの入り口に向かっていくのが見えた。佳奈子にはその人物がすぐにみゆだとわかった。長期旅行にでも行きそうな大きなキャリーに、大きな物を詰めたであろうトートバッグ…ーー
(もしかして…諒のところに行こうとしてるの?)
そういえばと佳奈子はある事を思い出した。
坂内のおばあちゃんと呼ばれている諒の祖母は旅行好きで、よく近所のお友達と一緒に泊りがけの旅行に出かける。そして今日も2泊3日で洞爺湖に行っているはずだった。となれば、みゆから泊まりたいと言ったのだろうか?いや、いつもの諒の様子からはみゆからの申し出を許すわけがない。…しかし、あり得ないかもしれないが諒から…?
信号が青になり、2人を乗せた車はバスターミナルを右手に見ながら元町駅方向に進んだ。バスターミナル横を歩いていたみゆはどんどん遠く小さくなってバスターミナルの中へと消えた。それと比例するかの様に佳奈子の不安だけが大きくなって通り過ぎていった。
みゆは東61の「中沼小学校通ゆき」に乗って諒の元へ向かった。バスは環状通東バスターミナル裏手側の苗穂丘珠通を走っていく。
環状通東駅からひとつ進んだ停留所の前にバスは止まった。1人杖をついた小柄の老婆が足が悪いのかゆっくりゆっくりと優先席に腰かけた。その間みゆは停留所前の某新興宗教団体の施設に向かって手を振っていた。誰か振り返す訳ではないが、みゆにとってそこは特別は場所であった。
次の停留所に向かうためバスは扉を閉めると再び動き出した。みゆは手を振るのをやめ、いつもの人形の様な冷たい表情に切り替えて前を向いた。
丘珠中学校前で降りてたまねぎ畑を横目に見ながら歩いていく。一面のたまねぎは収穫され、闇夜に浮かぶ月明かりに照らされた畑は粘土の土がむき出しになっていた。あと数カ月もすればこの土の上には真っ白な雪が降り積もることだろう。
みゆは思った。それまでには自分な方に諒の気持ちを向かせるのだと。何が何でも諒を手に入れる為ならこの命など惜しくはないのだ。
その頃、諒はみゆを待ちながら二階でエレキギターをかき鳴らしていた。曲はX JAPANの「紅」である。
頭の中で「紅」の歌を脳内再生するとこれまで佳奈子に片想いしてきた約10年間の月日が駿馬の如く激しく思い出というレースを駆け抜けていく。思い出される度にひとつ、またひとつと諒は涙を零し、そんな自分が情けなくなって記憶を振り払う様に激しく頭を振って尚一層弾く事に集中した。
やがて一曲弾き終えると畳の上に崩れる様に倒れた。
「はあ…はあ…はぁ…ーー」
激しく頭を振りすぎてぼぉーと部屋の一点を見つめていると、外から車が停まる音がした。
「ん…?」
壁に掛けられた古時計を見ると時刻はPM21:00を過ぎていた。畳から身を起こすと諒は窓から下を覗いた。
坂内家から向かって左手二軒先にたまねぎ畑があり、その畑の方の誰かに「バイバイ」と手を振る佳奈子の姿が見えた。よく見れば斜めがけポーチの他に大きな手提げ袋とぬいぐるみを3つ抱えている。昨日誕生日だった為そのプレゼントだろうか。
考えなくともこんな時間に車で佳奈子を送っていく相手など先生しかいない。
諒は窓から目を背けると静かにため息を吐いた。もう自分にはあんな笑顔で手を振ってはくれないだろう、そう思った瞬間だった。
ーーピンポーンピンポーン…
インターホンが鳴った。みゆが来たのだろうか。諒は階段を降りてドアスコープを除いた。金の染め髪に大きな瞳…みゆだ。ドアを開ける。
「来て…くれたんだ…」
みゆは黒目がちな大きな瞳で諒を見上げると小さく微笑んだ。
佳奈子は沢山のプレゼントを抱えて先生の車を降りると振り向いて手を振る。
「今日はありがとう先生、またね」
「ああ、俺こそありがとう。楽しんでくれたみたいだから嬉しいよ。…もう寂しくないか?」
「そりゃ…寂しいけど明日はお互い仕事だもん、我儘言ってられないよ」
「そっかぁ。また会えそうな時連絡するよ、またね」
「うん、先生またね。LINEするよ」
「わかったよ」
動き出した車に手を振りながら家まで歩き出した。車が見えなくなると手を振るのをやめて前を向いた。すると向こうから先程車から見たみゆがこちらへ向かってきていた。やはり諒のところへ行くのだと佳奈子は悟った。しかし佳奈子は10年ぶりに再会した先生を選んだのだ。2人のことなど友達であろうとこれ以上先のことは関係はないと思い、黙って燕家に入っていった。
帰宅すると今に知世の姿はなく、お風呂からシャワーの水音がしているのでお風呂に入っているらしかった。
ふと窓辺の椿に目をやると花が落ちていた。落ちた真っ赤な花を見ると、先程初めて先生と結ばれ愛し合ったことを思い出した。真っ赤な花が真っ白なシーツに付いた血を想起させたのだ。
自分が愛を育んで幸せに浸っている間、諒がどれだけ心の傷みに苦しんでいたかなど、今の佳奈子にはわからない話だ。
諒の心から流れるのは、佳奈子を失った悲しみからの“血の涙”であるーー。
坂内家にみゆを上げ居間に連れて行くと、諒は彼女にソファーに座る様促した。
「夜遅くにごめんな…?」
お盆にガラナを注いだコップを2つのせて1つをみゆの前に置いた。
「ううん…諒くんが呼んでくれたならいつでも私は会いにいくよ」
そう言うとみゆは「ご飯は?」と聞いた。
諒が「まだ」と答えるとテーブルの上に重箱を置いて隙間なく手料理を並べた。
「これ…よかったら食べて?」
諒は、黙ってしばらく手料理を見つめると「いいの…?」と小さく聞いた。
「うん、いいよ。食べられるだけ食べて?」
諒は静かに箸を持ち手を合わせると「いただきます」と食べ始めた。がっつき半分程食べ進めると肩を震わせて涙を零した。
「諒…くん?」
みゆは不安げな表情を浮かべながらハンカチを差し出す。
「どうしたの…?口に合わなかった?」
諒は首を横に振ると「違う」と答え、理由を話し始めた。
「…死んだ母さんの味に似てるんだ…ミュウが作る手料理はいつも」
「え…」
「いつも差し入れに手料理くれるのに言わなくてごめん。マザコンに思われるかと思って言えなかった…」
みゆは首を横に振る。
「マザコンになんて思わないよ。だって小さい時に亡くしたならお母さんが心の何処かでずっと恋しいのはしょうがないと思う。それより、諒くんがほかの女の子の差し入れは絶対食べないのにどうして私が作るのは食べてくれるんだろうって気になってたから」
今のは嘘だ。本当は、最初からみゆは知っている。嘘を何食わぬ顔でみゆは語り、諒の傷心中の心の隙間に入りこもうとしているのだ。それに諒は気づかずにまた答えていく。
「ミュウのだけは怖くないんだ、母さんの味に似てるから。それに、食べる時だけあの頃の母さんとの時間に戻れる気がして」
そう言うと諒は残っている重箱の残りに再びがっつき始めた。ザンギの衣片やキャベツをポロポロ零しても気づかないくらいに。そして不思議なくらいにみゆの手料理は諒の普段の食事量以上に難なく入っていく。
みゆは静かに笑みを浮かべながら愛しい諒を見つめた。
翌日、諒は居間のローテーブルの下で目が覚めた。
昨夜みゆの重箱の手料理を食べてすぐ眠ってしまったらしい。時刻はAM10:00を回っていた。みゆの姿はない。
シャワーを浴びて歯磨きをすると、薄手の七分袖のTシャツにジーンズを履いてガラナを飲むために台所に向かった。
レースの暖簾をくぐると冷蔵庫前の食卓が目に入った。食卓の上に少し温くなった手料理がラップに包まって並んでいるのだ。
『朝ごはん、よかったら食べてね みゆ』
白い小さなメモにはみゆの小さな丸文字でメッセージが書かれていた。
「ミュウ…」
美しく焼かれた厚焼き玉子に焼き鮭、トマトとレタスのサラダと白米、そして豆腐とわかめの味噌汁…どれも昔母親が作ってくれたものだった。
みゆの姿をした母親がそばにいると感じた諒は、台所を離れて玄関横の階段に向かった。
階段前に行くと2階から激しいピアノの旋律が聞こえてきた。諒は耳を澄ませコードを頭の中で読み取ろうとするが音符が明らかに複雑すぎた。
(これは…)
山道を暴走する列車の様なこのピアノの旋律。
諒は中学生の頃クラスメイトの女子が放課後音楽室で奏でていたことを思い出した。
旋律が聞こえてくる部屋へと諒は階段を昇り始めた。半分程昇り切った時高音の線路の上を走る機関車は長閑かな場所に来たのかリズミカルにステップを踏み、途端に低音を奏でてまた暴走し始める。
階段を昇り切り静かにドアを開けると窓際に置かれた埃を被ったアップライトピアノで黙々と暴走機関車を表現することみゆがいた。集中するその横顔は、鋭く研がれた悪魔の大鎌の刃先の如く美しい。
約5分にも渡る激しいピアノの旋律は中間の激しさと打って変わって最後は穏やかな春の日差しの様なリズムで静かにホームに滑り込み締めくくられた。みゆが一息をつきそっと鍵盤から手を下ろすと圧巻されていた諒は思わずパチパチと彼女に拍手を送っていた。
「ありがとう…」
そう礼を言うとみゆは座っていた椅子の位置から少しずれて一人分あけた。
「諒くんも弾こうよ、『鉄道』」
『鉄道』とは、たった今みゆが弾いていたアルカン作曲の練習曲である。諒も多少弾けるがみゆ程の腕前はなかったので、申し訳ないが断ることにした。
「…ごめん、俺にアルカンは…」
しかし、みゆは引かない。
「大丈夫。練習曲なんだから練習すればこんなの諒くんなら簡単に弾きこなせる様になるよ。はい、楽譜」
「え…」
手渡された楽譜を開いてみても、譜面に並ぶ音符の数などが今まで見てきた作曲家の楽譜とはまるで違っていた。
「ねぇ…」
「うわっ」
腕を引っ張られてされるがままに隣に座ると、みゆは諒の左耳に向かって囁いた。
「…一緒に“暴走”しちゃおうよ」
囁かれて諒の下半身に反応するものがあった。
思わずみゆの横目に見れば、Fカップの大きな胸の谷間が薄手のVネックのTシャツの襟から顔を覗かせていて、更に諒の下半身は反応するばかりだった。
「ね?」
「…うん」
諒は顔には出さぬ様、ポーカーフェイスで楽譜を見ながら無我夢中で挑むことにした。
「諒くん」
「え?」
「私が右手側弾くから、左手側お願い」
「あ…わかった」
弾く前からペースを崩されてしまい、諒のポーカーフェイスも危うく崩れるところだった。
2人は『鉄道』を弾き始めた。1音目は低音部からスタートし、後からリズムよく高音部のみゆが入っていく。難しい曲にもかかわらず2人は練習したかの様にペースが合っていた。
しかし、曲が終わりに近づき、低音と高音が重なってリズムも早くなるところで諒は1音つまづいた。曲が止まる。
「諒くん?」
「ごめん…」
「どうしたの?」
「…一瞬、見えちゃって…胸の谷間が」
少し気が緩んだところでふと一瞬だが諒の視界にみゆのVネックの胸元から見えていた谷間が入ってきて動揺してしまったのだ。
「そう」
ここで普通の女の子ならば「やだ見ないでよ!」などと言って平手打ちでもお見舞いするところであろうが、目の前にいる元風俗嬢においては違った。
「…見て、いいんだよ」
「はっ…⁈」
驚いた諒の顔は真っ赤に染まった。
「諒くんかわいい…食べちゃいたい」
フフッと笑うとみゆは諒の首に腕を回し、唇に軽く口づけた。
「…っ!」
「黙ってるなら…余すとこなく食べちゃうから…」
声を出せずにいる諒の隙を見てみゆはニヤニヤと不気味な笑みを浮かべながらわなわなと震える唇に口づけた。2度目の口づけは舌を絡ませ、諒が逃げられぬ様腕に力を込めてロックをかけるとそのまま床に倒れた。
「んっ…んんっ…」
舌でじっくりと口内を弄り、諒が次第にとろけていくのを感じ取ると、唇で塞いだまま彼を激しく時間をかけて愛でていく。
生まれて初めて女性に犯されていく快楽に諒は流されるまま溺れていった。もはや反論もできない程に、正直な体は本人の意思とは関係なくさらなる快楽を求めた。
「あっ…!」
みゆに口で愛撫されて諒は思わず声をあげてしまった。自分でもこんな声は出したことはない。これが“喘ぎ”か。
「諒くん気持ちいいの…?」
「…うん」
今のままでも充分なくらい諒の体は快楽で満たされて満足していたが、みゆの暴走機関車はこれではまだ止まらなかった。
「私の中に入れたら…もっと…気持ちいいよ?」
みゆは誘っていた、諒をさらなる快楽の秘境駅に。
ホットパンツのポケットからプラスチック製の容器に入ったゴムを取り出す。
「準備はできてるの、安心してね」
もうここまで誘われてしまうと、諒の好奇心と本能にも燃え盛る炎の如く火がついた。
「あんっ諒くん…!」
されるがままだった諒が起き上がると、みゆを押し倒して本能に身を任せて抱いた。
抱かれながらみゆの心の中は女のどす黒いダークマターの様な欲望が渦巻いた。
(私よ!私っ!振られたんだからあんな馬鹿な佳奈子じゃなくてこの私にすべきよ!このまま私に乗り換えるべきよ!…ああーっ!諒くん!諒くん…っ!愛してるっ!愛してるっ!愛してるっ!)
本能のままに求められながらみゆは必死で狂った信者の如く諒を求める。
「ああんっ!あんっ!あっあっ!諒くんっ!あっ諒くんっ!諒くんっ!ああんっああーっ!諒くーんっ!」
みゆは諒と繋がっているという喜びの絶頂でずっと想い続けてきたことを諒に手榴弾の如くぶつけて爆破させる。
「諒くんっ諒くん…っ!あっあっ好きっ!諒くんが好きっ!はあっ!ああんっ好きっ好きっ好きっ!…んっあっ…好きーぃっ!!」
想いを爆破させるみゆの顔は「メスの顔」をしていて、諒は本能的に彼女を見続けたい気持ちになっていた。自分が腰を動かして突けば突く程みゆは不思議とかわいい存在になっていく。そしてみゆがかわいい存在になればなる程、あんなに好きで10年も思い続けた佳奈子のことなど忘れられる気がした。脳が錯覚を起こしているのか、ずっと好きだったのはみゆだったのではないか、そうとも思えてきた。
「あっ…ああんっ…んっ」
諒は自分の中でかわいい存在になったみゆに口づけた。本能的にキスしたくなった、そんな感覚だった。そして口づけが深くなると次第にみゆを腕の中に包み込んでいった。
「あ…イクっ」
みゆの中でキュウっと締め付けられると同時に諒は突如快楽の境地に向かっていく感覚に襲われた。2人の暴走機関車はもう止められないところまで来ていた。
「私の中に…出して…あっ!」
「はっ…あっ!」
暴走機関車は遂にレールから外れて山道から宙に投げ出された。
みゆは力尽きて自分の中に身を沈める諒をきつく抱きしめながら思った。
(これで諒くんは私のもの!絶対に離さないっ!)
一方でみゆがとんでもない事を思っているとは知らずに初めてを卒業した諒は、少し身を起こし気怠い中でみゆに優しく深い口づけをする。彼はもうみゆの狙い通り既に“みゆのもの”になっていた。気怠い中でも彼女を求めてしまうのはその証拠だった。
「諒くん…」
「ん…?」
「ずっと…ずぅ〜と、これからは“一緒”よ?」
「え…?」
「諒くんは“私のもの”になったの。だから、諒くんも私を“俺のもの”にして離さないでほしいの。…いい?」
「“俺のもの”?」
「うん、今日から“みゆは俺のもの”、“俺の彼女”」
「“俺の彼女”?」
「そう、“みゆは俺の彼女”」
「“みゆは俺の彼女”…」
そう言葉にすると同時に諒は心地よい眠りに落ちていった。
諒が眠りに就いたのを確認すると、みゆはニヤリと口元を歪めた。
ーー夕方。
眠っていた諒の視界がパアッと明るくなる。
「…んん…」
諒は徐々にはっきりしてくる意識の中ですっかり夕方まで眠ってしまったことに気づいた。幸い、今日はバイトがない。
傍にみゆの姿はなかったので頭を掻きながら一階に降りてキョロキョロとしていると、食卓の上に、
『夕食の買い物に寿に行ってきます みゆ』
と書かれたメモが置かれていた。
寿とは北丘珠のスーパーのことだ(2017年現在はない。)
しばらくガラナを飲みながら諒はぼぉーと夕方のワイドショー『どさんこワイド』を観ていた。木村洋二の特徴的な声と喋りがテレビを通して部屋に響き渡るにもかかわらず、諒の耳には木村洋二の声は届いていなかった。諒の頭の中では眠りに就く前の言葉がグルグルと渦巻いていた。
“みゆは俺のもの”
“みゆは俺の彼女”
“俺の彼女”
“俺の彼女”
“俺の彼女”…
最終的には“俺の彼女はみゆ”に変化した。
その頃、学校から帰宅し夕食の食材の買い忘れに気づいて再び外に出た佳奈子は家から徒歩10分のところにあるスーパー寿に来ていた。
本日の燕家のメニューは鮭のちゃんちゃん焼き
と玉ねぎの味噌汁だ。しかし、肝心の白味噌を切らしているのを忘れていて、環状通東にあるスーパーで買い物したにもかかわらず買い忘れたのだ。
「白味噌…白味噌…あった」
248円の白味噌を手にしてレジに向かい会計を済ませて帰ろうとすると、サッカー台の左端で食品をレジ袋に詰めているみゆの姿を見つけた。
(…え?なんで…ミュウがこんなとこで買い物してるの?)
そう思った瞬間、佳奈子の中で昨日見た記憶とパズルのピースが合わさり繋がった。
(泊まったんだ…)
大荷物だったのはもしかしたら宿泊用の荷物とは別に、諒に食べさせようと作った手料理があったからなのかもしれない。
(諒って…)
あんなに自分に執着していた男が、おばあちゃんがいないことをいいことにすぐに身近な女の子を招き入れて外泊させるなんて…。佳奈子は無性に腹が立ってきた。そんなに諒は不誠実な男だったのかと思うと、女の怒りが込み上げてくる。友達としてめとても嫌な気分だ。
どうしても帰る方向が同じなのでしょうがなくみゆとは距離を置いて帰ることにした。みゆは音楽を聴こうと耳にイヤホンを入れているのが遠くからなんとなく感じられたのでこちらには気づいていない様だ。
単調な真っ平らな道をまっすぐに歩き家路に着いた。みゆは佳奈子より先に坂内家に着き、出迎えるマロンの頭を撫でてから玄関フードの引き戸を引いて入っていった。
暫くして佳奈子も燕毛に着き玄関フードの引き戸を引いて入ろうとしたが、妙に遠く背後から視線を感じて立ち止まった。不意にゾッと悪寒が背中に走った。恐る恐る佳奈子は後ろを振り返ると、ひとつ道路を挟んだ向かいの坂内家の玄関フードのガラスにみゆが張り付いてこちらにピエロの様な狂った笑みを向けていた。
恐怖で動けなくなった佳奈子の右耳の奥で、ピアノの不協和音の旋律が高らかに響いていた。
リラの花が咲く頃に 第7話
第7話も読んでくださりありがとうございます。
作品もバタバタバタ、私生活もバタバタなかぐら。
そんな作品でもまた読んでくださる方は本当に優しい方なのでしょう…。
この第7話を執筆した時期というのは、かぐらの引越しと祖母の死が重なった頃でした。
執筆が終わり投稿したのは、群馬への引越しを終えて札幌への飛行機に搭乗する数時間前。内容もきついし精神的にもきつかったですが、なんとか読者様に届けられて良かったと今は思っています。
第8話もよろしくお願いします。