海の下

ㅤ息が詰まる。詰まる、苦しい、怖い。そうだ、ぼくらは怖い人間だ。どうしたって止められない人間だ。他人の意欲にのまれる。雰囲気にのまれる。酒にのまれる。波にのまれる。何ものみこめやしない、喉は詰まる。

ㅤそこにはうんと辛いことがあるとします。例えば日曜日の次に月曜日が来ること。恋もそうです。そして辛いことは三つくらい集まると中くらいの海になります。ざぷんざぷんと大きく波打ちます。
ㅤ正しい泳ぎ方を知らないと、管理人でも海底に沈んで砂になります。砂になるのは怖いですよね。
ㅤ教官が水泳の授業が始まる前に言っていた。ぼくはその可哀想な若い管理人の話を聞いて、情けないと思った。あの時は、そんなわけあるか、とか、自分は大丈夫、と高を括っていたわけだけれど、ぼくは現に今、沈んでいる。情けない。
ㅤぼくが話している間、彼女は海の上を泳いでいた。ぼくが沈んだ海ではなくて、目の前にある海。その海の上。つまり、空。砂浜にあがった流木にぼくは腰かけた。人魚のような人間がぐるんぐるんと宙を泳いでみせ、ぼくはすごいなぁと何度も感心した。
「まぁ、ドンマイ、だ、ね」
ㅤ彼女はぼこぼこ、としか話せない。時々彼女の口から白いものが、ぽこぽこぽこっと溢れでる。そして、白いものはずっと上の方へのぼっていく。彼女はそれをみつめる。ぼくもつられて顔を上げる。太陽が眩しい。
ㅤぼくは大きく息を吸いながら、水平線の白くぼやけたところを見た。肺胞に思い切り潮風を感じた。それから地上の空を思い浮かべた。空は海の青がやさしく引き伸ばされた色をしていた。そこに一つ真っ白の入道雲があって、ぼくは船の上から海を見張っていた。ぼくは絵画のように過ごしていたし、永遠に安全だと思っていた。
「ここって昼も夜も変わらないんだね」
ㅤぼくがそう言うと彼女は目をまあるく見開き
「海中にも、朝や夜、や、昼だって、ある、わ」
馬鹿言わないでよ、とそっぽを向いた。ぼくは彼女が怒ったことにひどく驚かされた。だって人魚っていうのは、やさしくて、かわいくて、美しい生き物なんじゃないの。彼女のゆらりと舞うような尾びれが、優しい人の象徴だと勘違いしていた。
ㅤぽこ、ぽこ。
ㅤまた飛び出した。彼女のくちびるの隙間から零れる白いものは、石灰石のような白で、生き物の口から出るには不自然すぎる色だ。
「そうだ、君って人魚なんだよね。そこにいても平気なの?」
ㅤぼくが聞くと、彼女はおかしそうに笑った。
「キミ、は、自分が溺れたこと、忘れた?空から降ってきたの、よ」
ㅤ彼女のはは、はは、という笑い声が砂浜に落ちる。そして、また波に取り込まれていく。
ㅤしばらくぼく達は黙っていた。長い間ぼく達は一人になっていた。
ㅤ孤島の砂浜にいた。ぼくと彼女以外は誰もいないような静けさだった。
「ここは海の上みたいだね」
ㅤ彼女はそうかしら、と呟いてから
「案外そういうもの、なの、ね」
と言い直した。
「海って波の寄せる所も海なのかな、寄せた波が帰っていった所は陸なのかな」
ㅤ問いかけると、彼女は首を振って海に入った。
「わたし、あんまり上手に泳げないの。けれど、とても、気持ちいいわ」
ㅤそう言って彼女はほら、と手を差し出し、彼女の薄い手の平に揃えるように右手を伸ばすと、ぐっと腕ごと引かれぼくは海に落ちた。足がつかない。少し水をのんだ。喉が痛い。
ㅤ海の波は大きい。人間なんか容易くのみのんでしまう。家だって街だって何だってのみこめてしまう。
「砂と陸、は違うかな」
ㅤさっきの質問の続きをすると、彼女は濡れた髪を耳にかけながら言った。開いた唇の隙間から白い歯が見えた。
「そんなこと、どうだって構わな、い」
ㅤそう言い終えると彼女はぼくの手をぐっと引いて潜った。ぐんぐんと下へ向かって泳いでいく。浮力に負けずに、帆を張った海賊船が沈んでいくようだ。少しずつ耳は遠くなっていく。昔習った通り、潜るにつれて暗くなっていく。暗くてほとんど見えない。ただ彼女の吐き出す白く光るものと、気泡が顔に触れるみたいな感触だけを頼りに、ぼくは彼女に任せて沈んでいった。
ㅤずっと一人でいたのかな。
ㅤ僕の手を握っている彼女の考えていることがわからない。
ㅤ頭が痛くなってきた。体中が痛い。喉はかゆい。怖い。ぼくはこれからどうなるんだろう。こんなに深いところまで来たら自力では戻れないだろう。海底になにかあるのか、どちらにせよ生きては帰れないだろう、人間の器はもたない。すぐに体がふよふよになる。毛糸を引っ張る時のように、繋がれていない方の指から分解されていくような感覚。頭が痛い。脳みそが、内蔵が正しい位置にいない。上が下で下が上になったような不快感。足でモノを考えるような違和感。
ㅤ怖い。肌で感じる白い光をだけを頼りに落ちていくような、沈んでいくような、あるいは光にのみこまれていくようだ。

海の下

海の下

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-23

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