ナツキ

A

 私の隣で、誰かが言った。
『−私が、こののっぺりした空の下に閉じ込められて、息苦しくて、眩しくて、頭がズキズキ痛くて。それでもなんとかこうやって毎日息をし続けているのは、こうしてじっと耐えていれば、そのうちには必ずまた夏がやって来るって、知ってるからだと思うんです。』
 その人は俯いて、肩を小さく震わせて、そう言っていた。その人が誰なのか、知っていたけど思い出せなかった。何か声をかけてあげたい。でももう遅い。声に出そうとしていた言葉は渦を巻き始め、私の周りの光景を吸い込み、巻き込みながらどんどん速く、重く、激しく唸りだした。何もかもが渦を巻いて吸い込まれていく。俯いて泣いているその人や、この眩しすぎる青白い空間や、うねるような夏の音を巻き込みながら、意識の奥の方にぐるんぐるんと沈みこんでいく。
『本日のゲストは……哲学に…』
渦の間から、生ぬるい平たい音が途切れ途切れに流れ込んでくる。そうか。私は今、夢から覚めていくところなんだ。渦がだんだんと沈んでいく。唸りも少しずつ、ボリュームノブをひねっていくように落ち着いていった。
 頭の中が静かになって、私は重いまぶたを少し引き上げた。まぶしい。白くぼやけた横倒しのリビング。頭の上でテレビが何か、言っている。
『−あなたの見ている赤と、私の見ている赤が、同じ色だとは限らないんですよ。例えば、私とあなたが同じリンゴを見ているとしますね。私もあなたも、「リンゴは赤い」と感じる。でも、もし私たちがそれぞれ違った色の見え方をしているとしたら?私の目には、そのリンゴがあなたにとっての緑色に見えているかもしれない。でも私はその色を「赤」だと思って生きているわけだから、私たちの間では「リンゴは赤いね。」という認識だけは通じているわけです。全く違うように見えているのに、それを確かめる方法は何もないっていうわけ。』
なにそれ、意味わかんない。
目を細めながら首だけをひねって画面に顔を向けると、何人かの真ん中に立って、灰色の髪をしたおじさんがやたら大きな手振りで何かを説明していた。
その時、ポーン、という高い音がして、画面の上の方に白い文字が映し出された。
『気象庁が関東甲信地方の梅雨明けを発表 平年より2週間早く』
外はそんなに暑いんだな。この3日間ほとんど家を出ていないから気づかなかった。
「まずいなぁ…」
わざと声に出して呟くと、思ったよりも声が出づらくて、ガサガサしている。
あーあ。クーラーをつけっぱなしにして寝てたせいだ。喉の中がざらざらしている感じがする。
 私はソファに寝そべったまま、机の上につっぷしていたリモコンを左手で拾い上げて、ボタンの数字も見ずに親指の勢いに任せてテレビのチャンネルを変えた。角張った画面から放り出される光は、寝起きで乾いた私の目には少し痛い。目を細めて画面の左上を見ると、「10:37」と表示されていた。私はあきらめて、はじめてリモコンの盤面を見て、右上の隅の赤いボタンを押し込んでテレビを黙らせた。
 生乾きな粘土の塊のようにぐっとりとソファでだれている体を、頼りない腕でのったりと起こして、私は大きく伸びをした。
うーん、肩が痛い。
ソファで寝てしまうと毎回こうなると分かっているのに、この数日、私は毎晩テレビをつけたままソファで寝入るということを繰り返している。
堕落してるなぁ。良くない。前からずっとこの調子だ。
いいじゃない、夏休みなんだから。高校生最後の夏なんだし、このくらい好き勝手したって許される。
 私はようやく、のろのろと立ち上がり、リビングを出て廊下を歩いた。なぜかいつもより天井が低いように感じる。寝起きで頭が重い。なんだか、重力が変になったみたいだ。
電気のスイッチを押し込んで、ドアを開ける。ドアノブも普段より重く感じた。あくびをしながら洗面所に入って、鏡の前に立つ。
ぼけーっとした顔のやつが、鏡の中から私を見ている。ひどい顔だ。私ってこんな顔だっけ。
視線を下ろす。蛇口のレバーを引き上げて、水を出した。ちょっと眺めてから、両手を差し出して、水の柱を遮る。砕け散って形をなくして、そのまま流れていく。あんまり冷たくない。
力を入れてないので、水は溜まることなく、やる気のない指の隙間からじゃらじゃらとこぼれ落ちていく。しばらくそのままぼーっとしたあと、ちゃんと手を引き締めて水をためてから、前かがみになって顔に打ち付けた。
冷たい。
何回も繰り返している内に、だんだん顔の皮膚の下にたまっていた眠気やさっきの夢のなごりが水に吸い出されていくようで、ようやく私は目が覚めてきた。
タオルで顔を拭いて、もう一度顔を上げて鏡を見る。
目の下に薄くクマが浮き出ていた。あーあ。ちゃんと寝ないからだ。顔が元から白っぽいから、よけいにクマが目立つ。
まぁいいか、今日も出かけないし。
鏡の中の私は、すこし身を乗り出して私の顔をしげしげと眺め始めた。
もうちょっと、鼻が高ければなぁ。
私は鏡から顔を離して、冷たさで引き締まった表情筋をちょっと動かしてみた。
大丈夫、ブスじゃない。そこそこ可愛い。そう心の中で言うと、鏡に背を向けて洗面所を出た。
 夏休みの間ずっと一人暮らしが出来るなんてラッキーだと思っていた。単身赴任中のお父さんに、心の中で感謝した。赴任先に遊びに行ったお母さんにも。私は「部活とかで忙しいから」と言って家に残った。映画部なんかが夏休み中に大した活動をするはずもない。でも夏の間じゅう親に縛られずに暮らせるというビジョンが、少し魅力的に思えたのだ。
 実際に夏休みが始まり、初日に母がいかついスーツケースを引きずって家を出て行ったあとは1人鼻歌をふかしながらテレビ棚のDVDを漁り、暇な間はずっと映画のDVDを流しっぱなしにしてたいへん文化的な生活を送っていた。
 でもやっぱり3日も一人だけで過ごしているせいか、何か人恋しいというか、寂しいような気持ちになってくる。あるいは、夏休みになる前からずっとこんな気持ちでいたような気もした。
 昨日の夜も、その淡い紫色のふわふわした、そのくせ強烈な引力を持った感情を胸の内側で持て余しながらバックトゥザフューチャー3を観ていたのだけれど、ソファでだらだらしながらだったのでいつの間にか寝てしまっていたようだった。
はぁ。
リビングに戻って、またソファに流れこむ。
まだ朝ごはんを用意する気力も湧いてこない。私はあちこち見回して、一緒になってソファの隅に寝ていたスマホを見つけた。取り上げて電源を入れ、目の力を抜いたまま、クラスメイトたちの投稿を読み流す。
遊園地のカラフルな背景で撮られた、何人かの集合写真が投稿されていた。
いいなぁ。青春っぽい。
はぁ。
「はぁ。」
わざと壁に響く大きさのため息をついて、私はもう一度大きく伸びをした。そしてソファから体を押し上げ、やっと朝食をとることにした。

お皿。
シリアル。
冷蔵庫。
牛乳。
冷蔵庫。
引き出し。
スプーン。
食卓に運ぼうと思ってお皿にかけたようとした手を、私はそのまま引いた。
いいか、別に、キッチンで立ったまま食べても。誰に見られてるってわけでもないし。
いただきます。
声に出さずに呟いてから、無表情に冷たいスプーンを牛乳とシリアルの白い水たまりの中に、おもむろに突っ込んだ。

B

 目を開けた。ぬるい、湿った空気が充満しているのを感じる。ちょっと顔をしかめてゆっくりと、机の上でどろりとと溶けている上半身を引き上げた。
あと3日過ごせば夏休みだっていうのに、私はどうしてちゃんと起きていられないんだろう。両腕を返して控えめに伸びをした。教室のむくんだ空気が肺胞に沁みてくる。湿度が高い。ため息から湯気が出そうだ。少し息苦しく感じて、窓を開けようと左を向いたら、くすんだガラスに映った私の白い顔が見えた。
 席が一番後ろで良かった。いや、むしろ前の方がよかったかも。後ろだと寝ちゃって授業が入ってこない。学年を重ねるごとに成績が少しづつ落ちてきて、両親にもこの前くぎを刺されたばかりだっていうのに、どうしても居眠りしてしまう。
疲れが溜まってるせいかな。
私は小さくため息をついた。疲れるほどのこともしてないけど、と声に出さずにつぶやく。部活も所詮映画部だし、習い事もなければ塾にも通っていない。去年までやっていたパン屋のアルバイトも、四月に辞めてしまった。放課後なんて毎日暇だ。なのになぜか毎晩、することもないのに1時半くらいまで起きている。だから疲れが取れないんだ。早く寝ようと思ってはいるのに、だらだらしていて気づくと1時とか2時とかになっている。
ダメだなぁ。なんで、自分の思った通りに動けないんだろう。
普通に毎日生活しているだけなのに、体が、あるいは心が、重く感じる。四月くらいからずっとこうだった。何もできていない。
あと3日。いや、この授業が終われば、あと2日。夏休みになれば、きっとなんだってできるようになるはずだ。頭の中で自分にたらたらと言い聞かせる。教室の壁に響かないようにため息をついた。私は左腕で頬杖をついて、湿って重くなった時間がだらだらと流れていく音を、ぼんやりと聴いていた。

 授業が終わって数分経ってから、チャイムは鳴った。周りの席の人たちがそそくさと帰り支度を終わらせて廊下に出て行くのを横目に、私はのろのろと水色のシャープペンを黒の筆箱にしまっていた。その筆箱を、くすんだ紺色の通学かばんに入れる。
マトリョーシカみたいだ。
寝起きでぼやけた頭でふと思った。
シャープペンが筆箱の中に入ってて、筆箱はかばんの中にあって、そのかばんは私の持ち物で、私は−
そこでちょっと、考えが立ち止まった。
私も、何かの中にいるような気がする。
毎日がなんとなく窮屈なのは、そのせいに違いない。
廊下のがやがやは教室に残っている人たちにも伝播していた。窓の外から聞こえる蝉の気だるい絶叫と重なって、私の周りをノイズの膜が揺れていた。
がやがやがやがやがやがや。
がやがや鈴木がやがやがやレポートがやがやがやが扇風機がやがや。
がやがやがや映画がやがや。
思わず声の方を向いた。男子数人が大声で何か話していた。
映画。何か思い出さなければいけないような気がする。
頭の中で映画という単語をほじくり返す。映画、映画…。
あ。
映画部。
そうだ、今日は映画部の活動があるんだった。あまりに不定期な活動だから忘れそうになってしまう。映画の話をしてくれた誰かに少し感謝しながら、私はよれたかばんの持ち手をつかんで立ち上がり、開けっ放しのドアからのろのろと教室を出た。

 「うーん…夏休みどうする?活動する?」
冷房の真下の席に座っている、部長の杉山が言った。男子のくせに私よりもさらさらな髪の毛が、冷房の風と絡んで目の上でふわふわと揺れていた。
「活動っていっても映画観るだけですもんねー。」
扇風機を背にして座っている悠里が頬杖をついたまま言った。左手で下顎が固定されているから喋るたびに頭がカクカク動いて、その度に淡いピンク色のシュシュで束ねたポニーテールがゆさゆさと揺れるのが見ていて少し面白かった。シュシュと同じ色のカバーのついたスマホをいじりながら、悠里はカクカクと続けた。
「私はどっちでもいいですけど。夏美さんは?」
「私?」
突然自分の名前が出たのでちょっとビクッとした。
「うーん…どっちでもいい、かなぁ…」
「はっきりしてくれよ。」
杉山が細い体をパイプ椅子の背もたれに投げ出しながら言った。私は聞いてみた。
「そう言う杉山はどうなの。」
杉山は上を向いたまま答えた。
「俺は何回か集まって映画観たいけど。夏休み、長いし。9月の…4日までだっけ?丸2ヶ月近くあるから、何もしないのはさすがに。」
「あ、夏だからって去年みたいにホラーは無しですよ。私ほんと無理だから。」
頬杖をついたまま眠そうに言う悠里は暑さで溶けかけたアイスクリームのようだった。
杉山は少し困ったような顔をして体を起こした。ちょっと腕を組んで考える仕草をしてから、また投げやりに背もたれに倒れながら呼びかけた。
「いーちねーんせーい。」
部室に散らかったDVDの整理をしていた、5人の1年生部員が振り向いた。頼んでもいないのに、いい子達だ。
杉山は続けた。
「活動したい?夏休み。なんか観たい映画とか、ある?」
一年生たちは顔を見合わせながら少しどぎまぎと小声で話し合い始めた。活動が少ないのもあって、まだ私たちはあんまり一年生と打ち解けられていなかった。
5人の誰かが小さい声で、どっちでもいいです、と言ったのが聞こえた。
杉山はふっと息だけで軽く笑った。少しうーんと考えたあと、諦めたように、
「じゃあまぁ、4回くらい入れとくか。参加自由ってことで。それでいいよね。」
と部室にいる7人を見渡しながら言って、少し折れ曲がった活動予定表を書き入れはじめた。
 私はふと気が付いて、私は悠里に話しかけた。
「ねぇ、きょう玲ちゃんは?」
「あー、今日学校来てないんですよ。熱あるらしくて。」
悠里は大きな目でちょろっと上の方を振り返るようにしながら言った。
「あらら。大丈夫かな?」
「夏風邪だって、電話では言ってましたけど。」
「そっか。」
「そういえば、早川ってときどき体調崩すよな。」
パイプ椅子をゆらゆらしながら杉山が口を挟んだ。予定表を書きながらでも、周りの会話は聞こえているらしい。一つのことにしか注意を向けられない私には出来ない芸当だ。
「体弱いんですよあの子。小学校の時はあんまり学校にも来てなかったし。」
「え、悠里って、玲ちゃんと同じ小学校だったの?」
私は少し驚いた。聞いたことがない話だ。
「夏美さん、知らなかったんですか?」
私は頷いた。
「小学校どころか幼稚園から一緒で。」
「へぇー知らなかった。」
新しい学校に入る時、元から知っている人がいたら、かなり心強いだろうな。
「私この学校で前から知ってる人全然いないからなぁ。」
「私も玲ちゃんだけですよ。前から仲良いってわけでもなかったし。」
私はちょっと悠里の顔に目を向けた。
「じゃあ、高校入ってから仲良くなったの?」
悠里はちょっと考えるように目をきょろっと回しながら答えた。
「んー、っていうか、高校入るまで、そもそもそんなに顔合わせてなかったかなぁ。クラスも1回くらいしか合わなかったし、玲ちゃん中学にも数回ぐらいしか来てなかったから。それでもちゃんと受験勉強してたんだから偉いなー。」
「そうだったんだ。」
不登校、っていう事になるんだろうか。
私は月曜日が来るたびに学校に行きたくないと強く思うけど、病気でずっと来られないとなると、行きたいと思ったりするんだろうか。
 かちゃかちゃという音がしたのでそちらを見ると、杉山が活動予定表を書き終わったらしく、椅子を揺らすのをやめてボールペンを筆箱にしまっていた。筆箱のチャックを丁寧に閉めながら、杉山が言った。
「じゃあ、部室の片付けしなきゃ。」
「えーめんどくさい。」
悠里がさっきよりもさらに溶け出しそうな体勢で机に貼り付いた。
杉山がまた苦笑した。
「夏休み前日に部室点検があるんだよ。それまでに片付いてないとヤバいから。」
「私昨日徹夜でレポート書いてたんですよ?眠すぎて死ぬ…」
悠里は淡いピンク色のシュシュを外して、頭を軽く左右に振った。外したシュシュを左手首にはめると、悠里はそのままつっぷして、寝る体勢に入ってしまった。私は杉山と顔を見合わせて曖昧に微笑んでから、立ち上がって棚の整理に取り掛かることにした。
 DVDは1年生がだいぶ片付けていてくれたので、私と杉山はしばらく、黙々と本や雑誌の背表紙をなぞっていた。
意外と面白いというか、なんか落ち着くな、この作業。部室の乾いた静けさを、雑誌がこすれるカサカサという音や、本を棚に入れた時のトタンという振動が彩っている。私の目の前の映画の雑誌は去年の六月号までしかなかった。廃刊かな。
「ねぇ、水野。」
急に杉山の声がしたので、私は少しびっくりして古い雑誌を持つ手を止めた。
「なに?」
見ると杉山は棚の前に立って、中にあった映画雑誌をパラパラとめくっていた。ページに目を落としたまま、杉山は言った。
「夏休みの部活でさ、観たい映画とかある?」
「え?うーん…」
観たい映画。観たい映画。私は散らかった頭のなかをごちゃごちゃとかき回した。たくさんあった気がする。こういう時に限ってどうして出てこないんだ。何かあったのに。思い出そうとして、頭の中で観たい映画、観たい映画と何度も繰り返し唱える。唱えれば思い出せるんだろうか。思い出すってそもそも、どうやってやるんだっけ。
杉山の視線を感じたので、私は諦めて顔を上げた。
「…なんでもいい、かな。」
私はさっきと同じ顔で曖昧に微笑んだ。
「なんでもって言われてもなぁー。」
杉山はあくびみたいな声で嘆くように言うと、雑誌をたたんで棚に戻した。
「俺もなんでもいいんだよね。水野、映画詳しいし、何本か選んでよ。」
「えっ、私が?」
思ったより大きい声が出てしまって、それにまたびっくりして、私は声のトーンを下げた。
「いや、私は全然だし…杉山だって映画、すごい詳しいじゃん。」
杉山は少し下を向いて、小さく笑った。
「俺は適当に、気になったの借りてるだけだから。音楽の二の次だし。」
「とか言っておきながら、部長やってるじゃん。」
「まぁ、一応。」
杉山は雑誌に顔を近づけた。
窓から日射しが突き通って、杉山が逆光になっていた。元から色素の薄いサラッとした髪の毛は、光に透けて赤茶色に光っていた。
何しててもサマになるなぁ、杉山は。ちょっと羨ましくなった。
「そういえばさ。」
私はふと、前から疑問に思っていたことを口に出した。
「杉山って、どうして軽音部入らなかったの?楽器、上手いのに。去年文化祭出てたじゃん。」
「軽音部ねぇ。」
パタン、と杉山が雑誌を閉じる音の乾いた振動が、湿った空気の中に軽く響いた。
「あんまり趣味合う人がいなくて。俺の好みが偏ってるからだけど。」
「偏ってるって?」
「軽音部でやってるような、なんていうか、そういう曲があんまり好きじゃなくて。」
杉山は雑誌を棚に差し戻した。
「そうなんだ。」
なんとなく、分かるような気がした。
いつもどんな音楽聴いてるの、とも聞いてみたかったけど、今はやめておくことにした。聞いたとしても、たぶん私には分からない名前が出てくるだろうとも思った。
 会話が途切れて、私たちは棚の整理に戻った。右手と左手が雑誌の背表紙を番号の順に入れ替えていくのを、ピントを合わせずに私の頭は眺めていた。
夏休みかぁ。
お母さんがお父さんの転勤先に行くから、夏休みの間は一人で生活できる。それは楽しみだった。
楽しみだけど、なぜか少し、気分が重いような気もした。
何すればいいんだろう、一人で。
「あの、水野先輩?」
「はい?」
後ろから声がして、私は我に返った。振り返ると、1年生の植山さんが立っていた。
「あの、これ、向こうの箱の中に入ってたんですけど。どこにしまえばいいですかね?」
植山さんはそう言って、手に持った白い冊子のようなものを差し出した。
「うん?何だろう、これ。」
たくさんのA4のコピー用紙で作った冊子のような物だった。私はそれを両手でそっと受け取った。けっこう分厚くて、植山さんが手を離すと同時に向こう側が重さでずるりと垂れ下がった。少し手がぐらつく。
戻してよく見てみるとそれはだいぶしわついていて、灰色にくすんでいた。
「何、それ。」
杉山が右から覗き込んで来た。
私は、それを適当に真ん中あたりで開いてみた。
「…台本?」
「だね。」
それぞれのページは狭い左側と広い右側にまっすぐな線で区切られていて、左側には「中山」とか「木田」とか、人の名前がまばらに書いてある。それに合わせて右側には鉤括弧で挟まれた文章が連ねられていた。そのうちのいくつかは赤のボールペンで線を引かれたり、余白になにか書き足したりされていた。
「何のだろう?」
私は杉山を振り返った。杉山はページを覗き込んだまま言った。
「さぁ…ここにあったってことは何かの映画のなんだろうけど。」
ちょっと貸して、と言われたので私はそれを杉山に手渡した。杉山はそれをパラパラとめくりながらしばらく眺めていた。私と植山さんはなんとなく視線を浮かせながらしばらく待っていた。
植山さんと話すの、入部説明の時以来だ。ちょっと顔を見ると、植山さんは足元あたりでちらちらと視線をふらつかせていた。
この子達、ついこの前まで中学生だったんだ。私の中学時代なんて、もう別な世界の出来事のような気さえする。
どんな映画が好きなの、と声に出そうと思った時、杉山が視線をページに向けたまま言った。
「自主制作、かもね。」
「自主制作?」
私は杉山の方を向いて、もう一度植山さんの方を振り返った。一瞬目が合って、とっさにまた杉山のほうに視線を戻してしまった。
「映画部で作った、オリジナルの映画っぽいよ。」
杉山は最後のページを開いて、ほら、と指し示した。見開きのページの真ん中に、水性ペンのくすんだインクで「17th明高映画部」と、何重かに重ね書きされていて、周りにいろんな筆跡で、ばらばらな向きで短い文章と名前が書き殴られていた。寄せ書きのようだった。楽しかったですとか、来年も作りたいとか、踊った文字でばらばらに書かれていた。
なんとなく、胸の中がひきしめられたような感じがした。
「こんなの作ってたんですねぇ…」
植山さんが細い声で、つぶやくように言った。
「ね。私も知らなかった。」
私が言うと、植山さんがうなずいた。
いつのなんだろう、と、誰に聞くともなしに声に出したら、杉山がそれに答えた。
「5年前とか、多分。確か俺らが22代のはずだから。あれ、21だったかな。」
「あ、じゃあ意外と最近なんだね。」
「うん。」
杉山は台本を閉じて私に返した。植山さんが言った。
「もしかしたら、DVDとか残ってるかもしれないですね。」
「そうね。今度探してみようか。見てみたいし。」
と言うと、植山さんは少しほどけた表情になってうなずいた。

 片付けが終わったのは5時過ぎだった。ちょうどだいたいのものが片付いた頃に、悠里が機嫌の悪い三毛猫みたいに唸りながら起きてきた。植山さんは他の一年生のところに戻ってDVDの整理を仕上げていた。
 夕方5時になるとチャイムが鳴る。部室が片付いたのはちょうどそのタイミングだった。部室の壁掛け時計はずっと前から壊れていて、6時50分くらいを指したまま力尽きていた。
「意外と広いんですねー部室って。」
悠里が、いつもならぱっちりと開いている厚めの瞼を半分くらいずり下ろしたままぼーっと言った。私もそう思った。床に散らばっていた段ボールやDVDを片付けるだけで、急に部室がよそよそしく感じられる。
 テレビとデッキの載った、壁際のスタンド。壁の上の方にはなぜか古そうな神棚がついている。さすがにそこまで掃除する時間はなく、埃をかぶったままだった。スタンドの脇にはいつもは床に散らばっているトトロのクッションや緑色のバランスボール、水色のヨガマットがまとめられていた。あのヨガマット、床に座って観る時には使うけど、ボロボロで服にくずが付く。部費で買い替えられないのかな。
 広く感じるのは床がすっきりしているからなんだろうと気付いた。机も真ん中と窓際に集められていた。私はすることがない。何か少し申し訳ないような、重心の安定しない気持ちになってくる。杉山は腕を組んだまま回転椅子に座ってゆらゆらしていた。私は寄せ集められた6脚の机の周りをふらふらと歩き回ることにした。
 
 1年生の男子3人がゴミ捨てから帰ってきたので、解散になった。
お疲れさまです、とかありがとうございました、とか言いながら、1年生がぞろぞろとドアに向かって行った。先頭の男子がドアに手をかけ、しばらくがたがたと鳴らしてからようやくドアはスライドして、1年生たちはもう一度、ありがとうございましたと言いながら廊下へ出て行った。
私は悠里に声をかけた。
「悠里、帰る?」
「あ、私きょうバイトでーす。」
「あ、そっか。水曜だもんね。」
「そうですそうです。行きたくないなー…」
悠里はのろのろと通学かばんを肩にかけると、おつかれさまでしたーと間延びした声で言って、開けたままのドアから出て行った。
急に部室が静かになった。廊下から、歩いて行く悠里の足音が、ぺたん、ぺたんとゆっくりした隙間を開けながら響いてきた。
私もそろそろ帰ろうかな。帰ったところでする事もないけど。
杉山は帰らないのかな、と思って椅子の方を見たら、腕を組んで座ったままうとうとと揺れていた。私は少し迷ってから、立ち上がって近付き、杉山の肩を軽く揺すった。思ったよりも肩が薄くて軽かったので、激しく揺すったら壊れてしまいそうだと思った。
悠里と違って杉山は静かに目を覚ましたが、しばらくそのままぼうっと前の方を見つめていた。
「杉山?帰んないの?」
杉山はゆっくり私の顔を見上げた。3秒くらいそのままだったが、ようやく状況を把握したらしく、
「…いま何時?」
といつもよりしっとりした声で聞いてきた。私はスマホの画面をつけた。
「5時10分。」
それを聞いた杉山は大きく伸びをして、ふうっと息を吐いた。それでだいぶ目が覚めたらしく、今度はいつも通りのトーンで、
「みんなもう帰っちゃったのか。」
と言った。私が頷くと杉山は聞いた。
「水野は、帰らないの?」
さっき私が杉山に言ったことだ。いま帰るとこ、と言ったら、そっか、と言われた。
「俺も鍵閉めて帰る。」
杉山は筆箱をキナリ色のトートバッグにしまい、机の上に置いてあった鍵を持つと歩いて部室を出た。私もそれに続いた。
廊下に出ると、部室棟は静かだった。外ではまだセミの声が絶え間なくしゃらしゃらと震えていたが、窓のしまった部室棟の廊下では、それが遠くにくぐもって聞こえた。クーラーがついていない廊下は蒸し暑くて、ワイシャツが湿ってしまいそうな気がした。
杉山は部室のドアを閉めると、緑色の札のついた鍵を鍵穴に差しこんで、回した。ガシャリ、という重い音が静かな部室棟の廊下でやたらに響いた。
「じゃあね、俺これ返却してくるから。」
「うん、お疲れ。」
杉山が薄暗い廊下を早足で進んでいった。私はひとつ深いあくびをしてから、同じ廊下の反対側へ、のろのろと足を動かし出した。
 一人になった途端、急に疲れを感じた。肋骨の内側に、ずっしりと重いぶよぶよした何かがあって、それを締め上げていたひもがするっとほどけてしまったみたいだった。
なんだかなぁ。
24.5センチの上履きの先っぽを見つめながら階段をおりる。買い換えなきゃなぁ、上履き。かかとがすり減ってつるつるになってしまっているのだ。あと2日だけ耐えてくれ。夏休みの間に新しく買うから。
夏休み。
私は一度ため息をついた。
高校で最後の夏休みが、もうすぐ始まる。受験勉強をしないといけないわけでもない。なんでも、好きなことができる。最高じゃない。心の中で、わざとそう言ってみた。
なんか、違うんだよな。
なんなんだろうなぁ、この感じ。
あまりにもふわふわしていて、自分でもよく分からないけど、ただなんとなく、重かった。
 まぁでも、きっと夏休みが始まったら、気分が上がるに違いない。そう思っておこう。私は頭の回転を一旦止めると、いつの間にか止まっていた足を動かして階段をくだり、下駄箱へ向かった。

C

 「−ずの、水野。」
「なつみせんぱーい。」
ふわふわ漂っていた意識が急にぎゅんっと一点に集まる音がした。
「珍しいですね、夏美さんが途中で寝ちゃうなんて。」
机、と認識するのにしばらくかかったが、つっぷしていたその机から顔を上げると、向かい側に杉山が座っていた。声のした方を振り返ると、悠里が傍に立っていた。
「…最近夜更かししすぎてるせいかな…」
「もう終わっちゃいましたよ、映画。」
悠里はクスッと笑って向こうの椅子に戻っていった。
 夏休みに入って1週間、家で映画やテレビを見る以外はほぼなにもせずに生活している。それなのに毎晩寝るのが遅い。その上ソファで寝るから深く眠れてないらしく、眠気がたまっていた。食事も食べたり食べなかったりで、元から軽めな体重が、また1キロくらい減っていた。まぁデブになるよりは痩せてる方がいい。
 こみ上げてきた欠伸を頭から押し出して、部室を見回した。テレビは、乾いた音で映画のエンドロールを流している。みんなめいめい机やパイプ椅子に座ってそれを眺めていた。みんないつも通りに制服を着ているのに、なぜかいつもより似合っていないような気がした。夏休みだからかな。冷房がため息のような音をさせながら、冷めた空気を垂れ流していた。
私は、向かい側の席で頬杖をついてテレビを眺めている杉山に話しかけた。
「なんの映画観てたんだっけ。」
「何って、水野が持ってきたやつ。アヒルと鴨のコインロッカー。いつから寝てたの?」
「…瑛太が出てきたとこくらいかな…。」
「それ、かなり序盤。」
苦笑いする杉山から視界を回して、またみんなのほうを見た。エンドロールが終わって、悠里が伸びをしていた。隣には玲ちゃんが座っていて、眠そうな悠里にすごかったねーと話している。一年生は女子3人と男子2人が、それぞれ近くに集まって座っていた。
「山下ー。」
杉山が呼びかけると、悠里が伸びをしたままはーいと振り返った。
「ディスク出してしまっといて。」
「えー面倒臭い。」
そう言いながらも悠里は席を立って、テレビの前で屈んだ。
「他のやつと一緒に置いとけばいいですよね。」
悠里が顔を上げて言ったので、杉山はうんうんとうなずいた。
私はまたぬるいあくびをして、ぼうっと机の上を眺めた。
夏休み前からずっと感じているモヤモヤしたもの。これは、きっと虚無感とかいうものなんだろう。夏休みになればその瞬間からパッと、気分が明るくなるような気がしていた。でも休みに入って1週間もたったのに、そのモヤモヤは消えることはなく、それどころか寄り集まって、もっと重くてでこぼこした物体に変わってしまったようだった。
焦り、ってことかな。
 私は、なんというか、自分の気持ちを認識するのが苦手だ。はっきり「うれしい」とか「腹がたつ」みたいに出てくることがなく、なんとなく肋骨の内側で、もやもやした煙みたいなものがいろいろに反応を起こして、それを外から眺めているような感じ。映画好きはそういう所からも来ていて、私の好きな映画は、私の中にあるそういうものをはっきりとした形にで私の前に出してくれるような気がして、だから私は映画を観るのが好きだ。だからその分、そういう深くえぐりとるような表現のない映画はあまり好きじゃない、というか、嫌いだ。
その映画を観ている最中に寝落ちするなんて。
なんかなぁ。
なんにもしてないな、私。
「なにかしないとなぁ…」
杉山がこっちを見てきたので、ひとりごと、と慌てて言い訳した。
「どうしたの、急に。」
杉山が斜めな視線を向けながら聞いてきた。私はあきらめて言葉を続けた。
「いや、なんかせっかく夏休みなのに、何もできてなくて。」
これじゃわかんないな。あわてて付け加える。
「なんにもしてないのに、やたら疲れるっていうか。何かしたいような気がするんだけど、なにがしたいのかわかんない?みたいな。」
「よくわかんないこと言うね。」
うまく説明できなくて、だんだんイライラしてきた。言葉に出そうとすると、うまく表せない。私はもう一度落ち着いて頭の中で言葉を並べ直してから、言った。
「映画部もそんなに活動しないし、バイトとかもしてないから、私すごい暇なのね。でもなんか、暇でいることに飽きちゃったっていうか、なにかこう、思いっきりなにか、やってみたい、ような気がする。」
「あー、それはちょっと分かる気がするかも。」
「うん。どうすればいいんだろう。」
「それはちょっと分かんない。」
杉山がふわふわと答えたので、私は言い返した。
「まじめに悩んでるんだから、なんか考えてよ。」
杉山はちょっと私の方を見ると、うーん、と息混じりに言った。
「アルバイトでもまたやれば?」
「それもなんか…なんかこう、純粋に打ち込んでみたくて。」
杉山はまたうーんと考え始めた。
「そんなこと言われてもな…。映画好きなんだし、映画部でなにかやる?夏休み長いし。」
「あー、それもありかなぁ。」
「って言っても、映画部でなにができるかっていう。」
こんどは私がうなる番だった。
映画観るだけだもんなぁ、映画部…。
高校の部活の思い出が映画を観ただけなんていうのも、すこし寂しいような気がする。美術部よりも活動が少ないのだ。あの部も最近は結構絵のうまい子が多くて、「サブカル部」の汚名を返上し始めているらしい。
 少し前、放課後に美術室の前を通った時、美術部の2年の女の子が、絵の具で汚れたしわくちゃのスモッグを着て物凄く鋭い目でキャンバスを見つめているのが見えて、すこし胸がひきしまった。映画部で、そうやってまっすぐに打ち込めるものって、何かあるんだろうか。ああいう目つきで何かを見ることはあるんだろうか。じっと手元を見つめる、猫のようにギラッと光る目をした誰かの顔が一瞬頭に浮かんで、消えた。
 ふと、1週間前に見た寄せ書きが頭の中に映し出された。それはだんだんズームアウトして、一冊の台本になった。
映画の脚本。
5年前の映画部は、自主制作で映画を撮っていたのだ。
部活で映画作り。青春っぽい響きのする言葉だ。いかにも『文系の青春』な感じだ。そういうコテコテな青春を、少し体験してみたいなと思った。そういう事を考えてる時点で、もしかしたらもう私の青春は終わっているのかも知れないけれど。
私は杉山に向かって言ってみた。
「…作る、とか?」
杉山がこちらを見た。
「何を?」
「映画を。」
さすがに無理かな、と思った。でも最後のページの寄せ書きがなんとなく記憶に貼り付いていた。きっと、5年前の映画部の人たちは、あの人みたいな鋭い目で台本をにらみつけて、映画を作っていたのかもしれない。ぼんやりとそう思った。
「いいかもね、それ。」
杉山が頷きながら言った。
「え、本当に?」
「うん。ちょっと面白そう。やってみる?」
「でもみんな、嫌じゃないかな。」
杉山が思ったよりも乗り気で、逆に腰が引けてしまう。
「何がですか?」
頭の上で声がしたのでばっと顔を上げて振り返ると、いつの間にか悠里が玲ちゃんと一緒に私の後ろに立っていた。杉山に顔を戻すと、頷いて説明を促してきたので、私はおそるおそる言いだした。
「あのね、映画部のみんなで映画を撮ってみたら、面白いかなぁって話になったんだけど。」
「そんなことできるんですか?」
悠里は元から大きな目をさらに丸くした。
「いや、分からないけど。」
「いいですね、それ。」
悠里のうしろから玲ちゃんが顔を出して、水色の声で言った。
「本当?」
玲ちゃんは耳元までのまっすぐな髪を揺らして頷いた。かわいいなぁ。
「やってみたいです、せっかく、夏休みなんだし。」
玲ちゃんと悠里も思ったより乗り気だった。私は視線を浮かせた。
正直、少し怠かった。やってみたくない訳ではないけど、結局中途半端なまま終わってしまいそうな気がして、ちょっと気が遠くなる。
ここしばらく、ずっとこうだ。何をするにも、私の周りを覆っている厚ぼったい空気が邪魔をして、何もかもが遠く、ぼんやりして見えている。そう言う事を考える度に、怠惰な自分に腹が立つ。自分でいいだした事なのに。
「本格的なのはさすがに無理かもしれないけどさ。」
杉山がスマホを見ながら言った。
「でも多分、ストーリー考えて、脚本書いて、ビデオカメラかなんかで撮るみたいな感じだったら、俺らでも作れるんじゃないかな。短めのやつだったら。」
私は杉山の顔を見た。
「ほら、これ見てよ。」
そういって杉山はスマホを机の上に置いた。私たちが上から覗き込むと、画面には自分でショートムービーを撮った人のブログが表示されていた。
「『映画 自作』でググっただけなんだけど、結構いろいろ出てきた。」
「意外とやってる人いるんですねぇー。」
悠里の言葉に、玲ちゃんはうんうんとうなずきながら画面をじっと見つめていた。
杉山が顔を上げて、私を見た。
「どう、水野。やってみない?」
私が言い出したのに、杉山に聞き返されるのはちょっと変な感じだった。でも杉山や悠里や玲ちゃんの反応を見ると、何となく出来そうな気がしてきた。
私は細く息を吸って、胸の中で漂っている紫の感情を冷ますと、無理やり勢いづけて首を縦に振ってみせた。
「よし、じゃあ、決定。」
杉山が言った。
なんか、すごいあっさり決まるんだ。
すると杉山は楽しそうに笑って、言った。
「でも結構人数が要るよね。俺らが二人、2年も二人でしょ。それで1年生が…」
杉山は5人の一年生の方を見た。1年生同士は打ち解けてきたようで、5人はにこやかにおしゃべりをしていた。
「おーい、1年生。」
杉山が声をかけると、5人はおしゃべりの笑顔のなごりを残したままこっちを向いた。
「映画部でさ、映画作らない?夏休み2ヶ月近くあるし、何もやんないの、つまんないと思って。」
一年生たちはちょっと控えめに、はい、とか、やりたいです、とか言いながら頷いていた。無理矢理頷かせたみたいな気がしかけたけれど、植山さんが明るい笑顔を私の方に向けてきたので私はちょっと安心した。

 部室のホワイトボードが使われるのを初めて見た。というか、ホワイトボードがあった事さえ忘れかけていた。奥の方にうっちゃられていたのを悠里が見つけて引っ張り出してきたのだ。みんなホワイトボードの前に机をくっつけて座った。私はちょっとそわそわしながらその中にいた。杉山はボードの前に立って、ペンを手でもてあそびながら言った。
「全員あわせて9人か。けっこういろいろできそうだけど。」
杉山はキャップを引き抜いた。
「まずは分担を決めないと。」
そう言うと杉山はホワイトボードに勢いよく「監督、脚本、カメラマン…」と箇条書きで書き始めた。
さっきスマホで調べて、だいたいどういう役割が必要か、決めてあった。
音声、音楽、出演者…
「けっこうギリギリですね、人数。」
悠里が杉山に向かって言った。
「うん。でもまぁカメラマンとか以外は掛け持ちできそうじゃん。」
そう言って杉山はペンにキャップをはめ、私たちの方に向き直った。
「とりあえず、どれかやってみたい人いる?」
私がちょっと迷っていると、一年生の男子が軽く手を挙げた。
「あの、俺ビデオカメラ持ってるので、カメラやってみたいです。」
えーっと、何くんだっけ。なんとか西。
私はこっそり隣の玲ちゃんに聞いた。
「あの子、名前なんだっけ。」
「川西くんです。」
あー、そうだ、川西くん。玲ちゃんはくすくすっと笑った。
「おっけー。じゃあ川西がカメラね。」
杉山は赤のペンで書き足し始めた。
川西くんと周りに座っている一年生たちが、すげぇなとか、カメラがなんとかとか、面白そうに話していた。
「ほかは?」
誰も手を挙げる気配がなかった。
私は思い切って、とは言っても少し遠慮がちに見えるように、のろのろと低めに手を挙げた。杉山がこっちを見た。
「できるかわかんないだけど、脚本、やってみたいかも。」
「えー、お前監督じゃないの?」
監督、というどっしりした響きにびっくりしてしまって、私は慌てて言い返した。
「え、そんな監督なんて、できないできない。」
「でも言い出しっぺじゃん。」
「そうだけど、監督なんて大それた事…」
玲ちゃんが隣から楽しそうに笑いながら口を挟んだ。
「杉山先輩がやってくださいよ、部長なんですから。」
「そうだそうだー。」
悠里も便乗した。杉山は苦笑して、
「こうなる気はしてたけど。」
というと、監督にところに平仮名で「す」を書いて丸をつけ、脚本に「水野」と書き入れた。
「そういえば、音声って、何するんですか?」
気が付いたように玲ちゃんが言った。
「なんだっけ?」
聞かれた杉山は私に疑問符を跳ね返してきた。私はあわてて隣の玲ちゃんを向いて、口を開いた。
「あのね、カメラのマイクだとちゃんとセリフを拾えないから、ちゃんとしたマイクをつないで、それを演者に近づけて録るの。それが音声の仕事、のはず。」
さっき杉山に見せられたスマホの画面を頭の中で読み上げた。
「へぇー、そんな役割もあるんですね。」
玲ちゃんは感心したみたいだった。すると奥側から控えめな細い声がした。
「あの…音声、やってみたいです。」
見ると、植山さんが細い腕をそろそろと挙げていた。私と目が合うと、少し恥ずかしそうに微笑んだので、私も微笑み返した。肋骨の中の煙は少し色が淡くなって、温度が上がった。
「はい、音声が植山。」
杉山がさらさらと書き入れた。
「その下の音楽っていうのは?」
悠里がホワイトボードを指差した。
杉山少しボードの上で視線を迷わせてから、音楽の文字を見つけて、説明しだした。
「あぁ、これはBGM作ったりする人。まぁこれは、俺が。」
杉山はまた赤のペンで丸に「す」を書いた。
「あとは役者だな…」
杉山はこっちへ向き直った。
「主演、やりたい人。」
目に見えていたけど、誰も手を挙げない。
私は杉山にひっそり聞いてみた。
「…演劇部から連れてくる、とか?」
「仲悪いんだよ、演劇部。そもそも映画部って、演劇部を見限って出てきた人たちが作ったらしくて。それがずっと続いてんの。」
そういえば、前に誰かに聞いたことがある話だった。たしかに私もあまり仲の良い演劇部員は、周りにはいない。
「自分からやりたい人がいないなら、他推にしません?」
悠里が少しにやつきながら言った。
「ねぇ私は無理だよ。」
玲ちゃんが顔を低くしながら悠里にすがるように言った。悠里は口を尖らせて言った。
「だって本当に玲ちゃんがいいんだもん。」
玲ちゃんは少し頬を赤くして困ったように笑った。
悠里が玲ちゃんを推す理由は私から見ても明らかだった。確かに、玲ちゃんは可愛い。普通、クラスに数人はそれなりに可愛い女子はいるけど、玲ちゃんは、とびきり可愛い。肌は透き通るようで、朝日で光る湖みたいに白くて、髪はまっすぐで真っ黒でつやつやしていて、目は嫌味無くパッチリと開いていて、なんというかもう、神々しいのだ。毎朝鏡の自分に向かってまぁまぁ可愛いと呼びかけている自分が恥ずかしくなる。
それに、声もすごく綺麗だ。去年入学した時、演劇部や合唱部から散々声をかけられていて、『すごい1女がいる』と噂に聞いた。玲ちゃんは結局たくさんの部からの熱い誘いを、人付き合いが苦手だから、体が弱いからと言ってすべて断って、この映画部に途中入部で突然入ってきた。最初に玲ちゃんが部室に来た時を思い出す。確か六月くらいだったけれど、その日は部室には私しかいなかった。部室の固いドアが一気にがらがらっと蹴り開けられて、「こんちわー」と言って仁王立ちしている悠里と、その後ろで申し訳なさそうに立っている玲ちゃんが現れた時、私はそっちを見たまま口をポカンと開けて固まってしまった。その日いなかった3年生や杉山に代わって、ガチガチに緊張しながら部活紹介をしたのを覚えている。たしかそのあと、私がDVDを持って来ていた『リンダリンダリンダ』を3人で観たのだった。
 クラスでも、メインの女子グループや男子とは絡まずに、ずっと悠里と一緒にいるか、それ以外の時は1人でいるらしい。それも相まって、クラスや学年では幻のような存在になっている。超絶美形なのに人と話さない美少女。ほとんどフィクションだ。それで時々、噂をきいたらしい男子が映画部の部室を覗き込みに来る。こっそり見ようとしていても、部室のドアは古くて開きにくいから、隙間を開けて覗こうとするとガタガタと音が鳴って、すぐに気付く。玲ちゃんの防衛体制は完璧だった。
 うん、確かに主演にぴったりなのは、どう考えても玲ちゃんだ。
杉山もそう思ったらしく、玲ちゃんに向かって言った。
「俺も早川がいいと思うなぁ。画的にめちゃくちゃ映えそうだし。」
よくそういうことをさらっと言えるよなぁと思った。同じ女子の私でさえ、玲ちゃんに対してはちょっと萎縮してしまってなかなか言い出せない。
玲ちゃんはちょっと困った様子だった。しばらく黒目をきょろきょろ泳がせたあと、玲ちゃんは私に向かって、言った。
「あの…夏美先輩がやって欲しいなら、やります。」
「私?」
思わず目を見開いた。玲ちゃんは少し俯いてまま、うなずいた。なぜ私に聞くんだろう。分からなかったが、でも玲ちゃんにはぜひ主役をやってほしかった。頭の中できちんと言葉を並べ直してから、私は言った。
「玲ちゃんがやってくれるなら、私は嬉しいけど。」
それを聞いて、玲ちゃんは恥ずかしそうに、でも嬉しそうに、淡くピンクに滲んだ頰で微笑んだ。
「じゃあ、決まりで。」
杉山が主演の欄に「早川」と、ペンをボードに滑らせた。

 「その他演者」のところに「山下、鈴原、佐々木、関」まで書き入れたところで、杉山が手を止めた。腕を組んで、しばらくホワイトボードをしげしげと眺めてから杉山が言った。
「男子、少ないね。」
確かにそうだった。もともと杉山と川西くんと鈴原くんの3人しかいないのに、杉山が監督をやって、川西くんがカメラマンをやったら、演じる男子は鈴原くんの1人になってしまう。
「祐希さんが出ればいいんじゃないですか?」
悠里が目をきょろっと開いて言った。杉山が大げさに振り向いた。
「え、俺が?」
「嫌なんですか?」
「いや、嫌ではないけど、監督と音楽もやるからなぁ。」
「あーそうか。困りましたなー。」
悠里はあまり困っていない様子で腕を組んだ。左の手首にはめたいつもの淡いピンクのシュシュを、右手でくるくると弄んでいる。私はそれをなんとなく眺めながら考えた。
確かに、監督と音楽に加えて、セリフを覚えて演じるのまでやったら杉山は相当忙しくなる。かと言ってカメラマンと演者はどうやったって兼任できないしなぁ。でも男役が1人じゃどんな話にすればいいか、見当もつかない。
杉山もどちらかというと「画的にめちゃくちゃ映えそう」な人間だ。あと、私の作ったセリフを杉山に言わせてみたいという気持ちもちょっとあるし、出演して欲しくはある。
 音楽は、さすがに杉山にしかできないよなぁ。鈴原くんと川西くんは確か吹奏楽部出身で、鈴原くんは今も続けているらしいけど、さすがに映画のBGMを作曲するなんて、難しいだろう。
代わるなら、監督しかないのかな、やっぱり。
いや、私に監督なんて、できるのか。
でも杉山を出すにはそれしかない。それに脚本は、撮影が始まってからはそんなにすることもないかもしれないし。でもこなしきれるだろうか、私なんかに。
映画って言ったって、ビデオカメラで撮る30分の自主制作だし、そんなに大変じゃない。なんとかなる。
いや、でもできる気がしない。遠すぎる。私には遠すぎる。ゴールが見えない。
そうだ。結局私は、何もできない。何も完成させられないし、中途半端だ。怠惰だ。ずっとそうだ。この何ヶ月もの間、ずっと。映画を作ろうって言い出したのも、全然本気じゃないのに。無理だ。
いいのかよ、それで。
今の私は、ただのクズだ。夏休みと憂鬱を言い訳に美化しようとしているけど、本当に堕落してる。こんなままじゃ、顔向けができない。
鋭い目つきで手元を見つめる猫みたいな目が、また頭に浮かんだ。
気付いたら浅い息を細かくついていた。私は恐る恐る顔を上げて、おずおずと杉山に聞いた。
「…ねぇ、監督って、どんな仕事をするの。」
「うん?今回は、大体のストーリーとか考えて、撮るときに色々言って、って感じかなぁ。」
ほとんど内容は頭に入ってこない。杉山が説明している間に呼吸を整えて、頭の中で勢いをつける。
私は2回、深く呼吸をしてから、思い切って右手を挙げた。
「あの…」
みんなの視線がさっと音を立てて私に集まった。
急に脈が重くなる。私はさらにもう2回呼吸して、慎重に言った。
「あの…もしあれだったら、私、監督やろうか…?」
杉山が少し驚いたように目を見開いた。隣に座っている玲ちゃんが私と杉山を交互に見るのが、視界の端に映った。
さあ、もう後戻りできない。胸の中で何かがごうんごうんと思い音を立てて回転し始めている。
杉山が言った。
「いいの?」
「うん。…脚本と同じだった方が、監督もやりやすいかもだし。」
「そうだね。ありがとう、助かるわ。」
杉山は頷きながら言うとホワイトボードに向き直った。
「それじゃあ監督と脚本が水野で、俺はBGMと演者、と。」
ホワイトボードの文字が拭き取られて、書き換えられていった。監督の欄の「す」に濁点がつけられ、「み」と「の」が両脇に書き加えられた。
監督、みずの。
ごうん、ごうん。胸が鳴る。決まってしまった。もうやるしかない。
監督かぁ。
「すごいですね、夏美先輩。」
隣から玲ちゃんの声がした。びくっとして振り向くと、玲ちゃんはにこにこしながら言った。
「大仕事ですね、監督と脚本なんて。」
「本当にね。やる気出さなきゃ。」
私は今更湧いてきた緊張を紛らわしたくて、伸びをした。あくびと一緒に、疑問が一つ湧き上がってきた。私は玲ちゃんに聞いた。
「ねぇ、そういえばさ。」
玲ちゃんはくりくりした目を私にまっすぐ向けた。
「どうしてさっき主役やるかどうか、私に聞いたの?」
玲ちゃんは、ああ、と言って少し顔を傾けた。
「私も、よく分かんないです。なんか、緊張しちゃって。」
玲ちゃんはそう言って、綺麗な顔で少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「頑張りましょうね。」
私はぼーっとしていた。
「夏美さん?」
「あ、うん。頑張ろうね。」


 「ただいま。」
誰もいない家の中に向かってわざと大きな声で言った。乾いた壁に細かく響く。何かいい気分だ。蒸し暑いローファーから足を引き抜き、自分の部屋に向かう。
 鞄を置いて、制服を脱ぎ捨て、ジャージのズボンとトレーナーに体を突っ込んで、私はパソコンの前に座った。
 次の部活までに、作る映画のあらすじを考えないといけない。みんなで案を持ち寄ったほうが私の負担が少なくて済む、とも言われたけど、一度私にやらせて欲しいと言って帰ってきた。結局、私が大まかなあらすじを考えて、みんなでそれに肉付けしていって撮影をしよう、という結論を杉山がホワイトボードに書き付けた。そのために夏休み中、4回しかやる予定のなかった部活を、映画作りのために2日に1度のペースで、それから撮影し始めてからはほぼ毎日、する事に決まった。一気に夏休みの方向性が変わったなぁ。パソコンの画面の読み込みバーがどくどくと満ちていく様子が、胸の中を表してるような気がした。
青いWのアイコンをクリックして、ワードを立ち上げる。読み込んでいる間に、机の奥に突っ伏していたレポート用紙のパッドを引き寄せて、筆箱からボールペンを出した。
何から始めたもんかな。
引き受けてはみたものの、監督なんてもちろんやってみたこともない。六月の演劇祭では毎年脚本をやってはいるけど、元からある小説や映画を短縮するだけなので、オリジナルの話を作るのは初めてだ。大変そうではあるけど、私の中で何かが熱くなり始めていた。
 とりあえず、主演をやることになった玲ちゃんの姿を頭の中で映してみた。玲ちゃんに、どんな役をやらせるか。
あんまり派手な効果の必要なSFやファンタジーはやりにくいからドラマ系で行こう、というのだけがさっきの部活で決まったことだった。
うーん。
あんまり、玲ちゃんが他人の役を演じているところが、想像できない。なるべく、玲ちゃん本人の、そのままに近い役にしたい。
そうすると主人公は女子高生っていうことになるよな、やっぱり。女子高生が主人公の映画となると普通は恋愛ものだけど、そっちに走るのは何か安直な感じがして気が進まない。というか、そもそもそういうのの脚本を書ける気が全くしない。恋愛、全然してないもんな、私。それに、最近よくやってる少女漫画系の映画みたいに安直な話になってしまうのも嫌だった。恋愛ものは無し、か。
だとしたら、何にすればいいんだろう。
というかまず、女子高生が主人公の映画ってどんなのがあったっけ。
私は一度勉強机から立ち上がって、部屋の床に散らばったパンフレットやチラシを踏まないようにしながら、大股で部屋を出た。リビングのテレビの前に座り、この1週間で散々漁りまくったDVD類のラックを見る。お母さんはいつも五十音順に並べ直しているけど、今は私のせいで完全にシャッフルされていた。このくらいごちゃごちゃしてる方が見てて楽しい。
『耳をすませば』。恋愛ものだ。最近観てないから暇な時観よう。
東京ソナタ、ハリーポッター、アフタースクール、ハッピーフライト…『リンダリンダリンダ』。バンドものはキツイかな、さすがに。電車男、トトロ。小さいときに繰り返し観たな、懐かしい。魔女の宅急便。うーん、惜しい。松ヶ根乱射事件。無理だなさすがに。女子高生、女子高生。『リリィ・シュシュのすべて』が出てきた。好きだけど、映画部でやるにはキツ過ぎる。アバター、ピンポン、20世紀少年…あ。
真ん中より少し右くらいにあったのは、『時をかける少女』だった。
タイムリープものは、もしかしたらありかもなぁ。朝起きたらタイムリープしてる、みたいにすれば変にエフェクトとかもいらないだろうし。
DVDケースを元の場所に挿しこもうとして、隣にあったケースが目に付いた。
『リップヴァンウィンクルの花嫁』
取り出そうと思って伸ばした手を、私はやっぱり引っ込めた。
はやくストーリーを考えてしまおう。
私は部屋に戻って再びパソコンの前に座った。とりあえず今まで思いついたことをワードに書いておくことにした。
頭の中でかき回してるよりも、文字にした方が結構すっきり見える。キーボードのすちゃすちゃという音が耳に心地良い。ローマ字の一文字ずつが平仮名になっていく。それが少しずつ漢字交じりになっていく。だんだん伸びていって、文になっていく。自分の頭の中のものが抽出されていくみたいだった。
『演者:玲ちゃん、悠里、杉山、佐々木さん、関さん、鈴原くん
・ノスタルジックな感じがいい
・主人公は女子高生
・タイムリープもの? 恋愛系△』
うーん。
これで本当に映画が作れるんだろうか。やっぱり少し不安になってきた。
パソコン画面の右上の端を見ると、0:07と表示されていた。もう、明日か。
私は一度大きく伸びをした。今はもう思いつきそうにない。最近寝不足だし、今日はもう寝ようと思った。ワードのファイルを、「映画.docx」の名前に変えてから保存して、パソコンを閉じる。まだ晩ご飯を食べていないことに今更気がついた。まぁいいや、お風呂入って寝よう。
 何か久々に、一日が長かったような気がした。生暖かいあくびが頭の方まで昇ってきたので、口と鼻から吐き出した。ベッドに貼り付いていたスウェットの上下を取り上げて、開けっ放しの引き出しから下着を拾い出す。そのまま部屋を出ようとして、ちょっと迷ってからやっぱり部屋の中に戻った。引き出しをちゃんと押し込んでからもう一度ドアを抜けて、後ろ手で電気のスイッチを押した。

D

 …うるさい。
「うるっさいなぁ…」
目覚ましのアラーム音に設定すれば、どんなに良い曲でも嫌いになれる気がするなと、ゆっくり考えた。体を起こす。
あ、なんか体が軽い。ちゃんとベッドで寝たからか。1週間ぶりだ。
アラームの曲が大音量で鳴り続ける中、私は数秒間、ぼーっと紺のスウェットの膝あたりで視線を揺らしてから、のそのそとはしごを下りて、下の段の勉強机に置かれたスマホを取り上げてアラームを止めた。
8時53分。昨日、結局寝られたのが1時前くらいだから、8時間近く寝られたことになる。早寝早起きとは言えないけど、夏休みが始まってから初めて、しっかり睡眠が取れた気がした。なんか頭もすっきりしてるような感じがする。
 パソコンを開いた。昨日の夜作った映画.docxをクリックする。
あんなに時間をかけて考えたのに、今見返してみると全然進んでいない。考えなきゃ。まぁでも、今日もなんの予定もない。考える時間はいっぱいある。とりあえず朝ごはんを食べようと思い、部屋を出た。

 行の左端でバーが点滅しているのを眺めていたら、ぼんやりと思いついた。とりあえず最初に、撮る場所だけ決めちゃうか。何かの番組で外人の映画監督がインタビューに答えていたのを思い出したのだ。画面の右端に縦書きで出ていた字幕の白い文字が頭に浮かぶ。
『大切なのは撮りたい人を1人と、撮りたい場所を1つ見つけることだ。それが見つかればもう映画は完成したも同然だよ。』
確かにバックトゥザフューチャーなんかも、あの長いストーリーの中で場所として出てくるのは数か所だけだ。もう役者も決まってるし、映したい場所を決めてしまえば、ストーリーもだんだん思いついてくるかも、しれない。
撮りたい場所、か。
 まず思いつくのは学校だ。授業風景とかは撮れないけれど、夏休み中の、しんと静まり返った人のいない校舎を想像すると、少し胸が弾む。完全に私の趣味で撮ることになってしまうけどいいんだろうか。いいのか、監督だし。それに合う脚本を作ればいいんだ。まだ4行しか書かれていないワードの画面に、箇条書きで『空っぽの学校』と打ちこんだ。
あとは、なんだろう。
なにかいい場所の写真は無いかと思ってスマホの電源ボタンを押した。ロック画面に壁紙の写真が表示される。
あ。
そうだった、それがあった。
私はまたキーボードを叩いて、『海』と書き足した。
なぜ忘れていたんだろう、スマホのロック画面に設定するくらい、私は海が好きだってこと。絞りだそうと思って頭の中をひっくり返していると、近くにあるものが目に入らなくなってしまう。私は特にその気が強いような気がする。
学校と、海。
綺麗な組み合わせに思えた。海はそんなに遠くない。学校からも電車で3,40分くらいだったはずだ。結構現実的な案でもある。
なんとなくイメージというか、雰囲気のようなものは見えてきた気がする。あとはストーリーだ。
 夏休みの校舎や海辺にいる玲ちゃんを想像してみた。なんとなく、どっちの場所にも一人でいそうな感じがした。一人でも映えそうだなとも思った。世界の人間が全部いなくなって、玲ちゃん一人だけになる、とか。空っぽの学校。海辺。画としてはすごく綺麗だ。パソコン画面の箇条書きが一行増えた。
 昨日少しだけ考えた、タイムリープものはいけるだろうか。夏休みを何度も繰り返す、みたいな。ちょっとどこかで聞いたことがあるような話だ。「夏休みが終わらなければいいのに。」ってみんな思うけど、本当に夏休みが終わらなかったら…みたいな。うーん。悪くはない。良くもない。主人公は玲ちゃんだけど、ストーリーを杉山の目線で進める、とかもいいかも。一応次の行に書き足しておいた。
 もう少し現実的な話も考えてみた。病気で、余命わずかな主人公。海が好きで、とにかく夏が好きな女の子で、病気の苦しみを、夏を楽しみにすることで紛らわしている。でももう、次の夏は私には来ない…みたいな。泣ける。やるならこれがいいかもしれない。
 昨日はなしにしたけど、音楽系の話も、もしかしたらありかもしれない。杉山はギターとピアノができるし、玲ちゃんに教えてあげればそれなりにはなるかも。
 悠里のキャラクターも活かしたい。いいキャラしてるからなぁ。玲ちゃんと悠里のロードムービー、なんていうのもいいかもしれない。あの2人、いつも一緒だし。ちょっとレズっぽい映画にしたりして。でも脚本を書くのが恥ずかしいからなしだ。
 ここまでを大雑把に画面に打ち込んでみると、ページの4分の3くらいが埋まった。結構たくさん思いつくものだ。想像力はたくましい方だと思っていたけど、ここまで派手に、それから意図的に想像を膨らませるのは久しぶりだった。画面の右上に目をやると、10:47と映っていた。もう1時間も考えてたのか。少し疲れて頭がぬるくなってきたので、一旦保存マークをクリックしてしてパソコンを閉じた。
 何かすごく、胸の中がくるくると、滑りよく回ってるような感じがした。一人でパソコンに向かってるだけなのに、こんな感覚になるのは初めてだ。演劇祭の脚本も、書くのは好きだったけど、こんな感情にはならなかった。
ワクワクしてるのか、私。
一度伸びをして、火照りを鼻から吐き出した。
 まだ午前だ。少し外に出たい。この1週間、部活とご飯の買い物以外、ほぼ外出していないから、さすがに必要な用事以外で、外に出かけたほうがいい気がしてくる。
とは言っても、行くあてはない。近くの駅周りにはもう見るものはないし、散歩するほどのところもない。中途半端に都会なんだよなぁ。便利は便利なんだけど。
 公開中の映画でも調べるか、と考えてスマホをつけると、さっきと同じ、ロック画面の海の写真が浮かび上がった。
…海。
画面がつくのと同じように、ぽうっと思いついた。
今から、行く?。
スマホを切って、座ったままぼうっと考える。
遠くないとはいえ、一番近い海岸でも電車で20分かかる。海方面の路線はちょっと高いし、学校とは別方面だから、定期券も使えない。交通費が結構かかるのだ。バイトを辞めてから大分経って、お金の余裕もあまりない。ストーリーも、明日の部活までにもっとちゃんと考えないといけないし、よく考えたら、夏休みの宿題も出てる。
そう考えていたら、くるくる回る胸の中から、別な声がした。
いいじゃん、行こうよ。行っちゃえよ。
もう数秒間頭を掘り返してから、私は息を吸い込んで、組んでいた腕を解いて立ち上がった。クローゼットを開け放って、中で眠り込んでいたベージュと青のボーダーのトートバッグをつかむ。財布の中に1000円札が3枚入っていることを確かめてから、バッグの中に放り込む。学校カバンに入れたままだった定期入れもバッグのポケットに入れて、机の上のレポートパッドとボールペンも投げ込んだ。
だぼだぼのスウェットの上下を脱ぎ捨てて上段のベッドに投げ入れ、タンスをずるずると引っ張り開ける。一番手前にあった白のブラウスとデニムのワイドパンツを引っ張り出して、体を通した。やっぱりちょっと痩せたな。私はバッグを取り上げると家の鍵をポケットに入れて、浮き足立って部屋を出た。

 右側の席に座って、左側の窓をぼんやり見つめていた。
車内アナウンスの「右側のドアが開きます」の「右側」が進行方向に対しての右側だという意味だと気付けたのは、小学校の高学年になってからだった。どっちが右でどっちが左かなんて、立ってる向きで違うのに、と当時は思っていた。
 右手のスマホの画面を見た。一番海に近い駅を調べてあった。「ホームからも海が見えて、いい眺め!」と、『ひとり旅にオススメ!歩いて海まで行ける駅10選』というサイトに書いてある。
 私の横にも、向かい側の席にも、乗客は数人しか座っていなかった。夏休みシーズンにはまだ早いからかな、7月の初めだし。夏休みが早くから始まるのが、私たちの学校の一番いいところだ。ちょうど2ヶ月くらいあるから、やろうと思えばなんだってできる。どこへでも行ける。くすぶっていたこの1週間がもったいなく思えてきた。
 電車は右側へ緩やかに曲がりながらなめらかに走っていた。学校へ行くのに使っている路線より、ずっと静かだ。人が少ないからそんな気がするだけだろうか。落ち着くような、落ち着かないような。車両の中はさらりと静かで、冷房の回るブーンという音と、車輪が線路を叩く振動がくぐもって伝わってくるだけだった。
 向かい側の窓はしばらくの間、コケのついたコンクリートの石垣が右から左へ流れていくのを映していた。その時、次の駅を知らせるアナウンスがモゴモゴと流れた。そしてその瞬間、さっと景色が開けた。
海、だった。
一瞬だけ、電車が海の上の空中を走っているように感じた。振り返って頭の後ろの窓を見ると、外はさっきまで見えていたコンクリートに塞がれていた。崖沿いの高台を走ってるんだ。まだもうちょっとかかる。
 少し周りの視線が気になったけれど、私は席から立ち上がって、向かい側のドアの前に立ってみた。すこし青緑がかった窓ガラスに顔をくっつけるようにして、外を見る。
 思ったより高いんだ。線路の横はちょっとした崖のようになっていて、その下は明るい緑色のなだらかな丘だった。下に行くほど緩やかになっていて、緑が終わると線路と同じようなカーブの道路が走っている。長い道路。きっと高速道路の支線だ。その向こうにちょっとした森があって、向こう側に街が広がっていた。海沿いの街か。一度住んでみたい。街の海側に国道が通っていて、それを越えると浜だった。
なんか、あれみたいだ。魔女の宅急便の、海の見える街。こっちの方が全然田舎で派手さもないけど、雰囲気は似ている。
 額をガラスから離して、少しよろけながら席に戻る。カーブしていくのに沿って、床に写った四角い光の影が、だんだん斜めに滑っていった。
電車は駅に止まるために速度を落とし始めた。もう一度スマホを確認すると、私が降りる駅まではあと2駅だった。

 私だったら、もっと上手く書ける、とコンクリートの床にくっきりと映った自分の影を見ながら考えた。
サイトに載っている「ホームからも海が見える」なんていうぶっきらぼうな紹介じゃ、かわいそうだ。ホームを降りた瞬間、私はこの駅が海の上に浮かんでるんじゃないかと思ったくらいなのに。
 電車のドアが開いた瞬間にさっと海風が流れ込んでくる感じとか、ホームに降り立った瞬間の、空気が解き放たれる感じとか。そういうのを書けば、きっともっと人が来るに違いない。人が来すぎるのも嫌ではあるけど。
 無人の改札にICカードを押し付けて駅を出ると、目の前はくすんだアスファルトの、曲がった坂道だった。この坂を一番下まで降りると国道に出て、渡れば浜に出られるらしい。
結構急な坂だ。周りは静かな住宅街で、白い壁の家が細い道の両側に立ち並んでいる。遠くの方から蝉の声がじりじりと響いてきていた。日差しも真上からじりじりと、私の顔を熱してくる。前髪でちょっとは防御になるかな。私の足音とか息の音は、乾いたアスファルトに染み込んでしまうみたいだった。
 我ながらよく急にここまで来たなぁ。普段だったら、急に思い立って出かけるなんてことは全然ない。何かすこし、爽快だ。暑いけど。
ちょっとだけ、映画の主人公になっているような感覚になった。私は軽い足取りで、坂道を下り始めた。

 がさがさしたアスファルトに靴底を擦りながら歩いていると、坂の脇にコンクリートの細い階段が現れた。
これ、近道だったりしないかな。
見下ろしてみると、階段は坂道から離れるようにカーブを描いていた。住宅街のコンクリートの土台に挟まれて陽が当たらないその階段は、さっきまでの道よりも薄暗くて、青っぽく影になっていた。
違ったら、また登って来ないといけないのか。少し迷う。
私は手に持っていたスマホの電源を切ってポケットに突っ込むと、右足を階段に踏み出してみた。
行ってみよう。
私は階段を下り始めた。
さっきの坂よりも大分涼しい。コンクリートからひんやりと冷気がしみ出してるみたいだ。両側がコンクリートの壁で、海はおろか、上にある、さっきの道ももう見えない。階段はだんだん急になって、左にカーブしていた。
足元を見ながら、だんだん急になっていく階段を、一段ずつ飛ぶように下りていく。最初に見えていたよりも、ずっと長い階段だ。どこまで続くんだろう。もし近道じゃなかったら。変なところに着いてしまう前に、引き返した方が得策かも…。足元を見ながらそう思いながらも止めずにふうふう言いながら下っていくと、急にカーブが終わって、階段がまっすぐになった。足元が少しだけ、薄明るくなる。
一旦足を止めて顔を上げてみた。
おお。
狭いコンクリートの隙間から、空と、海が、目に飛び込んできた。
ここ、良い。奥に広がってる、すごく広いはずの空と海が、コンクリートのほっそいスリットで切り取られて、この薄暗い空間をじんわりと青白く照らしている。
写真を撮ろうと思ってスマホを出し、カメラの機能を開いた。映画部のみんなに見せてあげたいと思った。レンズを海の方へ向ける。
…全然、ちゃんと映らない。
何回撮り直しても、ダメだ。範囲が狭いというか。この感じ、映せないのかな。
目に見えた通りに、写真が撮れたら良いのに。私はまたスマホを切ってポケットにしまうと、もう一度景色を眺めてから、また足元を見た。階段はもうまっすぐ、国道の脇まで続いている。やっぱり近道だった。ラッキー。私はまた階段をテンポ良く下り始めた。
 少しずつ、周りが明るくなっていく。灰色のコンクリートのザラザラした凹凸に、空の色が引っかかって、薄く青くにじんでいるように見える。一段降りる。初めて海風が鼻の先をかすめた。一段降りる。波の音がフェードインした。一段降りる。また一段。一段、もう一段。
最後の段で一旦立ち止まって、顔を上げる。さっきまでコンクリートの壁に隠れていた太陽が、もう私の足首までを白く照らしていた。
最後の一段を、ぴょんっと飛び降りた。まぶしい。国道沿いの歩道に出た。
道路に車はあまり通っていなかった。向かい側の歩道に、コンクリートの防波堤が沿っていた。今はそれに阻まれて、海は見えない。
近くに横断歩道がなかったので、車が来ないのを確認してから、静かな国道を走って渡った。なぜか、走ってる途中で笑いが湧いてきた。
ああ、楽しいのか、これ。私、いま楽しいんだ。
歩道に飛び乗る。
防波堤は、道路を渡る前に見えていたよりも結構高い。私はトートバッグの持ち手を掴んだまま、バッグを防波堤の上に投げかけた。そのままコンクリートに両手をかけて、勢いをつけてジャンプして上半身を乗せ、腕でよじ登った。まだ海が目に入らないように足元に目を向けたまま立ち上がって、上に立つ。
なんか、面白い眺めだ。
足元を縦に伸びる防波堤が世界を区切っている感じだった。左側には砂浜が、右側にはアスファルトが見える。左からは軽い風が吹いていた。私はそれを髪に受けながら、防波堤の上を歩き出した。
杉山や玲ちゃんがこういうことしたら、すごく絵になるんだろうな、と薄く考えた。さらさらな髪が風に波打つのが目に浮かぶ。
気持ちいい。
左から吹いてくる風が、胸の中まで透き通って吹いているような気がする。
 しばらく行くと、防波堤が途切れて左側への階段があった。砂浜へ降りられる階段だ。
防波堤の端に腰掛けて、階段の上に飛び降りる。ズタッ、というざらついた音がアスファルトを打った。左を向いて、ゆっくりと顔を上げる。
まぶしい。
青い。
…綺麗。
浜辺には、他に人はいなかった。海水浴場ではないし、あまり有名な場所でもないからだろう。私は海を見ながら、ゆっくり階段を下り始めた。
しかし5段くらい降りたところで、私は立ち止まってしまった。
急に視界がぼやけてきた。目が熱く感じる。
涙が、出てきていた。
え、なんで。
どうして私、泣いてるんだ。
左手の甲で涙をぬぐって、また階段を一段づつ、不格好に跳ねるように降り始める。最後の段を飛び降りる。砂に靴が埋まる。押し込まれる砂の感覚が、靴底から伝わってきた。
 砂にはばまれて、速く歩けない。でも波打ち際はだんだん近づいてきた。同時に、景色はさらにピンボケしてゆらゆらと震えはじめた。鼻の奥の方で、何かがじんじんと熱くなっていた。それは本当に、日差しで熱くなった砂みたいだった。その熱が、私の頭の中に固まっていた何かを融かして、それが目から流れ出ているんだと思った。本当に、なんで泣いているのか分からない。でも泣いていた。泣いていたかった。そうしているのが心地よく感じた。ちょっとでも気を抜いたら声が出てしまいそうで、でもそれをかみ殺すべきなのかどうかも分からなくて、ただ曖昧にあえいでいた。知らない間に立ち止まっていた。もう海も空も見えなかった。ただ、青い。
青い。恥ずかしい。切ない。苦しい。嬉しい。無力感、倦怠感、孤独感、爽快感。胸の中で渦を巻いていたもやもやしたものが、ただの透明な水になった。全部流し出してしまいたいと思った。
 私は一回息を吸って、吐いた。肺が少し冷めて、胸の中が落ち着いた。Tシャツのすそを引っ張って涙を拭い、もう一度深呼吸した。
海が見える。こんなにいいところだったんだ、海って。
私は少しの間、目を閉じてみた。前から吹いてくる風や波の音が、空っぽになった頭の中に響いた。
まだやれるのかな、私。
本当に、海に来てしまった。よく考えたら全然大したことではないけど、私にしては物凄い行動力だ。よくやった、よく面倒臭がらなかった。よく、憂鬱に負けなかった。
再び目を開けて、砂の上に腰を下ろした。海と空の境界線の奥の方を見つめる。海風は波を作りながら、私の火照った顔を冷ましていた。来てよかったと、思った。来る前よりずっと胸が軽くなっていた。これからも時々こようと思った。映画を撮るのも、ここがちょうどいいかも知れない。
 しばらくそのまま過ごして、ふとスマホを取り出して時間を確認すると、13時を過ぎていた。お腹が減っていることを思い出した。私は立ち上がって深呼吸してから、海に背を向けて階段の方へ戻り始めた。

E

 急にすっと我に帰った。扇風機はいつの間にか勝手に切れていた。開けっ放しの窓から、薄明るくてひんやりとした朝が流れ込んで来ていた。
 手を止めて、頭の中の重い眠気を思い出した。データが消えちゃったら大変、と思って、もう10ページ以上にもなったワードのファイルを保存する。部活に行く前に印刷して持って行こう。時間の表示を見るともう4時37分だった。
え、4時37分?
もうそんな時間。そんなに集中して書いてたのか。寝る前に簡単に思いついたストーリーをまとめるだけのつもりだったのに、いつの間にか夢中になってしまっていたらしい。
 パソコンを閉じたとたん、どっと疲れがのしかかってきた。徹夜してしまった。昨日海に行ったのが何日も前に感じる。今日の部活は確か、11時からだったはずだ。今からでも9時ぐらいまでは寝ておこうと思った。

 部室はまだ開いていなかった。やっぱり早すぎた。多分、杉山が来て鍵を開けるのはあと15分くらいしてからだろう。
まあでも、遅刻するよりはましか。目が覚めたのが8時半くらいだったから、あのまま二度寝していたら確実に遅刻していただろうし。
 じりじりなる音が染み込んで来ている部室棟の廊下。私は部室のドアの向かいの壁に寄っかかった。かばんからクリアファイルを引っ張り出して、家で印刷してきたコピー用紙の束を取り出す。1、2、3、4、…12枚。少しワクワクしながら、自分で打ち込んだストーリーを読み返してみる。
 病気がちで、幼い頃から学校にいけなかった主人公。高校1年になって病気はおさまっていたが、学校に行くのが怖くて、普段は引きこもっている。夏になって、学校がどんなところなのか見てみたくなった主人公は、休み期間の静かな学校にこっそりやってくる。そこをたまたま部活で来ていた、同じクラスの女子(悠里、名前未定)と男子(杉山、名前未定)に見つかってしまう。最初はギクシャクしていたが、だんだん仲良くなり、心を開いていく。主人公は夏休みの間二人の部活の部室に入り浸ることになる。
しかしそんな時、病気が再発。余命1年以内と宣告されてしまう。再び閉じこもる主人公。心配した二人は主人公を海に連れ出す。
クライマックスでは、海へ来て感情を抑えきれなくなった主人公が、全てを二人に打ち明ける。
 あらすじのつもりだったのに随分細かいところまで考えてしまった。でも我ながら、けっこう良いと思っていた。他のパターンもいくつか用意してあったが、私の中ではこれが一番良い案だった。この後これをみんなに披露するんだ。今更少し恥ずかしくなって、胸の中のものが浮き上がってるような感覚がした。
玲ちゃんはなんと言うだろうか。前に悠里に聞いた、病弱だったという設定を入れたことを、本人が嫌がらないかどうかが心配だった。
 ちょっと不安になってきて、もう一度読み返す。病気……引きこもって……どんなところか見………休み期間……ギクシャク……入り浸る……再発………
「早かったね。」
ごくんっ、と心臓が大きく震えた。ばっと紙から視線を上げると色白な顔があった。杉山だ。
「…びっくりしたー…。」
「しすぎでしょ。こっちがビビったわ。」
杉山は軽く笑いながら私に背を向けて部室の鍵をがちゃがちゃと開け始めた。杉山の背中に、よれたリュックがしがみついている。いつもはトートバッグなのに、どうしてだろう。古くなった鍵はなかなか回ろうとしない。10秒くらいガタガタ鳴らしてようやく、がしゃり、とくすんだ重い音を立てて鍵が回った。
 杉山がドアに手をかける。重いスライド式のドアは鉄の音を立てて時々つまずくように引っかかりながらごろごろと動いた。ワイシャツの袖から出た細い腕に筋が浮き出していた。杉山はふうふう言いながら部室に踏み入った。私もそれに続いた。
「あらすじ、考えてきたんだね。」
部室の中は少しカビ臭い。
「うん。一応ね。」
「だいぶ量あるね。」
杉山が私の手元を覗き込みながら言った。私はちょっと手元に目をやりながら答えた。
「なんか、考えてる内に楽しくなってきちゃって。」
あるある、と杉山は笑いながらホワイトボードを動かし始めた。一昨日書いた役割の表が消されずに乾き付いていた。私は一昨日と同じ机にかばんを置いて、もう一度アイデアを読み返した。ホワイトボードのキャスターが、ガタガタした部室のフローリングの上でごろごろ鳴っていた。その音から枝分かれするみたいに、ドアが一気に開けられる音がした。
「おはざーす!」
ペットボトルロケットみたいな声が飛び込んできた。
「おはよう悠里。」
言いながら顔を上げると、いつものように悠里がにこにこしながら立っていた。でも、今日は私がいつも顔を上げる時に想定している姿と重ならない。私は少しびっくりしてしまって、
「あ!」
と声に出してしまった。
「ふふーん、気づきました?」
私は頷いて、一回呼吸をしてちょっと落ち着いてから言った。
「髪型変えたんだね。」
昨日まではピンクのシュシュで束ねてゆるいポニーテールにしていた悠里の髪は、首元まで降ろされて、先の方が軽くうねっていた。いつものシュシュは左手首につけていた。
「パーマかけたの?」
そう聞くと、悠里は耳の横の髪を右手の指で揺らしながら言った。
「これ地毛なんですよ!もともとすごいくせっ毛で、前まではアイロンで伸ばしてたんだけど、美容院変えたらそれを活かせって言われて。似合ってます?」
悠里の大きな黒目はいつも以上にくるくると明るかった。かわいいなぁ。
「うん。こっちの方がいいよ。すごいおしゃれ。」
同意を求めようと後ろを振り返ると、杉山は動きの悪いホワイトボードを裏返そうと必死の形相で格闘していたので、そっとしておくことにした。
「夏だし、映画うつるし、イメチェンですよイメチェン。夏美さんもしようよ。」
「そっか、そうだよね。夏だし。」
「もー、反応薄いなぁ…」
悠里は後ろから私の両肩に手をかけて、ショッピングカートみたいに私を押しながら席の方に歩き始めた。
「だって、びっくりしちゃったから。」
「ちょっと髪型変えただけじゃないですか。」
「でもさ、身の回りの何かが変わっちゃうのってちょっと怖くない?」
「夏美さん、変に繊細だもんなぁ。」
悠里は椅子を引いて、私を座らせた。頭の後ろの方がそわそわし始めた。悠里が私の髪を手でいじっているのが分かった。
「夏美さん、あんまり髪型いじったりしないですよね。」
私は目だけをちょっと後ろに向けた。
「うん。なんかよく分かんなくて。」
髪型を変えるにしても、どんな髪型が似合うのかよく分からない。分からないからいつも「すこし肩にかかるくらい」と言って切ってもらうだけだ。髪型を変えられない。変えないから似合う髪型がわからない。だから変えられない。無限ループだ。あと、美容師さんと話すのに毎回緊張してしまって、いつも無難な方を取ってしまうところもある。とにかく新しいことをしたり、変化が起こるのが苦手だ。
「私が入った時から、ずっと同じ髪型ですもんね。」
「悠里はけっこう、変えてるよね。」
「気分が変わるから。そういえばあの時、最初私だけだったんですよね、映画部入ったの。」
去年を思い出した。5人いた前三年生が卒業して、一個上の学年も1人退部したために、合計4人になった映画部は廃部の危機だった。悠里が入ってくれて最低ラインの5人を死守できたので、なんとか免れたのだった。
私の髪をいじくり続けながら、悠里が言った。
「でも去年、本当に全然活動してなかったですよね、最初の方。」
「先輩が来なかったからね…」
「おととしもそんな感じだったんですか?」
ううん、と声に出そうとした瞬間、左の方から別な声がした。
「いや、あの時は三年生が5人ともすごいアクティブで。」
杉山が口を挟んできた。私は声を飲み込んだ。杉山はホワイトボードを丁寧に拭きながら話した。
「部長だった結城さんって人がすっごくかっこよくて。1個上の女子3人は結城さん目当てで入ってきたようなもんだから。」
「あー、だから去年はやる気なかったんだ。あの人たちが来ないから、夏ぐらいまでほとんどずっとこの3人でしたもんね。」
「早川が入ってきてからは4人でね。」
私の頭の上を声が行き交っている。ややこしくてうまく説明できる自信がなかったので、杉山が話してくれて少しほっとしていた。そういえば、1年生の時、杉山はすごく静かで、というか陰気で、めったに喋っていなかった。私も大概暗くて人見知りを拗らせているので、お互いちゃんと仲良くなれるまでに半年くらいかかった。でも杉山は結城さんや他の三男にとても可愛がられていて、「有望」とか「天才が入部してきた」とかよく言われていた。私も先輩達に憧れていたので、杉山が少しうらやましいと思っていたことを覚えている。
「私ちょっと嬉しいです。」
悠里の声が後頭部ごしに響いてきた。
「ん、何が?」
「こういうことしてみたかったから。映画作りとか。一応、映画好きだから映画部入ったんだし。」
悠里は、時々ぽろっとため口が出る。去年の女子の先輩には「生意気」と言われていたが、私はすこし悠里が近くにいるような気がして、私と話している時にため口が出ると、ちょっと嬉しかった。
「夏美さんも、映画作るってなってからすごい元気そうだし。それが一番嬉しいかなぁ。夏美さん、最近あんまり元気なかったじゃないですか。」
私は口を開けた。何か言おうとしたが、何をいえばいいのかもよく分からず、あいまいに口を閉じた。
いつの間にか悠里は細い三つ編みを2つ作り終わっていた。2本の三つ編みを私の頭の横を通して後ろに回すと、それを巻き込んでポニーテールを作り、何かで留めてくれた。
「どうでしょうかお客様。」
悠里が私の前に差し出したコンパクトを覗いた。
「あ、すごい!器用だね。」
かわいい、と言いたかったけど、髪型ではなく自分のことを言っているように取られたくなかったので、無難な言葉を選んでしまった。でも本当に悠里は器用で、こういう髪型もあるんだなぁと思ったし、確かに、似合っていた。
頭の横を写すと、うしろにゆるめなポニーテールが揺れているのが見えた。淡いピンク色の何かが鏡に映り込んだ。
「あ、これ。」
私の髪を束ねていたのは、さっきまで悠里の左手首にあったシュシュだった。
「ふふーん。それあげます。」
悠里はそう言うとホワイトボードの前に走って行き、さっきまでの丁寧な手つきからは信じられないほど雑な動きで青いペンのキャップを抜いて一面に落書きをし始めた。杉山が変な声を上げた。

 「なんとなくまとめると、引きこもってた余命わずかな主人公と、たまたま友達になった二人が海に行くまでのロードムービーって、感じ?」
私はそう、それ、と頷いた。ちょっと緊張してしまっていたのもあってうまく説明しきれなかったので、杉山にあらすじを読んでもらって、要約してもらっていたのだった。
「どうかな…?」
私はおそるおそる自分の紙から目を上げて、みんなの方に視線をふらつかせてみた。みんな軽くうなずいていたり、腕を組んだりしていた。
どっちだ。良かったのかな。それかすごく悪かったのかな。割と自信はあったんだけど。どちらでもない、微妙っていうのが一番辛いような気もする。そうだったらどうしよう。
「すごいいいと思います、これ。」
驚いて声のした方を見た。玲ちゃんだ。意外だ。意外というか、願ったり叶ったりだ。ほっとした。驚くと同時にほっとして、ややこしくて心臓が錯乱しそうだ。
玲ちゃんの言葉に、みんなもうんうんと頷いていた。やっと完全に胸をなでおろした。よく分からないけど急に目が熱くなった。
「じゃあ、とりあえずこのストーリーを基軸にっていうので、いい?」
杉山がみんなに確認をした。異論は出なかった。
頭が熱くなってきて、手に持っていた紙の束に目線を下ろした。知らないうちに両端を握りしめてしまっていて、しわしわになっていた。呼吸をし直す。
よかった。通った。受け入れてもらえた。胸の中が踊り出しそうになって、手元に置いてあったボールペンで、弱ったコピー用紙に「OK!!!」と微妙な大きさで書き走った。


 「隣の客はよく柿食う客だ」
玲ちゃんの透き通った声がまっすぐ響いてきた。多分その客は、玲ちゃんの気を引こうとして毎回柿を食べているんだろうな。
 部室の中は高エネルギー状態になっていた。演者勢は、悠里の「演技の練習しようぜ」という一言によって手始めに早口言葉の練習を始めていた。みんな、鈴原くんや悠里や佐々木さんもスマホをにらみながら特許がなんだ、竹垣がなんだと繰り返している。東京特許許可局は実在しない。早口言葉は、だんだん言ってる内に声が大きくなる。部室はここ数年で1番の騒がしさであふれていた。一女の佐々木さんと関さんは二人できゃっきゃ言いながらぶくばくぶくばく唱えている。
 私は一度コンビニへ行ってからそんな部室に戻ってきて、みんなを眺めながら一人座って脚本を書き始めようとしていた。川西くんは、家から持ってきたビデオカメラを三脚に固定すると、そんな部室の様子を面白そうに撮り始めていた。
 植山さんが、スマホの画面に向かって投げやりに特許庁特許庁特許庁と言いつけている杉山の肩をぽんぽんと叩くのが見えた。どうしたんだろう。
杉山が振り向いた。
「あの、私って何すれば…」
「あーそうだった、マイク買ってあるんだよ!」
そうか、植山さんは音声担当だ。今は確かに役目がない。杉山は嬉々として立ち上がると部室の奥に歩いていき、リュックを持って帰ってきた。椅子にリュックをどさりと置いてチャックを開くと、杉山はなにかの黒いケースを取り出した。
「これ、ビデオカメラ用のコンデンサーマイク。ちゃんと風除けも買ったんだぜ。」
杉山はそう言って、リュックから別な包みを取り出した。引っ張り出すと、ふわふわしたハンドモップのような灰色の物が出てきた。杉山はさっきの黒いケースを開けて、細長い棒状のマイクにそれを取り付け始めた。
私は手元に目線を戻した。
 コンビニで買ってきた、Campusの80枚160ページの分厚いノートを広げていた。新しいノートはページがピシリと整列しているので、開いても勝手に閉じようとする。私はページの境目を手首でごしごしと押しこんで、開き癖をつけた。左端から書き始めたいので、最初のページは使わずに2ページ目の見開きから使い始めるのが私の主義だった。このノートをアイデア帳兼脚本ノートにするつもりだ。監督も脚本もどっちもやるから、一気に流れを書くよりも、場面ごとに分けて頭の中を漂っているアイデアを蓄積したかった。夏休み中に終わらせるという目標もあるので、脚本も細かく突き詰める時間はあまり無い。その場のソッキョウセイを大事にしよう、というのがおとといの話し合いで決まったことだった。
 脚本は、柱・ト書き・台詞という3つの要素で作られる。「柱」というのは、そのシーンの舞台となる場所、ト書きはシーンの状況説明、台詞はセリフ。30秒のシーンを作るのに大体200文字程度の脚本が必要で、200文字で「1ペラ」と数えるらしい。さっき杉山に見せてもらったサイトにはそう書いてあった。手元のページにはそれが雑にメモしてあった。
 ストーリーは考えてある。流れもなんとなく、まとめた。ただ、出だしの場面を迷っていた。どういうシーンで始めればいいのか、いまいちしっくりくるのが思いつかない。アイデアが頭の中で泡になって浮かび上がっては消えていく。両目のピントを合わせないまま、ページの表面をぼんやり眺めていた。
 とりあえず、人物の設定だけ書くか。
 だんだん、動き始めてきた感じがする。何かが。部室の内側全体が「これから何かが始まる」っていうエネルギーで、なんというか、温度が上がり始めていルようなかーー
「夏美さーん、昼ごはん行きません?」
悠里の声に顔を上げると、玲ちゃんや佐々木さんや関さんもいた。植山さんはどこだろうとちょっと見回すと、川西くんと一緒にカメラにマイクをつないで何かを相談しているようだった。私はうなずいて、ボールペンを置いてノートを閉じた。一度開き癖のついたノートはもう完全には閉じず、半口を開けてぼーっと寝ているように見えた。

 玲ちゃんの声は、多分、独特の周波数かなんかを持っているんだと思った。だからうるさい部室の中や、今みたいに電車で走っている時でも、大きい声で話しているわけではないのにかき消されないんだろう。
「すごいですね、2日間であんなにしっかり考えられるなんて。」
「うーん、なんていうか、想像力だけは豊かなんだよね、多分。」
お互い普段から口数の多い人間ではないから、玲ちゃんが降りる駅までの間、車両の中は基本的には床や壁から飛び込んでくるごとんごとん、とかごーっ、という冷めた重い音と、それとは不気味なほどに対照的な人工の静けさとが混ざり合った、生ぬるいざわつきで満ちていた。すごいですね、と玲ちゃんが声を放ったのは、玲ちゃんの降りる1つ前の駅を『急行』という肩書きのもとに完全に無視して走り過ぎたあたりだった。
 私はなんとなく、会話を続けないといけないような気がした。
「今日さ、脚本書くために細かいところとかセリフとか考えてたんだけど、なんか、最初の出だしだけ思いつかないんだよね。」
電車はトンネルの中に突っ込んだ。音がより大きく、重くなって聞こえる。窓の外は黒っぽくなって、立っている私と玲ちゃんが映った。私は窓に映った玲ちゃんの顔に視線を向けていた。玲ちゃんの口が動いた。
「難しいですよね、書き出しって。私もこの前現代文の授業で創作書かされたんですけど、出だし、なかなか書けなくて。」
「玲ちゃんのクラスの現代文って、前野先生だっけ?」
「そうです、前野さん。」
「だよね。この前悠里が言ってた。…あ、この髪ね、悠里がやってくれたんだ。」
「そうだったんですね!夏美さん、ポニーテール似合いますね。」
「ふふ…前野先生、一昨年あたったことあるんだけど、その時は創作はやらなかった。」
玲ちゃんがニコニコしながら私の顔を見ているのが窓に映って見えた。すごいよなぁ。私はまだ、ちゃんと人の目を見て話せない。こうして玲ちゃんと話していても、視線はその間、窓とか向かい側の人の足元とかをさまよっている。「まだ」というか、これから出来るようになることはあるんだろうか。
「でも夏美さん、そういうの得意そうですね。創作とか。」
「得意っていうか…まぁ、好きではあるんだけど。」
少しばつが悪くなって、斜め下に向かって曖昧に微笑んだ。
玲ちゃんはそれからちょっと目を丸く開いて聞いてきた。
「そういえば、文芸部とかには、どうして入らなかったんですか?書くの、好きなのに。」
どう言っていいか分からなくて、私はちょっと視線を振り回した。曇った銀色の手すりをつかむ自分の右手に視野を固定すると、口を開いた。
「文芸部は、なんていうか…ちょっとトラウマがあって。」
「トラウマ、ですか。」
「うん。中学のときは文芸部だったんだけど、文化祭で配る部誌に短い小説を書いたら、クラスでちょっと、いじられて。」
「あぁ…すいません、変なこと聞いちゃって。」
「あ、ううん。いいのいいの。今更気にしてないから。」
私はへらへらと左手を振った。
なんとなく静かになった。生ぬるいざわつきがしみ込んできた。
「私は、」
玲ちゃんがいつもよりちょっと低めな声をこぼした。
「学校に、ほとんど行ってなくて。」
私は頷いた。悠里がこの前言っていた。
玲ちゃんは今までに見たことのない、真剣な表情で、しばらくなにか考え込んでいたが、そのあと諦めたようにふっと息をついて、
「なんでもないです。」
と複雑に微笑んだ。
さまよっていた私の視線はその微笑みに磁石のように引きつけられてしまった。
こんな玲ちゃんの表情を見るのは、初めてだ。
車内アナウンスが流れて、その表情はすっと消えてしまった。玲ちゃんの降りる駅だった。電車は減速していき、見えない力が私たちに後ろからのしかかった。
玲ちゃんは
「それじゃあ、また明日。」
と言って、いつもの明るい顔で微笑んだ。私はもう、その笑顔を前のようには見られなかった。

 私は勉強机に頬杖をついて、ノートを睨んでいた。
 なんて言ったらいいんだろう、だってものすごく、人間らしい表情だったのだ。
今まで私は、玲ちゃんのことを、なにか私とは違う種類のいきものだと思っている節があった。玲ちゃんの完璧な見た目とか、全く曇りのない笑顔とか、透き通った話し声とか、人間じゃない、もっと純粋で汚れのないなにかだと思っていた。でもそうじゃなかった。玲ちゃんは、人間なのだ。
さっきの、あの表情。あの曖昧で、生ぬるくて、もやもやした微笑みは、人間にしかできない表情だ。私と、同じなのかもしれない。
 今まで玲ちゃんに抱いていた憧れのような感情が、それに気付いた瞬間、しゅるしゅると形を変えていった。
近しさ、というか、強烈な親近感が、胸に残った。
嬉しかった。玲ちゃんが完璧でないことがではなく、そのどこまでも人間らしい表情を、私に見せてくれたことが、静かに嬉しかった。
これだ。これを、映画で表してみたい。
なんと書けばいいのか。もう30分もこうして頬杖をついている。私は少しやけくそになってボールペンをノックして、ノートに書かれた『主人公(玲ちゃん)』に線を引っ張って、『人間!!!』と書き込んでぐるぐる丸をつけた。
今日も徹夜だ。

隕石1

 前の席の男子が振り返って、無言のまま、冊子の束を持ちにくそうに私に差し出した。私はそれを受け取って、その一番上の一冊を取ろうとした。でも紙同士は見えない力で貼り付いていて、中々一番上の一冊が取れない。背中に圧迫感を感じる。顔をしかめながらようやく一冊取って脇に置くと、体を捻って残りの束を後ろの席の女子におそるおそる差し出した。なんともなく受け取られたので私は少しほっとして、体を前向きに戻した。
 冊子を開いて覗き込むと、それぞれのページに派手な文字や写真、ラケットの絵とかが印刷されていた。
部活紹介か。
私はパラパラとページを繰った。文芸部は、もう嫌だ。中学の時みたいな目には遭いたくない。でも他に私が入れるような部活があるんだろうか。少し憂鬱な気分になりながら目を通していく。
 何かがパッと目に付いた。派手な装飾の部活紹介のページの中で、1ページだけ、やけに空っぽでさっぱりしたページがあった。通り過ぎてしまったページを繰り戻してそのページに戻ると、部活名の欄に「映画部」と書いてあった。
その欄の下にはだだっ広いスペースがある。他の部活のページはスペースではなく絵やら写真やら手書きの派手な文字などでうまっているのに、映画部のページだけ、そこはほとんど、ただの空白だった。
そのスペースの真ん中に、小さめなゴシック体の文字でこう書いてあった。
『入部条件…少年か少女であること。このページを読んでいないこと。A207部室で待ってます。』
そう一行あるだけだった。
 私は戸惑った。映画部は興味がある。映画を見るのは好きだし。でも、この部活紹介じゃ映画部がどんな部活なのか、ちっとも分からない。謎だ。この『入部条件』も満たせているかどうか分からない。私は『少女』に含まれるんだろうか。というか、このページを読んでしまった時点で、私には入部資格はないんじゃないだろうか。でもこの部活紹介以外で部活のことを知る術は、私たち一年生には多分ほぼない。どういう意味なんだろう。
 教室の右前の方からゴロゴロという音が聞こえたので顔を上げると、先生が教室を出ていくところだった。ちょうどその瞬間、チャイムが鳴った。教室の空気がざわざわと振動し始める。クラスの人たちはカバンを持ったり立ち上がったりし始めていた。
 私はもう一度、部活紹介に目を下ろした。
とりあえず、行くだけ行ってみようかな、映画部。行ってみないと、分からないもんな。
部室を覗いてみて、無理そうだったら、どこか他の部活を探してみよう。A207という文字を頭の中でメモする。私は部活紹介を丸めて、まだかたい通学カバンに入れた。
 

 部室棟はいろんな部活の勧誘で、ものすごい人だった。運動系の部活の勧誘が特にすごい。主に女子の先輩たちがバタバタと勧誘に回っていて、耳がキンキンするような声で、しかもものすごい勢いで喋って、飴やうまい棒を渡そうとしてくる。それらを受け取ってしまうと入部に同意した、ということになってしまうらしい。私は両手をぎゅっと固く握って人だかりをかき分けて行った。アーチェリー部の勧誘をなんとか断って歩き出そうとすると料理部の人とぶつかって勧誘され、そこを逃れて進もうとするとバレー部の人に肩が当たって勧誘されて、ということを廊下のあらゆる場所であらゆる人が繰り返していたので、とにかくすごい熱気と音だった。入ってから階段にたどり着くのに5分ぐらいもかかった。階段の途中に立って勧誘をしている部活の人もいたが、そういう部活は文化系がほとんどで、しつこい勧誘は少なかった。私はやっと息がつけた。
 2階には人が少なかった。「部室棟2階は文化部の墓地」と、さっき誰かが言っていた。下の階の狂ったような声の塊が湯気みたいに入ってきてはいたけれど、静かだ。
 階段を上がりきって左を向くと、一番手前のドアの上には、A210という札が出ていた。廊下の向こうにある、もう一つの階段側の教室から、順番にA201から続いているみたいだった。右側には、壁と窓があった。
 廊下を歩き出す。A210、A209、…部屋の中に人がいる気配はない。
A208の前まで来ると、向こうの方からざわざわっと声が聞こえた。でもこの部屋じゃない。やっぱり、映画部の部室の方から聞こえる。
心臓のあたりがそわそわし始めた。やっぱり、知らない人と会うのは緊張する。私は何回かわざと呼吸をして歩き出した。
 ドアの前に立つ。人の声が向こう側から聞こえる。女の人もいるみたいだった。開けようかとも思ったが、念のため、控えめにノックをしてみた。
おっ、という声がして、くぐもった軽い足音が聞こえた。目の前のドアが数秒間ガタガタと鳴ったあと、がらがらっと開いた。
目の前に、女の先輩がサッシに手をついて立っていた。私に向けられたその人の目は猫のそれみたいだった。その人は猫目をくるっと動かして私の顔を眺めてから、おもむろに言った。
「君は、少年?少女?」
「えっ」
私は言葉に詰まった。どういう意味なんだろう。
「えっと、少女、ですか…?」
するとその先輩は少し面白そうに表情を丸めて、こう言った。
「君が決めることだよ。」
私がぽかんとしていると、先輩はさらに続けた。
「ここに来たってことは、部活紹介、読んだでしょ。」
「あ、はい。」
するとその先輩はいたずらっぽくニヤッと笑って、言った。
「悪い子だ。」
そして部屋の中に戻って行く。
え、これ、私は入っていいのかな。
キョロキョロしている私に、その先輩が振り向いて声をかけてきた。
「いいよ、おいで。」
私は恐る恐る、右足を部室の床に踏み入れた。
待っていてくれていたその先輩の後に続くと、部室の真ん中に机と椅子がまとめてあって、男子の先輩たちが何人かで集まってポップコーンを食べていた。
「新入生、もう一人きたよ。」
女の先輩が言うと、男子の先輩たちは顔を上げた。一番手前に座っていた人が私の方を振り返って、目を丸くしながら言った。
「あの広告でよく2人も来たもんだね。」
「最初からある程度絞り込むための作戦よ。去年の二の舞は嫌だからね。」
そう言って先輩は部室の奥をちらっと見た。つられてそっちを見ると、女子の先輩が3人で黙ってスマホをいじっていた。2年生だろうか。
目を丸くしたまま、手前の先輩が言った。
「こいつ、なかなかセンスあるぜ。そこそこ映画詳しいし、音楽もできるんだってさ。」
「へぇ、有望だね。」
女の先輩はそう答えると、私を振り返って、男の先輩に囲まれて座っている一人の男子を手で示した。
「あの子も1年生なの。杉山くんっていうんだって。知ってる?」
私はかぶりを振った。そっちを見ると、白くて細身な男子が上目遣いで会釈をして来たので、私も会釈を返した。
手前に座っている先輩が、私に向かって言った。
「でも、最初に会ったのが西野でびっくりしたでしょ。変なこと言われなかった?」
私が答えに困っている間に、先輩––西野さんが言い返した。
「別に、いつも通りに喋ったよ。」
「なるほど、じゃあ変なことを言った訳だな。」
「否定はしないけど。」
先輩はくすくすと笑った。
「とにかく、ようこそ映画部へ。一応俺部長だから覚えといて。3年の結城。」
「あ、よろしくお願いします。」
結城さんはニコッと人懐っこく笑うと、捻っていた姿勢を戻して男子の会話に戻って行った。
「それじゃあ、君の相手は私がするね。あ、それとも私の相手を、君がする?」
西野さんはそう言って、またニッと笑った。いろんな笑い方をする人だ。
「あ、えっと、どっちでも。」
私が答えると西野さんは可笑しそうに軽い笑い声をあげた。そして私をもう一つの机に座らせると、西野さんはその向かい側に座った。
部活の説明をされるのかな、と思っていたら、西野さんから出て来た言葉は
「あ、芋けんぴ食べる?」
だった。
私がはい、というと西野さんは机の中から芋けんぴの袋を取り出して、バリバリと開けて机の上に置いた。
「君、名前は?」
「水野、夏美です。」
「ミズノナツミかぁ…長いね。」
6文字の名前を長いと言う人を見るのは初めてだ。私はまた戸惑ってしまった。部室のドアが開いた瞬間から、この人に圧倒されっぱなしだった。西野さんは猫みたいな目の瞳を大きくして私を見ていた。なんとなく吸い込まれそうで、私は目をそらした。気のせいか、声も少し猫っぽいような気がした。
すると、西野さんが唐突に口を開いた。
「よし、じゃあ、ナツキね。」
「へっ?」
「これから君のこと、ナツキって呼ぶから。」
西野さんはCampusのノートと2Bの鉛筆を取り出して、サラサラと縦書きで『ミズノナツミ』と書いた。その文字があまりに綺麗だったことにも驚いた。西野さんは消しゴムを取り出して『ミズノ』をこすって消し、最後の『ミ』の一番下の線も決して、上二本の線を突っ切るように縦線を書いた。
『ナツキ』。
贅沢な名だね、と西野さんはわざと低い声で言って、悪戯っぽくニヤリと笑った。
何だろう、私は目の前に座っているこの人が、本当にちゃんと実在しているのかどうか、すごく不安になった。まるでとらえどころがない。いや、むしろとらえどころが多過ぎて、頭がついていかないみたいだ。
私は、西野さんに声をかけた。
「あの、先輩は…」
「私?私は、西野茉理。よろしくね、ナツキちゃん。」
私は、その人に圧倒されてしまっていた。

F

まぶたが間違った折れ方をしている気がしたけれど、眉間の筋肉でむりやりひっぱり上げた。ごりごり言いそうな体を腕で押し上げて、私は体勢を起こした。首と肩が痛い。毛布を敷いてもさすがに机をくっつけただけの簡易ベッドは寝苦しかった。杉山のセーターを丸めた簡易枕も気休めだった。眠い。頭の中が平べったくなってる感じがする。ちゃんと動いてない。右のほうからにぎやかな空気が聞こえたのでそっちを見ると、一年生5人が杉山のパソコンを見ながらあれこれ話し合っていた。重い首をひねって左を見ると、足を組んで座った杉山がCampusのノートを開いて手に乗せ、悠里と玲ちゃんが上から覗き込んでいるのが見えた。
「…どう?」
自分で予想していたよりもはるかにがさついた声が出た。さすがにここまで徹夜が続くのは体によくないな。記憶も曖昧だった。今朝、徹夜で脚本を書き上げてから寝ぼけ半分で部活に来て、あまりのやつれ方に心配した3人が机でベッドを作ってくれて無理やり寝かされた、みたいな感じだったかな。 3人が顔を上げて私を見たので、私は毛布に目を落とした。
杉山が斜めな声色で言った。
「ひどい声。」
私は小さく咳払いをしてから控えめに声を出した。
「脚本は、出来はどう?」
杉山はうなずきながら言った。
「いや、すごいよ、これ。ところどころわけわかんないものが書いてあるけど。」
「それは寝ぼけてる時のだから。」
「だろうね。でも他のところは、すごくいい。これでいく?」
「うん。…あそうか、私監督か。」
杉山は顔を下に向けてちょろっと笑った。恥ずかしいと思えるほどまだ頭が動いていなかったので、私はそのまま続けた。
「うん。これ元にして、あとはその場その場で。」
「了解。でもよく一晩で考えたね。」
眠い。杉山の声が目の前を通り過ぎて行く。
「おーい。」
「…ん?あ、ごめん。ぼーっとしてた。」
「夏美さん、寝ぼけすぎ。」
悠里が笑いながらこっちに来た。眠い。
「あんまり無理しないほうがいいですよ。」
玲ちゃんの声が聞こえた。眠い。玲ちゃんは珍しくメガネをかけている。ちょっと野暮ったい黒縁のメガネだ。いいなぁ、こういうメガネでも似合うんだなぁ。
「うん…昼になったら起こして。」
眠い。もうしばらく寝ていたい。私がまた横たわると目が勝手に閉じた。
頭の中のものがゆっくりと傾いていく感じがする。
「お前そこ寝づらくない?」
「ん?うーん…」
「枕も俺のセーターじゃ首痛いでしょ。」
「うん…。でもこれなんか、いい匂いがする。」
口に出した後で自分がかなり気持ち悪い発言をしてしまったことに気がついた。反応が聞こえる前に眠ってしまうことにした。

 
 びっくりするほど軽くまぶたが開いた。さっきの眠気が嘘みたいだ。学校に来る前に飲んだレッドブルが今更効き始めたのかもしれない。仰向けのまま目をぱちぱちさせてみた。
 部室がやけに静かだなと思って起き上がってみると、窓際の机に、白いヘッドフォンをつけてパソコンをいじっている杉山がいるだけだった。グラウンド側の窓から真っ白な太陽の光がガンガンと突き抜けて来ている。まだ昼過ぎくらいかな。部室の時計を見ると6時50分過ぎを指していた。
…ん?
しばらく眉間をしかめてからようやく思い出した。部室の時計、動いてないんだった。やっぱりまだ寝ぼけてる。スカートのポケットに入れたままだったスマホを左手で引っ張り出して画面をつけると、13:35と表示されていた。みんなは多分昼休憩中だ。そういえば私も昼ご飯を食べていない。というか朝も食べてない。意識した途端、急に胃がぺしゃんこになっているような感じがした。
「杉山。」
呼びかけると杉山はちょっと目を開いてちらっとこっちを向いて、ヘッドフォンの片側をを耳の後ろにずらして向き直った。
「おはよう。結構寝てたね。」
「うん。みんなは昼ご飯?」
「そう。悠里が連れて行ったよ。なんか、駅のとこに新しくパスタ屋さんができたんだって。」
「ふーん。」
私はワイシャツのボタンの跡がついてしまった手のひらを見ながら言った。
「杉山は、もうご飯食べたの?」
「いや、まだ。ちょっと試しに、BGMの音楽作ってた。部室の鍵持ってなきゃいけないし。」
「え、すごい。聴かせてよ。」
私は机のベッドから降りて杉山のところにかけよった。杉山は少し恥ずかしそうな顔で白いコードをパソコンから引き抜くと、画面を少し私の方に向けた。画面には何か、難しそうな制作画面が表示されていた。横長のバーのようなものがいくつも並んでいて、その中にギザギザした波みたいな線やいびつな階段みたいな線が映っていて、多分これが音を表してるんだろうと思った。
どんな曲なんだろう。少し胸の中がそわそわした。
杉山は左手を伸ばしてスペースキーを叩いた。再生が始まった。
ピアノの音が、遠くから聴こえてくるようにぼんやりと、ノスタルジックなメロディを流していた。だんだん近づいてはっきりとしてくる。途中から電子音みたいな音が混じり始めて、不思議な流れができてきた。杉山がまたスペースキーを叩くと、音楽はプツッっと止まった。
「どうかな。これ、空っぽの学校のところで流そうと思うんだけど。」
私はブンブンと縦にうなずいた。
「これいい、すごくいい。」
「ボキャ貧かよ。」
杉山は少しうつむきながら笑って、パソコンを閉じた。
「すごいね、曲作れるなんて。」
「曲なんて誰でも作れるよ。」
杉山はどこか向こう側の方を向いた。
「そうなの?」
「理論とか、ちょっと勉強すればそれっぽいものはいくらでも、作れるよ。」
少しとげのある言い方だった。
「杉山も、勉強したの?」
「ううん、ピアノは習ってたけど、作曲とかは。色んな曲聴いて、なんとなく。」
「すごいじゃん。」
「っていうか、本来、全部そうあるべきなんだよ。」
「どういうこと?」
杉山は斜め下を向いて、ちょっと考えながら話した。
「手っ取り早くそれっぽいものを作るために理論だけ覚えて、聴いたことあるような曲を量産する人って、いっぱいいて。今流行ってるバのも、結構みんなそんな感じだし。そういうのが嫌で。」
「うん。」
なんとなく杉山の言わんとしていることは伝わって来た。杉山が軽音部に入っていないのも、多分同じ理由なんだろう。
「そういうのって、ただ元からある部品を組み合わせてってるだけなわけ。でもそれじゃあ本当に意味のあるものって生まれなくて、なんていうか、こう…」
杉山は瞬きをしながら、身振り手振りで説明しようとしていた。
「こう…でっかい粘土の塊みたいのがあってさ、それをねりあげて形を作っていくっていうのが、正しいやり方なんだよ。うん…なんか、自分でも何言いたいのかよくわかんなくなって来た。」
杉山は少し気まずそうに話を濁して、上目遣いで私の方を見た。
私は固まっていた。
でっかい、粘土の、塊。
私の中にある熱い部分が、その言葉に激しく反応し始めていた。
そうなんだよ。それなんだ。
私の中にあるのは、まさに「でっかい粘土の塊」で、それが胃から肺から喉までぎっちり詰まっているんだ。だから息苦しいのだ。私はそれを吐き出したくて、たまらなくて、だからこの3日間、2回も徹夜して脚本を書いてたのだ。一人で行った海とか、玲ちゃんのあの顔とか、ずっと感じてた怠さとか、無力感とか、空っぽな感じとか、それが一つの塊だった。きっと私の好きな映画を作った人たちも、そうやっていたに違いない。あの美術部の2年生もきっとそうだったのだ。だからあんなに鋭い目つきになれたんだ。
私は激しく、これ以上ないくらい激しく共感していた。こんなに人の言うことに共感するのは生まれて初めてだった。この興奮を、なんとかして杉山に伝えなければならない。
「杉山。」
「ん?」
杉山は眉を上げた。
私は言おうとした。でもこの共感を口で伝えられるほど私は話すのが上手じゃないということを、言おうとしてから思い出した。徹夜明けの頭の中は使いかけの言葉で散らかりすぎていた。
私は諦めて、変に見えるだろうなとは思いながらも、結んだ髪の毛をブンブン振ってうなずきながら、
「そうだよ、そうだよ。」
と何度も繰り返した。もう3年目の付き合いになる杉山の前で、今さら器用に振舞おうとしたって意味がない。
杉山はまた一回おかしそうに笑って、
「悠里たちが戻って来たら飯食べに行こう。玲ちゃんに鍵預けるから。」
と言った。私はうなずいた。

 杉山がドリンクバーを取りに行っている間に私の頼んだ温玉うどんと杉山の頼んだ冷麺が運ばれて来た。ファミレスの店員さんは私たちと同じくらいの年に見えた。私も夏休みが終わったら、バイトしないとな。店員さんは伝票を片手で丸めて、机の上のアクリルでできた筒に突っ込むとパタパタとどこかへ去って行った。
「お待たせー。」
杉山がコップを両手で持って戻って来た。
「カルピスで良かった?」
「うん。ありがと。」
杉山はコップを机に置くと体を折って向かい側に座った。私は杉山に話しかけた。
「悠里たち、一年生とちゃんと絡んでるんだね。」
「そうみたい。俺らも頑張んないと。」
「三年生が二人揃って人見知りなんてね。」
私がそう言うと杉山はへらへらっと笑った。
「そしたら、今度一年生連れてご飯食べに行こうよ。撮影始まったら。」
「あ、いいねそれ。」
「去年そういうの、全然なかったしね。」
「一緒にご飯食べに行けるほど活動してなかったからなぁ。」
 一年生の時はどうだったっけ。確か、夏休みの活動の時は先輩がコンビニに行って、全員分のご飯をまとめて買ってきてくれていたような気がする。そのための「注文用紙」もあって、みんなの集計をとって三男が交代で買いに行っていた。普通の部活なら一年生がやるべき仕事なのに、そういうことをわいわいとやりたがる先輩たちだった。そういうのも含めて、いろんな意味で活動的な人達だった。
 そう考えると、珍しい部活だよなぁ、映画部。うちの学校で一番縦社会のない部活かもしれない。
「でもあれだよね、他の部活だったら、上下関係とかすごい厳しそうだよね。」
そう声をかけると、杉山は冷麺をすすり終えてから顔を上げた。
「ね。吹奏楽部とかすごいらしい、鈴原に聞いたけど。廊下で先輩とすれ違う時とかもでかい声で『おはようございます!』て言うんだって。」
「あ、見たことあるかも。映画部、一年生の時からそういうの全然なかったもんね。」
「そうだなー。すごい仲良くしてくれたしね、あの代の三年生。結城さんとか。」
杉山はその代の三男にかなり気に入られていた。部長の結城さん含めて四人の男子がいて、みんないい人達だった。結城さん目当てで入部して来たという当時の二女の先輩たちは、杉山にかなり嫉妬していた。
その代の三年生に一人、女子の先輩がいた。茉理さん。西野茉理さん。
結城さん達が杉山を可愛がっていた以上に、茉理さんも、私にすごく良くしてくれた先輩だった。
私は思い切って口を開いた。
「茉理さん、とかね。」
杉山は顔を上げて、目を丸くして私を見た。戸惑ったように数回瞬きをして、ようやく表情を和らげた。
「茉理さんね。すごかったなあの人は。本当の、天才だったね。」
「うん。」
私は頷いた。
結城さんたちはツイッターで時々近況をつぶやいていて、何をしているのかは大体知っていた。附属の学校だし、うわさも時々入ってくる。結城さんは大学の演劇部で役者をやっていて、外の劇団にも入っているらしい。他の三人は映画づくりのサークルで活躍している。
茉理さんの情報が更新されることはなかった。去年の四月以降、茉理さんはどこにも現れていない。
「うどん、美味い?」
「あ、うん。そこそこ。冷麺は?」
「微妙。やっぱりそっちにしとくんだった。」
杉山は苦笑いしながら冷麺をすすっていた。私はわざとつやつやした温泉たまごがよく見えるようにしながら丁寧に温玉うどんの麺を持ち上げた。


 午後の部室にはまた昨日と同じような騒がしさが回っていた。脚本が出来上がったので、役者陣は本格的にセリフを読んだりしながら練習をし始めた。昼休憩の後、杉山とコンビニに寄ってノートを人数分コピーして配ったのだ。ざわざわの間をぬって玲ちゃんや関さん、悠里の声に乗って私が夜中に書いたセリフが飛んでくる度に、ちょっと顔を伏せたい気持ちになった。
 一年生はまたパソコンの前で盛り上がっていた。撮影係の川西くんと植山さんが試しに撮った昨日の部室の動画をパソコンで編集してみているらしい。鈴原くんと佐々木さんはパソコン画面と脚本のコピーを交互に見ていた。
 私は、実は、暇だった。脚本を書き上げてしまったら、撮影を始めるまでは、暇なのだ。本当はシーンごとにどういう構図で撮ろうかとか、考えなきゃいけないことは結構あったが、ソッキョウセイを大事にするためには考えすぎてもいけないのだった。
それから、私は一人だった。役者陣、製作陣の川西くんや植山さん、みんなのいる部室の様子を、私は一人椅子に座って、ぼけっと眺めているだけだった。
みんながいるのに、なんか、寂しい。
一人で家でソファに寝転がっていた時と同じ淡い紫の感情が、胸の中できゅうきゅうと音を立てて引き締まっていく。
 結局、ずっと私はこうだ。クラスでも、バイト先でも。周りに人はいっぱい居るのに、私だけずっと、アクリル製のドームの中にいるみたいだった。自分のため息でドームが曇って、周りの景色が遠くにぼやけて見えるのだ。私が声を出しても、みんなにはくぐもった音が聞こえるだけで、言いたいことの半分も届かない。みんなの声も、ドームが共鳴してワンワン鳴っているだけだ。誰とも繋がれない。私が見ている世界は世界そのものではなくて、常にアクリルに映った二次元の像だった。全部がのっぺりしていて、実感がなかった。
 だからずっと憂鬱なんだ。アルバイトを辞めたのも、そのせいだった。パンを並べる時に湧き上がる黄色い匂いも、レジに立つお客さんのボソボソした声も、小言を言う先輩も、みんなのっぺりしていた。二ヶ月も働かずに辞めてしまった。きっとこんなんじゃ、社会に出てもろくなことがないだろう。
 いつからこんな風になってしまったんだろう。前は、もっと色々なものがはっきり見えていた気がする。もっとちゃんと感情を感じられてた。こんな風に、ひねくれて、ドームの中にこもってしまったのはいつからだろう。
 中学の時か。思い返そうとしたら、脳みそがため息をを吐いた気がした。
別にいじめられていたわけではなかった。友達がいなかったわけでもなかった。でも中学に入ると、女子の人間関係は複雑になってくる。みんな自意識が高まってきて、色んな種類の自分を作って、使い分けるようになる。ある子と仲良くするために、別な子の陰口を言ったりするようになる。普通の事だ。そうやって段々社会に適応していく。人間になっていく。
 でも私にはそれが耐えられなかった。『人の悪口を言ってはいけない』みたいな正義感があったからとかではなく、純粋に、ついていけなかった。みんながサイコロの目のようにころころと顔を変えて接してくると、私はどの面が本物なのか分からなくて、常に混乱していた。それに先輩後輩やらの関係まで絡まってくると、もう何が何だか分からなかった。小学校の時に比べて、一日一日が重く疲れるようになった。私は自分からみんなと距離を置いたのだ。私は自分でドームを作って、その中にこもったのだ。
 でも、密閉されたドームの中にずっといると、呼吸と一緒に色んなものが充満する。そのせいで息苦しくなっているのだ。多分これからもずっとそうなんだろう。自分の息で曇ったドームの中で、自分の息で生ぬるくなった空気の中でぼやっとしたまま生きていくんだ。
 かちゃん、という音にビクッとして、急に目のピントがあった。シャーペンを机から落としてしまった。私はお尻を椅子から離して、床に倒れたシャーペンに手を伸ばした。
拾い上げて背中を起こす。向こうでカメラとパソコンをいじっている川西くんと植山さんが視野に入った。
よく考えたら、あの2人も今は暇なはずだ。
誘ってみるか。
変に思われないか、ちょっと不安になった。
別に変なんかじゃない。私先輩だし。っていうか、監督だし。
私は二人が覗き込んでいるパソコンの前に行って、声をかけてみた。
「ねぇ、今、時間ある?」
二人は顔を上げた。
「ちょっと校舎の中、撮りに行ってみない?」
植山さんの顔がパッと、本当に物理的に明るくなったように感じた。
「行きましょう!」
「あ、ちょっと待ってください、三脚取ってくるんで。」
川西くんはそう言うと部屋の隅に駆けて行き、機材入れの段ボールを漁り始めた。
私は植山さんに話しかけてみた。
「よかったー。脚本書き終わったらちょっと暇になっちゃって。」
「私も、本番までに音の録りかた練習したかったので!」
植山さんはにこにこしながら頷いていた。可愛いなぁ。私が一年生の時って、こんなにフレッシュだったっけ。
 段ボールから黒の三脚を引っ張り出した川西くんが戻ってきた。私たちはぶくばくぶくばく言っている役者陣の横をすり抜けて、鉄の音のするドアをごろごろと開けて、私たちは廊下に出た。
ドアを閉めると、部室の中のやかましさはくぐもって、外から漏れ入ってくるセミのノイズと混ざり始めた。部室棟の廊下は静かだ。
「とりあえず、ここから撮ってみる?」
川西くんは、はい、と言ってカメラのついた三脚を広げ始めた。安定すると、植山さんがマイクのコードをカメラに挿した。
「すごい、本格的なカメラなんだね。」
川西くんはちょっと目を細くしぼめて笑いながら頷いた。
「親父の趣味がこういう系なんで、貸してもらったんです。」
「部室の中撮ってみたんですけど、すごいいい感じに撮れるんですよ。」
植山さんが嬉しそうに言った。さっきパソコンで見ていたのは、やっぱりそれだったらしい。
「どういう風に撮ります?」
川西くんがカメラを覗き込みながら言った。
「あ、そうね。」
私はちょっと廊下を見回した。人がいない廊下。うす青くなった空間だ。
なんとなく、何を撮ればいいかわかる気がした。
「カメラはね…なんかこう、廊下の奥の方をしばらく眺めてからぐるって回して、窓の外を見上げる感じで、やってみてくれる?」
「あっち撮ってから回す感じですかね。」
「そうそう、でなんかほら、廊下の壁って、白いでしょ。こっちの窓からは日が当たんないから、空の色がうつってうす青くなってるから、それを映してから外の本物の空、みたいな。」
自分で何を言ってるのか分からなくなりそうなのを頑張って引き戻しながら手をぶんぶん動かして説明してみた。川西くんは頷きながら聞いていた。
「それから、マイクは…」
植山さんが顔を上げた。
「外の音と部室の声が、いい感じに遠くで混ざってるのを録りたいんだよね…どこがいいんだろう。」
私は廊下の色んなところに立って、音を聞いてみた。
「植山さん、ここおいで。」
マイクを持った植山さんがぱたぱたと走ってきた。
「この辺、いい感じじゃない?」
「あ、本当ですね。」
「じゃあ、ちょっとこれでやってみようよ。」
二人ははい、と明るく返事をした。
そしてまた静かになった。
あ、そうか。私が合図を出すんだ。監督なんだから。
私はもう一度二人の顔を見てから言った。
「それじゃいくよ。よーい…スタート!」
私の声と、録画ボタンのピッ、という音が一瞬だけ廊下に反響した。ちょっと恥ずかしくなったが、カメラが鳴ってくれるのに少しホッとした。植山さんはマイクを掲げて静かに立っていた。川西くんはカメラを覗き込みながら、三脚台の取っ手を持ってゆっくりとカメラの向きを変えていった。カメラはゆっくりと窓を見上げて、3秒くらい空を見上げた。
「ストップ!じゃないや、えっと、カット。」
植山さんがふふふと笑った。私も笑ってしまった。川西くんの方を見ると、やっぱりちょっとおかしそうに目を細めていた。
「なんか、ちょっと恥ずかしいね、これ。」
「でも結構いい感じに撮れたと思います。見ます?」
私は頷いて、植山さんとカメラの前に駆け寄った。画面を覗き込むと、川西くんが再生ボタンを押した。
廊下、うす青い壁、窓、青空。部室のにぎわいとセミの叫びが遠くに反響する感じの音。すごい。
「こんなにしっかり撮れるんですね…」
植山さんが息混じりに言った。
「ね、すごく良いよ、これ。」
私はうなずいた。


 「それで色々試してみたんだ、低いところから撮ってみたり、何周もぐるぐる回してみたりとか。」
「へぇー、いいね。面白い画がとれそう?」
杉山が鍵のしまったドアをガタガタ鳴らしながら聞いた。
「うん。あとね、川西くんを台車に乗せてゆっくり押しながら撮ったんだ。歩いてるところを横からそうやって撮ったら良さそうじゃない?」
「3-Dちゃんと閉まってる。いいねそれ。歩いてる場面とかで使えそう。」
「3-Dはオッケーね。役者陣はどんな感じ?」
私は施錠確認用紙の3年D組の欄にチェックをつけた。あと2クラス。
「脚本読んで、軽く合わせてみたりしたよ。面白かった。ちょっと恥ずかしいけど。…3-Eもオッケー。」
3-Eも施錠済み、と。
「ほい。…私も『カット!』とかっていうのがちょっと恥ずかしかった。」
「あ、それで思い出した。渡すものがあるんだよ。鍵終わったら渡す。」
「うん。何なの?」
「お楽しみ。…F組もオッケー。おしまい!」
「ふぅ、終わったー。」
私は3年F組の欄にチェックをつけてペンの芯を引っ込めた。生徒会の備品のペンは無機質で手に馴染まない。
「教室の施錠の確認なんて、生徒会でやればいいのにな。いつから文化部の三年がやることになったんだろう。」
「ね。でもこれでしばらくは回ってこないね。」
私と杉山は踊り場に置いておいた鞄を持って、階段を降り始めた。薄暗い校舎に乾いた音がわんわんと響く。
 2階まで降りると、ギターケースを背負った男子2人が階段に歩いてくるところだった。背の低いほうが私のと同じ用紙を手に持っていた。
「お、杉山じゃん。」
背の高い方が声を出した。杉山は立ち止まった。
「あ、お疲れ。」
杉山は低めな声で応じた。二人と合流して、また階段を降り始めた。
「映画部?夏休みもやってるんだ。」
「うん、今映画作ってるから。」
「撮ってんの?」
背の高い男子は露骨に驚いてみせた。
「お前はなに、監督かなんか?」
「ううん、監督は水野。」
杉山はちょっと私の方を手で示した。何か言うべきだろうか。私が視線を泳がせていると背が高い男子は私の方をちらっと一瞥してから杉山に目を戻した。
「俺は音楽と、役者。」
「へぇーすげえ。音楽ってことは曲作ってんの?」
「うん、まぁ。」
「ふーん…お前が軽音部にいてくれたらなぁ。」
「まあ、趣味合わないし。」
「そうだけど。でも今年みんな下手くそでさ、ひどいもんだよ、文化祭のテーマソングもろくなのができなさそうだし。お前作ってよ。」
「エイフェックスツイン風のやつだったらいくらでも作るよ。」
「勘弁してくれよ。」
 施錠確認用紙を事務室に出して、私たちは校舎の外に出た。軽音部の二人は晩御飯を食べに行くらしく、じゃあな、と言って走り去って行った。背中に張り付いたギターケースがぺこぺこと揺れるのがすこし可笑しかった。
杉山に聞いてみた。
「友達?」
杉山はうなずいた。
「軽音部で唯一音楽の趣味がいいやつ。」
「ふーん。」
杉山が友達と喋るところを見たのは多分、初めてだ。私と杉山はクラスが一緒になったことはない。なんか少し新鮮で、不思議な感じだった。
「杉山って、クラスに友達いる?」
「うん?うん、多くはないけど。今の背高い方も同じクラス。水野は?」
「あんまりいない。」
そっか、と杉山が言った。
ふと思い出して、もう一度杉山に話しかけた。
「ねぇ、渡すものって?」
「あ、そうだった。」
杉山はトートバッグから何か板みたいなものを引っ張り出して、私に手渡した。白と黒のななめのしましま模様がヘリについている。受け取ってからこれが何なのか理解するのに1秒ちょっとかかった。
「あ、これ!」
映画の撮影の時にパチンと鳴らす、あれだ。
「寝てる間に悠里と玲ちゃんとドンキ行って買ってきた。いいでしょこれ。」
杉山は面白そうに話した。そしてカバンから白いペンを取り出して私に渡した。
「カチンコっていうらしいよ。これ、それ用のホワイトマーカー。」
「へえ、ありがとう。でもこれ、余計恥ずかしいね。」
「まぁいいでしょ、監督なんだから。」
そうだった、監督だ。
 脚本は書き終わったけど、映画作りの本番はこれからだった。脚本に関しては何となく書き物の経験があったけど、監督となると完全に未知の領域だった。肋骨の内側で明るい色の感情と紫色っぽい感情が、ぐるぐるかき混ざっている感じだった。
杉山が唐突に口を開いた。
「でもあの脚本、本当すごいよ。綺麗だし、リアルだし。」
「うん。」
杉山は人一倍映画好きで、映画に詳しい。きっとその杉山がそう言ってくれてるんだから本当なんだろう、と思うことにした。
私はちょっと伸びをして背中を伸ばした。
「なんかさー、」
「ん?」
杉山が横目でこっちをみた。自分から口を開いておいて、何が言いたかったのかよく分からなかったので、何となく言った。
「楽しいね、映画部。」
杉山はちょっと下を向きながらけらっと笑った。
「そうだね。」
 もう一度伸びをして、呼吸をしてみた。空がある。色が濃くなってきて、藍色に少し緑を混ぜたような色でうすぼんやりと発光してる。周りを見回してみる。車がすいすいと滑っていく国道、ナトリウム色の街灯、白すぎるコンビニ、何かに取り残されたみたいなボロ家、干しっぱなしの洗濯物、左を歩く杉山、ちょっとよれたワイシャツ。
あぁ、なんか、あるなぁ。ちゃんと。
今までのっぺりして、二次元に見えた周りの空間が、目の前でしっかり存在してるように急に感じた。
「俺も良かった、こういうのやってみたかったし。」
杉山が口を開いた。声はちゃんと青っぽい空気を突き通って私の耳に伝わってきた。
「映画作り?」
「そう。っていうかこう、みんなでなんかやる、みたいな。」
「今まで無かったもんね。」
「そうそう、活動少ないし…去年とか酷かったしね。」
「そうね。」
「3年間だらだらっと終わんのかなーと思ってたら、こういうことできてさ。しかもなんかすごく青春っぽいじゃん、みんなで映画作りなんて。」
「うん、ぽい。」
「うん。だから水野が言い出してくれて良かった。」
「ふふふ。」
 そもそもは植山さんが見つけてきた昔の映画部の脚本がきっかけだった。どこかに本編のビデオが残ってないかな。どんな映画だったのか、観てみたい。
「みんな、楽しんでくれてるのかな、映画部。」
杉山が再び、急に口を開いた。
「どうして?」
杉山はちょっとうつむきながら言った。
「一昨年の映画部、すごい楽しかったじゃん。」
「うん。」
「一応部長だし、三年生だから、あの代の先輩がしてくれたことを、なるべくみんなにもしようとしてるんだけど、いかんせんコミュ障じゃない。」
「うん。私もだけど。」
「うん。だから、伝わってるか不安になってさ。後輩たちに。去年の映画部は本当に黒歴史だったから、絶対ああいう風にはならないようにしようと思ってるんだけど、結城さんたちみたいな行動力がないんだよね、俺。」
私は、ちょっと考えてみた。
少なくとも、私よりはよっぽどあると思うけどな、行動力。私が動けなさすぎるのかもしれないけど。杉山はなんだかんだ色んなことをしてくれるし、少なくとも私は、そういうところを頼りにしているつもりだった。
「でも、私が映画撮ろうって言い出した時、すごい乗ってくれたし。色々調べてくれたりして、すごい動けてると思うよ、杉山は。私とかよりも、ずっとアクティブだって。」
「いや、最近の水野はすごいよ。脚本とか、監督まで引き受けてくれてさ。」
どう反応して良いか分からなくなって、私は黙り込んでしまった。杉山が声をださずにふふっと笑った。
「俺も頑張らないとなー。」
だんだんと人通りが多いところへ出て来た。蛍光灯ののっぺりした明かりが地面を照らしている。もう駅だ。横断歩道の向こうに改札口が見えた。
「じゃあね、また明後日。」
「あ、うん。じゃあね。」
私は横断歩道の前で立ち止まり、杉山はそのまま道を歩いていった。杉山が急に吐いた弱音が私の脳に貼り付いていた。
杉山は、いつも何を考えているんだろう。
 私はかばんのポケットから水色の定期入れを出して、信号の赤い光を、目のピントを合わせずに眺めていた。

G


 目が開いた。
あ、軽い。上半身を起こしてみる。
体が、軽い。部屋の天井や壁、というより部屋の空間自体が、いつもよりも鮮やかな色に見える。
振り返って、枕元のスマホをコードから外して点けると、8:34と出ていた。まだ目覚ましをセットした時間より前だ。
9時間も寝られたのか。こんなにすっきりするものなんだ。睡眠って大事だ。
 通知を確認してみると、メッセージが18件溜まっていた。
パスワードを打ち込んでスマホを開く。通知が来ていたのは玲ちゃんからのメッセージと、「映画部2016」のグループチャット、その下に植山さんからの通知も表示されていた。
 映画部グループの通知を押して、チャット画面を開く。紺色のアイコンの杉山が1年生向けに部費の説明をしていた。私、部費払ったっけ。払ってなかったら杉山に言われるはずだから、大丈夫か。画面の左上をタッチして、通知の画面に戻る。
 映画部の下に表示されていたのは玲ちゃんからのメッセージの通知だった。玲ちゃんは白地に黒の線で描かれた猫のイラストをアイコンにしている。海と入道雲を目の前にした猫の後ろ姿の絵だった。いい絵だな。見るたびに思う。誰が描いた絵なんだろう。
通知を押してチャット画面を開いた。
『すみません、昨日部室のどこかにメガネありませんでしたか?家に帰ったらケースが空で…』
私はちょっと頭をひねってみた。昨日のことは、一日中頭の周りを覆っていた眠気に霞んでしまってあまりはっきりしない。でもそういえば、確かに昨日玲ちゃんはメガネをかけていた。黒い縁の、ちょっと野暮ったいメガネだ。こんなメガネでも似合って羨ましいなぁと考えた記憶がある。
しばらく昨日の視界を漁っていたら、急に霞が晴れた。

 「あ、もう施錠確認行かなきゃ。」
と杉山が言った。私はスマホを見た。17時半だ。
「もう部室も閉める?」
「うん。」
それを聞いて私は椅子からかばんを持ち上げ、机の上にあった緑の札のついた鍵を取り上げた。その横に、黒縁のメガネが開いたまま置いてあった。誰のだっけ、これ。どこかで見た気がする。
急にプツンと視界が暗くなった。
「うわっ」
さっきまで見えていた色の残像で周りが見えない。杉山が電気を消したのだ。
「早く出てー。」
「ちょっと待ってよ。」
私は慌てて、廊下の薄青い明るさを頼りに入り口へ向かった。

 そうだった。あれは玲ちゃんのメガネだ。
『そういえばあった!机の上にあったと思う。』
画面に張り付くように表示されたローマ字キーボードで何度か打ち間違えながら入力して、送信を押した。玲ちゃんもちょうど今スマホを見ていたらしく、すぐに既読マークがついた。私は慌てて戻るボタンを押して通知画面に戻った。すぐに新しい通知が来た。
『ありがとうございます!良かったです』
律儀な子だ。私は速めに30秒数えてからもう一度玲ちゃんのチャット画面を開き、踊る棒人間のスタンプを返信してから通知画面に戻った。
 植山さんのチャットを見ると、『昨日の試し撮りの動画、川西くんが送ってくれたのでどうぞ〜』と送られてきていた。添付の動画を開いてみると、昨日撮った廊下や階段ホールの映像が流れ出した。
うん、いい動画だ。長押しして、カメラロールに保存しておいた。ちょっと迷ってから『ありがとうねー。』と返信した。
 一年生と、もっとたくさん喋ってみたかった。昨日植山さんと川西くんとは結構話せたけど、役者陣の関さん、佐々木さん、鈴原くんとは全然喋ったことがない。鈴原くんは吹奏楽部にも入っていて来ない日も結構あるので、尚更だった。毎回部活に行くたびに絡もうとは考えるけど、結局悠里や杉山、玲ちゃんといるのが安心で、話しかけにいけないのだった。
まぁ、撮影はこれからだし、夏休みもまだまだあるし。この夏の間に色々、動けるようにならないといけないなぁと思いながら、スマホをスウェットのポケットに押し込んでベッドから立ち上がった。
 今日は部活がない。
どうやって過ごすべきか、ちょっと決めかねていた。前みたいにダラダラ引きこもってるのは良くないけど、かと言って何かするあてがある訳でもない。他の人たちはどうやって過ごすんだろう。クラスメートのツイッターには、よくディズニーランドや友達と食べるご飯の写真が上がっている。そうか、みんな友達や彼氏と一緒に過ごしてるのか。
 そう考えるとまた急に紫色の煙が胸の中に漏れはじめた。私って充実してないんだなぁ、人間として。映画部にいる間は、なんとなく自分がしっかり出来上がっているような気になるけど、一人になると急に自分が空っぽなソフビ人形みたいに思えてくる。
 ため息をついてしまうと本格的に惨めな気分になりそうだったので、なるべく普通に呼吸をするように気をつけながら、ベッドから出て顔を洗いに向かった。
 
 朝ごはんにお茶漬けを食べ終えて1時間くらい何もせずにだらだらツイッターを見ていた。
これ、まずいな。このまま一日が終わるパターンだ。
とりあえずツイッターを閉じよう、と思って画面に目を戻すと、紺色のアイコンが目に入った。紺の背景に白っぽい線で何か丸いものが描いてあるやつだ。杉山のアイコンだった。前に聞いたら、確か何かのCDのジャケットだと言っていた。
『部活ないとすごい暇』
杉山はそう投稿していた。投稿時間を見ると、1分前と小さく表示されていた。私はツイッターを閉じるのを諦めて、返信を打った。
『すごくわかる。』
杉山もツイッターを開いたままらしく、返信はすぐに来た。スマホがピロリン、と鳴った。
『お前もか』
『いぇす』
同じ状況の誰かがいると分かって、少しほっとした。紫の煙は、ちょっとだけ薄れた。
ピロリン。
『どっか行く?』
ゴシック体の文字が四角く浮いている。
そうだ、杉山と出かけるっていう選択肢があった。映画のDVDを貸し借りするために、ときどき暇なときに会っているのだった。暇を潰そうと考えるときって、意外といつもどうやって過ごしてるかを忘れている。
『ちょっと通話』
送って20秒くらいして、ケータイがてんてけてんてけ鳴りはじめた。line通話の着信音だ。画面にツイッターのと同じアイコンと、「スギヤマユーキ」という文字が表示された。私は通話ボタンを押して、スマホを耳に当てた。
「もしもし。」
『もしもし?暇人だねお互い。』
電話だと、声がいつもと微妙に違うトーンに聞こえる。私はちょっと気を付けるようにしながら喋った。
「ね。なんか、行くあてある?」
『あんまりない。水野は?』
「うーん、ないかな。」
たまに杉山と出かけるときは、DVDを渡すついでにご飯を食べるくらいだった。「男子と出かける」という名目だけにちょっと周りを意識する部分もあることにはあったが、実際、部活の昼休みにご飯を食べに行くのの延長みたいなものだった。
ご飯にはちょっと中途半端な時間だしな。
『とりあえず、そっちの駅で会う?』
「うん、そうね。」
『じゃあ、40分後くらいに。』
「はい。後でね。」
杉山が電話を切るのを聞き届けてから、スマホの画面を切った。急いで身支度をしないといけない。私はソファから飛び出して洗面台に向かった。
顔を洗ったついでにシャワーを浴びておいてよかった。その時にドライヤーを済ましておいたのも正解だった。洗面所に入ると私は鏡の前に立って、ヘアゴムと、おととい悠里にもらったシュシュで髪を束ねればよかった。自分でポニーテールを作るのなんて、すごく久しぶりだ。
 棚から日焼け止めのボトルを出して、蓋を弾いて手に押し出す。伸ばしてから、顔と首と腕と脚に塗りたくった。今日は快晴だ。
 学校の人たちはみんな、メイクをして学校に来る。自分の髪型もまともに決められない私はメイクもあんまりする気になれずに2年半近く過ごしてきていた。だからその分私は身支度が速い。みんなが今日は何時起き、みたいな会話をしていると、どうしてそこまでしてメイクをするんだろうと思ってしまう。その中には少なからず、すっぴんでも問題ないレベルの顔を持っている自分への自己愛と、メイクに必死になっているみんなを見下す気持ちが絡まっていて、それに気づいた時に、また少し自分が嫌になる。
 そろそろ覚えた方がいいのかな、そういうのも。お母さんにも時々言われるのだ。まぁでも、今日はいい。杉山の前で飾ったところで意味ないし。急に色気付いたと思われるのも嫌だ。 
 何度か首を左右に振って、ポニーテールが変ではないかどうかを脳みそと話し合った結果、問題ないという結論が出たので洗面所を出て電気を消した。部屋に戻り、引き出しを引っ張って、中から白のシャツと水色のスカートを取り出した。いいかなこれで。ちょっと淡白か。でも色の組み合わせはいい。とりあえず着てみることにした。
 鏡の前に立ってみた。
思ったよりも似合ってる。ポニーテールもいい感じだし。鏡の奥の奴が声に出さずにそうつぶやいているのが分かる。
このナルシストめ。
 私はスマホと財布と定期入れをバッグに入れて、鍵を手に持って部屋を出た。


 忘れてた。私は待ち合わせが苦手なんだった。
杉山はまだ来ない。当たり前だ。杉山は「40分後くらい」と言っていたのに、まだ21分しか経っていない。急ぎすぎた。最寄駅なのに、待ち合わせとなると心配になって早く来すぎてしまう癖を、いい加減に治したい。
 遠くで待ち合わせる時も同じだった。むしろ遠い場所の方が、迷ってしまわないか不安で早く来すぎてしまう。一昨年、映画部全員で遊園地に行った時は集合時間より1時間半も早く着いてしまった。そんなに早く着く癖に、一人で待つのは苦手なのだ。集合場所は本当はここじゃないんじゃないか、みんな来ないんじゃないか、実は今日じゃないんじゃないかとか、無駄な心配で頭の中がざわつき始める。さすがに今日は、ついさっき杉山がこっちに来ると確かに言っていたからそんなことはないはずだけれど、その杉山の言葉すら私の聞き間違いだったんじゃないかという考えが湧いてきて、頭の中に充満していた。私は後ろに立っている猫の形のオブジェを振り返った。
 気を紛らわすために、手に持っていたスマホを点けてツイッターを開いた。杉山の投稿はない。悠里がペットのダックスフントの写真を投稿していた。悠里の髪の毛と同じ毛色の犬だ。でも悠里自身は、どちらかといえば猫っぽいけど。
画面をスライドして、他の投稿を読み込んでみる。珍しく結城さんが投稿していた。
『劇部の公演再来週だから稽古してるけど、なんか高校の映画部思い出すな』
そうか、結城さん、演劇サークルなんだっけ。卒業してから一度も会ってないけど、ツイッターは高校の時からフォローしていた。たまに先輩たちの投稿を見かけると、少しほっこりする。
 結城さんたちの代は、今大学二年のはずだ。私たちが一年生だった時の結城さんたちと今の私たちが同い年だと考えると、不思議な感じだ。一年生から見て、私たちってどんな先輩なんだろう。結城さんたちのように見てもらえてるんだろうか。さすがにそんな自信はない。急に不安になった。
 私は結城さんの投稿にフォーカスを戻した。附属校とはいえ、高校生と大学生とじゃ、明らかに何かが違う感じがする。先輩たちのツイッターの投稿の内容は大して変わっていなくて、たまに見ると少し安心していた。
 私は常に、自分が違う人間になってしまうことを恐れている。もちろん、大学生になってもババアになっても私はずっと水野夏美だ。でも、その中身は毎日呼吸する空気の質によってどんどん入れ替わっていくはずなのだ。今、私は、何ヶ月か経てば高校を卒業して大学生になるということが実感できずにいて、大学生になることをほとんど怖がってさえいる。でも1年後の私は確実に大学一年生で、多分、なってしまえば大学生であることが当たり前になってしまうはずだ。そうなった時、今ここにいる、大学生になることを怖がっている水野夏美は、完全にいなくなる。それはほとんど、今ここにいる私が死んでしまうことと同じであるように思えるのだ。毎日毎日、ゆっくり死んでいくのだ。ポジティブな映画や歌でかかれている「成長」とか「進化」とか「新しい自分」みたいなものが私にはたまらなく恐ろしくて、なぜみんながそういうものを求めるのか、全く理解できないでいた。深夜にそういうことを一人で考えて、ソファのクッションをなぐりつけることが時々、あった。
 「水野ー。」
右斜め前の方から声がした。目のピントが合う。杉山の声だ。私はスマホから顔を上げて声がした方を見た。
どこだ。見当たらない。聞き間違えだったのかな。だから待ち合わせは苦手だ。私は適当な方向に呼びかけてみた。
「杉山?」
「ここだよここ。」
目の前から声がしてビクッとした。杉山はすぐ近くまで来ていた。
「ああいたいた。おはよう。」
「おはよう。」
杉山は胸に四角く『EMOCORE is STUPID』というプリントのついた白いTシャツに七分袖の薄いカーディガンを羽織って、ジーンズを履いていた。制服を着ている時よりも細さと白さが目立つ。オシャレだなぁ。急に自分の服装が不恰好に思えてきた。
「オシャレだなぁ…」
思わず声に漏らしてしまった。
「そうかな。」
杉山はちょっと目を丸くして自分の服装を見下ろした。
「うん。羨ましいなぁ…。」
「水野もそんなセンス悪くないと思うけどなぁ。」
うるさい。余計なお世話だ。私がむすっとしていると、杉山は少し不思議そうな顔をしてから、口を開いた。
「それで、どこ行く?」
そうだった、それがまだ決まっていないんだった。
「二人で行けるところかー。どっかあったかな…」
杉山は猫のオブジェの方を見ながら考え始めた。私もちょっと手元に目を下ろして考えてみた。映画館っていうのも、ちょっと違うしな。高いし。お昼ご飯にもまだちょっと早い。
何かメモしてなかったかなぁと考えて、スマホをつけてみた。海のスクリーンセーバーが浮き上がる。
あ、海。
しばらく見つめていると、自然に画面が暗くなった。
いいかもしれない。ちょうど撮影に使おうと思ってる場所だし、下見がてら二人で行くのは、悪くない。
でもなぁ。
私はこっそり杉山の顔を見た。
いきなり「海に行こう」なんて言ったらびっくりされないだろうか。なんか変な誤解をされるの何か、嫌だ。
いや、杉山とはもう3年の付き合いだし、だいたい伝わるはずだ。今更誤解されるような要素もないし。こういう起こりそうにもないことをもぞもぞと心配してばかりいるから私は動けないんだ。
 私は頭の中で言葉を振り回して勢いをつけてから、杉山に言ってみた。
「ねぇ、海どう。」
「海?」
「うん。撮影に使えそうな場所見つけて。ここから電車で30分くらいのとこなんだけど。」
「あーなるほど。海かー。」
言い出してしまってから心配になって来た。乗ってくるだろうか。乗ってこなかったらすごく恥ずかしい。よく考えたら「海に行こう」なんてめちゃくちゃ青臭いセリフだ。言わなきゃよかった。
「いいね、行こうか。下見がてら。」
内臓がほっと息をついたような気がした。ふぅ。良かった。さすが、分かってるな杉山は。さすが部長。3年間同じ部活でやってきただけのことはある。
「どの電車に乗ればいいの?」
「海浜線。」
私は杉山の前に出て、海浜線の改札へ大股で向かった。

 「水野早く決めて。」
「ちょっと待ってよ。」
コンビニ特有のミニサイズのプラスチックカゴを両手で持っている杉山を横目に、おにぎりを選んでいた。カゴの中にはもう杉山の分のおにぎりと2本のペットボトルが入っている。
「杉山は何にしたんだっけ。」
「明太子。」
「うーん、たらこかなぁ…」
私はもう一度焼きたらことおかかを交互に見比べて、諦めておかかを取った。杉山がカゴを差し出してきたので、そっと中に入れた。
「優柔不断だな。」
「しょうがないじゃん。」
杉山はいつものように苦笑して、レジへ歩いた。列はない。平日の昼間の海沿いのコンビニに、そうそう人は来ない。コンビニの中にいるのは私と杉山と、レジに立っている、青と黄色の制服を着た太った茶髪のおばさんだけだった。
 杉山がカゴをレジに置くと、おばさんは表情を変えずにボソボソと商品名を読み上げながらバーコードリーダーを当て始めた。私はその間、赤いレーザーがバーコードの上でピカッと点滅する様子をぼけっと眺めていた。
「520円です。」
おばさんが顔を上げずに言った。
520割る2は、260か。ん、合ってるかな。もう一度計算し直す。260だ。ぴったり持ってたっけ。私はポケットから財布を引っ張り出した。
「いいよ、このぐらい」
杉山が小銭をかき回しながら言った。私は顔を上げた。
「え?」
「だって今バイトしてないんでしょ。」
「そうだけど。悪いよ。」
「悪くないよ。律儀だなぁ。」
杉山は財布から500円玉と10円玉2枚を取り出して、おばさんの前に置いた。いびつな形に出っ張ったレジ袋を受け取って、ガラス張りのドアに向かって歩き出した。
 ドアをくぐった途端もわっとした放射熱に包まれる。今日は32度らしい。
「いいの?奢ってもらっちゃって。」
「うん。」
「ありがとね。」
杉山は袋の取っ手の片方を手から外して、私の分のお茶とおにぎりを片手で取り出して、渡してきた。私は受け取って、自分のバッグの中に入れた。杉山は残った袋ごと、かばんに突っ込んだ。

 車通りの少ない道路をぱたぱたと渡って、防波堤側の歩道を歩く。アスファルトも、空の青を反射している。
「ここ確かに、いい感じだね。防波堤道路の感じとかも、映えそう。」
杉山が顔を上げながら言った。
「でしょ。結構いいところ見つけたよね。」
「うん。そんなに遠くもないしね。」
「もうちょっといくと階段があって、そこから浜辺に降りれるの。」
歩く。空から刺してくる熱と、足元のアスファルトから湧いてくるの熱とで挟まれていて、全身が焼かれているみたいだ。清々しいまでに暑い。日焼け止めを塗って来てよかった。
「この防波堤の上をね。」
私が口を開くと、杉山がこっちを向いた。
「防波堤の上を、玲ちゃんが歩いてるところを撮ってみたいなと思って。」
「あー、いいねそれ。」
杉山は防波堤を見上げながら笑って、またこっちを向いた。
「色々、アイデアをためてる訳ね。」
「うん。一応、監督だからね。」
私は足元のアスファルトに目を落とした。風が耳をかすめるヴッという音の隙間から、杉山が言うのが聞こえた。
「もう来週から撮影だもんね。」
「最初の予定より、だいぶ早く進むね。」
「脚本が3日で仕上がるとは思わなかったから。本当、よくやったよ。」
「ふふん。演技のことも考えて、あんまり複雑なセリフも多すぎないように書いたからね。」
「お疲れ様です監督。」
照れ臭くなって、私は黙った。しばらくお互い口を閉じたまま、アスファルトをからからと鳴らしながら、厚い空気の中を歩いていた。夏は、空気が厚くなる感じがする。空気というか、空かな。
 防波堤の切れ目に着いた。階段だ。急にぱっと、まぶしくなった。
海が見える。
「おー、すっごい!本当に人がいない。」
杉山が階段を駆け降り始めたので、私は慌てて追いかけた。
下に行くほど階段に砂が積もっていて、降りづらくなっている。海風も前から煽ってくるし、陽射しもまぶしい。私は目を細めて、バランスを崩さないように気をつけながらぱたぱたと砂浜へ駆け下りた。
ふうふう言いながら杉山に追いついて、立ち止まった。杉山が振り返った。
「よく見つけたね、ここ。」
「いいところでしょ。撮るならここしかないと思って。」
私はもう二歩くらい前に出て、杉山に並んだ。杉山は目をキラキラさせながら大きく伸びをした。
「いい場所じゃん。どうやって見つけたの?」
「色々検索してみて、この前来てみたの。」
「へぇ、一人で?」
「うん。」
杉山は軽く笑った。
「一人で海って、中々いないね。」
私は少し顔を傾けて苦笑した。確かにそうだ。
「しょうがないじゃん。私、杉山しか友達いないんだもん。」
「クラスで作れよ。」
「もう遅いよ。」
「まぁ、俺もあんまり人のこと言えないけど。」
杉山は砂の上に腰を下ろして、さっきのコンビニの袋を取り出した。私もスカートの後ろ側に気をつけながら、横に座った。
「いいなぁこういうの。」
杉山がおにぎりのパックをはがしながら言った。
「海を見ながら昼ごはん、みたいなね。」
「そうそう。夏。」
私もおにぎりを出して、丁寧にパックを開け始めた。開けるときに海苔が巻かれる方式のパックだ。私はこれが下手だ。きりきりとパックを破り、できないだろうなと思いながらも、ゆっくり、片側づつ、端を引っ張る。さらりと、海苔がビニールの隙間から抜けていく。おにぎりの形に曲がった癖のついた海苔は、ビニールから解放されると、おにぎりにしがみつくようにするりと巻き付いた。
「あ、できた。」
「何が?」
杉山がもごもご言いながらこっちを見た。
「こういうタイプのおにぎり。私これ開けるの下手なんだよ。」
「どうでもいいわ。」
杉山はくぐもった声で笑いながらおにぎりを飲み込むと、ペットボトルを開けてお茶を飲んだ。私はうまく海苔の巻けたおにぎりを両手で掲げて、しばらく眺めてからゆっくりと齧り始めた。
ちょっと静かな時間が流れた。波の音が、私たちが無言でいる時間を測っている。
 急にふと思いついて、杉山に話しかける。
「ねぇ、海って青いじゃん。」
「ん?そうだね。」
「海が青いのって、空が映ってるからなのかな。」
「うん?」
杉山は不思議な表情をして海に眼を向けた。しばらく海を見つめてから、急に声を出した。
「ああ、言われてみれば、そんな気もする。」
「ね、そうだよね。」
「うん。空が映って青く見えてるのかもね。」
本当に正しいかどうかよく分からないが、なぜかちょっとわくわくした。
ペットボトルを取り出そうとトートバッグに手を入れると、硬いものに手が当たった。
ん、なんだっけこれ。
引っ張り出したら、白黒のカチンコだった。昨日杉山にもらったやつだ。
「これ、入れっぱなしだった。」
杉山はカチンコに目を向けて少し微笑んだ。そして急に目を上げて言った。
「あ、じゃあさ。せっかくそれあるんだし、ケータイで試し撮りしてみる?みんなにこういう場所だって説明するのに使えるし。」
「あ、いいかも。」
私はさらにバッグを漁って、ホワイトペンを取り出した。フェルトのついたキャップを外して、ちょっと振ってからカチンコの暗緑の部分に書き込んだ。どういう形式で書けばいいのかわからなかったので、なんとなくそれっぽく見えるように書いてみた。
『2016 7/12 テスト 海』
「こんな感じ?」
「うん、それっぽい。」
杉山が座ったままスマホを横にして構えた。私はカチンコがレンズに映るように持った。
「撮るよー。」
「あ、待って。鳴らしたら何すればいいの?」
「適当に説明して、場所とか。」
「わかった。」
「じゃあ撮るね。」
動画の撮影モードが始まるポンという音がした。私は2秒くらいカチンコを映させてからパチン、と鳴らした。
「…えーっと、海です!海浜線で学校から40分くらいのところです!人がいなくて景色もいいから撮影に使いたいでーす!」
こんなのでいいんだろうか。私はカット、と控えめに叫んだ。動画撮影が終わるピコン、という音がして、杉山が砂の上に転がって笑い出した。
「どういうテンションなんだよ。」
「だってこういうのやったことないから!」
「いや、でもいいと思う。」
杉山はまだちょっと笑いながらスマホをしまって、言った。
「はぁ。いいなぁ、夏休みって感じする。」
「ね。こんなにちゃんと夏休みするの、なんかすごい久しぶりな気がする。」
「『夏休みする』って何だよ。」
「夏休みっぽいことをする、ってこと。」
「略しすぎ。」
杉山はまたちょっと笑った。
 空が丸い。いいなぁ。夏はいい。なんでもできるような気がする。夏にいるってだけで、ちょっと自分が強くなった気になれる。
私は少し顔を横に向けてあくびをした。
すごく、全身で呼吸してる感じがする。夏だ。夏が来た、私にも。
「部長ー。」
私は杉山に向かって言った。杉山は怪訝そうな顔で斜めな視線を私に向けた。
「…俺のこと?」
「そうだよ、部長。」
私は杉山を指差した。何か変なことを言いたくなった。
「あなたは偉い。」
「へぇ?」
「偉いよ、杉山は。」
「どういう意味だよ。」
私はあくびをした。
「よくやってるよ、杉山は。頑張ってる。偉い。」
杉山は微妙な顔をして海の方を向いた。
 きっと杉山は、普段、誰からも褒めてもらってないのだろうと思った。親とは仲が悪いらしいし、友達も多くはない。杉山はすごく才能があって、部長も音楽も誰よりも頑張っているのに、誰も褒めてくれない。昨日突然吐いた弱音について考えている内に、そのことに突然気がついたのだ。私ぐらい褒めてやろうと思った。映画部で一緒にやり始めてからもう3年目の私くらいは、杉山の理解者になってやりたいと思った。
「偉いなぁ杉山は!」
「何回言うんだよ。」
「だってそう思ったんだもん。」
杉山はぽかんとしたまま、少し困ったようにへらへらっと笑った。
「よく分かんないけど、まぁありがとう。」
「私は杉山のこと、100パー理解してるぜ。」
私はグーサインを出した。杉山はさらに困った顔になって、海の方に目を戻して少し恥ずかしそうに、口角を曖昧に上げて笑った。

隕石2

 DVDが終わってチャイムが鳴った。帰り支度をしていると、後ろから急に猫みたいな声がした。
「ナツキー。」
私はびっくりして振り向いた。茉理さんだ。いつもの軽装備で、Campusのノートと筆箱だけの入ったよれよれのトートバッグをぶら提げていた。
「晩御飯食べに行こうよ。」
茉理さんがにこにこしながら言った。
胸の中で風が吹いた。映画部に入ってからこの2ヶ月くらい、私はとにかく茉理さんの頭の中が見てみたくて、茉理さんにくっついていた。茉理さんも私を気に入ってくれていたみたいだったけれど、ご飯に誘われるのは初めてだった。
「あ、はい!」
私が答えると茉理さんは満足そうに頷いた。
「えー、俺も連れてけよ。」
結城さんが振り返って口を尖らせた。茉理さんが足元に落ちていたクッションを拾って結城さんの方に投げつけながら答えた。
「嫌だ。女子会だよ女子会。」
結城さんがすぱっとクッションをキャッチした。
「お前の口から女子会って言葉を聞くとはな。だったら二女も連れてけよ。」
結城さんはそう言ってふふっと笑った。
「二女は私よりも、結城とご飯に行く方が喜ぶんじゃない?」
茉理さんがそう言うと、結城さんがわざとらしく眉を八の字に下げて言った。
「嫌だよ、あいつらキャピキャピしすぎてて怖い。映画全然観ないし。」
表情が自由な人だ。
茉理さんはそれを見てふっと笑うと、言った。
「とにかく今日は、ナツキと二人で食べに行くから。行こう。」
「あ、はい。」
やっと自然な表情に戻って微笑んでいる結城さんに会釈をして、茉理さんについて部室を出た。

 「閏年って、あるでしょ。」
温玉うどんをすする私に、茉理さんが言った。すすっていた分を飲み込んで手を止めて顔を上げると、茉理さんはハンバーグを切る手を止めて、しげしげと鉄板を眺めているところだった。
「4年に1回の…」
「そうそう。閏年の2月29日に生まれた人って、どういう扱いになるか知ってる?」
茉理さんはナイフとフォークを置いた。4年に1度しか歳をとらない、なんてことはないか。私は素直にかぶりを振った。
「ちゃんと閏年の人も年齢をカウントできるように、法律では歳をとるのは誕生日の前日ってことになってるんだって。」
「あー、なるほど。確かにそれなら、まいとし年齢を重ねられますね。」
茉理さんは何回か頷くと、視線を上げて私に投げかけた。
「ナツキは、いつだっけ?誕生日。」
「8月、20日です。」
「ってことは8月19日か…ソ連が崩壊したのって、8月19日だっけ?」
「わかんないです。…茉理さんは?」
「私?4月2日。」
じゃあ、茉理さんが歳をとるのは4月1日だ。
エイプリールフールですね、と言おうかと思ったが、なんとなく、茉理さんはそういうのが好きじゃなさそうな気がしたので、やめておくことにした。
茉理さんが口を開いた。
「ねぇ、そういえば夏休み中に映画部でやりたいこと、ない?もうすぐなのに結城が思いつかないって言っててさ。」
そう言われて私はしばらく考えてみた。色々ある気がするのに全然思い出せない。こういう時ってどうしていくら考えても無駄なんだろう。そもそも「思い出す」ってどうやるんだっけ。諦めて私は聞き返した。
「去年とかは、どんなことやってたんですか?」
茉理さんは顔を斜め上に向けて視線を漂わせた。何を見ているんだろう。
「去年は合宿したなぁ、そういえば。」
「え、合宿って何をするんですか?」
「2泊3日、ぶっ続けで徹夜して映画観た。」
「えぇ、すごいですね…」
「楽しいよ、結構。最後の方全然内容入ってこないし、頭ぐっちゃぐちゃになるけどね。」
茉理さんは懐かしそうに笑った。
「一昨年は、どうだったんですか?」
一昨年というと、茉理さんたちが一年生だった年だ。一年生の茉理さんや結城さんの姿は、あんまり想像がつかない。私と同じような一年生だったとは、あんまり思えなかった。
「一昨年?なんだったっけなぁ…」
茉理さんは真面目な顔になって、鉄板を睨みつけたままじっと考え始めた。ひとしきりブツブツ言ってから、急に表情が晴れた。
「あ、思い出した。映画作ったんだよ、映画部で。」
「映画を?」
「そうそう。私たちは一年生だったから機材係とかだったんだけど。一昨年は映画部も部員がいっぱいいてさ。20人ぐらいだったかなぁ。だから結構すごいのが撮れて。私と並木で音声やって、横山と原がカメラかなんかだったかな。脚本ちょっと手伝ったりもしたけどね。結城はまだ入ってなかったかな。」
「え、そうなんですか。」
「うん、たしか。あの人、秋から入ってきたから。もったいないなぁ、夏からいたら絶対役者で活躍できたのに。」
その結城さんが今では部長という訳なのか。何か、歴史を感じる。
「確かに、結城さんってなんか、すごいですよね。表情が自由自在っていうか。」
茉理さんは目を細くして口を丸めるとうんうんと頷いた。やっぱり、猫っぽい。
「本当の役者だからね。」
「本当の役者?」
茉理さんはコップを持ちながら頷いた。中で水がぐるんと揺れる。
「あの人さ、普段学校にいる間、いつもあのキャラでやってるでしょ。なんかこう、ちょっとカッコつけで尖ってる感じの。」
「そうですね。」
「あれも演技だからね。」
「えっ、そうなんですか。」
茉理さんはうん、と言って一口水を飲んだ。
「元々めちゃくちゃ人見知りなのよ。でもなんか、親に入れられて子役のスクールに通ってたことがあって。お金持ちだからね、結城の家。あいつ自身はそれが嫌みたいだけど。」
そこで茉理さんはコップを置いた。
「子供の時ってなんか、あるでしょ。何かのキャラクターになりきって、そいつの言葉で喋る、みたいな。あの人はそれが異様に上手くて、それを10年かけてさらに発達させて来たって感じかな。」
私は驚いていた。結城さんが、本当は人見知りだったなんて。普段見ているエネルギッシュで活動的な結城さんからは想像もつかなかった。映画部の先輩は天才ばかりだ。少し恐れ多くなってきた。
でも何か、自分を演じるのって疲れるんじゃないか、と私が思ったのを見透かしたのか、茉理さんは続けた。
「『性格演じたりするのは周りの評価でできた役に自分が合わせるって作業だから疲れるんだろうけど、俺の場合、自分のなりたいものになんでもなれるから』って、結城は言ってたよ。演じてる間は、中身もその人になれるとかなんとかって。」
私は、はぁと息をついた。
「なんか、すごいですね。羨ましいです、自分の好きな人になれるって。」
茉理さんも、割とそうだよなぁと思った。茉理さんは演じているわけではないけど、自分の姿をコントロールするのがすごく上手いように見えた。
私は恐る恐る言ってみた。
「茉理さんも、演技っていうのとは違うかもしれないですけど、なんていうか…外見を、中身に一致させるのが上手いっていうか、なんか、上手く言えないですけど。」
自分で何を言っているか分からなくなってきた。それでも茉理さんは理解してくれたらしく、ちょっと微笑みながら答えてくれた。
「あー、やってることは、似てるかもね。結城が好きな演技法、メソッドって言うらしいんだけど、役になりきるために自分の内面を掘り下げる作業なんだって。私もいつも考えてるからなぁ、そういう事。」
茉理さんは少し遠い目をして言った。
又三郎、と茉理さんがぽつりと呟いた。
私は急に不安になった。でも茉理さんがまたすぐ私に視線を戻したので、私はこっそり胸をなでおろした。
「茉理さんってなんか、猫っぽいですよね。」
「猫?」
私はちょっと恥ずかしいなと思いながらも頷いた。
「あー、猫ねぇ。それもいいかもね。」
茉理さんは面白そうに口を丸めた。『それもいいかも』の意味はよく分からなかったが、猫嫌いじゃなくてよかったと思った。
「猫だったら私、あれがいいな。注文の多い料理店のラスボスの、おっきい山猫。あれになりたい。」
「でもあれって、悪役じゃないですか。」
「そうだよ。油断してると、ナツキもクリーム塗って食べちまうぞ。」
茉理さんはわざとっぽく喉を鳴らして、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
 茉理さんは宮沢賢治が好きらしい。銀河鉄道の夜が一番お気に入りだと言っていた。もっとすごく難しい本をいっぱい読んでいそうなイメージがあったので、少し意外だった。
 そういえば、茉理さんはどうして映画部に入ったんだろう。小説家志望で、コンクールにもバンバン応募しまくっているのに。だったら文芸部でもよかったんじゃないかと思って、私はふと聞いて見た。
「茉理さんは、どうして映画部に入ったんですか?文芸部とかでも、活躍できそうなのに。」
「文芸部なんてまっぴらだよ。創作は一人で孤独にやるもんだから。それに、私じゃ馴染めないだろうしね。」
前半の方は少しわざとっぽく答えた。
愚問だったかもしれない。よく考えたら、茉理さんレベルの人が部誌やら文化祭のパンフレットやらに書く文を作っても、楽しくないだろう。
すると茉理さんが聞き返してきた。
「ナツキも、書き物するんでしょ?どうして入らなかったの?」
「あ、ちょっと嫌な思い出があって。」
「ふうん。」
茉理さんはしばらく目線を弄んでから言った。
「ねぇ、私が見てあげよっか?ナツキの書き物。やめたままじゃもったいないよ。」
「え、いやそんな、人に見せられるようなレベルじゃ…」
しかもよりによって茉理さんなんて、恥ずかしくてたまったものじゃない。茉理さんは文学の才能に恵まれてて、きっとすぐに作家になるのだ。私の稚拙な文章なんて、とても見せられない。
「レベルなんて気にしなくていいの。あ、じゃあこうしよう。」
茉理さんはトートバッグからいつものCampusのノートを取り出して開くと、空のページをビリビリと破り取って、私に差し出した。
「今から1週間で、このページ分、お題決めて物語を書いてきて。私も、同じお題で何か書いてくるから。そしたら交換して、お互いの物語の続きを、裏面に書き合うっていうの。どう、面白くない?」
茉理さんは猫みたいな目を見開いて、キラキラさせながら言った。
「でも、とても茉理さんと一緒に書けるようなレベルじゃないし…」
「比べるもんじゃないよ。ナツキ、センスありそうだし。はい、宿題ね。」
茉理さんはノートの切れ端を押し出した。私は恐る恐るそれを受け取って、丁寧にたたんでから足元の通学カバンに入れた。
 茉理さんと一緒に物語を書くなんて。胸の中がキンキンしてくる。私は、目の前に座ってる茉理さんを見た。そしてまた、不安になった。本当に、この人は実在してるんだろうか。いつも近くにいるのに、どうしても茉理さんが幻か何かに思えてしまうことが、よくあった。そのくらい、私にとっては雲の上の存在だったのだ。その茉理さんが私を気に入ってくれて、あだ名をつけたり一緒に書き物をしてくれたりするのは、まるで夢みたいだった。そして本当に夢だったらと考えて、また不安になった。
「茉理さん。」
「ん?どうした、怖い顔して。」
私は茉理さんの手元を見ながら恐る恐る、聞いた。
「なんか、変なこと言いますけど、茉理さんって、ちゃんと実在してますよね…?」
言葉に出してしまうと我ながら意味が分からないなと思いながらそっと視線を上げると、茉理さんは神妙な顔で遠くを見ながら、
「さあ、どうなんだろうね。」
とささやくように言った。
寒気がして、腕にゾワっとした感覚が波のように伝わった。私は怖くなった。この人は、もしかしたら、本当に幻なんじゃないだろうか。私の頭の中にある理想の何かが具現化しただけなんじゃないだろうか。私は茉理さんに何か言いたくて口をパクパクさせていた。
茉理さんはそんな私に目を戻すと、のけぞって心底可笑しそうに声を立てて笑い始めた。その声がちゃんと窓ガラスに反射してきたので、私は少し安心した。茉理さんは笑い涙を手で拭いながら言った。
「何怖い顔してんの、おっかしいな。私はちゃんとここにいるし、生きてるよ。ほら。」
茉理さんはそう言うと私の頭に手を置いてわしゃわしゃと撫でた。手の体温が頭にじんわりと伝わる。私はまだ口をパクパクさせていた。
「可愛いなぁ、もう。」
そう言って、茉理さんは手をフォークとナイフに戻してハンバーグの解体を再開した。
 この人は、分かっているんだ。自分の才能も、幻みたいに捉えどころがないことも全部、理解している。その上で、それを自在にコントロールする方法を分かっている。それだけじゃなく、この人にはきっと、他の人の中身も、完璧に見えているんだと思った。私はなぜか少し目頭が熱くなってきた。
「茉理さん、ひどいですよ。わざとやってるでしょ。」
「えぇー、何がよ。」
茉理さんは大きめに切ったハンバーグの一切れをフォークで刺して幸せそうに頬張った。そして私が顔をくしゃくしゃにしているのに気付くと、また食器を置いて私の頭を撫でた。
「なんで泣くのよ。」
「だってなんか、怖いんですよ。茉理さん、なんか急に消えちゃいそうな気がして。」
茉理さんはまた声を上げて笑いながら、私の髪を優しくクシャクシャといじった。
「大丈夫、大丈夫よ。」
茉理さんがいつもよりも柔らかい声で言った。私は安心して、胸の中が温かく緩んだ。そのせいで、本格的に涙が漏れ出てきてしまった。顔がじんじんと熱くなった。恥ずかしい。人前で泣くのなんて小学生の時以来だ。
「もう、ごめんって。意地悪しすぎた。」
茉理さんが少し困ったような声で言った。こういう声を聞くのは初めてだ。少し嬉しかった。
「ナツキが、私に居てほしいって思ってる限り、私は消えたりしないよ。」
映画のセリフみたいだ。
 茉理さんは、私の涙が止まるまで私の頭を撫で続けてくれていた。先輩にこんな姿を見られるなんて。茉理さんはちょっと面白そうに言った。
「ナツキ、意外と子供っぽいところもあるんだね。」
私は頰に付いた涙の跡をワイシャツの袖に吸い取らせた。
この人に圧倒されてしまっていた。この人みたいになりたいと、心から思っていた。

ナツキ

ナツキ

本当は、これが、青春。 高校3年の夏休み。だらだらと、重苦しく流れていく時間。空っぽな夏を埋めたい、ただそれだけ。ほとんど活動していない映画部で、私は映画を作り始めた。必死になってみたかった、誰かみたいに。 空の底でもがく、2つの世代のくすんだ青春。 回っていく。映画のフィルムのようにからからと、小説のページのように、ぱらぱらと。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-22

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