いつか来た道ーーある女の告白

いつか来た道ーーある女の告白

(4)

「これからしばらく、会えなくなると思うの。急な用事が出来てしまって、ちょっと海外へ行くから」
「海外?」
「ええ、そうなの」
「何処へ行くんですか?」
「パリなんだけど、急な用事が出来てしまって」
 中沢がもし、菅原綾子にわたしの事を訊ねても、わたしの言葉がでたらめだと思われないようにと考えて、わたしは少しでも真実に近い場所で嘘を言っていた。
「パリ? いつ行くんですか? すぐに行くんですか」
「ええ、急な用事が出来てしまって」
「でも、‥‥今日か、明日にでも、一度会えないですか?」
 わたしは彼が、わたしから少しでも多くの金を取ろうとしているのだ、と考えた。そしてわたしは、その事には別段の思いを抱かなかったが、彼と会う事自体には激しい嫌悪を覚えて思わず不機嫌に、
「無理よ。これから急いで準備をしなければならない事もあるし」
 と言っていた。
「チェッ、つまんねえなあ。・・・・仕事は長くかかるんですか?」
 と彼は、いかにもわざとらしく、わたしに聞かせるためとしか思えないような舌打ちをして言った。
「たぶん、長くかかると思うの。往ってみないと分からないんだけど」
 わたしは下手な演技なんかに胡麻化されるか、と思いながら冷ややかに言った。
「一年ぐらい?」
 彼の言葉の調子が突然、乱暴になった。いくらか皮肉な調子も混ざっていた。何かを察したな、とわたしは思った。
「ううん、そんなにかからないと思うわ」
「じゃあ、帰って来たらまた、電話をくれる?」
「ええ、その時にはまた、電話をするわ」
「お土産、待ってるから」
 彼の口から乱暴さが消えていた。わたしは、わたしを誘い込むための仕掛けなのだ、と思った。優しさを装い、餌をまいておき、わたしが誘い込まれるのを待っている・・・・。おそらく彼はわたしに関して、早速、菅原綾子に聞き始めるだろう。
 彼はしつこい男なのだろうか? わたしの言葉など信用せず、わたしの行動を探って歩くのだろうか? わたしは菅原綾子に口止めをしておいた方がいいのだろうか? だが、菅原綾子はわたしと彼が、これほどまでに親密な関係にあるとは、まだ知らないはずだった。だとしたら、彼女には何も言わないでいた方がいいのではないか? 彼女に話せば、たちまち噂が世間に広まってしまうだろう・・・・。だとしたら、むしろ黙っている方がいい。中沢英二にとってはわたしもまた、彼のいるような店をしばしば訪れる多少裕福な、好きもの女たちの一人にしか過ぎないのではないか。わたしにとっては 今度の事は初めての経験で、すべてが大げさに思えるのかも分からないが、あんな仕事をしている中沢英二にとっては、これもまた、よくある事なのかも知れない。--わたしはそんな思いに希望を託して、中沢との電話を切った。そしてわたしは、彼との関係は当面切れたと思ったが、やはり、心からの落ち着きは得られなかった。彼がこの東京にいるという事実が、たえずわたしを脅かしていた。わたしの昼の時間帯に彼が侵入して来る気遣いは、彼の仕事柄、まずないと思われたが、それに続く夜の時間帯は彼の仕事の時間であった。午後二時過ぎに起きて、日が暮れ始める頃になって、ようやく動き出すという彼とわたしが夜の街で、偶然、顔を合わせる事がないとは言い切れなかった。しかもわたしの店は【ブラックホース】がある六本木にもあった。わたしが拠点にしている本社も、六本木とは目と鼻の先の赤坂にある。わたしの噂が誰かの口から彼の耳に入らないとは限らない。
 【ブラックホース】にはわたしと同じ立場の女たちが数多く出入りしていた。菅原綾子もそんな一人だった。彼女が中沢英二とどのような関係にあるのか、わたしには分からなかったが、彼女のお気に入りが中沢英二ではない事だけは確かだった。

 電話をしてから一週間、そして二週間と過ぎた。中沢英二からの連絡は何もなかった。わたしはこのまま彼が、わたしの事など忘れてくれてしまえばいいが、と祈るような気持ちで日々を過ごしていた。実際には、中沢英二が麻薬の常習犯であるのかどうかは、わたしには分かっていなかった。しかし、今のわたしに取ってそれは、どうでもいい事であった。すでにわたしの心の中では小さく生まれた不安と共に、中沢英二に寄せる思いも薄いものになっていた。バカな事をしていないで仕事に励もう。危険な場所からの逃避感覚が働いた。少しでも怪しい匂いのするものからは逃げなければいけない。
 わたしにはまだ、未来へむけての大きな夢があった。海外へむけての夢だった。パリやミラノ、あるいはニューヨーク、ロンドンなどと、海外の一流都市に自分の店を展開する夢だった。そしてそのためには、現在わたしのただ一人の助言者であり、協力者でもある、宮本俊介が力を貸してくれるはずだった。今わたしの店では、宮本俊介は人気ブランドの一つになっていた。わたしが力を入れた結果が、東京での彼の現在の人気の基になっていた。それは彼も知っていて、やがては東京に自分のブランドだけの店造りをしたいので、そのための場所を確保して置いてくれないか、とも言って来ていた。わたしは彼の言葉を受けて、知り合いの不動産屋へも声をかけていた。
 そんなわたしに取っては中沢英二の存在は、思いもかけなく浮かび上がって来た、青空の中の一点の黒雲にも似て唯一、鬱陶しい存在になっていた。わたしは軽い気まぐれから出ただけの自分の愚行に、ほぞを噛む思いを抱いた。祈るような気持ちと共にわたしは、中沢英二との事が小さな瑕疵(かし)として、傷口を広げる事なく忘れ去られてゆく事だけを願っていた。
 中沢英二はだが、わたしが微かに危惧した通りに、やはり電話をして来た。祈るような思いのわたしの願いは、無惨にも砕かれた。そして、わたしの人生は一挙に新たな展開をみせていた。
 中沢英二との電話を切ってから、ちょうど二十日目だった。事務所のわたしの机の電話が鳴った。わたしが受話器を取ると彼の声がした。
「おれ・・・・中沢英二、元気?」
 脅迫的な響きはなかった。親しみを込めた言い方だった。わたしはそれでもその時、思わず息を呑んでいた。わたしはだが、健気(けなげ)だった。すぐに弱みを隠して、
「あら、しばらく・・・・、元気よ。あなたはどうなの?」
 と、ことさら明るい声で言っていた。
「ぼくの方は元気さ。いつ、パリから帰って来たの?」
 彼はやはり穏やかに言った。何気無い言い方だった。それでわたしも、
「あら、まだ行ってないわよ。準備中で今、忙しいのよ」
 と、いつもと変わらない口調で静かに答えた。すると彼は、わたしの心臓に、一気に一突きを入れて来でもするかのようにずばりと言った。
「パリへ行くなんて嘘でしょう」
 

いつか来た道ーーある女の告白

いつか来た道ーーある女の告白

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-09-21

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