ユピテル・スペースモール

ガラス張りの天井の向こうでフォーマルハウトが穏やかに輝く。けばけばしい七色のネオンに彩られたステーションの内側は、ジュエリーボックスをぶちまけたように甲高く、目映く、さまざまに甘く、子どもの夢の時間だ。
たとえば、駅から直通のショッピングモールの入口にはオレンジ色の光に包まれたキャンドルショップが燦然と輝き、キャラメル、ローズ、ムスク、シャボン玉の入り混じった複雑な芳香を辺りに撒き散らし、迷い込んできた頭脳の媚薬となる。遊歩道を抱えた向こう側には蛍光レーザーの飛び交う闇の森がある。グリッターを着飾った鳥が数百と並ぶ梢がある。あるいは、すべての秘密を包括した虹色の一億枚の便箋がある。夫人の指を這いずるエメラルドで出来た蛇が住んでいる。大きな皿ほどあるクッキーが立ち並ぶ。ぼくはその夢の底を端から端まで鮮烈に記憶し、いつだって呼び覚ますことができる。
そこは、ユピテル・スペースモール。
ぼくの愛する色、そして、ぼくの寝静まるべき天蓋のついた褥。
偽物の銀河と、偽物の抱擁。
巨大な国旗が掲揚されていく解き放たれた時刻。
純白のユピテルが指し示すからくり時計が、十度鳴った。


「素敵だわ、素敵だわ」
珈琲色をした大男は身体をくねらせながら、鏡に映ったぼくの後ろを行ったり来たりした。
「そうかな」
ぼくがくるりと回転すると、足元で真新しいトレッキングシューズがぴかぴか点滅した。
「お似合いだわ、ねえ、この靴、まるであんただけに誂えられた王冠よ」
「少し子どもっぽいんじゃないかな」
ぼくは鏡の中で満面の笑みを浮かべている大男を見つめながら眉を顰めた。
「あたしはあんたのものになるべき靴しか履かせないわ。ねえ、そしてね、もう少し髪を伸ばして、足を出したらどうかしら。あんたは素敵だけれど、流行りの若者というには地味すぎるわ」
「放っておいてくれないかな。やっぱり似合わない気がするし。また今度」
大男は気立て良くシューズを仕舞い、おまけにぼくにラムネのキューブまでくれた。彼は一体どういうわけか生意気なぼくにも親切で、どうもぼくのことを庭でタンポポを食んでいる兎か何かのように思っているらしかった。
ぼくはラムネキューブを齧りながら、静かなモールを彷徨い始めた。明るい巨城は閑散としてはいたが、生誕祭というものが近いらしく、普段よりいくらか人出が多いように思えた。人類、家族、温度の高い密室、内臓を分け合った愛餐、惑星、そういうものはぼくとはまるで関係のない捻じれた位置を行き交う人々で、ぼくの色とりどりのキャンディーを踏み荒らし、鉄さびの香りのするコインと愛とを引き換えにする、無粋なスクリーンの中のドラマのようだった。
「あら、『斧とルージュ』のところへ寄ってきたのね。駄目よあの大男…大女かしら、あいつ、何にだって素敵素敵っていうんだから」
サングラスショップのマダムはチーズをスライスするように手際よくぼくの顔の前にサングラスを次々と宛がっていった。
「このグラスは宇宙線を防止するだけでなく光刺激を調節して体内の酵素を活性化する作用もあるのよ。地球の女の子には今ブルーが人気ね。私はオレンジを薦めるわ。顔色が明るく見えるの」
マダムはエアポンプのように際限なく言葉を繰り出し、隕石のテーブルには見る見るうちにサングラスが山積みになった。
「あいにくあまり高価なものは買えないんだ。特にそういう…目立つだけのブランドマークの入ったやつは苦手だな」
ぼくは値札と、マダムの顔の半分を占める金魚鉢のような透明の瞳を交互に眺めた。マダムは豆鉄砲を食ったような顔をし、緑色の口紅を差した形の良い唇を突き出した。
「変わった子ね。うちではブランドものしか扱わないわ」
「そう、それじゃあ、またの機会に。ありがとう」
ぼくは素早く椅子から降りて細やかな巻貝のカーテンを抜け、エスカレーターへ向かった。
アクアマリンのリングに指を滑り込ませ、革張りの本を引っ張り出し、クリスタルの肉牛を見つめ、惑星ツアーのパンフレットを捲り、そして、玩具のピストルの入ったカプセル自動販売機のレバーを一度だけ捻った。モールの中は次第に熱気が増していき、人々は照り焼きソースやパンケーキの香りに吸い込まれていき、フォーマルハウトは傾き、ユピテルは同じ角度で天を指した。


ぼくはたぐり寄せられるように階下へ向かい、広大なフードコートを放浪した。揺れるタピストリーの帳の下、あらゆる星の、あらゆる国の言語が飛び交い、人は捕食し、舐め合い、咀嚼し、飲み込んでいた。
銀河の隅っこで縮こまったちっぽけな桃色の屋台で、ぼくはカシス・ウォッカ・シャーベットを買った。
苦く、甘く、冷たく響く銀世界の果実は、数えきれない足音を反響させ、少し息をしにくくさせる。ぼくはシャーベットをスプーンで削りながら、覚束ない足取りで、誰も座っていないエリアへ向かった。
タピストリーの向こう側に、曇った無数の星と、無数のオーロラが揺れていた。色あせた臙脂色のテントが巨人の指に摘まみあげられ、関節に錆の浮き出た張りぼての騎士が両側に毅然と立ち、宝玉と共に上下する小さな黒曜石で出来たユニコーンの森がそこに完成していた。
「お嬢さん」
頭の上から、低く大地を震わせるような声が聞こえた。
振り向くと金色の鬣に覆われた野生の獣と目が合って、思わずぼくはスプーンを取り落しそうになった。
「驚かせましたかな」
燕尾服に身を包んだ巨大な体躯のライオンはそう呟き、琥珀色の瞳を瞬かせた。ぼくが言葉を発する間もなく颯爽と隣をすり抜けていったかと思えば、メリー・ゴー・ラウンドの運転装置の鍵を取り出した。
「もうじき運転の時間ですが、お乗りになられますかな」
重機のタイヤの転がるような声をして、彼はぼくを見た。ぼくはようやくスプーンをシャーベットに突き刺して云った。
「乗らないよ。それ…子どもの乗るものじゃないか。それに、今日日小さな子でも、そんなものに乗ってるの見たことないよ」
金色の獅子はゆっくりとユニコーンの森を見渡し、不思議そうに首を傾げた。
「はて。百年も昔には老若男女こぞってこのユニコーンに跨ったものですが」
ぼくは呆れて、古い日々を閉じ込めた老人の裁縫箱がユピテルの足元で忘れ去られたように微かに輝いているのを見つめた。
「もう流行らないだろう、そんなもの。動くのかい?」
「もちろん。私めが毎日油を運んでございます」
「油だって?今どき、クリーン・エネルギーを使わないなんて!」
ぼくは眉をひそめて大声を上げたが、ライオンは至って平然として、ゆっくりと太い前足をこちらへ向けた。
「このユニコーンどもには、地底の燃え盛る生命の残骸が何百万年も押し固められ、じわじわと情熱のように湧き出た石脳油が一等すばらしいエネルギーなのです。ですから、地面の存在しない木星なんぞにやるのは反対だと私はごねたんですよ。そういう訳で、此処です」
ライオンの前足が巨大な天窓を指し、ガラスの端に消えてゆくフォーマルハウトをなぞった。頭の上で無数のネオンが懐かしい劇場のように瞬く。ぼくの知らない神が深雪の身体を輝かせて屹立する。
ユピテル・スペースモール。名もなき荒れた衛星の地表。名ばかりの木星の贋物。
ぼくがもっともっと小さく、ピンク色のドーナッツにしかこだわりを持っていなかった無垢なぬいぐるみだった頃、ここは一つの王国で、絶えずプリズムの人が行き交う城下町で、目まぐるしく天気の変化する渓谷で、柔らかい毛布の敷き詰まった子ども部屋だった。
ここは木星に注がれた果てなき憧憬の沈む場所。


「もう三百年も前になりますがね。私どもが此処へやってきたのは」
ライオンは琥珀色の眼球を細め、褪せたメリー・ゴー・ラウンドのブリキに目をやった。黒曜石のユニコーンたちは押し黙ったままエメラルド色のガラスの瞳を輝かせ、真紅の鬣を揺らめかせた。
「三百年か。君たちはずいぶん長く生きるんだね」
ぼくはもう半分溶けかかったカシス・ウォッカ・シャーベットの欠片を掬い取って舐めた。
ライオンはアンティークのランプのごとき深い炎の揺らめく眼差しでぼくを見た。
「私はあなたにお会いしたことがあるような気が致しますな」
「そうかもしれないね。あいにくだけど、ぼくは此処にこんな乗り物があるってこと自体、さっぱり覚えていなかったよ。ぼくら地球人は脳みそがちっぽけでね、十年も経てばたいていのことは忘れてしまうんだ」
「さようでございますか。それは至極残念ですが……どうやらちっともお変わりないようで、安心致しました」
ぼくはむっとして彼のほうを見た。
「どういう意味だい?少なくともぼくはずいぶん背は高くなったし、足も大きくなった。あの頃みたいに誰かに手を引かれてはいないし、先週までは、お給料をもらってね、立派に働いていたんだ」
「ほう。先週までは?」
「郵便配達をね。ただ、ちょっといざこざがあって、クビになっちゃっただけさ」
「郵便配達を」
ライオンはぼくの言葉を反芻した。なんだか小ばかにされているような気がして、首の後ろがぴりぴりとした。
「あなたはさながら、宇宙を漂う亡霊のようですな」
「失礼なことを云うね、君。ぼくの足を見てよ。ぼくの分子構造を、その大きな毛まみれの手で確かめてみる?」
ぼくが口早に責め立てると、ライオンは喉の奥で愉快気にふっふっと笑った。冗談を云ったつもりはないだけにぼくは無性に腹が立って、腕組みをした。
「君は全体、こんな場末のスペースモールで何百年とその回転木馬をぐるぐるして、楽しいのかい?」
ぼくが揶揄をしても、ライオンは行儀よく四角になってモールの床に座り込むだけだった。
「これは私めの仕事でございますから」
「誰も乗らないのに」
「そう、誰も乗らない。それで構わないのですよ。何せ回転機構ですから。気が向いたときに一遍二遍、回してやれば良いわけです。年老いた農夫が芝を刈るように」
ライオンは幸福そうだった。暖かい暖炉を前にするようにユニコーンたちを見渡して、温度の応酬をしていた。
ぼくはたまらなくなって吐き捨てた。
「それはただのおんぼろな玩具だよ!!」
ぼくの言葉に、紳士はその二つの琥珀を大きく見開いた。ぼくはその中に轟轟と音を立てて渦巻く嵐の激しさを見た。批難とも訓戒ともつかぬ猛々しい表情が、遠い星々の粉塵の潮流を思わせた。モール中の季節の輝きがその瞳に取り込まれ、何百年、何千年、何億年ぶんもの足音を掻き混ぜ、今にも溢れ出しそうだった。
ぼくはライオンに背を向け、タピストリーをくぐって逃げるように駆けた。
真っ白な大理石の床に零れたシャーベットのしずくが血のように跡を付け、訳もなく湧き出てくるぼくの心の奥の溶岩がモールをすっかり包み込んで何も見えなくなった。


ぼくは目を擦りながらエスカレーターを駆け上がった。大量の紙袋を下げた太った男に行く手を阻まれ、顔を上げてぎくりとした。
黒いユニコーンがぼくを見ている。
エスカレーターの天頂で、あの獅子の使い魔のような人形が、ぼくが辿り着くのを待っている。ぼくは立ち竦んだ。
目線を落としたところで、立ち塞がった男の携えた紙袋の中に、またしてもユニコーンが緑色の瞳で爛々とぼくを見据えているのに気が付いた。
振り返ってみると、それは至る所に待ち構え、ぼくを取り囲んでいた。
ファッションショップのステッカー、子どもの手にしたアルミの風船、棚に並んだ香水瓶、クレーンゲーム機のアクリル箱の中。
このモールは燃え盛るユニコーンに支配されている。
ぼくは早鐘を打つ心臓を抑えながら、階下に目をやった。
メリー・ゴー・ラウンドが古びた星の光を放ちながら回転していた。
それは時折とても悲しげに軋みながら、誰も腰かけていないモザイク仕立ての黒曜石を上下させ、惑星の理に従ってこの上なく素直な速度で永遠を刻んでいた。
小さな子どもが階上からメリー・ゴー・ラウンドを指差している。あれは幼い頃のぼくのようだ。ぐるりと見渡すと、防寒具店で冬用の長靴下を選ぶ人、ラベンダー色の紅茶を啜りながらノートに何かを書き連ねている人、小鹿の置物に似合う小箱を探す人、ベースボールの観戦用メガホンをかざす人、そこら中にかつてのぼくの気配が満ち溢れていた。あのライオン紳士はぼくのことを亡霊だと云ったが、それはあながち的外れでもなく、ぼくは星の軌道に行き場を無くしてちっぽけな時代遅れの廃墟に迷い込んだ、成仏できない魂にすぎないのだ。
ぼくは自分の唇が震えているのを感じた。
神の手のようにモールを包み込む透明なドームは、今や遥か頭上に浮かび上がった木星の雲流を映し出していた。飾り物の、命のないユピテルが広場の真ん中でそれを真っ直ぐに指し示し、天上には本物の神が一億層のガスの眼球でこちらをじっと見つめ、躍動し、飲み込もうとしていた。
ぼくの彷徨える心臓は宇宙に蠢く無限の粒子に捉えられ、もう一歩も動けなくなった。
階上の段差に蹴つまずき、真鍮の柵に寄りかかった。
黒いユニコーンは威厳ある緑樹の瞳でメデューサのようにぼくを凍りつかせ、背後に迫った第五惑星はその薄く巨大な輪でモールを切り裂くように回り続ける。ぼくの靴底の裏で煌めきながら歯車を回すオルゴールと同じに。

『ここはユピテル・スペースモール!あなたの願いの叶う場所。一度入れば棺まで。ここはユピテル・スペースモール!』

アコーディオンの音色に陽気な歌声を乗せた古風な音楽が階下で響いていた。ぼくは舌の上にほんのりと残るカシス・ウォッカ・シャーベットの甘くて苦い味を感じながら、訳もなくどくどくと響く核の音を喉下で感じていた。ぼくの生命の半分には永遠の自由と永遠の孤独が約束されているのみで、ナトリウムのキャンドルの下で大きな人と一緒にお腹いっぱいハニー・ピッツァを頬張ったり、ぼくを勝手に運んで行ってくれる自動電気車の操縦桿をわくわくする気持ちで小一時間見つめたり、青銅の像の現れる木立で迎えに来てくれる誰かを待ったり、そういうことがぼくから遥か銀河系の外まで遠ざかり、今目の前にあるこの頼りない二本の脚と手だけが現実で、モールの喧騒も重力と同じに不安定に揺らいでいくのを魂で感じとり、取り残された気分でいっぱいになった。
「あらあんた、一体全体どうしたのよ?」
突然頭のてっぺんで聞き慣れた声がして、ぼくはぱちんと電灯が点いたように我に返った。
そこには珈琲色の大男がいくつも靴箱を抱えて大木のように立ち塞がり、傍で目を真っ赤に泣き腫らしている羊のごとき小さく真っ白な生き物を見つめていた。
「迷子かしら、困ったわねえ、困ったわねえ」
大男はまったく上の空といった様相で天井を覆い尽くした木星を見上げた。それは自転の速いこの衛星が一日を終えようとしている啓示で、ユピテルの指はさながら秒針の役割を果たしているようだった。
「違う違う、違うんです」
ふかふかとした毛だまりの雲は、頭を横に振った。
「居なくなっちゃったのはあたしの子どもです。ああ、どうしよう。もうじき帰りのシャトルが出てってしまうっていうのに」
四本の蹄が悲しそうに震え、大理石の上で乾いた音を立てた、大男は眉を顰めると、足元で嗚咽する小さなぬいぐるみを見下ろした。
「あら、あんたねえ、この時間にはぐれたんなら、大変よ。ご覧なさいよ、どいつもこいつも我先にシャトルに乗ろうと躍起なんだから」
見渡すとモールの螺旋に絡まり合うように、黒い塊、赤い塊、銀色の塊が混ざり合いながら駅の入口へ流れていた。雨の日の濁流、排水口の泡、蟻地獄の砂がさんざめきながら腕いっぱいのユニコーンを抱えていた。
「分かっておりますわ!だからあたし、もうこんなに泣いたんです。ああ坊や、坊や、坊や」
羊は壊れたポットのようにざあざあと涙をこぼし、辺りを水たまりにした。大男は首を右へ左へ捩じりながら、大袈裟に肩を竦めてみせた。
「あんたも困ったものねえ。ひとまず迷子センターへ行きなさいよ」
「怖いわ。足が震えるわ。あたし動けないわ」
羊はますます小刻みに震え、やがて声も出なくなった。大男はため息を吐いて抱えていた靴箱を床へ置き、階上から首を伸ばして迷子センターを探し始めた。
ぼくは見かねて、珈琲の巨漢と縮こまった綿毛のスポンジに話しかけた。
「ぼくが行ってこようか。場所は知っているし、きっとあんたより足が速いよ」
大男は不意を突かれたように振り返り、ぼくの顔を見てにこりと笑いかけた。
「あら、あんた、あんたじゃない。ねえ、ついさっき入荷したの、あんたに似合いそうな果物のたっぷり付いたオックスフォードよ」
大男がおもむろに靴箱をひっくり返して蓋に手を伸ばしたので、ぼくは慌てて下りのエスカレーターに飛び乗った。
「ちょっと待っていて、おばさん」
ぼくの言葉に、白い毛玉は目をまん丸くして泣き止むと、「あたし、おばさんじゃないわ」と不満そうに呟いた。


ぼくは稲妻のように夢中でモールを下った。次第にモールの照明は落とされていき、殺菌灯のような青白い光に包まれ始め、至る所で色とりどりのオーロラが揺らめき、守られた子どもたちは愉しそうに宙を舞った。二度、三度と掃除夫の運転する自動掃除車にぶつかりそうになり、モップが荒々しい速度で石畳を捏ねるのを飛び越え、ユピテルの白い衣装の袂へと辿り着いた。
モールの隅に設けられた迷子センターはすっかり防犯ガラスを締め切ってしまい、誰も居なかった。ぼくは忌々しい気持ちで呼び鈴を掴んだが、それもただの置物で、鉄で出来た飾り物の鈴はいくら振っても鳴らなかった。呼び鈴を投げ捨て、怒鳴りつけてやるべき従業員を探して振り返った。人々はそれどころではなく忙しないかけっこに追われ、ぼくは川藻のようにカウンターにへばり付くしかなかった。
ふとユピテルに遮られた対岸を覗き込むと、ガラスの閉じかけた扉の向こうで騒がしく飛び跳ねる子どもの足音に気がついた。
彼は雑貨屋の店内に残された無数の三色ゴムボールで遊んでいて、水泡のようにボールが水槽の中で跳ね回り、白い毛や、羽や、紙飾りがきらきらと揺蕩っていた。
ぼくがガラス扉に手をかけて中に入ると、彼はぴたりと動きを止めて、真ん丸の帽子飾りのように行儀よくこちらを見た。
「きみ、そんな所で遊んでいると、亡霊になってしまうよ。ここは出口のないワームホール。ユピテルの作った偽物の宇宙なんだから」
ゆっくりと話しかけると、彼は磨き上げられた二つのブラックオニキスをぱちくりとさせ、傍へ近づいてきた。彼はまだ言葉を覚えておらず、メエメエと見知らぬ草原の音で鳴き、ぼくのさしだした両腕の上にきちんと収まるとすっかり満悦して眠り始めた。
ぼくは慎重に往来をかわしながら、長い長いエスカレーターに乗った。背後でユピテルがじっとぼくたちを見つめていた。
冬の夜のマシュマロの感触、優しいホットミルクの香り。ぼくの故郷ではしばしば白くて冷たいものが世界を満たした。あの時と同じようにどこまでも続くアイスバーンを歩いている気分になった。
暖かな鼓動を腕の中に感じながら、ぼくはあの小さく白い生き物のもとへ戻った。毛玉は「坊や、坊や、坊や」とやはり大粒の涙を止めどなくこぼし、『斧とルージュ』の大男はそんなことはおかまいなしに、身体をくねらせながら、素早くぼくの脚へ勝手に靴を合わせては吟味した。
人々の香水、煙草、ミント、フィナンシェの香り。足音、金切り声、足音、笑い声、足音。ぼくはぼんやりとからくり時計から出たり入ったりする奇妙な兵隊の人形を眺めていた。足元で、大男が怪訝そうな顔をした。
「あんた、あんたももう帰ったほうがよくてよ。最終シャトルがやってくるのがほら、見えるでしょう?」
大男は口惜しそうに果物付きのオックスフォードを箱へ仕舞いながら、駅の方面を指差した。流線型の銀色のシャトルが光の速度でレールを走ってくるのが見えた。
「ぼく、あのライオンに謝らなくちゃいけないんだ」
階下の石柱に取り付けられたクリスタルのシャンデリアが青く、ときに金色に輝き、手触りの良い布のように揺れているのを、ぼくは見つめていた。
「まあ、ライオンってなあに?」
「メリー・ゴー・ラウンドのライオンさ」
「知らないわ。あのメリー・ゴー・ラウンドはただのオブジェじゃないの」
大男は不可解な表情をして階下を見下ろした。メリー・ゴー・ラウンドはひっそりと静かに、眠りの森の中に封印されていた。もう二度と目覚めないような太古の化石のように堅固で、ささやかで、愛らしかった。
「あたしももう帰らなくっちゃ」
大男はそそくさと靴箱を片付けると、足早に青の闇の中へ消えていった。
ぼくは長い間エスカレーターの傍で、ユピテルの美しく彫り削られた巨大な顔と対峙していた。彼を祝福するように背後に浮かぶ天体は輝きの中で渦巻き模様を浮かべ、モールを見下ろしていた。
いつしかエスカレーターは止まり、立ち並ぶウインドウは次々とシャッターを降ろし、奏者はトランクケースを担ぎ、いくつもの平面のユニコーンが壁の中で眠りについて行った。
ぼくはあのライオンに謝らなくては……。
木星を巡回するちっぽけな岩の欠片の上で、ぼくは自分の心臓の音を聞いていた。地球という水の星から湧き出、当たり前のようにカシスの果汁の色をした、平べったい液体の流れるさまを。
だがしかし、ぼくの砂粒みたいな細胞たちはすっかり消沈し、もう本当に銀河の生まれるずっと前から躍動していなかったように足を止め、ぼくはなかなか動き出すことが出来なかった。
ぼくも、あのライオンも、同じ宇宙を彷徨う抜け殻で、でもそれは暖炉にくべた炭が時折爆ぜるように、再び目覚める時を何億年と待ち続けている生命の迷夢なのだ。
水底の閉塞。遥かな時を回転し続ける木星に見守られ、夜を演出するこのおもちゃ箱。青い星、ぼくの故郷の夕闇の色によく似ていた。
突然、閃光に包まれて目の前が真っ白になった。後ずさりしながらゆっくり目を開けると、サーチライトを手にした茶色い制服の警備員が、複雑な構造のゴーグルを嵌めて向かいの通路からぼくをじっと見つめていた。
警備員はぼくを一瞥すると、「ああ、君か」と呟き、そのまま踵を返して上階へ向かって行った。
ぼくは息をひとつ吐くと、意を決して、エスカレーターに足を乗せた。
革ベルトのエスカレーターはもう少しも動かなくて、冷え切っていた。ぼくは一段一段、自分の体重が奏でる金属の音を靴の底に感じながら、一日の終わりを地の底へと、下って行った。
ユピテルの表情が少しずつ変化していき、しかしふと目を上げると蝋のように固まり、見えない鬼ごっこを永遠に続け、懐かしい青い光がその頬を滑らかになぞった。からくり時計だけが控えめに秒針を進め、もうそれ以外は生きているものは何もなく、博物館のように静まり返ったモールが息苦しくぼくの身体を包み込んだ。
タピストリーの麓まで辿り着くと、ユピテルの巨大さがよく分かった。そして同時に、彼もまた、頭上で輝く木星の奥深くへ吸い込まれようとしているのが見て取れた。ぼくは思わず彼の白銀の衣を握りしめた。
ユピテルのそびえ立った石の台座に目をやると、何か文字が彫られているのが目に止まった。

『己が三頭の一角獣に従え』

それはユピテルの言葉なのか、神の啓示なのか、誰かが戯れに彫ったものなのか、ぼくには分からなかったが、不思議とそれは僕自身に向けられたささやかなメッセージのように思えた。ぼくはユピテルの像をゆっくりと見上げた。くらくらと、重力を失うような恒星の、遊星の、水面の波紋が頭上に広がる。無限の砂金が暗黒の帳の中に散りばめられ、触れる術もなく流れていく。
「ユピテル。ぼくは」
ぼくが声を発すると、ユピテルの険しい顔が青白く輝いた。
「ぼくはお腹がすいたよ。それから、ぼくはとても疲れた。それから…」
青い大気が充満し、夜が沸騰していく。銀色の水蒸気が立ち上り、ユピテルの顔はいつしかよく見えなくなる。
「ぼくは、彼に謝りたいんだ」
モールの中で激しい波が四方からぶつかり合い、青い竜巻を巻き起こした。ぼくは驚いて台座に身を寄せた。フードコートに散在した軽量素材のテーブルや椅子が飛び交い、群衆のように広場に円を作り、やがて風がおさまるころ、一組のテーブルと椅子がぽっかりと開けた空間にひらりと舞い降りてきた。
テーブルの上には、炙ったチキンにマスタードペッパーのかかったサンドイッチが並び、暖かいトマトとパプリカのスープ、それにライムソーダのジュースが添えられ、ほかほかと湯気を立てていた。ぼくの胃が音を立てて呻いた。
スポットライトを浴びた小さなテーブルは洞窟の底に差し込んだ太陽の光とともに輝き、ぼくは冷たい椅子に腰かけて、欲するままにその宝物にかぶりついた。チキンの香ばしい火炎の味、バター、小麦、煮込んだ玉ねぎ、赤い風味。あっという間に平らげたぼくは、口の中で弾けるライムソーダを吸い上げながら、辺りを見回した。ぼくにこんな僥倖を与えてくれる神、それは本当にユピテル、君なのだろうか。
振り返ったそこにユピテルの姿はなく、代わりに大きな丸いベッドがひとつ置いてあった。柔らかそうな青い毛布に雲のごとき分厚い羽毛布団が掛けられ、それもまた金色に輝く空気の粒子を纏って、ぼくを吸い寄せていった。
何も考える余地のないまま、ぼくは靴を脱いでその幻想の寝床へ潜りこんだ。布団の中は浴槽みたいに暖かく、手先から、足先から温度が親しく握手をしてきて、たちまちぼくは甘い睡魔の囁きに呑まれていった。
眠りに落ちるほんの一瞬、ぼくは自分のか細い声を聞いた。
「ユピテル!ぼくの最後の願いは?」


夢の浅瀬で、ぼくはやっぱりモールの中を遊泳していた。煌めく色とりどりの人々、衣服の迷宮、ぼくが何も怖いものがなく、無限の天上へ向かうユピテルこそが真実だと信じていたころのこと。モールを支配するすべてのユニコーンは生き生きと嘶いていて、背丈の程もあるラッパからは異国の音が聞こえ、珍妙な姿をしたサーカス団がモールを練り歩き、笑っていない人は誰一人としていなかったころのこと。ぼくが、当たり前のように巨大な縞模様の惑星を受け入れ、ぼくを導いてくれる正義のように感じていたころのこと。
すべては時の中で化石のように降り積もり、恐竜は絶滅し、海は涸れ果て、地表は薄ら汚れていった。ぼくは美しい故郷を失い、引き千切れた電線とひび割れたアスファルトしかない町に一人取り残され、空の配達鞄を抱えて日がな一日古びた朱色のポストの上に腰掛けていた。それは悠久の時間で、何度ぼくの分子が融合し、分解しても終わることのない悪夢で、ぼくはただ死を待つだけの空しい細胞の一つ、世界は心臓を張り裂こうと締め付けてくる牢獄だった。
もうぼくの戻るべきところはどこにもなく、ぼくを着飾る何物も必要とせず、誰も会う人はない、そういう幾度もの人生をぼくは過ごしたのだった。
重苦しい羽毛に包まれているのに身体中がぞくぞくと冷えてきた。もう二度と思い出したくない静謐な混沌。何も変化しない汚泥の真空瓶。恐ろしくひとり。
ぼくは閉じた自分の瞼から熱い何かが筋を描いて髪に落ちるのを感じた。
その瞬間、温かい何かがぼくの頬に触れた。それは毛むくじゃらで、巨大で、足音を忍ばせることを知っている行儀の良い生き物だった。サバンナの香りがし、ゆっくりとした規則正しい呼吸が聞こえた。
ぼくははっと目を開けた。
「君だね?ライオン」
ライオンはぼくの頭をすっぽり包み込むように座り、微睡んでいた。ぼくがその鉱物のような爪に触れると、琥珀色の眼をゆっくり開いた。ぼくは彼にしがみつくように起き上がった。
「ライオン。ぼく、君に謝ろうと思っていたんだ」
「謝る?一体何をです」
ライオンはとても眠そうで、まるで自分の岩山の住処から突然この場所に呼び寄せられたかのように首を傾げてぼくを見下ろした。
「君にひどいことを云ってしまった」
「ひどいことなんて、何にもありゃあしません。どうかこの老いぼれを、寝かしてくれやしませんか」
ライオンは静かな声でそういうと、うつらうつらと船を漕ぎ始めた。ぼくは彼の金色の鬣を引っ張って、青い布団の上に立ち上がった。
「ねえ、まだ眠らないで、聞いておくれよ。君も自分の、三頭の一角獣に従ったの?」
ライオンは片目を開けると、面白そうに笑った。彼の巨体が揺れて、ぼくはその豊かな毛並みの中に埋もれそうになった。
「こういうことは冬の夜にはよくあるもんです。あるいは、一晩に何度でも起こるのです。木星の下で眠っているとね」
宇宙のたわむ音色。無数の光の粒。降り注ぐエネルギーが共鳴し、反響する。ドームの中に微弱な波のさざめきが広がっていくのが分かった。
「ユピテルが願いを叶えてくれるっていうのは本当なんだね」
ぼくが彼の力強い腕の中で天上を見上げると、ライオンは不思議そうな顔をしてぼくを見た。
「あれはただの飾り物でございますよ、小さな人」
ぼくはなんだか可笑しくなって、くすくす笑いながら毛布を被った。ライオンは眉を上げて暫くぼくを見つめていたが、やがて自分の腕に頭を乗せると長いまつ毛を伏せて寝息を立て始めた。
ぼくは頭の上の方で、草原の果てしない空に広がる小さな心地よい雷鳴をずっと聞いていた。嵐の前と後の、静かな雨の香りに、すべての感覚を委ねた。
赤い鬣の黒々としたユニコーンたちが、中世の鎧を纏った騎士が、音もなくメリー・ゴー・ラウンドから抜け出してきてぼくたちの周りを取り囲み、足を折って座り、すやすやと眠り始めた。
ぼくは飽食し、モールの時は止まった。ただ霧の中でユピテルが揺らめく第五惑星を貫き、辺りは一面草花の咲き乱れる楽園の夜を演出し、水はこの上なく透き通っていて、木々のざわめく音と、昆虫の求愛する声と、森と砂漠と氷山の入り混じった香りが交代に鼻をくすぐり、妖精が頭の上を飛び交った。ぼくは生誕祭の暖かな暖炉の前で贈り物の蓋を開け、可愛らしい柔らかな動物を抱きしめ、噴水で足を洗い、橋の上で花火を見て、シロツメクサをいつまでも摘むことが出来た。およそ幸福と呼べるもののすべてが、その夢の中には溢れていた。
だがそれはあくまでも自らの中の幻想、自らの描いた拙い絵画だとぼくはもう知っていた。
本物はこの満たされた内臓と、冷たい足を包み込む毛布と、ゴロゴロと遠くで岩を転がすふさふさの獣だった。
ぼくは深く深く眠った。何百年、何千年と青い洞窟の底に包まった。鍾乳洞から滴る冷たく澄んだ水音に耳を傾けながら、あの巨大な恐ろしい、優しい惑星がぼくの身体を通り過ぎていくのを、ちっぽけな脳みその眼で永久に見つめていた。



「困りますわ、お客様」
気がつくと、眼鏡を掛けたひょろりと背の高い女が、ぼくを見下ろしていた。見渡すとそこはすっかり明るくなった家具屋のショーウィンドウの中で、僕は海色のベッドの中で一人横になっていた。
「もう朝かい?なんだか千年も眠っていた気分だよ」
ぼくが身体を起こすと、頭の辺りに散らばった金色の毛と温かな温度が残っていた。ぼくのポケットからは玩具のピストルが転がり出ていた。
「私は千年も仕事が遅れた気分ですわ」
女は腕組みをしてため息を吐き、ぼくを追い払うようにシーツに叩きをかけ始めた。
「そう怒らないでよ。ほら、これをあげるから」
ぼくは靴を履きながら玩具のピストルを女に手渡した。女はまじまじとピストルを眺め、おもむろにぼくの額に押しつけてトリガーに指を掛けた。
「駄目ですわね、まったくなっていませんわね。こんな旧式のピストル、今どき流行りませんわよ」



二週間ばかりが過ぎて、ぼくはスペースモールのフードコートの一角で、粉砂糖のたっぷりかかったフレンチトーストを頬張っていた。
ローストビーフを挟んだベーグルの香ばしい匂いが向かいから漂ってくる。
「このようなものを食べるのは数百年ぶりですな」
「このようなもの?」
ぼくはヘーゼルナッツの紅茶を喉に流し込みながら、険しい顔でベーグルにかぶりつくライオンを愉快に眺めた。
「ライ麦、レタス、トマトにピクルス。どうにも味気なくてかないませんな」
「君はね、そうやって好き嫌いをするから頭が偏ってしまっていつまでも土臭いやり方に固執するのじゃないかい?」
ライオンは透き通った瞳をまん丸くして、その野生の牙で、食べにくそうに野菜を噛み切った。
「随分な物云いですな。あなたもそのうち全身の血が砂糖水になってしまいそうじゃございませんか。ご機嫌でも悪いのですかな?」
「まさか。とても良い気分だよ、今は」
ぼくは微笑みながら、紙袋から真新しい革の鞄を取り出した。
「新しい仕事が見つかったんだ。素敵な配達鞄も買ったし」
「それはようございましたな」
ライオンは苦虫を噛み潰したような顔をしてレタスを飲み込むのに必死で、ぼくは思わずフォークを置いて、大声で笑った。ライオンはきょとんとしてぼくの顔を見つめた。
色とりどりのリボンで飾りつけられたユピテルが、うんざりした表情で無数の人々に取り囲まれていた。
大理石の床には赤いビロードのカーペットが敷き詰められ、真鍮の柵には膨らんだ靴下が幾つも吊り下げられていた。
「ねえ、ライオン。あとで君のメリー・ゴー・ラウンドに乗せてよ」
ぼくはタピストリーの裏側に隠された一億頭のこのモールの秘密を、心躍る気持ちで見つめた。石油の香りのする生ける蹄を、頭の中で感じ取った。
ライオンはただ喉の奥で低く笑い、大きな口で残りのベーグルを飲み込んだ。
モールはいつまでも金色に目映く輝き、フレンチトーストは至福の甘さだった。



                               【おわり】

ユピテル・スペースモール

2012年作品です。

ユピテル・スペースモール

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-18

Copyrighted
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