リラの花が咲く頃に 第6話
小説家になろうにて連載中の「リラの花が咲く頃に」第6話。
第6話「恐怖を感じずに初めてを迎える為に大切なことは」
丘珠町のバスの本数は1時間に1本から2本程度である。
PM7時からは1時間に1本となり都会ほど街灯は多くない為、人通りの少ない地でバスを待つこととなる。その為夜間の外出はとても危険だ。
ーーPM8時、2階の佳奈子の部屋。
外は車の通りもなく静かだ。時々爆音で走る暴走族ですら、今日はいない。
冷たく、大きくふわりと包み込む様な夜風が収穫直前の玉ねぎ畑に吹き渡る。空気の入れ替えに開けている窓から大きくカーテンを揺らして部屋にも入ってきた。
諒は佳奈子と和解した後マロンを連れて先に帰ったが、れなとみゆは残って佳奈子と楽しくたわいのないガールズトークをする事によって怖かったはずの佳奈子の心に寄り添おうと少しでも長くそばにいる事にしたのだった。しかし、明日もバイト、外泊することはできない為夜遅くになってしまったがれなとみゆはそろそろ帰らなくてはならない。大佛家おさらぎけがあるのは環状通東駅の方だ。
れなが声を上げる。
「わや8時じゃん。ミュウ、そろそろここでないとうちら帰れないよ?」
マグカップに入ったココアを飲みながらみゆは同意する。
「そうですね」
本当はもっとそばにいてあげたい気持ちになっているれなは佳奈子に申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「佳奈子ごめん…このまま泊まってあげたいんだけど明日うちらシフト早いからさ…」
「なんも大丈夫だよ、平気。気にしないで?」
「そう?…あ、佳奈子明日休みだっけ?」
「うん、そうなの」
「そっか…ゆっくり休みなよ?もし男のひとが恐い様ならお母さんに言うからしばらくミュウにまた任せればいいし」
「そうですよ。引き続き私に任せてください」
同意する彼女の眼は妙に自信に満ちたような輝きが増していた。それをれなは見逃さなかった。
「ありがとう…でもたまには」
「いえ、それで少しでも時間をかけて楽になるのなら私は構わない」
みゆは協力者に成りすまして何か企んでいるのでは?と傍で2人のやりとりを見るれなにはわかっていた。しかし、思い違いかもしれないと疑いを頭の隅に追いやって黙っていることにした。
帰宅する為バスを調べ1階に降りると2人は
知世と先生に挨拶する為居間へ向かった。
白いローテーブルの前に並んで立つ。
「そろそろ私たち帰ります。長居してすいませんでした」
れなに続いてみゆは「お邪魔しました」と頭を下げる。
しかし、知世は帰ろうとする2人を引き止める。
「女の子2人だけで帰るの?やめなさい」
「え?」
引き止められた2人は動揺を隠せない。
「え…でもおばさん、うちら帰らないと明日の仕事が」
「そりゃ帰すわよ?でもここは都会とは違うのよ?この時間は物騒だわ」
ここ丘珠町がある東区は1つの区内で境界線が特別引かれているわけではないが「田舎の東区」と「都会の東区」に分かれている。つまり丘珠町は「田舎の東区」、大佛家がある環状通東駅周辺は「都会の東区」ということになる。
因みに、札幌市の開拓は慶応2年(1866年)、丘珠町からだいぶ離れた現在都会の東区・北13条東16丁目付近から札幌村開拓の祖・大友亀太郎が農夫を伴い開拓に着手し始まったと言われている。
「ここは田舎なのよ?諒くん以上のことを仕出かす“ケダモノ”、若しくは人の皮を被った“魔物”がこの丘珠に潜んでいるかもしれないのよ?今日は神社で獅子舞が舞ったから“魔物”は出ないかもしれないけど…恐ろしいわ!」
忘れがちだが、ここ丘珠町では丘珠神社で9月に行われる例大祭で丘珠獅子舞と呼ばれる大型の獅子舞が舞うのである。数ある札幌の獅子舞なかで唯一丘珠獅子舞が札幌市無形文化財に指定されていたりするが、果たしてそのことを現代札幌市民、いや、丘珠町民がどれだけ知っているかは定かではない。
「あ、そっか今日お祭りだったんだもんね。少しは浄化されーー」
れなは言いかけて傍らにいるみゆの方からぞくりと悪寒の様なものが背中に走った。れなは思う、
(こいつはもしや…?)
美しく愛らしいスズランには人を殺せるほどの猛毒がある。
まさに透き通る様に美しいみゆには時折それに似た猛毒がある様な気がしてならない。
「れなさんどうしたんですか?少しは浄化されてるはず、ですよね?」
疑いがあるみゆから指摘され、れなは動揺した。
「あ、うん、そうそう!ミュウには私の言いたいことわかっちゃうのかな?あははは…」
「わかりますよ、いつも一緒、なんだから…」
みゆはにやりと笑う。それがまた顔に似合わないくらいに恐ろしかった。
れなは慌てて彼女から目をそらし、本題に戻すため質問した。
「お、おばさん、それじゃあ私たちどうしたらいいの?」
「僕が車で送るんで安心してください」
黙ってやりとりを聞いていた先生が氷柱をパキッと折る様な刹那の早さで割り込んだ。
「れなさんさっき言ったでしょう?丘珠は人通りが少なくて危険なんです。お二人を“ケダモノ”の被害に遭わせるくらいなら僕が送りますから」
「え…はあ」
あまりの勢いの良さにれなが呆気にとられていると横からぱちぱちと手を叩く音がした。
「ありがとう先生、この子達をよろしくお願いしますね」
そこでれなは気づいた。今のは知世が敢えてこの状況を作り、真面目な彼に言わせたことではないかと。
「おばさん、先生に何言わせてるのよ!明日先生もお仕事かもしれないのに」
「なんも?先生はいいって仰ったわよ?ねー先生?」
「はい、明日一日だけ体休めようかと。それに環状通東の方向なら僕も一緒なので」
「ですって!だから2人とも送って貰いなさい!田舎なんだから人の好意には乗らなきゃ生きられないわ」
そうなのだ。ここは札幌の田舎、それに今はまだ雪はないが雪国である。自然の驚異的な力で生死が危ぶまれる場所でもあるのだ。なので、時には人の好意に甘えなくては生きて行けない。
れなとみゆは遠慮がちに「お願いします」と頭を下げた。
すると、二階からドタバタと勢いよく階段を降りる音がした。
「私も連れて行って!」
「佳奈子⁈」
夕方に泣いていたカラスは何処へやら、大きなボストンバックを抱えた佳奈子の目は希望に満ち溢れ輝いている。
「お泊まり…したいの!ねぇいいでしょうおばさん、お願い」
佳奈子の表情は恥ずかしいのかはにかんでいる様に見えた。その様子に先生の家に外泊したいのだと悟った。
「さっき諒くんに襲われて怖い思いしたばかりなのに?」
佳奈子は顔を赤らめると、もじもじと体をくねらせる。
「うん…ねぇ、ダメ?私も明日休みだし一緒にいたいよぉ」
いつもおねだりしない佳奈子だが今日は誕生日のせいか甘えている様子だ。しかも、19歳になったせいか色気付いたことを言っているではないか。勿論、知世の答えは「NO!」だ。
「だめったらだめ!まだ1年早いわよ!それに先生にご迷惑よ!」
「そんなぁ…だめなの?」
「だめです!」
「れなだって月に一度はーー」
れなは自分のことを言われそうになり恥ずかしさで顔を真っ赤に染める。
「うちはうち!よそはよそっ!」
おばとして、女の先輩として、姪には女の安売りをして欲しくなかった知世は眼鏡が曇りそうな程の剣幕で反対した。しばらくそのやりとりが続き、れなとみゆは帰れぬまま、先生も困った様子で2人のやりとりを黙って見ていることしかできなかった。
ーー30分後
「はあ…はあ…はあ…あんたも佳苗に似て頑固ね」
「お母さんに…はあ…似てるなんて…言わないでよ…」
30分間ずっとノンストップで言い合いをしていたので2人は息を切らしていた。見兼ねた先生が2人の間に入ることした。
「佳奈子さん、知世さん」
名を呼ばれた2人は同時に先生の方へと顔を向けた。
「これ以上喧嘩はやめてください。れなさんたちが帰れずに困っています」
「「あっ…」」
先生に言われて2人は我に返り、周りの状況に気がついた。れなはむくれっ面に、みゆは呆れ顔で明後日の方向を向いてしまっている。
「佳奈子さん」
「…は、はい」
「今日はもう遅いですし、知世さんのいうことに従いませんか?お泊まりはできなくても、明日デートすればいいじゃないですか。1日遅れだけどお祝いしましょうよ。バイキングにでも行きませんか?」
(バイキングっ…‼︎)
すっかりしょんぼりしてしまっていた佳奈子の目は、バイキングというそれだけで食欲が湧いて出てくる呪文の様な言葉よってまたキラキラと輝きを取り戻した。
「はいっ!元町の運河亭うんがていでお願いしますっ!」
またこの子は…そう思った知世はほんの少し前に落ち着いたのにまた姪を叱らなくていけなくなった。
「こらっ佳奈子っ!図々しいわよ!…ごめんなさい先生、こんな子で。運河亭じゃなくて、“くまみちゃん”にしなさい!」
「えっ?問題そっち?!」
言われた本人でさえつっこんでしまう程、“くまみちゃん”推しは衝撃だ。
れながなぜ知世が“くまみちゃん”を推すのかを説明する。
「運河亭より“くまみちゃん”のほうが安くてコスパがいいんだよきっと。あんた人の2倍、いや4倍は食べるんだから先生のお財布の負担も考えなさいよっておばさんは言いたいんだよ。ねー、おばさん」
「ええそうよ。れなちゃん説明ありがとう。この子こんなに細いのにテレビで見かける大食いギャルみたいに食べるんだから。食費幾らかかってると思ってるの?」
「えーと…2人で5万円とか?」
「ブッブー‼︎佳奈子だけでひと月10万」
それに驚いたれなの中に嫉妬心が生まれ、佳奈子にぶつける。
「はあ?!どんだけ1人だけ食べてるの?!ちょっとあたしの太りやすい体と取り替えなさいよ!」
「れなさん、青いネコ型ロボットいない限り無理だから…」
みゆが小さくれなにつっこみを入れた。
知世が先生に念を推す様にまた“くまみちゃん”でお願いする。
「とにかく…先生、北48条の“くまみちゃん”でこの子は十分なんで」
「はあ…ほんとうに“くまみちゃん”でいいんですか?」
れなからもお願いする。
「いいの!先生いくらお医者さんでもこのフードファイターが彼女じゃ身がもたないし破産しちゃうよ。めちゃくちゃ肉好きだし。特にラム肉」
さすが長年親友やっているだけれなは佳奈子が好きなものをわかっている。
「ラムかぁ…羊ヶ丘のレストハウスでもいい気がするけど」
今度はみゆが“くまみちゃん”を推しをする。
「あそこラムジンギスカン食べ放題だと3千円から4千円じゃないでしょうか?体内の半分ほど膨れ上がるであろう佳奈子さんの胃袋のことを考えると“くまみちゃん”の方がコスパ的に良いのでは?」
「そうだろうけど…でも佳奈子さんの誕生日ですよ?誕生日くらいは特選ラムでいいと思います。というか、僕が食べさせたいかな」
その言葉をみゆの隣で聞いていたれなは先生に任せることにした。
「まあ…彼氏は先生だから佳奈子のことは任せます。おばさん、誕生日だから羊ヶ丘のレストハウスにするみたいだよ?」
「いいんですか先生?」
「なんも大丈夫ですよ。佳奈子さん、明日羊ヶ丘行きましょう」
まだ羊ヶ丘に行ったことがなかった佳奈子は先生と未知の世界に行けるような気持ちでいっぱいになり声を弾ませる。
「はい!行きましょうっ♬」
お泊まりはなしだが明日羊ヶ丘展望台でジンギスカン食べ放題に行くということに決定し、事態はなんとか丸くおさまった。
3人が帰ると途端に燕家は夏祭りが終わって風物詩である北海盆歌が聞こえなった様な、そんな寂しい気持ちになっていた。
風呂上がりに佳奈子はグレーの長ソファーの右端に座り、雪印の北海道バニラバーを頬張っていると寝る支度を済ませた知世が小さなピンクの紙袋と小さなライラック色の巾着袋を持って寝室から現れた。
「誕生日、おめでとう。遅れちゃったけど私からプレゼントよ」
白いローテーブルの横に座り、バニラバーを頬張る佳奈子の目の前にそっと置く。
「ありがとうおばさん♬…食べちゃうから待って」
半分程食べ終わっていたバニラバーをひとくちで食べて、木製の棒をソファー下に置かれたゴミ箱に捨てる。
「開けてもいい?」
「うん、どうぞ」
ショッキングピンクの紙袋から淡いピンクの包装紙に包まれた箱から取り出すとバイオレットカラーの透明なケースに入ったランバンの「エグラドゥアルページュ」が出てきた。50mlくらいだろうか。
「え…これ高そう…」
「そんなんでもないわよ。軽く吹きつけてみたら?」
言われるまま佳奈子は空中に吹きつけてみた。軽やかに香る上品なムスクの香りは、5月頃に咲くライラック(リラ)の香りに似ていた。
「すごくいい香り…甘過ぎなくて私好き」
「あら、喜んでもらえて嬉しいわ。明日のデートにでもつけたら?男のひとが嫌う匂いじゃないから大丈夫なはずよ」
「そうだね、ありがとう♬」
佳奈子はもう1つのプレゼントに気づいた。
「ねぇ、おばさん」
「なに?」
「この…ちっちゃい巾着はなに?」
巾着を触ると、柔らかいプラスチックのような感触があった。
「それは…今は開けちゃだめ」
「どうして?」
知世は何か隠している様子だ。明るい表情から一変、真面目な顔になっている。
「いいから。今はだめ。それは先生といつもより親密…いい感じの雰囲気になったときに開けてちょうだい」
「いい感じの…雰囲気?」
「ええ…あらやだもうこんな時間」
壁に掛けられた時計の針は0時を指していた。知世は明日の仕事に差し支える為「おやすみ」と言ってそそくさと寝室に入っていった。
佳奈子は「おやすみ」と交わしたあとも袋の中身が気になったが、開けてはだめと言われたのでそのまま香水と一緒に紙袋に入れて部屋に戻った。
翌日。
佳奈子はプレゼントされた香水をつけて待ち合わせの為晴れ渡る秋空の下、丘珠中学校前のバス停横で待っていた。
約束はAM11時だが、早く会いたい気持ちが先走ってしまい30分前に来てしまっていた。9月の後半であるにも関わらず気温は30℃。白レースの日傘をさしていても陽射しが突き刺さす様に暑い。
コンビニも近くになく、ほぼ何もないに等しいこの場所に約束の時間より30分前に来てしまった自分を佳奈子は呪った。先生に会う前にファンデーションが汗で崩れてしまいそうだ。
今日はアクシーズファムのクラシカルなブラウンのワンピースに、日焼け防止の薄手の淡いパステルカラーのうさ耳付きパーカー、白レースをあしらったかわいらしいデザインのサンダルというスタイルである。
ダークブラウンカラーののアンティーク調デザインの斜めがけポーチからANNA SUIの小さな折りたたみの手鏡を取り出し、化粧崩れしていないか確認していると15分早く先生のダークレッドカラーのアリオンが佳奈子の右手後方にスゥーと現れた。
「お嬢さんおはよう。どうぞ乗って?」
先生はスマートに佳奈子をエスコートし、扉を開けて助手席に乗せると佳奈子の好きなリボンナポリンを「どうぞ」と差し出した。
「わぁ!先生ありがとう!」
「こんな暑いのに早く出てきちゃったんじゃないの?」
早速開けて飲んでいたリボンナポリンを佳奈子は噴き出しそうになるのを抑えて飲み込んだ。図星である。
「なっ、何故それを…⁈」
まるでその反応はアニメキャラにありがちなわかりやすい反応だ。
(まさか…少し化粧崩れしてるのに気づいちゃった⁈)
佳奈子は外の暑さで火照った顔を恥ずかしさで更に火照らせ真っ赤になった。
「佳奈子のことだから何となくわかるの。なんでかなぁ」
「…え?」
先生はシートベルトを締めると優しく微笑む。
「…あんまり心配させないで?誰も歩いてないのに熱中症で倒れたらどうすんの?」
先生は佳奈子の頭を軽くポンポンすると、乱れない程度に優しく撫でた。撫でられるだけで胸がキュンとときめく。第2ボタンまで外した淡いブルーのシャツからチラリと見える色白の鎖骨、そして変わらぬいつものホットケーキの様な甘いタバコの匂いが更にときめきを加速させる。
北丘珠から車を走らせること約41分。
羊ヶ丘展望台に着くと早速2人は羊ヶ丘レストハウスにてランチタイムのジンギスカン食べ放題を楽しんだ。
1人分多く食べた佳奈子はお腹いっぱいで満足かと思われたが、その考えは甘く、会計後すぐさま隣のオーストリア館にあるソフトクリーム販売にてソフトクリームを2つ注文した。
「ハスカップと夕張メロンでお願いします!」
お金を払おうとポーチから財布を出そうとする佳奈子より先に横からスッと千円札を出す手が伸びてきた。
「先生…」
「いいよ。好きなとこ座って待ってな」
「…う、うん、ありがとう」
窓際のカウンター席の左端に座って待っていると注文した2つのソフトクリームを手にした先生が隣に座る。
「ありがとう、先生」
「どっちから食べるの?」
「ハスカップ…」
ハスカップ味のソフトクリームを佳奈子に渡すと先生は夕張メロン味の方をコーンスタンドに立てて目の前に置いてくれた。
「スプーンも使う?」
先生はコーンスタンドの他にもスプーンまで販売員から貰ってきてくれていた。何から何まで世話を焼いてくれるようだ。
「うん、ありがとう♬」
佳奈子は先生に満面の笑みを先生に向けると幸せそうにソフトクリームを頬張り「美味し〜い」と食べ始めた。それを先生は優しい微笑みで見つめ、かわいらしい彼女の頭を撫でる。
スプーンで一口分掬って質問する。実は先生はアレルギー体質であり、食べられない物が幾つかある。
「大丈夫…?」
佳奈子は心配そうな表情で見つめる。
「ハスカップなら大丈夫だよ」
「じゃあ…あーん」
「え…?食べさせてくれるの?」
先生は驚いた表情を浮かべる。照れているのか耳がほんのり赤く染まっている。少し考えこんだ後、周囲を見回し口を指一本分開けた。
佳奈子は嬉しそうに「あーん」と彼の口の中にソフトクリームを含んでやった。
「先生美味しい?」
「うん、美味しい。ありがとう」
優しく笑って先生は佳奈子の頭を撫でると彼女が食べ終わるまでかわいらしい姿を眺めていた。
ソフトクリームを2つ食べ終えても佳奈子はまた新たな美味しい食べ物を見つけた。
「ねぇ先生、ラムまんだってぇ♬」
立ち止まったかと思えば一目散に走っていき、「ラムまん1つください!」と注文した。彼女の胃袋は果たしてどうなっているのだろうか…。先生は一瞬是非とも千歳在住の消化器内科医のおじに彼女の胃を診せてやりたい気分になった。
(佳奈子もしかして…胃下垂とか…?)
食べても太らないという症状を持つ病には胃下垂や胃アトニーというのがあるが佳奈子はどうだろうか。専門外であるが医者家族の家系に生まれ、自分も医者の道に進んだせいか医学的な事は1度気になると解決するまで気になって仕方ないという自分でも厄介な癖があった。
先生は気になって佳奈子の姿勢やお腹部分に視線をやる。熱視線にも関わらず彼女はラムまんに夢中で気がついていない。
(別に姿勢は悪くない…お腹は…)
ワンピースのスカート部分に隠れていてわからなかった。人前で触診という名の“ある種のプレイ”をするわけにもいかないので今回のところは諦めることにした。しかし諦めようとする程、謎への真相を突き止めたくなる気持ちとかわいい彼女に触れたい気持ちは募るばかりであった。それに、医学的観点からまた更に好きな女性のことを知ることができるといった面に興奮を覚えてしまうのは医者のどうしようもない変態性であろうか…。自分でも嫌悪感を覚える。
佳奈子がラムまんを食べ終える頃を見計らって先生は佳奈子に話しかける。
「それ食べて少し休んだら外歩かない?」
「うん」
食べるのを一旦やめてこちらを見た佳奈子が
一瞬ジンギスカンのジンくんの様な素朴なかわいい顔をしていた。赤ちゃんの様な、そんな愛らしい顔をしていたら男ならば誰だってキスしたくなってしまう。
先生も今日は“羊を食べたくてしょうがないオオカミ”になりつつあった。なんとか理性を保たなくては…。
ランチタイムを終えて2人は展望台内を一周した。木製の柵の前で羊雲が浮かんだ青空に溶け込む札幌の景色を眺めていると佳奈子はもう一度展望台内にある雪の様に白く美しいチャペルを見に行きたいと思った。
前かがみに柵に凭れながら景色を眺める先生に佳奈子は声をかける。
「ねぇ先生」
「なした?」
「もう一回、あのチャペルが見たいなぁ」
「ブランパーチか?いいよ、行こうか」
2人は手を繋いでチャペルへと向かう。白く美しいチャペルは大きな噴水の先にあった。
噴水の先にあるチャペルへと続く道はレンガである。美しい緑の芝生に挟まれる様に敷き詰められたレンガの道を二人で一歩一歩ゆっくり進んだ。チャペルが近づく度に胸に何かときめくものを佳奈子は感じていた。
チャペルの門から少し離れた所で2人は足を止める、青空の下、美しく佇むチャペルを黙って見つめた。
風がふわりと大きく吹いて2人を優しく包み込む。
佳奈子の小さな手を繋ぐ先生のひとまわり大きな手に少し力が入る。それに応える様に佳奈子も強く握り返す。2人は互いを見つめる。見つめ合う時間が長くなるにつれ、互いを愛おしく感じた。その間に言葉はいらなかった。
しばらく互いを見つめたのち、先生は佳奈子の手を離すと佳奈子の細く小さな肩を優しく抱き寄せて淡いピンクのグロスで艶めく柔らかな花びらの様な唇にそっと軽く口づけた。その口づけに温かな愛を感じた佳奈子は思った。5年、いや10年後でも構わない、ここで今目の前にいる愛しい人と式を挙げたいと。
「…先生」
「ん?」
「将来ここで先生と結婚式を挙げたいな…」
先生は優しくいつもの様にふわっと微笑むと
「俺も佳奈子と挙げたいな。佳奈子のドレス姿、すごく綺麗なはずだ…早く見せて?」
と言い、優しく頭を撫でてもう一度抱き寄せた。
札幌の力強くも優しく吹き渡る乾いた風に包まれながら、他人にはわからない、2人だけが感じることができる幸福感に彼らは満たされていた。
羊ヶ丘展望台をあとにして2人を乗せたダークレッドのアリオンは札幌ドームを右手にみながら走っていく。
お腹いっぱいの佳奈子は助手席でジンギスカンのジンくんのぬいぐるみを抱いて気持ち良さそうに寝ている。
国道36号に入ると夕方であったこともあって少し道路の流れが悪くなった。周囲を見渡せば一般車両の他にも大型観光バスが何台か列を連ねていた。自分たちが向かっている札幌駅方面とは逆の北広島方面に向いているのでどうやらツアーが終わってバス会社に帰ろうとしているらしかった。車体を見るとBUSの「B」を模した様なシンボルマークの下に「北海道バス」と書かれているのが見えた。
先生はふと「あること」を思い出した。が、今は胸の奥底にしまっておくことにした。“時期”が来たら佳奈子に話そう、そう思いながら青信号でアクセルを踏んだ。
PM6時半頃。
車は豊平区から中央区と抜けて東区と入った。
助手席で眠っていた佳奈子が目を覚ます。寝ぼけた頭で景色をしばらく見たのち、冴えてきた頭で東区に入ってきたのを理解すると彼女は途端に寂しそうな表情を浮かべた。帰りたくない、このままずっと好きな彼と一緒にいたい、そんな気持ちになったのだ。
寂しそうな表情で黙ってぬいぐるみを抱えている佳奈子の姿がちらっと視界に入った。先生は赤信号で止めたところで彼女に声をかけた。
「佳奈子、なした?ん?」
元気がない彼女に疲れたのかと問うても首を横に振るだけで黙っている。そしてゆっくりと寂しそうな困った表情を先生に向けた。
「まだ帰りたくない…先生と一緒にいたいよ…」
か細い声でそう小さく言うとまた黙ってしまった。左腕につけた腕時計で時刻を確認すると少し考えた末、先生は提案する。
「小樽まで少しドライブでもしようか?」
しかし佳奈子は黙って首を振る。
「ん?ドライブじゃ嫌か?」
佳奈子はうなづくと先生の方に顔を向け見つめた。
「私…先生の…先生の部屋に行ってみたい…」
「…え?」
予想だにしていない答えが返ってきたので先生の思考回路は衝撃によってショート寸前になりかけてしまった。
信号が青に変わる。佳奈子がまだ未成年の為
先生の中で内心戸惑いはあったものの、彼も彼女と2人きりになりたかったので彼女を部屋に招き入れることにした。
「少し…5分くらい待ってて?」
東区 苗穂町某所。
先生の自宅は住宅街の中にある小さな2階建てのアパートの1階だった。医者の割には家賃はあまり高くなさそうな所に住んでいる様子だった。築年数は5年位であろうか。北28条の佳奈子の実家より綺麗な外観で、ワラジ虫やアリが大量発生する…といったことはなさそうだ。
そうこう考えていると先生が助手席の窓を3回軽くノックした。
「いいよ、おいで」
ドアを開け優しく手を引かれると部屋へ案内された。白い扉を開けるといつもの甘いホットケーキの様な甘い煙草の匂いがした。
しかし何故だろう、シングルベッドを見た瞬間から佳奈子の中に緊張感が生まれた。車を目の前にして驚いた時の猫の様に立ち止まったまま固まってしまった。それに気づいた先生が優しく彼女を抱き寄せて「大丈夫だよ」と頭を撫でる。包み込むひとまわり大きな体の温もりが心地よい。
白いローテーブルとベッドの間に2人は並んで座りホットコーヒーを飲んでいた。飲んでいる間も先生は佳奈子の頭を撫でていて、そのくすぐったくも甘い優しさで佳奈子の緊張は春の雪解けの様に解けていく。その証拠に頭からどんどん崩れる様に体を委ねて抱きついた。
先生は飲んでいたコーヒーをテーブルに置いて佳奈子の顎をそっと持ち上げてキスをした。佳奈子もキスをすると2人は唇は磁石の様に離れてもまたくっついて繰り返す。そのうち唇から全身に熱を帯びていき、次第に後ろのベッドへと移動し、気づけば2人は重なる様に横たわっていた。
ーーチュッ…チュクチュ…チュッ…
静かな部屋の中で2人の唇を重ねる音だけが響いている。長いキスを交わすうちに息を止めていた為苦しくなってきていた。
「コホッ!コホッコホッ!」
限界がきて思わず咳込んでしまった。息をしてよいものかわからなかったのである。
「大丈夫か?息していいんだよ?」
「いいの?」
「うん」
と、ふと気づいた。先生が上に乗っているうえ、白いYシャツの胸元が少し開いていて色白の綺麗な鎖骨が見えているではないか。佳奈子は途端に恥ずかしくなり顔を赤らめて手で隠してしまった。
「なした…?」
隠した手の隙間から濡れた瞳と唇が見えている。先生は本能的に隠した顔が見たくなる。
「顔、見せてくれないの?」
「…恥ずかしいよ」
「かわいい顔、見たい」
「かわいくないもん」
「かわいいよ、見せて?」
そう言われて勇気を出してゆっくり手を退けると、佳奈子の童顔からは全く想像できない、大人の色っぽい表情をしていた。先生はそれを目の前に男として我慢できなくなった。
「佳奈子…好きだよ」
ひと度また唇を重ねれば2人は次第に止まらなくなった。
その頃、仕事から帰宅していた知世は1人夕食を済ませ食卓でお茶を飲んでいた。
ーーポトッ
「あら…」
居間のテレビ横で育てている椿の花がポトリと落ちたのである。それを見て知世の女の勘が働く。
「佳奈子…あれ使ったのかしら」
昨夜誕生日プレゼントと一緒に渡した小さな巾着袋の中身は実は0.02mmの天然ラテックス製ではない方ののコンドームだったのである。
知世の勘は正しかった。巾着の中のひとつは使われていた。ベッドの中で愛し合ったあと先生は質問する。
「佳奈子、そういえばあれどうしたの?」
「おばさんが…誕生日プレゼントと一緒にくれたの。先生といい感じの雰囲気になるまでまだ開けちゃダメだって言われてたからさっきコンドームだったって知ってびっくりしちゃった」
「そう…なんだ…」
知世は昔コンドーム自販機の補充をする“妖精さん”と呼ばれる仕事をやっていたので某有名ゴムメーカーのコンドームについてよく知っていたし、10年の期限ごとに部屋の隅の方にストックする程であった。なので佳奈子にも持たせたのであろう。
あの真面目な知世がまさか姪っ子である佳奈子に持たせるなど考えていなかったので先生は少し驚いたのだが、もしかしたら自分を姪っ子の彼として認めて貰えている証拠なのではないかと思い直し、ホッと胸を撫で下ろした。
隣で横になっている佳奈子に腕枕をすると佳奈子は嬉しそうに抱きついた。それに応える様に抱き返すとなんだか幸せな気持ちになった。
ーーブッブッ!
佳奈子と先生が幸せに浸っている頃、みゆのiPhoneが二階振動した。LINEがきたのだ。相手を確認する。
「諒くん…」
みゆに対して諒からLINEをすることはとても珍しいことで、彼からLINEするとすれば大体自分たちが行うライブの誘いする時くらいのものであった。しかし、今回はどうやら違う様だ。
内容を把握するとみゆは急いで台所に立った。
東区の地にピアノの不協和音の旋律が高らかに響き渡るーー。
リラの花が咲く頃に 第6話
第6話も最後まで読んでいただきありがとうございます。
先生と佳奈子が結ばれました。
この2人はかぐらが中学生のときに作ったキャラクターでして、結ばれたことが作者として喜ばしく思っております。
第7話もよろしくお願いいたします。