*星空文庫

寒空に唸る

斎田 治矢 作

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職場から逃げる話。

1

それに気がついてしまった私の目には、この世のすべてが仇のように見えてしまうようなのであった。私の五感が仇がくると訴える。ああ、知らぬが仏。知らぬが仏。なんまいだ。なんまいだ。

2

 私が逃亡を決意したのは、今日みたいに手がかじかむほど寒い日だった。
 
 思考は人を殺しうる。暇や忙しさ、ましてやいじめや貧困など。人が病気や怪我以外で死に追いやられる原因は山ほど挙げられている。そのすべてに共通していることとは何か。私は科学者でもなんでもない。ただの会社勤めの一人間であるが、答えがとても単純なものであることが、幼い頃から分かっていた。思考だ。考えることそのものが、人を死へ追いやるのだ。
 私の会社では小さな二つの劇場と、それに付随した売店を運営している。私は、若手社員であるためまだまだ舞台に立つには早すぎる。お客さんに慣れるという名目で売店の手伝いや、お客さんの送迎。便所の掃除や、庭掃除。お情け程度のフードコートの調理員から、果物の売人。さらには劇場内の物売りまで。できることも、できぬことも。なんでもやった。
 それは、施設にしては広大すぎる、一度も満車になど成ったことなどない、広大な駐車場にてやってきた。その日はちょうど、駐車場係の日であった。駐車場係といえど、滅多に客なんて入るものではないから、入り口のところで右手に旗、左手に誘導灯をもち。なんとも不格好な形で。私は、道路に向かってたたされていた。先輩方がおっしゃるには、客の目からはそれが目立つのだというそうで。言われるがままに、旗と赤い棒を振り回していた。呼び込みと言われれば、聞こえは良いだろうが、事情を知らない通行人や車で通る人々は、私を奇妙な者をみる目つきで、ただ過ぎ去ってゆくのであった。悪い気が、しないわけがない。思えば、私の世界の人間に対しての解釈というものを、百八十度変えてしまったのはこのときなのかもしれない。視界に入る己の陰さえもが、異様であった。まるで、そう、いささか格好の悪い怪物がこちらをのぞいて、お前も同じだと低く唸っているようだった。

3

気づきは一瞬。たわいもないその瞬間は、いとも簡単に私の世界の色を変えてしまった。人々のこそこそ話や冷ややかな目が、私に降り注いでいる気がして成らないのだ。他人の視線が恐ろしくて仕方がない。できることなら、部屋にこもって出てきたくない。私は、前までどういう顔で人に接していた。人間というものを、どういう顔をしてみつめていたのだ。分からない。さっぱり、分からぬ。私は、この仇ばかりの世界のなかで、どう生き抜いて、どう呼吸をしていたのだ。どうも、息がつまって仕方がない。笑えているか。私は、今笑えているか。この、目の前の仇を私は欺くことができているのだろうか。今まで、こんなにも他人というものを意識したことがあっただろうか。
 人が嫌いになりました。嫌いになったと言うよりかは、昔から人が嫌いだったらしいのです。その感情に、いままで知らずのうちに、ごく自然に蓋をしていたようなのです。
 私は、その蓋をあけ。あまつさえ蓋を、壊してしまったようでして。蓋は粉々に砕け散り、修復しようにもどうしようもないという有様なのでございます。開けてはいけない箱の蓋を開けてしまったように思います。あけてはいけない。あけては生けない。音の通り。音の通りに。これをあけては、人間は普通には生きてはゆけぬものです。
 臭いものに蓋。なんて具合に、嫌いなものに蓋をしてきたわけでございます。蓋をしても漏れ出してくる生々しい悪臭を、人間を愛するふりをして。そればかりか、楽しませようとして。自分自身を人好きの産みし子であると洗脳し。隠蔽し。その証拠に、人に接する仕事に就いているのでありました。漏れ出す悪臭を自分自身に気づかせぬように、わざと人間に近づいたのであります。巧妙な手口とはこのことです。このように、周りの人間を信じることを良しとせず、己の立場や有りどころ、生きたる意味にいたるまでを、深く思考するに至るときが、死にまた一歩近づくことを、私の細胞の一つ一つが既に知っていたようでありました。思考はなされずとも、人嫌いは体に刻まれ。さらには、生存本能というものを、細胞はしっかりと発揮していたのです。

4

気がつけば、既に日はくれて。最終公演の入場の時間となっていた。随分と長い間、物思いに耽っていたらしいのだ。これから、最後の客を見送って、夕刻の草むしりをしてから、清掃をして、雑用をこなして、寮に帰るのが九時頃。そして、明日の朝、六時前に出勤する。それが、私の日常である。
 長い。あまりにも長い思考を終え、私は冷め切っていた。目の前を通り過ぎる、突き刺さる視線をぼんやりと感じながら、胸の奥の暖かさがどんどん薄れて消えていくような錯覚に陥った。
 このまま消えてしまえれば、どんなに楽だろう。このまま。このまま、存在自体を無くして。亡くしてしまえたならば、どんなに素敵なことかしら。
 私は、逃亡を決意した。

5

もともと、小振りのリュックサックに全部詰まるぐらいの私物しか持ち合わせて居なかったのだ。荷造りなど、へのかっぱさ。後は、私の体があればよかろう。
 私はコートを着て寮をでた。
 足が驚くほど軽かったのを覚えている。行くところなんてなかった。決まっていなかった。
 気まぐれ、気の迷い。どっちでもいい。海が見える丘。月の浮かぶ空。それを見ていた。ガードレールによじ登った。できる限り、近くで月を見ていたかった。きれいなものを、見ていたかった。

 ふわり。浮き上がれそうな夜だと思った。ふわり。どうせ行くところなどないのだと、私の消えた部分が唸った。ふわりと、私は宙に体を放りだす。手足を投げ出し、頭を投げ出し、思考を停止する。一度考えることを知ってしまった者は、考えることをやめられぬ。思考を停止させるには・・・。私には、これが最善であると考えられた。思考の深さの影響により、人々の冷たく痛い視線を受けながら、地獄の日々を過ごすよりかは。生き地獄を生きるよりかは、幾分かましに思われた。このまま、思考を停止させてしまうことこそが、しあわせなのではないかしら。

 思考は続く。しくじったか。私の体は、運悪く草むらの中に落下した。草がクッションのかわりになって、衝撃を緩和したらしいのである。私は仰向けに倒れたまま月を見上げる。寒空に唸った。

『寒空に唸る』

今回も、かなりわからん話になってしまったのですが、状況を説明すると、主人公は芸事小屋で働いている雑用がかりです。
何年か、雑用をやらされているうちに、自分のありどころさえもわからなくなってしまう。当初の目的っていったいなんだったのか。それさえも、考える事がなくなるぐらいに、それらは日常と化していたが。私は、これでいいのだろうか。毎日、微々たる客しか入らない、そんなところで雑用として一生を終えていいのだろうか。
ある日の駐車場にて、他人からの冷ややかな視線に気づいたときに、そもそも私は人間が好きであったろうか?そんなことを考えはじめます。
主人公は、かなり人間としてはダメ人間。正直、かなり斎田自身の過去の真っ黒いところが入ってる、問題作中の問題作です。悲しきかな、斎田も勿論逃げることを繰り返すクズ野郎です。
あんまり真面目に読まなくていいです。はい。
よく出てくる仇という漢字の意味としては、敵という意味で用いていて。人の全てを敵ともうしますにはいささか、まっすぐすぎるというのと。思考しないという防壁が崩れたことにより、他者に攻め立てられるという、主人公の腐れネガティブ心理を表しています。

大事なのでもう一度いいますが、あまり真面目に読まなくていいものでしょうと思います。

『寒空に唸る』 斎田 治矢 作

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-09-14
Copyrighted

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