*星空文庫

君が笑うその時まで

Nico 作

  1. 開幕.罪負い人は銀の色:前編
  2. 開幕.罪負い人は銀の色:後編
  3. 幕間.はじまりの物語
  4. 壱.遠くの記憶は鈴の音:一音

ダークファンタジーはじめました。
和風仕立てになっております。

開幕.罪負い人は銀の色:前編

 どうやらこれは、あまりよくない雲行きらしい。と、誰かが心の中で呟いた。

 春も盛りの曇り空。そんな花曇りのある日のこと。ちっぽけな教室で、ひとりの生徒が密やかに動きだす。
 ざわざわざわ。水面に数滴の墨を垂らしたかの如く、皆の不安と好奇心が()い交ぜになって教室中に染みわたる。



『あああああああああ!! こんなことやってられっかよ。お前らさあ、なんでのうのうと生きてんの?』



 授業中の教室に、不釣り合いな叫び声。鬨の声のようにも聞こえたそれは、狂気のはじまりを皆に(しら)せていた。


 教師はどうやらご立腹。なんてことを。私の古典を邪魔する気?

『松崎君、どうしたんです? 言いたいことがあるならはっきりとおっしゃい』


 名を呼ばれた生徒……松崎(まつざき)陽平(ようへい)は何も答えない。奇っ怪なニタニタ笑顔で、教師をじっと見つめている。かと思えば突然、松崎は笑い声を上げた。ケタケタケタと耳障りな声。我慢の限界が来た教師は教壇を下り、つかつかと松崎の席へと歩いて行った。彼の席は教室の廊下側、ほぼ中央。


 松崎の席まであと数歩。ほんの数秒の猶予があれば、教師は目的を遂げられただろうか。


『うるせえんだよクソババア! ここにアンタなんか要らない……要るのはそう、お人形だけなんだから!』


 教室前方からの甲高い怒声。今しがた彼女が通り過ぎた辺りだ。教師は泣きだしそうな顔で振り返った。

『今度は……今度は何です、黒田さん。もう、授業を……』


 片山(かたやま)道子(みちこ)、五十二歳。哀れな教師の最期の言葉を、記憶に留める者はいただろうか?



 ピシャアっ!!!



 初め、米沢(よねざわ)ひかるは顔にかかった生温かいものが何なのかわからないらしかった。松崎の前の席で、異変に慄いていた彼女だ。周囲の出来事には人一倍敏感になっていたはずの米沢だが、それでも初めは気づけなかった。通り過ぎるはずの片山先生は、どうして私の横から動かないのだろう? って。


 数秒の後、米沢は自身の真横を見上げた。カヒュー、カヒュー。音を喪った悲鳴と、降り注ぐ朱い雫。小刻みに痙攣する片山先生。それから血飛沫を浴びた姿のまま、銀のナイフを恍惚(うっとり)と見つめる松崎の姿。

 米沢はこわごわと自身の頬に触れた。そこにベッタリと付着した朱を見て、彼女はようやく全てを悟ったらしい。ドサリ。片山道子が崩れ落ちた直後、米沢は人事不省に陥った。



 誰も、何も言わなかった。何も言えなかった。目の前の光景が、あまりにも現実離れしていて。



『うふふふっ……ねえみんな、可笑しいね。一体何にそんな必死に縋りついてるの? 一寸(ちょっと)考えたらわかるのに。こんな歪んだ世界に、生きたいと思える希望がないってことくらい』

 黒田絵梨はこう言い捨てると、役目は果たしたと言わんばかりの清々しい顔で立ち上がった。



 ゆらりゆらり。黒田の合図につられて五人の生徒が立ち上がる。
 勝倉(かつくら)(じゅん)佐原(さはら)里奈(りな)(はやし)千夏(ちなつ)瑞浪(みずなみ)絢斗(けんと)。そして、矢部(やべ)幸輔(こうすけ)
 六人は表情を失くしたまま、ふらふらと教室の出入口に立ち塞がった。まるで、熱に浮かされたように頼りない足どりで。


 彼らが位置に着いたのを見届けた後、僕はゆっくりと席を立った。恐怖と混乱の色が貼りついた皆を見回し、教卓に立つ。言うなれば僕は舞台監督。教師じゃなくて、僕を見て。



 これは最近多発している事件の模倣(コピー)だろうか?
 それとも、醒めない悪夢の始まりだろうか……



『やあ、僕のクラスメイト諸君。悪いけど、机と椅子、それから携帯を貸してくれないかな。君たちに逃げられてしまっては困るんだ。大事な大事な捧げ物だからね』

 壇上から皆を見下ろし、僕は至って普段どおりに語りかける。それが、皆の混乱を増長させるらしい。


 ざわざわざわ。困惑と憎悪の入り混じるざわめき。ざわざわざわ。自分たちが置かれた状況を理解できた者の悲鳴。それから、恐怖に苛まれた者のすすり泣き。


『シーっ、静かに。騒いだらほら、あんな風になっちゃうよ』


 ズル……ズル……時折、机にぶつかる鈍い音……ズル……ズル……
 嗚呼、可哀想な片山先生! 松崎に無残にも引き摺られ、教室前方へお出ましだ。



『……何してんだよ、お前ら。人、殺したんだ。そのこと、本当にわかってんのか?』

 教室の窓側、やや後方の席。静かに立ち上がったのは斎城(さいき)(きょう)。落ち着いた声音に、じっとりと僕を睨み据える瞳。できるだけ感情を出さないように、少しでも彼らと対等な位置に立つために。響は冷静だった。


『ああ、待ってたよ響。お前なら動いてくれると信じてた。さあみんな、始めよう』


 僕の言葉の意味を響が問う前に、出入り口に構えた六人が動いた。付近の生徒の机と椅子を奪い、出入り口に防護壁(バリケード)を築いてゆく。少しでも抵抗を見せた者には脅し――忍ばせていた、鈍く光る(やいば)をちらつかせて。あるいは、振り回して、突きつけて。


 その銀色は、皆を恐怖のどん底に陥れるには充分すぎた。震えあがった教室中の生徒が、進んで資材を提供する。否応なしに防護壁が組み立てられてゆく。この旧校舎には今、彼ら以外誰もいない。教室は四階、窓から飛び降りても地面はコンクリート。もう、誰も逃げられないよ。

 僕は松崎と矢部にお願いして、響だけは教卓の傍に連れてきてもらった。背の高い松崎と、がたいの良い矢部。彼らに羽交い締めにされてしまっては、小柄な響では太刀打ちできないから。けれども響は負けん気が強いから、抑え込まれてなお身を(よじ)って抵抗していた。仕方ないね。実力行使だ。

 矢部の刃が、響の咽喉(のど)を捉えた。切っ先から伝わる冷たい死の感覚。少し前の悪夢が蘇ったのだろう、響はようやく呼吸(いき)を詰まらせた。


 ふう。授業が始まってから三十分近くも経ってしまった。授業は六十五分間で、十五分間の休憩を合わせると、残り時間(タイムリミット)は五十分強。さすがに次の授業が始まると片山先生の不在が外部に気づかれてしまうから、さっさと片をつけないとね。

 可哀想に。クラスのみんなが怯えている。早く終わらせて、楽にしてあげるから。もう少しの辛抱だよ。



 僕たち、藍出(アイデ)高校特進科二年の生徒は、全部で三十五人。今日は全員出席。
 けれども今、教室には生徒の凶刃に斃れた教師と、おかしな行動を取る七人の生徒。人質のように身柄を拘束されたひとりと、教室の中央に集められた二十六人。そして、この僕と。


 二十六人は教室の三分の二にも満たない空間に縮こまっていた。身を寄せ合い息を潜め、その姿はまるで、親鳥を待ち続ける雛たちのよう。

 けれども親鳥は戻らない。救いの手は、差し伸べられない。
 泣くことも叫ぶことも叶わず、息を潜める二十六人に向けられた無慈悲な刃。その六本の刃が、不安を確信へと昇華させる。

 しかしながら、どうして二十六人は動かないのだろう? その理由を、僕はなんとなく理解できるような気がした。そして恐らくは、皆も心のどこかでは理解していることだろう。


 仲間、だから。あいつらはクラスの仲間だから。クラス替えのないこの特進科で、一年と少し。たかだかそれだけの期間だが、共に過ごしてきた仲間だから。
 だから彼らを信じていた。いや、信じたかったのだろうね。
 今この瞬間、目の前でそれが欺かれたにもかかわらず。


 誰もがまだ、信じていた。それは、何の油断だったのか。


 そして、一番油断しているのはきっと響だ。響は優しいから、まだ僕のことを心の隅で信じてくれているだろうね。だって、僕は響の一番の親友だから。


『響』

 僕に立ち向かってくる君。勇敢な君。君のことなら何だって知ってるよ。

『響、今何を考えてる?』


 さて。君は僕の思惑に気づけるのかな?


『……省悟(しょうご)。お前らは何がしたいんだ?』

 響はやや呆れ声。まだわからないのかな、君は賢いはずなのに。

『何がしたいかって? そうだな……響、お前のために、ここにいる全員を今から殺したら、どうする?』


 親友の君に特大サービス。ヒントをあげるから頑張ってね。銀の刃先を転がる光。わざとらしくそれを反射させてみる。


 響の顔から血の気が引いた。一瞬の静寂。予定調和の如く流れる僕らの会話を、ただただ黙って見守るより他なかった二十六人。僕の呪詛(ことば)は噛み砕かれ、じわりじわりと取り込まれる。ようやく意味を悟った誰かの上げた『死にたくない!』の台詞(ことば)が、皆の耳朶を揺さぶった。それを皮切りに沸き起こる、追い詰められた獲物の恐慌(パニック)

 咽び泣く声、怒りの咆哮、発狂的(ヒステリック)なか細い悲鳴。言葉になる前に放たれた、誰彼つかぬ絶望の慟哭。個々を失くした感情が矢のように飛び交う中、響は静かに、誰も聞いたことのないような怒りをはらんだ声で言い放った。


『俺のため? ふざけんな』


 誰もが一瞬、動きを止めた。松崎と矢部の腕に、ほんの少し隙が生じる。響はその隙を見逃さない。

 隙を突いて拘束を抜けた響に、我に返った矢部が切りかかった。が、響は敏捷に刃をかわした。怒りに肩を震わせながら、響は中央に向かって歩いてゆく。途中、幾人かが襲いかかった。身体を刃で切り裂かれようとも、響は狼狽えない。最後に横から飛びかかってきた誰かを突き飛ばし、響は二十六人を庇うように立った。僕に、そして七人に、真正面から対峙する。


 残された時間は、二十九分。


『そんなに人を殺したいなら、俺を殺せよ。なあ、省悟? 俺のための殺人なんだろ。なら、俺を殺してみろよ。みんなを巻き込む必要ないはずだ。俺を、殺してみろ』


 嗚呼、響。君は愚かだ。馬鹿だ。


『……本当は怖いくせに。そう言ってお前も裏切るんだろ? 死にたくないくせに。響、格好つけたって意味ないんだよ』

 自分が英雄(ヒーロー)だと信じて疑わない。眩しいばかりのその正義感と、自己犠牲。


『どう思われてもいい。まずはみんなをここから逃がせ。その後でゆっくり応じてやる。松崎も、矢部も、黒田も……お前らが省悟に何を吹き込まれたかは知らんが、人を切りたいならさっきみたいに俺を切ればいい。俺だけでいい。みんなを、巻き込むな』


 君がそんな風だから、いつまで経っても君の周りには悲劇がつき纏うのに。


『はあ……響のそういうとこ、僕は大嫌いなんだ。身体が弱いくせにいきがっちゃって。ひ弱な君を殺したって、得られるものは何もないよ』


 がしゃん!! 硬く無機質な音が、響の口撃を呑み込んだ。皆の視線が一斉に、音の方を向いた。割れた窓ガラス。食い込む制服の袖と、滴り落ちた艶を帯びた鮮血。

 先刻、斎城響に突き飛ばされた佐原里奈だった。彼女は割れたガラスから腕を引き抜くと、虚ろな瞳を皆に向けた。(あか)く染まった右腕を顧みる気配など、彼女には全く見られない。


『いい加減にしてよ。斎城くん、いい? 斎城くんがいけないんだよ。斎城くんがいなければ、みんな死なずに済むのに。あなたがいなければいいの。何にも気づいてないくせに、わかったようなことばっか、ごちゃごちゃ言う権利なんて、斎城くんにはない!』


 普段、大人しい佐原が。申し訳程度に教室の隅に置かれた小さな鉢植え。それにたったひとり、欠かさず水遣りをしていたあの佐原が。


 僕はとりわけ優しくて仲間思いな彼らに声を掛けた。そして、彼らをその気にさせた。悪いやつを懲らしめよう。正義のフリしたあいつをやっつけよう。七人(かれら)は優しいから、すぐに僕の操り人形になってくれたんだ。


 さあ、人形劇を始めよう。


 教室には再び静寂が訪れた。かすかに聞こえるは、堪えた咽喉の隙間から漏れる、泣き声になれなかった誰かの喘ぎ。


『つまり、そういうこと。響がいるせいで、みんなは死ぬ。さあ、帰っておいで。ここで、君の無力さと罪深さを見ているといい』


 君のことは大嫌いだけど、僕は君を殺さない。それは君が、あの子の――僕が愛して止まないのに、永久に僕のものにならないあの子の、大切な存在だから。

 だからこそ早く思い知らせてあげないとね。君は英雄なんかじゃないんだよって。


 君の存在は、大切な人を哀しませるんだよって。



 呆然と立ち尽くす響に、勝倉、松﨑、瑞浪、矢部の四人が襲い掛かった。鳩尾に一発の拳。よろめき丸まった響の背中に、刃を二閃。頬を思い切り殴られ、響は呻き声とともに倒れ伏した。細っこい身体にさらに蹴りが加えられる。


 あんなにも堂々と、(ぼく)に対峙していた皆の希望。皆を導くはずだった響は今、ボロボロの姿を皆の前に晒している。


『痛いだろ? 苦しいだろ? 強がりはやめて、諦めろ』


 音を上げろよ。我慢したって何にもならない。遅かれ早かれ君は自らの罪に気づき、そして苦しむのだから。


 そのためなら僕は何度だって手を汚そう。それが君のためだから。それが、あの子のためだから。


 割れた窓から、風が生ぬるい空気を運んでくる。
 雨が、降りそうだ。とんでもないモノを引き連れて。






_

開幕.罪負い人は銀の色:後編

 教室の空気が肌で感じられるほどに水気を含んできた。じっとりと重みを増した空気の中、膠着していた人形劇は、急展開を迎える。

 残り時間(タイムリミット)はおよそ二十五分。きっかけは星野(ほしの)由希(ゆき)の声だった。この教室の、委員長。


「もうやめよう。こんなことして何になるの?」


 凛としてよく通る彼女の声は少しも損なわれていなかった。怒りと決意に満ちた声と共に、委員長はしなやかに立ち上がる。床をしっかりと踏みしめ、緊張から傾いでしまいそうになる身体を支えて。真っ直ぐに、鋭い瞳で僕を射貫く。


「やあ、委員長。凛々しいね。善い心掛けだ」


 彼女の勇気に僕は応えた。寄り掛かっていた教卓を離れ、星野の方へと歩み寄る。僕らの延長線上にいる者は無条件に退いた。しんと静まり返った教室に、僕の足音だけがやたらと大きく響く。

「委員長。君ってそんなに積極的だったっけ?」

 この狂った演劇に、身ひとつで飛び込んでくるなんてさ。

葦原(あしはら)くん、いい加減にして。これで終わりにしよう? 今すぐ斎城(さいき)くんを、みんなを解放して」


 そっか。そうだね。委員長も、優しい人だったね。このクラスは優しい人が多いなあ。素敵なクラスメイトに恵まれて、僕はとても幸運(ラッキー)だ。君の言う“みんな”の中に僕が入れなくて残念だけど。


『素敵だよ、委員長。華々しい結末への餞別(はなむけ)をありがとう』

 ひっ!
 誰かが息を呑んだ音がした。鬱陶しいなあ。

『君にお礼を贈りたいんだけど……生憎、時間がないんだ。のこのこ出てきた阿呆(エサ)を、ここで使わない手はないからね』


 捕らえてみると、委員長の身体はか細かった。片腕で易々と捕まえられてしまう。その白い首筋には冷たい鋼の切っ先を向けて、皆に、(きょう)に、見せびらかせてやろう。

 ほら、響。英雄(ヒーロー)気触(かぶ)れな君の被害者だよ。君が我武者羅に自分の正義を貫き通すから、可哀想に。委員長はこんなに震えているよ。



 なのに。



「つまらない人ね、葦原くん。誰がいきなり〝死ね〟って言われて、〝はい、わかりました〟って死ねると言うの。あなたは間違ってる。間違ってるのに自分を信じて疑わない、ちっぽけでつまらない人よ」


 委員長は折れなかった。震えながらも凛とした彼女の姿に皆がどれほど勇気づけられたことだろう。わかったよ。一層思い上がった響を、高いところから突き落とそう。ねえ、響。ゾクゾクするよ。凛と咲く花を無惨に手折って、君の前に捧げてあげるから。


 僕はさらりと委員長を解放した。突然支えを失った委員長は二、三歩よろめいたけど、すぐに白川(しらかわ)美郷(みさと)田口(たぐち)若葉(わかば)が彼女のもとへと駆け寄った。

 僕は静かに見守ることにした。無意味な正義に踊らされた、哀れなクラスメイトの動向を。



 まず動いたのは本田(ほんだ)太一(たいち)山西(やまにし)(あきら)だった。彼らは呼吸を合わせて瑞浪(みずなみ)絢斗(けんと)に飛びかかり、刃物を取り上げて床に組み伏せた。そこへ応戦に来た(はやし)千夏(ちなつ)を足払いして転ばし、菅野(かんの)亜衣(あい)笛田(てきた)裕磨(ゆうま)東島(ひがしじま)茉莉花(まりか)が抑え込んで不動化させる。佐原(さはら)里奈(りな)も拘束された。黒田(くろだ)絵梨(えり)勝倉(かつくら)(じゅん)とは未だ揉み合いが続いているが、その背後で防護壁(バリケード)が徐々に崩されつつあった。


 形勢は一気に逆転した。そう、皆が信じていた。委員長の言葉は確実に、皆に勇気と希望を与えていたようだ。そして、勇気づけられたのは響も同じらしかった。

 ぐったりと横たわる響。その身体には細い切り傷が無数に刻まれ、殴打の跡が痛々しい。彼の周囲は松崎(まつざき)陽平(ようへい)矢部(やべ)幸輔(こうすけ)によって固められており、未だに誰も接近できずにいた。

 そんな満身創痍の彼が弾かれたようにピクリと身体を動かした。再び鋭い光が瞳に宿り、僕をきっと睨み据える。


『いいよ。みんなのやりたいようにさせよう。松崎も矢部もお疲れ様、もういいよ』


 従順な彼らはすぐに従ってくれた。自由になった響を吉瀬(きちせ)辰也(しんや)和田(わだ)智紀(ともき)が介抱する。吉瀬が肩を貸し、よろよろと響が立ち上がる。そんな響の前にすっと差し伸べられた手。



 それは委員長の手だった。慈愛に満ちたまなざしで、労りの色を微笑に浮かべて。

『……ありがとう』

 差し出された手を響が取ろうとした、その時。僕は。


『ねえ、響。気づいてよ。君は、英雄じゃないんだよ』


 白川と田口が転んだ。僕が、押し退けたから。
 委員長は何も喋らなかった。響と、それから吉瀬の目が、大きく見開かれた。それは僕が、委員長を刺したから。



 無言のままで響を見つめる委員長。彼女の胸からは、尖った銀が覗いていた。光を吸って艶やかな色を帯びた雫が噴き出す。飛び散る。切っ先を滴り落ちる。紺の制服が、濡れた色に染め上げられる。


『響。どう? 今、どんな気分?』


 吉瀬が尻もちをついたけれど、響はひとり立ち尽くしていた。
 僕の声は、響の耳に届いてはいなかった。


 時はまるで刻み方を忘れてしまったかのようだった。極限まで見開いたけ響の目は、受け容れ難い光景を余すことなく灼きつけていた。

 刃をゆっくりと引き抜く。星野由希は、静かにその場にくずおれた。


 声ひとつ、上げることもなく。二度と、動くこともなく。


 ようやくだ。ここからが、僕の思い描いた終幕(フィナーレ)の始まり。否、前口上(プロローグ)の終わりだろうか。同じことだ。どちらだって構わない。この教室にいる者は、みんなみんな、僕の操り人形なのだから。

 嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
 やりたくない、やりたくない……壊れた人形の、代役なんて!

 どうやら他の生徒は観客に徹したいようだ。そろり、そろりと下がってゆく。極力目立たないように、遠巻きに。嗚呼、雑魚共が!



 瞬く間に教室は阿鼻叫喚の地獄と化した。けれども悲鳴は、響には届かない。悲しいほどに明るい朱の飛沫。きらきらと反射し視界にちらつくその朱は、今、響のすべてを支配しているのだろう。


『ねえ、響。今、どんな気分?』

 繰り返し、繰り返し。壊れた拡声器(スピーカー)よろしく僕は繰り返す。

『響、委員長が死んじゃったよ。僕に刺されて死んでしまった。ねえ、今、どんな気分?』

 響が理解するまで、延々と繰り返す。


『…………なんで、星野が……なんでだよ…………省悟、なあ、』

 どろどろに濁った響の瞳。真っ暗なその瞳に、青白い怒りの炎が宿った。

『ねえ響、さっきも言ったよね? これは全部、響のための人形劇(シナリオ)。今、どんな気分?』

 感じる。普段は奥深くに眠る響の激情が、ふつふつと目醒めつつあることを。



『お前はおかしい。狂ってんだ。そんな奴をどうにかできると思った俺が、間違ってた……』


 囚われの姫を呆気なく喪った、愛すべき孤独な英雄は。


『死にたい奴らはそいつらだけで勝手に死んでろよ……周りの人間を巻き込むな』


 裏切りの絶望と怒りを糧に、彼は、悪と対峙する。



『いいね、英雄気取り? お前らしいよな。ほんとに昔っから、変わってない……』

 さあ、響。来なよ。そんなボロボロの君に、一体何が出来るんだい?



『いい加減にしろ、目ぇ醒ませ!』

 響が叫ぶ。腹の底の方から、渦巻く昏い怒りが、堰を切って溢れだす。
 響はもう、止まらない。止められない。


『偉そうに死ぬとか語りやがって、ひとりで死ぬ勇気がなかっただけなんだろ? 馬鹿も休み休み言いやがれ臆病者がっ!!』


 すべてはそう、葦原省悟(このぼく)の筋書きどおりに。



 それにしても驚いた。響ってこんな風に怒るんだね。ただ怒りに任せて怒鳴り散らすのではなく、相手を拒絶するんだね。


『響……今、死ねって言った? 僕に死ねって、そう言った……お前が?』

 君が僕を殺すのかい? 勇敢なフリして僕を殺すの?

『違う。俺が言ってんのはっ』


 違うよね。響はそんなやつじゃない。君はもう誰の死も望まないし、君のことだから、まだ僕を信じているんだろうね。

 傷、痛むだろうに。怒りと困惑で君は熱にうかされたみたいだ。いろんな感情が溢れて、言葉で上手く表せないんだね。


 笑っちゃうくらいにボロボロな君が、倒れかかるようにして僕を押し倒した。馬乗りになって、僕の胸ぐらを掴んで。


『目ぇ醒ませよ……死ねなんて……死んだらそこで終わりじゃねえか……星野に、謝れ。先生に謝れ。みんなに謝れよ。土下座して、血反吐吐いて、それでもお前らの罪は償いきれない。一生かかって、みじめに生きながらえながら、自分の罪を償えよ馬鹿野郎!』


 駄目だよ、響。英雄が悪に心残りだなんて。これだからいつまでも英雄気触れから抜けられない。君は、真の英雄たり得ない。

 声が嗄れるまで喚き散らして。僕が委員長の未来を絶ったことを怒ってるみたいだけど、君がこれから犯す罪に比べたら軽いものだ。

 仕方ないんだよ、元親友。こうでもしなくちゃ君は気づけないんだから。

 君のいいところは、馬鹿みたいに純粋なところ。僕がちょっと表情を作る。それだけで満足なんだね。哀しいくらいに愛おしいよ。悪の前で微笑む君がさぁ!!



 ズキリ。



 嗚呼、君の微笑みが歪んでしまったよ。寒いの? そんな、真っ白な顔をして。唇まで色を無くして。

 そうだ、下だ。下の方を見てみなよ。僕の右手が、何を握っているかわかるかな?
 君の白いシャツが、みるみるうちに朱に染まってゆくね。



 どう? 親友だと思っていた相手に刺される気分は。



 響はのろのろと視線を下げて、それからもう一度、僕を見た。もの問いたげに。自分の身に起きたことがわからないの?


『英雄ごっこ、楽しかった? 響、君が悪いんだ……いつまでたっても君が目を醒まさないから。でももうわかった? 狩られるべき悪は、誰なのか』


 ぽたり。苦く熱いものが響の咽喉を焼く。言葉の代わりに、唇の端から零れてゆく。


『う……』


 反論、したいだろうね。自分が英雄だと信じてやまない君だもの。何か言おうとして口を開く度に、違うものばかり溢れてくるね。

 響。君はこんなにも、無力で無様なんだよ。そう言って響の手を払い除けただけで、とっくに握力を失っていた君はずるりと床に滑り落ちていった。


『ゆっくり考えてくるといい。君が背負った罪の償い方をね』


 教室は未だに騒々しい。煩いなあ。君たちに興味はないんだよ。もうすぐ消える君たちの命よりも僕は今、傷ついた響が息絶えゆく様をじっくり観察したいのに。

 まあ、この程度の傷じゃあ、響は死ねないんだろうけど。



『ずっとずっと、僕は響のことが大嫌いだったよ。正義感に溢れた君も、人を信じきって疑うことができない君も。昔から……そうだね。昔っから、大嫌いだよ』



 面白いから、僕は響の心を徹底的に傷つける。響は正義なんかじゃない。君が、悪なんだ。狩られるべき悪なんだ。

 ――俺が、悪。狩られるべき悪。

 僕の言葉を反芻する響。虚ろな瞳。色を失った肌。浅い上下を繰り返す胸。


 そうだよ。どうして君は、いつだって思い上がってしまうの? 自分ならば皆を救えると。どうしてそんな、馬鹿げた思い上がりをしてしまったんだい?

 悪いのは、君自身。最初から勝ち目なんてないのに、親友(ぼく)を最後まで捨てきれなかったから。君が空回りしてしまったから、誤った選択ばかりし続けたから。


 そうだよ。君が殺したんだ。委員長を殺したのは、君だ。
 (きみ)にできる演技(こと)は、裁きを受けるのを待つことだけ……



 響の顔が絶望に染まりゆく。その表情を見ることが、僕には一番、心地好い。

 響の震える唇が動いたけど、言葉は何も出てこない。


 ――もう、いいや……


 たぶん響はそう言ったのだろう。絶望のただ中で、自らの愚行を思い知らされて。息も絶え絶えに打ちのめされて。嗚呼、最高の気分だよ。


 やっと気づいた? 最初っから最後まで、この演劇は僕の思いどおり。
 ……違うな。委員長の勇気だけは、想定外だったかな。


 
『これで、おしまい』


 響、銀色の影が見えるかい?
 君を刺した(やいば)と同じ色。
 君の罪の証の色が。



『ああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっ!!!!』



 これが、誰の叫び声だったのか。それは誰にもわからない。
 見ていたものはみんなみーんな、いなくなってしまったから。だからもう、誰にもわからない。





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幕間.はじまりの物語

 これは、どこかで聞いた昔話。
 闇夜に浮かんだ幻燈か、雨音に消えた慟哭か――





 昔むかし、すべてが始まった時。
 晴れすぎた夜空の下に、一組の男女がおりました。
 彼らは深く愛し合い、たくさんの子を産みました。


 そして、最後の子を産み落とした後のこと。
 産後の肥立ちが悪く、女はあっけなく薨りました。
 女を心から愛していた男は、深い深い哀しみの中。


 愛した女の忘れ形見。
 愛した女の、死の元凶。
 最後の子を斬り捨てると、まるで憑き物が落ちたように、男はそれはそれは、晴れやかな顔をしていました。



 そうだ。愛おしい君を迎えに行こう。
 もう一度、この手に君を。


 男は女の後を追いました。
 山を越えて海を越えて、どこまでも。

 追いかけて、追いかけて、追いかけて――





 それから?
 ふたりは一体どうなったの?
 物語の終わりは、めでたしめでたし(ハッピーエンド)



 ……何故だろう。私は物語のその先を思い出せないのです。






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壱.遠くの記憶は鈴の音:一音

 生ぬるい空気が不快で、彼は目を覚ました。
 長い長い夢を見ていたらしい。

 
 けれども、嗚呼。夢は視界にこびりついて。
 夢ではなかったと。あれは、夢なんかではなかったと。



 ――窓が、割れている。

   流れてくるのは淀んだ空気ばかり。



   世界は恐ろしいほどに静まり返っていて、

   そして、


   目が眩みそうに、鮮やかな(あか)――



 喉が嗄れるくらい喚いたって、消し去ることは叶わない。

 どうして、と唇を動かす。答える者のない問いは、誰の耳にも届かない。

 ごめんなさい、と呟いた。
 ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。


 償いきれないことはわかっているから。

 赦されなくたって構わないから。

 どうか、どうか。


 ……彼は、希う。
 生き残ってしまっては、あまりにも辛すぎるから……


「……り、ねえ、しっかりして。大丈夫だよ」


 頬を軽く叩かれて、彼は正気を取り戻した。
 この声を、知っている気がする。誰の声だっけ。


「よかった。君、目が覚めたんだね」


 景色が徐々にくっきりと形を結ぶ。そこは、彼の知らない場所。
 ここはどこだ?


「うなされてたからびっくりしたよ。気分はどう? 痛いとこはない?」


 目の前に、知らない少女。
 幽かな光に照らされて、彼女はぎこちなく微笑んだ。

 どうして彼女の声を知っていると、そんな勘違いをしたのだろう?


「……誰?」


 声は耳障りなほどに掠れていた。身体を起こしてみて、彼は顔を歪めた。頭ががんがんと痛んだのだ。


「これ、飲んで。無理しちゃダメだよ」


 そう言って彼女は缶を差し出した。中には透きとおった綺麗な水。冷たくて心地よい。


 よくよく観察してみると、彼にはあちらこちらに手当てされた跡がある。寝かされていたのは清潔な布団。至れり尽くせりの待遇に、彼の心はチクリと痛んだ。


「私、荒宮(あらみや)悠生(ゆい)って言います。ここは神田(カンダ)藍出(アイデ)市かな、北の方の山にある洞窟だよ。ごめんね。この辺りの出身じゃないから詳しくはわかんないんだ。でも君、どうしてこんなところにいたの?」


 びっくりしたんだよ、と彼女は奥の方を指さした。いっそう暗いそちらには、何やら黒い木の箱が。


「君、あの中にいたから……その、死んじゃってるのかなって」


 想像してみる。黒く寂しい柩に横たわる自分を。
 こんな、暗く静かな山奥で、ひとりぼっちで朽ちてゆく。


「……はは……」


 嗚呼、どうせなら、そのまま。


「死ねたらよかったのに」


 言葉にすると、苦い味がした。
 彼女は瞳を伏せた。


「……君に何があったのか、私は知らないけど」


 彼女は言葉の端を震わせる。
 何かを堪えるように。


「目を覚まさない君を、私、二日間看てたんだ。やっと目を覚ましてくれて、それで『死にたい』って言われたら、なんだろう。すごく寂しいな」


 ねえ、せめて教えてよ。彼女は大きな瞳を顕にした。
 潤んだ瞳。吸い込まれてしまいそうな。


「君の名前は?」


 名前。それは、命の目印。
 生き残ってしまったことを、否が応でも思い知らされる。


「……斎城(さいき)(きょう)


 なのに、どうしてだろう。
 涙のひとつも流れやしない。
 

「さいき、きょう。響くん、響くんだね。よろしく、響くん」


 彼女の舌の上で、彼の名前は転がされる。
 飴玉を溶かすように。何度も、何度も。


「響くんのお家は、ご家族は無事だった? 神田(カンダ)も相当揺れたみたいだけど」

「揺れた?」

「そう。三日前……えっと、四月十八日かな。私は咲岡(サキオカ)にいたんだけど、大きい地震があって。お隣の神田(カンダ)もかなり被害が出たみたいだけど、覚えてない?」


 知らない。地震なんて、そんなの知らない。でも。


「十八日は、知ってる……学校にいて、それで……」
 

 酸いものが彼の咽喉(のど)を逆撫でる。
 恐怖と、苦痛と、絶望と。その身体に刻まれた全てを吐き出してしまいそうで。

 吐き出したら楽になれただろうに。彼は、全てを飲み込んだ。


「大丈夫? 話したくなかったら話さなくっていいんだよ」


 彼女は知らない。何も知らない。
 あの日、彼が見たもの、あの日、彼がしたことも。
 でも。


「いや……話すよ。俺は、あの日」


 彼女に己の罪を告白しないことは、逃げることと同じ。償いもせずに逃げることと同じだと。そう、彼は思ったから。


「おかしくなった同級生……親友を、止められなかった。俺の目の前で、俺を助けてくれた同級生が死んだ。俺が、あいつを信じてしまったから。俺が甘かったから、俺は、みんなを……」


 彼は最後まで話せなかった。彼女が、彼の口を塞いだから。


「もういいよ。もう、君は充分……」


 何かを押し殺すような、痛々しさをはらんだ声だった。


「……助けてくれてありがとう、荒宮さん」


 口を塞いだ手を退かせて、彼は言う。
 澄みきった顔に、凛とした声で。


「でも、俺には要らないものなんだ。優しい言葉も、柔らかい布団も。あいつらが手にできないものを、俺がもらうわけにはいかない」


 彼女はきっと、とても優しい人。だからこれ以上、巻き込んではいけないと。

 彼の償いには、穏やかな道は必要ないと。


「俺は大丈夫。荒宮さんが看病してくれたから、もうこんなにも元気になった。どうして荒宮さんが俺を見つけてくれたのかはわからないけど、地震があった後山に入るのは危ないよ。避難するなら街へ下りた方がいい」


 扉を閉ざして、ひとりぼっち。
 彼は孤独になろうとした。偽りの微笑を湛えて、暖かな場所に別れを告げる。


「……それじゃあ、響くんはこれからどうするの?」

「荒宮さんが心配することじゃないよ。俺はどうとでもやっていけるから」


 ああ、同級生と、家族の安否は確認しようかな。その後はまあ、なんとかなるよ。
 そう言って彼は、微笑んだ。太陽が翳ったのか、洞窟の中がふっと暗くなった。


「……あのね。私、君に言わなきゃいけないことがあるの」


 思いつめたような声。
 止めたい。なんとかして彼を止めなくては。


「私も、一緒だよ。大切な人を見捨てたの。それで今、平気でここにいる……」


 彼女は泣かない。
 涸れるほどに泣き尽くしてしまったから、涙はもう流れない。


「十八日、学校に行こうとして家から出たら、黒い服を着た大人がたくさんいたの。知らない人たちだった」


 どこか遠くの方をぼんやりと見つめて、彼女は語り続ける。


「その人たちが私に掴みかかってきたんだけど、お母さんが盾になってくれたの。お母さんはその人たちを知ってる風だった」


 淡々と、粛々と、彼女は語る。
 独り言のように小さな声で。


「お母さんは私を逃がしてくれた。私、走って、走って……途中で携帯を落としちゃって何もできなかった。だから、友達の家に逃げ込んだの。私があんまりにも怖がるから、友達が私を隠してくれて」


 ごくり。彼は生唾を飲み込んだ。
 彼女の哀しい結末が、手に取るように感じられたから。



「友達のお母さんが警察に電話してくれたと思う。でも、間に合わなかった。足音と怒鳴り声が聞こえて、私、どうすることもできずに震えてた。しばらくして静かになって、隠れてたところから出てみたら、誰もいなかった。友達も、友達の家族も、みんないなくなってた……」


 彼女は目を閉じた。少しの間があって、再び開いた時には、彼女の瞳は何も映していなかった。


「私が、巻き込まなければよかったのに。巻き込んだくせに、私は友達を見捨てた。馬鹿みたいに泣いたよ。私のせいなのにね」


 その直後地震に見舞われ、いよいよ独りになったと彼女は言った。家にも戻ってみたが、壊れた家には誰もいなかったのだと。


「どうしようもなくなった時、思い出した。路志木(ミチシキ)に、会ったことのない親戚がいたって 。そこまで行こうと思った。路志木(ミチシキ)くらい遠くまで逃げれば何とかなるかもしれない。みんなを、助けられるかもしれないから……」


 路志木(ミチシキ)県。ここ、神田(カンダ)からは五百キロ近く離れている。
 身を隠しながら、たったひとりの逃避行。その心細さは如何ほどか。


「……私がね、今、ここにいるのは大切な人たちのため。悲しみも後悔も全部背負って、私は路志木(ミチシキ)へ行くの。だって、私が全部見てたから。私が動かなくちゃ、誰がみんなを助けられる?」


 彼女はそう言って、そっと彼の手を取った。
 温かくて柔らかい、小さな手だった。


「私は弱い。それは君も一緒。どれだけ強がったって、高校生(わたしたち)は大人に頼らなきゃ何もできない。そんな大人が見つかるまで何もしないわけにはいかないから、探すの。問題の原因と解決策を。それから、そのために自分にできることを。響くん。君は、どうするべき? 君には、何ができる?」


 生きなさい。優しい言葉で彼女は命じる。
 死者の無念を見てきた者が、彼らの最期を伝えないでどうするの?

 生きなさい。地を踏みしめて、上を向いて。
 生き続けなさい。せめて役目を果たすまでは。


 たとえそれが、茨の道であったとしても――



「……荒宮さんは、どうしてそこまでしてくれるの?」


 彼女は、ふわり。花開くように微笑んだ。


「私ね、将来は命を救う仕事をしたいんだ。だから、助けた君には生きていて欲しい」


 その時、洞窟に再び光が射し込んだ。光を背にして手を差し伸べる彼女の表情は、眩しくてよくわからない。
 けれど、信じてみようと。一度失敗したけれど、彼女なら信じてもいいと、彼は思った。



「ねえ、一緒に路志木(ミチシキ)まで行かない?」


 私、方向音痴なの。誰かが一緒に居てくれたら、心強いな。彼女はそう言って、少し笑った。


路志木(ミチシキ)に行って、落ち着いてから身の振り方を考えたらいいよ。だって、放っとけないもん。このまま君を置いて行ったら、君、自棄(やけ)になっちゃいそうだし。だから一緒に行こう?」


 彼女ならば、正しい方向へと導いてくれる。この辛苦を贖罪に変えて、己の成すべき道を探す。そうすれば、皆は赦してくれるだろうか。

 生きていることを、赦してくれるだろうか。


「……わかった。連れて行って。俺を、一緒に……」


 仄かに灯った希望の光。それはあまりにも弱々しくて、少しの風に掻き消えてしまいそうで。
 彼は差し出された手に縋った。小さな光が消えてしまわぬように。


 (きぼう)が、闇に蝕まれぬように。






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『君が笑うその時まで』

遅筆で申し訳ありません。
続きをお待ちください!

『君が笑うその時まで』 Nico 作

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日 2017-09-12
Copyrighted

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