*星空文庫

切支丹坂

いなかもの. 作

 JR水道橋駅を西に降りると、すえた煙草の臭いがした。改札を抜け、人波に流されるようにアーチ状の歩道橋を渡ると、目前に東京ドームの白屋根が見えた。「東京ドームシティ」と書かれた派手なゲートをくぐると、本拠地、読売ジャイアンツの球団メロディが聞こえた。
 目的など無かった。漠然と降りた駅が、たまたま水道橋駅だった。このまま歩き続けて、日が暮れたらどこかで横になればそれで良かった。
私の脇を、橙色のユニホームを着た男が抜けていった。
 東京ドームは、ドブの臭いがした。振り返ると、華やかな歩道橋のその下、やや薄暗い通り沿いに、老体がいくつもうずくまっていた。私は東京ドームの外堀、溢れかえる人の渦の中を、そろそろと歩いた。後楽園駅へ繋がる通路の脇の、狭い階段を降りると、大きな通りに出た。私は西へ向かった。理由など無かった。
 通りには、スーツを着た人々が、忙しそうに歩いていた。皆目的があるのだ。私はゆっくりと、スーツの流れに逆らって歩いた。諏訪神社前の、大きな交差点に出たので、北へ向かった。路脇の塀に、雑草が靡いていた。それを指に這わせながら歩いた。
 だいぶ真っ直ぐ歩いた。空が薄赤に染まり始めていた。雑草の生えた塀は、とうに無くなっていた。足元の道がどこに続いているのか、私は知らない。私には、決まった目的が無いのだ。人生における目標など、どうでもよかった。
私の前を、学校帰りの少年が駆けてきて、すれ違った。
 小日向の交差点を東に折れ、細道を進むと、電車の轟音が聞こえた。東京メトロの地下鉄が、一度地上に現れる区域だった。私は、地下鉄と隣り合わせになって歩いた。
 程なく、線路下を潜る小さなトンネルが脇に現れた。覗くと、電灯が震えるように、かすかに点滅していた。線路を潜るトンネルにしては、やけに先が長かった。 私は道を逸れ、暗闇に足を向けた。
 足音が虚空に響いた。電灯は、点いたり消えたりをせわしく繰り返して、行く先を薄緑色に照らした。途中、地下鉄が頭上を抜け、その音が咆哮のように内部に響いた。
 トンネルの先は、鬱蒼と生け垣が茂る小さな路地だった。生垣の奥に、崩れたあばら家が、身をひそめるように転々と建っていた。時代の変遷に取り残された、寂れた土地だった。地面の底までしんと静まっていた。振り返ったが、元来たトンネルがあるだけだった。
 路地の先は坂だった。薄暗く、狭く小さく、長い坂道だった。私はゆっくりと坂を上った。しばらく歩くと、生垣の茂みに、朽ちた立看板が掛かっていた。

  トボゝと
  老宣教師の登り来る
  秋の暮れ方の
  切支丹坂

 看板には、そう書かれていた。
 私は、息を吐きながら、ゆっくりと歩いた。陽が西に落ち、錆びたトタン屋根を鈍く照らした。地下鉄の駆ける音が遠くで聞こえた。生垣に覆われた小さな坂が、どこまでも続いていた。

『切支丹坂』

『切支丹坂』 いなかもの. 作

行き着いた先は切支丹坂

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-09-11
Copyrighted

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