*星空文庫

悪を斬る理由

hitori 作

  1. 一章 理念
  2. 二章 噂
  3. 三章 捜索
  4. 四章 けじめ
  5. 五章 矜持
  6. 六章 決断
  7. 終章 償い
  8. 後日

一章 理念

 雲ひとつない夜空に、真円の月が輝いていた。
 夜目が利く者であれば灯りがなくとも行動できる、人斬りには絶好の夜だ。
(いや――)
 これまで幾度となく決めてきた覚悟を、今また決める。
(俺が斬るのは人じゃねえ。欲に溺れて理性を失った、獣以下の〝悪〟だ)
 長身、長髪の若侍――自称・悪斬り偽善は、高さ七尺(二メートル少々)はある塀に、猫のような身軽さで飛び乗った。
 塀の向こうには豪華な武家屋敷と風情ある庭。
 庭の隅で松明が焚かれているため、中の様子が昼間のようによく見える。
 さぞ身分の高いお方が住んでいるであろうお屋敷の庭に、なぜか破落戸(ごろつき)のような風体の男が三人もいた。皆、腰に大小の刀を帯びている。一応は侍か。
 数瞬後、彼らは異変に気付き、一斉にこちらを向いた。
「貴様、何者だ!」
 一人が叫んだことで、新たに二人の男が駆け付けてくる。合わせて五人。
 どれもこれも、この屋敷の住人でないことが一目でわかる身なりをしている。
 おそらくは用心棒であろう。つまり、見た目はともかく腕は立つ。
 そんな中に偽善は平然と降り立った。
 数歩進んだ後、名乗る。
「俺は、悪斬り偽善」
 男たちがざわめいた。
 どうやら悪斬り偽善の名を知っているようだ。そして、その所業も。
 先頭の男が慌てて太刀を抜く。それにつられるように他の者も太刀を抜いた。
 男たちは正眼に構えたものの、襲いかかってこない。ちらちらと互いの顔を伺いつつ、こちらを見てくるだけだ。じりじりと動いているようで、その実ほとんど前へ進んでいない。
 臆しているのだ。
 五人いるからといって、五人が一斉に斬りかかれるわけではない。植木や庭石などの障害物が点在するこの場所では二人同時すら困難であろう。
 五対一で勝てないはずがない。されど最初に斬りかかる一人にはなりたくない。誰かが動けば自分も動く。
 そんな思惑が彼らを縛り付けているのが、ありありとわかった。
 偽善は刀を抜く前に忠告する。
「念のため言っておくが、その屋敷の中にいるお奉行様は、罪もねえ女を罪人に仕立てては手込めにする極悪人だ。それでも邪魔するってんなら、お前らも悪と見なして斬る。死にたくなければ、とっとと失せな」
 この男たちは雇われの用心棒だ。奉行の悪行に積極的に加担していたという確証はない。
 故に、おとなしく退くのであれば斬るつもりはない。必要以上の人斬りを偽善は嫌っていた。
 しばらく無言で待つ。
 そうだろうとは思っていたが、逃げていく者はいなかった。 
 武士としての意地ではない。雇主に対する忠誠心でもない。
 まだ期待しているのだ。自分ではない誰かが、きっかけを作ってくれると。きっかけさえあれば、必ず仕留められると。あわよくば自分の手柄にしたいと。
 それは数え切れぬほどの修羅場をくぐりぬけてきた偽善にとって、拍子抜けするほど〝いつもどおり〟の反応だった。
「そうかい。それなら仕方ねえ」
 こんな連中を斬るのは憐れとすら思うが、退かないのであれば容赦はしない。
 偽善は半身になりつつ太刀を抜いた。
 その刀身は鈍色に曇り、ふた回りほどやせ細っていた。
 これほどまでに使い込まれた刀は戦国の世でも滅多にお目にかかれまい。
 だが、先頭にいた男はそれをなまくらと勘違いしたのか、勝機とばかりに猛然と襲いかかってきた。
「覚悟っー!」
「遅せえよ」
 男の太刀が振り下ろされる前に、偽善の片手突きが心臓を捉えていた。
 刀身が深く刺さらぬよう、ぎりぎり命を絶つだけの刺突。
 切っ先を抜くと、男は鮮血を吹きながら力なく地に伏した。
「おおおっ!」
 間を置かず、二人目が襲いかかってくる。
「お前も遅せえ」
 敵が太刀を振り上げた瞬間を狙い、同じく心臓を突く。
 手応えあり。切っ先は間違いなく致命の域に達した。
 声もなく、二人目が沈む。
 三人目は――
「ぐっ……」
 目の前で二人が瞬時に葬られたことで、あからさまに怯んでいた。
 後方にいる残りの二人もだ。
「どうした?」
 低く問う偽善だが聞くまでもない。もうひと押しで彼らは戦意を失う。
「やる気がねえんなら、とっとと失せろ!」
 一喝。
 男たちは悲鳴にも似た声を上げ、脱兎のごとく逃げ出した。
 その際、武士の魂である刀を落とした者もいたが、それを拾おうともしなかった。
 所詮は雑魚だったようだ。斬る価値もない。
 だが、本命は見逃すわけにはいかない。
 偽善は懐紙で刀身に付着した血を拭き取ると、土足のまま屋敷の中へと踏み込む。
 一部屋だけ灯りがついていたので、標的の居場所はすぐにわかった。
 近付くと、中からしわがれた男の声と若い女の悲鳴が聞こえてくる。
 どうやら女に夢中で外の死闘に気付いていないらしい。
(呑気なもんだな。わざわざ用心棒を雇ったってことは、身の危険を感じていたんだろうに)
 心の中で呆れつつ、無遠慮に襖を開け放つ。
 広い座敷の中で、丸々と肥えた白髪混じりのお奉行様が若い娘に覆い被さり、帯に手をかけようとしていた。
 不幸中の幸いにも、宴はこれからようだ。
「なんじゃ貴様は!?」
 うろたえて腰を抜かすお奉行様。
 反対に、絶望に濡れた娘の目が生気を取り戻す。
「も、もしや、あなた様は……!」
「あんたがお律さんだな。知ってるなら話は早え。俺が悪斬り偽善だ」
 お奉行様は血相を変えて叫んだ。
「ええい、出会え出会え!」
 当然ながら、誰一人この場には現れない。
「なぜだ? なぜ誰も来ぬ?」
「外の奴らならもういねえよ」
「ばかな! 用心棒を五人も雇ったのだぞ。それをすべて一人でやったというのか?」
「二人は斬った。三人は逃げた。金目当ての用心棒に頼ったのが間違いだったな。もっとも、お前なんかのために命を張ってくれる忠臣がいるとは思えねえが」
 偽善はお奉行様に切っ先を向けた。
 それから、お律に対して言う。
「お律さん、ちょいと離れて目を閉じてな」
「は、はい」
 お律は言われたとおりにする。
 返り血を浴びないよう、また、斬る瞬間を見ないようにとの配慮だ。
「ひぃぃ!」
 お奉行様は悲鳴を上げ、四つん這いで奥の襖を目指す。
 だが、その手が襖に届くことはなかった。
 
 
「偽善様、今宵は危ういところを助けていただき、本当にありがとうございました。この御恩は必ず……」
「いや、そういうのはいいんだ。達者でな」
 偽善はお律を家まで送ると、すぐに背を向け歩き出した。
「あ、お待ちくださいな!」
 声に振り向くことなく、早足で立ち去る。
 気持ちはありがたいが、礼は受け取らないことにしている。
 自分の勝手でやっていることだ。賞金稼ぎみたいな真似はしたくない。
 それに今は時が惜しい。
 悪党とはいえ町奉行を斬ったとあっては捜索が厳しかろう。暗いうちに発たなくては、この街から出るのが難しくなる。
 偽善は急ぎ隠れ家へと戻り、旅支度を始める。手荷物の用意はあらかじめ済ませておいたので、あとは旅装に替えるだけだ。
 返り血の付いた羽織と袴を脱ぎ捨て、新たな羽織と裁付袴(たっつけばかま)を身に付ける。
 それから脚絆を付け、支度を終える。
 コンコン――
 不意に、小さく戸を叩く音がした。
(つけられたか?)
 不安がよぎる。戸口を見据えたまま、立て掛けてあった太刀を手に取る。
「偽善様、あっしです。正吉(しょうきち)です」
 知っている声がした。この隠れ家を貸してくれた鍛冶屋の主人の倅だ。
「なんだ、正吉っつぁんか」 
 ホッと息をつき、太刀を立て掛ける。
「こんな時分に何の用だい?」
 尋ねつつ戸を開けると、そこには正吉の他にもう一人、提灯を持った若いお役人が立っていた。
「ええと、どちらさんかな?」
「夜分に失礼。私は正吉とは古くから付き合いのある、熊次郎(くまじろう)と申す者です」
「ほう」
 偽善は知っている顔と知らない顔を交互に見た後、臆することなく応じる。
「そりゃどうも。お勤めご苦労さん」
 熊次郎は、今年元服した正吉より二つ三つ上くらいにしか見えなかった。
 町奉行を斬った名うての剣客を新米役人が一人で捕らえに来たとは思えない。
 正吉が裏切ったわけではなさそうだが……。
「で、何の用だい?」
 改めて尋ねると、正吉が少し怒ったように言う。
「用も何も、たった今お律さんから話を聞いて飛んできたんでさあ。冷てえじゃありやせんか、黙って行っちまおうだなんて。あの悪党をぶった斬ってくれたお方に、御恩の一つも返せねえお律さんの気持ちも考えてやってくだせえよ」
「いや、急いでるもんだから……」
「そうですかい。でも、これだけは受け取ってもらいやすぜ」
 早口でまくし立てた正吉は、手のひらに乗るくらいの小さな巾着と、それより少し大きな包みを押し付けてきた。
 巾着は小さな割にずっしりと重い。銭が入っている。包みは携行食に違いない。
「おいおい、金は受け取れねえよ」
「金じゃありやせん。そいつは、この街のみんなの気持ちです。偽善様がこの街を発つ時に渡そうって、みんなで集めてたんです。お律さんだけでなく、みんなみんな偽善様には感謝してんです。そいつを受け取れねえとは言わせやせんぜ?」
 正吉はテコでも引きそうにない。
 こうなると、さしもの偽善もお手上げだった。
「そうかい。ま、気持ちってんなら仕方ねえな。ありがたく頂戴するよ」
 それから、熊次郎が緊張した面持ちで言う。
「偽善様、街ではもう奉行殺しの捜索が始まっております。一人で逃げるのは危険ですので、私に付いてきてください」
「いいのかい? あんたお役人だろ? もしバレでもしたら……」
「ご安心を。役人の中にも偽善様を支持する者はおります。すでに彼らには協力を取り付けてありますので、今なら脱出できます」
 その言葉が真実という保証はない。付いていった先に大勢の捕り手が待ち構えているかもしれない。
 だが、偽善は信じることにした。
 もし罠だったとしても悔いはない。そう思えるほど、皆の厚意が心に染み渡っていた。
「そういうことなら、お願いしようかな」
「では行きましょう。こちらです」
 
 
 熊次郎の案内のおかげで、偽善は無事に街を離れることができた。
 とはいえ、決して楽な道程ではなかった。危うい場面も幾度かあった。一人だった時のことを思うとゾッとする。
 あの町奉行があまりにあからさまな悪だったせいで、悪斬り偽善の出現がある程度予測されていたに違いない。奉行自身も用心棒を雇っていた。
 有名になると、こういうこともある。
「ここまで来れば、少なくとも夜明けまで追っ手は来ないでしょう」
「ありがとうよ。世話になった街のみんなにもよろしく伝えておいてくれ」
「必ず。それでは、ご武運をお祈りしております」
 熊次郎は深くお辞儀をした。
「じゃあな」
 偽善は月灯りだけを頼りに夜道を歩き出す。
 次に向かうは、六年前に故あって飛び出してきた我が故郷、小豊藩(こほうはん)だ。
 最近、小豊でずいぶんな悪事を働く者がいるという噂を耳にした。これを放っておくわけにはいかない。
(そんじゃ、ちょっくら行くとすっか)
 
             ***

 父と見知らぬ男が正眼の構えで対峙していた。
 いや、男は父と同じくらいの背丈ではあるが、顔付きがどこか幼い。
 まだ十二、三の少年に見える。
 父が少年に稽古を付けてやっているのだろうか?
 真剣で?
 嫌な予感がした。
 すぐに止めなければいけない気がした。
 でも、身体が動かない。声も出ない。
(どうして? どうして?)
 背高の少年が動いた。
 太刀を大上段に振りかぶり、父に斬りかかる。
(父上、逃げて!)
 なぜか心の中でそう叫んでいた。
 小豊藩で一番の剣客である父が、そこらの少年に負けるはずがないのに。
 少年が太刀を振り下ろす。
 途端、視界が真っ赤に染まった。


(父上……!)
 深夜、雲月蒼葉(くもつきあおば)はハッと目を覚ました。
 身体は動く。声も出る。
(また、あの夢……)
 胸に嫌なものが込み上げてくる。暑いわけでもないのに、やけに喉が渇く。
 寝床から起き上がり、台所の土間に溜めてある水を飲みに行く。
 春先とはいえ夜は寒い。喉を潤すだけの、ほんの少量を甕(かめ)から柄杓で掬って口に含むと、すぐに暖かい布団の中へと戻った。
 夜明けまでまだ時がある。もう一眠りしておきたい。
 そう思い、目を閉じていても、頭に浮かんでくるのはあの悪夢のことばかり。
 六年前、蒼葉がまだ七つの時――
 一流の剣客である父が、わずか一太刀で斬り捨てられた。
 強くて、優しくて、大好きだった父が、血しぶきを上げて崩れ去る。
 それなのに、記憶に焼き付いているのは少年の悲しそうな表情。
(あの人は、どうしてあんな顔を……)
 どれだけ考えてもわからない。
 ただ、理由がどうあれ、あの瞬間から蒼葉の人生は変わった。
 あれから一年も経たないうちに病弱だった母も亡くなった。 他に家族がいなかったため、父の弟子で親戚でもある倉井石(くらいせき)に引き取られることになる。
 その人のもとで、蒼葉は剣術に打ち込んだ。
 いつの日か、父が斬られた理由を知るために。
 そして、理由如何によっては、あの少年を自らの手で斬るために。


 泰平の世と言われるようになって久しいこの時代にも、武士の剣術は各地で盛んに行われていた。
 ここ雲月流剣術道場もその一つ。
 都から遠く離れた小藩、その中でも城下の外れに位置する小さな道場ではあるものの、稽古の質は決して他流派に劣らない。いや、試合で派手に勝つことばかり考える華法剣法より、質実剛健を旨とする雲月流の方がきっと優れている。
 そう信じて疑わない蒼葉は、今日も厳しい稽古に精を出す。
「これより稽古をはじめる。全員正座!」
 声を上げたのは師範の倉井石先生だ。
 歳は二十八と道場主にしては若いが、その精悍な顔立ちと鍛え上げられた肉体は、年齢以上の凄みを感じさせる。性格は謙虚にして厳格、愚直にして柔軟。古きを尊びつつも新しきを受け入れる、懐の深い武人である。
 稽古前の座礼をした後、八人の門下生が等間隔で並ぶ。門下生はいずれも蒼葉と同年代の少年たちだ。
「それでは各自、素振り百本、はじめ!」
 先生の号令で八人が一斉に抜刀し、素振りをはじめた。竹刀ではなく真剣である。
 剣術の基本である正眼の構えから切っ先を天空へと掲げ、振り下ろす。当然、勢い余れば床板を傷つけてしまうので、腰の高さほどでピタリと止めなければならない。
 これが思いのほか難しい。
 真剣の重さは二斤(約一二○○グラム)ほどもあり、竹刀の三倍近くにもなる。
 それを百本連続で振るのは大人でも容易ではない。
 六年前、剣術をはじめたばかりの蒼葉は、年少用の短い竹刀でも二十本振れば腕が上がらなくなってしまった。しかし、来る日も来る日も稽古を欠かさなかったおかげで、今や真剣でも百本振れるようになった。
 単に成長して力が付いたからではない。正中線を用いて太刀を振る術(すべ)が身に付いたからだ。すなわち、腕の力だけでなく身体全体の力を使って重い真剣を振る。
 時が経つに連れ、道場内に熱気が篭ってくる。
 同時に、太刀が空気を斬り裂く音が小さく鈍くなっていく。
 百本振れるようになったとはいえ、決して楽ではないのだ。
 最後の方になると、だんだん力が入らなくなってくる。
「一本たりとも気を抜くな。敵はお前たちが疲れたところを狙ってくる。今この時が生死の分かれ目と思え」
 先生に檄を飛ばされるたび、蒼葉は思い出す。
(そうだ。こんなことでは父上の仇を討つなど夢のまた夢)
 こうして何度も何度も己を奮い立たせる。つい力を抜いてしまった分は百本を超えても振って補った。
 全員が素振りを終えると、次は型稽古を行う。
 型は抜き打ち(居合い)から始まり、連続して、振り下ろし、斬り上げ、突きなど様々な技を繰り出す稽古だ。連続技の後は、必ず納刀して一つの型が終わる。
 続いて、竹刀を用いての打ち込み稽古と約束稽古。これらの稽古は防具を着けた状態で二人組になって行う。
 仕上げは試合稽古だ。八人が総当たりで試合をする。
 この総当たり戦での蒼葉の勝率は年々上昇し、今では九割を超えるまでになっていた。
 自分より年上で背丈の大きな者が相手でも滅多に負けることはない。
 他の門下生が弱いわけではない。蒼葉の実力が抜きん出ているのだ。
 才能ではなく、あくなき努力によって。
 今日も調子良く七人を相手に全勝することができた。
 ところが稽古の総仕上げ、倉井先生が相手となると、そうはいかなくなる。
「さあ、どこからでも打ってきなさい」
 とは言われたものの、打ち込む隙など針の穴ほどもない。
 倉井先生は、力加減はしてくれるが、決してわざと打たれてはくれないのだ。少年部はもちろん、成年部でも先生から一本を奪った者はいないという。
 何をどうやっても打ち返されてしまう。それがわかってはいるものの、いつまでも見合っていては稽古にならないので、蒼葉は意を決し、攻めに出る。
 ――途端、脳天に衝撃が走る。
 また先生の動きが見えなかった。気が付けば面を打たれていた。
 他の門下生との試合を端から見ている分には目が追い付かないほど速いわけではないのに、いざ向かい合うとこれだ。
 以前その理由を聞いた時、先生は短くこう答えた。
「それは、私がお前の虚をついたからだ」
 言葉の意味はわかる。〝虚をつく〟というのは、要するに相手にとって予想外の攻撃を仕掛けることだ。
 蒼葉とて正攻法で先生から一本奪えるとは思っていないので、様々な方法で虚をつこうとしてきた。ところが、先生は何の小細工もなく、真正面から堂々とこちらの虚をついてくる。
 いったいどうしたらそんなことができるのか、今の蒼葉にはさっぱりわからなかった。
 二本目は先生の方から攻めてくる。さっきとはうって変わって激しい攻めだ。
 蒼葉は防戦一方。反撃する隙を見出せず、ついには体勢を崩され、打ち据えられてしまう。
 いつもどおりの結果だ。
 でも、以前よりはずいぶん粘ることができるようになってきた。少しずつではあるが、着実に父のような強い剣客に近付いている。そして、父を斬ったあの少年にも。


 春が近付き、日中はぽかぽかと暖かいこの季節。
 道場の外にある桜の木が徐々につぼみを膨らませている。あと半月もすれば満開の時期だ。家計に余裕がないため華やかな宴会はできないが、あの幻想的な光景を見られると思うだけで心が躍る。
 そんな桜の木の下を、竹刀袋を担いだ少年たちが通過していく。
 稽古後の門下生たちの行動は様々である。引き続き剣術の稽古をする者もいれば、槍術、弓術、馬術、柔術などを習いに行く者もいる。学問に励む者もいる。
 蒼葉の場合、習い事はここで終わりになる。
 一緒に暮らしている倉井先生が成年部(十五歳以上)の指導をする間、家事をこなさなければならないからだ。
 道場のすぐ隣にある母屋に戻ると、まずは稽古着から普段着の着流しに替える。それから、朝に干した洗濯物の取り込みにかかる。
 洗濯物をしまい終えた後には繕い物、その後には夕餉の準備をしなくてはならない。
 母が亡くなってから三年間は倉井先生が雇った住み込みの女中に家事をしてもらっていたが、今は蒼葉の役目だ。親代わりとなって自分を育ててくれた先生の御恩に報いるためにも、この時ばかりは仇のことを忘れ、一心に家事をこなす。
 そんな折りに、二人の侍が家を訪ねてきた。
 一人は深緑色の立派な羽織袴を纏った上級武士。もう一人はお供の若党だ。
 倉井先生より一回り上、三十半ばくらいの上級武士が野太い声で言う。
「拙者は一刃流(いちじんりゅう)剣術道場にて塾頭を務める沼田と申す。倉井先生はおいでか?」
「先生は、ただいま道場にて稽古中にございます」
「では呼んでもらおうか」
「……はい」
 普通なら稽古が終わるまで待ってもらうところだが、名門・一刃流からの遣いとあってはそうもいかない。
 蒼葉は道場に行き、先生に来客を告げる。
「わかった。話は母屋で伺おう」
 先生は稽古を師範代に任せ、道場をあとにした。
 

(これで何度目だろう……)
 客に出すお茶の用意をしつつ、蒼葉は心中つぶやいた。
 沼田という男が来るのは初めてだが、一刃流道場から遣いが来るのは初めてではない。
 もう三度目か、四度目だったか。
 どうせ用件も同じであろう。先生の気持ちが変わるとは思えない。
 だが、相手が道場一の遣い手である塾頭ともなれば無下に追い返すわけにはいかない。
 まして怒りを買ってしまっては後々面倒なことになるので、断るにせよ丁重にもてなさなくてはならない。
 蒼葉は襖越しに耳を澄まし、会話の邪魔にならないわずかな間をついて、襖を開ける。
「失礼いたします。粗茶でございます」
 粗相のないよう丁寧にお茶と菓子を置き、すぐに退室する。
 そして、襖を閉めた後、再び先生たちの会話に耳を澄ました。
 聞き耳を立てるのはよくないとわかっていても、先生がどのように断るかが気になるからだ。
 しばらくして、話が本題に入る。
「では、そろそろ用件を伺いましょうか」
「はい。もう察しはついていると思いますが、話とは一刃流道場への移籍の件です。今日こそ快いお返事をいただけますかな?」
 やはりその話だった。
 少し間を置いて、先生は今までと同じ返答をした。
「誠に申し訳ございませんが、私には師より受け継ぎし雲月流の理念を守る使命がありますので……」
「お言葉ですが、理念で飯は食えませぬぞ。倉井殿の腕前なら、一年以内に一刃流免許をお約束するという話も出ております。さすれば士官の話も選り取りみどり。城下の一等地に屋敷を構え、奉公人を雇うこともできましょう。それでも、お考え願えませぬか?」
 その言葉に蒼葉は呆れた。
(よくもそんな出任せを……)
 いくら大流派の免許皆伝を得ても、そこまでの出世がそうそう叶うはずがない。こちらが何も知らない田舎者と思っているようだ。
 もっとも、参勤の折に都会で最先端の剣術を学んでくる彼らにとって、この藩からほとんど出ることのない自分たちは田舎者に違いないが。
 とはいえ、先生はそのような手には乗らない。
「私は今の生活に満足しております。それに沼田殿がおっしゃるほど、私の腕前は優れておりません。まだまだ未熟なのです。失礼ながら、買い被りではないかと」
「自信がないと申されるか?」
「はい」
「では、倉井殿の腕を見込んだ我が主の目は節穴ということになりますな」
「いえ、そのようなことは……」
「でしたら買い被りではございませんな」
 どうやら、どのような難癖をつけてでも承諾を得たいらしい。さすがに塾頭自ら出向いてきただけのことはあり、今度は骨が折れそうだ。
 先生が返答をできずにいると、沼田は唐突に提案してきた。
「でしたら、倉井殿。この件については試合にて決めるというのはいかがでしょう?」
「試合ですか?」
「そうです。倉井殿が勝った時には、拙者はこの件から手を引きましょう。ですが、拙者が勝った時には移籍の話を承諾していただきます。それでいかがかな?」
 なんだか危うい話になってきた。蒼葉の心臓が急激に高鳴る。
 沼田の声色は自信ありげだ。はじめからそのつもりだったのだろう。あるいは、将来自分の立場を脅かすであろう先生を早めに潰しておきたいのかもしれない。
 長い沈黙を経て、先生は答える。
「いいでしょう。その勝負、受けて立ちます」


 蒼葉はかつてないほど緊張していた。
 倉井先生が他流派の剣客と試合うのを見るのは初めてだからだ。
 先生が負けるはずがない。今の先生は、父・雲月蒼助(くもつきそうすけ)の全盛時に匹敵するくらい強い。たとえ相手が名門・一刃流道場の塾頭であっても。
 そう自分に言い聞かせるが、高鳴った鼓動は収まらなかった。
 試合は三本勝負。先に二本先取した方が勝ちとなる。
「はじめ!」
 審判役の師範代が声を上げると、両者は正眼の構えで相対する。
 流派は違えど、攻守ともに最も安定した正眼が剣術の基本であることに変わりはない。
 しばらくの間、互いに探りを入れた後、先に沼田が動く。
「セヤーッ!」
 速く、力強い面打ち。
 先生は竹刀を掲げ、剣撃を受ける。
 さすがに、蒼葉の時のように一瞬で相手の虚をつくことはできない。
「エヤーッ! セイッ! セヤーッ!」
 沼田は間髪入れず連撃を繰り出す。
 先生は防戦一方。ついには道場の隅まで追い詰められ――
「お小手あり!」
 審判の右手が高々と上がる。
 一本取られてしまった。
(そんな! 先生がやられるなんて……)
 二本目。
 勢いに乗った沼田は再び連撃を繰り出し、瞬く間に先生を壁際まで追い詰めた。
 不安で胸が押し潰されそうになる。
 もう一本取られれば、先生が連れていかれてしまう。
「セヤーッ!」
 沼田が渾身の一撃を放つ。
 ほぼ同時に先生も動いた。
 木の実が爆(は)ぜるような乾いた音が道場に響く。
「お面あり!」
 高々と掲げられたのは審判の左手だった。
 先生が返し技で一本取り返したのだ。
(よし!)
 蒼葉はグッと拳を握る。
 三本目。
「はじめ!」
 二本目は調子に乗り過ぎたと反省したのか、沼田は慎重になった。
 先生は元より慎重だ。
 長い探り合いが続く。両者とも迂闊には踏み込まない。
 こういう場合、先に動いた方が不利だと教わったことがある。攻撃する瞬間にこそ隙が生じるからだ。
 その瞬間を捉える返し技が先生の得意技。ならば、先生が負ける道理はない。
 と思いきや、先に先生が動いた。いや、動かされたか。
 沼田は先生の面打ちを掻い潜りながら、抜き胴を合わせようと姿勢を低くする。
 瞬間、乾いた音が一つ響く。
(え?)
 動きを読まれ、空を切るはずだった先生の面打ちが沼田を捉えていた。
 審判の左手が挙がる。
「お面あり! 勝負、それまで!」
 沼田は立ったまま呆然としていた。何が起こったのかわかっていない様子だ。
 端から見ていた蒼葉には辛うじてわかった。
 先生は先に動いて沼田の返し技を誘った後、なおそれに返し技を重ねたのだ。
 言ってみれば二重の返し技。
 そんなことは余程の実力差がなければできないはずだ。
(まさか、先生は一本目をわざと?)
 

「僅差とはいえ、一刃流免許皆伝の拙者を打ち負かすとは……。さすが、我が主に見込まれるだけのことはありますな。約束どおり、今日のところはお引きいたしましょう。次の機会があった時には負けませんぞ」
 試合後、沼田は意外にもあっさりと引き上げていった。
 一昔前、戦国の気風が残る時代であれば、塾頭たる者が勝負を挑んだあげく敗北したとあっては切腹ものだろうが、泰平の世でそこまでする者はいない。
 さりとて、提示した条件を完全に受け入れるのはまずいらしく、「今日のところは――」「次の機会が――」などと約束をうやむやにするようなことを言う。
 先生がそれを追及しなかったため、約束は本当にうやむやになってしまった。
 勝負が僅差だったから強くは言い返せなかったのだろうか。
 否。あれは僅差などではなかった。
 沼田は偶然当てられただけと思い込んでいたようだが、蒼葉には確信があった。
 先生は、相手に気取られぬよう手心を加えていたのだ。
 その気になれば圧倒的な力の差を見せつけて追い返すこともできたろうに、なぜ?
 そんな疑問を抱きながら、少々遅れてしまった夕餉の準備を済ませ、先生を呼ぶ。
 食事の席はいつも静かなものだ。先生は食事中一切しゃべることなく、食べることにのみ集中する。当然、蒼葉もそれに倣う。箸とお椀の触れる小さな音だけが座敷に響く。
 食事が済むと、蒼葉は膳を下げ、先生にお茶を持っていく。
 それから話を切り出した。
「先生、先ほどの試合、なぜ本気を出さなかったのですか?」
「遺恨を生まぬためだ」
 先生は茶を一口含んだ後、静かに続ける。
「もし大差で勝ってしまえば、面目を潰された相手が逆恨みして意趣返しに来るやもしれん。それを未然に防ぐためにも、一本くらい華を持たせてやるのが良いと考えたまでだ。それも最初の一本をくれてやれば、『実戦なら自分が勝っていた』という面目が立つ」
「それでも、先生が打たれるところは見たくありませんでした」
「沼田殿はお前たち道場生とは違う。それ故の配慮だ」
 決して道場生より客人が大事と言っているわけではない。むしろ、どうでも良い相手だからこそ一本くれてやったという意味であることはわかる。
「ですが、勝負に勝ったというのにあれでは、一刃流の者がまた来てしまいます。キリがありません」
「構わぬ。何度でも応対してやるまでだ」
 蒼葉にとって、先生の考えは未だ理解し難いものだった。
「先生は、なぜそうまで謙虚になさるのですか? 沼田様の言いようは大げさにしても、先生ほどの腕前があれば出世も夢ではありませんのに」
「出世に興味はない。それよりも、我が師より受け継いだ雲月流の理念を守る方が私にとっては大事なのだ」
 雲月流は少年部と成年部を合わせて二十人にも満たない小さな流派だ。他流試合をすることが滅多にないため、その名を知る者は少ない。全国各地に数千人と言われる門下生を持つ一刃流とは比べるべくもない。
 腕に自信のある者は皆、立身出世のため一刃流の門を叩く。あるいは、一刃流の剣客を倒して箔をつけようとする。
 先生が父の意志を継いでくれるのは嬉しいが、その無欲さを惜しむ気持ちの方が蒼葉の中では大きかった。
 しばしの沈黙の後、先生はため息をつき、肩を落とした。
「一刃流を含め昨今多くの流派は、試合に勝って名を上げることや出世することばかりを考え、武士道の本質を忘れている」
「武士道……ですか」
「そうだ」
 先生は茶を飲みきり、盆の上に湯呑みを置く。
 それから、鋭い視線を向けてきた。
「蒼葉、我々武士階級は、いったいなんのために農民から米をいただいている?」
「それは、世を治めるためです」
「そのとおりだ。だが、ただ飯を食らうことが世を治めることか?」
「いえ……」
 蒼葉は声を詰まらせた。
「世を治め、人を従える立場にある者には、万民の手本となるべく己を磨く義務がある。剣術とはそのためのものだ。断じて自らの利益のために行うものではない」
 それが雲月流の理念だということは、今まで何度も聞かされてきた。もちろん、蒼葉もそれが正しいと思っている。威張っているだけの人間に世を治める資格はない。
 だからこそ、先生ほどの人が世間に認めてもらえないのが悔しくて仕方なかった。
 先生が申し訳なさそうに言う。
「お前には、こんな暮らしをさせてすまないと思っている」
「そんな! 私はそういうつもりで言ったわけではありません。今の生活には満足しています。ただ、先生は本当に……本当にこのままで良いのですか?」
 もしかしたら、自分の存在が先生を縛っているのではないかという疑念が蒼葉にはあった。
 父に対する恩義に報いるがために、先生は自らを戒めているのではないかと。
 本心では、日の当たる場所で存分に腕を振るいたいのではないかと。
 だが先生は、この六年間そうしてきたように、そんな気配はおくびにも出さなかった。
「気にするな。すべて自分の意思でやっていることだ。むしろ、下手に出世して毎日お偉方と顔を合わせるなどごめんだ。私には、指導者としてお前たちの面倒を見る方が性に合っている」
「先生……」
 決して嘘は言っていない。それは間違いなく本心なのだと思う。
 しかし、人の本心が一つとは限らない。蒼葉にも、先生が認められてほしいという気持ちと、先生にはずっとここにいてほしいという気持ちが同居していた。
 だから、先生の言葉を鵜呑みにはできなかった。

              ***

 夜。
 石(せき)はどうにも寝付けなかった。久々に行った他流試合の熱が収まらぬからであろう。
 気を静めるため、外の風に当たりにいく。
 空には真円に近い十三夜の月が輝いており、灯りがなくとも視界に不自由しない。
 蒼葉を起こさないよう、そっと戸の開け閉めをした。
 春も間近とはいえ、まだまだ夜は寒い。だが、身体の熱は冷めようとも、気の昂りはなかなか収まらなかった。
 月を見ながら今一度、試合のことを思い出す。
 力任せな部分はあるものの、迷いがなく思い切りの良い連撃。一本取られた後も、すぐに冷静さを取り戻す胆力。沼田は明らかに他流試合に慣れていた。
 わざと打たせてやった小手も、竹刀で叩くだけの魅せ技ではなく、骨まで響く威力だった。
 今もまだ痺れが残っている。
 腐っても名門・一刃流の免許皆伝を許されただけのことはあって、決して弱い相手ではなかった。少なくとも、雲月流の門下生にあれほどの遣い手はいない。
 そんな剣客に余裕を持って勝つことができたのだ。しかも、遺恨を生まぬための配慮までできた。
 自分は確実に強くなっている。
 尊敬するかつての師・雲月蒼助(くもつきそうすけ)に、確実に近付いている。
 あるいはもう越えているのかもしれぬ。亡き人と力比べはできぬ故、もはや確かめようもない。
 ただ一つ方法があるとすれば、あの男に勝つことだ。まだ元服も迎えていないような歳で我が師を斬り伏せたという、あの男に。
 あれから六年。あの男はさらに強くなっているはずだ。
 その音は、都から遠く離れたこの地にも聞こえていた。
 悪斬り偽善。
 奴に勝つことができたなら――
「ムッ!」
 不意に、石は飛び退いた。
 右手に人の気配を感じたからだ。
「何奴?」
 現れた人影に誰何しながら、太刀に手をかける。風呂と厠(かわや)へ行く時を除き、太刀は肌身離さず持っている。
「夜分に失礼。驚かせるつもりはございませんでした」
 返ってきたのは聞き覚えのない男の声だった。
 暗闇に溶け込むような黒の装束を纏っているので、姿はよく見えない。
「何者だ?」
「私は、藩主・樒原孝水(しきみがはらたかみず)様の遣いにございます」
「なに、孝水様の……!」
 武士としてそれほど身分の高くない石に藩主との接点などない。お顔を拝見したことすらない。知っているのは、一昨年に前藩主が病死したため、十六歳の若さで藩主になった青年だということだけだ。
 石は柄から手を離す。
 暗殺が目的なら背後あるいは頭上から仕掛けてくるはずなので、この者に敵意はない。
 藩主の遣いというのが本当かどうかはさておき、話くらいは聞く価値がある。
 ただ、このような形で訪ねてくるなど普通の遣いではない。
 おそらく、この者は密偵だ。
「して、何用か?」
「単刀直入に申します。実は、孝水様が倉井殿の腕前を見込んで、ある重大な任を与えたいと仰せにございまして……」

二章 噂

 偽善は二十と四日をかけて、故郷である小豊藩(こほうはん)の手前にある宿場まで来た。
 前に滞在していた街からここまで、お咎めなく関所を通過できるのであれば二十日とかからない道程だが、お尋ね者故それは仕方がない。
 関所破りなどして無用な騒ぎを起こしたくはないので、その都度抜け道を探し、時には親切な地元民にこっそり教えてもらい、なんとかここまでたどり着いた。
 あと一つ、領に入るための関所を回避すれば懐かしの故郷に到着だ。ここなら六年前、飛び出してきた時に使った山中の抜け道を使えばよい。
 そう思い、宿でくつろいでいた偽善の耳に、不穏な報せが入った。
 最近、ここいらで山賊が出没するというのだ。
 山賊は山道で旅人を襲い、略奪を行う。時折、山を下りてきては女をさらう。
 お役人による山狩りが行われたが、無様にも返り討ちにされてしまったらしい。
「で、おやじ、その山賊ってのは何人いるんだ?」
 偽善が宿屋の主人に聞いた。
「七、八人ってとこらしいですが……。もしや、お侍様!」
「おう。俺がちょっくら斬ってきてやるよ」
 主人は血相を変えた。
「おやめなせえ! いくらお侍様が強くたって、山ん中じゃ満足に剣も振れねえ。あいつら猿みたいにすばしっこい上、山を知り尽くしてやがんだ。敵いっこねえ」
「なるほどな、それは厄介だ。だが、放っておくわけにはいかねえ」
 偽善の決意は変わらない。それにどうせ抜け道を使う際に邪魔になる。後手に回るより先手を打った方がよい。
「安心しな。あの山のことなら俺もよく知ってる。ガキの頃よく遊んだ山だからな」
 偽善は得意気に白い歯を見せた。


 朝餉をいただいてしばらく休んだ後、偽善は山に入った。旅荷は邪魔になるので宿屋に預けてきた。
 標高が六町(およそ六五〇メートル)足らずの小さな山だ。山道は傾斜が緩やかなところが多く、複雑に入り組んでもいないので、比較的容易に山越えできる。
 それ故、通行が多く旅人を狙いやすくもある。
(まずは見張りを仕留めないとな)
 どこか見晴らしのよい場所に見張り番がいるはずだ。場所はおおよそ見当がつく。
(よくかくれんぼとかして遊んだからな。みんな、元気にしてるかな)
 偽善は昔一緒に遊んだ友達のことを思い出した。
 あの頃は武士の子も町人の子も農民の子も関係なく、みんな仲良く遊んでいた。
 同じ寺子屋に通って、剣術の稽古をして……。
(おっと、今は思い出に浸ってる場合じゃないな)
 山道を逸れ、獣道に入る。
 人が踏み固めた山道と違い、動物が草を踏み分けただけの通り道だ。よく見ていなければそれとわからないほど細く心許ない。
 それからしばらく進み、山道を見張る男を見つけた。
(やっぱりそこか)
 腰に白木拵えの長ドスを差した、いかにも博徒崩れといった風体の男だ。通行人が減って暇だからか、岩場に腰を下ろして欠伸をかいている。
 偽善は太刀ではなく脇差を抜いた。木々などの障害物が多く、地面が平らでない山中で長物は扱いにくい。この場合は片手で扱える脇差の方がよい。
 草木が生い茂るこの場所で完全に音を殺して近付くことはできないが、どうせ一瞬のことだ。
 長ドスを抜く間も与えない。
 草むらから岩場まで一直線に駆け、男が「あっ」と言う間に口を塞ぎ、喉元に刃を突き付けた。
 そして、問う。
「ちょいと尋ねる。俺は悪斬り偽善ってもんだが、お前さんは最近出没するっていう山賊の一味かい?」
 万が一にも無関係な人間を殺してしまわないための確認だ。
 男は大きく目を開くだけで頷かない。が、否定もしない。
 念のため、もう一度だけ問う。
「お前さんは、この辺りで盗みをしたり、女をさらったりする山賊の一味かって聞いてんだ。違うんだったら首を横に振りな」
 男の首は動かなかった。代わりに、こっそり偽善の腰の刀を奪おうとしていた。
「決まりだな」
 偽善は男の頸動脈を掻き斬った。


 連中が根城にしている場所もだいたい見当がついているので、偽善はそこへ向かった。
 途中、見張りの交代に行くと思われる男を見かけたので、先ほどと同じような問いかけをした後、容赦なく斬った。
 これで残りは五人か六人。
 しばらく進むうちに獣道が少し開け、人が不自由なく通れるほどの小道になった。山賊が使っている道だろう。
 となると――
(お、あった)
 どうせ仕掛けてあるだろうと目を凝らして歩いているうちに、小道を横切るように張った細い紐を見つけた。
 鳴子(なるこ)だ。
 これに引っ掛かると木の板や竹筒などがカラカラと音を出し、近付く者の存在を知らせる。
 他にも罠がないか気を張って進むも、仕掛けてあったのは獲物を捕まえるための落とし穴や虎挟みだけで、それほど厳重ではなかった。あまり多くの罠を仕掛けては、自分たちが引っ掛かってしまうと思ったのだろう。
 それから少し歩き、目的地に着く。そこは木こりが使う山小屋だった。
(当たりだな)
 小屋の中から笑い声が聞こえてくる。昼間から酒盛りでもしているのだろうか。
(そんじゃ、ちょっくらお邪魔しますかね)
 偽善は無遠慮に小屋の戸を開けた。
「よう、楽しんでるかい?」
 軽口を叩きながら人数を確認する。先ほどの見張りと同じような風体の男が六人。
 小屋の中には、旅人から奪ったと思われる金品や食料があった。
 もはや改めて問うまでもない。
「なんだてめえは!?」
 男の一人が叫ぶ。
 それを合図に、全員が手元に置いてある長ドスを手にする。
「俺は悪斬り偽善」
 名乗った直後、偽善は脇差で手前の男の首をはねた。居合い斬りだ。
「な……!」
 斬られた男の隣にいた男が驚愕する。
 その一瞬の隙を逃さず、返す刀で二人目の喉を斬り裂いた。
 首を切断するには至らなかったが、その出血量からして絶命は確実だ。
 これであと四人。
 今まで何人も殺してきて肝が据わっているのか、男たちは早くも立ち上がり、長ドスを抜いていた。目の前で仲間二人がやられたというのに戦意を失っていない。
 その相貌は憎しみと殺気で満ちている。
 剣術の心得はなくとも、ある意味で用心棒より手強いかもしれない。
(さて……)
 迂闊に踏み込んでいっては、一人を仕留めている間に他の者にやられる。
 いかに偽善であっても、狭い小屋の中で次々と襲いかかられては致命傷を免れない。
 しかし、その狭さ故に全員が一斉に襲いかかってくることもない。
 よって相手が動くのを待つ。
「この野郎!」
 一番近くにいた男が、こちらの胴を狙って突きかかってきた。
 偽善にはこの攻撃が読めていた。この小屋の中では、天井や壁、仲間の身体など空間に制限があり、尺のある長ドスでは上段からの振り下ろしや横薙ぎができない。攻撃はほぼ突きに限定される。それも素人なら的の大きな胴を狙ってくる。
 偽善は、わずかに身を逸らすことでこれを避け、体勢を崩した男の首を脇差で裂いた。
 男は顔面から壁に突っ込み、崩れ落ちる。手応えからして確実に仕留めた。
 これであと三人。
 だが、怖いもの知らずの山賊たちは怯まない。血だまりに沈む亡骸を踏み越え、果敢に立ち向かってくる。
 今度は二人同時だ。
 偽善は無理をせず後退し、小屋から一歩だけ外に出た。
 そして、出入り口のところで敵を迎え撃つ。
 この位置であれば一人ずつしか攻撃ができない。
 先に向かってきた男の胴突きを避け、同じく首を薙いだ。
 また一つ、山賊の亡骸が増える。
「こ、こいつ、強えぞ!」
 さすがに斬り合いは不利と悟ったのか、残る二人は後退した。
 が、未だ戦意は衰えない。長ドスを畳に突き立てた後、
「これでもくらえ!」
 と、物を投げつけてくる。
「おっと!」
 偽善が難なく避けると、地面に落ちた徳利(とっくり)が割れ、中の酒が飛び散った。
「おいおい、もったいねえな」
 などという偽善の言葉に構わず、二人は手当たり次第に物を投げつけてくる。
 何も律儀に避け続けることはないので、偽善は戸口から身を引いた。
 すると、飛来が止む。
 そぉーと中を覗いてみると、また物が飛んできた。
(やれやれ、面倒なことになったな)
 頭さえ守れば致命傷を負うことはないから一気に突っ込む手もあるが、できれば傷は負いたくない。
 火をつけて炙り出すのもダメだ。この小屋は後々隠れ家として使いたい。
(何か盾になるものがあれば……おっ!)
 妙案を思い付き、偽善は血を拭ってから脇差を鞘に収めた。
 それから、小屋の戸板を外す。これを盾にすれば大抵の物は防げる。
 連中の腕とあのなまくらで、とっさに戸板を突き通すことはできまい。
 一瞬だけ中を覗いて男たちの立ち位置を確認した後、突撃。
 男の一人に戸板ごと体当たりをして、壁に叩きつけた。
 すぐさま、もう一人の男を見る。
 ――太刀の間合い。
 偽善は居合い斬りで男の胸を深く斬り裂いた。男は血を吹きながら力なく崩れた。
 直後、戸板の下敷きになっていた残り一人が跳ね起きる。
「おああ!」
 ほぼ同時に、男の右手にある長ドスが下方から襲い来る。
 剣術の型もへったくれもない、力任せの斬撃だ。
 だが、偽善はその手の攻撃には慣れていた。
「遅い」
 長ドスが振り上がることはなかった。
 その前に、逆手で瞬時に抜いた偽善の脇差が男の心臓を捉えていた。
 

 山賊を仕留めた証として、偽善は八本の長ドスを持ち帰った。
「こ、これは! まさか、本当に……」
 宿屋の主人は驚愕の声を上げた。
「山賊の亡骸と盗品は川の近くに並べといたから、お役人に検分するよう言っといてくれ。そんじゃ、あとのことはよろしく頼む」
 預けておいた旅荷を返してもらった偽善は、さっさと宿を出ていく。
「ちょっと、お待ちくだせえ!」
 主人が追いかけてきた。
「ん? まだ何か用か?」
「まだって、お侍様。大手柄だってのに、報償も受け取らずに行くんですかい?」
「いや、そういうのはいいんだ」
 まさかお尋ね者が奉行所に顔を出すわけにはいかない。
 それに戦利品なら手に入った。あの小屋と食料、それから、運良く新しい布団があったので、それも頂戴しておいた。元の持ち主には悪いが、夜はまだ冷えるのでそのくらいはやむなしと割り切った。
 そんな事情を知るはずもない主人が食い下がる。
「ですが、こんだけのことをしてもらって何もってわけには……。せめてあっしから、お礼をさせてもらえやせんか?」
 義理堅い主人だ。
 それなら――と偽善は言う。
「握り飯を作ってくれねえか。できたら、たくあんも付けて」
「え、それだけですかい?」
「それで充分だ」
 
              ***

 蒼葉(あおば)は無我夢中だった。
 斬られた父が地に伏した途端、駆け出していた。
「……父上! 父上!」
 蒼葉は、父を斬った少年を突き飛ばした。
 怖くはなかった。ただ、父の傷を押さえるのに邪魔だからそうした。
 少年は藁人形ように軽く吹き飛んだ。
 父を仰向けに起こし、肩から腰にかけて袈裟懸けに走った傷を押さえる。
 だが、蒼葉の小さな手で吹き出る血は止められなかった。
「あ、蒼葉……」
「父上?」
「……強く、生きなさい……」
 それが父の最後の言葉だった。
 頭の中が真っ白になった。
 気が付けば、父の腰に残っていた脇差を抜いていた。
 そして、膝を着いて立とうとしていた少年を斬りつける。
 少年は避けなかった。
 少年の顎が大きく裂けた。
 返り血が、蒼葉の視界を真紅に染めた。
 ――瞬間、蒼葉はハッと目を覚ました。
またあの夢だ。
まるで昨日の出来事のように鮮明な夢。
(どうして……)
六年の時を経てもわからない疑念が頭をよぎる。
 あの時、どうして少年はあっさり突き飛ばされたのだろう。
 どうして刀を避けなかったのだろう。
 父との戦いで傷を負った様子はなかった。
 父を倒すほどの剣客に、七つの子供が振るった刀を避けられぬはずがない。
 それなのに……。 
 どれだけ考えてもわからない。
 少年が何を思ったのか――
 父が何を思ったのか――
 蒼葉は身体を起こす。
 間もなく、夜が明けようとしていた。


 倉井先生と一刃流の沼田が試合をした次の日。
 日常にこれといった変化はなく、蒼葉はいつもどおり早朝の一人稽古に励む。
 朝の道場は寒いが、動き始めてしまえば、そんなことは気にならない。
 素振りや型など、一人でできることを小半刻(約三十分)ほどひたすら繰り返す。
 先生に言われたこと、自分で気付いたことを黙々と練る。
 仕上げは真剣勝負だ。
 相手は父を斬ったあの少年。無論、本人ではなく頭の中で思い描く仮想の相手である。
 背丈は父と同じ五尺五寸(約一六五センチメートル)ほど。大上段からの鋭い斬撃。そして、勝利した後の悲しげな顔。覚えているのはそれだけだ。
 少年の流派や得意技は知らないし、六年も前の姿に過ぎない。
 そもそも、自分の手で斬ると決まったわけでもない。少年に対して抱くのは憎悪よりも疑問である。
 それでも、蒼葉は毎日この想像の稽古を繰り返した。
 いつの日か、疑問の先にある真の敵を斬り払うために。
 真剣を手に、正眼の構えで少年と向き合う。
 当然ながら、父を斬った少年に自分が敵うはずがない。まともに戦えば、瞬く間に斬られて終いだ。それでは全く稽古にならない。
 だから蒼葉は少年の動きをたった一つに絞った。六年前、この目ではっきりと見た、大上段からの袈裟斬り一つに。
 他は無理でもいい。その代わり、この技にだけは完璧に対処できるようにする。
 少年が徐々に間合いを詰めてくる。
 手足の長さがずいぶん違うので、蒼葉から先に仕掛けることはできない。少年の方から攻めてくるのを、ひたすら待つ。
 やがて、少年の太刀は届くが蒼葉の太刀は届かない、不利な間合いに入る。
 少年が動く。
 蒼葉はまだ動かない。ぎりぎりまで引き付ける。
 大上段からの袈裟斬り。
 少年が太刀を振り下ろすその動きが、もう止められないところまで来てはじめて、蒼葉は動く。
 恐るべき速さで白刃が降り注ぐ。
 が、いくら速くとも、来るとわかっていれば避けられる。
 蒼葉は最小限の動きで袈裟斬りを避けつつ、半歩前へ出る。ほぼ同時に小手を打つ。
 少年が太刀を落とした。
 勝負ありだ。
 と言っても、こんな約束稽古での勝利など少しも嬉しくはない。なんとなく、これをやらなければ気が済まないだけだ。さっさと納刀し、朝稽古を終える。
 すぐに朝餉の支度にかからなければ。
 
 
 朝餉を済ませ、寺子屋に子供たちの指導に行く先生を見送った後、洗濯と掃除を行う。
 それから買い物に行き、帰ってきて昼餉の支度に取りかかるまでの空き時間には書物を読んで勉強する。
 つい一年前まで蒼葉も寺子屋に通っていたので、読み書きは問題なくできる。とりわけ孫子などの兵法書を多く読む。孔子、孟子などの思想も積極的に学ぶ。強くなるための兵法を学ぶと同時に、礼節や仁愛について学ぶことも欠かせない。
 武士は、ただ強ければ良いわけではないのだ。
 寺子屋での指導は昼までには終わるので、昼からは剣術の稽古だ。
 ところが先生は今日、めずらしく稽古を休んでお出掛けになるという。
 なんでも藩主直々のお呼び出しらしい。用件は極秘であり、藩主と会うことも他の者には話さぬよう言い含められた。
「では行ってくる。帰りは遅くなるかもしれない。その時は先に寝ていてくれ」
「わかりました。どうかお気を付けて」
 蒼葉はお辞儀をして、先生を見送った。


 昼過ぎになり、門下生たちが道場に集まってくる。
 今日は先生がいないためか、皆なかなか稽古を始めようとはせず、床に座って談笑を続けていた。
 滅多にあることではないから、つい気が緩むのも仕方ない。蒼葉は輪の中にいるようないないようなところに座り、話に耳を傾けた。
 そのうち、門下生の一人が気になることを言う。
「そういえば聞いたか? 昨日、山賊が斬られたらしいぞ。しかも、たった一人に」
 一同から驚きの声が上がる。
「山賊は何人いたんだ?」
「八人だ。しかも検分によると、全員が一太刀でやられたらしい」
 また一同から声が上がる。
「すごい遣い手だな。いったい誰なんだ?」
「一刃流の者か?」
「いや、一刃流にそこまでの遣い手はいないだろう」
「まさか倉井先生か?」
「先生は昨日、寺子屋にしか行ってないよ」と蒼葉。
「倉井先生の他にそのようなことができる達人といったら、由宮流(よしみやりゅう)の先生じゃないか?」
「由宮先生は五十近いお年だ。道場のような場所ならともかく、山中では活発に動けないだろう」
 皆が矢継ぎ早に推測を口にする。
 だが、推測するまでもなく、最初に噂話を切り出した門下生は答えを知っていた。
「いや、この藩の者ではないそうだ。やったのは旅人と聞いた」
 蒼葉は驚くよりも、山賊がいなくなったことに安堵していた。
 もし、あのまま役人が手を焼くようであれば、先生が討伐隊の一員として駆り出されることもあったであろう。
 いかに先生といえども、満足に剣が振るえない山中では分が悪い。傷を負うか、悪ければ命を落とすかもしれない。
 蒼葉は心の中で、その旅人に感謝した。
 別の門下生が聞く。
「どんな旅人なんだ?」
「聞いた話では、背丈が六尺(約一八○センチメートル)もあって、髷(まげ)を結わず、腰まで届くくらいの髪を一本に束ねている風変わりな若侍だとか。しかもその旅人、報償も受け取らずに去っていったんだとよ」
 聞き覚えのある風体に反応し、蒼葉は大きく目を開いた。
(まさか……)
 そのまさかを、門下生の一人が口にする。
「おい、もしかしてそれってあれじゃないか? ええと、悪斬り……偽善?」
 その名と、その男の所業は、蒼葉も風の噂で耳にしていた。
 ここ数年の間、国中の至るところで悪を斬って回る男がいると。
悪の対象は盗賊・山賊の類いから、不正を行う公儀の重役まで身分を問わず様々。
悪の基準は独断。対象は例外なく一刀のもとに斬り捨てられているという。
その数は確認されているだけでも百を越える。
しかも偽善は正体を隠す気がないどころか、殺害現場では必ず名乗りを上げるというのだ。これで有名にならない方がどうかしている。
 有名になればお触書きや人相書きが出回り、お役人には警戒される。
 にも拘らず、彼はいっこうに捕まらなかった。
 偽善が手練れの剣客だからというのもあるが、それ以上に民衆が彼の行動を支持しているからだ。彼を見かけた際には喜んで食料や隠れ家を提供する者もいた。お役人にさえ、わざと彼を見逃す者がいるという。
 今や悪斬り偽善は、お尋ね者でありながら巷の人気者でもあった。
 もっとも、それだけなら蒼葉は別段興味を持たなかったであろう。だが、ある時こんな話を聞き、興味どころではなくなった。
『悪斬り偽善には、顎に一文字の刀傷がある』
 父を斬った少年は、当時からして五尺五寸と背が高かった。六年経った今なら六尺に達していてもおかしくはない。
 そして、凄まじいまで剣の腕前。
 三つの条件が重なり、あの少年が悪斬り偽善であると蒼葉は確信していた。
 その偽善がこの地に戻ってきたとなれば平静ではいられない。
 別の門下生が興奮気味に答える。
「そうだよ。確か悪斬り偽善も背の高い風変わりな男だって聞いた。ついにこの藩にも偽善が来たんだよ!」
「来たって、わざわざ山賊を斬りにか?」
「違うよ。偽善が斬るっていったら、あいつしかいないだろう?」
「ああ、あいつか」
「あいつだな」
「あいつならおかしくないな」
 あいつというのが誰のことを指すのか、言わずとも皆わかっていた。
 しかし、誰一人としてその名を口にしなかった。万が一にも陰口を叩いているところが見つかれば、どんな処罰を課せられるかわかったものではないからだ。
 最悪、斬首されることすらあり得る。いや、すでにされた者がいた。無理矢理、罪人に仕立て上げられて。
 それほどの権力を持った暴君が、この地にはいる。
 気まずい空気の中、一人が言う。
「おい、もうそろそろ稽古を始めないか。先生がいないからって、いつまでも話してちゃまずいだろ」
 反対する者はいなかった。


 蒼葉は、まるで稽古に身が入らなかった。
 悪斬り偽善のことが気になって仕方ないからだ。
 悪を斬るという彼の行いを知って以来、ずっと疑問に思っていた。もし悪斬り偽善が噂どおりの男だとしたら、父は悪人だったということになってしまう。
 あんなに優しかった父が悪人だなんて信じられない。なにかの間違いとしか思えない。
 誰かに騙されたのか、人違いだったのか。あるいは、偶然がいくつか重なっただけで、あの少年が偽善ではなかったのか。
 本当に偽善がこの地に来ているのであれば、会って確かめなくてはならない。
 稽古が終わると、蒼葉は急いで出掛ける仕度にかかった。
 稽古着を脱ぎ、普段の着流しではなく小袖袴に着替える。大刀を帯びるのは元服するまで認められていないので、脇差のみ腰に帯びる。夕方になると冷えてくるので羽織も持った。
 もし偽善の狙いが皆の言うあいつだとしたら、下調べのために必ず城下町を訪れるはずだ。
 そこで彼が行きそうな場所を探れば、偽善に会えるかもしれない。会って真実を聞けるかもしれない。
 でも、もしかしたら殺されるかもしれない。
 噂は噂だ。偽善が悪人しか斬らないという保証はどこにもない。
 その名のとおり、善は偽りなのかもしれない。
 彼がなぜ〝偽善〟と名乗るのか。多くの噂の中にも、その理由はなかった。
 それでも、蒼葉は迷わなかった。恐怖よりも真実を知りたい気持ちが勝った。
 出掛ける準備が済むと、道場にいる成年部の門下生たちに見つからないよう、裏口からこっそり家を出た。

              ***

 藩主直々の呼び出しを受けた石(せき)は、登城するのではなく、城下町にある一件の茶屋にやってきた。
 庶民が使う平凡な店だ。おおよそ藩主と会合するような場所ではない。
 だが、藩主の遣いである密偵から、ここに来るよう言われたのだ。しかも、正装ではなく平服で来るようにと言われたので、石は普段どおりの羽織袴を身に付けている。
(さて、来たはいいが、どうしたものか……。店先で突っ立っていては怪しまれる。ひとまず茶でも飲むか)
 そう思い、茶屋に入ろうとしたところで、背後から声をかけられた。
「旦那、ここにいやしたか」
 そこにいたのは商人の姿をした中年男だった。見覚えはない。
 男は、なぜか平謝りする。
「すんません、あっしとしたことが場所を間違えやして。ささ、あちらに駕籠(かご)を待たせてありますんで、早く乗ってください」
「わかった」
 石は男の正体に気付き、即応した。
(間違いない。口調は違うが、昨晩の密偵だ。ずいぶんと回りくどいことをする)
 事情は察しがつく。自分と会っていることが藩の重役に知られてはまずいのだ。
 だとすれば、こちらもできる限り平静を装わなければならない。
 石は一瞬も戸惑いを見せることなく密偵に付いていき、駕籠に乗り込んだ。


 駕籠が着いた先は、見知らぬ屋敷の敷地内だった。
 城下の外れも外れ、ほとんど農村と変わらぬようなところにある自分の家とは比べるべくもなく広く立派な屋敷だ。さぞ高貴なお方が住んでいるに違いない。
 駕籠から降りた石は奉公人に迎えられ、屋敷の母屋に通される。その際、玄関にて大小の刀を預けるよう言われる。
 通常、他家を訪問した際は大刀のみ預け脇差を帯びたまま上がるのが作法だが、藩主に接見するとなれば、ここは殿中も同然。石は迷うことなく大小二本を帯から抜き、奉公人に差し出した。
 それから座敷に入り、下座にて待つよう言い渡される。
(私のような一介の剣術師範に、孝水様はいったい何をさせるおつもりか……)
 さしもの石も緊張した。
 だが、これは武士の誉れだ。主君から直々に密命を受けるなど、よほど見込まれたのでなければありえない。
(雲月流の名を汚さぬよう、誠心誠意で主君の期待にお答えせねば)
 しばしの間を置いて入ってきたのは、少年の面差しが微かに残る十八歳の青年であった。
 細身で色白の優男ではあるが、その堂々とした服装と佇まいから一目で藩主だとわかった。
 石は、ただちに平伏する。
 そして、藩主が上座に着くと同時に名乗る。
「お初にお目にかかります。倉井石にございます」
「余が小豊藩藩主、樒原孝水(しきみがはらたかみず)である。表を上げよ」
「はっ」
 石は少しだけ上体を起こす。顔は下を向いたままだ。
 主君を正面から見据えることは許されない。
「よう参ってくれたな。この家は余の親戚筋に当たる、信頼できる者の家だ。余にとっては唯一、気が休まる場所でもある。そう堅くならずともよいぞ」
「はっ」
 石はわずかに上体を起こすが、あくまでも平伏の姿勢は崩さない。
 主君がそう言ったからといって気を緩めることはできない。
「ふふ、噂どおり真面目な男よの。そなたの評判は余の耳にも届いておるぞ。なんでも、万民の手本となるための武士道を教えておるそうだな」
「左様にございます」
 石は歓喜で震えた。
 まさか主君が雲月流の理念を知っていようとは。
「しかも、一刃流免許皆伝の沼田相手に手心を加え、なお勝利するほどの腕前と聞いた」
「なんと、そこまで知っておいでで……!」
 あの時、手心を加えたことは蒼葉しか知らないはずだ。
 まさか一刃流の者に気取られたかと一瞬肝が縮んだが、藩主はそれを否定してくれた。
「安心せよ。そなたの気遣い、一刃流の者には知られておらぬ。余の配下に目の肥えた者がおってな。試合を見て、すぐにわかったそうだ」
「……恐れ入ります」
 おそらく、先ほどの密偵のことであろう。主君は、自分が信用に足る人物かどうか見極めるために調査していたのだ。
 その若さ故、心のどこかで主君を侮っていた石だが、この場で考えを改めた。
(このお方は断じてお飾りの藩主などではない。紛うことなき、我が主君だ)
 その主君が、直々に命を下す。
「石よ、そなたを呼んだのは他でもない。そなたに斬ってもらいたい人物がいるのだ」
「それはすなわち、上意討ちの命にございましょうか?」
「そうだ」
 同じ人斬りでも、上意討ちは暗殺と違い武士として誉れ高き仕事だ。見事相手を討ち果たせば相応の報償と出世が約束される。
 だが、それだけ厄介な相手だということでもある。
 ただの罪人なら町奉行に任せればよい。それができない故の密命なのだ。
「よいか、その者の名は――」
 

三章 捜索

 大きな握り飯の包みを持たせてくれた宿屋の主人に、偽善は礼を言った。
「ありがとよ。ついでにもう一つだけ頼みたいんだが、お役人に俺のことを聞かれたら、知らない間に出て行ったと伝えておいてくれないか?」
「わかりやした」
 理由も聞かず、主人は頷いた。事情を察してくれたようだ。
「またこの宿場に来ることがあれば、ぜひうちへ寄ってくだせえ。お侍様でしたら、何日逗留していただいても構いませんので」
「縁があったらそうさせてもらうよ」
「では、お気をつけて」
 深く丁寧なお辞儀に見送られ、偽善は宿屋をあとにする。
 感謝されるためにやっているわけではないが、感謝されるのは嬉しいものだ。
 自分の行いに少なからず意味があることを実感させてくれる。
 天は自分に類い稀なる剣の才を与えた。
 その才を存分に生かす今の生き方に悔いも迷いもない。
 世の中には、明らかに斬って捨てるべき悪が存在する。だが、そうした悪が力を持っていたり、法に守られていたりして、裁きが下せないことがある。長きに渡って悪がのさばってしまうことがある。
 そんな厄介な悪を裁くのが悪斬り偽善だ。
 ――そう偽善。
 この行いが偽善だということは承知している。
 悪に明確な基準などない。世に絶対的な善悪は存在しない。
 誰かにとっての悪が、別の誰かにとっては善ということもある。その逆もしかり。
 極論を言ってしまえば、動物や魚を食う人間は、動物や魚にとっては全員が悪なのだ。
 自分の行いが善か悪かなど、すべて自分の都合でしかない。
 だから、偽善と名乗ることにした。
 自らの正義に酔わぬために。
 
 
 山賊との戦いで汚れた小屋を、偽善は綺麗に掃除した。
 少しばかりの食料を除き、明らかに盗品と思われる物は返しておいたが、小屋にあった生活道具は遠慮なく頂戴した。
 あとは街で足りない物を少々買い足せば、当面はやっていけそうだ。
 山賊を斬った次の日の昼過ぎ。
 偽善は六年振りの故郷、小豊藩(こほうはん)へと向かう。
 小豊藩は、その名のとおり面積が小さいながらも豊かな土地である。
 西の端から東の端まで十里(約四十キロメートル)ほど。
 北の端から南の端まで七里(約二十八キロメートル)ほど。
 やや横長の四角形に近い領土は内陸部に位置し、平地が多い。また、藩のほぼ中央に位置する城下町が交通の要所となっているため、農業・商業が共に盛んである。
 偽善は山中の抜け道を通って小豊藩の領内に入る。
 山賊が残らず斬られたことが早くも知れ渡っているのか、街道には多くの人々が行き交っていた。
 そんな中に何食わぬ顔で混じる。
 もっとも、深編笠を被っているので周囲に顔は見えないが。故郷であるこの土地には顔見知りがいるので念のためだ。
 街道をしばらく歩くと、そこはよく知った農村だ。川と田畑と茅葺(かやぶき)屋根の民家が視界いっぱいに広がるのどかな光景は、六年前からちっとも変わっていない。
(俺はこんなに変わったのにな)
 ここを飛び出した時は、まだ十三の少年だった。それが今や天下のお尋ね者だ。
 かつての友人や知人と関わっては危険に巻き込んでしまう恐れがある。変わらない風景が見られただけで満足しておかなければならない。
 ところが、しばらく歩いているうちに農村の異変に気付いた。
 妙にやつれている人が多い。遠目からでも表情に精気がないのがわかる。
 みな歩くのも億劫そうだ、
(昨年は不作だったのか)
 だとしても、どの村にも蓄えはある。それで賄えないほどの大飢饉であれば、周辺地域にも影響があるはずだ。山を挟んですぐ隣藩の宿場町でさえ、あからさまに食糧が不足している様子はなかった。
 不審に思った偽善は、石段に座って休んでいた年配の行商人に尋ねてみる。
「なあ、じいさん。村の様子がおかしいみてえだが、どうなってんだい?」
「ああ、年貢が収められなくて、蓄えまで持っていかれたんだね」
「なんだって……?」
 偽善は眉を寄せる。
「もしかして、不作だってのに藩は年貢を減らさなかったのか?」
「そうみたいだね。詳しくはわからねえが、ご家老様がお決めになったらしいよ。ひどいもんだよねぇ。不作は天候のせいだってのに、農民にばかり負担を押し付けて」
「そうだったのか……」
 偽善は行商人に礼を言い、再び歩き出した。
(どうやら噂どおり、悪徳家老とやらがこの地でのさばってるようだな)
 ならば斬る。
 そのためにも、まずは情報集めだ。
(買い物ついでに城下の様子でも見てくるか)
 偽善は早足で農村を抜けた。
 
              ***

 道場からおよそ半里(約二キロメートル)の道のりを歩き、蒼葉は城下で最も賑わいのある大通りまでやってきた。
 普段の買い物は近場で済ませるため、ここに来るのは久し振りだ。
 通りには、饅頭屋、蕎麦屋、居酒屋、万屋(よろずや)、宿屋など多くの店が並び、露店もある。同じ城下でも蒼葉の家がある辺りとは大違いだ。
 とはいえ、昨年が不作だったせいか、ずいぶんと活気がない。以前、先生と来た時には肩をぶつけないよう縮こまって歩かなければならないほど多くの人が行き交っていたというのに、今はその心配もなく大手を振って歩ける。
 店の人たちの表情にも、どこか翳りがあった。
 やはり皆苦しいのだ。
 こんな時こそ民を助けるのが為政者の務めだというのに、この藩は全く逆のことをやっている。
 その元凶こそが、昨日門下生の皆が噂した人物――
 藩の筆頭家老である豪堂重座衛門(ごうどうじゅうざえもん)だ。
 豪堂は昨年の不作にも拘わらず年貢の軽減を行わなかった。そのせいで非常時の蓄えまで持っていかれた農民が喘いでいるというのに、己は毎晩のように酒池肉林の宴を催す贅沢三昧。
 藩主がまだ若いのをいいことに、金と権力を使ってやりたい放題の悪徳家老なのだ。
 さらには、よりにもよってこの時期に、豪堂は新しい屋敷を建てる計画を始めた。それも自費ではなく藩費で。
 いったいどんな理由を付けて藩費を割いたのかはわからないが、藩の重役たちにも豪堂の暴走は止められなかった。豪堂に反対した者が後日、変死体となって発見される事件が過去に幾度かあったからだ。裏で博徒・侠客の集団とつながっており、彼らに暗殺を依頼しているという噂もある。
 当然、狡猾な豪堂が証拠を残すはずもなく、もう十年以上も堂々と筆頭家老の座に居座っている。
 これほどの悪は日本中探してもそうそういまい。悪斬り偽善が豪堂に目を付け、この地にやってきたという話は充分あり得る。
 そして、山賊を斬ったのが昨日のことならば、今頃は下調べのためにこの辺りにいてもおかしくはない。
 蒼葉は目に入る人という人を確かめながら大通りを歩いた。
 たとえ変装していたとしても、六尺もある背丈まではごまかせない。
 もし偽善がいれば必ずわかるはずだ。


 小半刻(約三十分)ほど大通りとその周辺を探して回ったが、偽善らしき人影は見当たらなかった。
 あまり長いこと同じ場所をうろついては怪しまれるので、蒼葉は次の場所へ移動する。
 豪堂の新屋敷の建設予定地だ。
 場所は城のお膝元、上級武士の屋敷が並ぶ区画のどこかにある。
 高い塀に囲まれたお屋敷の群れが重苦しい空気を放っている。偽善のことがなかったら絶対に来ない場所だ。
 蒼葉は逃げ出したくなる気持ちを抑えつつ、予定地を探し当てた。
 そこは、まだ建設はおろか資材の搬入すら始まっていない、まっさらな土地だった。
 それにしても広い。一町(三〇〇〇坪)はあるのではなかろうか。
 ここに屋敷を建てることで、どれだけの人々が貧しい思いをすることになるのか。想像するだけで腹が立つ。同じ人間、それも義を重んじる武士のすることとは思えない。
 倉井先生の言うとおり、泰平の世が長く続いたせいで、もはや武士道は廃れてしまったのだろうか……。
 考えながら、予定地の周囲を見て歩く。
 この辺りは人通りが少なく、立ち止まる人間もいない。偽善らしき姿もなかった。
 こんなところに長居をして上級武士に目を付けられては困るので、少し見ただけでその場を離れた。
(さて、これからどうしようか)
 他に偽善が現れそうなところといえば、豪堂が今住んでいる屋敷の周辺だが、さすがにそこに近付くのは気が引ける。
 それに、もうじき日が暮れる。
(今日はここまでか……)
 日が落ちてからの方が、偽善が現れる可能性は高いだろう。
 その分、危ない目に遭う可能性も高いが。
 それでも探すか。あるいは――
(先生に相談するべきなのかな……。でも、絶対に止められるだろうな)
 今日を逃せば、もう偽善に会う機会は訪れないかもしれない。
 そうなる前に、できることはすべてやっておきたい。
 蒼葉は再び大通りを目指して歩き出した。
 宿屋を一件一件回って、偽善が泊まっていないか確かめるのだ。
 それで見つかればよし。見つからなくとも、暗くなってから改めて豪堂の屋敷の近辺を調べに来れば、偽善がいるかもしれない。
 たとえ危険であろうとも。


 半刻(約一時間)ほどかけて聞いて回ったが、大通りとその周辺の宿屋に偽善らしき人物は泊まっていなかった。
 すでに日は沈み、街は闇に包まれている。大通りを離れれば頼るべき光は月灯りしかない。
 提灯を買うべきか迷ったがやめておいた。豪堂邸周辺を探っている間、人に見つかっては面倒だ。月灯りと、人家からわずかに漏れる灯火があれば何とか動ける。
 蒼葉は意を決し、再び豪堂邸のある屋敷町へと向かう。
 人がきた時には物陰に潜んでやり過ごし、また歩を進める。
 途中、蒼葉は剣術道場を見つけ、少しだけ安心した。
 他流派とはいえ、同じ剣術家のよしみで、いざという時に助けてもらえるかもしれないからだ。
 と思いきや、そこは一刃流道場だった。先生が移籍の件を断り続けていることもあり、ここを頼りにはできない。
 道場の中から男たちの騒ぎ声が聞こえてくる。稽古の声ではない。
 酒でも飲んでいるのだろう。
 見つかれば、どんな難癖を付けられるかわかったものではない。
 蒼葉は急ぎ足で道場の前を通り過ぎた。
 その次の角を曲がろうとした時――
「おっと!」
 人とぶつかりそうになった。
「も、申し訳ございません」
 蒼葉は真っ先に頭を下げる。
 相手は提灯を持った二本差しの男だった。
 背は高いが、それは五尺(約一五○センチメートル)にも満たない蒼葉から見てであって、六尺の偽善には遠く及ばない。
 一瞬もしやと思ったが全くの別人だった。
 男の後ろに二本差しがもう一人。そちらは大きな徳利を持っている。
 いかにも上級武士らしい立派な風体からして、二人は一刃流の道場生であろう。
 これから道場に行って仲間と一緒に酒を飲むに違いない。
「小僧、ここで何をしておる?」
 提灯を持った方が尋ねてきた。
「わ、私は……その、道に迷ってしまいまして……」
 まさか悪斬り偽善を探しているなどとは言えないので、とっさにそう答える。
 すると、提灯の男はニタリと薄気味の悪い笑みを浮かべた。
「それはいかんな。どれ、ここは拙者が家まで送ってしんぜよう」
 蒼葉の背筋にゾクリと悪寒が走る。
 親切で言っているのではないことが瞬時にわかった。
「い、いえ、一人で何とかなりますので。お気持ちだけありがたく頂戴します」
 早口で言い、すぐに退散しようとしたが、
「待て待て」
 提灯の男に腕をつかまれ動けなくなってしまった。
「そうはいくまい。お主のような年端もいかぬ者を闇夜で放っておいたとあっては、武士の名が廃る」
 提灯の男は、徳利の男に顔を向ける。
「お主は先に戻っておれ。この者は拙者が責任を持って送り届ける」
「はっ」
 立場が下の者なのか、徳利の男は素直に返事をして道場の方に歩いていった。
「では参るぞ」
 蒼葉は腕をつかまれたまま、男の斜め後ろを歩き出す。
 どうやら、自分が雲月流の門弟だということには気付いていないようだが、下手に逆らえば何をされるか……。
 運良く知り合いかお役人が通りかかってくれるかもしれないし、本当に家まで送り届けくれる可能性もわずかながらあるので、ひとまずは黙って付いていく。
 だが、そう都合良くいくものではない。
 しばらく歩いたところで男は急に足を止め、提灯を蒼葉の顔に向けてきた。
 そして、まじまじと顔を見つめてくる。
「それにしても小僧、ずいぶんと綺麗な顔をしておるな」
「え? そ、そうでございますか?」
 蒼葉は男から目を逸らす。不穏な空気になってきた。
「そうだとも。身体もずいぶん華奢であるし。お主、本当に男か?」
「あ、え……私は……」
「これは確かめねばならんな」
 男は蒼葉の腕を引っ張り、塀に押し付けてきた。
 恐ろしい力だ。とても逆らえない。
 蒼葉の強さは剣術に特化しており、柔術の心得はほとんどなかった。
 こんな近間では腰の脇差を抜くこともできず、対抗する術がない。
「おとなしくしておれよ」
 男の手が蒼葉の下半身に延びる。
「お、おやめください……」
 震える唇から精一杯の声を出すも、男は聞き入れない。
 その時だった。
「やめな」
 男の首筋に鈍色の刃が突き付けられていた。
「な……!」
 男は大きく目を開き、提灯を落とす。
「武士がくだらねえことしてんじゃねえよ。首斬られてえか?」
 男の背後から、人影が低く言った。
 地面に落ちた提灯の火が紙に移って燃え始める。
 男は首を動かすことができず、視線だけを下にやった。
「な、何奴だ? 拙者を一刃流の門弟と知っての――」
「んなこたどうでもいい。斬られてえかどうかって聞いてんだ」
 火が燃え広がっていく。男の視線が目まぐるしく泳ぐ。
「よ、よせ。拙者を斬れば道場の仲間が総出でお主を殺しにくるぞ」
「その前にお前は死ぬがな」
「正気か!?」
「正気だよ。だからよ、ここは互いに引くとしようじゃねえか。それが賢い大人ってもんだろ。ええ?」
「う、うむ。そうだな」
 人影が刃を引くと、男は提灯の火に目も呉れず一目散に逃げていった。
 途中、足がもつれそうになっていた。
「ったく、くだらねえ」
 人影は太刀を鞘に納め、火を踏み消す。
 月の逆光で顔はよく見えないが、かなり背が高く、髪が腰まで届くほどに長い。
 しかも、一刃流の剣客の背後をいとも容易く取った身のこなし。
「も、もしかして、あなたは――」
 蒼葉が言い切る前に、人影は走り出した。
「待って!」
 すぐに追いかけるも、人影はあっという間に闇に溶けてしまった。
 
 
 蒼葉は月灯りだけを頼りに、なんとか家まで戻った。
 幸い、先生はまだ帰っていなかった。
 街で夕食代わりに団子を食べたので、それほど腹は減っていない。
 風呂に入っている時間はないので手足だけを水で洗い、寝る支度をする。
 布団に入ったところで、ようやく一息付くことができた。
 そして、思い出す。
(間違いない、あれは悪斬り偽善だ。やっぱり、偽善は悪い人ではなかったんだ)
 恐ろしい目には遭ったが収穫はあった。
 しかし、そうなると、やはりあの疑問が浮かぶ。
 なぜ、偽善は父を斬ったのか。
 父が悪人だったとでもいうのか。
(そんなわけない!)
 それを証明するためにも、偽善とはきちんと話をしなければならない。
 蒼葉は、また明日も偽善を探しに行く決意をした。
 
              ***

 石(せき)には人を斬った経験がなかった。
 無論、斬りたいわけではない。これまでの人生で人を斬らずに済んできたことは幸運だと思っている。
 だが、実戦においてその経験の有無が大きな差となるのは明白だ。
 竹刀で叩く技と真剣で斬る技とでは、あまりにも術理がかけ離れている。
 真剣で据え物を斬る稽古なら積んできた。だが、動かぬ藁人形と動く人体を斬るのとでは、これまた術理がかけ離れている。
 さりとて、人を斬る稽古などできるはずもない。
 その昔、稽古と称して無関係の人間で試し斬りをする〝辻斬り〟なるものが横行した時期があったらしいが、そのような非道な行いは想像するだけで反吐が出る。
 山賊は偽善らしき人物が斬ってしまった。処刑場で罪人を斬らせてもらえないだろうかとも考えたが、密命であるが故に裏から手を回してもらうこともできない。
(いや……)
 そもそも、そのような考え自体が不謹慎だと気付いた。
(馬鹿げているな。人を斬るために人を斬ろうなどと)
 目的と手段を履き違えてはならない。自分は無法者や暗殺者とは違う。主君より選ばれし名誉の討手なのだ。
 上意討ちの決行にふさわしい場所と日時は密偵が探ってくれるので、報せがあるまでは稽古に専念できる。
 石は悩んだ末、かつての師・雲月蒼助と交流のあった由宮流(よしみやりゅう)道場を訪れることにした。
 由宮流は居合術を得意とする流派であり、真剣の扱いに関しては昨今の竹刀流派よりも断然優れている。
 また、当主である由宮師範は、過去に一度だけ物盗りを斬ったことがあると聞いた。
 当時の話を聞くだけでも行ってみる価値はある。
(今日は帰りが遅くなるな)
 蒼葉には心配をかけることになるが致し方ない。
 稜線に沈みかかった夕日に向かって、石は歩き出した。


「ずいぶんとたくましくなられたな。前に会ったのは蒼助殿の葬儀の折り……。もう六年は経つか」
「覚えていてくださり光栄です。突然の訪問のご無礼、お許しください」
「構わぬ。深い事情があるのだろう。むしろ、このわしを頼ってくれたこと、嬉しく思うぞ。民が貧窮に苦しんでいる折りに、何もできずにいた自分が情けなかったのでな」
 口惜しそうに言う由宮師範は、白髪混じりの四十代後半。
 身体はさほど大きくなく、穏和な顔をしているが、内に秘めたものは熱い武人だ。
 すでに日は落ち、周囲は薄暗い。
 だが、決行の日時が明日の夜になるかもしれない以上、どうしても急ぐ必要があった。
「話は道場で聞こう」
 由宮師範は、こちらの事情を半ば察している様子だった
 いつかこんな日が来ると予想していたのかもしれない。
 それでいて深くは追及せず、自分を道場へと導いてくれる。
「ありがとうございます」
 石は礼を言い、厚意に従った。
 由宮流は雲月流より一回り大きな流派だ。道場生は四十名ほどで、下級武士がその多くを占める。雲月流と同じく他流試合は滅多に行わないため、他流派との交流は薄い。ただし、師・雲月蒼助が由宮師範と友人関係であったため、一時期交流があった。石も蒼助に連れられて何度か出稽古に来たことがあった。
 道場の四隅にある燭台を少し中央に寄せ、火を灯すと、周囲がほんのり明るくなった。
 由宮師範が用意してくれた座布団の上に座り、石は話を切り出す。
「今日お伺いしたのは他でもございません。昔、由宮師範が物盗りを斬った時の話を聞かせていただきたいのです」
「よかろう。と言っても、あの時は無我夢中だったので、はっきりとは覚えておらぬがな」
「それでも構いません。ぜひ」
「ふむ……」
 由宮師範は少し思い出すように目を閉じた後、淡々と話を始める。
「あれはもう二十年近くも前のことか。食いつめた浪人が両替商から金を奪う事件があってな。ただの物盗りなら斬り捨てるほどの罪ではないのだが、そやつは逃げる途中でお役人を斬ってしまったのだ。わしがその場に居合わせたのは偶然だったが、放っておくわけにもいかぬ。逃げる浪人を追いかけ、ついに袋小路へと追い込んだ。逃げ場を失った浪人は遮二無二斬りかかってきた。それに対し、わしがどう動いたか。なぜか、そこのところを全く覚えておらぬのだ。気が付けば、浪人は血だまりの上に伏せておった。その場にはわししかおらなんだから、わしが斬ったのは間違いない。しかし、どう斬ったのかがさっぱり思い出せぬ。まるで夢のような出来事であった」
「……その浪人は、一太刀で?」
「そうだ。後の検分でわかったことだが、腰から肩にかけての斬り上げ、わずか一太刀であった。刀身に歯こぼれがなかったから、一度も刃をぶつけ合うことなく斬ったのだ。自慢するつもりはないが、我ながら見事という他なかった。いや、もしかしたらあの時、わしの身体に別の何かが乗り移っていたのかもしれぬ」
 奇妙な話に聞こえるが、そのような状況に石は心当たりがあった。
「おそらく、由宮師範はその瞬間、無念無想の境地に達せられたのだと思います。日頃の稽古の成果です」
 それは、そうであってほしいという願望でもあった。
 単なる偶然で片付けられてしまっては、ここに来た意味が――いや、剣術の稽古をしてきた意味がなくなる。
「……そうかもしれんな」
 由宮師範は小さく答えた。彼も同じことを思ったようだ。
「すまぬな、こんな話しかしてやれなくて」
「とんでもございません。大事なことが一つ、わかりました」
 無念無想の境地など、都合のよい解釈をしているのは自覚している。それでも、結局のところ自分が今までやってきたことを信じる他ないのだ。
 あまり余計なことを考えるべきではない。そもそも、戦いの最中にあれこれ考えていては、その間に斬られる。
 由宮師範は暖かく微笑んだ。
「そうか。では、その大事なことを忘れぬうちに稽古をしておこうか。わしでよければ心行くまで付き合うぞ?」
「よろしくお願いいたします」

四章 けじめ

 偽善は屋敷町で一旦逃げた後、あの若党をこっそり尾行した。
 確かめたいことがあるからだ。
 おそらく、あの若党は〝悪斬り偽善〟を探していた。
 そして、その途中、運悪く一刃流の者に襲われそうになった。
 勘ではあるが、そう思い当たる節があった。
 諦めた様子の若党がトボトボと帰る後を付いていき、家に入るまでを見届ける。
 それから、表にある道場の看板に目を向けた。『雲月流剣術道場』とある。
(やはりな)
 提灯の火に照らされた若党の顔を見てもしやと思ったが、これで確信した。
(間違いない、あの時の子供だ。あいつは雲月蒼助の……)
 悪斬り偽善が山賊を斬った話を聞いて探しにきたのだろう。
 父の仇を討つために。
(これも因果応報か)
 六年前、初めて人を斬った時のことを思い出す。
 そして、初めて斬られた時のことも。
 不意に古傷が疼く。
 偽善は己の顎を撫でた。
 仇として狙われるのは初めてではない。
 当然、小豊に戻れば雲月の関係者が現れる可能性も予想していた。
(にしても無茶し過ぎだろ)
 悪斬り偽善が百人以上も斬った男だということは知っているはずだ。それを助太刀もなしに子供一人で探しにくるなど。
(この分だと、明日も来るかもしれねえな)
 不作の影響もあって今の街は治安が悪い。
 夜に一人でうろつけば、またさっきの二本差しのような不埒者の餌食になりかねない。
(面倒なことになったもんだ。かといって放っておくわけにもいかねえし)
 豪堂を斬るだけであれば、それほど難しくないが、あの若党の仇討ちを回避しつつ、なおかつ守りつつとなるとかなり厄介だ。
(それでも、やるしかねえか)
 己が蒔いた種だ。
 理由はどうあれ、自分はあの者の父親を斬った。
 この顎の一太刀だけで許されるとは思っていない。
(けじめは付けねえとな。俺なりのやり方にはなるが)


 翌日。
 偽善は明け方から昼にかけて眠り、昼からは山小屋の近くにある原っぱで稽古を行う。
 当然ながら稽古相手はいない。十三の時に故郷を飛び出して以来、それまで習った基礎だけを頼りに、ずっと一人でやってきた。
 手始めに大刀と脇差による素振りを、それぞれ気の済むまで行う。数は数えない。その日の体調と気分によって、数回で終わることもあれば、数百回に及ぶこともある。今日は調子が良いので多めに振った。
 その後は、ひたすら仮想の敵と戦う稽古だ。
 偽善は、太刀を斜に担ぐような八相(はっそう)で構える。
 目を閉じ、今から戦う相手を思い浮かべる。
 背丈は五尺九寸(約一七七センチメートル)ほど。かつて戦った者の中でも、二番目に大きな男だ。されど、その剣技は決して力頼みではなく、なかなかの強敵だった。
 目を開けると、その男の姿がぼんやりと浮かんだ。
 男は正眼の構え。地に足の着いた、真剣の重みを知っている者の構えだ。
 間違いなく何人かは斬っている。
 だが、その構えにはわずかな迷いが見えた。
 おそらく、大人になってから自分より背の高い者と戦ったことがないのだろう。
 見ただけで察することができたのは、偽善もそうだったからだ。
 かつて戦った者の中で一番大きな者は、六尺の自分よりなお三寸(約九センチメートル)上の大男だった。運良く、その男は大した技量ではなかったので勝つことができたが、さしもの偽善も初手は戸惑った。
 どれほどの実力者も慣れない相手には迷うものだ。
 その迷いが勝敗を分けた。
 偽善は過去に戦った時よりも速く鋭く、男を袈裟懸けに切り裂いた。
 男の幻影が消える。
 それから、もう一度目を閉じ、同じ男の姿を思い浮かべた。
 ただし、今度の男には迷いがない。
 自分との戦いを経て、成長したところを想像したのだ。
 真剣勝負に二度目はない。が、もしあるとすれば男は格段に強くなっている。
 ここからが真の稽古だ。
 迷いを吹っ切った男は、先ほどよりも速く深く踏み込んでくる。
 白刃が衣服を掠める。
 だが、偽善に恐れはない。
 戦いは常に捨て身、死は覚悟の上だ。ただ斬られる前に斬るのみ。
 激流のような連撃の隙間を縫い、偽善は男の喉を突き通した。
 幻影が消えた。
 そうして過去に戦った強者を幾度も仮想し、稽古を積んでいく。
 仕上げはこの人。
 偽善にとって緒戦の相手であり、今なお過去最強の剣客である雲月蒼助だ。
 偽善は六年前のあの勝負で自分が勝ったとは思っていない。あの時、自分は雲月の気に呑まれていた。本来であれば、その時点で自分は負けていたはずだった。だが、雲月は剣を振り下ろそうとした瞬間、微かに躊躇した。
 結果、勝負はわずか一合で終わった。
 傍目から見れば、自分が圧勝したように映ったであろう。
 だが、雲月の本当の実力はあんなものではない。
 記憶に残る雲月の構え、目付け、呼吸などから本来の力を解放した雲月を想像し、幻影を作り上げた。
 偽善は再び八相に構える。
 雲月は正眼の構えだ。
 優れた剣客の構えには隙がない。しかし、雲月の構えは隙があるような、ないような、不思議な構えだった。
 ――今打てば当たる。
 確信して動くと、次の瞬間、雲をつかむように雲月の姿が消えてなくなる。
 そして斬られる。
 はじめはその繰り返しだった。
 今なら、あれが雲月の誘いであることがわかる。下手に動いては相手の思う壺だ。
 誘いを破る方法は三つある。
 一つ目は、誘いには誘いをぶつけることだ。
 だが、この方法では囲碁のように少しずつ相手を崩していく勝負となり、決着が付くまでに時間がかかる。複数の敵と戦うことが多い偽善にその選択はない。
 二つ目は、無心で戦うことだ。
 無心になることによって、虚実の殺気に惑わされることなく、本当の殺気のみを察知する。
 だが、それでは周りが一切見えなくなる。また、敵味方の区別もつかない。
 ひとたび無心になってしまえば、殺したくない人間を殺してしまう恐れがあるのだ。
 よって、偽善は三つ目を選んだ。
 この方法は至極単純。相手が反応できないほどの速さで動くのだ。
 雲月が徐々に間合いを詰めてくる。
 偽善も徐々に間合いを詰める。
 そして、一足一刀の間合いに入ったその時――偽善は前足の膝の力を抜くと同時に、後ろ足で地を蹴った。
 この独特の足捌きに、雲月の反応がわずかに遅れる。
 その隙に、八相の構えからそのまま斬撃を繰り出す。
 予備動作のない無拍子の一撃。
 偽善が考え得る限り、最速最短の剣。
 雲月の幻影が消えた。
 けれど、やはり勝った気にはなれない。
 いかな想像力を以てしても、故人を完全には再現できない。本物の雲月であれば、今の斬撃にも反応できたかもしれない。
 もしそうであれば、偽善は一転して不利な状況に陥る。十三で道場をやめた自分に高度な駆け引きはできない。圧倒的な速さを以て一撃で決めるしかないのだ。
 

 夕方になると、偽善は山を下りて城下町へと向かう。
 昨晩に引き続き、標的である豪堂のことを調べるためだ。
 それから、昨晩の若党のことも何とかしなくてはならない。
(あいつ、どうせまた来るだろうし、どうすっかな)
 顔を出すべきか、出さぬべきか。
 会って話くらいは聞いてやりたいところだが、お尋ね者の自分が下手に関われば危険な目に遭わせてしまうかもしれない。さりとて放っておくのはもっと危険。
 偽善にとっても。あの若党にとっても。
(仕方ねえ。先にあいつを何とかするか) 
 偽善は豪堂を探る前に、あの若党に会うことにした。

              ***

「では、行ってくる」
 今日も昼から所用ということで、倉井先生は藩主の遣いの下へと出掛ける。
「どうかお気を付けて、いってらっしゃいませ」
 蒼葉はお辞儀をして、先生を見送った。
 その後、仲間たちと稽古をし、家事を手早く済ませ、夕方になると再び偽善を探しに出掛ける。 
 幸い、先生は今日も帰りが遅くなるそうなので、じっくりと探せる。
(今日こそは偽善に会って、父上のことを聞くんだ)
 恐怖は吹き飛んでいた。
 また不審者が絡んできた時は話など聞かず一目散に逃げればいいと思った。
 まずは城下の大通りに行き、偽善らしき人物が歩いていないか探しつつ、暗くなるのを待つ。
 途中、夕食代わりに団子を食べる。
 ここまでの蒼葉の行動は昨日と同じだが、街の様子が昨日とは違っていた。
 妙に人が少ない。不作のせいで元々活気がなかったというのに、今日はさらにだ。
 気になった蒼葉は、団子屋の姉さんに聞いてみる。
「今日は、やけに寂しいですね。何かあったんですか?」
「ああ、あれだね。一昨日、山賊を斬った悪斬りなんとかってのが、この辺をうろついてるらしくてね。まあ、聞いた話じゃ悪い男ではなさそうなんだけど、とばっちりはごめんだからね。それでみんな、今日は早めに帰って戸締まりしようってことさ」
「そうですか……」
 山賊を斬れば噂が広まって豪堂に警戒されるかもしれないのに、それでも偽善は困っている人たちを放っておかなかった。やはり、偽善は悪い人ではない。
 団子屋の姉さんが顔をしかめる。
「他人事じゃないよ。あんたも暗くなる前に帰った方がいい」
「そ、そうですね。ご馳走さまでした」
 蒼葉は勘定を払い、団子屋をあとにした。
 

 それから、もう少しだけ暗くなるのを待った後、蒼葉は屋敷町へと向かった。
 目的地は偽善が現れる可能性が最も高い豪堂邸の周辺だ。
 昨晩と同じ轍を踏まぬよう、角を曲がる時は向こうから人が来ないことをしっかり確かめてから曲がる。もちろん、一刃流道場には近かない。
 用心したおかげで、誰にも見つかることなく豪堂邸の近くまで来ることができた。
 さすがに自分が悪であることを自覚しているのか、邸の見張りは厳重だった。
 正門に門番が四人、裏門にも二人。さらに、二人の男が屋敷の周囲を巡回している。
 当然、屋敷の中にも用心棒がいるはず。
(本当に、こんなところに一人で攻め込むの……?)
 いったいどれほどの腕前を以てすれば、この中にいる豪堂を仕留められるのか、蒼葉には見当もつかなかった。
 もしどうしてもやるなら昼間、豪堂が外出したところを狙うしかない。それも、遠方から鉄砲か弓矢を使ってだ。
 しかし、蒼葉が聞く限り、悪斬り偽善がそのような手段を使った例(ためし)はない。すべての暗殺が刀によるものであり、飛び道具を使った痕跡は一つもなかったという。しかも手違いのないよう、暗殺を行う前に必ず相手を確かめるのだ。
 昨今、一刃流のようにあの手この手を使って名を上げようとする剣客が蔓延る中、これほど潔い武士はいない。
(それなのに、どうして父上を……)
 いくら考えてもわかりはしない。あの時いったい何があったのか。
 母も、倉井先生を含む雲月流の道場生たちも、誰一人として知らなかった。
 父亡き今、事情を知っているのは当事者である偽善だけだ。
 だから、なんとしても会いたい。
 日が落ちてだいぶ時間が経ったせいか寒くなってきた。
 吐く息が白い。
 手が冷たい。
 暗くて心細い。
(このままじゃ風邪引くな。やっぱり、先生に相談した方が――)
 不意に思考が途切れた。
 背後から大きな手が現れ、蒼葉の口を塞いだからだ。
(見つかった!?)
 豪堂の配下か。それとも昨晩の不埒者か。
 恐怖で息が止まりそうになる。いざという時は逃げることしか考えていなかったため、とっさに身体が動かない。
「あー、何もしないから、とりあえず落ち着け」
 背後、というよりほとんど頭上から聞こえた声は、まるで緊張感のないものだった。
 そのおかげか、すぐに硬直が解ける。息ができる。
「落ち着いたか? じゃあ、手を離すから、大声出さないでくれよ」
 声に対し、蒼葉は無言でコクコクと頷いた。
 ゆっくりと手が離れる。
 大きな手だ。それに声の位置からして、かなり背が高い。
(ま、まさか……)
 心臓が跳ねる。
 振り向くと、そこにいたのは噂どおりの姿をした男だった。
 背丈は六尺を越えようかという長身で、腰まで届くほどの長い髪を一本に束ねた風変わりな若侍。そして、顎についた一文字の刀傷。
「あ、悪斬り――」
 また口を塞がれた。今度は正面から。
「大声出すなつったろ。見つかったらどうすんだ?」
 そうは言われても、こんな事態に瞬時に対応できるほど蒼葉の肝は据わっていない。
 わけがわからず、蒼葉は男の手首をつかんだ。
 とにかく逃がさないよう、両手で力いっぱい。
「いてて……。そんなに強く握らなくても俺は逃げねえって。まずはこの場を離れよう。な?」
 男が優しく微笑みかけてくる。
 それは到底、殺戮者が浮かべる表情ではなかった。
「……うん」
 蒼葉は両手の力を抜いた。
 
 
 しばらくの間、蒼葉は無言で男に付いていった。
 わざわざ向こうから会いに来た以上、逃げられることはない。言いたいこと、聞きたいことは山ほどあるが、ひとまずは落ち着いて話ができるところまで移動する方が先だ。
 屋敷町を離れ、大通りとは反対の、川のある方角へと向かう。
 川の辺りなら民家も商店もなく、大声でなければ会話ができる。六年ぶりとはいえ、この土地の出身だけに道をよく知っているようだ。
「さて、そろそろいいかな」
 男が足を止め、こちらを向いた。
「もう気付いてるとは思うが、俺が悪斬り偽善だ。お前とは六年ぶりになるのかな」
 蒼葉は小さく頷く。
「私のこと、覚えてたんだ……」
「まあな。でも名前は知らねえんだ。教えてくれるか?」
「雲月蒼葉」
「一応確かめておくが、お前は雲月蒼助の娘ってことでいいんだよな?」
「そう」
「娘なんだな?」
「だから、そう」
「なんで男の格好してんだ?」
「それは……」
 蒼葉は後ろめたそうに視線を落とした。
「女は、道場で正式に剣術を学ぶことができないから……」
 本当の理由ではなかった。
 倉井先生はもちろん、幼なじみである雲月流の道場生は皆、蒼葉が女だということを知っている。近所の人たちも知っている。
 これは、けじめのようなものだ。
 剣術に打ち込むための。
 父のような強い人間になるための。
 そして――
「父親を斬った理由如何によっては、俺を自分の手で斬るつもりだったのか?」
「……うん」
 見透かされていた。
 でも、それが無理であろうことは薄々勘付いていた。
 同年代の男子には負けない蒼葉だが、大人の男が相手ではそうはいかない。
 毎日のように倉井先生と直に立ち会っているのだからわかる。
 技術以前に、力が違う。気迫が違う。
 生まれながらにして戦うための肉体を与えられている存在。それが男。
 まして悪斬り偽善は、そんな男たちの頂点とも言えるところにいるのだ。
 女の身では、どれほど努力したところで、強くはなれても一流には届かない。
 蒼葉もそれがわかる歳にはなっていた。
 それでも、両親を失い何もできずにいる人間にはなりたくなかった。だから今も剣術に打ち込んでいる。父が最期に言った「強くなりなさい」という言葉の意味を探している。
 蒼葉は顔を上げ、最も大事なことを聞く。
「教えて。どうして父上を斬ったの? 悪斬り偽善は悪人しか斬らないって聞いた。父上が悪人だったとでも言うの?」
「斬ったのは勝負の結果だ。親父さんが悪人だったわけじゃねえよ」
「じゃあどうして、真剣勝負なんてしたの?」
「頼まれたからだ」
「誰に?」
「お前の親父さんにさ」
「え……?」
 わけがわからず、蒼葉は固まった。
 一道場主である父が、当時まだ少年だった偽善に真剣勝負を挑むなど普通ありえない。
「悪いが、俺に言えるのはそこまでだ」
 ここからが肝心というところで、偽善は唐突に話を打ち切ってきた。
「ど、どうして?」
 当然の如く、蒼葉は困惑する。
「知らぬが仏って言うだろ。お前はこれ以上知らない方がいい。お前の父親は決して悪人じゃあなかった。むしろ、武士の鑑だった。それで納得してくれ」
「できるわけないでしょう!」
「じゃあ、命とまではいかねえが、俺の腕を一本くれてやる。それで許してくれ」
「いらない! そんなことより、わけを教えて!」
「ダメだ」
 偽善は頑なに言った。
 それから、表情を和らげる。
「さっ、子供は帰って寝る時間だ。家まで送ってやるから、行くぞ」
 なぜ知っているのか、偽善は蒼葉の家の方角を向いて歩き出した。
「待って!」
 すぐに追いかけて、腕にしがみつく。
「おいおい、そんなにくっついたら歩きにくいだろうが」
「わけを教えてくれるまで、この手は放さない!」
「聞いても苦しむだけだぞ」
「それでも、わけがわからないまま生きていくよりはいい!」
「やれやれ……」
 偽善は足を止めた。
「わかったよ。そこまで言うなら仕方ねえ。ただし、話すのは豪堂を斬った後だ。それまで待て」
「どうして今じゃダメなの?」
「お前のためだ。待てねえって言うんなら、もう何も話さねえ。どうする?」
「そんな……」
 何か深い事情があるのはわかる。でも、偽善が無事帰ってこられる保証はない。
 今聞いておかなければ、永遠に聞けなくなるかもしれない。
「もしかして、俺がやられるとでも思ってんのか? 豪堂ごときに」
「豪堂本人はともかく、あそこには配下がたくさんいるから……」
「その配下の中に雲月蒼助より強い奴はいるのか?」
「ううん。いない」
 それだけは断言できた。
 父より強い剣客がいるとすれば、それは倉井先生だけだ。
 名門・一刃流の塾頭を軽々と破った先生を越える剣客など、この藩にはいない。
「じゃ、問題ねえ。俺を信じろ」
 敵は複数いるのだからまるで筋が通っていないが、その言葉はとても心強かった。
 蒼葉は偽善の腕から手を離す。
「わかった。その代わり、私は家に帰らない。豪堂を斬るまで、あなたに付いていく」
「はぁ?」
「もしダメって言ったら、あなたのこと国中どこまででも探しにいくからね」
 偽善はしばらく呆気に取られたような顔をした後、苦笑した。
「頑固な奴だな。そういうとこ、親父さんにそっくりだ」


 蒼葉と偽善は城下を離れ、街道を歩き、山の麓まで来た。
 ここの中腹に隠れ家があるらしい。
 例の山賊が出た山だが、今はもういないから安心だ。
 と思いきや。
(暗い……)
 月灯りは木々に遮られ、山道は深い闇に包まれている。
 先が全く見えない。
「どうやって進むの?」
「ちょっと待ってな」
 偽善は岩の陰から提灯と火打ち石を持ってきた。
「ちゃんと用意はしてある。けど灯りは一つしかないから、はぐれたらおしまいだ。しっかり付いてこいよ」
 蒼葉は提灯の光だけを頼りに、偽善の背中に付いていく。
 この山道は何度か通ったことがあるが、こんな夜に通るのは初めてだ。
 偽善が照らす足元と、木々の隙間から覗く夜空の他は何も見えない。
 灯りから少しでも目を逸らすと、たちまち飲み込まれてしまいそうな巨大な闇。
 視界が狭いせいか、普段より音が大きく聞こえる。
 小枝を踏む音や葉擦れの音がやけに耳障りだ。
 とはいえ、ここは緩やかな山道が続くので付いていけないほどではない。
 小半刻(約三十分)ほどで中腹に差し掛かる。
「こっちだ」
 偽善は唐突に山道を逸れ、獣道のようなところを登り出した。
「ま、待って」
 蒼葉は躊躇する。
 人が行き交う山道とは違う、動物が草を踏み分けただけの細い道だ。
 こんなあってないような道には昼間ですら入ったことがない。
「安心しな、目的地はそう遠くねえ。少し登れば着く」
 少しというのがどのくらいかはわからないが、まさか今さら戻るわけにもいかない。
 蒼葉は意を決し、前に足を動かした。
 偽善は草をかき分け、蜘蛛の巣を払いながら、ゆっくりと獣道を進んでいく。
 山道より斜面が急で足元も見えにくいが、この速度なら何とか付いていける。
 不意に熊や猪が現れないことを祈った。
 しばらくして、少し視界の開けた場所に着く。
 そこに小屋があった。大きくはないが、それなりにしっかりした造りの山小屋だ。
 偽善は中に入ると、大小の刀を帯から外し、座敷に腰を降ろして草鞋(わらじ)を解きはじめた。
「ん、入らねえのか?」
 蒼葉は中に入るのを躊躇った。
 ここまで付いてきたものの、こんなに暗くて狭い小屋の中で二人きりというのは気が引ける。
 それに、ちゃんと掃除してあるのかどうか。
「そこでじっとしてても仕方ねえだろ? それとも、やっぱり帰るか?」
 偽善は草鞋を脱いで座敷に上がる。
 それから、提灯の火を囲炉裏に移す。
 しばらくすると火が大きくなり、部屋の中がほんのり明るくなった。
 よく見ると、思ったより中は綺麗だった。
「ここがあなたの家なの?」
「ああ、山賊が使っていたのを頂戴した」
「けっこう綺麗好きなんだ?」
「まあな。遠慮せずに上がれよ」
 遠慮していたわけではないが、寒いから早く火に当たりたいという気持ちが勝り、蒼葉は座敷に上がった。
 囲炉裏で冷えた手を暖める。
 それから、偽善が暖かいお茶を淹れてくれた。おかげで身体が芯から暖まる。
「そういやお前、年はいくつだ?」
「十三。あなたは?」
「俺は十九だ」
 ということは、六年前のあの時は今の自分と同じ十三。
 その歳で父に勝つほどの腕前なら、今はどれほど強くなっていることか。
「父上とはどんな関係だったの?」
「どんなって言われてもなぁ」
「知り合ってから長かったの?」
「いや、一度会ったきりだ」
「それがどうして真剣勝負することになったのかは教えてくれないんだよね?」
「ああ」
 偽善に悪気はない。それどころか、蒼葉を気遣うが故に黙っているのだ。
 これ以上、無理には聞けない。
「さてと……」
 偽善は立ち上がると、土間に足を下ろして、また草鞋の紐を結びはじめた。
「どこへ行くの?」
「ちょっと出掛けてくる」
「え、こんな夜に?」
「朝には戻る。お前はここで寝てな」
 偽善は大小を差し、戸に手をかけた。
「待って」
 蒼葉は座敷から身を乗り出して呼び止める。
「もしかして、今から豪堂を斬りに行くつもり?」
「いいや、今日はまだやらねえよ。誰かさんのおかげで下調べができなかったからな」
 その皮肉っぽい笑みに対し、蒼葉は頬を膨らませた。
「こんな暗いのに、灯りも持たずに山を下りられるわけないでしょう」
「おっと、いけねえ」
 偽善は引き返すと、さっき棚に置いたばかりの提灯を手にとって、こちらに差し出してきた。
「火つけてもらえるか?」?
 蒼葉は無言で受け取って、囲炉裏の火を提灯に移す。
「はい」
「ありがとよ。あ、それと」
 偽善が右手にある棚を差す。
「腹減ったろ? ここに餅が入ってるから、焼くなり煮るなりして食っとくといい」
 それだけ言って、小屋を出ていった。


 蒼葉は餅を一切れ焼いて食べると、特にすることもないので寝ることにした。
 夜は冷える。布団なしでは寝られない。
 小屋には、ちょうど布団が一組あった。偽善が使っている布団に違いない。
(これ、使っていいよね)
 少し迷った後、蒼葉は布団を敷いた。まだ新しく清潔な布団だ。そのままの格好では布団が汚れるので、小袖と袴を脱ぎ、襦袢(じゅばん)(下着)だけの状態になった。
 布団に入ると、偽善と会ってからここまでの出来事が頭に浮かんできた。
 思えば、偽善は出会った時からずっと気を遣ってくれていた。緊張で固まった自分を落ち着かせてくれた。歩いている時も、ずっと自分の歩調に合わせてくれていた。食べ物もくれた。
 こうして布団で寝ていられるのも、偽善が気を遣ってくれたおかげだ。
 父のことも、都合が悪くて黙っているのではない。きっと、それだけの理由があるのだ。
 複雑な気持ちだった。
 仮にも父の仇である男が、こんなに優しい人だったなんて……。
 不器用で、ぶっきらぼうだけど、根は優しい。
(そういうところは先生と似てるな。……そういえば無断で外泊なんかして、先生、心配してるだろうな。帰ったら叱られるだろうな)
 いろいろ考えているうちに、だんだん眠たくなってくる。
(もうじき、わかる……。どうして、あんなことに、なったのか。父上……)
 やがて、意識は途切れた。

              ***

 昨日の会合にて、石は若き藩主・樒原孝水(しきみがはらたかみず)より上意討ちを命ぜられた。
「よいか。その者の名は――豪堂重座衛門(ごうどうじゅうざえもん)だ」
 これには、さすがの石も驚いた。
「ご家老様を……!」
「もう〝様〟など付けなくともよい。豪堂は民の困窮も省みず私腹を肥やす悪党だ。藩主として、これ以上捨て置くわけにはいかぬ」
 豪堂の悪行には無論、石も憤慨している。しかし、その強大な権力と財力の前に、石はもちろん、藩の重役たちも手出しできない状態が長年続いていた。
 それを打ち崩すのは容易ではない。
 当然、下手を打てば石は死、藩主とてただでは済むまい。
「不服か?」
「いいえ。よくぞご決断なさいました」
 藩主の問いに、石は力強く答えた。
 不服などあるはずもない。あの悪党を自らの手で討てればと何度思ったことか。
 それを他でもない、藩主自らが後ろ楯となってくれるのだ。
「倉井石、この命に代えても豪堂を成敗いたします」
 石は深く頭を下げた。
「ふむ。しかし、豪堂の配下には剣達者が多い。そなたの腕を以てしても一人では無理であろう。さりとて大勢で攻めていっては気取られてしまう。そこでだ。ある者の力を利用する」
「ある者とは?」
「石よ。そなた、悪斬り偽善という者を知っておるな?」
「はい。噂で聞いたことがあります」
「ならば、その偽善がこの地に向かっておるという噂も知っておるな。いや、もう領内に入っておるかもしれぬ。どちらにせよ、奴の狙いは、まず間違いなく豪堂であろう。さすれば放っておいても近日中に始末してくれるかもしれぬわけだが、あの老獪な豪堂が相手では確実とは言えぬ」
 山賊を倒した件で偽善の噂は一気に広まった。当然、豪堂は自分が狙われる可能性を考え、相応の準備をしているだろう。いかに偽善といえども一筋縄ではいくまい。
 藩主は続ける。
「ここまで言えばもうわかるな。石よ、悪斬り偽善の動きに合わせて豪堂邸を襲撃するのだ。場合によっては偽善と共闘して豪堂を討て」
「はっ」
 石は深く頭を下げ、藩主からの命を承った。
 そのまま頭を下げた状態で言う。
「恐れながら、一つ申し上げたきことがございます」
「なんだ?」
 石は上体を半分ほど起こす。
「悪斬り偽善は、我が師・雲月蒼助の仇にございます」
「なに……」
 藩主が目を細める。
 悪斬り偽善の名は有名だが、六年前に藩を出奔した少年と同一人物であることは、石と蒼葉しか知らなかった。
「では、共闘はできぬと申すか?」
「いいえ。君命とあらば、この倉井石、私心を捨てて責務をまっとうする所存にございます。ですが、上意討ちを成し遂げた暁には……」
「なるほど、そういうことか。それは、そなた個人の問題である。豪堂を斬った後であれば、好きにいたせ」
「はっ」
 

 そして、今日。
 昼から夕方にかけて由宮流道場で稽古をつけてもらった後、暗くなった神社の隅で密偵から調査の報せを聞く。密偵は昨日と同じ商人の姿をしていた。
「昨晩、一刃流道場の付近で悪斬り偽善らしき背高の男を発見しました。おそらく、決行前の下調べに来たのではないかと思われますが、その際ちょっとしたイザコザがありまして……」
「一刃流の者とか?」
「はい。道場の付近になぜか灯りも持たぬ若党が一人うろついておりまして、一刃流の男がその者に狼藉を働こうとしたところ、偽善が止めに入りました。その後、偽善は走り去ったかと思いきや、若党が帰るところを尾行して家まで見送ったのです」
「どこの家だ?」
「それが……倉井殿のお宅でした」
「なに?」
 石は眉を寄せた。
(まさか蒼葉が……。いや、あり得る)
 偽善は蒼葉にとって父の仇なのだ。悪斬り偽善の噂を聞いて、一人で探しにいったとしてもおかしくはない。今にして思えば、今朝から妙にそわそわしていた。
(私としたことが……)
 失念していた。上意討ちのことばかり考え、蒼葉の様子に気が回っていなかった。
「それで、偽善はその後どうした?」
「不覚にも見失いました。どうやら私の二重尾行に気付いていたようでして。すぐに引き返して豪堂邸付近で明け方まで見張りましたが、再び現れることはありませんでした」
「ということは、下調べはできず終い。今晩の決行はまだない……か」
「おそらくは。もし強行するようでしたら、私が偽善を止めて共闘の話を持ち掛けましょう」
「頼む」
「では、明日の晩に決行、というつもりで準備なさってください。それまでに、もう一度報告に来ます」
「わかった」
 話が終わると、石は急いで家に戻った。
 案の定、蒼葉はいなかった。
 すでに日は沈み、空は暗くなっている。
(馬鹿なことを。なぜ私に相談しない? いや、相談すれば止められるとわかりきっていたからか。私が、もっと蒼葉の気持ちを考えていれば……)
 後悔している暇はない。
 石は急ぎ、蒼葉を探しに出た。


 昨晩、おそらく一瞬ではあろうが蒼葉は偽善に会った。となると、今日も同じ場所を探す可能性が高い。向かうは一刃流道場や豪堂邸がある屋敷町だ。
 石は提灯も持たず、現場に急行する。
 だが、屋敷町を一回りしても蒼葉の姿は見つからなかった。
 入れ違いになったか。あるいは捕縛されたか。
 諦めて家に戻った可能性は低いとみて、危険だが豪堂邸に近付き様子を伺うことにした。
 何か異変があったのなら、中から声が聞こえてくるかもしれない。
 石は見張りに気付かれぬよう慎重に進む。
 ほぼ真円の月が出ているため、灯りがなくとも周囲はよく見える。こちらから見えやすいのは好都合だが、向こうからも見えやすいのが難点だ。
 正門裏門の門番に加え、二名が屋敷の周囲を巡回しているため、容易には近付けない。
 どうにかして塀の中を伺えないだろうかと右往左往しているうちに、視界の端に妙な影を捉えた。
 豪堂邸の隣の屋敷の屋根に何かがいる。
(猫か? いや、大きい)
 影が動いた。
 猫ではないが、猫のような身軽さで屋根から路地へと降り立つ。
 そして、立ち上がった。
 遠目だが、かなりの長身であることがわかる。それに、あの武士らしからぬ長髪。
(奴か!)
 石は直感し、走り出す。
 影は逃げた。
 風体といい身のこなしといい、あのような真似をする者など他に考えられない。
 屋敷町を駆ける影を追う。速いが何とか付いていける。距離は付かず離れず。
 影は大通りを避け、入り組んだ小道に入った。
 速度は落ちない。袋小路にも入らない。どうやら、この辺りの地理に詳しいようだ。
 やがて、人気のない川沿いの道に出ると、影は不意に足を止めた。
「ふうー、俺の足に付いてくるとは大したもんだ」
 観念した様子ではない。むしろ誘い込まれた感じだ。
「お役人ってわけじゃなさそうだが、どちらさんだい? ――おっと、先に名乗るのが礼儀だな」
 今ここで斬り合いが始まるかもしれないというのに、ずいぶんと軽い口調だ。並みの胆力ではない。
「俺は悪斬り偽善だ」
 ――やはり。
「で、そっちは?」
 向こうが名乗ったというのに、こちらだけ名乗らないわけにはいかない。
 仇だろうとなんだろうと、武士の礼儀は絶対である。
「私は雲月流の倉井石だ」
「ほう、雲月流か。ちょうどいい」
「どういうことだ?」
「いや、お宅の蒼葉を預かってるもんだからさ」
「なに!」
 石は太刀に手をかけた。
「おいおい、慌てんなって。人質の意味じゃねえよ。保護したってことだ」
「保護? 貴様が?」
「まあ、勝手に付いてきたとも言えるが……。とにかく、蒼葉は無事だ」
「そうか」
 最も恐れていた事態を回避できたことに、ひとまずは安心した。
「だが、貴様が師の仇であることに変わりはない」
 石は太刀に手をかけたまま半歩前に出る。
 偽善は動かない。
「やるのか? やるなら逃げるつもりはないが、ちょいと待ってくんねえかな。その前に斬らなきゃならない悪がいるんだ」
 その言葉で石は思い出した。
(そうだ、今はまだ……)
 君命がある。上意討ちを果たすまでは、この男と戦ってはならない。
「わかった。今は退こう」
 石は太刀から手を離した。
「ありがとよ」
「礼を言われる筋合いはない。それより、いつ決行するつもりだ?」
「明日の晩だ」
「では私も行く」
「はぁ? 行くって、あんたも豪堂を斬りに行くのかよ?」
「そうだ。実は――」
 石は上意討ちのことと、場合によっては共闘を持ち掛けるよう藩主から命ぜられていることを話した。
「なるほどな。この俺を利用しようってことかい。なかなかの切れ者じゃないか、新しいお殿様は。だが気に入った」
「受けてくれるか?」
「ああ。そういうことなら俺が手下共の相手をするから、あんたが豪堂を斬ってくれ」
「いいのか? それでは……」
「いいんだよ。俺は手柄がほしいわけじゃねえ。悪が消えればそれでいいんだ」
「そうか……」
 不思議な男だ。師を殺した張本人だというのに、少しも憎悪が湧いてこない。今なら、蒼葉がこの男に付いていった気持ちがわかる気がする。
 だが、武士としてのけじめは付けなくてはならない。
「では明晩、二人で豪堂の屋敷に乗り込む。その後、改めて果し合いを受けてもらう。それでよいな?」
「構わねえ。だが、もう一つだけ、果し合いの前にやることがある」
「なんだ?」
「蒼葉に話してやらなきゃならないんだ。あいつの親父のことをよ」
 果し合いは真剣勝負だ。敗北は死。後回しにはできない。
「……いいだろう」
 石は静かに答えた。

五章 矜持

「これを持っていけ。策を練るのに役立つだろう」
 話がついた後、偽善は石から一枚の紙を受け取った。
 見ると、紙には豪堂邸の見取り図が書かれていた。
「へえ、こんなのよくわかったな」
「孝水様の配下の密偵が調べてくれた」
「じゃあ、昨晩つけてきたのも密偵だったのか。どおりで撒くのに苦労したわけだ。お殿様も、なかなか優秀な配下を持ってるじゃないか」
 偽善は見取り図をよく見る。
「にしても、でかい屋敷だよな。新しいのを建てる必要がどこにあるのか、さっぱりわからねえ」
「我々には理解できん贅沢な悩みがあるのだろう」
「たとえ民が苦しんでいても……か」
 偽善はため息をつき、夜空を見上げた。
(どうして、こうなっちまうんだろうな。そんなに独り占めしなくても、もっとみんなで分け合って楽しくやればいいのに……)
 悲しいが、そうは思わない人間もいるということだ。
 欲に取り憑かれ、慈悲の心を失った怪物が。
 そのような怪物に人の言葉が通じないことを偽善はよく知っていた。
 故に斬るしかないことも。
 石が言う。
「では、今日のところはこれで失礼させてもらう。くれぐれも蒼葉を危ない目に遭わせぬようにな」
「わかってるよ。それと、ついでに教えてほしいんだが、蒼助殿の墓はどこにある?」
「墓だと?」
「ああ。俺も一度くらいは行っておきたくてな」
 自分を仇とする人間に聞くのは図々しいかと思ったが、命懸けの決行が明日であるからには仕方がない。
 石は小さくため息をついた。
「……付いてこい。私も寄っていこうと思っていたところだ」
 

 偽善は石に連れられて墓地までやってきた。
 真夜中だというのに、そこには先客がいた。
 白髪混じりの小柄な侍が墓前で手を合わせている。
「由宮(よしみや)師範ではありませんか」
 石が呼び掛けると、男はこちらを見て立ち上がった。
「石殿か。隣にいるのは――善太(ぜんた)? 善太なのか?」
 男の目が大きく開かれる。
 無理もない。向こうにとって自分は生きているかどうかさえもわからない存在だったのだ。
「久しぶりだな、由宮先生。本名で呼ばれたのは六年ぶりだよ」
「おお……!」
 由宮先生は目に涙を浮かべながら偽善に駆け寄り、肩をつかんだ。
「生きて……生きておったのだな。それに、その顎の傷。お前が悪斬り偽善だったのか?」
「まあな」
 偽善は小さく答えた。
「知り合いだったのか?」
 石が横から聞いてきた。
「知り合いも何も、俺は十二になるまで由宮流道場に通ってたんだ。俺の先生だよ」
 石と出会ったのが宿命なら、由宮先生と出会ったのは運命だろうか。
 偽善には、今夜この二人と出会ったことが偶然とは思えなかった。
(これもあんたの導きかねぇ。蒼助さんよ)
 三人で蒼助の墓に手を合わせる。
 石にとっては師。由宮先生にとっては友。そして、偽善にとっては――
(なんだったんだろうな、俺とあんたの関係って。たった一度会っただけなのに、あんたとは何年も一緒だった気がするよ)
 それが思い込みに過ぎないことはわかっていた。偽善は自ら作り上げた蒼助の幻影と毎日のように稽古してきた。だからそう思うだけだ。
 石が由宮先生に聞く。
「しかし、師範はなぜこのような夜更けに墓参りを?」
「わしも気になって見にきたのだ。悪斬り偽善がどんな男かをな。結局、街では見つけられなかったが、このまま帰るのもどうかと思い、ふらりと寄っただけのことよ」
「そうでしたか……」
「まさか向こうからやってくるとは思わなんだがな。しかも、噂の悪斬り偽善がかつての弟子だったとは、生涯で一番驚いたわ」
 由宮先生はそう言いつつも、穏やかに微笑む。
「善太よ、お前は子供の頃からちっとも変わっておらぬな」
「はぁ? どこがだよ? 全然違うだろ」
「いいや、同じさ。お前は昔から何があっても信念を曲げない子だった。悪斬り偽善と名乗るようになってからも、人としての根っこの部分は変わらぬ。善太よ、お前がなぜ今のような生き方を選んだかは問わぬ。ただ、お前が変わらなかったことを嬉しく思う」
 偽善は小さく苦笑した。
「弟子が天下のお尋ね者になったってのにそれかい。先生も変わってねえな」
「変わらぬ方が良いものもある」
「そうかもな」
 悪斬り偽善として賞賛されたことは幾度もあったが、こんな風に言われたのは初めてだった。
 やはり故郷に帰ってきて良かった。
 だが、あまり長く一緒にいるのは良くない。もし誰かの目に止まり、恩師がお尋ね者との関係を問われることになれば……。
 冷たい風が吹く。
 偽善の身体がブルッと震えた。
「なあ、二人とも。いつまでもこんなところにいたんじゃ風邪引いちまう。積もる話はまたにして、そろそろ戻らねえか?」
 由宮先生が頷く。
「そうだな。善太、お前は今どこに泊まっている? なんならうちに来ても構わんぞ」
「いや、今は山小屋で凌いでるからいいよ」
「そうか。では、また暇がある時でいい、うちに来なさい」
 深くは詮索せず、ただ優しい言葉をかけてくれる。
 そんな由宮先生のことが、偽善は子供の頃から大好きだった。
 だが、今はその厚意に対し素直に返事をすることができない。
 その理由を、石が代わりに言う。
「由宮師範、そのことですが……。実は後日、私と偽善は果たし合いをすることになりました」
「なに……!」
「不躾ではありますが、その際、師範には立会人になっていただきたいのです」
「なんと……」
 由宮先生が複雑な表情をするのも当然だ。かつての弟子と友人の弟子が斬り合うところなど見たくはあるまい。
「どうしてもやらねばならぬのか? お主が善太を恨んでいるようには見えないが……」
「武士としてのけじめです」
 その一言で由宮先生は黙した。
 それから、しばらく考え込むように目を閉じた後、小さく答える。
「わかった、引き受けよう」
 理由が何であれ、身内をやられて黙っているわけにはいかない。
 悲しくも、それが武士という生き物だということは偽善にもわかっていた。

              ***

 翌朝。
 木戸が開く音で蒼葉は目を覚ました。
「よう、ちゃんと眠れたか?」
 声の主が悪斬り偽善だと気付くのに少しかかった。
 ぼんやりとした意識の中、蒼葉は身体を起こし、玄関の方を見る。
「ほれ、朝飯だ」
 突然、偽善が手に持っていた包みをこちらへ放り投げてきた。
「わっ……!」
 飛んできた包みを、とっさに受け止める。おかげで一気に目が覚めた。
 包みの中は握り飯だろう。蒼葉はそれを脇に置き、布団から出ようとしたところで、自分が襦袢(じゅばん)しか身に付けていないことに気付いた。
「ぁ……」
「どうした?」
「あ、あっち向いてて!」
「ん? ああ」
 察してくれたのか、偽善はこちらに背を向けた。
 蒼葉は布団から出ると、まずは小袖を着て、それから袴に足を通す。
 朝の空気が冷たい。布団に入っていた時の温もりが急速に失われていく。
「それで、下調べはどうだったの? 何か収穫はあった?」
「まあ、いろいろあったよ」
 偽善は背を向けたまま答えた。
「いろいろって?」
「お前の先生に会った」
「え、倉井先生に?」
 驚いて結びかけの腰紐がばらけてしまった。慌てて最初から結び直す。
「ああ、お前のこと心配してたぞ。無茶すっから」
「う……」
 返す言葉もない。後でしっかり謝っておかなければ。
「それで、先生に会ってどうしたの? まさか斬り合いになんて……」
「なってねえよ。そんなことして一番喜ぶのは豪堂だ。先生が上意討ちの命を受けてるのは知ってんだろ?」
「うん」
「俺の狙いも豪堂だ。だから共闘することになった」
「そっか、先生が……」
 先生にとっても偽善は師の仇だ。会えば斬り合いになるのではないかと心配していたが、杞憂だったようだ。
「それで、いつやるの?」
「今夜だ。それまで休んでおく。お前もここにいな」
「うん。……あ、もうこっち向いていいよ」
 ようやく袴の紐を結び終えた蒼葉は、羽織を手にしながら声をかけた。
 向き直った偽善は座敷へ上がり、真っ先に布団の中に手を入れた。
「お、まだ暖かい」
「ちょ、ちょっと!」
「何だよ? 別にいいだろ、俺の布団なんだし」
「そうだけど……」
 さっきまで自分が入っていた布団で、そういうことをされるのは気恥ずかしかった。
「なあ、火つけてくれよ」
「あ、うん」
 思えば、偽善はこの寒い中ずっと外にいたのだ。身体だって冷えきっているだろうに。
 自分が勝手なことばかり言っているのに気付き、素直に返事をした。
 それから、二人で朝食をとる。
 蒼葉が食器を片付けているうちに着替えを済ませた偽善は、後頭部で束ねた髪をほどいた後、いそいそと布団に入っていった。
「じゃ、俺は寝るから」
「いつまで寝るの?」
「昼過ぎまで」
「そう」
 蒼葉は偽善が脱ぎ捨てた着物を手に取った。
「おい、それどうすんだ?」
「暇だから洗濯する」
「そりゃあ助かる」
「私だけ何もしないわけにはいかないから」
「真面目なんだな」
「先生ほどじゃないけどね」
 偽善は苦笑した。
「ああ、お前の先生は天下一と言ってもいいくらい真面目な男だったな。今時めずらしい本物の武士だよ、ありゃあ」
 蒼葉は無言で偽善に背を向け、嬉しそうに笑った。


 早朝から昼過ぎまでの間、蒼葉は家事に勤しんだ。
 沢へ下りて水汲みと洗濯をし、洗濯物を干した後は山菜を摘みに行く。
 それから、偽善が起きてくる頃を見計らって食事の準備にかかる。備蓄してあった米を使い、寝起きの空き腹に優しい山菜入りの粥を炊いた。
「手慣れたもんだな」
 不意に、座敷の方から声がかかった。
 偽善が上体を起こし、こちらを見ていた。
「いつもやってるから」
 蒼葉は小さく答えた。
「なるほどな」
 偽善は布団から出て、土間へ下りる。
「ちゃんと女として生きていけるよう仕込まれてるわけだ」
「え……」
 蒼葉はぽかんと口を開き、釜戸の前にしゃがんだまま固まった。
「もしかして、今気付いたのか?」
 偽善の言うとおり、そこまで考えたことはなかった。先生にお世話になる上で当然のこととして家事を覚え、こなしてきただけだ。
 言われてみれば、今の自分は男と女の両方の生き方をしている。
 剣を振り、書物を読む一方で、炊事、洗濯、裁縫などの家事もできるのだ。
 それも先生の言いつけどおりにしてきたおかげである。
「まあ、あれだ。自分の知らないところで世の中がいろいろ動いてて、ヤキモキすんのはわかるが、もうちょっと落ち着け。大人になれば嫌でもわかってくるさ」
 後ろからポンと肩を叩かれる。
 粥が、そろそろ炊き上がる頃だった。


 山菜粥に香の物を添えただけの簡素な食事が済む。
 蒼葉は食器を下げた後、話を切り出した。
「ねえ、今夜行くんでしょ? 私も連れていってくれる?」
「なに言ってんだ。ダメに決まってるだろう」
 偽善は即否定した。
「夕方になったら山を下りて家まで送ってやる。そこで帰りを待ってな」
 たぶん、そう言われるだろうとは思っていた。
 だが、蒼葉には蒼葉の矜持がある。
「先生が命を懸けて戦うのに、私だけ家でじっとしてるなんてできない。せめて怪我をした時すぐに手当てができるよう近くで待ってる。それくらいはいいでしょ?」
「ったく……」
 偽善は苦々しい表情をした。
「なんだってお前は進んで危ないところへ行きたがるんだ。俺と先生がやられたら、次はお前が狙われるかもしれないんだぞ」
「先生がやられたら、私もう生きてても仕方ないからそれでもいい。とにかく、少しでも力になりたいの」
 蒼葉は引き下がらない。偽善の鋭い視線から、決して目を離さなかった。
「覚悟はできてるってわけか」
「私も剣術家の端くれだから」
 やがて、偽善は呆れるように大きくため息を付いた。
「わかったよ。ただし、先生がダメって言っても俺は知らねえからな。自分で説得しろよ」
「うん」
「……うんって、できんのか?」
「大丈夫。はじめは反対するだろうけど、最後にはきっとわかってくれるよ。先生は人の気持ちを何より大事にする人だから」
「気持ちね……」
「そう」
 人間は、ただ生きていればよいというものではない。時として、命より気持ちを優先しなければならないこともある。
 そう教えてくれたのは他ならぬ先生なのだ。


 洗濯物を取り込み、小屋の中と周辺の掃除が終わっても、夕方までまだ時間があった。
 蒼葉は、すぐ近くの原っぱで真剣の素振りをする偽善に尋ねる。
「稽古は、いつも一人なの?」
「そりゃそうだ」
 偽善は素振りを続けたまま、チラリとこちらを見てきた。
「素振りの他にどんな稽古をするの?」
「想像の相手と戦う」
「それは、型稽古のこと?」
 剣術における〝型〟とは特定の技を順に繰り出す稽古だ。その際、目の前に戦う相手がいることを想定して行う。
 蒼葉が毎朝やっている少年との真剣勝負は型稽古の延長である。
 偽善も同じことをやっているのかと思い、尋ねてみたのだが、
「いいや、型とは違う。実際に戦う」
 はっきり否定された。
「じゃあ、想像の相手が勝手に動くとでもいうの?」
「そうだ」
 理解し難い話だ。でも、それを疑うより気になることがある。
「それで強くなれるの?」
「まず無理だろうな。俺みたいに命のやり取りを何度もすれば別だが」
「命の……」
 蒼葉は父が斬られた時のことをまた思い出した。
 目の前にいる男は、あれを何十回も繰り返してきたのだ。
 偽善は太刀を振るのをやめ、こちらを向いた。
「はじめのうちは無我夢中で、自分がどうやって相手を斬ったのかもわからなかった。だが、実戦を繰り返すうちに、だんだんと相手のことが見えるようになってきたんだ。さらに繰り返すうちに、今度は相手のことが想像できるようになってきた。相手の動きだけでなく、息遣いや気迫といったものまでな。真剣勝負は命と命のぶつけ合いだ。それを経験しない限り、想像だけの稽古じゃ強くはなれねえ。けどな……」
 ひと呼吸置く。
「お前の親父さんのことだけは、なぜかよく覚えてるんだ。はじめての真剣勝負、それも格上の相手だってのに、あの時のことは一挙手一投足まで記憶に残ってる。なんでだろうな?」
「そんなの、私にわかるわけないでしょう。私には、どうして父上とあなたが戦ったのかすらわからないんだから」
「そうだな……」
 それから、偽善は唐突に言う。
「よし、これからお前に稽古をつけてやる」
「え、私に?」
「炊事とか洗濯とか、いろいろやってくれた礼だ。それに俺だって、たまには人と稽古したいしな」
 蒼葉も剣術家として偽善の剣技には興味があった。道場剣法とは違う実戦剣法。
 断る理由はない。
「わかった。でも、どうやって稽古するの? ここに竹刀はないでしょう」
「ちょっと待ってな」
 偽善は一度小屋に戻り、どこで手に入れたのか黒ずんだ木刀を持ってきた。
「こいつを使って好きなように打ち込んできな」
「そっちの武器は?」
 見たところ木刀は一本しかない。よもや真剣を使うわけではあるまい。
「ん、これでいいや」
 偽善はその辺に落ちていた小枝を拾った。
 長さは木刀の半分ほどしかない、本気で打ち込めば簡単に折れてしまいそうな細い小枝だ。
 蒼葉は木刀を正眼に構える。
「言っておくけど、そんなんで怪我しても知らないから」
「ハハッ、そん時はお前が豪堂を斬ってくれ。俺に怪我させられるんなら、まず問題ない」
 偽善も半身になり、小枝を正面に構えた。
(馬鹿にして!)
 そう思って前進しようとした時、 蒼葉は強烈な既視感に襲われた。
「どうした?」
 偽善は全く動いていない。
 しかし、蒼葉にはわかった。これはいつも稽古で味わっている感覚。どこをどう打ち込んでも返されてしまう――倉井先生と対峙している時の感覚だった。
「来ないんならこっちから行くぞ。まずは面だ」
 面を打つと言って本当に面を打つ愚か者はいない。
 身長差があって胴は遠いから小手だ、と思った瞬間、脳天に軽い痛みが走った。
「お面いただきぃ」
 ほんの一瞬、手元に気を向けただけで、面を打たれていた。
(は、速い。でも、今のは……)
 蒼葉は口を尖らせ抗議する。
「ずるい! 騙し打ちなんて」
「どこがだよ? 言ったとおり打っただけだろう」
「でも、あんなこと言われたら誰だって……」
「そりゃあ、お前の思い込みだ。そもそも実戦じゃ〝ずるい〟なんて通用しない。斬ったもん勝ちよ」
 そうだった。これが真剣勝負なら自分は斬られていたのだ。
 死人に口なし。負けは負け。
 蒼葉は抗議をやめ、再び正眼に構えた。
「それでいい。戦いの最中に余計なことは考えるもんじゃねえ」
 偽善も構える。
 どう足掻こうと、今の自分が偽善に敵わないことはわかっている。上手くやろうなどと考える必要はない。ただ全力で打ち込むのみ。
 蒼葉は、自分の得物から最も近い位置にある小手を狙う。
「ヤアァッ!」
 小手は空を切る。が、それは予測済み。
 続けざま蒼葉は身を沈め、脛(すね)を打ちにいった。
「おっと!」
 偽善は片足を上げて、これを外した。
 追撃はせず、蒼葉は素早く後退する。
 間を外された偽善は振り下ろそうとした腕を止めた。
「やるな。雲月流には脛払いもあるのか」
 蒼葉は再び正眼。再び小手狙い。
 と見せかけて、胴を突きにいった。
「うお!」
 これも避けられる。
 蒼葉は反撃される前に間合いの外へ離脱した。
「なんだ、思ったよりできるじゃねえか。それじゃ、ほんのちょっとだけ本気でいかせてもらおうかな」
 ならばこちらも一番の得意技でいく。狙うは返し技だ。
 徐々に間合いが縮まる。
 蒼葉と偽善の身長差は一尺(約三十センチメートル)ほどもあるが、得物の長さもそれくらい違うので、間合いの不利はない。
 間もなく一足一刀の間合いに入る。
 と思った瞬間、脳天に軽い痛みが走った。
「え……?」
「お面あり、だな」
 気が付けば面を打たれていた。
 偽善の打ち込みに合わせて返し技を打つつもりが反応すらできなかった。
 上段からの打ち込みを避ける稽古を、あれほど積んだのに……。
「今、何をしたの?」
「ただ速く打ち込んだだけさ」
 簡単に言うが、真正面から反応できないほどの速さで打ち込むなど尋常ではない。偽善の体格からは想像もできない、とてつもない敏捷性だ。
 これが、すべての敵を一刀のもとに斬り伏せてきたという悪斬り偽善の力。
 蒼葉が想像していた六年前の少年とは格が違う。
「そろそろ時間だな。ここまでにしとこうか」
 偽善は小枝をその辺にポイッと捨てた。
「なかなかいい稽古だった。ありがとな」
「あ、うん」
 蒼葉は呆然としたまま、木刀を下ろした。


 夕方、蒼葉と偽善は山を下りる。
 それから城下へと至る街道を歩き、家に戻った頃には空がだいぶ暗くなっていた。
「先生、ただいま戻りました」
 あいさつの後、蒼葉は深く頭を下げた。
「勝手なことをして申し訳ございませんでした。私、六年前に何があったのか、どうしても知りたくて……」
「いいんだ、蒼葉」
 先生は優しく応えてくれた。
「私の方こそ、自分のことばかりでお前の気持ちに気付いてやれなかった。許してくれ」
「はい……」
 偽善が蒼葉の肩をポンと叩いた。
「よかったな、お咎めなしで。あとは、あのお願いが聞いてもらえるかどうかだな」
「なんの話だ?」
 先生の問いに、蒼葉は答える。
「実は、私も先生が戦う時お力になりたくて。戦いに手出しはいたしません。ただ、先生がお怪我をした時すぐに手当てができるよう、近くまでお供をさせていただけないでしょうか?」
 先生は複雑そうな表情で考え込んだ。
 そこへ、偽善が口を挟む。
「さっき一緒に稽古したんだが、蒼葉の腕前もなかなかのもんだった。いざという時、自分で自分の身を守るくらいはできるだろう。それに、あんたがやられれば蒼葉は一人ぼっちだ。生き残る確率は少しでも上げておいた方がいいと思うぞ」
 自分で説得しろと言っておきながら、こうやって後押しをしてくれる。
 偽善は、やっぱり優しい人だ。
「ふむ……」
 やがて、先生は決心したように答えた。
「わかった。ではこの後、屋敷町の神社で密偵と落ち合うことになっているから、そこまで一緒に付いてきなさい」
「はい!」
「それから、もしもの時に脇差では心許ないだろう。後で私の小太刀を貸すから、それを差していくといい」
 小太刀は脇差と大刀の中間の長さで、小柄な蒼葉にはちょうど扱いやすい。
「ありがとうございます」
 蒼葉はもう一度深く頭を下げた。


 三人で夕餉をとった後、夜が更けるのを待ち、家を発つ。
 蒼葉は先生から借り受けた小太刀を腰に差し、傷洗いの焼酎と携帯用の薬箱を持った。
 なるべく目立たぬよう提灯は持たず、月灯りだけを頼りに目的地へと進む。
 今宵は満月。夜目を鍛えた者であれば、灯火がなくとも充分に戦える明るさだ。
 屋敷町の外れにある神社に着くと、木陰から何者かが現れた。
 暗闇に溶け込むような漆黒の衣装を纏った男、藩主の配下である密偵だ。
「倉井殿、偽善殿、お待ちしておりました」
「屋敷の様子はどうだ?」
 先生が聞いた。
「昨晩と変わりありません。正門に四名、裏門に二名、周囲を巡回する兵が二名です。屋敷内の灯りはすでに消えております。おそらく、今頃は寝静まった頃合いではないかと」
 密偵が豪堂邸の見取り図を開き、先生と偽善に見せる。
「この図によりますと、裏門の方が豪堂の寝室に近く、兵も手薄です。ですが、それを見越して屋敷内には強力な者を配置している可能性が高いと思われます」
「だろうな」
 偽善が同意する。
「では、正門から堂々と乗り込むか?」
 鋭い目線を向ける先生に対し、偽善は不敵な笑みで返した。
「ま、その方が俺の性に合ってるわな。俺が先に乗り込んで正門の方に兵を引き付けるから、その隙に先生が裏門から侵入して豪堂を斬る――ってのはどうよ?」
 偽善はともかく、倉井先生が攻めてくることを敵は知らない。偽善が正門に現れたとなれば、兵のほとんどはそこへ向かうだろう。
「策としては悪くないが、それではお主が危険過ぎる。中に何人いるのかわからないのだぞ」
「何人いたって一斉に斬り込めるわけじゃねえ。あんたが豪堂を斬ったらすぐ逃げるからどうってことねえよ。まあ、あんたが手間取ったらまずいけどな」
 少し挑発的な物言いだが、先生は冷静に答えた。
「お主がそれでいいと言うのであれば、その策でいこう」
 それから、密偵が付け加える。
「では、私は倉井殿に付いて裏門の兵を引き付けます。首尾よく事が運んだ後は再びこの場に集合ということで」
 全員が頷き、行動を開始した。


 寒空の下、蒼葉は自分の胸を抱え込むように縮こまった。
 ただ待つというのは思いの他つらいものだ。今こうしている間にも二人が傷付いているかもしれない。そう思うと、胸が苦しくて息が詰まりそうだった。
 そうして、どのくらい待っただろうか。
 境内に四つの人影が現れた。
 先頭の者が提灯を持っている。先生たちでない。
 立派な羽織袴を身に付けた侍が四人。先頭の男には見覚えがあった。先日、先生と試合をした一刃流の沼田だ。
 その沼田がこちらに気付いた。
「ん? お主、倉井石の弟子ではないか。そこで何をしておる?」
 道場に来た時と違い表情が冷たい。
 蒼葉は薬箱を抱え、後退りした。
「このような時分ここにいるということは、お主も悪斬り偽善の一味だな?」
「え……!」
 沼田がニヤリと笑う。
「その驚きよう、やはりそうか。教えてやろう、我ら一刃流は豪堂様をお守りするために悪斬り偽善とその一味を討ちにきたのだ。倉井石が偽善に荷担していることは、すでに知れ渡っておる。当然、お主も同罪だ」
 沼田のお共の三人が太刀に手をかける。
 何がどうなっているのかわからないが、じっとしていてはいけないことは確かだ。
 蒼葉は脱兎の如く駆け出した。
「追え!」
 すぐに四人が追いかけてくる。
 一刃流の門弟は成年だけでも五十人以上いる。もし全員が出てきているのだとしたら、一人で街から逃げることはできないだろう。危険だが先生たちのところへ行くしかない。
 蒼葉は死に物狂いで走った。

              ***

 石は手筈どおり裏門から豪堂邸に乗り込んだが、中はもぬけの殻だった。
 豪堂はもちろん、配下一人いない。
 玄関の方から偽善が入ってきた。無論、土足のままだ。
「おい、どうなってんだ? 門番しかいねえぞ」
「逃げられたか……」
「けど、この辺はお殿様の配下が見張ってたんだろ? さっきの密偵も、豪堂は屋敷から出てねえって言ってたし」
「どこかに隠し通路のようなものがあるのかもしれん」
「探すか?」
「いや、あったとしても簡単には見つかるまい。今から探して追い付くのは無理だろう。それより、あの豪堂がただ逃げるだけで終わるとは思えん。退くと見せかけて攻めてくる可能性もある。一旦蒼葉のところへ戻ろう」
「戻れればいいがな」
 突如、偽善が不吉なことを言った。
 数瞬後、遠くから複数の足音が聞こえてきたことで、その意味を知る。
「早くも読みが当たっちまったな。どっちから逃げるよ?」
「正門だ」
 言うが否や、石は駆け出す。
 正門と裏門、どちらからどれだけの兵が来るかなどわかりはしない。ならば、門の幅が広く脱出しやすい正門の方が良いと判断した。
 石と偽善が縁側から庭へ下りるのと、正門から六人の男が入ってくるのは同時だった。
 その中には見覚えのある者がいた。
「あれは一刃流の……!」
「お知り合いかい?」
「あまり良い関係ではないがな」
 男たちは太刀を抜いた。
 どうやら豪堂の刺客として差し向けられてきたようだが、できる限り戦いは避けたい。
 石は大声を上げる。
「待て! 私は藩主・孝水公の命で動いている! 太刀を納めよ!」
 しかし、男たちは退かなかった。
「そんな出任せが通じるものか! 我々は悪斬り偽善とその一味を成敗するようご家老様より命じられておる。覚悟せよ!」
 偽善が太刀を抜く。
「こりゃあ、言葉は通じそうにないな。ま、豪堂に従ってる時点で悪だし、もう斬ってもいいよな?」
 そう言った次の瞬間には、先頭の男を斬り伏せていた。
(――速い!)
 石が驚いているうちに、もう一人が倒れる。
 まるで疾風のような動きだ。
 二人がやられ、男たちはようやく反撃に転じる。
 残り四人のうち、二人が偽善に、二人がこちらに。
 石は覚悟を決め、太刀を抜いた。
「おおおおお!」
 獣のような咆哮を上げ、敵が襲いくる。
 初めての真剣勝負。
 試合とは違う、命を懸けた戦い。
 にも拘わらず、石には敵の動作がひどく緩慢に見えた。
(遅い……)
 余裕を持って上段からの振り下ろしを避けた後、首の高さを横薙ぎに一閃。
(やった……のか?)
 手応えがなかった。まるで空(くう)を斬ったような感触だった。
 だが、首は落ちた。
 真剣の恐るべき切れ味だった。
「貴様ぁ!」
 怒声を上げながら、もう一人が側面から斬りかかってくる。
(やはり遅い)
 石は頭上から襲いくる白刃を避けつつ胴を薙ぎ払った。
 敵は腹を抱えながら、うつ伏せに崩れる。
 すぐさま背に刃を突き立て、とどめをさした。
「やるじゃねえか」
 偽善はすでに二人を仕留めていた。
「そちらもな」
 冷静に返すだけの余裕が石にはあった。
 不思議だ。由宮師範は「まるで夢のような出来事だった」と言っていたが、石はそれとは正反対、今この時のために稽古を積んできたのだという実感が確かにあった。
 理由はわからない。感覚など人それぞれと言ってしまえばそれまでだ。
 強いて言うなら、この男が隣にいるからかもしれない。
 味方となればこれほど頼りになる者はいないであろう男、悪斬り偽善が。
(これならいける!)
 考えてみれば、実戦が初めてなのはこちらだけではない。
 名門・一刃流とて、いや、名門だからこそ、人を斬った経験のある者などほとんどいまい。
 条件は同じなのだ。
 敵は焦っている。だから動きが固い。
「また来たぞ」
 偽善が言った直後、屋敷の中からドタドタと足音が聞こえてきた。裏門から入ってきた者たちに違いない。
 豪堂がいない以上、この屋敷に長居は無用。
 石と偽善は急ぎ正門から脱出した。向かう先は蒼葉が待つ神社だ。
 だが、行く手にも一刃流の門弟たちが待ち構えていた。
「貴様、悪斬り偽善だな!」
「倉井石も一緒か!」
 今度は四人組だ。二人ずつ横並びになって向かってくる。
「もう確かめるまでもねえな。左は任せる!」
 偽善は走る勢いそのままに斬り込んでいく。
 石も負けじと太刀を振るった。
 
 
 四人組を倒した後、またしても別の四人組に道を阻まれたので、それとも戦った。
 先ほどと同じように、偽善が二人、石が二人を斬り捨てる。
 これで石は六人を葬った。
 家族も友人もいるであろう人間を六人も……。
 だが、悪の権化とも言える豪堂の命で動いている以上は仕方がない。彼らは豪堂の悪行を知った上で加担しているのだ。
 さらに言えば、一刃流の門弟は他流派や民衆に対して高圧的な者が多かった。民の貧窮を顧みず裕福な生活を続けていた点でも豪堂と同じだ。
 そして何より、太刀を抜いてこちらへ向かってくるからには斬る他ない。やらなければこちらがやられるのだ。
 すべては因果応報である。
 それでも、石は偽善に倣い一太刀で相手の息の根を止めるよう努めた。
 いかに敵とはいえ、地獄の苦しみを与えるのは不憫である。
 せめて最期はひと思いに――
 幸いにも戦場が広くなかったため、それをできるだけの余裕があった。
 大通りならともかく、居住区の小路において横に並んで戦えるのはせいぜい二人だ。三人並べば太刀を斜めに振ることすらできず、手数が限定される。下手をすれば同士討ちになる。
 こちらには偽善がいるので、ほぼ一対一で戦うことができた。
 敵は竹刀で派手に一本技を取る稽古ばかりしてきた華法剣法の遣い手ばかり。落ち着いて対処すれば、どの門弟も石の敵ではなかった。
 だが、数が多い。
「いたぞ!」
「あそこだ!」
 少し離れたところから敵の声が聞こえてきた。キリがない。
「いちいち相手にしてらんねえな。逃げるか?」
「無論だ」
 石たちは神社に向かって走り出した。
 極力戦いを避けるよう、人気のない道を行く。
 途中、漆黒の衣装を纏った亡骸を発見した。
 似たような姿をしているが、先ほど話をした密偵とは別人だった。
 おそらく、豪堂の屋敷を見張っていたところを一刃流の者に斬られたのだろう。
「すまぬが、先へ行かせてもらう」
 石は亡骸に手を合わせ、再び駆け出した。偽善も続く。
 無念ではあるが、亡骸は放置せざるを得なかった。
 今こうしている間にも蒼葉が襲われているかもしれないのだ。
(頼む、無事でいてくれ)
 敵が一人二人であれば蒼葉でも逃げ切れると踏んだのが甘かった。
 一刃流の門弟は年少の者を除いても五十人はいる。この分では屋敷町が包囲されている可能性が高い。到底、脱出はできない。
(まさかこのような事態になろうとは……。いや、後悔している暇はない。今は先を急ぐのみ)
 神社まであと少しというところで、またも行く手に人影が現れた。
 今度は五人。だが、先頭を走る一人が明らかに小柄である。
「蒼葉か!」
「先生!」
 向こうもこちらに気付いたようだ。
 直後、蒼葉は追っ手に肩をつかまれ転倒する。
 捕まって人質にされればおしまいだ。
「任せな!」
 隣を走っていた偽善が急加速する。
 そして、倒れた蒼葉を捕らえようとする男を、走りながらの居合い斬りで仕留めた。
「蒼葉、無事か!」
 石は蒼葉に駆け寄る。
 必死で逃げてきたのであろう。持参した薬箱と焼酎は失われていた。
 見たところ、今しがた転倒した時に負った擦り傷以外に怪我はない。
 だが、安心はしていられない。
 石はすぐに蒼葉を抱き起こし、背後へと庇った。
 目の前に一刃流の剣客が三人。
 三人のうちの一人は知った人物、塾頭の沼田だった。
 沼田は息を整えた後、白々しく言う。
「これは倉井殿。夜分に奇遇ですな。我々は今、悪斬り偽善とその一味を追っておりましてな。ご家老様から見つけ次第すぐに斬り捨てるよう命じられておるのですよ。そこな男が悪斬り偽善とお見受けいたすが、まさか倉井殿ともあろうお方が、そのような者と手を組んでは――」
「御託はいい。豪堂はどこへ逃げた?」
 石が言葉を遮って聞くと、沼田の表情が能面のように固まった。
「愚かな。我々の誘いを断っていなければ死なずに済んだものを……」
「豪堂はどこへ逃げたと聞いている」
「逃げたのではない。ご家老様は攻め入ったのだ」
「なに? どこへだ?」
「これから死ぬ人間が知る必要はあるまい」
 沼田は太刀を抜いた。他の二人も抜く。 
 もはや、話し合いの余地はない。
「じゃあ、俺がそっち二人をやるから、あんたはそのおっさんな」
 こちらの返事も聞かず、偽善は二人に向かっていった。
 直後、沼田が迫り来る。
「そりゃあ!」
 速く、力強い袈裟斬りからの連撃。その勢いは、重い真剣であるにも拘らず竹刀のそれに勝るとも劣らない。やはり油断できぬ相手だ。
 だが、石には勝算があった。
 人は余裕がない時、過去の成功体験にすがる。沼田とて真剣勝負は初めてか、それに近いはず。ならば、先日の試合の一本目をなぞれば思い通り敵を動かせる。
 連撃をいなしつつ塀まで追い込まれてやると、予想どおりの拍子で小手を打ってきた。
 石はそれを避けると同時に、沼田の喉を突く。
「ぐ――」
 刀身が首を突き通した。
 沼田は太刀を落とし、しばらくもがいた後、絶息した。
「おう、そっちも終わったかい」
 こちらが一人倒す間に、偽善は二人を倒していた。
 やはり、とてつもなく速い。
 はっきり見たわけではないが、偽善の戦いは読みも誘いもなく、ほとんどの敵を瞬時に倒している。自分が知っている剣術とは明らかに何かが違う。
 が、分析は後だ。
「蒼葉、実は豪堂が屋敷から消えたのだ。この者たちは何か言っていなかったか?」
 石の問いに対し、蒼葉は首を横に振った。
「いいえ、何も……。ただ、悪斬り偽善の一味だから、お前も同罪だと言われただけです」
「そうか」
 一味という言葉からして、どうやら上意討ちのことが豪堂に漏れていたようだ。
 おそらく向こうにも密偵がいたのだろう。甘く見ていた。
 とにかく、この場に留まっていては危険だ。ひとまずは集合地点である神社へと向かう。
 そこに行けば、こちらの密偵が何らかの情報を持ってきてくれるかもしれない。
 到着すると、闇の中から声がした。
「皆様、ご無事でしたか」
 声の主が木陰から姿を現す。あの密偵だ。
「豪堂が屋敷から消えた。何かつかんではいないか?」
 石が聞くと、密偵は険しい目付きをした。
「それが大変なのです。豪堂は、おそらくは隠し通路を使って屋敷から脱出した後、孝水様が身を寄せておられるところに、兵を連れて乗り込んでいったのです」
「なに……! 孝水様は今どこにおられるのだ?」
「孝水様のご親戚の、先日倉井殿がお出でになったお屋敷です」
二日前、石が藩主より上意討ちの命を承った場所だ。
「豪堂は謀反でも起こす気か?」
「あまりにも突然のことで、私にも詳しくはわかりません。ですが、このままでは……孝水様が……何をされる……か。ですから、早く……!」
 急に密偵の言葉が途切れ途切れになる。
「おい、どうした?」
 偽善が尋ねるのと同時に、密偵は膝を着き、苦痛の声を漏らした。
「うぐ……」
「お前、斬られてんじゃねえか!」
 密偵の背中には斜めに走る大きな刀傷があった。
 そして、影になっていてよく見えなかった足元には大きな血だまりが。
「私は……もう、助かりませぬ。どうか、孝水様を……お頼み申す……」
 密偵の上体がぐらりと揺れる。
 石は身体を支えようとしたが、間に合わなかった。
 うつ伏せで倒れた密偵は、すでに事切れていた。
「大したもんだ。死ぬ寸前まで涼しい顔してやがった」
 偽善が密偵に対して手を合わせた。
「この者の死に報いるためにも、豪堂は必ず討つ」
 石は静かに、力強く言った。


 主君に危機が迫っている。もはや一刻の猶予もない。
 できれば蒼葉だけは逃がしてやりたいところだったが、今となってはそれも無理。
 こうなった以上やむを得ないと判断し、石は蒼葉を連れていくことにした。
 蒼葉も覚悟を決めてくれた。
 三人で藩主がいるという屋敷へと急ぐ。
 途中、またも一刃流の妨害に遭ったが、すべて凪ぎ払った。
 実戦経験を積むことで石は短時間のうちに急成長し、もはや一刃流の三下など子供のようにあしらえるほどになっていた。
 五町(約五五○メートル)ほど走ったところで、目的の屋敷が見えてくる。
 正門には門番もなく、扉に鍵もかかっていなかった。
「妙だな。こりゃあ罠かもしれねえが、どうする?」
「入るに決まっている」
 偽善の軽い調子に、石は一分の迷いもなく応えた。
 罠だとしても行くしかない。
 屋敷の庭には無数の松明が焚かれており、周囲を赤々と照らしていた。
 そこで待ち構えるは、一刃流の中でも腕利きの高弟が八人。
 そして、五十過ぎの小柄で肥った男。小豊藩筆頭家老である豪堂重座衛門だ。
「ほう、よくここまで来られたな。だが、貴様らの命運もここまでだ」
 豪堂は不敵な笑みを浮かべた。
 偽善が一歩前へ出る。
「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」
「止まれぃ。あれを見よ」
 豪堂が縁側の方へ向かって声を上げると、そこに控える高弟二人が座敷の障子戸を両側から開け放った。
 座敷の中央に、小豊藩藩主・樒原孝水が正座していた――いや、させられていた。
 傍らには太刀を手にした高弟が。
 さすがに藩主相手に刃を突きつけるような真似はしていないが、これでは人質にとったも同然だ。
 石は豪堂に対し怒りの声を上げる。
「どういうつもりだ! これは紛うことなき謀反。大罪であるぞ!」
 豪堂は鼻で笑った。
「ふん、何を申すか。そこにいる悪斬り偽善こそ、公儀の重役や奉行を幾人も斬った天下の大罪人であろうが。そして、その大罪人を配下に収め、藩の秩序を乱そうとしたのが、そこにおられるお方よ」
 藩主は悔しげな表情をするだけで、何も言い返さなかった。
 偽善を利用しようとした魂胆が裏目に出てしまったのだ。確かに、今の状況は外部からすればそのように見えてもおかしくはない。
 偽善が皮肉っぽく言う。
「なるほど、そういう筋書きかい。お殿様が俺を雇って、あんたの暗殺を目論んだってことになってんだな」
「筋書きではなく事実じゃ。その証拠に、貴様は殿の配下である倉井と共に戦っておるではないか。倉井が殿から上意討ちの命を受けたことは、密偵を通じて知れておる。ならば悪斬り偽善もまた、殿の配下というのが道理であろう。貴様のような大罪人を召し抱えるなど、いかに藩主であっても許されることではない」
 豪堂は藩主を見る。
「違いますかな、殿?」
 藩主は、やはり言い返せない。
「違うと言うのであれば、倉井に悪斬り偽善を斬るよう命じてくだされ。さすれば、すぐにでも兵を引き上げましょう。殿が上意討ちを命じたことも不問といたします。さあ、いかがなされるか?」
 なにもかもが豪堂の思惑どおりだった。
 若き藩主には、他になす術がなかった。
「……やむを得まい」
 情を押し殺した低い声と共に、鋭い視線がこちらに向く。
「石よ、悪斬り偽善を斬れ」
 拒めば主君が罪に問われる。最悪、お家断絶という事態になりかねない。
(やるしかないのか……)
 石は歯噛みしながら太刀を抜いた。
 連戦を経て、刀身のあちこちが欠けていた。
「余の刀を使え」
 藩主が言うと、床の間に掛けてあった豪華な拵えの太刀を高弟が持ってきた。
 手に取り、抜いてみる。
 刀の目利きは得意ではないが、二百両は下らない大業物だ。
「本気でやるのか?」
 偽善が横から聞いてきた。
「君命だ。このような形でお主と戦うのは不本意だが、仕方あるまい」
「そうかい……」
 偽善が静かに太刀を抜く。
 その刀身が、普通の太刀と比べてふた回りほども細いことに気付き戦慄する。
 おそらく、過去に何度も何度も研いでは使ってきたのだろうが……。
 あのような痩せ刀で敵と打ち合えば簡単に刀身が曲がる。もしくは折れる。
 つまり偽善は豪堂邸からここに至るまで、一度も刀と刀をぶつけることなく敵を仕留めてきたのだ。
 恐るべき剣の冴え。
 剣術の理想を体現したような存在。
 だが、蒼葉が口にした話では、偽善は十三の時に藩を脱してからずっと一人で稽古を積んできたのだという。ならば精妙な駆け引きには慣れていないかもしれない。
 必殺の初撃を見切りさえすれば勝機はある。
「待ってください!」
 蒼葉が間に割って入ってきた。
「ダメです! 二人が戦うなんて……」
「孝水様を救う方法は他にないんだ。それに偽善とは、どのみち決着を付けるつもりだった。順が変わっただけだ」
「でも!」
 譲ろうとしない蒼葉を、偽善がそっと押しのけた。
「蒼葉、悲しいがこれが武士ってもんだ。それがわからねえなら、もう男の真似事はやめときな」
「そんな……」
 蒼葉は絶句し、庭の隅まで後退した。
(すまない、蒼葉……)
 石は最期に大切な家族の顔を見た後、庭の中央で偽善と向かい合った。
 道場での試合と違い号令はない。戦いはもう始まっている。
 石は正眼の構え。
 偽善は太刀を斜に担ぐような八相の構え。
 間合いは背丈が五寸(約十五センチメートル)ほど高い偽善の方が広い。
 加えて、先ほど見せた疾風のような身のこなし。
 どうしても先手は譲らざるをえない。
(返し技を狙うか。いや……)
 石は由宮師範との稽古を思い出す。
 頭で考えていては偽善の速さには対抗できない。
 自分が今までしてきたことを信じるのだ。
 そう、心を無に――
 
 
 気が付けば、切っ先が偽善の肩を斬り裂いていた。

六章 決断

(痛ってぇ)
 偽善は斬られた右肩を押さえた。
 傷は深くない。これなら太刀を振るのに支障はなさそうだ。
 だが、戦いの中で初めて斬られた。
 これまですべての敵を一刀のもとに斬り伏せてきた、必殺の一閃を避けられた上で。
(困ったな……)
 偽善には他に技がない。山賊程度ならともかく、一流の剣客と渡り合う技量を我流で身に付けられるはずもなかった。相手がどうであれ、唯一にして最強の技であるこの一閃に懸けるしかないのだ。
 偽善は再び八相に構えた。
 石は正眼の構え。
 こちらから見て切っ先がちょうど点になる高さを維持している。左右のぶれもない。
 師弟だけあって雲月蒼助とよく似た構えだが、目付きが妙だ。こちらを見ているようで、どこか遠くを見ているような、虚ろな目をしている。
(なんだか知らねえが……)
 やることは同じ。
 摺り足で徐々に間合いを詰めていく。
 そして、一足一刀の間合いに入った瞬間、一気に首を斬る。
 ――はずが、逆に右大腿部を斬られていた。
「ぐっ……」
 無意識のうちに呻き声が漏れる。
 足捌きに支障が出るほどの深手ではなかったが、技を破られたことによる精神的負担が重かった。
(やはり錯覚じゃなかったか……)
 切っ先が届くのと同時に、石は陽炎のように消え失せ、気が付けばこちらが斬られていたのだ。
「ハハハッ!」
 豪堂が声を上げて笑った。
「なんじゃ、噂の悪斬り偽善とはこの程度だったのか!」
 悔しいが反論できない。
 たった一つの技を破られただけで、自分には引き出しがなくなってしまったのだから。
 偽善最大の武器は、その人間離れした敏捷性である。
 獣が狩りをするが如く、前進する気配を殺した状態から一気に飛びかかり、予備動作なしの斬撃を繰り出す。その速度は到底人間が反応しきれるものではなかった。
 だからこそ技量が上回る相手にも勝ち続けてこられたわけだが、石はそれに応じてみせた。
 人の動体視力を越えた反応速度。
 それを実現する方法に、偽善は心当たりがあった。
(なるほど、これが無念無想の極みってやつか)
 それすなわち、何も考えず無心で戦うことである。
 人は考えてから動くよりも、考えずに動く方が速い。思考を捨て脊髄反射に身を委ねることで、通常ではありえない反応速度を実現しているのだ。
(ったく、どんだけ稽古すれば、そこまで自分を信用できるんだよ)
 当然、身体が勝手に反応してくれなければ突っ立ったまま斬られて終わりだ。己の技に殉ずる覚悟がなければ、そのような戦い方はできない。
 そして、その覚悟を支えるのが日々の稽古だ。今、目の前に立つ男は、剣を振る動作が日常動作の一部になるまで稽古を積んできたに違いない。
 これに打ち勝つには、こちらも無心になるしかない。
(俺にできるか。できなければ死。……ま、それだけのことか)
 今まで数多くの命を奪ってきた身として、とうに死ぬ覚悟はできている。
 豪堂を討てなかったのは未練だが、恐怖はない。
(俺が負けた時は、あんたがやってくれるよな)
 そう信じて三度(みたび)、八相に構える。
 石は変わらず正眼の構え。
 徐々に間合いが縮まっていく。
 そして――

              ***

 蒼葉には速過ぎて何が起きたのかわからなかった。
 ただ、先生と偽善が同時に倒れるという最悪の結果だけが目に映った。
「ハハハッ! フハハハハッ!」
 豪堂が高らかに笑った。
「これはよい! まさか相討ちで双方が倒れてくれるとは」
 二人は倒れたまま微動だにしない。
 まだ死んだと決まったわけではないので早く駆け寄って確かめるべきだが、あまりの衝撃に身体が動いてくれなかった。
「念のためとどめを指しておけ」
「はっ!」
 豪堂の指示で、高弟二人が動く。
「ま、待て!」
 ハッと我に返った蒼葉は小太刀を抜き、二人の前に立ちはだかった。
 高弟の一人が威圧的に言う。
「小僧、邪魔立てするなら容赦はせぬぞ」
 蒼葉は小太刀を正眼に構え、手足を震わせながらも譲らなかった。
 高弟が豪堂の顔を伺う。
「ご家老様、こやつも斬ってよろしいでしょうか?」
 豪堂は返事をせず、じっとこちらを見つめてきた。
「ん……お主、もしや雲月蒼助の娘ではないか?」
「え……!」
 蒼葉は驚くだけで肯定しなかったが、豪堂は勝手に納得した。
「ふむ。男の格好をしておるが間違いない。雲月の一人娘じゃな。いやはや、不憫よの。父娘そろって悪斬り偽善と関わったばかりに、かような目に遭うとは。どれ、冥土の土産におもしろい話を聞かせてしんぜよう」
 ニタリ、と邪悪に歪んだ口から衝撃的な事実が発せられる。
「六年前、お主の父と悪斬り偽善が戦うよう仕向けたのは、このわしよ」
「な……!」
 蒼葉は驚愕の声を上げた。
 沸々と、今まで行き場のなかった憎悪が表情に滲み出る。
「お前が……父上を!」
「ハハハハハッ!」
 豪堂は「その顔が見たかった」と言わんばかりに大声で笑った。
「許さない!」
 蒼葉は猛然と豪堂に斬りかかろうとするが、二人の高弟が立ちはだかった。
 父の本当の仇が目の前にいるというのに手が出せない。
 それが悔しくて、悲しくて、視界がぼやけてしまうほど涙が溢れてきた。
「もうよいぞ。斬れ」
 豪堂は途端に興味を失ったような声で命じる。
 すると、それまで黙って正座をしていた藩主が膝を立てた。
「待て! その者はまだ子供ではないか。武士が子供を斬るのか?」
 だが、豪堂は取り合わなかった。
「その娘が男に扮してまで剣を握るのは、父の仇討ちをたくらんでおるからに他なりませぬ。そのような者を生かしておくわけにはいきますまい。後顧の憂いは、ここで絶っておかねば」
「その憂いを作ったのは、お主であろう」
「いやいや、そもそもの原因は雲月の方にございます。雲月が我が一刃流の門弟を斬ったことが、すべての始まりなのです。――娘、そうであろう?」
 そんな話は聞いたことがなかった。
 父が人を斬っただなんて。
「黙っておるということは認めるのだな?」
「ち、違う!」
「ならば、今すぐ証明してみせよ」
 仮に豪堂の言うことが事実だとしても、人を斬るだけの正当な理由が父にはあったはずだ。
 だが、今の今まで何も知らなかった蒼葉に、それを証明できるはずがない。
「ふん、話にならんな。斬れ」
「はっ!」
 高弟二人が上段に構えた。
 敵は大勢いる。どうやっても勝ち目はない。
 せめて一人でも道連れにしてやろうと、蒼葉は小太刀を強く握り締めた。
「それではダメだ」
 不意に背後から声。
「え?」
「刀を握る時は柔らかくと教えただろう」
 次の瞬間、切っ先が高弟の喉を捉えた。
「ぐ――」
 切っ先はすぐに引き抜かれ、もう一人の喉に飛ぶ。
 目の前にいた高弟二人が、瞬く間に崩れ落ちた。
「き、貴様!」
 豪堂が叫ぶ。
 起き上がったのは、紛れもなく倉井先生だった。
 さらに――
 突如、うつ伏せになっていた偽善が身を起こすと同時に走り出す。
 猫のような速さで、あっという間に藩主の背後にいた高弟に迫り、斬り捨てた。
 藩主は人質から解放される。
 その場にいる全員が倉井先生に注目した一瞬の隙を付いた、見事な急襲であった。
 予想外の事態に豪堂は慌てふためく。
「き、貴様ら、なぜじゃ!? なぜ無傷なのじゃ!?」
「そいつは俺の方が聞きたい。先生、なんで俺を斬らなかったんだ?」
 偽善は先生に顔を向けた。
「無意識だったからわからぬ。お主の方こそ、なぜ私を斬らなかった?」
「さあな。俺も無意識だったからわからねえ。ひょっとしたら、あんたみたいな立派な武士を斬るのは惜しいって、この手が思ってくれたのかもしれねえな」
 小さく笑う偽善。
「ならば私も同じだ」
 先生も微かに笑った。
 きっと無意識だったからこそ、互いを斬りたくないという本音が刀に通じたのだ。
 蒼葉の涙が歓喜の涙に変わった。
 当然、納得できないのは豪堂だ。
「ならばなぜ倒れた? なぜすぐに起き上がらなかった?」
「んなもん芝居に決まってんだろ。倒れた振りして、お殿様を助け出す隙を伺ってたんだよ。幸い、先生の腕が俺の身体に乗っかかってたもんだから、先生にも意識があるのはすぐにわかった。あとはまあ互いの呼吸だな」
 偽善の言葉に先生が頷く。
 達人同士、剣を交えた者同士、言葉にしなくとも通じるところがあったのだろう。
「蒼葉、怖い思いをさせてすまなかったな」
 先生の手が、そっと肩に触れた。
 それから、先生は豪堂に対し切っ先を向け、高らかに宣言する。
「豪堂重左衛門。君命により、貴様を成敗する!」
 人質を失った今、豪堂を守るのは一刃流の高弟だけだ。
 残りは五人。その程度なら先生と偽善の敵ではない。
 だが、豪堂は強気な態度を崩さなかった。
「ふん、わしの駒が一刃流だけと思うなよ。者共、出合え出合えぃ!」
 呼び声に反応して、武装した男たちが正門裏門の二方向からぞろぞろと現れた。
 上級武士である一刃流の門弟たちと違い、どれもこれも見るからに博徒・侠客といった風体をしている。
 どうやら、ならず者とつながっているという噂は本当だったらしい。
「ハハハッ、こんなこともあろうかと集めておいたのだ。いくら貴様らでも、この数には勝てまい」
 偽善は藩主を、先生は蒼葉を庇いながら壁際まで下がる。
「一刃流の残りも合わせて、ざっと二十人といったところか。さすがにキツいな。先生、どうするよ?」
「やるしかない。偽善、半分任せるぞ」
 さしもの二人も声に余裕がなかった。
 あるいは、先ほどの路地のような場所であれば、あの人数相手でも勝ち目があるかもしれない。逃げながら敵を分散させて戦うことができるからだ。
 しかし、塀に囲まれたこの場所ではそれができない。
 いくら広い庭とはいえ、これだけの人数が集まれば機敏に動くだけの空間がない。
 しかも敵の半数は、槍、鎖鎌、半弓など射程の長い武器を携えている。剣客を相手にするのとは勝手が違う。いくらなんでも無茶だ。
 先生がこちらを見る。
「蒼葉、我々が何としても突破口を開く。その間に孝水様を連れて脱出してくれ」
「は、はい」
 無茶ではあるが、すでに退路を塞がれてしまっている以上そうするしかない。
 ここで藩主を失えば、豪堂はいよいよこの藩の独裁に乗り出すだろう。それだけは何としても防がなければならない。だが、今となってはそれすら難しい。
 敵がじりじりと迫ってくる。
 射手が矢を番え、こちらを狙ってくる。
(このままじゃ、みんなやられる。本当に……本当にどうにもならないの?)
 あまりにも理不尽で絶望的な状況に、蒼葉の思考が鈍くなる。
 ただ祈ることしかできなくなる。
(お願い、誰か助けて!)
 と、その時。
 屋敷の外から人が走ってくる足音が聞こえてきた。一人二人ではない、大勢だ。
 また敵の援軍か。それとも、お役人が来たか。
「倉井先生!」「先生!」「助太刀に参りましたぞ!」
 正門の方角から飛んできた声は、いずれも聞き覚えのあるものだった。
「なんだこいつら!?」
「ぐああっ!」
 敵が二人、三人と倒れる。
 その向こうから姿を現したのは、蒼葉がよく知る雲月流の門下生たちだった。
「お前たち! どうしてここに?」
 倉井先生が驚く。
「これだけの騒ぎで気付かぬとお思いですか!」
「水くさいではありませんか! なぜ我々を呼ばなかったのです!」
 さらに、
「蒼葉、無事か!」「助けにきたぞ!」
 少年部の者まで駆けつけてくれた。その数、合わせて十五。
「下がれ、下がれ!」
 正門近くにいた敵が慌てて後退する。
「狼狽えるな、半分は子供だぞ! 給金は倍出す! そやつらもまとめて……」
 豪堂は途中で声を止めた。再び大勢の足音が響いてきたからだ。
 今度は裏門の方角。
「うああ、こっちも来たー!」
「退け! 奥に退け!」
 裏門側にいた男たちも後退する。
 そこに現れたのは、またも見覚えのある剣客集団。特に先頭にいる白髪混じりの小柄な侍のことはよく覚えていた。確か、父の友人だった剣術家だ。
「我ら由宮流、義によって雲月流に加勢させていただく!」
 由宮師範はじめ、由宮流の門下生たちが一斉に太刀を抜いた。
 蒼葉の位置から見えるだけでも十人以上はいる。
 これで数の上では優位となった。
「お、おい、聞いてねえぞ」
「どうすんだよ!」
 庭の中程へと追い詰められた敵は完全に怯えていた。
 だが、逃げ道はない。先ほどまでと立場が逆だ。
 そこへすかさず、偽善が助け舟を出す。
「逃げたい奴は武器を捨てて逃げな! 雲月流と由宮流のみんな! 武器を捨てた奴には道を開けてやってくれ!」
 皆が偽善に同意する姿勢を示すと、敵は次々と武器を放り出した。
「おい、逃げるな! 待たぬか!」
 豪堂が呼び止めには誰一人として応じず、一目散に逃げていく。
 残っていた一刃流の高弟までも、恥も外聞もなく逃げ出した。
 所詮、金や地位のために集まった連中であって、信念や忠誠心などというものは持ち合わせていなかったようだ。
 やがて喚き声と足音が遠ざかり、屋敷の中が静まり返る。
 偽善は庭の中央に出て、切っ先を豪堂に向けた。
「さて、これで残るはお前一人だ」
「なぜじゃ!? あやつらめ、あれだけ目をかけてやっというのに、なぜ戦わぬのだ?」
 豪堂は顔面蒼白となり、逃げ道を探すように首を振る。
 だが、時すでに遅し。配下がいた時は最も安全だった庭の隅が、今や逃げ場のない危険な立ち位置となっていた。
「金と権力で作った人間関係なんざそんなもんよ。誰もお前のために命まで懸けちゃくれねえ。お前は所詮その程度の男なんだよ」
「ぐっ……」
 豪堂は何も言い返せない。
「こんな野郎はすぐにでも斬り捨ててやりてえところだが……ここは上意討ちの命を受けてる先生に譲るべきかね。それとも蒼葉」
 偽善がこちらに顔を向ける。
「お前が斬るか?」
「え……!」
 突然のことに蒼葉は驚いた。
「私が?」
 もちろん、この手で父の仇が討てるなら討ちたい。そのために、ずっと剣術の稽古をしてきたのだから。
 蒼葉は先生の顔を伺う。
「お前が決めろ」
 先生は静かに答えた。
 藩主も止めなかった。
 あとは蒼葉が決断するだけだ。
(父上……)
 あの時、父は『強くなりなさい』と言った。
 このまま何もかも人任せにしてしまっては、父の遺言を守ることはできない。
「私がやります!」
 蒼葉は力強く宣言し、前へ出た。
 そして、小太刀を抜く。
 豪堂は激昂した。
「貴様が相手をするというのか? なめるな! わしは一刃流免許皆伝の腕前だぞ!」
「ハハッ、なにが免許だ。どうせ金で買ったんだろ? やってやれ、蒼葉。そんな奴お前の敵じゃねえ」
 偽善の声援に、雲月流の少年たちも続く。
「そうだ!」
「お前なら軽く倒せるぞ!」
「日頃の成果を見せてやれ!」
 声に押され、蒼葉の内に気力が漲ってくる。
「ぐぬぬ!」
 豪堂は屈辱で顔を歪ませながら太刀を抜いた。
 庭の中央にて、互いに正眼の構えで相対する。
 これから命懸けの勝負をするというのに、蒼葉には不思議なくらい落ち着きがあった。
 豪堂がいくら免許を買ったといっても、武士であるからには全く稽古をしていないわけではない。身体はあちらの方が大きく、太刀もあちらが長い。
 それでも、恐怖はなかった。
 自分にならできると、先生と偽善が認めてくれたから。
 道場のみんなが見守っててくれるから。
「おおお!」
 豪堂が太刀を振り上げ、斬りかかってくる。
(遅い……)
 そう思ってからでも避けられるくらい、その動きは緩慢だった。
 半歩下がって豪堂の振り下ろしを避けた後、すかさず小手を打つ。
「うっ!」
 豪堂の手から太刀が落ちる。
 同時に指も何本か落ちた。
「ああああああ!」
 絶叫。
 豪堂は地面に膝を着き、赤黒い血が溢れ出す己が手を凝視した。
 その頭上に、蒼葉は小太刀を振りかざす。
「勝負ありだな」と倉井先生。
 豪堂はガクガクと震えながら指の出血を抑えている。すでに戦意を失っているようだ。
 あとは小太刀を振り下ろせば、すべて終わる。
「や、やるなら早くやれ……」
 すぐにでも斬ってしまいたい衝動を抑え、蒼葉は小太刀をゆっくりと下ろした。
「その前に聞かせて。父上が一刃流の人を斬ったというのは本当なの?」
「本当じゃ。雲月を無礼討ちしてくれようと刺客を送ったところ、返り討ちにしてきおった」
「では、父上はどんな無礼を働いたの?」
「あやつは、わしからの申し出を断りおったのだ。せっかく、一刃流の師範に取り立ててやろうとしたのに、雲月流などという弱小流派に拘りおるから……」
「それだけ?」
「そうじゃ。筆頭家老であるわしに逆らうなど、それだけで万死に値する!」
 拍子抜けだった。
 やはり父に正当性があったことは喜ばしい。だが、その程度の理由であの立派だった父が殺されなければならないとは、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
「そんなことで……」
 蒼葉は拳を握りしめ、肩を震わせる。
「そんなことで!」
 そして、眼前にある醜悪な顔を思い切り蹴った。
「ぶっ……!」
 豪堂は勢いよく仰向けに倒れ、盛大に鼻血を吹き出した。
「許さない!」
 続けざま、脛を斬りつける。
「うぐっ!」
 切っ先は下腿を半分ほど切断した。もはや、まともに歩行できまい。
 それでも怒りは収まらない。
 膝を抱え地面を転げ回る豪堂を、さらに斬りつけようと小太刀を振り上げる。
「もうよせ」
 背後から先生が言った。
「やるなら一思いにやれ。いかに悪党といえど、なぶり殺しは武士道に悖(もと)る」
 我に返った蒼葉は、興奮で息を切らしながら小太刀を下ろした。
(一思いに――)
 それでは、この悪党の罰としてはあまりに軽い。
 さりとて、先生の言葉を無視することはできない。
 そこで蒼葉は逆の決断をした。
「殺さない……。私は、殺さない!」
 悲痛な叫びが夜空の下に響く。
「私以外にも、あなたを憎む人は大勢いる。あなたは大勢の人を苦しめた償いをしなければならない。だから私は殺さない。生きて、私以外の人たちからも裁きを受けなさい」
 豪堂は膝を抱えたまま一言も発しなかった。
 先生も偽善も藩主も、何も言わなかった。
 雲月流と由宮流の者たちも、ただ遠くから見守るだけだ。
 不意に、遠くからピーという笛の音が聞こえてきた。
「あっ、まずいな、お役人が来やがったか」
 偽善が慌てる。彼はお尋ね者なのだ。
「悪い、先に退散させてもらうわ。近いうちに道場に顔を出す。またな!」
 偽善は小さく手を振り、颯爽と走り去っていった。

             ***

 屋敷に大勢の役人が踏み込んできたのは、偽善が走り去って間もなくのことであった。
 石は役人に対し事の顛末を簡潔に説明した。
 お尋ね者である偽善と共闘したことについては藩主の一言により不問となった。
 庭で倒れている豪堂を役人たちが起こし、引っ立てていく。
 これにて一件落着である。
 石は藩主の前に跪き、借り受けた太刀を返還すべく差し出した。
 しかし、藩主は受け取らなかった。
「その刀はそなたに預ける。余がその刀にふさわしい遣い手となった時、改めて返してほしい」
 言葉の意味がつかめず小首を傾げた石に、藩主は言う。
「石よ。此度のことで、余は自分がいかに力不足か思い知った。もう二度と、豪堂のような悪をのさばらせぬよう、今一度鍛え直したい。余を雲月流の門下に加えてはもらえぬか?」
 石は恐縮し、頭を下げた。
「勿体なきお言葉にございます。孝水様が望まれるのであれば、この倉井石、全身全霊を以てお鍛えいたします」
 

 後日、豪堂重座衛門は牢獄入りとなった。
 罪状は藩費の不正濫用、殺人教唆、他多数。当然、新屋敷の建設は中止。旧屋敷を含む全財産を藩が没収。藩主の意向により、没収した財産は農村部の復興に使われることとなった。
 また、塾頭以下多くの高弟を失った一刃流道場は閉門となり、残された若い門弟たちは他流派に散っていった。
 もっとも、一刃流全体にとっては無数にある支部の一つが消えただけで、流派そのものにさしたる影響はない。今回の一件について一刃流宗家は「すべての責は豪堂にあり」とし、一切の関与を持たなかった。
 これは一見無責任のように思えるが、逆に言えば道場を潰された報復もしないということなので、石にとってはありがたい結果であった。
 事件より十日が経ち、事後処理があらかた済んだ頃、由宮師範が雲月流道場にやってきた。
 空は快晴。桜は満開。
 そんな清々しい情景の下で、これまでのこと、これからのことを話し合う。
「そうか。藩始まって以来の大事だった故、どうなるかと心配していたが、すべて丸く収まってくれたようだな。これも善太のおかげか」
「そのとおりです。彼が来てくれなければ、この藩は未曾有の混乱に陥っていたところでしょう。感謝の言葉もありません」
 石の言葉に、由宮師範は喜ばしくも悲しい複雑な表情をした。
「その善太が、役人に追われたまま行方知れずか……」
「今回の事件が思いのほか大きくなってしまったため、公儀による捜索が厳しくなったようです。今は動くに動けないのでしょう。ですが、偽善には蒼葉との約束があります。そのうち、ひょっこり現れるはずです。その時には、由宮師範のところにも顔を出すよう伝えておきます」
「頼む。だが、無理はしなくともよいと伝えておいてくれ。あの子が無事であるなら、それでいい」
「はい」
 話が一区切り付くと、由宮師範は表情を明るくした。
「ところで、雲月流に入門なさった孝水様の様子はどうだ? 昨日お城で指導が始まったと聞いたが」
「ええ」
 当然ながら、藩主が道場まで来て他の門弟と一緒に稽古をするわけではない。
 石の方から城に赴き、一対一の指導をするのだ。
「今日も朝から一刻(約二時間)ほど稽古を行ったのですが、孝水様は素直であらせられるため、とても呑み込みがよい。将来はきっと立派な剣客となられるでしょう。そして、立派な藩主にも」
「ふふ、我が由宮流も負けてはおれぬな」
 由宮師範は頼もしい笑顔で言った。
「共にがんばりましょう」
 長きに渡る泰平がため本質を失いつつある武士道精神を呼び起こす。
 この桜が、何度散ってもまた花を咲かせるように。
 石の戦いは、まだ始まったばかりであった。

終章 償い

 事件後、一月が経った。
 蒼葉は以前と変わることなく、家事と剣術と学問に明け暮れる日々を送っていた。
 父の仇は討った。もう女の身で剣術をやる必要はない。
 だが、身に付いた長年の習慣は簡単には変えられない。気が付けば稽古着に着替え、道場に身体が向かっていた。稽古をしなければ、どうにも落ち着かなかった。
「無理にやる必要はないが、無理にやめる必要もない」
 先生がそう言ってくれたので、いつか転機が訪れるまで稽古は続けることにした。
 ただ、その時は遠くないかもしれない。
 藩主・孝水公が倉井先生を剣術指南役に抜擢したことで雲月流の名声は急上昇し、この半月で二十人以上もの入門希望者が押し寄せて来た。
 希望者の中には元一刃流の年少者もいたが、先生はこれを暖かく迎え入れた。
 また、未だ独身であった先生に縁談の話が何件か来た。
 きっとこれから忙しくなるだろう。良い変化なのだから、それはそれでいい。
 気がかりなのは偽善のことだ。
 あれ以来、偽善は姿を現さない。噂も聞こえてこない。例の山小屋へ行くための山道に検問が敷かれてしまったため、こちらから会いにいくこともできない。
 それでも、いつか約束を果たすため会いにきてくれると信じて待つうちに、一通の文(ふみ)と大きな布の包みが届いた。
 包みの方はひとまず後にして、表に「蒼葉へ」と書かれた文を手に取る。
 差出人は「善太」と記してあった。それが偽善の本名だということは先生から聞かされていた。
 蒼葉は内心焦りながらも丁寧に油紙を開き、あまり達筆とはいえない文を読み始めた。
 
【会いに行けなくて悪かった。ご公儀の捜索が急に厳しくなってな。ほとぼりが冷めたら会いに行くつもりだったが、この様子じゃいつになるかわからない。だから、親父さんの話はこの文で伝えておく】
 
 やはり偽善は約束を違える人ではなかった。
 安心しつつ、続きを読む。

【実は俺も昔、ほんの一年足らずではあるが、一刃流道場に通っていた。十二の時に由宮流道場から移籍してな。親父さんのことは、それ以前から知っていた。当時、この小豊藩で一番の剣客といえば、文句なしに雲月蒼助だった。知っているとは思うが、六、七年前は雲月流の全盛時で弟子も多かった。前藩主が雲月蒼助を剣術指南役として取り立てようって話まであったくらいだ】
 
 父は自慢話をする人ではなかったので、指南役の話は初めて聞いた。
 とても誇らしく思う。
 
【これに不快を示したのが、藩の筆頭家老で一刃流道場の主でもある豪堂だ。豪堂は前藩主を言いくるめ、剣術指南役の話を白紙にした。親父さんは、その理不尽な仕打ちにも不平を言わず粛々を受け入れた。だが、豪堂はそれだけで済まさず、親父さんを自分の駒にしようと一刃流への移籍を促したんだ。もちろん、親父さんは断った。何度も何度もな。終いには豪堂本人が出向いていったが、それでも答えは変わらず、豪堂は激怒した。そこで親父さんを抹殺しようと刺客を何人も送ったって話は、もう聞いたな。豪堂は親父さんに非があるような言い方をしていたが、親父さんは降りかかる火の粉を払っただけだ。何の罪もねえ】
 
 少し前までの倉井先生と重なる部分が多くて血の気が引いた。
 もし、偽善がここには来ず、あのまま移籍を断り続けていたら、先生も父と同じ運命を辿ることになっていたかもしれない。

【だが、そこで困った事件が起きた。豪堂のやり方に怒った雲月流の門弟が十人ばかり、一刃流道場まで抗議に来たんだ。話は折り合わず、道場内で斬り合いが始まった。先に手を出したのは一刃流の方だ。その場にいた俺も参加せざるを得なかったが、自分の身を守るのに精一杯で何もできなかった】

 いかに七つの頃とはいえ、これほどの事件が起きていたことに気付かなかったとは……。
 きっと、父は家族に心配をかけないよう隠していたに違いない。

【不幸中の幸いにも斬り合いで死者は出なかったが、弟子を抑えられなかった親父さんに豪堂は責任を追求した。自分のことは棚に上げてな。切腹しろとまで言った。当然、親父さんは拒否。前藩主も拒否を認めた。そこで豪堂が次にとった策が、娘を人質にするというものだった】

 蒼葉は目を大きく開き、この一文を読み返した。
 娘とは、もちろん自分のことだ。

【偶然それを聞いた俺は、豪堂にやめるよう言った。そしたら、豪堂は条件を出してきた。
『お前が雲月を斬れば娘には手は出さない』とな。俺はひとまずその条件を呑むことにした。そして、親父さんに娘が狙われていることを知らせに行ったんだ】

 核心が迫るにつれ鼓動が高鳴る。
 文を持つ手が震える。

【親父さんは、しばらく考え込んだ後、突然言った。『私と真剣勝負をしてほしい』と。俺はわけが分からず、理由を聞いた】

 そう、その理由こそ蒼葉が六年間追い求めていたものだ。
 真実がどんなに残酷だとしても、決して目を逸らさない覚悟を決め、続きを読む。

【親父さんはこう答えた。『豪堂は執拗な男だ。これ以上騒ぎを大きくしては、家族はおろか雲月流そのものが根絶やしにされかねない。私が消えることで家族と流派を守れるのであれば、この命、喜んで捧げよう。だが、豪堂の言うとおりに切腹するのは屈辱だ。せめて最期は武人らしく戦って死にたい』――ここまで読めばもう分かるだろう。俺は親父さんの男気に打たれ、真剣勝負に応じることにした。もちろん、それが尋常な勝負でないことはわかっていたさ。それでも、俺はやるしかなかった。まともに戦っていたら、当時の俺ではまず勝ち目はなかっただろう。だが、勝負の結果は、お前がその目で見たとおりだ】
 
 あの時、少年がなぜ悲しげな顔をしていたのかようやくわかった。
 本当は斬りたくなかったのだ。それでも、父の願いを聞いてくれた。
 
【真相を知れば、間違いなくお前は豪堂を憎むことになっただろう。憎しみを抱えて生きるのはつらいもんだ。だから親父さんも、お前の先生も、何も話さなかったんだと思う。俺も、お前に憎まれないような生き方をしてきたつもりだ】

「私の……私のために……」
 声に嗚咽が混じる。
 胸に熱いものが込み上げ、涙が溢れる。文字がよく見えない。
 偽善の言うとおりだった。
 父を殺されて間もない頃、蒼葉はあの少年を憎んで生きていた。やがて悪斬り偽善の噂を聞き、彼があの少年と同一人物だとわかったことで憎しみの心が薄れていったわけだが、それがどんなに楽だったか。
 偽善が悪を斬る時に必ず名乗りを上げるのは、悪斬り偽善の名を世に広め、蒼葉に自分の生き様を伝えるためだったのだ。
 父のことを話すのは豪堂を斬った後と言ったのも同じ理由だ。
 たった一日のこととはいえ、聞けば蒼葉は憎しみに悶えていただろう。
 そうならないために、あえて黙っていてくれた。
(偽善は、私のためにそこまで……)
 蒼葉は涙を拭う。
 あと少し。考えるのは、とにかく全部読んでからだ。

【俺のことも少し書く。親父さんを斬った後、俺は賞賛されるどころか罪人に仕立て上げられちまった。俺は捕まる前に逃げた。藩を脱して、剣の腕だけを頼りに生き、気が付いたら今みたいになってたわけだ。だが、俺は後悔していない。親父さんが己の武士道を貫いたように、俺は俺の武士道を貫く。たとえ忌み嫌われようともだ。けれど、お前は女だ。俺達みたいに頑なに生きる必要はない。お前が男の真似をするようになった原因の一端は俺にある。だから、せめてもの償いとして贈り物をさせてもらう】

 文はそこで終わる。
 蒼葉は一緒に届いた大きな包みを見た。贈り物はこれに違いない。
 包みを開ける。
「あ……」
 そこには、朱色を基調とした可愛らしい着物と、赤い花びらの飾りの付いた簪(かんざし)があった。
「偽善……」
 また涙が出る。
 今度、着付けの仕方を教えてもらおうと思った。

後日

 豪堂重座衛門には切り札があった。
 人生を六度やり直しても、なお尽きぬほどの隠し財産が。
 地位を失い、家を失い、歩行もままならぬ身体になろうとも、金さえあればどうとでもなる。
 それが人の世というもの。
(悪斬り偽善、そして雲月流の甘ったれ共め。このわしを生かしておいたこと、存分に後悔させてやるわ)
 いざという時のため、金に意地汚い者の顔と役職は覚えておいた。
 この独房の番人にも目を付けておいた者がいる。
「豪堂様、手筈が整いましたぞ」
 今宵の番人である中年男が柵の前にしゃがみ、小声で告げた。
「抜かりはなかろうな?」
 豪堂も小声。
「はっ。今なら誰にも見咎められることなく裏口から脱出できます。駕籠もご用意しました。夜明けまでには藩を抜けられましょう」
「よし。もたもたしておると何が起こるかわからん。急げ」
 番人は懐から鍵を取り出す。
 が、なぜか鍵穴に手を伸ばそうとしない。
「どうした? はよう開けぬか」
「その前に今一度お聞かせ願いたい。脱藩後のお約束は……」
「わかっておる。お主には遠方の地で一生遊んで暮らせるだけの金を渡す。家も用意する。それでよかろう?」
 こんな口約束を信じる愚か者はそうそういまいが、豪堂は目の前の男がその愚か者であることを知っていた。
 この番人には博打で作った莫大な借金がある。このまま小豊藩にいても借金取りに追われる地獄の日々が続くだけだ。たとえ怪しい話であろうとも、この機に乗らぬ手はない。
 だというのに、直前になって怖気づいたらしい。
 筆頭家老として十年以上も君臨し続けてきた自分が、こんな下郎相手に駆け引きしなければならないことを屈辱に思う。
「わしとお主は一蓮托生じゃ。ここに残っても先はない。それとも、何か借金を返す当てがあるのか?」
「いえ……念のためです。こちらも命懸けですので」
 嘘だ。この男は命など懸けてはいない。
 いよいよとなれば命惜しさに逃げ出すに決まっている。
 だが、今この男の機嫌を損ねるわけにはいかない。まずはこの独房から脱獄しないことには始まらないのだ。
 だから静かに言う。
「約束は守る。急げ」
「……はっ」
 番人は震える手で牢の鍵を開けた。
 足の自由が効かぬ豪堂は番人に背負われ、外に出る。
 曇り空のため月のない闇夜をしばらく進むと、道沿いの木陰に駕籠が置いてあるのが目に入った。
「この中で、しばしお待ちを。すぐに駕籠者を呼んで参りますので」
 駕籠を担ぐ二人には大金を渡すのと引き換えに、誰が乗るのか問わないよう番人に取引させた。事を知る者は少ない方が良い。当然、番人まで駕籠に乗せては雇う人間が多くなってしまうので、自分の足で付いてくるよう命じた。
 やがて、駕籠が動き出す。
 第一に向かうのは藩内にある隠し財産の保管場所だ。
 まずは当面の資金を手にしなければならない。
 脱藩後は過去に多額の資金援助をして借りを作っておいた侠客の元に身を寄せるつもりだ。
 そこで藩外にある隠し財産を回収しつつ、報復の準備を始める。
 剣客を雇うのはやめだ。今度は鉄砲隊を組織する。
 いかに化け物じみた力を持つ悪斬り偽善でも、鉄砲隊で囲んでしまえば抵抗できまい。
 これまでは小豊藩での地位と名誉のため、一応は面目の立つ手段を選んできたが、こうなった以上なりふり構ってはいられない。どんな汚い手を使ってでも悪斬り偽善と雲月流を抹殺する。
(まずは夜更けに雲月流道場を襲撃して倉井と小娘を始末する。いや、小娘は生かしておいた方が良いな。悪斬り偽善をおびき寄せるのに使える。なにより、この指と足の恨みがある。人質として捕らえている間、たっぷりいたぶってくれるわ)
 豪堂の左手からは親指を除く四本の指が失われていた。また、右足の膝下が骨の半ばまで切断されたため、立ち上がることもできない。
 一応、簡易な治療は受けたものの、夜も眠れぬほど傷が痛む。
 あの小娘に限っては、ただ殺すだけでは到底満足できぬ。
(悪斬り偽善をやった後は雲月流の門下生、ついでに由宮流も滅ぼしてくれる。そして、最後が小娘だ。すべてを失い絶望しきったところで、地獄に送ってやろう)
 倉井石が、悪斬り偽善が、あの小娘が、目の前でもがき苦しむ様を想像し、豪堂はほくそ笑んだ。
 そう遠い話ではない。早ければ一年以内に――
 不意に駕籠が止まる。
「なんだお前は?」
「そこをどけ!」
 駕籠者たちが声を上げる。
 どうやら、誰かが道を塞いでいるようだ。
(酔っぱらいでも転がっているのか? まったく、どこの阿呆だ。こんな夜更けに)
 豪堂は心の中で悪態をつく。
 だが、違った。
「命が惜しかったらとっとと失せな。退く者を斬るつもりはねえ」
 聞き覚えのある声だった。
 豪堂の肝が縮み上がった。
「ひぃー!」
「お、お助けー!」
 駕籠者たちが逃げていく声。
「あ、あっしは関係ねえ。こいつに騙されただけだ!」
 番人も逃げていく。
(まさか、まさか、まさか……!)
 足音が近付いてくる。
 豪堂は恐怖のあまり身動き一つ取れなくなる。
 足音が止まり、駕籠の簾が上がる。
 そこから顔を見せたのは――
「よう」
 やはり、あの男だった。
「な、な、なぜじゃ!? なぜ貴様がここに!?」
「なぜって?」
 男が不敵に笑う。
 切っ先がこちらを向く。
「それは、俺が悪斬り偽善だからさ」

                                           
                                      終

『悪を斬る理由』

『悪を斬る理由』 hitori 作

主人公・雲月蒼葉(くもつきあおば)の父親を殺したのは、悪斬り偽善と呼ばれる男だった。 悪斬り偽善は、その名のとおり悪を斬る男だ。 しかし、それでは父が悪だったということになってしまう。 父の潔白を確かめるために、蒼葉は危険を承知で偽善に会いにいく。

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-09-11
Copyrighted

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著作権法内での利用のみを許可します。