虫食み

虫食み

 新宿駅構内、南口改札付近にあるこの喫茶店には、椅子が無かった。私はそこでインスタント珈琲を求め、安易に迫り出している突っ掛け棒に肘を付いた。時刻は、午後十時を大きく回っていた。鷹栖の姿は、どこにも無い。私は、今回の鷹栖の突然の誘いに、一種の不気味な感を抱いていた。
 鷹栖と知り合ったのは、私がまだ日雇いの派遣業務で口を糊していた時分で、鷹栖とは派遣先が同じだったことから、共に作業に明け暮れた思い出があった。が、言ってしまえばそれまでの関係で、どこかへ二人で飲みに行ったとか、些細なことで笑いあったりしたなどということは、ただの一度も無かった。現に、私が日雇い派遣の仕事を辞してからは、それきり連絡も途絶えていた。
 鷹栖からふいに連絡が来たのは、私が新たな会社に正社員として採用され、勤めだしてから、約一ヶ月が経った頃だった。
「最近現場に来ないね、久しぶりに会いたい」
 メールはこのような内容であったが、正直、私は気乗りがしなかった。既に正社員となり、新たなスタートを切っていた私は、現在の近況を一から語って説明するのも億劫に思えたし、決して楽しいとは言えなかった日雇い派遣時代の旧人に会うという行為は、何か現実から逆行している気がして、辟易した。
 そういったことから、当初は断りの連絡を入れたのだが、執拗な問い質しと、しきりに別日を設ける鷹栖の粘りの強さに、結局根負けした形となった。何かに憑かれたような鷹栖の熱量が、文面から滲み出ていて、得たいの知れない圧迫感すら覚えた。
 鷹栖は、約束だった午後十時から、三十分ほど遅れてやってきた。裾をすねまで捲ったズボン、無精髭に、閉じきらない口元は相変わらずであったが、どこか歪んだような眼をしていた。
「久しぶりですね」
私から声をかけてみたが、鷹栖はそれに応えずに、アイス珈琲を一息に飲み干すと、
「派遣、やめたのか」
と、呟いた。
「やめました」
とだけ応えると、鷹栖はいきなり、
「この野郎ッ!」
と大声で怒鳴り、私の胸襟に掴みかかった。突然の挙動に私も動揺し、無理に振りほどいて一喝すると、鷹栖は急におろおろし出して、
「やめて、やめて、」
と連呼した。がらりと感情が変動し、極度に怯え始めた鷹栖の様子に、私は尋常でないものを感じ、鷹栖の腕を掴んで、店の外に引き出した。鷹栖の腕には、無数の痕のようなものがあった。鷹栖さん!と声をかけると、
「笹岡が、笹岡が、」
と震えるように呟いた。笹岡とは、派遣先の工場にいた社員の名で、派遣使いが荒いことで有名な男だった。笹岡と鷹栖の間に、何があったのか。
「笹岡はいないですよ。鷹栖さん、大丈夫ですよッ」
私はしきりに宥めた。既に新宿駅の改札前には、小規模の人だかりが出来ていて、事態を聞き入れた駅員が、こちらに向かって歩き出していた。鷹栖は喘息のような呼吸を繰り返しながら、
「頼む、俺を一人にしないでくれ。頼む……」
と、歪んだ目元から泪を滲ませて、私に訴えた。
「私は隣にいますよ。鷹栖さん、これからの仕事のことも、私と一緒に考えましょう。大丈夫、鷹栖さんは一人ではないです」
私のとっさの一言が効いたのか、鷹栖は穏やかな呼吸を取り戻して、目に宿っていた迫真も消えていった。
 鷹栖は、私が辞めたあとの派遣業務を、一人黙々とこなしていたのだ。或いは、仕事を辞めることの出来ない理由が、存在していたのかも知れない。そして、それには少なからず、私の処遇も影響していたような気がして、目の前に伏す鷹栖を憐れんだ。
 程なくして、人波を掻き分けるように駅員が現れ、倒れている鷹栖に声をかけた。
鷹栖は、駅員を見ると、再び目を見開いて痙攣をおこし、
「笹岡が、笹岡が、」
と呟いた。

虫食み

虫食み

陽の当たらぬ水底に生きている人

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-09

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