主人公

一度でいいから、名刺というものを渡してみたかった。
ビジネススーツを着て、ちょっと洒落たネクタイを締めて、さわやかに登場。名刺を交換して、余白にさらさらと相手の似顔絵なんかを描きとめる。
そんなクールなビジネスマンを気取ってみたかった。

ため息をついて、トイレから出る。手を洗っていると、鏡の中の自分とふと目が合った。何を考えているんだ、と自分をたしなめる。
この無気力の塊のような男ときたら、何を弱気なことを考えているんだ。
僕はこれから何にだってなれる。ただ今は地味な顔で、無地のパーカーくらいしか着れないけれど、これからうまく売り込んでいけば良い。そうすればいつでもビジネスマン10年目です、みたいな雰囲気のお兄さんになれる。頭の切れる国会議員にもなれるかもしれない。可能性は無限だ。

用もなく携帯電話を開くと、メールが一件。社員の坂巻さんから、「明日の打ち合わせは第二会議室です。」と一言だけ。無理なお願いとかがなければいいなあ、と思いながら書店に入る。社員は気楽で良いよな、なんて愚痴を漏らしながら手に取った雑誌には、どれも似たような顔が並んでいた。


「緑くんだよね」

雑誌を立ち読みして三冊目にさしかかったところで、向かいでカメラ雑誌を見ていた男が声をかけてきた。こういう時、僕は一瞬、どきりとする。どうすればいいのかなんて分かっているはずなのに、どうすればいいんだろうと思ってしまう。相手は僕の憧れのビジネスマンで、趣味がカメラで、中学の同級生で、名前は確か新田君だ。でも、「新田君じゃないか!」と言ってそれなりの笑顔を浮かべた次は、どうすればいいんだろう。立ち話もなんだから、とか言って、すぐ横のカフェにでも入るんだろうか。それからお互いの近況とかを話して?それで、お互い頑張ろうな、みたいな薄っぺらいことを言って別れるのだろうか。
「覚えてない? 新田だよ。三つ葉中の」
「いや覚えてるよ。久しぶりだなあ」
「ほんと久しぶり。元気そうで良かったよ。」
久しぶりに会った新田君は、僕の頭の中の新田君よりも人慣れていた。それなりの笑顔を見せてみると、新田君もにこにこと笑ってくれた。
「立ち話もなんだからさ、そこのカフェ寄ろうよ。」
新田君はまた、人の好さそうな笑顔で僕をカフェに誘った。

「最近ちょっと忙しくてさあ」
新田君は手慣れた様子でカフェモカを頼んだ。僕は値段に目を見張りながら、できるだけスマートにミルクティーを選ぶ。ミルクティー一杯に450円も取るなんて、ぼったくりにも程がある。僕は財布に残された500円玉を見つめて、またため息をついた。
新田君はというと、そんな僕のことなんかお構いなしで、足を組んで、肘をついて、カフェモカを飲み始めた。飲んで話して、飲んで話して。新田君はいろいろなことを洪水のように話した。
今日はクライアントが融通の利かない人だった。上司の一人に何故かえらく気に入られていて、それはそれで大変。給料はそれなりに入るけど、使う暇がない。などなど。

僕はただ、よく喋るな、と思った。元気そうで本当に何よりだし、そのまま話疲れて、僕のことなんか聞かずに帰ってほしい。そう思った。でも多分、新田君はすごくちゃんとしている奴なんだと思う。クレームの処理が大変だった、という話の途中で、「そういえば」と切り出した。
「緑くんは? 最近、何やってるの」
聞いている割に、あまり興味はなさそうだった。飲みかけのカフェモカにミルクを三つも入れて、微妙な顔で僕を見る。なんだかイラっとくる奴だ。

「小説の主人公やってる。」
僕は、悔しかったんだと思う。見ての通りのニートだよ、という言葉が言えなくて、ついそんな事を言ってしまった。
「小説の主人公?」
「普通のことするだけなんだけどさ、普通じゃないんだよ。」
「何するの?」
「いろいろ。目立ちすぎるとあからさまだから、顔とかはすごい普通の人じゃないといけなくてさ。ただ平凡すぎるとそれはそれでつまんないから、回転寿司では絶対に生ハムしか食べないとか、あだ名がちくわとか。そういう設定で生きなきゃいけない。」
「セリフ一つにも絶対理由が必要だし、こんな風に会話ばっかりしてたらダメで、時々何か感想とか、相手の仕草とかについて触れなきゃいけない。」
「もちろん金持ちの気分だって味わえるけど、小説の中で成功したって、何にもならない。しかも終わりがないんだ、この仕事と来たら。永遠に誰かにならなきゃいけない。」
「だったらむしろ君みたいに、気付かないままでいてみたいよ。」

新田君は、ふーん、と頷いた。

「大変なんだなあ、緑くんも。」
「……そうでもないよ」
気付けば、僕らのカップは空になっていた。新田君なんか、あんなにちびちび飲んでいたはずなのに。つい熱が入ってしまったのだろう。
「まあ、お互い頑張ろうな。今度また連絡するよ。久々に同窓会とか、しようぜ」
僕がじゃあまた、と手を振ると、新田君は駅の方に消えていった。

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「緑さんさあ、この前仕事つぶしちゃったでしょ」
新田君と話した次の日、社員の坂巻さんから注意を受けた。
「はあ。」
「はあ、じゃなくて。困るのよ。小説の主人公とか言っちゃうの。転職中って設定だったでしょ。」
「すみません。つい……」
坂巻さんは眉間にしわをぎゅぎゅっと寄せて、資料の一部を僕に見せた。
「次の仕事、緑さんのやりたがってたビジネスマンだから。頑張ってよ。」
差し出されたイメージ図に描かれていたのは、仕事のできそうな男そのものだった。
「本当ですか! 頑張ります!」
僕は自分を鼓舞した。ここで決めれば、またさらに良い仕事がもらえるはずだ。良い仕事をもらえれば僕はいくらでも輝けるし、いくらでも恋が出来るし、成功できる。成功したら次は、

次は……?

主人公

小説の主人公に自我があったら最悪だな、と思って書きました。「にった」って発音が好きです。

主人公

小説の主人公に自我があったら、それがもし仕事だったら、という話。史上最悪のブラック企業を生み出しました。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-05

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