夢の中の青い女 新宿物語 3

夢の中の青い女 新宿物語 3

(7)

「ちょっと、伺いたいんですが」
「なんですか?」
 佐伯は耳を疑った。今、聞こえたのは娘の牧子の声ではなかったか?
「ここは何処なんですか?」
「ここは何処? ーー何を言ってるの、変な人ねえ」
 佐伯は確信した。明らかに、普段、聞き馴れている牧子の声だった。
「おまえは牧子かい?」
「そうよ、あんた誰なの?」
 牧子は不審気に言った。
「お父さんだよ。新宿のバーで飲んでいたら、霧に巻き込まれてしまって、帰るのに道が分からなくなり、迷ってしまったんだ。ーーああ、でも、いつの間にかお父さん、家へ帰っていたんだ」
 佐伯は思わず安堵しながら、把手に手を掛けて扉を開けた。
 途端に牧子は信じられないような悲鳴を上げた。
「お兄ちゃん、変な人よ、変な人 !」
 ベッドの上で裸の体を半分起こしながら叫んだ。
「変な人?」
 同じベッドの向こう側にいた男が、やはり裸の体を起こして言った。大学生の息子の勝夫だった。
「なんだ、お前は ! ずかずか人の部屋に入って来やがって」
 勝夫は激しい怒気を含んだ声で言うと、素っ裸のままベッドに立ち上がった。
 佐伯は眼を疑った。娘と息子が裸で同じベッドに寝ていた・・・・。その先は当然ながらに想像出来た。
「お前たちはいったい、なんの真似なんだ ! そんな事をしていて」
 佐伯は我を忘れて怒鳴った。
「おれ達が何をしていようと、他人のあんたなんかには関係ないだろう。さっさと出て行け ! それでないと警察を呼ぶぞ」
 勝夫は怒りに任せてベッドを降りた。
「他人だと? 他人とはなんだ ! お父さんをつかまえて」
「お父さん? 聞いたような事を言うな ! この変態が、人の部屋に忍び込んで来やがって」
「お父さんに向かって変態とはなんだ ! お前たちのしている事の方がよっぽど変態行為だ」
「うるさい奴だなあ、さつさと出て行けよ」
「お兄ちゃん、早く警察に電話した方がいいわよ」
 牧子が堪り兼ねたように言った。
「いったい、お前たち兄妹はそろいも揃って、なんていう事を言うんだ。お父さんの顔を忘れたのか !」
「あんたなんかに、お父さんなんて言われる筋合いはない。いいから、さっさと出て行け !」
 勝夫は逞しく勃起した性器を丸出しにして佐伯に迫って来た。
 佐伯は勝夫の信じられない姿に圧倒され、眼をそむけると後じさりをして、そのまま部屋を出た。扉が佐伯の背後で閉まると、またしても中から嘲りの笑い声が聞こえて来た。佐伯は耐えられない衝撃で、めまいに襲われた。ふらふらと足を運んで再び、闇の中を歩き出した。この先、いったい、何が待っているのか? 自分を取り囲む世界が信じられなくなっていた。支離滅裂だった。何があっても不思議はない。今朝、出勤のために家を出た時の、いかにも調和の取れた光景が懐かしく思い出された。なんでこんなに、すべてが変わってしまったんだ。何があったというのか? どういう事なんだ、これは・・・・? 何もかもが分からなかったーーそれにしても、新宿の街は何処へいってしまったんだろう? あんなに深かった霧もなくなっている。あるいは、何処かの地下街に迷い込んでしまったんだろうか? 多分、そうに違いない。この、トンネルの中を歩いているような感じが、それをよく表している。ーーおや ! また、明かりが見えて来た。今度はなんの明かりだ? 青く見える。あるいは、このトンネルの出口かも知れない。ぼんやりと滲んで、かなり大きく見える。そうだ、地下街の出口の明かりに違いない。霧に滲んだ街の灯があんなふうに見えているんだ。混迷から抜け出られる気がして佐伯は、勇んで歩いて行った。
 霧に滲んだように見えていた明かりは、やっぱり街の明かりだった。全身を明かりに包まれたと思った時には街に出ていた。霧はだが、さっきよりも一段と濃くなっているらしかった。街灯の明かりにからまる霧が、白く渦巻きになって流れているのが分かった。着ている服も湿って来ているようだ。呼吸さえも苦しくなって来る。さっきよりも硫酸の濃度が増しているのだろうか? それとも、深い霧が呼吸を困難にしているだけなのか? いずれにしても、早くこの息苦しさから逃れないと大変な事になるのではないか・・・・。霧の深い夜には死人が多く出るので注意するようにと、ラジオでも言っていた。
 佐伯はますます困難になる呼吸に不安を覚える。死の影が忍び寄っている気がする。さっきは見えていた建物のおぼろな影も今は見えない。ただ、時おり、幾つかぼんやりとした明かりが見えて来ては、歩く速度と共に後ろへ過ぎて行くのは、やっぱり人魂なのだろうか? 青い明かりもあれば、黄色い明かりもあるようだ。ーーいや、ここは新宿の街ではないのか? また、新宿の街に戻って来ているのではないか? ーー佐伯はなぜとはなしに、ふと思った。そしてそう思うと、歩く速度と共に光りが後ろへ過ぎて行くのは、霧にぼやけたネオンサインの明かりが、歩行の速度と共に後ろへ流れて行くのだ、そう思えた。そして、そう理解すると佐伯は、思わず心のやわらぐような安堵を覚えて、ほっとした。幾分かの気分の晴れる思いと共に、佐伯はさらに勢い付いて歩いて行く。するとやがて、白い煙りのように流れる霧の中に「バー 青い女」の看板が青く滲んで夢のように浮かんでいるのが見えて来た。なあんだ、俺はまた「青い女」に戻って来てしまったんだ。
 佐伯は訳の分からない事ばかりに巻き込まれて、一寸先も見通す事の出来なかった霧の中で救われる思いがした。それにしても、「青い女」では、まだ営業しているのだろうか? ママはさっき、みんなに早く帰れと言っていたのに・・・・。あるいは、ママかチーフのどちらかが残っているのか知れない。いずれにしも、今はとにかく、もう一度「青い女」に入って、この呼吸の困難な状態から逃れよう。
 佐伯は日頃から親しんでいるバーの扉を押して中へ入った。店内には佐伯が出た時と同じ状態のままに青い照明が点っていた。佐伯が奥へ進んで行くと、不意にカウンターの陰から一人のホステスが立ち上がって、「いらっしゃいませ」と言った。
「ああ、びっくりした ! 誰もいないのかと思ってた」
 佐伯は咄嗟に言ったが、ホステスの顔を見て戸惑った。
「あんたは?・・・・」
 思わず聞いた。佐伯が見た事もないホステスだった。
「アケミです。宜しく願いします」
 アケミはカウンターの中で頭を下げた。
「なんで、ここに居るの?」
 佐伯は新顔のいる事が理解出来なくて聞いた。
「みんなはもう帰ってしまったんですけど、わたしは家が近いから、こんな夜なので、どなたかが道に迷っていらっしゃるのではないかと思って、お待ちしていたんです」
 と、佐伯のまったく知らないホステスは、それが当然の事であるかのように言った。
「でも、ここは"青い女"でしょう?」
 佐伯はまだ理解出来なくて、念を押すようにして聞いた。
「はい、そうです」
 アケミは言った。
 
 
 

 

夢の中の青い女 新宿物語 3

夢の中の青い女 新宿物語 3

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-09-01

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