*星空文庫

眼鏡奇譚

北城 玲奈 作

 ベッドから降りると爪先になにやら感触がある。拾いあげてみると、軽かった。どうやらプラスチックのケースらしい。無色透明の面をまたぎ、「付加価値の結晶」という売り文句がぐるりと躍動している。文字に遮られて中身はよくわからない。揺らすと、かたかたとみずからが硬質であることを示した。
 開けてみる。それは眼鏡だった。カーテンにより輪郭を失った光が明らかにするところでは、なんら変哲のない、銀縁眼鏡である。フレームを持ち、レンズ越しに部屋を見る。左右ともに、ちょっとした度が入っているようだった。しかし私の視力は右のみ著しく低い。レンズをのぞいても、左目をつむってしまえばそれまでである。ポスターから向けられているはずのグラビアアイドルの微笑みは私には届かない。
 おそらく、きのう泊まりに来た友人が忘れていったのだろう。連絡をして、シャワーを浴びに風呂場へいく。浴槽がぺたぺたするので、しばらく洗っていなかったのを思い出した。足裏を念入りに泡立てる。かがむと、頭が痛んだ。自分の身体に触れるのに、いちいちどこかしら折り曲げなければならないのはいささか不服である。

 東京は連日暑い。水と、汗とを拭いながら部屋に戻ると杉原杏璃がいた。酔いがさめきっていないのか、何度見ても杉原杏璃はソファに腰掛けていた。こちらに気づくと、彼女は立ち上がって挨拶をしたのち、かんたんに経緯を説明しはじめた。しかし私は頭が痛かったし、光景はおよそ本当ではないと思ったから、声を横目にふたたびベッドへ潜り込んだ。

 起きると夕陽がまぶしかった。とんとんと音がする。見ると、杉原杏璃である。料理をしているらしかった。「おはようございます」と彼女はいった。彼女の顔はこちらに向く方だけ夕陽に赤く浮かびあがっている。よく動くので、陰影は刻々とかたちを変え顔面に表情を彫りつけた。ポスターより生身のほうがきれいだと思った。眺めているうちに日が暮れて、髪にうつる光以外にはなにもわからなくなった。彼女は部屋の明かりをつけ、ベッドのそばへやってきて、カーテンを閉めた。近くで見ると、精巧なつくりをしている。まるで人形のようなおもむき。私が寝ているあいだに掃除と洗濯をしておいたということ、夕飯は煮物だということを報告すると、彼女はしばし唇を休ませた。

 風が重いので、窓は開けていたが部屋は湿るばかりで音ひとつない。家具の角が鋭く迫る。破裂せんばかりの空気が満ち満ちている。なにかいわなければと身を乗り出す手のひらの下で、ぽきりと折れた感じがした。見ると、今朝の眼鏡が真っ二つである。

 しめた。さっそく眼鏡ってこんなにきれいに折れるんですねと話しかけ顔を上げると杉原杏璃はもういない。部屋じゅう汗をかいて探したが、彼女はもう、ポスターの中で微笑むばかりである。混乱する視界に折れた眼鏡がうつった。そういえばこれは、友人のものかもしれないのだった。確認するも、まだ返事はない。携帯をベッドに放ると、跳ねて床へ落ちた。隣には、「付加価値の結晶」と書かれた空箱があかるく転がっている。

『眼鏡奇譚』

『眼鏡奇譚』 北城 玲奈 作

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-08-27
Copyrighted

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