リラの花が咲く頃に
小説家になろうにて連載しております「リラの花が咲く頃に」の第1話です。かぐらの初期作品、処女作であるため今以上の稚拙な文章、乱文等がございます。ご了承くださいませ。
第1話 「生命を繋げるために大切なことは」
2002年4月。
「ライラック」と言われる美しく小さな香り高い小花つけた高い木はフランス語で「リラ」と呼ばれる。白、紫、ピンクの花がたくさん花をつけて房状に咲き乱れるこの花は、札幌・大通公園や北海道の長沼町、釧路町などでよく見られ、4月から6月にかけて市民に遅い春の訪れを告げるように甘い香りを放つ。
新学期であるこの時期に札幌で生まれ育っているこの少女も紛れもなく学校で身体測定などを受ける予定だ。
時刻は朝の6時。まだ彼女は夢の中だ。
「…ん〜んぅ〜…」
彼女は悪夢を見ていた。右耳から黒い真珠が数珠状に出てきては、止まらず気持ちが悪い。
目覚めると悪臭漂う耳垂れがお気に入りのマイメロディーの枕を汚していた。
少女の名前は猫宮佳奈子(ねこみやかなこ)。この時まだ8歳。9月の誕生日には9歳になる。
佳奈子は小学校で身体測定と検査を受けた。身体測定では問題無かったものの、検査項目に含まれている聴力検査に問題があった。
「はい猫宮佳奈子さん、先ほどの左耳と同じように右耳から音を出しますね。聞こえたら手元のボタンを押してくださいね」
検査に至っては単純なもの。ヘッドホンの様な機械から聞こえてきた音に対して手元のリモコン状ののものについているボタンを押すだけ。しかし佳奈子の右耳は特に低温が聞こえていなかったのか彼女は手元のボタンを押さなかった。
後日学校から保護者宛に子供の耳の異常を知らせる緑色の用紙が手渡され、佳奈子はおばである燕知世(つばめともよ)に連れられて栄町にある聊斎耳鼻咽喉科(りょうさいじびいんこうか)クリニックを受診した。
当時の聊斎豪志(りょうさいつよし)院長は彼女の右耳の状態を額帯鏡と拡大耳鏡で先ず診てみることにした。
「おや?佳奈子ちゃん、この頃耳の中からいやーな臭いのする、どろどろしたものが朝起きた時枕についたりしなかったかい?凄く耳の中が湿っているんだよ」
佳奈子は小首を傾げて「うーんとね」と悩み始めた。
「思い出せる?今日の朝とかマイメロちゃんの枕はどうなってた?」
知世は一緒に住んでいないため、優しく彼女に問う。佳奈子の母親である猫宮佳苗(ねこみやかなえ)は事情があって育児を完全放棄しており、姉である知世が仕事帰りに小学校から帰ってきた佳奈子を迎えに行って彼女の祖父母である両親と一緒に面倒を見ているのだ。なので朝の枕の状態など、親ですら知らないのである。父親朝早くから深夜まで働いていて娘がどうなっているかなんてわからない。
少し悩んだあとに思い出した佳奈子が答える。
「マイメロちゃんの顔、汚れちゃったの、いっぱい」
「いつから汚れる様になったの?」
「いつからかわかんない。でもこの前の身体測定の前から汚れる様になっちゃった」
「お母さんは知らなかったんですか?」
「いえ…私はおばであって母親ではないので…すいません」
院長は何か事情があるのかもしれないと思い、踏み込んだことは聞かなかった。
「…取り敢えず、耳の中を少し綺麗にして聴力検査をしてみましょう。後藤さん、この子を検査室まで案内してあげて」
「はいわかりました。佳奈子ちゃん、こっちに来てね、保護者の方は外の待合室でお待ちくださいーー」
聴力検査室にて学校の検査よりも高度な検査を受ける。少し暗い室内で幅広い種類の音を聞き、聞こえた音に対して手元のボタンを押す。受け方を同じである。左耳は正常なものの、右耳はやはりこちらでも良くない結果が出た。
後日、結果を聞きに行くと思いも寄らぬ病名を言い渡された。
「『真珠腫性中耳炎』です。恐らく内耳性のものと思われます。こちらをご覧ください」
院長が内耳の模型と頭部X線検査にて撮影された佳奈子の頭部のレントゲンデータを照らし合わせて説明する。
「『真珠腫性中耳炎』…この病気は中耳炎を繰り返すうちに一部の上皮組織が増殖したもの、ここに真珠のような白いものがあるのがお分かりいただけますでしょうか。この真珠のようなもの、真珠腫が耳小骨などを破壊していく病気です。真珠腫というのは腫瘍ではないのですが、姪っ子さんのケースでは恐らく後天性のもので厄介なことに鼓膜と真珠腫がくっついてしまっています。点耳薬で真珠腫が消えていけばいいのですが、消えなければ手術をしなければなりません。また症状の進行具合によっては骨が破壊されていますので更に鼓室形成術というものを行なって失われた骨を補う必要があります」
大切なかわいい姪っ子が大病を…知世はまだ8歳の佳奈子から五感の1つである聴力を奪っていこうとするなんて神様はひどすぎると思った。母親である妹はあてにならない。ならば、自分がなんとか治療費を出して救わねばという正義感の表れから知世は院長を問い詰めた。
「先生っ!」
「っ…あ、はい」
「うちの姪の右耳は治るんですよね?!薬で治らなかったとしても、手術すれば治るんですよね?!」
あまりにも知世の問い詰める姿勢に迫力がありすぎて院長は一瞬怯んだが、少し考えてから本当のことを話した。
「薬で治ったとしても、まだ完治したとは言えない状況です。数年後…10代、若しくはもっとあとになってから再発する可能性が高いです。姪っ子さんの耳は気圧の変化に対して上手く対応できないかもしれない。一度飛行機に乗ったときに感じるあの不快な症状にうまく対応できない状況が続けば、再発する可能性は充分考えられます」
再発する可能性…もしかしたら再発すればあの子の耳はーー
「再発したら…あの子の聴力は…」
「聴力どころか、最悪の場合、真珠腫は脳まで破壊し尽くして死に至らしめる可能性も稀にあるケースです。鼓膜に白い爆弾を抱えている状態と考えてください」
「…白い爆弾…死…」
「一分一秒でも早い治療をしていきましょう。…今日は点耳薬を処方しておきます。耳掃除する際にでも右耳に点耳してくださいーー」
知世はその帰り佳奈子を連れて北丘珠にある燕家に向かうことにした。栄町から新道東の北34条通りに面しているバス待合所まで手を繋いで歩いていく。
「おばさん、今日も丘珠行くのー?」
「そうだよぉ、おじいちゃんとおばあちゃん待ってるからなるべく早く行こうね」
「うん!」
地下鉄新道東駅隣のバス待合所から中沼小学校通り行きのバスに乗る。新道東の栄えた町並みから少しずつ景色が寂れていく。右手に大きなラーメン屋の看板、左手には小さなお寺が見える。少し進んでいくと丘珠神社がみえてしばらく何もない左右更地と所々ある玉ねぎ農家の景色が続いていく。退屈な景色と沢山歩いたあとの疲れもあって窓側の後部座席でうとうとし始めた。隣に座る知世の肩に凭れかかる。
「佳奈子、もうすぐだから寝ちゃだめよ」
「…うん」
バスは丘珠中学校前に止まり、2人は大人料金と子供料金を払って前方の扉から降りた。少し前に進んで左に曲がると左手奥に丘珠中学校、道路の真ん中を挟んで右手に120年以上の歴史と広い土地を持つ丘珠小学校が見える。2人は手を繋いで丘珠中学校のある側の歩道を歩いて北丘珠3条1丁目の燕家を目指す。
少し進むと左右の景色は玉ねぎ畑に変わっていき、前方向こうには北丘珠の住宅街が見えてくる。
知世が優しい声で佳奈子の為に作った歌を歌う。
「♫ちょーびんくんちょびんくん〜」
それに合わせて佳奈子も歌い出す。ちょびんくんとは当時燕家で飼っていたシーズー犬の名前である。
「♫ちょーびんくんちょびんくん〜」
佳奈子はあどけない笑顔でけたけた笑う。まだこんな幼い子供が右耳に生命に関わる爆弾を抱えているなんて考えたくないが、一分一秒でも早くこの子のまだ希望に満ち溢れている人生を守ってあげなくてはいけない。普通こんなことは母親が考えるべきなのにこの子の母親は全く当てにならない。
燕家に着いて佳奈子の祖父母である両親とお茶をした後、佳奈子に2階で遊ぶように言って大人3人で彼女の右耳の病状と今後のことについて話し合った。リビング横の座敷ではちょびんが心配そうな表情を浮かべて襖横の畳の上に伏せている。
事情を理解した両親がひとりの孫娘のことを思い涙を零す。
「まだあんなに幼いのに痛いともなんとも言わないし、佳苗も佳苗だぁ。あんな病気抱えた子供がいるのに宗教なんかやってんだから。慶一さんもなんも言わないのかい?」
「忙しいみたいで電話かけても繋がらないのよ。佳苗が宗教でバンバン使っちゃうから稼いでも稼いでも足りないのか、今肉体労働とすすきのの店の送迎の掛け持ちだってよ。いつか死ぬわよって言ってやりたいわ」
「そうなの?いやぁー佳苗もダメな親だね。いっそのことうちで佳奈子引き取ってやらないかい?治療の事だってあるし」
「そうだぁ。もうあれは娘としてもみっともない母親だ。俺らでみるべきでないかい?」
しかし、そうしたいのは山々だが、知世は佳奈子の生活が変わってしまうのはいけないと感じてそれを断った。それに母親はダメでも佳苗が佳奈子の母親なのだ。知世ではない。
「それは今はやめよう。佳奈子には坂内さんの孫の諒くんやセイコーマートの大佛(おさらぎ)さんちのれなちゃん、色んな友達が学校にいるし、あんなダメなのが母親でもあの子にとっての本当の母親は佳苗であって私じゃないわ。大きくなるまではちゃんと親と一緒にいるべきだと思う。もしもの時の手術費なんかは私が出すけど、今は引き取るべきじゃないわ」
そう言われて両親は何も言えなくなった。しかし、知世の貯金は貯めておくべきだと思い、そこだけは譲らなかった。
「知世わかったよ。でも働いてコツコツ貯めた貯金は将来のためにとっておきな。ねぇお父さん」
「そうだぞ、お前はまだ嫁入り前だ。いつかいい人見つけて結婚式あげるために残しておくべきでないかい?お金なら孫の為だ、あれを使いな。もしわしらが死んだ後にでも佳奈子の治療費に充てなさい。がめつい佳苗には決して渡すんでないぞ?あれはもう宗教どころかお金に狂ってる。金庫の番号はお前だけに教えておくから秘密にしておきなさい」
知世は父に番号を教わり、小さな紙切れに書いて大切にしているお菓子の家を型どった小さなジュエリーボックスにしまっておいた。そして佳苗に見つからないように鍵付きの机の引き出しの奥に忍ばせて鍵をかける。机の鍵はいつもの化粧ポーチに入れて隠した。
その夜から佳奈子の耳掃除の度に点耳薬を右耳に点耳した。次の週からは本格的に病院でも機械による耳掃除などの治療が始まり、佳奈子の右耳の真珠腫は次第に小さくなっていった。
「あと少しでしょうな。完全に消えてしまえば取り敢えず治療は終了です」
「そうですか…ひとまず、安心しても大丈夫でしょうかね?」
「多分消えるとは思いますが、まだ安心はなさらない方がよろしいかと。もしかしたらということも考えられます。それに…ーー」
院長は黙っているが治療が痛くて涙目になっている佳奈子の顔を見た。実は真珠腫の治療で用いる機械の耳掃除は子供には耐えられない痛みが伴うのだが、佳奈子は非常に痛みに強い子供なのか毎度のことながら
その小さな体で声も出さずに耐えているのだ。
「佳奈子ちゃんは非常に痛みに耐えている状態です。痛みをしらない我々が勝手に安心しきってはいけないと私は思います」
佳奈子の思いを代弁した上で知世に自分の考えを院長は伝えたものの、佳奈子には逆効果だったのか声を殺した状態で泣き出し、椅子から飛び降りて診察室を飛び出してしまった。
「佳奈子っ!」
「佳奈子ちゃん!」
2人の声は佳奈子には届かなかった。全速力で走っていく彼女にはもはや前しか見えておらず、ひたすら走ってクリニックを出てしまった。しかし阻む様にエレベーター前に六花亭の袋を下げた若い青年が現れ佳奈子にぶつかった。
ロビーの床に赤と銀の包み紙のマルセイバターサンドが散らばる。
青年は佳奈子を心配して気にかける。
「お嬢ちゃん、大丈夫?痛かった?」
「…ううん、痛くない。ぶつかってごめんなさい」
「どうしたの?治療が痛くて飛び出してきちゃった?」
「うん」
佳奈子は青年の優しい問いかけに返事をしてこっくり大きくうなづいた。
「そっかぁ、痛かったね。でもそれまで耐えたんだよね?いい子、いい子」
青年は佳奈子のおかっぱ頭を優しく撫でた。すると佳奈子の小さな胸はとくんとくんと高鳴った。
「佳奈子っ!」
知世が後から追いかけてきた。
「すいませんうちの姪っ子が…あ、お菓子が…佳奈子謝りなさいっ!」
「大丈夫ですよ。さっき自分からちゃんと謝ってくれましたから。さあ、おばさんのとこ行きなお嬢ちゃん」
「…うん」
佳奈子はうなづいて青年から離れた。青年は床に散らばったマルセイバターサンドを拾う。知世も数本拾って渡す。
「あ、すいませんありがとうございます。お嬢ちゃん、治療は痛いけど、治るまで頑張るんだよ。それじゃ」
優しい青年はクリニックに中に入っていった。
「あのお兄さん…すごく綺麗だったね。童話の中の王子様みたい。あっ佳奈子、おばさん佳奈子の気持ち考えてやらないであんなこと言ってごめんね。あとでダイエーのお菓子コーナーでマイメロちゃんかミルモでポン!のお菓子ひとつ買ってあげる。…ん?佳奈子…佳奈子?」
佳奈子は顔を真っ赤にしてぼぅーとしている。熱でもあるのか確かめるが、ないようだ。しかし、しばらくすると佳奈子の小鼻から鼻血がたらりと流れてきた。
「あっちょっとっお兄さん見てのぼせちゃったの?!あらやだこの子ったら!すいませんっ!看護師さんっ‼︎」
鼻血の処置をしてくれた看護師から聞いてわかった話だが、先程佳奈子がぶつかった青年はここ、聊斎耳鼻咽喉科クリニックの院長の25歳の研修医の息子・聊斎聡(りょうさいさとし)というらしい。後に後を継いで院長となる人物だ。
まだ幼かった佳奈子にはわからなかったが、これが数年後の恋の相手との出会いだったのである。
2012年5月中旬。
10年が経ち、真珠腫が治療で消えてからは再発の兆候もなく年月が過ぎていった。
18歳になっていた佳奈子は札幌市内の高校を卒業し、マンガ・アニメの専門学校に進学した。思春期を迎え、ずっといい子でいようとした反発もあってか宗教にのめりこんでいる両親からしつこい勧誘に耐えられなくなりライラック祭りのこの時期に家出した。小学生の時からの親友であり、高校からのバイト先のオーナーと店長の娘である大佛れな(おさらぎれな)の家に泊めてもらう生活になっていた。母親がわりになってくれているおばの家に行きたかったが、祖父母も亡くなり交通の便も不便な土地でまだ嫁入り前のおばにまたお世話になるのも気が引けてしまったのだ。それにおばにも実は家出したことは内緒にしている。
学校が終わると急いで大通駅から地下鉄に乗って環状通東駅に向かう。東豊線2番ホームから栄町行きに乗って大通、さっぽろ、北13条東、東区役所前、環状通東と行く。たった数分だが日頃の学校とバイトの繰り返しで疲れているのか地下鉄の心地よい揺れもあって眠気が襲ってくる。睡魔を取り払う様に長く伸びた姫カットのカラーリングした茶髪を大きく揺らして頭を左右に振る。すると少し軽い目眩がした。佳奈子は貧血だと思い気にも留めず、環状通東駅に着いたので膝に乗せたマイメロディーのリュックを立ち上がると同時に左肩にかけてそそくさと地下鉄を降りた。
改札でマイメロディーのパスケースに入れたSAPICAを通し、出口に向かいつつも髪全体を手櫛で胸元に来るように前に垂らし、リュックを背負い直してまた歩き出す。
佳奈子はおかっぱ頭にマイメロディーの服、そしてキューティーハニーのピンクのジャージ下を履いた小さな少女から甘いフランス菓子やドーリーファッションが似合う様な色白の可憐な女性に成長していた。周囲からはしょこたんこと中川翔子に似ていると言われる。今日はバイトの為グレーのロングパーカーに白の小振りのレースかついたカットソー、猫の刺繍が入った黒のデニムのパギンスという格好だが、休日にはアクシーズファムの可愛らしいワンピースやイベント時には周囲が驚く様なコスプレで現れることもある。
エスカレーターで登り地上に出ると環状通の交差点に出る。道路を渡った先にはバイト先であるセイコーマートが見えている。
濃緑色に白文字の北海道銀行前の信号を渡ってセイコーマートに入る。バイト仲間や店長に挨拶して女子更衣室に入ると大学の授業が終わって同じくこれからバイトのれながいた。
「あっ、お疲れ様。最近シフト入りすぎじゃない?大丈夫なの?学校もあるのに休みなしじゃん。お父さんに言ってあげるから少し休めば?」
耳の病気を患う前からずっと一緒のれなは昔から自分のことよりも友達のことを気にかけてくれる優しい子。黒髪にワンレンのロングヘアーも変わらず唯一変わったのは170㎝にまで伸びたモデル並みの身長ぐらい。佳奈子は160㎝の為10㎝高く、中学生になってから少し見上げる状態である。両親の身長も高いしその他の家族も皆高身長の為遺伝なのだろう。佳奈子は羨ましく思うが、本人はただのコンプレックスでしかないらしい。
佳奈子は心配してくれるれなに礼を言うものの、大丈夫だと返す。
「いつもありがとう。大丈夫だよ、働いてると両親のことも忘れられて気が紛れるんだ。れなもいるし」
リュックをおろして自分のロッカーを開ける。れなに向ける笑顔でさえなんだか疲れているのに無理している様な感じがした。でも佳奈子の今の心境とこれまで2、3度しか会ったことがない佳奈子の母親のことを考えるとこれ以上は強く言えなかった。
「そっかぁ…でも無理だけはしないでね。うちらだけでなく、ここにくるお客様もみんなあんたのこと好きなんだからさ」
そう言ってかっこよく出ようとしたが、れなは背の低い少々問題がある女の後輩とぶつかりそうになった。
「おっとっごめんっ気づかなかったわ。おはよう」
後輩の方もスマホをいじっていたので気づかなかったらしい。
「あっ、姐さんすいません。おはようございます」
「その呼び方やめてよね、ヤ○○関係の女みたいだからさ。大佛さんでお願い」
「あぁーだいぶつさんですね、わかりました」
慣れているものの、流石にこれは失礼にもほどがある。ほんと最近の年下って嫌い。
「それ、うちの親にもだいぶつって言ってるのと同じだから。わかったら早く着替えて仕事出て」
れなは怒りを抑え控え目に言うとさっさと更衣室を出た。更衣室に後輩と佳奈子の2人だけになる。佳奈子もこの後輩には苦手意識がある。
「あ、猫宮さんおはようございます。今日も肉まん、4つ詰めてるんですかぁ?」
(うわぁ…いきなりその嫌味はちょっと…)
Aカップのこの後輩はCカップの佳奈子に毎日更衣室で嫌味をぶつける。この子はストレスでしかなかった。
「うんそう、4つ詰めてるの〜ぅ」
佳奈子はもうこの下品な嫌味に対する返しはできる様になったが、女の精神としてはきついものがある。
後輩の女は更に追い討ちをかける様に嫌味を言う。
「猫宮さんって、肉まん詰めてる上に、男性客釣る為にロリ顔に整形でもしたんですかぁ〜?ここは整形大国じゃなく日本ですよ?あーやらしいっ」
どうやら顔のことまで妬んでいるようだ。
佳奈子の顔はメイクもあるが、天然100%である。
「そんなことしてないよ。私先にお店出るね」
「将来、昔の顔した子供が産まれて後悔しますよ?尻軽女っ!デカ乳!整形おばけっ!」
これには流石に普段怒らない佳奈子もカチンと頭にきた。
「ねぇあんたっ!」
「何ですか?」
「毎日毎日、仕事も中途半端なくせに人の顔見れば嫌味ばっか言って!おかしいんでないのっ?!」
「おーこわ。やっと言い返す気になりましたか。いついうのかなって思ってたんですよねー。…このアバズレ猫娘がっ!」
後輩の態度と暴言の内容で完全に佳奈子は仕事の事など忘れてしまうくらい怒りは頂点に達した。日頃のこともあり尚更だった。
「いい加減にしてよっ‼︎アバズレ⁈仕事でしか会わないのによくそんなこと言えるね。大体あんたに何かした覚えないんだけどっ!なんでそんなに毎日毎日嫌味とか言えるわけ?意味わかんないよ!私が何したっていうの?!答えてっ!」
「何もしてないです。ただその存在がムカつくんです。いつもいつも客とかバイト関係なくちやほやされて、環境とか容姿、友達にも恵まれて、ただのうのうと生きているその存在が憎いんです!嫌いっ!嫌いっ!嫌いっ!あんたが大っ嫌いっ!」
理由はただの醜い女の妬みでしかなかった。けれど、佳奈子のことを何もわかっていないことが読み取れる。環境なんか何も恵まれちゃいない。母親に見てもらえない苦しみ、幼い頃優しかった父親でさえ家計を支えるために必死で強くない体と家族を顧みずに夜通し働き続けている為小学校に上がった頃には会話もなく、その上佳奈子がバイトを始めてからは父親でさえ宗教にのめり込んだ。いつも母親代わりになってくれたおばしか家族と呼べるものがいない。今通っている専門学校だっておばのおかげで通えているのだ。
佳奈子は温かく自分を包み込んでくれる家族が欲しかった。親友のれなの家族がまさに理想そのものの家族だ。家出先に選んだのもその温かさに触れたい、それが一番大きかった。
この女にはそれがわかっちゃいない。佳奈子の苦しみが。母親がのめり込んだ宗教のせいで壊れてしまった家族を持つ苦しみが…。
「あんたはわかってない…恵まれてなんかないよ私だってっ!」
「は?何ですかいきなり?謙遜でもする気ですか?そんな専門学校行けてる女が何言ってんですかね。私なんか高校ですらまともに通えずに中退ですよ?あーやだやだ。付き合いきれないわ。仕事するか」
後輩は佳奈子を置いてさっさと出て行ってしまった。
その日、バイト中も何かと軽い目眩がした。下を向いたりする際頭を動かすと視界が回りだす。それでも佳奈子は気にしない様にしていた。
バイトが終わり、更衣中に右耳の中が詰まっている感じがした。音が聞こえづらい。左耳だけ聞こえている状態でなんだか気持ち悪いなと思いつつも気に留めない様にした。れなとの帰り道でもいつも楽しいはずのお喋りも耳の違和感のせいで楽しさが半減していた。
翌朝、佳奈子は布団の中で悪夢を見ていた。8歳の春に見た夢と同じ右耳から黒真珠が数珠状に絶えず出ては止まらない夢。しかし18歳の今は違った。
黒真珠と共に幽暗な世界に堕ちて行く途中で何者かが耳を塞ぎ、音を遮ると同時に金縛りが襲った。無音の世界で叫ぶことすらままならない状況で恐怖だけが募っていく。とにかくこの状況を逃れる為に必死で叫ぼうとするとやっと声が出た。
「あああああああーっ‼︎」
突然の叫び声で隣のベッドで眠っていたれなが飛び起きて下で寝ている佳奈子を抱きしめた。
「佳奈子どうしたのっ⁉︎」
現実の世界だと気付いた佳奈子がはらはらと安堵の涙を流してれなに抱きついた。
「…っ怖かったよぉ…れなぁ」
「怖かったね…もう大丈夫だよぉ…」
子供をあやす様にれなは佳奈子の髪を撫でる。ふと佳奈子の枕に目を向けた、枕を包んだタオルを耳垂れが汚している。
「佳奈子…病院行こう」
「…え?」
「耳垂れが出てる…」
耳垂れのついた髪と右耳を優しくティッシュで拭く。
「午前休んで一緒に行こう佳奈子」
2人は午前の授業を休んで耳鼻咽喉科に向かった。
地下鉄に乗り、東豊線終着・栄町駅で降りた。
2人は地上に出て数年で変わり続ける栄町に驚きを隠せないまま佳奈子が通院していた「りょうさい耳鼻咽喉科クリニック」に向かった。10年で聊斎はひらがな表記に変わっている。
クリニックに着くと10年前と変わらず子供の患者がほとんどで待合室は走り回って叱られている子供やブロックなどで遊んでいる子供達、それを見守りながら呼ばれるのを待っている親、またお年寄りなどもいて満席状態だった。
受付を済ませ、初診の問診票に記入し終えるとれなが話しかける。
「ここのクリニック、院長変わったんだ…それも先月付で」
受付横の壁に貼られた貼り紙に指を指す。
「…いいひとだといいね、佳奈子」
院長が変わったことで一瞬不安になったものの、少しだけ胸がきゅんと痛んだ。
「…うん、そうだね」
「佳奈子?具合悪い?」
「ううん、大丈夫だよ」
(なにこれ…今きゅんってした…)
まるで、恋をしている時の様なそんな痛みだった。
待っている間にも佳奈子の胸は落ち着かなかった。とくん、とくんと心臓の鼓動が高鳴って体温が上昇していく。
(…緊張してるのかな…おちつけ、おちつけ)
佳奈子は自分を落ち着かせる為に軽く深呼吸した。
れなは隣でまた佳奈子が心配になり、彼女の背中をさすった。
「猫宮佳奈子さーん、中待合室でお待ちください」
「待ってるから行っておいで…悪くないこと祈ってる…」
「…ありがとう」
高鳴ってどうにも落ち着かない胸を恥ずかしく思いながら中待合室の席に座る。
10分程で佳奈子の前の2人が終わった。
「猫宮佳奈子さん、お待たせいたしました、診察室にお入りください」
やっと呼ばれた…診察室の扉を3回ノックして横開きの扉を右に引いた。
「…失礼します…」
「どうぞお荷物を籠の中にお入れください」
「はい…」
看護師の指示に従って静かにマイメロディーのピンクのポシェットを籠の中に入れると椅子に座った。
「おはようございます、はじめまして」
「はじめまして…」
「10年前にもこちらで真珠腫性中耳炎の治療をなさっているようですね。今回は耳垂れと目眩の症状が出ているとのことですが、いつから症状が出ていますか?」
「あ、はい、1ヶ月程前から…」
ーーばくん!
(あ…この人前にも会ってる気がする…初めてじゃない)
院長と目を合わせた瞬間、また胸が高鳴った。それに、この人は前に一度会ってる気がした。でも自分から言うのはなんだか恥ずかしい。佳奈子は言えずにいた。
「1ヶ月程前からですか…ーー」
目の前にいる彼はなかなか知っている素振りを見せない。検査を一通り済ませると、ここには頭部を撮影する大型医療機器が無い為目の前の大型病院で撮影する様指示され一旦クリニックを出る。
(私の勘違いだったのかな…)
そう思いながられなに付き添われ、MRIにて頭部を撮影した。全身を動かない様に固定され指示に従い約15分から20分目を瞑る。頭だけ真っ暗な空間に押し込まれて、中から大きな銃声音の様な音がする為恐怖心だけが募っていく。
(…本当これ嫌い…早く終わってよ…)
約20分の撮影が終わると佳奈子は恐怖感を味わったせいもあり、立ち上がると目眩が襲った。
「大丈夫ですか?車椅子乗ります?」
「…いえ、大丈夫です…ただの軽い目眩ですから…」
佳奈子は目眩に襲われながらなんとかれなの座る椅子に腰かけた。れなは「大丈夫?」と声をかけ背中をさすり佳奈子の細い肩を優しく抱いた。
頭部のレントゲンを持って再び来院した。レントゲンを見て院長は少し暗い顔し、溜息を吐いた。
「…またできてる…今度は三半規管までやられちゃってるのか…。なんでここまで放っておいたんだよあの子」
まるで自分の身内が患った様な思いにかられ、彼の胸はきゅうと締め付ける様に痛んだ。切れ長の美しい眼には悲しみの色が滲んだ。なんでたった1人の患者の病状が思わしくないだけでこんなにも切なくなるんだ…自分でもわからない。彼女が来る前に感じたあの胸のときめきと、彼女を見た時の心臓の高鳴り…。今日の自分はなんだかおかしい。
冷静になる為に5分程煙草を吸いに出た。煙草らしくない甘い紫煙が気怠げに空間を漂い上っていく。
名前を見た瞬間に10年前にぶつかってきたあの子だとわかった。おかっぱ頭にマイメロディーの顔がついた生成色の服を着て、下にピンクのジャージを履いていた素朴な女の子が、垢抜けて人形みたいに綺麗に成長していた。10年前に亡くなった最愛の女性に似ていたのもあって少し戸惑っているだけなんじゃ…?とも思えるが、この心臓の高鳴りはおかしい。
半分だけ吸って吸い殻を携帯用灰皿に押し付けて潰した。喫煙所を出ると5月の爽やかな風が彼の横をすり抜けた。風が吹いた辺りに大量のスズランの花が舞い落ちている。10年前に亡くなった彼女の気配がして周りを見渡すが姿はない。
「…しょう子さん…俺何か変だよ…」
小さく呟くと何処からか声がした。
『思いきって声かければ?もう私なんか忘れちゃっていいのよ?…〝私に似た女の子〟なんだから』
「そんなことしたら…捕まるんじゃない…?」
相手は自分より17歳下の18歳だ。医師免許剥奪なんて御免だ。
『…そだね。聡くんがお医者さんできなくなるのは私も辛いわ。…あ、あの子の口から言われせればいいのよ。うん、そうしよう♬』
しょう子は勝手に納得して消えた。
喫煙から戻ると、仕事モードに切り替えてポーカフェースに徹した。
看護師に指示をだして佳奈子を呼んでもらうことにした。
「猫宮佳奈子さん、先生からお話がございます。診察室からお入りください」
呼ばれた佳奈子は診察室に入る。
再発していると説明を受け、佳奈子の顔が暗く曇った。
「こんなになるまでどうして放っておいたんですか?脳にまで進行すれば顔面神経麻痺(がんめんしんけいまひ)起こしたり、死に至るケースだってありえるんですよ?自分の命、周りの家族のこと、よく考えてください」
(…家族…)
家族のことで悩んでいる佳奈子にとって、自分の命なんてどうでもいいんじゃないかと思えてくる。特に母親なんて幼い頃から自分のことなんかまともに見てくれたことは一度もなかった。参観日も、学習発表会も、運動会も、一度も来てくれなかった。お弁当だって母の味ではなくおばの味。大好きなおかずであるザンギはおばが作ってくれたものだった。母親はきっと自分のことを思っちゃいない、死んだって構わないんじゃないかと。それに、今は手術をしたいと頼める状況ではなかった。
「…先生、私手術できないです…今家出してるし家族だって…ーー」
佳奈子はそれ以上言えなかった。両親が宗教にのめり込んで大金を注ぎ込んでいるなど、恥ずかしくて口が裂けても言えないと思ったのだ。
院長は10年前佳奈子とぶつかった時のことを思い出していた。あの時付き添っていた方はお母さんではなくおばさんと呼ばせていた。前院長である父が昔話していたが、通院する際必ず彼女を連れてくるのはおばさんと呼ばれる人物であり、家族は何らかの事情を抱えている様子だったと。それに加え、現在家出しているのならば尚更放っておけない気持ちになった。立ち入った話になるが、彼女は今何処にいるんだ。
「家出って…聞いちゃいけないと思いますが、今はどちらにいらっしゃるんですか?ちゃんとごはんは?」
佳奈子は小さくなって俯きながら答える。
「親友のところです。学校は違うけど、バイト先が同じでその子のご両親がオーナーと店長なんです。本当はおばのところに行きたかったんですけど祖父母ももう亡くなっているし、ひとり暮らしのところに行ってまたお世話になるのは気が引けてしまって…。ごはんのことなら大丈夫です」
「そっかぁ…お友達のところにいてちゃんと食べられているならひとまず安心ですが…お世話になっているのがバイト先の方の家なら、働いて恩を返していくことも大事ですし、その前に体が資本です。それに一緒にいるその子だって猫宮さんがいなくなってしまうと悲しい思いすると思いませんか?その子が好きならちゃんと手術受けて元気な姿見せてあげないといけないんじゃないかなって僕は思います」
(そうだ…先生の言ってることは間違ってない。今日だってれなが言ってくれなかったらここにいないし、何よりれなはすごく心配して付き添ってきてくれてるんだ…。でもバイト代と貯金だけじゃ心許ない。頼っても助けてもらえるかすらわからないよ…)
佳奈子は少し考えた末、少し時間を貰う事にした。
「先生…」
「はい」
「1週間…1週間だけ手術するか少し考えさせてください…お金のこともあるし…」
「わかりました。1週間だけですよ?1週間後また来てくださいね、午後からでもいいので」
「…あっ」
思いきって院長に聞いてみることにした。10年前のあのことを。
「先生…10年前私とぶつかったのは先生ですよね…?違ったらごめんなさい」
院長は優しく微笑んで答える。
「覚えてたんだ…そうですよ。10年前にあなたとぶつかったのは僕です。綺麗なお嬢さんになりましたね」
「そ、そんなっ!きっ綺麗だなんて…そっ、それじゃあ!」
佳奈子は顔を真っ赤に染め、恥ずかしさで慌てて診察室を出た。人に綺麗と言われたのは初めてだったし、何よりかっこいい男性に言われてしまってまだ若い彼女は照れたのだ。
素直に本当のことを言ったまでの院長にはわからなかった。
(…あんなに恥ずかしがることないのに…ん?)
床に彼女が落としていったと思われるマイメロディーのボールペンがあった。
なかなか家に戻れず決断もできないまま4日が経ち、火曜日になっていた。相変わらず学校とバイトの往復をし、バイトが1人抜ければすぐシフトに入っていた。
そんな時、店長であるれなの母から「治るまで休んでなさい」と休暇を頂いた。学校の後に特に行く宛もないため久々に北丘珠に行こうと環状通東のバスターミナルから東61の中沼小学校通行きのバスに乗った。多分おばさんはまだ仕事から戻らないとわかっているが。
丘珠中学校前で降りて北丘珠3条1丁目まで歩く。いつの日かおばと手を繋いで歌いながら歩いたことを思い出す。歌の中のちょびんくんももういない。
北丘珠3条1丁目までくると左手に曲がった。燕家が近づくにつれ、向かいの坂内さんの家の黒柴のマロンが尻尾を振って元気よく吠える。
「マローン、元気にしてた?ほら蒸しパンだよ」
先程バスに乗る前に環状通東のマックスバリュで購入したたまご蒸しパンを千切って手から食べさせるとマロンはお腹を空かせていたのか尻尾を振り、勢いよく食べてあっと言う間に平らげた。
「美味しかった?うんそうなの」
マロンを撫でて癒やされていると犬小屋の隣の家から玄関フードの戸をガラガラ開ける音がした。
「あれ?佳奈子じゃん?全然最近こっち来ねーなって思ってたんだぜ?」
「…諒…」
中から現れたのは小学校と中学校が同じだった坂内諒(さかうちりょう)だった。ドックフードの袋を手にしているのでこれからごはんをあげるところだったらしい。
「もしかして…蒸しパンあげちゃった?」
佳奈子が手にしているたまご蒸しパンのビニールで諒は気づいた様だ。
「ごめん…あげちゃった」
「マジかよ…いつもあげようとすると誰かあげてるんだよなー。しばらく喰わねーなこりゃ」
それでも一応諒は律儀に銀のごはん皿にドックフードを計量スプーンで適量を計って盛ってやる。
「ま、佳奈子なら許してやるよ。てか、顔色悪くねーか?最近学校もあんのにバイトし過ぎなんじゃね?それとも…悩んでるのか?」
諒の真っ赤に染めた襟足を伸ばした髪が風にふわっと舞った。バンドでボーカルギターを務める彼はピアノも弾ける為指も長い。顔もそこそこ綺麗だが、佳奈子には全くその気はない。
「うん、そうなんだ…今れなのところに家出してお世話になってて…それに…」
「…それに?」
「10年前の病気、再発しちゃってさ…手術しないといけないんだけど…ママたちに言いにくてさ…」
佳奈子の涙が煌めきながら砂利の中におちた。涙を見せる佳奈子にひとり遊びしていたマロンも気づいてクゥーンクゥーン鳴きながら鼻を近づける。それに男は女の涙には弱い。諒は内心少し焦る。
「取り敢えず冷えてきたし家に入るか?今ばあちゃんは寿まで買い物に出てていないけどもうすぐ帰ってくると思うし」
2人は家に入った。
坂内家は木造2階建ての一軒家で向かいの燕家よりは小さいが広めの家である。
8畳ほどの少し線香の香りがする小綺麗なリビングに通された。壁の半分ほど大きな出窓には諒の祖母が趣味としている園芸の色とりどりの花の鉢とかわいらしい猫や犬などの小物が置かれていて、その前下の緑色の2人掛けのソファーに腰掛ける。ソファーの前に置かれた濃茶色のテーブルに諒は2人分のコップに入ったガラナを静かに置く。
「今お茶切らしてたみたい。ガラナしかなかった、ごめんな」
「大丈夫だよ、ありがとう。諒ガラナ好きだからガラナだけはおばあちゃん切らさないんでしょ?」
「そうみたい。でもたまに5年前とか10年前のガラナが納戸から出てきてうわっどうしようって思ってる」
「5年、10年ものは怖いね…」
甘いガラナを飲みながら2人は談笑した。佳奈子の涙も少し落ち着いたところで話を彼女の悩みに戻した。
「そっかあ…相変わらずなんだお母さん。今はお父さんも?」
「うん…私が高校に入ってれなと一緒にバイト始めて落ち着いた頃に本読み始めて祭壇とかママと買う様になった。高校卒業する時は卒業式そっちのけで私に黙って総本山に行って研修しに行ってたんだよ?ひどくない?おかげさまで高校の友達とうちで初めて酎ハイ飲んで2時まで騒ぎましたけど」
「酎ハイかぁ…かわいいじゃん。俺なんか初めっからバンドマンの先輩にカクテル出されたわ、ライブ終わりに」
「何歳の時それ?」
「16の時。カシスだったからジュースみたいに美味くて飲み過ぎちゃったなぁあの時」
「早くない?それ?」
「バンドしてたら普通かもよ?んで?それで親には頼みづらいし、おばさんにも話しにくくて今日まで悩んでたってこと?」
「うん…」
「死ぬかもしれないなら頼みづらくてもちゃんと言うべきでないの?特におばさんなんかはお母さんみたいなもんだから。飲む?」
諒は佳奈子の空になったグラスにガラナを注いだ。
「身近な大事な人を失うってさ大人でも辛いはずだよ?大事に育てた姪っ子が自分より先に亡くなったおばさんからしたら完全に1人になるのと同じでしょ?今はお金がどうのこうのより自分の命大事にした方がいいって。親と折半でもいいから説得して少し出して貰おうよ。お布施とかたくさんするってことは、よっぽどお金があるか借金してるんだろそれ。俺だったら親父とばあちゃんに言って少しでもいいから出して貰うね。お母さんのこともあるし…」
「あ…諒ってお母さんいないんだもんね」
「うん…うちにお金ないからって隠してたんだって。治療も拒否したから半年後には死んじゃった。だから佳奈子にはそんなことで諦めて欲しくないな」
佳奈子は下を向いておばのことを考えていると諒が左手を掴んだ。
「ピアノ、弾こう?小学生の時みたいに」
手を強く引いて2階にあるピアノの前に座ると諒は佳奈子のレベルに合わせてねこふんじゃったを弾き始めた。すると佳奈子も右手で弾き始めた。小学生の時に戻った感覚でなんだか甘酸っぱい気分になった。
「懐かしいね…こういうの…」
「だしょ?」
2人の連弾が弾んでくると諒は途中で明るいジャズ要素を取り入れてきた。アニメのスヌーピーのBGMっぽい。佳奈子の気持ちも明るくなってきた。
最後の最後は通常のねこふんじゃったの終わりで締めた。
「諒、ありがとう。私頑張って頼んでみようかな」
「そうしようよ。俺も一緒に頼んであげる。れなも連れてきて3人で頭下げて頼んだらなんとかなるっしょ!」
「うん」
佳奈子が柔和な赤ちゃんの様な笑顔を見せると諒は細いけれど力強い右腕で優しく肩を抱いた。
「俺…その笑顔が見れなくなるの…一番怖ぇよ。元気になってくれなきゃ泣くからな」
「諒…」
互いの唇があと少しで重なるときにタイミング悪く諒の祖母が帰ってきた。
「諒ーっ!!いるのかいっ?!佳奈子ちゃんも一緒かい?!あんまり変なことすっと、燕さんのとこのお母さんの霊に枕元立たれるぞ?おっかない人だったからねーあの人はっ」
まさに今〝変なこと〟するところだった。2人は恥ずかしくなって互いの体を離した。
その夜、諒の祖母に夕食のかじか汁などをご馳走になりながら彼の祖母に相談した。
「佳奈子ちゃん、まだあんたも諒と同じ18だべさ?生きなきゃだめだ。大人さなればもう親は親、子供は子供だ。それぞれの人生だけどもだ、命の重さは変わらんよ。命を大切にしてこれからの長い人生幸せにならないと。元気ないときだらこのかじかも元気な時程美味くねーべさ。かじかだって美味そうに食べられた方があの世で嬉しいはずだ。知世さんはまだ戻らないのかい?」
「早くて7時、残業があれば10時になります」
壁に掛けられたアンティークな時報つきの針は5時半を指している。
「まだか…あとで私が電話掛けて話すからバスなくなる前にれなちゃんのとこさ戻って早く寝な。食べて少し休まないと体もたないべさ。おかわりいるかい?」
「ありがとうございます…でももうお腹いっぱい…」
「遠慮すんなって。おばさんのとこでごはん5合くらいはペロリ喰っちまうっておばさんから聞いてるぜ?」
「ちょっとっ!恥ずかしいから黙っててよ!」
「やせ我慢してんのかい?体に悪いからやめな。ほら、どんどん食べな」
佳奈子恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらごはん茶碗を祖母に渡し、結局10杯おかわりした。
翌日、仕事が休みだった知世からLINEで電話が来た。夕方に佳奈子はれなと諒とでイオン元町店の1階入り口付近で待ち合わせした。3人が合流すると歩いて佳奈子の家がある北28条東17丁目に向かった。佳奈子は高校入学時に15年間過ごした栄町から元町に引っ越したのだ。諒はずっと父親と栄町に住んでいてたまに祖母の生存確認とマロンの面倒もある為バイトやバンドがない時に北丘珠の祖母がいる坂内家に泊まりにいく。れなは推薦入試した高校に合格するとすぐに本町(ほんちょう)に引っ越した。なので高校は3人ともバラバラだったが、仲が良い為ずっと連絡を取り合っていたし、れなと佳奈子に至ってはバイト先が一緒の為今でもこうして付き合いが続いていて何かあれば団結するのだった。
イオン元町店から歩くこと約10分。佳奈子の両親が住む木造2階建ての4世帯が住めるアパートに着いた。両親が住む2階左側の家の窓は塞ぐような形で宗教のポスターが貼られている。
「かなりご熱心なんだね…これは私も嫌だな」
「俺もこれは無理…狂ったとしか思えない。佳奈子がれなのとこに行くのも無理なかったん話だったんじゃね?」
窓に貼られたポスターを見ながらあれやこれとはなしていると後から知世が来た。走ってきたのかボブカットにふんわり軽くパーマをかけた髪は乱れ、シンプルなフレームの眼鏡は少しずれている。
「おばさんっ!」
知世は乱れた髪を手櫛で直し、ずれた眼鏡を正す。
「LINEでも言ったけどさぁ、佳奈子私にちゃんと言ってよね?面と向かってさ」
途中で知世は部屋にいると思われる佳苗に聞こえない様に佳奈子の左耳に耳打ちした。
「お金のことなら心配いらなかったのよ?ママたちには内緒だけどね?」
「え…?それどういう…」
「説明はあとでするわ。さあ、れなちゃん達も行くわよ?」
知世に促され、3人は2階に通ずる階段を上ると部屋のチャイムを鳴らした。3回目のチャイムで佳苗が、現れた。
「…え…子供達まできたの?私ノーメイクなんだけど…まあ入ってよ」
ノーメイクの佳苗はブルーのカットソーにグレーのスキニーのデニムという格好でセミロングのワンレンの黒髪を軽く黒のゴムで束ねているだけだった。知世と佳奈子だけかと思っていたのかれなと諒も一緒だった為に非常に不機嫌だ。
8畳ほどのリビングに通され、壁一面ぶち抜いた様な窓の前に置かれた3人掛けの橙色のソファーに諒、佳奈子、れなの順に座り、れなの左下、テーブルの横に知世が座った。
佳苗はお客様用のティーカップにダージリンティーを注ぎ、少しだが頂き物のクッキーを出した。
「で?手術費用だして欲しいって?こっちもきついのよ出せるわけないじゃない。佳奈子バイトしてんだからなんとかできないの?」
ダージリンティーを一口口に含みながら佳苗は続ける。
「3万しか家に入れてくれない上に、家出してこれってありえないんじゃないのかい?プラス7万くらいお布施代込みで入れてくれたまだかわいいと思うのに。こっちがいくら勧誘してもおちてくんないから黙って会員にしたらいきなりキレて家出してさ。一緒に宗教活動してくれない娘なんて、かわいいって思えないね!お前なんかどこにでもっ、いやっ死んじまえっ!」
飲んでいたダージリンティーを目の前に座る娘の頭に佳苗は怒りに任せてふっかけ、ティーカップを投げつけた。その佳苗の態度に怒りを覚えた知世は佳苗の頰を叩いた。
「本当にあんたはお金か宗教しかないわけ?!18年前にこの子産んで帝王切開だけど命をこの世に産みおとして母親になる痛みを感じたんじゃないのっ?!なのに死んじまえってないわよっ!私がこの子の母親ならそんなこと言わないっ!愛してるって言うわっ‼︎」
知世はあることを突如決めた。
「もうこの家には置いておけないわっれなちゃんの家族にも迷惑かけっ放しになんてできないっ!私この子がいい人と巡り会って結婚するまでうちで面倒見るわっ!」
そう言い放ったタイミングでたまたま早く仕事から帰ってきた佳奈子の父・慶一(けいいち)がリビング入り口の扉の前で土下座をし頭を下げた。
「お願いいたします…もう私らでは娘を幸せにすることはできない…不幸にするだけだ」
「慶一さんっ!どうしてっ!?頭下げるくらいなら折伏でもなんでもして‼︎」
「佳苗っ!…もういいだろ、やりたくないって言ってるんだし、今まで育児放棄していたお前の代わりに知世さんがずっとしたかったはずの結婚を諦めてまで娘の面倒見てくれたんだ!それになんだ!お前は一緒に宗教活動してくれない人間には死ねっていうのか!?何の為に活動してるんだお前は!無宗教の人間を同じ人間として見ていないのかっ!?そんな下に見てるから会員数増えないんだろうっ!!人間そんなの態度でわかるんだぞっ!」
佳苗は下唇を噛み、はらはらと涙を零すと慶一を押し退けて家を飛び出した。
「あいつがあんなにバカだとは思わなかった…ごめんね、せっかく来てくれたのに大声を張り上げてしまって。今日はどう言った用件で…」
怒りによる興奮から冷めない知世に代わって冷静なおちついた口調でわかりやすくれなが慶一に説明する。隣で紅茶をふっかけられた佳奈子が頭をタオルで拭い、割れたティーカップを諒が片付けている。
説明し終えるとソファーにいる3人は「お願いします」と頭を下げた。すると慶一は素直に応じた。
「わかりました…でも全額は申し訳ないんだが…」
「いいよ、頭金だけでいい。あとは私がなんとかする」
横から諒は小声で茶々をいれる。
「いいのかよ、もっとふんだくってやればいいべ」
それをれなが阻止する。
「諒、やめな。これは佳奈子が決めることだよ。あんたが佳奈子を昔から想ってるのはわかってるけどさ」
「…わかったよ、もう言わねーよ」
諒は渋々退いた。
慶一は薄汚れた作業服のポケットから10万円が入った給料袋を出し、佳奈子に差し出す。
「今月の稼ぎだ。持っていきなさい」
「え…パパこれ…」
「いいんだ、俺の給料なんてママがほとんどお布施やらなんやらに回しちまうんだ。全部持って行きなさい」
そう言う慶一の目にはうっすら涙が滲んでいた。
よく見ると頭には10円玉くらいの円形脱毛症が3つできていた。白髪も増えた。佳奈子は自分の父親の人生とはなんなのだろうと考えさせられた。
夜になっても佳苗は帰って来ず、4人は猫宮家を後にした。佳奈子は自分を産んでくれたはずの母親に「死んじまえ」だの言われて心が折れそうだったが、幼馴染のれなと諒、そして何よりずっと母親代わりになってくれているおばが自分を思ってくれているのかと思うとほんわかと胸があったかくなった。
もう産みの親である佳苗よりも一層、知世の方がお母さんだと思ってしまう。濃茶色に染めたボブカットを女性らしくふわっと軽くパーマをかけた髪に近視と乱視が進み、年々度がきつくなっていくシンプルなフレームデザインの眼鏡をかけた本当は愛らしいキュートな顔立ち。見れば見るほど「この人が本当にお母さんだったらいいのに」と思い、少し切なくなる。佳奈子の母親は自分に「死んじまえ」と言い放ったあの人なのだ。切なく思いながらも佳奈子は知世の小さくて温かい手を数年振りに触れようとすると、知世の方から手を繋いできた。
この人を「ママ」と呼べたらどんなに幸せだったか。佳奈子の目から一筋の涙が流れた。
数日後、佳奈子は手術を受けた。彼女の手術には主治医である聊斎聡(りょうさいさとし)先生の他に彼とは大学時代からの付き合いである脳外科医の望月(もちづき)先生と麻酔科医の皆瀬(みなせ)先生が協力した。
麻酔から目覚めると傍に聊斎先生がいた。
「おはよう。お目覚めは如何ですかお嬢さん?」
先生の後ろに後光が射したかの様な陽の光が佳奈子の目を直撃して眩しい。右耳の聴力は手術への踏み込みが遅れてしまい、ほとんど聴こえなくなってしまったが、左耳が逆によく聴こえているし、命があっただけ幸せだと思いたい。それに、お目覚めにこんな美しい王子様の様な主治医が目の前にいたならば気分が悪いわけがない。まるで、眠れる森の美女のオーロラ姫になった様な気分だ。
佳奈子はにっこり笑って答える。
「すごくいいです、先生のおかげで」
先生も優しく微笑み、佳奈子を褒める。
「それは良かった。佳奈子さんのことは10年前治療した父からよく聞いていました。とても強い子だって。だから今回の再発に関してもちゃんと乗り越えられると信じていたんです。よく頑張りましたね」
先生は10年前にぶつかった時と同じ様に佳奈子の髪に優しく触れ、頭を撫でた。すると10年前と同じあの胸の高鳴りを感じた。
ーーとくん…とくん…
10年という月日が流れても、先生の優しさとこの胸のときめき、高鳴りは変わらなかった。
おまけに、鼻血でさえも…。
「あっ佳奈子さん鼻血…」
「えっ!いやだ私ったら…」
「上向いたらだめですよ、じっとしてて」
先生は手慣れた手つきで鼻血を処置する。
佳奈子は先生に指示された通り小鼻をつまみながらぽーぅと彼を見つめ思った。
(生きててよかった…左耳だけしかほとんど聞こえないけどもっとこの人の低くて心地いい声、聞いていたいな…)
季節は6月。春を告げていたリラも終わり、札幌の短くも暑い、生命の鼓動が脈打つ夏が来ようとしていた。
リラの花が咲く頃に
第1話お読みいただきありがとうございます。
この作品はかぐらが実際に罹患した病、経験した事柄などを交えて創作しております。これからも続けて読んでいただけましたら幸いです。