*星空文庫

民族浄化を超える文化浄化

earthsolute 作

カンボジアで民族浄化があったって話を聞いた。小学生のころ。

具体的にどの人種が浄化されたか、おっさんになってから調べる。

"ポル・ポト率いるクメール・ルージュ(民主カンプチア)がカンボジアを支配した1975年から79年までの4年間で、人口の2割にも及ぶ150万人が生命を落としたとされる。その多くは農村への強制移住にともなう病気や栄養失調・餓死によるものだが、少数民族やベトナム系・中国系住民に対する民族浄化や政敵の粛清で数十万人が殺されてもいる"

確かに。俺はベトナム人をこう心得ている。

ベトナム人
·他のインドシナ半島の住人が短小揃いなのに対し、巨根で14cmある。タイ人は10cm。
·非仏教国、他のインドシナ人は、皆仏教徒。
·見ると中国語に似ている。母音で終始する点が。
·アメリカに戦争で勝った。
·東海岸だけ領地にしている。他インドシナ人は東海岸をむしろ避けて、そこをベトナム人だけが奪って住み着いた印象。

ポイントはポル・ポトらしい。彼の名前で検索すべきだろう。

”1973年、パリ協定によって米軍がベトナムから撤退した。それと同時に南ベトナム解放民族戦線はカンボジアを去ったが、クメール・ルージュは政府軍との戦いを続けた。

1975年4月17日、クメール・ルージュは首都プノンペンを占領した。ロン・ノル政権は崩壊し、国号が民主カンプチアに改名される。またポル・ポトもこの間に自身の名前を「サロット・サル」から「ポル・ポト」へ改めた。1976年5月13日、ポル・ポトは民主カンプチアの首相に正式に就任する。

ベトナムがアメリカを退けてからの出来事である。割と最近といえる。この民族浄化はアメリカの責任であるw.

南ベトナム解放戦線→カンプチア.らしい.つまり,元々は,カンプチアは,南ベトナム解放戦線だったって事.

カンプチアの首相が,ポル・ポト.


民主カンプチアの国家体制は中華人民共和国の毛沢東主義を基盤にした「原始共産主義社会」であり、その実現のために都市住民を農村に強制移住させ、食糧増産に従事させた。しかしその際に方法論として資本主義に関する文明の利器を全て一掃したため、国民は農作業や灌漑施設の建設などの重労働を全て手作業で行うなどの過酷な労働環境を強いられる。更に生産された米の多くは外国からの武器調達のために輸出されたため、国民の多くは飢餓、栄養失調、過労による死へと追いやられていった。

この時死んだのは当然プノンペンとプノンペン周囲の連中である.

プノンペンは、今の、カンボジアの首都になっている。

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このような惨状を目の当たりにしたポル・ポトは、裏切り者やスパイの政権内への潜伏を疑って猜疑心を強め、医師や教師を含む知識階級を殺害するなど、国民に対する虐殺が横行した。やがて虐殺の対象は民主カンプチア建国前から農村に従事していた層にまで広がり、カンボジアは事実上国土全域が強制収容所化した。
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なる程。しかしこれでは民族浄化と言えないんじゃなかろうか? まあいいや.

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1978年12月25日、ベトナム国内に避難していたカンボジア人によって構成されるカンプチア救国民族統一戦線がベトナムの援助を得てカンボジア国内に侵攻、カンボジア・ベトナム戦争が勃発した。
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現在のカンボジア人とカンプチア=南ベトナム解放戦線は、敵対したらしい.

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する。1979年1月7日、ベトナム軍がプノンペンに入り、ベトナムの影響の強いヘン・サムリン政権(カンボジア人民共和国)が成立した。この後、ベトナムはカンボジアを完全に影響下に置き、長い間、その影響力を保持することとなった。

クメール・ルージュ軍およびポル・ポトはタイの国境付近のジャングルへ逃れ、採掘されるルビー売買の利権を元手に反ベトナム・反サムリン政権の武装闘争を続けた。
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·現在のカンボジア人はベトナム人なんだろうか?

·クメールルージュとは?

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1953年、ノロドム・シハヌーク国王のもとでカンボジアが独立すると、極左武装勢力クメール・ルージュは反シハヌーク闘争を開始した。1960年代、ベトナム戦争により国内は不安定となったものの、シハヌーク政権時代には爆撃・内戦は局地的にとどまり、食糧は輸出するほど豊富で大量の国内避難民も発生していなかった。この当時クメール・ルージュはまだ弱小勢力だった。
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クメールルージュはカンボジア国内の左翼組織として誕生しているので、カンボジア人には二種類の勢力がいたと考えるべきか.

"アメリカ軍と南ベトナム軍がホーチミンルートの南ベトナム解放民族戦線を追撃するためカンボジア領内に侵攻。さらにこれまで局地的であった米軍の空爆は人口密集地域を含むカンボジア全域に拡大され、空爆開始からわずか一年半の間に200万人が国内難民化した[5]。
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これによりシハヌーク王朝の力は弱体化したと思われる.

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この事態を受けてシハヌークは亡命先の北京でカンプチア民族統一戦線を結成、反米・反ロン・ノル諸派の共闘を呼びかける。1970年3月末にはコンポンチャムでシハヌークを支持する暴動が起きたが、武力鎮圧された。当時の州知事によればこの地域だけで2-3万人の農民が共産主義の影響を受けていた[7]。その他タケオ・スヴァイリエン、カンダルなど諸州の州都で同様の蜂起が起こるも、武力で鎮圧された。
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あれ?

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クメール・ルージュ勢力が伸張した背景には、またカンボジアの共産主義者の間には、ベトナム人への長い服従に対する反感があった。彼らは政権を握った時、カンボジアの社会にかつて思い描かれた原始共産制への移行の強制を試みた。党中央が毛沢東思想に染まっていく上では中国共産党の康生の薫陶によるところが大きく、康生はポル・ポトを「毛沢東思想のもっとも忠実な実践者」として賞賛した[10]。、カンボジアの社会にかつて思い描かれた原始共産制への移行の強制を試みた。党中央が毛沢東思想に染まっていく上では中国共産党の康生の薫陶によるところが大きく、康生はポル・ポトを「毛沢東思想のもっとも忠実な実践者」として賞賛した[10]。
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さて,俺は,ベトナム人と左翼カンボジア人が,人種が違うんじゃないかと考える,と同時に,多分カンボジアはベトナム人の占領地だったんだと思われる.

この紛争に油を挿したのは、アメリカだけではない、冷戦なので、ロシアや中国も、火種である.ただカンボジア人を虐殺したのはアメリカ人であって,中国人やロシア人では無い.

第一段階で,アメリカがカンボジアを焦土にしたことで,生産形態が壊れ,カンボジアの左翼運動や,民族独立運動が歪められた.アメリカの罪は重い,左翼運動そのものは正しい,し,アメリカがカンボジアを焦土にするまでは,クメールルージュは安全だった.

餓死が始まると豹変する.シハヌークは他人に邪魔されない状態で,クメールルージュと決着をつけるべきだった.

....クメールルージュをシハヌークが浄化する展開はあり得ただろうか?

という可能性をアメリカは潰したと言える,が,ベトナム戦争には,横槍を入れる必要があったという意見もあった気がする.

元凶はベトナム戦争である.

"1970年、アメリカに支持されたロン・ノルのクーデターで王政が廃位された直後、"

またアメリカだ.アメリカに支持されたロンノルとは?

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1970年のロン・ノルによるクーデターの背景には不明な点が多い。ロン・ノルはカンボジア軍のチャム人将校レ・コセムのよき理解者であり、シハヌーク国王を説得して被抑圧民族闘争統一戦線(FULRO、中心人物はレ・コセム及び山岳エデ族のイーバム・エニュオル)の創設を支援した。南ベトナム領メコンデルタのクメール族や中部沿海のチャム族、中部高原の山岳民にとって、シハヌークとロン・ノルは彼らの自治・独立闘争における希望の星であった。
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ニクソンの干渉によるFULROの南ベトナム軍への投降・解散も1969年であり、ロン・ノルによるクーデターは、アメリカのアジア勢力圏再分割(インドシナ半島の中国への譲渡)のプロセスの中で行われたものであった。軍事支援は米中和解後ただちに中止"

とあるが,この際アメリカの高尚な意図はどうでもいい,具体的に,ロンノルが誰を殺したかだけが重要である,が書かれてない.

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クメール共和国(1970-1975)は、特にベトナム人に関して、シハヌークの中立政策を放棄した。最終的に、共和国は軍事的にも政治的にも悲惨なことを証明した。 1971年2月に脳卒中を患ったロン・ノール氏の健康は低下し始めた。彼のルールはますます不安定で独裁的だった。彼は1971年4月にマーシャル(以前はカンボジアでは知られていなかったタイトル)を任命し、10月に国会を中断し戦時期にもはや「民主主義と自由のゲームを無駄にしている」ことはなくなった[20]。彼の強力で野心的な弟ロン・ノン将軍に裏打ちされたNolはSirik Matak、In Tam、および他のクーデターの影響を減らすことに成功した。彼はまた、多くのクメール国軍(フランス軍:軍事国家Khmères-FANK)の運営を個人的に指揮することを主張した。

Lon Nolの政権は、多くのアメリカの援助に完全に依存し、最終的には、駐屯共和国を効果的に支援するために必要な政治的および軍事的解決が裏付けられていなかった[21]。 1975年までに、政府は最終的にタイとの北の国境にあるプノンペンとプレアヴィヒール寺院をほとんど持たないようになりました。ファンはすぐに弾薬を使い果たしていた。ロン・ノールは、仏教徒や仏教徒の神秘主義者のアドバイスにますます依存していました。プノンペンに対するクメール・ルージュ攻撃の一時点で、彼は都市を守るために奉公された砂の円形ラインを振りかざしました。最後に、4月1日、クメール・ルージュが実行する人のリストに彼の名前が最初に載っていたので、彼は辞任して国を追放した。
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ロンノールが,シハヌークと分裂したと書かれているが,彼が何人殺したかは書いていない,

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Nolは1955年に陸軍参謀長に任命され、1960年には軍隊の指揮官、国防大臣として就任しました。当時、彼はシアヌークの信頼された支持者であり、彼の警察はカンボジアの小さな秘密の共産主義運動の抑制に役立っていた。彼は1963年に副首相に任命された。シアヌークはベトナム戦争の影響から自分の国を遠ざけるために、中国との協調と北朝鮮のベトナムの活動に対する寛容を含む「極端な中立性」の外交政策を追求していた。 Nolは米国に向かって友好的なままであり、1963年以降、米国の援助の終了を後悔したことを示している[7]。

保守党と右派候補者が圧倒的に選出されたため、1966年の議会選挙は、ロン・ノール政権と右派のサングム政権のバランスが大きく変わった[8]。ロン・ノル首相が首相に就任し、翌年の軍隊はバタンバン州の左​​派勢力の反乱、サムロート蜂起の野蛮な弾圧を行った。

Nolは1967年後半に自動車事故で負傷し、政治から一時的に退職した。しかし、1968年、彼は国防大臣に戻って、1969年に首相に就任し、ボイコット反チアヌークと親米政治家シソワート・シリク・マクタク王子を代理人に任命した。
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困った事に、何言ってるかよく判らない。ので中断。湿度が高すぎるな秋田は。

内陸だと湿度下がるだろうな。東北に内陸を求めるのは困難、引いては日本列島において、内陸等皆無とも言えるが、無いものから選ばねばならない。その証拠に晴れたら凄く先程までに比べ頭が働く。ペラペラよく書く。

日本において、ハプログループDはまず湿気の民族だろうし、弥生人もまた湿気の民族であろう。

ハプログループDが東北に残ったのは、"弥生人に比べ更に対湿性に優れる"とか、"弥生人に比べ東風への対性に優れる"、とかそんなとこだろうと思われる。

ロンノルが何人殺したか書いていないので、よくわからんものだ。

"アメリカ軍と南ベトナム軍がホーチミンルートの南ベトナム解放民族戦線を追撃するためカンボジア領内に侵攻。さらにこれまで局地的であった米軍の空爆は人口密集地域を含むカンボジア全域に拡大され、空爆開始からわずか一年半の間に200万人が国内難民化した[5]。
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のパートがロンノルが殺した数に該当するであろう.

この事態を受けてシハヌークは亡命先の北京でカンプチア民族統一戦線を結成、反米・反ロン・ノル諸派の共闘を呼びかける。1970年3月末にはコンポンチャムでシハヌークを支持する暴動が起きたが、武力鎮圧された。

1970年である。1970年って事は、"彼は国防大臣に戻って、1969年に首相に就任し、ボイコット反チアヌークと親米政治家シソワート・シリク・マクタク王子を代理人に任命した。"、

ロンノルがアメリカの代理で争いを持ち込んだので、シハヌークとクメールルージュは結託して対抗したと思われる. だから全部元凶は、アメリカ及び代理人のロンノルである. こいつらのせいで, 強制労働が起きたと言える, ポル・ポトは強制労働に反対して虐殺を開始したとされる,またポルポトは当初,一般人じゃなく重役から順番に殺していったと思われる.強制労働させられたのは一般人である.ポルポトは自分の兄弟にも手をつけている模様.

その強制労働を引き起こしたのは当然ポルポトではないし,

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ロンノルは国防大臣に戻って、1969年に首相に就任し、ボイコット反チアヌークと親米政治家シソワート・シリク・マクタク王子を代理人に任命した。
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つまり元々王であるシハヌークを排除するって事だと思われる.アメリカは王をカンボジアの地から消したがってたが,アメリカが消そうとする王が,シハヌークであり,よくアメリカやイギリス人が,自分らの占領地に対し,既存の王を抹消し,傀儡の王を打ち立てる習慣を持つが,その占領キャンペーン作戦の,当時のカンボジアバージョンだったと言える.

イギリス人はフランス人に比べ,占領地から地元民の力を消し去り,イギリス人の子孫が新たに建国した土地にして,

あたかも冬虫夏草だが,つまり完全に変質させて殻抜けで奪い取るという行為によって建国させ独立させた国が多い例えばオーストラリアやカナダやアメリカ合衆国であるが,という手法に関与する行為である,傀儡政権を作り,伝統的権力者,文化,その他あらゆる伝統的手法を破壊すれば,完全に作り替える事が出来る.

容赦ない.実際にはアボリジニやインディアンは,遺伝子を残さないレベルで民族浄化された訳ではないが,文化を残さないレベルで民族浄化されたといえる.

アメリカで奴隷制を否定する雇用する資本主義が勝ったのもこれの表徴である,一度雇用される,するサイクルに入ると,それまでの生産手法に付随する文化を失う,文化を失い社畜になるように強要される,社畜にならない奴は餓死するか,犯罪者になり処刑される.

『民族浄化を超える文化浄化』

『民族浄化を超える文化浄化』 earthsolute 作

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-08-25
Public Domain

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