夢の中の青い女 新宿物語 3

夢の中の青い女 新宿物語 3

(5)

 いつの間にか林立するビル群の中に迷い込んでいた。ビルの中で働く人達も、この霧の深い夜ではすっかり帰ってしまったのか、どのビルの窓にも明かりが見えなかった。巨大なビルが、まるで墓石の群れのように見えていた。--突然、佐伯は気が付いた。いや、これは墓石のよう・・・・ではなくて、墓石そのものではないのか・・・・? そう気が付いて、改めて注意を凝らして見ると、確かに今まで巨大なビル群だとばかり思っていたものが、実は、林立する墓石である事が次第にはっきりして来た。ああ・・・・、と佐伯は思った。その墓石が霧のために、おそらく異様に拡大されて見えていたんだ。それにしても、おれはいつの間に墓地なんかに迷い込んでいたんだろう・・・・? それに、ここが墓地だとすると、いったい、何処の墓地になるのか? 新宿からの距離から言って、青山墓地だという事だろうか? --そうだ、そうに違いない。それ以外に説明が出来ない。いつの間にか青山墓地に来てしまっていたんだ。
 佐伯はようやく納得すると、とにかく、ここから出ようと考えた。しかし、余りに深い霧のためにどの方角へ行けば出口があるのか、皆目、見当が付かなかった。仕方なくそのまま歩いて行くと、なおも佐伯の周囲を車のヘッドライトの明かりが次々と流れて行った。いったい、なんだって、こんな墓地の中にまで車が入り込んで来るんだ ! 佐伯は今にもぶつかりそうになっては左右に流れて行く明かりの列を見ながら、腹立ちまぎれに呟いた。車も道に迷ってしまったという訳か? 
 その明かりの列を見ながら佐伯は、眼の前を覆う霧に全神経を集中して、おぼろな影になって見える墓石の間を歩いて行った。そのうち佐伯は、またしても奇妙な事に気付いた。何処かで人の声がしている。人の声? そう思って耳を澄ましてみたが、確かに人の声に違いなかった。それからすぐに、そうか、おれとおんなじように、霧の中でこの墓地に迷い込んでしまった人達がいるんだ、と納得した。なおも耳を澄ましながら声のする方へ歩いて行くと、今度はそれが、泣いている人の声に聞こえて来た。おそらく、と佐伯は思った。こんな霧の深い夜に、薄気味の悪い墓地に迷い込んでしまって、心細くなり、泣いているんだ・・・・、そう思いながら歩いて行くと、今度はそれが、自分の周囲のいたる所から聞こえて来る気がして、佐伯は混乱した。いったい、これはどういう事なんだ? その場に足を止めてさらに耳を澄ましてみると、すすり泣きにも似た声が依然として、自分のごく身近から聞こえて来るのが分かった。その上、佐伯はまた新たな疑念に囚われて耳を澄ました。その声が墓石の中から聞こえて来る気がしたのだった。信じ兼ねる思いのまま、改めて全神経を集中してみると、確かにそれは墓石の中から聞こえて来た。しばらくは声も出なかった。墓石の中で人が泣いている・・・・。信じられなかった。亡くなった人達が泣いているのだろうか? 佐伯はその声を一層よく聞こうとして、一番近いと思われる墓石に向かって歩いて行った。と、その時、一台の車の明かりが急速に接近して来て、一つの墓石が強烈な光りで照らし出された、と思うと、あっという間に佐伯の眼の前で、その光りが墓石の中に吸い込まれていった。あっ、あつ、・・・・と佐伯は、息を呑む思いで声を出していた。何が起こったのか、すぐには分からなかった。今まで車の明かりだとばかり思っていたものが、突然、墓石の中に消えてしまった ! いったい、どういう事なんだ? --その間にも車の明かりは次々と佐伯に接近して来ては、ふうっ、と何処かへ消えて行った。おそらく、この墓地に林立する墓石の中に消えて行くのだろう・・・・。佐伯は今まで左右に流れているとばかり思っていた明かりが、実は墓石の中に吸い込まれて見えなくなっていた事にようやく気付いた。--だとすると、この明かりは人魂だったという事なのか? 車の明かりではなくて、人魂がこの墓地の中を飛び交っていたという事か? それなら、墓地の中を光りの列が走っていた事も理解出来る。そして、そう理解すると佐伯はすべての事が理解出来た思いだった。おそらく、東京というこの大都会に生きている人達が、突然、自分の身に訪れた不本意な死を受け入れる事が出来なくて、この世に未練を残したまま、こんな霧の深い夜には誰にも見咎められる心配もないと安心して、迷い出て来たんだ。その人達の魂が墓石の中で泣いていたんだろう・・・・そう考えて佐伯はなんとなく、その人達の魂に共感を覚えながら再び、墓地の出口を探して歩き始めた。連日、仕事に追われ、自分を見失いかけている自分を何故とはなしに顧みずにはいられなかった。おれも多分、この魂たちと一緒なんだ。こんな霧の深い夜にこの世に迷い出ている部類の人間なんだ。すると佐伯には、墓石の中で泣いていたように聞こえた声が、実は、自分自身の体の中から聞こえて来る声のように思えて来た。そうだ、あの声はおれ自身が泣いている声かも知れない。墓石の中から人の泣き声が聞こえて来るなんてはずがない。--佐伯は自身の日頃の孤独を思った。一見、平和な家庭を築いていて仕事の出来る奴・・・・。なんの不満を抱く理由もないように思えながら、実は心の中には決して払拭される事のない、理由も定かではない不満が鬱積している・・・・。いったい、何が不満だと言うのか? 佐伯には自分自身が分からない。佐伯はとぼとぼと、出口も分からないままに霧の中を歩いて行く。すると今度は前方から、微かな含み笑いをする声が聞こえて来た。またしても、おれ自身の声か? 自嘲気味にそう呟いて耳を傾ける。しかし、この嘲るような笑い方は何を意味するのか? 自身の心の内を探ってみても思い当たるものがない。雲をつかむような思いのままに、更に歩いて行くと、それが大勢の人達のクスクス笑いに聞こえて来た。いったい、なんだこれは? 佐伯は霧の中で声のする前方を透かして見る。誰かがいるのだろうか? 人のいる気配もない。ただ、前方に何か屏風のように立ち塞がっているものがある。それが霧にぼやけておぼろな影になって見える。佐伯がなおも歩いて行くと大きな墓石が見えて来た。--なんて大きな墓石なんだ。完全に眼の前が塞がれている。笑い声はその向こうから聞こえて来るらしかった。佐伯は声の主を確かめるために、墓石に近付くと横へ廻った。と、急に眼の前が開けて明るい空間が広がった。同時に、その空間の異様な明るさに眼がくらんでめまいを覚えた。ようやく眼が馴れて来るのと共に、それが強烈な照明に浮かび出た大きな舞台であるのが分かった。しかし、そこには笑い声を響かせるような人達はいなかった。それにしても、なんて大きな舞台なんだ。それに、なんだってこんな所に、こんな大きな舞台があるんだ? 佐伯が疑問を抱きながら見つめていると、一人の女が舞台の袖から出て来た。女は真っ赤なドレスに身を包み、大きく開いたその胸元には豪華なダイヤモンドのネックレスが輝いていた。女優らしかった。これから何が始まるのだろう? 女優は舞台の隅にある椅子に腰を下ろした。誰かを待つふうだった。佐伯は見覚えのある女優なのか、と興味を引かれて眼を凝らし、女を見つめて度肝を抜かれた。真っ赤なドレスに身を包んだ女は治子だった。妻の治子がそこに居た。--治子がなんだって・・・・! しかも、あんな派手な衣装に身を包んで・・・・。その姿には明らかに不倫の匂いが漂っているーー。佐伯は狼狽した。日頃、治子は彫金やキルト作りだなどと言ってしきりに出歩いていたが、こんな所でこんな事をしていたのか ! 突如として沸き起こる怒りに佐伯は体の震える思いがしたが、治子はその時、急に生き生きと顔を輝かせて椅子から立ち上がった。
「小宮さん、小宮さん」
 背伸びをし、舞台の向こう側に視線を向けて手招きをしながら誰かを呼んだ。
「ああ、ここに居たんですか」
 若い男がそう言いながら舞台へ出て来た。
 佐伯はその男を見て二重の驚きに囚われた。男は佐伯がよく知っている部下の小宮直人だった。小宮は佐伯の何人もいる部下の中でも、四天王と呼ばれる程に優秀な四人のうちの一人だった。小宮自身も佐伯にはよく従っていて、気心の知れた同志とも言える間柄だった。
「お待ちになりましたか?」
 小宮は誰からも好かれる、例の爽やかな笑顔を浮かべて治子の前へ行くと言った。
 

夢の中の青い女 新宿物語 3

夢の中の青い女 新宿物語 3

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-08-24

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