20170810-実話・呉に生まれて


 気がつくと、とてもひもじかった。三歳の私は母に手を引かれいつもこの長い坂を登っていたように思う。しかし、この坂を登り切れば美味しいお菓子や料理が腹いっぱい食べられる。そのことは、幼い私にも分かっていた。それでも、歩き疲れて母を見上げると、とても辛そうだった。私は心配になって手を強く握ると、母は大きなお腹をさすって笑いかけた。
 幼かった私が歩いてやっと行けるところに親戚の家はあった。どういう親戚かは分からないが、たぶん母の兄弟だと思う。その家は立派な洋館で、きれいなバラがいつもプランターいっぱいにあふれていた。そして、その親戚のおばさんは高そうな洋服を着て、きれいに化粧をして、いつもやさしくほほ笑んでいた。
「じゃけいぇ、わしゃこの人の子供になりたいんじゃ」
 そう話すと母は悲しそうに涙をためた。
「ごめんよ、ごめんよ。もう、我がまま言わんけぇ泣かんで」
 って言った記憶がある。

 一九二九年三月一日、広島県呉市神原町の繁華街に私は生まれた。名前を、海と書いてカイと言う。兄弟は上から姉、兄、姉、そして私。みんな三つ違いで、一番上の姉とは九つちがった。
 私がもの心がつく前の二歳の時に、父は海軍の造船工場で高いところから落ちて死んだ。昔はお花や水引のお師匠さんだったそうだが、造船工場に勤めたのは収入や戦時中の人の目もあったのだろう、慣れない仕事で疲れていたのかもしれない。父の死後、わずかな遺族年金をたよりに家族六人がなんとか食いつないでいた。
 そのころ、母のお腹には赤ちゃんが宿っていた。この赤ちゃんはのちに三歳違いの弟になるのだが、彼は父の顔は遺影でしか見られない。そういう私も父との思い出がないのだが。その重たいお腹をかかえ母は隣町の天応町の親戚に援助を求めたのだろう。昔は父の手伝いをしていたが、造船所に勤めるころには、子供を四人もかかえてすっかり専業主婦になっていた母。父が亡くなった今となっては、手に職を持っていなかったことが悔やまれる。
 さらに悪いことに母は弟を産むと寝込むことが多くなり、やがて結核をわずらった。そのころはまだ有効な治療薬はなく絶望的な気持ちで診断を聞いただろう。結核の治療薬ストレプトマイシンが開発されるのが一九四四年のことだから。母は子供たちへの感染を恐れて、さらには安静を必要としたため、私たち子供を親戚の家にあずけた。私が小学校一年(当時は尋常小学校)のころである。


 一九三五年、小学一年の秋。街路樹が赤く色づき、落ち葉が暖かく地面を包むころ。私たち兄弟は親戚の家にひとりひとりばらばらにあずけられた。本当は兄弟五人一緒なのがいいのだが、そんなにたくさん他人の子供をあずかってもらうには無理がある。三歳、六歳、九歳、十二歳の子供は皆違う親戚の家へと、そして十五歳の長姉はすでに働きに出ていた。私たちは心細くって去ってゆく姉たちをいつまでも目で追った。
「おねえちゃん」
「海。元気でね」
 いくら泣いたって私の引き取り手は、手を離さない。そんなことは、小一の私にも分かっている。ただ、頭とは反対に私の身体は長姉に助けを求めていた。長姉とは、これが最後のお別れになった。一九四三年の春に、結核で死んだからだ。
 ところで長姉の仕事というのがちょっと変わっている。当時では珍しくビリヤード場で働いていたと聞く。当時の私には外国人のように思えた。

 最初に私があずけられたのは母方の兄、伯父さんの家。その家は庭に植えられたカエデよりも大きな家で、私よりも少し年上の女の子ばかりが三人いて、男兄弟がいなかった。そのお姉さんたちは初めて見る従弟に興味を示して私をいじってきた。
「ねえ、海。あんたも、おちんちん付いとるの?」
 そう言って、お姉さんたちは私を裸にして、観察した。いくら、私が嫌がっても三人の力にはかなわなかった。私は、目をつむってこの屈辱に耐えた。その他、女の子の服を着せられもした。とにかく私はいいオモチャだった。その悪戯のお礼かも知れないが、私ははじめて腹いっぱいにごはんを食べた。とても幸せだった。
 意外に住みごこちがよかった家だが、二年を待たずに違う家に移された。残念であったが、たぶん女の子のいたずらがバレてしまったのだろう。次の家はこじんまりとした一階建ての家で、叔母さんたちは優しかったが、ふたりの従姉弟たちが意地悪だった。私のふで箱や弁当箱をどこかに隠して叔母さんの心証を悪くした。私はその家では従姉弟たちの居場所をおびやかす侵略者に見えたのだろう。そのことはすぐに叔母さんたちの知るところとなり、まもなく私は違う家に移される。別れ際、叔母さんは申し訳ないと言って、私に小学生には少なくないお金をくれた。
 他の家も似たようなもので、私はいじめられた。中には、叔母さんに意地悪されることもあった。おかげでその頃の私の太ももはいつも赤く腫れあがっていた。

 一九四〇年。小学校五年の時に父方の祖父の家に厄介になった。その家は瓦ぶきの一階建ての古い建物で、すでに隠居を決め込んでいた祖父は私にはあまり興味を示さなかった。今にして思えば息子の嫁の手前、かわいがっているようには見せなかったのだろう。
「海、ごめんな。わしが現役じゃったら……」
 祖父はそうすまなそうに言って、時々こっそりとお菓子をくれたから。
 この家には小学校を卒業するまでいたが、私はわりあい平穏な時を送った。それでも、いつもひもじかった。私は近所にある客席が五十にも満たない映画館で映画を盗み見て空腹をまぎらわせていた。
 そんなある日、映画館の館長に声を掛けられる。
「おい、坊主。駄賃あげるけぇ、アルバイトせんか?」
「わしにも、できる仕事ですかのう?」
「なーに、ちいと走ってフィルムをかえっこするだけじゃ。坊主、呉はあちこちに行ったことあるんじゃろう?」
「はい、もう四軒をたらい回しになっとるけぇ、詳しいです」
「じゃ、決まりね」
「ありがとうございます!」
 アルバイトとは、映画館の間でフィルムの交換をするのだが、その運び屋をやってみないかと言うことだ。足にはいささか自信があった私は、この申し出にすぐに飛びついた。
 次の日の学校が終わった時間から、私のはじめてのアルバイトがはじまった。私は映写の終わったフィルムが映写機から巻き取られるのを待ってブリキのフィルムケースに入れ、それを大事に懐へかかえ走った。身体は小さかったが、これでも小学校一の健脚だ。私は大人たちの間を風のように走って、提携している映画館へ着くとフィルムを渡して、代わりにまた違うフィルムを手に持って元いた映画館まで走った。
 当時は、私のような子供がこのようなアルバイトをよくしていた。今にして思えばわずかな駄賃でアルバイトをしてた。きっと、安くすまそうと思って私をこき使ったのだろうが、それでも小学生の私には大金だった。そのお金でお菓子やまんじゅうなどを買って空腹を満たした。
 そのうち、私は映写機をあつかうことになる。見よう見まねでフィルムをセットして回すだけで、館長にとてもほめられた記憶がある。好きな映画もどうどうと見れて幸せだった。あのころ小学生でフィルムを回していたのは私ぐらいだったろう。
 そして一番記憶に残っているのは、少し重たくなったアルバイト代ではじめて食堂でカレーライスを食べたことだ。とても美味かった。

 小学校もあとわずかで卒業となる時(小学校の最後の一年は尋常小学校六年から国民学校初等科六年に名前が変わった)、先生は私に新聞配達をやってみないかとたずねてきた。中学校(当時は国民学校高等科)に行きながら稼げるし、他人の家できゅうくつに生活する必要もない。そう言って私にすすめた。
 この時、私ははじめて母を探して、最初に私がお世話になった母のお兄さんを訪ねた。聞いてみると彼は知っていた。母は広島の診療所にいると。
 後日、路線バスに乗って広島の山奥にある診療所をたずねると、母は日当たりのよい部屋のベッドでまるまって寝ていた。私が声をかけると、
「どちら様じゃろう?」と言って寝巻の袖で口をおおった。
「わしじゃ、海じゃ」と答えると、とたんに涙を流して、
「すまんのぉ、すまんのぉ」と言って、頭をベッドに擦り付けた。
「このとおり、わしゃ元気に生きとる」とおどけて言うと、
「親はおらんでも、子は育つと言うものね」と言って母は泣き笑いした。
 かあさん。私には欠けているものがある。それは親の愛情だ。だから私はいつも自分に自信を持てずにどこかおどおどしている。それを補えるのはかあさん。あなただけだ。
 私はそのことを先生に聞いた。だから自分のために母と一緒に住もうと決めたのだ。悪いが三つ年下の弟にはゆずれない。そして六つ年上の兄は、建築会社の寮に入っていたので、この役は私のものだ。
 それから小学校を卒業した私は、先生のつてで呉市東畑町にある日当たりのよい一軒家を格安で借りて、母と一緒に住みはじめた。結核菌は紫外線に弱いと聞いたので、日当たりのよい家を世話してもらったのだ。また、感染を恐れる人がいるようだが、患者のセキやタンに気をつければ感染することはないと医者に教えられた。私と母は、新聞配達の給料と、わずかばかりの遺族年金で暮らしはじめた。一九四二年四月。中学一年の春のことである。

 ところで、映画館のアルバイトは残念ながらやめた。場所も遠いし夕刊も配れないから。事情を話してやめると言うと、最後の日、館長は私に餞別(せんべつ)をくれた。家に帰って開けてみると、なんと五十銭札が十枚も入ってた(当時の映画代が五十銭)。今のお金で四万円近くはする。
 この時、はじめて人のありがたみを知った。小学校の先生と映画館の館長にはたいへんお世話になった。この場を借りて言いたい。ありがとうございます。


 一九四二年秋。おだやかな日が続いた。新聞によると日本はアメリカを破竹の勢いで撃破していると言う。まだ十三歳の自分には他人事のように思えた。朝夕と新聞を配り、昼間は中学校へ行って、夜には母の作ったごはんを美味しくいただいた。本当に幸せだった。
 しかし、母のかげんが思わしくなくて、間もなく私が料理を作るようになる。味は母が見てくれるので安心なのだが、母は少し食べただけでもうお腹いっぱいだと言う。もしかして、私にたくさん食べさせようとしているのかもしれない。母こそ栄養をつけなくてはいけないのに。

 一九四四年春。私は十五歳で中学を二年で終了すると山沿いにある大きなドリル工場に勤めた。軍事用の部品をけずったりする、いわゆる軍需工場である。私はこの時はじめてちゃんとした給料をもらって働いた(この会社で働いた記録は残されていて、のちに割合高額な年金が支払われた)。その給料で闇市から食料を買ってきて、母に食べてもらった。私は会社の食堂でたらふく食べていると嘘をついて。
 ある朝、新聞に結核の特効薬ストレプトマイシンが開発されたと載っていた。しかし、この物資の不足している時代では、いつ手に入るのか分からない。非常に悔しい。母はそれでも希望がわいたと言って少し元気になった。もしも、医者に薬が降りてきたら、まっさきに治療してもらおう。(だが、当時ストレプトマイシンはとても高価で、治療期間も幾年もかかり、とても私の給料では払えなかっただろう。)

 一九四五年三月一九日。日本は優勢だと新聞は知らせていたが、ついにここ呉も空襲にみまわれた。この時から、たびたび軍事工場が被害に合うことになるのだが、あの日だけは違った。
 一九四五年七月一日。夜空は雲一つなく、満月がまぶしいほど地上を明るく照らしていた。私はそれをしばらく眺めて、眠りについたのを覚えている。
 どれくらいたった時だろうか、どこからともなくヒューと音がして、次の瞬間破裂音がして爆風でガラス窓が吹き飛ぶ。私はあわてて起き上がると母を起こして急いで外へ出た。その途端、次々と降りそそぐ焼夷弾(しょういだん)に足がすくんだ。だが、ここにいてはいずれやられると思い、勇気を振りしぼって母の手を取り走り出した。
 必死で走って無事防空壕へたどり着くことができてほっと安心したのだが、
「この防空壕は危ない。けれど、わしゃもう走れんけぇ、海は裏山に向かって逃げて」
 母は、そう言ったのだ。だが、母を置いては行けない、そう思い一緒にいようと思ったが、母は
「早う逃げて!」
 そう叫んで、私の身体を防空壕の外へ押し出した。私は泣きそうになりながら、
「きっと、しゃーなーよ(大丈夫だよ)。後で迎えに来るけぇ」
 そう言って、ひとりで裏山に向かって走り出した。その後、何度も危ない思いをしたが、私は後を振り向かなかった。
 無我夢中で走った末に、なんとか生きて裏山にたどり着いた私は、振り返って背筋が凍る。あたり一面火の海。まさにその言葉が当てはまった。だが、母はちゃんと防空壕の中にいる。絶対に大丈夫だと自分に言い聞かせて震える膝を手で必死に抑えた。それからも、焼夷弾はまるで雨のようにひっきりなしに降りそそいだ。

 ほんとうに長かった。七月二日の明け方にようやく空襲は終わった。私は喉も乾ききっていたのに、全力で母のいる防空壕へ走った。心臓は今にも爆発するように激しく鼓動を繰り返していたが、私の足は走ることをやめなかった。
 変わり果てた街並みに防空壕がどこなのか探し回る。そして、もう日が明けてからだいぶたったころ、防空壕を見つけた。急いでかけ寄ると中はからだった。私はほっとして防空壕を出たが、人に呼びとめられる。
「君、防空壕は皆全滅じゃ。遺体は小学校のグランドで荼毘(だび)に伏されるけぇ、行って遺体の確認をしんさい」
 こう言われた瞬間、膝から崩れ落ちて、狂ったように大声をあげて泣いた。
 ひとしきり泣いた後、私は嗚咽(おえつ)しながら小学校への道を歩きながら考えた。
 私が殺したんだ。私が母をここへ置き去りにしないで一緒に逃げていればきっと母は死なずにすんだ。きっとそうだ。私が殺したんだ。
 その後悔は今でもある。たとえ母と一緒に死んでもそれは幸せなことだと思った。
 一方で、母に命を託されたと言う思いがある。母にもらったこの命を、大切にしなくては、そう思った。

 私は、重い足取りで小学校へ着くと、母を探した。そして、校庭のすみで、小さくまるまっている母を見つける。焼夷弾で蒸し焼きにされたのだろう。遺体は損傷が少なくきれいなものだったが、死に顔は苦しみに歪んでいた。
 泣き疲れて呆然として火葬を待っていると、ドリル工場の人たちが来て、私になぐさめの言葉をかけて棺桶を用意してくれた。どうせまとめて燃やされて誰の骨か分からなくなるのに。だが、その言葉を飲み込んで素直に好意を受けた。
 母はたくさんの遺体と一緒に燃やされた。火柱が黒い煙をはき、夏の空に舞い上がっていく。私は手を合わせて母を見送った。
 後日、母の遺骨は父のお墓に一緒に収めた。しかし、誰の骨であったかは分かりようがない。

 一九四五年八月五日、日曜日。私は母の死を引きずって落ち込んでいたので、ドリル工場の先輩たちが、気分転換にと広島へ連れ出してくれたのである。
 広島駅に着いて電車を降りると、空からビラが舞い落ちてきた。
「なんじゃ、こりゃ?」
「ああ、ここ一か月くらい毎日降ってくる言う話じゃ」
 拾って読んでみると、どうやらそれはアメリカ軍がバラまいているもので、すぐに広島より撤退せよと言う内容だった。私は背筋が寒くなり空を見上げる。ところどころに雲があるだけの真夏の空だった。
「おい、なにやってんだ。いくでぇ」
 と先輩たちが、私の背中を押して駅から町中へ繰り出して行く。
 なにをして遊んだのかよく覚えていない。その日は一日中、サイレンの音にビクビクしていたから。そして翌日、あの悲劇が起こる。

 一九四五年八月六日、月曜日、午前八時十五分。広島原爆。
 私は、ドリル工場の窓から、もくもくと天に登る雲を呆然と見ていた。そして、力なくつぶやいた。
「アメリカは一体なにを考えとるんじゃ。日本人を皆殺しにするつもりなんか。そがいに日本人が憎いんか。もうやめてくれよ。お願いじゃ。お願いじゃ」
 私は、あの雲を決して忘れない。

 そのあと、私は広島へは助けには行かなかった。いち早く行ったものが、水をあげると安心したのか、皆死んでしまうから無駄だと言ったからだ。そして、爆弾が落ちた直後に行ったものは、黒い雨に降られて体調をくずし、病院に運ばれたと聞く。
 まったく、アメリカはとんでもないものを作ってしまった。もしかして、私たちを同じ人間だとは思っていないのではないかと疑ってしまう。そう言う私たちもアメリカ人を鬼畜米英と言っているのだが。


 一九四五年八月十五日正午。私は汗を拭きつつドリル工場で玉音放送を聞く。なにを言っているか分からなかったが、お偉いさんの説明によると、日本は戦争に負けたと言うのだ。
 その時、怒りがわき起こった。絶対日本は負けん言うとったじゃないか! それを信じてわしらは耐えてきたのに、今更負けたたぁなんじゃ! かあさんを返してくれ!
 その言葉は言わずに心の中にしまった。言ったところで、母は帰ってこないのだから。その日の内に、一年と四か月勤めたドリル工場の退職の判を押した。

 それから私は二十二歳の兄に仕事の相談をするために訪ねた。兄は、広島の大きな建築会社で大工として働いていたが、二年前から海軍の輸送船で働かせられていた。今回終戦となってすぐに元いた建築会社へ戻ってきたのだ。
 兄は私が仕事を探してると言うと、そくざに答えた。
「じゃったら内で働かんか。なにせ空襲で焼け野が原になって復興にゃあ大工の数が圧倒的にたりん」
 こうして十六歳の私は、大工の見習いになった。
 大工の朝は早い。寮で早朝にたたき起こされて、飯を急いで食って、手早く支度を整えたら、すぐに作業に取りかかる。はじめはひたすら清掃や運搬などの雑務。そしてしばらくしてから、道具の手入れをやらせてもらえるのだ。家を建てるまで修行するには、十年は必要とされていた。当時十六歳の私が二十六歳までかかる。それでも行くところがないから雇ってもらった。
 まだ残暑厳しい中、汗だくで働きはじめた私だが、毎日のようにやらされる重たい建築資材の運搬にすぐに腰を痛めた。なにせ当時は百六十センチにも満たない痩せの小男だったので、数か月で大工をあきらめて船に乗ることになる。

 一九四五年秋。運よく知り合いの紹介で漁船に乗った私は、心おどっていた。対馬の漁場から肥えたサバを買って、九州の市場へ運んで売りさばく仕事だ。泳ぎには自信があるし、船に乗ってあちこちの港へ行けるのだ。それがとても、うれしかった。
 だが、出航してすぐに甘い考えだと気づく。私は船酔いをして、ゲーゲーと吐いた。瀬戸内海でも吐いたが、関門海峡を出ても吐き続けた。これも船に乗ったことがなかったからだと思う。
 しかし、対馬に近づくとしだいに収まってきた。船長が笑いながら言った。
「お、船酔いにも、だいぶ慣れたか? よし、じゃ仕事してもらおうかの」
 私は調理場へ連れていかれて、なにか作ってみろと言われた。私は料理には自信がある。なにせ、十三で母と住むようになってはじめは母が料理を作っていたが、病気が思わしくなくて私が作っていた。味は母が見てくれたので母ゆずりの味である。
 まず私は材料になにがあるのか確認すると、調理方法が簡単なカレーライスを作りはじめた。イモやニンジン、玉ねぎを大きめに切って菜種油でいため、水を入れてグツグツ煮る。ほどよく火がとおったらルーを入れるのだが、当時ルーはトロミがなかったので、茹でたイモをつぶしてよく混ぜる。そして、かくし味にミルクとしょう油を少々溶け込ませる。中火で長めに温めたら皿にもって、さあどうぞと言った。
 船長がひと口、そのカレーを食べた時の驚きに満ちた顔は今でも忘れられない。船長は相好をくずして合格だと言った。こうして、私は漁船の料理当番となった。

 普段の漁船の仕事は割り合い楽だった。サバを大量に乗せた船に横付けして、中からサバをクレーンでつるして、こちらの船底の氷の中に入れる作業だが、私たちはクレーンを手で誘導して船底の穴に落としたり、こぼれた魚を船底に投げ入れたりするだけの簡単なものだった。
 それ以外は暇を持てあましてデッキをブラシで掃除したりしていたが、料理を任された私は毎日を充実して過ごすことができた。人のために料理を作ることが、こんなに幸せなことだとは、十六年間生きてきてはじめて知った。それまでは、病気の母のために料理を作っていたが、満足に食べてくれなかったので分からなかった。料理人もありかなと漠然と思った。

 そして、船が九州の市場に近づくと、途端に忙しくなった。市場に着く直前に、急いでサバを箱詰めにして細かい氷をつめる作業を急いでした。そうすると、市場に着くと、生きのいいサバがすぐにセリにかけられるのだ。
 その市場だが、一番高値で買ってくれるところを選んだ。それは、福岡県小倉、福岡県戸畑、佐賀県呼子(よぶこ)、長崎県若松、長崎県佐世保など、いろんな港へサバを卸した。
 ひと仕事おえると、私たちは他の漁師と同じように陸に上がって有り金を使い果たした。明日には海で死んでしまうかもしれないので、この世にお金を残さないためだ。港々に女を作り、なんてことはできなかったが、それなりに楽しんだ。

 一九五〇年ころ。日本近海の漁獲高が大きく落ち込んだ。戦時中は、燃料がなくて漁船を出せずに、おまけに漁師は皆兵隊に取られていたから、漁業どころではなかった。それが、戦争が終わると、食料確保のために皆こぞって魚を取ったので、資源がすぐに枯渇したのである。
 困った私たちは大きな声では言えないことをした。沖縄県では建築資材が不足しているという話を漁師仲間から聞いたので、材木を福岡県の新宮で買い込み、船底にかくして沖縄まで運搬し、高値で売ったのだ。
 分け前をずいぶんもらってその時は豪遊してしまった。本当にいいところだ沖縄は。飯はうまいし、女は情が深いし。思わずここに住みたくなったが、当時はアメリカ領でそんなことはできなかったのである。
 ところで、アメリカと言えば、一度アメリカ軍の巡視艇に追われて沖縄から実に三千キロへだてた南鳥島近くまで逃げたことがある。沖縄からサトウキビを積んで帰って来る時だった。突然サイレンがなって、
「その船、止まりなさい」
 と言われた。そう言われて止まるものなどいない。
「逃げろー!」
 と言って、私たちは一目散に逃げだした。サトウキビをすてて船を軽くしながら。巡視艇はなかなか追うのをやめない。そして南鳥島あたりに来て、ようやく追うのをあきらめたのだ。なんで南鳥島なんかまで逃げたのかと言うと、もしも港にでも逃げ込んだらすぐに捕まってしまうからだ。
「やっと、あきらめた。まったく、しつこいんじゃよ、あいつら」
 私たちは、ほっとして脱力した。
 私たちが逃げおおせたのも、当時では高性能な日本製のディーゼルエンジンを積んでいたからだろう。日本の技術力はやっぱり素晴らしい。確か○ンマー製だった気がする。
 しかし、安心したのもつかのま。エンジンが突然止まった。
「大変じゃ。エンジンが掛からん」
「なに? そがいな馬鹿な」
 船長が、いくらスターターキーを押しても、エンジンは掛からなかった。
「駄目だ。修理せにゃあいけん……」
 全員青ざめた。一応、修理道具は積んでいるが、もしも重要部品が壊れていたらどうしようもない。私たちは、天に祈る気持ちで船長の修理の成功を祈った。だが、中々修理は終わらない。その間に、じわじわと減る飲み水。そして、船は島からじわじわと離れて行った。
 一週間もたったときだった。皆半分あきらめて遺書を書いていた頃、突然、エンジンが再び火を噴いた。
「掛ったでぇ!」
「やったー! 船長」
 涙目でそう言って、私たちは船長と抱き合って喜んだ。もしこのまま漂流していたら船の上で干(ひ)からびていただろうから。私たちは、近くの島に上陸して、水と食料を調達した。そして、九州の港までエンジンをいたわりながら船を走らせた。

 おもしろおかしく月日をかさねて、一九五二年の春。沖縄県に材木をおろして帰って来る時だった。たぶん、台風だったと思うが、その日は朝から大しけで、私はひさしぶりに気持ち悪くなって甲板にあがってゲーゲーと吐いていた。
 その時、船が大きく傾いて、私は海に投げ出されてしまう。無我夢中でもがいて海の上にようやく顔を出したら、そこは船の反対側だった。どうやら一度海に深く沈んで、その間に船の下をくぐったらしい。操舵室で見ていた船長が投げたロープをつかんで、なんとか甲板に這い上がることができた。
「よかったー」
 と、ほっとした顔の船長にお礼を言って、私は恐怖と寒さでガタガタ震える身体で船員室へ入る。とっくに吐き気はおさまっていた。
 私は毛布で身体を温めながら思った。もしも、落ちる場所が船の反対側だったら潮に流されて、この大しけの中、きっと見つかりはしなかっただろう。私は運がよかったんだ。そして、この幸運が続く保証はない。船を降りよう。そう決意した。

 私は九州の港へ着くと、皆にお別れを言った。
「七年間もわしを雇うてくれて、ありがとの。船長たちのこたぁ、きっと忘れん。さいなら」
 泣くものはさすがにいなかったが、皆しんみりしてしまった。そんな中、船長が声を上げる。
「餞別じゃ。取っときな」
 渡された封筒には、いつもよりも倍のお金が入っていた。
「よかったな。それで、由布院でも行けよ」
 と仲間は口々に言う。それで私の心は決まった。いざ、由布院へ!


 一九五二年夏。セミがうるさく泣いてかき氷が恋しくなるころ、私は大分県の由布院の近くに住んでる友人と、熱気むんむんの温泉街へ繰り出した。
 だがそこは、朝鮮戦争に駆り出された米兵がしばし骨を休める場所だった。私は奴らを憎み続けていたが、わざわざ知らない地へ来て命を掛けて戦争をしなければならない彼らの境遇に同情して、憎い気持ちはすぐに失せた。
 ゆったりと、友人と私は湯治を楽しんだが、すぐに所持金は底を尽き、ふたりして炭焼きをして小銭を稼いだ。伐採する木は、どこかの谷地に切りに行ったこともあったし、所有者不明の林へ忍び込んで伐採したこともあった。そして、炭窯で炭を焼いて、赤く熱を帯びたままの状態で、由布院の温泉旅館へ卸すのである。
 夏になぜ炭が必要なんだと思うだろうが、調理に使うのだ。そうして、小銭がたまったらまた由布院の温泉街へ遊びに行く。そんなことを一年近くしていた。

 そんなある日、連絡を取っていた広島の兄から手紙が来た。なんでも、今北海道へ行けば、ただで土地が手に入る。だから、一緒に北海道へ行こうと言う内容だった。私は、すぐに友人に別れを告げると、広島の兄の下へ出発した。
 ここで、なぜ土地が手に入ると言うだけで、そんな知らない土地へ、おまけに熊が出る寒冷地へすぐに行くことにしたのかというと、それは私たち兄弟が親がいなくて、引き継ぐ財産や土地もない根無し草だという境遇からだったかもしれない。私たちは、強烈に自分の土地というものを渇望したのだ。
 汽車にゆられて広島へ着いた私は驚いてしまった。なんと、兄は知らぬ間に結婚して、おまけに子供までいたのだ。
「どうだ、驚いたろう?」
 そう言って、兄は誇らしげに笑った。
 その時、私も結婚して子供がほしいと強烈に思った。その日その日をおもしろおかしく生きてきた私には、初めてのことだった。そのためには、まず自分が確かな財産を持っている方がいいに決まっている。新たに北海道行きを決意するのだった。

 北海道行きには、兄家族と私、それに弟が加わった。私たちは広島から汽車に乗り大阪、名古屋、東京を通り過ぎて、一路北海道へ向かった。
 その途中、本州と北海道の間にある津軽海峡を渡るのには青函連絡船を使うのだが、漁船の揺れとは違って随分と快適だったのを覚えている。私たちはその連絡船の三等客室で、約四時間足を延ばして眠った。経験者は分かるだろうが、それまでは汽車の座席に長い時間座っていたから、足を伸ばして伸びを打つのがこの上ない快感なのを。
 その翌年、台風に合って青函連絡船が沈み、多大な犠牲者をだしたことは、今でも鮮明に覚えている。そのため、青函トンネルができたのである。
 北海道の函館に上陸した時は、天候が晴れで痛いほど日差しが降りそそいでいた。まるで私たちを歓迎しているようで勢い勇んで汽車に乗り込んだ。それから札幌、旭川、帯広、釧路と経由して、ついに目的地、西春別に着いた。北海道東部のわりと内陸に入ったところである。

 霧に包まれた西春別駅に降り立って周りを目を凝らして見てみると、畑に黄色い作物(のちに菜種だと知る)が実っており、随分と開けているようだ。私たちは、安堵してまず役場へ行って土地を貰おうとした。
「え! 結婚しとらにゃあ土地をもらえんって?」
「だから、ここに書かれているべ。新聞の広告にもそう書いていました」
「兄貴。本当けぇ?」
「いや、わしゃそがいな文は見とらん」
「ほら、これが新聞の募集広告です」
 確かに、ただで入植できるのは妻帯者に限られると書かれてあった。それは独身者だと、もらった土地をすぐに売ってしまって逃げることが、おうおうにしてあるからだと言う。
(なぜ、国が北海道への入植を推進したかと言うと、それは終戦後、外地から帰って来た帰国者が過多で、治安も悪く、政府は悩んでいたからである。だから、北海道の未開発の土地をただで分け与えて、なんとか開発してもらおうとしたのだ。また、ソビエト連邦の脅威に対して、日本が実効支配しているんだぞと言うことを示したかったこともある。)
 これには私と弟は参ってしまった。兄は奥さんと子供を連れてきたので土地が貰えるが、ひとり身の私と弟は土地が貰えないのだ。よく新聞を読んでなかった兄はすまないと言ったが、確かめなかった私たちにも落ち度ある。仕方なく、私と弟は、兄の入植した家に居候をしてこれからのことを考えた。
 まず、呉へ帰ろうにも所持金は旅費でほとんど使い果たしてしまった。それに、呉に帰ってもどうせ根無し草の生活になることは目に見えている。それなら、かみさんができるまでなにか仕事をしようということになった。それで、兄は開拓に精を出せばいいのだが、いかんせん農業を全くしたことがなく、開墾も作物も作ることもできなかった。仕方なく、私たち三人は当時開拓者の家などを作っていた大工の親方にお世話になった。

 そうして、私たちは家や納屋や倉庫などを作って回って、実に四年の歳月が流れていた。ある日、農家の納屋を作っている時だった。ひとりの二十歳ぐらいの女がお茶を持ってきた。仲間たちは色めき立ち、女にちょっかいを出している。何分、皆このかわいい女をどうにかして手に入れようと必死だった。私は、それを遠巻きに見ていた。確かに嫁さんは欲しいが、私は由布院などの女遊びで女には慣れていたので、それほどがっついてはいなかった。それが気に入ったのか、その女の父親から訪問を受ける。
「ぜひ、内の娘を嫁に貰ってはくれないか」
「え! いっぺんも話したことがないのに?」
「娘が、寡黙(かもく)なあなたのことを気に入ったと言うので」
 そう言って、女の父親は頭を下げた。
 これには、さすがの私も喜んだ。これで、やっと土地が貰えるのだ。私はただちに羽織袴で挨拶に行って女と祝言を挙げた。その翌日、役場に婚姻届けを出したその直後に、土地を貰う手続きをしたのである。
 あとで知ったのだが、この女は満州国に開拓に入った父の下で育った、生粋の農家の娘だったのだ。

 それからは、妻の指導の下、開墾をして、畑を耕して、さまざまな作物を作った。菜種(黄色い花を持つ、なたね油の素。天ぷらによい)、蕎麦、大豆(モヤシ、枝豆、みそ、しょう油、豆腐、納豆などが作られる)、ビート(別名テンサイ。砂糖の原料。また、搾りかすは家畜の飼料に使われる)、などなど。
 確かに蕎麦は美味かったが、どの作物も思ったほど利益が得られず、ほとほと困っていた。それはそうだろう。夏でも多くの日数霧に包まれる気候。そのため、日照時間が短く、寒々とした気温。これでは、どんな作物だって満足に育ちはしない。私たちは、明日の食べ物にも困るように、貧困にあえいでいた。
 そんな折、妻の父親が酪農をはじめて、どうにか軌道に乗ったと言う。牧草はこの冷涼な気候でもすくすくと育つかららしい。話し合った末に、私たちも酪農に挑戦しようと、義父からホルスタインという品種のメスの子牛をゆずり受けた。名前をハナコというが、すくすくと育っていった。
 それに合わせて、畑を牧草畑にかえて放牧し、冬に備えて草の乾燥の山を作った。この乾燥であるが、妻がモア(草刈り機)やテッター(草乾燥機)を馬に装着して効率よく作っていった。私はと言うと、生き物は扱ったことがなかったので、手作業で乾燥牧草の山を一生懸命作った。完全分業制である。
 馬は妻が実家から持ってきたフランス産のペルシュロンという品種で背が高くガッチリしていた。名は、アオだったと思う。餌をたらふく食べたが、よく働いてくれた実にいい馬だった。妻は、アオの背中に乗って実家に時々帰ったが、その姿はさっそうとして美しかった。
 やがて、ハナコは大きくなって種付けをして子牛を産むと、たくさんの乳を出した。一年ごとにハナコの子供が増えていき、どうにか経営が軌道に乗って、二十年ほどで乳牛を八十頭かかえた。その間、牧草地もブルトーザーを頼んで開墾したから一気に八十ヘクタールほどまで大規模化した。それに合わせて、馬はトラクターに取って代わった。妻の馬の背に乗る姿が見れなくて残念だったが、トラクターに乗ってもさっそうと作業をしていた。
 八十ヘクタールもの広大な土地の使い方だが、土地面積に対する利益率はそれほど高くないし、土地代も驚くほど安い。しかし、なんの使い道もなかったこの大地を有効に使ったのだからいいではないだろうか。
 正直、もしも妻と出会えなかったらこの成功はなかっただろう。だから、妻にはとても感謝している。ありがとう、徳子。
 一方、兄は農業に挑戦したがついにあきらめて、広島へ帰って大工を定年までやった。弟も、農業をあきらめて、夕張へ行って炭鉱夫として定年まで勤めた。不遇の幼少期を過ごした私たちとしては、わりといい人生を過ごしたように思う。

 そして今、妻と弟が亡くなってひさしいが、私と兄は八十八歳と九十四歳で、まだ元気に生きている。その生命力は研究にあたいすると誰かが言った。それはきっと、父と母が私たちの分まで長生きしろと言っているのだろう。だから、命の続く限り私たち兄弟は、生きる。


二〇一七年 海ここに記す。

(終わり)

20170810-実話・呉に生まれて

20170810-実話・呉に生まれて

43枚。修正20220321。戦中戦後を必死で生きてきた父の実話。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-18

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