花火

 緑色のバッタが飛び跳ねた。バッタは亜矢の膝下に着地した。隣に座る父親は目を丸くして亜矢を見つめる。亜矢は食べていたおにぎりを置き、バッタの背を掴む。6つの脚がばたばたと動く様を興味深げに観察し、そっとレジャーシートの外へ帰した。「お前は虫触れるのか」と感心するように言う父親と「やだ、汚いから手を拭きなさい」と言う母親の対照的な態度に亜矢はけらけらと笑う。そして除菌シートで手を拭い、またおにぎりを食べ始めた。
 亜矢は母親から譲り受けた紺地に赤や黄色の花が咲いている浴衣を着ていた。蝶結びの帯は朱色で黒い線と点の模様が入っている。町の河川敷に席を取り、お弁当を持って亜矢の家族は花火大会にやってきたのである。亜矢にとっては数年ぶりの打ち上げ花火であった。しかし、そのときの記憶はすでに忘却し、新たな気持ちで打ち上げ花火を見届けようと意気込んでいた。河川敷には、多くの人がすでに座っていた。亜矢は花火を待ち望む人々を見る。黒色の浴衣、桃色の帯、黄色の甚平、水色の髪飾り、朱色のかご巾着、白い鼻緒…。普段見掛けない多くの色彩の波に目が眩み、天を仰ぐ。まだ静寂を保っている夜空は濃く深い青色をしていた。
「只今より、平成××年度、花火大会を開催致します。」
場内アナウンスを皮切りに、ひとつの花火に火をつけた。亜矢や、母親と父親、そして河川敷に座る人々は皆一同に顔を上げた。
 ひゅるひゅると音を立てて、細く光る線は螺旋を描き、天を目指して昇っていく。そして、花火は円状に開かれた。遅れてドンと爆発音が聞こえる。燦々と輝く金色の閃光は両腕を広げても表わしきれないほど大きく、大きく広がった。花火を形作るひとつひとつの火花は己の生命の限りを尽くして遠くまで手を伸ばしたようであった。静けさに包まれた夜空は偉大なる父の背のようであった。一気に熱を帯びた金色の大輪花火の行方を暗い青で塗られた空は受け止め、見守る。停止することを知らない花火は一秒毎に形を変えて、自らの命を燃やす。その大きさと輝きは壮大且つ立派であった。亜矢はこれまで花火を儚いモノの象徴として捉えていた。しかし、今、目前に打ち上げられた花火はまるで異なっていた。花火は力強く存在していた。恐れを知らない戦士のように、勇ましく気丈であった。亜矢の身体は花火が解き放つエネルギーを取り溢さないように必死であった。限界まで開ききった花火は地へ堕ち始めた。ひとつの大きな花であったものが、無数の小さな火花に還る。最期まで光り続けた金色は父たる夜空の闇に溶け込んでいく。煙を残し、夜空はまた静寂に包まれた。そこには濃く深い青が在った。
 パッと開き、数秒後には姿を消した花火を称賛するように河川敷からは歓びの声が上がり、カメラのシャッター音が聞こえてきた。「大きいねえ、近い席が取れてよかったねえ」と両親が嬉しそうに話した。しかし亜矢は返事ができなかった。亜矢は茫然と夜空を見上げたままの姿勢で体内に溜めた花火の欠片を撫でていた。最早どこを見ても、先ほどの花火は存在しない。確かにたった今大きな金色の花を咲かせていたはずのだが、夜空は目を閉じて黙り込んでいた。この一瞬の輝きを世の中の人は儚いと表現するのだろうか? 亜矢は考えていた。しかし、亜矢の見た花火は淡く壊れそうな表情はしていなかった。失われることや、姿を消すことが儚さだと言うのだろうか? それは大きな誤りなのではないかと亜矢は小さな頭を一生懸命働かせて考えていた。その束の間、再び打ち上げ花火が上がる。赤から青へ色が変化する花火であった。そして、また花火が上がる。今度は四方八方へ光が散らばる花火であった。そして、また花火が上がる……。その晩は、2時間ほど花火が打ち上げられ続けた。その度に観客は思い思いに声を上げて、感動を拍手で伝える。両親も持ってきたお弁当のおかずを食べ、ビールを片手に楽しんでいた。亜矢は母親にご飯を食べなさいと促されるも、それを無視して一瞬も見逃さないように花火の行方を追い掛け続けた。体内に蓄積していく花火の欠片を見返して研究する隙も無く、花火は連続して光り続ける。亜矢は完全に混乱していた!どんなに目を凝らし、花火と夜空を睨んでも、変わりゆく閃光の輝きを記録することは不可能なのだと悟った。花火は何度もその甚大な力で深い青を金色の光に染め上げて、去っていった。全てを記憶できないとしても、亜矢は今日見た金色を決して忘れないと夜空の青に誓ったのだった。

花火

花火

打ち上げ花火を見た話です。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-17

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