*星空文庫

恋愛栽培 ―A Perfect Sky―

明智紫苑 作

恋愛栽培 ―A Perfect Sky―
  1. 序章
  2. 花川加奈子の衝撃
  3. 驚きの出会い
  4. 二人暮らし
  5. 夢と妄想
  6. 二人の音楽
  7. 恐るべき借り物
  8. 実りつつある果実
  9. おいしいひととき
  10. 甘い腐敗臭の女
  11. 脳と子宮
  12. 真剣な遊び
  13. その女、淫猥につき
  14. 乙女の危機
  15. 背水の陣
  16. 闇の中の炎
  17. その時、世界は変わった
  18. 二人の新世界
  19. 毒の系譜
  20. 魔を断つ剣
  21. ジューンブライド
  22. A Perfect Sky
  23. 終章
  24. 花川加奈子の周辺

序章

 その男は、そこで力尽きた。
 敵将の槍が、明確に彼の心臓を貫いた。男もまた、敵将の胸を貫いた。相討ち。
 関東のある大名に仕えていた彼は、文武両道の高潔の士であった。
 彼が最期に見たものは、亡き妻・加奈(かな)の面影だった。
「…加奈が、呼んでいる…?」
 意識が遠ざかった。全身の痛みが薄れ、眠りに引き込まれるかのようだった。
 …これが「死」か。
 行き先が地獄なのか、極楽浄土なのかは分からない。もしかすると、一部の者どもが言うように、死後の世界や死者の霊魂などというものは存在しないのかもしれない。
 しかし、このまま消えたくはない。
 現に、意識が完全になくなってはいないではないか?
 闇の中で、彼の意識だけがあった。

「もう一度、あなたと共に生きたい」
 病床の加奈は、臨終の際にそう言い残した。彼は彼女の小さな手を握りしめ、声もなく涙を流した。それ以来、彼は一度も泣いていない。
 もう、涙など出ない。ましてや、今の自分は死者なのだから。
 しかし、彼は疑問に思う。死者の知覚?
 彼は、古の伍子胥(ご ししょ)蘇秦(そ しん)を思い出した。子胥は自分を裏切った主君を呪い、「我が眼を城門に掲げよ。この眼でこの国の末路を見届けてやる」と言い残した。
 それに対して蘇秦は、自らの敵を主君にあぶり出させるために「私の死体を車裂きにしてください。しょせん、死者に知覚などありませんから」と言い残した。

 ふと、目の前が明るくなった。そこに一人の老人が立っていた。しかし、その長身で体格の良い老人は腰が曲がっておらず、並みの若者以上の精気があった。
 ヒゲも髪も眉も総白髪だが、実に堂々とした偉丈夫だ。
秀虎(ひでとら)よ」
 彼…秀虎は、見知らぬ老人から名を呼ばれて驚いた。
「貴公は…?」
「私はいくつかの名前で呼ばれているが、信じられまい?」
 温和な笑顔に、鋭い知性を宿す眼差し。これはただ者ではない。
「我が名は呂尚(りょ しょう)、字は子牙(しが)。世間では太公望などと呼ばれておるが、今の私は神々の使者という役割でな」
 秀虎は驚愕した。もしこの老人が本当に周王朝の功臣・太公望呂尚ならば、やはりここは死後の世界なのだろうか?
「どうだね、もう一度『生き直して』みないかね?」
 呂尚と名乗る堂々とした老紳士は微笑んだ。

花川加奈子の衝撃

 妖しく猛り狂う炎が映える。
 花川加奈子(はなかわ かなこ)はある夜、臨場感溢れる夢を見た。それはまるで戦国時代が舞台の時代劇のようだった。夜空に映える炎が美しく、官能的ですらある。加奈子は炎のゆらめきに心が騒ぐ。
 どこかの軍勢が敵陣営を攻めているが、その軍勢の(のぼり)には、黒い3つの三角形が描かれている。戦国時代の小田原北条(ほうじょう)氏の家紋だ。
 その戦場で、特に奮闘している武将がいた。北条軍の敵側だった彼は満身創痍(まんしんそうい)で槍を振るって、次々と敵をやっつけているが、ついには力尽きて死んでしまった。
 その瞬間、その男と加奈子の目が合った。
 加奈子は思う。あの真剣な眼差し、どこかで見たような気がする。懐かしいような。
 加奈子が住んでいる街は昔、合戦があったという。戦国時代に小田原北条氏と戦って滅ぼされた大名…多分、夢の中の武将は、この大名に仕えた忠臣だ。
 しかし、おそらくは教科書に載るような有名人とはほど遠いだろう。何しろ歴史は勝者が語るもの、なんていうくらいだから。

 冬の朝、加奈子は顔を洗い、化粧水を使い、クリームを塗った。化粧水はシンプルに、資生堂の「肌水」。クリームはこれまた庶民の美容の味方、ニベアの「青缶」。しかし、それ以上の事はしない。ファンデーションを塗ると、気のせいか息苦しくなるし、たまに片方のまぶたが腫れるので、普段は化粧をほとんどしない。せいぜい、日焼け止めのクリームを塗り、色付きのリップクリームを塗るくらいだ。
 それに、仕事場は家から歩いて数分のところにあるし、社長夫婦は彼女の父の生前の友人だったのだから、わざわざもっともらしい化粧をしてもしょうがない。彼女はフォーマルな場でも必要最低限の化粧しかしない。
 加奈子は弁当をリュックサックにしまい、財布や携帯電話などを入れたショルダーバッグを斜めにかけて、リュックを背負った。ガスの元栓がキチンと閉まっているかを確認し、出勤した。
 ちゃんと戸締まりしたのを確認し、加奈子は徒歩で会社に向かった。彼女は最近、自転車を盗まれてしまったので被害届を出したが、盗難車は見つからないままだ。だからと言って、新しい自転車を買うのも面倒なので、やむを得ず徒歩通勤だ。
「まあ、ちょうどいい運動にはなるよね」
 彼女は負け惜しみを言う。

「加奈ちゃん、お疲れ様」
「は~い」
 午後6時。帰宅の時間だ。もうすぐ冬至だから、この時間はすでに暗い。
 加奈子は「紅葉山(もみじやま)不動産」の社長と副社長…紅葉山のおじさんとおばさんに挨拶し、帰宅した。子供の頃から世話になっているこの夫婦のおかげで、彼女は就職浪人にならずに済んだのだ。とは言え、たまたま前にいた女性事務員が寿退職したのだが。
 今の日本は就職難だが、ランクの高い大学の学生たちも色々と苦労している。加奈子の母校よりランクの高い大学に通っている従弟も、今のご時世では就職活動に難航しそうだ。
 小学生の頃から成績が良く名門校に進学した幼馴染も、今の職場に就職出来なかったら大学院に進学するつもりだったと語っていたが、就職出来ない代わりの「妥協案」が大学院進学だとは、三流女子大をかろうじて卒業出来た加奈子とは出来が違い過ぎる。
 加奈子は、仏壇と人形たちしか待っていない自宅に戻った。犬や猫などのペットもいない。
 彼女はもうすぐ23歳の若さで「一国一城の主」だ。小学校時代に母親を、高校卒業直前(しかも、大学入試に合格した直後)に父親を亡くして、大学在学中に祖父を、就職してからすぐに祖母を亡くしたので、この一軒家は加奈子のものになった(ちなみに彼女が自転車を盗まれたのは、祖母の葬式の直後だったので、余計に精神的なダメージが大きかった)。すでに家のローン返済は終わっているのだし、気楽と言えば気楽だろう。
 そんな「城」の玄関に、何やら怪しい箱がポンと置かれていた。「花川加奈子様」と宛名がある。彼女は携帯電話で警察に連絡しようとしたが、何とバッテリーが切れていた。
 仕方なく、彼女はドアの鍵を開けて、箱を持って家に入った。家には固定電話があるのだから、それで警察に連絡すればいい。
 しかし、どうしても気になる。この箱の大きさは、何だかクリスマスケーキかバースデーケーキを連想させる。彼女は明日、駅前のホテルのケーキバイキングで、親友たちと一緒に「女子会」をするのだが、それは彼女自身の誕生日パーティーでもあるのだ。
 加奈子は、よせばいいのに、箱を開けた。
「キャー!?」
 中には、人の頭蓋骨が丸ごと入っていた。彼女はそのまま失神した。

「水を与えよ」
 誰かが言う。
「水を与えよ」
 どうやら、どこかの老人の声らしい。少なくとも、加奈子の祖父の声ではない。加奈子は目を覚ました。

 加奈子は夢のお告げ(?)に従った。祖父は生前、熱帯魚を飼うのが趣味だった。その祖父が亡くなってからは、魚たちは祖父の熱帯魚仲間に譲ったが、いくつかの水槽は残されている。
 彼女は、一番小さな水槽に水を溜め、問題の頭蓋骨を沈めた。
 加奈子は2階の自室に戻り、パソコンに向かう。彼女は今、小説を書いている。近所に住む従弟の恋人も愛称の「サユ」名義でケータイ小説を書いているが、加奈子が目指すのはズバリ、本格的な作家だ。すでにブログでいくつかの小説を書いているし、普段のブログ記事自体が、本格的なエッセイに近づけるように意識して書いているものだ。
 そして彼女は、小説新人賞に応募するための作品を書いている。その前にもいくつかの新人賞に応募したが、一次選考止まりがいくつかある。今度こそは、二次選考を突破したいと思っている。
 しかし…問題の頭蓋骨。こんな時に、警察の人が事情聴取にやって来たらどうしよう? 加奈子は焦る。無実の罪で捕まりたくない。どんな客が来ようとも、絶対秘密!
 時はもう12月。来年まで1か月しかない。加奈子は今年の大掃除はどうしようか悩む。祖母が亡くなってからは、彼女一人だけ。仕方ないから、いつもの掃除程度で済ますかと思っている。蛍光灯の取り替えは脚立を使うが、高所恐怖症の彼女にとっては拷問だ。
 人の骨を見るのは、祖母の火葬以来。ましてや、直に触ったのは初めて。こんな「初めて」なんて経験したくない。

 初めての経験。加奈子は「初体験」という言葉で、ある美人漫画家を思い出した。その女性漫画家がある雑誌のインタビューで「処女自慢女ムカつく」と発言したのに、加奈子は腹を立てた。彼女は恋人いない歴=年齢の処女だが、そもそも、ネット上でも実生活でも、彼女は「非モテ」は自称しても「処女自慢」などはしていない。
 問題の美人漫画家(しかもかなりの高学歴の「才色兼備」)は、華麗な男性遍歴を赤裸々にネタにして売れっ子漫画家になっているが、加奈子が思うに、どこかの女の「処女自慢」などよりも、この女性漫画家のモテ自慢の方がよっぽど不愉快だった。どうせ、漫画家としてのランクや実力なんて大した事がないのに。加奈子は問題の漫画家を冷ややかに見ていた。
 加奈子は思う。むしろ、小説家としてのデビュー作を通じて、母親の再婚相手からの性的虐待の被害を公表した別の女性漫画家こそが、真に「処女自慢女」に「ムカつく」資格や正当性があるのだ。少なくとも、自分の意思で好き放題に男を食いまくった女が今さら処女をねたむのは馬鹿馬鹿しい。
 それはさておき、明日、12月10日は加奈子の誕生日だ。明日は彼女の数少ない友達が祝ってくれる。普段はオシャレとはほど遠い彼女も、さすがにそれなりの格好で出かけたいと意気込む。
 普段の加奈子は、自分の服より人形の服に金をかけている。これでは、いわゆる「女子力」に問題があると世間では言われそうだが、そもそも加奈子には「女子力」の定義が分からない。
 彼女はクローゼットを開け、明日の誕生日パーティー用の服を選んだ。

驚きの出会い

「お待たせ~」
 12月10日、今日は花川加奈子のささやかな誕生日パーティーが開かれる。彼女は二人の幼なじみと一緒に、駅前のホテルのケーキバイキングで盛り上がっていた。内気な彼女は友達が少ないが、この同学年の二人は別格であり、貴重な親友である。彼女は二人からプレゼントをもらった。
 一人は涼ちゃん、本名は不動涼子(ふどう りょうこ)。某商社に勤めている。剣道の道場の娘で、身長は加奈子より20cmも高い172cmのクールビューティー。一人っ子の加奈子にとって、涼子は半ば姉のような存在だ。
 もう一人はワカ、本名は樽川若菜(たるかわ わかな)。有名ロリータファッションブランドのショップ店員で、普段からロリータ系の服を好んで着ている。そして、そういうタイプの服が実によく似合う愛らしい容姿の女だ。さらに、加奈子がドールカスタマイズを趣味にしているのに対して、彼女は既製品のファッションドールのコレクターだ。ちなみに身長は、160cmあるかないかだ。
 涼子には年上の男性の恋人がいるが、若菜は年上の女性の恋人と同棲しているレズビアンだ。若菜の恋人は漫画家で、彼女はこの人のアシスタントの仕事もしている。
 ちなみに若菜の恋人・茨戸(ばらと)さやかは、締め切り間際で出かけられないので来られなかった。若菜からの誕生日プレゼントは、さやかと一緒にお金を出して買ってくれたものだそうだ。
 加奈子は一見おっとりと温和そうな雰囲気だが、実は根本的に嫉妬深く劣等感が強い。だから、なかなか女友達が出来ないのだが、この二人は別格だった。そう、どこかの誰かとは違って。

「彼女」については、この二人にも話している。加奈子はあるサイトの歴史系コミュニティーで一人の女と仲良くなったが、すぐに決裂した。加奈子はその女の「お姫様」気取りが鼻についたのだ。そう、いわゆる「オタサーの姫」とかいう存在だ。
 その女は『論語』を愛読する現役女子大生を自称していたが、彼女がネット上で複数持っているアカウント名についてあれこれ検索してみると、様々な噂があった。「実はエンコー経験のある元ガングロギャル」、「できちゃった結婚してすぐに離婚したシングルマザー」、「いわゆる『特定アジア』を蔑視している白人コンプレックスのネトウヨ女子」などだ。ただ、ネットの情報は色々と眉唾ものが多いのだが、加奈子が思うに、それら情報の錯綜とは問題の女の嫌らしさをよく表しているのだ。
「そもそも『私は向井理に似て男顔なの~!』だなんて、嘆くフリして遠回しに自慢しているよね。いわゆる『イケメン女子』アピール」
「涼ちゃんの方がよっぽどイケメン女子なのにね」
「…私、それがほめ言葉だとは思えない」
「…ごめん」
「まあ、そのネットの女なんて、自慢の内容が全くの嘘!」
「彼女、思いっ切り『私は嘘が嫌いです』なんて書いていたけど、それ自体が嘘なのよ」
「それに、ネトウヨでもある辺り、何らかのコンプレックスがありそうだね」
「ネナベの別アカウントまで作ってるし! しかも、自称FtMゲイの腐女子だって!? セクマイをなめるな!」
「確かにワカにとっては特に腹立つよね」
 もちろん、他の女の悪口だけが彼女たちの話題ではない。エンターテインメントから社会問題まで、色々としゃべるのだが、加奈子はこの二人からそれぞれの恋人の話を聞いても、他の女の彼氏自慢を聞くような不快感はない。ただ、やはりうらやましいのだ。
 加奈子は義務教育時代に男子クラスメイトにいじめられていたので、男性不信になっていた。いじめられるたびにこの親友二人に助けてもらっていたが、十代のうちは男嫌いだった。だから、高校は若菜と同じ女子校を選んだのだが、涼子の恋人のような良識ある男性たちと接するようになってからは、男嫌いがある程度直ったのだ。
「いつもありがとうね」
 加奈子は二人のプレゼントを大事に抱えて、家に帰った。

《今日、渋谷の猫カフェで女子会を開催したにょん♪》
 女は安アパートの一室でブログを書き込んでいた。
 ネット上ならば、どんな「自分」にでもなれる。今書いている記事の内容は、あくまでもフィクションである。添付画像もまた、どこかから無断転載して加工したものだ。どうせ、自撮り画像をネットで公開するのは、個人を特定するのが難しい「量産型女子」なのだ。そして彼女は、そんな画像の無断転載に罪悪感を覚えない。
 彼女の容姿は、ギャル系雑誌の読者モデルにいそうな雰囲気だった。少なくとも、不美人ではない。最低でも「量産型女子」の水準に達している。明るい茶髪を緩く巻いて、背中に垂らしている。身長は、だいたい165cmくらいだ。
 外はチラホラと雪が降っている。もうすぐクリスマスだ。
 彼女は、携帯電話のアドレス帳を開いた。男の名前ばかり。今年のクリスマスイヴは、どんな男と過ごそうか?
 ネット上では、一流大学に所属する現役女子大生で、『論語』などの中国古典を愛読する才色兼備のお嬢様。しかし、ここにいるのは、そんな境遇とはほど遠い「夜の女」。若手人気俳優に似た「イケメン女子」というキャラクター設定も、当然フィクションである。中国古典などの書物がらみの知識だって、あれこれ検索しての付け焼き刃だ。
「あの女、やっぱりムカつく」
 不満だらけの彼女は、いくつかのアカウントを作って、ネットに色々と書き込んで、様々なキャラクターを演じている。その中には、「工業高校出身で、孤独と一人旅を愛する愛国女子」や「某大学院に所属する、学歴差別が趣味のオタク男子」などの「ペルソナ」もあった。
 彼女の「メインキャラクター」のハンドルネームは、あるSFアニメのヒロインの名前に、ある大人向けファッションドールの名前を付け足したものである。別にそれらのファンではない。ただ、何となく名付けただけである。
 彼女はあるコミュニティーサイトで、見覚えのある名前を見かけた。彼女はその女に「友達申請」をし、その女について色々と知った。
 実は彼女は以前からその女を知っていたが、向こうはそれに気づいた様子はなかった。しかし、彼女はささいな事からその女とケンカ別れした。どうやらその女は、自分の男性人気と「才色兼備のイケメン女子」イメージに嫉妬したらしい。
 その女は、ブログで自分たちのトラブルの顛末を元にしたショートショートをブログで書いたため、彼女はそれを丸ごと自分のブログに無断転載して、「ヴァーチャル枕営業」で確保したブログ友達と一緒に笑い物にした。
 そして、彼女は傲慢にもこう言い放った。
「この人は私になりたかった女性です」
 こう書き込んだ瞬間、彼女はエクスタシーに浸った。

 加奈子がフェミニズムに傾倒したのは、義務教育時代のいじめ被害に基づく男性不信(それゆえ、女子高に進学した)がきっかけだった。しかし、彼女はあるフェミニストの本に「女性は、男性の社会に対する功績を正当に評価すべきだ」と書いてあったのを読んで、目からウロコが落ちた。そう、全ての「男」を貶める訳にはいかない。
 そんな彼女は最近、ネット上で失恋した。相手は問題の歴史系コミュニティーの男性メンバーの一人だったのだが、もちろん片思いだ。彼とは問題の「お姫様」をめぐって意見が対立し、絶縁。サイトは退会。
 問題の「彼女」の存在だけではない。彼は加奈子の小説仲間だった。加奈子は、この男がコミュニティ内部で人気があるのに嫉妬した。彼は彼女に、とある創作系コミュニティーを紹介してくれたので、彼女はすぐに入って、すぐに退会した。なぜなら、自分以外の全ての女性メンバーが「敵」に思えたからだ。
「我ながら器が小さいね」
 あの頃、加奈子は自分の彼に対する好意を「友情」だと思っていた。「ネット界で一番の恩人」「我が鮑叔(ほう しゅく)」とすら思っていた。しかし、彼と意見の対立があってケンカ別れしてから気づいた。あれは「恋」だった。
 加奈子は決して、男女間の友情を否定しない。今いる男性のブロ友たちに対する好意は、明らかに恋愛感情ではない。年上の男性ブロ友に対しては、親戚のおじさんのような親近感があるし、年下の男性ブロ友に対しては、従兄弟のような親近感がある。そして、今いる女性のブロ友たちはいずれも加奈子より年上の既婚女性だが、彼女にとってこの人たちは「心の姉」と言って良いだろう。
「ヴァーチャル恋愛」ですらダメなら、リアル恋愛はもっとダメ。加奈子は彼氏いない歴=年齢(今日で23歳)の処女なのだ。しかし、彼女のような中途半端な容姿で20代前半の処女なんて、多分、別に珍しくも何ともない。彼女は何人かに某B級グラビアアイドルに似ているなどと言われた事があるのだが、彼女自身は「どうせ私は涼ちゃんみたいな美人ではないし、ワカみたいなかわいい子でもないのね」と思っている。
 加奈子は家に帰ってからは、まずは手洗いうがいをする。そして、夏でもそれらは欠かさない。ましてや、今はもう12月だ。季節性のインフルエンザが心配だ。何しろ彼女は独身一人暮らしなのだから、そう簡単には倒れる訳にはいかない。
 加奈子は祖父の形見の水槽がある部屋に入った。例の頭蓋骨を水に沈めたのがどうなっているか気になるのだが、そこには驚くべき光景があった。
「キャー!?」
 水槽には、生首が浮かんでいた。しかも、あの夢の中で戦っていた男そっくりだった。

「キャー! 生首がしゃべったー!? 怖いー!! やめてー!!」
「おい、わしは何もしてはいないではないか? 落ち着いてくれ」
「そんな事言われたって、イヤー!!」
「頼むから、落ち着いてくれ。加奈」
「え…?」
 加奈子は混乱した。なぜこの生首男が彼女の名前を知ってるのか? 彼女の名前は正しくは「加奈子」だが、それよりも、なぜあの頭蓋骨が生首になって生き返ってしゃべってるのか、さっぱり理解不能だった。いや、理解不能だなんて次元ではない。
「会いたかった…」
「…あのう、私、あなたと会うのは初めてなんですけど?」
「何っ!?」
「私、花川加奈子という者です。紅葉山不動産という会社で事務員の仕事をしている、今日23歳になったばかりの女です」
「わ、わしの妻ではないのか?」
「あの…そういうあなたも、私の夢に出てきた男の人にそっくりですが…」
「何と…!?」

 加奈子は何とか落ち着きを取り戻し、生首男の話を聞いた。この生首男の名前は、蓮華院秀虎(れんげいん ひでとら)。彼はある大名に仕えていた武将だが、この大名は加奈子が見た夢の通り北条氏に敗れて、彼自身も戦死した。
 そして、古代中国の軍師・太公望呂尚との契約で生き返されたという。
「太公望って、確か何かの漫画の主人公になっていた人…でも実際にはじいさん軍師だったんだよね?」
「わしはかの御仁に頼まれた。肉体を復活させるために、そなたの助けが必要なのだ」
 この生首男…秀虎が言うには、あの世で出会った太公望呂尚が、加奈子に彼の世話をさせるように命じた…という事らしいが、加奈子は困惑し、軽い苛立ちすらあった。たまたま自分がこの男の妻と瓜二つだからと言って、あまりにも理不尽だ。
 しかし、加奈子はこの不思議な生首男に魅入られてもいた。この生首が水槽に浮いている様子。首の切り口から血管やら神経やらが生えて、水に揺らめいているが、それは彼女が小学生時代に栽培したヒヤシンスの球根を連想させた。
 加奈子が今書いている小説は、女神がジャズピアニスト志望の男子音大生と恋に落ちて、彼を「育てる」話だが、彼女自身もこの生首男の世話をしようと覚悟を決めた。この男の澄んだ目の輝きが彼女に「信じたい」という欲求を抱かせるのだ。
「分かりました。私、あなたのお世話をします。どうかよろしくお願いいたします」
「ああ、ありがとう。よろしく頼む」
「…で、まずは何をしましょう? ご飯にしますか?」
「うむ。いただこう」
 加奈子は台所に向かった。

二人暮らし

アスタルテ(Astarte)》…古代フェニキアの女神。愛と美と豊穣を司る「世界の真の統治者」。ある神との争いに敗れて立場を失ったが、それでもなお、女神としての力と誇りを保っている。「シンボルフラワー」は百合。
井桁信(いげた しん)》…19歳の男子音大生。高校時代にピアノの先生から「あなたはクラシックよりジャズに向いている」とアドバイスされて、ジャズピアニストを目指す。
 この二人が、加奈子が今書いている小説の主人公である。人間と女神の「Boy Meets Girl」、いや「Girl Meets Boy」だ。ちなみに「井桁信」という名前は、「背水の陣」の武将の名前を日本風に変えたものである。漢和辞典に載っている当人の苗字の本来の字義からだ。

 加奈子は元々漫画家志望だったが、高校の国語の担当だった志美(しび)先生に言いくるめられて、漫画同好会ではなく文芸部に入ってしまった。部の顧問だった先生の「機関誌の挿し絵を描かせてあげるから」という言葉に乗せられたからだ。
 それが彼女のターニングポイントだった。加奈子は自分の絵の才能のなさに見切りをつけて、エッセイや短編小説を書くようになったが、先生からは「あなたは小説家ではなく評論家タイプね」と言われてカチンときた。
「志美先生、元気かな?」
 先生からは毎年年賀状が届く。先生は若菜の母親のクラスメイトだったが、その若菜の母親である樽川(たるかわ)るい子は大物作家だ。しかも、バイセクシュアルを公言していて、なおかつ未婚の母だ。ちなみに志美先生とるい子は、加奈子の母校である高校の卒業生(つまり、加奈子自身の大先輩)でもある。
 加奈子は樽川るい子の小説を愛読しているが、目標とするにはあまりにも遠過ぎる。
 そして今、加奈子が書いている小説の主人公がクラシックピアノからジャズピアノに転向したのは、志美先生のアドバイスが元になっている。
 しかし、かつての加奈子には自分がプロの漫画家になって、自分の作品がアニメ化して、主人公のお人形が発売されるという夢があった。その名残としての、もう一つの趣味。それはドールカスタマイズだ。
 手足が自由に動くボディの着せ替え人形の顔を自分で描いて、オリジナルキャラクターを作る。加奈子はこれで、自分が書いている小説の登場人物を何人かドール化した。

「ヒデさん、おいしい?」
「うむ、うまい」
 今日の夕食は、大根の味噌汁に、サバのムニエル、そして、海藻サラダ。
 ヒデさん…秀虎は、現代の食生活が気に入ったようだ。もちろん、首から下がないので、加奈子が秀虎に食べさせている。
 ご飯を箸でつまみ、秀虎の口に運ぶ。秀虎がご飯を噛み、飲み込むたびに、首の切り口から生えた「根っこ」が髪の毛と一緒に揺らめく。気のせいか、「根っこ」のあちこちが膨張しているように見える。
 加奈子は気持ちが落ち着いてから思う。秀虎は結構男前な顔立ちなのだ。なぜかオスカー・ワイルドの『サロメ』を思い出すが、さすがに生首にキスなんて出来ない。第一、「まだ」そんな関係ではないのだ。
 加奈子は洗面所から、水を入れたコップと新品の歯ブラシ、歯磨き粉と洗面器を持ってきた。
「それは?」
「歯磨きよ。虫歯にならないようにね」
 この状態の秀虎が虫歯になっても、歯医者に連れて行く訳には行かない。たとえ、相手が自分の叔母であろうとも。
 加奈子の叔母・花川美佐子(はなかわ みさこ)はホラーが苦手なのだ。加奈子自身もホラー映画は苦手だが、彼女自身は単なる怖がりに過ぎない。しかし、美佐子は「ホラーは性悪説に基づいているから嫌い」だというのだ。そのような理由でああいうジャンルを嫌うのは珍しい。
「はい、あーんして」
 加奈子は新品の歯ブラシに歯磨き粉を適量つけて、秀虎の口に入れた。
「そのままあーんして」
「あがが…」
 加奈子は右手に歯ブラシ、左手に手鏡を持って、丁寧に秀虎の歯を磨いた。叔母が言うには、あまり力を入れ過ぎて磨くのは、かえって歯の表面を削ってしまうので良くない。適度な力で丁寧に磨けば、歯茎を傷つける危険性は低いそうだ。
 歯ブラシだけでなく、糸楊枝も使う。これで、一通り磨き上がったハズだ。
「さて、ゆすぎましょう。水を入れるよ」
「う…」
「グチュグチュゆすいで、この洗面器に吐いてね」
「…ぺっ」
 一連の作業が終わってから、秀虎は言った。
「何だ、この歯磨き粉というのは? 口の中がスースーするぞ」
「昔の歯の手入れは楊枝とかくらいだったんでしょ?」
「塩をつけて、こすったりもしていたぞ」
「でも、それだけではあまり爽快感はないでしょ?」
「うむ…言われてみれば、この口の感じも悪くはないな」
 秀虎は納得したようだ。

 加奈子は行きつけの美容院「マザーシップ」で、髪を切ってもらった。この美容院の店長である美容師は、いわゆるオネエ系のゲイ男性で、若菜の恋人・茨戸さやかとは時々近所の居酒屋で飲み会をしているようだが、この美容師・親船正章(おやふね まさあき)には作家の彼氏がいるようだ。
 若菜の母親である大物作家といい、売れっ子漫画家の茨戸さやかといい、加奈子の知り合いにはなぜか、出版業界関係者が何人かいる。さらに、加奈子の父親の兄、すなわち加奈子の伯父である花川真一(はなかわ しんいち)は、今は北海道の余市でリンゴ農家の仕事をしているが、脱サラする前はある出版社で働く編集者だった。しかし、今の加奈子には、小説の新人賞に入選出来るだけの力量はない。
「ホントにいいの? かなり短くなるけど」
「思いっ切り、バッサリお願いします!」
「ずいぶんと思い切ってるねぇ」
 ネットトラブルなどの嫌な事を忘れるためにも、加奈子は髪型をスッキリさせた。「女は失恋すると髪を切る」なんてシチュエーションが古典的なフィクションにはあるけど、構うもんか! そもそも、彼女は問題のネットトラブルとは無関係に髪を切る予定だったし、彼女の髪型の基本はショートヘアなのだ。
 なぜなら、その方が手入れが楽だからだ。髪型だけではない。彼女はシンプルな格好を好む。加奈子は「マザーシップ」を出てから、ショッピングモールに服を買いに行った。

 加奈子は喉が乾いたので、自動販売機で缶入りミルクティーを買い、自販機のそばのベンチに座って飲んだ。そして、飲みながら携帯電話を手にし、ケータイ小説サイトを見た。
 叔母・美佐子の一人息子で加奈子の従弟(いとこ)花川倫(はなかわ りん)の恋人、桐野小百合(きりの さゆり)。ハンドルネームは実生活での愛称と同じ「サユ」。倫と同じ大学に通う彼女は、このサイトでケータイ小説を書いている。
 小百合も加奈子と同じくプロの作家志望なのかは、分からない。とりあえず、加奈子の書く作品とは全く方向性が違う。しかし、ケータイ小説にしては面白い。
 倫が小百合を我が家に連れてきて紹介したのは、二人が中学生時代。加奈子は高校に進学したばかりだった。二人はそれ以来の関係だ。
 小百合は人当たりの良い子で、叔母も彼女に対して好印象があったようだ。なるほど、息子の将来のお嫁さん候補として悪くはない、といったところか。
 加奈子はミルクティーを飲み干し、携帯電話をショルダーバッグにしまって、空き缶をゴミ箱に入れた。家では秀虎が待っている。早くスーパーに食材を買いに行って帰ろう。

夢と妄想

 水槽の中で、根っこが揺らめく。根っこは、徐々に成長しつつあった。
「加奈…お前は本当に覚えていないのか?」
 秀虎の表情に憂いがあった。
 太公望呂尚との約束。本来の肉体を取り戻し、かつての妻を再び愛する。そして、今の自分の世話をしてくれる加奈子こそが、亡き妻・加奈の生まれ変わりだった。
 果たして、それは可能だろうか?
 今の自分は、水面に浮かぶ生首だけで生きている。しかし、加奈…加奈子から食べ物や飲み物を与えられる事によって、首の切り口から生える血管や神経などが成長し、それらが徐々に人体の形を成すという。
 その中に骨格や内臓が宿り、表面を筋肉や皮膚が覆うようになる。
 奇妙な奇跡。今の自分は、生首の形をした蓮の花。
 蓮華院家の言い伝えによると、一族の遠祖は中国・戦国時代の斉の王族の末裔だったという。それが本当だったのかは、分からない。そもそも家系の詐称は、秀虎が生きていた時代にはさほど珍しくはなかった。
 かの英傑は言った。
「皇帝は、私の顔を見たいだけなのだ」
 彼は、自分の従者として都までついて来た二人の食客に語った。
「平和のために」自らの命を絶つ。なぜなら、自分たちの存在が戦乱の世を再び呼ぶ事になりかねないからだ。
「犠牲は私一人で十分。他の者たちを巻き添えにはしたくない」
「天下のために」、この世を捨てよう。彼の決意は堅かった。かつての大国の末裔、そして最後の「王」としての誇りだけではない。天下万民のため、私は死のう。
 彼は自らの首を切り落とし、従者たちに都に届けさせた。
「この者は『賢』なり」
 皇帝は彼のために涙を流し、かつて彼が身を潜めていた島の者たちのもとに使者を送った。しかし、島の者たちは皇帝の降伏勧告を拒み、自ら死を選んだ。
「王」として葬られた主を看取った者たちもまた、主に殉じた。
 その祖先の誇り。彼にとっては、その信念こそが「家宝」だった。
 しかし、そんな自分に働きかけた人物にとって、自分はその「子孫の仇」の子孫である。なぜ、そんな自分を選んだのか? 手の込んだ復讐か?
 いや、あの老人は多分そのような人物ではあるまい。ただ、猫のような気まぐれさを感じる人物だ。そこがまた不安ではあるが。

「何と!?」
 秀虎は驚いた。加奈子の髪は思いっ切りバッサリと切られていた。
「もったいない。髪は女の命だというではないか?」
 秀虎は困惑するが、加奈子自身も負けず劣らず困惑する。確かに昔の人である秀虎にとっては、女の短髪には違和感を覚えるだろう。しかし、現代の女である加奈子は思う。髪は女の命とは言うものの、薄毛男性の髪に対する執念の方がよほど凄まじい。ただし、加奈子の雇い主である社長…紅葉山のおじさんは、潔く髪への執念をあきらめて、思い切って丸坊主にしている。
 そんな社長とは対照的に、秀虎は豊かな黒髪を水中に揺らめかせている。いわゆる月代(さかやき)もないので、顔と髪のバランスがおかしくない。いかにも落ち武者といった風情の悲惨さはなく、高貴な凛々しさを感じる。
「あのね、今のこの国は、基本的にどんな髪型をしてもいいの。他人に迷惑をかけない限りはね」
「うむ、この時代についての勉強が必要だな。加奈、わしに色々と教えてくれないか?」
 それから加奈子は、家にある様々な本を読み聞かせるようになった。自分の本だけではない。亡き家族らが残してくれた蔵書もたくさんある。
「この人と一緒なら、私は勉強をし直せる」
 加奈子は思う。昔は幼馴染の涼子が家庭教師になってくれたおかげで、自分はかろうじて高校や大学に進学出来たのだが、社会人になってからも勉強は大切なのだと実感している。
「え~と、まずはどのジャンルから始めようかな?」
 やはり、秀虎が殺されてからの歴史について教えるべきだろう。本人にとってはつらいハズだけど、避けては通れないのだ。
「文庫か…。『史記』も『左伝』もこんな小さな本に作れるとは、匠の技だな!」
 確かに秀虎の時代の書物は、巻物などのかさばるものだ。書物の「コンパクト化」、「知の民主主義」か。
 ついでに美容技術が発達して、価値観の多様化が進んで、「美人」扱いされる女性が増えた(ように見える)のは、いわば「美の民主主義」だろう。
 秀虎を観客とする朗読会のおかげで、加奈子自身もドンドン知識が身につくだろう。「生涯学習」なんて言葉すら思い浮かぶ。
 秀虎が眠ってから、加奈子はノートパソコンに向かい、小説の続きを書いていた。今度こそは二次選考にたどり着き、最終選考に進出したい。
 外は雪景色。窓越しに見ているだけでも寒くなる。今夜はサッサと寝よう。

《今日は、サークルの仲間とクリスマスパーティー。リア充にょん♪》
 女は、安アパートの「汚部屋」で嘘つきブログを書き込んでいた。彼女は、今年のクリスマスイヴを共に過ごす男の確保は出来なかった。
「男のいないクリスマスイヴなんて、何の意味もない」
 それが彼女の「恋愛資本主義」。いや、今の彼女にとっては、「恋愛」など単なる演技に過ぎなかった。
 彼女が本当に愛しているのは、彼女自身だけ。彼女を本当に愛しているのもまた、彼女自身だけ。それは、子供の頃から変わらない。いや、多分彼女は自分自身すら愛していないだろう。
「男はみんなバカで単純」
 彼女と同じ物言いをする女は少なくないが、世間に「ぶりっ子」や「偽サバサバ女」がいるように、「偽単純」「ビジネス単純」の男たちもいるのだ。
 そして、男を見るたびにいとも簡単に「単純認定」する女ほど、「ビジネス単純」男に騙される危険性はあるだろう。
 彼女は、あるケータイ小説サイトをぼんやりと眺めていた。
 そうだ、「あの女」。作家志望だ。
 彼女の心中は、聖夜にふさわしくないどす黒さに染まった。あの女の小説新人賞受賞を阻んでみたい。
 しかし、彼女はケータイ小説も含めて、生まれて一度も小説らしきものを書いていなかった。彼女の「嘘力」「妄想力」はあくまでも、他人を騙して操るためのものだった。
「この人は私になりたかった女性です」
 彼女はブログ友達相手に、こう宣言した。しかし、本当に「相手の存在そのものになりたかった」のは、実際にはどちらだったのか?
 中学時代、彼女は問題の女を「いるのか、いないのか分かんな~い!」などと嘲っていたが、今の自分はあの女と立場が逆転してしまっているのではないのか?
「むっちゃムカつく!」
 彼女は、ある小説に目をつけた。この小説をパクろう。
 主人公の名前などの設定をちょっといじってみよう。彼女は、問題の小説をコピーした。
 問題の小説の著者は、「サユ」というハンドルネームだった。どうせ、本格的な小説を書こうとは思っていないだろう。登場人物の名前などの設定を改変すれば、「オリジナル」小説の出来上がり。
 これを、あの女が読んでいる雑誌の小説新人賞に投稿する。ペンネームは、自分のネット上での「メインキャラクター」の名前だ。

 加奈子は夢を見ている。彼女は中学時代に戻っていた。
「おい、トロ子! お前、うぜぇんだよ!」
 茶髪のギャルギャルしい女生徒がイチャモンをつける。加奈子はこの女が大嫌いだった。ギャル系女は加奈子のノートを引ったくる。
「こんな下手くそな落書きで漫画家になれるって? ざけんな!」
「やめな、浜!」
 涼子が浜という苗字の女生徒から加奈子をかばう。若菜も問題の女生徒を非難する。
「ケッ、結局一人じゃ何も出来ねぇの。馬鹿じゃん!」
 ギャル系の女生徒はノートを捨て、取り巻きたちを連れて立ち去った。加奈子は不動涼子と樽川若菜という二人の人気者を味方につけているので、いじめっ子連中はそれ以上は手を出せないのだ。涼子と若菜は、ノートを拾って涙ぐむ加奈子を慰める。
「あんな奴らなんか気にするんじゃない」
「そうだよ。あの子はモテキャラぶってるけど、ホントは大してモテる女じゃないんだからね」
「ありがとう、涼ちゃん、ワカ」
 加奈子は二人に感謝した。あれからもずっと、彼女は二人を得がたい友だと思っている。

二人の音楽

 今日はクリスマスイヴだ。現代の日本においては、クリスチャンでなくても特別な日になっているが、結局は商業主義あっての「特別な日」だ。今夜の加奈子は、祖母が亡くなってからは、たった一人で過ごす事になる。そう思っていた。テレビであまり面白くない特番を観ながら、近所のスーパーで買ったローストチキンを食べるつもりだった。
 近所に加奈子の従弟・倫と、倫の恋人・小百合が住んでいるが、倫は加奈子の弟みたいなものだし、小百合も妹みたいなものだ。しかし、おそらく二人はクリスマスイヴを「恋人同士らしく」二人きりで過ごすのだろう。うらやましいし、寂しい。加奈子はそう思っていた。
「でも、今年はヒデさんがいるから寂しくない」
 しかし、秀虎の首の切り口から生えている「根っこ」がだいぶ成長しているから、そろそろもっと新しい水槽に替えなければならない。加奈子はその作業に取りかかった。
《ピンポーン!》
「はーい!」
 加奈子は玄関に行った。そこには、倫と小百合がいた。
「倫!? それにサユ!? どうしたの?」
「加奈姉ちゃん、一人じゃ寂しいだろうから、俺たち一緒に来た」
「お土産としてフライドチキンとオードブルを持ってきたよ。それからケーキも。加奈さんが好きなレアチーズもあるし」
 加奈子は二人を家に入れたが、謎の同居人秀虎の存在が知られるとマズい。どうしよう?
「あれ? 床が水でビショビショだよ?」
「え!?」
 加奈子は焦る。水を取り替える、と言うか、秀虎の頭をもっと大きい水槽に置き換える途中だ。どうごまかそう?
「あれ? じいちゃんの熱帯魚部屋に何かあるの?」
「あ! ダメー!」

 倫も小百合も、当然、謎の生首男秀虎の姿に仰天したが、何とか冷静さを取り戻し、クリスマスパーティーを始めた。実に順応性が高い。茶の間に水槽ごと秀虎の頭を移して、四人。これなら、テレビのくだらない特別番組を観ながらわびしいクリスマスイヴを過ごさなくても済む。
「ヒデさんって、本物の戦国武将だったんスか~? すげぇ!」
「さぞかしカッコ良かったんでしょうね」
「…うむ、返答には困るが、その…」
「そうだ、あんたたち、ヒデさんを別の水槽に移し替えるのを手伝ってほしいの。だいぶ『根っこ』が成長してきたし」
 ご馳走を(明日の朝食分は残して)食べ終わってから、加奈子たちはもっと大きな水槽に水を溜めて、秀虎の頭を移した。この一番大きな水槽は、成人男性がまるまる一人は入りそうな大きさだ。
「あんたたち、これは秘密だからね」
「うん、分かってるよ」
 倫と小百合は帰った。

「ねぇ、先生」
「何だ、ブライティ?」
 呂尚は、ブライティという名の少女と一緒に、マンションの屋上にいた。二人は、加奈子と秀虎のいる一軒家を見下ろしている。
 雪は黙々と降り続ける。繁華街から離れたこの辺は、住人がテレビの年末特番を観るために家にいるのか、静かだった。コンビニにたむろする客もほとんどいない。
「あのお侍さん、元の体に戻ったらどうするんですか?」
「まあ、色々とこっそり工作して、あやつの戸籍やら経歴の記録やらを作っておくな。ただ生き返らせるだけでは不十分だ」
「確かに戸籍などがないと、色々と不便ですねぇ」
 大晦日の夜、加奈子は秀虎の水槽がある部屋に、布団とテレビとCDラジオを持ち込んでいた。すでにパジャマ姿だ。加奈子は、家にいる間の大半を秀虎と一緒に過ごしていた。小説執筆のためのノートパソコンも、この部屋に置いている。
 今年の大晦日も、紅白歌合戦を観る。子供の頃からの毎年の習慣だから、というのもあるが、「昔の人」である秀虎と一緒に観る番組としては、一番無難だからだ。そもそも秀虎は、あるお笑い芸人が好きではないらしい。加奈子自身も、お笑い番組にはあまり興味がなかった。
 ブライティ…ブライトムーン。年格好は十代半ばの、ブロンド白人の少女である。彼女はマフラーと一体化した形の猫耳付きニット帽をかぶり、ダウンジャケットを着ている。
 呂尚はダークグレーのコートを着ている。彼は傘を差していたが、この傘はどんな形態にも変えられる万能武器だった。
 ある時は釣り竿、またある時はステッキ。いざという時には、剣やライフルやバズーカ砲などにもなる。
 しかし、そのような物騒な物体として使う機会は、そうそうない。
果心(かしん)の奴、『悪霊』が出てくる可能性があると言っていたな」
「果心さんが?」
「それで子胥(ししょ)のところに行ったようだ」
「子胥様…?」
「奴は子胥から何かを借りてくるらしい。あまりムチャせんでほしいがなぁ」
「その悪霊というのは、あのお侍さんと関係あるんでしょうか?」
「それは私にも分からん。『敵』は意外なところからやって来るかもしれんぞ」
 呂尚は眉をひそめた。

 アイドルもいれば、自作自演アーティストもいる。ロックもあれば、演歌もある。おまけに、クラシックの声楽の人まで出たりする。
 三顧の礼で迎えた(大げさか)大物ミュージシャンもいる。しかも、海外からの中継。いかにもそのミュージシャン自身のプライドの高さがモロ出しな演出だ。
 この番組をあくまでも「音楽番組」として観るならば、色々と奇妙なものだと言える。これほど「雑多な」ジャンルを扱う音楽番組なんて、他にはない。
 いわば、音楽の幕の内弁当だ。
「実に学ぶべき物事は多いが、さて…?」
「確かに昔の人たちにとっては、音楽って贅沢品だよね」
 加奈子と秀虎は、紅白歌合戦を観ている。去年は祖母と一緒に観ていたが、今年はヒデさんと一緒。
 音楽=贅沢品。しかし、「悪名高き二つのもの」テクノロジーと資本主義の発達のおかげで、音楽は一般庶民でも気軽に楽しめるものになった。
 ちなみに諸子百家の墨子(ぼくし)が音楽嫌いだったというのは、孔子が音楽好きで、なおかつ儒教が音楽を重視したのに対するアンチテーゼだったらしい。墨家の見解では、音楽とは「贅沢は敵だ」的なものだったらしい。
 なるほど、禁欲的な墨家の「音楽排除」はまだ納得は出来る。しかし、ラファエル前派のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが音楽嫌いだったらしいのが謎だ。音楽嫌いのクセに、楽器を小道具にした美人画を何枚か描いたのは一体、どういう事なのか?
「ロセッティという人は、奥さんや愛人たちを振り回して不幸にした最低のダメ男だったけど、ヒデさんは信頼出来る人」
 加奈子はそう思う。秀虎は生前は側室も男性の愛人も作らず、加奈という名の妻を一途に愛していた。
 だけど、加奈子が本当に秀虎の妻・加奈の生まれ変わりなのかは、分からない。
「男女に別れて歌合戦をしているが、男女一緒の集まりもあるではないか?」
 言われてみれば、確かに男女混合グループは何組かいる。一応はメインヴォーカリストの性別で決めるようだが、なるほど、この辺に違和感があるのだ。
 まあ、紅白どちらが勝ってもどうでもいい。加奈子も秀虎も、好きなミュージシャンは男女どちらもいるのだから。
「起きてから、あの二人と一緒に神社に参るのだろう?」
「うん。帰りにお土産を買ってくるね」
 あの二人とは、倫と小百合の事だ。電気を消して、加奈子は布団に潜り込んだ。今夜はどんな初夢を見るのだろう?

恐るべき借り物

 女が病床に横たわる。男は彼女の手を握りしめる。隣には医者がいる。周りにも後ろにも何人かいる。
「私、死ぬのは怖くはありません。ただ、あなたを残していくのが心配です」
「加奈…!」
「どうか泣かないで。またいつか、あなたに逢えるはずです」
 そして、加奈は目を閉じた。もう、息はない。
 秀虎は、声もなく涙を流した。
 それが、彼の回想であり、彼が現世に蘇生して初めての「初夢」だった。

「死が二人を分かつまで…か」
 黒のライダースジャケットに黒のジーンズを着込んだ男はつぶやいた。年格好はだいたい30歳前後で、長身である。
 男は、ある街の雑居ビルに入った。この国の「今の正月」は、日本の「今の正月」ほどには盛り上がらない。いわゆる春節(旧正月)こそが、よっぽど新年の祝いとして盛り上がる。
 普段ならば、年末年始は、現代人としての仕事仲間と一緒に飲み会をしているのだが。いずれにせよ、彼が今回ここに来たのは、観光目的ではない。
 そのオフィスの主人は、年格好が40歳前後で、精悍な顔立ちとたくましい長身の男だった。ライダースジャケットの男よりも10cm近く高い身長だ。
「新年早々、何だ?」
「生前のあなたの時代では、この時期はまだ『新年』ではなかったでしょう」
「お前の時代もだろうが。屁理屈言うな」
「これは失礼」
「それで、何の用だ?」
「呂先生のご依頼で、『あの剣』をお借りしたいのですよ」
「あの剣…って、あれか? 正気か?」
「我々〈アガルタ〉の計画には色々と邪魔が入るでしょう。だから、念のためにですね」
「…あのなぁ…、バカな事を言うな。今の武器で言えば、核ミサイルを貸せと要求するようなものだぞ?」
「ですから、それぐらいの非常事態があり得るという事です」
「…頭が痛くなるわ」
 アルマーニのスーツに身を包んだオフィスの主人は、金庫から細長い箱を取り出した。
「呂先生の頼みならば、仕方がない。持って行け」
「ありがとうございます。問題が解決すれば、必ず返しに来ます」
 ライダースジャケットの男がオフィスを立ち去ってから、奥の部屋から別の男が出てきた。ひょうひょうとした雰囲気の、長身で細身の体格である。

「子胥殿、あの淮陰(わいいん)の息子かい?」
「ああ、果心の奴め、また厄介事を持ち込んできおった」
「まあ、色々と話は聞いたけど、問題のカップルが僕らの計画には必要なんだね」
「お前は『兵法の神様』としてはどう思うんだ?」
「『恋は戦争』…ね。まあ、なるようになるしかないんじゃない?」
 ひょうひょうとした男は、台所でお湯を沸かした。
「ハイビスカスとローズヒップのハーブティー。おいしいよ」
 二人の中年男のティータイム。新年の過ごし方としては、いささかわびしかった。
「なあ、長卿(ちょうけい)。恋が戦の一種ならば、やはり『戦わずして勝つ』のが上策なのか?」
「ん…? ひょっとして誰かお目当てがいるの?」
「別に…」
 オフィスの主人は微妙に照れていたが、もう一人の男はそれ以上はあえて追及しなかった。

 元日の朝、加奈子は起きた。何か夢を見たような気がするが、具体的に何の夢を見たかは覚えていない。彼女は時々ブログで夢の話を書くのだが、今年の初夢を覚えていないのは残念だった。
「あけましておめでとうございます。ヒデさん」
 倫と小百合が迎えに来たので、加奈子は二人と一緒に近所の神社にお参りに行った。もちろん、秀虎はお留守番だ。
 小百合は晴れ着姿だったが、加奈子は普段の冬支度だ。
「今年は良い年でありますように。そして、ヒデさんが元の体を取り戻せますように」
 おみくじは、中吉。

「ただいま~」
 加奈子は倫と小百合と一緒に家に帰った。秀虎と一緒にお雑煮を食べて、二人は帰った。
「さて、今年初の水の取り替えね!」
「いや、正月早々大変だろう。一昨日取り替えてくれたし、もう二、三日経ってからで良いぞ」
「そうか、ありがとう」
 秀虎は生首だけだが、生きている。その秀虎が入っている水槽の水も、ある程度経つと汚れるから、加奈子は数日置きに水を取り替えている。そして、水道代の節約のため、加奈子は湯船を使わずにシャワーを浴びるだけだ。
 秀虎の頭から伸びる「根っこ」はだいぶ成長している。しかし、本当に元の体に戻れるのだろうか?
「いつもありがとう」
 その感謝の言葉があるからこそ、彼女は彼の世話が出来る。
 加奈子は小説執筆作業を再開する。それは女神と青年の恋物語だ。この主人公の青年の名前は「漢の三傑」の一人に由来するのだが、彼が目標とする大物ピアニストの名前は「神楽坂嘉毅(かぐらざか よしき)」という。そう、この名前も『史記』に列伝がある名将に由来するのだ。
 楽毅(がく き)韓信(かん しん)の関係は、ギリシャ神話のアテナとアラクネのようなもの。あるいは、マドンナとレディー・ガガだろうか? 先輩と後輩、師匠と弟子の緊張。
 何しろ、楽毅が斉王にならなかったのに対して、韓信は本当に斉王になってしまったのだ。これは、楽毅や太公望にケンカを売っているようなものだ。
 加奈子がパソコンに向かっている間、秀虎は黙ってラジオを聴いている。加奈子がレディー・ガガの事を考えていると、偶然そのガガの曲が流れた。しかも、問題の「Born This Way」だ。
 この曲はマドンナの曲に似ていると言われたが、80年代の日本の音楽業界にも、洋楽のパクリっぽい曲がいくつかあった。加奈子は、当時中学生だった親船から色々とそういう話を聞いている。
 彼女はパソコンを通じて、自らの物語を押して叩いていた。

 1月もすでに中旬。加奈子は公私共に忙しい。事務員の仕事は比較的のんびりしているが、3月辺りになると、転勤や新入学などの顧客が出入りするので、その分あわただしくなる。
 涼子や若菜も忙しいようだ。しばらくは、彼女たちと映画を観に行くなどの楽しみはない。
 その代わり、今の加奈子にとって一番の楽しみは、秀虎に本の読み聞かせをする事だ。これは秀虎にとってのみならず、彼女自身の勉強にもなる。
 倫と小百合は時々遊びに来る。倫は秀虎から生前の話を聞いているが、どうやら倫は、北条氏に主家を滅ぼされた秀虎に対する遠慮なのか、『信長の野望』を北条氏でプレイする気がなくなってしまったようだ。
 秀虎が言うには、自分と仲が悪かったある同僚が北条軍に内通して裏切ったというのだ。いくら戦国の世とは言え、やはり忸怩たる思いがあるのだろう。
 しかし、秀虎は北条氏康という個人に対しては敬意を抱いていた。

 深夜。加奈子はすっかり熟睡している。生首との同棲生活に慣れ、彼女は安心し、充実していた。
 秀虎は、水槽から「根っこ」を伸ばし、そっと加奈子の手を握った。
 その「手」には、かすかにぬくもりがある。
「加奈…」
 秀虎は、加奈子のあどけない寝顔を愛しげに見守っている。生前の妻・加奈に生き写しの女。
 太公望呂尚が言うには、彼女は加奈の兄の末裔である。しかし、加奈子自身はそのような事は全く知らない。
 秀虎は、「手」を水槽に引き戻して、目を閉じた。
「お休み」

 ライダースジャケットの男は、すでに日本に戻っていた。彼は自室で、問題の「ブツ」を箱から取り出した。
 黒い鞘から、剣を抜く。妖しく光る刃は、まさしく「魔剣」と呼ぶにふさわしい凄みがある。その柄には、ピカピカに磨き上げられた黒い石がはめ込まれている。
「まずは試し斬り…という訳にはいかん」
 何しろ、彼があのオフィスの主人から借りたものとは、危険極まりない「凶器」なのだ。悪霊を断ち切って「無」にする魔剣。あの主人も言う通り、核ミサイル級の危険物だ。
 彼は剣を鞘に戻した。それは徐々に小さくなり、彼の左手に吸い込まれた。
「某死刑囚なんぞは、生前の無神論・唯物論に従って、サッサと魂が霧散したんだ。魂が消えたからには、被害者遺族の『地獄に堕ちろ!』という呪いからまんまと逃げおおせたのだな」
 彼はギターケースを背負って、仕事場に向かった。有名ミュージシャンも少なからず利用する、レコーディングスタジオだ。

実りつつある果実

「はい、開けて」
「あ~」
 加奈子は丁寧に秀虎の歯を磨いている。彼との「同棲生活」を始めてから、祖母の歯ブラシの代わりに彼の歯ブラシがある。
 吐いた泡や水を受け止めるための洗面器と、口をゆすぐための水が入ったプラスチックのコップ。
 倫の母親、すなわち加奈子の叔母で、加奈子の父親の妹である花川美佐子(ちなみにこの人はバツイチシングルマザーである)が歯科医なので、加奈子たちはみっちりと歯の磨き方を教わった。
 仕上げに糸楊枝を使い、口をゆすがせて、口周りをタオルで拭いて、作業終了。
 加奈子は小説の続きを書いている。一応は恋愛小説だが、彼女は中学時代の担任の先生(新米教師)に片思いして以来、恋とは無縁だった。しかも、当人は去年の「ヴァーチャル失恋」などカウントしたくない。
 加奈子は義務教育時代は男子クラスメイトにいじめられていたから、しばらくは男性不信だった。それで若菜と同じ女子高に進学して、何とかギリギリ合格出来た大学も女子大だった(ちなみに若菜は高校を卒業してすぐに、いまの仕事に就いた)。
 しかし、この男、秀虎は信頼するに値する人だと加奈子は思う。
「なあ、加奈?」
「なぁに、ヒデさん?」
「お前の目標は紫式部か? それとも樋口一葉か?」
 な、何て!? 加奈子は仰天した。
「そ、そこまでおこがましい野心はないよ! でも、現代の作家さんたちには、目標となる人たちはいっぱいいるよ」
「『文』で食べていける。良い時代だな」
 加奈子は再びパソコンに向かった。女神と人間の青年の恋物語。ピアノの音に乗って、思いは舞い上がる。
「股くぐり」のさえない青年が「天下の大将軍」になったように、この音大生の青年も世界的なジャズピアニストを目指している。そんな彼を見守る、偉大な女神。
 この小説が完成したら新人賞に応募する。加奈子は決心している。
 もうすぐ2月。バレンタインデーがある。当然、彼女も秀虎にチョコレートを食べさせたい。
 しかし、バレンタインデーとは一応キリスト教の殉教者の記念日なのだが、「恋愛の守護聖人」とはいかにも「異教的」なキャラクター設定だ。そもそもバレンタインデーとは、クリスマスやハロウィンと同じく、多神教のお祭りがルーツなのだ。
 その前に、節分がある。北海道では殻付き落花生を使うと、余市の真一伯父が教えてくれたが、加奈子は今年も伯父がリンゴを送ってくれるのを楽しみにしている。そして、そのリンゴでジャムを作るつもりだ。
 真一は元々雑誌編集者だったが、脱サラして北海道の余市でリンゴ農家を始めた人だ。加奈子は毎年秋に伯父からリンゴを送ってもらっているが、一人では消費しきれないので、涼子や若菜や親船たちに分けている。
 しかし、今は秀虎がいるから、今年はもっともらいたい、と、図々しく期待している。

「今日はカレーか」
 秀虎は、和食以外の料理にもすっかり慣れ親しんでいた。加奈子はいつもは、カレーには豚肉を使うが、今日は奮発してビーフカレーだ。
「牛肉のカレーか…。本来はあり得ないハズのものだな?」
 秀虎の指摘通り。インドのヒンドゥー教では、牛を食べるのを禁止している。シヴァ神のお使いの動物だから、「聖なるもの」だから、食べてはいけないのだ。
 肉食のタブーと言えば、ユダヤ教やイスラムの豚肉禁止もある。こちらは豚が「汚れた動物」だという理由で食べてはいけないのだ。
 確かに、昔の養豚は人間の汚物で飼育する場合があったから、衛生的に危険だというのもあったのだろう。しかし、もう一つ「異教との関連」もあったのではないだろうか?
「ごちそうさま」
 加奈子は食器を片付け、秀虎の歯磨きの準備をした。それが終われば、彼女自身も歯を磨く。それから寝るまでは、水以外は口にしない。
 加奈子は秀虎に本の読み聞かせをし、それからパソコンに向かった。秀虎はすでに眠っている。新人賞に応募する予定の小説の骨組みはだいたい出来上がっている。後は、押して叩いてを繰り返して、仕上げるだけだ。
 秀虎の「根っこ」は、だいぶ成長していた。そして、手足や胴体の骨組みのようになっていた。加奈子が書いている小説のように、秀虎の体が出来上がりつつあるようだ。
 しかし、まだまだ体を自由に動かせない。あくまでも、血管や神経が成長しただけで、骨格や筋肉が未発達だ。加奈子が今書いている小説の状況も、さほど変わらない。
 五里霧中。でも、途中で投げ出さない。「あなたは小説家タイプではなく評論家タイプね」と言った志美先生を見返したい。
 もちろん、義務教育時代に自分をいじめてバカにした連中もだ。特に、ロクに本を読みそうにないようなギャル系の女たちは、いまだに憎たらしい。もしかすると、彼女が若菜のようなロリータファッション愛好家の女の子たちに対して好意的なのは、実は「ギャル系嫌い」の反動かもしれない。

「果実は順調に実りつつある」
 呂尚は言う。加奈子の家を見下ろす、例のマンションの屋上である。
「新たな星を目指すため、何隻もの『ノアの方舟』を作る必要がある。しかし、それまでに何百年もかかる」
「その鍵となるのがあの二人ですか?」
「そうだ、ブライトムーン」
 ブライトムーン…ブライティと呼ばれる少女は、首を傾げた。
 ブライティは回想する。かつて自分は、ヴィクトリア女王が支配する時代の英国・ロンドンの下町に生きる貧しい庶民の娘だった。アルコール依存症の父と、そんな父に暴力をふるわれる母。兄は博打で堕落し、姉は自分たち家族を養うために身を売ったが、何者かに殺された。
 そして、誰かの火の不始末か、さもなくば、一家の誰かに恨みを抱く輩の仕業か、家は全焼し、彼女たち一家は焼け死んだ。
 そんな彼女を「拾い上げた」のが呂尚だった。
 一介の貧困少女ブリジット・スミスは死に、新たに「輝く月(Brightmoon)」という名の光と風の精霊に生まれ変わった。
「果心さん…かなり物騒なものを借りてきたそうですけど、先生が頼んだんですか?」
「ああ、あれはあいつの独断だよ」
「へ…!?」
 悪霊を斬る剣。それは、人間界における核兵器に等しい要注意物件である。
「下手すりゃ、奴自身が悪霊扱いされて討伐されかねん」
「呼びましたか?」
 振り返れば奴がいる。そう、噂をすれば何とやら、黒のライダースジャケットと黒のジーンズを身につけた男が来た。
 彼は言う。
「私の勘では、あの子に恨みを抱いている人間の気配があるのですよ。それも、かなりどす黒いモジャモジャした嫌らしい気配でしてね」
「気配だけか?」
「私は加奈子たちの様子を探ってみましたけど、何というか…『普通の男にモテる女ほど、普通の女にねたまれやすい』とでも言いましょうかねぇ? 加奈子の親友二人くらいの美人よりも、加奈子くらいの『そこそこのかわいい子』の方が他の女にねたまれやすいようですね」
「だからどうした?」
「要するに、彼女を恨んでいる女がいるんですよ。少なくとも、『女』の生き霊の気配を感じますね」
 呂尚は眉をひそめた。
「そこまで調べるために、このマンションに住んでいるのか?」
「まあ、そういう事です」
「まるでストーカーだな」
「いくら先生の発言でも、それは聞き捨てなりませんね」
 そもそも、この屋上から加奈子たちの様子をうかがっている呂尚たちも、結局は似たようなものだろう。
「それに、私は父の代わりに罪滅ぼしとして、あの二人とこれから生まれてくる子孫たちを守らなければならないのですから」
 ライダースジャケットの男は、真剣な顔で言った。

おいしいひととき

「真一伯父さん、ブログで『黄金のリンゴ』の画像を載せていたけど、食品用のメタリックスプレーだなんてねぇ…?」
「ふむ、秀吉辺りが好みそうだな」
 なるほど、慎重第一で健康オタクの家康なら、まずはそんな怪しい食材など拒むだろう。ただ、「ネズミの味噌汁を食べて死にかけた」なんて逸話のある伊達政宗なら、問題のスプレーを使いそうな気がする。加奈子はそう思う。
 伯父の「黄金のリンゴ」画像は、ギリシャ神話のパロディだ。リンゴには英語で「最も美しい女神に捧ぐ」と書かれていたが、三国志で言えば「晋」に相当する立場の聖母マリアがリンゴの受取人になりそうだ。
 秀虎は、現代についての知識をみるみる身につけていた。いや、首から下の「身」はまだまだ未完成だが、血管や神経などがだんだんと「体」の形に出来つつある。さらに、骨格らしきものすら見える。この状態の秀虎も、あのホラー嫌いの叔母には見せられない。
「それにしても、わしの時代にインターネットがあったならば、ますますひどい謀略が行われていたな」
「敵に偽物の情報をつかませたり?」
「うむ」
「そうだ、バレンタインのチョコをあげる」
「ありがとう」
 秀虎は意外と甘いものが好きだ。加奈子は一口ずつ、チョコを秀虎に食べさせた。
 加奈子は一口ずつチョコを親指と人差し指でつまんで秀虎に食べさせるたびに、その唇と舌の温もりと感触にドキドキする。まさしく「官能的」。
「どうした? 顔が赤いぞ」
「いいえ、何でもない!」
 いや、何でもなくない。加奈子は秀虎との距離が近づくたびにときめくが、それでも「慎み」を保ちたい。そもそも彼女は、義務教育時代のいじめの被害のせいで男性不信になったのだから、ここまで男に接する機会なんて、今までなかったのだ。
「ごちそうさま。うまかったよ」
 秀虎は微笑(ほほえ)んだ。

 加奈子にとってバレンタインデーとは、秀虎と出会うまでは嫌いな日だった。中学時代、さえないいじめられっ子の女子だった彼女にとっては、バカな男子クラスメイトにチョコをくれてやるなんて論外だった。おいしいチョコがあるなら、バカ男子にやるより自分が食べた方がいい。
 初恋相手だった若い男性の担任の先生にすら、チョコを渡せなかった。なぜなら、先生は婚約を発表していたし、その時点で彼女の失恋は決まった。
 とは言え、先生にとっては彼女はただの教え子に過ぎなかったし、彼女にとっても先生は過去の人に過ぎない。彼女は、中学の同窓会には出席しない。あの頃は、嫌な思い出ばかりだったからだ。
 今はこうして秀虎と共にいると安心する。昔の男性恐怖症の自分からは想像もつかない事態だ。秀虎がそんな彼女に訊く。
「お前、来週は友達に会いに行くんだろう?」
「うん、涼ちゃんとワカとケーキバイキングにね」
「うらやましいな。わしも元の体に戻ったら、お前と一緒にどこかに行きたいな」
「それってデート?」
 秀虎は微笑む。
「ああ、思う存分デートしよう」
 加奈子は顔を赤らめつつ微笑んだ。

 加奈子は久しぶりに涼子と若菜に会う。以前と同じ、駅前のホテルのケーキバイキングだ。さやかは今回も、スケジュールの都合で来られなかった。
「ひょっとしてあんた、彼氏でも出来た? それともまさか彼女?」
 涼子がズバリ聞いた。加奈子はその大胆な質問に顔が真っ赤になった。
「確かに…今、好きな人はいるよ」
「うーん、その様子からして、あまり深くは追及しない方がいいようね」
 あえて深くは追及しない。だからこそ、加奈子はこの二人を信頼している。
 若菜が言うには、さやかの人気連載のテレビアニメ化が決まったという。それは加奈子も購読している百合漫画雑誌に連載している漫画だが(ちなみに加奈子はボーイズラブというジャンルにはあまり興味がない)、アニメ版は放送時間がかなり遅いようだ。そもそも、オタク向けのアニメの多くは、深夜に放送される番組が多い。
 加奈子も秀虎も、その時間帯には寝ている。何しろ、仕事の都合上などで早起きする必要があるのだ。弁当のおかずは前の日の夕食のおかずの残りを転用するし、仕事場は歩いて数分だけど、あまり夜更かしは出来ない。

 もうすぐ3月だ。加奈子は花粉症が心配だった。余市の真一伯父たちは、本州の住人ほど花粉に悩まされないのだろう。加奈子はそれがうらやましかった。
「北海道、行ってみたいな」
 ホテルを出て解散してから、加奈子はスーパーに買い出しに行った。基本的な食材の他に、お菓子もいくつか買った。今日はたまたま沖縄の名産品コーナーがあったので、ランチョンミートの缶をいくつか買った。このポーク缶は色々な料理に使えるから便利なのだ。
 これらはほとんど非常食みたいなものだから、すぐには使わない。今日の夕食はカレー、それも秀虎が特に好きなポークカレーだ。
 秀虎が初めてカレーを見た時には、かなり仰天したが、言わずと知れた理由だ。しかし、予想以上に現代への順応性が高い秀虎は、現代日本の「事実上の国民食」を気に入るようになった。
「ヒデさん、早く元通りの体に戻るといいな」
 加奈子は願う。

甘い腐敗臭の女

 秀虎はラジオを聴いている。「寂しくないように」という、加奈子の心遣いだ。普段聴いているFMラジオ局は、様々なジャンルの音楽を流すので、退屈はしない。
 今流れているのは、BONNIE PINKの「A Perfect Sky」。加奈子が好きな曲だ。
完璧な空(パーフェクト・スカイ)」。自分も彼女と見たい。手を取り合って。
 体の芯が出来つつある。骨らしき堅い芯。内臓組織も順調に育っている。後は、筋肉と皮膚だ。
 しかし、いつまでかかるのか?
 まだ未完成…未再生の体が火照っている。体の芯から熱がある。風邪などの病状とは違う。根本的な生命力が発する「熱」なのだ。
 彼が思うのは加奈子の事ばかり。早く元の体を取り戻し、この手で抱きしめたかった。
 時が経つのが、さらに長く感じられた。

「どす黒いモジャモジャした気配…この辺なんだなぁ」
 黒のライダースジャケットに黒のジーンズに黒のエンジニアブーツというバイカーファッションに身を包んだ男は、繁華街をうろついていた。
「この辺、どうやら違法風俗店があるみたいだな…いかにもいかがわしい」
 その「いかにもいかがわしい」雑居ビルから、一人の若い女が出てきた。明るい茶髪を緩く巻いて、背中に垂らしている。身長は、だいたい165cmくらいだ。
 いかにも「ギャルギャルしい」服装に身を包み、女は歩いている。男は数メーター離れて、さりげなく後を追った。女は男の気配に気づく素振りを見せない。
「何だか、いかにもギャル系ファッション誌の読者モデルみたいだな…判で押したような」
 あまりにも自己主張が強過ぎるアイメイクと、アニマルプリントの服。派手なオシャレのおかげで「美人度」や「ブス度」が曖昧な女。しかし、男は彼女からただならぬ気配を感じた。
 間違いない。この女が臭い。
 おそらく、このビルに入っている違法風俗店の従業員だ。そして、おそらく、花川加奈子を恨んで陥れようと企んでいる奴だ。
「あの女があの子と何らかの関係があるか、調べるか…」
 まずは、彼女自身について探ってみよう。
 男は光の玉に姿を変え、消えた。

《今日は、3月3日。桃の節句♪ 女の子の日だから、当然あたしの日だにょん♪》
 女は、今日も確信犯的妄想ブログを更新していた。
 腹黒白雪姫と「小人」たち…「ヴァーチャル枕営業」でつなぎ止めたブログ友達の阿諛追従(おべっか)
「…つまんね」
 彼女はネットでの「お姫様ゴッコ」に飽きていた。どうせネット上で出会う人間とは、あくまでも文字のみでの付き合いだし、どうでもいい。あくまでも、ただの他人。気にする必要はない。
 ただ、一人の女を除いて。
 中学校の卒業アルバムは、とっくの昔に捨てた。いや、母親が捨てたのだ。あの「毒親」め。再婚相手は「客」で、都合のいい時だけ母親面する女は「やり手婆」だった。
 卒業アルバム…あの元クラスメイトの女の顔立ちは、どことなく母親の若い頃に似ていた。だからこそ、大嫌いだった。ついでに、その女に似たグラビアアイドルも嫌いだった。
 彼女は、そのクラスメイトの女の写真を黒く塗りつぶした。ついでに、その女の親友二人の写真も塗りつぶした。そして、アルバムをほったらかしていたら、いつの間にか捨てられていた。
 母親が「客」と離婚したのは、娘のためではない。「客」が他の女になびいて、自分たち親子を捨てたのだ。母親は娘を逆恨みし、家から追い出した。
 彼女は男たちの家を転々とした。その間に違法薬物の味を覚え、気がついたら「夜の女」になっていた。
「あいつらのせい」
 母親は、娘が「稼げる」ようになると、しばしば金の無心をした。お互いに、相変わらず男漬け。娘はホストとできちゃった結婚をしたが、夫は借金取りから逃れるために雲隠れ、わずか3か月の名ばかりの結婚生活。
 彼女は、未婚の母同然に産んだ一人娘を母親に押し付け、一人、身を削って「女」を売っていた。そんな彼女の現実逃避として、ネットとクスリがあった。
 彼女は「オリジナル小説」の書き換えをしていた。この小説は自分と同じ仕事の女が主人公だが、元の作者は素人だろう。だから、「本職」の自分が手直しすれば、リアリティが増すハズだ。
 これが入選すれば、あの女に勝てる。
《あたし、小説の新人賞に応募します! 皆さん、応援してね♪ にょん!》
 女は、違法薬物をほおばり、ビールを飲み干した。

脳と子宮

 3月3日、桃の節句(ひな祭り)。かつて祖父が初孫の加奈子のために買ってくれたひな人形があるが、一人暮らしの彼女にとっては七段飾りという飾り付けが無理なので、今は押し入れにしまっている。代わりに、ある雑貨屋で買った小さなひな人形を茶の間に飾っている。
 今日の晩ご飯はちらし寿司。もちろん、秀虎に食べさせる。
 二人はテレビのニュースを観ている。スポーツコーナーでは、海外で活躍中の日本人選手を取り上げている。
「それにしても、今の世の中の『スポーツ』というものは実に興味深いな」
「どういう意味で?」
「ひょっとして、今の世の者たちは、戦の代わりにスポーツを楽しんでいるのではないのか?」
 なるほど、サッカーやバスケットボールなどの激しく動く団体競技は特にそうだろう。それに、誰かがこんな皮肉を言っていた。「オリンピックの存在意義は、人間の戦争に対する欲望のはけ口」だというのだ。
「欲望のはけ口か…。人を殺す必要のない『戦』ならば、白起(はく き)のような者の悲劇もあるまい」
「白起って、始皇帝より昔の秦の将軍でしょ?」
「うむ…お前が話す今の世の話を聞くと、白起の悲劇は今もなお続いているようだな」

 どこかの国は、国民をまとめるために常に「仮想敵」を設定する必要があるらしい。さらに、あるフェミニストの社会学者は「女の女性嫌悪(ミソジニー)は自己嫌悪だ」と言っていた。
 おそらく世の中の少なからぬ女たちは、必要以上の自己嫌悪に陥らないためにも、常に「自分以外の女」を「仮想敵」に設定する必要がある。さもなくば、自らを憎み過ぎて破滅しかねない。
 女が自分以外の女を憎むのは、必ずしも男の存在が原因とは限らない。むしろ、「男」は他の女たちとの競争で優位に立つための道具に過ぎない。ある精神科医は、女は男より「関係原理」が強いという仮説を立てていたが、「女の敵は女」という慣用句はまさしく、それを逆説的に証明している。
 共感とは、好意だけではない。同族嫌悪・近親憎悪も「共感」に他ならない。女は同性に対して、自らの「影」を見る。だからこそ、「女の敵は女」なのだ。
 かつての加奈子はそれゆえに劣等感の塊だった。ただ、涼子と若菜という愛すべき親友たちが彼女の心の支えになっていた。

「伍子胥の最期の言葉が白起のようだったならば、後世の史家たちの評価はもっと高かっただろうな」
 呂尚は言う。
 子胥は自らを裏切った主君・呉王夫差に対して激しい呪詛を述べて死んでいったが、白起は長平の戦いなどでの自らの大量殺戮を悔やんで自害した。
 しかし、それでも子胥は、白起以上に後世の人々に同情された。何しろ白起は、秦の天下統一における最大の「功労者」だ(ただし、彼の代わりに商鞅(しょう おう)の名を挙げる者も少なくない)。秦の圧政を快く思わない人間にとっては、白起は伍子胥のような「判官びいき」の対象ではない。
 子胥が自害に用いた剣。それは凄まじい威力を秘めた魔剣だった。それには子胥自身の怨念に基づく魔力も含まれていたが、彼自身が「祟り神」であり続ける必然性がなくなったのに気づいてからも、その威力は変わらなかった。
 子胥が自身の「祟り神であり続ける必然性のなさ」を悟った時点では、すでに呉も越も楚もなければ、秦も漢もなくなっていた。
「秀虎の思いは敵への怨念ではなく、亡き妻への愛情だ。それが奇跡を起こすだろう」
「でも、加奈さん自身は前世の記憶なんてないんでしょ?」
 ブライトムーンは言う。呂尚は微笑む。
「安心せい。二人の互いへの思いは順調に育っている。後は、その時を待つだけだ」

 春の息吹きが湧き上がる。ありとあらゆるものが「萌える」季節がやって来る。みずみずしい恋に落ちる者たちが「生まれる」。
 光と風が希望の糸を導く季節。運命の女神たちが気まぐれでそれらを断たぬように、祈ろう。
 人間は努力をする限り迷うもの。そんな人間たちの努力を阻まぬ「神」とは鷹揚である。
 その頃、加奈子は小説を完成させて、新人賞に応募していた。若菜とさやかは、彼女と涼子を温泉旅行に誘ったが、加奈子は秀虎の世話のために(表向きは別の用事を口実にして)、涼子は仕事の多忙を理由に、それぞれ断った。
 もうすぐ、4月だ。

 現役大学生の倫と小百合は、3年生になった。そろそろ就職活動を真剣に考えなければならない。加奈子はかろうじて、紅葉山のおじさんとおばさんに助けられて働けるようになったのだが、彼女の母校よりランクの高い大学にいるあの二人だって、就職活動はイバラの道だろう。
 高卒者の場合、普通科より「業付き」高校を出ている方が就職活動に有利なようだ。普通科は基本的に、将来デスクワークの職場に就くのを前提にしているのだが、そういう職場は基本的に大卒者を優先する。加奈子はかろうじて、三流女子大に入学して、かろうじて卒業出来たが、以前紅葉山不動産で働いていた女性事務員が寿退職してくれたおかげで、彼女は採用された。彼女は運が悪いようでいて、実はむしろ運が良いのだ。
 加奈子は今日も真面目に、コツコツと電話応対や雑用の仕事をする。今の彼女には秘密の「扶養家族」がいるのだから、なおさら。

「ただいま」
「おかえり」
 秀虎は加奈子が留守の間、ラジオを聴いているが、いつの間にか現代人の加奈子よりずっと現代の音楽に詳しくなっている。そのスポンジが水を吸収するような好奇心は「ファウスト的衝動」だ。
 加奈子は秀虎に現代の知識を教えるために、色々と本を朗読するのが日課になっている。秀虎はスポンジのように、ドンドン知識を吸収している。
「私もヒデさんみたいに頭が良かったらなぁ…」
 加奈子は思う。しかし、今の日本はランクの高い大学を出ても、就職難に翻弄される世の中だ。いわゆる「バブル」の時代に楽々就職出来た人たちの話を聞いても、信じられない。
《もしヒデさんが北条氏か他の有力大名に仕えていれば…いや、こんな事言えない。多分、怒る》
 今の加奈子は生理中だが、何だか全身が麻痺しているような感じで気力がない。なるほど、英語の俗語で「the curse(呪い)」というのには納得がいく。副社長…紅葉山のおばさんは「年をとれば、生理痛は若い頃よりは軽くなる」と言っていたけど、本当だろうか?
 とりあえず、鎮痛剤で何とかしのいでいる。他に稼ぎ手がいない所帯なのだから、生理休暇を取る余裕なんてないのだ。
「昔の加奈も月のものが重かったな…。何も出来なくてすまん」
「ありがとう、ヒデさん」
 秀虎の血管や神経の周りに、徐々に筋肉らしき組織が出来つつある。もしかすると、中には骨格や内臓も出来つつあるのかもしれない。以前見た骨らしき何かがすでにあるのだろう。

真剣な遊び

「さて、秀虎殿、どこまで回復しているのかな?」
 その男は、加奈子の家の前に立っていた。男は、秀虎の水槽がある部屋の窓に向かった。彼が指を鳴らした瞬間、姿が消えた。
「久しぶりだな?」
「貴様は、果心(かしん)…!?」
 果心と呼ばれた男は、窓に手も触れずに部屋に侵入していた。年格好は30歳前後、身長は180cm前後で、黒のライダースジャケットに黒のジーンズに黒のエンジニアブーツといういでたちだ。そして、伸ばした髪を後ろで一本結びにしている。
 秀虎とはまた違う趣の男前、不思議と色気と茶目っ気を感じさせる男だ。
「お前、土足だぞ。後で加奈に叱られてしまう」
「ふふん、頭が上がらないのか? かわいいな」
「たわけ!」
 果心居士(かしんこじ)、かつては鬼一法眼(きいちほうげん)とも呼ばれていた男。多くの英雄たちと関わってきた、不老不死の幻術師である。彼は言う。
「呂先生は、神々の計画のためにお前を蘇らせようとしている。お前と加奈子の子孫が、この世界の人間たちを救う事になるというのだ」
「どういう事だ?」
「この地球という星には、いや、人間という種族には寿命がある。そして、人間たちを生かすためにも、文明の進歩が必要だ。新たな星を目指すためにも、キリシタンの言う『ノアの方舟』を人間たちに作らせるのだ」
 この世の人間たちの「格闘」とは、全ては新天地を目指すため。人間たちは様々な物品や概念などを発明したが、それはこの地球から飛び立ち、新たな星に「(しゅ)(たね)」を蒔いて、新世界を築くためなのだ。
「まあ、股くぐりの謀反人の息子だった俺は傍観者みたいなものだ。あの田横(でん おう)殿の子孫が抜擢されようが、〈アガルタ〉のお偉方に異議を唱えるつもりは毛頭ない。ところで、加奈子が書いている小説の主人公は、俺の父上を元ネタにしているようだな? とりあえず、幸運を祈るよ」
 かつて「国士無双」の遺児だった男は消えた。
「あいつ、何から何まで知っているようだが、それは今の言葉で『プライバシーの侵害』というのではないか!?」
 秀虎は困惑し、憤った。もしかすると、加奈子の着替えや入浴中の様子なども奴に見られているのかもしれない。
「何て忌々しい奴だ!」

 加奈子の家の近くのマンションの屋上で、呂尚とブライトムーンがそれまでの様子を眺めていた。
「ヒデさんって…韓信にやっつけられた田横の子孫だったんですか!?」
「そうだ」
「田横って、先生の子孫から国を奪った連中の子孫ですよね!? いいんですか?」
「古き秩序は新しき秩序に取って代わられる。私にはどうする事も出来ない」
「だったら、私たちの計画はどうなるんです?」
「なるほど、言われてみれば矛盾かもしれんな」
 呂尚は苦笑いした。

蠱毒(こどく)」という呪術がある。壷などの器にたくさんの虫などの生き物を入れて、戦わせる。それで最後に生き残った者を「武器」にする。
 このような呪術を用いた者たちは、少なくない。しかし、実際にはもっと「現実的」な手段を用いた者たちの方がはるかに多かっただろう。例えば、毒薬などを用いた暗殺だったり、流言飛語で相手を失脚させたりなどの謀略だ。
 それもまた、神々の思し召し。人間たちの「運命の糸」はあちらこちらに引っ張られて、乱れまくる。
「天道是か非か」
 神々が常に人間たちの世界に争いの種を蒔くのは、人間たちを鍛え上げるため。人間たちが力を増せば増すほど、神々の力も強まる(そして、自称「無神論者」や「唯物論者」はそれに気づかない)。人間たちが存在する限り、神々も存在する。なぜなら、多くの神々は人間たちから生まれたからである。人間たちの存在それ自体が、神々の力の源なのだ。
 そして、地球とは、人間たちを「蠱毒」の材料とする巨大な器である。ありとあらゆる「競争」や「試練」が、人間たちをふるいにかけて、磨き上げる。
「古き秩序は新しき秩序に取って代わられる」
 一部の人間たちが非業の死を遂げて「祟り神」となったのは、神々の「蠱毒」の一つの結果である。神々は、彼らの怨念と魔力の有用性を認めている。毒をもって毒を制する。それが、「祟り神」の有用性だ。
 伍子胥はある時期から、自分が「祟り神」であり続ける必然性がないのに気づいて呆然とした。何しろ、国々の代替わりの積み重ねで、とっくの昔に「敵」はいなくなってしまったのだから。そんな彼を「人類の進化を司る神々」の集団〈アガルタ〉に誘ったのが、呂尚である。
 白いメフィストフェレス、すなわち一種のトリックスター。呂尚の仕事は、同時に「真剣な遊び」でもあった。
「色々な人間がこの世にいる事それ自体が楽しいのだ」
 彼は言う。
 勝者は敗者の力を取り込んだがゆえに、勝者なのだ。それが「弱肉強食」。そして、今日の加奈子と秀虎の夕食は「焼肉定食」である。

「うまいな」
「今日は給料日だからね。ちょっと奮発しちゃった」
 秀虎の体はだんだんと出来上がりつつある。筋肉の表面にうっすらと皮膚が出来つつある。
 しかし、まだ自由に体を動かす事は出来ない。首をある程度動かせるだけだ。
 食べ物が体を作る。その事実を分かりやすく見せているのが、秀虎の状況だ。しかし、秀虎の体を自由に動かせるようになるのに必要なものは何だろう?
「ごちそうさま」

 5月。加奈子は端午の節句には子供の頃からの習慣通り、当然柏餅を食べた。やはり、これを食べないと気が済まない。もちろん、秀虎にも食べさせた。
 倫と小百合は時々遊びに来るが、秀虎と倫はテレビのサッカー中継で盛り上がっている(二人はどちらかと言うと野球よりもサッカーを好む)。この二人が試合で盛り上がっている間は、加奈子は小百合と一緒に茶の間で別の番組を観ている。
「それで加奈さん、あの小説は?」
「一次選考は通ったみたい」
 今まで何作か送ったけども、せいぜい一次選考止まり。しかし、加奈子はついに新人賞の掲載誌で途中経過を見た。
 自分の小説が何と、二次選考に進出していた。
 しかし、彼女は他の応募者たちの中に見覚えのあるペンネームを見つけた。
「あすかももこ」
 間違いない。あの「お姫様」のハンドルネームだ。まさか、この女もこの小説新人賞に応募していたなんて、とんでもない悪夢だ。
 この女は某コミュニティーサイトの歴史系サークルの「アイドル」だった。しかし、彼女があのサークルでその地位をせしめたのは、ブリブリに愛嬌を振りまいて男性メンバーたちに取り入ったからだ。
 それまでこの女は、あちこちのブログサイトを渡り歩いていたらしいが、いずれも三日坊主だったらしい。それで、このコミュニティーサイトに入会してから始めたブログで、自分が媚びへつらいで捕まえた「客」相手に「リア充」自慢をしている。
 芸能人気取り。中身がスカスカの記事ばかりで、読む価値などない。
 加奈子はこの女が憎たらしくなり、意見の対立によってこの女とケンカ別れした。そんなこの女との確執が尾を引き、サークルの他のメンバーたちとも険悪な関係になり、加奈子はコミュニティーサイトを退会した。
 その後、加奈子は新たに立ち上げたブログで、自分と彼女のトラブルを元に書いたショートショートを書いたが、「腹黒白雪姫」はそれを自分のブログに丸ごと無断転載した上に、取り巻きの「小人」たちと一緒にそれを笑い物にした。
 それは年末の出来事だったが、この女は「今年の汚れ、今年のうちに♪」という捨て台詞と共に、証拠隠滅のために消去した。ただし、実際には非公開設定で保存している可能性はあるだろう。

その女、淫猥につき

「ねぇ、あんた」
「何だ、お前?」
「そろそろ『あの女』に仕掛けてよ」
 女は、男の体にしがみつきながら、男の背中に爪を立てた。男は元大手暴走族のメンバーだった。長い茶髪を乱しているその全身には、派手な刺青が彫られている。明らかに、お互いに「堅気」ではない。
 女は、男の体に両脚をからみつけていた。脱ぎ捨てた衣類などが放置された、安アパートの一室のベッドで、女は数少ない娯楽の一つを行っていた。例の危ないクスリは媚薬。まだ、日は沈んでいない。
「あの女を再起不能にしてよ」
「どういう意味での再起不能なんだ?」
「もちろん、色々な意味でよ」
 ある時は、『論語』などの中国古典を愛読する現役女子大生。そしてまたある時は、人気俳優そっくりの長身の「イケメン女子」。しかし、その実態は、元ガングロギャルのバツイチシングルマザーだった。
 女は思い出す。彼女は加奈子の中学時代のクラスメイトだったが、当時の彼女は、さえないいじめられっ子の加奈子を見下していた。しかし、彼女自身が色々な意味で「貧しい」母親の身勝手のせいで道を踏み外したのに対して、加奈子は地道に努力して、それなりに幸せらしい。
「あのクソアマめ」
 あからさまな違いよりも、ほんのわずかな違いの方が焦りを呼び覚ます。
「あの女、絶対に許さない」
 女は、加奈子が小説新人賞にたびたび応募しているのに目を付けた。加奈子自身が、自分のブログで公言している。これはあの女への恨みを晴らすチャンスだ。
 しかし、彼女自身の「文才」は口だけだった。彼女はいわば「ヴァーチャル枕営業」でたくさんのブログ友達を引っかけてきた「政治屋」に過ぎない。その「枕営業」の一環としてネトウヨ活動もあったが、彼女のレイシズムは彼女自身の劣等感の裏返しだった。彼女が新人賞に応募した作品とは、ある小説サイトに掲載されていた他人の小説の盗作だった。
 何しろ、他のブロガーの記事を丸ごと無断転載したあげく、それを取り巻き連中と一緒にあざ笑っていい気になっているような女だ。
「あの女を何もかもメチャメチャにして」
 したたるような媚びで、女は男の耳元でささやき、その耳たぶを甘噛みした。

「そういえば、『あすかももこ』に似た女の子が中学時代にいたような気がする」
 まさか? 加奈子は自分の仮定を疑う。仮に「あすかももこ」と加奈子の中学時代のギャル系クラスメイトが本当に同一人物だとしても、あれは整形しているか、化粧オバケだ。ネット上で見かけた彼女のものだという画像がそうならば。いずれにしても彼女たちは「イケメン女子」ではなく、単なる「ギャル系」女に過ぎない。そもそもギャル系の女たちはたいてい、似たりよったりの顔にしか見えない。しょせんは素材をごまかすのに都合の良い「調理法」に過ぎない。
 問題のギャル系クラスメイトは加奈子をバカにしていたが、涼子も若菜もあの女子クラスメイトを嫌っていた。そもそも加奈子たちは、これ見よがしに「リア充」気取りでいるあの連中が嫌いだった。あの連中は、校内の障害のある子たちを馬鹿にしていい気になっていたし、見るからにロクな将来性がなかった。加奈子はなるべくならば「DQN(ドキュン)」だなんて西洋かぶれの若者言葉など使いたくないが、あのような連中はまさしく「DQN」そのものだった。
 問題の女子クラスメイトは確か、いわゆる「キラキラネーム」っぽい名前だった。加奈子は自分の中学時代の卒業アルバムに載っているそいつの写真と名前は黒く塗りつぶしているが、それに対して、彼女自身の「加奈子」という名前は無難なネーミングだろう。

 加奈子がギャル系の女を苦手とするのは、自分の教養のなさを恥じずに自信満々(傍若無人)に振る舞っているところだ。彼女たちは「今の自分」の若さしか眼中にないように思える。自分自身の「大人の女」という将来に対する「ヴィジョン」が感じられない。あまりにも刹那的だ。自らの若さを無責任に誇るが如く。
 何年か前にヒンシュクを買った、中高年女性蔑視発言の女性歌手の例がある。彼女は当時20代半ばだったが、あれは明らかに、自分より年上の女性たちに対する配慮や想像力のなさ、そして何よりも軽蔑と優越感を表していた。
 ギャル系の女の子たちだけではない。ある女の子がテレビのインタビューで「理想の大人の女性のイメージはどんな人ですか?」という質問に対して、某大物美人女優の名前を挙げていたが、「精神的・内面的な理想」を尋ねられたら、何も答えられずに困惑して、笑ってごまかしていた。つまり、内面磨きなど眼中になかったのだ。多分、彼女ら今時の若い女たちには、自分たちが手本とすべき理想的な「大人の女」が身近にいないのだろう。
 加奈子は「あんな軽薄な(バカ)女たちとは同類になりたくない」と思っている。だからこそ、彼女は色々な本を読んで知識を蓄えてきたのだ。見かけ倒しのスカスカ女…加奈子はそんな女たちを軽蔑する。なぜなら、加奈子にとって彼女たちは「あってはならない自画像」なのだからだ。

 あるハンバーガーショップに、彼女はいた。いつも通りのギャル系ファッション。気合の入ったアイメイクとネイルアート。その姿はまさしく「武装」だった。
 その女、「あすかももこ」こと浜凛華(はま りんか)は、ヨーグルトシェイクを注文して飲んでいた。彼女は3分の2くらいまで飲んでから、カウンターに向かって言った。
「すいませーん、バニラシェイクを頼んだんですけど、間違ってまーす!」
 そして彼女は、問題のバニラシェイクをタダ飲みし、何食わぬ顔で店を出た。
 凛華は、中学時代以来の知人たちに連絡を取っていた。中には、大手暴走族の元幹部などもいる。彼女自身の仕事もまた、裏社会と密接な関係にある夜の仕事だった。
「処女の分際で」
 凛華は何度、この言葉で他の女たちをあざ笑ってきただろうか? 母親の再婚相手からの度重なる性的虐待が、彼女の運命と自尊心を狂わせた。
 不特定多数の男たち相手に体とプライドの切り売りをする仕事。凛華の娘の父親だったホストは、借金取りに追われて雲隠れした。わずか3か月の結婚生活だった。
「あたしの方が『女』として勝っている」
 今に見てな。凛華は鼻で笑った。

「あの女か…」
 果心は、凛華の行動の一部始終を見ていた。あまりにもセコい「バニラシェイク詐欺」に呆れたが、どうせ防犯カメラに映って記録されているだろうから、あえて店員には伝えない。
「さて、奴の尾行と張り込みを続けるか? いや、加奈子を見張った方がいいな」
 あの女の人脈からして、意外な「隠し玉」があるかもしれない。むしろ、あの女が放つ「刺客」を待ちながら加奈子の警備をした方がいい。
 そして、刺客連中が来たら、そいつらを尋問しよう。まずは、証言が必要だ。
「つまりは、とりあえずあの女は泳がせとくか」
 果心は、加奈子の仕事場・紅葉山不動産のある辺りに向かった。自分の勘を信じる限りでは、もうすぐ何者かが加奈子を狙う危険性が高い。
 それに、呂尚とブライトムーンもいるのだ。いざという時には、二人が「援軍」になってくれるだろう。
「まあ、まだ『こいつ』の出番はないだろうさ」
 果心は、左手を開いた。一見、そこには何もないが、その中には例の「秘密兵器」が隠されている。

乙女の危機

「この人は、私になりたかった女性です」
 問題のブロガー「あすかももこ」は花川加奈子という女について、傲慢にもこう言い放った。何て、自己評価が高過ぎる発言なのだろう? こんなナルシスティックな発言なんて、マトモな神経の人間ならば、恥ずかしくて言えないだろう。さらに、彼女はこうも言った。
「私が持っているものに対して、うらやんだりねたんだりするのは、自分がない人」
 その「持っているもの」とやらは、ネット上で他人の注意を引くためのもので、全部嘘。彼女は加奈子を悪者扱いするために、加奈子を「妄想の塊」だの「私をいじめる人」だのとでっち上げたが、彼女…「あすかももこ」が本当にあの浜凛華と同一人物ならば、その発言はいわゆる「ブーメラン」だ。
 おまけに「あすかももこ」はネット上で男性の腰巾着(そう、他の女ではないのがミソだ)相手に「嫉妬という感情が理解出来ない…」と泣きついた。もちろん、「ヴァーチャルカマトト」の嘘泣きだ。しかし、彼女の「虚像」を信じて嫉妬した加奈子も大人げないだろう。
 ももこは加奈子を「エゴの塊」とも罵った。「自分がない人間」と「エゴの塊」という相反する悪口を、同じ相手に対して言う。矛盾ではないのか? しかも、ももこは「矛盾している人が嫌い」などとも言っていた。ならば、彼女は真っ先に自己嫌悪に陥らなければならないだろう。
 加奈子は明日は休日なので、ゆっくり休める。すでに夏と言っていいくらいの気温だが、彼女はなぜか体の芯が冷えるような寒気を感じる。早く帰りたい。でも、スーパーで買い物をしたい。彼女は迷った。

 加奈子は異変に気づく。誰かに尾行されている気がする。何だかサスペンスドラマみたいだ。まさかストーカー? 加奈子はスーパーに立ち寄らずに、早足で帰りを急いだ。
 しかし、家に近づくほど不穏な気配がする。いっその事、交番に駆け込もうか?
 振り向くと、ガラの悪そうな男がいた。男はすぐに電柱の陰に隠れたが、間違いない。あれがストーカーだ。
 それに、まだ何人か怪しい気配を感じる。マズい!
 加奈子はすぐに家に戻らずに交番に向かった。早歩きで、そして、徐々に駆け足で。

 呂尚とブライトムーンは、雀に変身して空を飛んでいた。彼らには、このような変身能力もあるのだ。
「ネズミは壁を忘れても、壁はネズミを忘れない…か」
「ネズミと壁…ですか?」
「ああ、被害者と加害者の意識の違いだ。いじめっ子は都合良く自分の悪事を忘れるが、いじめられっ子は被害者意識を保ち続ける。その結果、元いじめっ子は要領よく一人前の『社会人』を気取れるまでに成長する場合が少なくないが、元いじめられっ子は犯罪者か生活困窮者のいずれかに転落する危険性が高い。同じ事は、親子の虐待についても言えるぞ」
「そりゃヒドいですよ!」
「しかし、加奈子は元いじめられっ子としては、幸せな部類だな」
「その加奈さんは…あ、あそこにいますよ」
 二人は仕事帰りの加奈子を見つけた。しかし、彼女に近づくただならぬ気配を感じた。彼女の後ろの通行人たちの中に、不穏な様子の男たちがいる。
「先生! 加奈さんを尾行している奴がいますよ!?」
「ブライティ、加奈子を守れ! 状況次第では『乗り移れ』!」
 ブライティ…ブライトムーンは姿を消し、加奈子を追った。加奈子は何者かの気配をハッキリと感じ、脚を速めた。

 追っ手は数人いる。そして、加奈子はあまり足が速くない。元々体育は苦手教科の一つだった。
 火事場の馬鹿力でいつもより若干足が速いが、このままでは間に合わない。追っ手たちは、ハッキリと彼女を追いかけ始めた。
 乗り移れ!
 ブライティは光の玉になり、加奈子の後頭部にめり込んだ。光の玉はスッと加奈子の頭の中に入った。
 このまま家に帰っても、誰かが待ち構えているかもしれない。あえて、別方向に逃げよう。加奈子の体に乗り移ったブライティは、急いだ。

「え!?」
 加奈子は追っ手から逃げていたが、いつの間にか勝手に足が速くなった。ほとんど飛んでいるような感覚。いや、半ば本当に飛んでいるようだ。いきなり何者かに体を乗っ取られたかのように、加奈子は走り回った。
 誰かによって、自分の体が「自動運転」状態になっている。赤信号の場所にぶつかれば、自然に右折や左折をし、追っ手たちをまいていった。
 気づいたら、川岸にたどり着いていた。普段、あまり来ないところだ。だいぶ家や交番から遠ざかっている。なぜこんなところに来たのだろう?
「良かった。何とか敵はあたしらを見失ったようね」
「え!?」
 加奈子が振り向くと、隣にブロンド白人の女の子がいて、流暢な日本語で話しかけている。多くの日本人は、外国人に接する時には大なり小なり緊張感を抱くが、加奈子にはドイツに親戚がいるので、外国人に対してはさほど抵抗感がない。
「あなたは…誰?」
「あたしはブライトムーン。ブライティと呼んでね」
「ひょっとして、あなたが私を助けてくれたの?」
「うん。あなたを狙っている奴がいるからね。あなたを恨んでいる誰かが依頼した連中みたいよ」
 加奈子は思う。まさかとは思うが、「あすかももこ」=浜凛華の仕業? いや、ももこと凛華が本当に同一人物なのか確信は持てないが、ももこは自分のブログで、加奈子に対してこれから一切関わりを持たないという意味で「さようなら」だの「今年の汚れ、今年のうちに」だのと書き込んでいた。それ以来、加奈子についての言及はないし、相変わらずつまらない内容の記事しか書いていないから、加奈子は今は彼女のブログは一切覗いていない。
 凛華だって、あくまでも「地味子」である加奈子を「下」に見ていたのだ。わざわざ大掛かりな嫌がらせを仕掛けるなんて、加奈子には信じられない。
「ブライティさん、ありがとう。でも、また何かあったら怖いけど…」
「大丈夫、家まで付いて行ってあげるよ」
 二人は家まで戻ろうとした。もう、すでに辺りは暗くなっている。
「まずい! 別の奴らが来たよ!?」
 ブライティが叫んだ。バイクの集団が鳴らす轟音が聞こえ、徐々にこちらに近づいてきた。
「奴らを殺さずに防ぎきる事は出来るか…?」
 ブライティは加奈子を守るように前に出た。

背水の陣

 秀虎は胸騒ぎがした。体の芯が、いや、全身が熱い。
「加奈…?」
 加奈子は、仕事帰りに買い物をしてから戻ってくると言った。しかし、今日は遅い。加奈子が戻って来ない限り、部屋の照明は使えない。そう、部屋は真っ暗だ。それだけに、なおさら不安が増す。つけっ放しのラジオはノリの良いポップスを流しているが、そんな曲を悠長に聴いている場合ではない。秀虎は、余計にイライラしていた。
 自由に動けたら…。彼の体は、ほとんど再生されていた。試しに腕を上げてみる。手を結んで開いて。
 何か急用があれば、電話をするだろう。しかし、秀虎はテレビドラマなどの描写や加奈子の実演で電話の使い方を教わったが、今までの自分の状態からして、使えなかった。
 思い切って、立ち上がろう。秀虎は、両腕を上げて、水槽の縁に手をかけた。
「むん!」
 水しぶきが上がった。床がびしょ濡れになったが、足腰に力が入らない。
「病み上がりのようだな」
 秀虎は、もう一度立ち上がろうとした。その瞬間、水槽が倒れ、彼は水もろともぶちまけられた。
「くそっ…!」
 秀虎は、何とか立ち上がった。体が重い。水槽から投げ出された衝撃で、体が痛い。足元がおぼつかない。
 彼は部屋のドアを開け、茶の間に行った。
「まだ、本調子ではない」
 秀虎はうずくまった。今の自分は素っ裸だ。体もまだ自由自在に動かせない。
 彼は、暗い中で床を這った。そして、手探りで固定電話を見つけて、受話器に手を伸ばした。加奈子の携帯電話にかけようと思ったのだ。しかし、彼は彼女の携帯電話の番号を聞いていなかった。加奈子はまだ、自分がここまで体が回復しているのを知らないからだ。
 しかし、仮に電話番号を聞いていたとしても、肝心の加奈子自身に何かがあったのかもしれない。何か事件に巻き込まれていなければ良いが。
「加奈…!」
 急に意識が遠のき、彼は倒れた。

 加奈子とブライトムーンは暴走族らしき連中に囲まれた。いかにも怖そうな(これ見よがしに怖さ演出をしている)男たち。粗野で無教養で品のない「(オス)の臭い」を発散する、いかがわしい荒くれ野郎ども。
 あの凛華は、中学時代からこんな「悪い仲間」たちとの付き合いがあったからこそ、この手のコネがあるのだろう。そして、もし本当に「あすかももこ」=凛華ならば、ネット上でのケンカ別れを逆恨みして、何かを仕掛ける可能性はある。
 実際、加奈子はももこと決裂してから、知らない人間にブログのコメント欄を荒らされた。そいつは彼女とももこのネットトラブルについて、かなり詳しく知っていた。
 ももこ自身もブログの中で、その荒らしの被害に遭っていたと書き込んでいたが、おそらくは彼女の自作自演か、彼女の取り巻き連中の誰かのなりすましだ。ももこはある質問サイトで問題の荒らしについての相談を投稿していたが、あれはアリバイ工作だ。
 問題の荒らし野郎は、あるインディーズバンドと同じ名前をハンドルネームにしていたが、その辺からして、音楽好き自慢をしていたももこ(彼女は椎名林檎やエヴァネッセンスなどのファンを公言していたが、加奈子もこれらミュージシャンの楽曲を好むので不愉快だった)とのつながりを感じる。
「どうか不幸せに」、それがももこの加奈子への捨て台詞だった。加奈子はこれで、「あすかももこ」という「オタサーの姫」が正真正銘の性悪女(ビッチ)だと確信した。
 最低最悪のシナリオが思い浮かぶ。何しろ加奈子は、恋人いない歴=年齢の処女(おとめ)だ。こんな「安物」の奴らに汚されてたまるものか!
 確かに、世の中には性的な恥辱を受けながらもなお、へこたれずに一生懸命生きている女性(や一部男性)たちはいる。中には、並みの女性以上に出世して、売れっ子有名人になった人たちだっている。
 しかし、もし仮に加奈子がそのような屈辱を受けたならば、多分自殺を考えるだろう。彼女は自分を弱い人間だと思っている。仮に自殺を図らなかったとしても、「男嫌い」か「性嫌悪」のいずれか(あるいは両方)に陥ってしまい、「異性愛の女」としての将来性を完全につぶされてしまうだろう。
 せっかく本当に心から信頼するに値する男性にめぐり合えたのに…。
 暴走族どもは、徐々に包囲網を狭めていった。ブライティは、両腕をしきりに動かしている。彼女の手の動きに合わせて、空気が動いて風になっている。風が彼女たちを囲んでいるのだ。
 それで暴走族どもは、今のところはこれ以上は彼女たちに近づけないようだ。

「やれやれ、俺の出番かね?」
 加奈子とブライティが暴走族たちに取り囲まれている現場に、黒のライダーズジャケットに黒のジーンズに黒のエンジニアブーツというロック野郎ないでたちの男が近づいた。
 果心は、ここまで加奈子とブライティを追いかけてきた。ブライティの風の魔力がかろうじて暴走族どもの包囲を食い止めているが、時間の問題だ。
「レディの危機にはナイトの参上…なんてのん気な事を言っとる場合じゃないな」
 かつての中国・前漢王朝の初代皇帝である高祖・劉邦(りゅう ほう)には、多くの有能な忠臣たちがいた。その中でも特に功績がずば抜けていた三人は「漢の三傑」と呼ばれた。
 その一人、中国史上屈指の名将の一人である「国士無双」淮陰(わいいん)侯・韓信(かん しん)の一人息子が彼だった。
「そうだな…ここは十八番の『火』で行くか」
 果心居士、またの名を鬼一法眼。本名は韓毅(かん き)。彼の本名は、戦国七雄の燕の名将・楽毅(がく き)にあやかって付けられたものだ。
 毅は、父親の罪に連座して捕らえられる直前に逃亡した。彼は父の愛妾と共に、ある山に隠れ住んだ。その後、かつて父・韓信に裏切られた鍾離眜(しょうり ばつ)の息子に追われ、淮水(わいすい)に浮かべた小舟の上で、彼は焼身自殺を図った。
 そして、「炎の魔神」として、彼は蘇った。
「加奈子にブライティ…ありゃ『背水の陣』どころではないな」
 韓毅…果心は、掌から青白く輝く火の玉を浮かべた。そして、石ころのようにその火の玉を暴走族どもに投げつけた。
 …ひゅっ!
 一瞬にして、荒くれ野郎どもは火だるまになった。

闇の中の炎

「何だ!?」
 突然、加奈子とブライティを囲んで走り回っていた暴走族たちが炎に包まれた。
「ギャー!!」
「何だ!?」
「放火だ!」
「焼け死ぬ~!!」
「ひぇえぇぇ~!?」
 二人の乙女たちを囲んで走り回っていた暴走族どもは、炎に包まれた。そこで、誰かが叫んだ。
「ブライティ、加奈子に乗り移って飛べ!」
 知らない男の叫びが聞こえ、ブライティは消えた。そして、加奈子はその場で飛び上がった。
「きゃっ!」
「果心さん、サンキュー!」
 加奈子はまたブライティに体を乗っ取られた。一体化した二人は、暴走族の輪から飛び上がって逃れた。加奈子の脳内でブライティの声が響く。
「果心さんは本物の火を使う事もあるけど、あれは幻だ。さあ、早く逃げよう!」
 ブライティが乗り移っている加奈子はまた走り出した。早く家に戻りたいが、それはブライティ次第だ。加奈子は秀虎が心配だった。
「あ! 一台追ってきている!」
「え!?」
 二人はさらに急いだ。しかし、一台のバイクはしぶとく二人を追っている。
「あいつらを雇った奴、かなりの報酬の約束をしているみたいだね」
 加奈子はブライティの言葉にゾッとした。やはり、「あすかももこ」=浜凛華は裏社会とのつながりがあるのだ。何て事だ。自分はとんでもない相手を敵に回してしまったのだ。
 しかし、今さら後悔してもしょうがない。凛華たちの魔の手から、いかに逃げ延びられるか? 二人はジグザグに道を曲がりながら、追っ手のバイクから逃げたが、バイクはなおもしつこく追いかけてくる。
 さっきとは違って、だんだんと家に近づいているが、しかし、あのバイクの奴をどうにか出来ないだろうか?
「うーん、何とか奴らを追い払いたいけど、手荒な真似は出来ないね」
 ブライティは言う。

「おのれ…くじけてたまるか…!」
 秀虎の意識は、再び目覚めた。
 彼は、再び這い上がった。何としても立ち上がろう。しかし、まだ体の自由が利いているとは言えない。
「うっ!」
 彼は、また倒れ込んだ。
「加奈…!」
 彼が許嫁・加奈と出会ったのは、彼が20歳、彼女が15歳の頃だった。そして2年後、二人は祝言を挙げた。
 二人は仲睦まじい夫婦だった。しかし、なかなか子供が出来なかった。周りの者たちからは妾を迎えるのを勧められたが、秀虎はかたくなに拒んだ。
「他に女はいない」
 当時の武士たちの間では衆道が盛んだったが、彼は他の男たちとそのような関係にはならなかった。「色」をもって権力者に媚びるような男を、彼は軽蔑していた。
 数年後、加奈が妊娠した。秀虎は喜んだが、加奈は元々病弱な体だった。無事に子を産めるかどうか分からなかった。そして、不安は的中した。
 加奈は流産し、病床についた。
「私、死ぬのは怖くはありません。ただ、あなたを残していくのが心配です」
 もうすぐ生命の火が消えかける。それでも加奈は、精いっぱいの笑顔を夫に見せた。
「どうか泣かないで。またいつか、あなたに逢えるはずです」
 またいつか。それは来世なのか?
 加奈は安らかに息絶えた。幸せな夢を見るかの如き微笑みを浮かべて。
 秀虎は、声もなく涙を流した。
「他に女はいない」
 彼は、周りの再婚の勧めを拒んだ。
 そして彼は、北条氏の軍勢を相手に奮戦した。敵将と相討ちになり、息絶えた。
「加奈…!」
 あの太公望呂尚のはからいで、彼は亡き妻の生まれ変わりと再会出来たのだ。たとえ以前の記憶などなくても、彼は今の加奈子を愛していた。
 意識が再び薄れ、彼は倒れた。夢の中で、昔の加奈と今の加奈子のイメージが錯綜する。どちらも最愛の女である事には変わりない。
 闇が彼を包んだ。

「さて、お前らを雇った奴は誰だ?」
 果心は、暴走族たちを尋問した。幻の炎はすでに消えている。もちろん、火傷を負った者はいない。
 その代わり、暴走族たちは果心の魔力で身動きが取れなかった。
「正直に答えないと、本当にお前らを燃やすぞ。答えろ」
 暴走族たちの中には、失禁して泣きじゃくっている者もいる。それぐらいの衝撃だったようだ。
 一人、恐る恐る語り出した。
「お…俺たちの先輩の彼女だった人がいて、その人があの人を始末するようにって、俺らに依頼したんスよ…」
「なるほど、その女の名は?」
「浜凛華さんという人です。『あすかももこ』という源氏名で、そっち方面の仕事をしています」
 果心はため息をついた。
「やはり、あの女か…」
 あの違法風俗店のある雑居ビルから出てきて、ハンバーガーショップでセコい「バニラシェイク詐欺」をしていた、いかにもギャル系ファッション誌の読者モデル風のいでたちの女。熟し過ぎて腐りかけた果実のような色香を放つそいつが、加奈子を陥れようとしているのだ。
 しかし、あの二人には一体何の接点があるのだろう? とりあえず、本人が住んでいる場所に行ってみよう。
 果心は、光の玉になって、飛び出した。残された暴走族たちは、ある者は呆然とし、またある者は失禁しながら泣きわめいていた。
「あの女が住んでいる安アパート…」
 光の玉は、ある安アパートにたどり着いた。木造モルタル2階立て、築20年以上の安アパートである。
 あの女、凛華はこのアパートの2階に住んでいる。
 果心は光の玉の姿のままで、凛華の寝室を覗いた。どこもかしこも散らかっている。いわゆる「汚部屋」だ。まさしく、この部屋の主の殺伐とした心そのままだった。
「あの様子…間違いなく危ない薬をやっているな」
 凛華は、何やら「訳の分からない念仏」を唱えている。自分以外の全ての存在を呪うように。
 それが彼女の心の支え。生きながらにして、彼女は半ば「悪霊」と化していた。

その時、世界は変わった

「あたし以外の女なんていらない。この世に女は、あたし一人だけで十分」
 凛華は母親の家に娘を預けている。母親は、凛華を性的虐待していた再婚相手とすでに離婚しており、今は別の男と暮らしている。
 凛華の母は、娘に対して同じ「女」としてのライバル意識を抱いていた。幼い頃から、並みの成人女性以上の色気を放っていた娘。そして母は娘に対して、自分の中学時代に自分をいじめていた女子クラスメイトの面影を重ねていた。
「あんなババア、いらない。ガキもいらない」
 凛華は一人、アパートの一室で電話を待っていた。
「みんな死んでしまえばいいのに。あたし以外の女どもはみんな」
 全ての男子クラスメイトが加奈子をいじめてはいなかった。中立の立場をとる男子も少なからずいた。そして、密かに加奈子に好意を持つ男子生徒もいた。
 凛華は、それが気に入らなかった。自分以外の女が男にモテる事それ自体が許せない。そもそも、自分以外の全ての女どもが憎いし、加奈子に対するいじめの黒幕も彼女自身だった。
「あたしは自分以外の全ての女どもが嫌い。なぜなら、あたしは正直者だから」
 凛華は汚いやり方で大人の男たちと付き合っていたので、学校の男子生徒がいかにもガキ臭くて好きにはなれなかった。だから、他の女生徒が男子生徒にどれだけモテようがどうでもいいハズだが、母親の嫉妬深さを色濃く受け継いだせいで、彼女は自分以外の女に心を開けなかった。
 自分の取り巻きだった女生徒たちも、しょせんは単なる「道具」に過ぎなかった。
「あたし以外の女はみんな無価値。死んでしまえばいい」
 それにしても、イライラする。凛華は缶ビールの蓋を開け、違法薬物と共に飲み干した。
「なるほど、母親との関係が元凶か…」
 果心は、凛華の部屋から離れた。なるほど、母親が鍵か…。彼は、凛華の母親を探ろうと思った。

「バイク野郎、しつこい!」
 加奈子とブライトムーンはそのバイク野郎から徒歩で逃げている。いや、飛んで逃げている。まるで風と同化したように。ブライティの「運転」は神業だ。誰にも何にもぶつからずに、二人は逃げていた。
 後ろで急ブレーキの音が鳴り、衝突音があった。
 加奈子はようやっと我が家にたどり着いた。荷物はショルダーバッグとリュックサックだけだが、ショルダーバッグは引ったくり対策のためにいつも通り斜めにかけているので、ブライティの「超高速運転」でも落とさずに済んだ。リュックも無事だ。
 ただ、さっきの災難のせいで買い物が出来なかった。一応、冷蔵庫には夕食の材料になるものはある程度は入っているのだが、加奈子は悩んだ。
 ブライティは加奈子の体から離れた。
「それじゃあ、あたしは帰るね。また何かあったら来るけど」
「ありがとう、ブライティ。でも、なぜ私を助けてくれたの?」
「あるお方の命令でね、あなたとヒデさんを助けたの」
「ヒデさんが…?」
「そんじゃーね!」
 ブライティは去って行った。
 加奈子は家に入り、ドアの鍵を閉め、茶の間の明かりをつける。すると、そこには秀虎が素っ裸で倒れていた。
「ヒデさん!?」
「加…奈…?」
「大丈夫? 動けるようになったの!?」
「ああ、かろうじて立てたが、まだ力が元通りではない」
「そうだ、布団を敷いて休まなきゃ!」
「水槽の部屋は水浸しだ。わしが水槽から出ようとして立ち上がったら、倒れて投げ出された」
「だったら、仏壇の部屋に布団を敷くね。待ってて!」
 加奈子は仏間に布団を敷き、秀虎を立たせて、部屋に連れて行った。蘇生したばかりの男の足取りはおぼつかない。加奈子は彼を布団に寝かせた。
 加奈子は早速夕食作りに取りかかった。もう午後十時近くだから、むしろ夜食だ。彼女は非常用として買っておいたレトルトパックのお粥を開けて、鍋に入れ、卵や缶入りのツナなどを開けて混ぜて温めた。
 秀虎は上半身を起こし、お粥を食べた。今まで通り、加奈子がスプーンですくって食べさせた。食後の歯磨きも、今まで通りに彼女が磨いた。
 秀虎が横になっている間に、加奈子はびしょ濡れの部屋の始末をした(つけっ放しのラジオの電源も切った)。雑巾で吹いては絞って汚水を風呂場の排水溝に捨て、終わった頃にはすでに日付が変わっていた。
「まあ、休みだからいいか」
 加奈子は秀虎の布団の隣に自分の布団を敷いて、明かりを消して布団に潜り込んだ。今までと変わらない。そう思っていた。
 ふと気づくと、秀虎の手が彼女の手を握っていた。秀虎は彼女の掛け布団をめくり、彼女の布団の中に入ってきた。
「加奈…お前がほしい!」
 秀虎は加奈子の唇にキスをした。

「この応募作品、パクリですよ」
「どれが?」
「この『あすかももこ』というペンネームの応募者ですが、これそっくりの話を小説投稿サイトで読んだ事があります」
「その投稿サイトの投稿者自身ではないのか?」
「あすかももこ? どこかのフーゾク店のサイトにそんな源氏名の女が載っていたぞ」
「鈴木さん、ひょっとしてその店に…」
「バカ、サイトを見ただけだ」
「まあ、いずれにせよ、最終選考は審査員の先生方の判断だよ。ところで、この『恋愛栽培』という小説なんだけど…」
「女神とジャズピアニストの卵の話か?」
「この小説はなかなかのものだと思うよ」
「まあ、あくまでも最終選考の先生方次第だよ」

 新人賞の審査員の一人、樽川るい子は大物作家であり、バイセクシュアルであるのを公言している未婚の母である。そう、彼女は加奈子の親友若菜の母親だった。
 彼女は加奈子の応募作『恋愛栽培』を読んでいた。
「この子、だいぶ書き慣れてきたわね」
 るい子は、以前も何作か加奈子の応募作を読んでいる。そして、今回の小説は今まで以上に完成度が高い。
 しかし、加奈子は自分の娘の幼なじみであり、加奈子の小説を推薦するのはえこひいき扱いされる恐れがある。とは言え、これを落選させるのは忍びない。
「せめて特別賞をね…」
 新人賞の最終選考は、いよいよ大詰めだった。
 他にも「強敵」は少なからずいる。しかし、例の「あすかももこ」などは敵の名にも値しなかった。彼女の「パクリ投稿」は、真っ先に脱落した。そもそも、彼女は単に加奈子に「勝ちたかった」だけである。元々作家になりたいという夢などなかったし、そもそも「こうなりたい」という理想自体がなかった。
 彼女は今も、違法薬物に溺れながらも加奈子を呪っている。他に何もやる事はない。
 何しろ、彼女が関わった男たちはほとんど逃げてしまったのだ。

二人の新世界

 目覚めたのは昼近く。加奈子は秀虎に抱きしめられながら眠っていた。たくましい体が温かかった。
 夢ではなかった。体の感覚やその他諸々の状況からして、現実だ。加奈子は顔が真っ赤になった。まさか、そんな事になったなんて…。
「お前が元の加奈の記憶を持っていなくても構わない。わしはお前が好きだ!」
 私も大好き。加奈子も答える。
「ヒデさん、立てる?」
「うん、立てる」
 加奈子は風呂場の掃除をし、湯船にお湯を満たした。ヒデさんは立ち上がり、風呂場に入った。
「このスポンジとボディソープの使い方はね…」
 加奈子は秀虎にシャワーやシャンプーなどの使い方を教えてから、朝食…いや、昼食を作った。その間に、洗濯機が汚れたシーツや布団カバーなどを洗っている。
 じいちゃんの服があって良かった。秀虎の身長は、亡き祖父や涼子よりもやや高いくらいで、そんなに服はきつくも緩くもないだろう。生前の祖父はオシャレな人だったから、若い秀虎が着てもおかしくない服が残っている。
 電話が鳴った。倫からだった。
「加奈姉ちゃん、これからサユと一緒にそっちに行くけど、いい?」
 そうだ、ちょうど良かった。秀虎について色々と相談したい事がある。
「ちょうど良かったわ。今、ヒデさんはお風呂に入っているんだけど」
「お風呂って…ひょっとして、元の体に戻ったの!?」
「うん」
 そう、これからが本番だ。秀虎が「社会復帰」するためにも、色々とやるべき事はあるのだ。
「あのね、倫。ヒデさんの服とか買いたいのね。付き合ってくれない?」
「服? ああ、いいよ」
 加奈子は駅前のショッピングモールで、ヒデさんの服や靴などを買おうと考えていた。秀虎には、それまでは祖父のお下がりで我慢してもらう。

「いい湯だな」
 湯船に浸かりながら、秀虎は思う。夕べは加奈子のみずみずしい体に触れる事によって、生命力が完全に蘇ったのだ。
 何もかも懐かしい感触。彼は湯船の中で手足を伸ばした。
 間違いない。自分の肉体は、生前同様に蘇った。秀虎は微笑んだ。
「そうだな。今の世の男のように、髪を切ってみようか?」
 もう戦国の世ではない。今の世の中にふさわしい格好。自分にも似合うだろうか?
 秀虎は風呂から上がった。加奈子は、秀虎が服を着るのを手伝った。長い髪を乾かすのには多少時間がかかったが、乾かし終えてからは、無地の黒いリボンで髪を一つに束ねた。
「ご飯…ちゃんと箸は持てるよね」
「うむ、何の問題もない」
「私もシャワーを浴びるから、先にご飯を食べててね」
「分かった」
《ピンポーン!》
 倫と小百合が来た。二人は、倫の母・美佐子の車を借りてきた。秀虎の服などを買い出しに行くためにも、車が必要だからだ。
「おはよう、いや、こんにちはかな? あれ、加奈姉ちゃんどうしたの?」
「いつもと様子が違う…?」
 加奈子は返事に困ったが、二人と秀虎を茶の間に待たせて風呂場に向かった。とりあえず、身支度をしなければ。湯船に浸かる暇はない。シャワーだけ。
 倫と小百合は、夕べの加奈子と秀虎がどうしたか、当然察しがついていた。しかし、さすがに何も言えない。
 倫は、テレビのリモコンを手にした。加奈子の身支度が整うまで、暇つぶしをするしかない。
「何だ、つまんない番組ばっかだな」
「代わりに本でも読んだ方がいいな」
「ヒデさん、元の体に戻ったから、自由に本を読めますね」
「うむ、そうだな」
 元の体に戻ってからの、初めての外出。自動車というものに乗るのも初めてだ。
 秀虎はますます、この現代社会に対する好奇心を高めた。

 加奈子はシャワーを浴びて、髪を乾かした。秀虎と倫と小百合は茶の間で待っていた。
 ショッピングモールに行く前に、加奈子たちは秀虎の髪を切るために親船の美容院「マザーシップ」に行った。
「本来、ヒゲは美容ではなく理容の分野だけどね、今回は特別ね」
 親船正章は熟練した腕で秀虎の髪を切り、ヒゲを整える。秀虎の男前ぶりがますます引き立つ。これで現代人男性らしくなった。
「カッコいい!」
「あとは服や靴だね!」
 加奈子たち四人は駅前のショッピングモールに行き、メンズブティックに入った。秀虎は戦死した時には32歳だったというから、30代男性に合うブランドの服を選んだ。
「ヒデさん、かっこいいッスよ!」
 靴屋で新しい靴を買う。フォーマルな革靴と、普段履けるカジュアルな靴とだ。
 加奈子はさらに、ファストファッションの店で、秀虎用に何着か普段着や下着などを買う。すでにかなりの量を買ったので、今日はここまでにしよう。祖父母の遺産が、こんなところで役立ったのだ。しかし、あまり無駄遣いは出来ない。
 四人はスーパーで食材などを買いだめし、倫の車に荷物を詰め込み、家に戻った。倫は免許を取り立てなので、加奈子はちょっと不安だったが、そのうち本人も加奈子自身も慣れるだろう。
「昨日、近くで事故があったけど?」
「バイクがトラックにぶつかったって」
 あ…あのバイク野郎が…。加奈子は思い出す。そうだ、私を狙っていた奴らがいたんだ。もしかすると、ヒデさんも狙っているかもしれない。
「私、昨日、ストーカーらしい誰かに追いかけられたんだけど、知らない女の子に助けられたのね」
「何? それはまことか!?」
 秀虎の顔色が変わった。
「その女の子は、ある人の命令で、ヒデさんと私を助けているって言ってたの」
「その『ある人』とは、太公望呂尚殿ではないのか?」
「え!?」
 呂尚…って、殷周革命の軍師? 釣りをしていたおじいさん? 加奈子は驚く。そういえば、以前秀虎が太公望呂尚が云々と言っていたのを思い出した。
「わしはかの御仁から、お前に世話をされるように言われたのだ。呂尚殿は、ある計画のために我々を必要としているらしい」
「計画…?」
「それが何かは知らぬ。だが、かの御仁は、そのために我々を引き合わせたのだ」
 加奈子はあの箱に入っていた秀虎の頭蓋骨を見て失神したのだが、謎の老人の呼びかけで目が覚めた。その人物、すなわち太公望呂尚の企みで、彼女は秀虎を蘇らせたのだ。

毒の系譜

「蓮華院秀虎、19XX年5月5日、神奈川県X市生まれ。最終学歴は、倫と小百合の大学の法学部」
 呂尚は、秀虎の「現代人」としての肩書きの工作をしていた。市役所などでの市民のデータベースには、すでに秀虎の存在が刻み込まれている。住民票なども出来上がっている。あとは、ブライトムーンと一緒にあの二人の家に行って、二人に知らせよう。
 ちょうどそこに、果心がやって来た。相変わらずのロック野郎スタイルのいでたちだが、何だか表情がさえない。
「先生、まだまだ安心出来ませんよ」
「果心、どうした?」
「まあ、あまり派手にやり過ぎると、私自身が悪霊扱いされて討伐対象になってしまいますけどね。加奈子を狙っている奴らを叩くべきですよ」
「ほほう」
「黒幕の女のアパートを覗いてみたら、そいつは違法薬物を使っておりましてね。これはいい材料ですよ」
 果心は消えた。
「やれやれ、あまりムチャするんじゃないぞ」

 凛華の母・浜凛子(はま りんこ)は、孫の泣き声にイラついていた。まだまだ「女」として現役バリバリの彼女自身は、まだ40歳前後の「若いおばあちゃん」である。当然、「おばあちゃん」扱いされるのを快く思わない。ましてや、この孫娘の母親は、自分にとっては「毒娘」なのだ。
 十代の若気の至りでの、望まぬ妊娠と結婚の結果生まれた娘の、そのまた娘。それだけでも十分忌々しいのに、凛華はこの孫の世話を自分に押し付けた。
「あ〜ぁ、馬鹿馬鹿しい」
 今、自分と一緒に暮らしている男もまた、この子を邪魔者扱いしていた。この子の身体中にはあざがいくつかあった。そんな孫娘を尻目に、凛子はタバコをふかして酒を飲んでいた。
「さて、児童相談所に連絡…」
 果心は携帯電話を取り出した。児童相談所だけではない。「あの女」についてのタレコミも必要だ。

 加奈子ら四人は、家に戻ってくつろいでいた。スーパーでの食材買い出しにも邪魔が入らず、四人は買い物を済まして、無事に帰宅出来た。
 倫は「せっかくヒデさんが全快したのだから、お祝いとして寿司の出前を注文しよう」と提案したが、秀虎自身は(遠慮がちに)カレーを食べたいという。
 加奈子は台所でカレーを作り始めた。しかも、秀虎が特に好きなポークカレーだ。それに、何か出前を頼んでも、配達する人が事件に巻き込まれるのはまずい。
「こうして実際に外に出ると、実に面白い」
 秀虎にとって現代社会とは、一つのテーマパークのようだ。見るもの全てが新鮮。もし仮に、好奇心豊かな彼がもっと後の時代に生まれていれば、普通の武士ではなく学者になっていたのかもしれない。
 ただ、松平定信の「寛政異学の禁」の時期はダメだろう。定信はある漫画では女性として登場しているが、加奈子はあるコミュニティーサイトで、その女性版松平定信に似た性格の女とケンカ別れしている。ただし、その女は「あすかももこ」とは別人だ。第一、ももこはその女ほど潔癖な性格ではないのだ。
「あすかももこ」。加奈子は問題のあの女が昨日の暴走族連中を操っていたらしいと推測するが、肝心の本人がどうしているか気になる。
「今の仕事で、昔のわしらのような仕事と言えば、自衛官があるけど、なるべくならば、少しでも加奈と一緒にいられるように時間がほしいのう。何か良い仕事はないだろうか?」
 秀虎の言う通り、社会復帰などの問題もある。当人の体が完全再生したからには、これからの二人暮らしが難しくなる。
 もし、当人に健康上の問題があったら、医療費などの問題もある。そもそも加奈子一人だけでもその辺の問題は心配だ。ましてや、秀虎に現代人としての戸籍がないならば、色々と不便だ。
 そう、二人の問題はまだ始まったばかりなのだ。

「あたし以外の女は絶対悪、あたしだけが聖女なのよ! 女神なのよ!」
 明るい茶色に染めた髪を振り乱し、女は叫ぶ。黒々と燃える神懸かり。赤々と流れる精神の血。しかし、それは強烈な腐臭を放っている。
「あのバカ女、地獄へ落ちてしまえ!!」
 今頃あの女…作家志望の花川加奈子は、さんざん暴走族どもになぶりものにされて死んでいるハズ…。凛華は寝ぼけ眼でニンマリした。
 しかし、あの女を片付けた連中への報酬はどうしようか? 凛華はかなりの金額を違法薬物に注ぎ込んでいた。
 踏み倒す…いや、無理だ。そもそも今の自分の仕事だって、元旦那の借金返済のために暴力団に強制されたものだ。自分が薬漬けになったのだって、逃げられないために薬を使われたからだ。
 凛華は、眠気が吹っ飛んで震え上がった。
《ピンポーン!》
 誰か来た! 薬を見られたらマズい。
「警察署の者です」
 クソッ、何てこった! 凛華は急いで薬をベッドの下に隠した。それにしても、一体誰が自分をチクったのだろうか? もしかして、誰か裏切ったのだろうか?

「よし、奴は連行された。後を追おう」
 果心は光の玉になり、逮捕された凛華を載せたパトカーを追った。
 今までの経緯からして、浜凛華という女は十二分に同情するに値する女である。しかし、その精神は徐々に「悪霊」化していっている。放っておけば、何をしでかすか分からない。
「やはり、俺の勘が当たりそうな予感がするな…」
 悪霊を断ち斬る魔剣。その気になれば、一つの都市や艦隊を攻撃して打ち負かす事すら出来る黒い魔石を柄に組み込んだ剣。まさしく、あのオフィスの主人が言う通り、現代の武器で言えば核ミサイル級の危険物だ。
 この剣で斬られた悪霊は、霧散して消え失せる。これらによって魂がこの世から消え去った者たちは少なくない。
 この剣が「魔剣」となったのは、あのオフィスの主人が生前に自害に使ってからの事である。彼らの「祟り神」としての魔力が黒石と刃に宿り、この剣は無敵の凶器と化した。
留置場(豚箱)…そう簡単に自殺するようなタマではないとは思うが、どうかな?」
 果心はため息をついた。

魔を断つ剣

「ごちそうさま!」
 加奈子たちの今日の夕食はポークカレーだ。これは秀虎の好物だ。彼ら四人は、茶の間でバラエティー番組を観ていた。秀虎は言う。
「どうもお笑い番組というのは、芸人同士の派閥争いの匂いがするのだな」
 倫は言う。
「確かに雑誌とかネットとかでもそういう噂はありますもんね」
 小百合は言う。
「どうせ、単なる噂でしょ? ガセネタかもしれないじゃない」
《ピンポーン!》
 誰か来た。
「はーい!」
 加奈子は玄関へ向かった。
「例の刺客か!?」
 秀虎がついて来た。
「加奈さん、ブライティだよ。先生もいるよ」
 加奈子は恐る恐るドアを開けた。ブライティと一緒に、背が高く上品そうな老紳士がいた。
「太公望殿か」
「おお、秀虎よ。完全復活したな」
 加奈子と秀虎は来客二人を家に迎えた。

「果心の調べによると、あの女は暴力団と関わりがある」
 あの女…凛華の事だ。
 太公望呂尚を名乗る老紳士が言うには、彼女の家では今頃、警察が違法薬物所持の疑いで家宅捜索をしているらしい。他にも、彼女とつながりのある暴走族や暴力団事務所にも家宅捜索が入っているという。
 加奈子は寒気を覚える。私はとんでもない連中を敵に回していたのね。
「秀虎よ。おぬしの戸籍やその他諸々をこしらえてやったぞ。倫の大学の先輩という経歴なども作っておいたし、これで車の免許を取れるし、就職活動も出来る。まあ、嘘も方便だな」
「…あ、ありがとうございます!」
 加奈子は思い切って、老紳士…呂尚に尋ねた。
「なぜ、ヒデさんを復活させたのですか?」
 呂尚は言った。
「宇宙開発とは何のためにあるのかね? そう、人口問題のためだ。『ガンダム』のようなアニメは、人口問題が元になっておる。私が主役になっている『封神演義』のような物語もあるし、トロイ戦争の発端となった黄金のリンゴの話もある」
 何だか壮大な話になってきた。さらに続く。
「『ガンダム』みたいにスペースコロニーを作るという手段もあるが、それでも限界はある。そのためにも、新天地を目指すためにさらなる文明の進歩が必要なのだ」
 倫が言う。
「つまり、俺らのいる太陽系を脱出して、新たに植民出来る惑星を探す必要があるのですね? それでノアの方舟みたいな宇宙船が必要なんですね」
 呂尚はうなずく。
「そうだ。この地球(ほし)には寿命がある。そのために、新たに『ノアの方舟』を作る必要があるのだ」
「それで、なぜ私たちがその計画に選ばれたのですか?」
「そなたらの血から生まれる頭脳が、この計画には必要だからだ」

 凛華は留置場にいた。彼女は一人、加奈子への憎しみを一層つのらせていた。
 花川加奈子、「平凡な幸せ」で満足出来る女。しかし、自分にはそれすら与えられなかった。
 凛華は一部のクラスメイトを操って、何度となく加奈子を陥れようとしたが、加奈子の親友たちが彼女を守った。不動涼子と樽川若菜という二人の人気者たちが加奈子を守っている限り、凛華は加奈子に決定的なダメージを与えるのは不可能だった。
 あの二人も憎かった。凛華は彼女たちを仲違いさせようと策略を練ったが、自分自身のトラブルのせいで果たせなかった。
 もし自分が何もかも「恵まれた」家庭に生まれ育っていたならば、加奈子ごときは敵ではなかった。加奈子よりずっとランクの高い大学に進学して、卒業後は一流企業に勤めていたハズだ。
 そうこう考えているうちに、自分の母親とその同居人の男も逮捕されたと知らされた。凛華の娘に対する虐待が理由だった。
 凛華には、母親にも娘にも全く愛情がなかった。凛華が愛しているのは凛華自身だけ、凛華を愛しているのもまた、凛華自身だけ。彼女は、何もかも虚しくなった。
 彼女はブラウスを脱ぎ、袖を自分の首に巻いた。

「いかん! 自殺したか!?」
 果心は驚いた。留置場の個室の窓から飛び出した凛華の魂を追って、彼も光の玉になって飛び立った。
「あの女、悪霊になってまでもやる気か!?」
 果心は舌打ちした。
 青白い火の玉が、花川家を目指す。果心は火の玉を追って飛んでいるが、意外と敵は速かった。
「呂先生とブライティ、何とか踏みとどまってくれよ」
 果心は、呂尚とブライトムーンが加奈子の家に留まっているのを期待した。
「子胥殿から借りたこいつがあって良かったぜ」
 彼の手には、黒い鞘に収められた剣があった。

「先生、嫌な予感がするよ」
 ブライティが言った。呂先生はうなずいた。
「今夜は泊めてもらおう。いや、見張らせてもらおう」
 倫と小百合とブライトムーンと呂尚。加奈子の家に四人も客が泊まるとは、祖母が亡くなって以来初めてだ。
 来客たちの申し出からして、何かただ事ではない事態があるのだ。
「む、あれは!?」
 秀虎が指差した先には、青白い人形(ひとがた)の光があった。
 浜凛華!
 女の形の鬼火。髪を逆立てて、憤怒の形相でそこにいる。
「マジかよ…幽霊だなんて」
 倫も小百合も顔面蒼白になっている。加奈子は思い切って、その鬼火に声をかけた。
「あ、あんた、留置場にいるんじゃないの!?」
《お前を殺す! 地獄に落とす! 食い殺す!!》
 ヒステリックな女の叫び。まさしく狂気じみている。
 秀虎が加奈子を守るように、凛華の悪霊に立ちはだかった。
「加奈に手を出すな!」
《あたしの邪魔をする奴はみんな敵だ! 死ね!!》
 凛華の茶髪は、ギリシャ神話のメデューサのように、蛇状にもつれて揺らめいていた。両目はカッと開き、口は耳元まで裂けて大きく開いている。
 その時、あの暴走族から加奈子らを助けた男の叫びが聞こえた。
 見上げると、その男が天井に張り付いている。まるで忍者みたいだ。
「秀虎! こいつを使え!」
 あの男、果心居士。彼は一振りの刀を秀虎に投げ渡した。
 黒い鞘に収められた刀。いや、日本刀とは違う形の剣だ。その柄には、ピカピカに磨き上げられた黒い石がはめ込まれている。

属鏤(しょくる)の剣」

「そいつの魔力なら奴をぶった斬れるぞ! そいつを使って自害したお方の魔力が込められているからな!」
 秀虎は剣を抜き、迷わず青白い光をぶった斬った。
《ギャッ!?》
 凛華の亡霊は真っ二つに切り裂かれ、無数の青白い光の粒子になって、消え去った。

ジューンブライド

 中国南部・浙江(せっこう)省X市。果心は借り物を返すために、ここに来た。彼は日本人「井桁毅(いげた つよし)」名義のパスポートで、飛行機に乗って中国に上陸した。
 彼の魔力ならば、飛行機にただ乗り出来るハズだが、今回はあえて「一般人」として搭乗した。
 もう11月だ。加奈子と秀虎はすっかり仲睦まじい夫婦になっていた。呂尚の「戸籍工作」などのおかげで、二人はすでに入籍していた。
「来年の6月、華々しく結婚式か…」
「ジューンブライド」、それは結婚の女神ジュノーの祝福を受けた花嫁である。

「子胥殿、約束通り返しに来ましたよ」
「おう、来たか淮陰(わいいん)
 アルマーニのスーツに身を包んだその男は、40歳前後と思われる年格好だった。精悍な顔立ちで堂々とした体格の偉丈夫だ。
 伍員(ご うん)、字は子胥(ししょ)。春秋時代末期の呉の宰相だったが、無実の罪で自害を命じられた。
 果心=韓毅が返しに来たのは、子胥が自害に用いた剣である。そして、彼は父・韓信の出身地にちなんで「淮陰」と呼ばれる事がある。
「呂先生は元気か?」 
「相変わらず元気ですよ」
 伍子胥は死後、祟り神として祀られたが、呂尚の誘いで「人類の進化を司る神々」の集団に取り込まれた。彼は今、とある雑居ビルの一室にオフィスを構えている。表向きには、自分自身の子孫という事になっている人物の名義で、この一室を借りている。
「なるほど、その女はそれなりに同情する余地があるな」
「まあ、確かにそうです。しかし、手の付けられない悪霊に進化する前にぶった斬って正解でしたよ」
「魂が切り裂かれて粒子になり、再び結晶しても、また悪意と悪運にまみれるとは限らない」
 伍子胥は、30センチ四方の箱を戸棚から取り出した。
「何ですか、これは?」
「アスタルテの百合だ。これをあの二人に結婚祝いとして贈れ」
 女神アスタルテの霊力が宿った百合の花の球根。この花が家を守るのだ。
 アスタルテの名前で果心は思い出した。加奈子が応募した小説新人賞で、彼女の作品が入選したのだ。
「なるほど、これは加奈子にとって特に縁起物ですね」
「お前ら、食うなよ。あくまでも栽培用だ。食えない訳ではないが、大切な魔除けだからな」
「分かりましたよ。本人たちに伝えておきます」

 果心が去ってから、ひょろひょろした長身の男が奥の部屋から出てきた。
 孫武(そん ぶ)、字は長卿(ちょうけい)。いわゆる「兵法の神様」孫子である。彼は、生前の同僚伍子胥と共に「春秋探偵事務所」を経営している。
「『リーサル・ウェポン』が戻ってきたね」
「ああ、冷や汗ものだよ」
 孫武は台所でお湯を沸かし、ハーブティーを淹れた。
「この淮陰のお土産、マルセイバターサンドっておいしいね」
「『淮陰のお土産』という言い方は紛らわしいが、なぜ、北海道の土産物なのかが分からんな」
「いいじゃん。クリームに入っているレーズンの割合がちょうどいいから、レーズン嫌いでも『これだけは別格』という人はいるみたいだよ」
 かつての知将たちのティータイムは、平和そのものだった。

 6月、大安吉日。加奈子と秀虎は結婚式を挙げた。
 加奈子の伯父・真一や叔母・美佐子を始め、親戚たちが来た。もちろん、倫と小百合も一緒だ。ドイツに住んでいる母方の従兄「マッちゃん」ことマティアス・博之(ひろゆき)・ホフマンも来てくれた。さらに、加奈子の友人代表として、涼子や若菜、それに茨戸さやかや親船正章らも来てくれた。そして、若菜の母親・樽川るい子も来た。他には出版社の人たちもいた。
「将来の直木賞候補かぁ~」
 いえいえ、滅相もない。
 それはさておき、秀虎側の招待客の中には、呂尚やブライトムーン、果心居士がいた。他の招待客は知らない人間ばかりで、秀虎ももちろん知らない。ひょっとして、果心の幻術か? 加奈子は思ったが、果心の「現代人」としての仕事仲間も何人かいるらしい。どうやら音楽業界の関係者のようだ。
 披露宴でのブーケトスは、小百合が受け止めた。多分、果心が気を利かせてコントロールしたのだろう。
「あら、涼ちゃん惜しかったね」
「まあ、あの人も私も忙しいから、まだまだ考えられないね」
「あの人」とは涼子の恋人だ。加奈子は果心から涼子の実家について興味深い話を聞いた。実は不動家は、秀虎の剣術の師匠だった人の子孫だという。そして、涼子の実家は剣道の道場だ。
 秀虎はこの道場に通っている。そして、涼子の恋人・厚田恭介(あつた きょうすけ)と仲良くなった。もし、一人っ子の涼子が恭介と結婚するなら、恭介が婿養子になる可能性が高い。幸い、恭介は一人っ子ではない。
 新郎側の招待客の中に、新人漫才師コンビがいた。この二人がネタを披露しているが、加奈子は意外と面白いと思った。お笑い芸人に対しては厳しい秀虎も笑っている。もしかすると、あの漫才師たちは将来売れっ子になるかもしれない。
 ただ、加奈子は思う。
「流行語大賞などで悪目立ちしないでほしいな。あのイベントで優勝した芸人は、単なる消耗品に成り下がる場合が多いからね」
 結婚は決して「ゴール」ではない。あくまでも「スタート」だ。自分たちの道のりは、まだまだ続くのだから。
 高校の文芸部の顧問だった志美先生が、新婦・加奈子に声をかけた。
「私の教え子の中では、あなたが一番の出世頭ね!」
 志美先生の親友である大物作家・樽川るい子もうなずいた。

A Perfect Sky

 かつて人間は二種類いた。
 一方は地上で産まれる「陸の子」、そしてもう一方は海から産まれる「海の子」だった。
 田常(でん じょう)という名の男がいた。彼は中国・春秋時代の大国・斉の宰相だった。
「ほほう、今度は女の子、しかも一度に二人も産まれたのか」
 田常の屋敷には奇妙な噂があった。彼は国中から背の高い女を集めて、自分の後宮に入れており、さらに客人たちが密かに後宮に出入りしているのを黙認していたという。
 そして彼の死後、多くの子供たちが残された。
 実は彼は、斉の海で産まれる赤ん坊たちを後宮の女たちに育てさせていた。
 女たちの中には実際に、噂通り他の男と密通して子を産んだ者もいただろう。しかし田常はそれをとがめなかったし、正妻やお気に入りの愛妾たちは他の女たちとは別に隔離していた。
 波から虹色の泡が生じ、海の息子や娘たちは産まれる。赤ん坊たちは波に運ばれ、地上の人間に拾われる。
 しかし、人間たちに拾われない場合は、再び泡になって消えてしまう。
 田常の後宮の女たちの中にも「海の娘」たちはいた。そして、屋敷を警護する宦官たちの中にも「海の息子」たちはいた。
 田氏一族が強力な存在になったのは、「海の子」たちの血と活力を取り込んだからでもあった。
 母なる海から産まれる、健やかな子供たち。海の活力から生み出される彼らは「陸の子」以上に優れた資質の者が多かったが、彼らと「陸の子」との間に産まれた子供たちもまた、優れた資質を持っていた。
 田常の子孫は簒奪者になったが、斉は強国であり続けた。彼らの子孫として、孟嘗君(もうしょうくん)田単(でん たん)田横(でん おう)らがいた。
 他に「海の子」たちの血を取り込んだ一族として、ブリテンのペンドラゴン王家と「湖の貴婦人」一族がいた。
 その「湖の貴婦人」一族の出身であるドルイドのマーリンは言う。
「アヴァロンへの道は誰も知らない」
 しかし、いつかはたどり着く。そのためにも、人類はたゆまぬ努力を積み重ねてきたのだから。
「完璧な空」を見上げて。
 人類の「宇宙航海日誌」は、まだ始まってはいないが、緑の星アヴァロンは待っている。
 英雄たちの物語を。

 あれから一年。7月下旬になり、花川家改め蓮華院家の庭では、果心から結婚祝いとしてもらった百合の球根が見事な花を咲かせている。きれいな白い花はそよ風に揺れ、カサブランカにも負けない、魅惑的な香りを放つ。加奈子は果心に言われた通り、庭だけでなく石垣の四隅にもこの百合を植えている。果心曰く、この百合の花が我が家を守るお守りなのだ。
 秀虎は車の免許を取り、就職した。駅前の書店の正社員だ。彼は悪戦苦闘しつつも地道に「現代人」として頑張っている。以前、加奈子の父や祖父が乗っていた車をしまっていた車庫には、秀虎の愛車がある。
 加奈子はこの車庫の周りにも、例の百合を植えている。
 倫と小百合は無事に大学を卒業し、無事に就職先が決まった。
 涼子は恭介との結婚が決まった。加奈子のブーケを受け取った小百合より先に結婚が決まったが、倫と小百合は就職して間もないから仕方ない。
 若菜は勤め先の副店長になった。そして、彼女の恋人・茨戸さやかの漫画がもう一つアニメ化が決定した。こちらは普通の少女漫画で、主人公たちのお人形が発売される可能性があるらしい。もし実際にそれが発売されたら、今も人形オタクである加奈子はそのキャラクタードールを買うつもりだ。
 加奈子のデビュー作『恋愛栽培』は、そこそこ売れた。そして、彼女は今、紅葉山不動産を退職して、家で執筆中である。
 彼女はデビュー前に書きためたブログの記事などを推敲し、小説やエッセイとして整理した。それらは雑誌に掲載され、書籍化された。

 加奈子のお腹の中には、秀虎の子がいる。さらに、検査ですでに男の子だと分かっている。その子の名前はすでに決まっている。秀虎の名前から一字取って「虎之介(とらのすけ)」と名付ける予定だ。フルネームは「蓮華院虎之介(れんげいん とらのすけ)」。かなり凄みのある名前だが、秀虎は蓮華院家を再興出来て嬉しいだろう。
 予定日は、来月。もうすぐだが、まだ百合の花が咲いている時期だ。
 加奈子はBONNIE PINKのベストアルバムを聴きながら、窓を開けて空を見上げる。「完璧な空」。快晴だ。
「次回作は何を書こうかな?」
 SFにしようか? サスペンスにしようか? それとも恋愛ものか? 産休中はエッセイの執筆しか出来ないが、赤ちゃんが産まれて一段落したら、雑誌連載の小説のオファーを引き受けよう。
 女神アスタルテの霊力を宿す百合の花が香る。香りは風に乗って、街中に広まる。女神の祝福が、この街を包む。
 この「完璧な空」の下で、加奈子は幸せだ。

終章

「いい天気だ。安産日和だな」
「早く赤ちゃん見たいなぁ~」
 呂尚はブライトムーンと一緒に、産婦人科のロビーにいた。もうすぐ、秀虎と加奈子の息子が生まれるのだ。
 秀虎は、分娩室で加奈子の出産に立ち会っている。これは、かつての秀虎の時代では考えられなかった事だ。倫と小百合は、分娩室の前のベンチで待っている。
「呂先生、まだですか?」
 果心が来た。英国の有名パンクロックバンドのTシャツに、黒のジーンズという姿だ。
 普段の彼は、スタジオミュージシャンの仕事をしている。そして、ギターケースにしまっているギターも単なる楽器ではなく、何らかの魔力を秘めたものである。
「赤ん坊の魔除けはどうしましょうかね?」
「とりあえず、産着だな。すでに用意している」
《…オギャー! オギャー! オギャー! オギャー!…》
 産まれた!
「やったー!」
 加奈子と息子・虎之介の病室には、秀虎、倫、小百合、果心、ブライトムーン、そして呂尚がいた。
「おめでとう!」
「みんな、ありがとう」

 呂尚は、果心とブライトムーンを連れて、病院の屋上に出た。
「秀虎は泣いて喜んでいた。何百年ぶりの嬉し泣きか」
「それより先に、加奈子と…」
「何だって?」
「…いや、何でもありません」
 アスタルテの百合は、まだ咲いている。花が芳香と共に発する女神の霊力は、蓮華院家だけでなく、この街全体を護っている。花が咲き終わっても、球根は護符の役割を保つ。
 加奈子が入院中、涼子や若菜やさやかが来た。紅葉山夫妻も来た。そして、加奈子がエッセイの連載を休んでいる雑誌の担当編集者らも来た。
 数日後、母子は退院した。二人とも、いたって健康だ。

 加奈子は、それまでの人生を振り返る。
「学校でいじめられていた頃には、こんな幸せなんて考えられなかった」
 何しろ、義務教育時代の彼女が漫画家志望だったのは、男子クラスメイトにいじめられて男性不信になっていたからである。つまりは、生涯独身でいる覚悟があったから、手に職をつけようと思ったのだ。しかし、今は、誰よりも信頼出来る人がそばにいる。
 小さな球根が芽を出し、みるみる成長して大輪の花々を咲かす。花々は優美な芳香を放ち、南風が香りを運ぶ。
 二人は手をつなぎ、雲一つない「完璧な空」を見上げる。希望の糸を導く光と風、女神の祝福は天に昇る。
 赤ん坊は幸せいっぱいの寝顔で眠っている。生まれたばかりの子供にとって、世界は実に大きく豊かだ。
「ありがとう、ヒデさん。あなたに会えて本当に良かった」
「わしもだ、加奈。お前には本当に感謝している」
 秀虎と加奈子は、抱き合って口づけをした。

花川加奈子の周辺

 花川(蓮華院)加奈子(はなかわ/れんげいん かなこ)…愛称は加奈。作家志望の平凡な女性。後にプロデビューする。

 蓮華院秀虎(れんげいん ひでとら)…蘇った戦国武将。愛称はヒデさん。加奈子の夫となる。書店員。実は「最後の斉王」田横(でん おう)の遠い子孫(田横の息子が徐福(じょ ふく)に連れられて日本に渡った)。

 蓮華院虎之介(れんげいん とらのすけ)…加奈子と秀虎の長男。

 蓮華院奈々(れんげいん なな)…加奈子と秀虎の長女。

 蓮華院ジョン太郎(れんげいん じょんたろう)…蓮華院家の愛犬。白いオスの雑種犬。名前の由来は秀虎の戦国時代での通称「舜太郎(しゅんたろう)」。

 蓮華院トム次郎(れんげいん とむじろう)…蓮華院家の愛猫。黒いオスの雑種猫。名前は兄貴分ジョン太郎に合わせて付けられた。

 花川倫(はなかわ りん)…加奈子の従弟。

 花川美佐子(はなかわ みさこ)…倫の母。加奈子の叔母。歯科医。ホラー映画が大の苦手。当人曰く「ホラーは性悪説に基づいているから嫌い」。

 桐野小百合(きりの さゆり)…倫の恋人、後に妻。愛称はサユ。ケータイ小説を書いている。

 不動涼子(ふどう りょうこ)…加奈子の幼なじみで親友。愛称は涼ちゃん。長身のクールビューティ。

 厚田恭介(あつた きょうすけ)…涼子の婚約者。愛称は恭さん。

 樽川若菜(たるかわ わかな)…加奈子の幼なじみで親友。愛称はワカ。ロリータファッションブランドの店員。レズビアン。

 樽川(たるかわ)るい子…大物作家。バイセクシュアルの未婚の母。若菜の母。

 志美順子(しび じゅんこ)…加奈子の高校時代の担任教師。るい子の親友。

 茨戸(ばらと)さやか…漫画家。若菜の恋人。レズビアン。愛称はバラちゃん。

 親船正章(おやふね まさあき)…美容師。いわゆるオネエ系のゲイ男性。さやかや果心の飲み仲間。愛称はマーちゃん。

 呂尚(りょ しょう)…謎の老紳士。太公望。字は子牙(しが)。「人類の進化を司る神々」の一人。春秋時代の斉公室の始祖だが、子孫たちを見捨てて、田氏一族に国を奪わせた。

 ブライトムーン(ブライティ)…呂尚の弟子。アガルタの精霊。本名はブリジット・スミス。

 果心居士(かしんこじ)…淮陰侯韓信(かん しん)の息子。本名は韓毅(かん き)(もしくは井桁毅(いげた つよし))。普段はスタジオミュージシャンの仕事をしている仙人(?)。アガルタの精霊の一人で、呂尚のチームの一員。

 松永緋奈(まつなが ひな)…果心の恋人。アガルタの精霊。蓮華院家のベビーシッター(後に家庭教師)。可憐かつ蠱惑的な美女。

 浜凛華(はま りんか)…加奈子を憎んでいた女。留置所で自殺を図り、悪霊になって加奈子を呪い殺そうとしたが、秀虎に成敗される。

 浜凛子(はま りんこ)…凛華の母。孫娘への虐待で、同居人の男と共に逮捕される。

 浜凛蘭(はま りんらん)…凛華の娘。凛子の孫娘。養護施設に保護される。

 花川真一(はなかわ しんいち)…加奈子の伯父。元雑誌編集者。余市の脱サラリンゴ農家。

 マティアス・博之(ひろゆき)・ホフマン…加奈子の母方の従兄。ドイツ在住の日独ハーフ。翻訳家。愛称はマッツ、マッさん、マッちゃん。寒いのが大嫌いで、冬はイタリアに逃げている。

 紅葉山健(もみじやま けん)…紅葉山不動産の社長。ハゲたら潔く坊主頭にした人。

 紅葉山佳代(もみじやま かよ)…健の妻。紅葉山不動産の副社長。

 伍子胥(ご ししょ)…諱は(うん)。春秋時代のダークヒーロー。祟り神であり続ける必然性がなくなったのに気づいて、呂尚の仲間になった。アルマーニのスーツを愛用するダンディ。

 孫武(そん ぶ)…字は長卿(ちょうけい)。子胥のマブダチ。甘党。とても「兵法の神様」とは思えないオトボケキャラ。

『恋愛栽培 ―A Perfect Sky―』

 この小説『恋愛栽培 ―A Perfect Sky―』は、元々アメブロで初めて書いた連載小説をいくつかのブログに何度か転載・加筆修正したものです。この話は、私が以前見た夢が元になっています。
 この話は、どことなく姫野カオルコ氏の小説『受難』を連想させるシチュエーションですが、おそらく無意識下で影響を受けたのでしょう。ちなみに、当小説に性的マイノリティの登場人物が何人かいるのは、森奈津子氏の小説『耽美なわしら』の影響です。そして、登場人物の何人かの苗字は、私が育った北海道石狩市(一部、札幌市)の地名に由来します。こちらは榎本俊二氏の漫画『えの素』の登場人物の何人か(菖蒲沢、打戻、葛原の「三女傑」)の苗字が、榎本さんの出身地である神奈川県藤沢市の地名に由来する設定からヒントを得ました。

 ちなみに秀虎が戦死した合戦は、どうやら「河越夜戦」のようです。私が見た夢並びに小説の描写に一番近いのは、おそらくこれです。もし私が小田原北条氏やその周辺についての資料を入手したら、当小説の前日談を書くかもしれませんが、おそらくその辺で、秀虎と果心と北条氏康公の出会いが描かれるでしょう。

(余談ですが、鎌倉北条氏と戦国北条氏は、それぞれ別の意味で斉の田氏一族に似ているような気がします)

 今練っている小説のアイディアはいくつかありますが、まずは資料を集めて時代考証をする必要があります。これでますます趣味のドールカスタマイズをする余裕がなくなってしまいますが、そもそも私のオリジナルキャラクタードールは、小説の挿し絵並びにデザイン画みたいなものです。ちなみに私自身も加奈子と同じく漫画家志望でした。

『恋愛栽培 ―A Perfect Sky―』 明智紫苑 作

 平凡な女が男を「育てる」? 時代を超えた奇跡の恋物語。  当小説は私のライフワーク『Avaloncity Stories』第一部の一つです。  アメブロ「Avaloncity Central Park」、Yahoo!ブログ「アヴァロンシティ広報部」、はてなブログ「アヴァロンシティ文芸部」並びにリゼ「Avaloncity Connection(Vol.1)」に掲載した小説の転載・加筆修正です。小説家になろうやタスキーやカクヨム、Jimdoの個人サイト「Avaloncity」、ライブドアブログ「Avaloncity Stories」、gooブログ「Avaloncity Central Park」にも転載しています。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2017-08-13
Copyrighted

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