*星空文庫

SKYDIVE

nanamame 作

SKYDIVE
  1. 1 クレル
  2. 2 ヒソム
  3. 3 ソレル
  4. 4 テラス
  5. 5 ミアウ
  6. 6 タギル
  7. 7 ナガス
  8. 8 ツムル
  9. 9 ソムク
  10. 10 チカイ
  11. 11 ウタウ
  12. ユレル
  13. フレル

1 クレル

この部屋にピアノがあって幸いだった。

コンクリートの無機質な壁、寝心地の良くない簡易ベッド、カーテンすら無い水回り、壁の中央から伸びた鉄の鎖は長く伸びて、ヨンジェの首に繋がっている。鎖でつながれていても、部屋のどこへでも行ける。仕切りもない正方形の部屋の、端から端まで行けるほど、鎖は長い。長くて、その分重い、忌々しい鎖。部屋を出るドアは見えていても、そこへは届かない長さに調節する狡猾さ。
24時間、回っている監視カメラ。鏡と見せかけて、その裏から、部屋の中を見ることができるようになっているスチールの枠。誰かに見張られている、そう思うだけで、吐き気がする。
だけど、一度捕まってしまったら、もう逃げられない。ここを出る時は、そうやって見張っていた人間に買われた時だ。
だから、そうした気持ち悪さを紛らわすのに、ピアノがあってよかった。せめてメロディを奏でて、歌うことができる。歌を褒めてくれた父も母ももういないけれど、それでも慰めにはなる。

簡素な食事を食べた後、ヨンジェはピアノの前に座り、適当に鍵盤を鳴らす。それは次第にメロディを作り、歌になる。声を出す。歌を聞く人間など、ここにはこない。


 ***


「1番は中国から流れてきた亜種、人魚種です。童話の人魚ではありません。彼女はあくまでも人間の亜種であり、見た目は人間と変わりありません。ご覧の通り、彼女の一番の売りは、種の珍しさを上回る、見た目の美しさです。この度のオークションで、一番の高値が予想されます。初値は1億5千万を予定しております。
常に水を必要としますが、プールに入れておけば良いので、管理は楽といえば楽でしょう。食べるものは特に必要はありませんが、食べることは食べます。お好みで与えてくだされば良いです」

支配人は今回のオークション開催に当たり、相当張り切っていた。美術品や宝石などの普通のオークションではない。闇から闇へ取引される人間の亜種のオークションは、開かれることからして珍しい一大イベントだ。



人間の亜種と呼ばれる存在は、長らく精神病やただの身体的特徴のように思われていたが、遺伝子情報の解析が進み、人間とは明らかに違う特徴を持つ亜種であることが確認された。そのため国連によって保護の対象とされるようになったが、そうやって守られ、生活の保証を受けている亜種の人数は少ない。好奇の目にさらされ、研究に協力しなければならず、多くは自分が亜種であることを申告しない。調べない。そのため、普通の人間として暮らすことができる者もいるが、明らかに人とは違う特徴を持つ亜種たちは、人に隠れるようにして暮らし、それが闇社会と繋がり、油断して、躓けば、オークションで売り買いされるようなハメに陥ることになる。

亜種だけでなく普通の人間も含めた人身売買の実態を、国連はじめ多くの国々は把握することができずにいるか、あるいは黙認しているかだ。麻薬売買や児童買春などと同じで、根絶するべき課題であると分かってはいても、闇の根深さが問題解決を遅らせていた。



亜種の方が値が高くなるのは、奴隷として、労働力として売り買いされるただの人間とは違って、珍しいペット、珍しい宝飾品、美術品を欲しがるようなものだ。
特別顧客と呼ばれる枠の金持ちたちも、このために多額の金を払って会員になるのだ。彼らを満足させること、それに関して支配人は、今回のオークションに自信があった。

見学予約を入れてくれたのは、これまでも亜種のオークションだけでなく、美術品などを多く買ってくれている最重要の顧客であった。だから、支配人自ら案内をしている。
60歳くらいのはずだが、それよりも老けて見える。目の下のくま、たるんだ頬、痩せこけてハリのない肌が、老けて見える原因だろう。今回は息子と一緒に来ている。息子は20代半ば程で、大変な美青年である。親子と言われなければ、一見しただけは分からないほど、2人は似ているところが少ない。
だが、そんなことはどうでもいい。顧客の欲しがるような亜種がいることを願うばかりであるが、これまでの買い物リストを見ても、今一好みがよく分からない。だがまあ、これもどうでもいいことだ。要は、金を払ってくれれば良いのである。

2番も女である。吸血種は、よくある亜種の1つである。3番は中性種。男でも女でもない亜種だ。2人とも、従順で抵抗もしないので良いのだが、愛玩用としてしか用途はないだろう。1番と比べると明らかに容姿が劣るので、一緒に出すのは見劣りして、値が下がるかもしれないと思ったが、美術品と違って、人間なので、適当に買い殺しにするのも費用がいるから、この際に出すのである。1番の値が釣り上がれば、それを買えなかった人間が、2番、3番を買うため、努力する可能性もあると踏んでいた。初値はどちらも5千万である。亜種としては安値のスタートである。

「4番は吸血種です。見ての通り、男で体格も良く、普通に労働力として役に立つでしょう。ですが、少々反抗的なところがありまして、取扱には注意していただく必要があります。吸血種ですから、油断すれば、死ぬほど血を吸われる可能性もあります」

それでもなぜ出すのかと言えば、容姿が優れているからである。今も、マジックミラーと知っている鏡を睨みつけている。いつもそうだ。カメラや鏡を、視線で射抜き、見ている方の肝を冷やす。少々どころではない反抗的な態度である。その冷たい眼が、支配人は気に入っていた。従順なだけではつまらない。だが顧客を殺して逃げる可能性もあった。だから、予め注意をうながすのである。そうしておけば、責任は買った方に移る。

「良い眼だ。面白い」

支配人は顧客のその言葉を聞いて、ちょっと浮かれる。

「ええ、そうなんです。いつもああやって、睨んできます。お気をつけください。喉元に、噛み付いてきますよ。それでは、次へ。最後、5番です」



デヒョンはちょっと気分が悪くなってきた。亜種のオークションが開催されるという話と、出品される亜種の見学に父が行くという話も聞いて、行きたいと言ったのは自分である。亜種という存在を見たことがなかったので、単純に興味本位である。だが、コンクリートの部屋に、鎖でつながれた人間を見て、可哀想だと感じた。だが、買ってあげることもできない。自分はただ着いてきただけで、誰を買うのか、あるいは誰も買わないのか、その選択権は父にある。

1番の子は確かにかわいくて、見惚れてしまうほどだが、大きな目から涙を流しているのを見れば、とても哀れだ。亜種というだけで、こんな暗い場所で、買われるのを待つだけなんて。だが、弱い者の運命と言えば、そうなのかもしれない。
4番は、ちょっと怖いほどだ。父は「面白い」と言ったが、デヒョンはとてもそうは思えない。本当に喉元に噛みつかれて、殺されてしまいそうな視線だった。

「最後、5番です。彼は白血種です。これもとても珍しい亜種です。容姿も良く、大人しい性格です。今回の目玉は1番ですが、5番も初値を1億2千万として、当方としては第2の目玉商品と位置づけております」

白い血の種という名前だが、実際にその血は透明である。涙の血とも呼ばれる。皮膚の下に流れる血が赤くないため、肌は全体的に白く、病的に見えるほどだ。それが、彼の繊細な印象を、さらに引き立てている。

「ピアノの前で何をしているのだ?」

彼はピアノを弾いているのだと思ったが、口元も動いている。

「歌っているのです。テレビや雑誌などは与えられませんが、ピアノが欲しいと珍しい要求だったので、与えてみました。音声を、お聞きになりますか?」

「ああ」

支配人が壁のスイッチをオンにすると、歌声が聞こえてきた。少し高い、鼻にかかったような歌声は、とてもきれいで伸びやかで、デヒョンは少し驚いた。姿を見るだけでなく、声を聞けば、より「きれいな子だ」と言う想いが強くなる。

「良い声だ。これも、良いな」

「ええ、今回のオークションは良い品を揃えられたと自負しております。きっと、ご満足いただけるはずでございます」

人間を商品としてしか見ない、その言葉に、デヒョンは人に気づかれないように眉をひそめた。

「デヒョン、お前はどれが良い?」

「え?」

急に自分の意見を聞かれて、デヒョンは戸惑う。父がデヒョンの意向を気にすることなど、ほとんどないから、驚いたとも言える。

「うん…僕は…、5番です」

そう言って、ガラス越しに歌う彼を見る。その時、彼の顔が動いて、こちらを見た。眼が合った気がした。向こう側からは鏡でしか無いので、実際に目が合うはずがない。だけど、なぜだかそう感じて、鼓動が早くなった。

彼の歌をもっと聞いてみたいと思った。デヒョンも歌うことが好きだ。だから、5番にした。だけど、そういう理由を、父は知らないはずだ。興味もないだろう。



父は特に意見を言うことなく、見学を終えた。冷たい地下から、地上に上がり、建物の外に出ると、むっとする暑さが身体を包む。デヒョンは今だけは、その熱がありがたいと感じた。

2 ヒソム

後ろ手に手錠をかけられて、丈夫な縄で腕と腰を固定される。そうしてから、首輪に繋がった鎖が外される。ここから出るのだとヨンジェは思ったが、到底、嬉しいなどとは思えない。自分を買ったのが、どんな下衆な存在なのか、考えただけで吐き気がする。
頭に黒い布が被せられ、場所が分からないようになる。
引き連れられて、異動する。車に乗ったようだ。すぐ隣に誰かがいる気配がする。それが何者かは分からない。
とても長く走っていた気がする。そうして、どこかの場所で止まって、車から降ろされる。何も言葉を発しないのは、何を言っても無駄だと悟っているからだ。

階段を登って、何やら良い香りのする部屋に入る。

縄が解かれて、手錠も外される。だがまだ後ろ手にしっかりと、力強い手が両手を縛り、動くことが出来ない。

頭の布を外されて、ヨンジェは驚いた。眼の前に、自分と同じような状況の男がいた。彼も驚いているようだ。

手を掴んでいた人物が離れていく。
良い香りが充満する広い部屋の中にいる。自分たちを連れてきた人物たちは音も立てずに部屋を出ていく。
残されたのは、2人だけ。
相手が誰なのか、きっと、お互いに驚いて、内心で考えを巡らせているはずだが、考えたところで分かることなど無い。

「あなたは、誰?」

ヨンジェは勇気を出して、尋ねてみた。暗い眼差し、鋭い視線が、ヨンジェを射抜く。正直、怖いと思った。だが、彼もまた自分と同じように、目隠しをされて、自由を封じられて、ここまで来たのだ。境遇は同じはずだった。

「お前から名乗れ」

低い声が答える。
名乗る時は、自分から。常識と言われればその通りだが、そんなものが通じる世界は、遠いものになってしまった。

「僕は、ヨンジェと言います。ユ・ヨンジェ。白血種と呼ばれる亜種です」

「俺はバン・ヨングクだ。吸血種だ」

眼差しに加え吸血種という言葉で、ヨンジェはさらに恐怖が増した。だが、同じ境遇なら怖がる必要はないのだと言い聞かせる。

「もしかして、同じオークションで…?」

「…そうかもな」

自分がオークションで売り買いされる品物になってしまったことは、人生最大の汚点だと思う。
ある日突然家に強盗が押し入り、父を殺害し、母と自分を連れ去ったことは、避けようのない災難だった。それが、白血種と言われる珍しい亜種であるが故の悲劇であったなら、オークションの関係者や自分を買った者も含めて、憎しみの対象であった。
母は無事だろうか。自分を守るために抵抗して、深い傷を負っていた。種の特徴として、傷が治りにくいということがある。無事であればいいと思うが、無事であれば、自分と同じように、どこかで売られているのかと思うと、苦しみが増してしまう。

「2人して、この家に買われたんでしょうか…」

「逃げ道はないかな」

ヨンジェの呟きは聞こえなかったようで、ヨングクは部屋を歩き回り、窓やドアを見ている。さっそくそのようなことを考えられるなんて、強い人なのかな、と思った。
ヨングクはどんな状況で、この場所で、自分と出会うことになったのだろう。

「逃げるのですか?」

ヨンジェの質問に、ヨングクは訝しげな表情をした。

「逃げる気はないのか?」

言われて初めて、ヨンジェはその可能性を考えてみた。だけど、そうしようとするほどの強い気持ちが浮かんでこない。諦めの気持ち、無気力、未来への失望、家族を失った絶望が、ヨンジェから気力を奪っていた。

「…分かりません。すみません…」

「いや…」

悲しそうな表情で謝られてしまい、ヨングクは内心で戸惑った。

吸血種の例によって夜型の生活を送っていたヨングクは、まともな職に就くことができずに、アンダーグラウンドでラップやダンスをして、日々の糧をかろうじて稼ぐ生活をしていた。だがそれだけで生活できるわけはなく、どうしても不良やそれ以上の危ない連中とつるむことになっていく。
そこで、夜の世界で生きることが、単に自らの意思で選んだことではなく、吸血種という亜種であるが故であるということが、人づてにいつの間にか人買いにまで知られてしまったことで、身に覚えのない借金を背負わされて、オークションに送られることになったのだ。
身から出た錆、と言えなくもないが、どちらにしても不本意なことには違いない。

自分のように20代半ばの人相の悪い男を買う奴がいるとは思えなかったが、世の中にもの好きはいるものだ。そして、想像もつかない金持ちも。

自分に7000万の価値があるなんて、考えもつかない。それだけの金を払って、自分を買って、何をさせるつもりなのか。
単なる雑用や庶務などの仕事をさせるためではないだろう。とんでもない重労働か、見世物か、慰み者か。目の前の、気の弱そうな自分よりも若く細い、少年ならば尚更だ。

2人も亜種を買って、何をさせるつもりだろう。物好きな金持ちは。考えるだけで反吐が出そうだ。

逃げるに限る、と思うが、簡単に逃げられるなんて、甘いことは考えていない。

窓の外は、もう夜だ。月明かりの下、警備員の姿がうようよしている。部屋も広ければ、庭も広い。門ははるか遠く、夜では見えない。
窓には鍵がかかっている。無理やり開けるだけで、警報が鳴るかもしれない。

泣き声が聞こえる。振り返ると、ヨンジェと名乗った少年が、ベッドに腰掛け、泣いていた。

その気持ちも、分からないではない。人に買われるなど、尋常ではない。
富めるものと、貧しいもの。搾取される側と搾取する側。その差が激しすぎるこの世は、まともではいられない。

ヨングクはヨンジェの隣に腰掛けて、なるべく優しく背中を撫でる。こういうのは、あまりしたことはないが、優しく出来ないことはない。か弱く見える少年が、哀れでもある。

ヨンジェは少し驚いたようだが、泣き止むことはなく、少しヨングクにもたれかかってくる。

「僕には、逃げても、帰る場所がないんです…」

泣きながら、ヨンジェは語った。ここへ来ることになった悲劇を。父は死に、母は消息不明。家は焼かれてしまった。大切だった何もかも、すべて奪われた。静かに生きていただけなのに、もうどこへも帰れない。もしも逃げられたとしても、亜種であることを知られないように、隠れるようにして暮らしていかなければならないのだろう。
太陽の下で、走り回った子供時代。優しい両親。歌を聴いてくれた人、褒めてくれた人はもういない。

ヨングクはヨンジェの話を、口を挟まずに聞いていた。他人の境遇に興味はないが、哀れな少年を突き放すほど、ヨングクは冷徹にはなれない。話を聞いてあげて、背中を撫でてあげるくらいなら、してあげたい。それで、慰めになるとは思えないけれど。

「すみません…」

ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、ヨンジェは謝った。ヨングクは見た目ほど怖くない、むしろ初対面の自分に優しくしてくれた。
だけど、自分の話など興味ないだろう。それでも聞いてくれて、ありがたかった。
もうすでに気を許すようになっていた。

「亜種狩りか。酷いな…」

珍しい亜種、見た目の良い亜種は、高値で売れる。そうした亜種の情報を調べて、集めて、売るために狩る犯罪が、密かにはびこっていた。行方不明者として捜索されるなら良い方で、亜種だったから仕方ないと警察さえ放棄することが事実だった。亜種は人間ではない、とメディアで発言する政治家までいる時代だ。

「俺は、お前ほど酷い境遇じゃないよ。アンダーグラウンドで適当にやってて、気付かない内に、やばい連中とつるんでしまった自分の判断の甘さもある。だから、逃げたいのさ。逃げられたら、俺を売った奴らの鼻をあかせるし、リセットできる」

ヨングクはわざとフッと笑った。笑うと、仕草と同じほど、優しい顔だった。ヨンジェもふと笑顔になる。

その笑顔を見て、ヨングクは少し奇妙な気分になる。ざわりと心臓が波打った瞬間、近くにいたせいか、ヨンジェの持つ、普通の血ではない、より甘い香りが漂ってくる。
夜深く、乾いてくる時間。吸血種としての、本能が迫ってきて、ヨングクは慌てて立ち上がって、ヨンジェから離れた。

ヨンジェは、さっきまで優しかったヨングクが、急に離れてしまった理由が分からずに戸惑う。

「ヨングクさん?」

「ああ…、いや、気にしないでくれ。何でもない」

逃げ道を探して歩き回っていた時とは違う様子で、部屋をうろつく。何だか、落ち着かないようだ。
ヨンジェはふと、ある考えが浮かんだ。

「血が、要りますか?」

ヨンジェの気持ちを探るように、ヨングクが睨んでくる。もう、怖いと感じることはない。まっすぐにその眼を見返す。

「僕のもので良ければ、どうぞ」

右腕を、手のひらを上にして、ヨングクの方へ伸ばす。ヨンジェはもう泣いていない。

「…正気か?」

「はい」

逃げられたら、鼻をあかすことができる。そう考えたら、逃げたくなる。もちろん、ここにいたい訳ではない。自由になりたい。けれど、1人で生きていく自信はない。母を探せるとも思えない。逃げられたとしても、どこへ行けば良いのか分からない。また捕まるのが落ちだ。
それなら、吸血種であるヨングクの糧となり、今ここで果ててしまう方がマシではないかと思う。
そんなことを考えるなんて、自分はもう正気ではないのかもしれない。

白血種の血を飲んだことはない。吸血種のヨングクにとって、血は自分の命を繋ぐ糧だ。空腹とは違う、乾きを感じる時、何を食べても、飲んでも、どうしようもなく飢えを感じる時がある。どれほど自分の性を恨んでも、変えられない、種としての性質。血を欲する乾き。
白い肌の下に流れる、涙の血の芳香を感じる。
普通の赤い血には感じない、甘い誘惑。こんなにも惹かれる血は初めてだ。

抗えずに、伸ばされた手を握る。歯を立てようとするが、哀れな少年に、これ以上、苦しい思いをさせるのか。さっきまで慰めていた自分が。

「ヨングクさん。あなたの糧になれるなら、僕は、嬉しいと思います」

「ヨンジェ…」

「僕には何もない。すべて奪われて、これ以上、傷付きたくない」

ヨンジェの眼から、再び涙が流れる。眼は逸らさない。覚悟を決めた眼差しだった。

「人としての尊厳まで奪われるくらいなら、あなたの糧になって、あなたが逃げてくれる方が良い」

ヨングクの手を握る。縋るものは、もう彼しかいない。怖いけれど、買われたこの家で、これから何をすることになるのか、それを考える方がもっと怖くて、死にたくなるほどおぞましい。

ヨングクが再び隣に座る。手は握ったまま。ヨングクの体温は、ヨンジェにとっては熱いほどだ。透明な血は温度も低い。ヨンジェの平熱は34度ほど。2、3度の差しかないが、熱くて、怖くて、だけど、彼だけが、ヨンジェを慰めてくれる。

ヨングクのきれいな顔が近付いて来る。熱い息が首筋にかかる。首筋を舐められて、思わず肩をすくめて、眼をぎゅっと閉じた。

「痛いことはないよ。吸血種の唾液は、幻覚作用がある」

薄い皮膚を通り越して、涙の血の甘さが匂い立つ。近付けば、さらに欲求が募る。恐れているヨンジェをなるべくなら、怖がらせたくないし、優しくしてやりたいが、甘い匂いに誘われて、気が急いてしまう。
ゆっくりと、何度も首を舐める。犬歯を立てて、薄い皮膚を突き破る。
じんわりと甘い血が口に広がっていく。匂いよりも甘い血の味。こんなに甘くて美味い血は初めて味わう。白血種の血は、ヨングクの好みにぴったりと合うようだ。

ベッドに押し倒す。
喉を鳴らして、ヨンジェの血を飲み下す。幻覚を見せられるのは、ヨングクの方だった。魅了されて、抜け出せない。くらくらする。さらに噛み付いて、もっと血を流させたくなる。
わずかに残っている理性が、ヨンジェを殺してはいけないと警告を放つ。

血をすすり、飲み下す音が鳴る。

噛まれても、痛くはない。血を失いつつあるせいか、頭が少しぼうっとする。
幻覚作用とはどんなものだろう。変な気分だ。家族以外と、密着したことはない。ヨンジェは亜種であることを隠して生きていくために、学校に行ったこともなく、初恋さえ、したことがなかった。
だから、強く抱き締められて、身体がくっついて、首を舐められて、人の熱を感じることで生じる、自分の変化に戸惑っていた。
身体が熱い。中心が疼く。なんと表現していいのかもわからない。

幻など見ていない。どことも知れない場所ではあっても、これは現実だ。眼の前にいるのは、精悍で整った顔立ちの、自分より年上の男の人だ。

「大丈夫か? 顔色が悪いな…。あ、そっか。お前の血は赤くないから、青ざめて見えても、それが普通か?」

「そう、です。僕、今、何か、変です。変な気分で…、あの、なんて言っていいのか、その…」

白血種は、普通の赤い血を持つ人間のように、照れたり、興奮したり、そういう時に顔が赤くなることはない。逆である。興奮するほど、感情が高ぶるほど、肌が白くなる。
ヨンジェは今、そう言う状況だった。
細い足を摺り合わせて、もじもじしている。視線が泳いで、貧血を気遣うヨングクの方を見ようとしない。

ヨングクは気付いた。そして、笑った。かわいかったからだ。世慣れしていない、他人との夜に慣れていない処女のようだ。

噛んで、血を飲んでも、相手が痛くないように、吸血種の唾液には感覚を鈍らせる作用があるという。だがそれは、人によって正反対に働くことがある。感覚が鋭くなって、ある種、媚薬のような働きをしてしまうらしい。それは研究の成果ではなく、吸血種たちの経験則である。そういうものは、もう1つある。血によって、酒を飲んだときのように、酔うことがあるということ。

ヨンジェの白い血は、ヨングクにとって、リキュールのようだ。甘くて強烈に酔わせて、引き付ける。

変な気分なのは、ヨングクも同じだった。
ここがどこだか、なぜ自分たちが出会うことになったのか、忘れてしまいそうだ。

見つめ合うと、ヨンジェの目に涙が見える。血のように見えて、そこにキスをする。血とは違う味で、涙だと感じる。
ヨングクはなぜだか分からないが、ヨンジェの口にもキスをした。

ヨンジェにとって、他人とキスをするのは初めてだった。
不思議な感覚だったが、嫌ではない。鎖で繋がれた部屋でした嫌な想像よりか、ずっとよかった。むしろよかった。この夜が明けて、ヨングクと離れてしまっても、どこの誰の元へ送られても、彼との思い出があるだけで、全然違う。

ヨンジェはすがるように、ヨングクに抱き着いて、足を絡めて、さらに身体をくっつけた。

3 ソレル

薄暗い部屋の中にいくつも並んだモニターには、自分が買った人間の亜種2人が睦み合う姿が映し出されている。それを見て、男は含み笑いをした。こんな展開になるとは思っていなかった。

なぜ2人とも買ったかと言えば、単に気に入ったからだ。気紛れでそうしたことができるだけの金があった。

4番の吸血種、バン・ヨングクは競争相手もなく、初値の6000万から少し上の7000万という、想定通りの値で買うことができた。5番、ユ・ヨンジェは以外と値がつり上がった。やはり、薄幸の美少年というものは、誰の眼にも魅力的に映るようだ。1番の人魚種ほどは高くはならなかったが、それを買えなかった者たちが、2番、3番だけでなく、5番にも流れてきたのだ。
2億は高い買い物だと、男でも思う。だが、息子が欲しいと言ったから、買ってやったのだが、それくらいで恩を売るつもりはない。それを言うなら、育ててやっただけで充分、恩を感じて欲しいくらいだ。一度でも自分のものだと思ったものを他人に譲るなど、男の矜持が許さないのだ。

吸血種が白血種の血を飲むのかどうか、飲み干すのかどうか、それを見たかった。虎の前に、兎を置いたようなものだと思っていた。
だが、血を飲むまでは良いものの、それでヨンジェが感じてしまったようで、ヨングクも応えてやったようだ。そういうこともあるのか、と思ったし、ヨングクは冷徹な男かと思えば、見た目とは違い、随分と優しい男のようだ。その点で言っても、想定外だ。

面白い、と思う。

若い、見目の良い2人の睦み合いは、見ているだけでも興奮する。モニター越しではなく、直接部屋で見ていたいと思うほど、美しい。だが、物足りない。ただ美しいだけのものは、興味がない。血を吸われる前の、恐怖に震えるヨンジェは得も言われぬ美しさだった。牙をむくヨングクも、吸血種の名に相応しい美しさだ。
それがよもや、睦み合いに発展するとは。
世の中には、自分が想定した以外のことが多い。だからこそ、面白いということも言える。これくらいの想定外なら、許容範囲だ。

憎らしいほどの美しさ、若さ。亜種という存在。すべて、自分にはない特別さ。だがそれもすべて、自分の所有物だ。

ぞくぞくする。興奮してくる。
実際に、男の股間は年甲斐もなく膨らんでいた。慰めてもらう必要がある。さて、誰を呼ぼうか。考える時間は、ごく短かった。

インターホンで、息子の部屋に直通の番号を押す。

「来なさい」

言葉はそれだけ。彼もまた、自分の所有物なのである。


 ***


呼び出されたデヒョンは、重い気持ちと身体を抱えて、父の部屋へ行った。
父と会うこともあまり気が進まないことだが、父の部屋に行くことは最も嫌なことだ。断りたくてもできない。行けば、何を命じられるかも分からないが、自分が嫌がることに違いない。そういうことしか父は命じない。

扉の前に立ち、一呼吸する間に、警護員が無線を使い、デヒョンが来たこと告げる。
扉が開くのを見ながら、呼吸を整える。歩きながら、落ち着こうと努める。

「何の、ご用ですか?」

単調な口調で、感情を抑えた話し方をしているが、デヒョンは部屋に入って、驚いていた。
いくつも並んだモニターは、すべて同じ部屋が映されている。今日のオークションで買ったばかりの、ヨングクとヨンジェという名前の人間の亜種。

父はヨングクの強い眼差しを気に入り、デヒョンはヨンジェの外見と歌声を気に入った。だからと言って、2人ともが来たときは、少し驚いた。大学に行くようになって、多少、世間並みということが分かってきたデヒョンは、自身の境遇があらゆる意味において、一般的でないことにようやく気づきはじめていたのだが、その根源はすべて父親という存在にある。

父は、モニターに映る二人の亜種が抱き合う様子を酒を飲みながら、喉の奥で笑いながら見ている。
監視カメラが、屋敷のあらゆる場所に仕掛けられていて、そのすべての映像は父の部屋で見ることができる。防犯という以上に父の覗き趣味、異常性向を満足させるためだけにあるのだ。

「美しいと思わないか? 亜種が2人、健気ではないか。1人は血を与え、1人は快楽を与える」

デヒョンは答えない。答えを持っていない。

父の手がゆっくりと上がり、デヒョンの方へ差し出される。その手を取れ、ということだ。その手を取れば、自分にとって、嫌なことしかなくても、その手を取らなければ、もっと非道なことが待っているから、どれだけ気が進まなくても、デヒョンの意思がどうであろうとも、その手を取らなければならなかった。

手を取る。ぬるく汗ばんだ手が気持ち悪い。手を引かれて、デヒョンは父親の足の間に座らされる。眼の前には、膨らんだ父の股間がある。
このために呼び出されたのだ、と知る。
背後から、ヨンジェの声が聞こえる。歌声ではなく、男に抱かれて、感じている甲高い声。自分が聞きたかった声ではない。父に見られているとも知らないで、一瞬だけの快楽におぼれているヨンジェに、デヒョンはなぜだか苛立ちを覚えた。

「慰めておくれ。君のきれいな口で」

「はい…」

拒否権はない。それは、今までの人生の中で、嫌というほど思い知らされてきた。

父のものを咥えて、舐めて、吸う。これも、覚えさせられたこと。

「心配しなくても、ヨンジェはお前のために買ったものだ。ちゃんと与えてあげるよ。…上手だね、デヒョン。お前はとてもいい子だ」

何も聞こえない。何も感じない。何も考えない。デヒョンはただ、時間が流れていくことだけを思っていた。


 ***


デヒョンは部屋に戻って、バスルームで吐いた。胃液まで全て、何も吐くものがなくなっても、吐き気が収まらない。
ひりつく口元を水で何度も洗い流す。それでも、父親に付けられた汚れが落ちたとは思えなかった。
殴られる方がマシだった。
犯されるくらいなら、殴ってくれと頼みたい。だが、父はそう頼めば、よりデヒョンを汚す方を選ぶだろう。そういう人だ。あれは父親ではない。血が繋がっているというだけの他人。育つための金を持つだけの他人だ。あの冷酷さと狂気は、人間ですらないのかもしれない。亜種よりも、人間らしくない。それが、デヒョンの父だった。

荒い息を落ち着けようと努力する。
吐き気はまだ感じるが、それは心が拒否する気持ちの現れであって、身体がおかしいわけではない。

寝てしまおう。そう思って、デヒョンはふらつきながら、バスルームを出て、薬箱を開ける。手が震えている。だけど、それを認めたくない。寝てしまえばいい。恐れることはない。忘れてしまえばいい。あれは人ではない。あれは自分ではない。

眠るための薬は、軽いものがたった4錠しかなかった。胃薬や解熱剤、精神安定剤は10数錠。だが、これでは効かない。デヒョンは焦る。眠れなければ困る。もっと強い薬がなければ、眠れない。忘れられない。

デヒョンは間違えないように、インターホンの番号を押す。

「…ヒョン、薬がないんだ。眠れないよ。薬を持ってきて。いつもの、眠れるものを持ってきて。今すぐ!」

思ったよりも、自分の声は震えていた。それを認めたくなくて、より強い口調になる。



ヒムチャンはデヒョンからの電話を受けて、すぐに彼の部屋へ走った。もちろん、薬を持って。だが、使いすぎると、依存性もある強い睡眠薬である。だが、依存の可能性の少ない軽いものは、効かないというので、強いものを処方せざるを得ない。それは、デヒョンの精神状態の不安定さを示しているのだが、充分な治療をできないでいる。

内科が専門のヒムチャンが、デヒョンの専属医になって3年程になる。簡単な外科治療などは出来るが、デヒョンに本当に必要なのは精神的な治療と療養である。だが、それは認められていない。本人が、認めようとしないし、あの父親が手放すはずがない。

だから、睡眠薬を出すしか無い。それがもどかしい。

デヒョンの部屋に入ると、彼は広い部屋の中央にあるソファに死んだように横たわっていた。虚ろに開いた眼は、何も見ていない。見ようとしていない。そもそも、生きようとしていない。

「デヒョン。薬を持ってきたよ。大丈夫か? 何があった?」

「何でもない。薬をちょうだい」

彼は認めようとしない。何があったということを、言おうとしない。ヒムチャンだって、3年も彼の側にいれば、嫌でも分かる。彼の父親が、父親とは名ばかりの、ひとでなしであること。
誰もが分かっているのに、誰も救おうとしない。誰も、真実を見ようとしない。標的が代わりに自分に向かうことが嫌だからだ。
ヒムチャンとしても、その点は否めない。

もどかしい。本当にもどかしい。デヒョンの側にいると、自分は本当に医者だろうか、と疑いたくなる。

薬箱の中身を確認して、軽いものを1錠と、自分が新たに持ってきた強い方を1錠だけ渡す。デヒョンは強い方を2錠望んだ。

「2つ欲しい。これは効かない」

「1錠ずつだ。飲み過ぎると依存してしまうと言っただろう? 先週渡した分がもうないなんて、俺が言った数を守っていないな?」

「だって、効かないんだ。眠れないんだよ」

「2種類、1つずつでも眠れる。精神安定剤がこんなに残っているなんて、飲んでいないな? だから眠れないんだよ」

デヒョンは不服そうだ。顔色が悪い。彼の口から、少し胃酸の匂いがする。吐いたのだろう。何でもないことは、絶対にないはずなのに、言ってくれない。

今夜だけは、ヒムチャンの言うとおり、精神安定剤を2錠と、睡眠薬2種を1つずつ、飲んでくれた。ふらつくデヒョンを支えながら、ベッドに連れて行く。
彼は薬に対して、耐性が出来てしまっていて、通常よりも効きが悪くなっている。
眠るまで、側にいてあげようと思っている。慰めになるとは思えないが、せめて、それくらいしかできないから。言いつけも守ってくれない。医者としても、兄としても、あまり信用されていないのかと少し残念だ。彼の境遇を考えると、攻めることもできないが、おどけた調子で、言ってみる。

「ちゃんと言いつけを守ってくれないなら、もう薬はあげないぞ。お前の為なんだ。数はちゃんと守れ。呼べば、いつでも駆けつけるから、安心しろ。俺は、デヒョンの味方だ」

「…ごめん」

デヒョンはヒムチャンのことを信用してない訳ではないのだが、彼の言葉をそのまま信じることはできなかった。信じれば裏切られる、というのは、幼い頃から刷り込まれた教訓であり、トラウマだ。

だが、信じたい気持ちがある。だから、苦しい。

「大丈夫。目を閉じて。ゆっくり呼吸して。何も考えなくていい。ちゃんと眠れるよ。大丈夫…。大丈夫…」

目を閉じる。眠りたい。ただ、何もかも忘れて眠りたい。

それを邪魔するものは、父に汚された瞬間と、モニター越しの、ヨンジェの表情と声。あげると言われた、その言葉。浅ましく期待する心。ヨングクへの嫉妬。

ああ、嫌だ。嫌だ。何もかもが嫌だ。

「何も考えるな。ゆっくり呼吸して。眠れるから、大丈夫だから」

ヒムチャンの声が、頭上で響く。蒲団の上から、お腹あたりを撫でる手が少し気になるけれど、一定のテンポで動く手が、ゆっくりと呼吸するテンポと重なって、眠るのを手伝ってくれていると感じる。



デヒョンが眠ったことを確認して、ヒムチャンは静かに息を吐いた。これから毎日、繰り返す必要があるだろうか。数日分渡すと、自分で勝手に数を調節して飲みすぎてしまう。それはいけない。ならば、医者として、必要なことなら、できることはしていこう。

顔色が悪いまま眠っているデヒョンの額に、ヒムチャンは静かに口付けをした。

「おやすみ」

デヒョンが眠ったことを確認した後も、ヒムチャンはしばらくの間、彼の寝顔を見守っていた。

4 テラス

薄暗い部屋の中で目覚める。大きなベッドにヨンジェは1人だった。ここがどこなのか、分からなくて戸惑う。
起き上がって、裸なのと、身体の違和感と、知らない場所を確認する。
そうして、部屋の隅に、ヨングクの背中が見えた。一人掛けのソファに座っているのを確認して、ここがどこなのかを思い出す。それは、思い出したいことではなかったが、ヨングクがまだ側にいてくれることだけでもよかった。

一晩経ってもまだ傷は塞がっていないことが、分かった。ヨングクに噛み裂かれた場所に手を当てて、微かな痛みとそれに伴った快感を思い出して、1人で恥ずかしくなって、ヨングクの背中から目を逸らす。
絆創膏は貼ってあるが、もう一度貼り直さないといけないな、とヨンジェは感じていた。それは敢えて、ヨングクには伝えない。
ふらふらと貧血状態にあるような気がしたが、平気なふりをして立ち上がる。着慣れないバスローブを羽織って、絆創膏がどこなのか考える。

立ち上がった気配を感じたのか、ヨングクが振り返り、少し微笑む。朝日が作る陰影に、ヨンジェの鼓動が早くなる。昨晩を思い出して、落ち着かなくて、俯いた。

「…ああ、その。大丈夫か?」

何が、という具体的なことは、ヨングクは言えなかったし、ヨンジェも聞こうとは思わなかった。

「あ、はい。大丈夫です。あの、おはようございます」

「ああ、おはよう」

律儀にぺこりと頭を下げて挨拶するヨンジェに、ヨングクはもう一度微笑んだ。両親に大切に誠実に育てられた子供なのだろう。
こんな非日常に放り込まれて尚、彼は挨拶をして、敬語を使う。悪態もつかないし、さめざめと泣き続ける訳でもない。少し心強く感じた。



絆創膏を張り替えてから、一緒に朝食を食べる。ヨングクは普通の食事はすることもあるが、しなくても大丈夫だ。ヨンジェは血が特殊という以外、普通の人間と変わる所はないので、一日三食必要だ。
深い傷ではないが、まだ血が滲んでいる。傷が治りにくい性質であることが分かっていたのに、欲求に従って噛み付いてしまったことを今更ながら悪かったと思うが、同時にもう一度、いや何度でも、特別な白い血を欲しがる自分がいる。

アンティーク調の家具が並ぶ部屋、重厚なテーブルの上に並ぶ食事は、普段食べていたものよりも随分と豪華だった。2人にとっては、優遇されているのだろうかと錯覚するほどであるが、その家においては使用人の食事と同じ、質量ともに最低限の食事だった。

パンを少しずつかじりながら、コーヒーを飲んで、ちらちらと目の前のヨングクを見る。おいしいはずなのに、ヨンジェはそうとは感じなかった。
それよりも、ヨングクが目の前にいるのがとても不思議な感じがした。昨日出会ったばかりの見慣れない人なのに、なぜかとても親しい人のような気がする。
また昨晩のことを思い出してしまって、窓の外に目を逸らす。
そして、見なければよかったな、と思った。鉄格子の嵌った窓の外には、それと分かる監視カメラ、銃を下げた警備員。遠くに見える柵のてっぺんは尖って槍のようだ。
ここも、あのコンクリートの部屋と変わりない。
美しく装われているだけで、鉄格子に囲われた檻の中であることに変わりはない。

会話はない。話すことがない。逃げる方法を話し合うべきなのかどうか、それはヨンジェには分からない。
この部屋の中にも監視カメラはたくさんある。ヨンジェやヨングクに分かるものだけでなく、カモフラージュされた、見えないカメラが至る所にある。昨日の情事をこの家の主人に見られていたなどと、2人は想像さえできない。

朝食を食べ終える。残すのはもったいないと思って、全部食べるとお腹いっぱいになってしまった。ヨングクはほとんど食べていない。血だけでも生きていられるという種族の生活とはどういうものなのだろう。

改めて思う。僕はヨングクのことを何も知らない。
知りたいと思う。

窓の外を見ながら、水を飲むヨングクを見て、ヨンジェは勇気を出して声を出した。

「あ、あの…、ヨングクさん―――」

その時、部屋のドアが開いて、知らない中年の男が入ってきた。体格が良く、一見しただけで、ボディーガードや警備員やそういう類の仕事をしているのだろうということが分かる。無言で近付いてくるので、2人は身構える。ヨングクは立ち上がり、ヨンジェの前に出る。銃を持つ相手に、ヨングクとて勝てる訳ではないが、庇っているつもりだ。

「5番、付いてこい」

「え?」

その番号が、オークションで付けられた自分の番号であることを、ヨンジェは分かっていた。分かってはいたが、それが自分を示すものであることを認めるのは嫌だ。

付いていくことも嫌だ。

「ど、どこに…」

その問いに男は答えない。ヨングクに銃を突きつけて、脅し、ヨンジェの腕を強く掴んで無理やり立たせる。
痛いが、怖くて声が出ない。

「ヨンジェ…」

ここで暴れても、自分が撃たれて、死ぬだけだ。買われた身だ。どうしようと、買った人間の自由だ。それが現実だと分かっていても、理性が、自尊心が、許すはずがない。
だが、現実は現実だった。
銃を持つプロを相手に、死んでもいいというような暴挙には出られない。まだここへ来て2日目。逃げて、自分を売った人間、買った人間の鼻を明かすのだ。生きることは苦痛だが、死にたくはない。

引っ張られて、部屋から連れ出されるヨンジェを見ながら、ヨングクは血が滲むほど拳を固く握りしめた。不安気に振り返り、縋るような視線を向けられても、所詮何も出来ない現実を、認めるしかなかった。

1人になってしまった室内で、ヨングクは思った。
さっき、ヨンジェは何を言おうとしたのだろう。彼が戻ってきたら、続きを聞けるだろうか。彼は戻ってくるのだろうか。話ができる状態で、またここに、戻ってきてくれるのだろうか。

全ての環境が変わってしまった昨日。何も干渉を受けずに、自分の欲望を満たした昨日。ヨンジェのことを何も知ることができないまま、何の慰めもできないまま、彼は連れて行かれてしまった。

ヨングクはその場に立ち竦んだまま、自分の無力さを噛み締めていた。

5 ミアウ

ヨンジェが連れて行かれたのは、1つ上の階の大きな部屋だった。両開きのドアの前に警備員がいて、ヨンジェの腕を掴んだままの男と少し言葉を交わす。警備員がドアの鍵を開けて2人を中に入れる。また、ドアに鍵がかかる音が聞こえた。メイドのような格好の女性が陰気な顔で立ち働いている。さっきまで居た部屋よりも明らかに豪華な装飾の家具や調度品が並ぶ。本物の宝石をヨンジェは見たことがないが、そんな風に煌めく時計や、装飾品もある。
なのに、その部屋は、働いている女の顔のように陰気だった。
もう1つ少し小さな部屋を通り過ぎて、再び両開きのドアを開ける。そこは広くて陽の光がよく入る明るい部屋だった。
3人のメイドが働いている。彼女たちはダイニングテーブルに気だるく肘をついたままコーヒーを飲む青年のために動いていた。青年は朝食を取っているところだった。

ようやく開放され、ヨンジェは1人その場に取り残された。

ここまでヨンジェを連れてきた男はさっさと部屋を出ていき、青年は面倒くさそうに朝食を食べていて、メイドたちは陰気な顔で黙って動いている。
誰も部屋に入ってきたヨンジェを見ようとすらしない。目的地はここでいいのだろうが、何となく抱いていた予想と反して、何の関心も持たれない。だからと言って、自分から名乗る必要も感じないし、何をしましょうか、などと聞くのは怖い。

青年はこの家の主なのか。それには若すぎるような気がする。きっと、自分と同じくらいの年齢だと思った。時折、大きな目を眠そうにこすりながら、1人では食べきれない程の料理を、少しずつ手を付けていく。どれもこれも、きれいに盛り付けられて、様々な食材が用いられて、朝食と呼ぶには憚られる質量だ。
見た目にもおいしそうなのに、青年はまずそうに食べている。味を感じていないように見える。目の前の料理が、どれほどの手間と時間と食材の上に成り立っているのか、そんなことは考えもしないのだろう。これがあることが、当たり前なのだろう。

誰なのだろう、とヨンジェは思った。

だが、誰も何も言葉を発しない時間が、チクタクと流れていく。

いい加減、何か言おうかと思った頃、青年がふぅーと大きくため息をついた。秒針の音以外に突然聞こえた音だったので、ヨンジェはびくっと肩を震わせる。

「もういいよ」

ほとんど全部一口二口しか食べられていない料理たちが、ワゴンに乗せられて、テーブルの上が片付けられていく。余った料理たちはどうなるのだろう。もしかして、捨てられるのか、それとも誰かが食べるのだろうか。青年の食べ残しを。

メイドたちがいなくなる。部屋には2人きりだ。青年はメイドが最後に残していったコーヒーをもう一杯飲んでいる。

「大学に行こうかと思ってたんだけど、寝過ごしてしまってね。暇だな、と思って、君を買ったことを思い出したんだ」

その言葉は、唐突ではあったが、確かにヨンジェに向けられたものだった。彼がヨンジェを買った人間なのだ。この家の主なのだろうか。

「あ、そうだ。俺の名前はデヒョン。知らないよね、俺のこと。まぁ、知らなくてもいいし、デヒョンって呼び捨てにされるのもあれだけど、君は特別だからね。許してあげないでもないよ」

デヒョンは目鼻立ちの整った、とてもきれいな顔立ちをしている。眉のあたりで切りそろえられた自然な形の前髪、乱れのないまっすぐ艶のある黒髪。メイドのいるいないに関わらず、彼が少なくともこの部屋の主であることは明白だ。
傲慢な物言いではあるが、威圧感をそれほど感じないのは、彼の外見のせいだろうか。それとも、生気のない白い肌のせいだろうか。

頬杖をついて、まっすぐにヨンジェを見る。ヨンジェもデヒョンを見返すが、その目を見るのが怖かった。黒い深い目の色が、肌の色よりも生気がない。

「ユ・ヨンジェって言うんだよね。データは持っているよ。早生まれって面倒だなぁ。生まれ年が違うのに、同じ学年なら“友達”になるんだ。君はそれ、気にする方?」

デヒョンは大学にいけ好かない早生まれの同級生がいるので、そいつのことを言ったのだが、ヨンジェが知るはずもない。そもそも、ヨンジェは白血種であることを隠すために、学校に行ったことがないから、学年がどうこうというのは知らないのだ。

「まぁ、いいや。どうせ君は、僕の父に買われた亜種と言うに過ぎない。同等だなんて、思わないでよ」

デヒョンは笑顔でそう言って、立ち上がる。ゆったりと歩いて、近付いて来る。ヨンジェは逃げ出したくなるが、その場から動けない。黒い目で射抜かれて、その場に縛られてしまったみたいに。

「白血種。亜種の中でも特に珍しく、症例の報告がほとんどない。今までに調査されたのは12例だけ。遺伝子的には一家族と言ってもいいほど。つまり、君の血縁だけが、この地球上に存在する白血種ということだ。なのに、君は一人っ子、両親は死んで、…従兄弟とかいる? いなかったら、種としてはもう絶滅だね」

ヨンジェは自分が白血種であることを特別だと思ったことはない。家族が全部、そういう血だったから、不思議に思ったこともない。隠れるように暮らすことを、疑問に思ったことはあるが、今になってみれば、それも必然だった。従兄弟はいる。親戚も、10人以上は数えられる。彼らが、自分と同じような狙われる立場にあることが、無性に悔しかった。自分は捕らえられてしまって、買われてしまったことが、今になって、悔しいと感じた。

すぐ目の前に、デヒョンが立つ。背は少しヨンジェより高いくらい。近付くとより見える。彼の深い闇の目が。

デヒョンが何気なく言った「両親は死んで」と言う言葉が引っかかる。母も、死んでしまったのだろうか。

「僕の両親のことを、知っているんですか?」

思わず聞いていた。
デヒョンは首を傾げる。知っているのかと思っていたのに、どうやら知らずに、そして気になるようだ。

「君の両親は死んで、検体として国立大学病院に送られている。今頃、研究に役立っていることだろう。死んでも役に立つなんて、良いことじゃないか。種として死に絶えたとしても、特に困ることもないだろうに、何を研究するんだろうね」

デヒョンは微笑んで言った。これでも、慰めているつもりだ。
だが当然、ヨンジェにそれが伝わるはずがない。見下されていると感じた。生きていても、死んでいても、どうでもいい存在として。
大切な両親、家族。仲良しの従兄弟たち、優しい親族たち。自分たちの全てを否定されたように感じて、ヨンジェは怒りを感じた。

「そんな、簡単に言わないでください…!」

無意識に、デヒョンの服を掴んで、拳を押し付けていた。
デヒョンは驚いた。ヨンジェが起こっていることに、驚いていた。

ドアが開いて、先程の男が入ってくる。すぐさまヨンジェをデヒョンから引き剥がし、腕を後ろに締め上げる。
ヨンジェは肩が外れそうなほどの痛みに、顔をしかめて、その場に崩れ落ちる。そうしながらも、冷静に、この部屋も監視されているのだと理解した。自分がデヒョンに何か危害を加えるようなことがあれば、すぐさま警備員がやってきて、自分はすぐに倒される。
冷静に行動しなければ、と考える頭と、両親が死んで研究材料にされていることへの悲しみに暮れる頭が混同して、ヨンジェの身体は力を失くしていった。

「いい。離せ」

拘束が解かれても、ヨンジェは動けない。打ちひしがれるヨンジェを見下ろして、デヒョンはコンクリートの地下の部屋で、彼の歌を聞いた時と同じように、彼に興味を持った。
デヒョンは父親が死んだという状況が羨ましい。家を出て、今頃どこで何をしているのか分からない母親に関しても、別に何も気にならない。
家族に愛されるということ、家族を愛するということが、デヒョンには分からない。なぜヨンジェが自分の言葉に怒り、打ちひしがれているのか、デヒョンには理解できないでいる。

それが興味を引き起こす。

歌を聞きたいと思っていた。デヒョンも歌が好きだ。1人でよく歌っている。そのことを、父は知っているのか、この部屋にあるカメラで聞いているのか、それは知らないが、言及されたことは一度もない。

地下で聞いた歌をもう一度聞きたい。だが、口から出たことは、全く別のことだった。今はまだ、なぜかまだ言えないと思った。

「ねぇ、血を見せてよ。白血種って、血が白いの? 透明なの? 見せてよ」

感情が読み取れない言葉に、ヨンジェはデヒョンを見上げる。
デヒョンの笑顔は華やかで、きれいと言っても良いほどで、女性ならば見惚れてしまうのではないかなと感じる。
だが、彼の口から出る言葉は、笑顔とはかけ離れた内容だった。
傷をつけることを厭わない、いや何とも意識していない、感情が感じられない言葉と、無邪気さも感じられる笑顔とのギャップに、ヨンジェは背筋が凍る思いがした。

なぜ彼はこれほどまでに、無感情なのだろう。人の心を慮るということを、知らないのだろうか。
これほど裕福で何不自由なく、過剰なほどのものに囲まれて暮らしているというのに、何一つ満たされていないようだ。

なぜ、そうなのだろう。その疑問が、興味を引き起こす。

デヒョンに感情はないのだろうか。なぜ自分を買ったのだろうか。なぜ何でも持っているはずなのに、満たされているように感じられないのだろうか。
何よりも、深い暗い目が、恐ろしいのに、悲しい。

2人の視線が合う。貼り付けた笑顔はない。お互いの目を通して、相手のことを感じようとしていることを、お互いにまだ知らずにいた。

6 タギル

ヨンジェは連れ出された時と同じように、腕を警備員に掴まれて引きずられるように、元いた部屋に戻ってきた。出ていった時と変わった所は、左腕に包帯が巻かれていることくらいで、表情は何をされるか分からないまま出て行った時よりも安堵が見えて、気の抜けたようなものになっていた。

背中を押されて部屋に押し込まれ、背後でドアに鍵がかかる音がする。
そう言えば、デヒョンの部屋でも同じ音を聞いた。彼はこの屋敷の主人の息子だから、ヨンジェと同じく閉じ込められている訳ではないだろうけれど、外から鍵を掛けられた部屋で、朝食を不味そうに食べているのを思い返せば、いくら豪華に見える部屋だって、居心地がいいものではないだろう。

部屋を見回して、ヨングクの姿を探す。彼はベッドで寝ていた。無事に戻ってこられたことを知らせようと、ベッドに近付く。
ヨングクは寝ているのではなかった。痣の出来た顔、血の飛び散ったTシャツ、苦しげに閉じられた目と呼吸、手当もされないまま、首筋から流れ落ちて、半ば固まった血。
ヨンジェはその姿を見て、息を呑んだ。ヨングクが自分よりも酷い目に合わされるなど、予想もしていなかったのだ。

「ヨ、ヨングクさん…」

手を伸ばすも、触れることができなくて、力ない右手が宙を彷徨う。包帯を巻かれた左腕よりも、目の前に横たわる、傷付いたヨングクを見ることの方が痛い。

ヨンジェの声を聞いて、ヨングクが目を開ける。充血した、少し虚ろな眼差しが、ヨンジェを捕らえる。目が合うと、ヨングクは小さく微笑んだ。

ヨンジェが無事に戻ってきた。外見的に目立つ傷も左腕だけで、むしろ自分を見て痛そうにしていることが、怯えさせて悪かったと感じる。
精一杯努力して微笑むも、痛みに思わず舌打ちをする。

思いっきり殴られた。多分、理由はない。痛めつける、それ自体が目的の暴力だった。昼飯が出ないな、と空腹を感じながら数時間後、顔も腹も全身を殴られながら、昼飯が出なかった理由を知って内心で苦笑した。吐くものを無くして、部屋の汚れを少なくしようとする魂胆だろう。
今更、この屋敷の中の異常さを体験するなんて、遅すぎる。理解しているようで、分かっていなかった。もっと最初からあらゆる可能性に、身構えていなければならなかった。
殴られながら思ったのは、ヨンジェが無事であればいい、ということだ。自分のように、殴られていないといい。ひ弱そうな彼なら、すぐに死んでしまいそうで怖かった。
自分が傷付くことよりも、ヨンジェが絶望と苦痛の中で死んでしまうかもしれないということに、恐怖を感じた。

だから、左腕に包帯を巻いただけで、ちゃんと戻ってきてくれたことが嬉しいと思った。たった一晩情を交わしただけで、未だ初対面のような年下の少年に、随分と依存してしまったものだと自分の気持ちに呆れる。

「ヨングクさん…、傷が、酷い…」

ぐすぐすと泣きそうになっているヨンジェが、大きなベッドによじ登り、ヨングクににじり寄る。彼の重みに傾いて、視線も固定される。白い手がヨングクの頬の痣に触れる。体温の低い、冷たいヨンジェの手。その手に、自分の手を重ねようとして、腕を上げると、全身に痛みが走る。

「お前が…」

「え?」

声をだすのも辛い。うまく言葉にならなくて、ヨンジェが聞き返す。耳をヨングクの方へ近づける。
ああ、全身が痛い。手当さえしてもらえないのは、自分はヨンジェよりも利用価値、存在価値が低いということだろうか。まぁ、それでもいい。

「ヨンジェが、無事でよかった…」

「ヨングクさん…」

ヨンジェの目から涙が溢れる。傷だらけで微笑むヨングクの姿を見ていられなくて、思わず俯いて目を瞑る。
1人だけ無事でも意味がない。ヨングクがいなければ、自分はきっとこの異常だらけの屋敷で生きていけない。ヨンジェはそのことを強く感じて、ヨングクの負担にならないように気をつけながら、彼を優しく抱きしめた。


 ***


部屋の中には、一通り揃った救急箱があったので、それを使ってヨンジェがヨングクの手当をする。絆創膏を貼るだけの簡単なことではないので、ヨンジェは慣れない手つきで、それでも丁寧に、薬の仕様書を読みながら、薬を使い分け、包帯を巻いていく。

「全身、包帯だらけになっちゃった…」

「ははっ。ありがと」

「笑い事じゃないですよ」

ヨングクが笑うから、ヨンジェは泣きそうなのに、釣られて笑ってしまう。痛いはずなのに、自分よりも大怪我なのに、ヨンジェは自分を気遣ってくれるヨングクの強さが羨ましいと思った。

手当が終わったのを見越したように、突然ドアが開いて、メイドが夕食を運んできた。ヨングクもヨンジェも、朝食以来、今日2回目の食事だ。昼をわざと抜かされたとして、夕飯が17時前と早い時間なのも、すべて計算されて、管理されていると感じる。

だが、腹が減っていた。傷が痛くても、料理の匂いを嗅げば、ヨングクの腹が鳴った。

ご飯を食べて、することもなくて、ヨンジェは風呂に入る。左腕に巻かれた包帯が濡れないように気をつけながらシャワーを浴びる。利き手とは言え、片手だけで髪を洗うのは大変で、ヨンジェは適当に済ませた。
濡れた包帯を取り替えるのも片手では難しくて、デヒョンの部屋でヒムチャンという医者にしてもらったものよりも、ぐちゃぐちゃになったが、なぜか少しだけ落ち着いた。

ヨンジェが風呂に入っている間に、ヨングクはすでにベッドに入っていた。その隣に静かに滑り込む。すぐ隣に寝転んで、ヨングクの熱を感じる。

「痛み止め、飲みましたか?」

「ああ」

「お医者さん、いるから、来てくれたらいいのに。呼ぶ方法、ないんでしょうか…」

「手当なら、もう済んでる」

「でも…」

あまりうるさくしては駄目だと思って、ヨンジェはしぶしぶ口を閉じた。自分の手当では不十分だと思っていたから、できればちゃんとした医師に見てほしかったけれど、呼ぶ方法が分からないから、考えるだけ無駄だった。

「俺なら、大丈夫だ。殴られるのは、慣れている」



半分、裏社会で暮らしていたのだ。トラブルなど日常茶飯事で、それほど弱いつもりもない。人を傷付ける趣味はないものの、仕方なく、ケンカも幾度も経験した。
今までで一番殴られたし、一番痛いけれど、殺す気がないのは分かったから、とりあえず大人しくしておけばいい。
だが、予想外だったのは、殴ってきた相手が、ヨングクと同じ吸血種だったことだ。
床に倒れ込んだヨングクは、相手が荒い息をして、疲れているのが分かった。これで終わりだろうと高をくくっていた。もうじき去っていくだろうと思ったのに、相手は呼吸を整えた後、ヨングクの胸元を乱暴に掴んで、引き起こし、首筋に噛み付いてきた。

血を吸われたのだ。それには驚いて、弱った身体で抵抗も出来ず、首を噛まれて声も出ない。

今まで何度も、数え切れない程の人間の血を吸ってきたけれど、血を吸われたのは初めてのことだった。

気持ち悪くて、吐きそうだった。頭がぐらぐらとして、床に放り出された後は、痛みではなく、目眩で立ち上がることができなかった。そして、そのまま気を失った。

気付いたら、部屋には誰もなく、せめて寝心地の良いベッドまで這いずって行った。



話を聞いたヨンジェは、また泣きそうな顔になった。ヨングクの肩に額をくっつけて、蒲団の下で手を握る。
無事でよかったと心から思う。殺す気がないとは言っても、痛めつける気は大いにあるのだから、これ以上の怪我を負うこともあるということが怖いし、これ以上、ヨングクが傷付くのは嫌だ。目を閉じると、死んだ父の姿が脳裏に浮かんだ。振り払うように、頭を振る。

「血を吸われるのって、気持ち悪いもんだな。…悪かったな。痛かっただろ…」

「え? あ、いえ! あ、痛いのは、痛かったですけど…でも、大丈夫です。僕は、気持ち悪いなんて、全然、思っていませんから」

「そうか?」

「はい」

少し沈黙が流れる。お互い、繋いだ手は離そうとしない。ヨンジェには、少し熱いくらいだけど、今はその熱が嬉しかった。

「ヨンジェの方は、何があった? 腕の傷は、どうして?」

躊躇いがちに、ヨングクが聞いた。

「これは、そんなに酷いものじゃなくて。どうして、って言うと…えっと…」

デヒョンに付けられた傷だった。「血が見たい」と言った彼が、ご丁寧にヨンジェの利き手を避けて、左腕を切りつけたのだ。

心配して聞いてくれているのだから、「大したことじゃない」の一言で片付けるのは嫌だったが、ヨングクにきちんと説明をするのは、少し難しかった。

デヒョンという、不思議な青年のことを説明しないといけないから。この屋敷の主人の息子が傷付けたのだ、とそれだけを言うと、ヨングクがデヒョンへの憎悪を無用に膨らませてしまうと思って、それは嫌だと感じた。そんな自分を発見して、ヨンジェは内心で首を傾げた。

自分は、デヒョンに対して、どういう感情を抱いているのだろうか。そこがはっきりと見えなくて、もどかしい。

「えっと、ちょっと長くなるんですけど…」

「いいよ。話して」

ヨンジェは語り始めた。

7 ナガス

「ねぇ、血を見せてよ。白血種って、血が白いの? 透明なの? 見せてよ」

こともなげにデヒョンは言う。それがどういうものか分かっていないかのように、無邪気に。整った顔が微笑んでも、ヨンジェは少し怖いと感じるほどだった。

デヒョンは引き出しからナイフを取り出す。柄に宝石の装飾がついた、美しい短刀を手に持って、近付いて来る。

「これ、出ていった母が置いていった懐剣なんだけどね。嫁入り道具の1つなんだって。宝石もついて、豪華で、きれいなんだけどさ。ねぇ、知ってる? 懐剣って、女性が夫に貞操を捧げるって言う意味があるそうだよ。夫以外の男に汚されることがあれば、この剣で命を絶つ覚悟を、懐に入れた剣で示す。―――笑うよね。どんな覚悟だか」

鞘を放り投げて、抜身の短剣を光に翳す。煌めく刀身を、デヒョンはうっとりとした表情で見つめた。

短剣を持って近付いて来るデヒョンのことが、怖かった。血を見るということは、それで傷を付けられるということだ。
痛いのは、嫌に決まっている。昨日の夜、ヨングクが噛み付いた傷も、まだ塞がりきっていないのに、短剣で切られたら、もっと治りにくい深い傷ができる。

デヒョンが近付く分、ヨンジェは後ずさる。

「逃げないでよ。どんな血か、見るだけだって」

それこそが怖いのだ。それが、分からないのだろうか。なぜ分からないのだろう。デヒョンという人は、どんな思考をしているのだろう。

「い、痛いから。ナイフで、切るんでしょう?」

「ああ、痛いのが嫌なの? ふーん、そっか。まぁ、そうだよね」

確認することではない、とヨンジェは思う。
だが、デヒョンは違った。痛いという感覚や感情を、彼は時に忘れることがある。忘れて感じない術を、彼は身につけていた。

デヒョンは、ヨンジェから短剣に視線を移す。そして、何の躊躇いもなく、すっぱりと自分の左腕を切りつけた。

その短剣は、よく手入れされ、よく切れる。赤い血がぼたぼたと床に落ちて、絨毯に染み込んで、赤黒いシミが広がっていく。見ているだけでも痛いような大きな傷を自ら付けたというのにも関わらず、デヒョンは平然と、自分の付けた自分の腕の傷を眺めていた。まるで、他人の腕を見るように。

ヨンジェは驚いて、声も出せない。一歩後ろによろめいて、かろうじて踏みとどまる。
赤い血を見たことはあまりない。正直に言うと、ヨンジェにとっては見慣れない赤い血が怖かった。だが、それ以上に、深い傷にも平然としているデヒョンも怖かった。
てっきり、そのナイフで、自分が切られるのだと思ったのに、予想に反してデヒョンは自分を傷付けた。どうして、そんなことをしたのだろう。

「赤い血を見たのは初めて? どう? 血の色って、何色っていうのかな。赤いというより、赤茶色? 錆みたいで汚いでしょ? 実際に、鉄分が多いから、血というのは錆びているものなんだよ。人間の中には、錆びた汚れが流れているんだ。
涙の血って名前、きれいだね。きっと、君の白い肌の下に、白い血が流れているのだろう。それを見せてくれないか。錆びていない、きれいな血を見せてくれよ」

ヨンジェは戸惑う。自分の白い血がきれいだと思ったことはない。それは当たり前のことだったから。だが、どうしても消えない、赤黒い血への微かな拒否感。デヒョン自身が、一番感じているのだろう。自分の中に流れる血に対する嫌悪感。

血を流しながら、近付くデヒョンの目を見つめようとするけれど、彼の視線は少し下や斜め上などを彷徨っていて、2人の目線が合うことはない。
右手にナイフ。左手は血に染まっている。その左手で、ヨンジェの左手を取る。
体温の低いヨンジェには、デヒョンの血はとても熱かった。恐怖を、唇を噛んで、飲み下す。なされるがまま、左手に赤い血のついたナイフを押し付けられるのを、ヨンジェは身体を強張らせながら、それでも声を上げることなく我慢しようとしていた。

「何か言わないの?」

「…え?」

デヒョンの言葉の意味が分からない。行動の意味さえ分からない。デヒョンという人が分からない。そのことに戸惑う隙に、デヒョンは一気にナイフを引いて、ヨンジェの腕を一直線に切りつけた。

とろりと流れ出る。透明よりも少し濁っていて、水よりも粘度があって、絨毯に落ちても、シミのように広がらない。

本当に血を見ることが目的のようで、透明な、涙に似た液体が流れ出るのを、デヒョンは黙って見つめていた。ヨンジェが赤い血に戸惑ったように、デヒョンも初めて見る白い血が不思議だった。成分がどんなだとか、なぜ赤くないのかとか、そんなことに興味はないけれど、それを持つヨンジェには、興味を持っていた。
だから、選んだ。
指で触れて、少し舐める。涙のように味はない。「味がない」と言うと、ヨンジェは状況も忘れたように、首を傾げた。その仕草が子供のようで、デヒョンは少し笑う。

さっきから自分ばかり喋っているとデヒョンは思っていた。自分はこんなにお喋りだったろうか、と思うほど、いろいろと説明している。説明、してあげている。自分で選んだ相手とは言え、親切に過ぎると思った。

ヨンジェの声が聞きたいと思った。流れ出る白いというのか、透明というのか、不思議な色の血を見ながら、歌が聞きたいと思った。だけど、こんな状況で、歌ってくれるはずがない。
地下の檻のような部屋の中で歌っていた少年。自分と同じように、傷付けられる運命に晒された少年。両親の死を嘆き、痛みを嫌がり、境遇も、血の色さえ違う少年。

何の、どんな、シンパシーを覚えたのだろう。
ただ、歌が聞きたいと、今、強く思っているのに、デヒョンはその思いを口に出せなかった。
敗北宣言のようだ。

デヒョンはふいにヨンジェの手を放して、背を向けた。ナイフも放り出して、少し待ちぼうけをくらった子供のように立ち竦んでいた。

またふいに動いて、デヒョンはヒムチャンを呼び出す。

「ヒョン、ちょっと部屋に来て。怪我した」

『怪我?! 何で! すぐ行く。待って―――』

離れた場所にいるヨンジェにも微かに聞こえるくらいの大きな声が、電話口から溢れる。デヒョンは耳から受話器を少し遠ざけて、返事を最後まで聞くこと無く、さっさと通話を切った。



痛みを堪えて、待っているところにやって来たのは、白衣を着た青年医師だった。

「自分で切った?! 何でそんなこと!」

手当を受けながら、ぼそぼそとデヒョンは経緯を話すが、当然、ヒムチャンに伝わるはずがない。ヒムチャンはデヒョンが傷付くことはすべて嫌だが、一番嫌なのが、デヒョンが自分で自分を傷付けることだ。
白血種の血を見るだけなら、自分の腕を切らなくてもいいだろう、と思って口から言葉が出そうになったが、すぐ側にその白血種の少年がいることを思い出して、ぐっと飲み込んだ。

ぶつぶつと小言を溢しながら、それでも丁寧に手当をするヒムチャンを見て、ヨンジェは意外に感じた。デヒョンにも、こうやって、その身を労って親身になってくれる人がいるのだ。彼は孤独なのかと思っていた。だけど、どんな境遇でそうなのかは分からないが、彼は心を閉ざしているのだ。痛みさえ、感じないほど、深く堅く重く。
デヒョンはヒムチャンの言葉など聞こえていないように、そっぽを向いて、だが大人しくしている。少なくとも、気を許しているのだ。
自分とヨングクのようだな、と思った。ヨンジェもすでにヨングクに気を許しているし、側にいて欲しいと願っている。
だけど、それは正常ではない。買われてやってきたこの家は、まともじゃない。それを忘れてはいけないと思った。

「ほら、次は君だ」

ヒムチャンに手招きされて、ヨンジェは顔を上げた。

「亜種に、普通の人間の薬が効くかどうか、俺は知らないけど、それしか薬は持ってないからね。とりあえず、縫うほどの深い傷じゃないから、包帯できつく巻いておけば、その内治るだろう」

ヨンジェは頷く。

「悪かったね、デヒョンが…。痛かっただろう」

「何でヒョンがそんなこと言うの!」

ヒムチャンの言葉に、デヒョンが反論する。ヨンジェははらはらして、2人を交互に見る。

「お前が謝らないだろうから、代わりに言ってやったんだろうが。こんなに大きな傷を付ける必要ないだろ」

「謝る必要だってないだろ。そいつはこの家に買われてやってきた奴隷だ」

奴隷という言葉がヨンジェの心に突き刺さる。やはりそうなのか。分かっていたけれど、実際に直接言われるとやはりショックだ。
それを感じ取ったのか、ヒムチャンが気遣うように頭を撫でてくれて、小さな声で「すまない」と言った。

「手当は終わりだ。これは替えの傷テープと包帯。持っていなさい。自分で出来る?」

出来るかどうか自信はなかったが、ヨンジェは頷く。するとヒムチャンは笑顔で「いい子だ」とまた頭を撫でてくれた。
きりっと整った顔立ちのヒムチャンは、真顔でいたら少し怖いような気もするが、笑顔で優しく接してくれて、ヨンジェは気楽だった。主人の息子であるデヒョンにも遠慮のない物言いをする辺り、気さくで優しい人なのだろう。

ヒムチャンが余計なことを言ったからか、デヒョンはふて腐れたように、朝ごはんを食べていた場所に座って、足を組んで、偉そうな感じで窓の外の方を向いていた。
左腕に巻かれた包帯に、少し赤い血が滲んでいる。彼の方が、傷が深いのだ。痛いはずなのに、それさえ感じないほど、彼の深く傷を負っている。

これは何のシンパシーだろうか。ヨンジェは不思議に思う。自分を切りつけるような相手に興味を覚えるなんて。
だけど、興味があるなどと、軽々には言えない。愛の告白のようだ。

少し怖かったけど、近付いて行く。ヒムチャンは不思議に思ったが、治療の後片付けをしながら、黙って見守っていた。

「傷、大丈夫ですか? 僕より、あなたの方が、痛そうで…」

「別に。心配されるいわれはない。君、もういいよ。出て行って」

デヒョンはヨンジェの方を見ない。心配されるようなことではないし、どちらの傷が深くあろうとも、付けたのはデヒョン自身だ。
出て行け、と言ったのに、ヨンジェはその場から動かない。どころか、手を伸ばしてきて、デヒョンが怪我をした左手を取った。冷たい手に、ほんの少し驚いて、それを悟られないようにと思ったら、身体が強張った。

「何を…」

手を引こうとしたが、怪我のせいか、引き離すことができなかった。

「痛そうだから、おまじない」

「は?」

ヨンジェはその場に跪き、より強く深く、お互いが怪我をした左の手のひら同士を重ね合わせる。
相手のことを思う。たとえ、自分に傷を付けた相手であっても、そういうことは関係なく、ただ傷が早く治るようにと願う。空いている右手を自分の胸に当てて、目を閉じる。デヒョンはヨンジェが何をしようとしているのか分からないが、黙って見ていた。邪魔ができなかった。しようという気も起きなかった。少し冷たい手に、自分の熱が移って、ほんのり温かく感じてくる。

ヨンジェが再び目を開けた時、その目から涙がぽろっと流れ出て、球体になって落ちていった。ヨンジェが自分の右の手のひらで受け止めた4、5粒の透明の玉を1つ、デヒョンは思わず指でつまむ。すると、それは雪のように溶けて涙に戻ってしまった。

「これは、僕らだけのおまじないです。あなたの痛みが、涙のように流れて、いつか止まりますように」

ヨンジェは透明の玉を握って、デヒョンの傷口に当てる。玉が溢れないように慎重に、手のひらを広げて、涙の玉が傷に染みるように、何度か擦る。
痛くはない。誰かに触れられるのは嫌いなのに、ヨンジェに手を握られていても、不快感はない。むしろ少し冷たくて、なぜか心地よい。

不思議に思って、ヨンジェを見ると、彼はにこっと笑った。

握られていた手を、振り払う。立ち上がり、距離を置く。自分に向けられた笑顔に、背を向ける。見てはいけないもののようだった。あり得ないものを見たような気がした。この世に、自分に、あるはずのないものを目の当たりにしたようで、デヒョンはその笑顔を信じることができなかった。

「…何が、おまじないだ。くだらない」

冷たく吐き捨てる。
本当は心地よく感じていたことには、蓋をする。それにさえ蓋をしなければ、何か別のものが溢れて止まらなくなってしまいそうだった。

「もう行け」

「はい…」

再び警備員に連れ出されるヨンジェを、ヒムチャンは黙って見送っていた。何も言うことはできないが、彼も少しショックを受けていた。
白血種は数が少なく、調査数も多くない。なぜ血の色が違うのかすらはっきりと解明されていないのに、おそらく誰も知らないだろう。涙が固まることも、それが通常の人肌温度では溶けてしまうことも。研究し甲斐があると医師として思う反面、それを理由に数が少ない彼らの一族がさらに苦難に晒されるかもしれないことが辛い。

救いは、ヨンジェの笑顔だろうか。それさえ、この家にいれば失われるかもしれない。

「ヒョンも出ていってよ。1人にして」

デヒョンの固い口調に、ヒムチャンはしぶしぶ従う。

「…わかった。何かあれば、またすぐ呼べ」

パタンと閉まるドアの音を聞いて、デヒョンはベッドに突っ伏した。何かに蓋をする。溢れそうな何かを、奥底に仕舞う。ずっとそうやって生きてきた。ずっとそれしかできなかった。
今、溢れそうな何かは今までのものとは違ったけれど、それでも、そうするしか、自分を抑える術をデヒョンは知らなかった。

8 ツムル

ヨンジェが朝起きると、すでに朝食がテーブルの上に並んでいた。朝、と言うには少し遅い。食欲は湧かない。ヨングクは赤い顔で、苦しそうに唸っている。触れなくても、熱があることが分かる。やはり、不完全な自分の手当では良くなかったのだ。

どうしようと部屋をうろうろして、救急箱を漁って、とりあえずヨングクの額に冷たく濡らしたタオルを乗せて、自分に出来ることを探す。

鍵の開く音がした。

はっとして、扉の方を振り返る。4人の男がいた。知っているのは、昨日、デヒョンに切られた腕の手当をしてくれたヒムチャンと、その部屋までの往復を引っ張って行かれた警備員の2人。もう1人、警備員らしい男と、そして、一番身なりの良い、年寄りの男は初めて見る。
良い感じはしないが、ヒムチャンがいることが少しだけ良い事だった。

ヨンジェの予想通り、ヒムチャンはヨングクの手当のために部屋を訪れた。ヨンジェが巻いたのであろう、ぐちゃぐちゃでゆるい包帯を解いて、救急箱に入っているものよりも強力なよく効く薬を塗りつける。無言のまま作業を続けていると、ヨンジェが自然と手伝ってくれる。
ヨングクのために必死な表情だ。いい子だな、と改めて思うのと同時に、自分まで申し訳ない気持ちになってくる。
直接傷付けるのが自分でなくても、だ。

注射を取り出すと、ヨンジェが少し怯えた。

「…それは?」

「痛み止めと、解熱のため。経口より注射の方がよく効く」

手当を済ませ、栄養補給のための点滴を取り付ける。ヨングクは一度薄っすらと目を開けて、ヨンジェの方を見たが、結局声が出せないまま、再び眠った。ヨンジェは分からなかったが、点滴の中には、睡眠作用のある薬も調剤されていた。ヨングクは眠らされたのだ。怪我を治すためと、もう1つ邪魔にならないように。

ヒムチャンの手際を、男は注意深く見ていた。ヨングクには回復してもらいたい。まだまだ楽しみはこれからなのだ。ヨングクの側に付きっきりで、心配そうな表情を浮かべるヨンジェを見る。デヒョンも自分に似ずに良い顔だが、ヨンジェはまたタイプの違う良い顔をしている。
良いものを手に入れた、と男は満足していた。きっかけはデヒョンが欲しいと言ったからだが、2人一緒のところを見ていると、一緒に買ってよかったと思っている。

「ヨンジェ、来なさい」

男が声を掛けると、ヨンジェはびくっと肩を震わせて、身体を縮めて、嫌がる素振りを見せた。
そんなことで気を悪くすることはない。だが、有無は言わせない。

「来なさい。命令だ」

ソファに座って、屈強な警備員2人を従えている年寄りの男。その男こそが、ヨンジェに命令もできる人間なのだ。もしかしたら、いや、もしかしなくても、その男こそが、この屋敷の主人なのかもしれない。

ゆっくりと歩いて、その男の側に行く。どれだけゆっくりと歩いても、部屋の中の距離は短い。側に立つと、もっと、と手招きされて、もう2歩近付くと、わざとなのか怪我をしている左腕を掴まれて、隣に座らされる。

肩に回された腕が熱い。それよりも、怖い。得体の知れない恐怖が、ヨンジェの身体を固まらせる。

「終わりました」

ヒムチャンが告げる。

「ヨンジェ、君の腕はどうだ? 包帯を変えてもらうかい?」

「あ、い、いえ…。大丈夫、です…」

手当をし直してもらう方がいいのか、どうなのか、ヨンジェの思考は回らない。

「だそうだ。下がっていい。また、後で、仕事があるだろうけどね」

男はそう言って、ヨンジェをソファに押し倒した。突然のことに、ヨンジェは驚いて、慌てて抵抗するが、控えていた警備員が2人がかりで、両手と両足の動きを制して、びくとも動けなくなる。

怖い。犯される。これは、絶対、犯されるのだ。
服の下に男の手が伸びてきて、素肌を撫でる。その感触の気持ち悪さに、全身に鳥肌が立つ。

怖い。怖い。そう思いながら、ヒムチャンの方を見るが、目を逸らされる。愕然とした。デヒョンに対して親身だったように、自分にもそうなのかと思っていたが、勘違いだった。所詮、自分は、この家に買われた、この男の奴隷だった。それを思い知らされた。

「失礼します」

ほんのたった数日にしかならない期間の内に、何度、絶望という名を思い知れば良いのだろう。

「あれに助けを求めても無駄だ。何かを願うのなら、わたしに乞いなさい」

扉が閉まる音と鍵のかかる音が、ヨングクが眠り、ヨンジェが泣く部屋に小さく響いた。



 ***



ヒムチャンはヨンジェを見捨てた後、まっすぐにデヒョンの部屋に向かった。見捨てたというのは自分の勘違いで、元より主人に抗うことなどできないのだから、あれは仕方ないことなのだ。そのために買われたと言っても過言ではないのだ。
主人の異常なまでの加虐趣味に晒されるために、傷付けられるために、彼らは金で買われたのだ。
見捨てたのではない。ヒムチャンは自分に言い聞かせた。

デヒョンの部屋に入ると、彼はまだベッドの上で微睡んでいた。目は開けているが、まだ眠気に勝てずに、だらだらと寝返りを繰り返している。

「まだ寝ているのか? いい加減、起きなさい」

「何~。うるさいなぁ」

ヨンジェを見捨てたイライラが、言葉に表れて、デヒョンまで苛つかせてしまった。
デヒョンはしぶしぶと言った感じで起き上がり、ヒムチャンには全く構わず、バスルームに入っていった。
デヒョンのために用意されていくブランチを眺めながら、おかずを1つ2つ摘んでいく。すると、手を出すな、と言わんばかりに、別皿にヒムチャンのためのおかずが用意されて目の前に置かれた。

「…どーも」

無愛想なメイドに、無愛想な礼を言う。女は好きだが、この屋敷にいるメイドたちは揃いも揃って無愛想で不機嫌で、こっちまで気が滅入ってしまう。
それも仕方ないだろう。主人が主人だ。いくら給与が良いと言っても、正気ではこんなところ、いられない。

ヒムチャンは大きなため息をついた。



「何か用?」

バスローブを羽織って、濡れ髪のまま、デヒョンはブランチを食べている。ヒムチャンも一緒に食べている。朝食は済ませているが、人が食べているのを見ると、食べたくなってくる。その癖はどうにかしないと。ストレス太りだと自分で言い訳しているが、この屋敷で働くようになってから、太ってしまった気がする。

「随分な言いようだな。その腕の手当に来たっていうのに」

デヒョンは風呂に入るのに、包帯を取っていて、まだ治りきっていない傷口があらわになっていた。熱いシャワーは痛いだろうに、自分を傷付けるのを厭わないように、そのような痛みもどうでもいいのだろうなと思う。

デヒョンの傷口をもう一度手当しながら、どうしてもヨンジェのことを考えてしまう。
目が合った時、視線を逸した時、絶望したのはヒムチャンも同じだった。
何が出来ると言うのだろう。医者と言いながら、傷の手当と薬を用意する以外、何も出来ない。内科医として、健康を守ることが出来ていない。今自分がこの家でしていることは、薬剤師でも看護師でも、知識がある一般人でも可能なことでしかない。
給与に引かれてやってきて、秘密を垣間見て恐ろしく、デヒョンが心配で離れられない。中途半端な意気地なし。落ち込んでしまう。何をやっているんだと、自分を責めてしまう。

「…どうかした?」

ヒムチャンの手が止まり、デヒョンが聞いた。

「なぁ、デヒョン。久しぶりに、一緒に買い物しないか? 出かけよう。天気も良いからさ。そうしよう」

ヨンジェを見捨てた意気地なしの自分は、彼が犯されている同じ屋根の下にいることはできそうになかった。この上、逃げるのか、と自問するが、答えられない。

「まぁ、いいけど。昨日絨毯汚しちゃったし、ついでにカーテンも変えようかな」

「それは業者を呼ばないといけないだろ」

「出かけようって言ったのは、ヒムチャンヒョンじゃないか。サンプルを見に、こっちから行ってもいいだろう?」

「そうだね。そうだった」

昨日よりも少し機嫌が良いらしいデヒョンの知らない内に、出かけてしまおう。どうせ、あの異常な父親が、夜にでもデヒョンの部屋を訪れて、得意気にヨンジェの様子を語るかもしれないけれど。
天気の良い時くらい、明るい昼間くらい、明るい場所で、忘れていたいこともある。

9 ソムク

ヨングクが目を覚ましたのは、窓の外が茜色に染まる頃だった。一瞬夜明けと勘違いするが、微かな記憶の中に、今朝手当をしてくれた、見知らぬ若い男の姿が浮かぶ。
今が夕刻だとすると、自分は丸1日近くも寝ていたことになる。それほどまでに殴られたことによる消耗が激しかったということだろうか。
腕に刺さっている点滴の管を引き抜く。身体を動かすと鈍い痛みが全身に広がる。
はあ、と大きくため息をついて、痛みに顔を顰めながら、上体をゆっくりと起こす。ベッドの上に座り込んでようやく、ヨンジェの姿が目についた。
大きなベッドの端っこで、身体に毛布を巻きつけて、身体を小さな子供のように丸めて、目を瞑っていた。その目には涙の痕が残っていた。どれほど泣いたのか、目の周りが青い。くまのようになっている。
ヨングクはヨンジェの姿を認めて、一瞬死んでいるのかと思った。それほど、存在感がなく、顔は青く、生気がなかった。眠っていたとしても、どこかおかしいと気付いた。

ゆっくりと手を伸ばし、髪に触れる。半乾きの黒い髪を撫でる。
ビクリとヨンジェの身体が震えて、目を開けた。反応の激しさにヨングクも驚いて、思わず手を離す。

「あ、ヨンジェ…。…悪い。寝ていたか…?」

恐る恐る尋ねる。ヨンジェの目はまっすぐにヨングクの目を、縋るように見つめてくる。見る見る涙が溢れてくる。流れる涙をヨングクの両手が覆うが、ヨンジェの涙は止まらないどころか激しくなるばかりで、どうしたらいいのか分からない。

「何があった?」と聞きたかったが、声にはならない。聞けるはずがない。何かがあったのは確かだ。激しく泣いてしまうほどの何かが、自分が無防備に寝ている今日にあったのだ。
ヨンジェの冷たい手が、ヨングクの腕に伸びる。
細い身体を抱き締める。自分の痛みはもうどうでもいい。泣き縋る幼い子供のようなヨンジェを抱き締めて慰めてあげたかった。

「ふっ、うぅ…、ヒョン…、ヨングクヒョン…」

自分が抱き締めていてもいいのだろうか。だけど、ふと、呼び方が「ヨングクさん」から「ヨングクヒョン」に変わったことに気付いた。どうということもない。ただ、より近付いて、頼りにされている気がした。

「ヨンジェ…怪我はないか? …どうして、泣いているのか、…聞いてもいいか?」

ヨンジェはヨングクの胸に額をくっつけて、いやいやをするように、頭を横に振る。分かったと言うように、頭をぽんぽんと撫でる。
言わなくてもいい。聞かなくてもいい。今はただ、泣かせてあげようと思った。ヨンジェの身体を自分の腕の中にすっぽりと抱いて、その上から毛布で包み込んで、もう少し、泣き止むまで、2人は言葉もなく静かに座り込んでいた。



 ***



同時刻。
デヒョンは父親によって、ヨングクとヨンジェの様子を画面で見せられていた。監視カメラは屋敷のあらゆる場所にあり、そのどれも父は自由に見ることが出来る。

「助け合う、微笑ましい姿だ」と嬉しそうに話す父の声を、デヒョンはなるべく無関心を装い、視線を画面から少しずらして、直視しないようにしていた。見てしまえば、ヨンジェに苛ついてしまいそうだった。どうして、そんなに泣けるのか。どうして、男に傷付けられたのに、男に慰めてもらっているのか。どうして、無条件に信頼できる相手がいるのか。どうして。俺はどうして…。

ヒムチャンと共に外出から戻ってしばらくして、父がデヒョンの部屋にやってきた。呼び出されることが多いので、父が部屋に来るのは久しぶりのことだ。
緊張で硬くなる身体を、静かに深呼吸してリラックスするように努力する。それは効いているのかどうなのか、いつもよく分からないが、知らない振りをする。自分に対して、知らない振りを続ける。

「ヒムチャンとは仲良くやっているようだね。年の近い顔の良い男を、君の専属医にしてよかったよ。あれは良い男だね。メイドを何人も手玉に取って。デヒョンはまだだろう? 相手にはしないのか?」

「別に興味ありませんから」

「そうか? 君は美しい。男も女も、君に魅了される。いつも思っているよ。デヒョン、君のように美しい男がわたしの息子だなんて、わたしはとても嬉しいんだよ」

カサついた手がデヒョンの頬を撫でる。赤く厚いデヒョンの唇を、父親の指がこじ開けて侵入してくる。
デヒョンはいつも思っている。自分の父親が世にも稀な狂気に満ちた男であることを、いつも憎んでいる。そのような境遇に生まれた自分を恥じている。逃げ場も慰めもない。受けてきたのは、いつも傷と痛みだけ。

父が連れている護衛の男がデヒョンの服を脱がしていく。僅かな父の指の動きだけで、デヒョンも護衛たちも、自分たちが取るべき行動が分かってしまう。そのように調教されている。
ベッドに横たわったデヒョンの後腔を解すのは護衛の男の役割だ。太い無骨な指は、ジェルの助けを借りて、難なく侵入してくる。そしてすぐに、デヒョンの感じる部分を刺激してくる。

「あっ、…あん、あっ…」

唇を噛み締めて、声を出さないようにしていると、もう1人が口をこじ開ける。口の中、胸の突起、性器、後腔、脇腹や内股などの感じる部分、柔らかい部分を、2人掛かりで攻められる。
すべては父が、満足するために。
性交を自ら望んだことなど一度もないにも関わらず、デヒョンは男とも女とも数多く経験してきた。させられてきた。
父がデヒョンの身体で満足を得るために。

「1日に2人抱くのは久しぶりだよ。年甲斐もないと自分を恥じることもあるが、どういう訳か、君たちを見ていると興奮してくるんだ。デヒョンもヨンジェの白い肌に触れてみるといい。冷たくて、吸い付くようで、とても清らかな水のようだった」

「うっ、ああ…、はぁ…あぁ…」

そんなこと聞きたくない。
ヨンジェのやつ。初対面の吸血種に血を吸われて興奮して、簡単に抱かれるような男だ。考えてみれば、どうして俺が、あんなやつにおまじないとやらで、慰められなければいけないのだ。

父が身体の上にのしかかってくる。

「見てご覧。仲の良いことだ。予想外だが、こういう形も悪くない」

タブレットの画面が目の前に突きつけられる。その中では、ヨングクとヨンジェが抱き合い、1つの蒲団で眠っている様子が映っている。
2人はそれぞれ傷を受けても、それぞれに慰め合い、抱き合い、薬にも頼らず、眠れるのだ。2人だからだろうか。
俺はこれから再び、汚れようとしているのに。買われてやってきた奴隷風情が、どうして安らかに眠っているのだ。

タブレットは護衛に手渡されて、デヒョンは父のものになる。父のものでなかった時など彼の人生の中で一度もない。
きっとこれからもそうだろう。
心で受ける傷と、身体が感じる快感と、脳で考える絶望と、複数の感覚を同時に受ける。自分がバラバラになったような感覚の中で、デヒョンはヨンジェの眠る様子を思い出して毒づきそうなのを我慢する。父なのかヨンジェなのか、どっちに苛ついているのか分からない。
両手を抑えられ、弾けそうな自分の性器に触れることができない。父もわざと触れない。後ろからの刺激だけでイクのを望んでいるのだ。その通りにしてやってもいいが、今日はなぜか苛ついて仕方ない。父のものであることを諦めてきたはずなのに、今日はなぜか思い通りに行くことが嫌だ。どうして俺はこんなことをしているのだ。ヨンジェもヨングクもお互いに寄り添って寝ているのに、俺は汚される。

身体をよじる。頭を左右に振る。イキたい。イキたくない。思い通りにしたくない。だがそうする以外に道はない。

「今日は積極的だね、デヒョン」

そうじゃない。積極的だった時など一度もない。望んだことなど一度もない。それでも反応する自分自身を恥じている。
それなのに。
ヨンジェが、眠っているから。俺は、嫌だと言うことも、泣くことも、眠ることも出来た試しがないと言うのに。
ヨンジェが泣くから。

いっそ、壊れてしまいたい、とデヒョンは願った。父が壊してくれたらいいのに。だけどそうはならない。そんなこと、父はしない。
ただ今日も、父の思い通りに弄ばれるだけだった。

10 チカイ

朝食を食べている。味は感じない。豪華だと感じた初日とは違って、それらは色褪せて見えて、ただ空腹を満たすため、食べないと逃げる体力もなくなるからという理由だけで手を動かして、食事を口に運び、咀嚼する。飲み込む時は、吐き気を我慢する。
ジュースの味ではなく、昨日飲まされた精液の味が思い出される。ヨンジェはその味を忘れるように、もう一口ジュースを飲む。

唇を噛んで眉根を寄せて、何かに耐えているらしいヨンジェの様子を向かい側で見ているヨングクは、未だ何があったのかを聞けないでいた。
だが、薄々気付いていた。傷というか痣というか、そういった小さなものがヨンジェの身体中についている。ヨングクが触れようとすると、一瞬避けるような素振りをする。抱き締めると、微かに震えている。
触れられることに怯えている。それは、かつて見たことがあるレイプされた少女の仕草と似ていた。
自分が寝ている間に、そんなことがあったなど、怒りしか湧いてこない。何よりも、自分自身に対する怒りだ。何も知らずに寝ていた自分は間抜けでしかない。起きていたとしたら、防げたことだろうか、と考える。答えはNOだ。簡単に出る答え。だとしても、ヨングクは自分に腹を立てていた。

「なぁ、ヨンジェ」

びくりと震える。怯えを隠して、ヨンジェはヨングクを見る。この人は味方だ。そう信じているし、信じられる。

「前、何か言いかけたことがあっただろ。俺の名前を呼んで、そうしたら、デヒョンだったか、そいつの部屋に連れて行かれてしまって…」

「ああ…」

あの時、ヨングクに聞こうと思っていたことを思い出して、ヨンジェは苦笑した。2日前のことでしかないのに、もう随分と前のことのようだ。家族と過ごしていた時間など、前世のことのように感じる。
他愛のないことが、今は無性に懐かしい。

「…大したことじゃないです。別に、改めて聞くほどのことじゃないんですけど…」

「うん。何だったんだ?」

「ただ、その…」 ヨンジェは恥ずかしくて俯いた。 「ヒョンって、呼んでもいいかなって、ただ、それだけです…」

「は…、何だ」 ヨングクは小さく笑った。 「本当に大した事ないな。わざわざ聞かなくてもいいよ、そんなこと」

頬杖をついて、俯いたままのヨンジェを見る。細い身体に白すぎる肌。目元のくまと、首元の絆創膏、散らばった痣、腕の包帯。儚いという言葉を人間にしたら、こんな形になるのだろうと思う。

「俺の方が年上なんだし、ヒョンだろ。普通さ。それでいいよ。口調も、もうちょっとくずしてもいいよ。あ、タメ口は無しな」

「はい。ヨングクヒョン。…ありがとう」

ヨンジェは言葉を交わせる人間だ。亜種だろうと、何だろうと、両親を殺されて、非合法に売られて、傷付けられた、1人の人間だ。亜種であることが、それを肯定し容赦する材料であってはならない。それは自分も同じだ。亜種だからって、見知らぬ人間に買われて、好き勝手される謂れはない。
断じて、ないのだ。

「ヨンジェ」 まっすぐにヨンジェの目を見つめる。視線が合う。

「はい」

「必ず、ここから一緒に逃げよう。一緒に」

「…はい。はい」

ヨンジェはヨングクの言葉に力を貰い、未だに強張った表情を動かして、笑顔を作った。一緒に、と言うところを強調して言ってくれたことに対して、心から嬉しいと思った。一緒に逃げたいと強く思った。
涙が溢れた。ほろりと流れた涙は玉になって落ちていく。ヨンジェはそれを手のひらに集めて、少しほっとした。これは、心が死んでいない証拠だ。相手を思いやり、心を温めて出来る涙の結晶。悲しみだけでは生まれない結晶は、愛しい誰かのためのものだ。

ヨンジェは涙玉を持って、ヨングクの直ぐ側に近付いて、その場で膝をついた。ヨングクは涙が液体ではなく個体になったことの不思議さに目を丸くして、ヨンジェの動きを目で追う。
驚いていて、何をするのか、と聞く隙はなかった。

「ヨングクヒョンにも、おまじない。怪我が早く治りますように」

「ん?」

ヨンジェはお祈りのように両手の合わせて目を閉じる。その手のひらの間には涙玉が数粒ある。それに願いを込めて、ヨングクの心臓のある場所に押し当てた。一粒も溢れないように、ゆっくりと、慎重に。
ヨングクの胸に両の手のひらを重ねて当てて、ヨンジェはそこに願いを込めた。力強い鼓動を感じる。自分のものよりも強く感じる。同じ亜種でも、白血種より吸血種の方が、生命力も強く、物理的な力も強く、きっとその分、心も強いのだろう。
ここから逃げても、帰る場所はもう無いけれど。それでも、ここにいて、様々な形の暴力に晒されるよりも、「ヨングクと一緒に逃げる」という選択の方がずっとずっと良い。

涙が祈りと共に、ヨングクの身体の中に溶けたことを感じて、ヨンジェは彼の背に手を回した。抱き締める。
人の身体に触れること、触れられることが怖いのではない。傷付けることが目的の暴力に晒されることが怖いのだ。

「一緒に逃げましょう。僕も、負けないように、頑張りますから」

「ああ、大丈夫だ。きっと、上手く行く」

ヨンジェの背中を撫でる。ヨングクの胸に頬を当てて、ヨンジェは微笑んでいた。最初に身体を重ねた時よりも、ずっと深く、2人の距離が近付いた気がした。

11 ウタウ

デヒョンはメイドが開けたカーテンから差し込んだ朝日によって目覚めた。時計を見ると10時になろうとしている。また大学に行きそびれた、と思ったが、一瞬で忘れた。
デヒョンに断り無く、朝食が用意されていく。テーブルいっぱいに広げられた料理の、10分の1程度しか食べないと分かっているはずなのに、いつも食べきれないほどの料理が用意される。
食べなかった分は捨てられる。そう知っていても、デヒョンは「減らしてくれ」とも「残ったものは食べてくれ」とも言わない。
この家の中で、親しく話しかける人間はいない。敢えて名前を上げるとすれば、ヒムチャンしかいない。

朝食を食べるのが億劫だ。食欲はない。
立ち上がり、伸びをする。身体の痛みはない。心の痛みは知らない。シャワーか朝食か、少し迷って、朝食にする。それらは、デヒョン以外の人間からすれば、垂涎ものだが、デヒョンには色褪せた魅力のない料理たちだった。いつもそうだ。美味しそうどころか、美味しいと感じたこともない。

それでも一口二口、ゆっくりと食べていると、内線が鳴る。出ると、デヒョンの護衛をしている人物だった。
ヨンジェを連れて来た。そう聞いても、デヒョンは呼んでいないので、答えに迷うが、ヨンジェが1人の判断で来るわけはないので、特に抵抗もなく入れてやる。

「おはよう、ございます…」

ヨンジェはぎこちなく挨拶をした。デヒョンは返事をしない。する必要があると思っていない。
何しに来た、と問うても無駄なので、さて、どう相手をしようかと考える。
彼も父の餌食の1人だ。昨日父は、「1日に2人を相手にするのは久しぶりだ」と言っていた気がする。ヨンジェが父に汚されたことは知っている。それを特別なこととは思っていない。デヒョンもまたそうだからだ。

沈黙が流れる中、デヒョンがゆっくりと食事する小さな音だけが部屋に響く。

床にはデヒョンが流した血の跡がまだ残っている。ヨンジェはそれを見て、自分の腕の傷に触れる。
業者が来るのは今日の午後だ。その時は家を出る予定だが、ヨンジェを連れて外に行っても良いかもしれない。カフェや図書館、デパート辺りで時間を潰すから、それに付き合わせてもいい。
デヒョンが1人心の中で算段をつけている間、ヨンジェは1人で立ち竦んでいた。いつかと同じように「5番」と呼ばれて、ここまで連れてこられたが、前回と同様、何をすればいいのか分からない。昨日のこの家の主人だという男より、その息子のデヒョンは怖くはない。だが不気味だ。何を考えているのか分からない。なぜ、このように得体の知れない相手におまじないなどしたのだろう。ヨングク相手におまじないをした時、どうしてデヒョンにも同じことをしたのかな、と自分で不思議だった。家族や友達や、親しい間柄同士でなければしないことだった。調子の狂う相手である。得体が知れないというよりも、隠された本心が気になる、そんな相手だった。

「君さぁ、ピアノ弾けるんだよね」

「え?」

突然話しかけられて、ヨンジェは驚いた。遅れて「はい」と返事をする。ピアノは母から習った。母はピアニストに憧れて、街の教室にも通っていたが、結局、亜種であることを隠すため、その夢を諦めた。父以外の人と恋もしたらしい。だがその人にも、打ち明けることができなかった。
人間ではないということの枷が、母には重く伸し掛かっていた。ヨンジェには分からない心境である。まだそこまで悟ることのできる年齢ではない。だがこのような、売り買いされ、当たり前のように傷付けられる身分に落とされるのなら、母の持っていた警戒心のようなものは必要不可欠であった。気付くのが遅すぎると分かっていても。

「何か弾いてよ、BGMにさ。テレビもラジオも変に賑やかで、俺、好きじゃないんだ」

デヒョンの部屋には、先日は気付かなかったが、部屋の隅にグランドピアノがあった。彼も弾くのだろうか。埃はかぶっていないが、それは単に掃除が行き届いているからに過ぎないだろう。



おずおずとピアノに近付く。大きくてきれいなピアノだ。デヒョンの部屋にあるということは、彼もピアノを弾くのだろうか。音楽が好きなのだろうか。
ヨンジェの家にあったのは電子ピアノだ。アップライトピアノでも高くて、本物は買えなかった。だから、グランドピアノの扱いをヨンジェは正しくは知らない。天板を上げた方がいいのだろうが、よく知らないのに下手に触れない。
おずおずと椅子に座り、蓋を開けて、ベルベットを丁寧に畳んで天板の上に置く。
試しに一音鳴らしてみる。

ポーン

想像よりも大きくて、澄んだ音が鳴って、ヨンジェは状況も忘れて微笑んだ。
試しに、音階を鳴らしてみる。

ド レ ミ ファ ソ ラ シ ド

デヒョンはほとんどピアノを弾かない。子供の頃習わされていたので、弾くことはできるが、その時の強制的な練習が嫌で、今はピアノに触りもしない。部屋が広いのであって邪魔なことはないが、目障りだ。
なのに、なぜヨンジェに弾かせようと思ったのか、それは、初めて彼を見た時の印象が強かったからだろう。「どれがいい」と聞かれて、ヨンジェを選んだのは、同年代という以上にその歌声に因る所が大きい。

どうせ、もう陰気な音しか出ないだろうと思っていた。ヨンジェがすでに純粋でいられるはずがないことを知っている。

ドレミの音階が聞こえて、ヨンジェの方を見ると、彼はうっすらと微笑んでいた。それを見て、デヒョンは軽く驚いた。そして自分の驚きに対して戸惑った。

メロディが流れる。古い歌謡曲だ。デヒョンは最近の自己主張の強い歌よりも、少し昔のゆったりしたメロディの歌の方を好んでいた。誰も知らないことだが。

歌声が聞こえて、デヒョンの手が止まる。
少し高い、鼻にかかったような歌声は、ただそれだけで魅了される何かがあった。ヨンジェを見る。少し微笑み、丁寧に鍵盤を見ながらたたき、うつむき加減で歌っている。鍵盤が重いのだろう、時々詰まる。自分の失敗まで笑って、そしてまた続ける。

なぜ笑うことが出来るのか、とデヒョンは思った。なぜ男(父)に傷付けられたのに、男(ヨングク)に頼ることが出来るのか。なぜそんな力強い声で歌うことが出来るのか。

「お前―――」

「え?」

デヒョンの口から思わず溢れた言葉で、ヨンジェの手が止まる。
振り返ってデヒョンを見ると、彼は眉を顰めて、どこか戸惑ったように視線を彷徨わせていた。続く言葉がないので、ヨンジェはまたピアノを弾くことを再開した。歌も歌う。やめろと言われないから、このまま続けていてもいいだろう。
歌うことが好きだ。ピアノを教えてくれたのは母だが、歌は教わっていない。自分で歌い始めた。両親が褒めてくれるから、もっと歌うことが好きになった。

歌い終わって、ヨンジェは久しぶりに歌ったなと思った。良いことなのか、どうなのか。こんな状況で、歌なんて、場違いだっただろうか。さっき、何を言わんとしていたのか。今更ながら、デヒョンの様子を伺う。

「古い歌を知っているんだな。しかも、季節外れだ」

ライラックという花の名前から始まるその歌は、花の季節の通り、春の終わりから初夏の歌というイメージだ。今は夏の終わり、秋に移る時である。
皮肉で言ったつもりだったのに、ヨンジェの顔がぱっと明るくなった。

「この歌を知っているんですか? 僕の母が好きな歌で、よく一緒に歌っていたんです。ご存知なら、よかった」

何が「よかった」だ。デヒョンの機嫌は悪くなる。「ふんっ」と顔を背けた。

「褒めたんじゃない」

ヨンジェがいると調子が狂ってしまうようだ。さっきだって、「歌が上手いな」と褒めそうになってしまった。そんなことを口走るなんて、あってはならない。矜持が許さない、と思ったが、そもそも自分に矜持なるものが残っているのかどうか、そんなつまらないことに思い至り、さらに機嫌が悪くなる。
だが、ヨンジェはそんなことに気付かないようで、母からピアノを習った話を続ける。

「母はピアニストになりたかったようなんですが、やっぱり白血種であることを誰にも打ち明けられなかったそうで…、結局夢を諦めました。その代わりに、僕に教えてくれて、歌も母から教わったものがほとんどです」

「マザコンかよ。ママが死んでカワイソウにね」

毒のある言葉にヨンジェは黙る。余計なことを話してしまったと後悔する。デヒョンの言葉に傷付いた訳ではない。そんなものよりも、もっと大きな、多分生涯忘れることが出来ない傷をすでに彼の父親によって付けられてしまった。
両親が死んで辛い。ピアノを弾いて、母のことを強烈に思い出す。直ぐ側にいるような、一緒に弾いていた感覚が蘇って、歌っていて泣きそうだった。
デヒョンは、“あれ”が父親だと言う事実を、どのように捉えているのだろうか。“あれ”を果たして、“父親”と呼べるものなのだろうか。
ヨンジェの父親は働き者で、明るい人だった。とても優しかった。妻と息子を愛していると、毎日のように聞いた。難点と言えば、お酒が弱いくせに大好きで、よく失敗をしては母に怒られていたことくらいだ。
ヨンジェが知る“父親”という像から、あの男は外れすぎている。デヒョンと“あれ”が血が繋がった親子なのだとどうやって考えればいいのだろう。

ヨンジェは不思議だ。どうして、デヒョンを見ていると、悲しくなるのだろう。ふて腐れたように俯いて、ほとんど手付かずの朝食など、もう興味がないようだ。長い睫毛の瞼がぴくりと動いて、視線がヨンジェに向いた。
視線が合ってしまった。そう感じたのはデヒョンの方だ。
慌てて外すのも決まりが悪い。睨みつけても、ヨンジェはゆっくりと瞬きをするだけで、堪えているようではない。
なぜあの時、「どれがいい」と聞かれて、ヨンジェを選んでしまったのだろう。誰もいらないと言えばよかったと後悔する。いたぶるだけなら、ヨングクだけでもよかった。ヨンジェなど、自分の目を見返してくる奴など、ピアノより目障りだ。

「あなたは、あの人を父親と呼ぶのですか?」

デヒョンは目を見開く。聞かれた意味が、一瞬分からなかった。ヨンジェの口から、そんな言葉が出るとは、思ってもみなかった。
あれが、父だと、呼ぶのかと?
そうだと思っているのだろうか。あれを父と呼べると本気で思っているのだろうか。

デヒョンの内側から今まで感じたことのない衝動が湧き上がり、それはデヒョンを立ち上がらせて、ヨンジェの元へツカツカと歩み寄り、戸惑ったまま、ピアノ椅子に座ったままのヨンジェの頬を思いっきり殴りつけた。

ユレル

男は呆然とした。
意味が分からないまま、身体が動かなくなる。
一瞬遅れて、背中に痛みを感じる。じわじわと流れる熱い血。振り返ると、息子がいた。息子とは名ばかりの、ただ交わった女が勝手に産んだ、息子という名の他人。

気の赴くままに、痛め付けた日もあった。犯したことも、犯させたことも、手ずから殴ったことも、なぶられるのを眺めていたことも、何度もあった。

息子というのは、他人ではあっても、ただの他人ではなかった。血が繋がっている不思議が、男をより残虐にさせたのかもしれない。

息子が一度父親に突き立てたナイフを引き抜くと、その手が血に塗れた。自分で見ても、どす黒い、汚い血だと感じる。その手に持った血まみれのナイフを振りかぶって、心臓の位置を狙い、その狙いを外すことなく、ナイフを突き立てた。

ああ、痛い。

こんな痛みは、いつぶりだろう。父に殴られて以来ではないだろうか?
息子を産んだ女がこの家を出る前に、平手打ちにされたこともあるが、自分がその女を殴ったことの方が多いし、女の平手など、そんなものは父の拳の比ではない。

父が自分を殴りつづけたように、母が自分に無関心で居続けたように、妻が自分を嫌っていたように、息子が自分を憎しみの眼差しを向けていたように、使用人や部下が、何を言わなくても、顔を顰めて蔑みの目で見続けたように。そして最後に、息子が、ナイフを突き立てたことが、なによりの証明だ。
自分は、この世に無駄な生き物であるということの、証明が、息子によって、今、なされた。
なんということだ。
何と言う至福であることか。ようやく訪れた死が、血を分けた息子によってもたらされたものであること。

ナイフが抜かれて、心臓から血が吹き出る。
息子の、デヒョンの美しい顔が血で汚れる。それでも、彼は父を刺した時と同じく無表情のままだった。

デヒョンと名付けた息子が、自分の血を分けた存在であることを、男は今になって、嬉しいことだと感じた。自分に死をもたらしてくれた存在が、自分と血が繋がっているなど信じられないくらい、美しく優しい息子であることを、死にゆく瞬間に幸せだと感じた。

気持ちが満たされる幸せなど、男は生まれて初めて感じた。
それが、死の瞬間であることに、皮肉など覚えない。その一瞬に訪れたことの幸福感の方が大きいのだ。

自分は死を望んでいたのだろうか。いつから、それを望んでいたのだろうか。きっと、ずっと、生まれた時から望んでいたことかもしれない。

どこかで知った、「生まれてきた苦しみ」という意味を、その男こそが、誰よりも理解していたから。



なぜ、笑っている。

「あああああああーーー!!!」

デヒョンは自分が叫んでいることに、気付いていなかった。

血の繋がった父親を殺すため、ナイフを突き立てたことは、理解していた。それは、ずっと昔から、望んでいたことだった。ずっとそうしたいと考えていた。
格好のいい機会だった。
自分は成すべきことをした。正しいことをした。父は狂っていた。周囲の人間を悉く傷付け、痛め付け、蔑ろにして、尊厳を奪いつづけた。

殺すしかなかった。そうしなければ、ヨンジェが殺されそうだった。傷が治らないと知っていながら、何度も傷を付けて、彼はもう限界だった。
自分もそうだ。息子なのに、いや息子だからこそ、他の誰に対するよりも楽しそうに、父は自分を殴り、犯し、他人に犯させ、その行為を眺めていた。酒を飲みながら。笑いながら。それがどれほど、自分を傷付けるかを、分かっていながら。

自分に与えられたような絶望を、与えてやりたかった。
それなのに、なぜ笑っているのだ。

父は心臓から、背中から、どくどくと音を立てて血を流しながら、それでも笑っていた。

嬉しそうな死に顔なんて、生きている顔よりも見たくないものだった。
絶望を与えたかった。信じられないという顔をさせてやりたかった。殺される程、それが当然であることを、思い知らせてやりたかった。

それなのに。なぜ、父は微笑んでいるのだろう。

父は倒れて、もう動かない。
その場にいる誰も、微動だにしない。デヒョンだけが、叫び、ナイフを振り回し、知らない内に暴れまわっていた。

「あああーーー!」

デヒョンは声が枯れても、叫び続けて、血まみれの手や頭を床に叩き付けて、自らも壊してしまいそうだった。



ヨンジェの身体は傷だらけだった。痛いし、無理に動くと、さらに血が出る。透明なものだから、見た目には気付かれにくいが、ヨンジェは血だらけだった。

それでも、ヨンジェは最大限に力を振り絞って、デヒョンの元へ這いずって行き、彼を抱き締めた。

暴れるデヒョンを抱き締めることは、難しいことだったが、彼がどんな思いで、そうしたのか、そうせざるを得なかったのかが分かるから。自分の痛みなど、今はどうでもいい。気にならない。
自分の惨状を見ての行動だと言うことも分かるし、彼が受けてきた傷のせいだということも知っている。

かける言葉はない。
ただ、抱き締めてあげたかった。

名前のない惨劇。殺人でも、復讐でもない。これは、1つの過程に過ぎない。
癒せない傷を、心を、せめて守るための、必要不可欠な行為。

「デヒョン、デヒョン…」

デヒョンという1人の人間の今までのすべての人生は、父親という絶対的な強者であり狂者に、支配されたものだった。

ヨンジェはデヒョンの泣き叫ぶ声を聞きながら、少しずつ後悔し始めていた。

自分が、殺すべきだったのではないか。
それは、未だ鎖に繋がれて、眺めるしかできないヨングクも同じ思いだった。
デヒョンにさせるべきではなかった。ただでさえ、傷付きすぎて、痛みさえ分からない彼に、これ以上の何かをさせるべきではなかった。



ヨングクは、側にいる使用人に話しかけた。彼は主人が、主人の息子に殺されて、どう行動すれば良いのか決めあぐねているようだった。

「鎖を解いてくれ。鍵があるだろう?」

使用人は迷ったが、結局はヨングクの言うとおり、鎖を外してやった。彼を繋げておけ、と命じた主人は、床に倒れて、もう死んでいるように見えた。
デヒョンを捕らえるべきだろうか。称えるべきだろうか。
どちらを選ぶかと言えば、この家のすべての使用人や会社の部下は、息子を称える方を選ぶだろう。正直な所、主人が死んで、ほっとしている気持ちが大きい。

虚しい人生ではないか。
仕える価値もない主人だと、生きる価値さえない主人だと思い続けていたが、実際に息子に殺される場面を見て、使用人はそのように心の中で思った。



ヨングクは痛む首を擦りながら、黙ってデヒョンを抱き締めているヨンジェの背中に、ガウンをかけてあげた。
本当は手当をしてあげたいが、ヨンジェ自身が、今は自分よりもデヒョンを優先しているようだった。

デヒョンは呆然としている。ヨンジェのことも、ヨングクのことも、他の何も見えていないようで、じっと、ずっと、自分が殺した父親を見つめている。
その人を、父であると思ったことなどあるのだろうか。あのような人物を父と呼ぶのは、どのようなものだろう。

とりあえず、ここを離れた方がいいと思った。

「ヨンジェ、デヒョン。部屋を出よう。別の部屋へ行こう。ヨンジェ、お前の手当もしないと」

冷静な言葉とは裏腹に、気持ちは煮えくり返っている。だが、自分までが、泣き叫び、取り乱す訳にはいかない。

「うん…。出よう。デヒョン、行こう…?」

デヒョンは答えない。立ち上がらせようとするヨンジェもふらついて、足元が覚束ない。出血が多すぎるのだろう。
2人を支えて、部屋を出るために歩く途中にも、果たしてヨンジェの手当をしてくれる人はいるのだろうかと、ヨングクは不安になった。

遠くへ離れたいが、ヨンジェもデヒョンも、あまり歩けない。

使用人たちが、廊下やいろいろな部屋を歩き回っている。どうすればいいのか、誰も分からないのだ。主人の死を嘆く者など1人もいない。ただ、雇用や賃金がどうなるか、という声と、デヒョンをどうするかという声と、会社がどうなるかというような声しか聞こえない。
デヒョンを心配する声さえ無いことが、ヨングクには腹立たしかった。

「デヒョン!」

突然、大きな声が背後から聞こえて、ヨングクは身構えた。
見たことがある男だ。そうだ、ヒムチャンだ。何度かヨンジェから聞いたことがあるだけで、ヨングクが彼と直接会うことはほどんとなかったが、今は幸いだ。彼は医者だ。

駆け寄ってきて、血まみれのデヒョンを気遣うヒムチャンに、ヨングクは言った。

「ヨンジェの傷がひどい。手当をしてやってくれないか? それと、落ち着ける部屋に」

「ああ、じゃあ、俺の部屋に。薬もいろいろある。ヨンジェ、歩けるか?」

ヨンジェは頷くが、その顔色は白すぎる。足元も覚束ないで、きっと、出血が酷いのだ。今はもう死んだ男に、切り傷をたくさん付けられた。

「デヒョン、大丈夫か? デヒョン?」

ヒムチャンの呼びかけにも、デヒョンは答えない。ひとしきり暴れた後は、人形のように無表情で、感情を失ってしまったみたいだ。

フレル

ヒムチャンの部屋が、あまり遠くなくてよかった。
ヒムチャンとしては、長年側で見てきたデヒョンの方が心配だったが、緊急を要するのはどう見てもヨンジェである。
傷を確認して、消毒と化膿止め、ガーゼに包帯をしていったら、全身、包帯と絆創膏だらけになってしまった。
失った分の血を増やすには食事で補うしかないだろう、と思ったが、主人が死んだ(殺された)家で、今後もまともに働く使用人がいるのだろうか、とふと不安が襲う。

いや、今はそんな心配よりも、ともかくやはりデヒョンである。

ヨンジェの手当をしている間に、ヨングクが、血で汚れたデヒョンの顔や手を濡れタオルで清めてくれていた。乾きかけた血は簡単には落ちなくて、少し強くこする。デヒョンは顔をしかめるでもなく、自分で動くでもなく、なされるがままだ。
ヨンジェの手当が済んで、ヒムチャンはデヒョンの状態を確認する。彼には怪我がないようだ。ナイフを持っていた手に少し切り傷があるが、問題はないだろう。一応消毒だけしておく。

「デヒョン、見ていたよ。お前のしたこと」

ヨンジェの手当は、予めヒムチャンが命じられていたことだった。だが、内科が本職の身としては、本来であれば傷付けること自体を防ぎたい。だが、それができなかった自分の至らなさ、弱さを痛感していた。
ヨンジェを助けるため、彼が傷付けられることに耐えられなかったデヒョンが、ナイフを持ち出し、父を脅してヨンジェから遠ざけるだけでなく、殺すという結果に至ったことも、防ごうと思えば防げたことなのかもしれない。

デヒョンに罪を犯させるべきではなかった。もっと早い段階で、親子の縁を、どのような形であっても切っておけばよかったのではないか。方法など、分からないけれど。
だがそうなっていれば、ヨンジェやヨングクは、デヒョンやヒムチャンという理解者を得ることもできず、この家で、どのような目にあっていたことだろう。さらなる辛酸を舐めていたかもしれない。

デヒョンの正面に座り、冷たい手を握り、ヒムチャンは項垂れる。

すべてを自分で背負うつもりはない。だが、少なくとも、デヒョンの主治医として、彼を守りたかった。それができなかったのは、自分の力のなさだ。デヒョンの行動は理解できる。だが、よくやったなどとは、到底言うことは出来ない。だけど、言葉をかけたい。今の状態のデヒョンに、果たして届くのかは、分からないけれど。

「デヒョン…。俺は、お前が、生きていてくれることが、嬉しいよ」

ヨングクはこの場で、デヒョンにかける言葉を持っていなかった。もともと、あまり話したこともない。存在を知っているだけで、ヨンジェから話を聞いただけで、直接、デヒョンという人物を知っている訳ではない。
静かにヒムチャンに場を明け渡し、3人を背後から見ている。

ヨンジェはふらつく身体をなんとか持ち直し、デヒョンの隣に座る。
何か言葉をかけたいけれど、どのように言っていいのか分からない。ヒムチャンの言ったことは、ヨンジェも思っていることだ。
こんな場所で、デヒョンという人に出会えたのは、ヨングクと共にいられたことは、奇跡のようなものだ。

ありがとう、と言うべきだろうか。あのまま、動けないまま、斬り刻まれ続けていたら、あの人が飽きてそのまま放って置かれたら、死ぬまではいかないまでも、相当に体力や気力を、今現在以上に消耗することになっていただろう。

だけど、単純にデヒョンが自分を助けに来てくれた、ということではないと思う。
デヒョンはデヒョン自身を取り戻すためにも、そうしなければならなかったのだと思う。

「デヒョン…」

ヨンジェは強張ったデヒョンの肩や腕を撫でる。

「…触るな。名前を、呼ぶな…」

低い、暗い声。とても、デヒョンの声とは思えない。一緒に歌った、あの幸せな時間は、今は幻のようだ。

「デヒョン、ありがとう。ごめんね。君の力になりたいと思っていたのに、なれなくて、ごめんね。来てくれて、ありがとう」

「…ヨンジェのためじゃない」

「わかっている。でも、僕は、もうこれ以上、傷付かない。それは、デヒョンがそうしてくれたんだ」

「名前を呼ぶなと言った!」

デヒョンは急に大声を出して、立ち上がろうとしたが、ふらついて、ヨンジェと少し距離が空いただけだった。ヒムチャンが握っていた手も振りほどく。
周囲にいる3人を睨む。だが、すぐに視線は床に落ちる。床を睨む。ここではない、別の部屋の床に倒れている死んだ人間を睨む。そんな自分を見つめている人間を睨む。

哀れんでいるのか?
哀れまれているのか?

自分は失敗したのか、成功したのか。

「デヒョン…」

「呼ぶな! 触るな! こんなんじゃないんだ。俺が望んでいたのは、こんなんじゃないんだ!」

では、何を望んでいたのだ、自分は。

泣いていた。誰にも、どうにもできないやりきれなさがあった。

デヒョンは後悔していたというのではないが、ショックが尾を引いていた。自分は、父が望むことをしてあげたのだろうか。父は、自分が望むことを何一つしてくれないどころか、望まないことばかりを強要してきた。それなのに、最後の最後で、自分がしたいと思っていたことは、実は父が望んでいたことで、その手助けをしてしまったのではないか、と感じていた。

何もかも、父の手のひらの上で転がされてきただけの人生。

ヨンジェを助けること、ヒムチャンの言うとおり治療を受けること、自分の考えの通り、父を殺すこと、そんなことまですべて、父は見通し、理解して、自分の突き立てたナイフを笑って受け止めた。

「自分」というものが、がらがらと音を立てて崩れていく感覚。確固たるものがあると思っていたのに、それは全部、父が作り上げたもの。

そんな考えが浮かんで、そんな自分が突然、靄のように溶けていく感じがした。

涙はない。あるのは、虚無だけ。怒りももう砕けた。自分には何もない。自分さえも、何もない。

「デヒョン…、ねぇ、デヒョン…」

それは自分の名前じゃない。
触らないでくれ。これは俺の身体じゃない。

「来てくれて、ありがとう。僕、デヒョンが来てくれて、本当に嬉しかったし、安心したんだ。怖かったけど、どうにもできないまま、死んじゃうのかな、と思ったけど、デヒョンが来てくれたから、大丈夫だと思ったんだ。だから、ありがとうって、君に言いたい」

ヨンジェの言葉は、最初、耳を通り抜けていくようで、デヒョンには届かなかった。
「死ぬ」という言葉が聞こえて、否応なしに反応してしまう。
自分が来たから、大丈夫だなんて、そんな短絡的なことを、なぜ思うのだろう、と思った。
不思議で、ヨンジェの方を見た。そこに、すぐ隣に、ヨンジェがいることは、その瞬間に認識できた。

ヨンジェは微笑んでいた。怪我をいっぱいして、もともと白い肌はもっと白くなっている。

なぜ、そんな痛々しい姿なのに、やわらかく微笑むことが出来るのだろう、と不思議に思った。

「デヒョンがいてくれて、よかった。ありがとう」

ヨンジェはそう言って、デヒョンに寄りかかり、傷付いた腕を伸ばして、優しく包み込んだ。

「そうだ。デヒョンがヨンジェを助けたんだ。ヨングクも一緒に、デヒョンがいてくれたから、今みんな無事で、この部屋に集まれているんだ」

ヒムチャンが、ヨンジェの言葉を足して伝える。
デヒョンが望んでいたものは何なのか、ヒムチャンは正確には分からない。復讐なのか、警告だけなのか、単に殺したかったのか。
だが何れにしろ、デヒョンがヨンジェとヨングクを救ったことには違いない。そのことを、デヒョンは認識するべきだと思った。
彼は今、自己否定している。名前さえ、否定している。
そうではない。それは否定するものではない。

振りほどかれたデヒョンの手を、ヒムチャンは再び握りしめる。

ヨングクも何かを言おうと思ったが、言葉がなかった。だが、殺すかどうかはともかく、デヒョンが来てくれたことで、状況が変わったことは事実だ。

ヨンジェに抱き締められて、ヒムチャンに手を握られて、それでもまだ、呆然として、心がここにないようなデヒョンの側に寄って、肘掛けに座った。そして、背中を撫でる。
ヨンジェと目が合う。彼は、ぎこちないヨングクの仕草に笑ってしまう。

こんな時に笑える自分のことが、ヨンジェは不思議だった。

この家で怒ったことの全てが非現実的で、夢のようだ。だとしても、それは悪夢で、苦しいものだった。誰にとっても、辛いものだった。今だって、傷が痛むし、手当されたとしても、血が流れ続けているのが分かる。

現実で確実なのは、隣りにいるデヒョンとヨングク、あとヒムチャン。
彼らだけが、1人になった上に虐げられるヨンジェのことを気遣ってくれた。

父が殺された時、これほど無残な過酷な出来事はないと思った。自分たち一家を傷付けた全てを憎んだ。殺人は一番の悪だと感じた。

悪というものに対する気持ちが揺らいでいる自分は、父の無念を忘れたのだろうか、とヨンジェは思った。
こんなところにいる自分は惨めでもあり、哀れでもあり、母を思いながら、諦めもあった。
だけど、一緒に歌える人がいた。話を聞いてくれる人がいた。哀れんで親身になってくれる人がいた。その出会いに、救われた自分がいた。

何がどうなるか分からないけれど、今この瞬間だけは、時間を止めて、思考を止めて、ただデヒョンを癒やしてあげたいと思った。


End?

『SKYDIVE』

『SKYDIVE』 nanamame 作

B.A.Pのお話。グクジェ、ヒムデの他、デジェもけっこう重要。BL、FF、K-Pop。 かなりキツめの内容になっておりますので、設定が嫌な人は読まないでください。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-08-08
Copyrighted

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