地の濁流となりて #9

第二部 辺境の地編 荒野を越えて

 自然のなかで自然に即した生を営むルーパの人々が,その力を畏怖しながらも,与えられる恩恵を讃えて止まないとすれば,ラユース大陸の人々は,自然を制御する対象とみなした。ゆえに,自分たちの手に余る「反乱」,つまり,洪水や土砂災害を腹立たしく思っていたのも頷ける。
 ルーパとラユース大陸のこのあり様の違いは,共同体の大きさに関わっていたかもしれない。ルーパが,里という小さな共同体から成立した,いわば共同体の集成であるに対し,ラユース大陸は,部族連合,王朝,国家といった,それぞれ制度を異にする大きな共同体で独立して存在していた。
 要するに,小さな里は自然をそのまま受け入れる他なく,王朝や国家などは自然を御することで,その権威を誇示し,そこに住まう民の信頼を勝ち取っていたのである。
 ただし,ラユース大陸にあっても,ルーパの里に近い共同体がない訳ではなかった。辺境の地の最西部に勢力を広げる「放牧の民」は,自然の恵みを受け,自然と共に生きていた。もっとも,里はある一定の土地に定住する生活形態を取っていたが,遊牧の民は,部族間の協定で許された範囲を,常に移動しながら生活を営んでいた。
 エル・レイの話した昔のマールと違い,たしかに今は商いを基盤とした連合となり,関係の安定した諸部族も,かつての慣習を保持しているのか,それぞれの生きる知恵を捨ててはいなかった。遊牧の民の長,パウの場合,それは放牧の痕跡を残さない移動の術であった。
 「移動に移動を重ねる。それが遊牧の民の生き方だ。ゆえに,広大な草原で孤立することもある。そこを囲まれてしまえば,部族郎党一網打尽になってしまう。」
 長い食卓に並べられた果物を片手で抱き寄せながら,エル・レイは不敵な笑みを浮かべた。ラユースの西部が,緩やかな山々を遠くに見る,はるかな草原地帯になっているとは,すでに王から聞いていた。そこに動物を放つ。どのように操るのかパガサには想像もつかないが,その動物たちと移動生活をしている部族。
 「パウは丈の長い草を残して移動するという。だから,居場所も移動先も気取られない。そうやって子々孫々,襲撃されることなく遊牧してきたわけだ。まあ,遊牧の民の方が争いを望めば,話は別だが。」
 おそらく火酒の入った金の杯を飲み干すと,その側面に打刻された拳の印章をちらと見て,エル・レイは杯を少し乱暴に卓に置いた。
 「心配するな。俺の馬で信書は送ってある。こちらが向こうを見つけられなくとも,向こうがこちらを見つけてくれる。忌々しいこの印も,たまには役に立とうというものだ。」
 話よりは食事をと勧める王は,銀の食器を肉に突き立てて,マンガラの方へ大きな皿ごと渡した。肉と言えば干し肉である土の民にとって,艶やかな汁が垂れる塊の肉は未知ではあったが,その見た目にマンガラはごくりと喉を鳴らした。パガサは,目の前の皿に盛られた小さな白いものを手に取ってみた。発酵リーゾを思わせるすえた匂いが鼻をつく。
 「お,気に入ったか。それは,お前たちが目指す,遊牧の民が作った物だ。オヴェラ羊の乳を発酵させて固めてある。酸味が強いが,栄養価は高いぞ。それ,もっとあるから好きなだけ食べろ。」
 まだ食べてもいないのに,王は勘違いしたらしい。自分の近くにあった同じものをパガサに渡し,手を数度打ち鳴らした。すぐに白い長衣をまとった女性が数名現れた。王から幾つかの品名を告げられると,そそそと女性たちは下がった。卓はすでに皿の置き場もないくらいだが,さらに料理を並べるつもりのようだ。
 ブッフォが消えた後,エル・レイが再び「王の間」に姿を現したのは,しばらく経ってからだった。すっかり変わった場の空気に気づいたのか,豪快に笑いだした。出し抜けの振る舞いに,マンガラとパガサはもちろん,思いにふけっていたカタランタまでもが,雷に打たれたように驚かされた。
 「おいおい。難しく考えるな。まずは行動だ。そこで詰まれば考える。そしてまた動く。その繰り返しだ。とにかく,お前たちは西へ向かえ。そこで放牧の民の長に会うのだ。俺の伝言もあるしな。その前に,食事でもして行くといい。」
 西部へ。放牧の民の長と会う。それが評議会長や「輝石」の真相,おそらくその他にも何か知っている王の助言であるなら,パガサには異論はなかった。ただ一つ気がかりだったのは,王がそう言いながら,カタランタに一種表現しようのない表情をしたことだった。カタランタがまた顔を背けたので,押さえ込んだはずの不信感が,またにわかに湧き上がるのをパガサは感じた。 
 身にあまる贅沢な食事が終わると,みなはエル・レイの指図に従って,マールの西門から都市を出た。あのいかつい門衛が,王の言付けで門まで案内してくれた。
 西門からは徒歩。マールのある丘陵からアスプレ荒野を抜ける。岩陰で夜を明かすがいい。朝出発すれば,太陽が頂点に登る頃には,ヘルバ草原でパウたち放牧の民と会えよう。「馬を与えても良いが,お前以外は乗れまい」と,最後にもう一度王はカタランタを見やった。
 宵闇に包まれた丘陵を下り,大小の岩が散らばる荒野へ出る。幸い,雲一つなく,星の明かりが周囲をかすかに照らす。彼方の山の稜線が,星空の境目を黒く示している。眼が慣れてくると,そこかしこに大きな岩が,太古の巨人族のように覆いかぶさってくる。この荒野も知っているのか,カタランタが先頭を切って,その岩と岩をすり抜けるように歩いていった。
 「こんな大きな岩,誰が持ってきたの。」
 モレスコの幸いの白がパガサの背後で浮かび上がる。王の出した食事を腹一杯食べたマンガラが,少し苦しそうに声を出した。これまでが干物ばかりだったから,とパガサは同情する一方で,出立を知りながら食べ過ぎるのはどうかと思うのだった。
 「さあな。この地の言い伝えだと,古の時代に地がひっくり返ったなどと言っているが。マンガラ,あの右の方に長く伸びている暗い帯が見えるか。」
 歩きながらマンガラとパガサは,カタランタの言った方を見た。暗い帯。たしかに,右手の遠くに幅の広いひときわ暗い場所が長く続いている。深くなった窪地が伸びていると言えなくもない。もう少し明るければ,はっきりと分かるのだろうが,こう暗いと。
 「あれは,その「ひっくり返った」後にできた裂け目だそうだ。ここにある大きな岩のほとんどが,その時に土のなかから現れたらしい。本当かどうか,知らないが。」
 地がひっくり返り,岩が現れる。そんなことがあるのだろうか。だが,誰かが置いたにしては,大きすぎる岩もたくさんある。そもそも置く意味がない。それに,草の生えていた丘陵から,突然に荒地が広がるのも奇妙な感じがする。この荒野を抜けるとまた草原になるのだから,ここだけ植物が生えずに,岩がごろごろ転がっているのだ。
 しばらく行くと,辺りはすっかり闇に飲み込まれてしまった。星を頼りに,黒い影となった岩を避けてカタランタは進む。時おり足を止めてくれるのは,満腹になって,おそらく眠気と戦っているマンガラにはありがたいだろう。食事の時にあれだけおしゃべりだったのが,今は苦しい息づかいしか聞こえない。
 黒く星を限る岩がなくなってきた。足の感触だと,下の石ころも少し砂地に変わったようだ。と,左前方に小さな灯りが点々と見える。あの色合いは,ろうそくか松明か,何かを燃やしているようだ。カタランタが再び足を止めた。
 「ここらで少し休む。マンガラはついてきているか。」
 背後の暗闇から,石と砂を踏む音と,ぜいぜいという息を切らす黒いものが近づいてきた。食後すぐの出発が消化に悪かったと見え,脇腹を強くつまみながら,ゆっくり歩いてくる。パガサは暗がりの中で苦笑した。
 「カタランタ,あの先に見える灯りは何なの。こんな荒野に灯りなんて。」
 小指ほどの棒に火をつけたカタランタは,パガサの方を向かずに,何やら支度している。カタランタの手元に,金属で縁取られた透明な箱が浮かび上がる。と,その中に棒が差し込まれると,赤い光が揺れた。何という道具だろう。火を消さないまま,こんな小さいもののなかで燃えるなんて。
 「あの灯りは,マクレアの神殿跡だ。マクレアの部族は,かつて荒野に住まったという。今は,放浪の民として辺境の各地を転々としているが,それでも,ああしてかつての神殿も祀っている者もいる。」
 かつて方舟を造り,義人という不思議な能力者を生み出し,神殿などというものを持ちながら,各地を放浪する。変わった部族もいるものだ。土の里でも古い神々を信じているけれど,神殿など持たない。夜が訪れれば,闇にひそんでカナプレが家に入ると言い,土地が痩せれば,ヌーノが災いをもたらしたと騒ぐ。だが,それくらいなものだ。
 カタランタが灯りのついた箱を,砂地にゆっくりと置いたときだった。炎が揺らめいたと思うと,低く唸るような音が辺りから聞こえた。あの岩だらけの荒地から,しかもあの黒い帯のような場所から響いてくる。映し出された顔を近づけて,カタランタが箱をそっと手で覆う。その手にはあの卍が光っていた。パガサはマンガラと手を取り合って,カタランタの側にうずくまっていた。誰もが一言も発せず,闇の声に耳を澄ました。
 それからどのくらい経っただろう。いつとはなしに,地を伝わる響きはおさまっていた。何かが来ると構えていたカタランタが,肩を落として小さく息をついた。パガサもその姿を見て,ようやく生きた心地がした。マンガラは緊張しすぎたのか,それとも満腹からか静かな寝息を立てている。空がパテタ芋の紅に染まっていた。
 「カタランタ,あれ,何だったの。」
 マンガラを揺さぶりながらパガサは尋ねた。しかし,まだ表情の硬いカタランタも黙ったまま首を振るだけだった。朝焼けの光に,今度はぼんやりと陰る離れた岩の群れを見ていて,パガサは何かに気づいた。夜の黒い影と違う。どこがと問われると分からないが,奇妙な違和感がある。同じ方向を見ていたカタランタも異変に気づいたようだ。
 「地が揺れたようだな。あれを見ろ。岩がずれている。」
 昨晩は大きく目の前に暗く立ちふさがっていた岩が,ところどころで別の岩に寄りかかるように斜めになっている。最初は確信が持てなかったパガサだったが,あのような岩の重なりを通ったなら,岩と岩の間の穴を潜ったはずだ。だが,ぼくらは黒い影の横を立ったまま通ってきた。それが,あの振動で。
 「ねえ,パガサ,あの神殿見てよ。昨晩,灯のついていた神殿。」
 寝ぼけ眼をこすりながら,マンガラがつぶやいた。マクレアの神殿跡。昨日は暗くて灯りしか見えなかったが,それが。灯りを見えた辺りに目を凝らしたパガサは言葉を失った。荒野に散らばる灰褐色の岩と同じ色の神殿は,棟という棟が崩れていて,全体としては王邸の「王の間」のような高さを保っていたが,完全な廃墟だった。
 「地の揺れのせいだな。おそらく。あんな振動を受け続ければ,石積みの建物は壊れても仕方がない。」
 カタランタはそう言うと,ずっと手にしていた卍を腰帯に挿し,炎の消えていた透明な箱を袋にしまった。パガサも立ち上がって,長衣についた砂埃をはらった。エル・レイが草原へ向かうよう指示した朝は,すぐそこまでやって来ていた。マンガラが支度をするのを待って,三人は移動を再開した。
 陽に照らされた荒野の向こうを緑が区切っていた。ヘルバ草原である。ラユース大陸の南東から吹く潮風が,なだらかなウンターニャ山脈にぶつかって,広い大地に定期的に豊かな雨をもたらす。そのため,草原とはいえ,かなり丈の長い草に加え,低潅木も多く茂っている。マンガラたちが中腰になろうものなら,ほとんど身が隠れるほどだった。 
 三人は草原に入ってから,ずっと歩き続けていた。目の前に次々に迫る草のせいで,行き先とこれからの行程の検討はつかず,時間の感覚も鈍る。荒野を抜ける頃に,ずっと遠く背後の丘陵の上にあった太陽が,気づけば真上に差しかかっている。
 「王さまの馬って,どこへ行ったの。全然見えないけど。」
 さわさわと草をかき分けながら,マンガラがつぶやく。そう言えば,エル・レイは馬で信書を送ったと食事の席で話していた。夜の荒野を走る動物などいなかった。信書が無ければ,放牧の民の長はぼくらに会ってくれないだろう。それだけではない。敵と間違われる可能性もある。パガサはマンガラの言葉を聞いて,不安になってきた。
 「心配するな。エル・レイを信じろ。」
 カタランタはマンガラにそう声をかけるが,その根拠がパガサにはまったく分からない。確信しているカタランタにしても,この一面の緑の中をどう進んでいるのか,自分で把握しているのだろうか。せめて里の見張り塔やカホイの巨木みたいな目につくものがあれば良いのだけれど。
 その時だった。先を進むカタランタが急に止まった。背中を見失わないように,必死に草をかいていたパガサがカタランタにぶつかり,パガサの後ろに続いていたマンガラがパガサにぶつかった。
 「急に止まらないでよ,カタランタ。」「パガサ,何で止まるの。」
 パガサとマンガラが二人揃って声を上げるのを,カタランタは指を口に当てて「静かに」と合図した。その顔には,あの荒野での地の揺れに見せた緊迫が走っていた。そっと腰の卍に手をかけたが,何かを見たのか,その手をゆっくり離した。パガサとマンガラも事態を見守っている。と,草地をリズムよく踏みしだく音が聞こえ,三人の前に馬にまたがった長衣の者が現れた。
 「エル・レイの元から来た者か。」
 パガサはその声色にはっとした。この人は。カタランタが肯定の返事を返した。長衣の者は馬からすっと飛び降りると,顔を上から覆っている布を,するりと風に流れるような仕草で取った。長い髪を複雑に束ね,耳に透き通った青色の装飾をつけ,瞳がその装飾と同じ色に輝いている。
 「パウだ。放牧の民を従えている。信書はしかと受け取った。」
 放牧の民の長パウは,眼の大きな細面の女性だった。パガサが驚いたのは,「長」と聞いて勝手に男性を想像していたからだろう。そして,振る舞いからそれと分かる,たおやかさに今度はうっとりしていた。その髪の色と眼の形が,そばにいるカタランタと似ていることに気づく暇は,見とれているパガサにはなかったのである。

地の濁流となりて #9

地の濁流となりて #9

マンガラたちは,エル・レイの提案で,放牧の民の長パウのところへ旅立つことになった。食事を終え,夕闇に包まれていく丘陵をくだり,荒地を抜けて行く。果たして彼らはパウのところへたどり着けるだろうか。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-06

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