Fate/defective [Pathetic Corpse]
Ⅰ
僕は死んでいるはずの人間だった。僕の命は6年前、家族と共に業火の中に燃え尽きるべきだった。けれども、くじにでも当たってしまったみたいに、偶然にもその先の未来を与えられた。
早くも「余生」となってしまった自分の人生を、僕は今日も消費して、生きている。
静音による耳鳴りを認識して僕は目覚めた。部屋には僕の眠りを妨げるアラームも、日の光も無い。物の輪郭も曖昧な暗い部屋は、まだ炎が眼の裏にちらついている僕を落ち着かせた。
起き上がって、まともに寝具を買っていないツケである節々の痛みと睡眠過多による目眩に耐えながら辺りを見回す。部屋はまだ暗いがカーテンから差すぼんやりと弱い日光を認めた。
今日は朝に起床したらしい。施設を出てからすっかり不摂生な生活になった僕は睡眠を必要だと感じたときに適当に、座布団を枕にタオルケットを掛け布団にしてくるまって眠っていた。だから半日以上寝ているときもあれば、数時間も経たぬうちに目が覚めることもあった。
これに関しては毎日のように繰り返す明晰夢が引き起こしているようなものだけども。
この空間で唯一毎日稼働している家電品であるパソコンを起動する。部屋が青白い光で薄く染まるなか、まずは日時を確認した。
3月18日午前7時9分。
「18……?」
寝起きの掠れた声で呟く。確か寝たのが夜中の2時で、前の日の日付は16日。つまりは17日の午前2時に寝ていたわけだから1日以上寝ていたことになる。
通りで体中が痛いわけだ。僕はそのままメールボックスとブラウザを開いて作業を始める。昨日の分を取り戻さなくては。生活に関わる。
薄暗い部屋にマウスのクリック音だけが響く。画面の半分で広告メールを開き、もう半分のブラウザでまた違う広告やSNSの画面を開く。
ちまちまと動くマウスカーソルは僕の生命線だ。
施設を出てからはこうして仮想の社会、インターネットを頼って生活費を稼いでいる。バイトなんてできるはずがなかった。醜い火傷の痕はお前はゾンビなのだとでも言わんばかりに全身に巻きついていて、子供はおろか可哀想にと同情する大人達の眉も顰めさせた。そうやってこちらを気にかける言葉を言いながら、気味が悪いと遠ざかる人をたくさん見てきた。所詮、己は死に損ないなのだ。
目がしぱしぱと乾燥して来た頃、ようやっとブラウザを閉じると時間は10時をとっくに過ぎていた。通り過ぎたと思っていた空腹感が今更に襲ってきて、僕に食料を要求してくる。今家の中に腹を膨らませるような代物は残っていない。自炊はできないから食材もないし、食事に興味を示すこともほぼないから部屋を借りたとき備え付けてあった冷蔵庫はいつもすっからかんだ。これはどこかに買いに行く他ない。
外出を決めたらすぐにその準備を始めた。ぼさぼさで野放しにしている髪の先を簡単に結ってシンクの水道で顔を洗う。まだ寒さの続くこの時期は水が冷たくてしょうがないが、僕にとってはこれくらいが気持ちがいい。痛いほどの冷たさにぼんやりとした火のような熱も鎮まった。
一張羅のゆったりしたパーカーを羽織って外に出る。もちろんフードは視界の邪魔になるほど深く被る。周りの目は不審そうにこちらを見るが、きっとこの布で隠された中身を見た方がもっと酷い反応だろうから気にはしない。近くのコンビニで適当に安い昼飯と、バランス栄養食をいくつか余分に買う。これで3、4日は持つはずだ。店を出てすぐにおにぎりを腹に入れて、今度は家ではなく駅に向かった。
目的地は神保町。古本屋に用があった。
元より知識を得ることが好きだった僕は今でも独学で様々な知識を取り入れた。それらを将来に活かすつもりは毛頭ないが、この早すぎる余生の暇を潰すのにも僕の知識欲を満たすにも神保町古書店街は都合が良かった。古本だから読み終わった本をすぐ捨ててしまっても出費が痛くない。それにこの古書店街は時折“掘り出し物”が見つかる。
神保町の大通りの古書店を通り過ぎ、小道にひっそりと構える店を一直線に目指す。すっかりお得意様になっているその古書店はそんなに人が来ている様子でもないのに商品の入れ替えがわりと頻繁で、何度来ても同じ本に巡り会えたことはなかった。
大きな本棚がひしめく店内に足を踏み入れる。古本独特のほこりと紙の臭いが鼻をつく。秘密の倉庫にでも入っている気分で僕は嫌いじゃなかった。
気になっていた政治経済の本を数冊手に取った。この間読んだ本と同じ著者で、きっとこの間の話で出てこなかった話が色々と書いてあるに違いない。僕は少しだけ笑みを浮かべた。
その他に読みたい本がないかと本棚を一通り見て回る。ここで欲しい本を逃すと次にお目にかかれるのはいつになるかわからない。本の背の文字をするすると読んでいく。そうした後、1冊の本の背に題も著者も書かれていない本を見つけた。薄い絵本のような装丁のそれを見て僕は「見つけた」と直感的に思った。その本を手に取ると表紙には「diary」と書いてあり、ぱらぱらと中身を見るとポエミーな日記が酷く汚い字で並べられている。自分の日記を個人的に本にしたようだった。これを手掛けた者は相当にぶっ飛んだ思考でもしていたか、病んでいたか。けども、僕にとっては関係のないことだ。
レジにいる年老いた店長にあの日記も含めた本を出す。日記の本を見てもなにひとつ店長は顔色を変えず、どの本よりも安い値段でそれを買った。
「さて……」
帰宅した僕はせっかく買った政治経済の本には目もくれず、1冊の日記にみえる本と対峙した。目を閉じて表紙に手を触れた。掌と本が糸で繋がる感覚に胸が高鳴る。
「接続…………破壊」
呟いた途端に掌に静電気に近い小さな衝撃が走り、ばちりと本が鳴った。目を開けて見るそれは先程までの日記ではなかった。
深い青の生地に幾何学的な模様と何重もの円陣の表紙。題は消えて、禍々しく荘厳な雰囲気を纏ってそれはそこにあった。これが、“掘り出し物”の正体だ。
古書店街にはなんの事情があったのか、秘匿されるべきはずの神秘を記した魔導書や魔術に関する書物がごく稀に古本として売り出されている。神秘を秘匿してきた魔術師が血族以外に成果の仔細を伝えることはないため、出回るものの中身は覚書が多く、抽象的かつ専門的な言葉ばかりで中には図や魔方陣しか書かれていないこともある。一般人には何一つ理解できない内容であるが、それに簡易的な結界を貼りぱっと見では普通の本にしか見えないよう細工しているのだ。その結界も術者に寄りけりで僕が買った本のように気味の悪い日記のような場合もあれば何かの美術作品集である場合もある。後者は特に一般人が見ても美術的価値を見出し高値となることが多いが、僕が買ったようなものはかなり安値で手に入った。そういった本に身になるような話が書いてあることは稀だが、僕は見つけ次第購入し暇潰しのひとつとして読ませて貰っている。元々魔術の基礎とほんの少しの技術・知識しか習うことができなかった僕が理解できる内容は少なかったが、独学で学んでいくことは苦痛ではなかった。魔術師にいい思い出はあまりない。しかし、両親が僕に継承しようとした魔術というものを、天陵家と本家「千陵」の歩んできたものの一片を知ることができるのは決して嫌ではなかった。これもきっと僕に流れる魔術師の血なのだろう。
本の中身をぱらぱらと読む。やはり覚書のようで、規模の大きい魔術と簡易儀式、自らが研究していたことの過程や数式などをメモしているだけのようだ。見ただけではさっぱり何を指しているのかわからない。どれもこれもひとつずつ解読していくしかないらしい。
「これは、宝石魔術が主か……形式と属性は…………」
時間を気にせずひたすら理解し思考していく。わかるところから推測を広げ、時には以前手に入れた魔導書も使って正確かつ新しい魔術を知る。実際に魔術を使いもした。
僕が習得することができないような高度なもの、そもそも使用できない属性のもの、この本の中身が曝かれるにつれて自分と合っていない魔術ばかりで、頭に入れることはできても「得ること」はできないということが判明していく。特に火の魔術なんて僕は視界に映すことすらしたくない。今でも延々と炎に焼け落ちる家の中、両親の元へと還る幻想を夢に見続けているが、現実の炎は僕の体を縛り付ける火傷の痛みの想起と共に拒絶を表した。
溜息と共に本をめくる。もう最後の方の頁にきていた。
頁をめくるとこれまでと違う陣が刻まれていた。魔術の系統も書かれておらず、ただ魔方陣だけが描かれている。魔術系統に寄らない魔術ということか。
「描かれているのは……退去の陣と……?……っ!」
読み解いて、そこでようやっとこの陣が今までのものと全く違う異質なものだと理解した。息を飲んで、本を食い入るように見ていた顔を上げる。僕はこの魔方陣を、魔術を知っている。多分、魔方陣は目にしたこともあった。今やこの世で僕しか覚えていないだろう僕の両親の顔と、それを燃やしてほくそ笑んでいた男の顔が浮かぶ。
『これは召喚の魔術だ……とても特殊な』
『最高位の使い魔をとある魔術師の戦争に召喚する』
『消去の中に退去、退去の陣を4つ』
『そして召喚の陣で囲む……』
『聖杯戦争の勝者は願いを叶える権利を得る……』
『聖杯が手に入れば、世界を統べることすら容易い』
『魔術師ならば知らない奴はいない儀式さ…………』
『那次には命がけでも叶えたいお願い事はある……?』
ひりつく右手の痛みで意識を引き戻される。右手の甲には白い包帯が巻かれており、見た目には異常はない。しかし、そこに何かが「ある」感覚が先程から纏わり付いて離れない。恐る恐る白い布地を取り去ると、「それ」が目に入った。赤黒い痕は皮膚を焼いた刻印のように存在していた。
一辺が開いたトライマーク──1画目。
その三角形の辺を真ん中から切るように伸びる線──2画目。
中心に三日月よりも細い円──3画目。
「な、なんで……だって、これは……っ」
聖杯戦争は最高位の使い魔を使役するために魔術の結晶が3画分配される。3度だけの絶対命令権……令呪。それが、僕の右手の甲に浮かび上がっていた。これはつまり聖杯戦争の参加権利であり、「参加している」という証拠。僕が使い魔、サーヴァントを使役するマスターになったということ。
「聖杯戦争が、起きているっていうのか。こんな都心で……?」
日本のどこかでは聖杯戦争が度々行われていると聞く。しかし、こんな人の集まる首都圏で行われるなんて聞いたことがない。僕が話に聞いていた範囲では。しかし、こうして令呪が発現しているということは、少なくとも1騎のサーヴァントが召喚されていないということになる。聖杯戦争を望んだわけでも、サーヴァントを召喚したわけでもないのに、僕はマスターになってしまったと?
もう一度、手の甲の模様を見ようと目線を下げる。まだそこには赤黒い痕があった。しかし、なんだか消え入りそうに明滅しているようにも見えた。見間違いと思うくらいに、微かに。
「まだ決まった訳じゃないってことか」
僕が召喚するより先にサーヴァントが出揃えば。確か聖杯戦争は7組で行われるはずだ。つまりその枠がなくなればマスターにはなれない。僕の傍にはサーヴァント召喚の陣が刻まれた本がある。だから、だからきっとうっかり、こんなことになってしまったのだ。だからこのまま何も無いように振る舞えば──
那次には命がけでも叶えたいお願い事はある……?
母の優しい声が耳に反響して静かだった部屋を満たす。
僕を魔術の後継者として、そして1人の息子として、厳しくも優しく育ててくれた母。魔術を教えるときには他人に対してよりも誰に対してよりも厳しく、母として育むときには自分自身を甘やかすよりも優しく。あのとき、母はどちらの顔で僕に問いかけたのだったか。父はそのとき何と言っていたのだっけ。確か、個人の願望を叶えるだけの器ではないのだと、そう言っていた気がする。それはあの男の傲慢な願いを叱責していたときに。少し年上の、本家当主の弟。僕が産まれていなければ、彼が次の当主だったろう。あまり好意を持たれていないのは気づいていた。彼が欲しかったのはきっと名声とか、地位とか、お金とか、魔術師の生まれにしては一般的な願いだった。でもその発想は流石魔術師、手に入れる方法は幾らでもあっただろうに道徳心に欠ける最低な方法でそれを手に入れた。僕の人生を壊したあの火事は、どんなに調べても過去のニュースとして「ストーブから出火か家族3人死亡」と当たり障りのない内容で書かれていた。どう手を回したかは知らないが命の危険を悟った僕が病院を逃げ出しても大きな騒ぎにならず、公的には僕も死んでしまっているようだった。
母の声がまだ頭に響いている。
願い事はあるかだって?あるに決まっているじゃないか。どうにもならないこと。何も無いゾンビが願うこと。
両親を返してほしい。過去に戻してほしい。僕らを殺したアイツを消してほしい。見た目だけで気味が悪いだとか、哀れだとか、僕を害してくる奴がみんないなくなればいい。
右手はじりじりと痛みを訴える。僕の欲に反応するように。
聖杯を手に入れたいならば、参加しなければならない。そして、ただ1人の勝者にならなくては。
「無理だ……そんなの」
相手は同じ魔術師だと言っても、僕のようななり損ないではないだろうし。そこにサーヴァントという強い使い魔がいる。条件は同じかもしれない。しかし、僕以外に6騎もの敵がいると考えれば勝率は限りなく低い。
外はすでに夜の帳が降り、部屋の明るさから窓硝子は鏡のように僕を映す。醜い火傷の痕を唯一隠さない顔と目が合った瞬間に僕はかぶりを振った。そのまま傍に置かれたタオルケットを頭まで被る。
何も知らない。何も見ていない。
体を抱えて蹲り、瞳を閉じた。
よく見るいつもの僕の家。今住んでいるひと部屋だけの虚ろな空間ではない。僕が家族と住んでいたときの家だ。いつも夢をみているときのように燃えてはいない。
夢のなかは常に目眩のようにくらくらとして、部屋の輪郭は明確ではなかった。
「かわいそうになぁ」
後ろから男の呟きが聞こえ、僕は身を震わせた。咄嗟に振り返ると男はこちらに背を向けてポリタンクを持っていた。笑い声が聞こえ、男は「かわいそうに」とまた呟く。傍にはストーブがあり、凍り付きそうになる部屋を暖めるために必死で稼働する音が聞こえた。10歳の僕は、この部屋で毛布にくるまれて眠っていた。今ここに昔の僕の姿はなかったが、僕はこのとき目を覚まして、そして出遭ってしまったんだ。
『にい、さん』
僕が口に出したのか、夢のなかの幻がどこかから喋ったのか、僕にはわからなかった。その声が響くと男はまた嗤った。
「かわいそうに。起きてしまったのか。そのまま眠っていれば」
苦しまずに死ねたのになぁ
嗤ってタンクの中身をぶちまける。どろどろと死の液体がストーブにかかり、業火は家を焼く。
震えた足を無理矢理動かして僕は駆けだした。
「うあああああっっっ!!!」
言葉にできない叫びと共に僕は男に掴みかかろうとした。しかし伸ばした手は男の体をすり抜けていく。男をすり抜けながら通り過ぎて、周りを見回しても人影はどこにも見えず炎の中に僕は独り取り残された。呆然と部屋に座り込んで焼け落ちる様を眺めて、いつもの夢に戻ってしまったことを悟った。
あんなやつが、あんなやつが今も生きている。あんなやつが僕の両親を、人生を、奪って今ものうのうと生きている。
許せない、許せるはずがない。
アイツの笑い声が部屋を反響して聞こえる。幾重にもなって。頭を抱えるように耳を塞いでも笑い声は耳に残る。
しばらくして、顔を上げる。もう声は聞こえず、周りも炭や灰と化した部屋だった何かに変わり果てていた。
がさり、と後ろから物音がした。その音の正体に思い当たり、僕は穴の空いた心に、冷たく心地が良い安堵が詰め込まれていくような感じを覚えた。振り向けば、鋭利で夜よりも炭よりも黒い人影が2つこちらに手を伸ばしていた。
僕もそれに手を伸ばす。その直前に今度は優しい声が聞こえたような気がした。
命がけでも叶えたいお願い事はある?
がばりと体を起こす。被っていたタオルケットは勢いで後ろに落ちた。春のまだ肌寒い日のはずなのに体は汗だくで、体中に巻かれている包帯と着ているタンクトップとが湿っぽくて気持ちが悪い。
しばらく座り込んでいたが、ふらふらと立ち上がって僕はシャワーを浴びようと洗面所の方へ向かった。服を脱いで包帯を解く段階になったら僕は目を瞑る。そこから再び包帯を巻き終わるまで目は開けない。たとえ体を洗っている最中でもできれば体の痕を目にいれたくないからだ。目を瞑っている間、視界が遮られた闇の中でずっと僕は考え続けていた。
気づいてしまったのだ。例え聖杯戦争に勝たなくったって、僕の願いは参加するだけできっと叶ってしまうことを。最も簡単で、そしてその理由もちゃんとつけられる方法を。命がけでも叶えたいお願い事。命をかければ叶う願い事。あの火事の後からずっと、頭の隅にこびりついて離れずにいたこと。
両親の元に、いくこと。自殺。
何度か考えていたことではあった。生き残ってしまった自分。死に損なった自分。この先、生きる希望が何ひとつない状態で生きていることになんの意味があるのかと。しかし、実行に移すには至らなかった。施設という環境のせいか、死後の世界を純粋に認められるほど信心深くなかったせいかは僕自身もわからない。ともかくその為の手段も切欠もなくここまで生き続けてしまったのだ。
しかし、聖杯戦争ならば死ぬ理由も手段も切欠も、全て揃うことだろう。なぜならこれは「戦争」なのだ。一昔前は戦死は栄誉であると教えられるくらいだ。それに自決であっても信念を貫いたが故だとされる。それが危うい思想であったとしても。今の僕にとってそれは6年ぶりの確かな「希望」だった。この戦争で命を散らしたとしても、それは命をかけて戦い抜いた結果であり、栄誉ある死だ。最期くらいこの命に意味を付けたって誰も文句は言うまい。それに僕が脱落すれば、他のマスターは自分の願いに一歩近づく。利害は一致している。自殺なんかよりよほど、後ろめたさも罪悪感もなく両親の元に還ることができるだろう。
シャワーを済ませ、包帯を大体巻き終わったところで目を開ける。中途半端に開いたままのカーテンの隙間から差し込む光が部屋を照らしていた。パソコンを立ち上げ日時を確認すると19日の午前10時だということがわかった。目を覚ましたときには外が明るいことに気づかなかったが、タオルケットを被ったまま寝入ってしまったらしい。僕はこれから訪れるだろう未来に胸が高鳴るような、むしろ凪いでいるような奇妙な心地になっていた。これが死を前にした人間の心情なのだろうか。それなら、悪くはない。
決行は今夜、日付が変わる頃に。この1日でその準備を早急に進めなければ。
3月20日午前1時
カーテンを閉め切り、暗がりになった部屋の中心に立つ。パソコンや本が置かれた簡易テーブルやタオルケットなどは壁に寄せ、部屋の中心には1枚の紙切れ。その紙切れの前に立って僕は息を吐き出した。
こんな状態で召喚なんてできるんだろうか。床に刻むことはせず、手に入れた本の頁を破って置いただけの魔方陣。怨念も歴史も籠もっていない、魔術的にはその辺の石ころと価値の変わらない安価な宝石。
魔方陣を作成するための血も鉛も用意できない為、一応魔力の籠もった紙片である魔方陣の描かれた頁をそのまま使ったが、これで魔術として成り立つかは怪しい。また、触媒についても僕の経済状況で宝石魔術はとんでもない痛手な上、まともに魔術に使える石なんて揃えられなかった。数だけは揃えてみたものの。あとはなんとかできるかはわからないが僕自身が魔力を最大限に込めて魔術を使うくらいしか思いつかなかった。
これで召喚できなかったのなら仕方ない。死に損ないがまだ生き続けるだけのこと。宝石を握った手を突き出し、僕は大きく息を吸って詠唱を唱え始めた。
Ⅱ
嗚呼、神がおわしめすならば。
私の言葉が届いているのであれば。
この戦争に犠牲のありませんように。
要らぬ血が流れることのありませんように。
私に強さを、
抗い、守る強さをお与えください──
瞼を開いて、最初に見たのは目の前に立つ少年の姿だった。暗がりで色はよくわからないが、くすんだ色の髪が風に煽られたのか少しぼさついて、深い色をした瞳は静かにこちらを見据えている。そして目を引くのはその顔の半分を覆う傷だ。爛れた痕は風化を見せつつも色濃く残り、その痕をつけるに至った出来事を忘れさせないための戒めのように感じた。それを認めた後に首や手足に巻かれた包帯が目に入り、その呪いのような痕が体中を這っている想像が頭を掠めた。
「クラス、ライダー。召喚に応じここに参りました」
服に付いた鎖を鳴らし、慣れない決まり文句を述べて相手の様子を窺うと、鋭い気配が散り肩の力を抜いて溜息を溢したのが見えた。少年は少し掠れた細い声で話す。
「……。僕がお前のマスターだ。ライダー……名前は?」
「真名は、ジェーン・グレイと言います」
「そう」
先程の緊張感溢れた態度はどこへ行ったのか、急にぶっきらぼうな態度に変わったマスターはフードを深く被りながら、私の横を通りすぎてすぐ後ろの機械……パソコンをいじり始める。キーボードを叩く音が聞こえて何かを調べていることがわかった。暗い部屋を仄白い光が眩く照らす。
「……あの」
「何?」
「お名前を伺っても……」
「僕?僕はテンリョウナツグだ」
テンリョウ、ナツグ。ある程度の現代知識を得ていても、日本とイギリスでは勝手が違いすぎてその音に戸惑うように彼の名前を反芻する。
「ほら」
聞き馴染みの無い日本名に戸惑っていると、彼はこちらを手招きしてパソコンの画面を見せてきた。メモ帳と題されたウインドウには、彼の名前の漢字表記とその横にカタカナで振り仮名が打たれている。
『天陵 那次/テンリョウ ナツグ』
ナツグ、なつぐ、那次。響きが口に馴染んできたところで那次は私に興味が無くなったようにまたパソコンに向き始め、誰に話しかけるでもない独り言を溢した。
「イギリスの……。ふーん……同い年、ねぇ」
どうやら私のことを調べていたらしい。そういえば現代では言葉を機械に打ち込むだけで、ありとあらゆる物を解説してくれるのだった。文明の利器というものに嘆息していると、彼の方から私に声をかけてくる。
「調べた限り、戦闘ができそうには思えないけど」
「一応、斧を拝借しましたが……」
「自虐的だな」
返す言葉もない。誰が自分を殺した凶器を武器にするのか。だが、サーヴァントとの戦闘に使えるほどの特技というものもない。得意といえば語学から始まる勉学の類くらいなものだけれど、あの時代の王室にバイリンガルは至って普通のことであったし。頭の良さや真面目さ信心深さは結局のところ、人間社会と向き合うには大して重要ではないのだとその後身をもって知ってしまった。その代わりのように斧を持ったわけだが。これに関しては気が触れていると言われても仕方がない。
「まあ、別にどうだっていいか」
投げやりに彼は呟く。どうでもいいことなんだろうか。
逡巡している間に彼は隅に追いやられたタオルケットをたぐり寄せ、座布団に頭を乗せて横になった。
「えっ、あ、あの……」
「召喚で消耗してるんだ」
それに今は夜中だ。そう言い残したきり私に背を向けて部屋の隅で丸くなった彼のマイペースさに慌てふためく私の心を表すように、しゃらしゃらと腰周りの鎖がまた鳴る。彼の体がもぞもぞと動いた。
ちらりとこちらを向いた顔はフードと髪で鼻先辺りしか見えない。
「気配を消してくれると助かる」
「はい……」
ぴしゃりと言い放たれて私は大人しく霊体になり気配を消した。
召喚されて僅かな時間で嵐のように過ぎ去った出来事に頭がついていかない。
私は、マスター那次に召喚されて。彼は私の真名を把握して眠りについた。まとめると数十文字程度の状況整理。ぽつりと独り佇む私はやっと落ち着いて周り見渡した。
狭いワンルーム。家具という家具はパソコンと何かの入ったビニール袋の置いてある簡易テーブルぐらいのもので。そのテーブルの下には、本が数冊置き去りにされたように置かれていた。ベッドも布団もなく、彼は折り曲げた座布団に頭を乗せて、タオルケットを掛布代わりに眠りにつく。その顔は寝ていても外さないフードで見えない。小柄で線の薄い少年は、確か同い年だと呟いていた。私は自分の歴史の最盛期であり最期の姿である16歳の体をとっている。現代でいうところの高校1年生だ。そして彼も同じ16歳らしい。どうしてこんな少年が聖杯戦争に参加するのだろう。少年は見た目からして普通の人生を歩んできたとは思えないが、それと何か関係があるのだろうか。一体何を望んでいるのか。
少年から視線を外し、先程自分が召喚された場所を見る。物が置かれていない剥き出しの床の中央に黒い物体が固まりになっている。
衣服に付いた鎖に注意すれば、なんとかなるだろうか。細心の注意を払い実体を表す。横目で彼の様子を伺うが、身じろぎする様子はなかった。ひとまず大丈夫そうだ。私は黒い物体に視線を戻した。
手のひらでそれをそっと掬おうとする。すると燃え尽きた炭のようなそれは粉々になって散ってしまった。私を喚ぶ触媒だろうか。真っ黒で原型をとどめていないが、紙片のようにも見える。
粉々になった破片のようなそれを手のひらに乗せてくずかごを探そうと移動する。ほんの数歩でキッチンへと辿り着いて、壁の隅にある小さなくずかごに手にあるそれを捨てた。
キッチンはガス台もシンクもさっぱり使われていないのか埃が積もってしまっている。その横に備えられた小さな冷蔵庫が目に入る。そっと扉を開けても、中にはラベルの剥がされたペットボトルが数本だけ水を入れられて置かれているだけだった。生活感のまるで無い部屋だ。
興味がないように捨て置かれたキッチンを過ぎて、玄関付近にある洗面所に足を踏み入れる。そこは洗剤や石鹸、歯ブラシに脱いだ衣服や真っ白な大量の包帯など、いくらか生活を感じられる空間になっていた。特に衣服は洗われたばかりらしい畳まれたシャツやズボンが、棚の一角に種類ごとに置かれていた。キッチンの様子を見るに必要なところだけを必要なだけ使っているのだろう。食事に興味がないのがよくわかった。
洗面台の鏡にはタオルがかけられていた。隠されたようになったそれに手をかける。
そっと、音を立てぬようにタオルを取り去った。照らす光のない部屋の中では鏡に映る姿はよく見えない。
少し脚色しすぎた格好なような。サーヴァントになるというのはその頃の姿をそのまま喚んだわけではないようで、当時ではあり得ないスカートの形や意味深長な帽子と腰周りについた鎖。私には少し縁起の悪い毛先の紅。どこか私という「概念」を象徴したような風貌になっている。
姿を眺めていると鏡の中の私と目があった。強張った顔はそれでもあの頃よりも幾分かましになったのではないだろうか。当時は気づけなかったが、きっとその当時は酷い顔をしていたんだろうと思う。裏で全てが決められて、気づいた頃には国の頂点となるのはお前なのだと全てがお膳立てされていた。逆らえなかった。それに比べて今は心も体も強くなった。まだマスターのことも聖杯戦争のことも、わからないこと不安なことばかりだ。でも、それでも、何の意志も力も持てなかったあの頃とは全く違うのだ。鏡の中の瞳は強い意志が宿って、微かな光源に静かに輝く。
また争い事に巻き込まれてしまった気がしますが、そこにせめて死が関わってきませんように。悲しい思いも、苦しい思いも。誰だって辛いものだから。そうするしかなかったのだと言い訳するしかなくなった悲劇なんて、いらない。
日が昇ってしばらくすると彼は目を覚ました。カーテンを閉めていてもある程度部屋が明るく、那次の仄暗い髪色もよくわかった。彼は起きるとまず簡易テーブルに置かれたビニール袋から栄養食を取り出し、冷蔵庫から水を取り出すとほんの数分で朝食を終わらせた。
「あの、それはあまりに不健康といいますか……」
食べ盛りであるはずの少年のあまりに寂しい食事に、つい実体を現してまで口を出す。また、今度は帽子の鎖が揺れた。
那次は寝起き眼で私を睨みつけると面倒くさげに言う。
「お前には関係ないだろう。サーヴァントは戦えればそれでいい。マスターは、人間は死なない程度に生活してればいいんだ。それに、あんな台所でまともな飯を作れると思うか?」
「それは掃除を……」
「要らない。必要ない。意味が無い」
言いきった彼はペットボトルの水を飲み干した。ここまで私と目をあわせてくれていない。
「とにかく僕がどんな食事をしようと関係ない。お前はサーヴァント……使い魔なんだろう?」
「確かに、それはそうですが……」
「だったら大人しくしていてくれ」
消沈した私は彼の前から姿を消した。霊体となったところで彼との契約の繋がりは決して切れるものではないから、どこにいるかは伝わってしまっているだろうけど。
那次は日が昇りきるまではパソコンをいじっていた。何をしているかは部屋の対角にいる私にはわからないが、ひたすら画面を見続けてカチカチとマウスを鳴らす。それが終わると宝石を取り出して何やら呪文を呟いていた。多分、石に先に魔術を施して戦闘時の詠唱を短縮するためだろう。それは夜遅い時間まで行われた。途中水分補給と食事を1回ずつしただけで、それ以外はひたすら魔導書と宝石に向き合いながら作業をしていた。心配になり何度も声をかけそうになったが、またうんざりするというような声ではねのけられるであろうことは予想がつくのでひたすら見守る時間が続いた。
日付が変わる頃、彼はようやっと魔導書と宝石に向け続けていた顔を上げた。パソコンで時刻を確認すると私の前を通り過ぎて洗面所の方へ向かっていった。霊体だからこの表現が正しいとは言えないが、キッチンの前に座り込んでいた私は彼が浴室に入り水音が聞こえてきたあたりで腰を上げた。窓をするりと抜けてベランダへ。星の見えない明るい都会の空を見上げた。数えるほどしかない星は、今にも光を失ってしまいそうに弱々しく輝いていた。
星が、遠い。生前、こんなに星は遠くに見えただろうか。いや、まずこんなに静かに空を見上げられるほど穏やかな暮らしができたことはほとんどなかった。だから、遠いか近いかなんて比べられない。
視線を落とすと街の陰が見えた。夜中の電気のついていない建物に街灯。静かすぎるほど、ここに街の声は届かなかった。
室内に戻ると那次は丁度入浴を済ませてきた所で、下着1枚で佇む彼を見てしまった。体中に巻きつくような痕が目に入った。
急いで目を背けると彼は気配を感じたのか少し呆れた調子の声が聞こえた。
「まだベランダに居ればよかったのに」
気づいていたらしい。ほんの数十センチ、1メートル程度の移動も彼には気づかれてしまうらしかった。それともサーヴァントとマスターはやはりそれだけ深い契約のもと成り立っているのだろうか。
彼のいる方からは、するすると布の擦れる音が聞こえる。掛け時計もない部屋ではその音だけが強調されて、何時間もの長さに思えた。
「……もう終わったから」
微かな音が途切れると声がかかった。那次を見ると、黒っぽいタンクトップに類似色の半袖シャツを羽織り、7分丈のズボンという昨日とあまり変わり映えしない格好で座っていた。その袖から見える手足には緩く、しかし隙間なく白い包帯が巻かれていた。それを巻くのに時間がかかっていたらしい。
不意に視界が暗くなる。彼が電気を消した。
『あの……。おやすみなさい』
初めて無音の意思疎通を、契約を交わしたマスターとサーヴァントが口を開かずに交わせる意思伝達を果たす。那次は無言で眠りについた。
今日は昨日よりも動きのない日だった。連日夜遅くに寝たためか今日はお昼頃まで彼は起きなかった。起きて水を飲み、その後はただひたすら擦り切れた本を読む。時折パソコンで本に載っている単語について調べる。それだけ。変わったのは読んでいる本が、魔術に関するものから政治経済に関するものに変わっただけだ。ひとりで黙々と本読んでいた、私など居なかったように。いや、暇を持て余しているとわかっている彼が読み終わった本をこちらに要るかと訊いてきていたので、居なかったことにはされていない。ただ、とにかく聖杯戦争に積極的に関わる様子はなかった。確かに魔術師のサーヴァントでもない私は戦況を知ることはできないし、最初は余り外に出ない方が、彼が危険に晒されることはないだろう。争いで流れる血は、あまり見たくないから。その点では都合がよかった。
初日にも考えたことがまた、頭に浮かんだ。
彼は何故、聖杯戦争に参加するのだろう──
3月22日
「あ……」
朝起きて、彼はやってしまったとでもいうように声を漏らした。
やかましくビニール袋を動かして那次は溜息をつく。袋からはバランス栄養食が1個が吐き出されたのみで、後は空気のみがふわふわと袋の中に中途半端に入り込む。一日三食も満たしていないというのに、この狭い狭い部屋の中には食品が栄養食ただひとつのみだ。本当にこんなものだけで毎日過ごしていたのだろうか。そもそも、そんなものだけで生きていられるのだろうか。私は食品を買いに行くべきだと助言しようとした。
「買い出しに行く」
しかしその前に彼が至極当然ながら外出の予定を宣告する。むしろこれで興味がなさそうにまたタオルケットを被り始めたら私は、流石に苦言を呈することになっていただろう。何を言われようともそこは譲れない。
那次は私を召喚時にも羽織っていたパーカーを羽織って外に出ようとする。私はその後を急いで追う。その気配を察知した彼は素早く後ろを振り向いた。
「私は、単独で行動できません。マスターとあまり離れることができないのです」
姿を現して訴える。鬱陶しげな目は諦めたような目に変わった。
「あっそ、わかった。勝手についてくればいい。好きにすればいいさ」
彼には危機感があるのだろうか。もし私が単独でも体を維持し続けられるとすれば、彼は私を置いて行ってしまいそうな勢いだった。長いひとり暮らしがそうさせているのかもしれない。しかし、そんな危うい状態で外に出てしまっては、彼は悪意を持つマスターとサーヴァントに命を狙われてしまうかもしれないのだ。
そう、サーヴァントが召喚された時点で聖杯戦争は始まっているのだ。彼にも願いがあるだろうに。そのために私を喚び、一昨日は宝石魔術を戦闘に備え、用意していたのではないか。
彼は今にも扉を開けて外に出ようとしていた。朝、ベランダを確認すると空に雲が出ていたが、太陽の明るさは部屋の灯りの比ではない。それは暗い部屋を強烈に照らし始めた。
「ひとつ、質問が!」
那次は玄関の敷居を既に跨いでいた。開いた扉から風が入り込んで髪を揺らす。振り返る彼の顔は逆光で見えず。深く被ったパーカーのせいで丸い頭のシルエットだけが浮かぶ。
「貴方の、聖杯に願うものは……?叶えたいこととは……?」
外の風以外は聞こえない、静寂が続いた。ほんの数歩の彼との距離が遠い。
「……い、……く……」
「え……?」
那次は呟く。
「世界、征服だ」
「──っ」
そのとき、私の耳には風の音すら届かなかった。
調子が狂う。数年ぶりのまともなコミュニケーションというのはとんでもなく疲れるもので、確実に僕を疲弊させていた。しかもちらちらと気配が気になる。
6年前から他人の気配に敏感になっていたのは気づいていたが、ライダーの場合はそれ以上だ。霊体になったサーヴァントであっても感知できるというのはマスターとして当然なのだろうが。どこにいるのか、どう動いているのか、逐一分かってしまう上に気になって夜などあまり眠れない。向こうが姿を消してもそれは変わらなかった。魔術回路の入り切りに関しては、魔術の勉強をする際には必ずできるようにならなくてはならないからしっかり行われている。しかしライダーの気配は、自分の座っているソファに軽く衝撃が与えられたのを気づけてしまうような。間接的に他人が「居る」とわかってしまう感覚になる。それがマスターとサーヴァントというものなのだろうか。外を歩く今も、真後ろの彼女の気配が気になった。
そして、もう一つ調子が狂うことがあった。ライダーが、お節介なのか声を度々かけてくることだ。人と会話をすることに慣れていない僕は掠れた声しか出ないし、すぐに喉が渇くし、気まずいし、散々だ。だから昨日なんて朝には起きていたのにタオルケットにくるまったまま、昼まで狸寝入りしてしまった。多分彼女は気づいていない。
それに、僕は何故あの男のような愚かな願いを口にしてしまったのか。世界征服なんて。
どうだってよかった。どうせ僕は死ぬのだ。戦の中で、願いを叶えるために必死に走った末に志し半ばで道が途絶えたように“見せかけて”。だから、聖杯に願う望みはない。ないが──
もしも生き残ってしまったとして、死にたいなんて聖杯に願うことがあるだろうか。
死に損なって、死に損なって、死に損なって死に損なって死に損なって死に損なって。ただひとりになってしまったら。
くじを引いたら一等です、というようにあの火事で死に損なった僕だ。その可能性だって否めない。
ああ、そうだ。もしもまだ死ねないようなら、世界の王様を目指すのも悪くない。そうしたら僕を“殺した”あの男も、気味が悪いと蔑んだ施設にいた奴らも、心配という仮面を貼り付けた大人も、みんな処刑してしまえば良い。これで、死んでも死に損なっても本当にどちらでも良くなった。損なったときの方は最悪の場合、だけども。
ぼうっとしていた僕は家から少し離れた公園まで歩いていたことに気づく。いつも寄る幾つかのコンビニとは反対方向だ。この公園の先となると、駅前近くまで歩くことになる。
そこまで行ってみるのも面白いかもしれない。元々外出した理由は食料の買い出しだけでなく、昼間とはいえ聖杯戦争の参加者と出遭うかもしれないと思ったからだ。魔術の秘匿を考えれば確率はきわめて低いが、外に出れば出遭う確率は上がる。
噂をすればというやつか、そのとき僕はかなり離れた前方からライダーと同じような気配を感じた。感じたと言っても魔力がどうのと言ったものではない。もっと直感的なものだ。間接的に他人がいると感じる。今はさながら広い広いブルーシートの角から、対角の角に踏み込まれたと足を伝って気づいたような感覚だ。自分でもよくわからない。ただ踏み込まれたと感じたのだ。
『どうしたのですか?』
ライダーが突然足を止めた僕を不審がってテレパシーのようなもので問いかける。
『しっ。サーヴァントだ……隠れるぞ』
『えっ……?』
ライダーは気づいていないのか、困惑して気配も同時に揺れた。僕はかなり過敏になっているらしかった。
公園の植え込みにしては木の多い、林のような所に咄嗟に身を隠した。気配は確実に近づく。何メートル先かはわからない。ただ、近づいてくるというのがわかるだけだ。魔術を使えば、もしかしたら相手のことがもっと分かるのかもしれない。しかし、きっと気づかれてしまう。
過敏なのは性質なのだろう。幼い頃から隠れんぼの鬼になって負けたことはなかった。魔術回路を活性化させてしまいそうになるのを抑え、それでも必死に気配を追った。ライダーの気配がまた揺れる。どうやらサーヴァントに気づいたらしい。
そろりと公園の外を見遣る。人が2人、歩いてきていた。
……彼らだ。
何か話している。聞こえないはずの距離だが……。
もっと、もっと──彼らは僕の、頭に浮かべるブルーシートの真ん中に足を踏み入れる。自分の足が木の根のように彼らに伸びて、そしてその根を踏みつけられたような気がして。足に、何かが纏わり付くような感覚が拭えない。目を閉じて、耳を澄ます。
……ーは……望……?
……わないで………きいて……?
彼らの声以外の、全ての雑音が、消え失せた。
……目を向けられたい。自分が生きた証拠を残したい──
「──な」
生きた、証拠を、残す。
生きた証拠を……?
炎に煽られたような衝動と衝撃が巻き起こったのはほんの数瞬の間だった。急激に全てが凍り付いたような寒さに囚われて背筋が震える。
「──俺はあんたの望みを成就すべく戦おう。ケルトの魔槍使い。───ケルトハル・マク・ウテヒルの名に懸けて」
その声が聞こえたときには足を踏み出していた。ライダーの気配も、街の雑音も、何もかもが気にならなかった。
ただ、目の前にいる“敵”に向かっていった──
「は。白昼堂々、真名を口にするなんてね」
生きることも、その証拠を残すことも許されず。全てを火にくべられた僕には、その言葉を口に出すこと自体があまりにも畏れ多いことで。
それはとても眩しくて、恨めしかったのだ。
Fate/defective [Pathetic Corpse]
──本編第2章へ続く。