花たちが咲うとき 九

花たちが咲(わら)うとき

第九話 ~覚~

 週も半ば。大半の人にとって最も憂鬱な曜日に加え、天気も優れない今日
大学内の空気も行きかう学徒達もどこかうっそりとした気色をはらんだ昼下がりのキャンパスを歩く(きょう)に近づく影があった
その影は前を歩く香の無防備な背中に近づくと、大きく腕を振り上げた
「わっ!」
「うわっ!?」
大きな声と共に思いきり両肩を叩かれた香は、突然のことに体勢を崩しながらも背後を振り返る
よほど驚いたのか、胸に手を当てて浅く呼吸を整えている
驚愕を緑の瞳にありありと浮かべながら、香はその人物を必死に思い出そうとしているようだった
「えっと、確か。双入(ふたいり)さん?」
「ぴんぽーん! 双入(ふたいり) 詩瑞歌(しずか)! よぉ覚えとったなぁ。さすが主席はん」
双入と呼ばれた女性はクイッとキャスケット帽を持ち上げて、右の横髪を一束結わえたビー玉のような髪飾りを揺らしながら笑っている
「それにしてもボーっと歩いとったなぁ。考え事でもしとったんか?」
「あ、はい。少し
春以来ですね。お久しぶりです」
「久しぶりやねぇ。相変わらず派手なナリしとるから見つけやすかったわ」
「あはは……。それで、今日はどうなさったんですか?」
「おん。またあんさんに取材させてもらおう思うてな」
そう言うと、詩瑞歌は胸ポケットからメモを取り出し、慣れた手つきでページをめくる
「今日の主席はんの時間割からするとこの後暇やろ? ちょっと付き合ってぇな」
「それは構いませんけど。今回は何の記事ですか?」
「ザ・主席はんの夏休みを独占取材!」
「え」
あからさまに言葉を失った香に対して、詩瑞歌はペロッと舌を出した
「てのはジョーダンで」
「あ、冗談ですか」
「似たようなもんやけどな」
「へ!?」
先程から表情を弄ばれている香を一通り楽しそうに眺めた詩瑞歌は、ここではなんだからと歩き出した
「週開けの学生代表者会議で文化祭実行委員と協力して活動することが決まったそうやな」
「お耳が早いですね」
「へへん。それがうちの売りやさかいな」
「今回はその取材ですか?」
「そや。夏休み中の活動から文化祭当日までをな。密着取材や!」
ズビシッ、と音が聞こえてきそうなほどに人差し指を天に突き立てた詩瑞歌に、香は微笑ましそうに表情を崩した
おそらく彼女には曜日や周囲の空気など関係なく生きているのだろう
彼女の周りだけ日が差したように明るく感じた
微笑ましげに目元を下げた香を、詩瑞歌はジッと見つめ返す
「ところで主席はんの頭て地毛なん?」
「え、あ、はい」
急に話が変わったことに香は驚きつつも、咄嗟に返事を返す
「生まれつき? ハーフなん?」
「あ、いや。ハーフとかではない、です」
「その様子やと、生まれつきってわけでも無さそうやな」
香が意識してか無意識でか、あえて返答しなかった最初の質問をつつけば香は分かりやすいくらいに動揺を見せた
「昔、事故で……」
「事故?」
「あ、それよりほら。文化祭の件なら利根(とね)さんにも話を聞くといいと思いますよ」
どこか納得できないような面持ちでメモを閉じた詩瑞歌は、思い出したように息を吐いた
「あぁ、薊ちゃんな。そのつもりやで」
「利根さんとはお知り合いでしたか」
「まぁな。なんせうちの学校の理事長はんの娘やからな」
「そうでした。失言でしたね」
「ふふん。主席はんにも失敗はあるんやねぇ」
「人間ですから」
ははは、と軽く笑いあって食堂の二階のドアを開く
食堂は二階建てで屋上も開放している
一階は大きな長テーブルがずらりと並ぶ学生食堂そのものの風体だが、二階や屋上は食堂と言うよりカフェに近い
小さめの丸テーブルや、窓際に並ぶ一人用のテーブルが小奇麗に並んでいる
販売しているものも一階がラーメンや丼といった昼食向きのボリュームのあるものに対して、二階は軽食やパフェといったオシャレなものが多い
「おばちゃん! ホットケーキ! 蜂蜜シロップたっぷりでな!」
「はぁい。二百八十円になります」
「ほら、主席はんも何か頼みや。先輩のうちがおごったるさかい」
「え、でも……」
「はーい。時間切れ! 主席はんはホットケーキバニラアイス乗せな」
香がたじろいでる合間にも詩瑞歌はさっさと事を進めてしまい、すっかり流されてしまった香はあれよあれとホットケーキの皿の置かれたテーブルに座らされてしまった
香の目の前でバニラアイスがホットケーキの暖かさで少しずつ溶けていく
「なんや? 主席はんは甘いもん嫌いか?」
いつまでも手をつけようとしない香に、詩瑞歌はシロップで汚れた口元をぺろりと舐めて首をかしげる
「あ、いえ。好きです。甘いもの」
「ほならええやん。はよ食べぇ」
「……はい。いただきます」
「どうぞー」
確かに香は甘いものが好きなのだが飴や駄菓子などを食べることが多く、おしゃれなスウィーツと言ったものとはあまり縁が無かった
ホットケーキの上でどんどん溶けていくアイスに、アイスから食べるべきなのかそれともホットケーキと一緒に食べるべきなのかフォークを片手にアタフタしながら、香はようやく一口目を頂いた
まだかまだかと香の様子を見守っていた詩瑞歌は、たまらないといった様子で盛大に笑う
「ははは! なんや主席はんは勉強は出来るのにデートは小学生より出来が悪いなぁ」
「で、デート!?」
「男と女が一緒に食事しとったら、そらもうデートやろ」
「え、そ、そうなんですか?」
「そやそや」
香は困ったように口元を震わせて、フォークを動かす手を止めてしまった
詩瑞歌はおもちゃを見つけた子供のように笑みを深める
「なんや? 主席はんはうちとデートしたらまずい理由があるんか?
彼女がおるとか?」
「いいいません!」
ブンブンと音がしそうなほどに首を横に振る香に、静瑞歌はフォークの先でホットケーキをつつく
「ほー? 意外やな
主席はんは人脈も広いし男女ともにお友達が多いやん? 女友達の中に彼女の一人や二人おったって可笑しくないやろ?」
「二人も居たらダメでしょう……」
困り果てたように頭を垂れた香に、詩瑞歌は聞こえなかったかのように笑い飛ばす
「もうこの大学の生徒全員主席はんの友達なんちゃう?」
「それは、さすがに……」
「謙遜しぃなや。実際当たらずも遠からずみたいなもんやろ?
あの『君影』の次男坊ともお友達なくらいなんやから」
もうホットケーキの上のアイスは、春の日差しに晒された雪だるまのように無残な状態になってしまっていた
香は驚きに揺らいだ瞳を隠すように瞼を下ろす
もう一度持ち上げられた瞼から覗く瞳はもう歪んではいなかった
「あの。君影のことを聞きたいのなら、本人に聞くのが一番だと思います」
「……ほんと、敏い子やねぇ」
「すみません。
……あの、君影は自分のことを話すのが好きではないので、あまり無理強いとかはしないであげてください」
「ほんでもってお優しいと。
参ったわ。うちこういうタイプに弱いねん」
ホットケーキの最後の一切れを口に放り込んだ詩瑞歌は、パンと両手を合わせて席を立つ
「気を悪くせんといてな。こういうのがうちのやり方やねん」
「いえ……。ホットケーキ、ご馳走様です」
「ほんま、ええこ」
詩瑞歌がバイバイと手を振れば、香は軽く会釈を返す
香が頭を上げたタイミングで、詩瑞歌は二カッと笑ってみせた
「でもな、嘘やないで」
「?」
「うちは素直には言わんけど、嘘もつかん
取材のことはホントのことやから、協力してな」
「あ、はい! 喜んで」
「ほな」
クルリと背を向ければ、髪ゴムの玉飾りがきらりと揺れる
少し緊張が和らいだ表情で詩瑞歌の背中を見送った香には気づけなかった
「ほんま、探り概があるわ」
そう呟いて口元を上げた彼女の表情に――


※※※


 溶けたアイスで少しばかりしんなりしたホットケーキを咀嚼しながら、香は行儀が悪いと思いつつ携帯電話を開く
念のため今あったことを艸に伝えておこうかと思ったのだ
詩瑞歌には無理強いしないようにお願いしておいたが、相手に悪気が無くても艸は自分の事を詮索されることを嫌う
心構えが出来ていれば少しはマシに感じるのではないだろうかと思ったのだ
以前、艸のお父さん。つまり『君影財閥』の社長から電話をもらった時に艸の部屋を教えてもらったついでで連絡先も聞いていた
だから、連絡を取ることは出来る
しかし極力使わずにいようとは思っていた
―― かけても出てくれないかもしれないし……
それでも香は慎重にボタンをプッシュして、携帯電話を耳に当てた
そのまま数秒コール音を片耳から聞きながら、完全に溶けてしまったアイスだったものに視線を落とす
―― やっぱり、出てくれないか……
さすがにコール音も十回以上聞けばもう飽きる
それでも何か胸騒ぎのようなものが香に携帯電話を切らせなかった
これだけ鳴らせば、流石に「うるさい」と第一声と共に電話に出そうなものなのだが
留守番電話サービスにつながってしまったので、仕方なくそちらのほうに事情を入れてから切った
どことなくもやもやした気持ちで携帯電話をしまうと、残りのホットケーキを口に運ぶ
―― そういえばあいつ、最近学校に居たかな……?
そう思い始めると不安と言うものは募っていくもので、一緒に昔のことも思い出してしまう
中学の時は数日会わないと思ったら怪我をしてきたり、目の下にクマをつくってきたりとどことなくやつれてくるものだから一日顔を出さないだけで心配ばかりしていたものだ
―― 三年近く、会わなかったのになぁ……
そう。三年会わなくても大丈夫だったのに、だ
香は自嘲気味に笑って、すっかりふにゃふにゃになった甘い最後のひと欠片を口に押し込んだ


※※※


(まぐさ)。……艸?」
「……あ?」
 ふと視界が開けたような感覚と、肌を刺す様な冷気に艸の意識は浮上した
―― 寒い……? もうすぐ夏だろ?
そんなことを考えていると、また名前を呼ばれる
「艸。大丈夫か?」
「香……」
すんなり香の名前が口から出てきたことに、何故か艸自身が一番驚いた
香の真っ黒な髪と同じくらいの夜のような瞳に、艸は違和感を覚えながらも自分の置かれた状況を思い出していた
―― そうだ。いつもの場所か
緩やかな下り坂が眼前を横切る
カエデの木々が夕焼けの色を吸い取ったように鮮やかな赤で、空へ一斉に手を伸ばしていた
「疲れてるんじゃないか? なんか、元気ないぞ」
「……いや、少し。眠かっただけだ」
「そう? ちゃんと寝てる? クマできてるし、若いうちの夜更かしは体に毒だぞ?」
「……ん」
寝ぼけていた頭が覚醒してきたらしい艸は、次第に色々なことを思い出してきた
一昨日から部屋の前に居座る変な奴のせいで、食事を受け取ることも出来ず部屋に篭っていたこと
今日の朝には居なくなっていて心底ホッとしたこと
部屋を出られるようになって、さっそく絵本を持ってここに来たこと
―― そうだ、もう十一月なんだ。なんで夏だなんて思ったんだろう
香とこうしてこのベンチで会うようになって一ヶ月くらいが経とうとしていた
最近では香が収集しているお気に入りのシリーズ本を持ってきてくれて、お互いに本を交換して静かに紙面を見つめる日々を送っていた
お互いに交わす言葉は少ないが、この静かな空間が艸は心の安らぎになっていた
艸の隣で、パタリと本の閉じる音がする
「俺、そろそろ帰らないと……」
「……そうか」
ふと顔を上げて目の端に映ったものに目を凝らす
横に腰掛ける香の背中に何か黒い靄のようなものが視えた気がしたのだ
「これ、ありがとう。今日は早めに寝るんだぞ?」
「……ん」
香から貸した絵本を受け取り、艸も栞を挟んでブックカバーのかかった文庫本を返す
そのまま香から目を逸らさずに眉間に力を入れて、もう一度その靄を探ろうとした
―― やはり、視える
香の背中に圧し掛かるように重たく暗い靄のようなものが――
ふと、艸は香がベンチから腰を上げる気配が無いことに気付いて視線を顔へ移す
香は少し俯き加減にベンチに腰掛けたまま、学ランの第二ボタン辺りに手のひらを置いていた
何かを探すように指先が微かに震えている
「……どうした?」
「え? あ、ううん。何でもないよ」
そう笑った香だったが、その笑顔はどこか優れない
同時に黒い靄が意志を持ったように揺らめいて色濃く影を落とす
艸のことを「元気が無い」だとか「寝不足か」などと気遣っていた香だったが、改めてその顔を観察すれば香も人のことを言えるような顔色ではなかった
この黒い靄と何か関係がありそうではあるが……
どうして今まで気がつかなかったのか
「……顔が白いぞ」
「日焼けをする季節でもないしなぁ」
「……具合が悪そうだ、って意味だ……」
「熱は無いぞ? 測ってみるか?」
「そうじゃなくて……」
うまく伝えられないのがもどかしい
―― どう、言えばいいんだ……?
艸は真剣に悩んだ
艸が視えているものを率直に伝えるわけにもいかないし、口では香に敵わない確信があった
普段の会話だって香が振ってきて艸はそれに頷いたり単語で返答するような会話ばかりしている
普通に会話をするというのは、艸にとってどんな教科よりも難題だろう
香がベンチから立ち上がり「それじゃ」と手を軽く振ったので、艸は慌てて行動を起こした
ひらひらと力なく振られた香の手首を、咄嗟に掴む
はた、と香の手は動きを止めた
条件反射でか、手を引こうとしたらしい香は微かな動きを見せたがビクともしない
「?」
「……!」
疑問符を浮かべながら首をかしげている香に対して、艸は閃いた
これだ。と
言葉は香のほうが明らかに達者だったが、力はあからさまに艸が上だった
艸はお家柄ゆえ、ある程度鍛えていただけなのだが、普通の中学生。ましてや運動音痴の香に比べればその力量差は歴然である
自分の緊張から来る鼓動か、香の手首から伝わる脈か
艸はドクドクという音を体で聞きながら、言うべき言葉を必死に探した
「……、言え」
そうして出た言葉は本当に最小限なものだった
それでも、言葉の巧者である香は察してしまえたらしい
言わないと離してもらえない、と――


※※※


「あ、葵君だ」
「ん?」
呼ばれたから振り返った
だから、葵が何の心構えも無く振り返ったことを誰も無用心だとは責められない
声の主に聞き覚えがあればなおさらだ
「おつかれー」
そう軽く手を上げた金髪碧眼の友人は、相変わらず眠そうな顔に微かな笑顔を浮かべている
その周りを数人の女性に囲まれて――
みっともなく大口を開けて身動きを忘れた葵を置いて、彼女達はリオンに話しかけていた
「リオ、誰?」
「友達。先行ってて」
「えー、早く戻ってきてね」
「うん」
彼女達と比べると頭一つ飛び出たリオンは、若干俯き加減に一言二言彼女達に告げ終わると、葵のほうへ向かってきた
彼女達はすっかりあごの外れた葵を一瞥しながら散っていく
「葵君、丁度よかった。協力して欲しくて」
「……マンガかよ」
「え?」
「得だな、イケメンは……」
急に遠い目をしながら悲しそうに微笑む葵を、リオンは戸惑いながらも食堂まで連れて行くことに成功した



 幾分か現実離れした世界を目の当たりにし、意識が夢現を彷徨っていた葵を呼び戻したのはリオンの呟くような一言だった
「あ、あれ。香君?」
「え?」
その名前にやっと意識を覚醒させた葵は、もう同類(とも)は香しかいない。と改めて香の存在に感謝しながらカフェ内を見回した
その人物は直ぐに見つかったのだが、葵は珍しいこともあるものだと内心首をかしげた
香は基本的に学校で食事を買わない。お弁当を作ってくるからという理由もあるだろうが、おそらく外食はお金がかかるからであろう事を葵は何となく察していた
あのお家事情を考えればお金に余裕は無さそうだし、一緒に遊びに行ってもゲーセンなどでお金を消費していくところも見たことが無い
ペアで行うゲームや、皆でやろうというノリの時にしてくれるくらいだ
めちゃくちゃ下手くそだが――
それはさておき、今座っている香のテーブルには皿が二枚置かれており、皿に残った形跡から食べたものは軽食のようだった
しかも二人分。誰かと会っていたのだろうか
―― え、もしかして香も? 女? 今度こそ女なの?
夏休み前に彼女つくって海とか行っちゃう系なの?
葵は一瞬めまいを感じ、リオンの肩に掴まった
拍子にふわりと香り立った爽やかでどこか甘い匂い。モテる奴というのは匂いまで抜かりないらしいと葵は更に打ちのめされた
そういえば香の家に遊びに行ったときも、リオンのフレグランス系とはまた違うお香のような優しい香りが鼻をついたのを覚えている
その時は、香にいつも以上に近づいたような色濃くなった匂いにちょっとワクワクしたものだ
そんな現実逃避を始めた葵を、リオンが驚いた様子で窺い見る
「葵君? どうしたの?」
「あ、いや……」
葵は慌てて体勢を立て直し、香の元へ歩き出したのだが近づいてみれば香の表情が優れない
―― あれ? もしかして失敗? やった!
   あ、「やった」はヒドイな。ごめん、香
心内でそんなことを考えていた葵を他所に、リオンは香の名を呼んで手を振る
それに気づいた香も、どこか沈んだ表情を隠して笑顔で手を振り返す
リオンが眠たそうに落ちていた瞼を更に落とし、少し眩しそうな表情を見せたのだが、その僅かな表情の変化に気づいた者はいなかった
「香君、もしかしてデート終わり?」
「え!?」
リオンの何気ない一言に、香が「やっぱりデートになるのか……?」とか何とかブツブツ考え込んでしまったことで、葵を更に不安にさせたことに二人は気づいていないのであった


※※※


 静かな空間
お香を焚き込めた部屋は少し霞がかって見える
壁にかかった新円の鏡と対面する形で、紅(こう)はじっと正座のまま姿勢を崩さない
「……そろそろ、ですか」
急に自ら静寂を崩すと、紅は無駄の無い動きで立ち上がった
鏡の中から紅が消え、再び静寂が支配した部屋で新円が映し出していたのは、途方も無い広がりと無限に続く鏡の世界だった



 気がつけば日も傾き、曇天が夕日に染められて赤黒い帯を幾重にも広げたような空だ
―― 雨が来る
なんとなくそんな気がして、紅は意図せず眉間に皺を寄せていた
蔵に向けて歩みを進めていた紅だったが、ふと足を止める
僅かな、さざなむ感覚
結界に触れた者が居る
この感じは……――
「……香君――」
そう呟いた言葉が、こんな事態になるとは想像もしていなかった数日前に取り付けた約束を思い出させる
少しその場で足踏みした紅だったが、急に景色が陰ると共に降り出した滝のような雨を見て、すぐさま身を翻し玄関のほうへと早足で戻っていってしまった



「香君!」
「落霜さん! こんにちは!」
降り注ぐ雨から頭を守るように駆け込んできた香に、紅は玄関に来るまでに引っつかんできた湯上りタオルで抱き込むように包んでやる
タオルに包まれながら香は困ったように笑う
「急に降ってきましたね」
「幸いお風呂に湯を張っています。風邪を引く前に入ってください」
「すみません」
紅に急かされるように押し込まれた浴場は、銭湯にでも来てしまったのではないかと錯覚させるほどの広さと綺麗さで香を出迎えた
「わぁ……」
自身の声の反響を聞きながら、香は手ぬぐいを胸元まで引き上げた状態で立ち尽くしてしまっていた
扉の外では新しいタオルと着る物を用意してくれているらしい紅の衣擦れの音がしている
「何かあったら遠慮なく呼んでくださいね」
「あ、はい。何から何まですみません」
「いえ。お呼び立てしたのは私ですから。お気になさらないでください」
そう言うと紅は脱衣所から出て行ったらしい。湯船にお湯を注ぎ続ける水の音だけが聞こえるようになった
「……ここなら弟妹全員一緒にでも入れそうだなぁ」
そう呟いてから「あ、でも妹達ももう年頃だから一緒には入りたがらないか」なんて思った香であった


※※※


 ふと、目が覚めた
児奴雨(じどう)』はどうしてだろうと天井を眺めていたが、直ぐに原因は分かる
上から、横から、いや。全方位から豪快に部屋の外を叩く音がしているのだ
また雨が降り始めたらしい
そう思うと、再び寝に入ろうとは思えなくて『児奴雨』は体を起こす
何日寝続けたのだろう、大分体も楽になった
窓に近づき、そっと障子の隙間から外の様子を窺えば灰色の霧がかかったように景色が見えない
『児奴雨』は自分の頭をつるりと撫でて「あれ」と声をあげた
それは直ぐ見つかったので緊張したのは数秒も無かったが、自分の葉笠がボウル型の平たい陶器の花瓶に浸けられていて青々しさを保っている姿に何となく見入った
あの闘争でボロボロになってしまっていると思っていたが、破れなどは無く綺麗なものだ
もしかしたらハクと名乗っていたあの黒い者か、この屋敷の主人か、ネズと名乗っていた男は……。何となく違う気がするが、おそらくこの中のどなたかが直してくれたのかもしれない
そういえば、この屋敷の主人には一番にお礼を言わねばならないが、まだ一度もお会いしていないな。と『児奴雨』は襖を開いて廊下を歩き出した
ネズいわく、白い髪の美しい方とだけ聞いているが、それだけで果して見つけられるだろうかと考えながら長い廊下を進む
こうして屋敷内を歩き回るのは今日が初めてだ
思っていた以上に広い
―― ……迷った
久しぶりに体を動かしたせいか、時々ギシギシと音を立てるような錯覚に陥る
「すんすん……、ん?」
ふと雨とは違う水の匂いに『児奴雨』は鼻を鳴らした
ついつい水に引き寄せられてしまうのは『児奴雨』の(さが)と言うべきか
『児奴雨』は自分が道に迷ってしまったことも忘れ、フラフラと匂いのほうへ歩いていった


※※※


―― ガァインッ!
派手な音と共に蔵の扉が蹴破られ、かかっていた南京錠は無残に砕けてスーパーボールのように跳ね飛んでいってしまった
「あぁー……――」
酔いどれ親父の溜息のように濁った音と共に息を吐き出した沙棗(さそう)は、ぼさぼさになった髪と乱れた着物、肌に数多に浮き出て流れ落ちる汗を拭いもせず蔵から一歩、歩み出た
その姿を目撃した人間が居れば、山姥か赤鬼とでも見間違えたに違いない
しかし今、彼女の前に立っているのは一般人ではない
廊下の先に立っている紅は沙棗の姿をただただ見つめて、小さく溜息をつくと「お疲れ様です」とだけ告げた
沙棗は再び「あー」と声を吐き出して首を前に折ったまま、もう一歩踏み出す
そして、ようやく言葉らしい言葉をつむいだ
「はら、へった……」
紅の溜息は、雨音にかき消された



「今回は随分時間がかかりましたね」
「ん。おぼっふぁよりふぉ、きぐがふふぁふてら」
「……飲み込んでから話して頂けますか?」
部屋を移動した沙棗と紅は、あらかじめ準備させておいた食事の山の中に埋もれるように座っていた
そこにあったことすら疑いたくなるほどのスピードで料理が消え、白い皿のみが重なっていく
先程からネズとハクが忙しなく動き回っているのが、視界の端に見える
また一つ、大皿が役目を終えて放り置かれた
「んぐっ。……あの蛇野郎、『黄泉路(よみじ)』に何斬らせやがった?
かなり弱ってたぞ」
「……おそらくですが、『魔淤神』を斬ったせいかと」
「『まどろみ』……? あぁ! あの『空無成(からなり)』か!?
なんつうもん斬らせたんだあの野郎。ぶちのめす」
「貴女が手を下さずとも、現在生死の境に居ますけどね」
「あ、それもそっか」
既に紅から現状を聞いて把握している沙棗は、けろっとした様子で里芋のにっころがしを口に放り込んだ
紅は表情を隠すように扇子の位置を整えると、雨の降る外の景色に視線を流す
「まぁ、茨にしては頑張りましたし、そう言わないでやってください」
「頑張ったって……。攻撃が当たりさえすれば『空無成』なんて斬らないほうが難しいだろ」
その攻撃をあてる手段というものがゼロに近いから『空無成』は厄介なのだが、当たりさえすれば話が別なのだ。いわば空気のようなものだ
空気に攻撃できる奴は居ない。しかし空気に触れられない奴も居ない
つまりそういうことだ
「……。それもそうですね」
「な?」
茨がこの場に居たら涙の一つでも流しただろうが、彼はこの場に居ない上に、定番のくしゃみ一つも出来ない状況下にある
こういうのを真に「憐れ」というのだろうか
「それで? どうすんの?
アタシも物理派なんだけど。『(さとり)』とか無理じゃね?」
「それに関してはこの数日の間に一つ考えました
茨にかかっているところがありますが、一発勝負です。受けていただけますか?」
「んー……」
口いっぱいに白飯を押し込んだ沙棗は膨れた両頬をもぐもぐと動かしながら、体を傾けて腕を組む
そこに控えめに近づいたネズは、両手でやっと抱えられるほどの大皿に新しい料理を盛って力なく声をかける
「あ、あの。次の料理を……」
「お! 待ってましたあ!」
ネズが持ってきた山盛りに料理が積まれた大皿を沙棗は片手で受け取ると、それを自分のほうへ一気に傾けて口に流し込み始める
すっかり食事に夢中になってしまった沙棗を一瞥して何度目とも知れぬ溜息を零した紅は、諦めた様子で雨に濡れる景色へ視線だけでもと逃れたのであった


※※※


戸を少し開けば、もわりと漂う暖かい湿気に『児奴雨』はここが風呂場と呼ばれている場所であることを悟る
風呂場と言うのは『児奴雨』も含め、ほとんどの人ならざる者には必要の無いものだ
―― 誰か居る?
だからだろう。誰か居ると気づきながらも風呂場に入ることを、元来失礼なことであるということも知らなかったのだ
「失礼しまぁす……」
暖簾の陰からこっそりと中の様子を覗く
―― ドクン
心臓なんて人間にしか無いものだと思っていたが、『児奴雨』は確かに胸の奥で何かが跳ねるのを感じた
―― 知らない人が居た
そのことにも驚いたのは事実だったが、それ以上に目が離せなかった
人が居たことよりも、着替えをしていた事実よりも、真っ白な頭よりも ――
―― 夜が、覗いてる
『児奴雨』に背を向けて着替えていたその青年の正面には大きな流し台の鏡
雲隠れしていた夜空が微かに覗くように、湯気で所々曇った鏡の合間から見える青年の白い肌を裂いて現れたような夜色
その人の体の中に夜が広がっていて、右肩から腹部まで殻を破るようにその夜が溢れているようだった
戸を開けた時に入ってきた風に気づいたのだろうか、白髪の少年が不意に振り返る
バネになったように『児奴雨』は飛び上がった
「あ、し、失礼しましたっ!」
「あ、待って!」
「は、はいぃっ!」
慌てた様子で浴衣の袂を合わせた青年は、『児奴雨』が立ち止まった事に安心した様子で弱々しい笑みを見せた
「その、帯を締めるの手伝ってくれないかな……? 慣れてなくて……」
「あ、はい……」
ずるりと青年の肩からずり落ちる浴衣を見ながら、『児奴雨』は首ふり人形のように頷くしかなかった



『児奴雨』は悩んでいた
青年の浴衣の袂を崩れないように抑えながら、帯を巻くのに悪戦苦闘している香という彼が一体誰なのか
正確には香がこの屋敷の主と同一人物なのかに、だ
髪は白い
しかしネズの言っていた「美しい人」に当てはまるのか?
「美しい」の概念は人それぞれだ
『児奴雨』にとっては憧れの存在である雨師以上に神々しく美しい存在は無いと思っているし、ネズにとってもそれに近い感覚でその言葉を選んだのかもしれない
目の前の青年だって、見る人によっては「美しい」に入るだろう
「ありがとう。おかげでなんとか結べたよ」
「あ、いえ……」
考え込んでいた『児奴雨』の意識を香の笑顔が呼び戻す
香は少し身をかがめて、湯上りでほんのり血色の良くなっている顔に笑みを深くして尋ねた
「君は、落霜さんのお弟子さんかな?」
「え? ……あ」
急に出てきた人の名前らしき単語に『児奴雨』が戸惑ったのは僅かな間だけで、沈んでいた己の記憶の中から同じ言葉を掬い出すことに成功した
ネズが家主だと言っていた人がそんな名前だったような気がする。そんな曖昧なものだったが ――
「あ、えっと、少しの間だけ休ませてもらってまして……」
「もしかして君もこの雨で?」
「う、うーん……?」
間違っているような、いないような……
この雨の元凶を辿れば間違いでは無いし、『児奴雨』は深く考え込むのはやめて曖昧に頷くだけにしてしておいた
「そっか」と香は笑って
「雨宿り仲間だ」
と、何が嬉しいのかニコニコしていた
「あまやどり……」
『児奴雨』はその言葉が質量を持つかのごとく、咀嚼するように呟いた
『児奴雨』になる前は皆、そう呼ばれている
雨の宿るもの。『雨宿(あまやどり)』と ――
雨に宿り地に落ちた多くはそのまま地を流れ、空に帰り、再び雨に宿って地に落ちることを繰り返す
そうしているうちに自我を持ち、意識を開き、形を成したものが『児奴雨』と呼ばれる
『雨宿』も『児奴雨』という言葉も、人間でいう階級のようなものだ
「君、お名前は?」
「――」
香に名を聞かれ『児奴雨』は咄嗟に
(ろう)
そう、名乗っていた ――


※※※


「ところで貴女、どうやってここまで来れたんです?」
食事がひと段落ついたらしき沙棗に、紅は思い出したように尋ねる
「どうって? 結界のことか?」
「いえ。貴女ならこの程度の結界どうということもないでしょう
私が言いたいのは、よく貴女一人で御降(みお)りすることを許可されましたね。ということです」
「?」
純粋に質問の意味が分からないのであろう
沙棗はコテンと首を傾ける
紅は少しばかり面倒そうに口を開く
「茨の所持している刀は言わずもがな貴女の造った刀です。貴女が御降りしたいと申請すれば茨に接触すると見て見張りの一人や二人つけるのが妥当でしょう?」
「あー、それな……
……えーとな。お前さ、アタシの……、ていうか『沙棗』の造る刀が一主一刀型なのは知ってっか?」
「……。なるほど」
その言葉にで、紅にはそれ以上の説明が不要である様子だった
一主一刀型というのは、その言葉の通り一人の持ち主に対し一つの刀を持つ形態のことだ
『沙棗』の造る刀は不思議な力を持つとされる
持ち主によって刀に一つの能力がつくのだ
それがどのようなものになるかは持ち主次第で、能力を選ぶことはできず、造り手の『沙棗』ですらどのような能力を持つのかは分からないという
ただし、『沙棗』に一つだけ分かることがある
刀の「名」だ
刀を打つ過程で『沙棗』は刀の声を聴くことができるのだとか
そうして知り得た名を、持ち主に伝える
そうして持ち主と刀が真に理解し合い、受け入れることで能力が発動するというものだ
このような刀は『沙棗』の名を継ぐ者にしか造ることができず、『天都(あまみや)』で特別視されている。戦地に出る者のみならず、多くの御子が喉から手が出るほど欲しがる程だ
しかし、その刀の特殊な性質ゆえか
代償も、大きい
故に希少なのだ
それ以上に今の『沙棗』が、気に入った相手にしか刀を打たないせいもあるだろうが……――
「元々あの刀は蛇野郎のモンじゃねぇ
本来なら持ち主を失った刀はナマクラになっちまうはずなんだが、なぜか今もあいつの刀は健在だし……
おまけに能力まで以前のものと少し変化しちまってるくれぇだ。アタシも初めての状況なんでなんともいえねぇんだよ」
「つまり。本来ならその刀は現在持ち主を失っており、その存在を無いものとして処理されているため、茨と貴女の間に関係は無いものとされている。ということですね」
「そ。それ! それが言いたかった!」
あからさまに説明の手間が省けたと言わんばかりの安堵の笑みを浮かべながら、沙棗は膨れた腹をさすった
逆に紅は少しばかりの疲労を表情に浮かべて息をつく
「納得しました。ありがとうございます」
「おー。どういたしまして
で? 『覚』の件、アタシは何をすればいいんだ?」
「え。手伝ってくださるのですか?」
食事中の会話ではあまり乗り気には見えなかったので、協力は期待できないと踏んでいた紅は多少驚いた
その様子に気づいてか否か、沙棗は膨れた自身の腹をポンッと太鼓がわりにして豪快に笑った
「飯の礼はしないとな!」


※※※


―― 不思議な人だ
『児奴雨』は香と雑談をしながら何となく、そう思った
親しかった過去などなく、香に特別な感情を持って接しているわけでも無い
それなのに不思議と彼に聞かれたことに素直に言葉を返してしまう
気まずいという感覚が麻痺してしまったように、いつも隣に居たかのような安心感
警戒心がほだされて、自分がどんどん無防備になっていくような
しかし、その感覚は危機感よりも優しい感情を植え付けてくる
今まで隠してきた感情や過去の出来事全てを吐き出してしまいたくなる
それが、すごく心地いい
「また会いたいね。その(りん)ちゃんに……」
「はい……」
「大丈夫。きっと会えるよ
こんなに想っているんだもの」
ああ、不可能だと分かっていることなのに、もしかしたらなんて思ってしまう
彼の口から出るだけで、彼の声で紡がれるだけで、こんなに安心する
信じてしまいそうになる
「はい……」
微睡みに揺蕩っているような感覚に『児奴雨』は身を任せていた
それを不意に現実に引き戻したのは自身の悲鳴だった
「うわあっ!?」
「ど、どうかした?」
香の声に返す余裕もなく『児奴雨』は己の掌を凝視していた
正確には、掌から透けて見える向こう側の景色を、だ ――
消え始めている。そう思い至るのにそう時間は必要なかった
「う、あ。あぁ……!?」
「露くん!? 大丈夫? 落ち着いて」
意図してか香の手が『児奴雨』の半透明になってしまった手を庇うように包み込む
その行為が『児奴雨』の張り詰めていた何かを絆(ほだ)した
「う、うぁ、うわあぁん!」
ボロボロと今まで溜め込んでいた不安や焦りが涙になって零れ落ちてくる
香は少し驚いたようだったが、直ぐに慣れた様子で『児奴雨』を抱きしめ「よしよし」とその小さな背中を撫でた
「びえぇえっ! うっ、うっぅ!」
「よしよし……」
弟妹にやるように香はただただ背中を撫でる
その声に落ち着きを取り戻し始めた『児奴雨』は、ぼやけた視界を見ないように瞳を閉じた



背中を撫でる感覚に落ち着きを取り戻し、その心地良さに『児奴雨』は身を預けていた
「何をしている」
不意に現れた抑揚の無い第三者の声に、二人は同時に肩を跳ねさせて振り返った
涙はもう止まっていたので、『児奴雨』にはその人が誰かはすぐに分かる
「は、ハクさん」
あげた声はうわずってしまっていた
ハクは相変わらず真っ黒な服で全身を包み、同様に墨のような長い黒髪を垂らして立っている
その表情は切りそろえられた長い前髪で隠れてしまっていたが、『児奴雨』はどこかピリピリとした空気を感じ取っていた
『児奴雨』は勝手に部屋抜け出してしまったことに対してハクが怒っているのではと思い、すぐさま頭を下げた
「す、すみません! 勝手に部屋を抜け出してしまって……」
そう頭を下げて見えた自分の手は、もう透けてはいなかった
一時的なことだったのだろうかと『児奴雨』は内心驚きつつ顔を上げる
「……」
ハクは口を真一文字に結んで、一切の感情を表に出さないようにしているように見えた
「……、あの」
そんなチクチクするような沈黙を破ったのは香だった
『児奴雨』は驚愕と僅かな安堵を抱いて、香を仰ぐ
「間違っていたらすみません。もしかしてあの時の……」
香の言葉の後に充分な程の沈黙を置いて、ハクはようやく閉じたままだった口を開いた
「……先日は、傘。感謝します」
「あぁ、やっぱり! あの時の方でしたね
あれから大丈夫でしたか?」
「はい……」
話がわからず香とハクを交互に見上げていた『児奴雨』に、以前傘もささずに濡れながら道に迷っていたハクに出会った香が、傘を貸してあげた事があったのだと教えてくれた
「え、と。ハクさん? も、落霜さんのお知り合いだったんですね
貴方にお貸しした傘が帰ってきた時にもしかしたらとは思っていたんですけど……」
「今は、あの方に仕えさせて頂いております。
そろそろ貴方が湯浴みを終える頃だろうから部屋に案内するよう仰せつかって参りました」
「ありがとうございます」
上質そうな籐椅子(とういす)から腰をあげた香に続いて『児奴雨』も椅子から降りた
元々居た部屋に帰ることもできない『児奴雨』は、他に選択肢もなく前を歩くハクと香に付いて長い廊下を進む
同じような襖の並ぶ廊下をある程度進むと、その中の一つの襖をハクは躊躇いなく開けた
「ここで今しばらくお待ちください」
「ありがとうございます、ハクさん
露くんはどうする? ここでもう少しお話ししよっか?」
香がここに紅という家主に会いに来たことを聞いていた『児奴雨』は、自分もお礼を伝えるのに丁度良いと思い頷こうとした
それをピシャリと遮ったのはハクだった
「いけません。この者は我が与えられた部屋まで連れて行きますゆえ」
「そう、ですか……」
先程までの抑揚の無い声が僅かに張り上げられたのを聞いて、香も『児奴雨』同様に何か有無を言わせぬものを感じ取ったのだろう
客人という彼の立場もあったせいか、香は少し残念そうにハクの言葉に従った
「お話し、付き合ってくれてありがとう。楽しかったよ」
「あ、はい……。僕も、です……」
『児奴雨』の視線の高さに合わせるように体をかがめた香は、にっこりと笑って『児奴雨』のツルツルした頭を優しく撫でた
その暖かな余韻に浸る間も無く、ハクにさっさと促されて香は部屋に押し込まれてしまう
静かに閉まった襖を名残惜しそうに見つめてしまっていた『児奴雨』を気遣う様子もなく、ハクは廊下を歩き始めていた
ここで置いていかれたら大変だと『児奴雨』は慌ててハクの後を追う
しばらく二人の足音のみが廊下に染みる
痛いほどの沈黙に口を塞がれてしまったように『児奴雨』は喋れない
どのくらい歩いただろうか、不意に沈黙が破られた
「あの方に近づいてはならぬ」
「へ?」
前を歩くハクは振り返ることなく歩き続ける
今にも自分の顔を映し出しそうなほどに艶やかな黒髪は、ただただハクの動きに合わせて揺れている
「あの方は、我々『非人(ひと)』には……――」
その後の言葉は、あまりにも小さい音で紡がれたせいで聞こえづらかった
しかし、ハクは確かにこう言ったのだ
全く無害そうな彼に向かって
「猛毒だ ――」
―― と


※※※


「元はと言えば、俺が悪いから……」
結局最後には自分に言い聞かせるようにそう言って、香は寂しそうに笑うのだ
校則違反をして教師に私物を取り上げられただけだと聞いた時、艸は一瞬何を言っているのか分からないほどに驚いた
全身全霊優等生やっているような目の前の少年が、校則違反?
閉口してしまった艸を香はどう解釈したのか、やっぱり静かに微笑むだけだ
それは、香にとって御守りだったらしい
しかし教師にとっては装飾品に入ったようで、それを見咎められて取り上げられてしまったということだ
パッと聞いただけでは香の自業自得に聞こえる事柄だが、その出来事を話す香がどうしようもなく悲しそうに笑うものだから、艸はどうも客観的結論に納得出来なかった
「来週には返してもらえるし、大丈夫だよ」
そして、この一ヶ月ほどの付き合いで艸には一つ分かったことがあった
―― こいつは「大丈夫」が、癖になっている
本当に大丈夫か大丈夫でないかは関係ない。今まさに死にそうになっていても香は「大丈夫」と言うだろう
そして、今はまさに「大丈夫」で無い時だ
しかし艸に、他校の一生徒である自分に何ができるだろう
普通ならそこで「そっか」と言って終わることだった
普通なら ――
黒い靄が、艸をあざ笑うように蠢いた
「行くぞ」
そう言って立ち上がった艸をポカンと見上げる香の顔がある
その黒い瞳を見下ろして艸は自然と語気を強めた
「御守り。返して貰いに行くぞ」
その言葉を聞いてもベンチから立ち上がろうとしない香の腕を掴んで、艸は引きずるように香を連れて歩き出した



同じ学校内ですら、自分のクラス以外の教室に入るのは居心地が悪いものだ
ましてや違う学校に自校の制服で入る艸の心情は穏やかでなかった
正直、今にも吐きそうなほどだ
それでも前に進み続けられるのは、未だに手を引っ張って連れている香の存在のおかげであろう
「職員室は? どこにある?」
「ま、艸。いいってば。帰ろう?」
授業が終わっているとはいえ、校内にはまだ残っている生徒もいる
はたから見ると他校の生徒が自分のところの生徒を連れて乗り込んできたように見えただろう
艸の大っ嫌いな、他者の視線が突き刺さる
しかし艸は伸ばしている前髪を盾に気づいていないふりをして、それを甘んじて受けた
それほどまでに急を要していたのだ
学校に近づくにつれ色濃く現れ始めた黒い靄
香の周りを纏ったその暗く重い何かが、今にも香を押しつぶして飲み込んでしまいそうで怖かった
きっと艸にしか視えないであろうそれを忌々しそうに一瞥して、二人は色褪せた古い廊下を進む
「あ、いた! お前ら!」
誰かが艸達のことを言いつけたのか、その声は探し当てたと言いたげな声色で声を張り上げている
香の驚きの混じった震えが艸の腕にも伝わってくる
艸は振り返ったその先に驚くべきものを視た
廊下幅いっぱいにモヤモヤと立ち込める黒い霧のようなもの
それは香が纏っているものに似ているが、それの比ではないほどの塊だった
廊下の向こうから人が歩いてきていることすらハッキリ認識できない
香が弱々しく呟いた言葉にようやく靄の中に埋もれている存在を理解する
「先生……」
「月下。またお前か
何を考えているんだ」
「あの、それは……」
「成績が良いから何をしても許されるとでも思っているのか?
これだから……」
艸が自分を睨みつけているのに気づいたのか、教師は口を閉じた
学校に残っていた生徒達が騒ぎを聞きつけて集まっていることも影響してか、教師は小さくため息をつくと顎で廊下の先を指した
「とにかく、二人とも指導室に来い」
艸の隣に立つ香の弱々しい返事を聞きながら、艸は小さく舌打ちをした
それは苛立ちであり、焦りでもあった
会話の内容からして香の御守りを取り上げたのもあの教師のようだが、あの周囲を取り囲むように蠢いている黒い霧のようなものは何なのか
明らかに艸以外には視えていない
確実に「あっち系」だ
このような事態になるとは考えていなかった艸は、気休め程度に持ち歩いている塩の包んである半紙をポケットの上からそっと撫でた



普通の教室より少し小さい部屋で、机を挟んで教師と艸、すっかり俯いてしまっている香は椅子に座っていた
少しの間を置いて、教師はため息を吐くと気だるげに尋ねる
「それでいったいどういうつもり……」
「香から取った御守りを返せ」
強引に言葉を割って入った艸に、教師は驚きつつ口元を歪ませた
「教師の言葉を遮るなよ……、まったく
君の名前は? その制服、隣町の私立中学のものだね?」
「香の御守りだ。それさえ返せばすぐにでも帰る」
艸は意識していなかったが、その言いぶりは教師に横暴で粋がっている印象を与えてしまったらしい
教師の拳がパッと黒い靄から覗いたと思ったら、落雷を間近で聞いた時のような轟音を立てて机を叩いた
「お前の! 名前だ!」
「……」
元々こういう性格なのか、謎の靄のせいで精神が不安定になっているのか、教師の暴力的な態度に艸は少なからず驚いた
艸の知る教師は皆、生徒をどこか腫れ物でも触れるように機嫌をとるように取り繕った笑みを見せる大人。という印象があった
もしかしたらそれは艸の大きな勘違いで、艸の姓がそうさせていたのかもしれないと強く実感させられる
大きく肩を跳ね上げて俯いてしまった香と、驚きはしたものの落ち着いている艸
その二人の対比に、教師は標的を香に移した
「月下! お前のダチだろ! 名前は!」
「あ、す、すみませ……」
「答えになってないだろっ!」
「!」
ガンッと蹴り上げられて一瞬宙に浮いた机に、香はいよいよ震え上がってしまってキュッと口を閉じてしまった
その様子に教師の苛立ちは逆撫でされていくようだ
「授業も! 給食も! 補助金で通っているような! 親なしの分際で!
少し頭いいくらいで! 教師を! 俺を! 馬鹿にしやがって!」
いちいち単語の区切りに合わせるように机を叩きつける教師の拳は、色が赤く変わってしまっているが、本人は怒りで痛みを感じていないのか勢いを緩めない
艸はその様子を瞳に映しながらも、全く別のことを考えていた
―― 親、無し……?
それ以外にも色々気になることを言っていた気もするが、それらの言葉全てをこの場で全て理解出来るほど艸に余裕は与えられなかった
一瞬だった
今まで机を叩く動作を狂ったように没頭していた腕が、香に向かって伸びたのだ
机の向かいから襟首を掴まれた香は、抵抗する間も無く机に叩きつけられた
机の上に倒れた香の頭を、教師の無骨な手のひらが押さえつける
「おいっ!?」
突然の暴挙に流石の艸も慌てた
本当なら触れたくもないようなどす黒い霧を纏った教師の腕を掴み、何とか持ち上げようとする
しかし大人相手のせいか、有利性の違いか、それ以外の力か、教師の腕は鉛のように重くビクともしない
それどころかどんどん腕に体重をかけているようで、体を前のめりにしてくる
「このっ……!」
苦しそうに呻く香の声に、艸は意を決して拳をつくった
黒い霧に隠れている教師の顔あたりをめがけて拳を振り上げた時、ぬっと現れたそれに艸は動きを止めた
それは体を前のめりにしたために霧から現れた教師の顔だった
しかし艸は一瞬それを顔と認識できなかった
顔中にしわを寄せ、血管を浮き立たせ、顔も白眼も真っ赤に充血させたそれは、もう顔とは呼べなかった
梅干しのようなそれがパックリ裂けたところからヌラヌラと白い歯が見えてようやくそこが口だと分かる
その裂け目がどんどん大きくなり、三日月のようになっていく
一瞬止まった思考の端で、艸は何かの音を聞いた
小銭のような、それにしてはやけに澄んだ音を立てて落ちたそれは、教師の胸ポケットから落ちたようだった
その音に大きく反応を示したのは、机に押さえつけられていた香だった
抵抗らしき抵抗を見せなかった香が、もがくそぶりを見せて音の方へ手を伸ばしている
その間も香の口からは絶えず苦しそうな声が漏れている
艸は何度も止まりそうになる思考を何とか動かして、握った拳を一度解いた
胸ポケットに入っていたそれを乱暴に掴んで取り出すと、それを握ったままもう一度拳を作り直す
「頼むから効いてくれっ!!」
願いはいつの間にか口をついて出てきていた
艸の拳が砕けるような衝撃と熱
護身術なんて実践を積んでないと咄嗟の時には何の役にも立たないことを実感しながら、艸は一瞬遅れて自分の拳を襲った痛みに顔をしかめる
いつの間に目を閉じてしまっていたのだろう
ハッとして見開いた艸の視界いっぱいに黒い霧が迫っていた
―― 呑まれる……!
霧のせいか、意識を失ったのか、艸の視界も意識も真っ黒に塗りつぶされていった


※※※


白い
さっきまで真っ黒だったのに……
香は。香はどうなった?
……呼んでる
聞き覚えがある、声



「……、香……」
「! 気がついたか?」
ぼんやりと視界が晴れていく
艸を覗き込んでくる顔は確かに香だった
まだ意識がはっきりしていないせいだろうか、香がやけに眩しく見える
ここは、どこだろうか
定番通りに行くなら保健室のはずだが、なぜか周りの景色は白っぽくない
むしろ、暗い……
香の顔が視界から消え、黒い木の板の張られた天井が見える
気のせいだろうか、既視感が…… ――
「落霜さん! 君影が目を覚ましたみたいです!」
少し遠くで香のそんな言葉が聞こえる
―― おちしも? ……落霜!?
この時代に落霜がいるはずが無い。そう思って気だるい体を起こすと、やはり見覚えのある場所だった
黒木づくりの質素な、それでいてどこか上質そうな室内
ここは間違いなく落霜の屋敷の一室だった
窓から外の景色に目をやれば、塗りつぶしたような黒い夜空
そこでようやく艸は自分の置かれた状況を思い出してきた
茨と茱萸、『児奴雨』と共に学校裏の山に入ったところまでは覚えている
その後どうなったのだろうか
みぞおちに僅かな鈍い痛みが残っているような感じがして、何となく腹をさすった
あれから何時間経ったのか確認しようと思い、スマートフォンの電源を入れた。……はずだった
しかし、何度ボタンを押しても画面は暗いままだ
壊れたのかとスマートフォンを四方八方から眺めてみても目立った傷はなく、充電が切れてしまっていることに思い至る
「君影、具合は大丈夫か?」
「……あぁ。……」
艸は自分の体調よりも、なぜ香が旅館で着るような浴衣を着ているのかの方が気になったが、面倒に思えて聞かないでおいた
「驚いたよ。外の雨がひどいから今日は落霜さんのお屋敷でお泊まりさせてもらってたんだけど、お前が担ぎ込まれて来て……」
「あー、まぁ、取り敢えず。今、何時だ?」
「えっと、夜の一時ぐらい……」
「……」
すっかり真夜中であることに驚きつつ、急に疲労が増した気がした
あれから半日近く気を失っていたのかと頭を抱えた艸に、追い打ちをかけるような一言が香から発せられた
「明日大丈夫か? いや、もう今日からか。テスト週間だぞ?」
「……は?」
この時ばかりは香の方が間違っていると言いたかった
テスト週間は木曜日から日曜日を除いた一週間だったはずだ。茨達と落ち合ったのは学校が休日だったから日曜日のはず
丸一日経っていたって今日は月曜日……
そう香に向かって反論しようとした時、襖が開いた
冷気が入ってくるかのように、じんわりと足元から纏わりつく空気が変わったのを艸は肌で感じた
「艸君、起きたのですね」
夜中の出来事だというのに、紅は相変わらず着崩れひとつない美しい体裁でそこに居た
「落霜さん、夜中にすみません」
「いえ、まだ起きていましたから大丈夫ですよ
それより香君はもうお休みなさい。明日も学校があるのでしょう?」
「え、でも……」
悩むそぶりを見せた香に、紅は柔らかな笑みを浮かべて香の白い頭を撫でた
途端に香の瞼が落ちていく
「お休みなさい」
「……、はい……」
香は半分瞼で覆われた瞳をゆらゆらと揺らめかせながら、ゆっくりと部屋を出て行ってしまった
香のどこかおぼつかない動きは心配だったが、この場に残られるよりは安全な気がして艸は黙ってその背中を見送った
「信じられないかもしれませんが……」
香の姿が完全に視界から消えたのを確認して、紅は話し出した
「貴方達が『覚』に遭遇して四日経っています
いくら結界の力で体力の消耗を抑えていたとしても、人間の貴方が四日間も飲まず食わずの状態だったのですから体力も限界でしょう
今日はあれこれ考えず、とにかく休みなさい」
そう言葉で説明されると、急に体の不調がいたるところから感じられる
空腹も、みぞおちの僅かな残痛も。そして何より急激な眠気が艸にのしかかってくる
「……分かった ――
……あ、テスト……」
水中に沈んだかのような包まれる重さに意識を朦朧とさせながら、艸は最後の理性を振り絞ってテスト週間のことを口にする
授業によってはテストの結果で単位が獲得できるか出来ないかが決まるものもある。欠席した時点で今までの苦労も水の泡だ
テストだけは、受けなくては……――
いつの間にか、艸は再び天井を見上げていた
「……分かりました。朝になったら香君と一緒に起こし……――」
それ以上は艸の意識に留まらなかった


※※※


時刻はまだ日の入り頃のはずだが、空は曇天で真っ暗だ
その黒に紛れる様に、黒い塊が地面にどっかりと腰を下ろしていた
「ン? ……ナンダ、マタ オマエカ」
ざんざか降りしきる雨に嬉しそうに打たれていた『覚』は、つまらないものを見たかの様に声のトーンを落とした
全く相手にされていないことを感じた『児奴雨』は、己の足を見下ろす
自分の素足の甲から雨に濡れた地面が見える
やっぱり、消え始めている
あの時ほどの動揺は無かったが、あの時よりも強くなった意思がある
今日、決着をつけなければ ――
チラと視線を動かせば、半球状にぼんやりと光っているドームの中にあの時と何一つ変わらない様子で三人は意識を失っている
もう、死んでしまっているのではないだろうか。そう心配になってしまうほどに三人は人形の如く動かない
『児奴雨』は意を決して口を開く
「私の、下駄を、返してください」
「シツコイナ……。ナニモ デキナイクセニ」
「出来るっ!!」
『児奴雨』は後ろ手に隠していたものを布から取り出す
途端に周囲に光が満ちた
この大雨の中で急に太陽が顔を出したかの様な眩しさ。それは『児奴雨』の持つランタンから発せられた光だった
()()()()(たま)よ! ()()()めや空躯(くうく)より()でよ!」
声を上げ、雨の降りしきる天に向かってランタンを放り投げた
そのまま落下してくるかと思えたランタンは、しかしピタリと空間に固定されたかの様に動きを止める
周囲が一気に照らされる
その様子に引き寄せられる様に見上げた『覚』の背後から影が飛び出した
「おぅらっ!」
グチャッという音に一瞬嫌な絵が頭をよぎった『児奴雨』だったが、慌てて目を見開く
そこには沙棗が振り下ろした柄の長い金槌が地面にめり込んで泥を跳ね上げた様子があるだけ
―― 『覚』は……!?
「ケケケ、ヨメル ヨメル」
「チッ!」
「ソレ、ナゲル」
「!」
沙棗の顔が苦々しく歪み、これでもかといった具合に担いでいた長い包みを投げつける
当然と言うべきか。それも簡単に避けられてしまい、地面の上を滑っていってしまった
「ムダ。ムダ」
「はっ! これならどうだっ! 『児奴雨』!」
「はいっ!」
「!?」
今までただ突っ立ていただけの『児奴雨』から動きを感じ取り、『覚』は咄嗟に振り返った
『児奴雨』は取り出したものを『覚』に向ける
キラリと光ったそれに、『児奴雨』は自然と持つ指に力が入るのを感じていた



数刻前、あの屋敷で『児奴雨』はようやく家主と対面することが出来た
―― 御簾越(みすご)しだったが
それでもひしひしと伝わってくる存在感に、やっぱり御簾越しで良かったと『児奴雨』は心底安心したのだった
「何で御簾越し?」
『児奴雨』の疑問を代わりに問うてくれたのは、真っ赤な着物をラフに着込んだ快活そうな女性だった
確か、沙棗とかいう名前
「気になさらないでください」
「お、おう……」
相手に拒否権を与えない物言いに、沙棗もたじろぎながら頷いた
「これをお持ちなさい」
紅がそう言うと『児奴雨』をここまで連れてきてくれたハクが、沙棗に風呂敷包みを差し出した
紫紺色の上品そうな風呂敷は、大判の丸皿を包んでいるかの様にみえた
しかし、沙棗が乱雑に風呂敷を開くとそこから覗いたのは円形の鏡だった
枠も何も付いていないむき出しの鏡だ
丹念に磨き上がられているのか、指紋も埃も付いていない
「最後の手段に使ってください
ただし、最後の手段と言っても出し惜しみする必要はありません。むしろ『覚』と対峙したら心を読まれる前に早急に使用してください」
「おー、分かった」
沙棗はパパッと鏡を風呂敷に包み直し、豪快にはだけた胸元に突っ込もうとしたが、それを紅が止める
「その鏡は『児奴雨』。貴方が持っていてください」
「へ!?」
「沙棗は攻撃役に回ってもらいます」
「あ、そ? ほれ」
紅の言葉に驚きを隠せない『児奴雨』に、沙棗は疑問を感じないのか鏡を押し付けてくる
「『児奴雨』」
「は、はいっ!」
再び紅に名前を呼ばれ『児奴雨』は声を裏返させる
「貴方の『帯陽(たいよう)』があれば助かります。協力、感謝します」
「あ、いえ、そんな……」
「『帯陽』で周囲を照らし、鏡を『覚』に向けるだけでいいのです。冷静に行動すれば大丈夫でしょう」
「は、はい……」
そうは言われても、最終兵器ということはこれに失敗したら大変なことになってしまうということだ
とんでもない大役を預かってしまった
しかし元はといえば三人が今こんな目にあってしまっているのは『児奴雨』が原因でもあるのだから、むしろ当然の役目なのかもしれない
鏡を持つ腕が急に重くなった気がする
「……、貴方が気負う必要はありません」
「え?」
御簾越しにかけられた声に、慌てて顔を上げる
「原因が何であれ、茨達に何かあれば責任は行かせた私にあります
貴方がどうこう思う必要はありません」
「は、はい……」
口調は冷淡で抑揚がないが、どことなく優しさが含まれている様な気がした
「それに、死なせる気もありません」
『児奴雨』はその声の真っ直ぐさに胸を強く押された様な錯覚を受け、思わず一歩下がりそうになる
―― 何だろう……? 確証もないのに……
なぜか、『児奴雨』の不安は消えていた
似ている。この感覚、あの少年と話していた時と
いや、それ以上か
急な衝撃の後に来る平和ボケの様な浮遊感に『児奴雨』が身を委ねているうちに、話は進んでいってしまっていた
「沙棗、頼みましたよ」
「へいよー。アンタの最終兵器、期待してっからな」
ニヤリと沙棗が歯を見せて、『児奴雨』が胸の前に持っていた鏡を思いっきり叩く
『児奴雨』は勢いに耐えられず数歩後ろによろめいた
それを見ていた御簾の向こうの人影は、一瞬息を飲む様な沈黙の後
本当に、本当に小さな声でため息交じりの声を零した
「鏡、割らないでくださいね……」



ピカリと『帯陽』の光を反射して輝く真円
それを『児奴雨』は懸命に『覚』の顔を映し出す位置に持って行こうとしている
『覚』は目にした対象の心を読む
それを自分自身に向けられたら混乱して隙が生じる
沙棗はその隙に備えて、愛用の金槌を握り直した
―― しかし
「……ケ、ケケケケッ! カガミ、カガミ!
タシカニ ヒトムカシマエナラ トマドッタ
ヒトムカシ、マエナラナッ!!」
『覚』の気が狂った様な笑い声がビリビリと肌を打つ
「っつ!」
沙棗も『児奴雨』も頭の中に一つの単語が掠める
―― 失敗!?
それは同時に二人の敗北も意味していた
現状に理解が追いついておらず体の動かない『児奴雨』と、いち早く体勢を立て直すべく地面を踏みしめた沙棗
そんな二人に、あの声が落ちた
―― 「そのまま」 ――
一瞬の硬直は、その声にとって充分な時間を与えた
鏡が『帯陽』の光の反射ではなく、自らキラリと輝いた
瞬間 ――
「ガッ!?」
流星の様な光が鏡を飛び出し『覚』の体を貫いた
そのまま『覚』を貫通した光は真っ直ぐ茨達の結界にもぶつかり……
―― パキッ!
氷の膜が砕ける様に弾けた
沙棗の釘付けになった視界の先で、濃いクマに縁取られた金色の瞳とかち合う
急に数刻前の紅の言葉がフラッシュバックした


「ただし、その鏡を使うタイミングには条件があります」
「条件?」
「はい。必ず……――」


―― 『覚』を挟んで鏡の延長線上に、茨の結界がある様にしてください ――


「いけぇっ! 蛇ぃっ!!」
気がつけば沙棗は叫んでいた
その声と同時、いや。それより早かったかもしれない
茨の節くれだった手が、先ほど沙棗が放り投げた長い包みを拾い上げたのは
『覚』が己の腹部を呆然と見下ろしている
その背後から、茨は悪魔にも似た笑みを浮かべ『黄泉路』を振り下ろしたのだった


※※※


「で? これはどういうことだ?」
――「どう、と言いますと?」――
沙棗の問いかけに、あっけらかんと問い返した紅の声は更に彼女を苛立たせた
「だからっ! 鏡! 聞いてた使い方と違うじゃねぇか!」
―― 「当たり前でしょう。本当のことを言えば心を読まれて終わりです」 ――
「むぐぐぅ……」
悔しそうに歯を食いしばった沙棗に、茨が気だるげに近づいた
「ま、お嬢は素直だから」
「うぐぅ」
――「『覚』は元来見た相手の心を読む者
姿を見せない状態で攻撃を与えれば通じるのでは無いかと思ったのですが、正しかったようですね」――
そんな会話を交わす二人。いや、三人を他所に『児奴雨』は手元に残った鏡を見下ろす
あの屋敷で見たものと同一のものとは思えない
鏡はあの美しいばかりの煌めきを失い、ただただ暗い森の色に染まっている
足元ではさっきまで茨の診察を受けていた艸と茱萸が意識のないまま横たわっていた
「つうかさ、よくあの一瞬で行動できたな蛇
普段は亀並みにトロトロしてるくせに」
「あぁ、まぁ……
結界張る直前に浮かんだ打開策通りの展開で来てたから、なんとなく……?」
「頭のいいやつの考えてることは分からん……
アタシあんま役立って無いし、こんなんで飯の礼返せてんのか?」
茨はいつもの憎たらしい笑みに、少しぎこちなさを混ぜながら「先輩がさ……」と言葉を続けた
「お嬢じゃなくて『児奴雨』に鏡をもたせてたじゃない」
「んん?」
「鏡持つ役が場慣れしてるお嬢だったら、作戦を失敗したと思った瞬間に次の行動を取っちゃうでしょ?
それだと相手が最も油断してる瞬間に標準がそれちゃうから、『児奴雨』に任せたんじゃない?」
「んー。何? 結局アタシがダメダメだってこと?」
「そうじゃなくて ――」
――「貴方の実力を認めているということですよ」――
痺れを切らしたように紅のため息交じりの声が聞こえた
「お嬢が特攻役してくれないと成り立たない作戦だったってこと」
茨の後押しするような言葉に沙棗は腕を組んで「うーん?」としばらく唸っていたが、やがて吹っ切ったように顔をあげた
「ま、役に立ったならいいや」
「そーいうこと」
『児奴雨』はこの性格の濃い三人の絶妙なバランスによってもたらされる掛け合いを、ただただボケっと眺めていた
すると、不意に茨が『児奴雨』に何かを二つ、投げてよこす
「それより、ほら」
「あ……!」
茨にポイッと投げ出されたそれは、『児奴雨』の求め続けた自分の下駄だった
なぜ? と顔を上げれば、茨は真意を読み取らせない笑みで見下ろしてくる
実はあの時、茨が『黄泉路』で『覚』の頭から股までを真っ二つに一閃した後、トドメとばかりに沙棗の炎を纏わせた金槌が振り下ろされたのだ
あの時の体内まで焼けてしまいそうな熱風を思い出すと、自然と身震いしてしまう
しばらく気絶してしまっていたのだろうか、次に『児奴雨』が目を開いた時『覚』だったものはただの炭になっていた
驚いたことにあれほどの熱にを感じたのに、森も草木も『覚』が立っていた一点以外は全く無事だったのだ
しかし、『覚』が身に付けたままだった『児奴雨』の下駄は一緒に黒炭になってしまっていたと思っていた
―― 不思議なことといえば……
茨が『覚』を斬った時、確かに刀身が『覚』の体に入り込んでいたはずだった
しかし気のせいだったのだろうか
『覚』の体は分断されていなかったように見えた
「あ、あの……」
『児奴雨』は様々な疑問と感情をごちゃ混ぜにしながらも、お礼だけは言わねばと必死に口を動かす
しかし、それを遮ったのも茨であった
「お礼はいいよ。一銭にもならないから」
「へ?」
「下駄を探してあげた借りは今回助けてくれた分で返されたけど、下駄を取っといてあげた借りは、今度必要な時に返して貰うからね」
その憎ったらしい笑みの前に、『児奴雨』は何を要求されるのだろうという恐怖と、……不思議なことに茨に対する好感を同時に抱いたのであった


※※※


「ギギギッ! カゲ、カ、ゲ ガ ヒラクッ!」
真っ赤な炎に包まれながらもがき続けている影は、何やら声とも雑音とも取れるものを発し始めた
全てが終わったと思った茨と沙棗は慌てて身構える
越神(おちがみ)』と違って『非人』は御子(みこ)達にとっても人間と同様に未知の存在であることが多い
「ソウ、トオクナ、イ……
ヒト ハ、サリ…… ツキ ハ アバカレ……」
茨も沙棗も、ここにはおらずとも紅も。静かにその様子を見守っている
「キ……、……――」
最後は言葉とも分からぬ、ただの音となって燃え尽きた
何も残らず燃え尽きたように思えたが、一拍遅れてカサリと焼け原に落ちた物があった
先程まで『覚』に刺さっていた弓矢だ
鏡から飛び出した光の正体である
弓矢は『覚』の体を射止めた。貫通して見えたのは、矢の波動が通り抜けたものだったらしい
そのたかが攻撃の残り香で茨の結界は砕け、本体の弓矢は沙棗の業火に焼かれても形を保っている
沙棗は意図せず生唾を飲み込んで、沈黙に耐えかねたように吐いて捨てた
「なんだ? さっきの?」
『覚』の意味不明な言葉に対して疑問を投げかけたのだが、その言葉に返す者はいない
沙棗は質の違う沈黙に戸惑い、茨を見返した
「蛇?」
「……。
……、あぁ、ごめんごめん。なんか思念を拾ったぽいね」
「? 誰の?」
「さぁ?」
先程のピリピリした沈黙は何だったのか、茨はいつも通りのヘラっとした笑みを顔に貼り付けて背を向けてしまった
艸と茱萸の様子を見に行ったようだ
「……白餓鬼(しろがき)?」
沙棗は茨以上に静かになってしまった紅にも声をかけるが、何も聞こえていないように静かだった
一瞬、紅との霊波が切れてしまったのでは無いかと錯覚してしまう程の静寂
それでも確かに聞こえた気がした
紅の霊波を通して、本当に微かに
呼吸に近い静かな音で
――「やはり」――
と呟いたのを……――

花たちが咲うとき 九

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花たちが咲うとき 九

アナタの見るものを、ワタシは見ることが出来ない アナタの感じることを、ワタシは感じることが出来ない アナタの言葉を、ワタシは理解することが出来ない ワタシは。アナタを、知りたいと想った アナタの心が、欲しいと思った――

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-03

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