地の濁流となりて #8

第二部 辺境の地編 エル・レイ

 パガサには不思議でならない。王であると認めてから,目の前を歩く無精髭の男は急に人が変わってしまった。あの路地から出てきて,酒場に案内したときの飄々とした感じと違い,背中は雄々しく,歩みは厳粛,身の丈も数倍になったような気がする。酒場で火酒の瓶を逆さにして,一滴も残すまいと口を開けていた人物と同じだとは,とても信じられない。「王」とは,そのようなものなのだろうか。
 じっさい,エル・レイが石畳の通りを行くと,他の地の交易人はともかく,マールの市民は,その姿を見るや恭しく一礼するか,そそくさと小さい路地に身を隠すのだった。影に消える後者は,あの「情報屋」の類,つまり,いかがわしい生業に手を染めている者たちなのだろう。
 ふたたび火薬塔が目に入り,その下の王邸に着くと,あのいかつい門衛までもが,腰を深々とかがめて,王とその連れを,巨大な鉄の扉の奥へと丁寧な身振りで促した。
 「旧態然だろ。往時の,いや,昔の名残さ。自分たちの権威と力を保持しようと躍起になっていた時代のな。その最たる象徴が,この真っ黒な塔と,この物々しい扉というわけだ。」
 エル・レイは,門をくぐるときに,重厚な扉を片手でとんとん叩きながら,誰に向けてというのでもなく話した。マンガラたちが先に訪れた際に目にした,あの暗い通路を抜けると草地が広がり,その先に「王の間」があった。表の火薬塔に引けを取らない高さの尖塔を備え,入り口の上部には,あの拳のレリーフが彫り込まれている。入り口から奥へ向かって,鉄の甲冑が台に座す形で,左右に並べられていた。
 「パガサ,これって。」
 土の民が鍬や鎌の先につけている金属が,これだけふんだんに用いられている。このなかの一体だけで何人分の耕作用具が賄えるのだろう。その鉄にしても,パテタリーゾでは市でしかお目にかかれない。そして,市にいつも並ぶわけではなかった。それほど珍しいものが,文字通り幾つもの大きな塊となって鎮座しているのである。マンガラに指をさされずとも,気づいたパガサは息を飲んでいた。
 甲冑に守られた天鵞絨の絨毯の上を進むと,一番奥に磨いた石でできた円卓が設えられていた。エル・レイは,マンガラたちに席に着くように勧め,自らも腰掛けると,一人ひとりを検めた。
 「ここは,かつてヴァルタクーン王朝の辺境領の中枢を担っていた。王朝が拡張政策を進めていた時代だから,ずいぶんと前の話だ。もともと住んでいた者らの土地を奪い,マールの都市を造り,自らの覇権を宣言した。勝手にな。だが,ラユース大陸のなかでも指折りの,雑多な部族を抱えるこの地の平定は困難だった。」
 エル・レイによれば,王朝に対する諸部族の抵抗に,部族同士の争いが重なり,王朝は仕方なく,辺境領を「自治領」とした。マールの領主をして部族の「調停者」に任命したのである。もっとも,そのような押し付けが諸部族に通用するわけもなく,混乱が続き,マールを含む「自治領」は,王朝の領域から外された。その後,部族間の交渉の結果,王朝との交易関係のみ有益と判断され,現在の自由都市となった。
 「王さま,そのお話が今の状況に,どのように関わるのでしょうか。」
 自らの住まうルーパの歴史さえ知らないパガサには,辺境の地の歴史を,わざわざ王邸で聞かされる理由が分からなかった。話が終わるのを待って,パガサはしびれを切らしたように尋ねた。
 「たとえば,お前たち二人が,土の民の者だと分かること,そして,お前たちルーパの諸々の民が「透明な輝石」と呼ぶ,その真相を探ろうとしていること,そうした情報の出処などが。どうだ。」
 パガサの性急な問いに,王は悠揚に答えた。パガサは未知に対する驚きの表情を,マンガラは例の首を傾ける仕草を,同時に示した。カタランタだけは,何の反応も示さなかったが,それにさえ二人は気づく暇がなかった。「王」という存在が,二人にとってさらに不可思議なものとなった。
 「でも,なんで王さまなのに,この王邸にいないの。」
 一時の呪縛が解けると,マンガラはいつもの脈絡の外れた質問をぶつけた,そうパガサは思った。しかし,エル・レイには,意外な問いかけだったようだ。王は一瞬驚き,それから少し笑って,先の「旧態然」を枕に言葉を続けた。
 「さっきも言った,旧態然が嫌いだからかな。いや,今のマール,この自由な空気に満ちたマールを見回るのを好む,というのが本音なのかもしれん。荒くれもいれば,お前らみたいな者も流れ込んでくる。常に変化があり,活気がある。いいじゃないか。ギスギスした古い王朝なんぞよりも。」
 「王朝」という言葉を耳にしたカタランタの眼が鋭く光ったのを,パガサは見逃さなかった。ただ,このマールがかつて王朝の辺境領だと聞いたばかりだったので,なぜカタランタが「あの眼」をしたのか見当がつかなかった。それよりも,王の話を受けて,パガサにはどうしても主張したいことがあった。主張すべきことがあった,と言う方が正しいかもしれない。
 「もし自由に行き交いできるのでしたら,どうしてあの姉妹は船に乗れなかったのですか。あ,姉妹というのは,マールに向かうアイクセル号の船員から,「輝石」による病のために乗るのを拒まれた人たちです。あの病は移りません。親から子へは分かりませんが,マラミ風邪のように,咳やくしゃみで移るわけではないのです。」
 パガサの言葉は止まらなかった。あのマガスパナの沖で乗船を拒否された二人の去る後ろ姿が眼に浮かび,続いて,パテタリーゾの人々が自分たちを送り出した歓声,イスーダの作業場で黙々と働く人たちの動きが脳裏をかすめた。
 「王さま,あなたは,ルーパを支配している長老評議会という組織の,評議会長をご存知ですか。ぼくは思うのです,その評議会長が独断で「往来」を禁じ,そのために自由には行き来できなくなっていると。どうして評議会長は,そんな禁忌を出したのでしょう。ルーパの人間ならば,病が移らないことは。」
 話すのに懸命なパガサは,自分でも知らずに涙を流していた。恥ずかしさと悔しさから,袖で顔を拭って王の眼をしっかり見据えた。王はその視線をきちんと受け止めると,カタランタの方を見やった。
 「お前の連れはなかなか面白いな。気に入った。俺も腹を割って話す。ルーパの民が自由に行き来するのは禁じられている。その通りだ。驚かせるつもりはないが,俺は評議会長を知っている。あの老獪な奴を動かしているのが何であるかも。そして,お前たちが「輝石」と呼ぶ物についても。」
 この言葉にパガサたちが驚くよりも早く,カタランタが席を立って王の話を遮ろうとした。そのことが,パガサたちを驚愕させた。エル・レイの語った内容もそうだが,二人はもう目の前で何が話されているのか,把握できなかった。王は,カタランタを一瞥すると,席に着くようあらためて目で示した。
 「まあ,良いではないか。俺は隠し事が好きではない。だが,全て話すほど,お人好しでもない。お前たち土の民が,禁を犯したのは,誰かに真実を聞くためか。それとも,自分たちでその真実を突き止め,残された里の者たちの想いを叶えるために,行動を起こすことか。評議会長を捕まえれば済むほど,事が簡単ではないことくらい分からんでもあるまい。」
 評議会長を捕まえる。捕まえて,それから。それから。捕まえても,「輝石」はどうにもならない。では里を離れるのか。イスーダの若者たちのように。いや,それでも方舟が出来上がるまでには,彼らもまだ犠牲者を出すだろう。そもそも海も近くにない土の里では船も造れない。病に罹った者はどうする。捨ててゆくのか。評議会長が目的ではない。「輝石」なのだ。「輝石」をどうするか,それが大事なのだ。
 パガサの思いつめた顔を見守りながら,しかし,王はまた笑みを浮かべた。
 「そう思いつめるな。お前たちが里を後にしてから,何年か経ったか,何ヶ月か経ったか,何週間か経ったか。せいぜい一週間ほどだろう。その一週間のうちに,ここまで辿り着き,俺に一席ぶったのだ。出来過ぎぐらいだ。焦るのは分かる。だが,何年もかけて仕組まれたカラクリを,一朝一夕で解けるわけがなかろう。」
 先ほどから立ったままだったカタランタは,これを聞いてエル・レイを睨んだ。その苛立ちをひしひしと帯びる身振りと,またもや王の不可解な言葉に,パガサは返って冷静さを取り戻した。
 それにしても,カタランタは王になぜ腹を立てているのだろう。あれでは,カタランタは王の話したことだけでなく,「話すかもしれないこと」を知っているみたいではないか。まさか本当に,そうなのだろうか。そして,それでもなお,知らない振りをして,ぼくらについて来ている。そうなのか。あのイスーダを出る舟で話した「全てを話す」の「全て」の中身は,いったい何なのだろう。
 パガサが自分の想念に耽っている間に,誰かが円卓に近づいてきたようだ。隣に腰掛けていたマンガラが,入り口の方を向きながら,パガサの袖を引っ張った。
 「おやおや,賢王ではないですか。久しぶりに戻られたと思ったら,小さな御客人をお連れとは。」
 真っ白な頭髪に蒼白の顔。細く背の高い体を,リーゾの緑を光らせたような衣に包んでいる。肩の辺りで切り揃えられた髪が,身振りの余韻でさらさらと揺れている。
 「バルボヌか。どうしてここにいるのが分かった。そうか,門衛だな。」
 うんざりした表情を隠さず,なんの声調も加えずに,エル・レイはそう言った。
 「さて,どうしてでしようね。門衛かもしれませんし,門衛ではないかもしれません。それよりも,この方たちはどなたなのです。いえ,別に知りたいのではないのですよ。このような雑多で混沌とした場所に集まる者の気がしれませんよ。いえ,知りたいわけではないのですよ。」
 王からバルボヌと呼ばれた人物は,首を左右に振りながら,なぞなぞみたいに自問自答する。王はと見ると,この人物が現れてから,先ほどまで勢いをすっかり削がれて,むしろ塞ぎ込んでいるようにも見える。当のバルボヌはそれに気づかないのか,おしゃべりを続けた。
 「この王邸は,さながら泥濘に浮かぶ船ですね。いえ,本当に浮かんでいるのではないのですよ。石は浮かびませんから。ですが,せっかく浮かべた船から,自分で泥に飛び込むなど,私のような貴族ふぜいには分かりかねます。いえ,分かりたいのではないのですよ。」
 侮蔑と取れる言葉に王は何も言い返さなかった。腰を少し浮かせて,赤い布張りの肘掛椅子に深くかけ直すと,頭を後ろに反らした。自分に向けて次々に繰り出される訳のわからない話に,滅入ってしまったようだ。バルボヌはひとしきり勝手に続けると,満足して去って行った。
 エル・レイは,頭はそのままに,去る姿を眼だけで確認しようとしたが,視界に入った別の人物に,慌てて姿勢を戻した。パガサたちも遅ればせに視線の先を追った。そこには,緑色の人物ではなく,色とりどりの生地の,あの「時を旅する人」ブッフォが立っていた。いつバルボヌと入れ替わったのかと思うほど,一瞬の出来事だった。
 「王朝のお目付役とは。賢き王も大変だな。未だ折れぬ古き剣の末裔よ。」
 パガサとマンガラはもちろん,カタランタも不意をつかれた。最初にその姿を見た王を含め,ブッフォその人を除いては,時が止まってしまったようだった。エル・レイがはっとして,「何者だ」と問いただす前に,ブッフォは自己紹介を始めていた。
 「転移の旅人ブッフォだ。この名は耳にしたことがあろう。エル・レイよ。お主のことじゃ。今後,己が何をすべきか,わしが説くまでもなかろうが,此度の役者と顔を合わせるぐらいは良いと思うてな。」
 まただ,とパガサは思った。イスーダの時もそうだった。いつの間にか現れ,いつの間にか消える。ルーパからどうやってマールまで移動したのだろう。カタランタは固まったまま,ブッフォを凝視している。ブッフォに声をかけられたエル・レイは,しかし,次第に表情に生気が戻り,この極めて特殊な事態を楽しんでいるみたいだった。
 「「転移の旅人」。あなたが。ふむ。この者が現れたことといい,まるでこれからの出来事に念を押すようですな。いつから俺は,そんなに信用を失ったのかな。まあ,時から時へ移るあなたには,この地の大いなるうねりも,微々たることでしょうが。」
 エル・レイは「この者」と口にした時,カタランタに視線を少しの間だけ移したが,その後は,自分の言葉を反芻しながらそう言うと,パガサたちを向いた。両手を上にして戯け,苦笑してみせる。
 「今日は散々だ。お前たちとの話しは楽しかったが。なにぶん,客が多すぎる。避けていた追従(ついしょう)が現れ,世界の隠遁者殿までお出ましとは。さて,俺は野暮用があるから少し席を立つ。しばらく待っていてくれ。ブッフォ殿,拝謁光栄至極。では失礼しますぞ。」
 あの「王」の姿勢と足取りで,エル・レイはその場を辞した。足音がようやく聴き取れるくらいまで離れると,パガサは数日ぶりに出遭ったブッフォに,これからの道程について何か助言をもらおうとした。だが,それに先んじて,カタランタが早口で尋ねた。
 「あなたは,あのマクレアの「義人」ですか。「義人」が現れたということは。」
 そこまで口にすると,急に何かに気づいたように,尋ねているカタランタの方が言い淀み,口を噤んでしまった。ブッフォは片方の眼を軽く閉じると,もうそれ以上カタランタが話さないと悟った。
 「ふふふ。出自を明かせぬお主に,明かす義理はない。だが,まあこの者たちを,ここまで導いてくれたのには感謝しておる。そうだな,マクレアの者には,マクレアの者の役割がある。それが果たされれば,一つの鍵となり,一つの扉を開くだろう。あやつらも,お主も,賢王も鍵じゃが,わしは鍵ではない。では,またそのうちにな。」
 パガサとマンガラが止めようと言葉を発するよりも早く,「時を旅する人」は幻とかき消えた。後に残された三人は,気まずい雰囲気に包まれていた。マンガラはともかく,パガサは今のやり取りから,カタランタに対する不信感が大きくなっていたし,カタランタは王の態度の危うさを案じ,ブッフォの言葉から「義人」の真相が,するりと手の間を抜けていく感覚に陥っていた。
 しかしカタランタは,それらをひとまず頭の片隅に置いておいた。ずっと優先すべきことがあったのだ。
 「パガサ,マンガラ。今日のあの「情報屋」の少年は,俺の落ち度だ。許してくれ。王が語ったこと,俺はそれにもう少し付け足すことができる。それはパガサ,お前ならすでに感づいているだろう。だが,お願いだ。少しだけ待ってくれ。」
 カタランタが率直な口調でそう言ったので,パガサは少し驚いた。それから,ブッフォの言葉「ここまで導いてくれた」を思い出した。不信感よりは信頼か。ブッフォはこのマンガラも自分の半身だと告げた。カタランタも自分の持たないものを持っている。今は信じよう。
 ただ一人マンガラは,両者を見つめながら,また首を傾げていた。

地の濁流となりて #8

地の濁流となりて #8

カタランタの働きもあり,無事にマールの「若き賢王」エル・レイに遭えたマンガラたち一行。王邸に招かれ,そこで話を聞かされるが,エル・レイの言葉の内容は,マンガラとパガサを驚かせるには十分すぎた。少しずつ真相に近づく彼ら,何かを知るカタランタ。物語はようやく序盤を終えようとしていた。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-01

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