地の濁流となりて #6

第二部 辺境の地編 黒い輝石

 流紋岩のそそり立つ崖が,朝焼けの陰をつくり,壁に蜂の巣状にかけられた小屋が微かな像を結ぶ。連絡船の群れを下に見晴るかす断崖は,初めて商う旅人の期待と不安も,旅慣れた商人の落ち着きも忘れたように,まだ微睡みの中にあった。
 アロンの操る丸木舟に揺られ,船着き場にたどり着いたマンガラたち一行は,この小屋の一隅で辺境へ向かう船を待っていた。もっとも,マンガラもパガサも,これまでの緊張の糸が緩んだと見えて,カタランタが起きて,二人の想像しようもない想念に身を委ねる間にも,安らかな寝息を立てていた。
 朝まだきの靄に浮かび上がる大きな木造建築物の群れは,マンガラとパガサにとって,昨夜の月明かりに揺れる丸木舟とは別の意味で,幻想的な光景だった。
 「カタランタ,この木の板の上を歩いて,あそこまで行くの。下に落ちたらどうなるの。」
 湾岸都市マールへ向かうアイクセル号へ渡された,狭い水平の船梯子を前にして,マンガラはこらえきれずに叫んだ。やはり口には出さないものの,パガサもまったく同じ考えを抱いていた。視界は遮られているが,船の大きさを考えれば,水面まではかなりの高さがある。
 「落ちたら,それまでだ。さあ,渡れ。後ろがつかえる。」
 カタランタは無表情のまま,簡単にそう答えた。事実,アイクセル号に乗船する者は多く,カタランタの後ろからは,冷ややかな視線が二人へ投げかけられていた。マンガラとパガサは,肝を冷やしながら,右に左に,上へ下へと揺れる木橋をなんとか渡り終えた。
 甲板には,すでに三人の背丈を越える荷が多数積み込まれ,その間あいだに自分の商品に張りついた人々が,座ったり立ったりしている。先ほどの梯子を,こんな荷物を背負ってと,驚くほどの大きなものも散見される。それらの中に挟まるように,マンガラたちは一箇所に身を寄せた。幸い船縁にいたので,マンガラとパガサは,海原へと漕ぎゆく景色を十分に楽しむことができた。
 「アロンの船と違って,たぶん水から遠いね。揺れもほとんどないみたい。土の上にいるのと変わらない。」
 たしかにこの柵の上にぶら下がって覗き込むと,海までは,ずいぶんと距離がある。それだけ船が大きいということか。パガサも思う。遠くはまだ霞んでいて見えないが,たぶんアロンの小さい舟のときとはまったく違った風に見えるのだろう。
 白い雲を突き抜けるように,陽に塩に焼けて黒ずんだ船は,他の群れに先んじて一艘だけ滑り出した。多くの人々と,それよりさらに多くの荷を積んで,アイクセル号は辺境の地へと走り出したのである。
 アロンの丸木舟しか乗ったことのないパガサは,動き始めた船の速度をさっそく心配し始めた。揺れないのは良いが,これならアロンの方が,速くはなかったか。しかし,不安な顔をしてマンガラの方を見ても,当のマンガラは,朝が早かったからか,柵にもたれてうたた寝をしている。
 「カタランタ。こんなにゆっくりだったら,いつ辺境の地に着くか分かったものじゃないよ。大きな船だから遅いの。」
 尋ねられたカタランタは,船にも船外にも興味を示さず,丸木舟に乗ったときの例の姿勢で目をつむっていた。
 「大丈夫だ。心配するな。今に櫂が出て,風が出る。」
 櫂が出る,風が出る。こんな大きな船のどこから櫂が。それに風って。カタランタはそう言ったきり,姿勢も崩さずじっとしている。その落ち着いた冷静さに,不安なパガサも,諦めて船縁に胸を預け,まだ見えない水面を探した。
 しばらくすると,船の下の方で木がぶつかり合うような音がし,甲板にその響きがくぐもって伝わってきた。うたた寝していたマンガラは,不意をつかれて立ち上がった。それと同時に,甲板の向こうで縄がきしり,大きくバンと鳴って,中央に建てられた柱に白い布が降りてきた。
 「何がどうしたの。パガサ。」
 パガサも何がなんだか分からなかった。急に船自体が命をもったかのようだった。しかし,自分たちを除いて誰一人として,事態に注意を払う者はいない。と,柵から下を覗いていたマンガラが短く声を上げた。パガサも柵へ急いで,船の側面を見下ろす。そこには,人の何倍もの長さはあろうと思われる,大きな角材が何本も突き出ていた。
 「それが櫂だ。いまに帆が風をはらむ。」
 相変わらず同じ姿勢のまま,カタランタがマンガラたちの背中に答えた。アロンの櫂を想像していたパガサが,その言葉に驚いていると,木材が一斉に水面を打ち,水を後ろに追いやって,再び水面に上がる。その都度に,船体が前方に揺れ,やがて揺れを感じなくなった。開いた白い布が,ぴんと張り,気づけば内海を抜けて遠くの海が見渡せるほど,靄は薄れていた。
 アイクセル号は,澄んだ蒼と深い青の間を,櫂の漕ぎ手と風を受けた帆に助けられ,マンガラたちが驚くほどの速度で波を切っていた。カタランタの言った通り,出だしは緩慢だったが,沖に出れば走るよりもずっと早くなる。あれだけの数の櫂が備わっているのに,波のうねりと耳元に響く風に,まったく音がかき消されてしまう。羽虫リリパッドが空を滑るようだ。
 「ここからマールへ向かうの。」
 時おり大きな波を切って飛び交う滴を楽しみながら,マンガラがカタランタに尋ねた。すっかり眠気は取れたようだ。尋ねられたカタランタは,悲しそうな表情を一瞬浮かべた。
 「いや,途中で港に寄るはずだ。マガスパナ,そんな名の港だ。」
 マガスパナ。パガサは袋から,丸めてある地図を取り出した。カタランタがそれに気づいて頭を振った。マガスパナという地名は,長老の地図には載っていない。もう船はルーパから出てしまったのだろうか。それとも,ルーパの中でも,僻地に当たるのだろうか。
 「イスーダみたいなところなの。」
 港と聞いてマンガラが,またカタランタに尋ねた。同じことはパガサも知りたかった。ルーパの別の港か,ルーパから出た辺境の地に近い港か。しかし,カタランタは,やはり一言で返すだけだった。
 「いや,それはないな。」
 先ほどの表情といい,その短い言葉に含まれた何かに,パガサは説明できない嫌な感じを受けた。知っていて,でも詳しくは話したくない。できれば触れたくない。あえて言うなら,そのような感じだろうか。
 雲ひとつない真っ青をアイクセル号は進む。陽の光が,林や土の上で感じるよりも,ずっと強い。見回すと,商人たちは身につけた長衣や,布などで顔や肌を覆っている。外海に出てから陸地を探していたマンガラが,パガサの袖を引っ張った。
 「あれ,パガサ。見て。」
 マンガラの指す方向には,土の乾いた色の傾斜が小さく現れていた。樹木の類が生えていないのか,それとも切り倒されたのか,むき出しの丘には一点も緑が見当たらない。土とも石とも違う。あの麓には,砂の民の里があるのだろうか。船はどうやらその傾斜へと舳先を向けている。しばらくして,丘がそれと認められるくらい大きくなった。麓には,白い石が無造作に積まれている。ちょうどイスーダの石積みを散らかしたような。
 そのとき,帆が下され,櫂が動きを止めた。がくんと衝動が甲板を走り,船が慣性のままにゆっくりと停止していった。船員の誰かが,「マガスパナ」と叫んだが,その声には明らかに無気力が混じっていた。誰も降りない,それを確信している声音だった。
 「カタランタ,マガスパナって言っているけど,まだ,海の上だよ。港はどこなの。」
 マンガラの言う通りだ。あの麓の街らしき場所までは,まだかなり離れている。まさか海の上に港が。そんなことがあるのだろうか。でも,交易船の船着き場のような,壁にはりついた家もあったくらいだから,分からない。
 「ここだ。海を見てみろ。」
 カタランタにそう言われて,二人揃って海を見ると,洋上に波の煌めきとは違う鋭い光が見える。一定の間隔で明滅している。と,アロンの丸木舟を二つ組み合わせたような舟が,こちらへと向かってきた。櫂をもった一人が,片手で金属片を太陽に反射させている。その海の民と似たような褐色の男性が一人,黒い布を巻いた人が二人,それぞれ大きな荷に片手を添えて乗っている。
 マンガラたちと少し離れた場所から,縄の梯子が海へ下された。船員の一人がその梯子を下って行く。荷を積むのか,それとも彼らを乗せるのか。成り行きを二人が見守っていると,舟まで下りた船員が,黒い布を巻いている二人に何やら指示している。二人は見合わせて,しぶしぶ布を少し外した。船員は何かを確かめる仕草をすると,片手を上に向けた。
 「どうしてですか。なぜなのです。ここまで姉と一緒に来たのです。どうか乗せてください。お願いします。マールまで送ってください。ご迷惑はかけません。」
 二人は姉妹のようだった。妹の方が甲板まで聞こえる大きな声でそう言ったが,姉は首を振って,無言のまま妹の体を押さえた。船員はその訴えが聞こえないかのように,黙々と縄梯子を登ってくる。それに応えるように,二人を乗せた舟は,アイクセル号から静かに離れていった。しかし,パガサは,抱き合う二人の後ろ姿をずっと目で追っていた。
 「あれ,何がどうしたの。パガサ,分かる。」
 二人の乗船がなぜか拒絶された。それは見ていれば分かる。でも,理由は分からない。パガサは思いがけず,カタランタを見やった。それを予期していたように,前をじっと見つめながら,カタランタが口を切った。
 「あの遠くの崩れた建物がマガスパナだ。かつてはイスーダと同じく交易の盛んな街だった。あの鉱石が現れるまでは。ルーパのなかでも,とくに鉱石の被害の大きかったマガスパナは,病人を多く出した。そして,街は荒廃した。」
 鉱石の被害。「輝石」の害。あそこもルーパの地で,ぼくらと同じ害に遭っている。いや,カタランタの話を信じるなら,ずっと大きな被害に遭っている。でも,それと乗船できないことに,どんな関係が。
 「いいか,パガサ。ルーパと違い,辺境の地は「輝石」の害を知らない。いや,だからこそ害に対して敏感だ。「輝石」の病が伝染するとも,言われている。俺はそんな噂,信じないが。乗れなかったのは。」
 あの姉妹のうち,妹が病に罹っていたから。そんな,そんな。「輝石」は,ルーパの人間が置いたのでもなければ,ルーパの人間が望んだものでもない。勝手に現れて,土の民を,海の民を苦しめ,今も苦しめ続けている。あの,首の膨らみを,頭の肥大を,見えない指を,衰弱する体を,無理矢理に押しつけた。伝染する,伝染するだって。それだったら,ぼくらもとっくに病にかかっている。どうして,どうして。
 パガサは腹の底から突き上げてくる,痛いほどの熱い怒りを覚えた。カタランタが立ち上がって,パガサの腕に触れなかったら,感情を抑えられず大声で叫んでいたかもしれない。そっと触れたカタランタの手には,次第に力を込められて行った。カタランタは知っていたのだ。だから,言わなかった。
 カタランタの手に,マンガラが悲しそうに手を重ねた。アイクセル号は,その間にも,再び櫂を下ろし,帆を広げていた。
 マガスパナの沖を出港してすぐのことだった。それまで無言で荷を守ってきた商人たちが「おお」と,一様に驚きの声を上げた。ただし,その声は,初めての驚きというよりも,これまで幾度も繰り返された感嘆の響きを伴っていた。腰を下ろして,先の姉妹のことを考えていたパガサも,立ち上がって船縁から身を乗り出した。
 「あ,あれ,何。パガサ,あの黒いの。」
 マガスパナの瓦礫の山をはるかに凌ぐ大きさの漆黒の立方体が,丘の向こうから姿を現した。ランガム蟻よりも黒く,何より禍々しい。据えられたのか,生えたのか,その立方体の下部が接触している箇所も,見たことない色に変色している。
 「カタランタ。カタランタなら,何か知っているのでしょ。」
 マンガラが今度は,カタランタに自分の驚きを伝えるかのように尋ねる。そうだ,カタランタなら知っているはずだ。パガサもそう考える。しかし,カタランタはすぐには答えず,しばらく何かを思案して,重い口を開いた。
 「先に言っておく。今から話すのは,「輝石」の秘密ではない。あくまで聞いた噂だ。俺に何でも尋ねるな。自分たちの目で見て,自分たちで答えを出すのだ。そのために,お前たちは里を出たのだろう。」
 そうカタランタは念を押し,マンガラとパガサの頷きを待って話し出した。それによると,本来「輝石」は「殻」と呼ばれる白い物質で覆われているという。仕組みは分からないが,その「殻」がある場合は,害は蓄積して病を発現させる。しかし,「殻」を失うと,あの黒いのがむき出しになる。
 「「黒い輝石」と呼ばれる。あれが「輝石」の本体だ。あれは,触れた者,近づく者に,速やかな死をもたらすと聞く。マガスパナはあの「黒い輝石」のせいで失われた。」
 あれが,あの黒いのが「輝石」の本体。あんなものが,どうして。ぼくの祖父は遠くから見て,「透明な輝石」は透明ではなく,白かったと言っていた。それは「殻」がついていたから。もしパテタリーゾの遠くにある「輝石」が,あれと同じだったら,里もあの廃墟のようになっていたのか。パガサは,「黒い輝石」を見つめながら,自分たちの出立を改めて思い出していた。
 始まりは,若者衆の頭ピヌオが,市の後に開かれる恒例の集いで訴えたことだった。それまで高齢者に多かった謎の病が,段々と若者にも広がっている。しかもその多くが,「輝石」を密かに見に行ったり,「輝石」の近くに耕作地を割り振られたりしている。見に行く者はまだしも,共同の耕作地を充てられた結果,病になるのであれば,これは里の責任である。
 共同耕作地の変更と病を患った者への補償,それがピヌオの提言だった。だが,長老は若者衆の意見を受け入れるどころか,「輝石」の影響を言下に否定した。そう,海の民の長老カルヌグがそうしたように。ピヌオたちは,病んだ者たちの働く作業場で提言を繰り返し,長老の対応を批判した。それも,しかし無駄だった。みな,病身を宿命のように忍んでゆく覚悟をしていた。若者衆は今一度,長老にかけあった。と,そこに語り部のシャクが現れた。
 「聞け。豊穣の神アニトの使い,精霊のイカパトの名において告げる。かの「輝石」なるは,我らへの冒涜にして,土地への冒涜である。土の民として,直ちに禊ぎを執り行い,不浄の地を回復せよ。」
 シャクは物憑きの家系だった。普段は皆とともに働いているが,里に何かあると精霊が降りてきて,人が変わったように未来に起きること,是正すべきことを告げる。大雨の土砂も予め告げ,耕作地の陥没も告げた。その祖先は,パテタリーゾの里を築く場所を告げたともいう。長老もこれには逆らえなかった。
 そして,同じく憑依しているシャクに選ばれたぼくらが,こうして旅をしている。里のために。里に住まう人たちのために。けれど,あの黒い巨大な塊と廃墟を見ていると,シャクの口を借りて命じられた「禊ぎ」と「回復」が,いかに果てしないことか,いかに実現が難しいか思い知らされる。それに,ぼくらは,そもそもあの「輝石」の正体に近づいているのだろうか。まてよ。
 「マンガラ,往来の禁だよ。きっと。伝染すると噂されたから,イスーダに往来の禁が降りたのだ。でも,ルーパの民は伝染しないことを知っている。マラミ風邪を考えて。あれは咳なんかから伝染する。でも,あの病は違う。伝染しないことは,もちろん長老評議会も知っている。だとしたら,往来の禁は誰のために出されたのだろう。」
 そうだ,ルーパではない地のためだ。ルーパと往来のある辺境の地や,ぼくらの知らない地のためだ。しかし,ルーパを除く地には,あの「輝石」は無いのだろうか。無いとしたら,なぜルーパにだけ現れたのだろう。
 パガサは懸命に考えながら,視界から消えてゆく「黒い輝石」をもう一度眺めた。マンガラは突然声をかけられて驚いたが,カタランタがまた謎の笑みを浮かべるのを見て,首を傾げた。

地の濁流となりて #6

地の濁流となりて #6

無事に交易船に乗り換えたマンガラたち。船は辺境の地を目指して出航する。初めての大きな船に興奮するマンガラとパガサだったが,途中に寄港した場所で認めざるを得ない現実を突きつけられる。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-27

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