僕の彼女はイギリス人

僕の彼女はイギリス人

序章

空港の出発ゲートを前に、別れの時がやってきた。僕は彼女の手を強く握りしめた。彼女もそれに応えるかのように強く握り返す。その目には涙が溢れ、化粧のアイブローを落とし、黒い涙が頬に流れる。彼女は泣きながらも、震える声で呟いた。
「行きたくない」
僕は彼女の手を握るのを止め、その代わりに彼女を抱きしめた。
「僕も行ってほしくない。でも行かなきゃ。君の将来のためにも」
「今度はいつ会えるの?」
「わからない。でも、また会えるよ。必ず」
「誓ってね。私を見捨てないって」
「誓うよ。君を愛してるんだから」
「私もあなたを愛してるわ。心の底から愛してる」
僕の目からも涙が溢れた。行ってほしくない。彼女をこのまま触れていたい。それでも僕は自分の感情を押し殺し、彼女を行くように促した。お互いの唇が優しく触れるのを最後に、彼女は荷物を持ち歩き始める。彼女はゲートから見えなくなるまで僕に手を振り続けた。僕は笑顔で彼女に応えたが、彼女の姿が見えなくなると、両手を手に覆い、人目を憚らず泣いた。国際恋愛は難しく、そして苦しい。それでも、これが僕たちの選んだ道であり、正しい選択だと自分に言い聞かせた。どんなに離れていても、この感情を止めることはできない。なぜなら、僕は彼女を、あのイギリス人女性を、心の底から愛しているのだから。

この物語は国も、宗教も、育った環境も、外見も、話す言語も、全てにおいて共通点のない男女が、たった一つの共通点、真実の愛 ‘True Love’ を探すお話。

1

晴れやかな空の下、僕は公園の芝生に寝そべりながら誰かが言った言葉をおもむろに思い出した。
「英語が上手くなりたければ、その国の彼女を作ればいいんじゃない?」
 誰が言ったのだろう。正確に思い出すことはできないが、それでもその言葉が自分の脳裏に浮かんでは消える。
(なるほど、海外の彼女か・・・・)
僕は見上げた青い空を遮断するように目を閉じ、モデルのような美女を連想した。Victoria’s Secretのランウェイを優雅に歩く金髪の美女。そんな女性と付き合えたなら自分はどれほど幸せかと妄想を膨らます。しかし僕のような英語も話せない男に振り向く欧米の女性なんているはずがないと妄想を一蹴し、自分自身を現実に引き戻した。再び青い空が目の前に現れた。どこか空との距離が近くなっている気がして、僕は無意識に手を伸ばす。
今日の天気は快晴だった。澄んだ空気、光り輝く太陽、肌身に染みる新鮮な風。僕は目を閉じると再び妄想の世界に飛び立った。海外に来ると心が開けるとはいうが、まさにそんな感覚に浸っていた。全てが自分の可能性を受け入れてくれる気がして、妄想せずにはいられなかった。
(自分は今、日本からはるか遠い地にいるんだよな・・・)
妄想を楽しんでいたのか、いつのまにか鼻の下が伸びていたのだろう。それに気づいたのか、ジュンが笑いながら僕の妄想に割り込んできた。
「リョースケ、日本じゃないからってハメを外しすぎるなよ。ほら、カレッジ見学始まるぜ。間に合わなくなるぞぉー」
どこか自分も浮かれた調子でそう言い放ったジュンは、教材を入れたバッグを片手にカレッジへと走っていった。僕は離れていくジュンを目で追いかけた後、腕時計を見た。次のイントロダクションが始まるまであと5分もない。さすがに遅刻はまずいと自分に言い聞かせ起き上がると、教材が入った自分のバッグを持ち、目線から消えかけたジュンをなんとか視界に捉え、彼の後を追った。1ヶ月という長いようで短い時間。毎日を大事にしようと自分に語りかけ、これから待っている未知の体験に心躍らせながら足早にカレッジへと向かった。

僕は今、日本からはるか離れた国、イギリスのケンブリッジにいる。日本との時差はサマータイムで8時間。ロンドンから快速電車で約45分。イギリスの東部にあるこの街ケンブリッジは若者で賑わっている。しかし、ただの若者ではないのは周知の通り。ケンブリッジといえば世界的に有名なケンブリッジ大学があり、世界から集まった学生が日々学び勉強している。「大学が街を作った」と言われているように、ケンブリッジ大学には31ものカレッジ(日本でいうところのキャンパスに近い校舎)があり、学生は各カレッジで寮生活をしている。13世紀に創立されたということもあり伝統的な建物が並ぶものの、モダンな雰囲気に溶け込んだこの街の風景は日本にはなく、歩いているだけでも映画の一部を体験しているような感覚に浸ることができた。
ではなぜ自分がこの街にいるのかというと、大学が主催するサマースクールに応募し、イギリスの名門ケンブリッジ大学での留学をするためだった。
アメリカやカナダ、オーストラリアの大学と、英語圏に留学する選択肢はいろいろあったのだが、僕がイギリスを選んだ理由はごく単純だった。それは自分の好きなゴルフ、Burberry、Paul Smithが全てイギリス発祥であり、昔からなぜかイギリスに愛着を感じていたからである。理由が単純すぎると思われるが、決断には‘単純さ’こそが案外重要だったりもするのだ。
ジュンとはその時に出会った。彼は薬学部に在学しておりアメフトをやっているらしく、筋肉質の体に短髪といういかにも体育会系男子という印象だった。無愛想ではあるものの、無垢な少年のように笑い、誰に対しても気さくな青年である彼とは初日のレセプションパーティーで知り合ったばかりだが、すぐに意気投合して仲良くなり、それからは休み時間になると一緒に行動するまでになった。

午後1時。僕とジュンは31あるカレッジの一つであるダウニングカレッジへと戻った。イントロダクションの一つでもあるカレッジ見学が始まる。集合場所である中庭にはすでに他の生徒が集まっており、楽しそうに談笑していた。僕たちが到着すると、ケンブリッジ大学の教授と思しき男性(ソクラテスのような、もじゃもじゃの髭にメガネをかけたおじさん)が現れ説明を始めた。どうやらこれからカレッジ内を一緒に歩き、ケンブリッジの歴史や今いるダウニングカレッジの歴史を学ぼうということらしい。彼が先行するように中庭を歩き始め、僕たちも彼を追うように歩き始めた。正直なところ僕にとってこのカレッジ見学というのは退屈で仕方なかった。というのも、僕自身ここに来る前から留学が楽しくて仕方がなく、ケンブリッジやダウニングカレッジについてインターネットや本で事細かに調べていたので、彼の説明を聞くということは自分が知っている情報をもう一度始めから聞き直すような感覚だったからである。僕は彼の話に耳を傾けながらも、上の空でカレッジ内を見渡していた。芝生にはケンブリッジの生徒だろうか、数人がサッカーを楽しんでいる姿もあり、奥のテニスコートではテニスウェアを着た二人組の男子生徒が練習をしていた。目線が自然と彼らの楽しそうな姿に移る。すると痺れを切らしたのか、ケースケが芝生に目を輝かせながら呟いた。
「早くサッカーしてえなぁ」
ダウニングカレッジは寮から教室へと向かう道に広い芝生が生い茂っている。フットサルをするには十分すぎる芝生には休憩用のベンチの他、サッカーゴールまであるのでサッカーサークルに所属しているケースケが目を輝かせるのは当然だった。
「他の友達も誘って後でサッカーやる?」僕が提案する。
「いや、ラグビーボール買ってラグビーだろぉー」ジュンが食いつく。
「ラグビーはない!」
ユウとケースケが同時に突っ込み、ジュンの顔がどこか悲しそうになる。屈強な体に似合わないジュンのしょんぼり顔に僕たちは面白おかしく笑い合った。ユウとケースケは留学が始まる前に知り合った。ユウは法学部に通う野球マンでありながらもスターバックスでバイトもするというオシャレ男子。ケースケは政策学部に通う身長180cmのイケメンサッカー男子。どうやら二人ともイギリスに留学している彼女がいるらしく、彼女らに会うために留学をしたという。
(なるほど、愛は国をも超えるのか・・・)
留学前に3人で呑んだ時はそんなロマンチックな妄想にふけりベロベロに酔った挙句、最寄駅のトイレで吐いた覚えがある。今になって嫌な記憶が蘇り、ロマンチックに浸っていた自分が急に恥ずかしくなった。僕はすぐにそれを忘れるよう頭を振り払い、目線を遠くに移した。

その時だった。

遠くにある図書館から一人のイギリス人女性が出てきた。黒のドレスにレザージャケットを羽織り、恐らくはドクターマーチンであろう赤色のブーツを履いた彼女は、その黒のスタイルが故にポニーテールのブロンドヘアーがより鮮やかに見えた。肩掛けのバッグを持ち足早に去っていく姿から察するに彼女もケンブリッジ大学の生徒だろうと思いながら、僕は黒とブロンドの鮮やかなコントラストに見とれた。するとその気配に気づいたのか、彼女の目線がこちらに移った。僕と目線が合ったかどうかは分からなかったが、何か微笑んだ表情を浮かべ、そのまま振り返りカレッジを去っていった。嵐のような一瞬の出来事だった。しかし、その時僕は心に何か‘ドキッ’という感覚を抱いた。言葉を失った。時間にして10秒ほどだっただろうか。いや、もっと短かっただろう。しかし今はその時間というのは問題ではない。僕はふと我に返ると、今起こった事を再び思い出そうと足を止めた。
(今の感覚はなんだったのだろう・・・)
今までに経験したこのない初めての感覚を僕は必死に考えた。するとケースケが「リョースケ!」と呼んでいることに気がつき、僕は目線を上げた。気がつけばカレッジ見学を忘れており、集団から1人だけ遅れていたのだ。
(やばい!怒られる・・・)
集団から孤立したことを悟られないように盗み足で集団へと戻る。髭もじゃ教授は何かこちらに視線を向けたが、何もなかったかのように再び説明を続けた。僕はほっと安堵の表情を作り、何事もなかったかのように振る舞った。僕はケースケに小声で「ありがとう」と言うと、ケースケは右手を軽く上げて返事をした。相変わらずジュン、ケースケ、ユウは3人で楽しそうにしている。僕は彼らの楽しそうな姿につられ笑顔を浮かべながら、図書館を振り返った。その場所には彼女はもういない。僕はあの時感じた感覚を思い出しながら空を見上げた。ケンブリッジの空はこれ以上ないほど晴れやかだった。

2

その日の夜、僕たちをサポートする現地の学生がパブでの食事を招待してくれるということで、ダウニングカレッジを出て少し北にあるパブ「ウェザースプーン」に僕は向かった。このお店はいわゆるチェーン店で、イギリスに数多く展開している有名なパブの一つだった。全てにおいて初体験の自分にとってパブに入ることだけでも感動的だったのだが、その内装には一段と心惹かれた。映画やドラマで見るようなパブ。その例えが一番しっくりくるだろう。そこにいるだけで、あたかも自分が物語の主人公の一人であるかのように錯覚させた。カウンターには身なりが整った若い男性ウェイターが客と楽しそうに話をしていた。彼は他の客が来るとカウンターにあるビールサーバーからビールを注ぎ始める。ジョッキ一杯に注がれたビールからは泡が滴り落ち、男性客はそれを気に止めることなく、豪快に飲みながら和気藹々とカウンターでウェイターと話をしていた。僕はその姿に釘付けになりながらも、友人を探すべく店内を見渡した。ここのパブは中央が吹き抜けになっている二階建て構造で、一階中央はテーブルのみのいわゆる立ち飲みができる場所だ。入り口側の壁に巨大スクリーンが配置されていることから察するに、プレミアリーグやラグビーを巨大スクリーンで立ち飲みしながら見られる作りになっているのだろう。その奥には大人数専用の広いテーブルスペースがあり、ケンプリッジ大学の学生であろう若者たちがお酒を片手に楽しそうに笑い合っていた。
「リョースケ!こっち!」
一階奥のスペースから声が聞こえたのでそちらに目を向けると、広いテーブルスペースに陣取っているジュンが手を振りながら近づいてきた。
「先にあそこのカウンターで注文してきなよ。俺のオススメはジョンスミスだぜ、これは最高だ!」
万遍の笑顔でしゃべるジュンはすでに顔が赤く火照っており、半分飲み干したジョンスミスのビールジョッキを片手にすでに‘出来上がっている’状態だった。
「ジュン、それ何杯目?」僕が苦笑いとともに訊く。
「これ?まだ一杯目だよ」ジュンが何を言っているんだという表情をしながら答えた。これは確かなことだが、彼はお酒が弱い。初めて知り合ったレセプションパーティーではワインが提供されたが、彼はグラス1杯を飲み終える前に顔が真っ赤になっていた。これまでお酒で失敗してきた友人を何人も見てきた僕は彼の肩に手を当てて、優しく忠告した。
「それくらいにしておきなよジュン。顔が真っ赤じゃん」
するとジュンは僕の言葉を受け止めたのか、相槌を打ちながら笑顔で答えた。
「俺ホント酒に弱いんだよな。自分でも分かってるんだよ。明日から授業だから・・・・‘あと一杯’で辞めとくよ!」
するとジュンは半分残っていたジョンスミスを勢い良く飲み干し、カウンターへ歩いていった。僕はカウンターでウェイターにもう一杯と注文している彼に苦笑いを向けながら‘やれやれ’と思い、席へと向かった。席にはすでに他の生徒がお酒を片手に楽しそうにしており、そこにはケースケもユウもいた。彼らも僕の存在に気づいたのかこちらに目線を向けて手を振る。ほとんどの席が埋まっている状態だったので、僕は開いている席をやっと見つけてそこに座り、メニューを見た。フィッシュ&チップス、ハンバーガー、ステーキ。
(うう、美味そうだ・・・)
昼にサンドイッチしか食べていない僕はメニューを見た途端口からヨダレが出そうになった。ちなみに頼むビールは決まっている。ハイネケン、フォスター、ジョンスミス、バドワイザーと有名どころのビールが羅列されている中で僕が選んだのは黒ビールのギネスだ。ギネスはいわゆる黒ビールのひとつで他のビールと比べて苦味が目立つが、その中に感じる旨味を感じることができればそれの虜になる。僕自身もそこまでお酒が強いほうではないが、ギネスであればジュース同様何杯でもいけるほどだ。僕はしばらくメニューと睨めっこをしながら食べるものを何にしようか迷いに迷っていた。すると相席から英語が聞こえ、僕は飛び上がるように目線を上げた。
「リョースケ、席開いてなくて・・・隣いい?」
リキュールの定番ピムズを片手に持ち、控えめな声でそう言ってきた女性はローレンだった。彼女は僕たちの留学をサポートしてくれる現地の学生の一人で、いわゆるメンター的な存在だった。ローレンは癖っ毛のあるブロンドヘアーを無造作に束ねたヘアースタイルとメガネをかけているのが特徴で、年もそこまで僕とは変わらないはずなのにとても落ち着いた、しかしどこか緊張もしているミステリアスな一面を持つ女性だった。話し声も小さく早口で、どちらかというと控えめな女性であるローレンからまさか声をかけられるとは思わず、僕は一瞬状況が理解できなかった。おそらく彼女も今来たせいか席が見つからず、ここが開いていたから仕方なく来たといった感じだろうか。僕は何を食べるかに囚われた脳をフル回転させ、急いで状況を把握した。
「もちろんいいよ、ローレン。何を食べるかもう決めた?」
「私は大丈夫、お腹空いてないから。ピムズだけでいいわ」
ローレンは早口にそう言うと、前にかかった髪を耳元までかきあげ手に持っていたピムズを飲み始めた。
「なるほど。それなら僕は注文してくるよ」
なんとなく気まずい雰囲気を感じた僕はそう言い残すと、席を離れカウンターに向かった。僕はギネスとフィッシュ&チップスを頼み、ウェイターがギネスをジョッキに注ぎ始めるのを眺めた。ローレンの英語は聞き取りやすいがとにかく早い。これ以上早く話されると理解できないという不安感を抱きながら、ウェイターが準備したギネスを片手に席に戻った。
「ビールが好きなのね。何を注文したの?」ローレンが話題を作るかのように訊いてくる。
「ギネスとフィッシュ&チップスだよ。イギリスっぽいでしょ?」
「そうね、良さそうだわ」
会話が終わった。微妙な間が二人の間に流れる。僕はこの空気を変えようと何を話すべきか話題を頭の中で必死に探した。気がつくとギネスを半分も飲み干している。どうしても話題を見つけることができず途方に暮れていた僕だったが、そこに救いの手がのびた。
「リョースケさん、こんなところにいたんですか!」
どこか調子の外れた甲高い声で僕の名前を呼んだのはアヤだった。彼女は僕と同じ学部の後輩でこの留学前から知っている仲だった。彼女はぽちゃっとした愛くるしい体型とボブスタイルの黒髪が特徴で、空気が読めて冗談も通じる最高の女友達の一人でもあった。
「ローレンもいるのなら一緒にしゃべりましょうよ!隣いいですか?」
アヤに対しては冗談を言って笑わせるのがいつものパターンだが、今回ばかりは彼女が救いの女神に思えた。僕はどうぞどうぞと救いの女神を招き入れ隣に座らせた。アヤはいつもの僕の態度とまったく違うことに一瞬違和感を感じながらも、ローレンに笑顔を向けて僕たちのテーブルに座った。
「リョースケさん。何かおかしいですね。どうかしたんですか?」
「いや、別に。アヤちゃんに見惚れていただけだけど」
「はいはい。すぐそーやって私をいじめるんですから」
「先輩としての愛だよ。愛」
アヤはぷくっと口を膨らませ、僕を睨みつける。僕は笑いながら彼女に‘ごめん’という表情を作った。するとアヤはいつものように‘仕方ないですね’といった顔で、膨らませた口から空気を抜き、一転して笑顔を見せた。僕たちがしばらく2人で笑いあっていると、そこに今まで口を閉ざしていたローレンが興味津々な顔でこちらに質問を投げかけた。
「あなたたち仲が良いのね。いつから知り合いなの?」
僕は彼女へと目を向け答えた。
「この留学のちょうど前だよ。アヤは僕の後輩なんだ。なんでここまで仲が良くなったのか僕もわからないけど」
「リョースケさんは冗談を言って私をいじめるんです!ローレン、そういう男性って最低じゃないですか?」
アヤが冗談まじりの笑顔を浮かべてローレンに訊く。ローレンはくすくすと笑いながら‘そうね’といった表情でアヤを見た。彼女の目はさっきとは違った、どこか緊張のほぐれた優しそうな目になっていた。するとローレンは何か聞きたいといった表情を浮かべ、僕たちに質問した。
「二人は大学でどういったことを勉強してるの?」
アヤと僕は同じ学部だが、いわゆる多様性に富んだ学部であり個人で研究テーマを決めることができる。アヤはフランス語・ドイツ語を学んでおり言語コミュニケーションに関した研究を、僕は犯罪心理学について研究をしていた。するとローレンはその話題に興味を持ったのか、詳しく聞きたいとのことだったので、僕たちはしばらく各々の研究テーマについて語り合った。
気がつけば3人で会話もはずみお酒もすすんでいた。僕は飲み干したギネスに物足りなさを感じ、もう一杯注文するため彼女たちの楽しそうな姿を背に席を立った。周りを見渡すと現地の人も増え、お酒がすすんでいるせいか声のトーンも大きくなり、皆かなり楽しそうにしている。壁に付けられた大画面のスクリーンにはいつの間にかサッカーの試合が流れており、店内には歓声も上がっていた。僕は本場のパブの雰囲気を肌で感じながら立ち飲みしている人を避け注文に向かった。ちなみに2杯目はハイネケンを注文した。世界的にも有名なドイツビールの一つで、シンプルなビールの味ではあるものの、ギネスの苦さが残る口の中を見事に中和するあの感覚は一種の快感でもあった。僕は泡が滴り落ちているジョッキに目を配りながら急ぎ足で席に戻ると、頼んでいたフィッシュ&チップスが準備されているのを確認し、ゴクリと喉をうならした。
「リョースケさん来るの遅いから、ポテトちょっと貰っちゃいました!」
アヤがポテトをつまみながら‘してやったり’といった表情でこちらを見ている。
「アヤちゃん、こちらのポテト8ポンドになります」僕が冗談まじりで言う。
「えー、ポテトだけなのに高くないですかー?」
ローレンは日本語がわからないが楽しさが伝わったのか、くすくすと笑い続けている。僕は熱々のフィッシュ&チップスを口に運びながらハイネケンと一緒に胃の中へ流す。目を閉じ最高の感覚に浸っているとアヤとローレンは話の途中だったのか、再び話題を戻し、2人で盛り上がっていた。どうやらロンドンの観光名所について話しているらしい。僕も週末にはロンドンに行く予定があったのでその話には興味があった。僕は口の中でいっぱいになったポテトとビールを素早く飲み込み話に割り込んだ。そこからは僕も加わり、しばらく3人でロンドンの話で盛り上がった。

夜も更けますます店内が賑わってきたころ、僕がいたテーブルにはアヤの友達2人も加わり5人になっていた。僕も含めお酒がすすんだせいか会話が途切れることはなく、常に誰かが笑っているようなそんな楽しい場になっていた。するとアヤと友達2人はトイレに行くということで席を外し奥へと歩いていった。
「今日はとても楽しいわ」
ローレンがお酒で若干赤くなった顔に笑みを浮かべてそう言った。僕は‘それは良かった’という表情を彼女に返し、残り少なくなったハイネケンのジョッキを口に含みながら店内を眺めた。サッカーの試合。熱狂的なイギリス人。ビールにハンバーガー。ケースケやジュン達。現地の学生。ブロンドヘアーにレザージャケットの女性。
(あれ、あの女性は・・・?)
僕は目線を戻し彼女を二度見した。僕は酔いが一瞬で冷めたかのように冷静になった。アヤたちがいたせいか奥の席が見えなかったので、彼女の姿にまったく気がつかなかったが、僕は彼女の姿に身に覚えがあった。そう、彼女は紛れもなくカレッジ見学の時に図書館から出てきたイギリス人女性だった。
(まさか再び会えるとは・・・)
僕は自分の心臓の鼓動が早くなっていくのを感じた。酔っているせいだろうか、それはわからない。彼女は他の日本人学生と共に食事をとりながら楽しそうに話をしている。その姿を見るに彼女もローレンと同じ僕たちをサポートする現地の学生だろうか。僕は惹きつけられるように彼女を見つめた。もちろん彼女が僕の目線に気づくことはなく、テーブルを囲う女子生徒と共に楽しそうな笑みを浮かべている。
「どうしたの?」ローレンが不思議な表情で訊いてきた。
僕は火照った顔をお酒でごまかしながら冷静さを保とうとした。
「あそこにいる金髪の女性って誰か知ってる?」
「ああ、彼女?ジョシーよ。私の友達でもあるわ。確か英語の先生としてこのプログラムに参加しているはずよ」
(ジョシー?今日の午後に配られた紙にはそんな名前はなかったはずだけど・・・)
僕はローレンの言葉に反応することなく、再び彼女に目線を写した。ジョシーと言われる彼女は、一目見れば引き込まれるような綺麗なブロンドヘアーをポニーテールに結び、しゃべる女子生徒一人一人に取り繕うことなく笑顔を向けていた。なんとも気さくな、それでいて女性らしい可愛さを持つ人。これが彼女に対して持った印象だった。僕はビールジョッキを無意識に口元へ運んだ。しかしそれが空になっていることに気がつき、僕は我に返った。どれほどの時間が経ったかはわからないが、僕は彼女の姿に釘付けになり、無意識のうちにビールを飲み干していた。僕はすっとローレンに目線を移した。彼女は自分のスマートフォンでメッセージを打っているのか画面を凝視している。おそらくこちらには気づいていないだろう。僕はほっと安堵の表情を作ろうとしたが、その瞬間酔いの入った聞き覚えのある声が僕の背中をツンと刺激した。
「いやー、イギリスって最高ですね!」
振り返るとアヤが友達とステップをしながらこちらに帰ってきた。店の照明のせいか彼女の顔は赤く火照って見えたが、それがライトのせいではなくお酒のせいだと気づくのに時間はかからなかった。イギリスに来てまだ2日目。これといってあまりイギリスっぽいことを体験していないはずだが、彼女の火照った顔はなぜか幸せそうだった。アヤは空になっている僕のビールジョキに気づくや否や食い気味に訊いてきた。
「リョースケさん、もっと飲まないんですか?」
「アヤちゃんが奢ってくれるなら何杯でも飲むけど?」
「えー、リョースケさんが奢ってくださいよー、ねー?」
アヤは友達に賛同を求めるように語りかけた。友達は若干の苦笑いをかえし、僕に‘助けて’という目線を向けた。友達は酔っているアヤの処理に苦戦しているらしく、僕は週末の予定の話題をアヤに振り、彼女の注意を僕に向けさせた。そこからは再びローレンも含め5人で多くのことを語り合った。一番の話題はローレンには彼氏がいるということ。会話中、時折スマートフォンを見てメッセージを打っていた相手は彼氏だったらしい。相手もケンブリッジ大学の生徒らしく、馴れ初めはフォークダンスの活動だったと言っていた。僕たちは誘導尋問のようにローレンを追い詰め、不思議なオーラに包まれていた彼女の身包みを剥がしていった。ローレンはこれといって嫌な顔をすることもなく、それどころか彼氏の話題に対して幸せそうな表情を浮かべていた。帰るころになるとローレンの笑顔は絶えることがなく、出会った時とは別人のようになっていた。

「明日からとうとう始まりますね」
フラットに着くとアヤが落ち着いた様子でそう言った。フラットというのは一戸建てに個別の部屋、共同のキッチンやトイレ、シャワールームを完備した、日本でいうところのいわゆる‘寮’のような宿泊施設で、僕とアヤは隣同士のフラットだった。
「アヤちゃん、急に感慨深くなってどうした?」
「別にいいじゃないですかー。全部が楽しみなんですから」
「わからないことがあったら何でも聞いてくれたまえ」
「はいはい、ありがとうございます。リョースケ先輩」
アヤはニヤリとした顔でこちらを見つめている。今までは僕がアヤをいじる一方だったが、最近になって彼女もそれに慣れてきたのか返答が上手くなってきた。その自信が彼女の‘ニヤリ目’から窺うことができる。僕はアヤに別れを告げ、自分のフラットへと戻った。フラットの1階には部屋が2つと奥に共有キッチンがあった。共有キッチンは思いの外広く、6人ほどが座れるテーブルに大きな冷蔵庫、洗濯機と乾燥機があり、もちろん料理も十分できるキッチンがあった。夜も遅いせいかキッチンには人の気配はなく電気も消えていたが、誰かが洗濯をしているせいか洗濯機がガタガタと音を立てている。僕はキッチンの明かりをつけ冷蔵庫から午前中に買ったオレンジジュースをコップにつぎ一口で飲み干した。一呼吸した後、僕は自分の体が予想以上に疲れていることに気づき急に睡魔に襲われた。僕は自分の重たい体をなんとか動かし2階にある部屋へと戻った。今回僕に与えられた部屋は大きい方であった。午前中にジュンやケースケに部屋を見せたが、2人ともその大きさに驚いていたほどだ。おそらく10畳以上はあると思う。そこには勉強机が一つと服を収納するクローゼットが一つ、人一人眠れるベッドが隅に寄せられているだけで物静かな佇まいだった。自分のキャリーケースには荷物が乱雑に置かれており、時間を見つけ整理整頓する必要があったが、僕は見て見ぬ振りをしてすぐに部屋着に着替えると、ベッドに寝そべった。ベッドの居心地は正直そこまで良くはない。僕は真っ暗な天井を見上げ、そっと目を閉じた。僕は脳内で今日の出来事を一つ一つ思い出し、記憶をフラッシュバックさせた。自分がイギリスにいること。髭もじゃ教授とカレッジ見学をしたこと。初めてパブに行ったこと。ローレンと話したこと。ブロンドヘアーのジョシー(とローレンが言っていた女性)に会ったこと。
(・・・・・・・・)
その時記憶は突然フラッシュバックを止めた。僕はふいに彼女のことを考え、図書館で初めて彼女を見た時に感じたあの感覚を再び考えた。
(あの感覚はなんだったのだろう・・・)
僕は目を開けた。そこにはまた真っ暗な天井があった。自分をどこか別の次元に引きずり込むような暗さだった。正直考えても何もわからない。ただ一つだけわかることは、それはこれまで一度も感じたことのない感覚だということ。そして僕は無意識に思った。
(明日も彼女に会えるのかな・・・)
そう思った後のことは覚えていない。今は彼女のことを考える先にも疲労が勝っていた。僕は真っ暗な天井に引きずり込まれるように目を閉じると、静かに眠りに入った。

僕の彼女はイギリス人

僕の彼女はイギリス人

ー'Like'はその人の良い面に惹かれること。'Love'はその人の嫌いな面を受け入れることー 英語を学ぶためにイギリス留学を決めた大学生のリョースケ。 英語の教師を務め、日本の文化に興味を持つイギリス人女性、ジョセフィーヌ。 2人の偶然的な出会いが甘くて辛い恋を生む。 言語も文化も違う2人。 この出会いは運命か、それとも・・・ 実話を基にした、グローバル・ラブストーリー 『小説家になろう』『カクヨム』にも掲載しています。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序章
  2. 1
  3. 2