【完結】田園デジタル・アワ-(改)

天野橋立

【完結】田園デジタル・アワ-(改)
  1. 第一章 シーズン・イン・ザ・サン
  2. 第二章 ボーイ・ミーツ・ガール
  3. 第三章 現実逃避のテクノロジー
  4. 第四章 秋の祭典
  5. 第五章 栄光と失意のクリスマス
  6. 第六章 青春の早春
  7. 最終章 桜色の未来

第一章 シーズン・イン・ザ・サン

 まだ朝だというのに、夏の太陽はすでに容赦なく地上を照らしていた。勘弁してくれよ、とぼやきながら鈴木創一は、ひたすら自転車のペダルを漕ぐ。集合場所である緑町の駅までは、遥かに遠かった。
 青々とした田んぼの真ん中を断ち切るように、その狭い道はただひたすら真っ直ぐに彼方へと伸びていた。辛うじて舗装はされていたものの、車が走ってくることはほとんどない。まれに入ってくる農作業用の軽トラックでさえ、道幅ぎりぎり一杯なくらいなのだ。
 日陰などどこにも見当たらないそんな道を、創一の乗った青い自転車は風を切って疾走していた。しかし、ちっとも涼しくは感じられない。道端の雑草群が放つ草いきれの熱気で、ほとんど温風を浴びながら走っているようなものなのだ。視界がゆらゆらと揺れるのは、かげろうなのだろうか、もしくは脱水によって脳内に不具合が生じているのか。
 たすき掛けにしたショルダーバッグの中身は、いつもの登校時とは全く違っていた。海パンと水中メガネ、それに凍らせたポカリスエットが詰まった水筒。一応部活と言うことで「Hu-BASICプログラミング教本」だけは持って来ていたが、数ⅡBの参考書やら大学入試の赤本やらと言った無粋で不快なものは何一つ入っていない。
 もうちょっと頑張れば、と彼は思った。駅にさえ到着すれば、そこから国鉄に乗ってビーチへと一直線だ。冷たい水に思う存分飛び込めば、天国のような気分が味わえるだろう。ペダルを踏む気力も湧いてくると言うものだ。
 だが、いかんせん人間の体力には限界というものがある。体内の水分が極度に不足してしまっては、気力だけではどうにもならないようにできているのである。本当は、そう言う時こそポカリスエットなのだが、ガチガチに凍った状態のままでは飲むに飲めない。次第にペダルは重くなり、ひたすら眩しいはずの視界が、どんよりと暗くなってきた。意識がブラックアウトしかけている。さすがに、これはまずい。緊急に給水の必要がありそうだった。
 やむなく彼は、脇道へと進路を変えた。道の先には、田んぼの海に浮かぶ小島のようにも見える、こんもりとした森に囲まれた集落があった。ここは「旧村」と呼ばれる、かつてこの辺りの中心だった場所で、昭和の大合併で緑町市に吸収されるまでは村役場も置かれていた。大昔に廃線になってしまったが、集落の外れには駅の跡も残っている。今では創一が住む住宅地のほうが人口は多いのだが、工業団地の開発で造られた新興住宅地よりも、「旧村」のほうが地域における格式は高かった。
 周囲に巡らされた濠に架かる橋が旧村への入口だ。緩い上り坂になっているその短い石橋を、創一の自転車は一気に渡って、集落の中へと入って行った。道の両側には土塀が続き、巨大な瓦屋根を載せた古い屋敷が建ち並んでいる。どの家にも白壁の蔵があり、土塀の向こうでは立派な庭木が決まって数本、路地に向かって枝を伸ばしていた。バイパスや田んぼの真ん中に比べると、木陰が続くここは涼しい。切れかけの蛍光灯のようにブラックアウトしかけていた意識が、少しだけ回復してきたようだった。
 集落の真ん中には、ひときわ目立つ大木がそびえていた。これは、旧村の鎮守社に当たる八幡神社のご神木で、何でも樹齢八百年だとかいう話だ。創一の自転車は、そのありがたい木を目指すように、こちらもやはり立派なシイの木が立ち並ぶ参道を突っ走る。
 石造りの鳥居の下を走り抜けて、ご神木の足元に到着すると、創一はその場に投げ出すが如く無造作に自転車を停めた。そして神社を拝みもせずに、本殿の裏手へと入って行く。とにかく水、水だ。
 そこには立派な岩のてっぺんをくり抜いて作られた手水鉢が置かれていて、竹筒から流れ出した水が注がれていた。こちらもありがたい「御神水」という湧き水なのだが、創一はそんなことは意にも介せず、竹筒に口を近づけて水をごくごくと飲み、さらには頭から浴びるという狼藉に及んだ。神罰が下ってもおかしくない行いだが、しかし地元の中高生連中の間では、この「御神水」も便利な無料給水所程度にしか思われていない、というのが事実だった。
 オーバーヒート寸前だった体を冷却し終えた彼は、拝殿前の階段に腰かけて一息ついた。軒下のこの場所なら、日光の直撃はない。時折、参道のほうから涼しい風が吹いてきたりもする。聞こえて来るのはただ、セミの声だけだ。
 ところがその静けさをぶち壊すように、ガチャガチャとやかましい音を立てる自転車が一台、参道の彼方から走って来るのが見えた。やれやれと思いながら、創一は立ち上がる。その自転車の持ち主を、彼は良く知っていた。
「あ、創一さん!」
 木漏れ日を浴びたその小太りの少年は、大声を出すと大きく手を振った。仕方なく、創一も手を振り返す。
 創一の青い自転車のすぐ真横に並ぶようにボロボロの自転車を停めて、少年は嬉しそうな顔をしながら彼のほうに向かって歩いてきた。部活の一つ後輩、高校一年生の横山という男だった。
「創一さんも、やっぱりここの水ですか?」
「ああ、まあな」
「ええですよねえ、この神社は。水おいしいし、タダやし」
 と、やはり彼もまた、ここを無料給水所とか思っていないようである。
「とりあえず、僕もタダの水飲んできますわ。ちょっと待っといてください」
 横山はそう言うと、のたのたとご神水のほうへ歩いて行った。
 せっかく爽やかな空気に浸っていたのに、騒がしい横山のせいで一気に辺りが暑苦しくなったように感じられて、創一はげんなりした。今日はほとんど丸一日、この横山と一緒なのである。
 どうせ駅で一緒になるんだし、こりゃさっさと出発したほうがいいな、と彼が自転車にまたがると、背後から再び大声が鳴り響いた。
「あ、待ってください」
 そう言いながら、急ぎ足で近づいてくる横山は、髪の毛からカッターシャツから、全部ずぶ濡れだった。やはり創一と同じく、頭から水をかぶったらしい。
「おう、先行ってるわ」
 横山の言葉を無視して、創一は自転車をこぎ始めた。たちまちのうちに、横山の姿は背後に遠ざかる。はずだったが、素早くボロ自転車にまたがった横山は思いもよらない速力で走り出し、まだ参道から出もしないうちにもう彼に追いついてきた。妙に嬉し気な顔をしてすぐ後ろを走る横山に、仕方なく創一も一緒に駅へと向かうことにした。
「それにしても、楽しみですねえ、みんなで泳ぎに行けるなんて。パソコン部に入って、ほんまに良かったですわ」
 ずぶ濡れの髪を振り乱し、短い足で必死にペダルを漕ぎながら、横山が言った。
 緑町南高校・パソコン部。彼ら二人はその部員なのだった。普段は部室にこもってパソコンを相手に暮らす彼らだったが、今回はわけあって、珍しくもこうして太陽の下に出てきたのだった。
「夏くらい、外に行かんとねえ。ずっと部室でディスプレイ見ながらプログラム作ってるのって、あれネクラですわ、不気味ですわ」
「いや、パソコン部ってそういうもんだから。そこ否定しちゃ駄目だろう。ま、夏休みくらい泳ぎに行こうってのは悪くない、そこは俺も賛成だけどな」
 と、もっともらしい顔をして創一がうなずく。彼にしたって、内心では同じくらいに喜んでいるのである。
「しかも部費で行く、という先輩のみなさんの英断には、感服しましたわ。何て言うても、電車代も何もタダですからねえ、タダ」
 横山はまたしても「タダ」を連呼する。
 旧村を出て元の農道に戻ると、目の前には再び夏の田んぼが広がった。しかし、真っ直ぐに伸びる道のさらに彼方には、紅白に塗り分けられた鉄塔と、その足元に集まった小振りなビル群がかすかに見える。あれが、この緑町市の中心部たる市街地だった。元々は城下町なのだが、城跡には石垣しか残っておらず、本来町のシンボルだった天守閣が現存しないため、今では代わりに電話局の鉄塔がランドマークになっているのだった。彼らが向かう駅も、やはりその城跡近くにあった。
 せっかくチャージした水分が再び空になろうかとする頃に、二人はその市街地にたどり着いた。埃っぽい風が吹き抜ける、寂れ気味な商店街を走り抜けると、突き当たりに緑町の駅が見えてくる。そのモダンな赤い三角屋根の駅舎の前に、創一たちよりも早く到着したらしい大小二人の男子部員が、並んで佇んでいるのが見えた。
「おう、来たか」
 二人のうち、長身のほうがそう言って右手を上げた。
「それにしても、遅かったなお前ら。もうすぐ電車来るぞ」
「そうなんですよ、部長。こいつがちょっとへばって御神水で給水してたもんで、すっかり遅くなって」
 と創一は横山のせいにする。
「いや部長、ちゃいますよ、創一さんのほうが先に御神水に」
 横山は慌てて反論しようとした。
「まあ、そんなのどっちでもいいから、早く自転車置いてこい」
 うんざりしたような顔をして、長身の青年は駐輪所のほうを指さした。彼は三年生の智野祐、気ままな部員たちの統率に日々苦労している、パソコン部の部長だった。
 創一たちが自転車を置いて戻ってくると、部長の隣に佇んでいた小柄な部員が「さあ、みんなそろったし、行きましょう」と待ちきれないらしい様子で改札口に向かって通路を歩き出した。残る三人も、彼に続いて歩き始める。
「そんなに急がな、あかんの? 次の列車でも、ええんと、ちゃうの?」
 すごい速足で前を行く彼を、息を切らせて追いかけながら横山が訊ねた。
「いや、この列車逃したら、次は鈍行しかないから。向こうに着くのが二十分も遅くなっちまう」
 生真面目な顔で答えた彼は、氷川という一年生部員で、横山とは中学からの同級生なのだった。しかし、ふくれたフグのような顔の横山とは全く対照的に、端正な顔をしたなかなかの男前だ。
「二十分くらい、ええやんか」
「貴重なお金と時間を使ってわざわざ泳ぎに出掛けるんだから。一刻も早く着かないともったいないよ」
 と氷川は、歩くペースを落とそうとしない。
 四人が急ぎ足でホームに上がると、ちょうど「区間快速」の表示があるウグイス色の電車がやってきた。ドアが開いて彼らが乗り込もうとしたちょうどその時、背後から大きな声がした。
「待ちたまえ、君たち、待ちたまえよ」
 そう叫びながら階段を上って来るのは、長袖カッターシャツに黒い制服ズボンを履いた、長髪の男だった。
「あ、忘れてた」
 氷川が小声でつぶやく。
 長髪を振り乱しながら車内に駆け込んできたその男は、ぜいぜい言いながら床の上に座り込んだ。
「副部長、来るって言ってましたっけ?」
 半死半生のその男に、創一がたずねる。
「言ってた……言ってた」
 男は、息も絶え絶えになりながら、必死で言った。彼は三年生の城崎直哉、何だか扱いは悪いが、これでも一応はパソコン部の副部長である。
 車内は案外混みあっていて、ロングシートにはほとんど空きがなかった。しかし、夏服の女子中学生と白いブラウス姿の女子高生の間に少し隙間があるのを見つけた城崎は、迷いもせずにそこに座り込み、汗まみれの髪を掻き上げた。途端に女子高生が立ち上がり、車両の向こう側へと足早に歩み去った。しかし、城崎は意に介さない。空席となった彼の隣には、智野部長が座る。
 残る男子高校生三人は所在なげにドアの前にたむろして、車窓の風景をぼんやりと眺めた。駅を出ると市街地はあっという間に途切れて、やはり一面の田んぼと、所々に建つ民家や工場が流れ去って行く。こんな所に駅などないから、都会からのお下がりである旧型の通勤電車は、うなりを上げて線路の上を突っ走った。濃い青空の真ん中で、太陽が白く輝いていたが、この車内はクーラーが効きすぎなくらいに効いていて、その熱線も彼らにまでは届かない。
「しかし、良くこうして泳ぎに行けることになりましたよねえ、部活扱いで」
 外の明るさに目を細めながら、氷川が言った。
「いや、そりゃお前のファインプレーのおかげだよ。智野部長がこの話を切り出した時の桜沢先生の顔、すごかったもんな。『君たち、パソコン部でしょ、部活動と海水浴、どう関係あるの!』って」
 創一が、部の顧問である女性教師の口調を裏声気味に真似て見せる。
「まあ、それは美代子先生が正しい思いますけどね。何にも関係あらへんですもん、実際」
 冷めた口調で、横山がそう言い放つ。
「あの時氷川が、『コンピューター・グラフィックス・コンテストに出す作品のスケッチに行くんです』って言ってくれなかったら、こんな話は絶対無理だったからな」
 創一がうなずく。
「あの時の氷川君、ほんまにすごかったわ。顔色一つ変えんとあんなホラ話を繰り出すんやから」
 心底感心した、という顔をして、横山が言った。
「詐欺師になったら、大物になるんとちゃうかな」
「人聞きの悪いこと言わないでよ」
 氷川は苦笑する。
「しかし折角泳ぎに行くのに、メンバーが男ばっかり、てのがなあ」
 創一が、深いため息をついた。
「せめて、直子の奴が来てくれてりゃ良かったんだ。あんなのでも、女には違いないからな」
 創一が言う「直子」というのは、彼らの部活における、たった一人の女子部員だった。他のクラブとの兼部ではあったが、創一と同じ二年生の彼女が在籍しているおかげで、男しかいない部活、という状態を何とか回避できていた。言わば、最終兵器なのである。
「何でうちは女子部員、こんなに少ないんでしょうか」
 氷川が真顔で訊ねる。
「何でって、そりゃお前……」
 創一が思い浮かべたのは、正体不明の様々な電子機器が所狭しと並ぶあの薄暗い部室、つまりは彼らの城だった。木造校舎の古びた造りに似合わないそのハイテク空間は彼らの誇りではあったが、じゃあそこにかわいい女の子が集まってくるところを想像できるかといえば、それは無理だ。たった一人弱だけでも女子部員がいるというだけで、かなりな幸運と言うべきだろう。
「なんか、今日は『人に会う約束がある』って言うてはりましたからね、直子さん」
 横山が言った。
「どうせ、男だろうな」
 創一は肩をすくめる。
「俺ならあんな気の強い女と付き合うなんて、願い下げだけどな」
「そやけど、案外かわいいところもありますよ、直子さん。編み物したり、クッキー焼いたりとかもしてはりますし」
 と横山は、姉貴分をかばってみせる。いかなる心境からか、彼女の使い走りのような役目を日ごろから喜々としてこなしている彼は、言わば直子の子分のようなものなのだった。
「顔は小さいし、スタイルもいいし」
 と氷川が続ける。
「確かにあのルックスなら彼氏がいても不思議じゃないよね、直子さん」
「そのクッキーとやら、一度も食わしてもらったことないからなあ、俺らは」
 創一が情けない声を出す。
「直子が駄目なら、この際せめて美代子ちゃんでもいいから来て欲しかったよ」
「美代子先生が、どないかしましたか?」
 横山が不思議そうな顔をする。桜沢美代子先生は国語の教師で、パソコン部の顧問をつとめていた。
「いやさ、こんな男だらけの水泳大会になるくらいだったら、いっそ美代子ちゃんが来てくれた方がましだったと思わないか? これでも建前は部活動なんだから、顧問として一緒に来たっておかしくはないだろう」
「あの歳で、海水浴はきついんちゃいますか」
「桜沢先生、確か三十になったばかりだぞ」
「三十路で海水浴はあり得へんでしょう」
 全世界の三十代を敵に回しつつ、横山がそう言い放つ。
「だけど、あの変な眼鏡外したら、結構かわいい顔してるよ、美代子先生」
 隣の氷川が口を挟む。
「確かにあの三角眼鏡はあかんよねえ。昔の映画に出てくるオールド・ミスみたいやもん。ちゃんとNECのご主人いはるのに」
「まあいい。ともかく例え三十路でもだな、水着姿になってさえくれれば、それなりに見栄えがすると思うんだ」
 力説しながら、創一はビーチの風景を思い浮かべる。砂浜から男子高校生どもを消去して、ビキニを着た女性教師の姿を加えると――これなら、まずまず絵になるのじゃないか。
「僕らが泳ぎに行くっていうだけでもあんなに反対してはったのに、わざわざついてきて自分から半裸になってくれはるなんて、あり得へんですよ」
 横山はあくまで冷静である。
 県庁のある町で支線に乗り換え、冷房のないディーゼルカーで外からの熱風を浴びながらしばらく走るうちに、ようやく窓の向こうに砂浜が見えてきた。それなりの数の人たちが泳いでいるようだったが、近くの駅でがら空きの列車から降りたのは彼ら五人だけだった。みんな車で来るのが当たり前で、わざわざこんなローカル線に乗って泳ぎに来る人などほとんどいないのだろう。
 古びた木造瓦屋根の駅舎を一歩出ると、さっそく例の日差しがパソコン部員たちを襲ったが、もう後少しで泳げるのだと思うと、もはやそれも苦にはならない。むしろ、暑さでテンションが上がってくるようで、彼らは大はしゃぎしながら、背の高いトウモロコシ畑に挟まれた道をビーチへと急いだ。

 そもそも、彼らがこうして泳ぎに行こうなどと言い出すきっかけになったのは、女子部員の発した「ネクラ」の一言だった。
 午後からの激しい雷雨が上がり、爽やかな夏空が広がっていたその日の夕方。木製の重い扉をガラガラと開いて、セーラー服姿の女の子が部室に入ってきた。
「うわ。また今日も一段とネクラだねえ、パソコン部諸君」
 とその女子高生は、部員たちをいきなりからかってみせる。彼女こそ、紅一点部員の二年生、鈴木直子だった。ショートカットが男の子みたいではあるものの、なかなかにかわいらしい顔立ちをしている。よく動く大きな瞳がチャームポイントだとは、彼女自身が常々主張しているところだったが、それは必ずしも間違いではなかった。
 直子が「ネクラ」呼ばわりしたのも道理で、折角外では涼しい風が吹き渡っているというのに、部員たちは室内にこもってひたすらパソコンを操作している。パソコン部の部室は通称「旧校舎」と呼ばれる木造校舎の三階にあり、昭和初期の建物だから文化財的な価値はあるものの、部屋はどうにも薄暗い。しかもご丁寧に、窓のカーテンまでが閉め切ってあった。これを根暗と言わずして、何と言えばいいのか。
 窓に近づくと、彼女はカーテンを一気に開いた。途端に光が射し込み、心地いい風が部屋に入って来る。部員たちは「うわ」「なんだよ」とうろたえる。
「見なよ、外。こんなに天気いいのに」
 とセーラー服の胸を張って、勝ち誇ったように言う彼女に、
「おい、画面が見えないじゃないか」
 と文句をつけたのは、創一だった。彼が操作していたパソコンのディスプレイ画面に日光が直撃していて、表示されている文字がろくに読めない状態になっていたのだった。
「見えなくていいじゃない、ちょっとぐらい。たまには陽を浴びないと」
「お前な、俺らはパソコン部なんだから、画面見てキーボード叩いてそれでなんぼなんだよ。日光浴なんか、必要ないだろう」
「だって夏だよ。もっと外出なきゃ。みんな海とか、行ったこと無いんじゃないの? わたし、先週行ってきたよ。ほら、小麦色さ」
 そう言いながら丸椅子に腰かけ、紺色のスカートの裾を押さえながら、直子は創一に向かって挑発的に足を突き出した。
「ずいぶん、色黒になったもんだな、はは」
 きれいに灼けた素足に釘付けになりそうな視線を創一は必死でそらし、床の木目を数える。
「『ネクラ少年』とか言われちゃって、みんなそれでいいわけ?」
 彼女はそう言って、傍らの床の上に埃まみれで放り出された雑誌を指差した。「パソコンNOW」というその雑誌の表紙には、大きな文字でこうあった。「有名女子大生に聞く・パソコン少年ってネクラ?」
「緊急座談会」と銘打たれたその特集の内容は、すさまじいものだった。自称有名女子大生五人が、「パソコン少年」の印象について語っているのだが、「マザコンでロリコン。アニメの女の子にしか興味がない。現実の女性とまともに会話ができない」「毎日同じ服で、風呂にも入らない」「汚い」「臭い」「ネクラ」と、憲法に保証された基本的人権とやらは一体どこに行ったのだろうと思わずにはいられない、罵倒の嵐だったのである。
 記事を読んだ彼らは激怒し、雑誌を足元に叩きつけた。足形までいくつもついているのは、さらにみんなで踏みつけたからだ。なぜメイン読者層をそこまで怒らせるような記事が載ることになったのかは定かでないが、これをきっかけに「パソコンNOW」誌は発行部数を激減させ、廃刊に追い込まれることになる。
「そんなんは悪質なデマですわ。出まかせや」
「そうだ、風呂には結構入るぞ。臭くなんかない」
「それはどうか分からんけどな」
「女の子と話せないだとか、笑っちゃいますよね。そんな奴いないですよ」
 直子の言葉に、部員たちから一斉に声が上がった。
「まあ、直子の言うことも分からなくはない」
 と智野部長がうなずく。
「確かに最近、あんまり屋外での部活動ができてないからな。前は結構やってたよな。去年は海も行ったし、キャンプとか、冬はスキーなんかもな。奥穂高を縦走したのは、あれはまだ俺が一年生の時だから、みんなは知らんよな」
「ほんとですか?」
 直子が目を丸くした。彼女が入部したのは、今年の春になってからなのである。
「そうだったよな?」
 と部長はいきなり創一にパスを投げつける。
「お、おう。ビーチで短大生をナンパとかな、結局うまく行かなくて振られちゃったのが残念だったけどな」
 内心慌てながらも部長に話を合わせ、創一は直子に向かって虚勢を張って見せる。
「へー、意外ねー」
 どうやら彼女は全く信じていない様子である。そりゃそうだろう。このやり取りに、事実などほんの一かけらたりとも含まれていないのである。
「うん、そろそろ野外活動の時期だな。じゃあ海に行くか。よし、来週みんなで行くぞ」
 智野が宣言した。ここまで話を作ってしまった以上、もはや後には引けない。かくなる上は、事実を作り出してしまうしかなかった。
 そういうわけで、部員たちは唐突に泳ぎに行くことになってしまったのだった。あくまで部活動なんだから直子も一緒に、と一部の部員たちは期待した。しかし、「来週は無理。それに海行ったばっかだし。みんなで行っといで」という彼女の言葉が、膨らみかけた彼らの妄想を一瞬にして打ち壊してしまう。結果として、男だらけの水泳大会という暑苦しい状況が発生したわけである。

 冷たい水の中で思い切り泳いだ後、高くて少ない癖に妙にうまく感じる焼きそばで遅めの昼食を終えた創一と智野部長は、ビーチ・パラソルのそばに寝転がって体を灼いた。一年生の二人は、のんびりしている時間が惜しいらしく、波打ち際で水の掛け合いっこなどをしてはしゃいでいる。
「これでこそ、夏休みですよねえ」
 創一はそう言って、ため息をついた。ビーチ・パラソルのそばに寝そべった彼の海パンは、陽射しを反射してまぶしいくらいの蛍光オレンジ色に輝いている。
「全くだ。せっかくの夏に、みんなで部室にこもってるなんて、ありゃどうかしてたんだ」
 灼けた砂の上にあぐらをかいた智野が、目を細めながらうなずいた。
「そうだ、水筒のポカリ、そろそろとけてるんじゃないか? ちょっと見てくれよ」
 そう言われた創一は、へいへいと言いながら起き上がって、レジャー・マットの上に転がったプラスチック製水筒の蓋を開いた。
「お、ばっちりとけて来てますよ」
「そうか。ちょっと入れてくれるか?」
 智野が紙コップを差し出す。
 二人は砂の上に並んで座り、エメラルド・グリーンの水面がきらめくのを眺めながら、歯に沁みそうなくらいに冷え切ったスポーツ・ドリンクを飲んだ。パラソルに吊り下げられたポータブル・ラジオからは微かなノイズ混じりの音楽が流れ、そのリズムに合わせるように、岸辺には小刻みに波が打ち寄せていた。南国の香りがする、そのけだるい曲調は夏の午後にぴったりだった。
「これって、何て曲でしたっけ」
「『イパネマの娘』だろ、確か。ボサ・ノバの名曲だよ」
「イパネマ、かあ」
 創一は、コバルト色の空を見上げた。その高みを目指して、まっ白な入道雲が盛り上がって行く。
「こんな感じなんですかね、イパネマも」
「いや……違うと思うな、残念ながら」
 そう言いながら智野部長は、水面のさらに彼方へと目を凝らした。水平線があるはずの辺りに、なぜか市街地らしいものが薄らと見える。実はここは、海ではなかった。巨大な湖の岸辺なのである。
「海に行きたかったんだよなあ、本当は。湖じゃ潮風もないし、淡水だから身体も浮かないし。エメラルド・グリーンに見えてるのも、ありゃ藻の色だしな。なんか違うんだよ」
 智野は、残念そうに言った。
「ま、贅沢言ったらきりがないですよ。海なんか行ったら、国鉄の運賃が高くて部費じゃ足りなかったですしね。ここなら、鈍行でも来られるわけですから。分相応、ってところですよ」
 妙に分別くさい顔で、創一はうなずく。
「ただ、CGコンテスト応募って、あれはほんとにやらなきゃまずいんじゃないですか、桜沢先生だますことになるし」
「喜んでたもんなあ、『そういうことなら、頑張りましょうね』とか言って。美代子ちゃんにしてみたら、ずっとパソコンとにらめっこの俺らが何やってるのか、全然分かってないわけだし。コンテスト応募とか、分かりやすい活動内容なら大歓迎なんだろう」
「そもそも、国語教師で文系ど真ん中の美代子ちゃんを、パソコン部の顧問にってのが無茶なんですよ。旦那さんがNECの社員で、コンピュータ技術者だからって理由で顧問に決まったらしいって、あれ本当なんですかね」
「分からん。分からんが、もし本当なら何考えてるんだろうな、うちの高校」
 智野は、首をひねった。
 緑町南高校にパソコン部が創部されたのは、つい数年前、一九八三年のことだった。高度情報化社会に対応する教育を推進する、という国の方針でパソコン購入の予算がついたため、とにかく機材を買ったはいいが、どう使えばいいものなのか学校側にノウハウが何もない。そこで、とにかくパソコン部を作ろうということで部室を用意して、適当に顧問をあてがってしまったのだった。
 生徒の中から詳しい奴が集まってくれば、それで何とかなるだろうという目論見だったようだが、結果的にはそれがうまく行った。部の活動は完全に重症のマニアである生徒側主体で行われ、顧問は彼らが暴走しないように見守るだけの役割となった。それならばパソコンの知識は必要ないから、素人でもなんとかなるわけだ。
「美代子ちゃんから見れば、俺ら不気味なんだろうなあ。生徒を愛さないと、って必死で我慢してるんじゃないか、真面目だから」
「まあ、気味悪さって点で言えば、ボスキャラ級の人もいますからね。俺らなんか目じゃないって言うか……」
 創一は小声でそう言って、パラソルの下を振り返った。レジャー・マットの上にうずくまった男が、なにやら手に持った機械を一心不乱に操作している。
「確かに、これは危険な姿だ。確実に放送禁止だろうな」
 部長もうなずく。
「城崎さん、小説は進んでますか」
 日陰の人物に、創一は声をかけた。
「まあ、進んでると言えるだろうね」
 この暑さの中でも長袖シャツに制服ズボンのままの城崎副部長が、重々しくうなずいた。彼の手の中には、ポケット・コンピュータ=「ポケコン」と呼ばれる機械があった。文庫本よりちょっと大きいくらいの、携帯用コンピュータである。
 コンピューターという名前は付いているものの、その実態はむやみにボタンの多い電卓とでも言った感じの代物だった。ずらりと並んだアルファベットのキーも、その一つ一つが小型電卓のボタン程度の大きさで、そうでもなければ文庫本サイズには収まらないだろう。液晶画面は――もしそれを画面と呼ぶならだが――アルファベットとカタカナがたった二行分表示できるだけの、モノクロ液晶だった。つまり、漢字を表示することはできない。所詮は、電卓のお化けなのだった。
 本来は、科学技術用の計算とか売り上げの集計などに使うための機械だった。そういう出自からして、やはり電卓から進化したツールなのである。しかし、それをどのように使うかは、もちろん持ち主の自由だ。そして、城崎副部長はその自由を目一杯に行使して、全くオリジナルな使い方を編み出していた。ポケコン最大手のシャープ製品であるその機械を使って、彼は小説を書いていたのだ。
「外にコンピュータ持ち出して小説書くなんて、まるでSFの未来人ですよねえ。いや、すごい」
 と創一はいい加減な調子で副部長を持ち上げてみせる。
「一度、銀杏町のマクドナルドで一時間くらい書いてたことがあるよ。周りの客、みんなこっち見てたな」
 城崎は無邪気に得意げだ。
「でしょうね」
「見るだろうな、そりゃ」
 そんな不気味な奴が店内にいればな、という続きの言葉は口にせず、智野部長は長身を窮屈に折り曲げるようにして、パラソルの下にいる城崎の手元をのぞきこんだ。
「どんなの、書いてるんだ?」
 副部長は自信満々の顔で、智野部長にポケコンを手渡した。白黒液晶に表示された、たった二行分の文章を凝視して、智野は顔をしかめる。カタカナしか使えないということは、つまりはこういうことなのである。
[ボクハ、オモワズカタヲスクメテイッタ。「マッタク、ナンテコトダ」ヤレヤレ。カレノイウトオリ、ボクハタイヘンナトオマワリヲシタラシカッタ]
 電報かよ、と突っ込みそうになりながら、「なんていうタイトルなんだ? これ」と智野は訊ねる。
「『歌の風よ、吹け』っていうんだ。かっこいいだろ」
 城崎は得意げに、べとべとの髪を掻き上げた。
「ウ・タ・ノ・カ・ゼ・ヨ、フ・ケ」
 古いSF映画のロボットがしゃべるような抑揚で、創一がつぶやく。
「どっかで聞いたことないか? そのタイトル」
 智野は怪訝そうな顔になった。
 かつて、コンピュータと言えば、大企業や大学の「電算室」を一部屋丸々占拠して設置される巨大な装置のことだった。それが、ジャック・キルビーやロバート・ノイスらによる集積回路(IC)の発明で、手のひらに載るマイクロコンピュータへと急激に縮小され、今やこうして高校生が気軽に使うことができる。それはまさにテクノロジーの進歩がもたらした、輝かしい新時代だった。
 しかしいかに新時代とは言え、夏のビーチで電卓のボタンのようなキーボードをプチプチ押しながら、カタカナ小説を書きつづる副部長の姿は常軌を逸していた。コンピューターの可能性を模索しているのだとか言えば格好はいいのだが、客観的にはただの変態だ。キルビーたちも、こんな使われ方を想定して集積回路を作ったわけではなかろう。
「小説もいいが、せっかくこんなとこまで来たんだ、ポケコンばっかりいじってないで、ちょっとは泳ぐとかしてきたらどうだ?」
 智野部長が、まっとうな意見を述べる。
「そうそう、せっかくのビーチですからねえ。文学活動ばかりじゃもったいないですよ。夏をエンジョイしないと」
「君たちは、わかってない。閉塞的になりがちな小説世界を一気に広げるための、これは重要な試みなのだよ。意味はちゃんとあるのだ、文学的に。見たまえ、この風景を」
 城崎副部長は、彼方の湖を指さす。
「なるほど」
「いい風景だ」
 創一と智野は、感心してうなずいた。城崎が指さした沖の一点、そこにはビーチボールを取り合って遊んでいる、三人の女の子たちの姿があった。
「いや、そうじゃ……そういうことじゃないんだが」
 そう言いながらも、副部長は食い入るように彼女たちを見つめる。赤・青・黄色、それぞれ三原色のビキニ姿だ。
「これなら確かに、いい小説が書けそうだな」
 智野部長が、城崎の背中を叩く。副部長は咳払いして、女の子たちから視線をそらすと、ごちゃごちゃと屁理屈を並べ始めた。
「……まあ、若い女性は、その存在自体が一種の芸術だからね。当然、文学にもプラスになるわけだ。かつて、モーパッサンは言った。もしも、」
「確か、横山の奴が双眼鏡持って来てたはずですよ。あいつのリュックに入ってるんじゃないかと思いますが」
 創一がそう言うと、途端に鋭い目つきに変わった副部長が、レジャー・マットの隅に積み上げられたみんなの荷物へと視線を走らせた。
「その横山たちが戻って来るぞ」
 智野部長が、波打ち際のほうを指さす。一年生二人が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
 横山は「横山」という名前入りの紺色の海パンをはいていて、大変分かりやすい。どうやら、中学時代の品物らしい。背が低く小太りで丸っこい体の彼とは対照的に、氷川のほうは引き締まった筋肉質の身体をしていた。競泳用パンツがよく似合っている。二人が並ぶと、さながら使用前・使用後だった。
「やっぱり海はいいよねえ、海じゃないけど」
 と満足げに伸びをしながら歩く氷川に、
「泳いでたら涼しいし、エアコン代いらんのがええよね」
 と横山がうなずく。
 そんな二人に、創一が「おーい」と声を掛けた。
「副部長が、双眼鏡貸してくれってさ。ちょっと出してくれよ」
「かまへんですけど、何に使わはるんですか? 女の子の水着見る、とかとちゃうでしょうね」
「おお、すごいな。何で分かったんだ」
「違う! 水着じゃない!」
 慌てたように、城崎副部長が叫んだ。
「小説世界を広げるために、風景を見る必要があるだけだ。ビキニの色や形になど、僕は何の興味もない!」
 周囲の海水浴客が、みんな思わず彼のほうを見て、それから瞬時に視線をそらした。
「まあ、何でもええですよ」
 横山はそう言うと、レジャー・マットの片隅に転がった自分のリュックへと近づき、その中から双眼鏡を取り出した。野鳥観察にでも使うような本格的なもので、大きな対物レンズがギラリと輝く。
「これ、使って下さい。それでええ小説書いて、電電公社文学賞でも取って下さい」
「電電公社?」
 城崎副部長が怪訝そうな顔になる。
「ほら、あの電報みたいな小説書かはるんでしょう? チチキトクスグカエレ、みたいな」
「いや、それはおかしいよ」
 氷川が口を挟んだ。
「電電公社は無くなったからね。今は日本電信電話会社、エヌ・ティー・ティーだよ」
「じゃあNTT文学賞やね」
 二人のやりとりに智野部長と創一は爆笑した。副部長は、絶句したままだ。
「そう言えば、賞と言えば」
 氷川が突然真面目な顔になる。
「CGコンテスト応募って、全くのデタラメじゃないんですよね? 風景スケッチくらいしとかないとまずいんじゃないですか?」
「ああ。一応は、何か応募するつもりだが」
 智野がうなずいた。
 彼らが泳ぎに来る言い訳に使った「日本コンピュータ・グラフィック・コンテスト」、通称「CGコンテスト」は、文化庁がパソコンメーカー各社の協賛で実施しているもので、今年で三回目の開催だった。
 応募するとすれば「学生の部」になるわけなのだが、元が思い付きの言い訳から始まった話だから、実際に誰がCGを作るのかなど、具体的なところは当然何も決まっていない。競争率は百倍を超えるはずで、実際に入選するのは難しいだろう。しかし、折角パソコン部として応募するのなら、それなりの作品を送り出したいところではある。
「じゃあ、俺が簡単にスケッチしておきますよ。これでも、中学は美術部でした」
「美術部? そりゃ初めて聞いたな」
 創一が、驚いた顔で氷川を見た。それが何で、パソコン部なんだ。
「なかなかうまいんですよ、氷川君の絵」
 中学からの同級生である横山が、説明する。
「中二の時、校内のコンクールで一等になったくらいですわ。何の絵書いたんやったっけ、あれ?」
「黒部ダムだけど、一等じゃないよ、俺は二等だ」
 足元の砂を蹴りながら、競泳パンツの氷川は照れたように笑う。
「パソコン部入ったのも、本当はコンピューター・グラフィックやりたかったからなんです」
 ということは、彼があの時CGコンテストへの応募を口にしたのは、あながち単なる思い付きではなかったのかも知れない。
「それに、うちの高校の美術部、体育会並みに上下関係きついって聞いたんで。俺、駄目なんですよ、縦社会って」
「確かに、うちは縦社会とは程遠い。お前らの、俺ら先輩に対する態度を見りゃ分かる」
 智野部長が笑いながら、パラソルの下にいる城崎副部長を振り返った。いつの間に立ち直ったのか、彼は口を半開きにしたまま夢中で双眼鏡を覗いている。
「どうですか、風景のほうは」
 創一が声を掛けた。
「ああ、悪くないね。世界は実にカラフルで、美しい形をしている」
 双眼鏡を下ろした副部長は真面目くさった顔をしてそう言った。しかし、カラフルだというのが一体何の色なのか、部員たち全員が理解していた。

 氷川がコンテスト用のスケッチをしている間、智野と横山は創一を砂に埋めて遊んだ。
「やめろショッカー! やめるんだ!」
 首まで埋められた創一は大声でそう叫びながら、いかにも嬉しげである。
 パラソルのポータブル・ラジオから流れるFMは邦楽特集に変わっていて、オメガトライブやKuwata Band、「シーズン・イン・ザ・サン」と続く選曲が、ビーチサイドの雰囲気にぴったりだった。
「こんな感じで、どうでしょうか」
 氷川が、そんな彼らに声を掛けた。智野部長と横山が早速パラソルのそばに戻ってきて、城崎副部長と一緒にスケッチブックをのぞき込む。そこにはなるほど、目の前のビーチ風景が、光と影のコントラストとして見事に転写されていた。パソコン部らしいのが、タイリングペイントという技術に用いる十六進数の色パターン指定までがちゃんと書き込んであるというところで、そこが普通のスケッチとはちょっと違っている。
「上手いな、おい」
 智野が感嘆の声を上げた。
「こりゃまじめに行けるぞ、コンテスト。さすが元美術部だ」
「風景を絵として切り取る才能があるというのは、悪くないね」
 城崎が、したり顔でうなずく。
「僕のように文章で何かを伝えようとするのは、あまりにも困難なことだからね。例えば、鵜について何か書けたとしても、鵜匠については何も書けないかも知れない、そういうものだ」
「何で、鵜なんだ」
「もしコンテスト上手く行ったら、桜沢先生喜ぶやろねえ。海水浴に使った部費なんて、ほんまはドブに投げ捨てたみたいなもんやのに、それが学校の成果になるんやから」
「そうなったら、秋の文化祭で展示しよう。ディスプレイ画面の周囲に額縁付けて、『コンテスト入賞作品』ってな。いつもゲームばっかりでワンパターンだからな、うちの展示」
 智野部長が、そう言って氷川にうなずきかける。
「入賞目指して、やってみます」
 氷川は力強く答えた。
 スケッチも完成したところで、彼らは湖から撤収することにした。パラソルとレジャー・マットを店に返し、温水シャワー代を節約するために屋外の蛇口から出て来る無料の冷水を浴びる。そして、植込みの陰で海水パンツからの着替えを終えた彼らがビーチハウスの前を通りがかった時、偶然にも例の三原色ビキニの女の子たちが中から出てきた。パソコン部員たちよりも一足先にビーチから引き上げていたらしい。
 今度はそれぞれパステルカラーのタンクトップにホットパンツという姿で、どうやら年齢は彼らよりも少しだけ上、女子大生くらいのようだ。これはもしかすると、同じ列車で帰ることになるんじゃないかと、一部の部員は色めき立った。
 その太ももに目を奪われたりしながら、彼女たちの後方を彼らがぞろぞろと歩いていると、後方から赤いブルーバードSSSが颯爽と走って来て道の前方に停まった。女子大生たちは嬌声を上げて、DOHCターボエンジン搭載のその新型スポーツセダンに駆け寄って行く。中から降りて来たのは雪だるまの如く顔もお腹も丸く、目は細くて口が大きく、オールバックの髪をテカテカに固めているという、見事なまでに冴えない若い男だった。どう見ても、パステカラーの女の子たちと釣り合うようには見えない。三人の女子大生に囲まれたその男は満面に笑みを湛え、口元はよだれを垂らさんばかりにだらしなく開かれていた。そりゃそうだろう。
「あんなトドみたいな奴が、何であんなもててるんや」
 と横山が自分の体型を棚に上げて、不満げにつぶやいた。
「あいつは足代わりに使われてるんだよ。あの娘たちの目当ては、あくまで車だ。そうでなきゃ、迎えにだけ来るんじゃなくて、一緒にビーチで過ごすだろ」
 氷川は冷静に状況を分析してみせる。
「あの車は、いくらぐらいするんだろう」
 と、城崎副部長は心底羨ましげだ。女子大生に囲まれる幸せを考えれば、足代わりに使われるくらいのことなど、何でもないのだろう。
「あれ? そう言えば」
 智野部長が振り返った。
「創一、どうしたっけ」
 その頃、埋められた砂の中で身動きの取れない創一は、
「こら、お前ら俺を忘れるんじゃない、戻れ、戻って俺を助けろ」
 と独りで叫び続けていた。

 面倒な思いでビーチへとのろのろと引き返し、騒ぐ創一を仕方なく砂から掘り出した彼らは、今度こそ駅に向かってトウモロコシ畑の中を歩き始めた。
 すでに時計の針は午後五時を回っていたが、しかし真夏の太陽はまだまだ沈まない。夏空の真ん中で十分な高度を保ち、地上の何もかもを灼き尽くそうとしていた。
 つい先ほどまでの、湖畔での爽やかなひと時が嘘のように、再び汗まみれになった彼らは、ともかく急ぎ足で駅を目指した。古びた木造の駅舎に冷房はないが、瓦屋根の下の日陰に入るだけでも、灼熱の世界から避難することができる。
 ようやく駅に到着し、ひと息つくのとほぼ同時に、クリーム色と朱色に塗り分けられたディーゼルカーが騒々しくやってきた。低いホームからステップをよじ登るようにして、パソコン部一行は急いで列車に乗り込む。
 こちらに来た時と同じく車内はがら空きで、彼ら以外にこの駅から乗ったお客もごくわずかだった。やはり、こんなローカル線でやってくる水泳客などほとんどいないのだ。もちろん冷房も無くて、天井からぶら下がった国鉄マーク入りの扇風機が、ライトグリーンの羽で熱気を必死に掻き回しながら、首を振っているだけだ。
 四人掛けのボックス席を贅沢にいくつも占有し、彼らはそれぞれのんびりと足を伸ばして座ることができた。ローカル線列車での優雅な旅、と言いたいところなのだが、ともかく車内があまりに暑くて、到底そんな気分にはなれない。窓は全開にしてあるが、外から入ってくる風もやはり熱風であることに変わりはなかった。
「これ、何分ぐらい乗らなきゃいけないんでしたっけ」
 垂直の背もたれに合わせるように、背筋をまっすぐに伸ばした氷川が、斜め向かいに座った創一に訊ねた。氷川とは対照的に、彼は窓枠にあごを乗せてぐったりと壁にもたれ、吹き込んで来る風に髪をなびかせている。
「来た時と一緒だろ? 三十分はかかる」
「そうですか……。さっきまで、あんなに涼しかったのが嘘みたいですね……」
 額に汗を浮かべた氷川は、冷たい水を湛える湖が広がる窓の向こうに目を遣った。
 通路を挟んだ反対側の席に座る智野部長は、長身を器用に折り曲げて、座面の上に横たわって眠っている。話し相手がいなくなってしまった向かい側の横山が、自分のリュックから手のひらサイズの機械を取り出した。城崎副部長と同じ、ポケコンという奴だ。
「あれ、横山君も小説書くの?」
「まさか。プログラムの続きや」
 横山が苦笑する。
「ゲームでも作ってるのか?」
 だらけていた創一が立ち上がって、通路越しにポケコンの画面をのぞき込んだ。カシオの最新型、PB‐1000。これが横山の愛機だ。
「占いのソフトですわ」
 極小キーボードを、横山は器用に両手で操作してみせる。白黒の液晶画面に表示されたのは、
[ポケコンウラナイ・キョウノ ウンセイ]
 という文字だった。
「生年月日と血液型入れると、その日の運勢が出る、いうのを作ってるんですわ」
「へえ、面白いな。RND関数で、運勢は乱数まかせのランダム表示、ってところか」
「何を言うてはるんですか」
 横山はむっとした顔をした。
「そんなええかげんなものと違い《ちゃい》ますよ。占星術の本買うてきて、ロジック研究して作ってるんです。絶対に当たります。今日死ぬ、って出たらちゃんと死にます」
 むきになって反論するあまり、横山はとんでもないことを言い出す。
「本格的だね。女の子の目の前で、運勢を占ってあげたら受けそうだな。ナンパにも使えそうだ」
 氷川は感心している。なかなか前向きな発想による使い方である。
「今日死ぬ、って出たら女の子ドン引きでぶち壊しだと思うぞ」
 創一が、にやにや笑う。
「しかしまあ、ポケコンの新しい使い方だとは言えるな。カタカナばっかりの小説書くよりは気が利いてるかも知れん」
 少し離れた席で一人ポケコンを操作している副部長のほうへと、創一は目を遣った。相変わらず、電報ライクな小説と格闘中のようだ。
「コンピューターをこうして持ち歩けるんだもんなあ、色んな使い方ができそうだよね」
 ちょっと貸して、と言って横山からPB-1000を受け取った氷川は、その小型の電子機器をしげしげと観察した。
「そのうち、みんながこういうの持ち歩くようになるよ。手帳とか、アドレス帳とか、そんなん要らんようになるね、絶対」
 横山が真顔で断言する。さすがに、カメラや電話を兼ねる機械が出てくるとまでは、彼にも予想できない。
「みんながコンピューターを持ち歩く時代か。いよいよSFの世界が目の前だなあ。もう、二十一世紀まであと十五年だもんな」
 感慨深げに、創一はうなずいた。

 線路が旧式のディーゼルカーには不似合いな高架に変わると、間もなく支線も終点である。本線への乗換駅は県庁が置かれる中核都市の玄関口だけに、さすがに相当な賑わいを見せていた。頭上を走り去る列車の轟音、乗り降りの乗客たちの雑踏、特急列車到着のアナウンス。駅構内を満たす都会の空気で、彼らの足取りも軽くなる。
 本線のホームに立つと、駅前の広場に面して立ち並ぶシティホテルやデパート、都市銀行などの建物が一望できた。県下にはまだここにしかないマクドナルドや牛丼の吉野家、ドトールコーヒーなどの飲食店も目に入ってくる。
「お腹空きましたねえ」
 と氷川がため息をついた。お昼が焼きそばだけというのでは、足りなかったのだろう。
「うまいだろうな、ハンバーガー。それにシェイクと、ポテトのLをつけて……」
「やめろ、馬鹿。俺だって腹減ってんだぞ。思い出すじゃないか、ポテトの味を」
 創一が顔色を変えた。
「思い出しますよね……カリッと揚げたてで、あの油の匂いが」
「だからやめろと言うに」
「マクドナルドなんて割高ですわ。あんなん、物の価値が分からへんお大尽が食うもんです」
 と横山が馬鹿にしたように言った。一応、大阪出身の都会人ということになっている彼としては、たかがマクド如きをリスペクトするわけには行かない。もっとも実は、彼は奈良県安堵村の出身だったりするのだが、何せ名前が漫才師っぽい「横山」で関西弁なものだから、大阪人だという彼の主張を疑う者はいなかった。
 しかし確かに彼の言う通り、ジャンクフードの値段というのは案外高かった。ビッグマックセット八百円などというのは一体どんな金持ちが頼むのか、というのが彼らの共通の感覚だった。
「僕やったら絶対、牛丼にしますわ。熱々の牛肉にダシようけめにかけてもらって、そこに生卵を絡めて……」
「やめろ、お前もだ」
 創一が叫んだ。
 空腹の高校生たちを乗せて、区間快速列車は出発した。行きと違って座席には空きが目立ち、何よりもクーラーが効きまくりなのが天国だった。
 列車が走るのにつれて、沿線に建ち並んでいたビル群は、くしの歯が欠けたようにまばらになって行った。続いて住宅地が現れ、そこも通り過ぎると、その先は一面の田園風景へと変わる。整然と稲が植え付けられた田んぼが、緑のじゅうたんよろしくどこまでも広がっていた。
 一体この先に町なんて本当にあるのだろうかと疑わしく思えるほどの眺めだが、しかし四十分も走れば工場地帯や住宅がまたちらほらと姿を現し始め、間もなく列車は緑町の駅に到着する。県下七番目の都市と言えばしょぼい感じだが、それでもこの沿線では主要駅だ。
 赤い三角屋根の駅舎を中心とする駅前には人通りもそれなりにあり、都会とまでは呼べないにせよ、町としての格好はそこそこ整っていた。彼らも普段ならこの駅前を我らが町の一大拠点としてリスペクトしているのだが、つい先ほど目にしたばかりの県都の賑わいと比べてしまうと、いかにも寂しい。ホテルもデパートもなく、もちろんハンバーガーもない。
 改札口を出た彼らは、駅の隣にある肉屋に直行して、揚げたての八十円コロッケを買った。緑町の学生たちにとってはこれが一番人気のファーストフードなのであって、実際のところ割高なフライドポテトなんかよりもこっちのほうがずっとおいしいはずだった。横山など、カレーコロッケとメンチカツも合わせて三個も買っている。
 小さな紙袋に入ったコロッケをかじりながら、パソコン部員たちは店を出た。そして駐輪場へ向かって歩き出そうとしたその時、創一が突然大声を上げ、ロータリーの向かいに建つビルを指さした。
「おい、あれを見ろ!」
 駅前エリアではもっとも立派な六階建てのそのビルには、大手スーパー・ニチイの緑町店が入っていた。その一階、パン屋が撤退してからずっと空テナントとなっていた場所に、いつの間にか真っ赤な看板が取り付けられていた。そこには、白抜きの文字でこうあった。「ハンバーガー セントレオ」
 途端に、彼らは色めき立った。
「見ろ、ハンバーガーだってよ。まじかよ」
「こりゃすごい。見に行ってみようぜ」
 急ぎ足でロータリーを半周して、一同はニチイの前に向かった。ガラス戸には貼り紙がされていて、「森水セントレオ」というハンバーガーショップが近日オープンの予定であることが告知されていた。
「この緑町に、ついにハンバーガー屋が出来るのか」
「聞いたことあらへんですけどねえ、セントレオって」
「人魚マークついてるし、森水グループの系列なんだろう、一応」
 セントレオは、大手菓子メーカーが展開する、業界下位ながら一応全国チェーンのハンバーガー・ショップである。マクドナルドがまだ進出していない二級の商業地を中心に、出店を進めていた。県内では初出店で、テレビCMも打っていなかったから、彼らが知らないのも無理はない。ともかく、これは一大ニュースと言って良かった。マイナーなハンバーガーショップが出来るだけ、とは言ってもこの変化の少ない小さな町においては、画期的な出来事なのだった。
 開店したらさっそく来ようぜと喜びつつ、一同は駐輪場へと戻る。ここからさらに自転車を走らせ、海のように広がる田んぼを越えて、ようやくその向こうに彼らの学校や家はある。しかし、夏のビーチで過ごす輝かしい一日に満足した今の彼らには、自転車のペダルも軽く思えるのだった。
 夕暮れの迫る中、残照に紅く染まった田んぼを貫く道を彼らの自転車は進む。遠いバイパスを、テールランプを光らせた車が次々と流れて行くが、その音はここまでは届かない。賑やかなパソコン部員たちが走り去ると。その後には虫の声だけが残された。

第二章 ボーイ・ミーツ・ガール

 創一の場合、ゲームのプログラミング作業を行うのは、大抵夜遅くになってからだ。FM放送を聞きながら、愛機であるシャープ・X1ターボに向かい合ってひたすらキーボードを叩き、プログラムを書いていくのだ。表向きは勉強をしていることになっていたが、学校の勉強というものに、彼はほとんど興味がなかった。受験の時期が近づいてくればそんなことも言っていられなくなるだろうが、幸いなことに今のところ成績もそんなに悪くは無かった。
 民放FM局はまだ全国に数えるほどしか開局しておらず、もちろん県内にそんな洒落たものはない。山の向こうにある大都市からの放送を、室内に張り巡らせたアンテナ線で無理やりに受信していたのだが、どうしてもノイズ混じりのザラザラとした音になってしまう。それでもFMの深夜番組を聞いていると、都会の街角に佇んでいるような、そんな気分を味わうことが出来るのだった。その感覚は、彼が作るゲームの内容にも影響を与えていた。ネオンとか夜景とかが、やたらと出てくるのである。
 数行のプログラムを打ち終えて、実行コマンドを打ち込むと、シャープ・X1の画面には地平線の彼方まで広がる街の灯、のつもりである色とりどりの光点が表示され、揺らめくように点滅を始めた。新作の「ミッドナイトミッション」では、この大都会の夜景をバックに宇宙戦闘機が飛び回り、敵を撃破することになる予定だった。ただし、今のところは夜景の部分までしかできていない。
 それでも、ここまで作り上げたことに取りあえず満足した創一は、大きく伸びをして背もたれに体を預けた。ラジオから流れてくるのはウイスキー会社のCMで、これいいなと彼が思ったBGMの曲は、ギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」だった。
 住宅地内の通りを街灯の蛍光灯が照らしているのが、窓の向こうに見える。人の姿は無く、家々の窓はもうどれも真っ暗だ。網戸の向こうから入ってくる、夏の夜の匂いがする空気に、彼は自由の二文字を感じることができた。
 そんな優雅な夜更かしの結果、翌日の昼前まで自室のベッドで眠りこけてしまった創一は、「いつまで寝てるの!」という母親の怒鳴り声で起こされることになった。
 どうにか起き上がって朝昼兼用のピラフを食べた後、直しきれない寝ぐせの残った頭もそのままに、彼はまた自転車に乗っていつもの部室へと向かった。灼熱の太陽と、おなじみの草いきれが彼を迎え撃つ。これが現実である。
 学校に着く前に、彼はバイパス沿いにある書店へと寄り道することにした。今日は毎月必ず買っている「マイコン・マガジン」の発売日だったのだ。敷地の大半が駐車場で、その真ん中ごく一部にプレハブ倉庫のような店舗が建っているというその書店は、まともな本を買いにくるような場所とは言い難かったが、雑誌なら問題ない。
 入り口近くに自転車を停めて店内に入ると、途端にクーラーの匂いが彼を包み込んだ。一瞬で汗がひき、半死半生だった彼は生気を取り戻す。背筋を伸ばし、さてと雑誌コーナーに目を遣ると、目当ての「マイコン・マガジン」が平積みにされているのが見えた。公称三十万部、今一番売れているというパソコン雑誌である。
「マイコン・マガジン」は、読者からの投稿によって成り立っている雑誌だった。投稿されるのは、読者たる素人プログラマーが自分で作った、コンピューター・ゲームのプログラムだ。誌面には、専門用語で「コマンド」「ステートメント」などと呼ばれる、コンピュータに指示を出すための単語や数式が、
[1020 for a=1to100:print b:b=b+2:next:return]
 こんな具合で何十行も並んでいた。これがいわゆるプログラムで、パソコンはこの文字列を読みとって様々な計算をしたり、ディスプレイ上に何かを表示したりするのである。
 この雑誌を買った読者がどうするのかというと、誌面に印刷されたこれらのプログラムを、自分のパソコンに一文字一文字キーボードで打ち込んでいくのだ。全部打ち込み終わると、ようやくゲームができる。長い時には数時間もかかる、気の遠くなるようなこの苦行が、言わばインストール作業に当たるのだった。インターネットなんてものは無いし、各種記録メディアはあまりに高価で雑誌に付けるなど不可能だから、こうするしかなかったのだ。
 長いプログラムのどこかに少しでも打ち間違いがあれば、ゲームは正常に動かない。何がおかしいのか、それを調べて色々考えるうちに、今度はプログラムの成り立ちが段々分かってくる。パソコンマニアたちはそうしてプログラム言語の仕組みを覚え、やがて自分でもソフトを作れるようになって行くのである。
 パソコン部にとっても、部員それぞれが完成させたプログラムをこの雑誌に投稿することが、部活動の重要な部分を占めていた。他校との試合とか、発表会とか、そういうものが何もないわけなので、「マイコン・マガジン」誌での入選を果たすことが、部活動の成果を示す唯一の証拠なのだった。さすがと言うべきか、智野部長は何度も入選していて、創一も一度だけだが入選を果たしていた。
 隣の不愉快な「パソコンNOW」誌には目もくれず、創一は「マイコン・マガジン」を手に取ると、ぱらぱらとページをめくった。二ヶ月前に投稿したプログラムが、もしも入選ならば今月号に掲載されているはずなのだ。緊張が胸にせまってくるのを感じながら、「シャープX1」のページを探す。ページがパソコンの機種別なのは、違うメーカーのパソコンでは同じソフトが動かないのが、当たり前だったからである。見つけ出したそのページには、ペンネーム「ドサ犬」、つまりは創一が作った新作ソフト「ティラトス」が掲載されていた。
「よし、やった」
 と彼は独り大声を出した。店内の、まばらな客が振り返る。「うひょー」とでも踊り出すしたい気分をさすがに我慢して、創一は真っ直ぐレジへと向かった。これで二回目の入選だった。
 学校へ向かって再び自転車を走らせながらも、彼はハンドルバーの上で何度も雑誌を開いて満足感に浸った。「ティラトス」は一種のパズルゲームで、画面の上方から降ってくる様々な形をしたブロックを、回転させたり左右に動かしたりしてきれいに積み上げていくという内容だ。レゴブロックというおもちゃがあるが、創一はそれをヒントにこのゲームを思いついたのだった。
 ルールが簡単だからプログラムも割とシンプルで、彼としては片手間に近い形で仕上げたのだったが、それでも嬉しいことに変わりはなかった。採用されたプログラムには、「プロフェッサー・Mからのメッセージ」と称する、編集部からの選評がつくのだが、この作品には「アイデア勝ちの作品じゃな。やればやるほどやみつきになるぞい」という、高い評価がついていた。
 今日は旧村にも立ち寄らず、ひたすらペダルを漕ぐうちに、学校が見えてきた。田んぼの海に浮かぶ、真新しいコンクリートの新校舎と文化財級の木造旧校舎。あれが市内随一の名門、ということになっている緑町南高校だった。
 駐輪所に突っ込んだ自転車に鍵を掛けるのももどかしく、旧校舎に走り込んだ創一は、踏面のすり減った階段を駆け上った。
 黒ずんだ木製の扉をガラガラと開くと、狭い部室はいつも通りの熱気と騒音に満ちていた。PC-8801mk2《ハチハチ》の前に座った智野部長が、振り返る。この「ハチハチ」は部内で最も高級なパソコンであり、これを使うのは部長たち三年生の特権である。
「お、創一。どうだった? マイコン・マガジンは」
「ばっちり、採用ですよ」
 そう言って、創一は雑誌を智野に手渡す。
「プロフェッサー・Mもべた褒めです」
「なんだよ、悔しいな。俺なんかいつも、結構きつい言い方されてばっかなのに」
「智野さんのプログラム、難しすぎるんですよ。他の人が読んでもわかんないですもん」
「あ、来た来た、マイコン・マガジン。やりましたね、創一さん」
 智野部長の隣でシャープ・X1を操作していた氷川が、表紙を覗きこんだ。彼の正面にあるディスプレイには、この前の湖の風景と思われるコンピュータ・グラフィックスが、映し出されている。まだ未完成らしく、部分的にしか色が塗られていない。
「これで二回目だ。部長には負けるけど」
 そう言って創一は、部室の中を見回す。部屋の一番奥では、横山がPC-6001《パピコン》を操作していた。
 部室の片隅に置かれたぼろぼろのソファーに寝転んで、創一はマイコン・マガジンを読み始めた。
「次、それ貸してくれますか。新作ゲーム特集のページが見たいんで」
 シャープX1の前に座った氷川が、彼に声を掛ける。
「ゲーム特集?」
「ええ、この前のアミューズメント・ショーで発表された『スプラッシュ・ウェーブ』っていうレースゲームの特集が載ってるはずなんですよ」
「お、これか」
 特集ページの真ん中には、赤いオープンカーが走るゲームの画面が大きく掲載されていた。ビーチサイドを走っているらしく、道の両側には椰子の並木が続き、青い空に真っ白な入道雲が盛り上がっている。海の色は、エメラルドグリーンだ。南国の明るい風景が、そこには見事に再現されていた。
「スプラッシュ・ウェーブ」は、MC68000という超高性能プロセッサーが二個も使われた化け物級ゲームだった。そこらのパソコンとは桁違いのスペックで、画面のリアルさ、美しさは、従来のレースゲームとは一線を画していた。
「静止画でも絵になるな、このクラスのグラフィックだと。これがリアルタイムで動くわけか。何せ68000二個だもんな」
「でしょう。だから椰子の木をCGでどう描くか参考にしようと思って」
 氷川はシャープX1の画面に顔を近づけて、目を細める。ドット絵の細かいパターンを確認しているらしかった。
「いや椰子の木ってお前、あの湖にそんなのあったか?」
「椰子くらいないと、地味でちょっと絵にならないんで。それくらいの脚色は許されるでしょう」
 画面を見つめたまま、氷川が苦笑いする。
 ちょうどその時、部室のドアが開いた。顔をのぞかせたのは、鈴木直子だった。
「はは、みんな真っ黒じゃない。ほんとに海行ったんだねえ」
 部員たちの顔を見るなり、彼女は大声で笑い出す。そういう彼女も、相変わらずきれいに陽灼けしたままだ。
「これがその、海水浴の時の絵?」
 そう言いながら彼女は、氷川が操作しているシャープX1のディスプレイ画面をのぞき込んだ。 
「ええ。応募するんですよ、これ、コンテストに」
「へえ、なかなか綺麗じゃない。海ってより、何となく湖みたいな感じもするけど」
 こいつ鋭いな、と全員が思ったが、誰も余計なことは言わない。泳ぎに行ったのが実は湖だったとばれたりしたら、なんで海じゃなくてそんな中途半端なとこ行くのよと、また大笑いされるのが目に見えている。
「ぺっぺけぺー」
 突然、単調な電子音のファンファーレが、部室の中に響き渡った。音の主は、横山が操作するPC-6001だった。「パピコン」という謎の愛称で知られる、NEC製の初心者向けパソコンだ。いささか旧式ということもあって、主に一年生の練習用に使われている。
 創一がソファーから起き上がり、パピコンの画面をのぞきに行く。そこには、このようなタイトルが表示されていた。
[あいしょう うらない by YASSAN]
「今度は相性占いか。お前よっぽど凝ってるんだな、占い」
 創一は呆れ気味に笑った。
「これも、完璧に当たります。ちゃんと理論に基づいて作ってます」
 横山は真顔で、自信満々である。
「え、なになに? 相性占い?」
 直子が嬉し気に寄ってきた。
「面白そう。みんなでやろうよ!」
 その声を聞いた他の部員たちも、PC-6001の前に集まってきた。それじゃ、と横山がリターンキーを押すと、生年月日・血液型・星座が二人分入力できる、入力画面が表示された。
「よし、まずは俺で試してみよう」
 創一が手を伸ばし、キーボードを叩いた。
「へえ、創一さん乙女座ですか」
「似合わないな、全然」
「B型なのは、納得かも」
「うるさいよ、君たち。で、俺様のお相手は?」
 振り返って、創一は集まった面々の顔を見る。
「そりゃ、男同士で相性調べてもしょうがないでしょう。ここはやっぱり、パソコン部のアイドルと」
 氷川は、鈴木直子の顔を見た。
「そうそう、アイドルだから、あたし」
 直子は大きくうなずく。
「こいつかよ……」
 顔をしかめてみせた創一に、
「何かご不満でも?」
 と直子は頬を膨らませる。
「だって、お前の顔真っ黒けだぜ?」
「誰が真っ黒けよ。小麦色っていうのよ」
 二人のやりとりを無視して、横山は黙ってキーボードを叩き始めた。1970年3月13日、AB型、うお座。
「へえ、横ちゃん何で知ってるの? あたしの誕生日とか」
 直子が驚いたような眼で、横山を見た。
「いや直子さんが前に、『後輩ならあたしの誕生日くらい覚えておけ』とか言って、むりやり教えてくれはったんですが……」
「そんなことしたかなあ」
「それじゃ、出しますよ。えい!」
 横山が再びリターンキーを叩くと、ひらがなだらけの文面が、画面に表示された。

[あいしょう は 35%。あまり したしい かんけいでは ありません。てきどな きょりをおいて つきあうのが よいでしょう]

「こんなん出ましたけど」
 なぜか嬉しそうな顔で、横山が振り返った。
「……案外高い数字じゃないか、35%もあるとはね」
 そう言う創一の顔は、いくらか強張っているようだった。
「めちゃシビアね、これ。でも、もうちょっとは相性いいと思うよ、あたしとこの人」
 ねえ? とうなずきかける直子に、「ま、同じ鈴木だしな」と創一の表情が緩む。
「こんな刺々しい相性占いじゃ、やってて楽しくないよ。副部長にでも、もうちょっと洒落た文章考えてもらったら? いつもカタカナで書いてるけど、ひらがなでも何とかなるだろう」
 氷川がそう言った途端に、背後で扉が開く音がした。「何やってんの、君たち」と部室に入って来たのは、当のカタカナ文豪、城崎副部長だった。
「相性占いやってるんだ。横山がパピコンで作った奴」
 智野が説明すると、城崎は気乗り薄な顔でみんなのところへ近付いてきた。
「副部長もやってみはりますか?」
 スペースキーを叩いて、横山はPC-6001を入力画面に戻す。
「人と人のつながりを、占いなんかで知ることはできないよ。まして、そんな機械ではね」
 城崎は長髪を掻き上げる。
「だが、遊びと割り切るなら、僕もやらないこともない。で、占う相手は?」
 横目で彼は、直子のほうをちらりと見る。こいつ結局やるんじゃないか、とその場の全員が思ったが、口には出さなかった。
 副部長の言う通り、横山は各種データを打ち込む。お相手は、直子のままだ。そして、実行。

[あいしょう は 5%いか。この おとこは きけん ちかづかない ほうがいい]

 副部長の表情が、驚愕に歪んだ。山はまじめな表情を保っていたが、残る全員は一斉に爆笑した。そりゃ怪しい男ではあるが、これはあんまりだ。
「当たってる、これ当たってるぞ」
 まだ笑い続けたまま、智野は城崎を指さす。
「副部長って、やっぱり危ない人なんですね?」
 直子の眼元には、笑い過ぎたのだろう、涙がにじんでいた。
「失敬だぞ! 君たち、これはあまりに失敬だ!」
 城崎は真っ赤な顔で抗議した。
「ある種の危険さを持たない芸術家には存在価値はない。そう言う意味においては、僕だって危険な人間かもしれない。しかし、僕は紳士でもある。恋の炎で相手を焼くようなことはあるかもしれない。しかし、女性に危害を加えるようなことなど、あり得ない!」
「恋の炎!」
「焼くのか」
「焼くそうですよ」
 副部長の大演説に、再び爆笑の嵐が巻き起こった。床の埃が舞い上がりそうな勢いだ。
 怒りのあまり、城崎は一人でソファーに座り込み、黙ってうつむいてしまった。覆いかぶさった長髪の下で、どんな顔をしているのか。さすがにこれでは気の毒だ、と部員たちが思い始める中、直子が彼の隣に座った。
「ごめんなさい、副部長。あたし、副部長が危ない人とか全然思ってないよ。時々よくわかんないなこの人、って思う時あるけど、それって芸術家方面だから、やっぱ」
 たちまち城崎副部長は顔を上げた。目の前には、直子の顔がある。
「直子、くん」
「おい、焼かれるぞ。気をつけろ、直子」
 智野が再びからかう。
「何とでも言え」
 城崎は、智野をにらみつけた。
「たった一人でも、真の理解者さえいるのなら、君たちなんかどうでも構うものか。塀を越えられるのは、鳥だけだ」
 打って変わって強気の顔になっている。
「だろう? 直子くん」
「ほんと、そう思いますよ。早く、その理解者を見つけてくださいね!」
 明るい声で言って、直子はソファーから立ち上がった。肩透かしを食らった格好で、城崎は前のめりに姿勢を崩す。
 残る部員たちについても占ってみたものの、氷川と直子の相性は40%、智野が55%で、先の二人よりは若干高いものの、結局みんな似たりよったりの結果となった。彼女のリクエストで、三年生と思われる生年月日の、謎の男との相性も占ってみたものの、これも20%台という低迷っぷりだった。
「あたしって、実は孤独な女なのかな」
 そんなことを言いながら、直子は案外まんざらでもなさそうな顔をしている。
 パソコンをほぼ全く使えず、ゲームさえ滅多にやらない彼女がこの部にいる理由というのは、実のところ謎だった。テニス部との兼部だから常に部室にいるというわけではないが、必ず定期的に顔を出しては、こうして部員たちと雑談して帰って行く。
 本人が楽しそうだから別に構わないのだが、見ようによってはこうして紅一点のアイドル的立場を満喫しているということになるのかも知れなかった。
「こんな低い数字しか出ない、っていうんじゃ、相性占いの意味がないよ。ちょっとひど過ぎるんじゃないか?」
 氷川が文句をつける。
「低いも何も、理論の通りにプログラムしただけなんやから。実際に相性が悪いんやから仕方ないよ」
 と横山は相手にしようとしない。
「そんなこと言うんなら、お前もやれよ」
 創一が、キーボードに手を伸ばした。
「いや、僕は」
 横山はあわててブレイク・キーを押して、プログラムを停止させようとした。
「させるか」
 智野と創一が彼に飛び掛り、二人で羽交い絞めにした。中学時代からの付き合いで、誕生日も血液型も知っている氷川が、横山のデータを打ち込む。そして、実行。
 みんなが期待して見守る中、PC-6001の画面に結果が表示された。

[あいしょう は 80%。しょうがい の
 パートナーとして しんけんに かんがえるべき]

 直子以外の全員が、当の横山を含めて、唖然とした顔に変わった。隣のタマがオリンピックで金メダルを取った、まるでそんな感じなのだった。しかし直子は、無邪気に嬉しげである。
「へえ、少なくとも横ちゃんとは相性いいんだね。これからも、よろしくね!」
 横山は照れたような顔をして、こくん、とうなずく。そんな二人を、「なんでこいつだけこんな結果なんだ?」という顔をした男たちが取り巻いていた。

 お盆も近いある日、派手な赤色で印刷されたチラシが、各紙の朝刊に折り込まれて緑町周辺の一帯にばら撒かれた。例の「森水セントレオ・ハンバーガー」がついにオープンしたのだった。そのチラシには、チーズイン・ハンバーガーが百円になるという夢のクーポンが印刷されていた。
 その日、パソコン部の部室に集まって来た男どもは、全員例外なくそのクーポンを握り締めていた。さすがにこうなると、パソコンなどを相手にしている場合ではない。
「よし、今日はまずハンバーガー獲得へ出撃だ」
 という智野部長の号令の下、みんな自転車にまたがって、駅前のニチイへと一直線に疾走することになった。
「ニチイショッピングデパート」と呼ばれるその六階建ての大型店舗を、この町に暮らす素朴な住民の多くは本当にデパートなのだと信じていた。しかしもちろん、ニチイはデパートではない。創一たちも、これが本当はスーパーの仲間なのだと言う事実に気づいてはいたが、それでもなお「駅前のデパート」と呼ぶことがあった。この緑町にだって、デパートの一つくらいあってもいいじゃないかという願望が、そうさせるのかも知れなかった。
 実際のところ、この「デパート」は彼らの都市生活に、大きなウェイトを占めていた。本でも文具でも必要なものはほとんど全て揃ったし、地下のフードコートにある「オレンジロード」というクレープ屋でクリームソーダを飲むこともできた。特に屋上のゲームコーナーは、昔のテレビゲームがいまだに棲息する貴重な場所だった。そして今、そのニチイショッピングデパートの歴史に、ハンバーガーショップのオープンという新たな一ページが加わったのだった。
 駐輪場に自転車を停めて、勢いよく店内に飛び込むと、カウンターの前に並んでいた女子高生たちが彼らのほうを振り返った。みんな揃って、この地方では名の通った女子高の制服を着ている。
「あれ、祐ちゃん」
 彼女たちの一人が、驚いたように声を上げた。色白で髪が長く、セーラー服のスカートは長くも短くもない、まっとうな女子高生だ。当たり前だが、化粧などしていない。この時代、化粧をしている女子高生は、スケ番だけである。
「おはよう。こんなところで会うなんて、びっくりね」
「お、おう、おはよう。何だよ、今日は『オレンジロード』じゃないのか」
「祐ちゃん」と呼ばれた智野部長が、照れたように笑う。
「今から、みんなで県美に行くの。朝ごはん食べて電車に乗ろうって行ってたら、こんなお店が出来てて。いつもクレープだし、ハンバーガーってどんなのかなって」
 と彼女は微笑んだ。
「城崎君たちも、一緒なのね。こんにちは」
「どうも」
 城崎副部長が、おずおずと会釈する。
「みんな、真っ黒ね。城崎君はあんまり焼けてないみたいだけど」
「あの」
 氷川が、創一の背中をつついた。
「誰ですか、あの人」
「部長の、ガールフレンドだ。京子さん」
 創一が振り返って、小声でささやく。
「俺も、初めて見た。写真は、見せてもらったことあるんだけどな」
「随分きれいな彼女じゃないですか」
 氷川が感嘆のため息をついた。
「すごいな、智野さん」
 連れの女の子たちに二言三言、話しかけてから、その京子さんは言った。
「折角だし、みんなで一緒に食べましょうよ」
 しかしなぜか智野は、不安げな表情を浮かべた。城崎副部長はしきりに髪を掻き上げる。横山はそんなことより、カウンターの上にあるメニューのチェックに余念がないようだ。創一は勢いよくうなずいたきり、続く言葉が出て来ない。「いいですね、ぜひそうしましょう」とまともな反応を返せたのは、氷川だけだった。
 お嬢様たちはクーポンなどと言うものは誰も持っていないらしく、みな定価でサラダ付きの高価なセットを注文した。続く男どもは、そろってチーズイン・ハンバーガーとソーダのSサイズだ。
 注文を終えた彼ら&彼女らは、奥の座席に合コンよろしく向かい合って並んだ。女子高生グループは四人で、パソコン部員たちより一人少なかった。彼女たちは美術部の活動で、今から県立美術館に印象派展を見に行くのだと言うことだった。元美術部の氷川が、なるほどとうなずく。彼にとっては、まさに得意分野である。
 四人の中には一人、派手な顔立ちが際立ってかわいい子がいて、古典的美人と称すべき京子さんと好対照をなしていた。あとの二人は、まあ普通だ。互いの自己紹介の結果、三年生の京子さん以外の女の子は、みんな二年生であることが分かる。派手な子の名前は、明美(あけみ)というのだった。
 こんな恵まれた状況にも関わらず、パソコン部チームは黙り込んだままだった。空気が重さを増して、ハンバーガーショップの床に流れ出そうとしている。焦った智野部長は状況を何とかしようと、いつもなら盛り上げ役になるはずの創一に話しかける。
「みんなで、自己紹介でもしようか。トップバッター鈴木創一、よろしく!」
「鈴木、創一です」
 そう言って頭を下げて、創一は再びそのまま黙り込んだ。面白くもなんともない。女子高生たちを前に、脳が完全に機能停止している。
 城崎副部長がぼそぼそと自分の名を名乗り、横山も「横山です」としか言わず、ようやく氷川だけが元美術部であることと、ドガやルノワールの描く女性が好きだということを爽やかな口調でアピールして見せた。女の子たちからは「あ、私も好き」などという、好意的なリアクションも返って来た。
 続く女性陣も京子さんから明美さん、普通コンビの二人と順番に自己紹介をしてくれた。氷川の影響で、それぞれ自分の好きな画家についても説明してくれたのだが、それがどんな絵を描く人たちなのか、美術芸術と縁遠いパソコン部側としては良く分からない。結局リアクションの返しようがないままで、ここで再び重い沈黙のピンチが訪れた。
「創一君は、何年生かしら?」
 京子さんが、会話のアシストに入る。
「二年です。来年は、三年」
 虚ろな目で、彼は答えた。目の前の京子さんを、直視できないのだ。
「あら、そうなのね」
 彼女はにっこりと微笑んだ。
「この子たちも、同じ二年生よ。二人ともボーイフレンド募集中、だったよね」
 名指しされた、普通子A・Bの二人が、顔を見合わせて笑う。数秒遅れで創一も、ぎこちなく笑みを浮かべる。
「明美さんは、募集はなしですか?」
 氷川が、うまく会話の流れに乗ってくる。
「うーん、一応ね。空席なし、かな」
「そうか、残念だなあ」
 軽薄な調子で天井を仰ぐ氷川に、創一と城崎副部長は異星人を見るような眼を向ける。実はこいつ、女の子とこんなやり取りができるような人間だったのか。
「でも……最近、あんまりいいことなくって。難しいな……」
 はああ、と明美さんはわざとらしい大きなため息をついた。さあ私を口説きなさい、と言わんばかりである。
「京子さんは、どういうきっかけで智野部長と付き合うことにしはったんですか?」
 氷川たちの流れを全くぶった切るように、横山が無遠慮な質問を割り込ませてきた。
「えー? そんなこと、ここで答えてもいいのかしら?」
 京子さんが、智野部長の顔をのぞき込む。
「そんなことを、お前が知る必要は無い」
 智野部長が渋い顔で、横山を一刀両断した。みんな黙り込んでしまい、会話の流れが再び宙をさまよいはじめる。
 ここで城崎副部長が突然、パソコン部員たちにはおなじみの、そして一般社会においては奇行と見なされる行動に出た。灰色のショルダーバッグからいつものシャープ製ポケコンを取り出し、電源を入れて、小さなキーボードをプチプチとやり始めたのである。
 男性陣のど真ん中に座っていた副部長のこの行いに、女の子たちは呆気にとられた。
「あの、城崎君……それは何かしら?」
 ややあって、京子さんが訊ねる。
「うん、そうだね」
 うつむいて、液晶画面を見つめたまま、副部長はうなずく。何がそうだね、なのかさっぱり分からない。
「僕は、小説を書かなきゃならんのでね。今がいつでも、どんな場所であろうともね」
「この人、城崎副部長は、小説家を目指してるんですよ」
 氷川があわててフォローに入った。
「で、インスピレーションが湧いてくると、このコンピューターでおもむろに小説を書き始める。天才すれすれ、というか、ちょっと普通とは違うんですねえ」
「何が天才だ、非常識なだけだ。いい加減にしろ城崎、失礼だろうがお前」
 智野部長は、ついに怒り始める。
「喧嘩は駄目よ、佑ちゃん」
 京子さんが困ったように微笑む。
「どんな小説を書いてるのかしら? 城崎くん」
「ある男が、故郷へ帰るんだ。しかしそこにはもう、彼の居場所はなかったわけだ」
 自作について、城崎は語る。
「それで?」
「そういう、小説なんだ」
 極小の白黒液晶画面から目を離そうともせず、城崎は言った。
「そう、なのね……」
 取り付く島もないその答えに、京子さんの困惑の度合いは、さらに深まったようだった。
「そんなに小さくても、それはコンピューターなのね?」
 黒くて太いセルフレームの眼鏡をかけた普通子Aが、無邪気な声で訊ねる。行き詰っていた会話を救う、天使のような発言だった。
「そうそう、ポケットコンピュータって言うんだ。略して、ポケコン」
 智野部長が、すかさず答えた。
「これでもちゃんと、ゲームとかのプログラムを動かすことが出来るんだよ」
「『プログラム』って何ですか?」
 今度は、髪を三つ編みにした普通子Bが訊ねる。良い流れだ。
「それはね……創一、説明してあげてくれるか」
 部長は、今度こそ創一に会話の行方を預けた。
 さすがに、得意分野の話である。ここまでは、女子高生たちとうまく話せずにいた創一も、今だとばかりに身を乗り出した。何よりも、親しみやすい普通子コンビが相手だと、ハードルも低い。脳がようやく回転を始めていた。
「コンピュータを動かすには、手続きが決まってるんですよ。その手続きに使う単語を並べたのがプログラムで、『print』と書いておけば画面に文字が出るし、『input』だとデータが入力できる。こういう単語を何十、何百と並べておくと、パソコンが動くわけです。動くと言っても、パソコンが床を走って行くとか、そういうことじゃないけど」
 年頃の女の子というのはありがたいもので、こんなつまらないギャグが受けた。明美さんだけは微妙な顔をしているが、後の三人は楽しそうに笑ってくれる。一番嬉しそうなのは、当の創一だったが。
「すごいね、英語なんだ」
 普通子Bが素直な声で、何だか少々ずれた方向へと感心してくれる。
「あれ、出してくれよ」
 いきなり氷川が、横山の背中をつつく。
「ほら、この前の占い」
「いや、あれは未完成や。進捗率90%で、タイトル画面がまだ……」
 ハンバーガーを頬張りかけていた横山は、目を白黒させる。
「動けばいい。タイトルなんて飾りだ」
 強引にそう言って、氷川は横山のカシオ製ポケコンを、リュックから取り出させた。
「これで、運勢占いができるんです」
 蓋を開いたポケコンの画面を、氷川は女の子たちのほうへと向けた。その場にいる全員の――ただし副部長は別だが――注目がその小さな機械に集まる。
「誰か、占ってみて欲しい、という人がいたら――」
 と言いながら、氷川はなぜか明美さんのほうを見る。
「えー、じゃあやってもらおうかな。なんだか面白そう」
 彼女は、さっそく乗ってきてくれた。生年月日と血液型を教えてもらい、ポケコンに入力する。
「はいはい、1969、10、26、Oと」
 若い女性の大事な個人情報を、いかにも無造作に打ち終えた横山は、最後に実行(EXE)キーを叩いた。占いソフトが、彼女の運命を暗示するメッセージを、白黒の液晶画面に表示してみせる。

[アスノ ウンセイ・・アカイ チヲ ナガシテ ヨコタワルノハ ダレ? カエリミチ ニハ ゴヨウジン ゴヨウジン]

 横から見ていた氷川の顔色が変わった。二流のホラーなら、ここから惨劇でも始まりそうな内容ではないか。カタカナだけの文面も、禍々しさを余計に増大させている。
「おい、エラーが出てるぞ」
 目にも留まらない早業で、氷川はポケコンの電源スイッチを即座にオフにした。
「明美さん、ごめんなさい。まだ未完成なもので、これは駄目だ」
「未完成でも構わへんて、君が言うたのに。占いはちゃんと出てたやんか」
 不服そうな横山の顔を、氷川はにらむ。「赤い血を流して横たわる」とか、いくらなんでも、こんな内容があるか。
「そう、残念。難しいのね、コンピューターって」
 何も知らない明美さんはにこにこしている。
「こういう風に、せっかくプログラムを作っても、なかなか思うようには動いてくれないわけですね」
 と、こちらも状況を知らない創一が、ぺらぺらと解説を始める。
「プログラムのこういう欠陥を、専門用語で『バグ』と言います。これは『虫』という意味で、元々はアメリカ海軍で使われていたという黎明期のコンピュータに入り込んだ虫が故障を引き起こしたという事件が……」
「諸説あるよ、バグの語源は」
 急に調子よくなった創一に、智野部長は苦笑する。先ほどまでの重い空気が吹き払われて、一安心していたのだった。もっとも、先ほどの血塗られた文面を明美さんに見られていたら、場は凍り付いていただろうが。
「ちょっと、プログラム見せてくれ」
 横山のポケコンを手元に引き寄せ、画面を隠すようにしながら、氷川は恐る恐る電源を入れた。先ほどの不吉な予言は消えて、白黒の液晶にはメニュー画面が表示されているだけだった。
「あれ? C61-BASIC読めたっけ、君」
 横山が不思議そうな顔をする。使ったことの無いポケコンのプログラムを解読できるのか? という意味だが、もちろん女の子たちには何のことだか分からない。
「まあ、大体分かると思うよ。マイクロソフト系だろ?」
 じっと画面を見つめて、氷川はキーボードを操作し始める。
 結果として、男性陣のうち二人が難しい顔でポケコンに向かっているという異常な状況が発生することになった。これはまずい、と京子さんが再び会話のサーブを打つ。
「みなさん、休日とかはどんな風に過ごしたりしてるの?」
 しかしこの訊き方だと、休みの日もやっぱりパソコンやってます、という返事になりそうだった。そこで彼女は一言付け加える。
「映画とか見たりする?」
「そうだ創一、緑町会館で面白い映画見たって言ってただろ」
 智野部長がすかさず介入して、会話の行方を創一に預けた。
「見ましたとも」
 創一が、大きくうなずく。
「『天空の城ラピュタ』。あれは、宮崎監督の最高傑作です」
「え、誰?」
 明美さんが訊き返した。
「宮崎駿、映画監督さん。……あの、わたしも見ました、ラピュタ」
 セルフレーム眼鏡の普通子Aが、控えめに微笑みながら、創一にうなずきかけた。
「良かったですよね、滅びの呪文を唱えるとことか、泣いちゃった」
「そうそう、ムスカが格好良くて」
 女の子からの、予想外の好反応に、創一は身を乗り出した。
「『見ろ、人がゴミのようだ!』。最高だよね、あれは」
「うん、あの。それは」
 普通子Aは戸惑いの表情を浮かべる。せっかく噛み合いかけた会話の歯車が、いきなり砕け散った感じで、隣の京子さんの表情も再び曇る。
「なになに、それどんな映画?」
 逆に、明美さんが食いついてくる。
「空に浮かんでるお城で冒険するアニメなんだけど、主人公の二人がすっごく健気で、かわいいの」
「あー、アニメかあ……」
 明美さんは微妙なリアクションを返した。あれは子供が見るものだよね、という感覚のようだった。
「直った!」
 氷川がポケコンから顔を上げた。
「明美さん、占いが直りましたよ。もう一回やってみますね」
「うん、見せて見せて」
 会話に飽きつつあったらしい明美さんが、気を取り直したように彼のほうを向く。氷川が実行キーを叩くと、カシオPB‐1000は彼女の運命をカタカナで告げた。

[アタラシイ デアイ ニ ミライアリ。フルイ シャツ ハ ヌギステテ、イマ ハシリダス トキ]

 隣から画面をのぞき込んだ横山が、怪訝そうな顔になり、何か言おうとする。そんな彼を「余計なこと言うな」という目で制し、氷川は明美さんにポケコンを手渡した。
「ステキな占いじゃない!」
 彼女は大げさな声を上げた。
「そうね、新しい出会いに向かって走り出してみようかな、あたし」
「へえ、どんな内容なんだ?」
 今度は創一がポケコンを受け取り、画面を流れるカタカナを眺める。
「なるほど。脱いで走る、ってことか」
 彼がつぶやいたその言葉に、明美さんは露骨に嫌な顔をした。うろたえた創一は、
「いや、脱ぐといっても下着とか裸とかそういうのを想像した訳じゃなくて、その」
 と実に余計な釈明をしてしまい、明美さんの瞳は氷のように冷たい色を帯び始めた。
 このやり取りを横目で見ていた横山が、小声で氷川に抗議する。
「プログラム、勝手に変えんといてくれ。こんな変な占い出されたら困るわ」
「いいじゃないか、喜んでるし」
「占いは喜んでもらうためのもんやないで。真実を伝えるのが大事なんや」
 横山はため息をついた。
「元木先生が知ったら、嘆かはるやろうなあ」
「誰だそれ?」
「『天殺界』の元木夏子先生に決まってるやんか。僕、先生の理論を基にこれ作ったんやから」
「知らないなあ」
 京子さんや普通子たちも横山にポケコンを操作してもらい、それぞれの明日を占ってもらう。しかし横山が作った占いは、「良いことも悪いことも何もない一日、人生の大半はそんなもの」とか「朝からひどく嫌なことを言われてやる気を一切失う、それが三日続く」など、実にろくでもない内容で、みんな暗い顔をして黙り込んでしまった。氷川が何か言いたげに目配せしても、横山はまるで知らん顔である。
「そう言えば、時間は大丈夫なのか?」
 もはや限界と判断した智野が、京子さんにそう訊ねてみせる。
「ほんとだ!」
 腕時計に目を遣って、彼女は目を丸くした。
「みんな、そろそろ行かないと。区間快速が来ちゃう」
 明美が立ち上がり、短いスカートの裾を払う。創一と普通子たちは共にほっとしたような顔で、テーブルのゴミを片づけ始めた。ポケコンを鞄にしまい込んだ横山に、氷川が何やら小声で文句を言っている。城崎もポケコンの電源を切り、ため息をつきながら、窓の彼方を遠い目で見た。そこにはトイレ用洗剤の色褪せた看板があったが、彼には何か違うものが見えているのかもしれない。
 セントレオの前で、彼らと彼女らは左右に分かれた。女子高生たちは手を振って、駅へ向かって去って行った。
 女の子がいなくなると、彼ら五人は各々全身の力を抜いた。やはり、男ばかりのほうが気楽なのだった。もっと女子部員がたくさんいれば、などと言ってはいるが、実は直子一人くらいでちょうどいいのかも知れなかった。

 折角だから、ゲームコーナーでものぞいて行こうかと、彼らは屋上へと向かった。エスカレーターに乗ること六回、ようやくたどりついた屋上には、たまに子供向けの着ぐるみショーが開催されるステージと一周百メートルのミニ列車、それに古いテレビゲームが並ぶゲームコーナーがあった。グリーンのビニール屋根の下にゲーム機が並ぶという、お世辞にも立派とは言えない造りだ。業務用クーラーが動いてはいたが、薄い屋根の向こうで輝いている太陽に熱せられて、むっと暑い空気が充満している。
「ゼビウス」や「リブルラブル」などのレトロゲームをみんなで遊んでいると、急に辺りが暗くなってきた。外に出てみると空はいつの間にか雲に覆われていて、太陽の姿が無い。屋上を囲むフェンスの前に立ち、彼方の田園地帯に目を遣ると、その上空を迫り来る黒い雲の一団が目に入った。あれは、まずい。間違いなく嵐が来る。
 部員たちは慌てて駐輪場に戻って自転車にまたがると、全速力で農道を駆け抜けた。行く手の上空は真っ暗で、遠い山地が白くかすんで見えるのは、すでに豪雨が降りしきっているからに違いない。
 学校が近付くと、氷川から順番に一人また一人と部員たちは自転車部隊を離脱しては、「それじゃ、また」と各々家のある方角へと去って行った。創一と最後まで一緒だった横山が「ほんなら、また」と去って行った辺りで、いよいよ黒雲が頭上に迫ってきた。妙に涼しい風が吹き降りてきて、体を冷やす。心地はいいが、これでは家まで天気は持たない、と判断した創一は部室に緊急避難すべく高校の校舎へと進路を変えた。必死でペダルを漕ぎ、駐輪場の屋根の下に自転車を突っ込むのとほぼ同時に、雨粒が屋根のトタンを打つ音が聞こえた。
 薄暗い部室には誰も居なかった。湿気を含んだ木材の匂いが、室内を満たしつつある。そして間もなく、叩きつけるような激しい雨が降り始めた。窓の外は、昼間とは思えない暗さだ。
 しばらくは、帰るに帰れない。彼はテレビのスイッチを入れた。昔の時代劇が始まって間もなく、大雨洪水警報の速報テロップが隠密同心の額の上を流れた。こりゃますます帰れないな、と暗澹たる気分になったその時、部室のドアがガラガラと開いた。
「あれ、今日は創一くん一人なんだ?」
 現れたのは、鈴木直子だった。大きなテニスバッグを手にしている。
「ああ、つかまっちまったよ、こんな天気で」
 彼は肩をすくめた。
「お前こそ、何で」
「そうよ、困っちゃうわよね、こんな天気」
 彼女はそう言って、紺色のスカートについた水滴を乱暴に払った。ブラウスも、肩の辺りが濡れて肌色が透けている。
「練習だったんだけど、これじゃどうしようもないよねえ」
 漂ってくる何やら石鹸系の香りで、創一は一瞬息が止まりそうになった。しかし直子は、そんな彼の様子を意に介する風もなく、窓際に近づいて空を見上げる。
「わ、さっきよりすごいことになってる。滝の中みたいだね」
 彼女がそう言って振り向いた瞬間、窓の外を閃光が走った。室内の全てが、白と黒のコントラストに変わる。間髪入れず、破裂音を伴った雷鳴が、激しく轟いた。
「近い、近いよ今の。光ってから落ちるまですぐだったよ」
 彼女ははしゃぎながら、窓の向こうをきょろきょろと見回している。どの辺りに落ちたのか、確かめようとでもしているのだろう。
「なあ、ちょっとは怖がるとか、お前そういうリアクションはないのかよ」
 こんな時、古典的な漫画なんかだと、少女がきゃあとかいいつつ少年に抱きついたりするはずなのだ。
「だって大丈夫だもん。ちゃんと避雷針立ってるでしょ、新校舎に」
 直子はあくまで冷静である。
 さらに数度の落雷が爆撃のように続き、雨はまるで空と地上を一続きにしようとしているかのように降り続いた。実際、この日の嵐は記録的なもので、隣の町では竜巻による被害が出たほどだった。直子は窓枠に頬杖を突いて、稲垣潤一の「バチェラー・ガール」のメロディーを口ずさんだりしながら、この大自然のショー・タイムを眺め続けていた。そんな彼女の姿は、創一の目には極めて魅力的なものに映った。やはり嵐の中というシチュエーションでは、ある種の魔法が働くようだ。それでも表面上は知らん顔をして、彼は隠密同心が悪人どもを成敗する様子を眺めていた。
 やがて空はわずかに明るくなり、雨もシャワー程度にまでは小降りになってきた。しかし、ざわめく水田の上を流れ来る空の彼方を見遣ると、第二弾、第三弾の黒雲が控えているようだ。とてもではないが、すぐに雨が上がるような状況ではない。
「よし!」
 直子は勢い良く立ち上がり、振り返った。床に膝を突いていたせいで、スカートの両膝がパウダーをはたいたように白くなっている。
「ねえ、帰ろう。今チャンスだよ」
「うん、でも」
 創一は、もごもごと言った。
「俺、傘ないし。自転車だから」
「置いてきゃいいじゃない、自転車なんか。あたしの傘入れたげるよ。旧村の近くまでは送ってくから、そこから後は頑張って走れ!」
 彼女はそう言って、屈託無く笑った。
 テレビと部室の電気を消し、鍵を用務員さんに預け、二人は校舎の玄関に立った。まるで魔法のように傘がふわっと開くのを、創一は半ば呆然としながら見ていた。
 一つの傘の下、女の子と肩を寄せ合って歩くのは、創一にとって全く初めての経験であった。それじゃ肩濡れるでしょ、もっと中入んなよという彼女の言葉は、彼の脳内でエコーとなって繰り返し反響した。何をしゃべったかは、ほとんど覚えていない。しかし、この二十分間の出来事は彼の精神に深く刻まれ、「ラックス」の石鹸の香りに雨の音を思い出す、そんな条件反射を生涯残すことになった。
 住宅地へと続く道と、旧村への脇道の分岐点で、「じゃあね」と手を振る直子と別れた。農道にはいくつもの水たまりが出来ていたが、そんなもの平気で踏み越え、水を跳ね上げながら、彼はまだ降り止まない雨の中を颯爽と走り抜けて見せた。背後で直子がじっと自分の後ろ姿を見ているのじゃないか、そんな気がしていた。
 家に帰り着くと、母親が風呂を沸かしてくれていた。びしょ濡れの服を脱いで入った湯船の中で、彼はたった今起きたばかりの一連の出来事を繰り返し思い出した。よみがえる、雨の音。直子の面影が、湯気の向こうに何度も浮かんでは消えた。かつて「真っ黒け」と評したあの日焼けした姿が、今の彼には美しい夏の妖精のようにさえ思えて来るのだった。

第三章 現実逃避のテクノロジー

 八月十六日の夜、旧村の八幡神社では夏祭りが開催される。神社近くの河原では、わずか三百発とささやかながら花火も打ち上げられることになっていた。夏場におけるこの地域最大のイベントだから、旧村の住民のみならず、周囲の新興住宅地からも若者たちが集まって来る。カップルが手をつなぎ、はしゃぎながら夜店をのぞいて回るという光景が見られるのもいつものことだった。
 従って、創一はそんなものに近づこうとは思わなかった。馬鹿騒ぎも人混みも好きではないが、かわいい女の子を連れた男前を見るのはもっと嫌だ。
 パソコン部内の雰囲気もやはり祭りには冷淡だった。
「そう言えば、週末はお祭りですね」
 と言う氷川に、
「あんな人だらけで疲れるもんに、のこのこ出かけるのは阿呆やね」
 と横山はにべもないし、
「そういうものではしゃげる、という一般人の単純さがうらやましいね、僕は」
 と城崎副部長は一体何様なのかと言う感じのコメントを返す。
「お前らボロカスだな」
 と苦笑いする智野部長だけは、ちゃっかり京子さんとお祭りデートの予定なのだった。
 ところが、部室に現れた鈴木直子の一言が、その空気を一変させた。当日彼女はテニス部のメンバーと、浴衣姿で祭りに出かけるのだという。その言葉を耳にした途端、ソファーで気だるそうに文庫本を読んでいた副部長は、瞬時に振り返って彼女を食い入るように見つめた。恐らく彼の脳内では、直子はすでに浴衣姿に着替えさせられているのだろう。そ知らぬ顔でキーボードを叩いていた創一も、実のところ考えていることはほぼ同じだった。
「楽しいのよ、八幡さまのお祭り。花火も上がるよ」
 とその直子は、しきりに祭りを宣伝する。旧村住民である彼女としては、ぜひとも夏祭りが盛況になって欲しいのである。
「そうなんや……花火まで上がるとは知らんかったですわ」
 と、横山が妙に小さな声で言った。
「それやったら……行く値打ちもあるかもしれへんですが……」
「そうだな、花火、が上がるんじゃなあ」
「あれは、一種の芸術だからね。僕としても見ておきたいな」
 と、みな口実としての花火をフル活用して、一気に局面の打開に入った。お前ら何だよそりゃ、と智野がまた苦笑しているが、そんなものは無視である。
 それじゃまあ、その祭りだか何だかというのに行ってみようか、という方向で部員たちがまとまり始めたところで、部室のドアが妙にゆっくりと開いて、淡いピンク色のワンピースを着た女性がおずおずと顔を出した。ここにはたまにしか現れない、顧問の桜沢先生だった。今日は部員の男どもに不評の三角眼鏡ではなく、赤いフレームのかわいらしい眼鏡を掛けていた。
「あ、こんにちは、美代子先生」
 直子が明るい声で、真っ先に挨拶する。彼女を囲む他の男どもも、それぞれに「こんにちは」と頭を下げる。
「こんにちは……皆さん今日は、何だか楽しそうなのね」
 全員が黙って画面に向かっている、いつもの異様な情景を覚悟して部屋に入って来た桜沢先生は、部員たちのそんな様子を見て、ほっとしたように挨拶を返した。
「そうだ、先生も来ませんか? 週末の夏祭り。みんなも花火見に来るみたいですよ」
 と直子が早速勧誘にかかる。
「ああ、旧村の? そうか、土曜の夜なのね」
 思い出したように、先生はうなずく。
「もう、随分長い間行ってないなあ。そうね、土曜は主人も出張で家にいないし」
「ほんとですか?」
 直子が目を輝かせた。
「あたし、明日は浴衣で行くんです。先生も、どうですか?」
「浴衣か……。古いのがあるけれど、今だとちょっと窮屈かな」
 その言葉に、副部長を初めとする男どもの視線が、今度は美代子先生のほうに集中した。彼らの脳内では、彼女の姿はその窮屈な浴衣姿とやらに変換されていたのだった。
「そうだ」
 と氷川が声を上げた。
「先生、これを見てもらえますか」
 彼はそう言って、シャープ・X1の画面を指さした。そこには、例の湖の絵が表示されている。
「この前みんなで海水浴……じゃないや、写生に出かけた時の、コンピューター・グラフィックです。もうちょっとで完成です」
「あら、綺麗ね! これは、氷川君が?」
 桜沢先生は、感心したような声を出した。部員たちがいつも遊んでいるコンピュータゲームと言うのは訳が分からないのだが、こういう絵なら一目瞭然で善し悪しも分かる。
「はい、僕なりに頑張って描いてみました。応募する以上は、コンテスト入賞を目指さないといけないので……」
 氷川のその言葉に、創一たちは思い出した。そう言えば、CGコンテストに応募するとか何とか、そんな設定で部費を使って泳ぎに行ったはずなのだ。
「うん、これならきっと入賞目指せるわ。先生も楽しみ。頑張って完成させてね」
 先生は、氷川に向かって微笑みかける。彼は少し照れたような笑顔になって、黙ってうなずくのだった。

 当日は、八幡神社に現地集合と言うことで、パソコン部一同は例によって各々愛車にまたがり、旧村を目指した。智野部長は京子さんとのデートで別行動のため不参加だが、その代わりに今回は真田くんという1年生部員が参加していた。準レギュラー部員的存在で、部室に顔を出す頻度も少な目の彼だが、担任の桜沢先生に声を掛けてもらって参加することにしたらしい。
 夜店が出たりして混雑する神社の境内には自転車を停める場所がないため、集落の外れにある廃線の駅跡が臨時の駐輪場となる。かつての駅舎に灯りが点り、裸電球の柔らかな光が、石積みの元プラットホームに沿って並ぶ自転車を照らしていた。駅跡を囲む木立は桜の木で、その花が咲く頃にはわずかな花見客も訪れるのだが、普段ここにやってくる人はほとんどいない。しかし、いつもは静まり返っているその廃駅にも、今夜だけは活気が戻るのだった。
 桜沢先生とは、その旧駅舎前で待ち合わせすることになっていた。やがて原付スクーターに乗って姿を現した先生は、残念ながら浴衣姿ではなく、女教師っぽい白いブラウスに長めのスカート姿だった。創一たちは若干失望したが、あくまで浴衣の本命は直子であって、先生ではない。三角眼鏡はもうすっかりやめたのか、今日も普通の赤いフレームの眼鏡なのが救いだった。
 その直子は、基本的にはテニス部のメンバーと行動を共にすることになっていて、途中でこちらにも少し顔を出すというとのことだった。いっそテニス部の皆さんと合流して一緒に祭見物をすれば良さそうなものだが、それだけは願い下げというのがパソコン部男性陣の一致した意見だった。青春メインストリートを堂々と歩むあんな連中と話が合うわけはないし、向こうだってそう思っていることだろう。
 そういうわけで、顧問を除けばとりあえず男だけという状態で、パソコン部の一行はぞろぞろと参道を歩いた。いつもはわずかな街灯くらいしかないこの道にも、今夜は夜店がにぎやかに立ち並び、赤や黄色に染められた光が行き交う人々やシイの並木を照らしている。濃紺の空に輝くはずの星が、よく見えないほどだ。
 そんなお祭の高揚感の中で、一番楽しそうにしていたのは意外にも美代子先生だった。「次、あれやってみない?」と言ってはヨーヨーつりや金魚に打ち興じ、射的でディズニー風ぬいぐるみの眉間を撃ち抜いてみせた氷川と手に手を取って喜ぶ様子など、女子高生と変わりない。普段はどうにも距離感がつかめずにいる部員たちと、ここぞとばかりにコミュニケーションを取ろうとしている、ということなのかも知れなかった。
 そんなパソコン部一行がご神木の辺り、八幡神社の本殿近くまでやってきた時だった。ご神木の足下で、浴衣姿の女子たちが何やら言い争う声が聞こえてきた。一緒に居る男たちが、必死になだめている様子だ。たまたま一行の先頭にいた創一は、本能的に回避コースを取ろうとしたが、社殿に取り付けられた作業灯に照らし出されたその女子たちの顔に、思わずあっと言いそうになった。直子がいる。ピンクの浴衣姿の直子が、どういうわけだかは知らないが、周りを取り囲む女の子相手に何やらまくし立てている。
「創一さん、あれ、直子さんじゃ……」
 と氷川が小声で、創一の耳元で言った。
「だな。でもまあ、近づくのはやめとこう。テニス部も色々あるんだろう」
 おかしな場面を見てしまった、という内心の動揺を抑えながら、創一も小声で返した。
 先生や他の部員は気付かなかったのか、気付いていても空気を読んだのか、創一に続いて黙ってその場から離れ、本殿の裏手へと向かった。直子とは、そこで待ち合わせをすることになっている。例のご神水があるその辺りまで来ると、人もすっかりまばらだった。パソコン部員たちは空きベンチに交代で座りながら、無料の水でいつも通りに喉の渇きをいやした。
 時間ちょうどになっても、直子は来なかった。まああの状況じゃそりゃそうだろうと創一は内心思ったのだったが、しかし五分も経たないうちに、妙ににこやかな顔をした彼女が姿を現した。特に浴衣が着崩れていたり、返り血を浴びていたり、そういうことはなさそうだったが、防犯灯の青白い光の下でも頬が赤くなっているのが見て取れる。
「みんなごめん、遅くなっちゃって」
 と彼女はかすれ気味の声でそう言いながらご神水に近付くと、浴衣を濡らさないように器用に屈んで竹筒に口を寄せ、ごくごくと水を飲んだ。
 やがて顔を上げた直子は、一瞬だけ深い吐息をついてから、部員たちに向かって明るく呼びかけた。
「さあ、それじゃみんな、土手のほう行こうよ! 早めに花火見る場所取りしないとさ」
 ありがたい水で喉を潤したおかげか、かすれていた彼女の声はいつも通りに戻っている。
「ああ、でも、まださすがにちょっと時間が早いんじゃないか?」
 創一が首を傾げる。
「それに、確か直子さん、花火はテニス部の人らと見るんとちゃいましたっけ?」
 とぼけた顔で、横山が訊ねた。
「いいえ。今日はもう、あっちには戻らないのよ」
 防犯灯の光を背にした直子が、再びにっこりと笑った。
「行きましょう。さあ」
 それ以上、誰も何も彼女に訊くことのできないまま、一行は旧村のすぐそばを流れる早穂川の堤防へと向かった。三百発の花火は、この川沿いで打ち上げられる。開始時間まではまだ三十分以上もあったが、すでに堤防の斜面では見物客が何人も待機していた。
 お薦めのベストポジションだと直子が言うので、堤防上に建つ大師堂の休憩所にパソコン部の一行は陣取った。休憩所と言っても簡易な屋根が架かっているだけの東屋に過ぎないが、一応は座蒲団が敷かれた長椅子に座って花火を眺めることができる。
 ここでしばらく時間潰しをしなければならないわけだったが、城崎副部長と横山にとって幸いなことに、大師堂の軒下にはちゃんと蛍光灯があった。小さなお堂の前に座り込んだ二人は、バッグからそれぞれシャープとカシオのポケコンを取り出し、その灯りの下で極小キーボードを操作しはじめる。ポケコンの白黒液晶には、バックライトというものが内蔵されていないのだ。真田くんもその二人のそばで画面をのぞき込んでいる。みんなと一緒に出掛けたことがない彼は、ポケコンというものをあまり見たことがないらしく、興味津々の様子だ。
 創一と直子、それに氷川と美代子先生は、それぞれ川のほうに面した長椅子に座ってしゃべりながら、開始時間を待った。
 直子が話す、家のうさぎについての面白かわいいエピソードを、創一は丸っきりの上の空で聞いていた。何せ浴衣姿の女子高生が、同じ椅子のすぐ真横に座っているのである。彼女の体温が、夏の空気を超えて伝わってくるようで、彼の動悸のクロック周波数はただ事ではない数値をマークしていた。氷川と先生は、コンピュータ・グラフィックについて楽しげに話しているようだったが、そちらはさらにどうでもいい。
「あ、そうそう」
 思い出したように、直子が言った。
「あたしさ、パソコン買おうと思ってるんだ」
「それは、いいね」
 相変わらずの上の空で相槌を打ちかけた彼は、ふと我に返って訊き返した。
「パソコン?」
「そう。自分用のやつ」
 彼女はうなずいた。
「だって、あたしも一応パソコン部員なわけじゃない? 一台くらい持っておかないとさ、パソコン」
「お、おお。いいんじゃない?」
 戸惑いながら、創一もうなずいた。なぜ突然彼女の中でそんなビットが立ったのかは知らないが、パソコン部としては歓迎すべき方向だ。恐らくは、先ほどテニス部の中で何やら揉めていた様子だったのと、関係があるのだろうけれども。
「それで電気屋さん、駅前のあそこに行こうと思うんだけど、パソコンどういうの買っていいか分かんないじゃない? でさ、創一君詳しいからさ、一緒について来てよ今度。クレープおごるしさ」
 心臓のクロックが、一瞬停止した。これは事実上、デートの誘いと言うやつではないのか。
 行きますとも! と叫び出したくなるところを彼は必死で抑えて、
「ああ、中信電機だな。別にいいけど、クレープは一番豪華な奴な」
 と、どうにか普通の返事を返した。クレープなど要らない、お礼は君だけで充分だよと不気味なことを口走りそうになったのも、全力で腹に飲み込んだ。
 川のほうから、短いサイレンの音が聞こえてきた。間もなく花火が始まる、という合図である。城崎副部長たちが戻って来て同じ長椅子に座り、カップルたちの時間は終わりを告げた。
 やがて始まった花火は、玉数に限りがあることもあって、あくまで単発での打ち上げが一発ずつ続くという地味なものだった。巨大な尺玉などというのも、ほぼ登場しない。しかしそれでも、眩い光を放つ火薬の星たちが夜空にまき散らされ、地上を様々な色に染める様子はやはり美しかった。
 花火が上がる度に女性二人は歓声を上げ、隣に座る彼の心の中も、明日への期待で明るく輝くのであった。

    *      *      *

 旧村からの帰り、創一の青い自転車は、空の巨大な満月に向かって離陸しそうなくらいの勢いで農道を突っ走った。一緒にパソコンを見に行こう、という直子の言葉は嘘ではなく、次の日曜日という具体的な約束を、彼は八幡神社からの帰りに交わすことができたのだった。パソコン部のアイドル、夏の妖精とのデート、これが舞い上がらずにおられようか。
 こんなに待ち遠しい週末というのは、彼の十数年の人生でも初めてのことだった。その日は朝からまた良く晴れて、待ち合わせ場所である正門前へと自転車を走らせていると、相変わらずの強い日差しが肌を刺した。しかし空気はどことなくさらさらしていて、お盆を過ぎてから、季節に秋がわずかに混じり込み始めているようだった。
 正門前ではすでに直子が、自転車と一緒に彼を待っていた。手を振ろうとした彼の、その右手が思わず硬直する。そこには横山と城崎副部長の姿もあった。二人ともやはり、自転車に乗って来ているではないか。どうやら、呼ばれたのは彼だけではなかったらしかった。昨日の夜から高高度飛行を続けていた彼の気持ちは、ユンカース爆撃機の如くうなりを上げて急降下した。
「あ、どうもおはようございます。ええ天気ですね」
 愛想良く挨拶する横山は、似合わないチノパン姿にきれい目のボタンダウンシャツを着込み、まるでデートである。つまり、創一と同じような服装というわけだ。
「ああ」
 とだけ創一は返事を返し、自転車を直子の隣につけた。
「ごめんね、ありがとう。みんな色々教えてね」
 直子はにこやかに、軽く頭を下げた。今日の彼女は、薄いピンク色をしたノースリーブのシャツに、チェックのキュロットだった。自転車は、パステル調のミントカラーだ。
「あ、いや、いいんだよ」
 まともに彼女の顔を見ることができないまま、しかし横山に対するのとは打って変わった優しい声を出し、創一はうなずく。
「それじゃ、行くか」
 もう一人の招かれざる客、城崎副部長の、天気に似合わぬ暗い声を合図に彼らは出発した。
 四台の自転車は、田んぼを貫いて伸びる農道を真っ直ぐに走り続けた。そこに彼らを邪魔する車の姿はない。スポーツウーマンたる直子も、男どもと何ら遜色ない速度で、ファンシーな自転車を走らせた。小さな踏切も、コンクリートの小さな橋も、空中に飛び出す位の勢いで軽々と乗り越える。道の行く手には緑町市の中心部たる市街地が、青々とした田んぼの海に浮かんでいた。
 創一はわずかにペースを落とし、後方を走る直子の横に並んだ。どうしたの? という顔をする彼女に、彼は訊ねる。
「パソコンを買うのはいいと思うんだけど、何かやりたいこととかあるの?」
「うん。あたし、音楽をやってみたいの。シンセサイザーっていうの? あれで曲を作って演奏してみたくて。一応、あたしピアノ弾けるからさ、シンセサイザーと共演、とかも面白そうじゃない?」
「ああ、そうなんだ。いいね、それは」
 シンセサイザーという単語が出てきたのを少々意外に思いつつ、彼はうなずいてみせる。
「創一君も、シンセサイザーとか使えるの?」
「まあ、一通りはね。MMLっていうのがあるんだけど、それを覚えれば音楽は鳴らせるからね」
「やっぱり詳しいね! 色々教えてもらおうっと、創一君に」
 ソフトフォーカスのかかった彼女の笑顔は、彼の心をまっすぐに撃ち抜く。
「実はあたし、これからはもっとこっちに顔出そうかな、って思ってるんだ、パソコン部。だからさ」
 これは……自分にもっと会いに来たいということなのではないか、創一はそう解釈した。八幡神社で目撃したあの言い争いといい、テニス部のほうで何かあったのだ、と考えるのが普通のはずだが、舞い上がっている今の彼にはそんな簡単なことが分からない。
 この娘が、自分のものになるかも知れない。そう思いながら彼は、併走する彼女の全身をこっそりと観察した。目だけを動かして、足から胸へ、そしてまた足へ。
 次の瞬間、彼は何か柔らかいものに、思い切り弾き飛ばされてひっくり返った。道端のビニールハウスに、自転車が激突したのだった。

 駅前商店街は、そこそこのにぎわいぶりだった。メインストリートだとは言っても道幅は狭いから、買い物客を避けながら慎重に自転車を走らせなければならない。
 全身擦り傷だらけの創一は、みじめな気持ちでペダルを漕ぎ続けた。すれ違う人が、みんな笑っているような気がする。
 邪な動機が原因の脇見運転で、あんな格好悪い事故を起こしてしまい、彼はすっかりしょげ返ってしまっていた。隣を走っていた直子を転倒に巻き込まずに済んだのがせめてもの救いではあったが、それは彼女が持ち前の反射神経でとっさに回避してくれたからで、彼が何かしたわけではない。
「大丈夫?」
 と直子は心配してくれたが、嬉しさよりも情けなさのほうがずっと大きかった。もっとも、当の彼女はそんなことを気にする様子もなく、雑貨屋の店先をのぞき込んだりしながら、機嫌良く自転車を走らせていたのだが。
 彼らの目的地は、ニチイショッピングデパートの隣にある中信電気という店だった。この町では唯一の、大手家電量販店だ。その入り口の前に自転車を停めて、不揃いな四人はぞろぞろと店に入って行った。パソコン部の三人にとっては飽きるくらいに何度も来た場所だが、初めての直子は物珍しそうに店内を見回している。入り口付近には、各社のCDラジカセがずらりと展示されていた。四年前に登場したCDは、この年にレコードの売り上げ枚数を抜くことになる。
 パソコン売場は、ワープロ売場と並んで、店の中でも大きな面積を占めていた。そのほとんどを占領しているのは、NEC、富士通、シャープの「パソコン御三家」の製品だ。
 パソコンというものは、メーカーや機種が違えば互換性がなく、ゲームソフトなどもそれぞれの機種向けに別々のパッケージで発売されている。不人気の機種にはソフトも発売されないというのが現実だから、どのメーカーを選ぶかは大きな問題だった。
 とりあえず「パソコン御三家」を選んでおけば無難とは言え、その中でも機種によって将来性にはやはり差がある。そこで、アドバイザーたる創一たちの出番となるわけだった。
「これなんか、格好ええと思いますよ」
 横山は、自分が気に入っている富士通の最新鋭機、FM77AVを薦める。高級オーディオ機器然としたブラックボディはいかにもマニア受けしそうだが、直子はうーん、と黙り込んでしまう。明らかに、気に入らない様子だ。
「いや、もう8bit機は駄目だね。これからは16bitの時代だな」
 隣の城崎副部長が、偉そうに言い放って髪を掻き上げる。8bitやら16bitは、パソコンの処理能力を表す単位だが、要するに8より16のほうが動作が速いのだ。城崎が持っているNECのPC-9801というパソコンは、当時まだ高かったその16bit機なのである。
「16bitはそりゃいいでしょうけど、でもホビー向けじゃないですよね、9801は。ゲームも少ないし、どちらかというとビジネス機でしょう」
 創一は反論した。
「君たちは、ゲームしかしないからそんなことを言う。原稿の清書には、『一太郎』が動くビジネス用の98が必須なのだよ」
「何ですか? その初夢みたいなのは」
 創一は怪訝そうな顔になる。
「初夢?」
 怪訝なのはこっちだと言わんばかりに、副部長が聞き返した。
「一姫、二太郎、三なすびって言うじゃないですか」
「筒井先生のパクリだぞ、そのギャグは」
 城崎副部長は顔をしかめた。
「君たち、『一太郎』も知らないのか。最新のワープロソフトに決まってるじゃないか。これだから8bit機ユーザーには困りものだね」
 ここぞとばかりに、城崎は高飛車な態度に出る。
「ふーん」
 意味が分かったのかどうか、彼らの会話を横で聞いていた直子が、感心したようにうなずいた。
「じゃあ、副部長さんのパソコンがいいんだね」
「こんな、極端な人の意見聞いちゃ駄目だよ」
 創一は、つい本音を漏らした。
「極端な人とはなんだ。僕は副部長だ」
 城崎はむっとした顔をした。
「これが、その98だけどさ」
 創一が、最新機種である9801VM2のボディを指さした。マニア界においては歴史に残る名機なのだが、真四角の箱とでも言うべきその外見は、いかにも無骨で無愛想な業務用丸出しのパソコンである。
「四十万円するんだよ、これ。どうみてもサラリーマンが仕事で使うやつだしさ。音楽鳴らそうとすると、別売の26ボードも買わなきゃいけないし」
「それじゃ……ちょっと無理かも」
 直子は困惑の面持ちになり、城崎副部長は落胆の表情を浮かべる。
 難しい顔をしたまま、しばらく売り場を歩き回った彼女は、やがて一台の真っ赤なパソコンを、おずおずと指差した。在庫処分らしく、特価品の値札がついている。
「これとか、どうなの? ええと、CZ-812……」
「ああ、これはシャープのX1Fって奴だよ」
 と創一が解説してみせる。
「ほら、氷川がみず……海の絵を描いてただろ。あれが、このX1だよ」
「あ、あれきれいだったよね!」
 直子の表情が、ぱっと明るくなる。
「じゃあ、これにする。赤くてかわいいし、気に入っちゃった」
 すさまじく適当な理由で直子は即断した。
「いや、ただ、音楽をやるんなら、こいつの音源はちょっと性能がさ」
 創一は慌てて言った。アドバイザーとして来た以上はちゃんと説明をする義務がある。
「これ、音楽は駄目なの?」
 彼女は残念そうな顔をする。
「駄目ってわけじゃないけど、PSGで三重和音しか出ないし……」
「77AVならYM2203のFM音源で六重和音ですわ」
 横山が横から、なぜか得意げに言った。音楽の鳴らせない98ユーザーの副部長は、沈黙を続ける。
「あの、創一君は、どんなパソコン使って音楽を鳴らしてるの?」
 専門用語について行けなくなった彼女は、彼にそう訊ねた。
「俺が使ってるのは、これと同じX1シリーズなんだけど、ターボって奴で」
「じゃあ、やっぱりこの子にするよ」
 彼女の表情が、再び明るくなった。
「だって同じ機種なら、創一先生にいつも何でも教えてもらえるじゃない。これで、決まり!」
 創一のテンションは、中信電機の天井を突き破らんばかりに急上昇した。何だその決め方はと言わんばかりの横山たちの呆れ顔を黙殺して、彼は店員を呼びつける。彼女と過ごすバラ色のパソコンライフが、すぐ目の前に訪れようとしていた。
 おじさん店員相手に創一は、隣の最新機種を引き合いに出しての粘り強い価格交渉を続け、一割以上の値引きと、二箱のフロッピーディスクを勝ち取った。その姿を、直子は頼もしげに見守り続ける。
 蚊帳の外に放置された格好の横山と城崎は、77AVのデモ用として動いていたピンボールゲームで淋しく遊ぶ。もの悲しげな色調の画面の中をフリッパーに弾かれたボールが飛び回り、ターゲットを叩く度に、FM音源が派手な効果音を撒き散らした。
 配送の手配を完了し、代金を払い終えた直子と創一は店を出た。
「どうも、ありがとう。なんか、全部やってもらっちゃって、ごめんね」
「どうってことないさ」
 擦り傷だらけの顔で、創一はにっこりと微笑む。
「家に届いたら、今度はセッティング手伝うよ。明後日に届くって言ってたよね?」
「あ、それはいいよ、そこまでやってもらっちゃ悪いもん。自分でやってみる。でも、わかんないことあったら、教えてね?」
 創一の顔をのぞき込むように、彼女は軽く首を傾げて見せた。
「二十四時間、いつでもオーライさ。その代わり、今日はクレープおごってもらっちゃおうかな」
「じゃ、『オレンジロード』行こう。のども乾いたよね!」
 うふふふ、と笑い合った二人は、すぐ隣のニチイショッピングデパートへ向かって歩き始めた。
 その後方数メートルを、もはやすっかり忘れ去られた格好の城崎と横山が、重い足取りでついてくる。果たして自分たちも一緒にクレープ屋なんかに行っていいのかと、迷わざるを得ないくらいの温度差が、創一たち二人との間に発生していた。
 創一と直子、それに付け足しの二人がエスカレーターでニチイの地階に降りると、フードコートのカウンターの前には学生たちが列をなして並んでいた。特に人気なのが「オレンジロード」というクレープ屋で、この緑町でも随一のお洒落なお店として知られていた。名前は「オレンジ」だが、カウンター周りはペパーミント・ブルーで統一されていて、アメリカ西海岸の風を感じさせるとか何とか、そういう設定になっているらしかった。
「敬ちゃん!」
 創一の隣で、直子がふいに大声を上げた。
「オレンジロード」の前に続く行列の一人が振り返る。背の高い、ハンサム男子である。
「何だ、お前何してんだ」
「ほら、パソコン買いに行くって言ったじゃない、昨日」
「ああ、そうか、パソコン部だな」
「うん、この人たちが」
 彼女は、創一たち三人を、順番に手のひらで指し示す。
「城崎副部長さんと、鈴木創一君と、横山君」
 三人は一様に戸惑いの表情を浮かべつつ、正体不明のその男に会釈する。
「で、この人は」
 彼女はそう言いながら、ほんの一瞬だけハンサム男子と見つめ合い、おもむろに三人を振り返った。
「中川さん。ええと……先輩です、テニス部の。三年生」
「どうも、こんにちは」
 長い脚にジーンズの似合う中川は、いかにもテニス部風な、白い歯がさわやかな笑みとともに挨拶してくれた。
 クリームソーダやクレープの載ったトレイが三人+二人分並ぶと、フードコートの小さな丸テーブル二つは満杯状態になった。一応、みんなで一緒に食べようということにして、テーブルをくっつけたのだったが、向かい合って座る中川と直子に比べると、創一たちは言わば「その他三人」であって、どう見ても邪魔者である。
 特に、つい先ほどまで直子の彼氏気どりだった創一の凋落ぶりは見るも哀れだった。そんなこととは知らない中川は、無邪気に男前ぶりを振り撒き、彼の惨めさをくっきりと浮き立たせる。
「じゃあ、君なのかい? その、マイコン占いとかいう奴を作ったのは」
 直子の話を聞いた中川は、横山に向かって素っ頓狂な大声を上げた。
「ひどいなあ、僕と直子の相性二十%だって。そりゃあんまりだ」
「えー、そんなもんだよ。だって敬ちゃんわがままだしさ、わたしいつも振り回されてばっかじゃん」
「よく言うよ、お前のほうが断然、性質悪いぜ。こないだだってさ、小泉の奴、絶対勘違いしてたぞ、お前の態度。ああいう思わせぶりは良くないぞ」
「あの占いは……元木先生の理論通りに作っただけなんで」
 横山は口ごもりながら言い訳する。
「わたし横ちゃんとは、良かったんだよねー、相性」
 直子はにこにこと横山の顔をのぞき込む。
「まいったね、こりゃ」
 中川はそう言って、はははははと楽し気に笑った。
 城崎が突然、ねずみ色のショルダーバッグからシャープのポケコンを取り出して、スイッチを入れた。いつも通り、小さなキーボードをプチプチと叩き始める。副部長の奇行に慣れっこになっているパソコン部一同はもはや平気だが、中川は呆気に取られた。
「あの、それは何なんだろう」
 ややあって、彼は城崎に訊ねる。
「小説を書かなきゃいけないんでね、そろそろ僕は」
 副部長はポケコンを操作しながら、独りうなずく。なにが「そろそろ」なのかは、誰にも分からない。
「副部長さんは、小説家の卵なのよ。この機械も、小さいけどコンピューターなんだよ。文章がちゃんと書けるの」
「へえ、そんな小さい機械で。ハイテックだな」
 中川は感心してみせた。
「それにしても、お前詳しいなさすがに」
「一応パソコン部だよ、これでも」
「それで、どういう話を書いてるんです?」
 極小液晶画面をにらみ続ける城崎に、なぜか中川は興味を示したようだった。
「僕も、結構小説とか好きなんですよ。この前読んだの、SFって言うのかな、世界を支配する謎の羊というのが友達に乗り移って」
「羊をめぐる冒険!」
 城崎は瞬時に顔を上げた。
「歴史に残る名作だよ、あれは」
「ですね、僕もそう思います。面白かったですよ、あれは」
 中川を中心とした会話は、あの偏屈な副部長までもを巻き込むという、驚くべき盛り上がりを見せた。創一だけが、知らん顔で緑色のクリームソーダを飲んでいる。全て飲み干してしまっても、氷の融けた水をなおも飲み続けた。どうしても、この男と楽しくしゃべる気分にならない。
 中川と話す直子の表情は、自分と話す時よりも明らかに生き生きとして、嬉しそうだ。二人がかなり親しい間柄なのは、間違いない。目の前のその事実は、創一には耐えがたいものだった。ただの、脇役。さっきまでの、あの幸せな時間はなんだったのだろう。
 そんな彼の気持ちを察してか、中川も特に創一に話しかけようとはしなかった。しかし、時折彼に向ける瞳には哀れみの色が浮かんでいるように思えて、それが彼にはさらに苦痛だった。
 盛り上がっている空気をぶち壊して一人帰ることもできないまま、小一時間が経過し、ようやく彼らはフードコートを出た。スニーカーを買って帰るという中川は、爽やかな余韻を残しながらニチイショッピングデパートの店内に消えて行った。
 わたしも中川さんと一緒に買い物に行く、と直子が言い出すことを創一は恐れたが、「みんなと一緒に帰る」と彼女は中川に手を振った。それはそれで「中川さんとはいつでも逢えるから」と言っているかのようにも思えて、創一はまた落ち込むのだった。

 帰り道、時折和やかに会話を交わしながら自転車を走らせる直子たち三人をよそに、創一だけが引き続き寡黙だった。同じことばかり、彼は繰り返し考えていた。
 相手はハンサムな、テニス部の先輩だ。やはり、自分には勝ち目などないのだろうか。
 向こう岸など見えない、本物の海辺で抱き合う二人の姿が、浮かんでは消える。こんなのは妄想だと振り払おうとしても、脳内で延々と続く二人の夏物語は一向に終わりを見せない。恐らく、これはほぼ現実なのだ。
 途中で城崎、横山と解散して二人きりになっても、創一は直子に話しかけようとはしなかった。旧村への脇道との分岐点で別れる際にも、彼は自転車を止める事なく、軽く直子に手を振ってそのまま走り去った。その後ろ姿を、彼女はじっと見つめていた。

 ベッドに寝転んで、天井の模様と、その遥か向こう側に広がっているだろう銀河系をぼんやり眺めていた創一を、母親が一階から大声で呼んだ。
「電話だよ! 鈴木直子さんって、女の子」
 正気を取り戻した彼は、直ちに起き上がって、階段を駆け降りた。母親から受話器をひったくり、耳に押し当てる。
「もしもし、鈴木……創一です」
 息を切らしてそう言いながら、彼は片手で母親を追い払う仕草をする。やれやれという顔で、エプロン姿の母親は台所に戻っていく。
「あ、わたしです。こんばんは」
「こんばんは。その……」
 創一は、何か言おうとした。しかし言葉が出ない。まさか彼女のほうから、電話してきてくれるなんて。
「今日は、ありがと、買い物付き合ってくれて」
「うん」
「それで、ちょっと気になって」
 彼女は一旦言葉を切った。
「帰りの時、創一君……。ねえ、もしかして何か怒ってる? あたし、何かしたかな」
「いや、それは。そんなことはないけど」
 心臓がオーバークロック状態のとてつもない速さで鼓動を刻むのを感じながら、創一は続きの言葉を口にしようとした。しかし、まるで喉の辺りが締め付けられたように、声が出ない。
「それならいいんだけど……様子変だったし、創一君。あたしって時々、良くわかんないうちに人のこと怒らせたりしちゃうんだ。それで、心配になっちゃってさ」
 今言わずに、いつ言うのだ! 創一の頭の中を、彼自身の怒鳴り声が響き渡った。はっきりと伝えるのだ、君が好きなのだと。
「うん、あたしの勘違いだったら、それでいいんだ。ごめん、変な電話しちゃって。じゃあ、また今度ね」
「ちょっと、待って」
 プレッシャーを押し返すように、創一は懸命に声を絞り出した。
「君に、言おうと思ってたことが、ある」
 受話器の向こうで、直子は黙り込む。創一の言葉を、待っていた。会話の空白がブラックホールとなり、強大な重力が創一を押し潰しにかかる。しかし彼は最後の力を振り絞るように、今伝えるべき言葉を放った。
「僕は、君の事を……好き、なんだと思う」
 そう口にした瞬間、彼は体が一気に軽くなるのを感じた。輝ける告白が、ブラックホールの向こう側へと彼を導いたのだ。勢いに乗った創一は、熱っぽく繰り返す。
「うん。君が好きだ。ずっと前から好きだった」
 直子は、黙り続けていた。ややあって、彼女は言った。
「ごめんなさい」

 ジェットコースターのように乱高下した自分自身の気持ちに振り回された挙句、創一は激しくどん底に叩きつけられることになった。もちろん、全ては勝手な勘違いによるものだから、誰を恨むこともできない。しかし、その衝撃は大きく、打ちのめされた彼はまるでぼろ屑のようになってしまっていた。
 約七十二時間、彼は部屋から一歩も出ることなく、ラジカセでオフコースやユーミンの失恋ソングを流し続けながら、ベッドに横たわった。それでも、母親が心配して作って来てくれた鍋焼きうどんだけは口にした。悲しくたって腹は減る。昆布ダシの優しい味が、傷ついた心にしみた。
 全く部室に顔を見せない創一を心配したのか、横山や部長から電話があったようだが、彼は決して出ようとはしなかった。部内では、どうやらひどい夏風邪らしいという話になっていたが、直子だけは事実を知っていた。その直子からも、一度電話がかかってきたようだったが、申し訳ないとは思いつつ、彼は出なかった。とにかく、誰ともしゃべりたくない。
 墜落から四日目にして、ようやく創一はベッドから起き上がることができた。昼ごはんのカレーライスをお代わりして母親を安心させた彼は、気分転換をして来ると言って家を出た。
 ふらつく体で、自転車をどうにかまっすぐ走らせながら、とにかく駅前を目指す。気温は相変わらず三十度を軽々と超え、汗だくにはなっていたが、しかし暑さなどほとんど感じられなかった。
 創一に見えていたのは、すぐ前を走るパステルカラーの自転車のおぼろげな幻だった。あの日の直子を追うように、彼は重いペダルを踏んで自転車を走らせる。彼女が軽々と超えて見せた踏切も、車体を引きずるようにしか渡ることが出来ず、途中で警報機が鳴り出す有様だったが、どうにか区間快速には轢かれずに済んだ。一部がひしゃげたビニールハウスの前を通りがかったときは、涙がこぼれるのをこらえることが出来なかった。直子は自分のものになる、とか思った自分の馬鹿さ加減が情けなかった。
 とにかくパソコンでも見ようと中信電気に入ったものの、赤いX1Fの前で彼女と笑い合ったことを思い出すともう駄目で、泣きながら店を逃げ出す始末だった。続いてニチイに向かったが、中川と地獄のひとときを過ごした地階フードコートの案内が目に入るのさえ恐ろしく、すぐにエスカレータに乗って屋上を目指す。
 炎天下のミニ遊園地には、お爺ちゃんにソフトクリームを買ってもらったらしい子供のはしゃぎ声と、ゲームコーナーから聞こえてくるレトロゲームのピコピコした電子音が、のどかに響き渡っていた。ゲームコーナーの緑色をしたビニール屋根へと向かって、彼はふらふらと歩いて行く。相変わらずクーラーの効きが悪く、むっとした空気が充満しているその場所では、「ザクソン」「ペンゴ」などのレトロゲームが彼を迎えてくれた。
 うつろな目で辺りを見回した彼の目が、ふいに見開かれた。ゲームコーナーの隅っこに、場違いな赤い大型ゲーム筐体が鎮座している。その画面には、ビーチサイドを駆け抜けていく赤いスポーツカーの姿が映し出されていた。それは先日のアミューズメント・ショーで発表された最新のドライブゲーム、まだマイコン・マガジンの特集記事でしか見たことのなかった「スプラッシュ・ウェーブ」だった。海と空の青、それに白い雲が明るいその画面は、この寂れたゲームコーナーの中で奇跡のような輝きを放っていた。なぜこんな場所に、高価な最新鋭のゲーム機が導入されたのか。しかし創一はそんなことを考えることもなく、まるで吸い寄せられるように、ゲーム機のシートへと座り込んだ。
 しばらくじっとデモンストレーション画面を眺めてから、二枚の硬貨を無造作に投入する。ハンドルを切ってBGMを選択すると、軽快なイントロと共に、オープンカーはスタートラインに着いた。グリーンシグナルと共にアクセルペダルを踏み込むと、車は無機質な排気音を残して、快調に走り出す。
 全くブレーキを踏むことなく、彼は真紅のフェラーリをぶっ飛ばし続けた。海沿いの道は左右へのカーブを激しく繰り返し、ハンドル操作を一つ誤れば、車は沿道のヤシの並木に激突したり、エメラルドグリーンの海に飛び込んだりしてしまう。しかし彼は、ぎりぎりのラインでカーブをクリアし続けた。
 海から山へ、そしてまた海へと。アルプスの見える花畑、ドイツの古都、白い家が並ぶ、エーゲ海に面した町。スーパーカーは時速二百キロをほとんど下回ることなく、それらの風景の中を駆け抜けた。何も、考えなかった。考えずとも、彼の体は反射的に動いた。ゴールにたどり着いたとき、彼は自分がニチイの屋上にいるのだなんてことは、すっかり忘れていた。
 それから毎日、創一は朝から自転車で駅前へ出かけては、ゲームコーナーで「スプラッシュ・ウェーブ」にコインを投げ込み続けた。客はいつも少なくて、時折彼のプレイを眺めるギャラリーはいても、もはや彼専用と化したこのゲームをやってみようとする者はいなかった。昼食はフードコートのラーメン屋とうどん屋で交互に食べた。すぐ隣の「オレンジロード」で以前何があったか、彼は少しも思い出さなかった。
 小遣いの蓄えを吐き出し尽くしたその日、彼の夏休みは終わった。初めてハンドルを握った時に比べて、ゴールまでの所要タイムは二十秒も短縮されていた。それがこの夏、彼が得ることのできた唯一の成果だった。

「INSERT COIN」という文字が点滅するデモ画面をただ眺めることしかできなくなった創一は、ついに現実に還る時がきたのだと悟った。すでに彼は、直子のところから相当に離れた場所まで、画面の向こう側にある世界の中を走り抜けていたのである。
 その足で、彼は部室へと向かった。もしも直子がいれば、心配をかけたことをすぐに謝ろうと思っていた。
 炎天下、汗を流しながら自転車を走らせ、駐輪所に停めて、旧校舎の階段を駆け上がって部室にたどり着いた彼は、扉に鍵がかかっていることに気付いた。今日は、誰も来ていないらしい。
 用務室で鍵を借りて、創一は無人の部室に足を踏み入れた。ここから足が遠のいていたのは、決してそれほど長い期間ではない。しかし、パソコン本体やキーボード、ディスプレイなどの危機が乱雑に並ぶその部屋の眺めや、床板から立ち昇る油の匂いが、彼にはひどく懐かしいもののように感じられた。
 この部屋こそ、デジタル世界とこちら側をつなぐ出入り口、自分がいるべき場所なのだと創一は改めて思った。また明日、ここへ来よう。夏休みも、間もなく終わる。

第四章 秋の祭典

 緑町南高校の文化祭は、毎年十月最後の日曜日に開催される。パソコン部では、「一日ゲームセンター」を開くのが、恒例となっていた。これは創部以来の伝統で――とか言うほど歴史があるわけでもないが――理科室にパソコンをずらりと並べて、部員が自作したゲームを自由に遊んでもらう、というイベントだった。これは毎年なかなか好評で、彼らの活動をアピールできる良い機会にもなっていた。得体の知れない連中ではあるが、自力でゲームを作れるというのはまあすごいか、と校内の人間に微妙にリスペクトされているのは、このイベントのおかげなのである。
 作品を披露するのはその一日だけのことだが、言うまでもなくそこにたどり着くまでの準備は大変だ。たとえ簡単なゲームだったとしても、一時間やそこらでプログラミングするのは難しい。まして、年に一度の晴れ舞台で披露する作品となれば、力が入るのも当然だった。
 問題は、当日の展示に使用するパソコンの台数には限りがあるということだった。部のルールでは、上級生から順番に自分が使うパソコンを選べるということになっているのだが、その割当を決める話し合いは、夏休みのうちにすでに完了していた。そして創一は、その話し合いに出席することができなかった。ちょうど彼が「スプラッシュ・ウェーブ」の中に現実逃避していたその間に、パソコンの割り当ては全て決まってしまっていたのである。その結果、創一が使うことができるのは、予備機で旧式のシャープ・MZ-80ということになってしまった。
 しかし彼は、特にがっかりしたりはしなかった。愛機のX1と同じHu-BASICが動くシャープ機のMZなら、使いこなしにそんなに苦は無いだろう。それに、今回出展予定の作品なら、MZ-80の性能でも十分に動かすことができるはずなのだった。

 夏休み明けの部室は、常連メンバーに加え、普段あまり顔を出さないような部員も集まって、狭い室内がごった返す状況になっていた。文化祭で自作を発表する予定のない非レギュラー的な部員も、どんな新作が展示されるのかにはやはり興味があり、様子を見に来ていたのだ。すでに、祭りは始まっていたのである。
「雲の感じ、こんなのでどうだ?」
 部の旗艦(フラッグシップ)機であるPC-8801mk2《ハチハチ》の前に陣取った智野部長が、そう言って振り返る。
 部長が声をかけたのは、後ろのソファーに寝そべって本を読んでいる創一だ。本と言っても、彼が読んでいるのは城崎副部長が自費出版した小冊子で、表紙には「歌の風よ吹け・鵜飼・その他の短編」とある。収録されているのはもちろん、城崎の手による陰気な文学作品の数々だった。
「ああ、いいですね。だいぶ、本物に近づいてきましたよ」
 体を起こした創一が、画面をのぞき込んでうなずく。そこに映し出されているのは、青空の下のハイウェイを疾走する、スーパーカーだ。要するには「スプラッシュ・ウェーブ」そのもので、さんざんやり込んでその内容を熟知している創一が、アドバイザー役となっていた。
「本物、とか言うな。こいつはあくまで俺のオリジナル作品、『オーヴァードライブ』だ」
 智野はにやりと笑った。
「いや無理あるでしょう、それ」
「何を言う。あっちは赤いフェラーリ、俺のは黄色いランボルギーニだ。全然違う」
 智野部長はそう言い切って胸を張る。オリジナリティはともかく、ハイスピードでカウンタックが疾走するそのゲームの出来栄えは相当なものだった。その高速処理を実現しているのは部長が開発に用いている「アセンブラ」という高度な技術で、残念ながら創一にはそこまでの知識は無い。
「いっそ、ちゃんと赤い車にして、許諾取って市販ソフトにしたほうがいいんじゃないですか? 売れると思いますよ、これなら」
「ま、考えておく。それでお前のほうは、開発どうなってるんだ? X1、あいつに取られちまっただろう」
 部長は、氷川のほうに目を遣った。彼の正面にあるシャープ・X1の画面には、もはや部室の風景の一部になりつつある感のある、あのビーチの眺めが映し出されていた。湖の上空はオレンジ色に染まっていて、すっかり夕暮れの雰囲気である。間もなく夜が訪れて、空には星が光り始めるはずだった。
 氷川は湖の絵に、時間の経過に合わせて風景が変わる、という演出を付け加えていたのだった。朝昼夜と変化するのみならず、曇り空や雨天になったり、時には夜空に花火が上がることもあった。夏祭りを見に行った成果なのだろう。
 これこそコンピュータ・グラフィックでなければ実現不可能な演出で、氷川はとしては満を持して、という感じで例のCGコンテストにこの作品を応募していた。うまい具合に、結果発表は文化祭の直前で、もしも良い結果が出れば受賞作品として展示が出来ることになる。
「まあ、そこはしょうがないです。泳ぎに行けたのだって、あれのおかげですからね。MZ-80でも、ちゃんとそれなりの作品、出しますよ」
 創一は、自信ありげにうなずく。
 その時、氷川が操作するシャープ・X1が、ふいに音楽を奏で始めた。「ライド・オン・タイム」、山下達郎(ヤマタツ)の名曲である。
「お、ヤマタツにしたのか」
 智野部長が、画面をのぞき込む。
「直子さんの選曲です。まあ、少々アレンジし過ぎで、ほとんど南国のビーチにしか見えないですからね、この絵。まさにぴったりですよ、ヤマタツ」
 文化祭での展示に向けて、氷川の絵にはBGMをつけることになったのだが、そのプログラミングを行ったのは、実は直子だった。
 パソコンで音楽を鳴らそうとすると、MMLという専用のプログラム命令をマスターしなければならない。本来は、創一がそのレクチャーをするはずだったのだが、振られてああいうおかしなことになってしまった彼に頼むわけにも行かない。仕方なく、直子は独学で勉強せざるを得なくなった。
 今、こうして無事にヤマタツが演奏されているということは、直子は無事に自力でそのMMLをマスターしたわけなのだが、創一としてはやはりその話題にはあまり触れたくはなかった。振られて逃げて約束を反故にしたというのは、間違いなく最大級に情けない、人生の汚点と言っても良かったからだ。
 創一は慌てて二人の会話から離れ、再びソファーに寝転んで「歌の風よ吹けその他」を読んでいるふりをした。実はこの小冊子は、城崎副部長が文化祭向けに作った出展物だった。副部長は当日、自作を収録したこの冊子千部以上を、来場者に無差別配布するつもりなのだった。
 それのどこがパソコン部の活動なんだ、と顔をしかめる智野部長に、城崎副部長は「この作品群は、16bit機のPC-9801で書いたのだよ。君たちの作品よりも、ずっと高度なものなのでね」と長髪をかき上げつつ言い放った。その主張を頑として譲らない副部長に、最後は部長も折れて、この陰鬱な小冊子の大量配布が認められることになった。
「部長、ポスターこんな感じでどうですか」
 1年生の真田君が、プロッタプリンタを使って作っていた、文化祭ポスターの見本を持ってきた。青い海にヨットが浮かんでいる、という構図のイラストの上に、城崎が考えたというキャッチコピーが書かれている。
 プロッタプリンタとは、ボールペンを機械で動かして、紙の上に線を直接書くことで印刷するという機械だった。四色のボールペンを自動で切り替えて描画することができ、つまりは四色でのカラー印刷が可能である。これはなかなか画期的なことで、他の部がみんなポスターカラーやらを使って手書きのポスターを必死で作っている中で、パソコン部だけは機械任せで大量の宣伝ポスターを作るという、物量作戦が可能となっていた。
「イラストは、まあそれでいいだろう。ただ、キャッチコピーがなあ……」
 智野部長が渋い顔をする。そのポスターには、「喪われた夢のかけらを求めて・僕らは今ここに集う」という赤い文字が、でかでかと書かれていた。
「そうですか? 文学的な感じで副部長らしいなあと思ってたんですけど」
 真田君は素直な声でそう言って、首を傾げる。
「暗いんだよ、暗い。ただでさえ、パソコン部はネクラ扱いされがちなんだからな」
 あくまで智野は否定的である。
「そうです。暗いのは駄目だ。ここはやっぱり女の子。女の子のイラストです」
 突然横から口を出してきたのは、たまたま部室に顔を出していた、山岡という二年生部員だった。自他ともに認める重症の美少女マニアで、ディスプレイの平面上で生息する女の子たちを創り出す、ただそのためだけにパソコンを使うのだと公言している男だ。普段はあまり部室には姿を現さないのだが、やはり文化祭だけは別らしい。
「それも水着ですよ、何と言っても。雰囲気が明るくなる。ななこちゃんがいいなあ、僕は」
「……まあ、それはともかく」
 銀縁メガネを光らせる山岡を一瞥して、智野は真田に指示を出す。
「コピーは少し直してくれ。こういう感じがいい」
 智野部長は、見本に赤鉛筆で修正を入れて、真田に手渡した。
「あと、イラストのほうは今のままでいい。が、もう一種類あってもいいな」
 と、智野は今度は山岡の顔を見る。
「女の子の水着イラスト、試しにちょっと書いてみてくれるか。あんまりエロいのは駄目だ。あくまで明るくて健康的、健全な奴だ」
 無難な風景だけよりも、そのほうが集客に有効かもしれない、と智野は判断したのだった。実際、釣られてやって来る奴は多いはずだ。それに、美少女職人を自称しているだけあって、山岡の描く女の子はなかなかに色気があり、魅力的だと部内でも密かに評価が高かった。
「さすが部長、話が分かる。任せてください。真のエロという奴を、見せてあげますよ」
 突然の抜擢に、山岡は俄然やる気を見せる。
「だから、エロは駄目だ」
 部長は苦笑いした。実際、この後山岡が持ってきたイラスト案は五回連続でエロすぎると却下になり、そして没イラストは部員たちの間で奪い合いになった。
 海と美少女、この二バージョンのポスターは、文化祭の二週間ほど前から、校内に大量に貼り出されることになり、集客に大いに貢献することになった。しかし、仕上がったこのポスターを見て、城崎副部長は目を剥いた。せっかく苦心して考えたコピーが、全く使われていなかったのである。
「どういうことなんだ、これは。ただのキャッチコピーとは言え、文学者の魂が乗った作品を没にするとは、許さん」
 城崎は、智野部長に猛抗議した。ポスターに書かれた文字は、「ライド・オン・タイム 僕らの時は走り出す」というものに、全くの変貌を遂げていたのだった。つまりは山下達郎(ヤマタツ)丸出しで、直子の曲に合わせたというわけだ。
「没じゃない、手直ししただけだ。ちゃんと『僕ら』の部分が残ってるだろうが」
 涼しい顔でそう言って、智野は全く取り合おうとはしなかった。

 CGコンテストの結果が出たのは、部内のテンションが文化祭に向けて盛り上がりつつあった、ちょうどその頃だった。
 氷川の作品は「電子芸術振興課長奨励賞」に選ばれた。つまり、入賞である。課長賞だとか言われてもどんなものだか良く分からなかったのだが、桜沢先生が文化庁に直接問い合わせたところ、これは最高賞である長官賞から数えて四番目の賞だということだった。
「素晴らしいわ、氷川君。良くやったわね。あなたの才能が認められて、先生は本当に嬉しいわ」
 美代子先生は、氷川の両手を握りしめて、ほとんど抱きしめんばかりに大喜びしてみせた。訳のわからない部活の顧問になって数年、ようやく何だか形になる成果が出たのである。当の氷川は、先生にそこまで喜んでもらって、ひどく照れた様子ではあったものの、もちろん嬉しくないはずはなかった。
 祝賀ムードで、部内の盛り上がりは最高潮に達した。喜び勇んだ先生の働きかけで、新校舎の壁に「パソコン部・文化庁コンテスト入賞!」という垂れ幕が、各部活の「全国大会出場!」などというのに混じって掲示されるなど、校内での扱いも一気に向上した。
 その勢いのままに十月の毎日はあっという間に過ぎて、いよいよ文化祭の前日がやって来た。展示の会場となる理科室での設営作業は授業が終わった後、夕方から夜にかけて一気に行う必要があり、まさに部員総出での作業となる。
 展示に用いるパソコンとディスプレイなどの周辺機器数セットを部室から運び出し、重い機材を持ったまま旧校舎の急な階段を降りて、今度は新校舎の階段を上がる。階段で転んで、機材を落としたりしようものなら大変だから、気を遣う作業である。万一の時は、自分の身を犠牲にしてでもパソコンだけは守れと言うのが、設営時の掟である。理科室の清潔な実験テーブルの上に、フラスコやアルコールランプなどと一緒にパソコンが並ぶのは、何やら未来的な趣があって悪くない眺めであった。
 今回の目玉になる、氷川の課長賞受賞作は、やはり入り口近くの最も目立つ場所に配置された。山下達郎(タツロー)を奏でるシャープ・X1の隣には、CGコンテストの賞状と、文化庁の組織図が併せて展示された。
 続いて、智野部長による「オーヴァードライブ」と、横山によってさらなるチューニングが施された相性占いが並ぶ。つまりは「スプラッシュ・ウェーブ」の再現である智野の作品はパソコン部の技術力を誇示する正統派のデモンストレーション、占いは一般受けを狙った毎度定番の展示だ。ただ、今回の占いは横山作のブラックな内容という点に一抹以上の不安が残った。
 旧式のMZ-80K2を割り当てられた創一の展示は、マイコン・マガジン掲載作のパズルゲーム、「ティラトス」だ。色んな形のブロックが落ちて来るのを綺麗に積み上げて行く、というシンプルな内容だから、高度なグラフィックス性能は必要なく、MZ-80でも高速で動かすことが出来る。ただ、どうしても地味な印象は拭えないし、そもそも現実逃避の真っ最中で割り当ての話し合いにも参加していなかったということで、展示場所は隅のほうになってしまった。せめてもの華を添えようと、創一はマイコン・マガジンの掲載ページを隣に展示しておいた。
 他には、猫の絵がファンシーで可愛い「仔猫物語」というアドベンチャーゲーム、これは真田君の苦心の第一作で、ターゲットは当然女性客である。
 そして、例の美少女大好き山岡による「美少女危機一髪・Z《ゼータ》」。ベースは昔の部員が作った野球拳ゲームで、つまりはじゃんけんで女の子が負けると服を脱ぐという他愛のないものだ。ところが、美少女職人の山岡の手によってグラフィックが徹底的に改善されており、人気アニメ顔負けの魅惑の美少女が次々と登場するという、ロリコン系マニア垂涎の作品へとパワーアップしていた。このためだけに高速描画ルーチンを独自開発したという、山岡の執念がすごい。
 あらゆる層の来客を迎え撃つことができる展示のラインナップが、こうして完成した。あとは廊下に置いたミカン箱の上に、来場者に出してもらう人気アンケートの用紙と、副部長による文学作品集、「歌の風よ吹け・鵜飼・その他の短編」の小冊子を無造作に山積みにして、準備は完了である。今日はこれで解散、部員たちは帰路についた。

「ラーメンでも食べて帰らへんですか?」
 校門を出たところで、前を行く智野部長と創一、真田君に横山が声を掛けた。氷川は先に一人で帰ったようだ。
「いいね」
 創一が乗り気の声で振り返った。
「明日に備えて、鋭気を養おうってわけだな」
「そんなとこですわ」
 横山がうなずく。
 慢性的に予算不足の彼らが贅沢品のラーメンを食べるとなると、行き先は決まっていた。四人は、県道沿いの歩道をぞろぞろと歩く。この時間になると、路線バスの停留所に隣接する空き地で、ラーメンの屋台が店開きをするのだった。学校の近くにはちゃんとした中華料理店もあったのだが、醤油ラーメンが最低七百円からというのでは、とても手が出ない。
 すでにすっかり陽は落ちて、テールランプを光らせた車がびゅんびゅんと走り去って行く度に、冷ややかな風が彼らに吹き付けた。町外れであるこの辺りの道路沿いには、ひたすら田畑が広がるばかりで、風を遮るものなど何もない。空の高みに向かってオレンジから濃紺へと変化する空のグラデーションは実に美しいが、そんなものに見とれている余裕など彼らにはなかった。こりゃたまらんと早足になって歩き続けるうちに、どこからともなく豚骨スープの食欲をそそる匂いが漂ってきた。遙か前方、バスがハザードランプを点滅させて停まっているそのそばに、赤い提灯が見える。そう、あれがラーメンの灯だ。
 六人しか座れない屋台のカウンターはすでに先客でいっぱいで、創一たちは空き地に置かれたテーブルに陣取った。一応、簡単なテント屋根があって、透明ビニールのカーテンで周囲を囲ってはあったが、容赦なく吹き込む隙間風で暖かいとは言い難い。小さな裸電球一つの照明では、お互いの顔もぼんやりとしか見えないほどだ。しかし見飽きた顔など今さらどうでもいいから、とりあえず熱々のラーメンさえ出てくれば、彼らには文句はなかった。
「さあ、明日はたくさん人来ますかねえ」
 創一が、おしぼりで顔を拭きながら言った。
「お前、それやめろよ。おっさんじゃあるまいし」
 智野が顔をしかめる。
「荷物いっぱい運んで、顔が埃で真っ黒なんですよ」
「シャネルズの物まねだと思えばいいだろう」
「思えばいいだろうって、どんな真っ黒なんですか俺の顔。しかしまた古いですねシャネルズって」
「俺、初めて買ったレコードが『ランナウェイ』だったんだよな。だからさ、つい」
「何がつい、なんですか」
 やがて出てきたラーメンは、うまかった。三百円という値段では、チャーシューなどかけら程度にしか見つからないが、代わりの主役として生卵が入っているのが嬉しい。四人は夢中で麺と豚骨スープをすすり、隙間風に冷え切っていた体は、一気に温まることになった。そうなると、この暗くて寂しい吹きさらしの屋外の席も、案外心地よい隠れ家のようにも思えてくるのだった。
 馬鹿話を続けた後、明日は頑張ろうぜと気勢を上げて、彼らは大満足で帰路に就くことになった。再び県道沿いの歩道をぞろぞろと歩いて、各々の家へと帰る。
 国道と交差する辺りまで来ると、市役所や消防署、警察署などの建物が畑の合間にまばらに建ち並ぶ「官庁街」が見えてくる。何年か前に当時の市長が、郊外開発の起爆剤として、この辺りに公共施設を集めたのだった。しかし、その市長が収賄で逮捕されたりして開発計画は頓挫し、結局この辺りは夜になるとゴーストタウンのような有様になっていた。唯一、明々とネオンを輝かせているのが、消防署のすぐ隣にあるラブホテルだというのだからひどい。良く認可が下りたものだ。
 その交差点の近くまで四人で歩いてきたところで、先頭の横山が突然立ち止まり、なぜか電柱の影に隠れた。
「みんなも、早く、隠れて!」
 小声で叫ぶ横山の妙な行動に、怪訝そうな顔になった残る三人も、次の瞬間あっと言いながら、同じように、電柱の影に隠れることになった。
 前方の交差点に建つピンク色の派手な建物、その入り口付近を、見覚えのある男女二人が手をつないで歩いていた。「ピンクの山猫」というネオンが出ているその建物が例のラブホテルで、その名の通り壁にはピンク・パンサーのパチモノみたいな絵も描かれている。そして、その男女二人というのは、桜沢美代子先生と氷川だった。
「おい、まさか。あの中から出てきたのか? あの二人」
 智野が、ささやくような小声でそう言う。
「いや、その瞬間は見てへんですが……ほら、あんなに二人くっついて歩いてますわ」
「ご褒美、でしょうか。課長賞の」
 創一が首をひねる。
「あの花火の時、氷川君と先生、すごく楽しそうに話し込んでたんですよ。氷川君、CGアーティストになるのが夢だとか言ってて。すごいなあ、彼。僕らよりも一足先に、大人の階段を登ったんですね!」
 真田君は目を輝かせて、感心したような声を上げた。
「何が大人の階段だ」
 智野は渋い顔になる。
「こんな学校に近いところで、何考えてるんだ、あいつらは。ばれたら首だぞ、先生」
 ともかく、このことは内緒にしておこう、ということで四人は一致した。幸いだったのは城崎副部長がこの場にいなかったことで、彼にこんなところを見られでもしたら、たちまち校内に噂が広がることになっただろう。これは絶対に秘密の話なのだが、などと言って、しゃべって回ったに違いないし、下手をすると小説に書いてばら撒かれる可能性まであった。

 文化祭の当日となるあくる日の朝、創一はまだ暗い中起き出すと、学校へと向かって自転車を走らせた。あんなに青々としていた田んぼは稲刈りも済んで、根元だけが残った稲が点々と並ぶ色褪せた風景が、農道の両側にどこまでもがらんと広がるばかりだった。空気はかなり肌寒かったが、彼は平気だった。いよいよ、待ちに待った秋の祭典なのである。
 用務員室で理科室の鍵を借りようとすると、すでに誰かが持って行ったと言うことだった。部屋に行って見ると、そこにはすでに智野と氷川がいた。
「張り切りすぎですよ、二人とも。こんな暗いうちから。一番乗りだと思ってたのに」
「そういう創一さんも、でしょう」
 氷川が楽し気に笑った。後ろの智野部長が何か言いたげな顔で、創一を見る。創一も、わずかにうなずき返す。氷川の作品はすでにセッティング済みで、入り口近くに置かれたシャープ・X1の画面には、さわやかな湖の朝が映し出されていた。
 創一も、自作の立ち上げにかかった。MZ-80K2の電源を入れて、本体と一体化されたディスプレイにSP-1002の緑色の文字が表示されたのを確認してから、内蔵のデータレコーダにHu-BASICのカセットをセットする。何分か待って、ようやくBASICが立ち上がると、今度は「ティラトス」の入ったカセットに交換し、また数分かけてロードする。
 こうしてようやく、ディスプレイには「TIRATOS」のタイトルが表示された。残念ながら、元のX1版のようなカラー表示はできず、何もかも緑一色での表示だし、BGMも単音になってしまったが、ゲーム性そのものには何ら問題ないと創一は思っていた。
「おはよう!」
 元気な声と共に、直子が部屋に飛び込んで来た。
「お、お前もやる気だな」
 振り返った智野が、嬉しげな顔になる。
「昨日の準備来れなかったし、何かすることあるかと思って」
 彼女は、赤くなった頬をこすりながら笑った。寒い中、自転車を走らせて来たのだろう。
「ういーっす」
 MZのディスプレイに向き合ったまま、創一が右手を挙げて挨拶する。
「ごめんね、X1取っちゃって。……これ、雑誌に載ったやつ?」
 直子が隣から、画面をのぞきこむ。いつかの石鹸系の香りに心のどこかが反応するのが感じられて、創一は咳払いしながら、パソコンの傍らに展示されたマイコン・マガジンのページを指さした。
「そうそう、これ。まあ、ちゃんと移植できたから、問題ないよ」
「ちょっと、やってみてもいい?」
 そういう直子に、彼は遊び方を簡単に説明してから、スペースキーを押した。
 画面の上方から、真四角やらL字型のやらの、様々な形をしたブロックが降ってくる。このブロックを左右に動かして、積み上げて行く。一定以上の数をきれいに積むことが出来ると、下のブロックは重みでつぶれて消滅する。つまりは、これだけのゲームである。しかしこのエンドレスな感じに、やみつきになるような中毒性があるのだった。ちょっとやってみる、はずだった直子も、結局部員がみんな揃うまでの間、「ティラトス」を遊び続けることになった。
「みなさん、おはようございます」
 地味なベージュのスーツで部室に姿を現した桜沢先生は、いつもの緊張感を含んだ高い声で挨拶した。
「今日はみなさんが、楽しみに準備を進めてこられた文化祭です。決して事故などの無いように心がけて、普段の実力を発揮できるように、力を合わせてがんばりましょう」
 おう、と部員たちはとりあえず応えたが、何の力をどう合わせて頑張るのか、正直なところ何だか良く分からない。やはり先生は、いまいち部活の内容を把握できていないようである。
 智野部長と創一たち、先日のラーメンの帰りに疑惑の場面を目撃してしまった四人は、微妙な表情でお互いに目配せし合った。とにかく今日は、その話題は封印だ。
 こうして、彼らの祭が始まった。講堂では開会セレモニーとしてブラスバンドの演奏などがあるのだが、彼らはそんなものには興味は無く、出席するのは桜沢先生だけだ。
「一日ゲームセンター」のオープン直後から、すでにゲーム目当ての学生が、何人も訪れていた。やはり人気なのは、智野部長の「オーヴァードライブ」で、無料で「スプラッシュ・ウェーブ」が出来るというのは強い。次いで、山岡の「美少女危機一髪・Z《ゼータ》」。内容が内容だけに、こちらはあまり大々的な告知はできなかったのだが、ポスターに描かれた山岡の美少女CGを見ただけで、コアな層には何かピンと来るものがあったようだった。
 地味な「ティラトス」は、やはり出足が悪かった。ところが、他のゲームを待っている間の暇つぶし半分に、試しにプレイしてみたお客たちからの評価が非常に高く、彼らの口コミによって次第に人気が出始めていた。
 横山と氷川は、相性占いの担当ということになっていたが、マニア層は当然そんなものはやらないから、閑古鳥が鳴くPC-6001《パピコン》の前であくびばかりしていた。作者である横山はともかく、氷川が占い担当なのは、彼のCG作品はただ展示するだけで操作の説明などが必要なく、要するに手が空いているからだった。
 氷川が何度目かのあくびをしようとしたその時、理科室の入り口から一組のカップルが入ってきた。おいでなすった、と横山に合図をして、二人はカップルの前に飛び出した。。
「どうもー。パソコン部でーす」
「面白いのがあるんですよ。相性占い。パソコンが、人工知能でお二人の相性を占ってくれます。どうっすか? 記念になりますよ」
「えー、うそー」
 時代遅れのぶりっ子口調で彼氏の顔を見上げた彼女の顔は、かつては猛牛と死闘を繰り広げ、今は愛嬌のあるペットとして人気のあの動物、ブルドッグによく似ていた。
「やってみようか。なに、僕らの相性が悪く出るはずなんかないさ」
 優しく微笑んだ彼氏のほうは、あまり特徴のない顔をしていて、つまりはまずまず男前の部類だ。いかなる定めがこのような組み合わせを創り出したのかは分からないが、二人はこうして進んで横山の占いの前に、身を投げ出すことになった。
 厳粛な面持ちで生贄カップルをPC-6001《パピコン》の前に誘導しながら、氷川は内心の期待と恐怖感を抑えるのに精一杯だった。この相性占いは、作者たる横山によって度重なる改良が繰り返されていた。徹底的に煮詰められたその毒性は、当初のバージョンの比ではないはずだ。下手をすれば、このカップルは今日で終わる。
 いちゃつく二人から生年月日などを聞き出してインプットし、そしてリターンキーで実行。彼らの運命が、ディスプレイ上に示される。
[あいしょう は 100%。 かのじょはいっしょう、あなたから はなれることはないでしょう。ふたりは みらいえいごう しぬまで いっしょです。 ぜったいに]
 きゃー、やっぱりと犬顔の女は犬歯を剥き出し、隣の彼氏に抱きついて喜んだ。胸を押し付けられた男のほうも笑顔ではあったが、その瞳には何か不安げな色が浮かんでいた。彼は気付いてしまったのだ。自分が呪われた運命にからめとられつつあるのだ、ということに。
「こういうパターンもあるんだな、恐ろしい」
 氷川はそうつぶやきながら、理科室を出て行く二人を見送る。女に腕を引っ張られていく男の背中には、濃い陰りの色が感じられた。
「相性が良くて、めでたいことやん」
 涼しい顔で、横山は言った。
 カップルと入れ替わりに、灰色のジャンパーを着たおじさんが部屋に入ってきた。誰かの父兄というよりは、中年のマニアという感じで、学生ばかりの中で明らかに浮いているのだが、そんなことは意にも介さず氷川のCGを熱心に眺めている。
 そこへ、桜沢先生が開会セレモニーから戻ってきた。先生は、おじさんの姿を見つけるなり、驚いたような顔をした。
「あなた」
 その声に、部員たちが一斉に先生のほうを見た。どうやらこのおじさん、桜沢先生の旦那さんらしい。ということは、の社員のはずだ。
「いや、すまない。いきなり来て悪かったが」
 彼女の驚きようを見た桜沢氏が、慌てたように言った。
「一度、君のパソコン部というのを見てみたかったものだから。文化祭での展示なら、ちょうどいいだろうと思ってね」
「それは嬉しいけれど、今朝は何もおっしゃってなかったものだから」
「すまなかったね」
 そう言いながらも桜沢氏は笑顔になって、シャープ・X1の画面を指さした。
「これが、電芸推進賞のCG作品かい? 家電メーカーさんのマイコンも、馬鹿にならないパーフォーマンスが出るんだね。市役所のほうからも話が来てるんだって?」
「ちょっと、その話は」
 急に低い声になって、先生はご主人をにらみつけた。
「ああ、そうだったか。やるべきだと思うがなあ、その話はまた今度にするが。……それにしても盛況だ。マイコンがブームだというのは、本当なのだね」
 桜沢氏はきょろきょろと、理科室の中を見回した。
「折角いらっしゃったのですし、部員のみなさんにご挨拶でもしてくださったら?」
「うん、そうだ、そうしようか」
「ええと、パソコン部員のみなさん」
 桜沢先生は、創一たちに向かって高い声を上げた。
「今日は、私の主人が見学に参りました。一言、ご挨拶をさせていただきたいと思います」
 部員たちが、桜沢夫妻の前に集まった。創一としては氷川の様子が気になるところだったが、当の本人は無表情なままだ。
「みなさん、こんにちは。桜沢忠と申します。いつも妻が、お世話になっております」
 桜沢氏はそう言って、丁寧にお辞儀した。
「私は日本電気という会社で、主にACOSという汎用コンピュータのシステムエンジニアをしております。大きな会社や官公庁、そういうところで使われる電算処理システムを作るのが私の仕事です。マイコン……最近はパソコンと言うのかな、部門が違うのでそちらのことは良く分かりませんが、将来性のある技術だと思います。ぜひしっかり学んで、これからの日本のコンピュータ技術を、みなさんのような若い人たちが支えて行っていただければと思います」
 さすがは大企業のサラリーマン、挨拶もそれなりに形になっている。みんなが一斉に拍手した。氷川も澄ました顔で、一緒に手を叩いている。
 それでは戻ってください、と先生に言われて、部員たちは各々持ち場に帰った。桜沢氏は、客の居ないPC-6001《パピコン》の前に近付き、グリーンの背景にひらがなが並んだ画面をのぞき込む。自社と同じNECブランドの製品が気になるのかも知れない。
「これは……相性占いソフト、か。なるほど、漢字のフォントは入っていないのだな」
「動かしてみましょうか? 相性占い」
 氷川がそう訊ねる。隣の横山は何か言いたげな顔になったが、何も言わない。
「あ、ああ。そうだね、家内との相性を占ってもらおうかな」
「では、お二人の生年月日と星座、血液型をお願いします」
「私は一九四九年八月十六日、獅子座のO型。家内は、」
「先生のほうは分かります」
 氷川はキーボードを叩き、二人分の個人情報を入力しはじめる。
「これは、開発言語は何を使ってるんだい?」
「BASICです。入門用の簡単なやつですけど。……ああ、そこはファンクションキーで選択するんや」
 横山がそう答えながら、氷川の横からキーボードに手を伸ばし、入力を助ける。
「なるほど。FORTRANなら、私もちょっと使ったことがあるのだが」
「結果が出ました」
 氷川が振り返った。目の前の画面には、例によって横山謹製の嫌なメッセージが表示されていた。
[あいしょうは 45% 時には あいてに ふまんをかんじ、うらぎることもありえる。しかし けっきょくは せけんのひょうばんなどを きにして 分かれることも できないまま、ふたりは 年おいていく]
 読みにくいオールひらがなの文章を、目を細めるようにして読み終えた桜沢氏は、特に気を悪くした様子もなく、ただ苦笑を浮かべた。
「なるほど、なかなかシビアだね。でも、当たってるかも知れないな。夫婦なんて、元々こんなものだろうけどね」
 いや、ありがとう、実際にマイコンが動作するところを見られて良かった、と桜沢氏はお礼を言って、それから先生と少し言葉を交わして、理科室を去って行った。
 その後姿を見送りながら、氷川は横山に訊ねる。
「この占いは、当たるんだろうね?」
「当たるよ、必ず」
 横山が、断言した。

 パソコン部の展示は大盛況のまま、昼休みの時間を迎えた。一番の人気はやはり智野の「オーヴァードライブ」だが、創一の「ティラトス」にもそれに匹敵するくらいの行列ができていた。中毒性があるこちらのゲームには、リピーターも多いようだった。
 マニア層に変わって、一般客の数も増えてきたため、相性占いもフル稼働の状況になっていた。横山と氷川による熱心な勧誘の成果もあって、この占いの毒牙にかかったカップルの数は、午前中だけで十数組に上った。彼・彼女らの問題点を的確にえぐり出してはダメージを与えていくPC‐6001のその様は、まるで人工知能を搭載しているが如きであって、とてもじゃないが初心者向けの安価なパソコンとは思えなかった。ヤンキー&スケバン丸出しのヤバそうなカップルに「純粋に愛し合うには知能など無いほうが良い、ということを証明するベストカップル」という趣旨のメッセージを出したときはさすがの氷川も青くなったが、「相性100%」の部分しか理解できない二人はただ喜ぶだけだった。なるほど知能などないほうが幸せだ、と氷川は心から感心した。
 他の作品もそれぞれに人気で、みんな忙しい中、城崎副部長だけは何もすることがなく、廊下に置かれたミカン箱の横にただ佇んでいるだけだった。箱の上に積まれた「歌の風よ吹け・鵜飼・その他の短編」の冊数は、何度数えても一向に減る様子がない。誰も持って行こうとしないのだから、そりゃ当たり前なのだが。
「……おかしいな」
 困惑したように、副部長は長髪をかき上げる。もしかすると、こちらから来訪客に声を掛けて売り込まないとだめなのだろうか。そんな当たり前のことに彼はようやく気付き始めていた。
「城崎くん」
 背後から突然、若い女性の声がした。それまでの気だるい動作が嘘であったかのように、彼は瞬時に振り返る。
「こんにちは」
 色白で、長い黒髪が美しい、お嬢様学校の制服を着た女子高生が、上品な微笑みを浮かべながら挨拶する。城崎にそんな態度で接してくれる女性は、全世界にたった一人しかいない。智野部長のガール・フレンド、京子さんだった。
 その後ろには同じ制服の女の子が二人いて、おずおずという感じで挨拶してくれる。何だかどこかで見たことがあるような気はするが、城崎にはそれが誰だか分からない。しかし、女の子たちの側は城崎のことを忘れてはいなかった。京子さんと同じ美術部の部員である彼女たちは、以前にセントレオ・ハンバーガーで彼に出会っていた。みんなでしゃべっている中で、一人ポケコンで小説を書き続けるという彼の奇行はかなりのインパクトで、そうそう忘れられるものではない。
「見学に来たのだけど……祐ちゃんは?」
 京子さんはそう言って、理科室をのぞきこむ。
「いないね。食事に行ってる」
 ぶっきら棒に言って、副部長は京子さんの背後の女の子たちをじろじろ見た。二人は身を寄せ合うように、一歩下がる。
「そう、じゃあここでちょっと待たせてもらおうかな」
 廊下に並べられた休憩用のパイプ椅子に、京子さんは目を遣った。
「いいとも」
 城崎はそう言うと、箱の上の冊子をすばやく取って、三人に向かって押し付けるように突き出した。
「待っている間、これを読むといい。ここには、永遠がある。さあ」
 学食で昼食を取っていた智野と創一が、戻ってきた理科室の前で見たのは、窮屈そうにパイプ椅子に座って城崎の冊子を読んでいる、京子さんたち女子高生三人の憂い顔だった。
「何やってんだ、お前」
 呆れたように智野部長が声を掛けると、
「あ、祐ちゃん」
 京子さんの表情が、途端にぱっと明るくなった。
「見に来たよ。鈴木君も、お久しぶり」
「どうも、こんにちは」
 創一は、ぎくしゃくとお辞儀しながら、京子さんの背後にいる女の子たちを上目遣いで盗み見る。やっていることは、副部長と変わらない。
 派手な感じの娘は、前にセントレオ・ハンバーガーで会った、確か明美さんとか言ったはずだ。もう一人は初めて見るが、小さな顔がPC-8801《ハチハチ》シリーズの広告でおなじみの斉藤由貴に少し似ていて、あとの二人に負けず劣らずかわいい。彼女は可憐な笑顔を浮かべつつ、軽く小首を傾げるような会釈を返してくれた。隣の明美さんは、ほんの五ミリほど頭を下げただけだ。やはりセントレオでの印象が良くないらしい。
「じゃあ、ありがとうこれ。面白かったよ」
 京子さんが、例の冊子を城崎に帰そうとした。明美さんたち二人も同調する。
 慌てたのは城崎だった。ここで返されては、せっかく捌けた在庫が元の黙阿弥だ。
「いや、これは君たちにあげたものだから。ぜひ最後まで読んでくれ給え。良かったら、感想の手紙(ファンレター)など送ってくれても構わないが」
 必死で冊子を押し返す副部長に、彼女たちはしぶしぶの様子で鞄にしまいこむ。手紙など、絶対にあり得ない。
 出だしからいきなりこんな目にあって、女子高生たちはかなり警戒した様子で理科室に入った。マニア層の客が優勢な室内で、彼女たちの目にまず入ってきたのは、山下達郎(タツロー)のテーマ曲を奏でるシャープ・X1のディスプレイ画面だった。ちょうど、夕暮れの湖畔が映し出されている。美術部の彼女たちは居場所を求めるように、その画面の前に集まった。
「こんにちは」
 作者である氷川が寄ってきて、愛想よく挨拶する。
「お久しぶりですね。京子さん、明美さん、それに麻衣さんも」
 そうか、この人は麻衣さんというのか。しかし、氷川とはどこで知り合いになったのだろう。わずかに妬ましく思いつつ、改めて彼女の顔を見た彼は、あっと驚いた。この人にも、前にセントレオで会っているではないか。「ラピュタ」の話をした、あの子だった。黒ぶちの分厚い眼鏡をかけて、可も不可もない地味な普通の子だ、などと思っていたのだが、とんでもない。眼鏡を取ったら別人、丸っきり昔の漫画のようだが、そんなことが現実に起こるとは。
「こんにちは、氷川君」
 京子さんは上品な微笑みを返す。
「これね、コンテストで受賞した絵って」
「そうなんです。まあ、まぐれで」
「きれいな海ねえ、ロマンチック」
「スーラみたい、点描画なのね」
 明美と麻衣さんが、それぞれに感想を述べる。
「パソコンの画面ってのは、全部点描画みたいなものなんですよ。ドットって言う細かい点が集まって、文字とか絵を表示してるんです」
 氷川がにこやかに説明するうちに、画面上の夕焼けがすっと青い闇に変わり、空には星が瞬いた。うわー、きれいと女の子たちがはしゃぐ。無機質な理科室の中に、まるでぱっと花が咲いたように、明るい空気が広がった。
「コンピューターって、こういうのが出来るのね。素敵だわ」
 明美はそう言うと、微かにブルーがかった瞳で氷川の顔をじっと見つめた。
「まあ、子供だましって言っちゃえば、それまでなんですけど。本物の芸術には、こういう演出はいらないわけで」
 氷川は照れ笑いを浮かべている。
 そんな様子を、少し離れた実験テーブルの上に腰かけた直子が、憮然とした表情で見ている。パソコン部の元祖アイドルとしては、お嬢様学校の生徒がちやほやされているような様子が、気に入らないのかも知れない。その向こう側からは桜沢先生も、気遣わし気な顔で氷川たちの様子を伺っていた。

 智野と創一は、京子さんたちを連れて、部内の展示を説明して回った。まるでVIP待遇で、直子がますます不機嫌になりそうだがまあ仕方ない。
 動物好きの京子さんは、「仔猫物語」に登場するファンシーな仔猫たちのイラストが気に入ったようだった。一生懸命グラフィックを描いた真田くんは、この綺麗なお姉さんに褒められて、照れ笑いを浮かべた。
 一方、そのすぐ隣に展示された「美少女危機一髪! Z《ゼータ》」に群がっていたマニア系の男どもは、路上の吐瀉物を見るような明美さんの視線に凍り付き、粉々に打ち砕かれることになった。この二作品の前に集まった客同士の間には、目に見えない高い壁がそびえ立っているようだった。
 麻衣さんは、行列ができていた「ティラトス」をやってみたいと言った。そこで創一は、調整作業と称してプログラムを一旦停止し、行列を解散させた上で、麻衣さんにMZ-80の前に座ってもらった。やはり、全くの特別待遇である。
 キーボードの操作に慣れていない麻衣さんは、すぐにゲームオーバーになってしまったが、「あー、失敗!」と笑う様子もかわいくて、創一は幸せな気分になった。こんな子に、自作のゲームを楽しんでもらえるとは。
「これ、面白いね!」
 何回か遊んで、しかしその都度すぐにゲームオーバーになりながらも、彼女は大喜びしてくれた。
「これ、鈴木君が作ったの?」
 と大きな瞳にまともに見つめられてどぎまぎしながら、「うん、そうなんだ」と創一はうなずく。うなずいてから、自分の名前を麻衣さんが憶えていてくれたのだ、ということに彼は気付く。
「すごいなあ。プログラム? だっけ。何をどうしたら、こんな面白いものが作れるのか、全然想像もつかないよ。わたし、頭が良くないし」
 とんでもない、と創一は叫びそうになった。
「いやいや、そんな、麻衣さんだって、プログラムなんて用語をちゃんと覚えてくれてて、すごいと思います」
「パソコンて、それで動くんだったよね? 確か、床の上を走っていくんだっけ?」
 麻衣さんは、にっこりと微笑んだ。そんなアホみたいなギャグまで覚えてくれているとは、創一は感動で声を失いそうになった。
 後は横山の相性占いが残っていたが、まさかあんなものをこの大事なお客様にやらせるわけにも行かない。とりあえず見学はここまでにして、京子さんたちには空いた実験テーブルに座ってもらい、アルコールランプを拝借して沸かしたお湯で、お茶を入れる。
 創一は、麻衣さんと向かい合って座り、とりとめのない話をした。驚いたことに、最近読んだ漫画のこと、好きな音楽のこと、何を話しても二人の趣味は似通っていた。創一がおずおずと口にした、あるマイナーなアーティストの名を、麻衣さんはちゃんと知っていた。知っているどころか、大ファンだった。彼と同じく、FMの深夜の番組で、彼女はそのアーティストの存在を知ったらしかった。その事実に、二人は非常に驚いた。お互い、そのグループのファンに会ったのは、自分自身を除けば初めてだったのだ。
 ただの雑談、しかし創一にとっては、それは本当に特別な時間だった。運命の出会い、大げさに言えばそんな感じだったのだ。
 
 そんな彼らの様子を、憮然とした表情で見ていた直子は、背後から掛けられた声に、さっと振り返った。
「やあ……こんにちは」
 そこに立っていたのはテニス部の三年生、あの男前の中川だった。ニチイのフードコートで創一たちと会った時と同じく、今日もジーンズ姿が長い足に良く似合っている。
「……こんにちは、先輩」
 冴えなかった直子の表情がさらに曇った。返事の声も他人行儀な色を帯びる。
「最近、どうしたの? 部活に顔を出さないみたいだけど……淋しかったよ」
「だって……あの子たちが、わたしのこと」
「美紅やまどか達のことか? 相手にしなくていい。僕は、直子だけが」
「じゃあ、どうしてあの時、ちゃんとわたしのことを。みゆきさんや夏美先輩にまで、あんなこと言われて……」
 黒い竜巻のように、その場に急速に渦巻き始めた不穏な空気に、創一たちと、それに京子さんたちも気付いた。実験テーブルを囲んだ彼らは思わず黙り込み、直子たちの様子をうかがう。美術部の清楚なお嬢様も他人のトラブル、それも男女間の揉め事にはやはり興味津々らしい。
「すまなかった。次は、ちゃんとする。はっきりさせるから」
「本当なのね?」
 創一は、旧村のお祭りの日のことを思い出していた。直子はテニス部の女の子たちに取り囲まれて、何やら言い合いをしていたはずだ。やはり部内で、何かトラブルが起きているのだ。
 痴話喧嘩まがいの、こんな場面を見せられるのは複雑な気分ではあった。しかし今の彼には直子よりも、目の前に座っている麻衣さんのほうが、ずっと気になる存在になりつつあった。終わったことは、終わったことだ。
「あの、お取込み中ですけど」
 そんな二人のそばに、いつの間にか忍び寄っていた横山が、突然声を掛ける。
「相性占い、試してみやへんですか? パソコンが、科学的に判定してくれますよ」
 その場の全員が、唖然とした。この状況で、そんなこと言うか。こいつ何考えてるんだ。しかし直子は、予想外の返事を返した。
「そうね、やってもらおうかな」
 戸惑いの表情を浮かべながら、中川氏も渋々と言った様子でPC-6001《パピコン》の前にやって来た。この占いの悪い評判は、彼も聞いている。前回は、相性二十%とか判定されたはずである。
 氷川や創一たち、それに京子さんたちも、静かにPC-6001《パピコン》の前に集まってきて、直子と中川氏を遠巻きにするように囲み、ディスプレイを見守った。そんな中、横山は二人の個人情報を無造作に打ち込むと、ファンクションキーをいくつかすばやく押して、最後にリターンキーを叩いた。画面の緑の背景に、禍々しいひらがなが並ぶ。
[あいしょうは そくてい ふのう。おとこは なんにんもの おんなに てをだしては おなじことを やくそく している。かんけいが おおすぎて すうちは だせない]
「いや、違う……。そんな、ことは」
 中川は真っ青になって、その場に立ちすくんだ。端正な顔から、汗が噴き出している。
 空気が、凍り付いた。中川のこの反応は分かり易すぎる。これでは、とんでもない内容のこのメッセージを、事実だと認めたようなものではないか。馬鹿馬鹿しいと、一笑にふせば済むものを。
「そう、なのね?」
 男を見つめる直子の瞳は、今にもビームが放たれそうなくらいに、青白く光って見えた。
「君、だけだよ」
 うつろな目でそう言いながら、中川は後ろに一歩下がる。しかし、もう遅かった。

 話をつけるために二人が理科を出て行くと、ようやく辺りの空気が解凍された。京子さんたちは、何とも言えない顔でひそひそと話をしている。もはや興味深いという段階を通り越して、見るべきではないものを見てしまった、という感じなのだった。
 そんな空気をものともせず、横山は彼女たちに、にこやかに話しかけた。
「どうですか? みなさんも相性占いを」
 彼としては、あらゆるカップルをどん底に落とすという使命に、あくまで忠実なのだった。ある意味、偉いものである。
「昔買ってた猫ちゃんの命日だから、今日はやめておくね」
 京子さんは即座に、意味不明な理由で辞退した。向こうで智野部長が、強くうなずいている。
 麻衣さんは、占って欲しい相手が誰もいないから、というごく普通の理由で断った。相手がいたとしても、こんな悪魔のような占いを試そうとは思わないだろうが、創一は少しだけほっとしたような気持になった。
 何を考えたのか明美さんだけは、相性占いをやってみたい、と言い出した。考えてみれば、セントレオでのポケコン運勢占いで、彼女には割とまともな結果が出ていたのだった。氷川による小細工が功を奏したのだったが、占いの相手として指名されたのは、その氷川だった。
「でも、明美さんにはちゃんとお相手が……空席なしだって、確か」
 あの時と違って、氷川は遠慮気味だ。
「すごい。よく覚えてくれてるのね。でも、こうも言ったはずよ。あんまりうまく行ってない、ってね」
 結局、二人の相性を占うことになり、横山は無造作にそれぞれの個人情報を打ち込んだ。ファンクションキーを操作して、一瞬だけ背後を振り返り、そしてリターン。
[あいしょう は 80%。しょうがい の パートナーとして しんけんに かんがえるべき]
「すごいじゃない! 見て、これ」
 明美さんが笑顔で、周囲のギャラリーを見回す。
「パートナーだって、氷川君」
 この文章は前に見たことがあるな、と創一は思った。確か、直子と横山の相性を占った時だ。この占いでこういうまともな結果は滅多に出ないから、良く覚えていた。
 氷川が、不審そうな顔で横山を見る。やはり、自分の時だけ結果がまともすぎて、違和感があるのだろう。
「あの、氷川君。忙しい所、ごめんなさい」
 集まったギャラリーの背後から、美代子先生の声がした。なぜか、緊張した高めの声で、表情が険しい。みんなが、途端に静まり返る。
「ちょっと、部室のほうまで来てくれます? 少し問題があって、大事な話があるのですけど。すぐに、今」
 はい、すぐに、と氷川は無表情に応えて、「ちょっと、すみません」と明美さんたちに頭を下げると、先生と一緒に理科室を出て行った。明美さんは、ちょっと不服そうに肩をすくめて、でもまあいいやという顔をした。所詮は、お遊びの占いだ。
 しかし、智野部長や創一は、この成り行きに何か不穏なものを感じながら、氷川たちの後姿を見送っていた。もちろん、例の「ピンクの山猫」での、ご褒美疑惑の件を思い出していたのだった。

 じゃあ、私たちはそろそろということで、京子さんたちは理科室を去ることになった。せっかくだから、劇や演奏も見て行くという彼女たちに、創一もついていきたいくらいだったが、そうも行かない。
 そこからは特にトラブルもなく、「一日ゲームセンター」は盛況のまま、夕暮れと共に幕を閉じた。先生や氷川、直子はそれぞれ不在のままで終わってしまったものの、まずはめでたい。
 しかし大変なのは、ここからの片づけだ。パソコンやディスプレイなどを全て再び部室に運び込み、理科室を空にしなければならない。
 まずは一旦、部室で一息入れようかと、部員たちは旧校舎へとぞろぞろと戻った。ギシギシと音を立てる木造の急な階段を上り、部室に近づいて行く。すると、扉の向こうから何やら言い争うような声が聞こえてきた。そう言えば、桜沢先生と氷川が、この中にいるはずなのだった。
「……だって、そりゃ若い娘の……よね、体だって張りが……胸ばっかり」
「ミヨミヨだって……旦那……あんなのわざとじゃ」
 謎の不穏な単語が飛び交うパンドラだかシュレディンガーだかの部室、今この扉を決して開いてはいけない。全員が、その思いで一つになった。開ければ、下手をすれば何もかも終わりだ。
 創一たちは、わざとらしくドスドスと大きな足音を立てて床板を踏み鳴らしながら部室へと近づき、
「いやー疲れた」
「副部長は、何にもしてないでしょうが」
「し、失礼だぞそれは」
「うははは、すみません。本を並べる作業がありましたね」
 などと大声を出してから、満を持して扉をゆっくりと開いた。
 機材がなくなってがらんとした部屋の真ん中には、いくらか紅潮した顔の先生と、青白い顔の氷川が向かい合って立っていた。何か濃密な生々しい空気が漂っているのは、気のせいだろうか。
「みなさん、お疲れさまでした。ごめんなさい、最後まで立ち会えなくて」
 しかし、美代子先生の声は落ち着き払っていた。
「その、問題というのは大丈夫なんですか?」
「ええ、今日のところは、ね」
 先生は、氷川を横目で見た。彼もうなずいて、
「じゃあ、片づけを始めましょう、みなさん」
 と少し枯れた声でうなずいた。

 とりあえず、機材を全て運び終え、再セッティングはまた明日以降ということで、その日の作業は終了ということにした。
 最後に、来場者から集まった人気アンケートの集計結果をみんなで確認する。これが、なかなか楽しいひとときなのだった。
 一番人気はやはり順当に「オーヴァードライブ」、そして「ティラトス」は大健闘の僅差で二番手に付けていた。課長賞のCGも、やはり好評だった。
「仔猫物語」と「美少女危機一髪・Z《ゼータ》」は人気こそ及ばなかったが、感想の自由記述欄に長文の感想が書かれていたり、さらにはちょっとしたイラスト――キュートな仔猫やロリ系美少女の――が添えてあったりもする、という点が共通していた。客層は正反対ながら、どちらも熱心なファンがついたわけだ。
 一方、相性占いは不評で、「気分が悪い。二度とやりたくない」「あんな不愉快な占いは初めてです」などという意見が多く見られたが、それを読んだ横山はご満悦の様子だった。最初から、それが狙いなのである。
 もっとも悲惨だったのは、城崎副部長の作品である「鵜飼その他」で、誰一人評価をつけた人はなく、感想もゼロだった。これは当たり前で、そもそも読んだ人がほとんどいない。
「所詮は、コンピュータ目当ての連中だよ。文学の価値など、理解できないのだ」
 と副部長は憤ったが、パソコン部の展示なのだから当たり前だ。

 これでようやく解散となり、部員たちは各々帰宅することになった。結局、直子と中川さんは戻って来なかったが、こちらもまだどこかで修羅場が続いているのかも知れない。先生と氷川は別の方向へ帰って行ったが、こちらもこの後どうなるのかは知らない。
 家への帰り道、所々に街灯が点る暗い農道を、創一はまた一人で自転車を走らせた。秋の夜、空気は澄んで冷たく、空の星の輝きもくっきりと見える。しかし、今の彼は寒さなどほとんど感じていなかった。
 農道同士の交差点、ぽつんと佇む自動販売機の前で、彼はペダルを漕ぐ足を止めた。街灯の蛍光灯と、缶コーヒー類が並ぶ自販機の窓の照明、それぞれの放つ光が混じりあって辺りを照らしている。
 シャツの胸ポケットから、創一は四つ折りにした一枚の紙を取り出した。それは先ほどの、アンケート用紙だった。
「5」番の「ティラトス」に丸印がされたそのアンケートの自由記述欄に、少しだけ丸っこい綺麗な字で書かれた文章を、彼は何度も読み返す。
「とっても面白くて、何度もやってみたくなるゲームでした。こんな楽しいものを、難しいコンピューターで創ることが出来る作者さん、すごいなあと尊敬してします。こんな才能があるって、素敵ですね。また、遊びに来たいと思います」
 それは、麻衣さんが書いたアンケートだった。智野部長が京子さんたちから直接受け取ったものなので、間違いない。彼にはそれが、まるで自分に宛てて書かれた手紙であるかのように感じられた。それでつい、こうしてポケットに入れて持って帰ってきてしまったのだった。
 アンケート用紙を折りたたんで胸ポケットにしまいこみ、創一はペダルを再び漕ぎ始める。麻衣さんと話した時の温もりが胸の辺りに残っているようで、風の冷たさも平気だった。
 きっと、また会える。彼方に横たわる住宅地の、疎らに点る灯りに向かって自転車を走らせながら、彼の心は柔らかな希望の光に満たされて行くのだった。

第五章 栄光と失意のクリスマス

 文化祭が終わり、季節は真冬へと向かって急速に傾きつつあった。もはや今年も残り少ない。パソコンで遊んでいてばかりでもまずいと、さすがの創一もプログラミングの合間に、机に向かって受験参考書を開くようになっていた。成績は悪くはないが、一応志望校として考えている大学に入るとなると、勉強量は全く不足していた。
 十二月ともなると部屋も寒くて、あくまで勉強用という条件で買ってもらったばかりの石油ファンヒーターをつけっぱなしで深夜まで過ごすことも多かった。今までの小さな電気ストーブと違い、このファンヒーターはなかなか強力で、暖かさのあまりか頭がぼーっとしてくることもしばしばだった。実は勉強用には向いていないのかも知れない。
 換気のために少し窓を開けると、外の冷気と一緒に、冬の静けさが流れ込んで来るような気がした。一人の部屋が急に淋しく思えて来て、勉強机の前に座った彼はラジカセのスイッチを入れ、FMチューナーのダイヤルを回す。周波数の書かれた目盛りの横にあるLEDランプが紅く点ると同時にノイズがおさまり、音楽が流れ始める。聞き慣れた歌手の、聞き覚えのない歌だった。山下達郎(タツロー)の声だ。
 参考書を閉じて、彼はボリュームを上げた。その曲は、いわゆる「カノン進行」の正統的なコード進行を伴った、いかにもクリスマスソングらしいクリスマスソングだった。後に歴史的なヒット曲になる「クリスマス・イブ」である。ちょうどこの冬、シングルレコードとして再発売されたところだった。
 山の向こうの大都会から飛んでくる、その洒落た曲を聞いていると、窓の外で住宅地の通りを照らしている水銀灯の無愛想な光までが、ロマンチックな煌めきに見えてくる気がした。
 そうだ、と彼は思った。クリスマス・パーティーをやろう。
 実は、パーティー自体は昨年も開催されたのだった。イブの夜に男五人が部室に集まって、スーパーで特売されていたまずい唐揚げと、油っぽいまずいバタークリームのまずいケーキを食べた。城崎を初めとする参加者たちは「今年もいいことは無かった」「女子がいない部活なんてやる意味あるのか」とグチるばかり、ジングルベルより般若心経のほうがぴったりという尋常ではない侘しさで、一年生だった創一はうっかり参加したことを心底後悔したのだった。当時はまだ部長ではなかった智野は、デート優先で来なかったため、難を逃れた。
 ああいう寒々しい寄り合いではなく、女の子も呼んでの盛大なパーティーをやろう、創一はそう考えたのだった。もちろん、デートの予定などというものが入るなら、それがベストだろう。しかし、わずか一ヶ月でそんなのは無理だ。彼が現状で目指すことが出来る最高到達点こそ、麻衣さんや京子さんたちと過ごすクリスマス・パーティなのだった。

 翌日の日曜日、創一は母親から頼まれて、緑町の駅前へと買い物に出かけた。普段なら嫌々行くところだが、今回は珍しく文句一つ言わずに彼は引き受けた。このところ街に出る機会もなかったし、歳末の売り出しで賑わうニチイショッピングデパートをのぞくのも楽しそうだと思ったのである。
 紺色のジャンパーを着込み、手袋をはめた完全装備の創一は、いつもの青い自転車にまたがって走り出した。住宅街を出てしまうと、枯れ果てた田んぼの真ん中に伸びる農道ハイウェイに風を遮るものは何もなく、彼方の山々から吹いてくる冷たい横風をまともに受けながら彼はペダルを漕ぎ続けた。夏はひたすら暑く、冬は寒いという最悪のサイクリングコースなのである。
 そんな過酷な道のりを、彼方の市街地にそびえる鉄塔を目指して走り続けるうちに、次第に顔がこわばり、唇の感覚が無くなって来る。夏場なら、旧村に逃げ込んで無料の水で涼むことも出来るが、冬場はどうしようもない。お金があれば学校近くの自販機に寄り道して、熱い缶コーヒーを買うことも出来るが、もちろんそんな贅沢をする余裕はない。よりにもよって踏切にも引っかかり、遮断機の向こうを爆走していく区間快速に思い切り冷風を浴びせられる、というおまけまでついた。
 ようやく駅前の商店街にたどり着いた頃には、手袋をしていてさえも手はかじかんで、ろくに指も動かせない状態になっていた。気温そのものは変わらないが、寒風が吹きすさぶ田んぼの真ん中に比べると、商店街はずいぶん暖かく感じられて、彼はほっとした。
 最初に向かうのはニチイではなく、城跡の近くにある和菓子屋である。母親に頼まれた用事というのは、その店で餡入りのお餅を買ってきて欲しいというものだった。母親が通っている習い事の先生に、お歳暮代わりに渡すのだそうだ。
 お城の近くには古びた木造家屋が何軒か並ぶ旧栃町通りがあり、城下町としての緑町市にとって、言わば切り札のような観光名所となっていた。目指す「本家蓮屋」は、その通りの入り口にあって、やはり築百何十年だかの江戸時代に建てられた建物が目印となっていた。老舗中の老舗である。お城の堀に咲いてた蓮の花がその名の由来だということだったが、残念ながらお堀の蓮は戦後になって全て枯れてしまったということだ。
 店の前で自転車を停めて、のれんをくぐって店内に入ったところで、創一は思わずおっと声を上げた。骨董品に近い年代物の石油ストーブを囲んで丸太の椅子に座り、餡餅をほおばっている三人は、横山と氷川、それに真田だった。木造の古い建物の中は昼間でも薄暗く、彼らの頭上を覆う低い大和天井では、蛍光灯が頼りない光を放っていた。
「あ、創一さん。こんにちは」
 氷川が挨拶する。
「どないしはったんですか?」
 今度は横山が、呑気な声で訊ねた。
「どうしたって、御城餡餅(おしろあんもち)買いに来たんだ。お前らもか」
「ええ。直子先輩を元気づけてあげよう、って横山君が。ここの餡餅が大好きなんだそうです、先輩は」
 真田君は、相変わらず真面目そうな顔をしている。
「で、折角だから、ちょっとここでお餅食べて温まって行くことにしようかって。創一さんもどうですか? お茶もらえますよ」
 氷川はストーブの上に乗った、黒ずんだ鉄瓶を指さした。いかにも暖かそうに湯気が立ち昇っていて、凍え切った体にこれはありがたい。結局彼も、お歳暮用とは別に餡餅を一つ買って、仲間に入ることにした。
「何かあったのか? 直子」
 お餅を頬張りながら、創一は横山に訊ねる。
「ああ、別れたんですわ、中川と」
 横山はあっさりと言った。
「他の女とデートしとる現場を撮った証拠写真が、匿名で直子さんの所に届いたんですわ、テニス部の誰かが送ったみたいで。その女いうのが、部長の彼女が行ってはる、あの女子高の生徒やったらしいです。キスしてる写真まであったとかで、悪い奴ですわ、あの中川は。他校の子でも見境なし、いうわけで」
「それにしても、写真を送り付けるなんて、陰湿なことをする奴がいるもんだな。ちっとも爽やかじゃないんだな、テニス部」
 創一は顔をしかめた。麻衣さんのことが、ちらっと気になる。まさか、そんな奴の毒牙にかかるような人ではないはずだ。
「泥沼ですわ、あそこは。そやけど、そんな悪い奴でも別れたのはショックやったみたいで、直子さん」
 横山が表情を曇らせる。直子を心配しているというのは、事実らしい。
「どうやったら、そんなたくさんの女の子を同時に相手することができるんでしょう? 体力はもつのでしょうか?」
 真剣な顔で、真田君が創一に訊ねる。
「いや知らないよ、俺に聞くなよ」
 こいつ、どんな状況をイメージしてるんだと、創一はまた呆れる。
「それで直子さん、すっかりふさぎ込んで、部屋にこもってずっと音楽のプログラム作ってはるらしいんですわ。『私はピアノ』とか、『悲しみが止まらない』とか。『恋に落ちて』も作った言うてはったかな」
「切ない歌ばっかりだ。失恋とか不倫とか」
 氷川も、ひどく暗い顔をする。
「あ、そうだ」
 真田君は、今度はその氷川のほうを向いた。
「そういえば、文化祭の時に、桜沢先生のご主人が来てたよね?」
 お前、何をどう連想してこのタイミングでそれを訊くんだ、と怒鳴りつけそうになり、慌てて創一は言葉を引っ込める。文化祭直後の、あのパンドラあるいはシュレディンガーの部室、あの異様な重力による歪みが発生していた空間を、お前忘れたのか。しかし当の氷川は、あくまできょとんとしている。
「あの時、ご主人さんが『市役所のほうから話が来てる』って言ってたんだけど、あの課長賞のコンピュータ・グラフィック。それって、どんな話だったの?」
 そう言われてみれば、そんなことを言っていたような気もするが、そんなのどうでもいい。火薬庫でマッチ遊びをするようなこんな会話、早く打ち切ってくれ。
「ああ、あれね」
 氷川は苦笑した。
「市役所のロビーかどこかで、あれを展示させてもらえないか、って教育委員会から学校に話があったんだよ。『高度情報化社会に対応した教育』の成果として宣伝できるからってさ。それでこの前、先生と一緒に市役所まで行ってきたんだけど、部のX1を長期で貸し出せとか無茶いうもんだから、断っちゃった」
 創一と横山は、思わず顔を見合わせた。ということは、先生と氷川はラブホに行ってたわけではなく、その近くの市役所に行っていた、ということになる? そうなのか。
「え? 駄目ですよね、そんなの。断るべきだったと思うんだけど」
 そんな二人の様子を見て、氷川は不思議そうに言った。
「も、もちろんだ、良く断った。部の持ち物を横取りする役所になんか、協力しなくていい」
「ですよね。正直、ちょっと残念な気もしたんですけどね。桜沢先生とも、ちょっと喧嘩しちゃいましたよ、文化祭の時に。先生の旦那さんは、ぜひやるべきだって言ってたみたいで、じゃあNECのパソコン貸してくれるのかって言うと、部門が違うからそれもダメだって。イラストも、山岡先輩が描くみたいなかわいい女の子をビーチに加えてくれって。大人の都合ばっかですよね」
 苦笑する氷川を見ながら、それ本当だよな、信じてもいいんだよな、と創一は胸のつかえの半分くらいがようやく降りるのを感じていた。仲のいい後輩と先生が、男女としておかしなことになっている、というのはやっぱり辛いのだ。こんなあっさりと真相が判明してしまって、ちょっとだけ物足りないような気持ちが残るのもまた確かだったが、何と言っても平和が一番。これでいいのだ。

 お歳暮用と、直子へのお土産用の御城餡餅(おしろあんもち)をそれぞれ買って、四人はやはりニチイショッピングデパートに寄って行くことになった。駅前の駐輪場に自転車を停めて、ロータリーに面した六階建てのビル、この町における最大の商業拠点へと向かって歩く。
「そう言うたら」
 と、店の入り口で横山が足を止めた。
「マイコン・マガジンの新年号が、もう出てるかもしれへんですわ。まず、本屋行きましょう」
「あれ、明日じゃなかったっけ? 発売日」
 氷川が不思議そうな顔をする。
「いや、ここの本屋は、発売日より早めに売り場に出すことが多いんや。今日は日曜やし、昨日のうちには入荷してるはずかやら」
 妙に事情に詳しい横山の言う通り、五階の書店に行ってみると、そこには確かにマイコン・マガジン新年特大号がすでに平積みになっていた。
「へえ、ほんとだね」
 真田君が感心しながら、一番上の一冊を手に取る。表紙には、「ベスト・プログラマー賞発表」とあった。
 マイコン・マガジンでは年に一回、全投稿作品を対象としたベスト・プログラマー賞というものが金・銀・銅と選出されることになっていた。賞のランクに応じて、賞金も出る。
「お、そうだ。今回が発表だな、ベスト・プログラマー。多分あれだろ、MZ―1500の、」
 創一も一冊手に取って、ページをめくる。
「お、あっ?!」
 真田君が、とんでもない大声を上げた。店内の客が一斉に振り返る。
「何だよ、うるさいな」
 顔をしかめた創一を、真田君は目を見開いたまま指さした。
「あの、創一先輩、あなたのが。『ティラトス』ですよ、受賞してます、銅賞です」
 ええっ、と今度は創一を含めた三人が声を上げた。もつれる指で、もどかしくページをめくると、彼のペンネームである「ドサ犬」の文字が目に飛び込んで来た。
 氷川を含めた一年生たち三人は、尊敬のまなざしで彼の顔を見た。この賞を受賞するということは、アマチュアプログラマーたちにとっては大変な名誉である。正直なところ、良く分からない文化庁の賞などよりもこちらのほうが業界的に格上というのが、彼らの感覚だった。
 銅賞の賞金は十万円で、これももちろんとんでもない大金だったが、もっと大きいのが、この賞を取ったゲームは市販化される可能性が高いということだった。実際、昨年の大賞作品であるアクションパズルゲームの「コナ・ゴナ」は最近絶好調の任天堂のファミリーコンピューターに移植されて大ヒットしている。
 突然に、目の前に開けたとんでもない可能性に、創一は目もくらむような思いがした。三人と別れて家に帰るまでの間も、農道沿いの淋しい風景など、全く目に入らなかった。彼が見ていたのは栄光に包まれた未来、十万円の札束と、市販化された「ティラトス」のパッケージを手にした自分自身の姿なのだった。

 翌日の放課後、彼が部室に顔を出すと、すでに横山に聞いたとかで、智野部長も城崎副部長も受賞のニュースを知っていた。室内は暖かな空気に包まれていたが、これは別に彼を祝福しているからという訳ではなく、石油ストーブのおかげである。
「ついに、うちの部からベスト・プログラマー賞が出たか。先を越されたな」
 智野部長は、感慨深げに言った。
「何が評価されるか、分からないもんですねえ。プログラムとしては、大したことないんですけども」
 と、創一は珍しく謙遜気味だ。
「でも、次は部長の『オーヴァードライブ』なんじゃないですか?」
 実は、智野の「オーヴァードライブ」も、同じマイコン・マガジンの新年特大号に掲載されていた。ただ、今回掲載された作品が選考の対象になるのは、あくまで来年のベスト・プログラマー賞である。
「気を遣わんでもいい。素直に喜んどけ」
 智野が苦笑した。
「次が俺、という可能性は十分あるとは思ってるけどな」
「ま、ゲームのプログラムなんてものは、文学に比べたら全然底が知れてるからね」
 城崎副部長が、またパソコン部の存在意義を否定するようなことを言い出す。
「そんな賞を一つや二つ取ったところで、文學海や郡象の新人賞に比べれば、どうということもないね」
「ですよね。副部長はぜひ、芥川賞でも目指して下さいよ」
 まともに相手にせず、適当に流した創一の言葉に城崎は、
「いや、僕が取るのは谷崎賞だ」
 と真顔で返した。
「ところで」
 と、創一は例のクリスマス・パーティーの件を切り出した。途端に、部室の奥で富士通FM-7を操作していた一人の二年生部員が、おびえたような顔で創一たちのほうを見る。昨年のパーティーが悲惨だったことは、部員たちの間に知れ渡っていた。
「もちろん、昨年と同じ過ちを繰り返すわけには行きません。ここはぜひ、部長の力で、京子さんたちを……」
「うーん、悪いが、クリスマス・イブは無理だぞ。俺も、京子も」
 智野部長が冷たい表情で答えた。やはり、デート優先原則は譲れないのだろう。
 キーマンの智野に真っ向から否定されて、創一は肩を落とした。さすがに、京子さん抜きで麻衣さんだけが来てくれるというのは考えにくい。
「ただ……イブじゃなくクリスマス当日、二十五日の夜で良けりゃ、少なくとも京子は何とかなると思うぞ。他の子は分からんが」
 うなだれていた創一は、思わず顔を上げる。部長の背後に、神か仏の如く後光が射していた。実際には、PC-8801mk2の画面が白く光っていただけなのだが。
 こうして、念願通りのクリスマス・パーティーが開催されることになったのだが、その話を聞いた横山は、途端に難色を示した。
「それはまずいですわ。パーティーをやるんなら、直子さんも呼ばんとあかんでしょう。あの人、確実に予定あらへんですから、クリスマス」
 随分な言われようだ。
「もちろん、直子にも来てもらおうよ」
「でも直子さん、あの女子高を目の敵にしてはるんですよ。ほら、例の」
 そうだ、例の中川が浮気していた相手というのが、あのお嬢様学校の生徒なのだった。
「ええやないですか、直子さんだけでも。去年はお通夜みたいやったんでしょう? それに比べたら大違いの楽しいパーティーになるんとちゃいますか?」
「うーん、でも、もう京子さんたちからも、参加するっていう返事が来てるからなあ。今さらやっぱり来ないで、なんて言えないよ」
 創一は、でたらめを言った。向こうの意向など、まだ彼は知らない。しかし、直子には悪いが、京子さんたちを呼ばないというのではパーティーの意味がないのだ。
「悪いけど、説得しておいてよ、直子。別に浮気相手本人が来るってわけじゃないんだからさ。ちゃんと説明すれば納得してくれるだろう」
「そんなん……責任持てませんよ、知りませんよ、僕は」
 横山は口を尖らせた。まあ、それはそうだろう。

 智野部長による打診の結果、明美さんは駄目だが、京子さんと麻衣さんは当日参加可能、という返事が返ってきた。創一の夢が、ついに現実になったのである。
 パーティーの会場は、緑町駅周辺や、バイパス沿いの店などを色々検討したが、結局は昨年同じ部室での開催ということに落ち着いた。この近辺に、クリスマス・パーティーに最適な洒落た場所など元々ほとんどないし、まれにあっても高いし予約は一杯だしで、どうにもならなかったのだ。その代わりに、掃除と飾りつけは頑張ろうと、そういうことになった。
 世間は空前の好景気とかで、テレビはケーキだのチキンだのといった、豪勢なクリスマス・ムードあふれるCMばかり流していた。
 サラリーマンが出てくる胃腸薬のCMも頻繁に見かけたが、つまり宴会がそれだけ多いということなのだろう。創一の父親も、土曜の夜は酔っぱらって帰ってくることが多かった。
 彼には知る由もなかったが、この時こそ後にバブル期と呼ばれる時代が始まる、まさにスタートラインだったのである。「中国(ちゅうこく)ファンド」というのがどんなものなのか、彼には良く分からなかったが、証券会社のCMが急激に増えていたのが、その分かり易い兆候だった。
 例年なら世の中のそんな浮かれっぷりは、豪華なクリスマスなどというものに縁のない創一にとって、浮かない顔の一因になるはずなのだが、今年は違っていた。俺にも、ハッピーなクリスマスが待っている。そう思うと、「ドリフのクリスマス」を余裕の気持ちで爆笑しながら見ることができたし、家で過ごすことになったイブの夜も、母親が作ってくれたグラタンその他のご馳走を素直に喜んで食べることが出来た。
 二十五日当日、創一は昼のうちから張り切って学校へと自転車を走らせた。夜までの間に、あの部室を麻衣さんたちを迎えるのにふさわしい状態にまで片づけなければならない。
 その日は朝から雪がちらついていて、これはもしかするとホワイト・クリスマスになるかも知れなかった。ロマンチックな展開が期待できるところではあったが、やはり風は恐ろしく冷たく、顔がどんどんこわばって来る。
 そんな彼の目に、農道同士の交差点に佇む、例の自販機の姿が飛び込んできた。「ビーボより美味いのはビーボだけ」という謎の飲料会社のキャッチコピーが書かれた、暖かい飲み物がずらりと並ぶ、魅惑の箱。
 こんなところでたかが自販機に貴重な百円玉を投入するなど、いつもならあり得ない浪費だった。しかし、間もなく彼は、賞金の十万円を手にすることになるはずだ。そう考えれば、たった百円ではないか。それに、この寒さはただ事ではない。非常事態と言っても良いのではないか。
 気が付くと彼は、おしるこの缶を手にしていた。ニットの手袋越しでも、スチール缶の熱さが伝わって来る。缶をほおに押し当てると、顔面のこわばった筋肉が一気にほぐれるような気がした。中のおしるこは案外ぬるくて、小豆が缶の中にいくつも残るのも侘しい感じだったが、それでも彼は満足だった。お金があれば、こんな贅沢ができるのだ。
 部室には、すでに横山の姿があった。彼の説得の結果、直子は来るには来るということになったようだったが、準備の手伝いなどは断られたということだった。
「別に、このままのいつもの部室でいいじゃないのよ」
 と直子は冷たく言ったらしいが、わざわざ部屋を綺麗にしようという動機が、敵視している他校の女子生徒のためだというのでは、手伝ってくれるはずがない。
 智野部長は京子さんたちを連れてくる役目があるので、準備には来ない。氷川は家庭の事情だとかで、そして真田君は何か用事が入ったということで、どちらも今日のパーティーには参加できないとのことだった。他の参加者は、二年生の山岡や猫山田、一年生では七光、地獄車と、普段あまり顔を出さない二軍的なメンバーばかりだった。
 結局、創一と横山、それに副部長と、たまたま部室に顔を出した猫山田の首根っこを捕まえて、その四人だけで準備を行うということになった。
「プレゼント交換をやるべきだね。クリスマス・パーティーなら何と言ってもそれだよ」
 部室に現れた城崎は開口一番、そう言った。副部長にしては、なかなかまともな提案ではあったが、参加者への事前告知もなしに、パーティー直前の今になってそんなことを言い出してもどうにもならない。
 とにかく、みんなで集まれる場所を確保しなければどうにもならないから、彼らは部屋中の電子機器を、それが載った机ごと、苦労して廊下に運び出した。
 こうして、古ぼけたテレビとぼろソファーだけになった部室の床は、見事に埃だらけゴミだらけだった。いつ食べたのかも分からないミカンの皮が、ペシャンコになって床にへばりついていたりする。彼らはほうきとちり取りを持ってきて、げほげほと咳き込みながら、室内を徹底的に掃除して回った。全てが完了したときには、もうお昼を回っていた。
 続いて、相変わらず雪がちらつく中を自転車に乗り、緑町駅前へと買出しに走った。男性陣からは高額な会費をぶん取ることになっているから、予算は潤沢である。にもかかわらず参加者がこれだけ集まったのは、部長が女の子を何人も連れてくるらしい、という噂が広まっていたからだった。
「文化祭で来てた子、来るかな?」
 と猫山田は何度も創一に訊ねたが、どうやら彼は明美さんが目当てらしかった。彼女は来ないはずなのだが、それを知ってしまうと参加しないとか言い出す可能性があるので、「仲良しのみんなで来るように聞いてるけど」と期待を持たせておくことにした。影の薄い部員でも、今日に限っては重要な戦力なのだ。
 ホールケーキをニチイの地下にある「タカラブネ」、フライドチキンは鶏肉屋で買い込み、あとのおやつや飲み物は食料品売り場で仕入れた。プレゼント交換は無理だが、くじ引きでもやろうということで、その景品を用意するために日用品や文具のコーナー、それに中信電気に立ち寄って彼らの買出しは完了した。
 ツリーやイルミネーションこそないものの、赤や緑の紙テープや色紙などで部屋を飾り付けてやると、見るからにクリスマス・パーティーの会場という雰囲気になってきた。これなら上出来である。
「いやー、やればできるもんだなあ」
 見違えるほど華やかになった室内を見回して、創一は感慨深げに言った。
「まあ、確かに上出来だね、これなら」
 珍しく役に立った城崎が、さすがに満足げに長髪を掻き上げる。こころなしか、髪もいつもよりさらさらしているようだ。
 パソコン部なんだから、くじ引きもパソコンでやろうということで、PC‐6001《パピコン》を部室に戻して、横山がプログラミングを始めた。何かキーを押すと、当たりくじの番号がランダムに表示される、というだけの簡単なものだから、あっという間に完成する。
「これだけ準備頑張ったんだから、俺らに良い景品が当たるように仕組んどこうぜ」
 横山が書いているプログラムを見ていた創一が、そう言って城崎のほうを振り返った。
「それくらい許されますよね」
「いいんじゃないか」
 城崎が、うっすらと笑った。
「そんなこと、できるんですか?」
 プログラミングの知識が少ない猫山田が、不思議そうに訊ねる。
「特定のキーを長めに押した時だけ、番号がランダム表示じゃなくなって、俺らの持ってるくじの番号が自在に出せる、とかにしておけばいい。Zなら26、とかだな。INKEY$でも使えば、リピート回数を検出するのは難しくはない」
 邪な動機ではあるが、城崎が珍しくパソコン部の副部長らしいところを見せる。近頃は文学のことばかり言っているが、一応はプログラムも組めるのである。
「そういうインチキはあかんでしょう」
 横山が、なぜか硬い表情でつぶやく。
 間もなく、一年生の地獄車たちが部室に姿を現した。「いつもの部室じゃないみたいだ」と喜ぶ彼らのリアクションは平凡ではあったが、期待通りのものだった。
 続いて、京子さんを連れた智野が、到着する。おお、きれいになったな、と室内を見回す智野に、ほんと、クリスマスらしい感じねと、紺色のコートを着た京子さんが微笑む。元の汚い部室なら、このコートはたちまち埃だらけで大変なことになっただろう。それは良かったのだが、麻衣さんの姿が見当たらないのはどうしたことか。
「ごめんなさいね。麻衣ちゃんは、ちょっと遅れるみたい。急な用事らしくって」
 たちまち不安になった創一に、京子さんはおっとりとそう答えてくれた。
 そうですか、と彼がうなずいたその時、部室のドアが乱暴に勢いよく開かれて、冷気と共に見慣れない女性が入ってきた。金髪に近い茶色の髪に、真っ赤なエナメル生地のコート。創一の脳裏に、「一九八六年のマリリン」という曲のタイトルが浮かんだ。狭い室内にたむろした部員プラスアルファ全員の視線が、彼女に集中する。もう一度目を凝らして、謎の女を見つめた創一は、思わずあっと声を上げた。
「直子、お前それ一体」
「ちょっと、イメチェン」
 と、けだるそうに言って、実は直子だったその女は、肩に掛けた長細いバッグを床に置いた。黒一色のバッグの全長は、彼女の身長にも匹敵するほどだ。
「あの、その荷物は何かしら」
 京子さんがおずおずと訊ねる。まさか、銃砲類が入っているわけでもないだろうが。
「ああ、大したもんじゃないわよ」
 直子はいかにも面倒そうに、バッグのファスナーを開いた。中から姿をのぞかせたのは、シンセサイザー・キーボードだった。
「お、シンセじゃないか。いいね、クリスマス・ソングでも弾いてくれるのか?」
 凍り付いた空気を少しでも溶かそうとするかのように、智野部長が陽気な声を上げた。
「弾くつもりがなきゃ、わざわざこんな重いの持って来ないわよね」
 だるそうに金髪を掻き上げながら、直子は投げやりな返事を返す。
「それじゃ、あれ弾いてよ。マクロスのさ、映画のほうでミンメイがさ、その……」
 空気を読まず、無神経な大声でしゃべり出した山岡さえ、虚無と無関心を湛えて鈍く光る直子の瞳に見つめられて、ついに黙り込んでしまった。
 雰囲気がおかしなことになりかけてはいたが、とにかくパーティーを始めてしまうことにした。創一たちはケーキやチキンその他を、白い布を掛けた机の上に並べる。部屋の真ん中に置かれたその机の周りに、十人を超える参加者が座ると、どうにかパーティーらしい恰好がついた。直子は相変わらずの無表情、その隣に座る京子さんも、これはどうしたものかという思案顔ではあったが。
 気を取り直した創一が開会を宣し、セブンアップやミリンダでの乾杯と共に、パーティーは始まった。一年生の七光と地獄車が、嬉しそうにチキンにかぶりつく。猫山田は、明美さんは来ないのかと不満げな様子だが、創一は知らん顔をしている。それより、気になるのは麻衣さんのほうだ。
 その創一と横山に向かって、城崎副部長はなぜかラテンアメリカ文学について上機嫌で講義をしてくれるが、正直なところ二人にはその内容は良く分からない。まあ、またここでポケコンを取り出して小説を書き始められても困るから、創一たちは「へえ、ノーベル賞を」などと適当に相槌を打ち、話を合わせるふりを続けた。
 すっかりやさぐれ状態の直子と何とかコミュニケーションを取ろうと、京子さんと智野は色々話しかけてみるが、こちらもどうも話が噛み合わなかった。直子はしきりと、「何とかネットワーク」のコムロさんについて語りたがるのだが、それがどういうものなのか、智野たちにはさっぱり分からなかった。その何とかネットワークが、シンセ音楽の代表格として一般世間で大ブレイクするのは、間もなく訪れようとしている翌年の話である。
「しょうがないわね」
 退屈でしょうがない、という様子でため息をつくと、直子は立ち上がった。部室の隅に立てかけてあったバッグから、彼女はついにシンセサイザー・キーボードを取り出した。チキンの皿を乱暴に押しのけて、机の上にどすんと置く。
「お、いよいよ弾いてくれるのかな」
 彼女の機嫌を取るように優しい声を出した智野だが、どんな前衛的なシンセミュージックが演奏されるのか、と内心では戦々恐々である。
「大丈夫よ。みんなが知ってる曲にするから」
 部長の不安を見抜いたように、直子はそうつぶやくと、ふいに真剣な表情になって、鍵盤に指先を伸ばした。瞳の輝きが、よみがえる。
 シンセピアノ独特の、水の入ったグラスを叩くような、透明感のある音色で奏でられるイントロ。それは確かに、みんなにとって聞き覚えのあるものだった。坂本龍一の名曲、「メリークリスマス・ミスターローレンス」。窓の向こうに浮かぶ、雲の切れ間で輝く月を大きな瞳で見つめながら、直子はその旋律を澱みなく奏でた。全員が黙り込み、ただ聞き入っている。彼女の演奏が、クリスマスという日が持つ特別な力を引き出したかのようだった。窓際に置かれた円筒型石油ストーブの、覗き窓から見える青い炎までが、神秘的に見えた。
 ずっと後の話、バブル経済も弾けた九十年代半ばのことになるが、直子は音楽ユニットのコンポーザー兼ボーカルとしてデビューすることになる。そしてこの夜こそ、彼女の才能が人の心を打った、その最初の瞬間だったと言って良かった。
 演奏が終わると、彼らは惜しみない拍手を彼女に与えた。何でも屁理屈をつけてけなさずにはいられない城崎副部長さえ、感動した様子で盛んに手を叩いている。これは、クリスマスの奇跡と呼んでも良いだろう。
 直子も、先ほどまでの投げやりさが嘘のような、素直な笑顔にすっかり戻っていた。そうなると、金髪がいかにも似合わない。気を良くした彼女はそれから、クリスマス絡みの曲を連続で演奏してみせた。それらの曲には、山下達郎(タツロー)の「クリスマス・イブ」も含まれていて、その歌詞を思い出した創一は、思わず部室のドアに目を遣った。麻衣さんは、まだ来ないのだろうか?
 部室の雰囲気がすっかり和やかになったところで、いよいよくじ引き大会がスタートすることになった。パーティーの主役であるケーキに少し退いてもらい、テーブルの真ん中にPC‐6001とディスプレイを設置する。参加人数が予定より一人減ったからと、プログラムを書き換えようとする横山を、創一はちょっと待てと引き留めた。減った一人というのはつまり麻衣さんだが、まだ来ないと決まったわけではない。
 番号が書かれたくじ札を全員に配り終えた横山は、続いてファンクションキーを叩き、くじ引きプログラムを走らせた。画面に景品の名前が表示され、そこで何かキーを押すと当選者のくじ札番号が出る、というごく簡単なものだ。まずは、ハズレに相当する景品から、順番に当選者を決めていくことになっている。最初に表示された景品の名前は、[キンにくマン ちりとり]だった。
 ハズレ景品の怒涛のラインナップは、その「キン肉マンちり取り」や「三冠馬・シンボリルドルフ栓抜き」、「『金曜日の妻たちへ2』ゴム手袋セット」といった容赦無いくらいにハズレ感あふれる凄惨なものだった。新しい景品を発表するために、一体こんな品々をどうやって調達したのかとどよめきの声が上がる。これらは全て、ニチイショッピングデパートの売れ残り品処分ワゴンで埃をかぶっていた商品なのだった。
 横山がキーを押す度に、七光、地獄車、土煙と、女子高生目当てでこのパーティーにやって来た二軍メンバーの持つくじ札の番号が次々と表示されて行った。まるで、凄腕のスナイパーだ。彼らは一様に、照れたような薄笑いを浮かべながら、ハズレ景品を片手にガッツポーズをして見せた。
 可哀そうなのは猫山田で、朝から準備の手伝いをさせられた上に目当ての明美さんには会えず、当たった景品は中途半端でネタにさえならない「麻婆豆腐の素・中辛 三食分」なのだった。
 誤算だったのが、「金妻2ゴム手袋」だった。これを当てたのは美少女職人の山岡だったのだが、彼はゴム手袋の薄汚れたパッケージを手に本気で大喜びしたのである。そのパッケージには女優の香坂みゆきの写真が入っていたのだが、彼女こそ山岡にとって世界でただ一人、架空の美少女に匹敵するくらいに好きな実在の女性だったのである。つまらなく見えるものでも、誰かにとっては宝物になり得るのだ、という尊い教訓が残ったわけだが、これ以上ないくらいのハズレだと思って選んだ創一たちは単純にがっかりした。
 二等賞に当たる賞品は急にグレードアップして、「子猫物語レターセット」や渡辺美里のシングルCDなど、普通に欲しがる人はいるだろうというまともなラインナップになっていた。「天空の城ラピュタカレンダー」というのも入っていて、これは麻衣さんに当たれば良いと思って創一が選んだものだったが、結局は彼自身に当たることになった。「子猫物語」は京子さんに当たり、これも順当なところだ。
 最後に残ったのは、一等賞と残念賞という両極端の賞品だった。あれだけ残念な品物ばかりが揃っていた中で、それよりもさらに下の残念賞というのはただ事ではないが、城崎副部長がたまたまプレゼント交換用にと用意していた品物が、見事に採用されていた。
 それは、先日家族旅行で奈良公園を訪れたという副部長が買ってきた、鹿せんべいだった。確かに、有名な奈良名物ではある。しかしそれは、人間が食べるものではなく、鹿の餌だ。こんなものをプレゼントに用意してくるというのは、もはや嫌がらせと言わざるを得ないが、今回はたまたまそれが役に立った。
 一方の一等賞は、何と「ウォークマン」だった。大人気のポータブルカセットプレイヤーだが、しかしソニー製ではなく、かと言ってナショナルや東芝でもなく、「フェアナイト」という謎のメーカー製だ。そうは言っても千円二千円で買える物ではない。「一等賞品はとびきり豪華に」という横山の主張でこれを選んだのだが、そのあおりで二等以下の賞品を買う予算がかなり少なくなってしまっていた。三等の、あの物凄いラインナップは、実はその結果なのだった。
 この時点でまだ賞品が当たっていないのは、城崎副部長と直子だけである。こうなるともう、結果は見えているようなものだった。
[ウォークマン]の文字が表示された画面で、横山がキーを押すと、予定されていたかのように直子の持つくじの番号が表示されたのであった。嫌がらせ同然の鹿せんべいは、副部長自身がお持ち帰りということになった。
 全員が爆笑して大受けする中、くじ引きはこれにて全て終わり、ということになるはずだった。しかし実際には、ただそのままでは終わらなかった。
「ちょいと、待ちな」
 PC-6001の電源を落とそうと、横山がスイッチに伸ばしかけたその手を、副部長が突然掴む。
「疑う訳じゃァないんだがな。ちょっとプログラムの中身を改めさせてもらうぜ。大きな勝負だ。おかしな仕掛けでも打たれてちゃァ、たまらんからな」
 妙にドスの効いた低い声で、城崎は言った。彼は最近、「麻雀放浪記」全四篇を読破したばかりなのだった。
 城崎以外のみんなも、さすがにこれはおかしいと感じていたところだった。一等賞が当たった当の直子も、戸惑いの表情を見せている。いくらなんでも、ここまで出来レース的に面白すぎる賞品の当たり方は、不自然すぎる。
「くそ、最悪(インケツ)や」
 横山は舌打ちすると、副部長の手を振り払い、部室から逃げ出した。木張りの廊下をドタバタと駆け抜けていく足音が、静かなる聖夜にやかましく響き渡る。
「……ま、つまり何か細工してたってことだよな、このくじ引きプログラム」
 創一はPC-6001に近付くと、キーボードを叩いて[List]コマンドを実行した。
 部員一同が見守る中、画面の中をプログラム・リストの無数のアルファベット文字と数字が流れていく。一見、ランダムに数字が表示されるように作られているようだったが、その部分はダミーで、実は特定のキーを一定の長さの時間押すことによって、任意の数字が選べるようなサブルーチンが組み込まれていた。つまり、城崎副部長が冗談半分で言った、その通りの仕様でインチキが仕込まれていたのである。
「やっぱり、イカサマじゃァねえか。やり直しだ、こんなくじ引きは」
 城崎副部長が勝ち誇ったように叫び、鹿せんべいを机の上に投げ出した。しかし他の参加者からは、
「もう、いいでしょう」
「俺も、この紀文のはんぺんプラモデルで我慢しますよ。作ろうとは思わないけど」
「僕の手から、みゆきを奪うような策動には断じて同意できない!」
「大体、そんなもの持ってくるお前が悪いんだ。自業自得だ」
 などと、全く賛同が得られなかった。何だかんだ言ってもあれだけ盛り上がったのだからそれでOKで、誰も本気で怒ってなどはいないのだった。
「でも、こんなの受け取れないよ。そんなインチキ頼んでないし、わたし」
 彼女は怒ったように、「ウォークマン」の箱を鹿せんべいの横に置いた。
「そう言わずに、持って帰れよ。くじはともかく、さっきの演奏にはそれくらいの価値あったと思うぞ」
 智野部長が、真面目な顔で言った。
「うん、そう思う。これで色んな音楽聴いて、またさっきみたいな演奏聞かせて」
 隣の京子さんも微笑む。さすがの直子もこの言葉に素直にうなずいて、賞品を受け取ることにした。
 この日をきっかけに直子と京子さんの、親友としての長い付き合いが始まった。やがて東京の私立大学に進んだ京子さんは、そのまま都内でOLとして就職し、ミュージシャンとして上京した直子の良き相談相手として、彼女を支えることになる。
 こうして、和やかなムードの中、クリスマス・パーティーは終了した。麻衣さんは、とうとう最後まで姿を現さなかった。
 創一は落胆した気持ちで、薄っすらと雪に覆われた校庭をとぼとぼと歩いた。パーティー自体は楽しく、成功だったと言って良いが、そんなことが何になるだろうか。麻衣さんと過ごすクリスマス、全てはそのためだったのに。
「なあ、横山の奴だけどさ」
 彼と並んで歩きながら、智野部長が言った。横山は逃げ出したまま、とうとう戻って来なかったのだった。
「例の相性占い、あれも何か仕込んであったんだろうな」
「ええ、間違いないですね。あまりにも狙い澄ましたような結果ばかり出てましたし」
 暗い顔のまま、創一はうなずいた。文化祭で、女の敵たる中川の正体を暴いてみせた時とか、あんなの偶然のわけがない。全て事前に準備してあったに違いない。
「何がしたかったんだろうな、あいつは」
「何が、したかったんでしょうね」
 創一は空を見上げた。雪雲はどこかに去り、吹き渡る冷たい風に洗われた、澄み切った夜空だった。風が吹くたび、星も瞬く。
 智野も、一面の星空を見上げる。正門前の水銀灯の光に照らされた二人の影と、その少し後ろを遅れて歩く京子さんや城崎、猫山田達の影が、白く雪化粧した校庭に長く伸びていた。

 県道の裏通りにあたる水路沿いの小路には、豆電球を使ったごくささやかなイルミネーションが街路樹に施されている。ここはカトリック教会と併設の幼稚園があったり、市内でも珍しいフレンチ・レストランがあったりするので、町内でも雰囲気を盛り上げようとしているのだろう。緑町の市内でも、数少ないイルミネーション・スポットだとされている。
 学校からは結構な遠回りにはなるのだが、せっかくだからそちらを歩いて帰ろうと、みんなの意見が一致した。家々の屋根にも、うっすらと雪が積もっていて、ムード満点だ。
 京子さんと直子がそろって美しい声で「きよしこの夜」を歌い始めたりして、麻衣さんがいないのは残念ではあるけれど、それでもこれは生涯でもベストに入るクリスマスだなあ、などとうっとりしかけた創一の耳に、何やら不穏な罵声が聞こえてきた。前方の、フレンチレストラン「Mon Ami」の辺りだ。
 せっかくのこんな夜に、喧嘩かよとそろって顔をしかめたパソコン部員たちの顔色が、店の洒落た門の前で喧嘩している三人が口にしている、その内容を耳にして急変した。
「……何が生徒と合宿だ。朝まで何を指導するつもりだったんだ、お前は。顧問が聞いてあきれる」
「彼の才能を真に開花させるためには、あたしの愛が必要なのよ。あんたみたいな、つまらない技術バカとは違うのよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい。でも彼女は譲れない。別れてください、美代子には僕の嫁になってもらいます。お願いします」
「正気か、この餓鬼が。何が嫁だ。つけあがるんじゃない」
 三つ巴で修羅場を繰り広げているのは、もはや説明するまでもなく、桜沢先生夫妻と、氷川なのだった。あの穏やかな夫婦が、修羅のような顔になっている。聖夜の真っただ中、今ついに、パンドラの箱は開かれたのだ。

 ちょうどパソコン部員たちが、直子の弾く「メリークリスマス・ミスターローレンス」に感動していたその時間。フレンチ・レストランの店内では、すでに修羅場が繰り広げられていた。運ばれてきた若鶏のファルシにナイフを入れようとしていた、テーブルの男女二人の前に別の男が現れ「ここまでだ、君たち」と声を上げたのだった。
 男女二人というのは桜沢先生と氷川、そしてもう一人の男は桜沢氏、つまり美代子ちゃんの旦那さんだった。敢えてイブを避けて、二人きりでクリスマスの夜を過ごそうとしていた桜沢先生たちの目論見は、ここにもろくも崩れ去ったのだった。
「お客様、ここは料理を楽しむ場所でございます。どうか、お静かに」
 と宥めるギャルソンの言葉に耳を貸さず、見苦しい言い争いを始めた桜沢夫妻は、ついには大柄なそのギャルソンに、「VITE!」と真っ暗な夜の通りへと叩き出されてしまうことになったのだった。
 何のことはない、文化祭の準備の日、創一たちがラーメン屋の帰りに市役所の近く、「ピンクの山猫」の前で見かけた桜沢先生と氷川は、まさにそのまんまラブホテルから出てきたところだったのだ。「市役所からCG展示のオファーが来た」とかいう話はまるででっちあげ、二人で口裏を合わせて小細工をしたわけだが、それも今や水の泡となった。

 息を殺して部員たちが佇む中、何を考えたか城崎副部長が、
「今こそ、僕の動くべき(とき)が来た」
 とつぶやくと、抗争の現場へと向かって独り走り出した。
「おい、バカ」
「やめてください」
 止めるみんなの言葉も、しょせんささやき声でしかなく、何かおかしなスイッチが入ったらしい副部長には届かない。白い息を夜空へ吐きながら、まるで真冬の暴走機関車のように、副部長はばく進する。
「君たち、話は全て聞かせてもらったぞ」
 突然姿を現したぼさぼさ長髪、あちこち擦り切れた黒いコートをまとった不気味な城崎の姿に、三者は三様に目を丸くした。
「な、なんだね君は」
「城崎君、どうして」
「副部長……嘘でしょう、なぜこんなところに」
「痴情のもつれは、文学の大きなテーマだ。そこには、美しさもあろう。しかし、こんな夜に、静かな往来で」
 あくまでぼそぼそとした口調で言いながら、城崎は彼らに指を突き付けた。
「……貴様ら、見苦しいと思わないか! 僕の美意識が許さない!」
 自身が死ぬほど見苦しい副部長のその言葉は、飼い主に捨てられた地獄の番犬を思わせる凄味があった。しかし、本当のとどめになったのは、一転猫撫で声に変わった次の一言だった。
「というわけであるから、少し落ち着いて話を聞かせてはもらえませんかね。ちゃんと、僕の筆で文学へと昇華して差し上げます。もちろん、新人賞受賞の際には、相応のお礼は考えますのでね」
 経過をおかしな小説にでもされてばらまかれたら、いよいよ身の破滅である。その恐怖に三人は震えあがり、意味不明の言い訳を口々に残して、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。通りは再び、静けさを取り戻した。
 何だか分からないまま、事態の収拾には成功したのだったが、功労者たる城崎副部長は不満そうだった。彼としては、せっかくの小説のネタを逃してしまったのだ。

 明くる日になって、創一のところに横山から詫びの電話がかかって来た。
「すんません、プレゼントを盛り上げるつもりやったんですけど、昨日はちょっとやりすぎましたわ。直子さん励まさんと、と思ったんですけど」
 と、一応恐縮して見せてはいるものの、悪びれた様子は感じられない。それに、そんなことよりも先生と氷川の話題のほうが、今や一大センセーションになっていた。
 もちろん横山も、そのことはすでに知っていた。たちまちのうちに、学校中に噂が拡散していたのだ。しかし、その件については長くなりそうなのでまだ次回、ということで横山を遮り、創一は電話を切った。
 こうして、あまりにも色んなことがあったクリスマスも終わった。複雑な気分をひきずったまま、大掃除を手伝ったり、「プリントゴッコ」で印刷する年賀状の原版をコンピューターグラフィックスで作ったりするうちに、たちまちに大晦日がやって来た。
 紅白歌合戦の紅組司会者が敗北に号泣するのを見て、創一はまた麻衣さんのことを思い出した。せめて彼女に、ベスト・プログラマー賞のことを伝えたかった。文化祭の時のように、きっと彼女は「すごい」と感心してくれるだろう。年が明けたら、また智野部長に頼んでみよう。
 やがて画面はどこかの寺院の雪景色に切り替わった。それから間もなく、大騒ぎの一年は静かに終わりを告げた。

第六章 青春の早春

 年が明けて元日の朝、その機会は向こうからやって来た。
 母親の声に起こされて階段を下りた彼は、茶の間のこたつの上に置かれた年賀状の束を手に取った。いくらかは、彼あてのものも混ざっているはずだ。輪ゴムを外し、何枚かめくったところで、ふいに彼の手が止まった。父親の会社絡みの、形式的な年賀状の間で、その一枚の葉書は明らかに異質な雰囲気を持っていた。絵本の「うさこちゃん」風のかわいらしいウサギのイラストが手書きされたその賀状は、何度見直しても間違いなく「咲宮麻衣」、つまり麻衣さんからのものだった。繰り返し読んだアンケートのおかげで見覚えのある文字で、急な用事でパーティーに行けなくて本当に残念だったということ、そして「良かったらまたお話しましょうね」という言葉が書かれている。もちろん彼女の住所と、それに電話番号もちゃんと記載されていた。なぜ麻衣さんが、彼の住所を知っているのかは分からなかったが。
 しばらくその葉書を見つめた後、創一は踊り出した。比喩ではなく、こたつの周囲をぐるぐると回りながら、満面の笑みを浮かべてそいやそいやと本当に踊ったのだった。おせちを持ってきた母親は、常軌を逸した彼の姿を見て目を丸くした。
 雑煮とおせちを大急ぎで平らげると、彼はすぐに自室へと戻って「プリントゴッコ」で年賀状を増刷した。今年の図柄は愛機のシャープ・X1ターボでデザインした、アメリカ西海岸風のビーチを照らす朝日だった。というか、「FMステーション」の表紙に使われていた鈴木英人のイラストを見よう見まねでパクったというのが本当のところだったが、おかげでまずまずお洒落な仕上がりである。これなら麻衣さんに送っても何ら問題はない。デザインを考える段階では、パソコン部員たちに受けそうな、「魁・男塾」の江田島塾長が咆哮するイラストとどちらにするか迷ったのだが、こちらにしておいて大正解だった。
 年賀状に書かれた住所によると、麻衣さんは緑町駅近くの市街地に住んでいるようだった。心を込めて宛名を書いて、ちゃんとクリアファイルに入れた年賀はがきを手に、彼は近所の郵便局へと走った。緑町駅前の本局まで行こうかとも思ったが、そこまでたどり着く所要時間を考えれば、近くのポストに入れたほうが早そうな気がした。小さな郵便局は今日は休みだったが、幸い朝の取集時刻に間に合わせることが出来た。
 ひと仕事終えたつもりで家に帰ると、ちょうど智野部長から電話がかかって来たところだった。母親から手渡された受話器を耳に当てると、いつもの部長の声が聞こえる。
「おう、俺だ」
「あ、どうも。明けましておめでとうございます」
「ああ、おめでとう。見たか? 年賀状」
「はい。ええと、どんなのでしたっけ、部長の」
 麻衣さんからの年賀状以外は、全く記憶に残っていない。
「馬鹿、俺のじゃない。来ただろう、あの子から」
 電話の向こうで智野部長がにやりとするのが、目に見えるような気がした。やはり、彼の住所を伝えてくれたのは、部長なのだ。
「というかな、あいつ、京子がな。お節介な奴なんだよ」
 創一の脳内に、京子さんのご尊顔が浮かんだ。その姿はまさにマリア様そのものだった。
「いや、とんでもないです。今度京子さんにお会いしたら、土下座してお礼を言います」
「土下座はやめろ。まあ、あの子も、全然お前に会いたくないということはなさそうだ。京子の感触だと、48対52くらいで会いたいほうが優勢ってところらしい」
 微妙な数字だが、とにかく優勢なのは喜ばしい。再び会える可能性が高まったことは間違いなかった。
 ベッドの上に寝転がり、麻衣さんからの年賀状を表裏繰り返し眺め、手書きのウサギにキスしようかと思ったが、それはさすがに思いとどまり、と幸せをかみしめていると、頭がぼんやりとしてきた。千洋電器製のファンヒーターが勢いよく温風を噴き出してくれていて、部屋がかなり暖かいせいもあるだろう。
 もしも、彼女とデートすることが出来るなら。本線で二人で街に出かけ、映画でも見て、ホテル最上階のレストランでフランス料理だかイタリア料理だか、その手の高級ディナーを食べて。もちろん、食事代は彼の奢りである。その程度の費用は賞金の十万円で易々と支払うことができるのだ。
 レストランでのおしゃべりに夢中になるうちに、気付けば緑町へ帰る最終列車の時間が近付いている。ところが麻衣さんは突然に、
「まだ帰りたくない」
 と言い出した。これはまさに、フラグが立ったという奴である。判定用変数Nの数値が、IF文の条件式を満たしたのだ。
 狼狽する彼を、黒いドレスを着た麻衣さんは真剣な瞳でじっと見つめている。これはゲームでも演習でもない。ここでセーブしてやり直すことは、できない。選択肢を間違えるわけには行かなかった。
 ここは、ホテルの最上階だ。部屋は何とかなるだろう。彼は腹をくくって、血迷ったような決めゼリフを吐いた。
「分かったよ。今夜は君を返さない。跳ぼう、二人であの銀河系(ギャラクシー)の向こう側へ」
 途端に彼は、頬を思い切り引っぱたかれた。しまった、選択肢を間違えたかと思った次の瞬間、目の前にいた麻衣さんの顔が、いつの間にか母親のアップに変わっていた。
「あんた、大丈夫?」
「いやちょっと、ちょっと待ってよ」
 創一は慌てて起き上がった。
「なんだよ一体、何が大丈夫なんだよ」
「これよ、これが大変なことになってるのよ。あんた、何ともない?」
 母親がそう言って指さしたのは、例のファンヒーターだった。
 彼がベッドの上で年賀状を抱きしめて妄想の世界を漂っていたちょうどその時、階下の茶の間でテレビを見ていた母親は、異質なCMが流れるのを目にした。「千洋電器からのお願い」というタイトルで、無機質なナレーションが流れるそのCMの内容は、自社が販売したファンヒーターの欠陥により、一酸化炭素中毒が起きる可能性がある、というものだった。映し出されたそのヒーターのデザインに、彼女は見覚えがあった。使用すると人命に関わるというそのファンヒーターは、息子の部屋で今ちょうどガンガン温風を噴き出しているところであるはずだ。
 顔色を変えて、彼女は階段を駆け上がり、ノックもせずに息子の部屋のドアを開いた。そこには、ベッドの上でにやにやしたまま意識を失いかけて、「ギャラクシーの向こう側……」とつぶやいている創一の姿があった。頬が綺麗なバラ色になっているが、これは一酸化炭素中毒の兆候を示している可能性があると、彼女はかつての看護師時代に習ったことがあった。まさか息子が妄想の中で、女の子をホテルの部屋へ誘おうとしているとは思わない。
 慌てふためいてファンヒーターの電源を切り、窓を全開にして、意識を失いかけている息子の顔を思い切りひっぱたいた。寝ぼけ半分の創一は慌てて跳び起き、妄想の世界から戻ってきた、とそういうわけなのだった。
 サービスセンターに電話を掛けたところ、元日にも関わらず途端に社員が飛んできて、寒風吹きすさぶ玄関先で土下座せんばかりにお詫びをした上で、不良対策品のもっと高いヒーターに取り換えてくれた。
 この事件は千洋電器の経営に大きなダメージを与えることになるのだが、創一にはあまり興味がなかった。千洋電器製のパソコンであるCPHシリーズというのはマイナーで、この小さな町ではほとんど見かけることもなかったからである。これがもしNECやシャープが経営危機とでもなれば、彼や他のパソコン少年たちも大騒ぎだっただろうが。
 今度のファンヒーターもなかなか暖く、加湿器までが内蔵されていて快適ではあった。残念ながら、麻衣さんが迫ってくるような夢を見ることはもうなかったが。
 しかし、新年早々のこの騒ぎは、彼にまたしても予想外の幸運をもたらすことになった。「えらい目にあった、死にかけた」と部員たちにわざわざ電話をかけて吹聴して回った誇張気味の内容が、智野部長と京子さんを経由して麻衣さんにまで伝わり、この事件についてニュースで知っていた彼女が、創一のことを真剣に心配してくれたのだった。
「お見舞いに来たいって言ってるぞ、彼女」
 と、新年会代わりに集まったセントレオ・ハンバーガーで顔合わせした智野部長に聞かされた彼は、天にも昇る気持ちになった。あの妄想が、現実になるかも知れない。ただ、お見舞いと言っても、今の彼はピンピンしているのだが。
「いや、せっかく心配してくれてるんだから、ベッドで寝込んでるふりでもしてみたらどうだ? 弱り切ってるところを見れば、同情が愛情に変わるかも知れんから、そこで彼女を抱き寄せてキスの一つでもしてやれば」
 部長はとんでもないことを言い出す。
「ちょっと、やめてくださいよ。俺はもう元気だってちゃんと伝えてください」
「と言うか、お前自分で言えよ。何のために俺というか京子が、あの子からの年賀状お前の所に届くようにわざわざ手配したと思ってるんだ。あれは、お前の切り札なんだぞ」
 部長は「お前」と三度連呼した。全く、その通りだった。ここは、自分から動かなければならない。当たり前だ。
 創一は家に飛んで帰り、廊下に置かれた電話台の前に立った。まだ午後三時だが、すでに辺りは薄暗く、天井からぶら下がった白熱電球の光を頼りに、彼は年賀状に書かれた麻衣さんの電話番号を確認する。というか、本当はすでにその五桁の番号をすっかり覚えてしまっていたのだが。身体が震え出しそうなのは、足元の床板がひどく冷たいせいというよりは、緊張感がものすごかったからだった。直子に「ごめんなさい」と言われた時のことを、どうしても思い出す。
 ついに、番号を押してしまった。呼び出し音が始まる。二コール、三コールと繰り返されるにつれて緊張も高まる。心配要らない、今日は別に告白するわけじゃない、元気だと伝えるだけだ、業務連絡みたいなものなのだ、と矢継ぎ早に安心できる要素を考えては、彼は自分の心を落ち着かせた。
 六コール目でついに、麻衣さんの優しく柔らかい声が「はい、もしもし?」と言った。
 あの、南高パソコン部の鈴木創一なんです、と彼がおずおずと名乗ると、麻衣さんは「あ、こんにちは!」と明るい声で挨拶してくれた。
「大変な目に遭われたとお聞きしたのですけど……もうお身体は大丈夫なのですか?」
「ええ、うん、無事でした。ちょっとふらふらしただけで」
 例の妄想のことは、もちろん口にしない。
「良かった! ニュースでも見たのですけど、毒ガスが出るストーブだって、鈴木さんがそれを浴びて倒れたって。京子さんから聞いて、とてもびっくりしました。良かった!」
 一酸化炭素は毒ガスと呼んでも決して間違いではないのだが、彼女の口から改めてそう聞くと、奇跡の生還的な趣が感じられる。もっとも、実際には一酸化炭素など発生していなかったはずなのだが。
「うん、ありがとう。年明けからいきなりこんなハプニングで、僕もびっくりしちゃった」
「でも、きっといい一年になると思う。ああ、まだ言ってなかったかも……明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「ほんとだ。明けまして、おめでとうございます。まだ言ってなかったね」
 受話器越しに、麻衣さんの笑い声を聞きながら、創一も笑った。何て幸せなひとときなのだろうか。いっそ、時間よ止まれ。
「鈴木さんのおうちって、そう言えば、八幡さんのご近所でした?」
「ああ、旧村の? そこそこ近所かな」
 近所、と言えるほど近くはない気がしたが、ここは否定しないほうが良い、という直感が彼には瞬時に働いた。
「わたし、いつも初詣は家族でお城のお稲荷さんなんだけど、一度八幡さんにも行ってみたいなあ、って。とっても素敵なんですよね? 参道に大きな木がたくさん並んでて、屋台も出て」
 特大のフラグが立った瞬間だった。
「それじゃ……案内しましょうか? 僕も八幡さんに、初詣に行くつもりだったし」
「え、いいですか? ご迷惑じゃないですか? じゃあ、一緒に初詣、行きましょう。毒ガスなんか吹っ飛んじゃうくらい、鈴を鳴らしちゃいましょう」
 ふふ、と麻衣さんは柔らかく笑った。それだけで、毒ガスも、何もかも、憂鬱なものは全て吹っ飛んでいくような、創一にはそんな気がした。
 電話の最後で麻衣さんは、
「あ、そうだ、これも言うの忘れてた。パソコンの、えーと……賞、おめでとうございます。すごいなあ」
 と、お祝いを言ってくれた。彼がベスト・プログラマー賞を受賞したことも、ちゃんと知ってくれていたのだった。賞の名前までは分からなかったみたいだが。
 とにかく、麻衣さんとの初詣デートと言う、夢のような予定が決まった。彼女は旧村までバスで来るつもりということだった。緑町の駅前から、集落の外れにあるあの廃駅前まで、この時期だけは臨時のバスが出るのである。鉄道の廃止後しばらくは、同じ区間を走る代替のバス路線もあったらしいのだが、今では初詣の時期にこうして臨時で走るだけになっている。
 次の日曜日、十一日が来るのを首を長くして待つうちに、ついに念願の賞金十万円が、父親名義の口座に振り込まれた。
「創一、お前なかなかの大金持ちじゃないか。お父さん、CDプレーヤーが欲しいんだけどな。五万円くらいで買えるらしいぞ」
 父親は冗談を言ったが、確かに創一もCDプレーヤーは欲しかったものの、この金はそんなことには使えない。賞金のうち二万円だけを引き出してもらい、これで軍資金も十分となった。
 初詣当日の朝は、冬空の青が成層圏まで透き通るような見事な快晴となった。その分、放射冷却で気温も低かったが、その寒さにも対処できるはずの万全の服装で、創一は廃駅の駅舎前に立った。瓦屋根が立派な車寄せの前には、見慣れない「臨時 八幡神社前」の停留所標識が立っている。緑町駅からのバスはここに着くはずだ。
 真新しい緑色のブルゾンに、ビッグジョンのジーンズという今日の彼の服装は、昨日の午後にニチイの新春大売出しで慌てて仕入れてきたばかりの一張羅、言わば勝負服である。軍資金の半分くらいが吹っ飛んだが、全てがかかったこの重要なデートに、ダサい恰好で来るわけには行かなかった。
 間もなく、彼方のバイパスから、ペパーミントグリーンに臙脂色の帯を巻いた旧式のバスが右折して入ってきた。排ガスの白い煙を残して騒々しく走ってくるその姿を、彼は緊張の面持ちで見守る。この便に、いよいよ麻衣さんが乗っているはずなのだ。
 臨時バス停に停車したバスのドアが軋み音を立てて開くと、満員の車内から乗客たちが次々と降りてくる。その中に一人、白熊みたいにふわふわのコートを着て、髪をポニーテールにまとめた、ホット・カルピスのCMに出てくる斉藤由貴のような女の子がいた。白い息までが美しい彼女の姿に、創一は息が止まりそうになる。もちろん、それが麻衣さんだった。
「おはようございます。待ちました?」
「ううん、いや、全然。その……暖かそうな服だね」
「でしょ? 今日、すごく寒くなるって予報で言ってたから、これで完全装備」
 麻衣さんは、笑顔で周囲を見回した。
 屋台が並ぶ参道を二人で歩きながら、創一はこの旧村の歴史や、かつてここに駅があったこと、春には広場を囲む桜が見事に咲くことなどを、半ば上の空で説明した。すれ違う参拝客の子供たちが手にした、アメリカンドッグやりんご飴などの危険物で、麻衣さんの白いコートが汚れたりしては大変だと、やたらとそればかりが気になった。
 二人でお賽銭を入れて、予定通り鈴を鳴らして、
「麻衣さんは、何をお願いしたの?」
「うーん……内緒、かな。鈴木君は?」
「僕は『ティラトス』、あの賞をもらったゲーム、あれがヒットするといいな、って」
「すごい! 叶うといいね!」
 などと笑い合っていると、これはもう絵に描いたような初詣デートだった。ついに僕にも彼女が出来たと、創一の胸は幸せな気持ちでいっぱいだった。まだ告白さえしていなかったのだが。
 本殿の裏手にある無料給水所、おなじみのご神水についても説明したが、しかしこの寒さでは水よりも暖かいものがいいねと、二人は拝殿で無料で振舞われていた甘酒を頂いた。
「……あったかいね」
 桃色の頬で微笑む、白いふわふわコートの麻衣さんの姿は、創一にはやはりCMの一場面のようにしか見えなかった。数十センチの距離で彼女と向かい合っていることが、現実とは思えなかったのだ。
 屋台を色々見ながら仲良く参道を戻り、再び廃駅跡の臨時バス停へと戻ってくると、時間はすでにお昼に近付いていた。真冬の弱々しい太陽が、空の高い所にまで昇ろうとしている。
 流れ的にここは、今から一緒にランチだろうと創一は思った。旧村の中に店らしい店はなく、バイパスに出るのも徒歩では遠いから、ここからバスで駅前に出るのが正解だ。
 しかし、そんな彼の思惑など知らない麻衣さんは、バス停の前に立つと、
「それじゃ、今日はどうもありがとう」
 と丁寧に頭を下げて、お礼を言ってくれた。創一は焦った。ここで彼女に帰られてしまっては。
「うん、いや、これから、お昼ご飯でもどう? ちょうど僕も、用事で駅前まで行くし……。あ、もちろんおごるよ、賞金もあるんだ。好きなものを食べてよ」
 慌てて彼は、麻衣さんを引き留めにかかる。
「あの……ごめんなさい、今日は用事で駄目なんです。また、今度。ありがとう」
 そう言って微笑む麻衣さんには、先ほどまでとは違う、困惑したような気配があった。まあ、突然おごるとか金はあるとか言われれば、戸惑うのも当たり前である。
「そ、そう。じゃあ、また今度ね」
 目の前が暗転するような気分を味わいながら、創一はどうにか返事を返した。食事に行こうなどと言ってしまって、失敗しただろうか。調子に乗って、嫌われてしまっただろうか。
 しかし、駅前に用事があると言った手前、一緒にバスに乗らざるを得なかった。黙り込んだまま次の便を待ち、ようやく来たバスに麻衣さんと一緒に乗り込んだものの、二人掛けの席に彼女と並んで座っていいかどうかが分からない。結局彼は、通路を挟んで反対側の席に一人で座った。
 急に様子がおかしくなった創一に、麻衣さんはますます困惑した様子だった。それを見た彼はさらに不安になる、という悪循環が発生し、ろくに会話のないまま、バスは緑町駅前を目指して走った。
 前方にニチイショッピングデパートの看板が見えてきた辺りで、さすがにこれはまずい、と創一は正気をいくらか取り戻した。またあの屋上ゲームコーナーで、タイムアタックをする日々を繰り返すのか、俺は。何とかしなければ、麻衣さんに何か言わなければ。
 駅前バスターミナルでの別れ際、創一は、
「あの、ごめんね。実はちょっとバスに酔っちゃったみたいで……。いつも自転車だから、慣れてなくて」
 と言い訳をして見せた。これが彼なりに、必死で打開策を考えた結果だった。途端に麻衣さんは驚いたような顔になった。
「本当ですか? ごめんなさい、全然気付かなくて。大丈夫?」
「うん、今ここで冷たい空気を深呼吸したら、収まったみたい」
「良かった!」
 彼女は、明るい笑顔を見せてくれた。
 こうして創一は、ピンチをどうにか切り抜けた。ピンチとは言っても要するに、単なる自爆未遂ではあったのだが、それはともかく。
 ほっとした気分で、彼はやはりニチイ屋上のゲームコーナーへ向かい、往年の人気ゲームである「マッピー」をプレイした。家のX1でも遊べるのだが、こういう能天気なゲームで、今は気持ちを落ち着かせたい気分だったのだ。ボーナスステージの軽快なBGMに合わせて、主人公のネズミ警官がトランポリンを跳ね回るのを見ていると、彼の気持ちも軽くなってくるようだった。
 これからは、麻衣さんの前でおかしな態度を取らないように気をつけないとな、と創一は改めて思った。会えるのは嬉しいが、それで嫌われては元も子もない。これからは、彼女に会うのは慎重に、満を持してということにしよう。

 マイコン・マガジン社から電話がかかってきたのは、その初詣の翌週、水曜日の夜のことだった。
「創一、電話だよ。マガジンさんから」
 例のごとく自室のベッドに寝転がって、古い週刊少年ジャンプの「シティーハンター」を読んでいた創一は、階下からの母親の声に飛び起きた。
 そして、ものすごい勢いで階段を駆け降りた。待ちに待った報せが、ついに来たのか。
「あ、もしもし、鈴木創一さまでしょうか。わたくしはマイコン・マガジン社の石垣と申します。今、少し、およろしいでしょうか?」
 若い女性と思われるその声に、はい! と彼は元気に返事した。もちろん、およろしい。
「当社の雑誌に作品をご投稿いただき、ありがとうございました。ベストプログラマー賞、おめでとうございます。お父様のお口座だったでしょうか、賞金をお振込みさせていただいたかと存じますが、ご確認いただきましたか?」
 再び創一は「はい」と答えた。その賞金のおかげで、初詣デート用の服を買うことが出来たのだ。
「良かったです。それで、鈴木さまに改めてお願いしたいことがありまして、本日はお電話を差し上げました」
 いよいよか、と創一は思った。「ティラトス」の市販ゲーム化、多分その件だ。
 ところが、石垣さんが持ち出してきたのは予想外の話だった。
「実はテレビの、そちらの地元局さんのほうから取材の依頼があったのです。夕方のニュースで、『県内の高校生がパソコンの賞を受賞』という内容で特集を組みたい、と」
 彼は、絶句した。受賞者については確かに、ペンネーム以外に居住地の県名と年齢が公表されている。県内の高校生というのは正しい。しかしわざわざ、テレビでニュースにするほどのことだろうか。
 まあ、たまに見る県内ローカル枠のニュースと言えば、どこかの地区のスポーツ大会とかお祭りとか、そんな内容ばかりだ。パソコンの賞となれば十分に目新しいし、ニュースバリューがあるのかも知れない。
 いかにローカル局とはいっても、テレビに出るとなるとやはりそれなりに大ごとだし、緊張もする。正直、あまり気はすすまない。即答できないまま電話を切り、彼はちょうど会社から帰ってきた父親に相談してみた。
「ああ、『けんない545』だな。いいじゃないか、一度くらいテレビに出る経験をしておいて悪くはない。ローカル枠だから見てる人なんか少ないし、緊張もしないだろう?」
 大したことじゃない、とか言いながら、この際だからビデオデッキを買い替えよう、ハイバンドベータがいい、などと実は結構な喜びっぷりの父親を見ていると、やっぱりやめておくなどとは言えそうになかった。
 続いて、智野部長や横山たちにも意見を聞いてみたが、二人とも「田舎のニュースなんて誰も見てないから気軽に出ればいい」とか言いながら妙に喜んでいるという、父親とほとんど同じ反応だった。
 結局創一は、取材の依頼を受けることにした。マイコン・マガジン社にとっても悪い話ではないから、石垣さんも喜んでくれた。放送では、雑誌名は出ないらしいのだが。
 数日後、放送センターの担当者から電話がかかって来た。青島というその人は「ディレクター」だと名乗り、おお本当にテレビ局なんだ、と創一は感動した。
 青島Dとしては、できればパソコン部の部室で、他の部員にも何人か一緒に出てもらう、という形で収録をしたいということだった。創一としても、そのほうが一人でインタビューを受けるよりも気が楽だ。ただ、そうなると学校側の許可がいるだろう。
 顧問の先生に確認してみます、と彼は答えた。本来、美代子先生なら、ダメとは言わないはずだ。ただ、今はそこに大きな問題があったのだった。
 新校舎の職員室、その入り口の前に立った創一に、
「おう、鈴木。どうした」
 と担任の熊岡先生がさっそく声を掛けてくれた。剣道部の顧問で、インドア文科系一直線の創一とは全く路線が合わないのだが、気さくで豪快なこの担任を、彼は嫌いではなかった。
「あの、桜沢先生は、今日もお休みですか?」
「ああ、お前んところの顧問だったな。残念ながらダメだな、年度内一杯の休職発令がもうすぐ正式に出る」
「やっぱりですか」
 彼は途方に暮れた。そうなるだろう、とは思ってはいたのだが。
「何なら、俺が代わりに話を聞くぞ」
 と言ってくれた熊岡先生に、創一は恐る恐る取材の件を切り出した。
「すごいんじゃないか、お前。そんな賞取って、テレビが来るなんて、大したもんだ。そういうのはちゃんと、担任の俺にも報告してもらわんと困るな。多少、内申を上乗せしてやったものを。いや、嘘だがな」
 がははは、と担任は一人で笑った。とにかくこれで、部室で収録という件は解決した。あとは出演者だが、それよりも前にみんなに伝えておかなければならないことがある。創一はその足で、旧校舎へと向かった
 部室にいたのは横山と真田君、それに直子だった。国立大学入試の共通一次試験が今月の二十四日に迫っていたし、来月には私大の入試もあるから、部長と副部長はさすがに不在だった。暖房は相変わらず良く効いていたが、なぜか室内には冷え冷えとした空気が漂っていた。
「おい、知ってるか。いよいよ美代子ちゃんが、」
 と切り出した彼に、横山は憂鬱そうな顔でうなずいた。
「今ちょうど、その話をしてたんですわ」
 小さな町である。結局クリスマスの騒ぎをきっかけに、生徒と教員の不適切な関係、という大問題がたちまちのうちに県教委の耳にまで届いてしまった。そして桜沢先生は事実上の謹慎として、休職に入ることになった、そういうわけだった。
 結局、桜沢夫妻は離婚、美代子先生は県南部の小さな町にある高校に転属することになった。氷川も、再び部室へと顔を出すことの無いまま、先生とは別の高校へと転校。もちろん、どちらもランク的には都落ちだ。
 親友だったはずの横山にだけは、お別れの電話が氷川からかかって来たらしかったが、
「美代子は僕の才能を理解してくれている。僕は彼女と一緒に、CGアーティストを目指す。彼女に出会えたのは、人生最大の幸運だ。あんな素敵な女性は他にいない。肌ツヤもきれいだ」
 などと血迷ったセリフを口走ったということで、色ボケ丸出しではあっても、反省の色はいささかもなかったらしい。
 二人がいつごろからそんな関係になったのかについては、やはり花火の後ぐらいが怪しいのではないか、と横山と真田君は推測していた。夜店の射的で、氷川と手に手を取って喜んでいた先生の姿を、創一は思い出す。
「でも、すごいよ。歳の差も立場も超えた、まさに純愛だよね」
 真田君は、感動したように言った。こいつもかなり危ういんじゃないか、と創一はさすがに呆れる。
「何がすごいんや。馬鹿や、アホやわ、あいつは」
 横山は珍しく、寂し気な顔をしている。
「氷川君に才能があるっていうのはその通りかも知れないけど……。いつか冷静になったら桜沢先生、色んなものを捨てちゃったことを後悔するような気がする。愛とか恋とかだけじゃやっていけないし」
 直子は普通に冷静である。色々経験したことが、彼女を大人にしたのだろう。
「そうかなあ」
 真田君はあくまで不服そうだ。
 離婚によって「桜沢」ではなくなってしまった美代子先生は、数年後には教職も辞めて「先生」でもなくなった。そして、グラフィックデザイナーを目指す氷川と共に上京し、その名前も「氷川美代子」へと変わることになった。その後二人がどうなったかは、誰も知らない。

 この重い空気の中で切り出すのは勇気が必要だったが、創一は「ところで」と話題を切り替えた。こちらがむしろ本題なのだ。
「実は来週、テレビ局がこの部室に取材に来るんだ。ベストプログラマー賞を受賞した高校生、ってローカルニュースで流すって」
「すごいですね! それって鈴木先輩がニュースになるってことですよね」
 またもや真田君が、目を輝かせる。彼に喜ばれると、創一はもはや何だか不安になってくるのだったが。
 その場にいた横山と真田君、それに直子が、創一と一緒にテレビに出てくれることになった。これでもう十分なのだが、それを聞きつけた城崎副部長が、余計なことに自分も出演したいと言い出した。
「受験の直前だし、無理しないほうが……」
 と創一が気を使ったふりをして辞退を促しても、
「大丈夫だよ。僕の本命はあくまで早稲田、試験まではまだ日があるからね」
 副部長は全く意に介していない様子で、うっとうしい長髪をかき上げるのだった。この姿が、県内ローカルとは言えテレビに映るのは、我が校のイメージ的にまずい気がする。智野部長はやはり共通一次試験優先で、出演は辞退した。これが普通だろうと思うのだが。
 当日やって来たテレビクルーは、アシスタント兼任の青島Dとカメラマン兼音声さん、それにインタビュアーである女性アナウンサーのたった三人だった。地方局の取材だと、こんなものらしい。それでも、マスコミはマスコミである。まずは校長室に入ってもらって、応接ソファーで校長や教頭と名刺の交換を行うなど、丁重に応対することになった。
 臙脂色のスーツを着た女性アナウンサーは、東京キー局やいつも見ている準キー局のアナウンサーなんかと比べると、明らかに垢抜けない雰囲気だった。しかし、この町のそこいらを歩いている女性に比べれば、さすがにずっと華がある感じで、
「今日はよろしくお願いしますね」
 と校長室で彼女に挨拶された創一は、たちまちに舞い上がってしまった。

 部室での収録は横山たちの協力もあって、まずまず順調に行われた。
「ティラトス」の実演でデータ読みがうまく行かずに、創一がパニックになりかけたり、城崎副部長が「コンピューターの賞なんかに価値があるかどうか疑問だね」と全てをぶち壊すようなことを言い出したり、例の「歌の風よ吹け」を朗読しようとして青島Dに止められたり、どさくさまぎれに女性アナウンサーの手を握って悲鳴を上げさせたりと、発生したトラブルは些細なもので済んだ。というか、ほとんどの問題は副部長絡みで、殴りつけてでも出演を断るべきだった、と創一は激しく後悔した。
 放送は翌月十四日の土曜日、夕方の「けんない545」の中で流されるということだった。収録には一時間以上かかったが、実際に映像が使われるのは五分程度ということで、まあテレビというのはそんなものらしい。
 せっかくの課長賞で一度は上昇したパソコン部の校内での評価は、当の氷川のご乱行でまた低迷していたところだったが、テレビが取材に来たということで、再び上昇に転じた。
「ま、地方局が取材に来たってだけだし」
 とか口では言いながら、創一はすっかり時の人の気分になっていた。クラスの女子が自分を見る目さえ変わった気がしていたが、歴史的客観的事実としては、これはほぼ錯覚である。ただ不思議なことに、テストの成績は急激に良くなっていた。人間、例え思い込みであっても、勢いというのは大切なのである。
 このニュースを麻衣さんにどう伝えるか、彼は迷った。下手に電話して自慢げにしゃべったりしたら、逆に嫌われるのではないだろうか。幸いなことに、と言って良いと思われるが、このところの強気も彼女が相手となると、あっさりと顔を引っ込めるのだった。
 大学入試真っただ中の智野部長や京子さんたちに頼むわけにも、もちろんいかない。何かついでの用事でもあれば連絡できるのに、と創一は思い悩んだ。しかし、きっかけはまたもや予想外の方向からやって来た。
 夕食前、彼がトイレにこもって、真田君にもらった男性向け情報誌「ホットドッグ・プレス」の悩みごと相談記事を読んでいると、扉のすぐ向こうにある電話機のベルが鳴り始めた。しかし、電話に出るのが面倒くさいので彼はそのまま無視して、便座に座っていた。
「ちょっと創一、電話出て! 今手が離せないのよ、あんたの好きな天ぷらだから」
 いや俺もトイレなんだけど、と思いつつ、彼は渋々立ち上がって水を流した。ろくに手も拭かず、ズボンも半分ずり下がったまま廊下に出て、本を片手に受話器を取る。
「はいはい、鈴木ですがね」
「あ……あの、こんばんは。鈴木さんのお宅ですか? 咲宮です。……鈴木君?」
 電話の向こうは麻衣さんだった。一気に血が頭に逆流して、彼は慌てて雑誌を投げ出し、ズボンを直した。見えるわけはないが、パンツ姿のまま彼女としゃべるなんてとてもできない。
「その、あの、鈴木です、はい僕です。こんばんは、咲宮さん」
「こんばんは。……お忙しかったですか?」
 麻衣さんは気を遣うような声になった。創一の様子が不自然に思えたのだろう。実際、おかしな行動をしているのだから当然だ。
「いや全然。大丈夫だよ」
 どうにか服装を整えて、彼は平静を装う声を出した。
「良かった。実は氷川さんの、鈴木君と一緒の、パソコン部のあの人のことでちょっと聞きたくて」
「氷川の?」
 途端に創一の、声のトーンが落ちる。あんまり話題にしたい奴ではない。
「ええ。実は明美ちゃんが、わたしの友達の、美術部の。覚えてる?」
「ああ、もちろん」
「彼女が、氷川さんに連絡を取りたいって。教えてもらってた、おうちの電話番号につながらないみたいなの」
 そんなもん、いつの間に教えてたんだろうと創一は呆れた。油断も隙も無い奴だ。
「これ、絶対内緒だけど」
 麻衣さんは、声を潜めた。
「明美ちゃん、ずっと付き合ってた人と完璧に別れちゃったって。それで、氷川さんどうしてるかな、って言ってて」
 氷川の奴、中途半端なことをしやがってと、創一は苦々しい気持ちになった。先生とくっつくならくっつくで、他に余計なちょっかいを出すな、ってんだ。
「それがダメなんだ。実はあいつ、学校やめちゃったんだよ。家庭の事情だって。もう、連絡はつかないと思う」
「えっ」
 麻衣さんは絶句した。そりゃそうだろう。
 さすがに創一も、詳しい事情を伝えるのは控えておいた。文化祭での直子と中川の騒ぎといい、南高は一体どうなってるのか、と思われかねない。氷川の代わりに真田君でも推薦しようかとも思ったが、余計なことはやめておいたほうが良さそうだった。あいつもあいつで、得体の知れないところがある。
 ところで元気? 初詣の時はどうも、などと雑談をする中で、「実は」と彼はテレビ出演の件を切り出した。
「すごい! 有名人だね、鈴木君」
 と彼女は予想通り喜んでくれた。
「いや、ローカルニュースの中で五分くらい流れるだけらしいから。良かったら、麻衣さんも見てね。来月の十四日、土曜だから」
「二月十四日、なんだ……」
 なぜか麻衣さんは、そう言って一瞬黙り込んだ。
「じゃあ、鈴木君はその日は、家でテレビを見なくちゃいけないね」
「うちの父親が、新しいビデオデッキ買うとか言ってるけど、せっかくだから本放送見たいしね。あ、もちろん麻衣さんはそんな無理しなくてもいいよ。もし、暇だったらで」
「うん……でもわたしも、見るようにするね」
 それじゃまた、と電話を切ってからも創一は、麻衣さんにテレビ出演のことをちゃんと伝えることができた、という満足感に包まれていた。氷川が明美さんに余計なことをしてくれたのが、役に立ったのだった。夕食の天ぷらは、うまかった。

 十四日の当日、創一はお昼から、父親が中信電気で買ってきたビデオデッキのセッティングを一緒に手伝うことになった。ソニー・ベータマックスの最新鋭高級機で、放送局にでも置いてありそうな物々しいデザイン、価格も相当なものらしかった。たった五分の番組を録画するために、大変な騒ぎである。しかし、
「スーパー・ハイバンド・ベータは映りが違うだろう。さすがはHF3000だ」
 と家電マニア気味の父親が自慢する通り、試し撮りした画像は確かにクリアな映りだった。これなら記念録画もバッチリである。劣勢のベータマックス規格は、やがて本家のソニー自身がVHS規格に鞍替えして消滅へ向かうことになるのだが、そんなことはまだ二人とも知らない。
 これで準備万端と、遅めの昼食となる焼きそばを家族で食べようとした時、玄関で呼び鈴が鳴った。応対に出て戻ってきた母親が手にしていたのは、「ペリカン便」のラベルが貼られた手のひらサイズの小包だった。
「これ、あんたにだって」
 ラベルの差出人欄には「咲宮麻衣」とあった。
 小包を手にした創一は慌てて、自室に戻った。これは、一体。
 中に入っていたのは、「Goncharoff」の文字がある、茶色い小箱だった。創一の背筋を、冷たい汗が伝う。中身は、見なくても分かっていた。神戸ゴンチャロフ、ということは、これは高級チョコレートというやつだ。
「うぐおむおおぅ!」
 苦悩の奇声を発してベッドに倒れ込み、彼は頭を抱えた。
 今日は二月十四日、つまりはバレンタインデーだったのだ。今までの人生において、あまりにも縁がないイベントだったため、そんなこと全く忘れていた。
 テレビ出演を伝えた時、麻衣さんの様子が微妙だったのは、そのせいだったのだ。あそこでバレンタインデートに誘わずに、どうするのか。それを俺は何にも考えずに、テレビテレビと浮かれかえっていたのだ。
 悔やんでも、悔やみきれなかった。とにかく、すぐにお礼を伝えなければならない。彼は、廊下の電話機へと走った。
 もつれそうな指でプッシュボタンを押し、呼び出し音を聞きながら、本当は今からだって彼女をいきなり夕食に誘うことも可能なのだ、と彼は考えていた。迷惑だろうか? 断られるのも怖い。だけど……。
「はい。咲宮です」
 受話器の向こうで、麻衣さんの柔らかい声がした。
「あ、どうもこんにちは。鈴木です」
 落ち着いた声で、創一は挨拶した。顔を上げると、暗い廊下の向こうで、玄関の引き戸にはめ込まれたすりガラスが、陽の光を映して明るく輝いているのが目に入った。
 麻衣さんの声を聞いた瞬間、彼の気持ちは決まっていた。まだ、お昼だ。挽回する時間はいくらでもある。
「チョコレート、どうもありがとう。それで……今からでも、ちょっとだけ会わないですか? ちゃんと、直接お礼が言いたくて」

最終章 桜色の未来

 自分が主役のローカルニュースを、創一は結局ビデオ録画で見ることになった。新型ビデオデッキのおかげで、鮮明な画質で見ることが出来たのは幸いで、父親がわざわざ大枚をはたいてハイバンド・ベータを買ってくれたのが、功を奏することになった。
 テレビに続いて、県内のラジオ局やローカル紙からも取材が来て、あくまで地元限定ではあるが、彼はいよいよ本当に時の人となった。
 しかし、それよりも嬉しかったのは、ついに「ティラトス」の市販ソフト化が決定したことだった。「マイコン・マガジン・コレクション」レーベルから、パソコン御三家のNEC・富士通・シャープそれぞれの主力機種向けに、改良版の「ティラトス」が発売されることになったのだ。当然、原作者としての印税が入ることになるはずだが、その使い道はいくらでもあった。

 バレンタインデーの午後、意を決して「会おう」と誘った創一への麻衣さんの返事は、
「そんな、お礼なんて……。でも、じゃあ、折角だからちょっとだけ会いましょうか」
 という前向きなものだった。
「大事な放送があるのじゃなかったですか?」
 と彼女は気を遣ってくれたが、ちゃんと録画するから大丈夫だと彼は説明した。
 緑町駅前で午後四時、そしてちょっとティータイムでも、という約束を彼は麻衣さんから取り付けた。いきなり二人で夕食、となるとさすがに重い感じになってしまう。
 電話を切った後、創一は廊下で何度も独りガッツポーズを取った。致命的ミスを自分の力でリカバーすることができた。良くやったと自分で自分を心からほめたい、そんな気持ちなのだった。
 大事な放送を見ないで出かけると言い出した彼を、両親は「行っておいで」とにこやかに送り出した。あの小包がどういうものなのか、二人にはちゃんと分かっていた。
「こんなこともあろうかと、用意しておいた新型デッキがさっそく役に立つな」
 と、父親は無邪気に得意げだった。
 おなじみの農道ハイウェイ経由で自転車を走らせて、待ち合わせ場所の停留所がある駅前バスターミナルに着いたのは、約束の一時間前だった。とにかく遅刻だけは絶対にまずいと思って早めに来たのだったが、さすがにこれは早すぎる。
 いつもの屋上ゲームコーナーで時間をつぶそう、とニチイショッピングデパートに入り、エスカレーターを上がるうちに、二人で入る店を考えておいたほうがいいのじゃないか、と彼は気付いた。漠然と、地下の「オレンジロード」でクレープか、セントレオ・ハンバーガー辺りをイメージしていたのだが、今日は特別な日である。そんな、いつもの店ではしょぼすぎる。しかし、店を探してうろうろすることになるのはもっと最悪だ。
 そう言えば、このニチイの最上階には、レストランと名乗る店があったはずだった。何度か家族で行ったことがあるが、窓際の席ならば、街の風景が一応は一望できる。
 これだ、と創一は思った。以前、妄想の中で麻衣さんと過ごしたホテル最上階のフレンチだかイタリアンのレストラン、あれにかなり近い展開ではないか。実際には、ホテルの高級レストランとスーパーのテナントに過ぎないファミレスとではかなり違うわけだが、それでもこの町においては、まずまずベストの選択と言えた。
 最上階でエスカレータを降りた彼は、「アーバン・ストーリー」というそのレストランへと急ぎ足で向かった。窓際の席を、何としてでも確保しなければならない。
 フロアの一画を占める店の正面は巨大なショーケースになっていて、和洋中問わず様々な料理のサンプルがずらりと並んでいた。ファミレスというよりは、昔ながらのデパートの大食堂に近い雰囲気だ。ドリンクとケーキの組み合わせだと、千円は軽く超える値段設定だったが、今の彼にとっては恐れるほどの金額ではない。
 店に飛び込むなり、「窓際の席を、四時から押さえたい」と勢いよく申し出た創一に、レジのお姉さんは戸惑いの色を目に浮かべながらも、「予約席(リザーブド)」と書かれた金色の札をテーブルに置いてくれた。これで、準備は万端だ。店内はがら空きではあったが。
 これで安心してゲームコーナーに行けるぞ、とほっとしながらエスカレーター横のフロア案内を眺めていた彼の頭の中に、麻衣さんへのお返しをどうしよう、という不安が急に浮上してきた。今時ホワイトデーに、キャンディやらマシュマロやらを贈る男はダサい、モテないと「ホットドッグ・プレス」にも書いてあった。できればジュエリー、最低限でもブランド物の小物を贈れなどという血迷ったアドバイスは、つまりは狂乱のバブル経済が始まっていたということなのだが、彼はその内容を鵜呑みにした。
 一度たりとも足を踏み入れたことの無い、二階の婦人外装売り場という場所へ、創一は恐る恐る赴いた。普段なら、こんな場所に一人で乗り込んで行くなんて絶対に無理だ。麻衣さんにダサ男と思われちゃ大変だ、というプレッシャーだけが彼の支えだった。
 いくら「ショッピングデパート」とかいう名前がついていても、ニチイはデパートではない。あくまで一般庶民向けのスーパーマーケットである。しかし、二階のフロアでは、デパートガール風に綺麗にお化粧した売り子のみなさんが、澄ました顔をしてお客を待ち受けていた。さすがは「衣料品のニチイ」として知られる大手スーパー、婦人服には力が入っている。
 本物のデパートを思わせる敷居の高さが感じられて、創一の足はすくんだ。デパガもどきたちが、みんな彼のことを笑っている気がした。しかし、彼は耐えた。必死で前を目指し、服飾雑貨コーナーという場所で足を止める。
「何か、お探しですか?」
 さっそく、美人の店員さんに声を掛けられる。
「あの、いや、お返しを。ホワイトデーが来月に」
 赤くなり、しどろもどろになりながら、陳列棚に目を遣った彼の目に、「Pierre Cardin」という文字が映った。ブランドなんて全く分からないが、この名前は知っている。ピエール・カルダン。この綺麗な布は何だろう。ハンカチ?
「ホワイトデーのプレゼントですね。こちらのお品物など、人気ですよ」
 店員さんが、その布の一枚を広げて見せた。ハンカチにしては大きい気がする。そうだ、これはスカーフという奴に違いない。
「これはピエール・カルダンの、スカーフですね」
 何かの例文を棒読みするかのように、創一はガチガチに緊張したままでその台詞を口にした。
「その通りですわ。お色がグラデーションで、とても綺麗でしょう?」
 店員さんは笑顔でうなずいた。どうやら正解だったらしい。
「グラデーションがとても良いですね。それでは、これを一枚買うことにします」
 思わずそう言い切ってしまってから、彼はまだ値札を見ていなかったことに気付いた。しまった、と息が止まりそうになる。
 幸いなことに、この店員はちゃんと相手を見て商品を勧めたらしく、このスカーフはそれほどに高価な品物ではなかった。それでも、その一枚の布切れは、彼の勝負服であるブルゾンよりも高かった。
 プレゼント用にリボンを掛けて綺麗にラッピングしてもらったスカーフを、ニチイのクローバー&鳩マークが入った地味な袋に入れてもらって、彼は意気揚々と売り場を離れた。また一つ、試練を乗り越えて何かを得た、そんな気分だった。手持ち資金は少々寂しいことになってしまったが、いずれ印税が入ってくるはずだったから心配はいらない。
 もう屋上のゲームコーナーへ立ち寄る時間はなく、創一は一旦ニチイを出て、そばの中信電気で少しだけ時間つぶしをすることにした。ここはちょうど、待ち合わせ場所であるバス停の目の前なのだ。
 パソコン売り場で彼は、間もなく発売されるシャープの新型機、「X68000」のカタログを入手した。「スプラッシュ・ウェーブ」などのアーケードゲーム機にも使われている、MC68000という32bit級プロセッサを装備した異次元の超高性能パソコンだったが、本体だけでも定価36万円という値段も異次元で、高校生の手に届くような代物ではない。
 だけど、もしかしたらと創一は思う。「ティラトス」のお金が入ってきたら、この夢のパソコンを手にすることができるかもしれない。そうしたら、新しいゲームをたくさん作ろう。この性能なら、ゲームセンターにそのまま置いてあってもおかしくないような、ハイレベルなゲームだって開発できるはずなのだ。
 夢と希望で胸を満たし、微妙な薄笑いを浮かべたまま振り返った彼の目の前に、見覚えのある白いコートを着た女性が立っていた。二人は同時に、「あ」と声を上げる。
「こんにちは、鈴木君」
 麻衣さんは、ちょっと照れたような顔で挨拶してくれた。
「いや、あの、こんにちは。麻衣さんも、電気屋が?」
 うろたえながら、創一も挨拶を返す。
「うん、ちょっと早く着いちゃって、買い物とかしてたんだけど」
 彼女は、彼が手にした紙袋に目を遣った。
「鈴木君も、ニチイで買い物してたんだね」
「ちょっとね。えーと、要るものがあって」
 ホワイトデーのお返しだよ、とは言えない。
「そうそう、それで、ニチイの上にあるレストランの席を予約してきたんだけど」
「え、すごい。わざわざ予約してくれたのね?」
 ぱっと明るくなった彼女の顔を見て、創一はまた、内心のガッツポーズを決めていた。あの最上階のレストラン、「アーバン・ストーリー」には、彼女も何度かやはり家族で来たことがあるらしかった。
 ここまでは極めて順調だったが、「予約席(リザーブド)」の札がある席で二人向かい合い、さあ何をしゃべろうかという段になって、突然創一の脳内は空白になった。目の前の麻衣さんの姿が、相変わらずとても現実とは思えないくらいに美しかったからである。
 うろたえた彼は何を考えたか、先ほどもらったばかりの新型パソコン、シャープ・X68000のカタログを取り出して、手元に置いた。どういう理由なのか、ツタンカーメン王の黄金のマスクが表紙になっている、そのカタログは非常に目立った。
「それ、さっき電気屋さんでもらってたカタログだよね。次に買うパソコン?」
 彼女が、会話をアシストしてくれる。
「う、うん。いや、ちょっと買うのは厳しいんだ。すごく高くて」
 彼は、シャープ・X68000の高性能なことと、その性能と引き換えに非常に高価であることを、簡単に説明した。
「でも、もし『ティラトス』が売れたら、そのお金で買えないかなって……。それで新しいゲームを作って、また賞が狙えればいいなと思ってて」
 ケーキセットを前に、ぼそぼそと夢を語る彼の姿は、彼自身が思ってもみないほど、麻衣さんには輝いて見えた。創一はまたしても、正解を引き当てたのだった。
 会話が続くうち、気付けば日は沈み、窓の外に広がる緑町市の市街地にも、ぽつぽつと灯が点り始めた。大都会のスカイ・レストランから見える夜景とは、もちろん比較にならない。しかし今の二人にとって、その眺めは十分にロマンチックなものに見えたのだった。

 三月になって、智野部長と副部長の大学入試の結果が出た。部長は共通一次試験で八百点近い点数をマークし、第一志望であった京都大学に難なく合格を決めていた。
「というか部長、いつ勉強してたんですか?」
「カンニングでもしはったんかと思いましたわ」
「部長が入れるなら、僕も京大を第一志望にします!」
「お前らなあ……」
 いつもの部室で、後輩たちからそんな祝福を受ける智野部長とは対照的に、城崎副部長は部屋の隅っこに小さくなって、文庫本のページを黙々とめくっていた。
 残念ながら副部長は、第一志望の早稲田には通らず、他の東京や関西の私大には受かったものの、そこを蹴って浪人することを決断していたのだった。
「でも、城崎副部長もすごいですよ。青学も立命も蹴るなんて、チャレンジャーですよ。僕なら喜んで入ります」
 よせばいいのに、そんな副部長を慰めようとでもしたのか、たまたま部室に顔を出していた猫山田がそんなことを言い出した。彼も創一と同じ二年生だから、来年は受験である。
 城崎は陰鬱な目で、彼をにらみつけた。
「早稲田の演劇科しか、考えてないんでね。僕にはやらなくてはならないことがあるのだよ。偏差値とか難易度とか、そんなので大学を決めているのか? 君は。実に志が低いね」
 気の毒に、猫山田はすっかりしょげ返って、黙り込んでしまった。どうも損な役回りの男である。
「そう言えば、京子さんは東京の大学に行っちゃうんですよね?」
 つまり遠距離恋愛になるのではないかと、直子は心配そうな声で部長に訊ねる。
「ああ、大丈夫だ。問題ない」
 こともなげに、智野部長は言い切った。
 数年後、京大を出て通産省に入った部長は、京子さんや直子に続いて東京に出ることになる。この時点で部長には、そんな未来の工程図がすでに出来上がっていたのだろう。
 そして、その部室にはもう一人、浮かない顔をしている部員がいた。創一である。
「ティラトス」の市販化も決まり、麻衣さんとホワイトデーに会う約束もしていて、順風満帆のはずである彼が、なぜ落ち込んでいるのか。
 その原因は、直前に発表された模試の結果にあった。今までそこそこ成績が良かったはずの彼だが、今回の模試では城崎副部長の足元にも及ばないような、厳しい判定が出ていたのだった。
 もちろん、そんな成績自体はここからいくらでも取り戻すことが可能だろう。しかし、いくら他のことでうまく行っていても受験に失敗してしまっては何にもならないのだという、高校三年生のリアルがついに突き付けられた気がしたのだった。志が低かろうがどうだろうが、猫山田の言ったことは彼の気持ちと同じだった。
 ともかく、ここからの一年間は新作ゲームの開発も自由にはできなくなるはずだ。彼が暗い顔になるのも、当然なのだった。
「まあ、そこは仕方ない。せいぜい一年だ、ちょっとくらいは我慢するしかないさ」
 陰気な調子で創一が語る「リアル」な悩みに、智野は笑って答えた。しかしそもそも創一には、部長が何かを我慢して受験勉強をしていたようには全然見えなかった。それであっさり受かった人の意見など、ほとんど参考にならないのではないか。
「夢を叶えるためには、努力と犠牲は避けられないからね。遥か彼方の合格というゴール、僕らランナーに出来るのは、そこへ向かって走り続けることだけだよ」
 城崎副部長が、悲壮な顔になりつつも、いつもながらのもっともらしい台詞を口にした。まあ確かに、この人は創一たちと一緒にもう一周走らなければならない長距離ランナーなわけで、そりゃ大変だろう。
 その苦労の甲斐あって、副部長は翌年には念願の早稲田に受かり、卒業後は大阪の朝日放送に入ることになる。お笑い番組の制作をしているらしく、番組のクレジットに名前が出ることもあった。卒業から十年後のパソコン部OB会で久々に顔を合わせた創一が尋ねたところ、「小説を書くことは人生そのものと同義だからやめられるものではない」と、昔ながらの回りくどい口調で教えてくれた。
「そやけど、ほんまにそうなんですかね?」
 横山が首を傾げた。
「大学って、絶対に出んとあかんもんでしょうか? 受験がうまく行かんかったとしても、他のことで成功したらそれもええような気もするんですけど。創一さんのゲームが大ヒットするとか、副部長やったら小説が直木賞を取るとか」
「谷崎賞だよ、僕が取るのは」
 副部長が、この上なくどうでも良い訂正を入れた。
「それはそれで正しい」
 智野部長がうなずく。
「だが、そういう才能的みたいなもので成功し続けるのは難しい。努力の量と結果が比例せんからな。それに比べりゃ、受験なんて簡単なもんだよ。とりあえず受かった上で、好きなことをやればいい」
 いやそんな簡単じゃないでしょう、と創一は反論しかけて、しかし口にはしなかった。
 部長の言いたいことは分かる。「ティラトス」はたまたまうまく行ったが、じゃあ次回作をヒットさせるとなると、どうしたらいいのか見当もつかない。結局は自分が作りたいゲームを作ること、それしかできないのだ。受験対策なら、少なくとも何をすればいいのかくらいは分かっている。
「なんや、夢の無い話やなあ……。まあ、僕は受けますけどね、大学」
 横山は、あっさり引き下がった。

 パソコンで遊ぶのを全くやめてしまうということは、創一にはやはりできそうになかった。とりあえず、当面はゲームの開発に費やす時間を半減させて、残った時間で受験勉強に力を入れることにした。
 いつものラジカセでFMを聴きながら、時には勉強机の前に座り、ひと段落つけばシャープ・X1ターボの画面に向かう。すでに次回作である「ティラトス2」の開発に着手していたのだが、単にブロックの種類を増やしたというだけではどうも二番煎じ感があって、ヒットなどほど遠いような気がしていた。
 そうだ、いっそ二人で対戦が可能なようにしてみたらどうだろうか――などとアイデアを色々考えているうちに時間はたちまちに過ぎ、増量したはずの勉強時間がどんどん削られて行った。しかし、それでも。もしも次回作がさらなるヒット作になるならば。それは決して無駄な時間にはならないはずだ。
 そんなことを思いながら、コマンドをひたすらタイプしていたその時、去年のヒット曲、渡辺美里の「My Revolution」が、ラジカセから流れてきた。直子が言っていた「何とかネットワーク」の小室さんが作ったこの曲。あちこちで、飽きるくらいにさんざん耳にした歌だったが、夢を追う人を応援するようなその歌詞は、今の彼にまさにぴったりの内容だった。
 黒い画面を流れる、プログラム・リストの白い文字の向こうに、麻衣さんの顔が浮かぶ。そう、君がいれば。未来を変えることだって、できるかも知れない。横山が言ったように才能で生きて行く、無謀かもしれないが、そんな未来へと。

 そんな風に毎日を忙しく過ごしていると、三月十四日の土曜日は、案外すぐにやって来た。麻衣さんと過ごす、夢のホワイトデー。まだ春休みまでは少し間があるから午前中は授業だが、そんなものはまあどうでも良い。クラスメイトからの誘いなど無視、もちろん部室にも向かわず、さっさと帰宅してお昼を食べた。
 お返しのプレゼントは、もう一箇月も前に用意してあるから、これは準備万端。今回はいよいよ一緒にディナーということで、店をどうしようかと悩んだのだが、この町においては実のところごく限られた選択肢しか存在しなかった。桜沢先生たちが修羅場を演じたことで知られる、市内唯一のフレンチ・レストランはさすがに高級すぎて手が届かない、となるとやはり万能のニチイショッピングデパートに頼るしか手がない。そういうわけで結局また、「アーバン・ストーリー」を予約することになったのだった。
「同じ店だけど、この前はケーキセットだけだったし……今度はスパゲッティかグラタンでも……」
 という創一の自信無さげな提案に、麻衣さんは、
「いいね!」
 と前向きなリアクションを返してくれた。以前家族で行った時に食べたオムライスが、かなり美味しかったのだそうだ。
「じゃあ、待ち合わせはこの前会ったのと同じ場所でいいよね。夢への始発駅だもんね、創一君にとっては」
 確かに、麻衣さんに会いに来るための場所という意味で、あのバス停には特別なものが感じられる。しかしそれを「夢への始発駅」と表現するなんて、麻衣さんは何とロマンティックなのだろうか。そう感心しながら、「うん、そうしようか」と彼は答えたのだった。
 その日の夕方、創一は二十分ほどの余裕を見て、早めに家を出た。前回は一時間も前に着いてしまったが、さすがにそこまで早く着いても仕方がない。
「今日は晩御飯いらないから」
 とだけ言った彼を、母親は嬉し気に手を振って送り出してくれた。
 まだまだ気温は低めではあったが、それでも空気は春だった。彼は幸せな気分で自転車を走らせる。まだ水のない田んぼに耕運機が入って、田起こしを始めている。空の青はどことなくぼんやりと緊張感がなく、真っすぐに伸びる農道の彼方に横たわる市街地も、その手前を横切って走る緑色の電車も霞んで見えた。
 ここで創一は、あれ? と気づいた。おなじみの区間快速と思われる前方の電車、どうも動いていないようだ。前方の小さな踏切をふさいだまま停止しているみたいで、目を凝らすと、踏切の周囲には制服姿の警官や、間もなく民営化される国鉄の職員らしき姿もあった。
 まさか、事故か。この踏切ではずっと昔に、無理やり遮断機をくぐって渡ろうした子供が、急行列車を牽引していた蒸気機関車に轢かれたらしい、という噂があったが。
 好奇心と、エグい場面は絶対に見たくない、しかし先に進まなければならない、という気持ちが脳内でせめぎ合う中、創一はペダルを漕ぎ続け、警報機が鳴りっぱなしの踏切に近付いた。そこで彼が目にしたのは、線路脇の水路の中にぐちゃぐちゃに潰れて転がっている、真っ赤な物体だった。一瞬ぎょっとしたが、良く見れば小振りのタイヤが二つ付いている。これは、手押し式のミニ耕運機だ。水路の前では、農家の人らしい爺さんが、警察と国鉄の職員になにか言われて頭を下げている。この爺さん、耕運機を押して踏切を渡ろうとして、間に合わなかったらしい。
「ああ、君。ここは駄目だよ」
 創一に気付いた警官が、大きく両手を上げてバツ印を作った。
「今から現場検証だから、当分踏切は渡れないよ。悪いけど、迂回して」
 はあ、分かりましたと彼は本線の上下方向を見渡す。しかし、どの踏切も警報機が鳴りっぱなしで渡れそうにない。他の列車などまず来ないだろうし、無理やり遮断機をくぐれば踏切を突破できるが、しかし昔轢かれたという子供もそう思ったのではないか。この状況だと、警察か国鉄に見つかる可能性も高い。
 もしも踏切を使わずに線路を超えるなら、下り方向の彼方に見えている、バイパスの高架橋まで迂回する必要があった。これでは相当な遠回りになり、待ち合わせの時間に間に合わせるのはほぼ絶望的だ。
 しかし、考えている時間など無かった。思い切りペダルを踏みしめ、彼は再び走り始める。目的地である駅とは真逆の方向へ。
 もしも、携帯できる無線電話機のようなものが普及している時代ならば、「事故のせいで少し待ち合わせに遅れる」と一言伝えてさえおけば、それで済むことだろう。しかし、世界はまだそこまで便利になってはいない。待ち合わせの失敗という、ごくささいなトラブルが、幾多のカップルを破滅に追い込んできたというのが現実だった。
 だから、創一は走る。全速力で農道を駆け抜け、排気ガス臭い空気を思い切り呼吸しながらバイパスを進み、高架橋のスロープを登り切る。そのものすごい勢いと、彼の異様な気迫に満ちた表情に、道行く老人も子供連れの若い母親も、散歩中のポメラニアンまでもが、みな驚いてすれ違いざまに振り返る。
 立ちはだかる本線のレールをようやく超えて、下り坂に差し掛かると、緑町市のコンパクトな中心市街地が一望できた。だが、今の彼にはその街があまりにも遠く感じられる。紅白に塗られた電話局の電波塔、残り一分であの足元辺りまでたどり着かなければならないのだ。
 しかし、いかんせん人間の能力には限界というものがある。気力だけではどうにもならないのが現実だ。変速機さえついていないただの軽快車、日常用の自転車を平均時速100キロで走らせ続けるなどというのは、よく考えなくたってまあ無理というものである。
 あちこちで信号に引っかかったりしながら、創一がようやく約束のバス停に到着したのは、待ち合わせ時刻から十分も経った後だった。そしてそこに、麻衣さんの姿は無かった。十分遅れならぎりぎりセーフではないか、という彼の願いは、ここで無残にも砕け散った。
 いや、先に店に入っているのかも知れないと、「アーバン・ストーリー」へ行ってみたが、「予約席(リザーブド)」に彼女の姿はない。「セントレオ」にも「オレンジロード」にも、麻衣さんはいなかった。
 血眼になって、彼は駅の周辺を探し回った。ロータリー、商店街、本家蓮屋、どこにも彼女はいない。そんなところにいるわけもない、とは思いながらいつもコロッケを買う肉屋も覗いてみたが、むさ苦しい体育系の男どもが集うばかりだった。
 もしかしたら、彼女はもう家に帰ってしまったのかも知れない。創一は、年賀状に書かれた彼女の住所を記憶から呼び出す。城南台、駅前からそう遠くない住宅地のはずだ。
 いくらなんでも、いきなり家に訪ねて行くわけには行かない。でも、どこかでばったりと彼女に会うかも知れない、その可能性に一縷の望みをかけて、彼は住宅地の方向へと自転車を走らせた。
 小ぎれいな住宅が並ぶその区域は、彼が住む郊外の住宅地よりもグレードが上のようだった。街路樹も立派だし、歩道沿いの植栽もきれいに剪定されているようだ。上品な麻衣さんにぴったりな街だと思えたが、こんなところをあんまりうろうろしていては不審者扱いされてしまいそうだ。今日は安物ながら一応ジャケットを着ているし、そんなに怪しげな人物には見えないはず、と願いながら彼はできるだけ澄ました顔でペダルを踏み続けた。
 しかし、いくら走り続けても麻衣さんの姿は見つからず、手掛かりを得ることもできなかった。こんな閑静な住宅地を三周も四周もしていると、これはさすがに通報されそうな気がしてきて、とうとう彼も駅前へと引き返すことにした。こうなってしまっては、一度家に帰って、改めて彼女の家に電話でもするしかなかった。せめて電話番号をメモでもしてきていれば、公衆電話からかけることもできたのに。
 しょんぼりとうなだれる創一が漕ぐ自転車は、先ほどまでのように勢いよく突っ走ることもなく、もはや歩いたほうが早いのではないか、という低速で通りを進んだ。春の気分もすっかり消え去り、暮れ始めた空の下、空気も冷え冷えとして感じられる。ようやく復旧したらしい本線の列車から降りてきた客でにぎわうロータリーに戻ってきても、一向に気分が明るくなることはなかった。ニチイや中信電気の看板を照らし出す白熱電球の光までが、ひどく侘しく見える。
 もしかしたら、これで終わりになってしまうのかも知れない。大学受験がうまく行くにしても、「ティラトス」やその他の作品が大人気になり、入ってきた大金でX68000を手に入れることができるにしても、そんな成功が何になろうか。
 麻衣さんの姿のないバス停の前で自転車を停めて、彼はそんなことを思った。悲観のどん底でうなだれている割には、将来の見通しがずいぶん楽観的な感じではある。
 とにかく、家に帰るしかない。ため息をつきながら顔を上げた彼は、目の前の中信電気の店内に、見覚えのあるような後ろ姿を見つけた。淡いベージュの春物コートを着た、長い黒髪をポニーテールにした女の子。まさか、あれは……麻衣さんじゃないか?
 あわてふためき、自転車を放り出して、店内に駆け込む。自動ドアの開く音に振り返ったその女性は、やはり麻衣さんだった。
「あ、こんばんは! ……大変だったね」
 遅刻を怒るどころか、彼女は同情的な顔で、創一を見つめる。
「あの、その、ごめん。めちゃくちゃ遅くなっちゃって」
 壁際に並ぶデジタルやアナログのたくさんの時計が、待ち合わせ時刻から四十分も過ぎていることを揃って示していた。
「ううん、全然大丈夫。事故なんだもん、しょうがないよ」
 本線で事故があったことも、長時間ほとんどの踏切が閉鎖になっていたことも、彼女はちゃんと知っていたのだった。たまたま駅の前で会った、旧村に住む同級生が教えてくれたのだという。部活の帰りだったその同級生も、やはり事故の影響で本線を超えられなくなって家へ帰れず、「セントレオ」で時間をつぶすことにしたのだそうだ。
 しかし、なぜ中信電気に? と訊ねようとして、創一はあっと声を上げそうになった。
――待ち合わせは、この前会ったのと同じ場所でいいよね。
 そういえば前回、バレンタインデートの待ち合わせの際も、ここのパソコン売り場で彼女にばったり会ったのだった。つまり待ち合わせ場所はバス停の前ではなく、すぐそばにある中信電気の中、最初からそういうことだったのだ。それを思い出してさえいれば、こんなに遅くならずに済んだのである。
「そうそう! ねえ、これだけど」
 あまりの失態に声も出なくなっている彼の心中など知らない麻衣さんは、明るい声を上げて、陳列台に置かれた一台のパソコンを指さした。
「あっ!」
 出なくなっているはずの声を出して、創一は目を見開いた。
 ニューヨークのツインビルを模したという、「マンハッタンシェイプ」と呼ばれる縦置きボディの、黒いパソコン。それは、カタログで何度も見た、あのX68000そのものだった。まだ発売日までは二週間ほどあるはずだったが、しかし現に実機がここにある。これは、販売促進のために早めに展示されることになったデモ機なのだった。
 本体横のディスプレイには、人気シューティングゲームの「グラディウス」が映し出されていた。ゲームセンターで動いているものと全く遜色ないのはさすがで、これはX68000を買うとおまけでついて来るらしい。
 数秒間、食い入るようにその画面を見つめていた彼は、はっと我に返った。感動している場合ではない。麻衣さんを放置してどうするのだ。
「ね? これだよね、この前カタログ持ってたパソコン」
 しかし彼女は、あくまで楽し気だ。
「すごいね。これならイラストとか漫画なんかも、綺麗に書けるかも。買うんだよね? 次はこのパソコン」
「いやいや、その……欲しいけどね、やっぱりちょっと高いな」
 値札に表示された定価は、ディスプレイと合わせて五十万円と、やはり簡単に手が出るレベルではない。
「でも、ゲームがヒットしたら買えるって」
「うん、それはそうなんだけど」
「じゃあ、買えるよ。絶対。わたしも、使ってみたいな」
 彼自身、必ずしも信じてはいない、彼の未来。しかし、麻衣さんの瞳に疑いの色は無かった。彼女の眼には、創一の輝かしい未来がはっきりと見えていたのだった。

 当初は鈍かった「ティラトス」の売れ行きだが、MSXパソコン向けの「ティラトスPLUS」が発売されると、これがちょっとしたヒットを記録することになった。MSX規格のパソコンはゲーム機的に使える手軽なホビーパソコンとして普及していたのだが、「PLUS」で追加された対戦要素が、そのユーザー層にアピールしたらしかった。
 マイコン・マガジン社が得た売り上げの一部は、印税として創一の所に入ってくることになる。その結果、彼は本当にシャープ・X68000を手に入れることになった。麻衣さんの予言が、見事に的中したわけである。
「ティラトスPLUS」が、人気絶頂の任天堂・ファミリーコンピューター向けに移植される、という話もあったのだが、これは権利関係に何か問題があったらしくて実現しなかった。
 黎明期のパソコンゲーム作家たちは、その後こぞってファミコンを始めとする家庭用ゲーム機の業界に参入することになり、中には世界的に有名になるような人まで出てくる。もしもファミコン版の「ティラトスPLUS」が出ていれば、創一もこの時点でそんな有名人の仲間入りをしていたのかも知れないが、これはまあ仕方がない。多少出遅れたとはいえ、彼が活躍するチャンスは後ほどちゃんと訪れることになる。

 智野部長たちが卒業し、学校を去っていくと、当然ながら次は創一たちが三年生になる番だった。
 新しいパソコン部長には、今までの実績から当然の如く、創一が就任することになった。もっとも、智野前部長とは違って、どうにも上に立つ重みに欠けるキャラクターということで、実質的には二年生になった横山と真田に部内の面倒な仕切りを任せるような形になった。
 副部長は嫌々ながら猫山田が引き受けることになり、こちらはさらに影が薄い存在ではあったが、先代の城崎からしてお飾りのようなものだったから、さして問題にならない。
 その城崎前副部長も、未だに何かにつけて部室に顔を出した。市内の小さな予備校に通っていたのだが、やはりそこでも浮きまくっているようで、寂しいのだろう。わざわざやってきては、新入部員たちに「パソコンなんて」と悪口を言う相変わらずの姿に、創一たちは苦笑いをした。
「幹事長」という謎の役職を勝手に名乗り始めた横山は、さっそく辣腕をふるって学校側から予算をぶん取り、新しいパソコンの導入を実現させた。彼の大好きな、富士通・FM77AV20。ほぼ、自分が専用機として使う肚積もりで入れた新機種で、これで彼は新入生向けのPC-6001《パピコン》から卒業することになった。
 26万色を表示できるというその最新鋭機で彼が作ったのは、やはり得意の占いだった。なんでわざわざこんな高性能機でまた占いなのか、と創一新部長たちは呆れ返ったが、美しい映像を背景に浮かび上がるメッセージの毒性には、さらに磨きがかかっていた。そのソフトが暴いた「真実」が、次の文化祭でまたしても大騒動を起こすことになるのだが、残念ながら話が長すぎて、ここで語ることはできない。
 やがて、真田に競り勝ってパソコン部の部長となった横山は、卒業後は名古屋の大学に進んだあと、智野部長と同じく公務員となった。と言ってもエリート官僚になった智野とは違い、こちらは公安調査庁の調査官というやはり謎の職業で、城崎や創一がOB会の席で仕事の内容を訊ねても、「まあ、しょうむない稼業ですわ」と笑うばかりだった。一方の智野は仕事が相当に忙しいらしく、OB会にはさっぱり顔を出したためしがない。

 すっかり暖かくなった、そして何だか落ち着かない、そんな四月の日曜日。
 鈴木創一・新パソコン部長は、いつもの青い自転車で、田んぼの間を疾走していた。まだ水田に水は入っていない。しかし畦道には雑草の花々が咲き誇り、そして何よりも、彼方の早穂川沿いに続く桜並木が春の盛りの到来を報せていた。薄紅色のその花は、まさに全てが満開だった。さらに遠い山々も、山肌のところどころがピンク色の模様に覆われている。
 そして、そんな田んぼの広がりの中に小島のように浮かぶ旧村の森、その一部もまた同じように桜色に染まっていた。
 彼は進路を変えて脇道に入ると、まっすぐに旧村へ向かって自転車を走らせた。濠に架かる石橋を超え、やはり所々に桜が咲く集落内を走り抜けて、八幡神社の参道を経由して再び集落を離れる。そこにはあの、廃駅跡があった。
 元プラットホームの石積みと、隣の旧木造駅舎が木立に囲まれてひっそりと眠るこの場所だが、その木立というのも全て桜の木である。満開の花に取り巻かれた駅跡は、まるで嘘のように華やかな雰囲気に包まれていた。
 駅舎の前に自転車を停めて、創一はプラットホーム跡に腰かけた。夏祭りの時のように大勢の人が訪れているというわけではなかったが、この眺めを見に来ている人は彼以外にもいて、三脚をかついだアマチュアカメラマンの姿も目立った。
 この前の失敗を繰り返さないようにと、かなり早めに家を出かけてきたおかげで、約束の待ち合わせ時間までは、まだ三十分もあった。彼はショルダーバッグから「Z80マシン語マスター」を取り出し、栞を挟んであったページから続きを読む。
 本来なら、そんな時間があるならば受験参考書を読むべきかも知れない。しかし、この幸せなひと時は、あくまでも夢を追うことに使いたかった。勉強など、またあとでやれば良いのだ。
 美しい風景の中、暖かい陽を浴びながら、夢中でコンピュータの本を読んでいた彼は、何か柔らかな気配を感じて、ふと目を上げた。
「こんにちは」
 向かい側の元ホームに、赤いカーディガンを羽織った麻衣さんが微笑みながら座っていた。首もとには、あのピエール・カルダンのスカーフが巻かれている。
 慌てて彼は、時間を確かめる。カシオの耐ショック腕時計のデジタル表示は、まだ約束の十五分前だった。
「早めに来たつもりだったの。でも、創一くんのほうがだいぶ早かったみたいね」
 彼女はくすくす笑った。
「すごく一生懸命読んでたから。黙って見てたの、わたし」
「いや、その、ごめん」
 麻衣さんが来たのに気付かず、ほったらかしにしてしまったらしい。
「ううん、違うの。いいの。嬉しかったの」
 やわらかな陽の光の中で、またくすくすと、彼女は笑った。

 ホワイトデーの日、一時間遅れで始まった「アーバン・ストーリー」でのディナーで、創一はどうにか麻衣さんにバレンタインのお返しであるピエール・カルダンを渡すことが出来た。今日も彼女はちゃんとこうして、身につけて来てくれている。
 その別れ際、創一は麻衣さんと「次はお花見に行こう」と約束していた。旧村の八幡神社での初詣の時、春になったらこの廃駅跡は見事な桜に囲まれるのだ、と創一が説明したのを、彼女は覚えてくれていたのだった。
 二人は並んでホームに腰かけ、満開の桜を眺めた。麻衣さんが作ってきてくれたサンドイッチと、創一が水筒に入れて持ってきた熱い紅茶で過ごす、午後のティータイム。時折、どちらかが何かを楽し気にささやいては、二人で笑い合った。
 残念ながら、こんな穏やかな時間がいつまでもずっと続きました、と締めくくって話を終わることはできない。二人にとって、ここからの一年間は、将来の人生が決まる試練の時期になるはずだからだ。
 しかし創一にも、そしてもちろん麻衣さんにも、大切な夢がある。それを忘れなければ、そしてこうして二人で――あるいは三人、四人家族となっても――笑い合っていられれば。人生、そうそう悪いことにはならないだろう。
 ふいに吹き渡った風が、麻衣さんのポニーテールを揺らした。無数の花びらが辺りに舞い散る。その桜色の中、二人はじっと同じ方向を見上げて、それぞれの未来を見つめ続けていた。
(了)

【完結】田園デジタル・アワ-(改)

ご意見・感想などもしありましたら、下記の掲示板へお寄せいただければ大変うれしいです。
「星の門」 http://hashidateamano.bbs.fc2.com/

【完結】田園デジタル・アワ-(改)

時代は昭和の終わりごろ、田舎町の高校パソコン部を舞台に繰り広げられる青春小説。

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-07-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted