*星空文庫

デジタル・アワ-改(仮)

天野橋立 作

デジタル・アワ-改(仮)
  1. 第一章 シーズン・イン・ザ・サン
  2. 第二章 ボーイ・ミーツ・ガール
  3. 第三章 現実逃避のテクノロジー

第一章 シーズン・イン・ザ・サン

 青々とした田んぼの真ん中を断ち切るように、その狭い道はただひたすら真っ直ぐに彼方へと伸びていた。辛うじて舗装はされていたものの、車が走ってくることはほとんどない。まれに入ってくる農作業用の軽トラックでさえ、道幅ぎりぎり一杯なくらいなのだ。
 まだ朝だというのに、夏の太陽はすでに容赦なく地上を照らしていた。日陰など、どこにも見当たらない。そんな中、水色のシャツを着た鈴木創一は、ひたすらペダルをこぎ続けていた。彼の青い自転車は風を切って疾走していたが、しかしこの気温の中となるとちっとも涼しくは感じられない。道端の雑草群が放つ草いきれの熱気に、まるで生命力が削り取られているようだ。かげろうか、もしくは脱水による脳内の不具合だかで、彼の視界はゆらゆらと揺れていた。
 たすき掛けにしたショルダーバッグの中身は、いつもの登校時とは全く違っていた。海パンと水中メガネ、それに凍らせたポカリスエットが詰まった水筒。一応部活と言うことで「Hu-BASICプログラミング教本」だけは持って来ていたが、数ⅡBの参考書やら大学入試の赤本やらと言った無粋で不快なものは何一つ入っていない。
 もうちょっと頑張れば、駅にさえ到着すれば、そこから国鉄に乗ってビーチへと一直線だ。冷たい水に思う存分飛び込む、その気持ち良さを想像すると、ペダルを踏む気力も湧いてくると言うものだ。
 だが、いかんせん人間の体力には限界というものがある。体内の水分が極度に不足してしまっては、気力だけではどうにもならないようにできているのである。本当は、そう言う時こそポカリスエットなのだが、ガチガチに凍った状態のままでは飲むに飲めない。次第にペダルは重くなり、ひたすら眩しいはずの視界が、どんよりと暗くなってきた。意識がブラックアウトしかけている。さすがにこれはまずい。
 やむなく彼は、脇道へと進路を変えた。道の先には、田んぼの海に浮かぶ小島のようにも見える、こんもりとした森に囲まれた集落があった。ここは「旧村」と呼ばれる、かつてこの辺りの中心だった場所で、昭和の大合併で緑町市に吸収されるまでは村役場も置かれていた。大昔に廃線になってしまったが、集落の外れには駅の跡も残っている。今では創一が住む住宅地のほうが人口は多いのだが、工業団地の開発で造られた新興住宅地よりも、「旧村」のほうが地域における格式は高かった。
 周囲に巡らされた濠に架かる橋が旧村への入口だ。緩い上り坂になっているその短い石橋を、創一の自転車は一気に渡って、集落の中へと入って行った。道の両側には土塀が続き、巨大な瓦屋根を載せた古い屋敷が建ち並んでいる。どの家にも白壁の蔵があり、土塀の向こうでは立派な庭木が決まって数本、路地に向かって枝を伸ばしていた。バイパスや田んぼの真ん中に比べると、木陰が続くここは随分涼しい。
 集落の真ん中には、その高さがひときわ目立つ大木がそびえていた。これは、旧村の鎮守社に当たる八幡神社のご神木で、何でも樹齢八百年だとかいう話だ。創一の自転車は、そのありがたい木を目指すように、こちらもやはり立派なシイの木が立ち並ぶ参道を突っ走る。
 石造りの鳥居の下を走り抜けて、ご神木の足元に到着すると、創一はその場に投げ出すが如く無造作に自転車を停めた。そして神社を拝みもせずに、本殿の裏手へと入って行く。
 そこには立派な岩のてっぺんをくり抜いて作られた手水鉢が置かれていて、竹筒から流れ出した水が注がれていた。こちらもありがたい「御神水」という湧き水なのだが、創一はそんなことは意にも介せず、竹筒に口を近づけて水をごくごくと飲み、さらには頭に浴びるという狼藉に及んだ。神罰が下ってもおかしくない行いだが、しかし地元の中高生連中の間では、この「御神水」も便利な無料給水所程度にしか思われていない、というのが事実だった。
 オーバーヒート寸前だった体を冷却し終えた彼は、拝殿前の階段に腰かけて一息ついた。軒下のこの場所なら、日光の直撃はない。時折、参道のほうから涼しい風が吹いてきたりもする。聞こえて来るのはただ、セミの声だけだ。
 ところがその静けさをぶち壊すように、ガチャガチャとやかましい音を立てる自転車が一台、参道の彼方から走って来るのが見えた。やれやれと思いながら、創一は立ち上がる。その自転車の持ち主を、彼は良く知っていた。
「あ、創一さん!」
 木漏れ日を浴びたその小太りの少年は、大声を出すと大きく手を振った。仕方なく、創一も手を振り返す。
 創一の青い自転車のすぐ真横に並ぶようにボロボロの自転車を停めて、少年は嬉しそうな顔をしながら彼のほうに向かって歩いてきた。部活の一つ後輩、高校一年生の横山という男だった。
「創一さんも、やっぱりここの水ですか?」
「ああ、まあな」
「ええですよねえ、この神社は。水おいしいし、タダやし」
 と、やはり彼もまた、ここを無料給水所とか思っていないようである。
「とりあえず、僕もタダの水飲んできますわ。ちょっと待っといてください」
 横山はそう言うと、のたのたとご神水のほうへ歩いて行った。
 せっかく爽やかな空気に浸っていたのに、騒がしい横山のせいで一気に辺りが暑苦しくなったように感じられて、創一はげんなりした。今日はほとんど丸一日、この横山と一緒なのである。
 どうせ駅で一緒になるんだし、こりゃさっさと出発したほうがいいな、と彼が自転車にまたがると、背後から再び大声が鳴り響いた。
「あ、待ってください」
 そう言いながら、急ぎ足で近づいてくる横山は、髪の毛からカッターシャツから、全部ずぶ濡れだった。やはり創一と同じく、頭から水をかぶったらしい。
「おう、先行ってるわ」
 横山の言葉を無視して、創一は自転車をこぎ始めた。たちまちのうちに、横山の姿は背後に遠ざかる。はずだったが、素早くボロ自転車にまたがった横山は思いもよらない速力で走り出し、まだ参道から出もしないうちにもう彼に追いついてきた。妙に嬉し気な顔をしてすぐ後ろを走る横山に、仕方なく創一も一緒に駅へと向かうことにした。
「それにしても、楽しみですねえ、みんなで泳ぎに行けるなんて。パソコン部に入って、ほんまに良かったですわ」
 ずぶ濡れの髪を振り乱し、短い足で必死にペダルをこぎながら、横山が言った。
 緑町南高校・パソコン部。彼ら二人はその部員なのだった。普段は部室にこもってパソコンを相手に暮らす彼らだったが、今回はわけあって、珍しくもこうして太陽の下に出てきたのだった。
「夏くらい、外に行かんとねえ。ずっと部室でディスプレイ見ながらプログラム作ってるのって、あれネクラですわ、不気味ですわ」
「いや、パソコン部ってそういうもんだから。そこ否定しちゃいかんだろう。ま、夏休みくらい泳ぎに行こうってのは悪くない、そこは俺も賛成だけどな」
 と、もっともらしい顔をして創一がうなずく。彼にしたって、内心では同じくらいに喜んでいるのである。
「しかも部費で行く、という先輩のみなさんの英断には、感服しましたわ。何て言うても、電車代も何もタダですからねえ、タダ」
 横山はまたしても「タダ」を連呼する。
 旧村を出て元の農道に戻ると、目の前には再び夏の田んぼが広がった。しかし、真っ直ぐに伸びる道のさらに彼方には、紅白に塗り分けられた鉄塔と、その足元に集まった小振りなビル群がかすかに見える。あれが、この緑町市の中心部たる市街地で、市役所やデパートなど都市としての主要インフラは全てそこに集まっていた。元々は城下町なのだが、城跡には石垣しか残っておらず、本来町のシンボルだった天守閣が現存しないため、今では代わりに電話局の鉄塔がランドマークになっているのだった。彼らが向かう駅も、やはりその城跡近くにあった。
 せっかくチャージした水分が再び空になろうかとする頃に、二人はその市街地にたどり着いた。埃っぽい風が吹き抜ける、寂れ気味な商店街を走り抜けると、突き当たりに緑町の駅が見えてくる。そのモダンな赤い三角屋根の駅舎の前に、創一たちよりも早く到着したらしい大小二人の男子部員が、並んで佇んでいるのが見えた。
「おう、来たか」
 二人のうち、長身のほうがそう言って右手を上げた。
「それにしても、遅かったなお前ら。もうすぐ電車来るぞ」
「そうなんですよ、部長。こいつがちょっとへばって御神水で給水してたもんで、すっかり遅くなって」
 と創一は横山のせいにする。
「いや部長、ちゃいますよ、創一さんのほうが先に御神水に」
 横山は慌てて反論しようとした。
「まあ、そんなのどっちでもいいから、早く自転車置いてこい」
 うんざりしたような顔をして、長身の青年は駐輪所のほうを指さした。彼は三年生の智野祐、気ままな部員たちの統率に日々苦労している、パソコン部の部長だった。
 創一たちが自転車を置いて戻ってくると、部長の隣に佇んでいた小柄な部員が「さあ、みんなそろったし、行きましょう」と待ちきれないらしい様子で改札口に向かって通路を歩き出した。残る三人も、彼に続いて歩き始める。
「そんなに急がな、あかんの? 次の列車でも、ええんと、ちゃうの?」
 すごい速足で前を行く彼を、息を切らせて追いかけながら横山が訊ねた。
「いや、この列車逃したら、次は鈍行しかないから。向こうに着くのが二十分も遅くなっちまう」
 生真面目な顔で答えた彼は、氷川という一年生部員で、横山とは中学からの同級生なのだった。しかし、ふくれたフグのような顔の横山とは全く対照的に、端正な顔をしたなかなかの男前だ。
「二十分くらい、ええやんか」
「貴重なお金と時間を使ってわざわざ泳ぎに出掛けるんだから。一刻も早く着かないともったいないよ」
 と氷川は、歩くペースを落とそうとしない。
 四人が急ぎ足でホームに上がると、ちょうど「区間快速」の表示があるウグイス色の電車がやってきた。ドアが開いて彼らが乗り込もうとしたちょうどその時、背後から大きな声がした。
「待ちたまえ、君たち、待ちたまえよ」
 そう叫びながら階段を上って来るのは、長袖カッターシャツに黒い制服ズボンを履いた、長髪の男だった。
「あ、忘れてた」
 氷川が小声でつぶやく。
 長髪を振り乱しながら車内に駆け込んできたその男は、ぜいぜい言いながら床の上に座り込んだ。
「副部長、来るって言ってましたっけ?」
 半死半生のその男に、創一がたずねる。
「言ってた……言ってた」
 男は、息も絶え絶えになりながら、必死で言った。彼は三年生の城崎直哉、何だか扱いは悪いが、これでも一応はパソコン部の副部長である。
 車内は案外混みあっていて、ロングシートにはほとんど空きがなかった。しかし、夏服の女子中学生と白いブラウス姿の女子高生の間に少し隙間があるのを見つけた城崎は、迷いもせずにそこに座り込み、汗まみれの髪を掻き上げた。途端に女子高生が立ち上がり、車両の向こう側へと足早に歩み去った。しかし、城崎は意に介さない。空席となった彼の隣には、智野部長が座る。
 残る男子高校生三人は所在なげにドアの前にたむろして、車窓の風景をぼんやりと眺めた。駅を出ると市街地はあっという間に途切れて、やはり一面の田んぼと、所々に建つ民家や工場が流れ去って行く。こんな所に駅などないから、都会からのお下がりである旧型の通勤電車は、うなりを上げて線路の上を突っ走った。濃い青空の真ん中で、太陽が白く輝いていたが、この車内はクーラーが効きすぎなくらいに効いていて、その熱線も彼らにまでは届かない。
「しかし、良くこうして泳ぎに行けることになりましたよねえ、部活扱いで」
 外の明るさに目を細めながら、氷川が言った。
「いや、そりゃお前のファインプレーのおかげだよ。智野部長がこの話を切り出した時の桜沢先生の顔、すごかったもんな。『君たち、パソコン部でしょ、部活動と海水浴、どう関係あるの!』って」
 創一が、部の顧問である女性教師の口調を裏声気味に真似て見せる。
「まあ、それは美代子先生が正しい思いますけどね。何にも関係あらへんですもん、実際」
 冷めた口調で、横山がそう言い放つ。
「あの時氷川が、『コンピューター・グラフィックス・コンテストに出す作品のスケッチに行くんです』って言ってくれなかったら、こんな話は絶対無理だったからな」
 創一がうなずく。
「あの時の氷川君、ほんまにすごかったわ。顔色一つ変えんとあんなホラ話を繰り出すんやから」
 心底感心した、という顔をして、横山が言った。
「詐欺師になったら、大物になるんとちゃうかな」
「人聞きの悪いこと言わないでよ」
 氷川は苦笑する。
「しかし折角泳ぎに行くのに、メンバーが男ばっかり、てのがなあ」
 創一が、深いため息をついた。
「せめて、直子の奴が来てくれてりゃ良かったんだ。あんなのでも、女には違いないからな」
 創一が言う「直子」というのは、彼らの部活における、たった一人の女子部員だった。他のクラブとの兼部ではあったが、創一と同じ二年生の彼女が在籍しているおかげで、男しかいない部活、という状態を何とか回避できていた。言わば、最終兵器なのである。
「何でうちは女子部員、こんなに少ないんでしょうか」
 氷川が真顔で訊ねる。
「何でって、そりゃお前……」
 創一が思い浮かべたのは、正体不明の様々な電子機器が所狭しと並ぶあの薄暗い部室、つまりは彼らの城だった。木造校舎の古びた造りに似合わないそのハイテク空間は彼らの誇りではあったが、じゃあそこにかわいい女の子が集まってくるところを想像できるかといえば、それは無理だ。たった一人弱だけでも女子部員がいるというだけで、かなりな幸運と言うべきだろう。
「なんか、今日は『人に会う約束がある』って言うてはりましたからね、直子さん」
 横山が言った。
「どうせ、男だろうな」
 創一は肩をすくめる。
「俺ならあんな気の強い女と付き合うなんて、願い下げだけどな」
「そやけど、案外かわいいところもありますよ、直子さん。編み物したり、クッキー焼いたりとかもしてはりますし」
 と横山は、姉貴分をかばってみせる。いかなる心境からか、彼女の使い走りのような役目を日ごろから喜々としてこなしている彼は、言わば直子の子分のようなものなのだった。
「顔は小さいし、スタイルもいいし」
 と氷川が続ける。
「確かにあのルックスなら彼氏がいても不思議じゃないよね、直子さん」
「そのクッキーとやら、一度も食わしてもらったことないからなあ、俺らは」
 創一が情けない声を出す。
「直子が駄目なら、この際せめて美代子ちゃんでもいいから来て欲しかったよ」
「美代子先生が、どないかしましたか?」
 横山が不思議そうな顔をする。桜沢美代子先生は国語の教師で、パソコン部の顧問をつとめていた。
「いやさ、こんな男だらけの水泳大会になるくらいだったら、いっそ美代子ちゃんが来てくれた方がましだったと思わないか? これでも建前は部活動なんだから、顧問として一緒に来たっておかしくはないだろう」
「あの歳で、海水浴はきついんちゃいますか」
「桜沢先生、確か三十になったばかりだぞ」
「三十路で海水浴はあり得へんでしょう」
 全世界の三十代を敵に回しつつ、横山がそう言い放つ。
「だけど、あの変な眼鏡外したら、結構かわいい顔してるよ、美代子先生」
 隣の氷川が口を挟む。
「確かにあの三角眼鏡はあかんよねえ。昔の映画に出てくるオールド・ミスみたいやもん。ちゃんと日本電気のご主人いはるのに」
「まあいい。ともかく例え三十路でもだな、水着姿になってさえくれれば、それなりに見栄えがすると思うんだ」
 力説しながら、創一はビーチの風景を思い浮かべる。砂浜から男子高校生どもを消去して、ビキニを着た女性教師の姿を加えると――これなら、まずまず絵になるのじゃないか。
「僕らが泳ぎに行くっていうだけでもあんなに反対してはったのに、わざわざついてきて自分から半裸になってくれはるなんて、あり得へんですよ」
 横山はあくまで冷静である。
 県庁のある町で支線に乗り換え、冷房のないディーゼルカーで外からの熱風を浴びながらしばらく走るうちに、ようやく窓の向こうに砂浜が見えてきた。それなりの数の人たちが泳いでいるようだったが、近くの駅でがら空きの列車から降りたのは彼ら五人だけだった。みんな車で来るのが当たり前で、わざわざこんなローカル線に乗って泳ぎに来る人などほとんどいないのだろう。
 古びた木造瓦屋根の駅舎を一歩出ると、さっそく例の日差しがパソコン部員たちを襲ったが、もう後少しで泳げるのだと思うと、もはやそれも苦にはならない。むしろ、暑さでテンションが上がってくるようで、彼らは大はしゃぎしながら、背の高いトウモロコシ畑に挟まれた道をビーチへと急いだ。

 そもそも、彼らがこうして泳ぎに行こうなどと言い出すきっかけになったのは、女子部員の発した「ネクラ」の一言だった。
 午後からの激しい雷雨が上がり、爽やかな夏空が広がっていたその日の夕方。木製の重い扉をガラガラと開いて、セーラー服姿の女の子が部室に入ってきた。
「うわ。また今日も一段とネクラだねえ、パソコン部諸君」
 とその女子高生は、部員たちをいきなりからかってみせる。彼女こそ、紅一点部員の二年生、鈴木直子だった。ショートカットが男の子みたいではあるものの、なかなかにかわいらしい顔立ちをしている。よく動く大きな瞳がチャームポイントだとは、彼女自身が常々主張しているところだったが、それは必ずしも間違いではなかった。
 直子が「ネクラ」呼ばわりしたのも道理で、折角外では涼しい風が吹き渡っているというのに、部員たちは室内にこもってひたすらパソコンを操作している。パソコン部の部室は通称「旧校舎」と呼ばれる木造校舎の三階にあり、昭和初期の建物だから文化財的な価値はあるものの、部屋はどうにも薄暗い。しかもご丁寧に、窓のカーテンまでが閉め切ってあった。これを根暗と言わずして、何と言えばいいのか。
 窓に近づくと、彼女はカーテンを一気に開いた。途端に光が射し込み、心地いい風が部屋に入って来る。部員たちは「うわ」「なんだよ」とうろたえる。
「見なよ、外。こんなに天気いいのに」
 とセーラー服の胸を張って、勝ち誇ったように言う彼女に、
「おい、画面が見えないじゃないか」
 と文句をつけたのは、創一だった。彼が操作していたパソコンのディスプレイ画面に日光が直撃していて、表示されている文字がろくに読めない状態になっていたのだった。
「見えなくていいじゃない、ちょっとぐらい。たまには陽を浴びないと」
「お前な、俺らはパソコン部なんだから、画面見てキーボード叩いてそれでなんぼなんだよ。日光浴なんか、必要ないだろう」
「だって夏だよ。もっと外出なきゃ。みんな海とか、行ったこと無いんじゃないの? わたし、先週行ってきたよ。ほら、小麦色さ」
 そう言いながら丸椅子に腰かけ、紺色のスカートの裾を押さえながら、直子は創一に向かって挑発的に足を突き出した。
「ずいぶん、色黒になったもんだな、はは」
 きれいに灼けた素足に釘付けになりそうな視線を創一は必死でそらし、床の木目を数える。
「『ネクラ少年』とか言われちゃって、みんなそれでいいわけ?」
 彼女はそう言って、傍らの床の上に埃まみれで放り出された雑誌を指差した。「パソコンNOW」というその雑誌の表紙には、大きな文字でこうあった。「有名女子大生に聞く・パソコン少年ってネクラ?」
「緊急座談会」と銘打たれたその特集の内容は、すさまじいものだった。自称有名女子大生五人が、「パソコン少年」の印象について語っているのだが、「マザコンでロリコン。アニメの女の子にしか興味がない。現実の女性とまともに会話ができない」「毎日同じ服で、風呂にも入らない」「汚い」「臭い」「ネクラ」と、憲法に保証された基本的人権とやらは一体どこに行ったのだろうと思わずにはいられない、罵倒の嵐だったのである。
 記事を読んだ彼らは激怒し、雑誌を足元に叩きつけた。足形までいくつもついているのは、さらにみんなで踏みつけたからだ。なぜメイン読者層をそこまで怒らせるような記事が載ることになったのかは定かでないが、これをきっかけに「パソコンNOW」誌は発行部数を激減させ、廃刊に追い込まれることになる。
「そんなんは悪質なデマですわ。出まかせや」
「そうだ、風呂には結構入るぞ。臭くなんかない」
「それはどうか分からんけどな」
「女の子と話せないだとか、笑っちゃいますよね。そんな奴いないですよ」
 直子の言葉に、部員たちから一斉に声が上がった。
「まあ、直子の言うことも分からなくはない」
 と智野部長がうなずく。
「確かに最近、あんまり屋外での部活動ができてないからな。前は結構やってたよな。去年は海も行ったし、キャンプとか、冬はスキーなんかもな。奥穂高を縦走したのは、あれはまだ俺が一年生の時だから、みんなは知らんよな」
「ほんとですか?」
 直子が目を丸くした。彼女が入部したのは、今年の春になってからなのである。
「そうだったよな?」
 と部長はいきなり創一にパスを投げつける。
「お、おう。ビーチで短大生をナンパとかな、結局うまく行かなくて振られちゃったのが残念だったけどな」
 内心慌てながらも部長に話を合わせ、創一は直子に向かって虚勢を張って見せる。
「へー、意外ねー」
 どうやら彼女は全く信じていない様子である。そりゃそうだろう。このやり取りに、事実などほんの一かけらたりとも含まれていないのである。
「うん、そろそろ野外活動の時期だな。じゃあ海に行くか。よし、来週みんなで行くぞ」
 智野が宣言した。ここまで話を作ってしまった以上、もはや後には引けない。かくなる上は、事実を作り出してしまうしかなかった。
 そういうわけで、部員たちは唐突に泳ぎに行くことになってしまったのだった。あくまで部活動なんだから直子も一緒に、と一部の部員たちは期待した。しかし、「来週は無理。それに海行ったばっかだし。みんなで行っといで」という彼女の言葉が、膨らみかけた彼らの妄想を一瞬にして打ち壊してしまう。結果として、男だらけの水泳大会と言う暑苦しい状況が発生することになったわけである。

 冷たい水の中で思い切り泳いだ後、高くて少ない癖に妙にうまく感じる焼きそばで遅めの昼食を終えた創一と智野部長は、ビーチ・パラソルのそばに寝転がって体を灼いた。一年生の二人は、のんびりしている時間が惜しいらしく、波打ち際で水の掛け合いっこなどをしてはしゃいでいる。
「これでこそ、夏休みですよねえ」
 創一はそう言って、ため息をついた。ビーチ・パラソルのそばに寝そべった彼の海パンは、陽射しを反射してまぶしいくらいの蛍光オレンジ色に輝いている。
「全くだ。せっかくの夏に、みんなで部室にこもってるなんて、ありゃどうかしてたんだ」
 灼けた砂の上にあぐらをかいた智野が、目を細めながらうなずいた。
「そうだ、水筒のポカリ、そろそろとけてるんじゃないか? ちょっと見てくれよ」
 そう言われた創一は、へいへいと言いながら起き上がって、レジャー・マットの上に転がったプラスチック製水筒の蓋を開いた。
「お、ばっちりとけて来てますよ」
「そうか。ちょっと入れてくれるか?」
 智野が紙コップを差し出す。
 二人は砂の上に並んで座り、エメラルド・グリーンの水面がきらめくのを眺めながら、歯に沁みそうなくらいに冷え切ったスポーツ・ドリンクを飲んだ。パラソルに吊り下げられたポータブル・ラジオからは微かなノイズ混じりの音楽が流れ、そのリズムに合わせるように、岸辺には小刻みに波が打ち寄せていた。南国の香りがする、そのけだるい曲調は夏の午後にぴったりだった。
「これって、何て曲でしたっけ」
「『イパネマの娘』だろ、確か。ボサ・ノバの名曲だよ」
「イパネマ、かあ」
 創一は、コバルト色の空を見上げた。その高みを目指して、まっ白な入道雲が盛り上がって行く。
「こんな感じなんですかね、イパネマも」
「いや……違うと思うな、残念ながら」
 そう言いながら智野部長は、水面のさらに彼方へと目を凝らした。水平線があるはずの辺りに、なぜか市街地らしいものが薄らと見える。実はここは、海ではなかった。巨大な湖の岸辺なのである。
「海に行きたかったんだよなあ、本当は。湖じゃ潮風もないし、淡水だから身体も浮かないし。エメラルド・グリーンに見えてるのも、ありゃ藻の色だしな。なんか違うんだよ」
 智野は、残念そうに言った。
「ま、贅沢言ったらきりがないですよ。海なんか行ったら、国鉄の運賃が高くて部費じゃ足りなかったですしね。ここなら、鈍行でも来られるわけですから。分相応、ってところですよ」
 妙に分別くさい顔で、創一はうなずく。
「ただ、CGコンテスト応募って、あれはほんとにやらなきゃまずいんじゃないですか、桜沢先生だますことになるし」
「喜んでたもんなあ、『そういうことなら、頑張りましょうね』とか言って。美代子ちゃんにしてみたら、ずっとパソコンとにらめっこの俺らが何やってるのか、全然分かってないわけだし。コンテスト応募とか、分かりやすい活動内容なら大歓迎なんだろう」
「そもそも、国語教師で文系ど真ん中の美代子ちゃんを、パソコン部の顧問にってのが無茶なんですよ。旦那さんが日本電気の社員で、コンピュータ技術者だからって理由で顧問に決まったらしいって、あれ本当なんですかね」
「分からん。分からんが、もし本当なら何考えてるんだろうな、うちの高校」
 智野は、首をひねった。
 緑町南高校にパソコン部が創部されたのは、つい数年前、一九八三年のことだった。高度情報化社会に対応する教育を推進する、という国の方針でパソコン購入の予算がついたため、とにかく機材を買ったはいいが、どう使えばいいものなのか学校側にノウハウが何もない。そこで、とにかくパソコン部を作ろうということで部室を用意して、適当に顧問をあてがってしまったのだった。
 生徒の中から詳しい奴が集まってくれば、それで何とかなるだろうという目論見だったようだが、結果的にはそれがうまく行った。部の活動は完全に重症のマニアである生徒側主体で行われ、顧問は彼らが暴走しないように見守るだけの役割となった。それならばパソコンの知識は必要ないから、素人でもなんとかなるわけだ。
「美代子ちゃんから見れば、俺ら不気味なんだろうなあ。生徒を愛さないと、って必死で我慢してるんじゃないか、真面目だから」
「まあ、気味悪さって点で言えば、ボスキャラ級の人もいますからね。俺らなんか目じゃないって言うか……」
 創一は小声でそう言って、パラソルの下を振り返った。レジャー・マットの上にうずくまった男が、なにやら手に持った機械を一心不乱に操作している。
「確かに、これは危険な姿だ。確実に放送禁止だろうな」
 部長もうなずく。
「城崎さん、小説は進んでますか」
 日陰の人物に、創一は声をかけた。
「まあ、進んでると言えるだろうね」
 この暑さの中でも長袖シャツに制服ズボンのままの城崎副部長が、重々しくうなずいた。彼の手の中には、ポケット・コンピュータ=「ポケコン」と呼ばれる機械があった。文庫本よりちょっと大きいくらいの、携帯用コンピュータである。
 コンピューターという名前は付いているものの、その実態はむやみにボタンの多い電卓とでも言った感じの代物だった。ずらりと並んだアルファベットのキーも、その一つ一つが小型電卓のボタン程度の大きさで、そうでもなければ文庫本サイズには収まらないだろう。液晶画面は――もしそれを画面と呼ぶならだが――アルファベットとカタカナがたった二行分表示できるだけの、モノクロ液晶だった。つまり、漢字を表示することはできない。所詮は、電卓のお化けなのだった。
 本来は、科学技術用の計算とか売り上げの集計などに使うための機械だった。そういう出自からして、やはり電卓から進化したツールなのである。しかし、それをどのように使うかは、もちろん持ち主の自由だ。そして、城崎副部長はその自由を目一杯に行使して、全くオリジナルな使い方を編み出していた。ポケコン最大手のシャープ製品であるその機械を使って、彼は小説を書いていたのだ。
「外にコンピュータ持ち出して小説書くなんて、まるでSFの未来人ですよねえ。いや、すごい」
 と創一はいい加減な調子で副部長を持ち上げてみせる。
「一度、銀杏町のマクドナルドで一時間くらい書いてたことがあるよ。周りの客、みんなこっち見てたな」
 城崎は無邪気に得意げだ。
「でしょうね」
「見るだろうな、そりゃ」
 そんな不気味な奴が店内にいればな、という続きの言葉は口にせず、智野部長は長身を窮屈に折り曲げるようにして、パラソルの下にいる城崎の手元をのぞきこんだ。
「どんなの、書いてるんだ?」
 副部長は自信満々の顔で、智野にポケコンを手渡した。白黒液晶に表示された、たった二行分の文章を凝視して、智野は顔をしかめる。カタカナしか使えないということは、つまりはこういうことなのである。
[ボクハ、オモワズカタヲスクメテイッタ。「マッタク、ナンテコトダ」ヤレヤレ。カレノイウトオリ、ボクハタイヘンナトオマワリヲシタラシカッタ]
 電報かよ、と突っ込みそうになりながら、「なんていうタイトルなんだ? これ」と智野は訊ねる。
「『歌の風よ、吹け』っていうんだ。かっこいいだろ」
 城崎は得意げに、べとべとの髪を掻き上げた。
「ウ・タ・ノ・カ・ゼ・ヨ、フ・ケ」
 古いSF映画のロボットがしゃべるような抑揚で、創一がつぶやく。
「どっかで聞いたことないか? それ」
 智野は怪訝そうな顔になった。
 ほんの少し前までは、コンピュータと言えば大企業や大学の電算室を占拠する巨大な箱だった。そのコンピュータが、集積回路の発明で、手のひらに載るサイズのマイクロコンピュータへと急激に縮小され、今やこうして高校生の手にさえ入るようになった。それはまさにテクノロジーの進歩がもたらした、輝かしい新時代だった。
 しかしいかに新時代とは言え、夏のビーチで電卓のボタンのようなキーボードをプチプチ押しながら、カタカナ小説を書きつづる副部長の姿は、さすがに常軌を逸していた。コンピューターの可能性を模索しているのだとか言えば格好はいいのだが、客観的にはただの変態だ。
「小説もいいが、せっかくこんなとこまで来たんだ、ポケコンばっかりいじってないで、ちょっとは泳ぐとかしてきたらどうだ?」
 智野部長が、まっとうな意見を述べる。
「そうそう、せっかくのビーチですからねえ。文学活動ばかりじゃもったいないですよ。夏をエンジョイしないと」
「君たちは、わかってない。閉塞的になりがちな小説世界を一気に広げるための、これは重要な試みなのだよ。意味はちゃんとあるのだ、文学的に。見たまえ、この風景を」
 城崎副部長は、彼方の湖を指さす。
「なるほど」
「いい風景だ」
 創一と智野は、感心してうなずいた。城崎が指さした沖の一点、そこにはビーチボールを取り合って遊んでいる、三人の女の子たちの姿があった。
「いや、そうじゃ……そういうことじゃないんだが」
 そう言いながらも、副部長は食い入るように彼女たちを見つめる。赤・青・黄色、それぞれ三原色のビキニ姿だ。
「これなら確かに、いい小説が書けそうだな」
 智野部長が、城崎の背中を叩く。副部長は咳払いして、女の子たちから視線をそらすと、ごちゃごちゃと屁理屈を並べ始めた。
「……まあ、若い女性は、その存在自体が一種の芸術だからね。当然、文学にもプラスになるわけだ。かつて、モーパッサンは言った。もしも、」
「確か、横山の奴が双眼鏡持って来てたはずですよ。あいつのリュックに入ってるんじゃないかと思いますが」
 創一がそう言うと、途端に鋭い目つきに変わった副部長が、レジャー・マットの隅に積み上げられたみんなの荷物へと視線を走らせた。
「その横山たちが戻って来るぞ」
 智野部長が、波打ち際のほうを指さす。一年生二人が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
 横山は「横山」という名前入りの紺色の海パンをはいていて、大変分かりやすい。どうやら、中学時代の品物らしい。背が低く小太りで丸っこい体の彼とは対照的に、氷川のほうは引き締まった筋肉質の身体をしていた。競泳用パンツがよく似合っている。二人が並ぶと、さながら使用前・使用後だった。
「やっぱり海はいいよねえ、海じゃないけど」
 と満足げに伸びをしながら歩く氷川に、
「泳いでたら涼しいし、エアコン代いらんのがええよね」
 と横山がうなずく。
 そんな二人に、創一が「おーい」と声を掛けた。
「副部長が、双眼鏡貸してくれってさ。ちょっと出してくれよ」
「かまへんですけど、何に使わはるんですか? 女の子の水着見る、とかとちゃうでしょうね」
「おお、すごいな。何で分かったんだ」
「違う! 水着じゃない!」
 慌てたように、城崎副部長が叫んだ。
「小説世界を広げるために、風景を見る必要があるだけだ。ビキニの色や形になど、僕は何の興味もない!」
 周囲の海水浴客が、みんな思わず彼のほうを見て、それから瞬時に視線をそらした。
「まあ、何でもええですよ」
 横山はそう言うと、レジャー・マットの片隅に転がった自分のリュックへと近づき、その中から双眼鏡を取り出した。野鳥観察にでも使うような本格的なもので、大きな対物レンズがギラリと輝く。
「これ、使って下さい。それでええ小説書いて、電電公社文学賞でも取って下さい」
「電電公社?」
 城崎副部長が怪訝そうな顔になる。
「ほら、あの電報みたいな小説書かはるんでしょう? チチキトクスグカエレ、みたいな」
「いや、それはおかしいよ」
 氷川が口を挟んだ。
「電電公社は無くなったからね。今は日本電信電話会社、エヌ・ティー・ティーだよ」
「じゃあNTT文学賞やね」
 二人のやりとりに智野部長と創一は爆笑した。副部長は、絶句したままだ。
「そう言えば、賞と言えば」
 氷川が突然真面目な顔になる。
「CGコンテスト応募って、全くのデタラメじゃないんですよね? 風景スケッチくらいしとかないとまずいんじゃないですか?」
「少なくとも、何か応募しなきゃまずいだろうな。先生を騙すことになっちゃ、今後に差し支える」
 彼らが泳ぎに来る言い訳に使った「日本コンピュータ・グラフィック・コンテスト」、通称「CGコンテスト」は、文化庁がパソコンメーカー各社の協賛で実施しているもので、今年で三回目の開催だった。
 応募するとすれば「学生の部」になるわけなのだが、元が口からでまかせの言い訳なのだから、実際に誰がCGを作るのかなど、具体的なところは当然何も決まっていなかった。本当に応募するのなら、せっかくだから入選を狙いたいが、競争率は百倍を超えるはずである。
「じゃあ、俺が簡単にスケッチしておきますよ。これでも、中学は美術部でした」
 氷川のその言葉に、創一は驚いた顔をして、彼の引き締まった体に目を遣った。
「美術部? てっきり体育会だと思ってたんだけどな。それがなんでパソコン部なのか、不思議だったんだ」
「なかなかうまいんですよ、氷川君の絵」
 中学からの同級生である横山が、説明する。
「中二の時、校内のコンクールで一等になったくらいですわ。何の絵書いたんやったっけ、あれ?」
「黒部ダムだったと思うけど、一等じゃないよ、俺は二等だ」
 足元の砂を蹴りながら、競泳パンツの氷川は照れたように笑う。
「パソコン部入ったのも、コンピューター・グラフィックやりたかったからなんです。体育会は、俺あのタテ社会が駄目で。市営プールには一人で泳ぎに行ってたんですけど」
「確かに、うちは縦社会とは程遠い。お前らの、俺ら先輩に対する態度を見りゃ分かる」
 智野部長が笑いながらうなずいて、パラソルの下にいる城崎副部長を振り返った。いつの間に立ち直ったのか、彼は口を半開きにしたまま夢中で双眼鏡を覗いている。
「どうですか、風景のほうは」
 創一が声を掛けた。
「ああ、悪くないね。世界は実にカラフルで、美しい形をしている」
 双眼鏡を下ろした副部長は真面目くさった顔をしてそう言った。しかし、カラフルだというのが一体何の色なのか、部員たち全員が理解していた。

 氷川がコンテスト用のスケッチをしている間、智野と横山は創一を砂に埋めて遊んだ。FMは邦楽特集に変わっていて、オメガトライブやKuwata Band、「シーズン・イン・ザ・サン」と続く選曲が、いかにもビーチサイドらしい雰囲気を演出している。
「やめろショッカー! やめるんだ!」
 首まで埋められた創一は大声でそう叫びながら、いかにも嬉しげである。
「こんな感じで、どうでしょうか」
 氷川が、そんな彼らに声を掛けた。部長と横山が早速パラソルのそばに戻ってきて、城崎副部長と一緒にスケッチブックをのぞき込む。そこにはなるほど、目の前のビーチ風景が、光と影のコントラストとして見事に転写されていた。パソコン部らしいのが、タイリングペイントという技術に用いる十六進数の色パターン指定までがちゃんと書き込んであるというところで、そこが普通のスケッチとはちょっと違っている。
「上手いな、おい」
 智野が感嘆の声を上げた。
「こりゃ、案外まじめに行けるんじゃないか、コンテスト。さすが元美術部だな」
「風景を絵として切り取る才能があるというのは、すばらしいことだよ」
 城崎が、したり顔でうなずく。
「僕らが文章で伝えられることは、限られるからね。例えば、鵜について何か書けたとしても、鵜匠については何も書けないかも知れない、そういうことだ」
「何で、鵜なんだ」
「もしコンテスト上手く行ったら、桜沢先生喜ぶやろねえ。海水浴に出した部費なんて、まともに考えたらドブに投げ捨てたみたいなもんやのにね」
「そうなったら、秋の文化祭で展示しよう。ディスプレイ画面の周囲に額縁付けて、『コンテスト入賞作品』ってな。いつもゲームばっかりでワンパターンだからな、うちの展示」
 智野部長が、そう言って氷川にうなずきかける。
「入賞目指して、やってみます」
 氷川は力強く答えた。
 スケッチも完成したところで、彼らは湖から撤収することにした。パラソルとレジャー・マットを店に返し、温水シャワー代を節約するために屋外の蛇口から出て来る無料の冷水を浴びる。そして、植込みの陰で海水パンツからの着替えを終えた彼らがビーチハウスの前を通りがかった時、偶然にも例の三原色ビキニの女の子たちが中から出てきた。パソコン部員たちよりも一足先にビーチから引き上げていたらしい。今度はそれぞれパステルカラーのタンクトップにホットパンツという姿で、どうやら年齢は彼らよりも少しだけ上、女子大生くらいのようだ。これはもしかすると、同じ列車で帰ることになるんじゃないかと、一部の部員は色めき立った。
 その太ももに目を奪われたりしながら、彼女たちの後方を彼らがぞろぞろと歩いていると、後方から赤いブルーバードSSSが颯爽と走って来て道の前方に停まった。女子大生たちは嬌声を上げて、DOHCターボエンジン搭載のその新型スポーツセダンに駆け寄って行く。中から降りて来たのは雪だるまの如く顔もお腹も丸く、目は細くて口が大きく、オールバックの髪をテカテカに固めているという、見事なまでに冴えない若い男だった。どう見ても、パステカラーの女の子たちと釣り合うようには見えない。三人の女子大生に囲まれたその男は満面に笑みを湛え、口元はよだれを垂らさんばかりにだらしなく開かれていた。そりゃそうだろう。
「あんなトドみたいな奴が、何であんなもててるんや」
 と横山が自分の体型を棚に上げて、不満げにつぶやいた。
「あいつは足代わりに使われてるんだよ。あの娘たちの目当ては、あくまで車だ。そうでなきゃ、迎えにだけ来るんじゃなくて、一緒にビーチで過ごすだろ」
 氷川は冷静に状況を分析してみせる。
「あの車は、いくらぐらいするんだろう」
 と、城崎副部長は心底羨ましげだ。女子大生に囲まれる幸せを考えれば、足代わりに使われるくらいのことなど、何でもないのだろう。
「あれ? そう言えば」
 智野部長が振り返った。
「創一、どうしたっけ」
 その頃、埋められた砂の中で身動きの取れない創一は、
「こら、お前ら俺を忘れるんじゃない、戻れ、戻って俺を助けろ」
 と独りで叫び続けていた。

 面倒な思いでビーチへとのろのろと引き返し、騒ぐ創一を仕方なく砂から掘り出した彼らは、今度こそ駅に向かってトウモロコシ畑の中を歩き始めた。
 時計の針は午後五時を回っていたが、しかし太陽はまだまだ充分な高度を保って、地上のあらゆる物を灼き尽くそうとしていた。彼らは汗だくになりながら必死で駅を目指して歩き、ようやくたどり着いた木造駅舎の屋根の下で、ようやく一息つくことが出来た。
 間もなく、クリーム色と赤に塗り分けられたディーゼルカーがやって来た。ホームと乗降口の間にはかなりの段差があり、彼らはよじ登るようにして列車に乗り込む。こちらに来たときと同じく車内はガラガラで、クーラーが無いのもまた同じだった。天井にぶら下がった国鉄マーク入りの扇風機が熱気をかき回しているだけだ。
 彼らは四人掛けのボックス席をいくつも占有して、それぞれのんびりと足を伸ばして座った。快適なローカル線列車の旅、と言いたいところだが、残念ながら車内のあまりの暑さで、そんな優雅な気分にはとてもなれない。窓はもちろん全開だが、そこから入ってくる風にしても、熱風であることに変わりはない。
「あと何分ぐらい、これに乗るんでしたっけ」
 垂直の硬い背もたれに合わせるように、背筋をまっすぐに伸ばして座る氷川が、向かいの創一に訊ねた。創一のほうは窓枠にあごを乗せてぐったりと座席にもたれ、風に髪をなびかせている。
「三十分くらいじゃなかったか、確か」
「そうですか……泳いでるときはあんなに涼しかったのになあ」
 額に汗を浮かべた氷川は、ため息をつきながら車窓に目を遣った。平行する国道の向こうで、冷たい水を湛えた湖はただ水面を輝かせている。
 通路を挟んで反対側の席に座る横山が、リュックサックから自分のポケコンを取り出し、蓋を開いた。向かいの智野部長が眠ってしまったため、話し相手がいなくて退屈したらしい。
「あれ、城崎さんに対抗するつもりか」
 目敏くそれを見つけた氷川が、横山をからかう。
「何かプログラム組んでるのか?」
 創一が腰を浮かせて、通路越しにポケコンの画面をのぞき込んだ。横山の愛機は、カシオの最新型であるPB‐1000という機種だ。
「占いのソフト、作ってるんですわ」
 横山はそう言って、極小キーボードを器用にちまちまと操作してみせる。白黒の液晶画面に、「ポケコンウラナイ・キョウ ノ ウンセイ」という文字が表示された。
「生年月日と血液型を入れると、その日の運勢が出るようにしようて思てるんです」
「へえ、でもどうせ運勢なんか適当に決めてるんだろ。ランダムで」
「ちゃいますよ、ちゃんと占星術の本買ってきて勉強したんですから、結果には自信があります。絶対に、当たります。明日死ぬと出たら、ちゃんと死にます」
 むきになって反論するあまり、横山はとんでもないことを言い出した。
「いいね、それ。ナンパに使えるんじゃないか。女の子たちの運勢をその場で占ってあげたら受けるな、きっと」
 氷川が興味を示す。
「明日死ぬ、って占いは出さないほうがいいと思うけどな、そういう時は」
 創一がにやにや笑う。
「でも、確かにポケコンの新しい使い方だ。少なくともカタカナで小説書くより、ずっと気が利いてる」
「そうですよね。他にも色々使い方ありそうだけどなあ、なにせ持ち歩けるコンピューターなんだから。ちょっと貸してくれる?」
 そう言ってポケコンを受け取った氷川は、その小さな機械をしげしげと観察する。
「うーん、俺も買ってみようかな。もうすぐバイト代入るし」
「うん、ええと思うよ。いずれは、みんながこういうの持ち歩くようになるんとちゃうかな。手帳とか、アドレス帳の代わりに」
 横山が真面目な顔をして言った。
「確かにそうかも知れん。みんながコンピューターを持ち歩く時代が来るなんて、まったくSFだなあ。さすがは八○年代だ」
 感慨深げに、創一は独りうなずく。
 線路が旧式のディーゼルカーには不似合いな高架に変わると、間もなく支線も終点である。本線への乗換駅は県庁が置かれる中核都市の玄関口だけに、さすがに相当な賑わいを見せていた。頭上を走り去る列車の轟音、乗り降りの乗客たちの雑踏、特急列車到着のアナウンス。駅構内を満たす都会の空気で、彼らの足取りも軽くなる。
 本線のホームに立つと、駅前の広場に面して立ち並ぶシティホテルやデパート、都市銀行などの建物が一望できた。県下にはまだここにしかないマクドナルドや牛丼の吉野家、ドトールコーヒーなどの飲食店も目に入ってくる。
「お腹空きましたねえ」
 と氷川がため息をついた。お昼が焼きそばだけというのでは、足りなかったのだろう。
「うまいだろうな、ハンバーガー。それにシェイクと、ポテトのLをつけて……」
「やめろ、馬鹿。俺だって腹減ってんだぞ。思い出すじゃないか、ポテトの味を」
 創一が顔色を変えた。
「思い出しますよね……カリッと揚げたてで、あの油の匂いが」
「だからやめろと言うに」
「マクドナルドなんて割高ですわ。あんなん、物の価値が分からへんお大尽が食うもんです」
 と横山が馬鹿にしたように言った。一応、大阪出身の都会人ということになっている彼としては、たかがマクド如きをリスペクトするわけには行かない。もっとも実は、彼は奈良県安堵村の出身だったりするのだが、何せ名前が漫才師っぽい「横山」で関西弁なものだから、大阪人だという彼の主張を疑う者はいなかった。
 しかし確かに彼の言う通り、ジャンクフードの値段というのは案外高かった。ビッグマックセット八百円などというのは一体どんな金持ちが頼むのか、というのが彼らの共通の感覚だった。
「僕やったら絶対、牛丼にしますわ。熱々の牛肉にダシようけめにかけてもらって、そこに生卵を絡めて……」
「やめろ、お前もだ」
 創一が叫んだ。

 空腹の高校生たちを乗せて、区間快速列車は出発した。行きと違って座席には空きが目立ち、何よりもクーラーが効きまくりなのが天国だった。
 列車が走るのにつれて、沿線に建ち並んでいたビル群は、くしの歯が欠けたようにまばらになって行った。続いて住宅地が現れ、そこも通り過ぎると、その先は一面の田園風景へと変わる。整然と稲が植え付けられた田んぼが、緑のじゅうたんよろしくどこまでも広がっていた。
 一体この先に町なんて本当にあるのだろうかと疑わしく思えるほどの眺めだが、しかし四十分も走れば工場地帯や住宅がまたちらほらと姿を現し始め、間もなく列車は緑町の駅に到着する。県下七番目の都市と言えばしょぼい感じだが、それでもこの沿線では主要駅だ。
 赤い三角屋根の駅舎を中心とする駅前には人通りもそれなりにあり、都会とまでは呼べないにせよ、町としての格好はそこそこ整っていた。彼らも普段ならこの駅前を我らが町の一大拠点としてリスペクトしているのだが、つい先ほど目にしたばかりの県都の賑わいと比べてしまうと、いかにも寂しい。ホテルもデパートもなく、もちろんハンバーガーもない。
 改札口を出た彼らは、駅の隣にある肉屋に直行して、揚げたての八十円コロッケを買った。緑町の学生たちにとってはこれが一番人気のファーストフードなのであって、実際のところ割高なフライドポテトなんかよりもこっちのほうがずっとおいしいはずだった。横山など、カレーコロッケとメンチカツも合わせて三個も買っている。
 小さな紙袋に入ったコロッケをかじりながら、パソコン部員たちは店を出た。そして駐輪場へ向かって歩き出そうとしたその時、創一が突然大声を上げ、ロータリーの向かいに建つビルを指さした。
「おい、あれを見ろ!」
 駅前エリアではもっとも立派な六階建てのそのビルには、大手スーパー・ニチイの緑町店が入っていた。その一階、パン屋が撤退してからずっと空テナントとなっていた場所に、いつの間にか真っ赤な看板が取り付けられていた。そこには、白抜きの文字でこうあった。「ハンバーガー セントレオ」
 途端に、彼らは色めき立った。
「見ろ、ハンバーガーだってよ。まじかよ」
「こりゃすごい。見に行ってみようぜ」
 急ぎ足でロータリーを半周して、一同はニチイの前に向かった。ガラス戸には貼り紙がされていて、「森水セントレオ」というハンバーガーショップが近日オープンの予定であることが告知されていた。
「この緑町に、ついにハンバーガー屋が出来るのか」
「聞いたことあらへんですけどねえ、セントレオって」
「人魚マークついてるし、森水グループの系列なんだろう、一応」
 セントレオは、大手菓子メーカーが展開する、業界下位ながら一応全国チェーンのハンバーガー・ショップである。マクドナルドがまだ進出していない二級の商業地を中心に、出店を進めていた。県内では初出店で、テレビCMも打っていなかったから、彼らが知らないのも無理はない。ともかく、これは一大ニュースと言って良かった。マイナーなハンバーガーショップが出来るだけ、とは言ってもこの変化の少ない小さな町においては、画期的な出来事なのだった。
 開店したらさっそく来ようぜと喜びつつ、一同は駐輪場へと戻る。ここからさらに自転車を走らせ、海のように広がる田んぼを越えて、ようやくその向こうに彼らの学校や家はある。しかし、夏のビーチで過ごす輝かしい一日に満足した今の彼らには、自転車のペダルも軽く思えるのだった。
 夕暮れの迫る中、残照に紅く染まった田んぼを貫く道を彼らの自転車は進む。遠いバイパスを、テールランプを光らせた車が次々と流れて行くが、その音はここまでは届かない。賑やかなパソコン部員たちが走り去ると。その後には虫の声だけが残された。

第二章 ボーイ・ミーツ・ガール

 創一の場合、ゲームのプログラミング作業を行うのは、大抵夜遅くになってからだ。FM放送を聞きながら、愛機であるシャープX1に向かい合ってひたすらキーボードを叩き、プログラムを書いていくのだ。表向きは勉強をしていることになっていたが、学校の勉強というものに、彼はほとんど興味がなかった。受験の時期が近づいてくればそんなことも言っていられなくなるだろうが、幸いなことに今のところ成績もそんなに悪くは無かった。
 民放FM局はまだ全国に数えるほどしかなく、もちろん県内にそんな洒落たものはない。山の向こうにある大都市からの放送を、室内に張り巡らせたアンテナ線で無理やりに受信していたのだが、どうしてもノイズ混じりのザラザラとした音になってしまう。それでもFMの深夜番組を聞いていると、都会の街角に佇んでいるような、そんな気分を味わうことが出来るのだった。その感覚は、彼が作るゲームの内容にも影響を与えていた。ネオンとか夜景とかが、やたらと出てくるのである。
 数行のプログラムを打ち終えて、実行コマンドを打ち込むと、シャープX1の画面には地平線の彼方まで広がる街の灯、のつもりである色とりどりの光点が表示され、揺らめくように点滅を始めた。新作の「ミッドナイトミッション」では、この大都会の夜景をバックに宇宙戦闘機が飛び回り、敵を撃破することになる予定だった。ただし、今のところは夜景の部分までしかできていない。
 それでも、ここまで作り上げたことに取りあえず満足した創一は、大きく伸びをして背もたれに体を預けた。ラジオから流れてくるのはウイスキー会社のCMで、これいいなと彼が思ったBGMの曲は、ギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」だった。
 住宅地内の通りを街灯の蛍光灯が照らしているのが、窓の向こうに見える。人の姿は無く、家々の窓はもうどれも真っ暗だ。網戸の向こうから入ってくる、夏の夜の匂いがする空気に、彼は自由の二文字を感じることができた。

 そんな優雅な夜更かしの結果、翌日の昼前まで自室のベッドで眠りこけてしまった創一は、「いつまで寝てるの!」という母親の怒鳴り声で起こされることになった。
 どうにか起き上がって朝昼兼用のピラフを食べた後、直しきれない寝ぐせの残った頭もそのままに、彼はまた自転車に乗っていつもの部室へと向かった。灼熱の太陽と、おなじみの草いきれが彼を迎え撃つ。これが現実である。
 学校に着く前に、彼はバイパス沿いにある書店へと寄り道することにした。今日は毎月必ず買っている「マイコン・マガジン」の発売日だったのだ。敷地の大半が駐車場で、その真ん中ごく一部にプレハブ倉庫のような店舗が建っているというその書店は、まともな本を買いにくるような場所とは言い難かったが、雑誌なら問題ない。
 入り口近くに自転車を停めて店内に入ると、途端にクーラーの匂いが彼を包み込んだ。一瞬で汗がひき、半死半生だった彼は生気を取り戻す。背筋を伸ばし、さてと雑誌コーナーに目を遣ると、目当ての「マイコン・マガジン」が平積みにされているのが見えた。公称三十万部、今一番売れているというパソコン雑誌である。
「マイコン・マガジン」は、読者からの投稿によって成り立っている雑誌だった。投稿されるのは、読者たる素人プログラマーが自分で作った、コンピューター・ゲームのプログラムだ。誌面には、専門用語で「コマンド」「ステートメント」などと呼ばれる、コンピュータに指示を出すための単語や数式が、
[1020 for a=1to100:print b:b=b+2:next:return]
 こんな具合で何十行も並んでいた。これがいわゆるプログラムで、パソコンはこの文字列を読みとって様々な計算をしたり、ディスプレイ上に何かを表示したりするのである。
 この雑誌を買った読者がどうするのかというと、誌面に印刷されたこれらのプログラムを、自分のパソコンに一文字一文字キーボードで打ち込んでいくのだ。全部打ち込み終わると、ようやくゲームができる。長い時には数時間もかかる、気の遠くなるようなこの苦行が、言わばインストール作業に当たるのだった。インターネットなんてものは無いし、各種記録メディアはあまりに高価で雑誌に付けるなど不可能だから、こうするしかなかったのだ。
 長いプログラムのどこかに少しでも打ち間違いがあれば、ゲームは正常に動かない。何がおかしいのか、それを調べて色々考えるうちに、今度はプログラムの成り立ちが段々分かってくる。パソコンマニアたちはそうしてプログラム言語の仕組みを覚え、やがて自分でもソフトを作れるようになって行くのである。
 パソコン部にとっても、部員それぞれが完成させたプログラムをこの雑誌に投稿することが、部活動の重要な部分を占めていた。他校との試合とか、発表会とか、そういうものが何もないわけなので、「マイコン・マガジン」誌での入選を果たすことが、部活動の成果を示す唯一の証拠なのだった。さすがと言うべきか、智野部長は何度も入選していて、創一も一度だけだが入選を果たしていた。
 隣の不愉快な「パソコンNOW」誌には目もくれず、創一は「マイコン・マガジン」を手に取ると、ぱらぱらとページをめくった。二ヶ月前に投稿したプログラムが、もしも入選ならば今月号に掲載されているはずなのだ。緊張が胸にせまってくるのを感じながら、「シャープX1」のページを探す。ページがパソコンの機種別なのは、違うメーカーのパソコンでは同じソフトが動かないのが、当たり前だったからである。見つけ出したそのページには、ペンネーム「ドサ犬」、つまりは創一が作った新作ソフト「ティラトス」が掲載されていた。
「よし、やった」
 と彼は独り大声を出した。店内の、まばらな客が振り返る。「うひょー」とでも踊り出すしたい気分をさすがに我慢して、創一は真っ直ぐレジへと向かった。これで二回目の入選だった。
 学校へ向かって再び自転車を走らせながらも、彼はハンドルバーの上で何度も雑誌を開いて満足感に浸った。「ティラトス」は一種のパズルゲームで、画面の上方から降ってくる様々な形をしたブロックを、回転させたり左右に動かしたりしてきれいに積み上げていくという内容だ。レゴブロックというおもちゃがあるが、創一はそれをヒントにこのゲームを思いついたのだった。
 ルールが簡単だからプログラムも割とシンプルで、彼としては片手間に近い形で仕上げたのだったが、それでも嬉しいことに変わりはなかった。採用されたプログラムには、「プロフェッサー・Mからのメッセージ」と称する、編集部からの選評がつくのだが、この作品には「アイデア勝ちの作品じゃな。やればやるほどやみつきになるぞい」という、高い評価がついていた。
 今日は旧村にも立ち寄らず、ひたすらペダルを漕ぐうちに、学校が見えてきた。田んぼの海に浮かぶ、真新しいコンクリートの新校舎と文化財級の木造旧校舎。あれが市内随一の名門、ということになっている緑町南高校だった。
 駐輪所に突っ込んだ自転車に鍵を掛けるのももどかしく、旧校舎に走り込んだ創一は、踏面のすり減った階段を駆け上った。
 黒ずんだ木製の扉をガラガラと開くと、狭い部室はいつも通りの熱気と騒音に満ちていた。PC-8801mk2《ハチハチ》の前に座った智野部長が、振り返る。この「ハチハチ」は部内で最も高級なパソコンであり、これを使うのは部長たち三年生の特権である。
「お、創一。どうだった? マイコン・マガジンは」
「ばっちり、採用ですよ」
 そう言って、創一は雑誌を智野に手渡す。
「プロフェッサー・Mもべた褒めです」
「なんだよ、悔しいな。俺なんかいつも、結構きつい言い方されてばっかなのに」
「智野さんのプログラム、難しすぎるんですよ。他の人が読んでもわかんないですもん」
「あ、来た来た、マイコン・マガジン。やりましたね、創一さん」
 智野部長の隣でシャープX1を操作していた氷川が、表紙を覗きこんだ。彼の正面にあるディスプレイには、この前の湖の風景と思われるコンピュータ・グラフィックスが、映し出されている。まだ未完成らしく、部分的にしか色が塗られていない。
「これで二回目だ。部長には負けるけど」
 そう言って創一は、部室の中を見回す。部屋の一番奥では、横山がPC-6001《パピコン》を操作していた。
 部室の片隅に置かれたぼろぼろのソファーに座り込んで、創一はマイコン・マガジンを読み始めた。
「ちょっと見たい記事あるんで、次それ貸してくれますか。新作ゲーム特集のページだけでいいんで」
 シャープX1の前に座った氷川が、彼に声を掛ける。
「ゲーム特集?」
「ええ、この前のアミューズメント・ショーで発表された『スプラッシュ・ウェイブ』っていうゲームの特集が載ってるはずなんですよ」
「お、これか」
 ぼろソファーに寝転がった創一が、マイコン・マガジンのページをめくってうなずいた。赤いオープンカーが椰子の並木が続くビーチサイドの道を走っている画面の写真が、特集ページの真ん中に大きく掲載されていた。MC68000という、超高性能プロセッサーが二個も使われているというスペックはそこらのパソコンとは桁違いの化け物級で、画面のリアルさ、美しさは従来のレースゲームとは一線を画していた。
「このレベルのグラフィックだと、静止画でも絵になるな」
「でしょう。だから椰子の木をCGでどう描くかの参考にしようと思って」
 氷川はシャープX1の画面に顔を近づけて、目を細める。ドット絵の細かいパターンを確認しているらしかった。
「椰子の木ってお前、あの湖にそんなのあったか?」
「椰子くらいないと、地味でちょっと絵にならないんで。それくらいの脚色は許されるでしょう」
 画面を見つめたまま、氷川が苦笑いする。
 ちょうどその時、部室のドアが開いた。顔をのぞかせたのは、鈴木直子だった。
「はは、みんな真っ黒じゃない。ほんとに海行ったんだねえ」
 部員たちの顔を見るなり、彼女は大声で笑い出す。そういう彼女も、相変わらずきれいに陽灼けしたままだ。
「へえー。綺麗だね、この絵。これがその、海水浴の時の?」
 そう言いながら彼女は、氷川が操作しているシャープX1のディスプレイ画面をのぞき込む。 
「ええ。応募するんですよ、これ、コンテストに」
「へえー、すごいねえ。海ってより、何となく湖みたいな感じもするけど」
 こいつ鋭いな、と全員が思ったが、誰も余計なことは言わない。泳ぎに行ったのが実は湖だったとばれたりしたら、なんで海じゃなくてそんな中途半端なとこ行くのよと、また大笑いされるのが目に見えている。
「ぺっぺけぺー」
 突然、安っぽい電子音のファンファーレが、部室の中に響き渡った。音の主は、横山が操作するPC-6001《パピコン》だった。いささか旧式のNEC製初心者向けパソコンで、主に一年生の練習用に使われている。
「お、なんだ」
 創一がソファーから起き上がり、画面をのぞきに行く。そこには、このようなメッセージが表示されていた。
[あいしょう うらない by YASSAN]
「ほんとに凝ってるんだな、占い」
 創一は笑った。
「結果には自信があります。ちゃんと理論を研究して作ったんで」
 横山は神妙な顔でうなずく。
「え、なになに、占いつくったの?」
 直子が嬉しげに寄ってきた。
「へえ、相性占いかあ。面白そう!」
 その声を聞いた他の部員たちも、パソコンの前に集まってきた。それじゃ、と横山は実演を始める。彼がリターンキーを押すと、入力画面が表示された。生年月日・血液型・星座が、二人分入力できる。
「よし、じゃあまず俺で試してみようじゃないか」
 創一が横山の脇から手を伸ばし、キーボードを叩いた。
「へえ、創一さん乙女座か」
「似合わないな、こいつには」
「でも、B型っての、そのまんまって感じ」
「うるさいな、余計なお世話だよ」
 各々の勝手な感想に、創一は苦笑いする。
「で、俺のお相手は、誰だ」
「そりゃ、男同士で相性調べてもしょうがないでしょう。やっぱり、ここは」
 氷川が鈴木直子の顔を見る。
「パソコン部のアイドルの出番でしょう」
「え、こいつか」
 創一が顔をしかめる。
「こいつ、って何よ。あたしじゃご不満ですか」
 直子は彼をにらみつける。
「だってさ、こんな真っ黒けの女」
「誰が真っ黒けよ。小麦色っていうのよ、私のは」
 そんなやりとりを無視して、横山は黙ってキーボードを叩き始めた。1970年3月13日、AB型、うお座。
「へえー、あたしの誕生日とか知ってるんだ」
 直子が驚いた目をして、横山を見た。
「実はあたしのファンだったりする? 横ちゃん」
「前、何かの時に教えてくれはりましたよ、忘れんとちゃんと覚えとけ、とか言うて。それじゃ、出します。えい!」
 彼はそう言って、リターンキーを叩く。
[あいしょう は 35%。あまり したしい かんけいでは ありません。てきどな きょりをおいて つきあうのが よいでしょう]
「こんなん、出ましたけど」
 横山はにこにこ笑いながら、創一のほうを降り返った。
「三十五%は、むしろ高すぎると思うね」
 そう言う彼の顔は、いくらか強張っているようだった。
「メッセージが随分シビアなのね、これ。もうちょっとくらい仲いいと思うけどな、あたしたち。ねえ?」
 直子が創一の顔を見た。
「同じ、鈴木だからな、一応」
 創一の表情が和らぐ。
「お前の占い、人間関係壊すぞ。城崎さんにでも、気障な文章考えてもらったらどうだ」
 氷川がそう言った途端に、「何やってんの、君たち」と言いながら、当の自称文豪・城崎副部長が部室に入ってきた。PC-6001《パピコン》の周囲に集まった彼らを見て、怪訝そうな顔をしている。
「直子と創一の相性占いやってるんだ。横山がパピコンで作ったやつ」
 智野が説明すると、城崎は気乗り薄な顔で近づいてきた。
「副部長もやってみはりますか?」
 横山がそう言って、占いを入力画面に戻す。
「人と人のつながりは、占いなんかで知ることはできないよ。まして、そんな機械ではね」
 城崎は長髪を掻き上げる。
「でも、遊びと割り切れば面白いかな」
 結局やるのかよ、と全員が思ったが口には出さない。城崎の言うとおりにデータを打ち込み、直子のデータはそのままにして、再び実行。すると、
[あいしょう は 5%。この おとこは きけん ちかづかない ほうがいい]
 城崎の表情が、驚愕に歪んだ。横山はまじめな表情を保っていたが、残る全員は一斉に爆笑した。これはあんまりだ。あんまりではあるが、城崎の怪しげなイメージにはぴったりな内容だった。
「すごいぞ、これ、当たってるじゃないか」
 笑い終え、息を整えながら、智野は言った。
「副部長って、やっぱり危ない人なんですか?」
 そう言う直子の目許には、笑いすぎたのだろうか、涙が滲んでいる。
「君たち、失礼だろう」
 城崎は真っ赤な顔で抗議した。
「確かに、ある種の危険さを持たない芸術家には存在価値はない。そう言う意味では、僕だって危険な人間かもしれない。しかし、僕は紳士でもある。恋の炎で相手を焼くようなことはあるかもしれない。しかし、危害を加えるようなことなどあり得ない」
「恋の炎!」
「焼くのか」
「焼くそうですよ」
 再び、部室に爆笑の渦が巻き起こった。城崎は怒りのあまり、一人でソファーに座り込んでしまった。黙って、うつむいている。不気味な長髪がかぶさって、顔が全く見えない。
「ごめんなさい、副部長」
 直子が彼の横に座り、なだめる。
「副部長があぶないとか、全然思ってないよ。時々わけわかんないなこの人、って思う時あるけど、ほらそれって芸術家方面だから、やっぱ」
 たちまち城崎は顔を上げた。目の前に、直子の顔がある。
「直子、くん」
「おい、やばいぞ直子。焼かれるぞ」
 智野がまた混ぜ返す。
「何とでも、言え。真の理解者さえ一人居れば、君たちなんかどうでも構うものか。塀を越えられるのは、鳥だけだ」
 打って変わって強気の顔で、城崎は言い返す。
「だろう、直子君」
「そう思いますよー。早く見つかるといいですね、理解者の人」
 彼女は笑顔でそう言うと、ソファーから立ち上がった。肩透かしを食らった格好で、城崎は前のめりに姿勢を崩す。 
 そもそも、なぜ彼女がこの部に居るのか、それは全くの謎なのだった。彼女はパソコンを全く使えない。プログラムなどもってのほかで、ゲームさえめったにやらない。ただ部室にやって来ては、ずっと部員たちと雑談しているだけだ。テニス部と兼部だから、いつもここに居ると言うわけではなかったが、それでも定期的に必ず顔を出していた。一体ここの何が楽しいのか良く分からなかったが、見ようによっては紅一点のアイドル的立場を満喫しているということになるのかも知れなかった。

 残るメンバーについても占ってみたものの、氷川と直子の相性が四十%、智野が五十五%で、先の二人よりは若干高いものの、結局みんな似たりよったりの結果となった。彼女のリクエストで、三年生と思われる生年月日の、謎の男との相性も占ってみたものの、これも二十%台と低迷した。
「あたしって、実は孤独な女なのかもなあ」
 そう言って、直子は複雑な表情を浮かべた。
「大体、お前の占いはどれもこれもシビアすぎるぞ。救いってもんがないよ、これじゃ」
 氷川が横山を非難する。
「理論の通りにプログラムしただけなんやから、仕方あらへんよ」
「そういや、お前と直子の相性まだ占ってないじゃないか。これだけみんなネタにされたんだから、お前もやれよ」
「ええよ、僕は」
 横山はあわててブレイク・キーに手を伸ばし、プログラムを停止させようとした。
「させるか」
 智野と創一が彼に飛び掛り、二人で羽交い絞めにする。その隙に、氷川が彼のデータを素早く叩いた。中学時代からの付き合いで、誕生日も血液型も知っている。
 みんなが期待して見守る中、氷川がリターンキーを叩いた。
[あいしょう は 80%。しょうがい の
 パートナーとして しんけんに かんがえるべき]
 直子以外の全員が、当の横山を含めて、唖然とした顔に変わった。隣のタマがオリンピックで金メダルを取った、まるでそんな感じなのだった。しかし直子は、嬉しげである。
「へえ、少なくとも横ちゃんとは相性いいんだ、あたし」
 彼女は、横山に笑いかける。
「ね、仲良くしようね」
 横山は照れたような顔をして、こくん、とうなずく。そんな二人を、男たちが複雑な表情を浮かべながら見ていた。

 お盆も近いある日、派手な赤色で印刷されたチラシが、各紙の朝刊に折り込まれて緑町周辺の一帯にばら撒かれた。例の「森水セントレオ・ハンバーガー」がついにオープンしたのだった。そのチラシには、チーズイン・ハンバーガーが百円になるという夢のクーポンが印刷されていた。
 その日、パソコン部の部室に集まって来た男どもは、全員例外なくそのクーポンを握り締めていた。さすがにこうなると、パソコンなどを相手にしている場合ではない。
「よし、今日はまずハンバーガー獲得へ出撃だ」
 という智野部長の号令の下、みんな自転車にまたがって、駅前のニチイへと一直線に疾走することになった。
「ニチイショッピングデパート」と呼ばれるその六階建ての大型店舗を、この町に暮らす素朴な住民の多くは本当にデパートなのだと信じていた。しかしもちろん、ニチイはデパートではない。創一たちも、これが本当はスーパーの仲間なのだと言う事実に気づいてはいたが、それでもなお「駅前のデパート」と呼ぶことがあった。この緑町にだって、デパートの一つくらいあってもいいじゃないかという願望が、そうさせるのかも知れなかった。
 実際のところ、この「デパート」は彼らの都市生活に、大きなウェイトを占めていた。本でも文具でも必要なものはほとんど全て揃ったし、地下のフードコートにある「オレンジロード」というクレープ屋でクリームソーダを飲むこともできた。特に屋上のゲームコーナーは、昔のテレビゲームがいまだに棲息する貴重な場所だった。そして今、そのニチイショッピングデパートの歴史に、ハンバーガーショップのオープンという新たな一ページが加わったのだった。
 駐輪場に自転車を停めて、勢いよく店内に飛び込むと、カウンターの前に並んでいた女子高生たちが彼らのほうへと振り返った。みんな揃って、この地方では名の通った女子高の制服を着ている。
「あれ、祐ちゃん」
 彼女たちの一人が、驚いたように声を上げた。色白で髪が長く、セーラー服のスカートは長くも短くもない、まっとうな女子高生だ。当たり前だが、化粧などしていない。この時代、化粧をしている女子高生は、スケ番だけである。
「おはよう。こんなところで会うなんて、びっくりね」
「お、おう、おはよう。何だよ、今日は『オレンジロード』じゃないのか」
「祐ちゃん」と呼ばれた智野部長が、照れたように笑う。
「今から、みんなで県美に行くの。朝ごはん食べて電車に乗ろうって行ってたら、こんなお店が出来てて。いつもクレープだし、ハンバーガーってどんなのかなって」
 と彼女は微笑んだ。
「城崎君たちも、一緒なのね。こんにちは」
「どうも」
 城崎副部長が、おずおずと会釈する。
「みんな、真っ黒ね。城崎君はあんまり焼けてないみたいだけど」
「あの」
 氷川が、創一の背中をつついた。
「誰ですか、あの人」
「部長の、ガールフレンドだ。京子さん」
 創一が振り返って、小声でささやく。
「俺も、初めて見た。写真は、見せてもらったことあるんだけどな」
「随分きれいな彼女じゃないですか」
 氷川が感嘆のため息をついた。
「すごいな、智野さん」
 連れの女の子たちに二言三言、話しかけてから、その京子さんは言った。
「折角だし、みんなで一緒に食べましょうよ」
 しかしなぜか智野は、不安げな表情を浮かべた。城崎副部長はしきりに髪を掻き上げる。横山はそんなことより、カウンターの上にあるメニューのチェックに余念がないようだ。創一は勢いよくうなずいたきり、続く言葉が出て来ない。「いいですね、ぜひそうしましょう」とまともな反応を返せたのは、氷川だけだった。
 お嬢様たちはクーポンなどと言うものは誰も持っていないらしく、みな定価でサラダ付きの高価なセットを注文した。続く男どもは、そろってチーズイン・ハンバーガーとソーダのSサイズだ。
 注文を終えた彼ら&彼女らは、奥の座席に合コンよろしく向かい合って並んだ。女子高生グループは四人で、パソコン部員たちより一人少なかった。彼女たちは美術部の活動で、今から県立美術館に印象派展を見に行くのだと言うことだった。元美術部の氷川が、なるほどとうなずく。彼にとっては、まさに得意分野である。
 四人の中には一人、派手な顔立ちが際立ってかわいい子がいて、古典的美人と称すべき京子さんと好対照をなしていた。あとの二人は、まあ普通だ。互いの自己紹介の結果、三年生の京子さん以外の女の子は、みんな二年生であることが分かる。派手な子の名前は、明美(あけみ)というのだった。
 こんな恵まれた状況にも関わらず、パソコン部チームは黙り込んだままだった。空気が重さを増して、ハンバーガーショップの床に流れ出そうとしている。焦った智野部長は状況を何とかしようと、いつもなら盛り上げ役になるはずの創一に話しかける。
「みんなで、自己紹介でもしようか。トップバッター鈴木創一、よろしく!」
「鈴木、創一です」
 そう言って頭を下げて、創一は再びそのまま黙り込んだ。面白くもなんともない。女子高生たちを前に、脳が完全に機能停止している。
 城崎副部長がぼそぼそと自分の名を名乗り、横山も「横山です」としか言わず、ようやく氷川だけが元美術部であることと、ドガやルノワールの描く女性が好きだということを爽やかな口調でアピールして見せた。女の子たちからは「あ、私も好き」などという、好意的なリアクションも返って来た。
 続く女性陣も京子さんから明美さん、普通コンビの二人と順番に自己紹介をしてくれた。氷川の影響で、それぞれ自分の好きな画家についても説明してくれたのだが、それがどんな絵を描く人たちなのか、美術芸術と縁遠いパソコン部側としては良く分からない。結局リアクションの返しようがないままで、ここで再び重い沈黙のピンチが訪れた。
「創一君は、何年生?」
 すかさず京子さんが、アシストに入る。
「二年です。来年は、三年」
 虚ろな目で、彼は答えた。目の前の京子さんを、直視できないのだ。
「あら、そうなんだ」
 京子さんは、にっこりと笑った。
「この子たちも、同じ二年生よ。二人ともボーイフレンド募集中、だったよね」
「やっだー、京子さん」
「恥ずかしいですー」
 名指しされた、普通子A・Bの二人が、顔を見合わせて笑う。数秒遅れで創一も、ぎこちなく笑みを浮かべる。
「明美さんは、募集はなしですか?」
 ここで氷川が、サーブを打った。
「うーん、一応ね。空席なし、かな」
「そうか、残念だなあ」
 軽薄な調子で、氷川は天井を仰いだ。そんな彼を、城崎副部長と創一が呆れたような顔で見ている。
「うん、でもあんまり上手く行ってないんだ、最近」
 さあ私を口説きなさいと言わんばかりの甘い口調で、明美は小首を傾げた。
「あの、京子さんはどういうきっかけで出会わはったんですか、智野さんと」
 氷川たちのやり取りを全く無視するように、空気を読まない横山の質問が割り込んだ。
「えー? 言わないと、駄目?」
 京子さんはそう言って、智野の顔をのぞき込む。
「そんなのお前が知っても、しょうがないだろう」
 智野部長が渋い顔になった。会話の行方が再び宙に浮く。
 ここで突然、ど真ん中の席に座ってた城崎副部長が、ねずみ色のショルダーバッグからポケコンを取り出して電源を入れた。一同は、呆気にとられる。しかし城崎は意に介しない様子で、小さなキーボードをぷちぷちやり始める。
「あの、城崎君、それは何かしら?」
 ややあって、京子さんが訊ねる。
「うん、そうだね」
 城崎は顔を上げ、独りうなずく。何がそうだね、なのかは誰にも分からない。
「僕は、小説を書かなきゃならないのでね」
「お前、今そんなことしなくてもいいだろう」
 智野がますます不機嫌な顔になる。
「失礼じゃないか、何考えてるんだ」
「この人、城崎さんは、小説家を目指してるんですよ」
 氷川があわててフォローに入る。
「で、創作意欲が湧いてくると、このコンピュータで、おもむろに小説を書き始める。天才肌なんです」
「何が天才なもんか、非常識なだけだ」
 智野はあくまで厳しい。
「祐ちゃん、喧嘩は駄目よ」
 京子さんは困ったようにほほえむ。
「どんな小説を書いてるの? 城崎君」
「ある男が、故郷に帰るんだ。しかしそこは、もう彼のいるべき場所ではなかったんだ」
 と城崎副部長は、自作を語ってみせる。
「それで?」
「そういう、小説なんだ」
 城崎はそう言って、再び極小の白黒画面を見つめる。
「そう、なのね」
 京子さんは、困惑の度合いをますます深めたようだった。
「これ、コンピューターなの? こんなに小さいのに」
 黒くて太いセルフレームの眼鏡をかけた普通子Aが、無邪気な声で訊ねる。
「ポケコン、っていうんだ」
 智野部長が説明する。
「ポケットコンピュータ。これでもちゃんと、ゲームなんかのプログラムを動かしたりできるんだよ」
「『プログラム』って何ですか?」
 髪を三つ編みにした、普通子Bが訊ねる。
「あの、コンピュータを動かすには、手続きが決まってるんだよ」
 ここぞ、と創一は身を乗り出した。せっかくの女子高生としゃべりたくても言葉が出て来なかったのが、得意のジャンルが話題になって、突然脳が回転を始めたのだった。普通子コンビ相手ならハードルも低い。
「その手続きを、順番に並べたものがプログラムなんだけど。難しいなあ。例えば『print』とプログラムに書いておくと、画面に文字が表示される。『input』と書いておくと、データの入力ができる。そういうのを一杯並べておくと、パソコンが動くんですよね。動くと言っても、パソコンが床を走っていくとか、そう言うのじゃないんだけど」
 年頃の女の子というのはありがたいもので、こんなどうしようもない冗談にもちゃんと笑ってくれる。ただし明美は、派手な顔に微妙な表情を浮かべたままだ。
「じゃあ英語なんだね、難しそう」
 普通子Bが、素直な声でずれた感心をしてみせる。
「横山、あれ出せよ」
 氷川が横山の背中をつつく。
「あれ、あれ。占い」
「ああ、ええよ」
 ハンバーガーをかじりかけていた横山があわてたように、リュックサックからカシオ製ポケコンを取り出す。
「これで、占いが出せるんですよ」
 氷川が、ポケコンを女の子たちの側に向けて蓋を開き、テーブルに置く。
「ええと、そうですね、じゃあ明美さんの生年月日と、血液型教えてもらっていいですか?」
「えー? わたしなの?」
 指名をもらった明美が、再び頬を紅く輝かせる。
「じゃあ、せっかくだから。昭和四十四年、十月二十六日。O型」
「よし、じゃあ頼む、横山」
「はいはい、ええと、1969、10、26、O、っと」
 明美の個人情報を、横山はいかにも無造作に入力する。
「で、実行っと」
 彼が作動させた占いソフトが画面に表示してみせた文字は、次のようなものだった。
「アスノ ウンセイ・・アカイ チヲ ナガシテ ヨコタワルノハ ダレ? カエリミチ ニハ ゴヨウジン ゴヨウジン」
 横から画面を見ていた、氷川の顔色が変わった。二流のホラー小説なら、これをきっかけに惨劇でも始まりそうなメッセージではないか。
「おい、エラーが出てるじゃないか」
 と氷川は瞬時に手を伸ばし、ポケコンの電源スイッチをオフにした。目にも留まらない早業である。
「明美さんごめんなさい、まだ未完成みたいで」
「あら残念。難しいのね、コンピューターって」
 何も知らない明美はにこにこしている。
「こういう風に、せっかくプログラムを作っても、なかなかうまく動いてくれないんですよ」
 こちらも状況を知らない創一が、勝手にぺらぺら解説を始める。
「プログラムのこういう欠陥を、僕らは『バグ』って言うんです。これは『虫』という意味で、元々は米軍のコンピュータに虫が入り込んで故障が起きたのが……」
「もう、説明は分かったから」
 智野部長が苦笑する。とりあえずではあるが、先ほどまでの重い空気が吹き払われて、ひと安心なのだった。もし明美に占いの結果を見られていれば、もっとはるかに強い重力が発生していたはずなのだが、そんなことは知らない。
「ちょっと、プログラムを見せてくれ」
 氷川は横山のポケコンを手許に引き寄せて、恐る恐る電源を入れた。さっきの不吉な予言は消えていて、白黒の液晶画面にはメニュー画面が表示されているだけだった。
「あれ? 氷川って、C61-BASIC読めたっけ?」
 創一がいかにも不思議そうに訊ねる。「使ったことが無いはずのポケコンのプログラムを解読できるのか?」という意味なのだが、もちろん女の子たちには、創一が何を不思議がっているのか皆目わからない。
「まあ、大体読めると思いますよ」
 氷川はそう言いながら、プログラムを確認する。
「カシオのBASICは、簡単やからね」
 横山が横から画面をのぞき込んで、うなずいた。
 城崎副部長は相変わらずの執筆タイムだから、男五人のうち、二人がポケットコンピュータに向かっているという異常な状況に、再び空気はおかしな渦を巻き始めた。これではまずいと、京子さんが再度サーブを打つ。
「みんな、休みの日なんかはどんなことしてるの? 映画とかは見る?」
「おおお、そうだ。創一、なんかこの前緑町会館で面白い映画見たとか言ってたな」
 智野は再び、創一に会話の行方を預ける。
「見ましたとも」
 創一が大きくうなずく。
「『天空の城ラピュタ』。あれは、宮崎監督の最高傑作です」
「私も見たよ、それ」
 リアクションを返したのは、セルフレーム眼鏡の普通子Aだった。
「良かったよね、滅びの呪文を唱えるとことか、泣いちゃった」
「いやほんとほんと、ムスカが良かったよね」
 女の子からのまさかの好反応に、創一は目を輝かせて再び身を乗り出した。
「『見ろ、人がゴミのようだ!』。最高に格好良い台詞だったよね、あれは」
「それは、わたしはちょっと……」
 普通子Aは戸惑いの表情を浮かべる。噛み合いかけた会話の歯車は、一瞬にして砕け散った。
「それなに、どんな映画?」
 明美が会話に割り込んでくる。
「空に浮かんでるお城で冒険するアニメなんだけど、主人公の二人がすっごく健気で、かわいいの」
「なんだ、アニメなんだ」
 明美はつまらなそうな顔をする。
「確かにカリオストロも、ナウシカも良かった。しかしラピュタは、カリオストロを超えたね、あれは」
 場の空気を読めないまま、創一は壊れた歯車を空転させて暴走を続ける。
「直った」
 氷川が突然そう言って、顔を上げた。
「明美さん、占いが直りましたよ。もう一回やってみますね。昭和四十四年の十月二十六日生まれ、O型で良かったですよね?」
「ちゃんと、覚えてくれてるのね」
 明美は満足げに笑う。
 氷川が叩いた実行キーに反応し、カシオPB‐1000は明美の運命をこう告げた。
「アタラシイ デアイ ニ ミライアリ。フルイ シャツ ハ ヌギステテ、イマ ハシリダス トキ」
 隣で画面をのぞき込んでいた横山が、怪訝そうな顔で、何か言おうとした。そんな彼を目で制し、氷川は明美にポケコンを手渡す。
「どうぞ。ちょっと読みにくいですけど」
「まあ」
 画面を流れるカタカナのメッセージを見た明美は、大げさに声を上げた。
「ステキな占いだわ。そうね、走りだしてみようかな、あたし」
「へえ、なかなか名文じゃないか」
 横からポケコンの画面をのぞきこんだ創一が、感心したように言った。
「副部長にでも書いてもらったのか?」
「ええ、明美さんにぴったりの、前向きな内容ですよね」
 氷川がもっともらしくうなずいた。
「脱いで走る、ってところがいいよな、何て言っても」
 創一のその言葉を耳にした途端、明美は露骨に嫌な顔をした。創一はうろたえたように、「いや、脱ぐといっても下着姿とか裸とかそういうのを想像した訳じゃなくて、その」と余計な言い訳を始めたが、彼を見る明美の瞳は氷のように冷たい色を帯びた。
 このやり取りを横目で見ていた横山が、小声で氷川に訊ねる。
「あんな占い、なかったはずやで。プログラム、変えたやろ」
「おかげで喜んでたじゃないか、彼女」
 氷川は涼しい顔でソーダを飲む。
「占いは喜んでもらうためにやるもんやないよ。元木先生、怒るやろうなあ」
「誰だそれ」
「『天殺界』の元木夏子先生に決まってるやんか。僕、あれを参考にしてプログラム組んだんやから」
「知らないなあ」
 京子さんや普通子たちも横山にポケコンを操作してもらい、それぞれの明日を占ってもらう。しかし横山が作った占いは、「良いことも悪いことも何もない一日、人生の大半はそんなもの」とか「朝からひどく嫌なことを言われてやる気を一切失う、それが三日続く」など、実にろくでもない内容で、みんな暗い顔をして黙り込んでしまった。氷川が何か言いたげに目配せしても、横山はまるで知らん顔である。
「そう言えば、時間は大丈夫なのか?」
 もはや限界と判断した智野が、京子さんにそう訊ねてみせる。
「ほんとだ!」
 腕時計に目を遣って、彼女は目を丸くした。
「みんな、そろそろ行かないと。区間快速が来ちゃう」
 明美が立ち上がり、短いスカートの裾を払う。創一と普通子たちは共にほっとしたような顔で、テーブルのゴミを片づけ始めた。ポケコンを鞄にしまい込んだ横山に、氷川が何やら小声で文句を言っている。城崎もポケコンの電源を切り、ため息をつきながら、窓の彼方を遠い目で見た。そこにはトイレ用洗剤の色褪せた看板があったが、彼には何か違うものが見えているのかもしれない。
 セントレオの前で、彼らと彼女らは左右に分かれた。女子高生たちは手を振って、駅へ向かって去って行った。
 女の子がいなくなると、彼ら五人は各々全身の力を抜いた。やはり、男ばかりのほうが気楽なのだった。もっと女子部員がたくさんいれば、などと言ってはいるが、実は直子一人くらいでちょうどいいのかも知れなかった。

 折角だから、ゲームコーナーでものぞいて行こうかと、彼らは屋上へと向かった。エスカレーターに乗ること六回、ようやくたどりついた屋上には、たまに子供向けの着ぐるみショーが開催されるステージと一周百メートルのミニ列車、それに古いテレビゲームが並ぶゲームコーナーがあった。グリーンのビニール屋根の下にゲーム機が並ぶという、お世辞にも立派とは言えない造りだ。業務用クーラーが動いてはいたが、薄い屋根の向こうで輝いている太陽に熱せられて、むっと暑い空気が充満している。
「ゼビウス」や「リブルラブル」などのレトロゲームをみんなで遊んでいると、急に辺りが暗くなってきた。外に出てみると空はいつの間にか雲に覆われていて、太陽の姿が無い。屋上を囲むフェンスの前に立ち、彼方の田園地帯に目を遣ると、その上空を迫り来る黒い雲の一団が目に入った。あれは、まずい。間違いなく嵐が来る。
 部員たちは慌てて駐輪場に戻って自転車にまたがると、全速力で農道を駆け抜けた。行く手の上空は真っ暗で、遠い山地が白くかすんで見えるのは、すでに豪雨が降りしきっているからに違いない。
 学校が近付くと、氷川から順番に一人また一人と部員たちは自転車部隊を離脱しては、「それじゃ、また」と各々家のある方角へと去って行った。創一と最後まで一緒だった横山が「ほんなら、また」と去って行った辺りで、いよいよ黒雲が頭上に迫ってきた。妙に涼しい風が吹き降りてきて、体を冷やす。心地はいいが、これでは家まで天気は持たない、と判断した創一は部室に緊急避難すべく高校の校舎へと進路を変えた。必死でペダルを漕ぎ、駐輪場の屋根の下に自転車を突っ込むのとほぼ同時に、雨粒が屋根のトタンを打つ音が聞こえた。
 薄暗い部室には誰も居なかった。湿気を含んだ木材の匂いが、室内を満たしつつある。そして間もなく、叩きつけるような激しい雨が降り始めた。窓の外は、昼間とは思えない暗さだ。
 しばらくは、帰るに帰れない。彼はテレビのスイッチを入れた。昔の時代劇が始まって間もなく、大雨洪水警報の速報テロップが隠密同心の額の上を流れた。こりゃますます帰れないな、と暗澹たる気分になったその時、部室のドアがガラガラと開いた。
「あれ、今日は創一くん一人なんだ?」
 現れたのは、鈴木直子だった。大きなテニスバッグを手にしている。
「ああ、つかまっちまったよ、こんな天気で」
 彼は肩をすくめた。
「お前こそ、何で」
「そうよ、困っちゃうわよね、こんな天気」
 彼女はそう言って、紺色のスカートについた水滴を乱暴に払った。ブラウスも、肩の辺りが濡れて肌色が透けている。
「練習だったんだけど、これじゃどうしようもないよねえ」
 漂ってくる何やら石鹸系の香りで、創一は一瞬息が止まりそうになった。しかし直子は、そんな彼の様子を意に介する風もなく、窓際に近づいて空を見上げる。
「わ、さっきよりすごいことになってる。滝の中みたいだね」
 彼女がそう言って振り向いた瞬間、窓の外を閃光が走った。室内の全てが、白と黒のコントラストに変わる。間髪入れず、破裂音を伴った雷鳴が、激しく轟いた。
「近い、近いよ今の。光ってから落ちるまですぐだったよ」
 彼女ははしゃぎながら、窓の向こうをきょろきょろと見回している。どの辺りに落ちたのか、確かめようとでもしているのだろう。
「なあ、ちょっとは怖がるとか、お前そういうリアクションはないのかよ」
 こんな時、古典的な漫画なんかだと、少女がきゃあとかいいつつ少年に抱きついたりするはずなのだ。
「だって大丈夫だもん。ちゃんと避雷針立ってるでしょ、新校舎に」
 直子はあくまで冷静である。
 さらに数度の落雷が爆撃のように続き、雨はまるで空と地上を一続きにしようとしているかのように降り続いた。実際、この日の嵐は記録的なもので、隣の町では竜巻による被害が出たほどだった。直子は窓枠に頬杖を突いて、稲垣潤一の「バチェラー・ガール」のメロディーを口ずさんだりしながら、この大自然のショー・タイムを眺め続けていた。そんな彼女の姿は、創一の目には極めて魅力的なものに映った。やはり嵐の中というシチュエーションでは、ある種の魔法が働くようだ。それでも表面上は知らん顔をして、彼は隠密同心が悪人どもを成敗する様子を眺めていた。
 やがて空はわずかに明るくなり、雨もシャワー程度にまでは小降りになってきた。しかし、ざわめく水田の上を流れ来る空の彼方を見遣ると、第二弾、第三弾の黒雲が控えているようだ。とてもではないが、すぐに雨が上がるような状況ではない。
「よし!」
 直子は勢い良く立ち上がり、振り返った。床に膝を突いていたせいで、スカートの両膝がパウダーをはたいたように白くなっている。
「ねえ、帰ろう。今チャンスだよ」
「うん、でも」
 創一は、もごもごと言った。
「俺、傘ないし。自転車だから」
「置いてきゃいいじゃない、自転車なんか。あたしの傘入れたげるよ。郵便局の辺りまでは送ってくから、そこから後は頑張って走れ!」
 彼女はそう言って、屈託無く笑った。
 テレビと部室の電気を消し、鍵を用務員さんに預け、二人は校舎の玄関に立った。まるで魔法のように傘がふわっと開くのを、創一は半ば呆然としながら見ていた。
 一つの傘の下、女の子と肩を寄せ合って歩くのは、創一にとって全く初めての経験であった。それじゃ肩濡れるでしょ、もっと中入んなよという彼女の言葉は、彼の脳内でエコーとなって繰り返し反響した。何をしゃべったかは、ほとんど覚えていない。しかし、この十五分間の出来事は彼の精神に深く刻まれ、「ラックス」の石鹸の香りに雨の音を思い出す、そんな条件反射を生涯残すことになった。
 住宅地の入り口にある郵便局の前で、「じゃあね」と手を振る直子と別れた。建売住宅が並ぶ通りにはいくつもの水たまりが出来ていたが、そんなもの平気で踏み越え、水を跳ね上げながら、彼は雨の中を颯爽と走り抜けて見せた。背後で直子がじっと自分の後ろ姿を見ているのじゃないか、そんな気がしていた。
 家に帰り着くと、母親が風呂を沸かしてくれていた。びしょ濡れの服を脱いで入った湯船の中で、彼はたった今起きたばかりの一連の出来事を繰り返し思い出した。よみがえる、雨の音。直子の面影が、湯気の向こうに何度も浮かんでは消えた。かつて「真っ黒け」と評したあの日焼けした姿が、今の彼には美しい夏の妖精のようにさえ思えて来るのだった。

第三章 現実逃避のテクノロジー

 八月十六日の夜、旧村の八幡神社では夏祭りが開催される。神社近くの河原では、わずか三百発とささやかながら花火も打ち上げられることになっていた。夏場におけるこの地域最大のイベントだから、旧村の住民のみならず、周囲の新興住宅地からも若者たちが集まって来る。カップルが手をつなぎ、はしゃぎながら夜店をのぞいて回るという光景が見られるのもいつものことだった。
 従って、創一はそんなものに近づこうとは思わなかった。馬鹿騒ぎも人混みも好きではないが、かわいい女の子を連れた男前を見るのはもっと嫌だ。
 パソコン部内の雰囲気もやはり祭りには冷淡だった。
「そう言えば、週末はお祭りですね」
 と言う氷川に、
「あんな人だらけで疲れるもんに、のこのこ出かけるのは阿呆やね」
 と横山はにべもないし、
「そういうものではしゃげる、という一般人の単純さがうらやましいね、僕は」
 と城崎副部長は一体何様なのかと言う感じのコメントを返す。
「お前らボロカスだな」
 と苦笑いする智野部長だけは、ちゃっかり京子さんとお祭りデートの予定なのだった。
 ところが、部室に現れた鈴木直子の一言が、その空気を一変させた。当日彼女はテニス部のメンバーと、浴衣姿で祭りに出かけるのだという。その言葉を耳にした途端、ソファーで気だるそうに文庫本を読んでいた副部長は、瞬時に振り返って彼女を食い入るように見つめた。恐らく彼の脳内では、直子はすでに浴衣姿に着替えさせられているのだろう。そ知らぬ顔でキーボードを叩いていた創一も、実のところ考えていることはほぼ同じだった。
「楽しいのよ、八幡さまのお祭り。花火も上がるよ」
 とその直子は、しきりに祭りを宣伝する。旧村住民である彼女としては、ぜひとも夏祭りが盛況になって欲しいのである。
「そうなんや……花火まで上がるとは知らんかったですわ」
 と、横山が妙に小さな声で言った。
「それやったら……行く値打ちもあるかもしれへんですが……」
「そうだな、花火、が上がるんじゃなあ」
「あれは、一種の芸術だからね。僕としても見ておきたいな」
 と、みな口実としての花火をフル活用して、一気に局面の打開に入った。お前ら何だよそりゃ、と智野がまた苦笑しているが、そんなものは無視である。
 それじゃまあ、その祭りだか何だかというのに行ってみようか、という方向で部員たちがまとまり始めたところで、部室のドアが妙にゆっくりと開いて、淡いピンク色のワンピースを着た女性がおずおずと顔を出した。ここにはたまにしか現れない、顧問の桜沢先生だった。今日は部員の男どもに不評の三角眼鏡ではなく、赤いフレームのかわいらしい眼鏡を掛けていた。
「あ、こんにちは、美代子先生」
 直子が明るい声で、真っ先に挨拶する。彼女を囲む他の男どもも、それぞれに「こんにちは」と頭を下げる。
「こんにちは……皆さん今日は、何だか楽しそうなのね」
 全員が黙って画面に向かっている、いつもの異様な情景を覚悟して部屋に入って来た桜沢先生は、部員たちのそんな様子を見て、ほっとしたように挨拶を返した。
「そうだ、先生も来ませんか? 週末の夏祭り。みんなも花火見に来るみたいですよ」
 と直子が早速勧誘にかかる。
「ああ、旧村の? そうか、土曜の夜なのね」
 思い出したように、先生はうなずく。
「もう、随分長い間行ってないなあ。そうね、土曜は主人も出張で家にいないし」
「ほんとですか?」
 直子が目を輝かせた。
「あたし、明日は浴衣で行くんです。先生も、どうですか?」
「浴衣か……。古いのがあるけれど、今だとちょっと窮屈かな」
 その言葉に、副部長を初めとする男どもの視線が、今度は美代子先生のほうに集中した。彼らの脳内では、彼女の姿はその窮屈な浴衣姿とやらに変換されていたのだった。
「そうだ」
 と氷川が声を上げた。
「先生、これを見てもらえますか」
 彼はそう言って、シャープX1の画面を指さした。そこには、例の湖の絵が表示されている。
「この前みんなで海水浴……じゃないや、写生に出かけた時の、コンピューター・グラフィックです。もうちょっとで完成です」
「あら、綺麗ね! これは、氷川君が?」
 桜沢先生は、感心したような声を出した。部員たちがいつも遊んでいるコンピュータゲームと言うのは訳が分からないのだが、こういう絵なら一目瞭然で善し悪しも分かる。
「はい、僕なりに頑張って描いてみました。応募する以上は、コンテスト入賞を目指さないといけないので……」
 氷川のその言葉に、創一たちは思い出した。そう言えば、CGコンテストに応募するとか何とか、そんな設定で部費を使って泳ぎに行ったはずなのだ。
「うん、これならきっと入賞目指せるわ。先生も楽しみ。頑張って完成させてね」
 先生は、氷川に向かって微笑みかける。彼は少し照れたような笑顔になって、黙ってうなずくのだった。

 当日は、八幡神社に現地集合と言うことで、パソコン部一同は例によって各々愛車にまたがり、旧村を目指した。智野部長は京子さんとのデートで別行動のため不参加だが、その代わりに今回は真田君という1年生部員が参加していた。準レギュラー部員的存在で、部室に顔を出す頻度も少な目の彼だが、担任の桜沢先生に声を掛けてもらって参加することにしたらしい。
 夜店が出たりして混雑する神社の境内には自転車を停める場所がないため、集落の外れにある廃線の駅跡が臨時の駐輪場となる。かつての駅舎に灯りが点り、裸電球の柔らかな光が、石積みの元プラットホームに沿って並ぶ自転車を照らしていた。普段は静まりかえっている廃駅に、今夜だけは活気が戻るのだった。
 桜沢先生とは、その旧駅舎前で待ち合わせすることになっていた。やがて原付スクーターに乗って姿を現した先生は、残念ながら浴衣姿ではなく、女教師っぽい白いブラウスに長めのスカート姿だった。創一たちは若干失望したが、あくまで浴衣の本命は直子であって、先生ではない。三角眼鏡はもうすっかりやめたのか、今日も普通の赤いフレームの眼鏡なのが救いだった。
 その直子は、基本的にはテニス部のメンバーと行動を共にすることになっていて、途中でこちらにも少し顔を出すというとのことだった。いっそテニス部の皆さんと合流して一緒に祭見物をすれば良さそうなものだが、それだけは願い下げというのがパソコン部男性陣の一致した意見だった。青春メインストリートを堂々と歩むあんな連中と話が合うわけはないし、向こうだってそう思っていることだろう。
 そういうわけで、顧問を除けばとりあえず男だけという状態で、パソコン部の一行はぞろぞろと参道を歩いた。いつもはわずかな街灯くらいしかないこの道にも、今夜は夜店がにぎやかに立ち並び、赤や黄色に染められた光が行き交う人々やシイの並木を照らしている。濃紺の空に輝くはずの星が、よく見えないほどだ。
 そんなお祭の高揚感の中で、一番楽しそうにしていたのは意外にも美代子先生だった。「次、あれやってみない?」と言ってはヨーヨーつりや金魚に打ち興じ、射的でディズニー風ぬいぐるみの眉間を撃ち抜いてみせた氷川と手に手を取って喜ぶ様子など、女子高生と変わりない。普段はどうにも距離感がつかめずにいる部員たちと、ここぞとばかりにコミュニケーションを取ろうとしている、ということなのかも知れなかった。
 そんなパソコン部一行がご神木の辺り、八幡神社の本殿近くまでやってきた時だった。ご神木の足下で、浴衣姿の女子たちが何やら言い争う声が聞こえてきた。一緒に居る男たちが、必死になだめている様子だ。たまたま一行の先頭にいた創一は、本能的に回避コースを取ろうとしたが、社殿に取り付けられた作業灯に照らし出されたその女子たちの顔に、思わずあっと言いそうになった。直子がいる。ピンクの浴衣姿の直子が、どういうわけだかは知らないが、周りを取り囲む女の子相手に何やらまくし立てている。
「創一さん、あれ、直子さんじゃ……」
 と氷川が小声で、創一の耳元で言った。
「だな。でもまあ、近づくのはやめとこう。テニス部も色々あるんだろう」
 おかしな場面を見てしまった、という内心の動揺を抑えながら、創一も小声で返した。
 先生や他の部員は気付かなかったのか、気付いていても空気を読んだのか、創一に続いて黙ってその場から離れ、本殿の裏手へと向かった。直子とは、そこで待ち合わせをすることになっている。例のご神水があるその辺りまで来ると、人もすっかりまばらだった。パソコン部員たちは空きベンチに交代で座りながら、無料の水でいつも通りに喉の渇きをいやした。
 時間ちょうどになっても、直子は来なかった。まああの状況じゃそりゃそうだろうと創一は内心思ったのだったが、しかし五分も経たないうちに、妙ににこやかな顔をした彼女が姿を現した。特に浴衣が着崩れていたり、返り血を浴びていたり、そういうことはなさそうだったが、防犯灯の青白い光の下でも頬が赤くなっているのが見て取れる。
「みんなごめん、遅くなっちゃって」
 と彼女はかすれ気味の声でそう言いながらご神水に近付くと、浴衣を濡らさないように器用に屈んで竹筒に口を寄せ、ごくごくと水を飲んだ。
 やがて顔を上げた直子は、一瞬だけ深い吐息をついてから、部員たちに向かって明るく呼びかけた。
「さあ、それじゃみんな、土手のほう行こうよ! 早めに花火見る場所取りしないとさ」
 ありがたい水で喉を潤したおかげか、かすれていた彼女の声はいつも通りに戻っている。
「ああ、でも、まださすがにちょっと時間が早いんじゃないか?」
 創一が首を傾げる。
「それに、確か直子さん、花火はテニス部の人らと見るんとちゃいましたっけ?」
 とぼけた顔で、横山が訊ねた。
「いいえ。今日はもう、あっちには戻らないのよ」
 防犯灯の光を背にした直子が、再びにっこりと笑った。
「行きましょう。さあ」
 それ以上、誰も何も彼女に訊くことのできないまま、一行は旧村のすぐそばを流れる早穂川の堤防へと向かった。三百発の花火は、この川沿いで打ち上げられる。開始時間まではまだ三十分以上もあったが、すでに堤防の斜面では見物客が何人も待機していた。
 お薦めのベストポジションだと直子が言うので、堤防上に建つ大師堂の休憩所にパソコン部の一行は陣取った。休憩所と言っても簡易な屋根が架かっているだけの東屋に過ぎないが、一応は座蒲団が敷かれた長椅子に座って花火を眺めることができる。
 ここでしばらく時間潰しをしなければならないわけだったが、城崎副部長と横山にとって幸いなことに、大師堂の軒下にはちゃんと蛍光灯があった。小さなお堂の前に座り込んだ二人は、バッグからそれぞれシャープとカシオのポケコンを取り出し、その灯りの下で極小キーボードを操作しはじめる。ポケコンの白黒液晶には、バックライトというものが内蔵されていないのだ。真田くんもその二人のそばで画面をのぞき込んでいる。みんなと一緒に出掛けたことがない彼は、ポケコンというものをあまり見たことがないらしく、興味津々の様子だ。
 創一と直子、それに氷川と美代子先生は、それぞれ川のほうに面した長椅子に座ってしゃべりながら、開始時間を待った。
 直子が話す、家のうさぎについての面白かわいいエピソードを、創一は丸っきりの上の空で聞いていた。何せ浴衣姿の女子高生が、同じ椅子のすぐ真横に座っているのである。彼女の体温が、夏の空気を超えて伝わってくるようで、彼の動悸のクロック周波数はただ事ではない数値をマークしていた。氷川と先生は、コンピュータ・グラフィックについて楽しげに話しているようだったが、そちらはさらにどうでもいい。
「あ、そうそう」
 思い出したように、直子が言った。
「あたしさ、パソコン買おうと思ってるんだ」
「それは、いいね」
 相変わらずの上の空で相槌を打ちかけた彼は、ふと我に返って訊き返した。
「パソコン?」
「そう。自分用のやつ」
 彼女はうなずいた。
「だって、あたしも一応パソコン部員なわけじゃない? 一台くらい持っておかないとさ、パソコン」
「お、おお。いいんじゃない?」
 戸惑いながら、創一もうなずいた。なぜ突然彼女の中でそんなビットが立ったのかは知らないが、パソコン部としては歓迎すべき方向だ。恐らくは、先ほどテニス部の中で何やら揉めていた様子だったのと、関係があるのだろうけれども。
「それで電気屋さん、駅前のあそこに行こうと思うんだけど、パソコンどういうの買っていいか分かんないじゃない? でさ、創一君詳しいからさ、一緒について来てよ今度。クレープおごるしさ」
 心臓のクロックが、一瞬停止した。これは事実上、デートの誘いと言うやつではないのか。
 行きますとも! と叫び出したくなるところを彼は必死で抑えて、
「ああ、中信電機だな。別にいいけど、クレープは一番豪華な奴な」
 と、どうにか普通の返事を返した。クレープなど要らない、お礼は君だけで充分だよと不気味なことを口走りそうになったのも、全力で腹に飲み込んだ。
 川のほうから、短いサイレンの音が聞こえてきた。間もなく花火が始まる、という合図である。城崎副部長たちが戻って来て同じ長椅子に座り、創一と直子、それに氷川と美代子先生のカップルの時間は終わりを告げた。
 やがて始まった花火は、玉数に限りがあることもあって、あくまで単発での打ち上げが一発ずつ続くという地味なものだった。巨大な尺玉などというのも、ほぼ登場しない。しかしそれでも、眩い光を放つ火薬の星たちが夜空にまき散らされ、地上を様々な色に染める様子はやはり美しかった。
 花火が上がる度に女性二人は歓声を上げ、隣に座る彼の心の中も、明日への期待で明るく輝くのであった。

    *      *      *

 旧村からの帰り、創一の青い自転車は、空の巨大な満月に向かって離陸しそうなくらいの勢いで農道を突っ走った。一緒にパソコンを見に行こう、という直子の言葉は嘘ではなく、次の日曜日という具体的な約束を、彼は八幡神社からの帰りに交わすことができたのだった。パソコン部のアイドル、夏の妖精とのデート、これが舞い上がらずにおられようか。
 こんなに待ち遠しい週末というのは、彼の十数年の人生でも初めてのことだった。その日は朝からまた良く晴れて、待ち合わせ場所である正門前へと自転車を走らせていると、相変わらずの強い日差しが肌を刺した。しかし空気はどことなくさらさらしていて、お盆を過ぎてから、季節に秋がわずかに混じり込み始めているようだった。
 正門前ではすでに直子が、自転車と一緒に彼を待っていた。手を振ろうとした彼の、その右手が思わず硬直する。そこには横山と城崎副部長の姿もあった。二人ともやはり、自転車に乗って来ているではないか。どうやら、呼ばれたのは彼だけではなかったらしかった。昨日の夜から高高度飛行を続けていた彼の気持ちは、ユンカース爆撃機の如くうなりを上げて急降下した。
「あ、どうもおはようございます。ええ天気ですね」
 愛想良く挨拶する横山は、似合わないチノパン姿にきれい目のボタンダウンシャツを着込み、まるでデートである。つまり、創一と同じような服装というわけだ。
「ああ」
 とだけ創一は返事を返し、自転車を直子の隣につけた。
「ごめんね、ありがとう。みんな色々教えてね」
 直子はにこやかに、軽く頭を下げた。今日の彼女は、薄いピンク色をしたノースリーブのシャツに、チェックのキュロットだった。自転車は、パステル調のミントカラーだ。
「あ、いや、いいんだよ」
 まともに彼女の顔を見ることができないまま、しかし横山に対するのとは打って変わった優しい声を出し、創一はうなずく。
「それじゃ、行くか」
 もう一人の招かれざる客、城崎副部長の、天気に似合わぬ暗い声を合図に彼らは出発した。
 四台の自転車は、田んぼを貫いて伸びる農道を真っ直ぐに走り続けた。そこに彼らを邪魔する車の姿はない。スポーツウーマンたる直子も、男どもと何ら遜色ない速度で、ファンシーな自転車を走らせた。単線の踏み切りも、コンクリートの小さな橋も、空中に飛び出す位の勢いで軽々と乗り越える。道の行く手には緑町市の中心部たる市街地が、まるで島のように、青々とした田んぼの海に浮かんでいた。
 創一はわずかにペースを落とし、後方を走る直子の横に並んだ。どうしたの? という顔をする彼女に、彼は訊ねる。
「パソコンを買うのはいいと思うんだけど、何かやりたいこととかあるの?」
「うん。あたし、音楽をやってみたいの。シンセサイザーっていうの? あれで曲を作って演奏してみたりしたいの」
「ああ、そうなんだ。いいね、それは」
 シンセサイザーという単語が出てきたのを少々意外に思いつつ、彼はうなずいてみせる。
「創一君も、シンセサイザーとか使えるの?」
「まあ、一通りはね。MMLっていうのがあるんだけど、それを覚えれば音楽は鳴らせるからね」
「やっぱり詳しいね! 色々教えてもらおうっと、創一君に」
 ソフトフォーカスのかかった彼女の笑顔は、彼の心をまっすぐに撃ち抜く。
「実はあたし、これからはもっとこっちに顔出そうかな、って思ってるんだ、パソコン部。だからさ」
 これは……自分にもっと会いに来たいということなのではないか、創一はそう解釈した。八幡神社で目撃したあの言い争いといい、テニス部のほうで何かあったのだ、と考えるのが普通のはずだが、舞い上がっている今の彼にはそんな簡単なことが分からない。
 この娘が、自分のものになるかも知れない。そう思いながら彼は、併走する彼女の全身をこっそりと観察した。目だけを動かして、足から胸へ、そしてまた足へ。
 次の瞬間、彼は何か柔らかいものに、思い切り弾き飛ばされてひっくり返った。道端のビニールハウスに、自転車が激突したのだった。

 駅前商店街は、そこそこのにぎわいぶりだった。メインストリートだとは言っても狭いから、買い物客を避けながら、ゆっくりと自転車を走らせなければならない。
 すれ違う人がみんな笑っているような気がして、全身擦り傷だらけの創一は、情けない顔でペダルをこぎ続けた。直子が持ち前の反射神経で、創一の転倒に巻き込まれるのをとっさに回避してくれたのが、せめてもの救いだった。あそこで彼女にまでけがをさせていたら、目も当てられないところだった。
「大丈夫?」と心配そうに言ってはくれたものの、ひどく格好悪い所を見せてしまった上、そもそも事故の原因になったのが邪な動機の脇見運転ということもあって、彼はしょげ返ってしまっていた。城崎、横山は元々テンション低めだから、一行は黙々と町を走ることになった。しかし直子は特にそんなことを気にする風もなく、雑貨屋の店先をのぞき込んだりしながら、機嫌良く自転車を走らせていた。
 彼らの目的地は、例のニチイショッピングデパートの隣にある中信電気という店だった。この町では唯一の、大手家電量販店だ。その入り口の前に自転車を停めて、不揃いな四人はぞろぞろと店内に入って行った。男三人は何度もここに来ているが、直子は初めてなので、物珍しそうに店内を見回している。入り口付近には、各社のCDラジカセがずらりと展示されていた。四年前に登場したCDは、この年にレコードの売り上げ枚数を抜くことになる。
 パソコン売場は、ワープロ売場と並んで、店の中でかなり大きな面積を占めていた。そのほとんどを占領しているのは、日本電気、富士通、シャープのパソコン御三家の製品だった。繰り返しになるが、パソコンというものはメーカーが違えば互換性が無く、同じソフトは動かない。ゲームソフトなどでも、それぞれのパソコンメーカー向けに異なるパッケージが用意されていた。人気の無いメーカーのパソコンにはソフトが発売されず、ソフトが無ければますます人気が無くなることになる。だから、どのメーカーの機種を買うかは大きな問題だった。彼らのアドバイスが、彼女のパソコン・ライフの明暗を分けることになる、そんなことも有り得るのだ。
「これなんか、格好ええと思いますよ」
 横山は自分が気に入っている富士通の最新鋭機、FM77AVを薦める。高級オーディオ機器然としたブラックボディがいかにもマニア受けしそうだが、直子はうーん、と黙り込んでしまう。明らかに、気に入らない様子だ。
「いや、もう8bit機は駄目だね。これからは16bitの時代だな」
 隣の城崎が、また得意げに髪を掻き上げる。8bitやら16bitは、パソコンの処理能力を表す単位だが、要するに8より16のほうが動作が速いのだ。城崎が持っているPC-9801というパソコンは、当時まだ高かったその16bit機なのである。
「そりゃいいですよね、9801は。でも、ホビー向けじゃないですよね、あれは。ゲームも全然無いし」
 と、創一は反論した。
「ゲームなら、8bit機でいいだろうけどな。でも僕は、小説書いてるわけだから、ビジネス用の98じゃないと、無理だ。『一太郎』も動かないしな」
「何ですか? その初夢みたいなのは」
 創一は怪訝そうな顔になる。
「初夢って、何が」
 怪訝なのはこっちだと言わんばかりに、城崎が聞き返した。
「一姫、二太郎、三なすびって言うじゃないですか」
「どこかで見ましたよ、そのギャグ」
 横山がにやにやと笑った。
「君たち、一太郎も知らないのか。最新のワープロソフトに決まってるじゃないか。これだから8bit機ユーザーには困りものだね」
 ここぞとばかりに、城崎は高飛車な態度に出る。
「ふーん」
 意味が分かったのかどうか、彼らの会話を横で聞いていた直子が、感心したようにうなずいた。
「じゃあ、城崎さんのパソコンがいいんだね」
「こんな、極端な人の意見聞いちゃ駄目だよ」
 創一は、つい本音を漏らした。
「極端な人とはなんだ。僕は副部長だ」
 城崎はむっとした顔をした。
「これが、その98だけどさ」
 創一が、最新機種である98VM2のボディを指さした。マニア界においては歴史に残る名機なのだが、真四角の箱とでも言うべきその外見は、いかにも無骨で無愛想な業務用丸出しのパソコンである。
「四十万円するんだよ、これ。どうみてもサラリーマンが仕事で使うやつだしさ。音楽鳴らそうとすると、別売の26ボードいるし」
「それじゃ……ちょっと無理かも」
 直子は困惑の面持ちになり、城崎副部長は落胆の表情を浮かべる。
 難しい顔をしたまま、しばらく売り場を歩き回った彼女は、やがて一台の真っ赤なパソコンを、おずおずと指差した。在庫処分らしく、特価品の値札がついている。
「これとか、どうなの? ええと、CZ-812……」
「ああ、これはシャープのX1Fって奴だよ」
 と創一が解説してみせる。
「ほら、氷川がみず……海の絵を描いてただろ。あれが、このX1だよ」
「あ、あれきれいだったよね!」
 直子の表情が、ぱっと明るくなる。
「じゃあ、これにする。赤くてかわいいし、気に入っちゃった」
 すさまじく適当な理由で直子は即断した。
「いや、ただ、音楽をやるんなら、こいつの音源はちょっと性能がさ」
 創一は慌てて言った。アドバイザーとして来た以上はちゃんと説明をする義務がある。
「これ、音楽は駄目なの?」
 彼女は残念そうな顔をする。
「駄目ってわけじゃないけど、PSGで三重和音しか出ないし……」
「77AVならYM2203のFM音源で六重和音ですわ」
 横山が横から、なぜか得意げに言った。音楽の鳴らせない98ユーザーの副部長は、沈黙を続ける。
「あの、創一君は、どんなパソコン使って音楽を鳴らしてるの?」
 専門用語について行けなくなった彼女は、彼にそう訊ねた。
「俺が使ってるのは、これと同じX1シリーズなんだけど、ターボって奴で」
「じゃあ、やっぱりこの子にするよ」
 彼女の表情が、再び明るくなった。
「だって同じ機種なら、創一先生にいつも何でも教えてもらえるじゃない。これで、決まり!」
 創一のテンションは、中信電機の天井を突き破らんばかりに急上昇した。何だその決め方はと言わんばかりの横山たちの呆れ顔を黙殺して、彼は店員を呼びつける。彼女と過ごすバラ色のパソコンライフが、すぐ目の前に訪れようとしていた。
 おじさん店員相手に創一は、隣の最新機種を引き合いに出しての粘り強い価格交渉を続け、一割以上の値引きと、二箱のフロッピーディスクを勝ち取った。その姿を、直子は頼もしげに見守り続ける。
 蚊帳の外に放置された格好の横山と城崎は、黙々とデモ用のピンボールゲームで遊ぶ。もの悲しげな色調の画面の中を、フリッパーに弾かれたボールが飛び回り、時折ターゲットを叩く。FM音源シンセサイザーが、効果音を虚しく撒き散らした。
 配送の手配までを全て終え、代金を払い終えると、創一と直子は電器店を出た。
「ありがとう、創一君。なんか、全部やってもらっちゃって」
「あんなの、どうってことないさ」
 創一は擦り傷だらけの顔で、にっこりと微笑んだ。
「家に届いたら、今度はセッティング手伝うよ。明後日に届くって言ってたよね?」
「あ、それはいいよ、そこまでやってもらっちゃ悪いもん。自分でやってみるけど、でもわかんないことあったら、教えてね?」
 創一の顔をのぞき込むように、彼女は軽く首を傾げて見せた。
「二十四時間、いつでもオーライさ。その代わり、クレープおごってもらっちゃおうかな」
「じゃ、地下のフードコート行こうか。のども乾いたよね!」
 電器店の前でうふふふ、と笑い合った二人は、ニチイの方へ歩き始めた。その後方数メートルを、もはや忘れ去られた格好の城崎と横山が、重い足取りでついてくる。果たして創一たち二人と一緒にクレープ屋なんかに行っていいものか、迷わざるを得ないくらいの温度差が発生していた。
 創一と直子、それに付け足しの二人がエスカレーターで地下に降りると、フードコートのカウンターの前には高校生や中学生が列をなして並んでいた。特に人が集まっているのが「オレンジロード」というクレープ屋で、この緑町では随一のお洒落なお店として知られていた。名前はオレンジだが、カウンター周りはペパーミント・ブルーで統一されていて、アメリカ西海岸の風を感じさせるとか何とかいうことになっているらしかった。
「敬ちゃん!」
 直子が、ふいに大声を上げた。
「オレンジロード」の前に並んだ行列の一人が振り返る。背の高い、ハンサム男子である。
「何だ、お前何してんだ」
「ほら、パソコン買いに行くって言ってたじゃない、昨日電話で」
「ああ、そうか、パソコン部か」
「うん、この人たちが」
 彼女は、創一たち三人を、順番に手のひらで指し示す。
「城崎副部長さんと、鈴木創一君と、横山君」
 三人は一様に戸惑いの表情を浮かべつつ、正体不明のその男に会釈する。ついさっきまであんなに調子に乗っていた創一も、ここではたちまち横山たちと同列である。
「で、この人は」
 彼女はそう言いながら、ほんの一瞬だけハンサム男子と見つめ合い、おもむろに三人を振り返った。
「中川さん。ええと……先輩です、テニス部の。三年生」
「どうも、こんにちは」
 長い脚にジーンズの似合う中川は、いかにもテニス部風な、白い歯がさわやかな笑みとともに挨拶した。
 クリームソーダやクレープの載ったトレイが三人+二人分並ぶと、二つの丸テーブルは満杯状態になった。一応、みんなで一緒に食べようということにして、テーブルを二つくっつけたのだったが、向かい合って座る中川と直子に比べると、創一たちは言わば「その他三人」であって、どう見ても邪魔者である。特に、創一の凋落ぶりは見るも哀れだったが、そんなこととは知らない中川は、無邪気に男前ぶりを振り撒き、彼の惨めさをくっきりと浮き立たせた。
「じゃあ君? その、マイコン占いとか言う奴を作ったの」
 直子の話を聞いて、中川は横山に向かって頓狂な大声を上げた。
「ひどいなあ、僕と彼女の相性二十%だって。そりゃあんまりだ」
「えー、そんなもんだよ。だって敬ちゃんわがままだしさ、わたしいつも振り回されてばっかじゃん」
「よく言うよ、お前のほうが断然、性質悪いぜ。こないだだってさ、小泉の奴、絶対勘違いしてたぞ、お前の態度」
「あれは……元木先生の言うてはる通りに作っただけなんで」
 横山は口ごもりながら言い訳する。
「わたし横ちゃんとは、良かったんだよねー、相性」
 直子はにこにこと横山の顔をのぞき込んだ。
「まいったね、こりゃ」
 中川はそう言って、はははははと笑った。
 城崎が突然、ねずみ色のショルダーバッグからシャープのポケコンを取り出して、スイッチを入れた。パソコン部一同は驚かないが、中川は呆気に取られた。
「あの、それは何なんだろう」
 ややあって、彼は城崎に訊ねる。
「小説を書かなきゃいけないんでね、そろそろ僕は」
 城崎はポケコンを操作しながら、独りうなずく。なにがそろそろなのかは、誰にも分からない。
「副部長さんは、小説家の卵なの。この機械も、小さいけどワープロなんだよ」
「へえ、そんな小さい機械で文章打てるのか。ハイテックだな」
 中川は感心してみせた。
「それにしても、お前詳しいなさすがに」
「一応パソコン部だもんね、わたしも」
「どういうのを、書いてるんです?」
 ポケコンの極小液晶画面をにらみ続ける城崎に、中川は興味を示したようだった。
「僕も、結構小説とか好きなんですよ。この前読んだの、あれSFって言うのかな、世界を支配する謎の羊とかいうのがが友達に乗り移って」
「羊をめぐる冒険!」
 城崎は瞬時に顔を上げた。
「あれは歴史に残る名作だよ」
「うん、名作だよねあれは。僕も、そう思った」
 中川を中心にたちまち盛り上がる会話に知らん顔を続けて、創一はソーダをちびちびと飲んだ。彼としては、この男と楽しくしゃべる気分には、到底なれなかった。この男と直子、二人がかなり親しい間柄なのはどう見ても間違いのないところだった。自分と話すときよりも、彼女の表情はずっと明るく、嬉しそうだ。そんな二人を見ていると、自分がせいぜい脇役相当の存在でしかないことが、ひしひしと感じられた。
 そんな彼の、さまざまに巡る気持を察してか、中川も特に彼に話しかけようとはしない。しかし、時折彼を見る瞳に哀れみの色が浮かんでいるようで、創一の胸はちくちくと痛んだ。
 小一時間ほどで、彼らはフードコートを出た。スニーカーを買って帰るという中川は、爽やかな余韻を残しつつニチイショッピングデパートの店内に消えた。直子が中川と行ってしまう事を創一は恐れたが、彼女はみんなと一緒に帰ると言った。それはそれで「中川さんとはいつでも逢えるから」と、彼女がそう言っているかのように思えて、創一はまた落ち込むのだった。
 帰り道、中川との会話の延長のように、和やかに会話を交わす直子たち三人をよそに、創一だけが一人寡黙だった。彼の頭の中では中川と直子、二人の夏物語が延々と展開していた。向こう岸など見えない、本物の海辺で抱き合う二人の姿を想像して、彼の心は傷ついた。こんなのは荒唐無稽な妄想だ、と振り払ってしまいたかったのが、そうするにはあまりにリアリティーがありすぎた。
 途中で城崎、横山と解散して二人だけになっても、創一は特に直子に話しかけようとはしなかった。郵便局の近くで別れる際にも、彼は自転車を止める事なく、軽く直子に手を振ってそのまま走り去った。その後ろ姿を、彼女はじっと見つめていた。

 自分の部屋でベッドに寝転び、天井の模様と、その向こう側に広がっているだろう銀河をぼんやり眺めていた創一を、階下から母親の大声が呼んだ。
「電話だよ! 鈴木直子さんって女の子」
 彼は正気を取り戻し、直ちに起き上がって、階段を駆け降りた。母親から受話器をひったくり、耳に押し当てる。
「もしもし、僕だけど」
 そう言いながら、片手で母親を追い払う仕草をする。やれやれという顔で、エプロン姿の母親はその場を立ち去った。
「あ、わたしです。こんばんは」
「こんばんは。その……」
 創一は、何か言おうとした。しかし言葉が出ない。
「今日は、ありがと、買い物付き合ってくれて」
「うん」
「それで、ちょっと気になって」
 彼女は一旦言葉を切った。
「帰りの時、創一君……ねえ、もしかして何か怒ってる? わたし、何かしたかな」
「いや、それは。そんなことはないけど」
 心臓がオーバークロック状態のとてつもない速さで鼓動を刻むのを感じながら、創一は続きの言葉を口にしようとした。しかし、まるで喉の辺りが締め付けられたように、声が出ない。
「それならいいんだけど……様子変だったし、創一君。わたしって時々、自分でも良くわかんないうちに人のこと怒らせたりしちゃうんだ。どうしても、心配になって」
 今言わずに、いつ言うのだ! 創一の頭の中を、彼自身の怒鳴り声が響き渡った。はっきりと伝えるのだ、君が好きなのだと。彼女だって、俺の言葉を必要としているのだぞ、今この瞬間。
「うん、わたしの勘違いだったら、それでいいんだ。ごめんね、変な電話して。じゃあ、またね」
「ちょっと、待って」
 創一は、プレッシャーを押し返すように、声を絞り出した。
「君に、言おうと思ってたことが、ある」
 受話器の向こうで、直子は黙り込む。創一の言葉を、待っていた。会話の空白がブラックホールとなり、強大な重力が創一を押し潰しにかかる。しかし彼は最後の力を振り絞るように、今伝えるべき言葉を放った。
「僕は、君の事を……好き、なんだと思う」
 そう口にした瞬間、彼は体が一気に軽くなるのを感じた。輝ける告白が、ブラックホールの闇を撃払ったのだ。勢いに乗った彼は、熱っぽく繰り返す。
「うん。君が好きだ。ずっと前から好きだった」
 直子は、なおも、黙り続けていた。ややあって、彼女は言った。
「ごめんなさい」

 自分自身の勝手な勘違いによるものだとはいえ、何度も繰り返された気持ちの乱高下は、創一をぼろぼろに痛めつけた挙句、どん底に激しく叩きつけることになった。約七十二時間の間、彼は部屋から一歩も出ることなく、ラジカセで音楽を流しながらベッドに横たわり続けた。母親が心配して部屋に持ってきた鍋焼きうどんも、ほとんど口にすることができなかった。
 彼がおかしなことになっているらしいことはパソコン部内でも噂になり、直子も何度か電話をかけてきてくれたのだが、彼は決して出ようとはしなかった。彼女とはもちろん、今は誰とも話をしたくなかった。
 墜落から四日経って、彼はようやく起き上がることができるようになった。久しぶりに昼ごはんのカレーライスを平らげて母親を安心させた彼は、気分転換をして来ると言って玄関を出た。まだふらつく体で自転車にまたがった彼は、駅前の方向に向かって漕ぎ出した。気温は相変わらず軽く三十度を超えていたが、彼には何も感じられなかった。
 パステルカラーの自転車に乗った直子の、おぼろげな幻を追うように、あの日と全く同じコースで、彼は自転車を走らせた。一部がひしゃげたビニールハウスの前を通りがかったときは、涙がこぼれるのをこらえることが出来なかった。
 中信電気に着くと、赤いパソコンの置かれていた場所の前に立ち、彼女と笑い合ったことを思い出して、また泣いた。それからニチイに向かったが、フードコートに入る気にはどうしてもなれなかった。そのまま店内のエスカレータに乗り、屋上を目指した。
 炎天下のミニ遊園地には、お爺ちゃんにソフトクリームを買ってもらったらしい子供のはしゃぎ声と、ゲームコーナーから聞こえてくるレトロゲームのピコピコした電子音が、のどかに響き渡っていた。ゲームコーナーの緑色をしたビニール屋根へと向かって、彼はふらふらと歩いて行く。相変わらずクーラーの効きが悪く、むっとした空気が充満しているその場所では、「ザクソン」「ペンゴ」などのレトロゲームが彼を迎えてくれた。
 うつろな目で辺りを見回した彼の目が、ふいに見開かれた。ゲームコーナーの隅っこに、場違いな赤い大型ゲーム筐体が鎮座している。その画面には、ビーチサイドを駆け抜けていく赤いスポーツカーの姿が映し出されていた。それは先日のアミューズメント・ショーで発表された最新のドライブゲーム、まだマイコン・マガジンの特集記事でしか見たことのなかった「スプラッシュ・ウェーブ」だった。海と空の青、それに白い雲が明るいその画面は、この寂れたゲームコーナーの中で奇跡のような輝きを放っていた。なぜこんな場所に、高価な最新鋭のゲーム機が導入されたのか。しかし創一はそんなことを考えることもなく、まるで吸い寄せられるように、ゲーム機のシートへと座り込んだ。
 しばらくじっとデモンストレーション画面を眺めてから、二枚の硬貨を無造作に投入する。ハンドルを切ってBGMを選択すると、軽快なイントロと共に、オープンカーはスタートラインに着いた。グリーンシグナルと共にアクセルペダルを踏み込むと、車は無機質な排気音を残して、快調に走り出す。
 全くブレーキを踏むことなく、彼は真紅のフェラーリをぶっ飛ばし続けた。海沿いの道は左右へのカーブを激しく繰り返し、ハンドル操作を一つ誤れば、車は沿道のヤシの並木に激突したり、エメラルドグリーンの海に飛び込んだりしてしまう。しかし彼は、ぎりぎりのラインでカーブをクリアし続けた。
 海から山へ、そしてまた海へと。アルプスの見える花畑、ドイツの古都、白い家が並ぶ、エーゲ海に面した町。スーパーカーは時速二百キロをほとんど下回ることなく、それらの風景の中を駆け抜けた。何も、考えなかった。考えずとも、彼の体は反射的に動いた。ゴールにたどり着いたとき、彼は自分がニチイの屋上にいるのだなんてことは、すっかり忘れていた。
 それから毎日、創一は朝から自転車で駅前へ出かけては、ゲームコーナーで「スプラッシュ・ウェーブ」にコインを投げ込み続けた。客はいつも少なくて、時折彼のプレイを眺めるギャラリーはいても、もはや彼専用と化したこのゲームをやってみようとする者はいなかった。昼食はフードコートのラーメン屋とうどん屋で交互に食べた。すぐ隣の「オレンジロード」で以前何があったか、彼は少しも思い出さなかった。
 小遣いの蓄えを吐き出し尽くしかけた頃、彼の夏休みは終わった。初めてハンドルを握った時に比べて、ゴールまでの所要タイムは二十秒も短縮されていた。それがこの夏、彼が得ることのできた唯一の成果だった。

 新学期が始まっても、彼はパソコン部に復帰しようとはしなかった。クラスでは以前の通り、陽気に振るまっていたが、部室にはどうしても足が向かなかったのだ。智野部長を始めとするパソコン部のメンバーたちはクラスに何度もやって来ては、顔を出すように言ってくれた。しかし彼は、「今は充電期間なんで、もうすぐ復帰しますよ」と繰り返すばかりだった。同じく心配して様子を見に来てくれた鈴木直子には、「色々ごめん。もう大丈夫だから、パソコン部をやめないで」と、弱々しい笑顔ながら、しっかりとした口調で詫びた。
 横山の話では、例の中川先輩はテニス部の女子たちに相当に人気があるようで、その先輩と付き合っているのではないかということで、直子は周囲から反感を買っているらしかった。つまり、居辛くなってきたテニス部に代わって、パソコン部に居場所を求めているのだということらしい。そう聞いても、創一にはもはや何の感情も起こらなかったが、自分のせいで直子がこちらでも居場所をなくしてしまうというのは絶対にまずい、それだけは強く自覚していた。
 土曜の午後や日曜には相変わらずニチイの屋上に足を運んだが、もう必死で走ることもなくなった。彼の独占から解放されたそのゲーム機は、デモ画面ばかりを流し続けることになった。子供が遊ぶには難しすぎ、ゲームマニアはこんな場所には足を運ばなかったから、コインを入れようとする客は、ごく少なかった。たまに他人がプレイすることがあると、彼はベンチでぼーっとしながら、その下手糞なドライブを眺めた。
 そんな日々で九月はたちまちに過ぎ去り、十月最初の日曜日、彼はついに部室へと向かった。そろそろ、文化祭に向けての準備をしなければならない時期だった。学校は休みだが、部室には誰かいるかも知れない。

 校舎の中は静まり返っていて、時折グラウンドのほうから聞こえてくる男どもの雄叫びが、板張りの廊下にかすかに響いた。部室の前に立っても静けさに変わりは無く、こりゃ誰もいないなと思いつつ、創一は木製の扉に埋め込まれた真鍮の引手に手を掛けた。恐らく、鍵が掛かっているだろう。しかし、重い扉はガラガラと案外軽快に、横に開いた。
 氷川が、こちらを向いていた。彼はいくらか青ざめた顔で、ソファーの前に立っていた。ソファーには、髪の長い女性が座っていた。彼女は、両手で顔を覆ったまま、肩を震わせていた。泣いているようだ。氷川は右手にハンカチと、女物と思える眼鏡を持っていて、その左手は、女性の肩の上に置かれていた。
 何がどうなっているのか分からず、創一は絶句した。ソファーの女性は、美代子先生だった。
「えーと、あの、おはよう。その、おはようございます」
 不自然な作り笑いを浮かべ、しどろもどろになりながら、創一はとにかく二人に挨拶した。しかし先生は、顔を上げようとしない。
「いや、久しぶりに寄って見たんだけど、文化祭も近いから。じゃあ、ちょっと用事あるんで、ニチイに行くから、それじゃ」
 そのまま後ずさりして、ドアを閉め、足早に立ち去ろうとする。
「待ってください」
 背後で、氷川の声がした。黄泉の国をのぞいてしまった気分の創一は、恐る恐る振り返る。真剣な目をした氷川が、廊下を小走りで近づいて来た。
「すみません」
 創一の前に立った氷川は、頭を下げた。
「ちょっと、色々ありまして」
「そうらしいね」
 あまり関わりたくない創一は、あくまで素っ気ない。
「先生も、大変らしくて。家庭のこととか、沢山のことが」
 氷川は重い声で、言葉を選ぶような話し方をした。
「話を聞いてるうちに、先生、あんな風になってしまって」
「まあ人生、色々だから」
 創一は無責任にうなずく。
「いいじゃないか、先生の力になってあげなよ」
「そうします。どうか、今見たことは、内緒にしてください」
「ああ、もちろん」
 創一はうなずくと、再び足早にその場を立ち去った。少なくとも俺は、もうああいう泥沼に戻ることはない。心の中に誰もいないってのは、何て自由なことなんだろう。

『デジタル・アワ-改(仮)』

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『デジタル・アワ-改(仮)』 天野橋立 作

時代は昭和の終わりごろ、田舎町の高校パソコン部を舞台に繰り広げられる青春小説。

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-07-21
Copyrighted

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