昭和四十年頃のことです。

小学校へ行くには、家の前の道をただひたすら真っ直ぐに、一キロほど下ればいいのですが、入学式を終えたばかりのわたしにとって、それは遠い道のりに思えてなりませんでした。父母にしても、なんだか心細げなわたしの様子を見ているうち、心配になってしまったのでしょう。
「ちょうど通り道だし、しっかりしているし、面倒見がいい子だし……」
すぐに二人の意見は纏まって、六年生の由美ちゃんに、
「しばらくの間、誘いに来てもらえないかしら……」
と、母が頼んでくれたのでした。
次の日の朝、わたしは母に言われるまま、家の前に立っていました。背中には、赤い大きなランドセルを背負っています。
しばらくすると、制服姿の由美ちゃんが、坂の上の方から歩いて来るのが見えました。由美ちゃんは、背が高いのですぐ分かります。手を振りながら近づいてきて、
「おはよう」
 と言いました。わたしは、何もかもが新品で、ぶかぶかのものを身に付けている……、  そんな自分が誇らしくもありましたが、なんだか急に恥ずかしくなって、もじもじしているだけでした。そして、
「ゆうちゃん、いっしょに行こう」    
と聞こえてきた、お姉さんらしい声に大きくうなずくと、歩き出しました。
少し行くと、由美ちゃんと仲良しの恵子ちゃんが待っていました。六年生の二人がわたしを挟むようにして、三人で、おしゃべりしながら歩きました。
「ねえ、ゆうちゃんのおかあさんって、やさしい?」
「うん」
「よかったわねえ、由美子。…それでさあ、ゆうちゃんち、なにか動物飼ってる?」
「…………」
「たとえば、犬とか猫とか、なんだけどさあ、……ゆうちゃんち、なにか、いる?」
「ううん」
「あのね、実はきのう、というか、おとといの深夜、うちのミーコがあかちゃん産んでね、それでもし、よかったら、ミーコのあかちゃん、ゆうちゃんちで飼ってもらえないかなあ、一匹でも二匹でも……」
「シンヤ、ってなあに」
「ええっとね、真夜中。とにかく、夜のこと。きのう、目が覚めたら、あかちゃんが生まれてたの」
「きのう、由美子んちへ見に行ったんだけどさあ、とってもかわいいわよ。猫のあかちゃん、見たことある? 生まれたばかりだから、まだ目が見えないんだよ。五匹もいるんだよ。」
「ゆうちゃんのおかあさん、動物好き? 猫のあかちゃん、飼ってくれそう?」
「ううん」
「……でも、ゆうちゃんのおかあさん、やさしいから、ひょっとしたら、『いいよ』って言ってくれるかもしれないしさあ、一応、訊いてみて、お願い」
「うん」
「じゃあ、できるだけ早くうちに遊びに来て。今日でも明日でも。早くしないと、うちのおじいちゃんが『池に捨てに行く』って言ってるから、『情が移るといけない』って……」
「えっ、あのおじいちゃん、しゃべるの?」
 わたしはびっくりして、そう叫んでいました。
「しゃべるよ、当たり前じゃない」
「でも、しゃべったとこ、見たことないよ。『こんにちは』っていっても、『由美ちゃんいますか』ってきいても、いつもにこにこしているだけだよ。わたしが小さいときから、ずっとそうだよ」
 恵子ちゃんが、くすくす笑いだして、それがやさしい由美ちゃんにまで伝染して、女同士の親しみの顔になって、弾けました。
「確かに、うちのおじいちゃん、口数は少ないけど、ちゃんとしゃべれるよ」
「ご養子さんだからさあ、おとなしくしているだけだよ」
 わたしは近所のおばさんたちが、「あんなやさしいご養子さんはいない」と、うわさしていたのを思い出しました。
「ゴヨーシサン、ってなあに」
「あのさあ、そのうち分かるようになるよ」「そうそう。それでね、ゆうちゃん一年生だから、帰るの早いでしょ。できれば今日、学校から帰ったら、すぐ見に来て。ね、それがいいよ。私がいなくても大丈夫よねえ。『ミーコの赤ちゃん見せてください』って言えばいいからね。おじいちゃんがにこにこしているのは、『いいよ』の合図だと思って、…それから、お友だちで、猫飼ってくれそうな子がいたら、教えてね」
 わたしは大きくうなずきました。

 学校から帰ると、わたしはさっそく普段着に着替えて、由美ちゃんの家へ向かいました。わたしと同じ一年五組になった陽子ちゃんは、「うちは犬を飼っているからダメ」
と言うし、わたしのおかあさんにも、訊いてはみたけれど、猫のあかちゃんを、飼ってくれそうもありませんでした。
それでも、わたしがミーコのあかちゃんを見に行って、生まれたてのあかちゃんが、どれほどかわいいか、それさえ分かってもらえたら……、
(もしかしたら、考え直してくれるかもしれない)
そう思うと、知らず知らずのうちに、走り出していました。
由美ちゃんの家に行くと、おじいちゃんとおばあちゃんがいました。わたしは大きな声で、今朝、由美ちゃんに教えてもらったとうりに、
「ミーコのあかちゃん、見せてください」
すると、二人はちょっと困ったように顔を見合わせて、目くばせをして、それから、おばあちゃんが、ミーコのいる部屋を暗くしてあること、それに、静かにしないとミーコが怒ること、それは、おかあさんになったばかりだから、ミーコは「気が立っている」のだそうです。
ことばの意味はよく分かりませんでしたが、わたしは薄暗い部屋の中に、そうっと、入って行きました。
ひっそりとした部屋の中を、目を凝らして見回すと、奥の方に、小さな段ボール箱がありました。その中に、ミーコとミーコのあかちゃんがいました。わたしが行くと擦り寄って来て喉を鳴らす、いつものミーコではなく、生暖かい動物の気配と臭いがしました。 
わたしはその箱から少し離れた所に正座をし、それから息を詰めて、ミーコと五匹のあかちゃんを見ていました。
ミーコは耳をぴんと立て、目を見開いてこちらを睨んでいます。きっと、「気が立っている」のだと思いました。生まれたばかりのあかちゃんは、薄いピンク色の裸でした。猫のあかちゃんなのに、ピンク色の鼠のようでした。
いつの間にかおじいちゃんがそこにいて、箱から一メートルくらい離れた所に、お椀を置きました。それまで立てたままだったミーコの耳が動いて、鼻をひくひくさせるのが見えました。それからのっそり、立ち上がり、大儀そうに前足を上げて、箱の中からそろりと出て、お椀の中のものを、ゆっくりと舐め始めました。ミルクの匂いがしました。
わたしは、ミーコのあかちゃんを触ってみたくなりました。
自分の手が、泥棒のように伸びていき、箱の隅っこで、くっつきあって眠っているピンク色に触れようとすると、それがすっと消えて、わたしの手は、暗がりの中を泳いでいるのでした。
コトッ、と音がして、そちらを見ると、この部屋を出て行くおじいちゃんの姿が……、お腹に抱えるようにして、小さな段ボール箱を持っています。
気がつくと、わたしはおじいちゃんを追いかけて、玄関の土間に下りていました。わたしが靴を履き損ねてもたもたしている間に、おじいちゃんは行ってしまったのです。
わたしも急いで由美ちゃんの家を出て、角を曲がると、山に向かって歩いて行くおじいちゃんを見つけました。
「ねえ、おじいちゃん、おじいちゃん、ってばあ、ミーコのあかちゃん、どこ連れて行くの」
 わたしは、わざと甘えたような声を出して、おじいちゃんの気を惹こうとしましたが、聞こえないのか、いえ、聞こえているからこそ、振り向きもせず、歩調も速まったのでしょう、
ぐんぐん離れていくのです。
「待って、ねえ、おじいちゃあん」
 叫びながら、わたしは一生懸命追いかけました。けれどおじいちゃんは、もう、山道の細くなった所に差し掛かっているのです。そのあと、さっと脇へ逸れて、叢の中に入って行きました。
やっとそこまで追い付くと、その叢は、わたしの背丈よりも高く生い茂っているのでした。
「おじいちゃん、どこにいるの、ねえ……」
 何度呼んでも、返事はありません。
わたしは、叢の中に飛び込みました。そうして、草を掻き分け、掻き分け、それでも前へ進んで行くと、突然視界が開けて、池が現れました。
緑色の池でした。うっそうとした木々を映してか、水中の藻が増え過ぎたのか、水が溜まったまま濁ったのか、ただ緑色に、しんとそこにあるのです。
ふと、小さな段ボール箱が、傾きながら、池の中に浮いているのが見えました。ピンク色の塊が重しになって、一方が、その分、沈んでいるのです。箱の底から水が染みているのが分かりました。
それまで眠っていた一匹が悲しそうに鳴き始め、二匹になると、とたんに全部のあかちゃんが、まだ目が見えないのに、ミーコを探して、一つになっていたのが、今はばらばらになって、猫の子供なのに、ぴーぴーぴーぴーと、鳴いているのです。
池の淵に、しゃがんでいるおじいちゃんがいました。慌てて、そちらに向かって、
「おじいちゃん、早く段ボールの箱をこっちにやって、早く早く」
 叫びましたが、おじいちゃんは身じろぎ一つしません。
「目が開かないうちは、殺生じゃない。まだ、この世を見てないんだから……」
 初めて聞くおじいちゃんの声は、思っていたよりも若く、はっきりと届きました。
「セッショウじゃない、って、なに?」
「殺したことにはならない」
「おじいちゃん、なに言ってんの。早く早く。早くしないと、段ボールが沈んじゃう、おじいちゃん、おじいちゃんってばあ!」
 わたしは叫び続けましたが、おじいちゃんはしゃがんだまま、ただ目を閉じて、手を合わせているだけでした。
 一旦、水が入り始めると、小さな段ボール箱はみるみる沈んでしまい、最後まで浮かんでいた一匹が、空に向かって怒ったように、
「ミー!」
 と鳴いて、その時一瞬でしたが、その目が開いたような気がしました。
 静かになりました。とても静かでした。風の音も水の音もしません。
おじいちゃんが、いつの間にかいなくなっています。
なぜだかわたしも黙ったまま、ただただ自分の家へ、逃げ帰るのでした。
家の敷居を跨いだとたん、堪えていた感情が湧き出したようにどっと溢れ、わたしは泣きながら母にむしゃぶりついて、なにもかもを訴えました。母は何も言わない代わりに、黄色い箱を――当時、我が家ではなかなか食べさせてもらえなかった、ミルクキャラメルを一箱丸のまま――わたしの掌に乗せてくれました。
わたしはびっくりして涙が止まり、いつの間にかキャラメルをしゃぶりながら、ぼんやりとして、時々思い出したように、しゃっくりを繰り返すのでした。

その次の日の朝、わたしは由美ちゃんが、
「おはよう」
を言うよりも先に、きのうの、ひどいひどい由美ちゃんのおじいちゃんのことを、まるで日の出を待ちかねた一番鶏のように、しゃべり始めました。途中から、恵子ちゃんも加わって、
「ゆうちゃん、なんでおじいちゃんに付いて行ったりしたの」
「だめだよ、それは」
「おじいちゃんはご養子さんだから、みんながやりたくないことは、どうしても、おじいちゃんの仕事になっちゃうのよねえ」
「だって『目が開かないうちは、殺生じゃない』って言いながら、いつもの顔で笑ってたんだよ」
「それは笑ってたんじゃなくって……、つまり、おじいちゃんは、あの顔しかないの」
「えっ、あの顔しかないの? 泣いたり怒ったり、しないの?」
「泣いたり怒ったり、するけど、泣いたり怒ったりした時も、あの顔なの」
「だからさあ、あのおじいちゃんは、あの顔のお面をつけているようなもので、お面の下では、泣いたり怒ったり、してるんだよ」
「じゃあ、お面取ったら、どんな顔が出て来るの」
「だから、お面と同じ顔に決まってるじゃない」
 わたしは、つい、おじいちゃんが、夜中にこっそり、お面を取っているところを想像してしまいました。お面を取っても、同じ顔で笑っているのです。
ぞっとした瞬間、ミーコが恨めしそうに、
「ミャア」
 と鳴いたような気がしました。
わたしは、うわーん、と大声で泣き出して、由美ちゃんと恵子ちゃんが、困ったような顔をしたり、笑い出したり、ハンカチやちり紙に、目や鼻を塞がれながら、
「あら、ちょっと刺激が強すぎたかしら」
「そのうち分かるようになるからさあ」
「ゆうちゃんは、ランドセルがよく似合っていいわねえ、私なんか、もう、恥ずかしくって……」
 陽気な二人の声といっしょに、空のどこかから、ひばりの歌が聞こえていました。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-14

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