ターゲット

なぜ、彼女をターゲットに選んだのか、今でも解らない。私の視線の先に、いつからか、彼女が住み着いていた。気がつくと、こちらに向かって優しげに微笑んでいた。よく光る瞳で、楽しそうにお辞儀をしていたり、一粒種の櫂(かい)クンの手を引いて散歩をしていたり、天気のいい日には、ベランダで布団を干していたり……するのだった。
煩わしい日常の中にいても、彼女の周囲だけは、穏やかな風が吹いているように見えた。
彼女の名前は、鮎川瑞穂。三十二歳。夫は、八歳年上で、大手のメーカーに勤めているらしい。彼女は専業主婦の座に収まって、ヨガや陶芸の趣味に勤しんでいる。
私は離婚届に判を押して、五か月ほどにな
る。三人家族だったのが、二人になった。陽菜が小学校に上がるタイミングを計って、ここに移った。
中庭を挟んで二棟建つ、五階建ての賃貸マンションは、取り立てて付き合いの必要もなく、気楽で退屈だった。
私はA棟405号室、彼女はB棟306号室に住んでいる。ベランダから眼を泳がせば、ただ部屋が見えてしまうだけの関係である。
華奢で美人で人当たりのいい彼女は、どこにいても眼に付いた。何気なく擦れ違うと、いい香りがした。
彼女は、私の存在に気づいているのだろうか……。
 私は親しみを込めて、「みずほさん」と呼ぶことに決めた。


陽菜が小学校に上がって、初めての参観の日のことである。ごった返す学校の渡り廊下で、みずほさんと擦れ違った。
 みずほさんから、いつものいい香りがした。
いい香りが途切れないよう注意をしながら人混みの中をついて行くと、みずほさんが、二年二組の教室の中へ吸い込まれていくのが見えた。
私は、みずほさんのいい香りが逃げてしまうのを残念に感じながら、
「陽菜のいる、一年三組はどっちだったっけ……」
 と思い出したように呟いた、その時である。
「紗織、紗織じゃないの?」
 誰かがはっきりと、私の名前を呼んだのだ。
私はぞっとして、動きを止めた。さっきまでの私を、過去の私を知る誰かに見られていたらしい。
「西村紗織さん、でしょう?」
その声が、私の横顔に念を押している。私の躰のどこかが、反応していた。
(誰だろう……)
 誰であろうと、正確に旧姓まで言い当てられては、それを無視するわけにもいかない。
 恐る恐るそちらに眼の焦点を合わせると、「私よ、私。美加子よ。西嶋美加子」
 と嬉しそうな顔で言う。
催眠術が解けていくように、ゆっくりと、いつもの私に戻っていく。そんな時は決まって、背中のどこかが薄ら寒いのだった。
 親しげに光るその人の眼の中を覗きながら、「ミカコ」という発音を、頭の中で繰り返していた。


美加子と初めて口を利いたのは、小学三年生の時だった。小学校に上がって初めてのクラス替えをして、出席番号が前後ろなのが縁で、仲良くなった。どうゆうワケか、高校まで同じ学校だった。高校を卒業すると、翌年の年賀状を交換しただけで、それきりになっていた。だから、十七、八年ぶりということになるのだろうか。今は同じように女の子を一人持つ、母親になっている。
美加子の娘の名前は、里奈というらしい。
美加子にしては意外と思うくらい、地味な名前である。よく訊いてみると、名付け親は、市役所勤務の旦那さんであった。
二年二組の教室の前で出会ったのは、里奈ちゃんが、櫂クンと同じ二年二組だったからであり、それが分かったとたん、私は安心して、
「ねえ、一度ウチへ遊びに来ない?」
 と口走っていた。
もちろん、半分は、社交辞令である。今後のことも考えて、失礼のないように、一応、言っておいた。そうしたら、早速来てしまった。参観の日の二日後の、平日の今日、午後二時四十分である。土日は旦那様がご在宅だとかで、今日は里奈ちゃんの塾の日じゃないからと、連れておいでになった。
 高校時代の美加子は、おしゃべりの上に地獄耳で有名だった。誰もがそのネットワークに乗せられないように、気をつけて付き合わなければならない要注意人物であった。
もちろん、ウチの旦那さんは、単身赴任と言ってある。
どうせ美加子のことだ。如何なる人物に成長したのかは、今のところ判断のしようもないが、出会ってしまえば仕方がない。その矛先が、こちらへ向かないように、おいしそうな餌を見せておくのもいいかもしれない。 
 時計は四時を回っている。そろそろみずほさんが、買い物から帰ってくる頃だ。陽菜と里奈ちゃんは、ずっと仲良く遊んでいる。おみやげにと、百円ショップで買ってきたマニキュアを、小さい爪に、一生懸命塗っている。三時のおやつに出したオレンジジュースとクッキーには、ろくに手を付けないまま、夢中になっている様子だ。
私は美加子をベランダへと誘った。四月の空はのんびりとして、遠くが霞んで見える。
「たいした眺めじゃないけど、洗濯物はよく乾くのよ」
 私は美加子の方へ肩を寄せた。すると楽しそうに笑いながら、美加子が言うのだった。
「娘同士が、同じ校区に住んでいたなんて……私のマンションから一キロ未満じゃない? 今までも何度か、ニアミスしていたはずよ、ね?」
 私は意味のないほほ笑みを返しながら、美加子の顔をつくづくと見た。
(本当に、よく見つからなかったものだわ……まあ、時間の問題だったけれど………)
「ねえ、美加子のマンションはどっちなの。きっといいとこ住んでいるのでしょうねえ」
「そんなことないわよ」
 まんざらでもなさそうだ。肩を寄せ合って、美加子のウチへと向かう道順を訊いていたら、案の定、みずほさんが帰ってきた。エコバッグを下げて、中庭を歩いて行く。私は遠い空を指差して、熱心にナビゲートをする美加子に、何度も何度も大きめの相槌を打ち続けた。
 そして、とうとう指先が斜め上から下の方に流れて行き、
「あら、……あの人、鮎川さんじゃない?」
 美加子がみずほさんを、見つけてしまうのだった。
すぐさま、
「鮎川さあん」
 恥ずかしげもなく、美加子が大きな声で叫んだ。私は振り向いたみずほさんにだけ、陽の光が集まっているように感じてしまう。そちらに向かって、美加子が大げさに手を振っていた。
(そうだ。美加子は美加子のままだ。ちっとも変ってはいない……)
私の胸の鼓動が速くなった。もう頬が熱くなっている。私の躰の深いところから、喜びが込み上げてくる。
美加子に気を使っていた高校時代までの私を思い出し、自分自身の成長をつくづくと感じながら、傍らの美加子と、声のする方向に近づいて来るみずほさんを、代わる代わる眺めていた。
 四階のこのベランダに向かって、陽に手をかざしながら、みずほさんは会釈をしている。 
四月の空は、眩しいに違いなかった。
さりげなく、
「知り合い? 誰なの?」
 と、訊くと、
「鮎川さん。いい人よ」
と美加子が答えた。さっきの手の振りようを見る限りでは、かなりのお気に入りのようである。
「うちのクラスの学級委員さんよ。名字の頭が『あ』、だから、毎年、学級委員が当たってしまうらしいの。選挙の用紙って、五十音順じゃない? 出席番号一番の人が、どこのクラスも大当たりみたいよ。気の毒だけど、鮎川さんならいいんじゃない? 誰も文句を言わないわよ。先生からの、受けもいいみたいだし」
「ふうん、そうなんだ」
美加子は相変わらずおしゃべりだ。期待以上の応えが返ってくる。私は、私の高校時代のイメージを壊さないように、従順、且つ、差し障りのない会話に徹しよう。それに、里奈ちゃんは、陽菜より一学年上だから、美加子が私より一年早く、保護者としての経験を積むこととなる。必要以上に、盛り沢山の情報を提供してくれるに違いない。
みずほさんの後ろ姿が、マンションの陰の中に消えた。けれど、私の眼の中には、まだその姿が浮かんだままでいる。
「いいなあ、美加子は。いつも友達が多くて。人柄よねえ……」
羨ましそうに、ちょっと甘ったるい声を出してみる。それから美加子の顔を、上目づかいにじっと観察するのだ。
「そのうち、紹介してあげるわね」
 美加子がお姉さんぶっている。
吹き出しそうになるのを我慢して、嬉しそうな笑い顔をもう一度造り直した。
「任せといて、紗織。私がリードしてあげるからね」
 弾んだ声が、空まで届いたような気がした。
半分欠けた月が、白く浮かんでいた。
私はそれをぼんやり眺めながら、曖昧なほほ笑みを、まだ浮かべ続けている。


比枝(ひえだ)神社に、市が立った。大人も子供も、いつもよりおめかしをしている。
人込みの中を、私も美加子も、ぞろぞろと歩いて行くしかなかったが、陽菜と里奈ちゃんは、いつの間にか前の方へ進んでいて、私たちの呼ぶ声もとうとう聞こえないくらい離れた様子である。
やがて二人が、テントをかざした屋台まで走り寄るのが見えた。
やっと追い付いた時には、二人は屋台に並んだリンゴ飴を、憧れの眼差しで眺めているのだった。
「わあ、きれい、宝石みたい」
 と言ったのは、陽菜である。
「本当、おいしそう」
 と言ったのは、里奈ちゃんである。
どれが一番大きいか。どれが一番いい色に光っているか。どれが一番形がいいか……。
「里奈は、これがいい。陽菜ちゃんは?」
「陽菜は、こっちが一番好き」
店番をしているお兄さんが、にやにやしながら声を掛けるタイミングを計っていたが、好き、嫌いから、買う、買わないの話にいっこうに進まない。これは客ではなく、頼んでもいない子供のサクラだと判ったのか、店の奥に引っ込んで、古いテレビを見始めた。
リンゴ飴は、きれいだろうか……。
 リンゴ飴は、本当においしいか……。 
 一度だって、私はそんな風に感じたことはない。むしろ、その艶、光る色合いには、白雪姫が食べた毒リンゴのイメージと重なる。
「陽菜ちゃん、こんな大きな宝石が、五百円で買えたらいいわねえ」
そう言ってから、美加子がけたたましく笑いだした。お構いなしのそのボリュームに、半分は呆れ、もう半分は羨望しながらも、そこから逃げ出すわけにもいかず、私は静かに苦笑いしていた。
美加子の後ろを、白い胴着を着た男の子が歩いて行くのが見えた。オレンジ色の帯を締めている。美加子は当たり前のように振り向いた。後ろに眼が付いているというよりも、センサーのようなものに何かが引っ掛かった、という感じだった。
「あら、櫂クン、ママは?」
こんな時に発する美加子の声は、ノイズというより暴力である。有無を言わさぬ強引さがある。私の背筋を震わせる何かを持っている。その瞬間、何もかもがストップして、美加子の赤い口紅を付けた口だけが動いているのではないか、そんな気がしてならない。参観の日、みずほさんに吸い寄せられていくのを、美加子に呼び止められて動けなくなった、あの声だ。
 櫂クンが指した指の方向に、みずほさんがいた。今度は私の眼が輝く番だ。このままいくと、みずほさんを紹介してもらえるだろう。
「鮎川さあん」
 大げさに手を振りながら、美加子が叫んだ。私の背筋が再び震えたが、しばらくすると、臆病で恥ずかしがり屋の私が表れてきた。


初めてリンゴ飴を見たのは、いつだったろうか。 
仲良しの由利恵ちゃんと、二人だけで夏祭りに出かけた時だから、確か、小学三年生である。
二人とも、白地に花柄のゆかたを着せてもらって、お母さんの赤い口紅を、おちょぼ口に付けてもらって、頭に同じような、プラスチックみたいに固い、花の形をしたピンク色の髪飾りを乗せていた。
履きなれない草履に苦戦をして、
「いっそ、はだしの方が気持ちいいのにねえ」  
などと文句を言い合いながら、神社に向かった。
神社の階段を登る頃には、草履も足になじんで、参道の両脇に立ち並ぶ露店をふらふらと交互に覗きながら、お参りした後で何を買おうか、その品定めと、お小遣いとの折り合いをつけることに夢中になっていた。
さんざん迷った挙句、結局は二人とも、去年と同じようにたこ焼きの露店の前に来て、去年と同じように注文をする時に、由利恵ちゃんがませたような声を出して、
「おじさん、来年も来てあげるから、ソースたっぷりかけといてね」
と、去年まで付いて来てくれていた母親と同じセリフを口にして、露店の中を沸かせたのだった。
それから舟の形をした入れ物の中のたこ焼きの数を数えて、去年と同じ八個入っていることを確認し合い、去年と同じちょっと辛めのソースの味に満足していた。
そんな二人の前を通り掛かったのが、奈央ちゃんと優香ちゃんであった。由利恵ちゃんが、たこ焼きを突き刺した爪楊枝を持った方の肘で、私の脇腹を何度も押しながら目くばせをした。奈央ちゃんも優香ちゃんも、手に割りばしを持っていた。割りばしの先には、ゴルフボールくらいの大きさの、赤い丸いものが付いている。
気がついて私は、
「ねえ、それなあに」
 と、二人に呼びかけていた。
 突然脇から聞こえてきた声に、奈央ちゃんはきょろきょろして、私と眼が合うと、きょとんとした顔のまま、
「えっ、これ? ……リンゴ飴」
 と言った。モノの名前を訊かれて、ただ答えただけである。優香ちゃんも、釣られるように私に気がついて立ち止まった。
「それ、なにするもの?」
「これ? ……食べるもの」
「それ、おいしい?」
「うん、おいしいよ」
「どんな味がするの?」
「外が飴で、中がリンゴだから、最初は甘くて、それからすっぱいの」
「リンゴって、もっと大きいんじゃない?」
「小さいけど、これもリンゴなの。こういう種類のリンゴもあるの」
「ふうん、それって、結局、甘いの、すっぱいの、どっち?」
「甘いのと、すっぱいのが混ざって、ちょうどいい味になるの」
 ずっと、黙って聞いていた優香ちゃんが、
「食べてみる?」
 と言って、少し齧ったリンゴ飴を私の顔の前に差し出した。一体、どこを齧ればいいのか……分からなくて、じっとしていたら、
「食べていいよ」
 優香ちゃんが、私の顔を覗いた。
「どこを食べればいいの?」
「どこでもいいよ。ほら、ここ、食べていいよ」
 と、自分が齧ったちょっと横っちょを指で差した。
「でも、このリンゴ小さいから、私が齧ったら、優香ちゃんのが無くなっちゃう」
「うん、だから、ちょっとだけ齧ればいいんだよ。味見するだけなんだから」
 一生懸命勧めてくれたけど、優香ちゃんみたいに、上手に小さく齧れる自信がなくて、私はとうとう、ううん、と首を横に振った。
それから、また訊いた。
「優香ちゃんも、奈央ちゃんも、口紅の色、なんでピンクなの?」
「口紅じゃないよ、リップだよ」
「リップって、なあに?」
「リップクリーム。スーパーで、普通に売ってるよ」
「ふうん」
 奈央ちゃんも、優香ちゃんも、クラスに一人か二人しかいない、転校生である。二人とも、ジーンズにTシャツ、スニーカーを履いていた。
ただそれだけなのに、それだけではないような気がした。何かが違うと思ったけれど、その肝心な「何か」が、何なのか、見当がつかなかった。けれど私は好奇心に操られながら、学校ではろくに口を利いたこともない二人に、話し続けていた。
「そのお洋服、どこで買ったの? いいなあ」
「これ?」
 奈央ちゃんが、自分の胸のあたりを引っ張って言った。
「これ、お姉ちゃんのお古だよ」
「私だって、従姉からのもらい物だよ」
 優香ちゃんの眼も、びっくりした時のように、まん丸になっている。
「ああそう、だからこの辺には売ってないようなお洋服なんだねえ」
 羨ましそうな私の顔を見て、二人は顔を見合わせた。
「そのゆかた、新品でしょ? 羨ましいのは、こっちだよ、ねえ」
「うん、そっちの方が、高いんだよ」
 それから口々に、自分たちもゆかたを着たいけど、持ってないこと。ゆかたの方が、おしゃれであること。転勤族は、ビンボーだよ、と立て続けにしゃべりだした。しまいには、リンゴ飴の屋台に行ってみるといいよ、大きいのは高いけど、小さいのは安いから、あなたのおこづかいで買えるよ、と教えてくれた。
 遠ざかる二人の背中を見送りながら、不思議に感じたものだ。
(制服を着ているときには目立たないのに、学校の外にいる時は、なんてかっこいいんだろう……)
憧れと言うか、羨望の眼差しと言うものがあるとしたら、その時の私は、きっとそういう眼をしていたはずだ。
さっきまで気配すらなかった由利恵ちゃんが、背中にいて、後ろから、
「リンゴ飴より、たこ焼きの方がいいよねえ」と、ちょっと嫌味を言うような時の、声を
出した。
「腐りかけのリンゴや虫食いのリンゴや間引きされたリンゴを安く買って、それを誤魔化すために、水飴に赤い色粉を入れて、それで包んで、売っているのがリンゴ飴だから、わたし、おかあさんから、絶対買わないように、きつく言われているんだよ。あんな汚いものは、買っちゃだめだよ」
私の耳に、由利恵ちゃんのぬくい息が、ふうっ、と掛かった。けれど私はそれよりも、間引き、という言葉が気になって、恐る恐る、
「……どういう意味」
 って、訊いてみた。由利恵ちゃんは、あたりまえの話をするように、さばさばした顔をしていた。
「赤ちゃんを産んでもお金がなくて育てられないおかあさんが、生まれたての赤ちゃんの、
顔の上に、濡れた手ぬぐいを置いて、息が出来なくして、殺したんだって」
 あの時の由利恵ちゃんの声が、私の耳の奥から今でも聞こえてくる。
けれど、なぜだろう。
 気が付くと、いつも途中から、いつの間にか美加子の声に変わってしまっている。
 あの時、私の隣にいたのは、由利恵ちゃんだったのか美加子だったのか………だんだん分からなくなっていく。
間引かれたかわいそうなリンゴを、赤い水飴で包んでお化粧をする。
「かわいそうにねえ」
 と口では言いながら、眼が笑っている。眼で笑いながらも、健気に振る舞い涙を浮かべて、
「綺麗よ。真っ赤に熟れたおいしそうなリンゴにしてもらってよかったわねえ」
 つい、口の端が上がっている……。
そんな人を、私はたくさん見てきたような気がする。



    
比枝神社の市で、櫂クンに買ってあげたリンゴ飴が功を奏したのか、それともお互い、同じマンションの住人だと認知したからなのか、みずほさんは、私と目が合うと、会釈をするようになった。もしかしたら、美加子に〝友人〟と紹介されたせいかもしれない。
みずほさんの顔が、にっこりしながら大きく相槌を打つように動く。ちょっと首が傾いでいるところが可愛らしい。鏡を見ては、みずほさんを思い出し、私は時々真似てみる。
それから、みずほさんの左の頬のえくぼの下あたりにホクロがあるのを思い出して、笑ってしまう。
ホクロ占いで占ってみると、淫乱、と出ていた。 
 つい、あの礼儀正しさと、あのホクロとの因果関係を、考えてみたりする。
この間、マンションの中庭で、みずほさんが、須藤さんと立ち話をしていた。私はみずほさんの、視野の中をゆっくりと歩いて行き、それからふと気づくように、みずほさんの方に顔を向ける。
みずほさんは、こちらに優しく笑っていたが、須藤さんは、怪訝そうな顔で振り返っていた。
須藤さんは、テレビドラマの中の教育ママみたいな人で、眼光が鋭く、おまけに黒縁眼鏡をかけている。A棟に住んでいるが、みずほさん以外の人に近寄っていくのも、話しかけるのも、見たことがない。
とにかく気難しそうなので、こちらから敬遠をする。須藤さんの気配がすると、人がばらけてそそくさと散ってしまうのである。
みずほさんは、逃げ遅れるのか、呼び止められるのか。
そう思ってその後よく観察していたら、みずほさんの方から頭を下げていた。
誰にでも礼儀正しいというところが、あのホクロの因果なのかと思ったりして、鏡の中の私がまた、笑い出す。
そろそろ七時半になる。七時半を回ると、あの部屋に、明かりが灯ることになっている。  
私はリビングのカーテンに細い隙間を作って毎晩、夜空を眺め、明日の天気を占いながら、あの部屋が明るくなるのを待つことにしている。
閉じたカーテンが、うっすらと浮き上がった。カーテンの向こう側では、櫂クンとみずほさんが、机の前に仲良く並んで腰掛け、今日の復習や明日の予習、家庭学習のドリルなどをしているのだろう。
毎日の積み重ねが大切である。そうと判ってはいるけれど、なかなか出来ないものである。
来る日も来る日も、目の前でこうも積み重ねられると、みずほさんのあのゆったりとした会釈が、あれは一体何の合図だろうかと、疑ってみたくもなる。
「どうぞ、ごゆっくり」
 とも受け取れるし、フェイントというか、にこやかな笑顔の向こう側にある、裏打ちされた、自信の表れのような気がしないでもない。
見た目といい、中身といい、神様に優遇されて生まれてきたその上に、根気強く毎日の積み重ねをされては、塵も積もれば山と成る、どころか、その差が行く末の幸せの格差となって、どんどんと広がっていく。
その過程を現実のものとして、見せつけられているような気持ちがするのは、私だけではなかった。
「どうやって育てれば、あんないい子が育つのかしら……」
 美加子がため息をついた。無理もない。最近、里奈ちゃんが、学校の宿題をして行かなくなったと言う。
担任の先生から再三注意をされても、美加子がきつく叱っても、里奈ちゃんはのんきと言うか、平気でいるらしい。
この春、総務課人事係長に栄転された旦那様に頼んだところで、ディズニーランドに連れて行ってあげないは、
「いいもん、行きたくないもん」
サンタさんが来ないは、
「来なくていいもん」
しまいには、なまはげに連れて行かれるなんて、脅したつもりが、なまはげの、特に最後の二文字が、里奈ちゃんの笑いのツボに入ったらしく、
「ナマハゲー」
 と、娘は可愛いお母さん指でパパの顔を指さして、ケラケラ笑ったそうである。そうして、その屈託のない笑い声を聞いているうち、つい、ママまで一緒になって笑ってしまい、夫婦げんかにまで発展したらしい。
三日前の夜のことである。パパと娘がお風呂に入り、パパが風呂上りに、ドライヤーで髪をふんわりさせていた時のことらしい。
それ以来、パパはうちの誰とも口を利かなくなった。
「どうしよう」
今日は、愚痴を言いに来たのである。
 予告の電話が入って、ものの十分か、十五分で、我が家のチャイムが鳴った。私の心とお茶菓子の準備が充分ではなく、美加子の顔と話を見聞きしながら、吹き出しそうになると冷蔵庫の中を覗いて、陽菜のおやつの一口チーズを持って来たり、同情する顔が崩れそうになると、食器棚の上の方に隠していた、おせんべいを取りに走ったり、しなければならなかった。
「このまま夏休みに突入したら、どうなっちゃうの?」
ぬるくなったコーヒーに、ミルクを入れて、かき混ぜている私の眼の中を覗きながら、
「このままでは、アルバイトにも出られないわ」
 と、続く。
 ナニイッテンノ? と、ヤバイ! が、ほとんど同時だった。
このまま放っておくと、 
「紗織、お願い、里奈を預かって、……週に二、三度でいいの」
なんて、言いかねない。
慌てて私は、口を挟んだ。
「ダメよ美加子、逃げちゃ、ダメ!」
私は必死に叫んでいた。
「今が一番だいじな時じゃない?」
そして、どこかで聞き齧った話を思い出して、なんだか芝居じみているように感じながらも、真剣な顔で、訴え続けるしか、それしかない、と思った。
「いくら遅くても三年生のうちには、生活の習慣づけをしておかないと、大変なことになるって聞いたわよ。五年生になると反抗期がきて、親の言うことなんか聞かなくなるらしいわよ。里奈ちゃんは、二年生だし、まだ十分、間に合うわよ。今、頑張らなきゃ。アルバイトになんか、行ってる場合じゃないわよ。 アルバイトなんか、旦那様経由のコネでなんとでもなるじゃない? 大事なのは、今よ。今、里奈ちゃんを守ってあげられるのは、やっぱり、母親よ。美加子、あなたよ。あなたしかいないのよ」
そして、閃いた。     
「そうだわ。鮎川さんに相談したらどうかしら」
美加子の顔が、ぱっと明るくなった。いつもの顔に戻って、目の前にいる、用の無くなった私には興味を失い、在り来たりな世間話もそこそこに、帰って行ってしまったのだ。
賑々しい高笑いの余韻と、飲み残したコーヒーが、置き去りにされていた。    


     7

夏休みに入ると、里奈ちゃんは櫂クンと、
いっしょに勉強をするようになった。美加子とみずほさんは計画を立てて、互いのウチを、行ったり来たりしているみたいだ。
 お蔭様で、みずほさんの涼しげなワンピース姿や、ちょっと大きめの帽子を被っているところとか、櫂クンのズボンと同じ布でできたリュックを背負って出かけていく、みずほさん親子の後ろ姿を見送ったりと、私の夏休みは充実している。
「……いいわねえ」
羨ましそうに美加子に言ってみた。美加子は余裕の笑みを浮かべながら、
「持つべきものは、友達よ」
と言った。
「美加子は友達が多くて羨ましいわ。きっと、徳が備わっているのよ。日ごろの行いが、よほどいいのよねえ」
 言ってから、私は、うん、と自分で大きく頷いてみせた。練習の成果が出たのか、ちょっと首を傾いでいるような気がしないでもない。そんな自分が、可笑しくもあり、可愛くも感じた。
みずほさんと美加子の友情は、里奈ちゃんの夏休みの宿題を、計画通り、盆前には終わらせることだろう。そこから先は、自由行動となり、友達ごっこも、九月まではお預けとなるらしい。
猛暑の続くある日、久し振りにマンションの中庭を歩いていく、みずほさんの、みずほさんらしくない、何かもやもやしたものを引きずりながら歩む姿を、見かけてしまった。こちらはみずほさんに気付いているのだけれど、みずほさんは私に気付かないのか、ただぼんやり俯いたまま擦れ違ってしまった。
みずほさんから、いつものいい香りがした。けれども、私は、私の大好きな、私のお手 
本である、あのゆったりとした会釈を見ることができず、残念で仕方がなかった。私としては、今度こそ、みずほさんに、私からのゆったりとした会釈を、とびきりの笑顔をおまけして返そうと思っていたのに……。
盆には、広島の実家に里帰りをするらしい。その後には気分も変わって、また、あの優しい笑顔に会えることだろう。
そして夏休みが終わると、学校では、運動会の練習が始まる。春に行われることが多くなった運動会が、ここでは、昔ながらに秋にある。それは、山や田畑を分断するように道路が作られ、その周りに広い駐車場のあるショッピングセンターが並んでいるような、そんな田舎町には、そのほうが似合っているからなのだろうと、私は思っている。
それから、稲穂が首を垂れ、黄金色に染まる秋の景色の中に実るものは何だろうかと、考えてみたりする。
美加子からの情報によれば、みずほさんは、去年と同じように、PTA役員の運動部に所属しているらしい。運動会では、二人三脚に出場するのが恒例となっている。昨年は、みずほさん夫婦が息の合ったところを見せて、ぶっちぎりの一等賞だったとか……。
「運動会が近くなった日に、公園で、仲良く練習していたわよ」
人もうらやむ美男美女のお似合いカップルは、今年もそこで、練習するのだろうか。
暑い盛りの公園には、人っ子一人いなかった。公園を取り囲むように街路樹が植えられ、聞こえてくる蝉の声に、そこはただ包まれていた。


     8

須藤さんが、こちらを見ている。
まさかと思うが、私だろうか。取りあえず、会釈をしてみた。
すると近づいて来る。
須藤さんが掛けているあの黒縁眼鏡が、妙に現実味を帯びてぬめぬめと光って見える。取り分け私は、蛇に睨まれた蛙だろうか。なにか私が、須藤さんの気に障るような事でもしたのかも……、と、心当たりを探してみたりする。
(面倒なことに、ならなければいいのだけれど……)
思案しながら、ただニコニコしているだけの、自分が歯がゆくもある。
須藤さんが、私の目の前で止まった。私は静かに息を呑んだ。
そうして、私と初めて話をする須藤さんの第一声は、〈こんにちは〉でも〈いい天気ですねえ〉でもなく、
「ちょっと、お聞きになった?」
今日の湿っぽい空気をたっぷりと含んだ、低い声だった。きょとんとしている私の顔を、眼鏡の上の隙間から鋭い眼光で捉え、それから、ささっと、寄り添うように私の傍に来た。
「鮎川さんのこと……」
ぬくい息が首筋にかかって、身震いをする。
それがバレないように、息を止めて体を固くする。
(一体、いつからこの人と、こんなに親密になったのだろう)
思う間もなく、須藤さんの、その貧相な胸に収まりきれない男と女のストーリーが、こちらのコンディションなどお構いなしに、どんどんと、進んでいくのだった。
「ねえ、鮎川さんって、お綺麗で、お優しくって、お幸せそうじゃありませんか。ところがなかなか、世の中、そうはイキマセンノヨ。
鮎川さんの旦那さんねえ、イケメンの、大手のメーカーにお勤めの、若いのに、もう、課長補佐なんですって。同期の、出世頭ですってよ。……じゃなくって、その旦那さんが、鮎川さんの。部下の若い女の子に手を出しちゃって、妊娠させちゃって、認知するのしないのって、会社に親が乗り込んできて大騒ぎになっちゃって、すったもんだの挙句の果てに、流産しちゃって……、その若い女の子が、精神的に参っちゃったみたいで、でも、その方がよかったのよねえ、将来もあるでしょうし。手切れ金と慰謝料合わせて百万払って、別れたらしいわよ」
 須藤さんは、つばきを飛ばしかねない速さで一気にしゃべった。
「…………」
「かわいそうに、鮎川さん。なんにも悪いことしてないのにねえ、あんなに一生懸命家庭を切り盛りしているのにねえ、わからないものねえ、家の内なんて……。それで、旦那さん、飛ばされてここに転勤してきたらしいわよ。エリートコースに乗っていたのが、これよ」
 須藤さんの握った手が、ぱっと開いた。それからちょっと声のトーンが下がって、
「櫂クンがあんなにいい子なのも、きっと、ママの苦労を感じ取っているからなのよねえ……」
 今度はしみじみと言うので、思わず頷いてしまった。深く、ゆったりと、いつものように……。ただこの場合には、微笑んではいけない。神妙な顔というか、憂いがかった表情というか……。
「それで、鮎川さんは、離婚するつもりがなくって、……だってそうでしょう? そのくらいのことで、せっかく築いた温かい家庭をめちゃくちゃにされてたまるものですか。だって、だって、櫂クンがかわいそうじゃない、あんなにいい子が育ってるんですもの」
少し目を潤ませ、さっきより少し回復したトーンで、時々声を震わせながら、須藤さんはそう言って、それから急に声を潜めた。
「でも、なかなかできないわよねえ。鮎川さん、旦那さんと、腕組んだりあんなふうに仲良さそうにしているけど……、あたしだったら、できないわよ、絶対に。けど、離婚しないのなら、さっさと無かったことにして、二度と他の女に取られないように、べたべたしているのが利口よねえ」
「………」
「ウチはそのくらいのことで、壊れるような家庭じゃありません、もう、修復しました、って感じで、強いわよ、あのこ。というか、あの、なんでしたっけ、……そうそう、危機管理がお上手よねえ。そう、利口な人なのよ、鮎川さんは……。でも、できないわよ、なかなか……」
 須藤さんの顔が、左右に揺れている。
「ほんと、お気の毒だわ」
 頬がほんのり赤くなっている。口の端が少しめくれ上がっている。しゃべるだけしゃべったら、気が済んだのだろうか。視線はもう、私を通り越した向こうにあるらしい。
そうして須藤さんは、お別れの挨拶もなく、私からすたすたと遠ざかり、向けていた視線の延長線上に消えていってしまった。
 私は一言も発することなく、須藤さんをやり過ごすことができて、少しほっとした。もちろん、それが一番賢明であることに、違いなかった。そしてそれはきっと、自分の女としてのスキルが、もう一段アップした証拠かもしれないと思った。もしかしたら、日頃の行いの成果であり、結果であろう。
なのに、なんだろう、世の中と言うものは……。
(ちっとも成長しない)
夏休みの終わりごろ、私が美加子に言っておいたのは、
「鮎川さんの旦那さん、飛ばされてここに来たらしいわよ」
 である。
それが、美加子のネットワークに乗せられ、世間を渡り歩いて、須藤さんの耳に入り、ひと月もたたないうちに、私のところに戻ってきたのだけれど………。
けれどそんな話、どこにでも転がっている程度の話ではないか。ただのよくある話じゃないか。もっと面白そうな、センセーショナルな話になっていればいいものを、美加子発、須藤さん着の伝言ゲームなら、こんなものか。
誰もが他人事として、どこかで聞いたような話をしているだけである。そして誰もが、まさか自分が、そのストーリーの主人公になってしまうなんて、思わないものかもしれなかった。
 

     9

面白おかしい話は、他人事であってこそ、である。韓流ドラマにハマるのもいいけれど、所詮はツクリモノである。身近で気楽に刺激のある、日々の娯楽と言えば、うわさ話に決まっている。
 ……しかしながら、みずほさんは打たれ強かった。稲穂が首を垂れ、黄金色に染まる季節の中で、今日も平然と暮らしている。須藤さんは、相変わらず、みずほさん以外の人たちとの交流が忙しそうだ。みずほさんはと言えば、須藤さんなど眼中にない、というより、どうでもいいというか、かえって清々した、お好きにどうぞ、といった感じだ。
この秋の運動会では、旦那さんとお揃いのジーンズを履いて登場し、旦那さんの腰の具合が悪いからと、PTA主催競技の二人三脚には出場しなかった。旦那さんに寄り添いながら、櫂クンには声援を送り、ビデオ撮影をしたり、色合いも華やかなお弁当を美加子一家と交換したりして、まるで良妻賢母のお手本のようであった。
あのおっとりとしたしぐさの裏にある、恐ろしく図太い女が、見え隠れをする。
そのうちうわさも消えるだろう。そのうち、性質の悪いイタズラのようなものだと、誰もが気付くだろう。
 今さらながらに考えてみると、あの時、私も、みずほさんみたいに、賢く立ち回れば良かった。嘘でもいいから、泣いてみせたり、喚いたり、縋り付いたりしていたら、もっと違う結果にたどり着いていたのかもしれない。
けれどそれができなかったのは、夫婦の質の問題というか、ウチの場合は無理というか、あのことがあって、逆にさばさばした感じになってしまった。修復しようとする引き合う力が、もうすでに無かったような気がする。
 私の離婚の原因は、私自身の浮気であるが、離婚していることが誰かにバレた時には、離婚の原因は、夫の浮気だ、と答えることにしている。
 どこも、そんなもんだ。訊く方も、訊かれる方も、そんなもんだと思っている。
「私、離婚しているの」
 と誰かに打ち明けられると、
「原因は何だったの」
 と訊いてあげる。
「向こうの浮気」
 と答えると、
「そう、大変だったわね。大変だけど、がんばってね」
 とエールを送っておしまいにする。
そこから先は、タブーである。訊いたところで、後々面倒くさいので、その件については、タッチしないのが利口である。
過去の秘密をバラすのは、その人にとって不利なうわさが流れた時、庇って欲しいからなのであって、自分がそんなお人好しに、見定められたと判った上で、それでもその人にいい顔をしていたら、本当に舐められてしまう。
それ相応の見返りを用意しているのなら、話は別だけれど………。
 しかし、私だって、あんなことになるとは思ってもみなかった。
 

10

長瀬さんの旦那さんと関係を持ったのは、偶然というか、ちょっとした事故というか、だって、まさか長瀬さんの旦那さんが、あんな人だとは思っていなかったのだから……。まさか、あんな日に、あんな所で、あんなことをする人だなんて、本当にそんな人だとは、知らなかったのであって、そんな人だと知ってしまって、その後、またいろいろあって、気が付いた時には、どうしようもないほど好きになっていた。
 長瀬さんとは、陽菜の通う幼稚園で、子ども同士が仲良しで、たまたま同じマンションで、ウチの旦那さんは本当に単身赴任だったし、なんだかんだで家族ぐるみの付き合いになって、互いの家を行ったり来たりしているうちに、あんなことになってしまった。
けれど、私は後悔しなかった。だけど、長瀬さんの旦那さんは、そうじゃなかったみたいだ。長瀬さんも、長瀬さんの旦那さんが浮気をしたのは、「自分にも責任があるから、いたらないところがあったから」とか言って、反省をして、水に流したと聞いた。
 ただ、マンション内でのうわさが凄くて、子供への影響もあるし、長瀬さん一家は転校をして、マンションも変わって、それからはうまくいっているらしい。
「以前より、旦那さんとベタベタしている」という、うわさが聞こえてきた。
「腕なんか組んで街を歩いているのを見た」という、風の便りもあった。
「へえ、よくできるわよねえ」
「要は魔が差したのよ。真面目な人が、時々落ちる落とし穴みたいなものよ。一度くらいなら、目を瞑ってくれるわよ。だってほら、長瀬さんの旦那さん、子煩悩だし……。絶対、別れないわよ。子は鎹、って言うけど、長瀬家の場合、そのものじゃない? 旦那さんは奥さんに借りも作っちゃったし、高くつくわよ、きっと……。ますます操縦しやすくなった、ってわけ」
「なるほど、さすが長瀬さん、賢いわねえ」
うわさをする人が作った輪の中から、そのうち、うわさ話だけが独り歩きをし始めるのだ。うわさ話は勝手気ままに世間を歩いて行き、ついには、長瀬さんがどの人で、本当はどんな人なのか、そんなことさえどうでも良い事となってしまうのである。   
顔も知らない誰かのうわさは、公然と囁かれ、飽きるまで繰り返される。これといって、話題の無い時の、退屈しのぎに使われているだけだ。
うわさ話は知っていても、当の本人が、すぐ傍にいても気づかない。そんなものだ。所詮、どうでもいい他人事だから、要は、暇つぶしに、どうでもいい話をしているだけだから、気にすることもないのだけれど………。
 陽菜がいる。
 こうなって、初めて分かった。
こうならなければ、分からずじまいで過ぎていくものを……。  
 子供がいるということが、こんなに大変なことだとは思わなかった。学校に行かせるということが、義務教育を受けさせるということが、保護者であるということが、母親であるということが、人として当たり前であるということが、こんなに苦しいものであるなんて、考えたこともなかった。
 パパとママが夫婦でなくなったことを、誰も陽菜にきちんと説明できなかった。
「パパはお仕事の都合で、いっしょに住めなくなったから、パパのお部屋が要らなくなった」とか、「環境のいい学校へ通うために、新しいお家を見つけた」とか言って、説得したと言うか誤魔化したと言うか、しまいには、新一年生になるために、ランドセルや学習机や筆箱や鉛筆を買い揃えることでなんとか納得してもらうのが、やっとのことだった。
陽菜を守るために、私もマンションを移らなければならなかった。
移ってみると、そこにみずほさんがいて、須藤さんがいて、美加子にまで見つかってしまったというワケだ。
周りには、月に一度、陽菜のパパは単身赴任から帰って来る、と話している。そして、かわいい陽菜とデートをしていることになっている。出来のいい元夫は、養育費も毎月振り込んでくれている。
もちろん、それも見越したうえでの、離婚であったのだけれど……。
 かつては私も、人並みなことはやってきたつもりだ。
(なぜ、こんなことになってしまったのだろう。いつから歯車が狂い始めたのか……)
陽菜の寝顔を眺めながら、こぼれていく涙が止まらなくて両手で顔を覆い、込み上げてくる嗚咽を止めるべくその掌で口を塞ぎ、堪えられなくなってリビングへと走り、押し入れの中にある布団に首だけ突っ込んで、大声で泣けるだけ泣いたのだ。
…そうだ。
バレるはずもない、と思っていた浮気がバレていた。最初にバラシタのは、一体誰であろうか。いつの間にか、私は世間の白い目の中に曝されていた。    
けれど浮気をしたのは、私だけではない。一人で浮気などできるはずもない。相手がいるのに決まっている。つまり、その浮気の相手が長瀬さんの旦那さんであることが、バレてしまったのである。
なのに気がつくと、私一人が悪者扱いされていた。善き夫を誑かす、魔性の女がこの私である。
長瀬さんの旦那さんは、奥さんの傍で小さくなっていた。何かに失敗した、といった感じで、誰かにめくばせをされると、怒った顔で腕組みをしている奥さんの陰で、恥ずかしそうに苦笑いしながら俯いていた。
要は、風向きが変わったのだろう。いつ変わったのかは、分からない。「ウチの嫁と上手くいってない」という愚痴というか相談を、私が真に受けてしまったのが間違いの元であったのだろう。
真面目ないい人と思って信頼していたのが、いつの間にかこんな事になってしまっていた。
真面目ないい人が、魔が差して浮気をして、目が覚めたというのが、世間の人の見立てらしいが、私にだって、言いたいことはある。
私の方が純粋だったから、後悔しなかった。私の方が余計に好きだったから、その心変わりに気が付かなかった。私の方がズルくなかったから、一人、悪者扱いにされた。
長瀬さんの旦那さんは、平穏無事を貫き通した。
平穏無事なんて、ずる賢い奴らの言い訳だと気が付いた時には、もう周囲の矛先がこちらを向いていた。どちらを向いても、頭が上がらなかった。
そうだ、私が悪い……。


11

もうすぐ、陽菜の七回目の誕生日である。今日のお昼は、そのお祝いも兼ねて、陽菜と外食をした。ささやかな贅沢も楽しんだ。その帰り道である。
「陽菜ちゃん」
と呼ぶ声がして、振り向くと、みずほさん
の旦那さんがいた。みずほさんの旦那さんは、小さなコンビニの袋を下げていた。その中には、缶ビールが二本と、何かおつまみのようなものが入っている。
「あっ、櫂クンのパパ、じゃなくって、櫂クンのおとうさん。ねえママ、櫂クンはねえ、ママのことはママって言うけど、パパのことは、おとうさん、って呼ぶんだよ」
 陽菜が私を見上げながらそう言ったとき、確かに、私の中の誰かが「何か変だ」、と呟いたのだった。それから、「何かがおかしい、不自然だ」、と、繰り返し繰り返し、付け加えていた。
けれども私は、それを打ち消すように、
「こんにちは、でしょ?」
 冗談でも言うような調子で、陽菜に挨拶するよう、促したのだった。
例のうわさはとっくに笑い話となっており、今では、みずほさんの旦那さんは、身近にいる、善き夫のお手本のような存在になっていた。その上、陽菜は櫂クンと、学校の行き帰りが一緒になることが多い。まるで仲の良い兄妹のように、楽しげにおしゃべりしながら歩く姿を、私は何度も見かけている。          
ほほ笑ましく感じていたのは、私だけではなかっただろう。
いつの間にか、みずほさんや、みずほさんの旦那さんとは、目が会うと会釈をするようになり、挨拶をするようになり、どこかで見かけると、どちらともなく近づいていって、何気ない言葉を交わすようになっていた。
「こんにちは」
陽菜がきちんと頭を下げると、みずほさんの旦那さんは、腰を屈めて陽菜の頭を撫でながら、
「陽菜ちゃんは、素直だし、賢いし、本当に可愛いいですねえ」
 と言った。
「いえいえ、ウチの子なんて、まだまだです。櫂クンこそ、何でも出来ちゃうし、陽菜の面倒をいつも見てくれて、本当にありがとうございます」
 私がお礼を言うと、みずほさんの旦那さんはこちらに向かってにっこりとして、それから腰を伸ばした。  
まだ若い男が私を見下ろし、その笑顔を見上げながら、私はほんの数秒だけれど、陽菜が傍にいることを忘れていた。いや、陽菜の存在そのものを、感じなかった。
「……実は、僕は、一人っ子なんです。兄弟が欲しくて、おふくろに『弟が欲しい』って、おねだりしていたんです」
 私がくすっと笑うと、その光景でも思い出していたのを、現実に戻ったのか、急に照れ笑いになって、それから今度は陽菜の方に、優しげな眼差しを向けた。
私はまだ七才にも満たない女の子に小さな
嫉妬を覚えながら、それでも母親らしいほほ笑みを絶やさないよう気を付けなければならなかった。
けれど、みずほさんの旦那さんは、ふと、笑顔を曇らせて、
「僕はもう一人くらい、できれば女の子がいいなあ、って思っているんですけど、なんででしょうかねえ、ウチのが、欲しがらなくて……。ぼくは、子供は三人が理想なんです」
と言った。
「ねえ、陽菜ちゃん、おじさんちの子になる?」
「うん、なってあげてもいいよ」
 陽菜の嬉しそうな顔を見ていると、何も知らない陽菜に、すでに離婚をしていることをどう話せばいいのか。いつ、切り出せばいいのか。判らなくて、私の胸の辺りがだんだんと重くなって、それから先は、なにも考えられなくなってしまうのだ……。


12

 みずほさんが、笑っている。須藤さんと、中庭で立ち話をしている。須藤さんは、あれから私に話しかけてこない。みずほさんの、優しい笑顔もゆったりとした会釈も、日常の中に溶け込みながら、毎日が流れていく。
そうして、いつものように七時半になると、あの部屋に明かりが灯り、雲の模様が浮かび上がるのだ。
どこにでもある、子供部屋のカーテンの模様なのだけれど、その向こう側は別世界というか、雲の上の人が住んでいるような気がしないでもない。
そうだ。最初から、行くところが違う人、いや、帰るところが違う人……。
私は細く開けたリビングのカーテン越しに、今夜も星空を眺め、明日の天気を占い、それから鏡の中の私に笑いかける。笑いながら、ゆったりと頷いてみせる。
けれど、なぜだろう。何度繰り返しても、しっくりとこないのである。
…………鏡の中の私が、私の顔に、ホクロを描いている。私の顔の、みずほさんと同じ位置に、ホクロを描いている。眉を描く黒いペンシルを、皮膚の上できりきりと回すと、小さな偽物のホクロができあがった。
鏡の中の私が、笑っている。うれしそうに、笑っている。そうして私はゆっくりと、頷いてみせる。いや、何かが違う。もう一度、やり直してみる。どこかが不自然だ。もう少し、笑って……、もっと、楽しそうに。そうだ、それでいい。
鏡の中の私が、私に笑いかけている。何度も何度も頷きながら、私を見ている。来る日も来る日も儀式のように、私は繰り返すだろう。


13
   
 退屈な日々が続いていった。鏡の中の私は、ほほ笑みながら頷き続ける。何のための一日が始まり終わるのか、分からないまま、今日という日が過ぎてしまっている。
気が付くと、私も、三十代の半ばになっていた。四捨五入をすると、四十歳である。
つい最近まで、年を誤魔化す女心は分かっても、正直な自分の歳を、わざわざ四捨五入して答えたり考えたりする、オバサンの気持ちは理解できなかった。
本当の歳を知ってほしいのか、知られたくないのか。何のためにクイズのヒントみたいに、四捨五入をして年齢を言わなければならないのか。その結果、どんな効果があるのか。だから、なんだと言いたいのか。もしかしたら、ある年齢を超えたところで、年齢など関係ない、どうでもいい、という心境に達するからこそ、四捨五入という、いい加減な、大雑把なことを言い出すのだろうか……?
オバサンの気持ちが分かる日が来るなんて、考えたこともなかった。自分の年齢を、自分で四捨五入する日が来るなんて、想像したこともなかった。
四捨五入をしても、なんら差し支えの無い私の人生が、始まっていた。
 そろそろ仕事を見つけなければ、と思っている。履歴書に書く年齢が、また一つ増えないうちに、どこか、聞こえのいいところに就職したいと考えるようになった。
いつの間にか、風が冷たい。あと、ふた月足らずで、今年が終わってしまうのだ。
「いいところがあったら、紹介してね」
 美加子をお茶に誘って、頼んでおいた。美加子の旦那様は、市役所にお勤めであるから、こんな田舎町では、地方公務員の奥様は、コネの利く、いいところの人なのだ。
「旦那様にも、頼んでおいてね」
 おいしいと評判のロールケーキを勧めながら、私はにっこりとする。
「うん、何かあったら、知らせるからね」
 こんなシーンには、慣れているのだろう。美加子の受け答える様は、さらっとしたものだった。以前の私なら、屈辱ものである。 
そう感じなくなったのは、気力の衰えというか、世の中、そう簡単にはいかない、それは私だけではない、ということを、長い年月をかけた末に、身をもって知ってしまったから、ということなのかもしれない。
 美加子も私も、小学校から高校まで、同じ公立に通っていた。美加子は、どこを取っても普通以下で、ぱっとしない子供であった。誰の目にも、将来の知れた女の子だった。
その美加子が、今や悠々自適の、地方公務員の奥様である。
運も実力もなさそうな自分の将来にさっさとけりをつけて、まだ若い花のあるうちに、安定した暮らしと、たとえお飾りであってもその地位を、早々と手に入れたのだろう。
今となっては、それが賢い選択であったことがよく分かる。誰もが時間が経つにつれ、自分がただの人であったことに気付いていくものだ。
幸か不幸か、若い美加子はそれを知っていたのだろう。
美加子についている地獄耳も、おしゃべりな口も、裏返せば美加子が開拓した広範囲にわたるネットワークと言えるものだし、ある種の強引さも、周囲への配慮の無さも、何かを察知するセンサーのようなものにしても、積極性だったり、社交性だったり、チャンスを逃さない俊敏さだったり、するのである。
これで美加子が美人であったら、ターゲットになりかねない。いや、美加子だったら、それもないだろう。
「だって、美加子は顔が広いから、私と違って、いろんな情報が入って来るでしょう?」
 美加子の顔を眺めながら、もうひと押ししておいた。せっかくの、ロールケーキである。  
美加子は、ロールケーキには、さして興味のなさそうな様子だった。
当てにできそうにない。ダメ元でもいいか、と思っていた。
 けれど、美加子から入ってきた情報は、期待以上のものだった。
「みずほさんに、男がいたみたいよ」
うわさは、瞬く間に広がるだろう。


14

須藤さんは、まるでお祭り騒ぎである。自分のテリトリーなど度外視をして、だれかれ構わず、次から次へと話しかけている。とても忙しそうだ。生き生きとしている。
「じゃあ、今までのあれは、何だったの?」
「良妻賢母は、フリだったの?」
「嘘と言うより、カモフラージュ?」
「櫂クンが、かわいそう……」
 誰が撮ったか分からない写メールを眺めながら、面白おかしく、話は盛り上がっていく。      
 その様子は、まるで、「一対一の勝負なら勝ち目のない相手でも、多数決なら負けないわよ。そのためにも、私たちは、その他大勢で在り続けなければならないのよ」という、数の論理での有意さもさることながら、「在り続けましょうね」という、念押しとも取れるような、無言の圧力さえ感じてしまうものだ。
そして、決して歯が立たない、自分とは違う生き方をしている誰かさんに対しては、「今に見ていろ」的なストレスが、「ざまあみろ」的な発散というか、「私たちのような、世間を敵に回すと怖いわよ」という、ある種の脅迫めいたメッセージに、変化しているような気がしてならない。 
 だから私も、美加子から聞いてはいたけれど、買い物に行くついでに、須藤さんが作る人の輪の傍をわざと通って、須藤さんの手招きに招かれて、その問題の写メールを見せてもらった。
ヘアスタイルといい、ファッションセンスといい、みずほさんより明らかに年下の男が、須藤さんのケータイの待ち受け画面の中で、みずほさんと仲良く手を繋いで歩いている。
 美加子からの情報が正しければ、みずほさんの誕生月は二月だから、もうすぐ三十三歳になるはずだ。彼の方は、二十七、八歳、というところか。
 育てがいのある、若者だな、と思う。
(みずほさんが目を付けるのなら、きっと、そうだろう……)
 みずほさんとみずほさんの旦那さんは、八歳年が離れている。
 だとすると、若い日には、頼りがいのある夫から愛されることを望み、今では、慈しみ育てる愛に、目覚めたのかもしれない。
 子育ての上手な、みずほさんらしい選択である。
私はふと、みずほさんの旦那さんが、コンビニの袋を下げていたのを思い出した。陽菜の七才の誕生日のお祝いに、外食をした帰り道のことである。
 みずほさんの旦那さんは、「自分は一人っ子だ」と言っていた。「子供は三人が理想だけれど、なぜか、みずほさんが欲しがらない」と言うようなことを言っていた。
「ウチのが欲しがらなくて……」
 そう言っていた時の、困ったようなみずほさんの旦那さんの顔を思い出したら、もう、声を堪えきれずに笑いだしていた。 
       

15

もうすぐクリスマスだ。町中に、クリスマスソングが流れている。ジングルベルに囃し立てられて、クリスマスケーキを売る声も、うわさ話をする声も、ついつい大きくなってしまう。
 とんだ、クリスマスになった。とんだ、クリスマスプレゼントである。勝ち誇った顔で、だれもかれもが笑っている。
いつからか、みずほさんの姿を見かけなくなっていた。
「若いツバメと駆け落ちしたらしいわよ」
 私は須藤さんが、ツバを飛ばしながらそう言っているのを、何度も見かけた。
なんだかみんなで、一生懸命みずほさんの悪口を言っているような気がしないでもない。
「本当は、羨ましいんじゃないの?」
 と訊いてみたくなるような、時もある。
使い古した旦那より、若くてまだ可愛げのある男と、手を繋いで連れ歩く方が、かっこいいに決まっている。
 未来への投資。
 そんな言葉が、頭を過ぎる。
「どうせ、すぐ捨てられるわよ」
 もちろん、リスクはつきものだ。
「合成写真じゃないの?」
 と言って、加わった輪の中から早々に出て行く人もいる。
みずほさんがいなくなっても、みんな、みずほさんの話ばかりをしている。みずほさんは、本当に人気者だ。格好のネタを提供して、ここからいなくなった。防衛本能が強い女たちには、都合のいい存在である。本人が不在なのだから、それこそ言いたい放題になってしまう。
そろそろ七時半になる。私はいつものように、リビングのカーテンに細い隙間を作って夜空を眺め、明日の天気を占いながら、あの部屋に明かりが灯るのを待っている。閉じたカーテンがうっすらと浮き上がって、雲の模様が見える瞬間を、今か今かと待っているのだけれど………。
 あの部屋に、明かりが灯らなくなって久しい。強風に煽られて、電線が揺れている。
それでも私は、見ずにはいられない。そのあと鏡に向かい、黒いペンシルでホクロを描く。それから微笑んで、ゆっくりと、頷き続ける。


16

クリスマスは陽菜と一緒に過ごしたが、正月は私一人で迎える。大晦日から正月の三が日にかけては、陽菜はパパと、ディズニーランドでお泊りをすることになっている。
本当なら、正月くらいは実家に帰って、これまでいろいろと両親に心配をかけた分も、親孝行したいと考えたりもする。
けれど、私一人で里帰りなんかをすると、きっと近所の人に見つかって、
「あら、旦那さんと、子どもさんは?」
 などと訊かれたりして、却って父母に、肩の凝る思いをさせかねない。
 お正月は、どうしようか。どこかのツアーに紛れ込んで、温泉にでも行くか。私一人なら、空席もキャンセル待ちも、ゲットしやすいはずだ。須藤さんや美加子の目もある。せっかくみずほさんの話題で盛り上がっているのだし、そこに水を差すこともないだろう。
 今、陽菜は塾に行っている。
冬休みに入って、陽菜といる時間が長くなった。
煩わしい、と思うことのある反面、陽菜と離れると、どうしようもなく淋しい自分が顔を出す。取り留めのないことを考えてしまう。挙句の果てに、マイナス思考に陥って、結局、何をしていいのか分からなくなる。 
気分転換のつもりで、ハローワークへ行ってみた。暮れも押し詰まっているのに、職を探す人の多いことには、驚いてしまった。
重い熱気に気落ちをして、ハローワークを後にした。
知らず知らずの間に、自信を失っている。
あんな美加子に、私が頼っている。
陽菜は、パパのいない生活を、不自然だとは思わないのだろうか。それとなく感じ取って、いい子にしているのだろうか。子どもなりに気を遣って、おとなしくしてくれているのかもしれない。
 母親失格、という言葉が頭に浮かんでくる。
自分の判断が、何もかもが、間違っていたような気がしてならない。これまで、当たり前に過ぎてきた時間に、私だけ、いつの間にか取り残されてしまっている。 
年末の商店街が気忙しいのは、つまらないこの一年に、早くおさらばしたいからなのか、それとも、今年の上に積み重なる来年への期待から、だろうか。 
だとしたら、積み重ねるものを見失った私は、どうすれば……………。
よほど暗い顔をしていたのだろう。
「陽菜ちゃんのママ、ですよねえ。よく似た、別の人に声を掛けちゃったのかと、一瞬、焦りましたよ」
にこやかなその男の顔を、ただ見上げていたら、
「この間は、息子の櫂がお世話になりました」
 と言う。
「自治会のクリスマス会、いろいろと大変だったでしょう? プレゼント交換で、ウチの櫂が、陽菜ちゃんからのを頂けたみたいで、とても喜んでいました」
話を呑み込み呑み込みしながら、私はやっと現実に戻った。年末の慌ただしい人込みの中で、私はみずほさんの旦那さんと、立ち話をしているのだった。
「いえいえ、とんでもないです」
 差し障りのない、子供の話に終始しながら、櫂クンのおとうさんの表情が、意外とすっきりとしているのには、少なからず、驚いてしまった。
みずほさんのうわさが流れてから、まだ二か月に満たない。その間私は、みずほさんはもちろんのこと、櫂クンや、櫂クンのおとうさんとは、顔を合わせなくてすむよう気を付けていた。
どんな顔をすればいいのか、分からないからである。
気の毒そうな顔になってもいけないし、その顔が崩れて、口の端が上がってしまったらどうしよう、と思うからである。
そして、今日の今日まで、そんなことを気にして生きてきたのは、わたしだけかもしれないと、気が付いた。
とおに、みんな、日常を取り戻している。いや、日常だけは、保ち続けている。私だけが、立ち止まったまま、沈んでいく………。
悔し涙が滲んできそうで、慌てて俯いた。
「どうかしましたか?」
若いツバメに妻を寝取られたと評判の、男の声がした。
「そんなこと、気にしなくっても、大丈夫ですよ」
 いつかそう言って、慰めて差し上げようと思っていたその人は、茶色い靴を履いていた………。   
「僕でよかったら……、僕はもうすぐ、いなくなります。勤務先に、移動願いを出していたんです。それが通りました。櫂に、ここでの、最後の楽しい思い出を作っていただいて、感謝しています。陽菜ちゃんにも、お礼を言いたいのですが……」
 その瞬間、私の手は、コートの深いポケットの中のケータイを握りしめていた。
 

17

ケータイの向こう側で、美加子が笑っている。奥様の高笑いである。この不景気なご時世に、あんな声で笑えるなんて、神様は一体、何を考えているのだろうか。
 美加子の笑い声が収まったところで、訊いてみた。
「鮎川さん、転勤するんですってね」
「そうそう、残念よねえ。急な話だったみたいで、……なんでも、今年中にマンションから出て行かないといけないなんて、びっくりしちゃうわよねえ」
「えっ、今年中?」 
「大変よねえ。みんな、突然のことで驚いているわよ」
 正月の、酒の肴にするはずのネタが、突然、全部、目の前から消えてしまうのが、「残念よねえ」、と聞こえてくる。
美加子のお気楽な奥様家業は、「大変よねえ」、と「残念よねえ」、で事が済んでしまう。
私の就職活動も、その類であるらしい。
 里奈ちゃんは、宿題をしていくようになったそうで、それで美加子の喜びようは、どうしようもないほど大袈裟で、
(たったこの程度で……)
 と思ったりもするけれど、それを一緒に喜んであげるフリをしなければならない自分の立場と、
(その程度だった美加子に上を行かれている私は何なんだ)
と自問自答しそうになって、あわてて答えを先送りにした。
里奈ちゃんは、バレエを習い始められたらしく、レオタードだの、バレエシューズだのと、美加子は、幸せのうつつをおっしゃるようになってしまっている。
 そうやって、今日が過ぎようとしていた。そうやって、今年が過ぎようとしていた。
気が付くと、時計の針は、七時半を回っている。
 私は、今日のノルマをこなさなければ眠れないだろう。
さあ、リビングへ行こう。カーテンに細い隙間を作るのだ。それから夜空を眺めながら、明日の天気を占わなければならない。星が輝いている。明日はきっと、晴れるだろう。  
そして、それからしばらくの間、私は明るくなるはずのない、あの部屋を眺めていた……………。
閉じたカーテンが、明るくなった。雲の模様がうっすらと、浮き上がった。
(まさか!)
何度、目を凝らしても、そのまさかに違いなかった。
私は小走りでキッチンへ向かい、冷蔵庫の中から、昨日焼いたフルーツケーキを取り出していた。
大晦日に、陽菜に持たせるつもりで焼き上げたものだ。
ケーキの生地に、ドライフルーツとカシューナッツと、ブランデーに漬けておいた干しブドウを混ぜ、アーモンドのスライスを、トッピングに飾り付けている。
これなら持ち運びに便利だし、日持ちもいいので、誕生会だの、PTAだの、行事があると、焼いてみんなに振舞っていた。
大人も子供も、陽菜も大好きである。
陽菜の大好きな、ママのお手製ケーキを持たせてディズニーランドの入り口付近へ行き、待ち合わせをしている元夫に陽菜を渡せば、今年が終了することになっている。
そのフルーツケーキを、用意しておいた紙袋の中に入れたとたん、     
「僕でよかったら……、陽菜ちゃんにも、お礼が言いたい………」
 櫂クンのおとうさんの声が、意味ありげに、どこかから聞こえてくるのだった。みずほさんを愛した男の声が、なま温かく、私の耳元で囁き始めていた。
私は陽菜の部屋を、そっと覗いた。
陽菜は今、シルバニアファミリーに夢中になっている。陽菜のクリスマスのプレゼントに、元夫が送ってきたものである。人差し指くらいのウサギの人形が、人間のように服を着て、二階建ての家の中で暮らしている。
陽菜の頭の中では、ウサギさんの、幸せな暮らしが続いているのだろう。
私はフルーツケーキを入れた紙袋を持って、外へ出た。年の瀬にふさわしい強い風に煽られながら、玄関のドアに鍵をそっと掛けた。買い忘れたものを、急いで買いに行くようなフリをして、私は歩き出していた。
通路には誰もいない。泥や砂さえ、吹き飛んでいる。風が掃き清めた道が、ぼんやり浮かんで見える。私の行くべき道を示している。私は風に煽られながら、前へ前へ、歩き続ける。背後から笑い声が聞こえて振り返ると、過ぎてしまった誰かの部屋の窓が、黄色く光っていた。
中庭を大股で横切りながら、A棟とB棟を交互に見上げていた。丁度今時分は、鍋でも突きながら、他人事を舌に乗せて笑う頃合である。幸せな人は、家の中から外を覗いたりはしないだろう。
明かりの灯った窓辺から、幸せの匂いが漂い始めている。幸せが逃げて行かないように、ドアも窓もカーテンも、閉めてしまうのかもしれない。
B棟のエレベーターの前に、私は一人、立っていた。上向き三角のボタンを押すと、すぐに反応し、エレベーターのドアの上の数字がカウントダウンするように動き出した。
ゆっくりと降りてくるエレベーターを待ちながら、なぜか胸は高鳴っていく。誰かに会えば、「櫂クンに、フルーツケーキを届けに行く」と言えばいい。
「陽菜が、お世話になったので……」
エレベーターのドアが開いた。がらんとした空間が、私を誘っている。私は誘いに乗って、静かに乗り込んだ。3のボタンを押す指が、少し震えていた。
エレベーターが昇り始めた。ここまで、誰とも会わなかった。エレベーターが三階で止まり、ドアが開いた。誰もいなかった。ひたひたと私の足音がして、いつも見下ろしていた306号室が近づいて来る。
足音が、ぴたりと止まった。
躊躇している場合ではない。私は呼び出しのチャイムを押した。
 私はどうしても、櫂クンの部屋に明かりを
灯した犯人を突き止めなければならない。
私には、雲のカーテンを浮き上がらせたの
は誰か、知る権利があるのだ。
 思ったより早く、ドアが開いた。
「こんばんは。寒いのに、コートも羽織らないで大丈夫ですか」
 櫂クンのおとうさんは、少し驚いた様子だった。私はフルーツケーキの入った紙袋を差し出して、
「フルーツケーキです。櫂クンと、食べてください。陽菜がお世話になりました」 
と言った。櫂クンのおとうさんはドアノブを押さえたまま、
「明日、引っ越しなんです。こちらから、ご挨拶に伺ったほうがいいかなあ、って思っていたところです」
 少し寂しそうな顔をしていた。
 私はしんとした部屋の中を覗いて、
「櫂クンは?」
 と訊いてみた。
「櫂は、実家に預けています。今、僕一人で、ここでの最後の打ち上げをしているところです。缶ビールと柿の種で、ですけど……」
 真面目な顔のままそう言うので、思わず私は、くすっと笑ってしまった。すると櫂クンのおとうさんの顔もほころんで、それから二人で、あはは、と笑い出した。
「付き合ってくださいよ。少しぐらい、大丈夫でしょう?」
「ウチに、陽菜がいるので……」
「戸締りくらい、してきたのでしょう?」
「……じゃあ、少しだけ」
雲のカーテンの、こちら側に誘われた。言われるままに、櫂クンの勉強机の前の椅子に、腰かけた。櫂クンのおとうさんは、キッチンからもう一つ、椅子を運んできた。
缶ビールを断ると、
「じゃあ、これでいいですか」
二リットル入りの、緑茶のペットボトルを持って来てくれた。櫂クンのおとうさんが嬉しそうに、
「とにかく、乾杯をしましょう」
 と言うのが、可笑しくてしかたなかった。 
緑茶入りの紙コップと、飲みかけの缶ビールで乾杯をした。
みずほさんはいなかった。みずほさんが、帰ってきたんじゃなかった。そのことにほっとして喜んでいる私がいた。たとえ、もし、帰って来るとしても、それは次の赴任先であろうことくらい、判っているのだけれど……。
ただそれを、私のこの眼で確かめたかったのだ。ただ、みずほさんが、毎日毎日積み上げてきたものが、消えてなくなった、その現場を見届けないと、私の気が収まらなかったのだ。
だから、ここに来た。
雲のカーテンを浮き上がらせたのは、櫂クンのおとうさんだった。缶ビールで口を湿らせながら、
「瑞穂とは、別れました」
 と言った。気の毒そうに俯きながら、私の胸の奥が、熱くなっていくのを感じていた。 
私は、この瞬間を待っていたような気がする。
「離婚届が送られてきましてね……」
 櫂クンのおとうさんは、いつの間にか声だけになって、櫂クンは、病気で亡くなった前妻の子供であること、みずほさんが、「死んだ人には勝てないって本当ね」と、溢していたこと、みずほさんは心身ともに疲れ切って、今は広島の実家に身を寄せていること、自分といることで、みずほさんには荷の重い人生を歩ませてしまったこと、みずほさんの若い時間を返すことはできないけれど、もう、開放してあげようと思ったこと、もう、それしかできないと………。
 静かな時が流れていった。それがふと、淀んで途切れた瞬間、
「実は、私も………」
 俯いたまま、口籠ると、
「別れているのでしょう?」
 驚いて、顔を上げると、今度は櫂クンのおとうさんが、俯いてしまった。
「そんなうわさを、聞いたことがあります……」
「…帰ります……」
 いたたまれなくなって、私が立ち上がると、櫂クンのおとうさんも立ち上がって、
「家族って、何でしょうね、愛情って、なんでしょうね、子供って、なんなのでしょうね?」
「………………」
 こんな時に突然、そんな残酷な質問をされても、私には、答える術がなかった。確かなことは、どうしようもない現実だけが横たわっている、ということだけで……。
「もう少し話しませんか? 話しましょうよ。いいじゃないですか。……ここでの、最後の夜なんです」
 雲のカーテンのこちら側は、悔いと後悔の霧に包まれていた。


18

大晦日に陽菜と別れた。陽菜はパパに手を引かれながら、ディズニーランドの人込みの中に紛れて、とうとう見えなくなった。その間、笑顔で二度振り返って、こちらに手を振った。
こうなることは、分かっていた。分かってはいたけれど、一人になるのが恐くて仕方がなかった。
それで、前もって、櫂クンのおとうさんと連絡を取り合っていた。 
ふられたもの同士が待ち合わせの場所へ行き、櫂クンのおとうさんの運転する車に、私が乗り込んだ。それから、櫂クンの待つ、鮎川さんの実家へと向かった。
途中、ラブホテルと呼ばれるところへ寄った。
鮎川さんと抱き合いながら、みずほさんも、ここで、こんな風にしたのかしら、と思ったりもした。
それでもいい。これが最後の恋だ。
鮎川さんの実家に、櫂クンがいた。私の姿が見えると、手を振りながら駆け寄ってきて、うれしそうに私の手を取った。比枝神社の市が立った時、毒リンゴに見立てたリンゴ飴を握らせたその手で私の手を握り、まるでお嫁さんの手引きでもするように、とうとう、私を仏壇の前に座らせてしまった。
 櫂クンは仏壇の前で小さな手を合わせ、
「ねえ、おかあさん、今度のママは、おいしいケーキを焼いてくれるんだよ」
 と、嬉しそうに言うのだった。
「あ、いや、『陽菜ちゃんのママが、おかあさんになってくれるといいね』って、櫂と話しをしたことがあって……櫂も淋しいらしくて……」
 櫂クンのおとうさんが、ちょっと照れ臭そうに、そう話した。
 部屋のあちらこちらには、見たことのない女の人の写真が、飾られてあった。
 その人は、櫂クンによく似ていた。
 櫂クンは、多分、その人のことを、「おかあさん」と呼び、みずほさんのことを、「ママ」と呼んでいたのだろう。
そして私のことを、さっき、わざとらしく、「今度のママ」と呼んだ。
 もしそうなると、陽菜は元夫を「パパ」と呼び、新しいパパを、「おとうさん」と呼ぶことになるのかもしれない。
それでもいい……。 
 純粋な愛情よりも、生きようとする本能は、計算高いのだろう。
「あっ、雪だ」
 櫂クンが叫び、私の手を取って、外へ駆け出した。私は導かれるまま、
「本当ね、雪ね」
 と返事をした。 
ゆっくりと舞い降りる雪のひとひらふたひらを眺めながら、酷く儚い、何のための存在かと、不思議に感じてしまう。そして、それを問うように空を見上げると、無数の灰色が、そのあとを追うように押し寄せてくる。
掌で受けると、じきに溶けて消えてしまうほどの存在が、それでも、重なり重なり、絶えることなく重なり続け、無数の点が、音もなく積み重なる時、すべてを覆い尽くし、何もかもを包み、全部が真っ白になって、その本当の姿を現すのだ。
……そうだ。
私はまだ、本当の決心がついてはいない。
慌てることはないのだ。陽菜の顔を見て、もう一度よく考えてみよう。今の私に、何ができるか。今の私なら、何ができるのか。これからの私に、できることは何なのか………。
……そうだ。
私も実家に帰ろう。久しぶりに、父や母の顔を見に行こう。子供の頃のように、肩をたたきながら、罪のない世間話をして、笑ってみよう。そこからやり直そう。近所の人に何かを訊かれたら、何も言わずに頷けばいい。ゆったりと、みずほさんのように……。
この先何があっても、たとえ私がターゲットにされても、私は私に正直になって、本当の私の姿を見つけながら、ゆっくり進んで行けばいい。自らが望んだ苦労なら、乗り越えられると言うではないか………。
……そうだ。
私は雪になろう。雪のように生きて行こう。
理由もなく、この世に生まれてきたのではないのだから。こんなに冷たい雪を、天上から降らせ続ける神様の意味を、今、見つけたような気がする。
今日は大晦日だ。昨日までの私を、降りつづける細やかな白い雪が、覆い尽くしてくれるだろう。
                 (了)

ターゲット

ターゲット

紗織は、夫と別れて一人娘の陽菜と暮らしている。同じアパートの隣の棟に住んでいる、鮎川瑞穂が幸せそうなのが、気に入らない。 瑞穂が子育て上手なので、毎日の積み重ねが、行く末の幸せの格差となって広がっていくように感じてしまう。高校まで同級生だった美加子も幸せそうだ。地方公務員の夫を持ち、悠々自適の生活を送っている。紗織は、瑞穂を嫉妬しながらも、どこか憧れを抱いている。幸せに見えた瑞穂が後妻だったことが分かる。 紗織は、不倫の果てに、離婚をした。良妻賢母を絵にかいたような、瑞穂に嫉妬しながらも、どこか憧れを抱いている。幸せそうな瑞穂が、実は後妻で、苦労の果てに、夫と離婚をする。紗織は、瑞穂の夫と愛し合う。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-14

Copyrighted
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