1          

たくさんの知らない足が歩いていました。どの足も当然のように靴を履き、どこかへと、進んで行くのでした。
(…妙だな……)
私の歩調はだんだん緩くなって、やがて止まってしまいました。なにげなく振り返ると、不可思議な行列が、こちらに向かって流れて来るのです。彼らは障害物となって動かない私を迷惑そうにちらっと見ると、まるで反発する磁石のように、一定の間隔を保ったまま私の両側を行進して行きました。
行列が行ってしまうと、私は視線を上の方に向けて、見覚えのあるビルや看板はないか、探しました。
しかし、どこにもそれらしいものは見当たらないのでした。
(…弱ったなあ……)
と思いながら視線を落としていくと、目の前に、顔がありました。一瞬ぎょっとしましたが、すぐにその人が、いつものバス停で、バスを待っている人たちの中の一人だと、気づきました。
どうやら私は、バスを待つ列の中途で後ろ向きに突っ立っているみたいです。
私はちょっと笑みを浮かべ、私の次に並んだようになってしまった人に、小さい会釈をしてみせました。けれども、その人はいつもの顔で、私の顔を黙って見ているだけでしたが、ちょうどその時ドアの開く音がして、いつものバスが、いつもどうりに到着しているのでした。
すると、その人は運動会の出番を待つ小学生みたいに先頭の位置を確かめ、私も含めて整列し直すような動きをし、それからまっすぐ前を、つまりまっすぐこちらを向いて立っているのでした。そうして順番が来ると、突っ立ったまま向きを変えようとしない私に、愛想もこそも尽きたという顔をして、いつもと同じように、順序良く、無言のままバスに乗り込む人たちに続いて行きました。
私は列を離れ、歩き出そうとして驚きました。
先程の、私が突っ立っていた所は、その列のほんの始まりのほうで、その後ろには、たくさんの人たちが続いていたからです。
……たとえ私一人だけでもその列からいなくなるということは、もしかしたら、小さな気休めにさえなりそうなものなのに、そのバスに乗り込むために動き出した列の、擦れ違う誰もかれもが、忌々しげに、私を睨みつけているのでした。私はどうしても、その理由を見つけることはできませんでしたが……。
私はその列から視線を外すと、まるで何事も起こらない一日の始まりのように、ゆっくりと、歩き始めました。ドアの閉まる音がして、バスが動きだしたのでしょう、エンジンの音が遠ざかって行きます。しばらくすると、遠ざかったはずのエンジンの音がだんだん大きくなって、私を追いかけ、追い越して行きました。バスの窓から、五、六人が、バスに乗らなかった私を責めるような目で、じっと見ているのでした。
私の目の中の交差点を、バスはゆっくり右に曲がって行きました。それから、二、三台の乗用車が続きました。一列に並んだ街路樹が、静かにまっすぐ続いています……。
いつもと同じ風景を確認して、私はもう一度視線を上の方に向け、注意しながら、見覚えのあるビルや看板はないか、探しながら、ぐるっと、一回転しました。
「大丈夫ですか」
 誰かの声がします。私は、何か返事をしようとしましたが、できませんでした。ただ頭を抱え、目をきつく閉じ、歯を食いしばり、うずくまっているのでした。私の背中を、誰かが支えているようでした。
「大丈夫ですか」
 と、もう一度確認するような、声が聞こえてきました。
少し体を起こしてから、そっと目を開けると、私の顔を心配げに覗き込む男の顔がありました。私はしばらくその顔を、ぼんやり眺めていました。すると、『大丈夫』、という言葉が気に掛かり始め、
(何が、『大丈夫』、なんだろう)
 と、腹立たしく感じました。
けれども、男の目は初めて会ったとは思えないほど慈愛に満ちていて、私はどうしようもないほど懐かしい気持ちに襲われ、逆に、
「あ、大丈夫です、すみません」
 と、極めて事務的な返事を返すのでした。
「あそこにベンチがあります。少し休んだほうがいいですよ」
 男が指を差しました。
(こんな所にベンチがあったなんて、今まで気づかなかったな)
 そう思った時には、男の両手が私の脇腹と二の腕を鷲掴みにして、つまり、私はこの男に抱きかかえられながら、ベンチへと、歩いているのでした。
 なぜか私は悪意を感じ、二度三度、体をひねり振り払おうとしましたが、実際は、よろよろとおぼつかない足取りに却って体重を男に預け、二人して、尻餅をつくようにベンチに腰かけたのでした。そうして、三半規管が転げているような頭を抱え、自分の呻き声を聞きながら、言いようのない後悔の念が、腹の底から湧き上って来るのを感じました。
「大丈夫ですか」
 男はまた、そう言いました。
(これで三度目だな)
 と私は思いましたが、なぜそんなことが気に掛かるのか、自分でもよく分かりませんでした。
 それから、どのくらいが過ぎたのでしょう……。
 小さな風が吹いて来て、首筋に滲んだ汗を冷やしていきました。
 私はようやく頭痛と眩暈から解放され、それを見届けた男はほっとした様子で、
「大丈夫ですか」
 と言いました。
「ええ」
 と答えながら、私は、なおも私の目の中の真実を見極めようとする男の深い眼差しに、
「もう大丈夫ですから、ありがとうございました」
 そう続けても、男はそこから動きそうもなく、ただ微笑んでいるのでした。
私はベンチから立ち上がり、軽く会釈をして、歩き出しました。すると、
「どこかへお出かけですか」
 男の声が追いかけてきました。私は振り返り、
「はい、会社へ行かないと……」
 そう言って、すぐそこに落ちていた鞄を拾い上げ、埃をはたいて、いつものようにアスファルトの道を、足早に歩いて行くのでした。
 さっきのバスが走って行った道路を、真っ赤なスポーツカーが、粉塵を舞い上がらせて進んで行きます。それは、何かの合図のように見えました。着飾った女性が四、五人、楽しげに笑いながら私と擦れ違って行きました。
ほんの数分休んだだけなのに、なんだか違う空間に取り残されたような、私の吸い込む空気の色がいつもと違っているような、それから何とは無しにですが、空が、妙に近くに感じるのです。じっと見ていると、だんだん切なくなって、このまま吸い込まれてしまっても、かまわないような気持ちになりました。
(……私は一体、こんな所で何をしているのだろう)
 ふと、そんなふうに思いました。そういう考えが浮かんできたのは、生まれて初めてでした。
 私は初めて見るように、空を見上げました。
 青い空に白い雲が進んでいます。白い雲が端の方から形を変えていきます。それは生きものが仕方なく進化していく姿に見えました。 
上空は、私の想像を超えたスピードで風が流れて行くようです。
 鋭い足音を響かせて、紺のスーツを着た男性が、私のすぐ傍を追い抜いて行きました。その後ろから、別の足音が、大勢で押し寄せてくるのが分かりました。みんな同じ駅に向かって行くのです。
 すぐに私もその彼らと一緒になって、同じ方向へ歩いて行きました。

 駅の改札を通り抜けると、もう電車はホームに止まっていて、私が乗り込むのを待っていたかのように動き出しました。運良く、入り口のすぐ横の席が空いていたので、あわてて腰かけました。いつもは身動きの取れない鮨詰め状態なのに、拍子抜けでした。それから、なんだか得をしたような気分になりました。
車内を見回すと、人々は適当な間隔を取りながら、ざっと腰かけています。
(読みかけの本でも持って来たら良かったな。
あしたからは、いつもより五、六分遅れの、これに乗ることにしよう)
 と思いました。音もなく揺れている吊り革だけが、生きているように見えました。
「切符を拝見します」
 車掌の声です。
 私は上着のポケットに手を入れると定期券を取り出しました。まるでからくり人形のようでした。
 なのに、車掌は無愛想にもその定期券など見向きもせず、面倒な顔で、
「今日はどちらまでお越しですか」
 と訊くのです。
「会社へ行くんですよ、それがどうかしましたか」
 と、私は訊き返しました。
すると車掌は、急にすがすがしい笑顔になって、
「いえ、別に…。それじゃあ、お気をつけて」
 と言うのです。それからもう一度、お手本のような笑顔を作ると行ってしまいました。
 私は車掌の、その何か言い足りなげな様子にどこか不自然を感じましたが、初めて見る車掌に、それ以上何かを尋ねる気にもなりません。それで、黙って車掌の後ろ姿を見送りました。
 やがて電車は緩やかに減速し、私は吊り革と同じように体を揺らし、傾け、そして止まりました。
ドアが開くと人々は列を作り、私も立ち上がって加わり、列に従い、静かに進んで行きました。
電車を降りるとすぐ目の前に、《草原の花駅》と大きく書いてありました。
(確か、この駅で降りるので良かったのかなあ)
 とか、
(いつかどこかで聞いた駅の名前に似ているんだけど、一体それは、なんて名前だったっけ……)
 とか思ったりして、ぼんやり、立ち止まりそうになりました。するとその時ドアの閉まる音がして、私は驚いて振り返り、ぴったり閉まったドアに向かって何か叫びたいような衝動に駆られました。
 私の目の前を、ゆっくりと、ドアが動き始めました。電車が走り始めたのです。
私はなんとなく、定期券に目をやりました。
 《終点駅から終点駅まで》と印刷してありました。
「またの御乗車、お待ちしておりまーす」
 さっきの車掌の声と顔とが、通り過ぎて行きました。
 走って行く電車の一番最後の窓から、さっきの車掌が、楽しそうに微笑みながらさようならの手を振っているのが見えました。
私はあわてて走り出しました。電車を追いかけました。どうしてもあの車掌に、
(何かを訊かなければ……)
 と思ったからです。
 血相を変えてホームを走る私に、その車掌は退屈そうにあくびを一つして、それから電車はすぐに見えなくなりました。
 私はそれでもしばらくの間、走り続けていましたが、とうとう諦めて止まってしまいました。
「どうかしましたか。何か忘れ物でしょうか」
 駅員が尋ねました。駅員はぴったり、私の目前に立っているのです。まるで私が、今、この位置に止まることを、知っていたかのようでした。  
私は不思議に感じましたが、できるだけ冷静を装って、
「いえ、別に、何も」
 と答えました。
「じゃあ、なぜ走ったりしたのです?」
 駅員の声は、なぜか怒りを含んでいました。それから駅員は親切そうにも見えましたが、
とても困っているようにも見えました。
 そして、
「おうい」
 と呼ばれて振り返ると、手招きする年長の駅員に促されて、仕方なく切符売り場の方に消えて行きました。
 三番ホームに到着した電車から、大勢の人たちが流れ出してきました。彼らは申し合わせたように合流し、改札を抜け、白いアーケードのある商店街へと行進するのです。気が付くと、私もその中の一人でした。
 そうして、
(私も行かなくちゃ、行かなければならないんだ)
 と思っているのでした。

「すみません、アンケートをお願いします。ちょっと、お時間よろしいですか」
白いアーケードのある商店街を行進する私に、女の声が言いました。いつの間にか私の傍らに、黄緑の蛍光色のパーカを着た女性がいるのでした。
「急いでいますから」
 と断ったのに、
「口頭で構いませんから、お願いします」
 と言いながら、付いて来るので仕方がありません。ちょっと振り返って、
「それじゃあ、手短に…」
 と返事をしました。
「切符をお持ちでしょうか」
 赤い色の唇でそう言いました。すると私の口から、
「えっ」
 という音声が漏れると同時に、
『赤い靴を履いていた女の子が、どこか外国の紳士に連れられて、船に乗って行ってしまった』
という、古い歌を思い出しました。
私の目の中の海を、古い歌の中の二人を乗せた船がいつまでもいつまでも、確実に進んでいるはずなのに、水平線の彼方から消えてしまわず漂っているのでした。
(私も誰かに連れられて、あの船に乗って行きたいのになあ)
 そう思ってから、我に返ると、私は白いアーケードの下で突っ立ったまま、その女性の顔を、穴の開くほど見ているのでした。さらに驚くことには、その女性もまた怯むことなく大きな瞳で、じっと私を見詰め続けているのです。
 やがてその女性は悲しそうに言いました。と言うより、悲劇的に、と表現した方が正確かもしれません。
「それじゃあ、お持ちじゃないのですね……」
 その顔は青ざめ、真っ赤な唇が小刻みに震え、まるで、愛する人から突然別れを告げられたヒロイン、のようでした。
 そうしてその女性の切羽詰まった様子から、何かの異常を感じて、私は、ゆっくり歩き出しながら、
(どうにかして、この女性から離れなければ)
 と思い始めました。けれど私の横にはその女性がぴったり、くっついてでもいるようでした。
「お好きな色は……、それと、お好きな花の名は……」
 問い詰めるような口調でした。私はだんだん歩調を速めながら、
「シロ、スイセン」
 と言い放ちました。するとその女性は一瞬、驚いたように目を見開き立ち止まりました。が、すぐに私に追いついて、今度は落ち着いた声で、
「へえ、珍しいですね、水仙なんて。みなさん、大抵、薔薇とかおっしゃいますけれど」
 と言うのです。
「さあね、面倒くさいから、特に何かない限り、薔薇って答えておく、それだけじゃあ、ないのかなあ」
 そう言い終えると、私はその女性から逃げるように進みました。
(もう、いい、急ごう、朝っぱらから、何のアンケートだか知らないけれど)
 私には、デザインされた舗道の、足元を通り過ぎる模様の意味など分からないのと同じように、そのアンケートが何の為に行われていようとも、興味も、関心も、ありませんでした。
「それじゃあ、何か、特別な思い出でもあるのですね」
 ふいに聞こえてきた声に、私はびくっと、体を震わせました。
「『特に何かない限り、薔薇って答えておく』、そう、おっしゃいましたよねえ、……『特に何か』、あったのですか」
 ぞっとしました。私に憑りついた死神でも見るように、その女性を見ました。するとその女性は何かためらうように俯いて、しかしぴったり、私のすぐ横を歩いているのです。
「誰かに送ったことがあるとか、誰かがそれを好きだったとか……」
(くだらない妄想に付き合ってる場合じゃない)
私は行かなくてはならないのです。吐き捨てるように、
「別に」
 と言ってやりました。そうしたら、その女性は大声で、
「それじゃあ、なぜ、薔薇じゃなくて水仙なんですか」
 私はいい加減うんざりして、無視しようとしましたが、その女性は思い詰めたように私を見詰め、そうすると私は不思議な気持ちになって、その女性を見ているのです。
「お願い、思い出して!」
 しかし、私には、
(何のことだか……)
さっぱり、分からないのです。
 私が沈黙している間中、雑踏だけが生きもののように、彼らだけにしか理解できない符号のようなもので囁き合っているのでした。
「さあね、どうでもいい、そんなことなんか」
 そう答えると、今度こそ私は、その女性を無視して、どんどん進んで行きました。
 商店街の白いアーケードを抜け、青信号の短い横断歩道を渡ると、違う名前の商店街の白いアーケードが現れ、ふと振り返ると、短い横断歩道の向こう側で、その女性が立ち止まっているのが見えました。
 彼女は水仙の花を両腕一杯に抱きしめるように抱え、目に涙さえ浮かべているのでした。
 しばらくすると、信号は、青の点滅を繰り返し始め、私はなにか気になって、その女性の方をぼんやり眺めていました……。
 車が流れて行きます。
 その女性は、その道路を横切って、こちらに渡って来ることはないのでしょう。
 私は少し、ほっとすると、
(これ以上、ここで、その女性を待っているのも不自然だ)
と思い、行こうとすると、その女性は精一杯微笑んで、私に二度三度、手を振りながら何か叫びました。そして涙が膨れ上がり、頬を伝って行きました。
 ……不思議な光景でした。
 通り過ぎる自動車の隙間隙間に現れるその女性は、くるくる回せば動いているように見える、たくさんの、止まった絵の連続のように見えました。
(その女性は、『なぜ』、泣くのだろう)
分からないまま、私は歩き出しました。歩きながら、
(横断歩道の向こう側で、彼女の唇が、『なぜ』動いたのだろう)
と考えました。
 けれど考えれば考えるほど、答えが見つからないばかりか、『なぜ』という言葉が、いくつもいくつも浮かんでくるのでした。
(『なぜ』、彼女は水仙をあんなにたくさん抱えていたのだろう、『なぜ』、薔薇ではいけないんだろう、『なぜ』、私に質問したのだろう、『なぜ』、信号は青だったのだろう、『なぜ』、アンケート用紙も鉛筆も持っていなかったのだろう、『なぜ』、あんなに思い詰めたような目をしていたのだろう、それにしても、あんなにたくさんの水仙を、『なぜ』、一体どこで、いつのまに買ったのだろう……)
 白く長いアーケードの底に敷き詰められた模様が、意味を成さないまま足元を通り過ぎて行きました。そうして頭の中が、『なぜ』という言葉で一杯になって、入りきれない『なぜ』が、こぼれ落ちていくのでした。
 いつの間にか私は、
「『なぜ』、『なぜ』、『なぜ』、『なぜ』、……」
 と、歩く調子に合わせてつぶやいているのです。
「それは『なぜ』でしょう」
 誰かが私にそっと囁きました。
 たくさんの足音が私を支配し始めました。
 私はこのまま歩き続けて、どこかに行き着くのでしょうか。
 考えてみると人生なんてものは、生まれてから死ぬまでの足跡をたどるゲームのようなものかもしれません。そして私はそのことを、最初から知っていたような気がしました。それからどこかで風鈴が、ちりん、と鳴りました。
突然走り出した足音が、私の視界を掠めて消えて行きました。私は、その行方を見失って立ち止まり、辺りを見回しました。するともう一つの足音が、私の背中の方向から、そっと遠ざかって行くのです。
奇妙な気配が私を包んでいました。
(もう一人か、二人いる……。いや、もっとか……。誰かが私を見張っている、何の為に………?)
 私は心当たりを思い出せるだけ思い出そうとして混乱し、どうしようもなくなって、
(下手に逃げ隠れするよりも、人込みの中に紛れている方が安全だ)
と、思い付きました。
(それしかない)
 そう思ったとたん、『何か』が足元から語りかけてくる……、
「えっ、なんですか」
 私が訊き返すと、急に音量が上がって、
「靴を磨きましょうか」
 と言いました。そこには帽子を被った男が、うずくまっているのでした。
「少し休んで行きませんか。随分、汚れているじゃあ、ありませんか。あなたの靴を磨かせてください。料金は要りません。只でいいですよ、只で………」
 帽子の下から、無精髭を生やした顔をこちらに向けて、老人は微笑みました。
「いえね、あなたを見ていると、なんだか懐かしいような気持ちになりましてね、私に……見覚えはありませんか、どこかで、お会いしたような気がするのですが………」
(あいにく)
見たことすらありません。
 その上、この老人の、あまりに愛想が良いのと、親切そうに見えるその顔に刻まれた皺とが却って不気味で、
(さては、さっきの奴らの仲間だな……、こんな所にも潜んでいたのか)
 そう思って、
「さあ、似たような人はたくさんいますからね」
 私がそう答えると、その老人は、寂しそうな顔で笑うのでした。その表情に不思議を感じながら、ふと、
(そう言えば、昔、仲の良かった誰かに似ているような……、けれど、一体、それは誰だっけ?)
などと思ったりして、それから、そうして、とうとう、『他人の空似』、と言う言葉を思い出しました。
(もしかしたら、私は、ほかの誰かと間違われているのかもしれない、いや、そうに違いない)
 と考えました。
(その誤解を解くには、どうすればいいのだろう……)
「それよりも、あなたの靴を磨かせてください。すぐに綺麗になりますから……」
 そんなことは、どうでもいいのです。
けれどその老人は、何度何度も私に一生懸命頼み続け、そしてその間中、奇妙な気配が空気に混じ合いながら、少しずつ、私に近づいて来るのです。
私はもう一度、注意をしながら辺りを見回しました。
「こういう靴を履く人に、悪い人はいません。私には分かります。分かっているのです。だから磨かせてください。こんなに汚れてしまって……かわいそうに…」
 私はわざと、
「変な爺さんだなあ」
 と、つぶやいてみせました。
「変ですか……そうですか…」
 そう言ってから、ははは、と力なく笑うのでした。しかし私は注意を怠らず、辺りを窺いながら、人込みの中に紛れているに違いない誰かを、探そうとしました。
「こうやって、一日中靴ばかりを眺めているのもいいもんだ。みんな、人生という長い道のりを歩いてきた。一歩一歩、進んできた。がんばれ、負けるな!」
 老人は、拳を振り上げ、それから涙ぐみました。
「……靴を磨かせてください」
 老人は、まっすぐ私を見ました。けれど、何かの罠かもしれません。その声は無視して、
「もう、行かなくちゃ」
 私はそう言いました。
 すると老人は驚いたように立ち上がり、
「どこへ? どこへ行くんです? もう一度、私をよく見てください。本当に、見覚えはありませんか」
 目を見開いて、私を睨み付けました。その豹変ぶりに、もう一瞬たりとも、ここに止まるわけにはいかないのです。
私は歩き出しました。
「靴を磨かせてください」
 腹の底から絞り出すような声が追いかけてきます。
 私は、声を振り切るように歩いて行きました。

4    

(一体、何が、どうなっているのだろう)
 今日という日が始まったばかりなのに、なんともちぐはぐな、シャツを裏返しに着ているというか、他人の靴を履いて歩いているというか、とにかくその不自然な、その違和感から抜け出せないばかりか、どうやら私は、誰かに尾行されているようです。 
しかも、たぶん、それが人違いという勘違いでしょうから、その誤解が解けてしまうまでは、どうしようもありません。
 いかにすれば、『私はその人ではない』と、証明することが出来るのでしょうか。その人は、一体、どのような人なのでしょうか。それさえ分かれば、出来なくもない、ことなのかもしれません。……が、しかし、私はその誰かに、会ったこともなければ話したこともないのです。
(そう、いいえ、まさか!)
…そうです。決して、そうだとも言い切れないのでした。ありとあらゆる可能性を追求する必要があるのですから……。
 私は私の頭の中で、
(そうじゃない、そうじゃない、そうじゃない)
 と、繰り返しながら、私の知らないところで起こった何かと、何かを起こした自分そっくりな誰かに憤りを感じ、それから、念には念を入れて、
「人違いだ、人違いだ、人違いだ」
 と、唱えました。するとその時、
「切符を買ってください」
 誰かの声がしました。私はいらいらしながら、
「必要ない、必要ない、もう電車には乗らないのです」
 と、その誰かに返事をしてしまいました。
「なぜ乗らないのです?」
 私は、その声の主を睨みました。だって、せっかく入れようとした念に、念が入りきらないうちに、変なことを言われてしまったので、何が本当だか、分からなくなってしまったから……。
しかし、そこには両手に一本ずつ、杖を突いたお婆さんが立っていました。小柄な、腰の曲がった姿が哀れげで、とても気の毒でした。白内障に侵されたような目で私を見詰め、
「必要ない、必要ない」
 と、悲しそうにつぶやきました。
「ああ、あなたのことじゃありませんよ」
 あわてて言い訳をする私の言葉は届いていないようでした。
 お婆さんはもう一度、
「切符を買ってください」
 そう言って、二本の杖を一本ずつ両方の脇の下に挟んで掌を合わせ、私を一心に拝みました。が、次の瞬間、つい、その口元が緩んでしまったのか、そっと俯きながら、笑いを堪えているようでした。
(なるほど)
 疑問が解けると同時に、私はこのお婆さんを憎みました。
 哀れな姿で同情を引いて、私の心を思い通りに動かせよう……、そんなつもりなのでしょう。信心の無い、その合わさった掌を払ってしまいたい衝動さえ覚えました。が、
(こちらこそ欺いてやれ)
 と思ったので、私はわざとやさしく、
「私はこれから天竺へ、立派な経典を取りに行くのです。そこは電車なんか通じていません。だから、歩いて行くしかないのです。そこはとっても遠いのです。杖を突き突き、行ける所じゃありませんよ。お婆さんにはとても無理ですから、ここで待っていてください」
 と言ってやりました。
「行くところ……、あんたの行くところ…、私は、私は、私も……いっしょに連れて行って下さい」
 お婆さんは、私に両方の手を差し出し、よろめいた、ついでにしがみ付こうとしたので、私は素早く後ずさりをしながら、
「切符は駅で買ってください。この道をまっすぐ行くと、駅があります。駅の自動券売機で買ってください。分からなければ、親切な駅員さんもいることだし、お金が無いのなら、交番にでも行けば? それじゃあ、お気をつけて」
 まるで早口言葉のようでした。 
そうして私は、さっさと前へ、歩いて行きました。
 商店街のあちらこちらから、シャッターの開く音が聞こえてきます。腕時計を見ると、四時十八分の所で止まっているのでした。
(電池切れかな)
 と思いながら、なんとなく振り返ると、さっきのお婆さんが、心細げな顔をして、まだ、こっちを見ているので、
(そのうち諦めてどこかへ行くのだろう)
 と思った瞬間、前方から近づいてきた足音が、私の鞄をむしり取って遠ざかって行きました。私は、
「あっ」
 と叫んで、すぐさま追いかけました。
私の鞄を小脇に抱えて、見知らぬ男が走って行きます。男の走るスピードは、ぐんぐん速くなっていくようです。到底捕まえるのは無理な距離にありました。もうすぐこの目の中の男を見失い、気力も失せ、走るのを止め、地べたに座り込む自分の姿を想像しました。
 そら、男が角を曲がり、姿を消しました。きっと、私がそこへ到達する頃にはもう二
つか三つ角を曲がったあとで、その男は、私
から永遠に姿を消すことでしょう。
 私は覚悟を決めて、その角まで走り、男が曲がって行った方向を見ました。すると男は思ったほど遠くではなく、振り返った顔が私の姿を確認すると、恐ろしく驚いたような表情になって、それから何かに躓きバランスを崩しました。が、すぐに体勢を建て直し、人込みの中を、ひょい、ひょい、と進んで行くのでした。
 私は大声で、
「泥棒! 誰かその男を捕まえて」
 と叫びましたが、そう叫んだことが、最悪でした。私の思いとは裏腹に、人々はその男に協力するかのように道を開け、スプリンターのごとく駆け抜けていく男の後ろ姿がどんどん遠のいて行きました。今度こそ、見失うかと諦めかけた時、警官の黒い制服が、小さくその向こうに見えました。
「おおい、その男を止めて、引ったくりだ、その鞄を取り返して」
 私はそう叫んだつもりでしたが、誰にも、私の耳にさえ、そういうふうには聞こえません。ただ喉がからからになって、肺が張り裂けそうに熱く、膝から崩れるように、私は倒れていくのでした。微かに開いた目で男の行方を半ば諦めながら追うと、何か異常に気がついたのか、遠くに見える警官が、その男と格闘を始めているではありませんか。ついには、観念したように項垂れる男の姿が見えました。
 私はよろよろと立ち上がり、苦しそうに喘ぎながら、とぼとぼと、そちらに向かって歩き出しました。なぜか、警官とその男はじっとしているので、私が少しずつ近づいて、とうとうそこに到達し、不思議そうな顔で、ただ私を見ているだけの二人に、
「……鞄を返してください」
 やっとのことで私が言うと、二人は顔を見合わせて、にっこりしました。
「お話は、ゆっくり、お聞きしましょう」
 警官は、はっきりとすみやかにそう言って、目をやったすぐそこに、交番がありました。

「それで、自首をするのだね?」
 灰色の空間に、警官の陰湿な表情が浮かんでいました。私は当然のようにそれを確認し、その男が何と答えるのか、しばらくの間、待ちました。スチール机の端には私の鞄が置いてあり、机の向こうには警官が、こちらには私とその男が並んでパイプ椅子に腰かけているのでした。
「なぜ、黙っているのかね?」
 私の顔を正面から見据えて、警官は続けました。
「黙秘する権利は、もちろん君にもある」
 私は、なぜその質問が私に向けられているのか怪訝に感じながらも、もう一度、改めて、怒りに満ち満ちた目で、その男を睨み付けてやりました。けれどその男は、にやにやしながら私の顔を眺めてばかりいるのです。
「白状したまえ!」
 警官の怒号に、交番の窓がびりびりと震え、私は唖然としてその顔を見るのでした。
そこには警官の真っ赤な顔がありました。恐ろしく見開いた目は私を睨み、互いの鼻と鼻とが触れそうになるくらい、私にその顔を近づけ、怒りでぶるぶる全身を震わせています。
 私は何のことだか分からないまま、もう一度、その男を見ました。その男は薄ら笑いを浮かべて、
「あんた、自分の立場が分かってんのか、えっ?」
 と言って目くばせをして、それから私の後方を指差しました。とっさに私は、
(今のこの状況と、私の後方にある何かがどこかで関係しているのかもしれない)
 そう思って、振り返りました。
 そこには何枚もの写真が貼ってありました。そして、その中の一枚が、なぜか私にそっくり、なのでした。
「あっ!」
 と声を上げた私を、その男はせせら笑い、胸の内のポケットに手を入れ、警察手帳を取り出し、私の顔の前に垂らしたかと思うと、素早く元の内ポケットに仕舞い、両手で私の頭を鷲掴みにして、
「おら、ええかげんに白状せえ」
 と、耳元で怒鳴りました。私の頭を放そうとせず、立ち上がり、スチール机の上に押し付けました。
「これくらい、なんともないやろ。自分が何をしたか思い出したか。ほれ、思い出したか、思い出さんかい!」
 その男は私の髪を掴み、机に私の頭を何度も何度も叩きつけて叫びました。
「警官その②ぃとは、俺のことや」 
 がんがんする頭で、自分の立場をなんとか把握してみたものの、私の思考回路は止まったままで、どうしようもありませんでした。
「ご両親のことを、少しでも考えたことはあるのかね。逮捕状を突き付けられたのちに手錠を掛けられるよりも、さっさと自分から口を割った方が罪の軽いことを、もちろん君は知っているだろうね。償いをし、更生するために、我々は協力を惜しまないさ。世の中、まだまだ捨てたもんじゃない、そうだろう?」
 警官は、再び机に押し付けられた私の顔に、自分の顔を近づけ、セミの幼虫が作った穴でも覗き込むように、私の目の中を見るのでした。すると私はどうしてか、警官のその目の中に今すぐ吸い込まれてしまいたいような衝動に駆られました。そうして、
「ただ……」
 そう言ってから、何を言っていいのか分からなくなって、口籠りました。
警官その②は私の頭を放して、げらげら笑いながらパイプ椅子に腰かけ、腹をよじって笑っているうちに椅子から転げ落ち、それでも笑い続けました。
「ただ? ただどうしようと言うのかね、この上銀行強盗でもやらかして、高飛びでもしようと言うのかね。罪を増やせば罰も重くなる。そんな話を聞いたことがあるだろう?
ないのかね」
 警官は、閻魔大王のように私を見下ろしました。
それから、ぶつぶつ独り言を言うのです。
「……まったく、学校は何を教えているんだい? 屁理屈を覚え、言い訳ばかり上手になって、警察の手を煩わせるばかりじゃないか。人間、少々馬鹿の方が幸せだと思わんのかね。 第一に、身の程を超えた望みなど、適当に忘れてしまうだろう。分相応と言う言葉を知っているかね。第二に、この世の矛盾に苦しまなくて済む。どの道、最初から最後まで、この世は滅茶苦茶なのだから。第三に、雑草的免疫力に勝れている。……さて、君はどうしたいのかね」
「行かなくちゃ」
 そう言ったのは、私でした。次の瞬間、
「抵抗する気や」
 と、警官その②が叫び、顔色を変えて床から飛び起きました。すぐにでも、私に掴み掛りそうな勢いでした。構わず私は、目の前に見えた鞄に手を伸ばしました。当然、私の持ちものですから。
「その鞄を持って、どこへ行くつもりなのかね」
 私の目の中の警官が、親切そうな顔で問いました。
「会社へ行かなくちゃ」
 私が答えました。
すると警官と警官その②は顔を見合わせ、お互いの顔がそれほどおかしかったのか、ほとんど同時に吹きだし、声を上げて笑い始め、止まらなくなって、身悶えするように体をよじりながら、それでも笑い続けるのでした。
(何がそんなにおかしいのか……)
知りたいとも思いませんが、私はこれ以上、彼らと、訳の分からない問答を繰り返すつもりもありませんでした。
私は立ち上がり、鞄を持って、出て行こうと交番のドアを開けました。
ところが私の足は止まったまま、一向に動こうとしないのです。
「どうしたのかね、行くんだろ?」
 やさしい声でした。私の耳にはなぜだか懐かしく響いて、無防備にも、
「一体、どっちに行けばいいのでしょう」
と尋ねてしまいました。
「右へ行くか、左へ行くか、どの道、引き返すのは不可能じゃないのかね?」
(そうだ、それこそ不可能と言うものだ)
私はすぐさまそう思い、妙に納得して、右足で、踏み出そうとしました。
「アジトはそっちにあるのかね」
 鋭い声に思わず振り返ると、警官と警官その②が私の背中に飛びつくようにして私を取り押さえ、羽交い絞めにして、無理やりさっきのパイプ椅子に私を座らせ、あっという間にロープで体を椅子ごとぐるぐる巻きに縛り付けてしまいました。
「質問は?」
 陰湿な声がしました。私は裏返しにされた芋虫のように体をよじりながら、
「何か、勘違いでもしているんじゃないですか」
 と叫びました。
「勘違い? わしがかね。君はわしを侮辱するのかね。君はわしが何年警官をやっているか、知っておるのかね。わしの勘が、狂うはずもない。わしが臭いと睨めばそれが犯人さ。……違うかい?」
「そんな馬鹿な」
 そう言ったかどうか、もう、私には分かりませんでした。全身が震えだし、顔が熱くなっていくのが分かりました。
「アジトはどこだね。本当のことを話してくれたら、君だけは助けてやろう。君は警察に協力してくれたのだからな。君に感謝状が贈られるだろう。すべてを秘密にするさ。そうすれば、君の将来にも傷がつかない。ご両親や学校や社会にもばれないさ。どうだい…?」
 好意的なほほ笑みを浮かべて、二人は私を見ました。
 けれど、それがなんの役に立つと言うのでしょう。
「私は……」
 と言いかけると、
「ああ、そうか。分かった。それならそうと早く言ってくれれば、…つまり君は、派手好きなんだ。有名になりたい、新聞やテレビや雑誌で賑やかに取り上げてもらいたい? 分かった、機動隊を呼んでやろう、それからテレビさんも。現場中継をしよう、他にリクエストはないかね」
「違う」
 と叫ぼうにも、声が出ませんでした。そのかわりに、私は、いつか見た夜店の金魚みたいに、ただ口をぱくぱくさせているのでした。そうして私は、自分の何がどうなってしまったのか分からなくて、一体どうすればいいのか、必死で、何かをどうにかするために、せめて、自分の力で自分自身をなんとかするために、自分で何かをどうにかしようとしましたが、何をどうしたらうまくいくのか、何がどうなっているからうまくいかないのか、皆目見当がつきませんでした。けれど、興奮のために自分の顔が真っ赤になっているのが、自分で分かりました。そして混乱のうちに、とうとう体の機能が失われてしまったのか、自分の体が、自分以外の誰かのもののように感じました。
「それじゃあ、訊くがね、君は何のために、あの通りを歩いていたのだね」
「会社へ行くために」
 正直な私の口が、勝手にしゃべりました。すると今度は真っ赤な顔をした警官が、怒鳴り声を上げました。
「わしをからかっているのかね」
 しかし、正直な私の口はしゃべり続けるのです。
「あの商店街を歩いていたら、突然鞄を引ったくられて、泥棒を追いかけて、捕まえてくれたと思ったら、交番で尋問を受けて、縄で縛られて、どうしてこんなことになるんだろう」
 すると警官は猜疑心を丸出しにしたような顔になって、あわてて私の耳に自分の唇を近づけ、
「まさか、君は爆弾など作ったりしないだろうね。まさか、わしに恨みでもあるんじゃなかろうね」
 と囁いたのでした。
「心当たりでもあるんですか」
 正直な口が口を出す前に、私が尋ねました。
警官は、ひどく動揺し、だからこそなおさら語気を強め、すべてを打ち払うように、言いました。
「もう一度チャンスを与えよう。君は、何のために、あの通りを歩いていたのだね」
 警官その②が、喜劇の芝居でも見ているような顔をして、この先の展開を楽しんでいました。
「会社へ行くために」
 私は警官の目をまっすぐに見て、そう答えました。
「素晴らしい言い逃れだ。質問を続けよう。……それからどうするつもり、だったのかね」
「仕事をするに、決まっているじゃあ、ありませんか」
 と、私は当たり前の返事をしましたが、それが自分の意志なのか、正直な口が勝手にしゃべったものか、それともその両方が同時になされたのか、もはや区別のつくものではありませんでした。
「どんな仕事だね」
「どんなって?」
「なんの仕事だね」
「なんのって?」
 その時、私の頭は空っぽでした。だから、何も言いませんでした。正直な私の口も黙っていました。それで私と警官は、しばらく顔を見合わせたまま、じっとしているのでした。
「……大体、その鞄の中には何が入っているのかね」
 警官は、床に落ちていた私の鞄を拾い上げて言いました。
「そもそも、これは君の持ち物なのかね。まさか、どこかで拾ったのではあるまいね……」
 警官は、辛抱強く、私の返答を待っているようでしたが、とうとう諦めたのか、その鞄を逆さまにして揺さぶり始めました。
 鞄の中身が、音を立てて床に落ちていきます。
石ころや牛乳びん、週刊誌、段ボールの切れ端、枯草、落ち葉、古い広告……。
「こんなものをどうするつもりだね。大事に抱えて、どこへ行くつもりだね」
観客である警官その②が、またげらげら笑い出し、ただ一人だけ、現実の世界で生きている人間のように見えました。
「……アジトはどこだね…」
 私は、顔を左右に振りました。けれど、警官は、ますます不信を募らせるばかりで、それにいくら頭を振っても、自分に関する記憶は真っ白のまま、何も分からないのでした。
「あの通りをまっすぐ行って、それから、右に曲がるのかね、それとも左に? すると、何という会社へ行き着くのかね」
「わからない、わからない」
 私はただただ、そう繰り返すばかりでした。
「道に迷ったのなら、教えるさ。そういう職務もあるからね。道を訊くのなら交番さ。地図もあるし、親切なお巡りさんもいることだし……、目的地はどこだね。さあ、言ってごらん?」
 私は、首を左右に振りながら、
「わからない、わからない、わからない、わからない」
 と、壊れたおもちゃのように言うのでした。
だって、本当に、なにもかも分からなくなってしまったのですから……。
 私の様子をじっと見ていた警官は、注意深く言葉を選びながら、
「ほう、……それでは信じてやろう。その代わりと言っては何だが、別の質問に答えてもらうことにしよう、いいかい? 君は、どこの、誰、なんだね?」
とてもやさしい声でした。
「どこの、だれ」
と、すぐさま私は返事をしましたが、まるで意味の分からない外国語をしゃべっているようでした。警官は、困り果てたような顔をして、
「つまり、君の、住所と氏名を、尋ねているのだがね……」
 私は真っ白な壁でも見るように、警官を見上げました。
「自分の名前も分からないような者が、街の中をうろうろしちゃいかん、……分かるね」
「わからない、わからない」
「なんだと!」
 背中にびりびりっと、電気が走りました。私はなにかに怯えながらも必死に、訴えるしかありません。
「私ハ一体誰ナンダ? ナゼコンナ事ニ? 記憶ガ全部無クナッテイル、ドウシテ?」
 く、く、く、と笑いを噛み殺して、警官その②が、
「『わからない』のと違うやろ? 分かりたく、ないんや、そうやろ」
 と言いました。嘲るようなその顔を、私は、茫然と眺めているだけでした。今度は親切そうに笑った顔の警官が、そっと私に言うのです。
「君の行きたがっている場所に連れて行ってあげよう。そこに行けばすべてが解決する。名前も住所も分かるようにしてあげるよ。さあ、恐がらなくてもいいんだ」
 そう言い終わらないうちに、二人は椅子ごと私を持ち上げようとしました。私をどこかへ連れ去るつもりです。私は大声で喚き、まるで蓑虫が火に炙られたように、もがきました。
「静かにしろ……、これ以上手荒な真似をさせないでくれ、おとなしくして、…これが見えないのか………」
 何かが爆発したような音がしました。警官の手に握られているピストルから、白い煙が、微かに揺れています。我が目を疑いながら、私は、
「たすけて、たすけて」
 と、うわ言のように繰り返しているのでした。いつ流れ出したのか、涙が首筋を伝い、胸の方に下りていく感触だけが、冷たく残りました。
警官の血走った目が、もう一度、私の目の中を覗き込みました。そうして警官の恐ろしく押し殺した声に、私の鼓膜は震えるばかりです。
「……切符を、持っておるのかね」
 私のすすり泣く声が、遠くから聞こえてきました。私の目の中一杯に、警官の顔がありました。喉の奥が擦り剝けたようにひりひりしてひくひく動き、しゃくりあげているのは、私でした。
 警官は、私の様子をしばらくの間、観察していましたが、やがて静かに言いました。
「分かった。そうか、分かった、大丈夫だ……、君を撃ったりしない、大丈夫だ」
 警官は、自分自身を納得させるように、何度も何度も大きく頷いてから、急いで机の引き出しを開け、中から電話機を取り出し、誰かと話し始めました。
「ああ、わしだ、例の件だがね、ああ、そう、そう、そう、ん、ん、ん、分かった。なるほど、そうだ。やはり、わしの推理は正しい。そう、そう、そう、ふん、ふん、ふん、なるほど。分かった、完璧だ!」
 そう言い終わると、電話機を机の引き出しに放り込みました。そうして、私の方を威厳の籠った眼差しで見据え、
「君の保護者がすぐに来る、安心したまえ」
 と言い終わらないうちに、交番のドアが開きました。

「ごめんください、あの……」
「お待ちしておりました、ご家族の方ですな」
「母でございます。本当に、申し訳ございません……」
「どうぞ、お掛けください」
 二つの声が、交互に穏やかに響きました。
「えっ?」
 と別の声がして、それは私の頭の中から聞こえました。
私は、涙に濡れた目を見開き瞳孔を広がるだけ広げて、ぐにゃぐにゃに歪んだ視界の中で動くもの、
「母でございます」
 と言った声の持ち主が、一体何を意味するものか、突き止めようとしました。けれども、人間が水中から水上にある何かを確かめようとしても、その正体が掴みきれないのと同じように、その動く物体が、なんのためにあるのか、よく分かりませんでした。私は今日ほど水中めがねの素晴らしさに気づいたことはありません。
 母と名乗る人は、灰色のパイプ椅子にそっと腰かけ、警官の顔を、慎ましやかに見詰めているようでした。
「実はですね、その、言いにくいことなのですが、その、切符を……、持っていないようなのです」
「切符を! それじゃあ……」
 警官は、声を落としました。
「そうなんです。ご存知のことと思いますが、お気の毒です」
「そんな、そんなことって……」
 消え入るようにそう言うと、母と名乗る人は静かに私に近づいて、私の顔を心配げに見るのでした。そうして、今、まさに私の目の前にあって、私に語りかけようとしているのです。
 私は、
(水中めがねも掛けないで、お母さんのおなかの中でぷかぷか浮かんでいた赤ん坊が、初めて母親の顔を見ると、きっと、こんなふうじゃないのかなあ)
 と思いました。
「かわいそうに、かわいそうに、大丈夫、母さんが付いているわ。母さんは、いつでもあなたの味方よ」
 母さんの浮かんだ涙の中に、私の顔が、はっきりと映っているのが分かりました。私は、
(何か、変だな)
 と思いましたが、それがみるみる盛り上がって流れ出し、流れ続けて行きました。とうとうその頬を幾筋もの涙が伝い、落ちて行くのでした。私の口から、
「母さん」
 と小さい音声がこぼれ落ちましたが、まるで知らない誰かに話しかけているようでした。
「あなたは良い子だったわ。昔も今も愛しているわ。だから、だから、母さんには本当のことを話してちょうだい。必ず助けてあげる。誓ってもいいわ。……ねえ、なぜなの」
私の体をそっと抱きしめ、静かに問うのでした。私の髪をやさしく撫でながら、
「あなたを信じているわ」
 けれども、私は体中で違和感を覚えたばかりか、何か薄ら寒い感情に支配され始め、そうして、
(やっぱり水中めがねって、必要じゃないのかなあ)
 と思いました。それから、
「なぜって、何が」
 と訊きました。
「なぜ殺すの」
 私は耳を疑いました。
「なぜだね」
 けれども疑う余地はありませんでした。二人の顔が、二つとも、私を見下ろしているのです。
「殺人?」
 私の頭の中で、誰かがつぶやいたような声が聞こえました。警官その②が、笑いを必死に噛み殺しているのが、はっきり分かりました。私は首をねじって、もう一度、私にそっくりな写真を眺めました。
『指名手配殺人未遂容疑』
と大きく書かれたポスターに、無表情な、私の顔が写っているのでした。とっさに、
「私じゃない」
 と叫んで、私は反射的に立ち上がろうとしました。けれど次の瞬間、椅子ごと横倒しに倒れ、頬を床にしこたま打ち付けて、もがいているのでした。
 警官その②が踊り上がって喜び、散々笑い転げたあげく、
「ほんまに何から何まで手のかかる、よっこらしょ」
 と、椅子に縛られたままの私を椅子ごと起こし、
「人、騒がせるのが好きなんかい、これもパフォーマンスやろ、祭りや祭りや、わっしょいわっしょいや」
 と言いました。
 私の額から、血が流れているのが分かりました。一体、いつ、流れ出したのでしょう。
けれど、誰も気にしてはいませんでした。
私は屈辱と怒りに震えながら目を見開いて、誰もかれもを睨みつけましたが、視界が暗くなったり明るくなったりして……、どうやら、目の具合がおかしくなっているようです。
「正直に、真実だけを説明したまえ」
 警官は、声を荒げました。
「かわいそうにかわいそうに、誰もあなたを責めたりしないわ。ただ、真実を知りたいだけなの、本当の事を知りたいだけなの」
 黒い瞳が私を見詰めていました。
「おカァさん……」
私はそう、つぶやきました。
「話してくれるのね」
 すうっと怒りが消えていきました。私を柔らかく包む、瞳の奥の慈愛に満ちた光にうっとりしていると、私の体はすでに消えてしまって、遠い空をさ迷っているように思えました。
「なぜなの」
 やさしい声が聞こえました。私の唇が、ぴくっ、と動きました。何かを言おうとしました。けれど、ただ真っ白な空間が浮かんでくるだけで、そこには何もないのでした。
 黒い瞳が私を見詰めていました。私の言葉を辛抱強く待ち続けていました。息を殺して、その時を、迎えるつもりでいるのです。
「あんたは一体、だれ?」
 耳を疑いました。そう言ったのは、私でした。
「あなたのカァさんよ」
 悲しそうな声でした。
「違う、あんたなんか、知らない」
 口が勝手に動いているのでしたが、それは私の口でした。
「何を言うの……だって、『おカァさん』って、あなた、さっき、言ったじゃない?」
「違う、違う、違う、違う、違う」
 私の口は動き続け、それに合わせて首も振りました。今度こそ、壊れるまで、私はやり遂げるのです。しばらくすると、頭ががんがんして気を失いそうになりましたが、それでも私は口を動かし続け、首を振り続けました。
「何が違うのかね。本当のことを話してくれさえすれば、それでいいんだ」
「知らない、何も、全部嘘だ」
 と今度はそこまで言うと、次は、
「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ」
 を、繰り返しました。首はそれまでと同じように、左右に振りました。
「嘘じゃない、犯人は君だ。あのビルの屋上から、あの人を突き落そうとしたのは、君だ」
 そう言い終わると、警官はしばらく黙って俯いていました。そうして、ぽつんと、警官のあの目と同じ所から大粒の涙がこぼれ落ち、すでに床で泣き崩れている母と名乗る人の背中を、やさしく撫でて行きました。
それから警官は、静かに言いました。
「なぜだね。本当の事を知りたいだけなんだよ」
(これは悪い夢なのだ)
 そう思った時、何かが私の目の中に入って来て……、
(たぶん、額から流れ落ちてきた血だ)
 と思いました。
 警官の、真剣な眼差しが、悲しげに変わっていきました。警官は、もう諦めて、
「答えられないみたいだね……、アリバイは、あるのかね」
私以外の誰もが薄ら笑いを浮かべていました。
「きのう、君は、どこで、なにを、していたのかね。きょうの朝食は、なにを、たべたのかね」
 ゆっくりと、小さな子供に話しかけるように、警官の口が動きました。私は当然言い返すつもりで、頭の中の言葉を探し回りました。
しかし、私の口から漏れた言葉は、
「ワカラナイ」
 という、意に反した、頼りのない五文字、だったのです。
 警官は、にやにやして付け加えました。
「それが君の答えなのかね。まったく、どこまで警察を侮辱しとるのかね」
 私はもう言葉が浮かんでこず、正直な口さえじっとしていましたので、私はただ、黙っているだけでした。警官は、続けて言いました。
「黙秘する権利は、もちろん君にもある。けれどわしにも捜査尋問する権利があるんだ。分かるかい、きみが犯人なんだろう?」
 私の口は、固く噤んだまま、首だけが左右に振れました。
「なにが違うのかね。忘れているだけじゃないのかね」
 そう言われると、そんな気がしました。
私は私であるのに、なぜか私のことは、丸っきり分からないのでした。その上私は、私が私であることを、面倒にさえ感じ始めているのでした。
(私が、他の誰かであってもかまわないのではないか、それのどこが悪い)
とさえ、思いました。そうしてだんだん頭痛が激しくなり、意識が遠のいていきました。
「切符は持っておるのかね……」
 警官の声が、遠くから聞こえました。
「一体、何のこと?」
 と私は叫んだつもりでしたが、私の声は、
「ううっ」
 と呻いただけでした。
「もうすぐ先生がいらっしゃるわ、そうすれば、何か思い出すかもしれない」
 母と名乗る人の声がしました。
 血が流れているのが分かりました。
(大量の血が流れているのに、誰も気にしていないのは、なぜ……)
薄れる意識の中で、私は考えました。
 静かになりました……。
誰かが、私の体に巻きついた縄を、ほどいているようです。灰色のパイプ椅子から私を引き剥がして、床に横たえました。直後にドアが開く音がして、
「呼びましたか」
 男の声がしました。
「え?」
 私が声を上げると、
「医者だよ。君はいつも、『ドクトル』、と呼んでいたよ」
 と返事をしました。
「先生、お願いします」
 誰かの声がします。
「どうした、顔色が良くない。具合が悪そうじゃないか」
「なぜ」
 と私の唇が動きました。
「何か質問でもあるのか」
 ドクトルは、私の目に懐中電灯の光を当て、私の目の中を覗きました。
「疑問があるなら早めに解決しておいた方がいい。言ってみなさい。私に分かることなら、何でも答えてあげよう」
「なぜ、ここへ来た……」
 そう言った自分の声が、まるで悪魔に憑りつかれた後の可憐な少女のものと同じように、野太いのが気に掛かりました。
「呼んだからさ」
 ドクトルは、あっさり言いました。
「誤解だよ。よくあることさ。他に質問は?」
 けれども、そんなことは、もう、どうでも良くなってしまいました。
それよりも、時計でした。ドクトルの頭の上に見えている、まん丸い壁に掛かった時計の、黒い針が、二本ともくるくる回っているのです。赤い秒針は、進んだり戻ったりして、適当な間隔で、時を刻んでいるのでした。音と動きがちぐはぐなのが、気に掛かりました。
「それでは、今度は私の質問に答えてくれるか」
 ドクトルは、静かに言いました。
「頭が痛くないか、血が出ている。どうしたんだ?」
 みんなが、私を見下ろしていました。みんな同じ顔に見えました。
私はもう、
(何もかもが、無駄だ……)
と思い、ただ横たわっているのでした。
 そうしてドクトルは、言うのです。
「君の行きたがっている所へ連れて行ってやろう。そこへ行けばすべてが解決する。名前も住所も分かるようにしてやるさ。さあ、恐がらなくてもいいんだ」
(さっき、誰かが言ったのと、同じセリフでしょう?)
 突然、私は金切り声を上げました。それに連動して、体がぶるぶる震え始めました。その振動に耐えられなくなったのか、私の体は滅茶苦茶に動きだし、その暴走を食い止めようと、彼らも必死で叫んでいました。
「いかん。なんてことだ」
「先生、助けてください」
「人工呼吸だ」
「無理だ、手術だ、救急車を呼べ」
「先生、体が溶けていきます」
「逃がすな、捕まえろ」
 たくさんの腕が絡み付いて縋り付きました。私はすべてを振り払い、無我夢中で暴れました。

「誰か! 誰か! 誰か! 誰か! 助けて!」
 私は悶え足掻きました。
「止まれ、行かないでくれ」
 泣き出しそうな顔の警官が叫びました。異様な気配が私を丸ごと包み、それのまま空中に放たれ、飛んで行きました。胸を掻き毟り、歪んだ顔の私が見えました。
「お願い、帰って来て」
 彼らの叫ぶ声が、遠くから聞こえて来ます。彼らは、空に向かって叫んでいるのです。
 けれども私はそこには居ず、草原の小道を走っているのでした。好き勝手に顔を出した石が茶色い土を蹴るたびごろごろと生まれてきて、何度も転びそうになりました。すうっと、風が通り抜けていきました。ぴったり付いて離れない靴音だけが、私の存在を示しているようでした。
 すでに誰かの声も聞こえなくなりました。それでも私は走れるだけ走って、しいんと
静まり返った世界の空の高さを確認し、迷路
のように続く石垣の横を伝い歩き、ようやく
止まりました。
 体中から汗が噴き出ていましたが、不思議と血は流れていませんでした。私は、
(案外、自分は丈夫な体を持っているんだな)
 と思いました。
 空にはとんびが、呑気に円を描いていました。
「どうしたのです?」
 私は体を震わせ、突然現れた声の主に身構えました。
 そこには黒い服を着た、神父が立っているのでした。神父の胸に、銀色の十字のペンダントが光っています。
「ああ、神父様……」
 呻くようにそう言ったとたん、体の力が、破れた風船のように抜けていくのが分かりました。そうして、何もかもが終わったのだと悟りました。私の息が苦しそうに、吐き出されたり吸い込まれたりしました。私の髪を、神父がやさしく撫でました。するとその指に私の血が、べったり、付いているではありませんか……。
「一体、これは、どうして……」
「そうです、それは私の血です。だから、もう、許してください」
 震えながらそれだけ言うと、私の目から大粒の涙が溢れて止まりませんでした。私は子供のように、泣きじゃくっているのです。私の嗚咽が、この世の果てのような静けさの中に、響き渡っていきました。神父の顔の向こう側に、澄んだ空が高くありました。
「迷える子羊、恐れるものは何もありません」
 私は最後の力を振り絞って、
「私は一体誰なんだ!」
 と、叫びました。
「あなたに、悪魔が囁いているのかもしれません。神のご加護を……」
 神父は澄んだ空を見上げ、十字を切って、祈りました。それから、
「ひどい怪我だ、手当てをしましよう、歩けますか。すぐそこが教会です。行きましょう」
 神父は、私の体を支えて歩き出しました。私はもう、立っているのが不可能なくらい弱っているのでした。
血が流れています。私の額から流れ落ちる血が、二人の足元を、涙のように濡らしました。
 細い道を曲がると教会がありました。教会の一番高い所から、十字架が、空に向かって伸びているのが見えました。私は、
(『あれ』だ)
と思いましたが、すぐに、
(なにが『あれ』なんだろう)
と思いました。
「さあ行きましょう。恐れるものは、何もありません」
 神父は再びそう言って、私を励ましました。私は一歩、また一歩と、教会に近づいて行きました。
 目を上げると、教会の厚い扉が私を見下ろしています。私を抱きかかえる腕に、神父はもう一度力を込め、私はぐったりと身も心も神父に預けて、扉が開くのを待ちました。
「大丈夫ですか」
 神父はそう言ってから、ゆっくりと、教会の扉を開けました。
白い光が私の体を包みました。白い光の針が、私の目の奥までを貫き、全体へと広がっていきました。
眩しい光が満ち溢れ、その中を、私は歩いているのでした。私を支える神父の肩に、私の長い腕が巻き付いていました。私たちは、ステンドグラスからこぼれ落ちる空からの光に導かれ、進んで行くのでした。どこかで、パイプオルガンの音が聞こえたような気がしました。十字架に掛けられた、メシヤの姿が美しく見えました。
(ああ、神様……)
 私はこれから天に召されようとする貧しい少年のように、床に倒れました。神父は私をあおむけに寝かせ、
「大丈夫です、すぐに良くなりますから、じっとして……」
 神父の掌が、私の額に置かれました。
 私は静かに目を閉じました。閉じた瞼の下から一筋の涙が頬を伝い、流れていきました。温かい光に見守られて、私の上に静寂が訪れようとしています。私は、
(すべてを神様に委ね、流れるままに流されよう)
と思いました。懺悔と言う言葉が浮かんできました。
「頭が痛くありませんか」
 と神父は問いましたが、それに答える代わりに、私は肺に空気を一杯吸い込んで、それからゆっくりと吐きました。
 もう、思い残すことは何もありません。
 私の声は細かく震えながら、
「こんなこと……信じていただけるかどうか……でも」
 それは、私の信じる私の声でした。私は、最後の言葉を言わなければならないのです。

「切符を持っていませんか」
 信じられない言葉でした。もっと信じられないのは、そう言った、自分自身でした。
「切符……、どこ行きの切符をお望みなのです?」
「どこでもいいのです。とにかく、どこかへ行き着きたいのです」
 そう言いながら私は、『草原の花駅』を滑るように走り出した電車を思い出していました。電車の一番最後の窓から、あの車掌が楽しそうにさようならの手を振っている光景も、浮かんできました。親切そうな駅員の、困った顔も覚えていました。
「どこかへ行き着きたいのですね」
 神父はやさしく問いました。私は目を閉じたまま、こっくり、頷きました。
「逃げてはなりません。逃げても、何の解決にもならないのです」
「けれど、私のポケットには、『終点駅から終点駅へ』と印刷された定期券しか入ってないのです」
 私が素直にそう返事をすると、
「これですか」
と、偶然私のポケットから滑り落ちたらしい定期券を、神父は逃さず、拾い上げたようでした。それから、
「あっ」
 と叫び、
「無期限、と書いてあるじゃあ、ありませんか」
 嘆かわしげな声と、深いため息とが漏れました。
そうして神父は、意を決したように、
「やはり、あなたは悪魔に憑りつかれているようです。すぐに悪魔祓いをしましょう」
「まさか、それに私は仏教徒です」
 あわてて私は言い返しました。
「仏教徒? なぜそれが分かるのです? 自分の名前も分からないのでしょう? それとも、何か思い出したとでも言うのですか」
 私は目を見開いて、
「なぜ、それを知っているのですか」
 と問いました。
 大声で、神父は笑い出しました。そうして、その問いに答える代わりに、私に掴みかかって、馬乗りになりました。
「仏教徒! いいでしょう。それならそれで、その法則に乗っ取って、悪魔を払ってあげましょう」
人間のものとは思えない、大きな圧力が、私の上に伸しかかりました。私を見下ろす神父の、恐ろしい顔がありました。私はもがき、転げながら、ついには神父を振り落して、立ち上がり、ステンドグラスの天使が招く窓に向かって走りました。
「おお、神よ」
床に転がる神父が叫びました。構わず、私はそこにあった椅子をその窓に投げつけ、聖母や天使たちがほほ笑みながら、大音響とともに崩れ落ちていった、破れた窓から脱出しました。
振り返ると、割れた聖母の胸の辺りから顔を出した神父が、
「逃げたぞぉ」
 と喚くのでした。
「逃がすな」
「追え」
「あっちだ」
「早く、早く、捕まえないと……」
「そっちへ行ったぞぉ」
 怒鳴り声が飛び交う中、両手を広げた警官が立ち塞がり、強引に突破すると、
「カァさんよ、愛しているわ」
 叫びながら、おカァさんが抱き付いてきました。警官その②が私の腰にしがみ付きました。私は体を振り回し、縋り付く腕や指を引き剥がして逃れ、すると、水仙の花を大量に抱えた女性が現れて、
「お願い、おとなしくして」
 と叫びました。私は水仙の花を奪い取って、放り投げました。
「ひどい、ひどいわ」
 と、泣き叫びながら、土の上に散らばってしまった水仙の花を拾い集めようとする、その女性の気違いじみた様子を尻目に、走り抜けました。再び私を見付けた警官が、張りつめた音で、大きく笛を吹きました。ひどい眩暈と耳鳴りに襲われ、よろめいた私を、
「大丈夫ですか」
 と、言いながら近づいてきた男が、私の背中を支え、そのまま羽交い絞めにして、
「靴を磨かせてください」
 と叫んで、飛び出してきた老人に足を取られ、私はバランスを失って、倒れました。
すぐ傍で、それを見ていた二本の杖を突いたお婆さんが、腰を伸ばして空を見上げ、高い声で笑いました。私は体をよじって手を伸ばし、その杖をもぎ取って、夢中で振り回し、誰もが怯んだその隙に、脱して、目の前に見える階段に向かって走りました。
「みんなグルだ!」
 私は力を振り絞って、階段を登りました。
私を追って、一人、また一人と、階段を駆け上がる靴音が聞こえて来ます。それにいつ集まったのか、紺の背広を着た人たちや、白いアーケードの中を歩いていた人たちや、三番ホームから流れ出した人々が、このビルを取り囲み、私を見上げ、指を差したり睨んだり、しているのでした。あのバス停で、私の後ろに並んでいた人も、その中に混じっているのを確認しました。
 この階段がどこに続いているのか、私には、見当もつきませんが、もう、登って行くしかありません。迫り来る靴音に怯えながら、上へ上へ、私は駆け登りました。
 扉が見えました。屋上へ抜けるドアのようです。
(どうやら、鬼ごっこは、もうすぐ終わるのでしょう?)
 けれども、ここで止まったところで、何の意味もありません。
 私は、行けるところまで行くつもりで、ドアを開けて、屋上に飛び出しました。

そこには柔らかい風が吹いていました。ふと、心が和むのは、なぜでしょうか……。
私は走るのを止めて、立ち止まり、空を見上げました。少し淋しそうに思えましたが、懐かしい空でした。それにもう、誰も私を追いかけて来ないのでした。
向こうの手すりから、こちらを見ている誰かがいました。私に気がついて、照れくさそうに笑いながら、左手を、ちょっと上げました。
私は、ここで、待ち合わせの約束でもしていたかのように、その人に近づいて行くのでした。  
すると、
「やっと、思い出してくれたんだ」
 君はそう言って、うれしそうに笑ってくれました。
(君を、どのくらい、待たせたろうか……)
なんて、考えても無駄でした。君は、何もかも無かったような顔をして、
「こうやって、一緒に、ここからの景色を眺めるのも久し振りだね」
と言いました。
 私は、君と並んで手すりに頬杖をつきました。すると、
「ほら、電車だ、走って行く」
 懐かしそうな声で、君が言うのでした。
あのなだらかなカーブを描くと、茶色い電車は吸い込まれるように、ビルの向こう側に消えていくのです。
いつものように走り去る電車は、そのまま地上から消えてしまうのではなく、私の視界の届かないどこかを、過ぎて行くのでしょう。
電車の一番最後の窓から、あの車掌が、楽しそうにさようならの手を振っているような気がしました。
「一体、どこへ行くつもりだったん…………?」
 君の声が終わらないうちに、私は、君の瞳の中に吸い込まれてしまいました。
気が付くとそこは真っ暗な、しかしどこかから、うっすら、光が漏れている……。
私はそちらに向かって、ゆっくりと、歩き始めました。君の涙が水たまりになって、冷たく光っています。その中を、用心深く、自分の足音だけを聞きながら、どこまでもどこまでも………………。

10

灰色が濃くなったり薄くなったりして、何度も通り過ぎていきました。日が昇り、日が落ちて、電灯がともり、それから消えて、また一日が終わっていくようでした。
君がこの家に来てから、もうひと月が経とうとしているのに、ただ君は、この家の中を右往左往するだけで、どうしていいのか分かないまま、それでも灰色が、濃くなったり薄くなったりしてを、繰り返すのでした。
 ―――さっき、君は嘘をついた。この家の主である君の兄と兄嫁に、
「もう、こんな所には居たくない」
 と言った。
「家に帰る」
 と大声を上げた。帰る家などないのに……。
「あんたは、ここに居なさい」
 と兄嫁が言い、
「嫌だ、帰る」
 と君が言い、
「あったかいご飯と寝床があって、他に何がいるの」
 と問われ、君は、
「嫌だ、嫌だ」
 を繰り返していた。
「おまえはできなかったんだろ、失敗したんだろう? …まず、それを認めろ」
 と兄が言い、
「そうじゃない、そうじゃない」
 と、君が言い返す。
「邪魔をするんだ、みんなが」
「邪魔をされたのか。じゃあ、邪魔されないように、すればいいだけだろう? そうするだけの、知恵が無かった。ほら、できなかったんじゃないか。その事実を認めろ」
「違う、違う、違う」
 君はただ、繰り返すばかりだった。
「できなかったんでしょう? だったら、できるようになればいいだけ、じゃないの」
「おまえは偽物だったんだろう? だったら、本物になればいいだけ、じゃないか」
 何度も何度も何度も、繰り返される声に、
君はやがて負けてしまうだろう。
 君に帰る場所が無いのと同じように、戻りたい過去など、無くったって、いいのだ。それに、誰も過去には戻れないようにできている。
「チャンスじゃないか」
 と、君の兄は繰り返す。
「本物になる、チャンスじゃないか」
それから、
「何もしないで、ただ、ここに居るのだったら、俺はおまえとは、嫌だ。元気になったら、帰ってくれ」
と言った。すると、
「あんた、ちょっと付いて来て」
 と兄嫁が、君を風呂場に連れて行って、
「ほら、洗面器が洗えてないわよ」
 と言った。
 ―――きのう、大風が吹いた。君が一人で留守番をしていた時、何かが割れる音がした。君は音のした方に、恐る恐る近づいて行って、大きな窓の外に並んだ植木の鉢の一つが、割れているのに気がついた。背の高いゴムの木が、風になぎ倒されていた。
 君は靴を履いて、その狭い庭に下り、ひょろ高く伸びたゴムの木を起こし、それに添え木がしてあるのを、不思議そうな顔で、見た……。
 夜になり、その日の仕事を終えて帰ってきた二人に、君は、その白い縦長の鉢が割れてしまったことを、詫びた。
「自分のせいだ」
 と言った。
「ほら、また悪いことが起きた。この家が、不幸になる」
と言った。
「鉢が割れただけ、だろうが」
 と兄が言い、
「あんた、その鉢は、最初から割れていたのよ」
 と兄嫁が言った。
「おまえのせいで、なんでこの家が不幸になるんだ? おまえの失敗も成功も、おまえ個人のもので、俺たちとは、関係ないだろうが」
「あんたに、私たちの幸せを壊せるような、そんな大きな力があると思ってんの? 付け上がらないでちょうだい、私たちは、強いんだ!」
 兄嫁が、怒った顔をした。
―――あした、目が覚めると君は、最初に風呂場へ行くんだ。そして風呂場の隅に転がっている、レモン色の洗面器を見つけるんだ。それから君はそれを手に取って、君のその指で、ざらざらした汚れの感触を、心ゆくまで楽しむんだ。
そうして、考える。
(どうやって、この汚れを落とそうか……)
そうやって、一つ一つが完成し、続いていき、繋がって、ささやかな生活が積み重なって行くことの幸せを、見つけるんだ。
きっと、君は歩き出す。
ひょろ高く伸びたゴムの木を、助け起こしたその足で……。
だって、玄関には、君が助け起こしたゴムの木が、割れた白い鉢のまま、すっくと立っている。割れた縦長の鉢は、ギザギザに尖って、まるで最初から計算されたデザインのように素敵に輝いている。誰かから届いたばかりのプレゼントみたいに、茶色い丈夫そうなリボンでその周囲は結ばれているんだ。
                     

靴 私(自分の体から逃げ出した心)が記憶喪失になって、さ迷い歩いている。私を心配する人、私を助けようとする人、私を説得しようとする人、私を捕まえようとする人、私を治そうとする人、私を慰めようとする人、が次々と現れ、ビルの屋上へと誘導する。ビルの屋上には、君(放心状態のまま突っ立っている私の体)が私を待っている。私は再び君と出会い、君の瞳の中に吸い込まれてしまう。私は君の中で、君を観察している。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-13

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