彼岸の竜と騎士見習い

第一話

 セルペニア暦七百年、初夏。豊かな山林に囲まれた農作地帯、ベリーコイド地方の小さな村から、一人の少女が旅立とうとしていた。
「ジェマ、忘れ物はない? 着替えは持った? ああそうだ、今朝焼いた蜂蜜パンがあるのよ、おやつに食べてね」
 試験に臨むジェマ本人より緊張した面持ちで、母シェリーは言う。焼きたてのパンは布越しでもじんわり温かく、甘いにおいがした。
 ジェマは母親に「ありがと、大丈夫だよ」と笑みを向ける。その瞳は朝日を映し、きらきらと輝いていた。
「ジェマ!」長距離移動用の馬車に向かうジェマの足を止めたのは、父親ケントの太い声だった。作業場からのっそりと姿を現し、一振りのショートソードを頭上に掲げている。「忘れ物だ」
 ジェマは目を輝かせて父親に駆け寄ると、差し出されたその剣を受け取った。
「これ、新しい剣? 持って行っていいの?」
「ああ。お父さん渾身の一品だ。かわいい娘に、そこらのなまくらなんか持たせられないからな!」
「おや兄さん、剣なんて打てたのかい? アンタんとこの鍜治屋は、農具を作るのが専門だと思ってたが」
 胸を張る父親に水を差すように、ジェマの背後から軽口を叩いたのは叔父のブレンドンである。山の見回りに行くところのようで、使いこまれた弓を背負っていた。
「言ってくれるじゃねえか。これでもゴラド王国との戦争んときゃ、そりゃあもう注文がわんさかと……」
「その話長いから、帰ったら聞いてやるよ。今はこのウッドペッカー村の誇る、未来の騎士様をお見送りしようぜ」
 そう言ってブレンドンはジェマにウインクしてみせ、ケントは誇らしげに娘を見、シェリーは涙を浮かべながら微笑んだ。その後ろで見送る村の人々も、それぞれの表情でジェマの旅立ちを惜しみながらも祝福する。人々に見送られながら、ジェマは住み慣れた故郷を後にした。

 ジェマが騎士団に入る決意をしたのは、セルペニア王国に古くから伝わる伝説がきっかけだった。
 それは『救世の英雄』という題で語られている昔話で、セルペニア人であれば知らない者はいない、有名な物語だ。ジェマも物心付く前から読み聞かされ、胸躍る冒険譚に夢中になっていた。
 かつてこの国は悪しきドラゴンに支配されており、一人の英雄が、暴虐な支配者から人々を解放するために立ち上がった。やがて彼は悪しきドラゴンを倒し、その地に人の王国を築いた。そんな内容の物語である。
 物語に感化され影響を受けるのは、夢見がちな少年期にありがちなことだ。そして多くの子どもは成長するにつれ、世の中の理不尽さに打ちひしがれ、現実は物語のようにうまくはいかないのだということを理解する。身の程を知り、自分は物語の主人公にはなれないのだと思い知る。一方ジェマは、現実という壁の存在を承知した上で、なおも夢を追い続けていた。彼女にとって『夢』とは、現実から目を逸らすための妄想ではなく、将来そこに辿り着くべく見据えられた明確な目標であった。ドラゴン退治のような大それた事はできないけれど——そもそもドラゴンは伝説上の生き物である。物語の中で語られているドラゴンも、恐らくはかつて実在した暴君を表すシンボルであろう、というのが今のところ一般的な学説である——伝説で語られる英雄のように、自分の正義を信じ、弱者の味方となって巨悪に立ち向かう勇気を持っていたい。それがジェマの幼少期からの夢である。セルペニアにおいて、騎士は強さと義を持ち合わせた名誉ある役職とされている。ジェマが理想を追いかけるにはおあつらえ向きの職業というわけだ。
 セルペニア王国の騎士団は、大きく分けて二種類ある。国の正規軍である王宮騎士団と、各地方の都市に拠点を置く民間の騎士団だ。
 前者は王族お抱えの精鋭部隊であり、代々王宮に仕える貴族や、士官学校の成績優秀者のみが入団を許される。王族関係者の身辺警護や、国の存亡に関わる重大な問題を解決する役目を担っており、上層部は王族に次ぐ権力を持つといわれている。
 後者は七年前、ゴラド王国との戦争が終結した頃に設立された騎士団で、戦時に活躍した戦士ギルドや傭兵団に騎士の称号が与えられたものである。都市周辺の治安維持を中心に活動しており、王宮騎士団に比べて華やかさは無いものの、こちらは身分や年齢、家柄による制限がなく、筆記試験と実技試験に合格すれば誰でも入ることができた。セルペニアの国籍と、ある程度の教養さえあれば、無名の旅人だろうと農村育ちの娘だろうと関係無く、騎士を名乗る栄誉が与えられるのだ。
 ベリーコイドは人口が少ないため、騎士団の拠点となる都市が無い。そのため、騎士になるためには他の地方の都市で試験を受けなければならない。ジェマの故郷、ウッドペッカー村から近いのは、セルペニアの北西に位置するレプティルハート地方の都市のひとつ、ホークバレーである。
 王都を守る要塞のひとつでもあるこの都市は、ゴラド王国との戦争の際に大きな被害を受けたものの、町の人々の懸命な修復活動によって、今では観光客を呼び込めるほどにまで復興した。城壁は百年以上の歴史を持ち、災害や戦争による損傷と修復を繰り返しながら、人々の暮らしを守っているのである。
 運賃を払って馬車と別れ、城門へ向かう。堀を渡った先にある、鉄製の無骨な門の両側には、鋼の鎧甲冑を纏った兵士が、神殿を守るガーゴイルさながら左右一人ずつ立っている。まだ五月とはいえ、真昼の直射日光が照りつける中突っ立っているのはいかにも暑そうである。
「こんにちは。町に入りたいのですが」
 挨拶すると、身分証を出せと言われたので、ジェマは合格通知に同封されていた実技試験の受験票を見せた。書類に住所と名前と滞在期間を書いて、この町で粗相を働かないことを誓わされた後、ようやく城門を潜る許可を得る。受験票は試験の受付のときに必要になるので、なくさないように財布の中にしまった。
 門を潜ると、中央に噴水を置いた広場があり、広場を中心にして三又に——こちらから見てTを逆さにしたような形で——道が広がっている。広場には様々な屋台が軒を連ねており、活気に溢れた声がそこらじゅうで飛び交っていた。祭りでもあるのかと思うほどの賑わいだったが、そうではなくてこれがこの町の日常らしい。屋台の前で商品を吟味する婦人や、噴水の周りを元気よく走り回る子どもたち、お喋りを楽しみながら通りを歩く若者たち……その中にはセルペニア人だけでなく、牛や鹿などの角を持つ有角種族・オールンや、つい最近まで敵国だったゴラド王国の人々の姿も見受けられた。町の建物はウッドペッカー村の民家よりもはるかに大きく、ほとんどが石造りの伝統的な建物だったが、新しく建てられたらしい煉瓦造りの家も散見される。
「やァお嬢さん。迷子かい?」
 声をかけられて、ジェマは驚いて振り返る。そこにはフードを被った若い男が居た。ニヤついた口元がわずかに覗いているものの、人相はうかがえない。
「この街は初めてか? 一ロックで案内してやるよ」
 親しげな口調で提案する見ず知らずの男。ジェマが答えに迷っていると、男はジェマの沈黙を拒否と受け取ったようで、肩を落として溜息を吐いた。
「わかったよ。怖がらせて悪かった。こんな格好じゃ怪しむのも無理ねェな。じゃ、気を付けて旅を楽しんでくれよ」
 男は早口でそう言うと、ジェマが止める間もなくすたすたと歩き去る。その後姿はあっという間に人込みに紛れ、見えなくなった。ジェマはうなだれ、噴水の近くにあるベンチに腰をかけた。試験の受付は今日一杯行っている。まだ時間があるので、ホークバレーの観光でもしながら会場を探すことにした。
 おや? とジェマは思う。懐が軽いのである。腰に提げていた鞄を開いたジェマは、「あっ」と小さく声をあげた。口を閉め忘れていたのか、中にあるはずの財布がなくなっている。ジェマの顔から血の気が引く。確か財布の中には、受験票を入れておいたはずだ。なくしてはいけないと、現金と一緒に。
 フードの男の姿を探すが、まるで白昼夢でも見ていたかのように、その姿はどこにも見当たらなかった。最早観光どころではない。一文無しとなっただけでなく、夢まで奪われてしまったのだから。
「……様……おい、貴様!」
 茫然自失のジェマは、その呼びかけが自分に向けられたものだとは気付かなかった。
「貴様、聞いているのか!」
 耳元で怒鳴られて、ようやくジェマは我に返る。
 ジェマを呼んだのは、彼女と歳の近い金髪碧眼の青年だった。その髪の色は貴族によく見られる特徴だ。年齢は十八くらいだろうか。気難しそうな眼差しでこちらを睨んでいる青年は、白を基調とした制服を着用していた。騎士団では階級により制服の色が決められている。白は一般兵をまとめる隊長の色だ。
「貴様もやられたのだな」
「え?」
「今月に入ってもう十六件目だ。この辺りを荒らしている、ウィーゼルという盗賊が居てね。前は単独犯だったんだが、最近仲間ができたようで、ああやって旅行者に声をかけては仲間にスリをやらせるんだ。今、僕の仲間が追いかけているから、じきに捕まるはず……」
「わ、私も協力させてください!」無礼を承知で、ジェマは縋るように申し出た。「どうしても今日中に取り返さなきゃいけないんです! あの財布には受験票が……」
「受験票?」困惑した様子だった青年は、その単語を聞いた瞬間片方の眉を吊り上げる。「貴様、入団希望者か」
 ジェマは首がもげそうな勢いでうなずく。
「申し遅れた。僕はハロルド・リース。ホークバレー騎士団の七番隊隊長を務める者だ」
 機敏な動作で敬礼する青年に、ジェマは見よう見まねで敬礼を返す。
「わ、私はベリーコイドのウッドペッカー村から来たジェマといいます。よろしく……」
「我々に協力したいと言うならついて来るがいい。せいぜい足を引っ張るなよ」
 ハロルドの言い方にジェマはカチンと来たものの、今は他に頼る者も居ない。白い制服を翻す彼の後をジェマは駆け足で追った。

第二話

「さて、着いたぞ。マシュマロウ通りだ」噴水がある広場の西側、ホークバレー市民の多くが暮らす平民街へ続く通りに出ると、ハロルドは声をひそめて言った。「ここはかつてありふれた路地だったが、最近増えてきた菓子屋を目当てに、人が集まるようになったんだ。奴の被害がまだ出ていない新名所はいくつかあるが、ここがそのひとつだ」
 ホークバレーを騒がせている盗賊・ウィーゼルは、同じ場所で連続して犯行に及ぶことは無いという。一度でも被害が出た場所では人々の警戒心が強まることを知っているからだ。かといって、ほとぼりが冷めるまでおとなしくしているわけでもない。次なる獲物を求め、人々の警戒が薄く、かつ金を持った人間が集まる狩場へ向かうはずだ——というハロルドの推理のもと、図らずもホークバレーの新名所を巡ることになったジェマは、足早に進む白い制服の後を追いながら周囲をきょろきょろと見回していた。
 なだらかな上り坂が続く通りには、菓子屋の看板がいくつか並んでいる。店舗を構える店の他にも、荷車を利用した屋台も散見され、店によっては行列もできていた。煮詰めたジャムの甘い香り、ハーブやスパイスの刺激的な香り、溶け出したバターの芳醇な香り。あらゆる誘惑が、時折吹く初夏の風に混じって路地を通り抜けて行く。昼食が母から貰ったパンだけだったジェマは、道すがら見えるケーキや焼き菓子につい視線を奪われる。
「おい」
 ハロルドの鋭い声が聞こえて、ジェマは慌てて背すじを正す。
 ハロルドがあごで示す方向に視線をやると、シナモンロールを売る屋台の行列に並ぶ女の子が三人、和やかに談笑している様子が見えた。よその町から来た旅行者のようだ。そのすぐ後ろに、フード付きの外套をまとった人物が居た。そいつは注意深く周りをうかがいながら、一番手前の女の子の鞄に手を伸ばす。女の子はお喋りに夢中で気付いていない。ジェマは思わず声をあげた。
「こらあーっ!」
「あっ、馬鹿!」
 ハロルドに咎められ、しまったと思ったときには遅かった。ジェマの大声に周囲は一瞬静まり、何事かとざわつき始める。フードの人物は慌てて手を引っ込め、ジェマとハロルドのほうを一瞬振り返るや否や、脱兎の如く駆け出した。ジェマとハロルドはすぐに追いかける。
「ご、ごめんなさい。私……!」
「後にしろ。僕が先回りをするから、貴様は奴を見失わないようにしっかり追いかけろ。いいな」
「は、はいっ!」
 ジェマがうなずくと、ハロルドは細い脇道に入って行った。
 突如はじまった追いかけっこに、通りに居た人々は驚いて道を開ける。
 ジェマは「あっ」と声をあげた。高齢の女性が一人、道の真ん中を歩いている。足が悪いのか、取り残されてしまったようだ。逃亡者は構わず突っ込んで行く。このままぶつかって相手が怪我をしようと関係ない、と言わんばかりに。
「おばあちゃん、危ない!」
 ジェマの脳裏に、突き飛ばされ転倒する女性の姿が浮かぶ。しかし、その妄想が現実になることはなかった。逃亡者は女性にぶつかる寸前で膝を曲げ、跳躍したのである。そいつは女性の頭上を軽々と飛び越え、音も無く着地した。女性は驚いて尻餅をついたものの、怪我を負うことはなかった。
 間一髪の光景を見ていた人々はどよめき、次の瞬間、それは悲鳴に変わった。着地の瞬間、逃亡者のフードが外れたのである。その下に隠されていたものを見て、人々は口々に叫ぶ。
「獣人だ!」
「こいつ、首輪をしてないぞ!」
「野良獣人だッ! 子どもたちを守れ!」
 黄色い房毛のついた大きな耳、金色の目、荒い息を吐く口から覗く牙。半人半獣の姿をしたそれが獣人という種族だということは、ジェマも知識として知っていたが、実物に会ったのは初めてだった。知能が高く、番犬代わりやペットとして飼われることもあるが、野生のものは気性が荒く、好戦的だと聞いている。町の人々にしてみれば、知能の高い肉食動物が町なかに放たれたようなものである。辺りは一瞬にしてパニック状態になった。
「誰か騎士団を呼んで! ここに獣人がいるわ!」赤ん坊を抱いた若い女性が叫ぶ。
「獣人め! またウチの商品に悪さしに来たな!」果物屋の店主が棍棒を持って飛び出してくる。
「なに、凶暴な獣人が暴れてるって? よし俺がやっつけてやる!」勇敢な旅人が、剣を携えて駆けつける。
 人々は獣人を囲み、武器を向けて威嚇する。だが、相手は鋭利な牙と爪を持つ大型肉食獣である。武器を持った者、石を投げつける者、誰もが人垣の一部に甘んじており、先陣を切って闘いを挑む者は居ない。
 一方、獣人もまた、自分の体に先天的に備わった力を使おうとはしなかった。戦うための体を持っているとはいえ、多勢に無勢である。耳を寝かせ、肩をすくませている様子から、怯えているようにも見える。遂に、逃げることも戦うことも諦めたとみえて、獣人はその場にうずくまってしまった。
 捕まえる好機ではあったが、ジェマはためらった。数秒ほど考え、やがて意を決し、ジェマは歩き出す。穏やかに人垣をかき分けて、獣人のもとに向かう。「危ないぞ!」と誰かが叫ぶが、彼女を引き戻そうとする者は居ない。獣人に向かって誰かが投げた石が、ジェマの頬をかすめる。
 うずくまっている獣人のそばにしゃがみ込み、ジェマは静かに話しかける。
「君、名前は?」
 石と罵倒の雨が止んだことに気付き、獣人はためらいがちに顔を上げる。石の尖った部分が当たったのだろう。彼の額から一筋、血が垂れていた。
「……オビ」獣人は小さな声で答える。
「オビっていうんだね」
 獣人はこくりとうなずく。
 ジェマは蜂蜜のにおいが染みたハンカチを鞄から取り出して、オビの血を拭いてやる。頭部の傷からは血がたくさん出ているように見えたが、傷口は深くなく、一度拭き取っただけで綺麗になった。布が擦れたのが痛かったのか、オビはジェマの手を払いのけた。ジェマは構わず、再びぷつぷつと血がにじみ始めた傷口にハンカチを押し付ける。
「このくらいで痛がるんじゃないの。ゆっくり立って……そう、いい子ね」子どもをあやすようにしてオビを立ち上がらせる。オビは訝しげにジェマを見ていたが、暴れる様子はない。ジェマは不安げにこちらを見守る群衆に手を振ってみせた。「もう大丈夫ですよ、みなさん。この子は私が連れて行きますから!」

「貴様、その顔はどうした」
「えっ、わ、やだ」
 合流したハロルドに指摘され、ジェマは自分の頬に触れてみる。ざらっとした感触があって、かさぶたになった血が指についた。オビに近付いたときに飛んで来た石ですりむいたのだ。
「へへ……大丈夫ですよ。ちょっとすりむいただけです。もう固まってますし」
「そうか。ところで、さっきから貴様の後ろにくっついているそいつはなんだ」
 手を繋いでいたオビがびくっと身をすくませ、ジェマの後ろに隠れる。今は外套は脱いでおり、ジェマの体に巻きつけているしっぽが、驚いた猫みたいにぶわっと膨らんでいた。
「さっき屋台の前でスリをしようとしてた人物です。未遂でしたけど」
「ウィーゼルではなかったか」
 オビの顔を見て、目当ての人物ではないことを確認したハロルドは淡々と呟く。
「この子の名前はオビというそうです。町の人の話だと、店の商品にいたずらしたり盗み食いしたりしてたみたいですが、賊とは関係無さそうですね」
「なぜそう思う?」ハロルドは目を細め、ジェマを睨む。
 まだ入団試験の受付もしていないのに、面接を受けているような気分だ。心臓が高鳴り、息苦しさを感じる。
「町の人はオビのことを『野良獣人』だと言っていました。もしウィーゼルがオビの仲間なら、彼も獣人ということになりますよね?」
「確かに奴は狼の獣人だが、それで?」
 ハロルドの眉間のしわが深くなる。口の中が乾く感じがして、ジェマは唾を飲み込む。
「えと……本で読んだんですけど、獣人は仲間意識の強い種族だっていうじゃないですか。ウィーゼルがオビの仲間なら、オビを助けに現れてるはず……だと、思います」
「……ふん、まあそんなところだろうな」
 ハロルドは溜息混じりにそう言って視線を外す。ジェマは詰まっていた息を吐き、甘いにおいのする空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「普通の獣人相手なら、その考えでもいいだろう。だがウィーゼルは狡猾だ。こいつを助けに現れなかったのは、自分の保身を優先したためかもしれない。仲間を囮に使うなど卑劣極まりないが、奴ならやりかねん」
「違うよ、あの時ウィーゼルは別のところでお仕事してたから居なかっただけだよ」
 ジェマの後ろから、オビが口を挟む。言ってしまってからオビは慌てて口を押さえたが、ハロルドは目ざとく彼の言葉を拾う。
「やはり貴様、ウィーゼルの仲間か」
 碧眼に睨まれて、オビは「ぴゃっ」と鳴いて縮こまる。
「大丈夫、彼は怒ってるわけじゃないよ」ジェマはオビの灰色の髪をぽんぽんと撫でる。「ウィーゼルのこと、知ってるんだね?」
 オビは耳を伏せて視線をそらす。落ち着きなくしっぽを動かし、ちらちらとハロルドを気にしているようだ。
「あの……すみません。オビと二人で話をさせてもらってもいいでしょうか?」
「なに?」
「オビは、ウィーゼルのことを心配してるんだと思います。仲間を捕まえようとしている人が居たら、話しづらいんじゃないかと……」
「ほう、つまり貴様は僕が邪魔者だと言いたいわけか」ハロルドの顔に皮肉めいた笑みが浮かぶ。
「ち、違います! そういうことじゃなくて……その……」
 弁解の言葉を探すジェマを他所に、ハロルドは顎に手を当ててなにか考える素振りを見せ、やがて口を開く。
「……ふん、まあいいだろう。勝手にしろ」
 ハロルドは静かにそれだけ言い残し、踵を返した。ジェマは遠ざかっていく白い制服をポカンと見送るしかなかった。
「え、えっと、じゃあ……お話聞かせてもらえるかな? オビ」
 過ぎてしまったことを気にしてもしかたない。ジェマは気を取り直し、オビに向き直る。
「……わかったよ」オビはそう言って立ち上がると、ジェマの手を取り視線を合わせる。「オビは、ジェマを信じるよ。ジェマはオビのこと、助けてくれたから!」
 今までのオドオドとした調子とはうって変わって、はっきりとした声でオビはそう言った。背すじを伸ばして立つオビの顔は、ジェマの頭一つ分上にあった。ジェマは不覚にもどきっとして、急に恥ずかしくなり、くしゃっと笑みを浮かべた。
「……ありがとう、オビ」

第三話

 びゅんびゅんと、景色が視界を通り過ぎていく。ホークバレーの町並を軽快に跳ぶオビの背中で、ジェマは振り落とされないように必死にしがみつく。
「ちょ、ちょっと待った! オビ、ストップストップ!」
 ジェマがたまらず制止の声をあげると、オビは民家の屋根に着地して止まる。
「どうしたの? ジェマ」
「うん、確かに、『目立たないように移動しよう』とは言ったけどね」込み上げるすっぱい唾液を飲み込んで、続ける。「屋根の上を跳んでいけば、確かに人目は避けられるだろうけどね、私、この移動方法は無理かも……」
 オビは自分を助けてくれたジェマのことを信用し、ウィーゼルの手から受験票を取り戻すことに協力してくれることになった。だが、首輪をしていない獣人は街の人々に不安を与える。ウィーゼルの居場所を聞き出すために、人目につかない場所へ移動しようとジェマは提案していた。
「わっ、ごめん! 気付かなかったよ。人間って弱っちいんだねえ」
 オビの言葉に悪気は無く、不思議そうにジェマの顔を覗き込む。
「そりゃあ、獣人に比べたら貧弱でしょうよ。ところで、どこに向かってるの?」
「ウィーゼルのとこだよ」オビは、住宅地の向こうにある壁を指差す。「あの壁の向こうにはお墓があるんだ。あそこなら滅多に人は近寄らないし、食べ物もあるから、オビたちはそこをアジトにしてるんだ」
「お墓……? えっ、食べ物って……?」嫌な想像をしてしまい、ジェマはまさかと思いながら聞き返す。
「あ、死体を漁ってるわけじゃないよー。お供えされてる食べ物を貰ってるだけだよ」
「そ、そっか。そうだよね……」あはは……とジェマは取り繕うように笑う。「確かに、隠れるには最適の場所かもね。ちょっと罰当たりな気もするけど」
「ウィーゼルは頭いいんだよー」
 オビは得意気に胸を張るが、ジェマの脳裏に一抹の不安がよぎる。
「待って、これからそこに向かうってことは、不法侵入だよね?」
「ふほーしんにゅー?」
「入っちゃいけないところに勝手に入ることだよ」
 かつてどこかの都市で、墓を掘り起こして死体を盗み、アンデッドを作る実験を行った魔術師が問題になったことがある。その魔術師は市民に不安を与えたとして禁固刑に処されたが、事件があって以来、都市にある墓地への出入りは制限され、埋葬されている故人の親族以外は、基本的には入ることができないようになったと聞く。
「でもオビたちはそこに住んでるんだよ。家に帰るのが悪いことなの?」
「それは君たちが勝手に……まあそれはいいけど、私は騎士になるためにこの町に来たんだよ。受験票を取り戻すためとはいえ、来て早々法を破るわけにはいかないよ」
 オビは首を左右に捻りながら、ジェマの言葉を反すうする。そして、名案を思いついたとばかりにぽんと手を打って言った。
「大丈夫だよ。バレなきゃいいってウィーゼル言ってたもん!」
「いやそういうことじゃ……」
「しっかりつかまっててね。いっくよー!」
「えっちょま、待っ……!」
 オビの足が屋根を蹴り、体がふわりと浮き上がる。流れ星のように屋根を跳び、墓地と市街地を隔てる壁まで辿り着く。出入り口の門の前に、見張り役らしき人影が見える。オビは見張りの目を盗んで壁にべたっと張り付き、爪を立ててヤモリのように壁を上り、壁のてっぺんで向きを変え、今度は後ろ向きに壁の向こう側へ降りていく。無事に目的地に着いたものの、急上昇からの急降下の繰り返しで、ジェマの三半規管はすっかり参ってしまった。
「人間は弱っちいなあ」
 グロッキー状態のジェマの横で、けらけらと可笑しそうに笑うオビ。さすがに怒りを覚えるが、悪気はないのだからとなんとか耐える。怒りは収まったものの、代わりに吐き気が込み上げた。
「ようオビ。そっちは収穫はあったか?」
 不意に聞こえた声に、ジェマは顔を上げる。ホークバレーに入った際、話しかけてきたフードの男——ウィーゼルの声だ。
「ウィーゼル! もう帰ってたんだね」仲間の姿を見たオビは嬉しそうな声をあげ、しっぽを振って駆け寄る。
 今は警戒を解いているらしく、ウィーゼルはフードを被っていない。白い髪を風に揺らし、三角形の耳を前に向けている。細身だが筋肉質な体型で、髪と同じ色のしっぽは太く、豊かな毛を蓄えていた。人懐っこいオビとは対照的に、挙動ひとつひとつに隙が無い。飼い慣らされた犬とは違う、野生の狼のそれである。
 ウィーゼルは穏やかにオビを迎え入れるが、その山吹色の鋭い目がジェマの姿を捉えた瞬間、彼の態度は豹変した。
「オビ、あれはなんだ」
 オビは首を傾げ、ウィーゼルが指差す方向に目をやる。
「ジェマのこと? あ、そうだ。ウィーゼルにお願いがあって」
 ウィーゼルは突然オビを殴りつけた。拳が顔に直撃し、吹っ飛ばされたオビは、墓石に後頭部をぶつけて「ぎゃん」と鳴いた。ウィーゼルは彼の胸倉を掴んで激しく揺さ振り、問い質す。
「いけすかねェにおいがすると思ったら……てめえ、騎士団の人間に会って来たな? あいつは誰だ? なんでこんなところに人間を連れ込んだ? 俺を売るつもりか?」
「ち、違うよ……」オビは酷く怯えた様子で声を絞り出す。
「なんだ? なにが違う? 俺に歯向かう気か、え?」
「ご、ごめ……なさ……あのね……」
「聞こえねェよ!」
 ウィーゼルは牙をむき、噛み付くような勢いでオビを責める。
「ごめ、ごめん、なさ……」オビの声は徐々に小さくなり、今にも消え入りそうだ。その目には大粒の涙が浮いている。
「泣いて謝れば済むと思ってんのか? 腰抜けが!」
「やめなさい!」ウィーゼルが拳を振り上げたのを見て、ジェマは居ても立ってもいられなかった。「オビはあなたを裏切ったんじゃない。私が頼んだんです。あなたに会うために」
「ほーお」ウィーゼルの顔からはオビに対する憎悪は消え、代わりに斜に構えた笑みが浮かぶ。「俺になんの用だい。交際ならお断りだぜ」
「あなたに盗まれたものを、返してもらいに来ました」
「ふーん」
 ウィーゼルはオビから手を離し、品定めするようにジェマをじろじろと眺め、ひとしきりにおいを確かめると、縮こまっているオビに再び手を伸ばす。また殴られると思ったのか、オビは体を強張らせる。
「やめ……」ジェマは言いかけて言葉を飲み込む。咄嗟に剣にかけた手を、そっと離す。
 ウィーゼルの手は、オビの頭をぽんぽんと撫でただけだった。
「殴って悪かったなァ、オビ。騎士団の動きが活発になってるんで、ちっとばかりピリピリしててよ」
 オビはまだうずくまったまま泣いている。そんなオビに優しげな言葉をかけながら、ウィーゼルは懐から一葉の手紙を取り出し、ジェマに見せた。
「アンタが騎士団の人間じゃないってことはわかった。用事ってのはこれか?」
 それは騎士団入団試験の受験票だった。意外にもあっさり出してくれたので、肩透かしを食らったような気分になる。
「返してやるよ」
「ど、どうして……?」ジェマは思わず訊き返す。
「これが無いと困るんだろ。悪かったな。オビの奴が相談も無く人間を連れて来たもんだから、みっともねえところ見せちまった」
 ウィーゼルは穏やかにそう言うと、耳を伏せて肩をすくめた。しっぽも力無く垂れており、敵意が無いことを主張している。
 ジェマは恐る恐るウィーゼルに近付き、受験票を受け取ろうと手を伸ばす。
「あ、ありがとう……ごめんなさい、私、あなたの事情なんて考えずに……」
「おっとォ、待ちな」ジェマが受験票を手に取ろうとした瞬間、ウィーゼルはニヤッと笑い、それを引っ込めた。「俺はこいつを返してやるが、あんたは俺になにをしてくれるつもりなんだ?」
「……は?」
 思わず間抜けな声が出てしまう。ウィーゼルの言葉の真意がわからず、困惑する。
「報酬だよ。他人になにかしてもらったらお返しする。常識だろ?」
「な、なに言ってるんですか。それはあなたが盗んで……」
「盗んだァ? 確かに俺は盗みもやるが、安易に決め付けるのはやめてもらいたいね。これは拾ったんだよ。アンタの落し物を、俺が拾って届けてやってんの。わかる? お礼してもらうのは当然だよねえ」
 ウィーゼルはにわかに調子付き、嘲笑混じりに捲くし立てる。馴れ馴れしく肩に置かれた手を払いのけ、ジェマも負けじと言い返す。
「お礼? バカ言わないでください。誰が泥棒にお礼なんか……」
「はっは!」ウィーゼルは両手を叩いて盛大に笑う。待ってましたといわんばかりに。「聞いたかオビ!『薄汚い盗人の獣人には礼をする筋合いはない』とさ! これが人間どもの本音だよ!」
「いいかげんにしなさいッ!」ジェマは遂に声を荒げた。「どこまで捻くれてるんですか、あなたは! あなたの過去になにがあったかは知りませんが、そんなふうに他者をバカにしてるから、疑われるんじゃないですか?」
「……なんだと?」ウィーゼルの顔からニヤニヤ笑いが消え、目が据わる。
「仲間のオビにまで手を上げて……そうやって暴力に訴えるのは、臆病者のすることですよ。裏切られるのが怖いから、力で押さえつけるんでしょう。怖がらせて、言うことをきかせるために」
「黙れ!」ウィーゼルは牙をむき出し、吠える。「俺が臆病者だと? はっ! おまえら人間はいつもそうだよなァ。力で敵わないとなると、言葉で責め始める。相手を貶めて自分が偉くなったような錯覚を味わいたいがためにな。言葉で敵わないなら、ホーリツを振りかざす。ジンケンを振りかざす。『正義』の名の下に、『悪』を滅ぼせ! ってな!」
 次の瞬間、ジェマは自分の体が宙を舞っていることに気付いた。脇腹に、鈍い痛みを覚える。
「獣に言葉は無力だ」落下するジェマの目の前に、ウィーゼルが現れる。速い。軌跡を目で追うこともできない。「『正義は勝つ』って証明したいなら、俺を倒してみろ。人間」
 ウィーゼルの蹴りがジェマの腹を狙う。咄嗟にガードし、内臓への衝撃は防いだものの、ジェマは墓石に叩きつけられてうめく。
「ほらほらどうしたァ? さっきまでの威勢はどこへ行った?」沈黙するジェマを見下ろし、ウィーゼルは嘲笑う。「弱っちいなあ人間は! もうおしまいかァ?」
 突如、雷鳴が轟いた。耳が痛いほどの轟音である。かなり近い。だが、空は晴れている。群青と橙色のグラデーションが綺麗だ。東の空にはもう、いくつかの星が瞬いている。
 ジェマの目の前に人影が見える。旅の疲れと、戦闘で受けたダメージのせいか、ひどく眠い。だが意識を手放せば、ウィーゼルに逃げられてしまう。ジェマは自分を叱咤し、目を開く。見えているのは後姿のようだ。ジェマを庇うように、ウィーゼルに相対して立ちはだかっている。
 再び雷鳴が轟く。目の前から。彼の口から。
「な……なんだよ、おい。そんな大きな声出せたのかよ……」耳を押さえて若干たじろぎつつ、ウィーゼルは彼を睨み返す。「なんのつもりだ? オビ」
 ジェマの擦れた視界に映ったのは、灰色のしっぽ。その光景を最後に、ジェマの意識は暗闇へと落ちていった。

第四話

「なんのつもりだ? オビ」
 ウィーゼルは割って入った邪魔者を睨みつける。さっきまでのオドオドとした態度はどこへ行ったのか、オビは敵意も露に唸り声をあげる。
 オビは牙をむいてウィーゼルに飛びかかり、彼の右腕に喰らい付く。その動きは予想以上に速く、避ける間も無かった。強靭な顎が骨を砕こうとしているのを感じ、ウィーゼルは力任せに腕を振り、オビを引き剥がす。肉が削がれ、血が飛び散る。ウィーゼルは激痛に顔を歪めた。振り払われたオビは体を捻りながら四つ足の姿勢で着地し、血のついた牙をむいて吠える。雷鳴のような轟音が、空気をびりびりと震わせる。
 ウィーゼルは、オビとはじめて会ったときのことを思い出す。
 パンを盗んだところを捕まり、オビは人々に棒で叩かれていた。抵抗せずされるがままになっていたオビを助け、ウィーゼルは「友達になってやる」と言った。もちろんそれは本心ではない。盗みをやりやすくするため、共犯者が欲しかったのだ。使い捨てできる、間抜けで従順な下僕が。ウィーゼルが目をつけたとおり、オビは間抜けで従順で、そして臆病だった。ウィーゼルが友達をやめると仄めかせば、必死で機嫌を取ろうとした。媚びるようなオビの態度にウィーゼルは度々苛立ち、不必要な暴力を振るうこともあったが、オビは変わらずにこにこと後をついてきた。
 そんなオビが、今、自分に牙をむいている。なぜこんなことになったのか? 理由は明白だ。オビが連れてきた人間の娘——ジェマとかいう名前だったか——あの娘にほだされたのだ。どんな経緯があるかは知らないが、おおかた餌付けでもされたのだろう。
 ウィーゼルは傷口から滴る血を舐める。傷は深く、出血が止まらない。オビの目はこちらを見据えたまま、飛びかかる機会をうかがっている。倒れているジェマの近くを行ったり来たりしているのは、庇っているつもりなのだろうか。
「待て。待て、オビ……悪かった。もうそいつには手を出さねェし、受験票とやらも返す。見返りはいらない。本当だ」ウィーゼルは受験票を地面に置き、ゆっくりと後退る。「だからもうやめようぜ。俺たち友達だろ?」
「おまえはもうオビの友達じゃない。だからいらない」低く唸るような声でオビは言う。
「いらないだあ? それはどういう……」
 目の前を鉤爪がかすめ、ウィーゼルは言葉を止めざるを得なかった。ウィーゼルを捕らえようとして狙いを外したオビは、着地と同時に両腕を使って跳ね上がり、ウィーゼルの喉に牙をむく。ウィーゼルは向かってくるオビの顔面に拳を叩き込んだ。確かな手ごたえ。オビの体が地面に叩きつけられる。いつもなら泣き喚いて許しを請うはずだが、オビは何事も無かったように起き上がり、獲物を見る目でウィーゼルを睨む。
「ふざけんなよ……」
 ウィーゼルはオビを退けるのを諦め、墓地と市街地を隔てる壁に向かって走った。オビが追いかけてくる気配は無い。風上から漂ってくるオビのにおいに、ウィーゼルの尾は無意識に下がっていた。
 壁を上ろうと手をかけたウィーゼルは、風を切る音を聞いて飛び退った。直前までウィーゼルの手があった位置に、一本の矢が突き刺さる。ウィーゼルは振り向き、そこに居た人物を見て吐き捨てた。
「クソが……!」
 オビのにおいに気を取られて気付かなかった。白い制服は暗闇の中でもはっきりと見える。そいつは右手に魔力を帯びた青白く輝くレイピアを携え、こちらを睨んでいた。その背後に、弓矢を構える仲間を二人引き連れて。
「やはり説得など無駄だったか。彼らの後をつけていて正解だったな」ハロルド・リースは独り言のように呟いて、刃をウィーゼルに向ける。「負傷しているようだな、ウィーゼル。仲間割れでもあったか?」
「これはこれは、騎士団の隊長殿。このような辛気臭い場所にようこそ」ウィーゼルは皮肉混じりに答える。「ですが生憎、今はおもてなしをしている余裕はないのです。その物騒なものをしまって頂けませんかねェ?」
「ならおとなしく投降しろ。僕も、できれば無駄な労力は使いたくないのでね」
 ウィーゼルは頭の中で汚い言葉を吐き捨てる。
「……わかった。投降するよ」ウィーゼルは投げ遣りにそう言って、両手をあげる。「捕まえるなら早くしてくれ。あんたがたも忙しいんだろう?」
「……ずいぶん素直だな」ハロルドが訝しげに眉を吊り上げる。
「ちょっとばかり取り込んでてね。確か騎士団の決まりじゃ、捕まえた罪人は保護されるんだろ? 獣人とはいえ、無抵抗な相手を傷付けるなんてことはしないよなあ?」
 部下たちが困惑して顔を見合わせる中、ハロルドは涼しい顔をしていた。まるで、こうなることが予めわかっていたというように。
「奴を拘束しろ」
 ハロルドはレイピアを収め、淡々と指示を出す。部下たちははっとして、慌ててウィーゼルを縛り上げる。
「あの女はアンタの差し金か」ウィーゼルはハロルドに皮肉を込めた眼差しを向ける。
「なんのことだ?」
「フン、なんでもねェよ」
 そのとき、近くで雷鳴が轟いた。その場に居たものは皆、思わず耳をおさえる。
「雷鳴……? 空は晴れているのに……」
 そう呟いて空を仰いだ騎士団員の目が、それを捉える。
 陰になっている壁面に、光るものが二つ。蛍だろうか。それにしては、瞬き方が奇妙だ。ずっと光っているかと思えば、ぱちぱちと点滅し、消えたと思えば、少しずれた場所で光り出す。その光はだんだん近づいてきているように見える。
 しまった、と思ったときには遅かった。宵闇に紛れて壁に張り付いていたオビが、ウィーゼル目掛けて飛びかかる。
 生き物は極限状態に置かれると、感覚が飛びぬけて鋭敏になるらしい。目の前の景色が明るくなったのを見て、ウィーゼルはその現象が自分の身に起きたのだと思った。違うと気付いたのは、空中に出現した火の玉が視界に入ったからだ。鶏の卵くらいの小さな火の玉だが、暗闇に突如出現した光はオビの目を眩ませるには充分だった。ウィーゼルに飛びかかったオビは、狙いを外して地面に落ちる。
「やめなさい、オビ!」暗闇から聞こえたのは女の声だった。「ウィーゼルはもう捕まったんだ。これ以上痛めつける必要はない」
 オビは声が聞こえたほうに顔を向ける。ふらつきながら近付いて来る人影の正体に気付いたとき、オビの顔から捕食者の表情は消え去った。
「ジェマ!」オビは嬉しそうに叫び、しっぽを振って駆け寄る。
 ジェマはぱちんと指を鳴らして空中の火の玉を消し、オビの頭を撫でる。オビは泣きそうな顔で、ジェマの体を心配していた。ウィーゼルのことなど、もう眼中に無いようだった。
「貴様、どうやってここに入った」厳しい口調で彼女に問いかけたのはハロルドだ。
「えっと……あはは」
「あははじゃない。ここは故人の親族以外は立ち入り禁止だぞ」
「すみません、その……ウィーゼルがここに居ると聞いたので、オビに壁を越える手伝いを頼んだんです。受験票を取り戻すためとはいえ、軽率だったと反省しています」
 ジェマの話を聞きながら、ハロルドは溜息を吐く。
「呆れたな。これから騎士を目指そうという者が、法を破るとは……。これからウィーゼルを連行する。貴様も来い」
「やだ! やだよう!」すかさず異議を唱えたのはオビである。「ジェマは悪いことしてないよ! ジェマをいじめないでよ!」
「獣人の世界ではどうだか知らんが、ここは人間の町だ。法を破る者は裁かれなければならない。邪魔をするな」
「やだ!」オビは牙をむき、ハロルドを威嚇する。「ジェマをいじめるなら、おまえもウィーゼルと同じだ!」
「オビ」ジェマはあくまで穏やかに言う。「私を心配してくれるのは嬉しいけれど、暴力でわがままを通そうとしてはいけないよ」
「でも……!」
「別に命を落とすわけじゃないんだ。罪を償えば、試験はまた受けられる。そうですよね、ハロルド?」
「……まあ、貴様のお陰でウィーゼルを捕まえることができたわけだからな。大目に見てやってもいい。だが、罰は受けてもらうぞ」
 オビは不服そうだったが、ジェマの説得を受け、おとなしく牙を収める。ジェマはオビをなだめるようにその頭を撫でながら、ハロルドに続いて門へ向かう。
「くっくっく……」
 その姿を眺めていたウィーゼルは、思わず声を漏らして笑う。怪訝な目を向けるジェマとハロルド。ウィーゼルは咳払いをしてごまかすものの、笑いを止めることはできなかった。
「はははは……悪い悪い。おまえらがあんまり真面目に話してるもんだからよ、おかしくってなァ……」
「貴様、なにがおかしい」
 表情を険しくするハロルドに、ウィーゼルは皮肉めいた笑みを向ける。
「そう怒るなよ隊長殿。くくく……別にいいんだぜ。それが人間様のルールだって言うんなら。そうやって目上の奴らに媚売ってりゃ、幸せになれるんだもんなあ?」
「ウィーゼル! あなた、まだ……」
「言わせておけ。負け惜しみだ」ハロルドは眉ひとつ動かさず、ジェマをなだめる。
「負け惜しみだと? さァ、負け犬はどっちだろうな? 隊長殿……いや、ハロルド・リース。あんただって、本当はこう思ってるんだろ? 騎士団の規約で制限されてなけりゃ、こんなコソドロはすぐにでもぶちのめしてやりたいってな」
「生憎だが、そんな挑発に乗っている暇は無い。そんなに痛い目に遭いたければ、自分の舌でも噛んでいろ」
「おっと、図星だったか? そんなに怒るなよ」わざとらしく肩をすくめ、ウィーゼルは続ける。「楽しいだろうなァ。正義を振りかざして、悪党をやっつけるのは。兄貴に敵わない自分をごまかしていられるもんなあ?」
 ハロルドの足が止まる。部下たちがどよめき、隊長の顔色をうかがう。
「ハロルド……?」
 不安そうにジェマが言う。その声も聞こえていないかのように、ハロルドは微動だにせず立ち尽くしている。
「おっと……悪い悪い。口が滑ったぜ。気に障ったかな? 本当のことを言われてよ」
「……貴様ァ!」
 ハロルドは烈火のような勢いで、ウィーゼルに掴みかかる。ウィーゼルの顔に、悪意に満ちた笑みが浮かぶ。
 ハロルドの剣幕に怯んだ騎士団員の手から、ウィーゼルを縛っていた縄が離れた。その瞬間、ウィーゼルは地面を蹴り、騎士団員の頭上を飛び越える。墓地と市街地を隔てる門は開け放たれており、行く手を阻む者も居ない。ウィーゼルは縄を引き千切り、門へと走り出す。
「くっ……! 待て!」
 背後から飛んで来るハロルドの声に、ウィーゼルはほくそ笑む。門の周囲には、オビの咆哮を聞いた野次馬たちが何事かと詰めかけていた。門から飛び出した手負いの獣人の姿を見て、野次馬の中から悲鳴が上がる。浮き足立つ人間たちを尻目に、ウィーゼルは住宅の外壁をよじ登り、屋根を伝って、街を囲う城壁に飛び移る。
「あばよ、くだらねェ人間ども!」
 城壁の中の人間たちを見下ろして高らかに吠えると、白い獣は闇夜に消えた。

第五話

 盗賊が立ち去った後、墓地に集まっていた人々は顔を見合わせていた。「今のって獣人だよな?」「あれが最近騒ぎになってた盗賊か」「あいつ怪我してなかった?」「もう来ないよな……」行き場の無い不安を少しでも軽減させようと、人々は囁き合う。
「怪我をした者は居ないか? 持ち物を盗られた者は?」
 凛とした声が、群衆のざわつきを鎮める。人々の視線が、墓地の門に現れた白い制服に集まった。ハロルドは周囲の人々に一人一人歩み寄り、状況を確認する。一通り見て回った後、彼は静かに口を開く。
「……被害は無いようだな。これから盗賊のアジトとなっていたこの墓地を改める。関係者以外は立ち去ってもらおう」
「おい、待てよ!」踵を返したハロルドを呼び止めたのは、上等な生地の服を着た若い男だった。「今逃げてったの、近頃街で騒がれてた盗賊だろ! 早く捕まえてくれよ!」
「その必要は無い」ハロルドは淡々と答える。
「なんでだよ! もし仕返しに来たら……」
「奴は獣人だ。この街に執着があるわけじゃない。もし仕返しに来たとしても、この街には我々が居る。市民の安全は、我々が必ず守る」
 ハロルドは男をまっすぐに見据え、力強く言い切った。その眼力に圧された男は渋々引き下がる。人々の顔に、安堵の笑みが浮かぶ。騎士団が居るなら大丈夫だ。そう呟く声が聞こえた。
「おい、貴様。ジェマとか言ったか」
「は、はい。なんでしょう?」
 ハロルドの後姿を眺めていたジェマの視線が、振り返った碧眼と重なる。背すじを正すジェマの隣に居るオビを指差し、ハロルドは淡々と指示を出す。
「貴様はその獣人を連れて留置所へ行け。僕の部下が案内する」
「えっ……?」留置所という言葉を聞いたジェマの顔が青ざめる。
「留置所といっても、役人と話をしてもらうだけだ」ハロルドは溜息混じりに補足する。「墓を荒らしたわけではないから投獄はされない。侵入だけなら、せいぜい罰金が科される程度だろう」
「罰金かあ……」ジェマは村を出たときより軽くなった鞄を見やり、小さく呟いた。

 ハロルドの部下の案内で、ジェマはホークバレー騎士団の兵舎に併設された留置所を訪れた。案内した騎士団員が受付に事情を説明している間、ジェマは見慣れない建物に不安がるオビの手をずっと握っていた。
 役目を終えた騎士団員は早々に持ち場に戻ってしまった。しばらくして役人が現れ、ジェマとオビは別々の部屋で話をすることになった。オビは人見知りが激しく自分のことを上手く話せなかったため、ジェマは今日知り合ったばかりの彼の事情も、わかる範囲で説明しなければならなかった。
 ジェマは墓場への不法侵入で厳重注意を受け、罰金五ロックの支払いを言い渡された。本来であれば倍支払わなければならないところだが、ウィーゼルの仲間だったオビを説得し、盗賊行為から足を洗わせた勇気は評価されるべきと判断されたようだ。
 次に、役人はジェマにオビを飼うつもりなのかと訊ねた。都市では、人に飼われていない野良獣人は駆除されることになっているという。もしウィーゼルが捕まっていれば、彼も司法によって裁かれることなく命を奪われていただろう。よほど凶暴な獣人でなければ、住民が引き取りたいと申し出る場合もある。だがそういった場合は稀で、人間のルールを獣人に教えるには費用も時間もかかるため、一週間以内に申し出が無ければ処分が実行されることになっていた。
 人に似た姿をしているとはいえ、獣人の生態は獣と変わらないといわれている。肉食性の彼らを街に放置していては、いつ人が襲われるかわからない。また、野生の獣人は病原体を持っている場合もある。獣人の駆除や首輪による管理は、伝染病の蔓延を防ぐ意味もあるのだ——と、役人は歯切れ悪く説明した。
「そうですか……」ジェマはしばらく悩んだ末、提案する。「あの、オビの処分はしばらく待っていただけないでしょうか」
「あてがあるのかい?」書類を捲っていた役人が顔を上げる。
「試験が落ち着いたら手紙を書いて、村の人に相談してみます。養蜂箱を狙う熊を追い払う番犬が欲しいって、近所のおじさんが言ってたので、たぶん引き取ってもらえると思います」
 ジェマの提案を受けた役人は少し考えてから、穏やかな口調で答える。
「そうだなあ……僕の一存では決められないけど、上司に話してみるよ」
「ありがとうございます。すみません、無理なお願いを」ジェマはほっと息を吐き、役人に深々と頭を下げた。
 ジェマの試験が終わるまで、ひとまずオビは留置所に預けられることになった。ジェマは役人に改めて礼と謝罪を述べ、外に出る。澄み切った夜空には綺麗な星が瞬いており、頬を撫でる風は冷たい。空っぽの腹が、ぐうと鳴いた。
 騎士団兵舎のほうからこちらに近付いて来る人影が見える。ハロルドだ。かがり火に照らされた彼の顔は、いつにも増して険しい表情を浮かべていた。
「話は終わったのか」ハロルドはジェマの姿を見止め、話しかけてくる。
「はい。今終わったところです。オビはしばらくここで預かってもらうことになりました」
「そうか」
 ハロルドは盗賊のアジトの調査を終え、上司に報告してきたところだという。墓地からはウィーゼルの被害に遭った品々が発見され、持ち主がわかるものは返却されることになったらしい。残念ながら、ジェマの財布だけはウィーゼルが持ち出してしまったため、返って来ることはなかった。受験票だけでも取り戻せたのは不幸中の幸いである。
「宿はどうするんだ」
「うーん、それなんですよね……お金が無いので、野宿でもしようかと」
 ジェマの返答に、ハロルドは呆れ切った溜息を吐く。
「昼間の件で懲りなかったのか? 泊まる宿が無いならうちに来い」
「えっ! し、しかし……」
「放置して犯罪に巻き込まれでもしたら迷惑だ。騎士団の名誉にも関わるからな」
「でも、あの……」しどろもどろになりながら、ジェマは言う。「ご迷惑ではないでしょうか? その、こんな田舎娘を、ご実家に……」
 ジェマは言いながら恥ずかしくなって、うつむいてしまう。ハロルドはそんなジェマを不思議そうに眺め、しばらくして「ああ」と言った。
「てっきり男だと思っていたが、貴様女か」歯に衣着せぬ言い方が、むしろ清々しい。「実家というか、騎士団から提供されている家だ。心配するな。個室なら余っている。それに、宿をとれない貧乏人を泊めるのは初めてのことじゃない」
 ジェマはハロルドの言葉に首を傾げつつも、その心遣いはありがたく受け取ることにした。

   ☆   ☆   ☆

 ホークバレーを離れたウィーゼルは、街の北側に位置する山中の洞窟で休息を取っていた。洞窟は山賊の根城になっていたが、数は少なかったので追い払うのは容易かった。新たなアジトで手に入れた有り合わせの薬品で、オビにやられた傷の手当てをする。まだズキズキと痛むが、薬が効いたのかだいぶマシになった。ウィーゼルは焚き火の前に横になり、目を閉じる。
 その直後、ウィーゼルの耳が物音を捉えた。二足歩行する生き物の忍び足のようだ。音の軽さからして、熊などの大型動物ではない。獣臭さは無いが、他のにおいもしない。生き物であれば汗や皮脂のにおいがするはずだ。なにかの魔法で隠しているのだろうか。
「誰だ?」ウィーゼルは低い声で唸る。
 岩陰からおもむろに姿を現したそいつは、樫の木でできた杖の先にカンテラを下げ、フード付きの黒いローブを身にまとっていた。顔は陰になっていてうかがえない。
「私は旅の魔術師でございます。一晩、宿をお貸しくださいませんでしょうか。(かしこ)き神よ」魔術師は恭しくおじぎをして、感情の乏しい声で言う。声を聞く限り、若い男のようだ。
「俺は神じゃねえ」ウィーゼルは牙をむき出す。『貴き神』とは、狼を指す古い言葉である。狼型獣人たちの自称でもあるが、ウィーゼルはこの言葉が嫌いだった。「とっとと失せな。さもなきゃバラバラにしてネズミの餌にしてやる」
「おお、神よ。あなたは憎しみに捕らわれておいでだ」
「あぁ? ヤバイ薬でもやってんのか、てめェ」ウィーゼルは体を起こし、身構える。「おかしなことするんじゃないぜ。インチキ野郎。杖を置け」
 魔術師は動かず、焚き火が照らす口元には怪しい笑みが浮かんでいる。
「聞こえねえのか? 杖を置け。杖を手放すのが嫌ならとっとと出て行け。そのイカれた脳みそをぶちまけられたいのか?」
 ウィーゼルの背中の毛がぶわっと逆立つ。しっぽは垂れ下がり、耳がぺたんと寝ていることも彼は自覚していなかった。
「私はあなたの敵ではない。あなたの助けになりたい」魔術師は静かな口調で続ける。まるで呪文を読み上げるかのように。「教え給え、あなたの敵を。それを滅ぼすための力をあなたに与えよう」
 黒いローブの男の目が、金色に光ったように見えた。
 それは満月よりも優しく、己の深遠にある炎を燻ぶらせる、魅惑的な光だった。
「あなたが憎むものは、なんだ?」
 魔術師が問う。どこか現実味の無い、遠くから話しかけられているかのような心地だ。
「俺が憎むもの……? そうだな……」
 ウィーゼルの顔に、自然と笑みが浮かんでいた。気分がふわふわする。この感じは、酒に酔ったときの感覚に似ている。
 ふと、腕の傷が目に入る。オビに噛み付かれ、食い千切られた傷だ。雑に巻いた包帯には血が滲み、白かった包帯には赤い斑模様が浮かんでいた。傷は相変わらず、ズキズキと疼いている。
「ちょっとばかり、仕返しをしてやりたい奴が居てね……」
 目の前の魔術師は満足げに笑い、腰に提げていた鞄から宝石のようなものを取り出した。数センチ程度の、ルビーのような赤い石である。それをウィーゼルに差し出し、魔術師は言う。
「これを飲み込めば、あなたには望みを叶える力が宿るだろう。心配はいらない。体内に入れば、この石はあなたの体に馴染んで、あなたは新たな力を手に入れる」
 ウィーゼルは石を受け取る。焚き火の明かりに照らされて、石は一層赤々と輝く。怪しく、禍々しく、荒々しい光だ。ウィーゼルは魔術師に言われるがままそれを飲み込む。
 最初に現れた変化はかゆみだった。オビにやられた傷が酷くかゆい。ウィーゼルは包帯を引き千切り、傷を掻きむしった。自らの爪により抉られた傷口から黒い泥のようなものが溢れ出したかと思うと、傷はみるみる再生し、かゆみも収まった。次の瞬間、体の内側から焼けるような熱さを感じた。炉で熱せられた鉄を飲み込んだかのようだ。ウィーゼルは苦痛に喘ぎ、水を求めて洞窟から這い出す。洞窟の近くに小川があったはずだ。だが、小川に辿り着く前に、骨を無理矢理捻じ曲げられたような激痛が彼を襲う。蒸気のように熱い息が呻き声と共に口から漏れ、白いもやとなって立ち上る。筋肉は肥大化し、骨が軋み、伸びた体毛が全身を覆う。爪は黒金となり、牙は刃に変わった。吐く息は赤く、草木を燃やす。今宵は新月のはずなのに、辺りがやけに眩しい。
 美しくも禍々しい怪物と化したウィーゼルは、空に向かって高々と吠えた。

第六話

 平民街から教会を挟んだ向かい側に、『鷹地区』と呼ばれる高級住宅地がある。ホークバレーの市長をはじめ、比較的裕福な住民が暮らす地区だ。平民街を見下ろすような形で市長の家の屋根に鎮座する一対の鷹の彫像が、この地区の呼び名の由来となっている。裕福な住民が暮らす地区だけあって、煌びやかな宝石店や服飾店、高級ワインの専門店などが充実しており、通りには魔石を組み込んだ街灯が設置されていた。照明といえば松明や蝋燭くらいしか馴染みの無いジェマにとっては、正に別世界のような光景だった。
 ハロルドの家は、道中の煌びやかさとは対照的だった。二階建ての家は一人暮らしには広すぎる規模だったが、屋敷と呼ぶには小さい。ハーブや観賞用の花が植えられた小さな庭付きの、都市においては一般的な住宅である。外装にも屋内にもけばけばしい装飾品の類は一切無く、本棚や暖炉、食卓机とその周りに置かれた椅子など、最低限の家具が置かれているのみだ。床に敷かれた絨毯も、セルペニアに広く出回っているバックロック産の毛織物だった。室内の照明は主に蝋燭で、落ち着きある暖色系の明かりが心を和ませる。
 家の中には家主であるハロルドの他に、少年が一人居た。少年の名前はパットといい、ジェマより二つ年下で、使用人として住み込みで働いているという。
 ハロルドが二階の自室で着替えている間、ジェマは使用人の少年に案内されて入浴を済ませ、食卓に通された。パットは無口な性格なのか、そそくさと厨房に戻って夕食の仕度に取りかかる。蝋燭の穏やかな明かりが眠気を誘う。ジェマはいつの間にかうとうとと舟を漕いでいた。軽快な包丁の音が微かに聞こえる。パンが焼けるにおいと、野菜が煮込まれるいいにおいが鼻をくすぐる。
「おい起きろ。食事の用意ができたぞ」
 ハロルドの声が聞こえ、ジェマは飛び起きる。目の前には香ばしいパンと、裏ごししたじゃがいものスープ、ソーセージとチーズの盛り合わせが並んでいた。
「あっ、す、すみません……! つい寝ちゃって……」
「構わん。冷めないうちに食べろ」呆れたようにそう言って、ハロルドはジェマの向かい側の席に座る。
「……いただきます」
 ジェマは小さくそう言って、スープに手を付ける。音を立てないよう慎重に。とろみのある液体は熱すぎず、冷めすぎてもいない。とろとろに煮込まれたタマネギとじゃがいもの甘みが口に広がり、喉を降りていく。
「入団試験のことだが、盗賊の件を団長に報告するついでに話をしておいた。試験は明朝行われるそうだ」しばらく無言で食事を続けていたハロルドが、思い出したように口を開く。「パットに寝床の準備をさせておいた。食事が済んだら休め」
「ありがとうございます。あの……」
「なんだ」
「今日は、いろいろとご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
「ふん」食事を終えたハロルドは席を立ち、ジェマを見下ろす。「騎士は名誉を重んじるものだ。貴様も騎士を志すならば、軽々しく謝るんじゃない」
「……はい」
 ハロルドの目付きは険しい。ジェマは叱られた仔犬みたいに縮こまる。
「また謝ろうとしたろう」ハロルドの顔に苛立ちが浮かぶ。
「すみま……あっ」
 慌てて口を押さえたジェマを一瞥し、ハロルドは無言で寝室へ向かう。食事を共にする相手が居なくなり、ジェマは冷めてしまったスープを口に運んだ。

 話し声が聞こえたような気がした。
 うっすらと目を開くと、朝焼けが空を染めているのが見えた。部屋の外から聞こえてくる声はハロルドのものだ。ジェマは眠い目を擦りながら重い体をゆっくりと起こし、伸びと共に深呼吸する。
 微かに焦げ臭いにおいがして、ジェマは眉をしかめる。
 もう一度窓の外を見て、ジェマの眠気は吹き飛んだ。紺色の空を照らす赤い光は朝日ではない。火事だ。騎士団の施設が建っている辺りで、火の粉と煙が上がっているのが見える。
 慌しい足音が聞こえ、寝室の扉が開かれる。
「起きていたか。貴様も来い。すぐにだ」
 緊張を含んだ声でハロルドは言う。彼は私服の上に白い制服を羽織り、鞘に収まったレイピアを帯に差していた。
「な、なにがあったんですか? これは……」
 ハロルドは寝癖のついた髪を手ぐしで直しながら、苛立たしげに答える。
「騎士団の施設が何者かに襲われ、火災が発生した。騎士団員に負傷者が出て人手が足りない。貴様も協力しろ」
「ま、待ってください。協力しろって言われても、なにをすれば……」
「炎の魔法を使っていたろう。どの程度操れる?」
「使えますけど、かまどの火加減を調節するくらいで……」
 ジェマが遠慮がちに答えると、ハロルドは一瞬眉間を押さえ、改めて顔を上げた。
「……まあいい。とにかく来い」
 ハロルドの指示により、ジェマは衣装棚の中にあった上着を羽織る。本来は防寒具だが、耐熱性の繊維を使っているため火にも強いという。同じ素材の手袋も着用し、装備を整えたジェマはハロルドと共に現場に向かう。
「あの、負傷者の中に獣人は?」走るハロルドの後を追いながら、ジェマは訊ねる。
「留置所に預けていた獣人のことか? いや、聞いてないな」
「そう、ですか……」
「留置所は脱獄を防ぐために丈夫な造りになっている。大砲でも撃ち込まれない限りは、下手に外に出るより安全だ。心配するな」
 現場に近付くにつれ、野次馬の数も増えていく。彼らは不安と好奇心が混じった目で、赤く染まった空を眺めていた。屋根に上って見物している者も居る。人手不足で駆り出された非番の騎士団員たちが、ひしめく野次馬に怒声を飛ばしていた。混乱する群衆に向け、ハロルドが一喝する。
「ホークバレー騎士団七番隊隊長、ハロルド・リースだ。道を開けろ」
 白い制服を目にした民衆は「おおっ」と歓声を上げ、英雄のための花道を作り上げる。ハロルド・リースを称える声援が響く中、ジェマは身を縮こまらせながら彼の後に続く。階段を駆け上がり、騎士団の敷地へと続くアーチ状の門を潜る。
 三階建ての兵舎の周りに、ローブを身に付けた騎士団員が隊列を組んでいるのが見えた。彼らは冷気の魔法を用いて消火活動に当たっていた。激しい水蒸気が発生するものの、鎮火にはまだ時間がかかりそうだ。
「団長は無事か?」ハロルドは負傷者の救助活動に当たっていた騎士団員にたずねる。
「ハロルド隊長! はい、今のところは三番隊の魔術師たちが炎を抑えていますので、兵舎以外には被害は出ていません。ただ、火の勢いが強すぎて……」
 深夜に突然爆発が起き、兵舎で火の手があがったのだ、と彼は語った。彼は夜の見回りに出ていて被害を免れたが、就寝中だった騎士団員の多くが逃げ遅れ、負傷したという。煙を吸って動けなくなった者が六名、瓦礫の落下による負傷者が七名、軽い火傷や酸欠などの軽症が十六名。重傷者は運び出され、医療班の治療を受けているという。焼け崩れた建物の残骸が至るところに散乱しているが、兵舎の中に居た者は全員脱出し、死者は出ていないようだ。
 ハロルドに協力しろと言われてついて来たものの、ジェマはどうしたらいいかわからず立ち尽くしていた。炎が渦巻く音、負傷者の呻き声、慌しい足音と怒声……まるで戦場だ。圧倒され、怖気付き、体が無意識に後退する。
「襲撃者の姿は見たのか?」ハロルドは冷静に質問を続ける。
「いえ、自分はそれらしき人物は見ていません。現場に居た者の話によれば、『火を吐く獣に襲われた』と」
「火を吐く獣だと?」
「酷く混乱していた様子でしたので、なにかを見間違えたのでしょう。おそらく、ならず者の魔術師の仕業かと……」
 悲鳴のようなどよめきがあがった。野次馬の中からである。ハロルドはすぐにそちらに向かい、ジェマも後を追いかける。
「なにかいるぞ!」「怪物だ!」人々は口々に喚き、門の上を指差していた。そこには奇妙な獣がうずくまっていた。熊よりもふた回りほど大きく、長い顔は狼に似ている。白い体毛が炎によって煌き、ふたつの赤い目が、怯え惑う群衆を見下ろしていた。
「下がれ!」
 ハロルドは群衆の前に躍り出ると、獣に向かって手をかざした。彼の手が青白い光を帯び、稲妻が放たれる。獣は跳躍して雷撃をかわす。閃光が弾け、門の一部が抉られた。ハロルドは追撃するが、獣を捉えることはできない。獣はハロルドを見下ろし、耳まで裂けた口を開く。牙を見せ付けるその表情は、笑っているようにも見える。
「くそっ、速い……!」
 獣は一際高く跳躍すると、ハロルドの目の前に降り立った。獣の鼻息で、ハロルドの髪と制服がなびく。野次馬は悲鳴をあげながら我先にと逃げ出した。追いたてるのを楽しむかのように獣が吠える。大気が、地面が、びりびりと震える。獣の吐息は炎となり、辺りを赤々と照らし出す。幻術の類ではない。触れたものを焼き尽くす熱を帯びた、正真正銘の火炎である。
 獣は後ろ足で立ち上がり、ハロルドを見下ろす。直立した獣の全長はハロルドの身長の三倍はあった。ハロルドは後退しかけるが、踏みとどまり、レイピアを抜いた。その刀身が青白い光をまとう。
 ジェマもハロルドに倣い剣を抜くが、腰が引けて不恰好な構えにしかならない。真っ赤に燃える双眸がジェマを見た。膝が笑う。腰が抜けないよう踏ん張るだけで精一杯だ。怪物が爪を振り上げるのが見えた。目の前に迫る巨大な鉤爪。ジェマの両足は、地面に縫い付けられたかのように動かない。
「どけ!」
 衝撃と浮遊感。ハロルドの白い背中。地面に倒れ、ハロルドに突き飛ばされたのだと気付いた瞬間、凶暴な鉤爪が彼の体を弾き飛ばすのが見えた。
「ハロルド!」
 ジェマは叫ぶ。ハロルドの体が門に激突し、崩れた瓦礫が降り注ぐ。もうもうと立ち込める土埃で、ハロルドの姿が見えなくなる。
 ジェマは顔を覆い、膝を付く。勝ち誇るかのような獣の咆哮。人々の怒声、悲鳴。それらが遠くに聞こえる。立たなければと気持ちは焦るが、体は言うことを聞いてくれなかった。視界が滲む。ポロポロと、涙が零れる。
「なにを呆けている。立て!」
 その声が、ジェマの意識を現実に引き戻す。まず目に入ったのは、光だった。青白い閃光が、獣を押さえ込んでいる。雷撃に悶える獣の背後に、ハロルドの姿があった。白い制服は額から流れる血と土埃で汚れ、門にぶつかったときに折れたのか、右肩が力なく垂れ下がっている。
「……しっかりしろ。人手が足りないと言ったろう。貴様がトドメを刺せ」ハロルドは苦痛に顔を歪め、浅い呼吸を繰り返しながら声を絞り出す。
「ハロルド、怪我を……」
「僕に構うな! やれ!」
 涙はいつの間にか止まっていた。ジェマは剣を支えに、震えながらも立ち上がる。
 旅立ちのとき、父から貰った剣。刃は鋭い銀色の輝きを放ち、その輝きはジェマに勇気を与えてくれた。柄を握る手に力を込め、ジェマは獣の心臓目掛けて刃を突き立てる。
 怪物の断末魔の咆哮が、ホークバレーの町に轟いた。

第七話

 怪物の断末魔がホークバレーの町に響く。獣の目から赤い輝きが消え、その巨体が石畳に倒れ込む。ジェマは荒い呼吸を繰り返しながら、怪物の胸に刺さった剣を引き抜いた。その瞬間、怪物の傷口から赤黒い液体が噴き出し、ジェマの体に降りかかる。
 ジェマの意識は暗闇に取り込まれ、やがて目の前に記憶に無い光景が浮かぶ。どこかの森林地帯。その一部で火の手があがる。炎は一瞬にして燃え上がり、漆黒の夜空を赤く染め、全てを焼き尽くさんと暴れ狂う。炎の中を逃げ惑う人々。助けを求める悲鳴。彼らを救う者は居ない。ジェマはその光景を、上空から見下ろしていた。
「……マ……! ジェマ! しっかりしろ! 聞こえるか!」
 呼びかける声と肩を揺さ振られる感覚で、ジェマの意識は現実に引き戻される。
「えっ、あ、あれ……? ハロルド……?」
 ジェマの肩を揺さ振っていたのはハロルドだった。ジェマがぼんやりしつつも返事をすると、彼女の顔を覗き込んでいた彼は安堵の溜息を吐いた。
「意識はあるようだな。体に違和感は無いか? どこか具合が悪いところは?」
「いえ、特には……」切羽詰った彼の様子に戸惑いつつ、ジェマは答える。「あ、ごめんなさい。上着汚れちゃって……」
 ハロルドに借りていた上着は、怪物の体液によって真っ黒に染まっていた。ジェマはそのことを詫びるが、ハロルドは気にするなと言うように首を振る。
「……すまない、僕の判断ミスだ。まさかあの化物が呪いを放つとは」ハロルドは苦々しげに声を絞り出す。
「の、呪い?」
 訊き返したジェマの声は裏返っていた。ハロルドは「ああ」と言ってうなずく。
「黒魔術の一種で、生き物を怪物に変える禁忌の魔法だ。噛まれたり血を浴びることで感染し、甚大な被害をもたらすといわれている。とっくに滅びた魔術だと聞いていたが……」
「えっ……それって下手したら、私も怪物にされるところだったってことですか……?」
 倒れている怪物を見て、ジェマはごくりと唾を飲む。
「今変化が起きているわけではないから、心配しなくていい。だが、念の為検査を受けておいたほうがいいだろう。医務室はあっちだ」
 ジェマはハロルドが示した場所へ向かおうとするが、ふと足を止めて振り返る。
「一緒に行かないんですか?」
 ハロルドの体はボロボロだった。痛そうな素振りは見せないものの、強打した右肩は不自然にぶら下がり、歩く動作もぎこちない。
「じきに野次馬が集まり出す。その前に怪物の死体を片付けなくてはいけない」
「でも、その怪我じゃ……」
「心配無い。痛覚は麻痺させてある」ハロルドはうっとおしげな表情をジェマに向ける。「左腕が使えれば充分だ」
「ダメですよ! 無理して怪我が悪くなったらどうするんですか!」
「僕の体はそんなにやわじゃない。おい、引っ張るな」
 ジェマはハロルドを引っ張って医務室に向かう。ハロルドとジェマが怪物を引き付けている間に、医務室に詰めかけていた怪我人は粗方はけていた。検査は数分で終わり、呪いによる影響は無いという結果を聞いたジェマは胸を撫で下ろす。医療班による治癒魔法でハロルドの怪我も治癒された。骨が折れてもすぐに治せるのだから、魔法というものは便利なものである。
 騎士団員の懸命な消火活動によって火の勢いも弱まり、明けはじめた空に白い煙が昇るのみとなった。怪物の死体の周りには早くも人だかりができていたが、ハロルドが一喝すると蜘蛛の子を散らすように去っていった。遠巻きにこちらを見ている群衆を尻目に、ハロルドは怪物の死体を調べるべくしゃがみ込む。
「なにかわかりましたか?」
「いや。魔術の印や媒体でも見付かるかと思ったが、なにもないな。やはり専門の機関に回して調べてもらうしか……」
 そのとき、ジェマは怪物の指先がわずかに動くのを見た。彼女は叫ぶ。
「危ない、離れて! その怪物、まだ息があります!」
「なんだと?」
 ほとんど虫の息だが、怪物はまだ生きていた。ジェマが突き刺した胸の傷が徐々に塞がり、禿げた傷口から新しい毛が生え始める。
 ハロルドが刃を抜くのを、ジェマは咄嗟に止めた。
「なにをする! 放っておけばこいつはまた……」
「ダメです! また呪いを放つかもしれない! 私はたまたま大丈夫でしたけど、あなたは……」
 ハロルドは舌打ちをする。怯える群衆が、怪物を殺せと叫ぶ。
 そいつを殺せ。早く殺してくれ。俺たちを守るのが騎士の仕事だろ。俺たちを助けてくれ。
「うるさい! 黙っていろ!」
 ジェマは自分に言われたのかと思い、思わずハロルドの手を離す。
「貴様ら、なにをしている! 市民を避難させろ! 急げ!」
 ハロルドは周囲に居る騎士団員に指示を飛ばし、レイピアを引き抜く。野次馬たちは騎士に誘導され、あっという間に居なくなった。
 怪物の目が開く。ジェマとハロルドは怪物から離れ、攻撃に備えて身構える。
 怪物の口が動き、ノイズの混じったざらざらした音を発する。くぐもっていて聞き取り辛いが、なにか言っているようだ。
「ココハ……ドコダ……」
 言葉のようなものがかろうじて聞き取れた。ジェマは眉をひそめる。
「喋った……?」
 体を起こし、きょろきょろと辺りを見ている怪物からは、敵意のようなものは感じなかった。
「剣を構えろ。まだ安全とは言えない」怪物から目を離さず、ハロルドはレイピアを構える。
 怪物はいっこうに襲ってくる気配はない。目の前に居る小さな生き物を不思議そうに眺めているだけだ。
「ハロルド」ジェマは小声でたずねる。「私は魔術に疎いのでわからないんですが……彼から魔力とか呪いとか、そういったものの気配は感じますか?」
「……いや」怪物を観察して、ハロルドは首を振る。「呪いの力は、貴様に放ったときに消費したようだな。わずかに感じるが、今は落ち着いている。魔力はほとんど感じない。隠している様子でもない」
「そうですか……」
 ジェマは剣を収め、ハロルドにもそうするよう言った。無闇に刺激して相手を怖がらせてしまっては、また暴れ出すかもしれない。ハロルドは渋々ながらジェマの提案を飲んだ。
「なにか策があるのか? このまま睨み合っていても埒があかないぞ」
「えと、上手くいくかわからないんですけど……言葉は通じるみたいなので、彼の話を聞いてみたいと思います。もしかしたら、彼を怪物にした犯人もわかるかもしれないし」
「……わかった。いいだろう」
 ハロルドは静かにそう言って、数歩後退する。険しい顔で見守る彼に笑顔を見せ、ジェマは獣に向き直る。
「あなたが暴れなければ、私たちは攻撃しません。話を聞かせてもらえませんか?」ジェマは穏やかな口調で語りかける。
 獣は訝しげに目を細め、ジェマを見た。ふんふんと鼻を鳴らしている様子は、においを確かめているように見える。
「オマエタチニ用ハ……ナイ。アイツハ……ドコダ……」
「あいつ? あいつって誰……」
 獣はジェマの言葉を遮って低く唸り、牙をむく。四つ足で立ち上がった獣の周囲に、黒いもやのようなものが立ちのぼるのが見えた。ハロルドの手がジェマの腕をぐいと引き寄せる。その瞬間、獣の口が赤く光り、同時に爆音が辺りに轟いた。爆風に煽られ、ジェマとハロルドは兵舎の方へと吹き飛ばされる。体のあちこちを擦り剥いたものの、ハロルドの機転で直撃は免れたので、たいした怪我は無い。二人はすぐに体を起こす。
「あ、ありがとうございます……」
「気をつけろ。呪いの気配がまた高まっている。来るぞ!」
 獣は咆哮をあげ、ジェマとハロルドに向かって突進する。長い手足でその巨体を支え、馬よりも遥かに速い速度で向かってくる。
 ジェマとハロルドの後ろから、なにかが飛び出した。焼け崩れた兵舎の柱を伝い、獣に向かって飛びかかったのは、一匹の獣人。留置所に預けられていたはずのオビだった。
 オビは空中で息を吸い、吠えた。雷鳴のような轟音が獣を襲う。ビリビリと空気が震え、さすがの獣もその咆哮にたじろぐ。オビは獣の前に立ちはだかるように着地し、自分よりはるかに巨大な相手に怯むことなく、四つ足の姿勢で唸る。
「オビ! なんで君が……!」勇ましくしっぽを立てる後姿に向かって、ジェマは問う。
「ジェマを助けに来たに決まってるよ。おじさんに外に出ちゃダメって言われたけど、オビがガオッってやったら出してくれたよ」オビは振り返り、誇らしげに鼻を鳴らす。
「脅して逃げて来たのか……」ジェマは頭を抱える。処分の猶予を頼んだ手前、役人には気の毒なことをしてしまった。
 獣が吠え、オビも獣に向き直って吠え返す。
「またジェマをいじめてるな! 今度こそぶっ殺してやる!」
「ち、ちょっと待って、オビ!」ジェマはオビが吐いた物騒な言葉に驚きつつ、たずねる。「君にはわかるの? あいつの正体が」
「あいつはウィーゼルだよ」なんでもないふうにオビは答える。「ずいぶん大きくなったけど、あいつはウィーゼルだよ。あんな嫌な奴のにおいを間違えるわけないよ」
「ウィーゼルだと?」今度はハロルドが声をあげる。「どういうことだ? なぜあいつが戻って……」
「あーもう! 喋ってる暇ないんだよ! 下がってて!」
 苛立たしげにオビはそう言って、獣に向かって飛びかかっていった。獣の傷は完全に癒えていたが、ジェマとハロルドとの戦闘を経て疲労が溜まっているようだ。オビのほうが若干優勢に見える。だが圧倒的というわけにもいかず、怒り狂う獣が振るった爪にオビは弾き飛ばされ、地面に激突した。オビの周りに窪みができるが、オビはすぐに立ち上がって獣に向かっていく。
「あいつは、何者なんだ……?」
 勇猛に戦うオビに釘付けになりながら、ハロルドが呟く。気のせいか、声が震えているように聞こえた。
「なにが、ですか?」オビを見守っていたジェマはハロルドに視線を向ける。
「あのオビとかいう獣人のことだ。混血種は頑丈だといわれているが、あれはいくらなんでも常軌を逸している……」
 オビは何度も地面に叩きつけられているが、こたえている様子はない。痛みは感じているようで、時折「ぎゃんっ」と悲鳴をあげているものの、猛然と飛びかかる勢いは鈍らない。
 遂に獣が膝をついた。トドメとばかりにオビは獣の首にかじりつく。その傷口から黒い液体が滲み出す。
「オビ! 離れろ!」ジェマはハロルドが言っていた呪いの存在を思い出し、叫んだ。
 獣の傷口から液体が溢れ出す。オビはそのにおいに驚いて口を離すが、彼の体には呪いを帯びた体液がべったりと付着していた。
「うわっ、くさっ! なにこれー!」
「オビ!」
 駆け寄ろうとしたジェマをハロルドが止める。
「ダメだ、近付くな! 奴も怪物になるぞ!」
「そんな……!」
「完全に変わる前に始末しなければならない。見たくなければ目を瞑っていろ」
「や、やめてください! まだ治す方法が……!」
 ジェマの言葉を振り切って、ハロルドは雷撃を放つ。対象を拘束するためのものではなく、敵を穿つための光の大槌である。
 眩い閃光を放ち、稲妻がオビに襲い掛かる。
 オビの名を呼ぶジェマの悲痛な叫びが、響いた。

第八話

 正義とはなにか。十四歳でホークバレー騎士団に配属されたハロルドは、今日(こんにち)に至るまでずっと自分に問い続けてきた。法律を守り、それに従うことだろうか。悪を倒し、弱い者を助けることだろうか。答えはいまだ出ていない。ただひとつ言えることは、完璧な正義を実行することは不可能であり、自分にできることは限られているということだけだ。パンを買うために代金を支払わなければならないように、人は代償なしにはなにも得ることはできない。盗賊を捕らえるためにジェマの夢や善意を利用したことも、多くの市民を救う為にオビを犠牲にすることも、正義を貫くために必要な代償だと彼は信じていた。

 辺りを激しい光が包み込み、オビと怪物の姿が掻き消える。轟音が空気を震わせ、砕けた石畳の破片が舞い上がり、雨のように降り注ぐ。土埃と煙が風によって徐々に晴れ、焦げ臭い煙が埃と共に流れていく。
 ハロルドは目を疑った。落雷をまともに受けたはずのオビが、何事もなかったかのようにそこに立っていたのだ。オビは水から上がった犬のように頭をぷるぷると振り、自分を攻撃した人間に視線を向ける。ハロルドの体には攻撃に回せる魔力は残っていない。オビの眼差しに気圧され、ハロルドは無意識に一歩後退っていた。
 オビはハロルドの隣で膝をついていたジェマの姿を見止めると、ぱあっと明るく笑って手を振り、能天気な声をあげる。
「ジェマー! オビがやっつけたよー!」
 飛び跳ねるオビの足元には、白い毛並みの獣人が倒れていた。オビが言っていたように、その獣人は確かにウィーゼルだった。息はあるようだが、立ち上がってくる様子はない。
「ああ、びっくりしたあ」
 不意に聞こえた声に、ハロルドはびくっと肩をすくませる。声のほうを見ると、ジェマが安堵の混じった苦笑をハロルドに向けていた。
「脅かさないでくださいよ。本気でオビのことやっつけちゃうのかと思ったじゃないですか」
「いや……ああ、そうか」
 本当はそのつもりだった、などと言うわけにもいかず、ハロルドは曖昧な返事をする。
 こちらに駆け寄って来るオビを見て、ハロルドの体に緊張が走る。オビはハロルドを無視してジェマに駆け寄り、頭を撫でられてゴロゴロ喉を鳴らす。ハロルドは抜きかけたレイピアを収め、恐る恐る歩み寄る。
「貴様、なんともないのか」
 ハロルドに声をかけられたオビは、ぷいっとそっぽを向いた。ジェマが代わりに答える。
「大丈夫、みたいですね。呪いの影響が無いか、一応検査を受けさせて来ますね」
「……ああ、そうだな。そうしてくれ」
 ジェマがオビを連れて医務室へ向かったのを見届けた後、ハロルドは部下を呼び、ウィーゼルを運ぶよう指示を出した。怪物化は解けているので、もう危険は無いはずだ。現場を部下に任せ、ハロルドは襲撃事件の収束を報告するべく団長のもとへ向かう。
 炎上したのは兵舎の居住棟とその周辺であり、留置所の壁にも爪痕などの攻撃の痕跡はあったものの、他の施設に被害は無かった。
 ハロルドは中庭を抜け、団長室のある塔へと向かう。塔は三階建てで、一階は一般市民にも開放されている図書館、二階は会議室になっている。らせん状の階段を上った最上階に、その部屋はあった。
 階段を上ってすぐにある鉄製の扉をノックすると、扉はひとりでに開いた。ひとりでに、というのは語弊があるが、正確には中に居る人物による仕掛けである。扉は特注の魔法扉に団長が手を加えたもので、魔力の波長を感知して開閉する仕組みになっていた。就寝中を除き、部屋の主が中に居るときは訪問者に反応して開くが、主が留守のときは決して開かないという仕組みになっている。団長室には機密書類や命令書が保管されているので、よからぬ輩の侵入を防ぐための用心である。扉が開いたので、部屋の主は在室のはずなのだが、定位置であるはずの事務机に団長の姿は見えない。
「七番隊隊長、ハロルド・リースであります。事態収束の報告にあがりました」
「ああ、すまない。今手が放せないんだ。中に入ってかけていてくれないか」
 部屋の奥から声が飛んで来る。ハロルドは「失礼します」と言って部屋に入り、書類の積み上がった机のそばで待機する。来客用の革製のソファはすでに(すす)にまみれたマントと剣に占領され、椅子には何故か鉢植えが乗っていた。団長の椅子に座るわけにはいかないので、ハロルドは立ったまま待つことにした。
 物音が聞こえる位置から推測するに、団長は奥の調理室に居るらしい。調理室といっても団長が料理をすることはなく、もっぱら仕事の合間にお茶を淹れるために使われている。今日はいつもの紅茶のにおいとは違い、花や果物に似た甘く爽やかな香りが漂っていた。
 しばらく待っていると、ゆったりとしたローブを着た黒髪の男性が、湯気を立てるマグカップを二つ持って調理室から出て来た。彼こそがホークバレー騎士団の団長である。
「あっ、ごめんね! ソファ埋まっちゃってたね」団長は机の上の書類を押し退けてマグカップを置き、汚れたマントと剣をどかす。「私もさっき戻って来たところなんだ。怪我人の状況を確認しててね」
「団長自ら現場に赴いたのですか?」
「隊長クラスの騎士団員もほとんどやられてたからね。無事だったのは地下の研究室に居た三番隊の隊長と、君くらいだよ」言いながら、団長は机の上のマグカップを手に取り、一口すする。
「それはそうと、最近ハーブティーに凝っていてね。君もどう? 疲れが取れるよ」机に置かれていたもう一つのマグカップが目の前に差し出される。
「その前に、報告を」ハロルドは淡々と言い、団長は肩をすくめてカップを机に戻す。ハロルドは襲撃事件の一部始終と被害の状況を告げ、襲撃者を捕らえたことを伝えた。
「夜中に呼び出されて大変だったね、ご苦労様。襲撃者から兵舎を襲った動機は聞けたのか?」
「いえ。ですが、心当たりはあります。恐らく、かつての仲間の裏切りに対する復讐かと」
「君が昨日言っていた、オビという獣人のことだね?」
 ハロルドはうなずく。オビのことは、盗賊の件と絡めてすでに報告していた。ジェマの話も役人を通して伝わっているはずだ。
「彼にとっては、文字通り飼い犬に手を噛まれたようなものだからね。留置所に居たオビ君のにおいに引き寄せられたんだろうね」
「そのオビという獣人なのですが……襲撃者と交戦した際、何度も攻撃を受けていたのですが、こたえた様子はありませんでした。混血種にしても、あの頑丈さは異常です。奴の調査を要求します」
 団長は「ふむ……」と唸って腕を組み、呟くように言った。
「ドラゴン……か」
「ドラゴン?」ハロルドは眉をひそめる。「『救世の英雄』で語られている、あのドラゴンですか?」
「……いや、まさかな。冗談だよ」団長はそう言って肩をすくめ、おどけたような仕草を見せる。
「冗談……」
「ドラゴンはあくまで想像上の生き物だよ」懐疑的なハロルドの視線を受け、団長は取り繕うようにそう言った。「ともかく、彼が人々に危害を加える存在かどうかはわからないが、念の為調べてもらうよう、私から言っておくよ」
「……よろしくお願いします」ハロルドはおぼろげな返事をする。
「さて、君への指示だが……まずは休息を取りなさい。昨日から働きづめじゃないか」
「え? いえ、休息なら充分に……」
「ハロルド君」団長はハロルドの言葉を遮る。「君はいつもよく働いてくれるし、今回だって、襲撃者を捕らえ、町を救ってくれた。君の迅速な行動と勇気が皆を守ったんだ。それで充分だろう」
「しかし……」立ちっぱなしだったせいだろう。立ち眩みがして、ハロルドは一瞬声を詰まらせる。「騎士団の兵舎が襲われたことで、住民は不安がっています。悠長に休んでいるわけには……」
「休むことも仕事のうちだよ。団長の命令が聞けないのかい?」
 団長の口調は柔らかく、冗談めいていたが、ハロルドはびくっと体を強張らせた。
「……申し訳ありません。出すぎた真似を」
「いや、そういうことじゃなくてね……」団長はうーんと唸り、しばらく間を置いてから静かに問いかける。「君は……あれだろ? 盗賊を取り逃したことについて負い目を感じているんだろ?」
 ハロルドは無言でうなずいた。ウィーゼルの挑発に乗せられ、取り乱してしまったことについて、ハロルドはずっと悩んでいたのだ。自分がウィーゼルを逃がさなければ、今回の襲撃も起こらなかったはずだと。
「わかった。君が責任を取りたいと言うのなら、挽回の機会を与えよう」うつむくハロルドに団長は溜息混じりにそう言って、続ける。「そのウィーゼルという盗賊の意識が戻り次第、彼に呪いをもたらした魔術師について聞き出してほしい。もちろん、明日以降で構わない。今日のところは家に帰って、体力と魔力の回復に努めること。いいね」
「承知しました」ほっとしたハロルドは、ジェマのことをふと思い出す。「そういえば、今朝の入団試験はどうなるのでしょうか。この騒ぎでは、試験どころではないのでは」
「それは問題無い。審査は私と、数名の幹部で行うことになっている。今頃幹部たちは鷹地区でトーストをかじってる頃だろうし、会場となる中庭も被害が無いから、試験に差し障ることはないよ」
「そうですか……よかった」
「ベリーコイドから来たっていうあの女の子、気になるかい?」
「いえ。ただ、ここに来て試験を受けられないのは酷だと思ったまでです。兵舎が襲われた要因の一端は、自分の過失でもありますし……」
「まあ、試験を受けられても、簡単に合格させてあげる気は無いけどね」
 団長は窓の外を見やり、ハーブティに口を付ける。「うーん、なんか物足りないな。蜂蜜でも入れてみようかな」などと独り言を呟く団長に、ハロルドは訝しげな目を向ける。
「どういうことです?」
「果物のにおいがするのに甘くないのって変じゃない? どう思う?」
「そっちじゃなくて、その前です」
「あ、そう」団長はやや残念そうに唇を尖らせ、話を戻す。「騎士団は基本的に男所帯だから、女の子への風当たりは厳しい。入団するからには、皆を納得させる実力が無いといけない。君も承知してるだろう?」
「ええ、まあ」
 民間の騎士団は家柄による制限が無い代わりに、高い実力を要求される。街周辺の集落から山賊退治の依頼が来ることも多いため、即戦力となる人材が求められるのだ。
「大丈夫だよ」ハロルドの表情が曇ったのを見て、団長は柔らかく微笑んでみせる。「ベリーコイドは私の故郷でもある。同郷の彼女に意地悪なんかしないよ」
 ハロルドが部屋を出る間際、団長は彼を呼び止め、ウィーゼルに会いに行く前に自分のところへ来るようにと言った。渡したい物があるという。今受け取るのではいけないのかと問えば、まだ準備ができていないのだと団長は言った。
「承知しました。後ほどうかがいます。では、自分はこれで」ハロルドは一礼し、改めて団長室を後にしようとする。
「あー、ちょっと待って」団長は机に放置されたカップを指差し、苦笑いしながら言った。「せっかく淹れたんだし、飲んでかない? これ」

第九話

 騎士団の食堂で朝食を軽く済ませてから、ジェマは緊張した面持ちで試験会場である中庭へ向かっていた。オビは検査を終え、問題無いという結果を受けた後、そのまま留置所に預けられた。ハロルドは家に帰って休んでいる。とても眠そうにしていたので、ジェマは送ろうかと提案したが、彼はそれを退けた。足取りはしっかりしていたので、心配しなくてもいいだろう。
 受付を済ませ、中庭に通される。ウィーゼルの襲撃で半壊した建物の瓦礫が、隅に集められて山のようになっていた。建物は魔法で直すことはできないので、完全に修復されるにはまだしばらく時間がかかるだろう。
 周囲にできた人だかりの中には、試験官である騎士団の幹部たちだけでなく、下級騎士や一般の市民の姿もあった。大きなかごを抱えて飲み物や軽食を売り歩いている人の姿も見える。騎士団の実技試験は、この町の人たちにとってはお祭りみたいなものなのだろう。
「それではこれより、騎士団入団試験の実技試験を開始する」紫色の軍服を着た厳つい風貌の男が声を張る。「受験者、ベリーコイドのジェマ!」
「はいっ!」上ずった声でジェマは返事をする。
「貴様には我が騎士団の若手と試合をしてもらう。勝負は三回、一回でも勝てば晴れて入団の許可が降りる。貴様が戦うのは彼だ。七番隊所属、南タロンフォード出身、パーシー!」
 七番隊ということは、ハロルドの部下だろうか。声援と共に人込みの中から現れたのは、赤毛の少年だった。ジェマと同じくらいの背格好で、下級騎士の位を示す深い緑色の制服を着ている。港町タロンフォードの夕日を映したような緋色の目が印象的だ。パーシーと呼ばれたその少年は剣を引き抜き、ジェマに向けて切っ先を突きつける。好戦的な双眸に射すくめられ、ジェマはたじろぐ。気圧されまいと足に力を入れ、彼女もパーシーに倣う。
「ルールは単純だ。相手の剣を奪った者が勝ちとなる。剣が持ち主の手を離れて地面に着いた時点で負けと見なす。団員は魔法の使用を禁ずる。以上だ」
 ジェマとパーシーがうなずく。
「試合開始!」
 号令と同時に、パーシーが飛び出した。打ち出された矢のような一撃を、ジェマは剣で受ける。重い。押し返そうと踏ん張るが、相手はびくともしない。
「……この程度か」
 相手がそう呟いたのをジェマは聞いた。同じ年頃の少年にしては、思ったより高い声だ。ジェマが気を取られた隙に、パーシーは手首を返して彼女の剣を逸らす。バランスを崩し前のめりになった瞬間、手首に手刀が叩き込まれ、ジェマは剣を落としてしまった。あまりの早業に、なにが起こったのか一瞬理解できなかった。
「一本!」団員の勝利を示す青い旗が揚げられる。観客席からわっと歓声があがる。
「すごい……これが騎士団の実力なんですね……!」痺れた手を押さえながら、ジェマは感嘆の声を漏らす。負けた悔しさよりも、騎士団の素晴らしさを目の当たりにした感動が上回っていた。
「能天気な奴だな、君は」パーシーが溜息を吐く。「君さ、舐めてるの? 真面目にやってくれないと困るんだけど」
「す、すみません……」ジェマはしゅんと縮こまる。「もう一度お願いします!」
 再び号令がかかる。パーシーは仕掛けてこない。ジェマは渾身の力を剣に込めて、相手の剣を弾き飛ばそうと狙う。パーシーは涼しい顔をして、ジェマの突進を闘牛士さながら華麗にかわした。観客から大きな歓声があがる。
「あーあ。がっかりだよ。ハロルド様のお気に入りだって聞いてたから楽しみにしてたのに」パーシーはあからさまに退屈そうに剣を回す。
「え?」
「君、ゆうべの火災現場に居たろ。俺は怪我して加勢できなかったから、後で聞いた話だけどさ。騎士団員でもないのに、なんでうちの隊長と一緒に居たんだと思ったら、家に泊めて貰ってたんだって?」
「そ、それは……」
 言いよどむジェマに、パーシーは侮蔑を込めた視線を向ける。
「あの人も男だからね。女性に言い寄られたら、邪険にはできないよね」
「違います! ハロルドはそんなつもりじゃ……」
「真実なんかどうだっていいんだよ」緋色の眼光がジェマを射抜く。「俺はね、あの人にすり寄るメス猫を駆除したいだけなんだよ。あの人に近付くために騎士団を利用しようとする、薄汚いメス猫をね!」
「ちょ、メス猫って私のこと……うわっ!」パーシーの剣がジェマに牙をむく。魔法は使っていないはずなのに、剣圧で吹き飛ばされそうになる。ジェマは間髪容れず繰り出される剣戟を必死に受けながら、壁際へと追い詰められていく。
 パーシーの渾身の一撃が、ジェマの剣を弾き飛ばす。弾かれた剣はくるくると回りながら弧を描き、芝生に突き刺さる。
 視界の隅で青い旗が揚げられ、歓声があがる。ジェマは呆然と立ち尽くしたまま、パーシーの嘲笑を見ていた。
「聞いてごらん。誰も君の応援なんかしてない。不埒な動機で騎士団に入ろうとする奴なんていらない。やっつけてしまえ。みんなそう思っているんだよ」
「違う……私は……私はそんなんじゃ……」
 観客たちの声は雑然としていて、ひとりひとりの言葉は聞き取れない。しかしパーシーに言われた言葉のせいで、周りから浴びせられる声が自分を責め立て、罵倒しているかのように感じてしまう。それを否定してくれる味方は居ない。彼女は一人だった。
 三回戦目の号令がかけられる。ジェマは立ち尽くしたまま動かない。

   ☆   ☆   ☆

 団長室の窓から試合を見物していたホークバレー騎士団の団長は、「おやおや」と呟いて蜂蜜入りのハーブティーをすする。
「これはちょっとマズい状況かもなあ、あの子」
 パーシーは下級兵士の中でも指折りの剣士だが、手加減というものを知らない。会話は聞き取れないが、受験者がパーシーに押されているのは見ただけでもわかる。パーシーが詰め寄れば、受験者は同じだけ後退る。まるで猫に追い詰められたネズミみたいに。
「医療班の要請をしたほうがいいかもな」
 団長はそう呟いて、医務室に繋がる通信機に手をかけた。

   ☆   ☆   ☆

「違う……私が騎士になりたいのは、不埒な動機なんかじゃ……」
「違う? じゃあなんで君は騎士になんてなりたいわけ? 田舎からのこのこ出てきて財布盗まれたり、ハロルド様の足を引っ張ったりしてさ」
「それは……」
 言葉を探すジェマに、パーシーはなおも畳みかける。
「答えられないよなあ。実力も覚悟もないけど、騎士の男とお近付きになりたいから騎士団に入りたいんですーだなんて!」
「違う!」ジェマの足元で炎が燻ぶる。火事の燃え残りではない。ジェマの魔力によって生み出された、魔法の炎である。「私は、騎士になりたいからなるんだ!」
「おや、やっと本気になってくれるのかな?」挑発的な笑みを向け、パーシーが言う。「でも無駄だよ。君はここで終わるんだ。なりたいから騎士になる? くだらないな。しょせん君の夢なんてそんなものだ。誇りも覚悟もないのなら、そんなくだらない夢は俺が打ち砕いてあげるよ」
 パーシーはわざと隙のある姿勢をとり、ジェマの攻撃を誘う。
「やってみろ!」
 覇気を帯びたジェマの怒声が会場に響き、周囲が静まり返る。
 誰も助けてくれないのなら、自分が強くなるしかない。
 強くならなければ、誰も守れはしない。
 ウィーゼルに敗北し、ジェマは自分の無力さを痛感した。火災現場の凄惨な光景に怖気付き、ハロルドに怪我をさせた後悔が彼女を苛んでいた。
 朝日に輝く瞳がパーシーを睨む。真顔になるパーシーに、ジェマははっきりとした口調で言い放つ。
「私は、私の意志で未来を切り開く!」
 ジェマの足元の炎が勢いを増し、炎の壁が彼女を包み込む。魔法によって発生した炎は術者を傷つけることはない。接近戦を仕掛ける相手にとっては厄介な壁だ。だがパーシーは焦った様子も無く、腹を抱えて笑う。
「はっは! なんだそれは! 威勢のいいことを言ったわりに、防戦一方じゃないか! そんな逃げ腰で俺に勝つつもりか? 舐めるな!」
 パーシーは怒声と共にジェマに向かって突っ込んでいく。パーシーの剣はジェマの腕を狙っていた。例え腕を切り落としたとしても、すぐに治癒魔法をかければ問題無い。少し痛い目を見せてやろうと、パーシーは考えたのだろう。
 炎の壁を突き破り、刃がジェマの腕を貫く。悲鳴のような声があがる。だがその声は観客のもので、ジェマは眉ひとつ動かさず立っていた。
 一瞬の混乱が命取りとなった。炎の壁が消えると同時に、その後ろからジェマの放った一閃がパーシーを襲った。ジェマの腕を切り落とした気になっていたパーシーは、期待した手ごたえがなかったことで困惑し、うっかり力を抜いていた。鋭い金属音が辺りに響き、パーシーの剣が宙を舞う。パーシーが斬ったと思ったのは、炎の光に屈折したジェマの幻影だったのだ。
「くそっ……!」パーシーは、宙を舞う剣に手を伸ばす。指が柄に触れるが、ギリギリで届かない。パーシーは地面を蹴り、飛び込むような姿勢で剣を追いかける。「舐めるなああああッ!」
 パーシーが地面に倒れ込むと同時に、柴が舞い上がる。その右手には剣が握られていた。パーシーが握ったのは柄ではなく、刀身だった。刃が指に食い込み、血が滴る。剣が地面に着いていないので、判定はセーフ。試合は続行となった。
「はは……はははは……! 残念だったな、メス猫!」立ち上がりながら、パーシーは笑う。血で滑るため、剣は左手に持ち直されている。「俺は騎士団の名誉を守るためなら、腕の一本でも二本でも差し出すつもりだ。お前にその覚悟があるか?」
「大人気ないぞパー君」
「今のは負けてやれよパー君」
「やかましい! パー君って呼ぶな!」観客席から飛んで来た同僚の野次に、パーシーは歯をむいて唸る。それから取り繕うように咳払いをして、左手で剣を構えてジェマに切っ先を向けた。「さあ来い。勝負はまだついていない」
「そうですか……わかりました」ジェマはパーシーを見返し、静かに答える。「それなら、私も全力であなたを叩き潰します。私の未来のために」

 その後の試合は熾烈を極めた。圧倒的な実力の差を前にあっさり負けると思われた少女は、炎の魔法を巧みに操る戦術によって力の差を埋めていく。ジェマは高度な魔法こそ使えないが、小さな火の玉を空中に設置することでパーシーの動きを妨害するなど、工夫を凝らした戦法で観客を沸かせた。対するパーシーも一歩も退かず、利き手が使えないというハンデも感じさせない身のこなしでジェマを追い詰める。剣を交わすたび試合は過熱し、観客の応援にも熱が入る。ようやく決着が付いたのは三十分後だった。一瞬の隙を突き、ジェマがパーシーの剣を叩き落すことに成功した。受験者の勝利を示す赤い旗が揚げられ、惜しみない声援と拍手がジェマに送られた。試合を終え、パーシーとジェマは同時に地面に倒れ、駆けつけた医療班により二人一緒に医務室に運ばれた。
 こうして、ジェマは晴れて騎士団に入団することになったのである。

第十話

 ハロルドが目を覚ましたときには、既に正午を回っていた。家に着いてから酷い眠気に襲われたところまでは覚えているのだが、ベッドに入るまでの記憶が無い。自覚は無かったが、余程疲れていたのだろう。
 部屋を出た瞬間、ハロルドは眉をしかめる。藻が湧いた水槽のような、青臭いんだか泥臭いんだか判然としないにおいが辺りに漂っていた。間違ってもハーブティーとか薬膳とかそういった類のものではない。ハロルドは階段を降り、においの源泉である厨房を覗き込む。
「おい、なにをやってるんだ」
「ハロルド様!」
 嬉しそうな声をあげて振り返ったその顔は見慣れたものだった。
「パーシー、なぜ貴様がここに……」
「すみませんハロルド。騒がしかったでしょうか」おずおずと口を開いたのはジェマだ。「兵舎に運ぶ荷物を取りに戻ると言ったら、彼がどうしてもと言うので、お連れしたのですが……」
「ハロルド様の寝込みを襲おうなんて許さんぞ!」
「襲いませんよ……」
 いつの間にかパーシーと打ち解けた様子のジェマに、ハロルドは感心する。
「では、試験には合格したのだな」
「ええ、なんとか」
 二人揃って厨房で料理をしている姿は実に微笑ましかった。鍋の中身が、ぐちょぐちょと嫌な音を立てて沸騰する得体の知れない液体でなければ、の話だが。
「それで、その鍋の中身はなんだ? 誰かを毒殺でもするのか?」
「これはですね!」パーシーが割って入る。「東の大陸に伝わる『カンポー』というものです! ハロルド様がお倒れになったと聞いて居ても立ってもいられず、滋養強壮に効く薬草を片っ端からぶちこんでやりました!」
 言いながら、パーシーは青緑色のどろどろした液体を器によそい、ハロルドに差し出す。差し出す、というよりは、押し付ける、と言ったほうが的確である。『カンポー』とは恐らく『漢方』のことだろう。ハロルドも東の文化に詳しいわけではないが、妙な発音をしているところからして、パーシーが盛大な勘違いをしていることは察しがつく。
「どうぞ!」
「……これは味見はしたのか?」
「してないです!」
 ちらっとジェマのほうを見る。
「おい、なぜ逃げる」
「わ、私は荷物を取りに来ただけなので……」そう言うと、ジェマはそそくさと退散してしまった。
 あのお人好しが他人を見捨てて逃げ出すくらいなのだから、相当やばい代物に違いない。パーシーの純真な眼差しが憎らしい。ハロルドは回避する口実を探すため思考を巡らせ、団長に頼まれた用件を思い出す。明日以降で構わないと言われたが、この場を切り抜けるには絶好の理由となるだろう。
「貴様の好意はありがたく受け取ろう。だが今はダメだ。僕はこれから済まさなければならない用事がある。すぐに出なければならない」
「そうなのですか! でも空腹では仕事に身が入らないでしょう。一口だけでも!」
「僕が猫舌なのは知っているだろう」
「初耳です!」
「ともかく急いでいるから、悪いがそれは片付けておいてくれ。じゃあ行って来る」
 ハロルドはなおも追い縋るパーシーを振り切って自室に戻り、素早く着替えて、逃げ出すように自宅を後にした。

「で、ここに避難してきたわけか。モテる男はつらいねえ」
 けらけら笑う団長に嘆息しつつ、ハロルドは切り出す。
「ウィーゼルの意識はもう戻っていると聞きました。団長、渡したい物とは?」
「ああ、ちょっと待ってね」団長はごそごそと引き出しをまさぐり、首飾りを取り出す。銀色の円盤にはめ込まれた石はただの宝石ではなく、魔術の込められた魔石だった。「呪い除けのお守りだ。持って行きなさい。怪物化は解けたとはいえ、まだ完全に処置が済んだわけではないからね」
 首飾りを受け取り、ハロルドは一礼して団長室を後にする。ウィーゼルが捕らえられているのは留置所の地下牢だ。重犯罪者や凶暴な野良獣人が収容される場所で、それぞれの牢は独房になっている。囚人同士が争ったり、共謀して脱獄したりすることを防ぐためだ。ちなみに、オビが預けられているのは上の階にある牢屋である。主人とはぐれた獣人や、比較的おとなしい野良獣人はそこに預けられるのだ。
 看守の案内でウィーゼルの独房に向かうハロルドに、囚人たちの憎悪に満ちた罵声がかけられる。物騒な言葉の数々に案内役の看守は不安げな顔をしていたが、ハロルドにとっては単なる雑音にすぎない。
「例の獣人はこちらです」『044』と数字が振られた独房の前で、看守は足を止める。「首輪を取り付けているのでおとなしくしていますが、くれぐれもお気を付けて。あと、檻には触れないようにしてください」
「わかった」ハロルドは看守から鍵を受け取り、独房の扉を開く。手前に備えられた蝋燭の明かりが、無機質な部屋の輪郭を浮かび上がらせていた。圧迫感のある低い天井には換気のための穴が開いているが、金網で塞がれている。ハロルドが配属されたばかりの頃、小さくなる魔法を使ってその穴から脱走を計った囚人が居た。その囚人は通気口に住み着いていたネズミに食い殺されたという。金網は、そういったことが今後起こらないよう設置されたものだった。
 目の前にある鉄格子が、囚人を捕らえる檻である。その中にうずくまっている人影に、ハロルドは声をかける。
「気分はどうだ。ウィーゼル」
「最高だよ」ウィーゼルは皮肉混じりに笑う。その首には黒いチョーカーのようなものが巻かれていた。獣人を制御するための首輪である。「俺に会うために、臭くて憂鬱な地下にまで来てくれるなんてなあ。会いたかったぜ、隊長さんよ」
「貴様に呪いをかけた魔術師について教えろ」
 単刀直入に問うと、ウィーゼルの耳がぴくっと動いた。だが、ウィーゼルは相変わらずのニヤニヤ顔ではぐらかす。
「さァ、なんのことかねえ」
「とぼけても貴様に得は無いぞ」
「答えたって、ここから出られるわけじゃねェんだろ?」お見通しなんだよ、と言わんばかりに、ウィーゼルは鉄格子のギリギリまで顔を近付けた。生温い息が顔にかかる。「俺から手掛かりを引き出したいんなら、取引しようや。アンタが俺の身の安全を保障してくれるってんなら、教えてやってもいいぜ」
「取引だと? バカバカしい……」
「おやおや? そんなこと言っていいのかなァ? 手掛かりが掴めなきゃ、また同じ災難がこの街に降りかかるかもしれないんだぜ?」
 ハロルドは奥歯を噛む。
「狼族の追跡能力の高さは知っているだろう? ここから出してくれれば、俺の鼻を貸してやってもいいんだぜ」
「……そんな都合のいい話を信じると思うのか?」
「それはアンタ次第だな」
 ウィーゼルはそう言って耳を伏せ、目を細める。
「口を割る気が無いのなら、貴様にもう用は無い。処分される日までせいぜいおとなしくしてるんだな」
「嫌だね。誰がてめェらになんか殺されてやるかよ」
 不意に、ウィーゼルが右手を上げた。ハロルドは腰に提げたレイピアに手をかけ、身構える。ウィーゼルはにやりと笑って、鉄格子の一本を掴んだ。
 目が眩むような閃光と、バチバチと火花が弾ける音が辺りを満たす。囚人の脱走を防ぐために鉄格子に仕掛けられた雷魔法が、ウィーゼルが触れたことで作動したのだ。ウィーゼルの体が引きつり、びくびくと痙攣する。
「な、なにを……なにをやってるんだ!」
 ハロルドは咄嗟に手を伸ばし、鉄格子を掴む。電流を流す鉄棒に己の魔力を干渉させ、電気の流れを止める。ウィーゼルの手が鉄棒から離れ、糸が切れた人形のようにその場に倒れた。ハロルドは独房の外で待機していた看守を呼び、医療班を寄越すよう命じてから、檻を開けた。ウィーゼルは動かない。
「ウィーゼル! どういうつもりだ! 目を開けろ!」
「……くっくっく……嬉しいねェ……」
 かすかに声が聞こえ、次の瞬間、ハロルドは壁に叩きつけられていた。なにが起こったのかわからないまま開いた目に、巨大な腕が映る。火災現場に居た怪物と同じ形の腕だ。だがその腕が繋がっている体は、元のウィーゼルのままだった。高圧電流を浴びたはずのウィーゼルは、多少ふらついてはいるものの、何事もなかったかのようにニヤニヤと笑っていた。
「心配してくれてありがとうよ。隊長さん。痛み入るぜ」完全に怪物化していたときとは違い、ウィーゼルは流暢に喋っていた。巨大化した腕でハロルドを人形のように掴み、挑発するように舌を出して見せる。「この俺がおとなしく死んでやると思ったか? バァカめ!」
「その力……まさか使いこなしていたとはな……ぐっ……」
 ウィーゼルの手に力が込められる。締め付けられ、呼吸ができずに意識が遠のいたハロルドの手からレイピアが落ちる。ウィーゼルは愉快そうに笑いながら手を緩める。手の中で弄ばれ、ハロルドは咳き込みながらウィーゼルを睨む。
「魔法が使えるのは人間や角人間だけじゃあねェんだよ。ま、自分でもまさか上手くいくとは思わなかったが」
「たいした……奴だ……」ハロルドは素直に感心していた。一度は呪いに飲まれながらも、その力を自分のものにできたのは、恐らくはウィーゼルの貪欲さの成せる業なのだろう。怒りも憎しみも、呪いすらも全て噛み砕き、呑み込む貪欲さ。それを素直に羨ましいと思う。「だが、甘いな」
 ハロルドの顔に浮かんだ笑みを見て、ウィーゼルが訝しげに耳を立て、そしてはっとしたように目を見開いた。だが、遅い。
 ハロルドは最大出力で雷撃を放った。閃光が弾け、ウィーゼルの胴体に襲い掛かる。
「あばばばばば!」
「……どうやら、全く効かないというわけでもないらしいな」ハロルドはウィーゼルの手から脱出してレイピアを拾い、起き上がろうとしたウィーゼルの喉に切っ先を突きつける。「捨て身の作戦で僕を欺こうとした度胸は褒めてやろう。最期に言い残すことはあるか?」
「ま、待て! 待ってくれ! 俺を殺したら手掛かりが無くなるんだろ? それは困るだろ?」
 ウィーゼルは仰向けに転がって腹を見せるが、対するハロルドは冷徹に言い放つ。
「貴様が使えなくとも、鼻の利く獣人ならば他にも当てはある。魔術師のにおいを追えなくとも、貴様のにおいを辿れば済む話だ」
 嘘だ。ウィーゼルのにおいを辿ったところで、魔術師に辿り着ける保障は無い。確実な情報を得るためには、犯人と接触したであろうウィーゼルから話を聞く必要がある。だが、まともな交渉が出来ない以上、嘘も暴力も致し方ないというのがハロルドの考えだった。
「わかった! わかったよ! 協力すりゃあいいんだろ!」ウィーゼルは半ばやけくそに喚く。どうやら焦っているのは演技ではないらしい。試しに薄く切ってみた皮膚も、電流を受けて縮れた毛も、再生する様子はなかった。回復能力まではものにできなかったようだ。
「では話してもらおうか。ただし、おかしな動きをしたら命は無いと思え」
「アンタそれでも正義の味方かよ……」元の姿に戻って耳としっぽを垂らし、ウィーゼルはうんざりしたような溜息を吐いた。
「ふん」ハロルドは不敵な笑みを浮かべて答える。「正義のためなら、僕は悪にだってなってやるさ」

第十一話

 荷物を持って兵舎に戻る途中、ジェマは留置所から出て来たハロルドを見かけて声をかけた。曰く、ウィーゼルに呪いをかけた魔術師について聞き出して来たところだという。さすがにすんなりとはいかなかったようで、ハロルドの白い軍服には擦れた跡や埃によるシミが見て取れた。
「ひと悶着あったみたいですが、大丈夫ですか?」
「問題無い。ところで、パーシーは帰ったのか」
「……いえ、まだ」ジェマは無意識に視線を泳がせる。「例のアレを味見したら体調を崩してしまったらしくて。私が使っていた部屋で、休んでもらってます」
「やっぱり毒だったんじゃないか……」ハロルドは眉間を押さえる。
「残りは私が処分しておいたので、家に戻っても大丈夫ですよ。それにしても……もしかして、パーシーってハロルドのこと……」
 ハロルドの視線を受け、ジェマは口を噤む。ハロルドは気にした様子もなく、溜息混じりに言う。
「パーシーとの出会いは少々複雑でね。彼女は不器用だが、悪い人間ではない。仲良くしてやってくれ」
「あっ、はい。え?」ジェマは思わず聞き返す。
「ん?」
「え、パーシーって、女の子なんですか?」
「なんだ、知らなかったのか?」心底意外そうに、ハロルドは言う。「タロンフォードでは、女性が男性名を付けられていることは珍しくない。そういう風習らしい」
「へえ、勉強になります」
 タロンフォードは昔から漁業が盛んな土地である。体力のある男性が漁に出かけている間、集落には女性や子ども、年寄りや体の不自由な者が残される。当然、そんな状況を賊が見逃すはずもなく、かつては襲撃や略奪が頻発していたという。賊から身を守るため、タロンフォードの女性たちは戦闘技術を学び、女の子に男性名を付ける風習が始まった。そのため、タロンフォード出身の女性は男勝りで勇ましい性格をしているといわれている。
「貴様が女性らしくない振る舞いをするのも、故郷の風習なのか?」
「別にそういうわけじゃないですけど……」ジェマの言葉に若干トゲが混じる。「田舎なので、あんまり『女性らしくしろ』とは言われませんでしたね。同性の友達も、よく男の人と一緒に遊んだり働いたりしてましたし」
「川で魚を取ったり、近所の犬を追い回したりな」
「そうそう、私も男の子に混じってよく遊んで……って、ん?」
 ハロルドのものではない声に、ジェマは言葉を止めて振り返る。視線の先には、柔和な笑みを浮かべた黒衣の男が、ジェマとハロルドを見守るように立っていた。
「団長、お出かけですか?」黒衣の男に向き直り、ハロルドは姿勢を正して敬礼する。
「ああ。茶葉が切れてたからね。買出しに行くところだよ」
「だ……だ……団長? 団長って言いました?」ジェマは引きつった声をあげて黒衣の男とハロルドを交互に見る。
「ああ、見習いは団長に会うのは初めてか。この方がホークバレー騎士団の団長を務める……」
「こんなとこでなにしてんの、ジェフリー兄さん!」
「兄さん!?」解説を中断し、ハロルドは素っ頓狂な声をあげた。
「やあ。久しぶりだねジェマ。十年ぶりくらい? 大きくなったねえ」ジェフリーと呼ばれた黒衣の男——ホークバレー騎士団の団長は、ジェマに朗らかな笑みを向ける。「まあ、積もる話もあるだろうから、お茶でも飲みながらゆっくり話そうよ。ハロルド君も一緒に」

 団長もといジェマの兄、ジェフリーの買い物に付き添うという名目で、ジェマとハロルドはマシュマロウ通りにある菓子店にやって来た。色とりどりのケーキや焼き菓子が並ぶ棚の奥に、小ぢんまりとした喫茶スペースがある。ジェマたちは壁際の席に案内され、腰を下ろした。まだ昼時と言っても差し支えない時刻なので、他の客の姿は無い。曇り硝子がはめられた窓越しに、通りを行き交う人々の喧騒が聞こえる。
「まずは合格おめでとう。ジェマ」上等な茶葉を購入してご満悦な様子のジェフリー団長が、そう切り出した。「まさかあのパーシー君に勝てるとは思わなかったよ。強くなったね」
「そんなことより、ちゃんと説明して……くださいよ」ジェマは少しためらって、口調を敬語に直す。「父さんと喧嘩したっきり帰って来なかったから、村の皆も心配してたんですよ。今までどこでなにをしてたのか、なんでホークバレー騎士団の団長やってるのか、ちゃんと説明してください」
「ごめんごめん、手紙を書こうとは思ってたんだけど、色々ごたごたしててね」
 なんの回答にもなっていない。兄は昔からそうである。へらへらと笑ってごまかして、大事なことはなにも教えてくれない。
 注文していた木苺のホールケーキがテーブルの中央に置かれ、紅茶と小皿がそれぞれの前に配られた。
「あ、そうそうハロルド君」団長がケーキを切り分けながらハロルドに話を振る。「例の彼の様子はどうだった? なにか聞けたかい?」
 ハロルドは一瞬ジェマに視線を向け、ためらいがちに口を開く。
「はい。奴が魔術師と接触した場所を特定しました。すぐにでも調査に向かえます」
「そうか、ご苦労様。調査には三番隊に向かわせよう。魔術関連なら彼らのほうが詳しいからね」
「では、自分は引継ぎに……」
「いや、連絡なら私から後でしておくよ。ゆっくりしていきなさい」
「しかし……その、身内の込み入った話に、自分のような部外者が居てはご迷惑なのでは」
「構わないよ。誘ったのは私だしね」
「兄さん、ハロルドだって忙しいんですから、無理に引き止めちゃダメですよ」ジェマは兄を睨む。「引き止めなきゃならない正当な理由があるんなら別ですけど」
「理由ならあるさ」兄は切り分けたケーキを配りながら平然と答える。「見習いの指導や監督も七番隊の仕事だからね。つまり、ハロルド君は君の直接の上司になるわけだ。上司として、ハロルド君には君のことを知ってもらう必要がある。腹を割って話すなら食事の席が最適だ。ほら、正当な理由だろう?」
 ジェマは歯噛みする。相変わらず、この兄は舌も頭もよく回る。ハロルドが居たほうが、ジェマの追究から逃れやすいと判断したのだろう。利用されるほうは実に気の毒である。
「差し出がましいようですが」
 ハロルドが唐突に口を開いたので、ジェマとジェフリーは彼のほうを見た。
「そういうことでしたら、団長にも説明義務があると自分は考えます」
「……なんのことかな?」
「彼女と団長の間にある確執についてです。彼女がホークバレー騎士団に所属するなら、あなたとの確執は後々騎士団の運営に支障を来たす恐れがあります。差し支えなければ、ここは彼女の質問に答えるべきです」
「おや。そっちにつくのかい、君」
「上司として、部下の身内のことも知っておく必要がありますから」
 団長はやれやれというふうに溜息を吐く。
「わかったよ。降参だ。じゃあ、どこから話そうか……」
 紅茶をすすり、思考をまとめるように十数秒程度の沈黙を挟んだ後、ジェフリーは静かに語り始める。
「まずは一つ目の質問からだね。今までなにをしてたのかといえば、旅だ。セルペニアの各地を渡り歩く旅をしていた」
「一人旅なんて……なんでそんな危険なことを……」
 縋るような目を向けるジェマに、ジェフリーは優しく微笑みを返す。
「一人じゃないさ。旅先でできた仲間と一緒に、遺跡を巡ってみたり、山賊退治をして小遣いを稼いだり、色々してる内に、ホークバレーに腰を落ち着けることになったのさ」
 セルペニアをはじめ、大陸の各所には古代文明の遺跡が数多く残っている。遺跡の多くは墓や神殿で、『救世の英雄』をはじめとした物語や神話のルーツともいわれており、遺跡を巡る旅に出る者は珍しくなかった。遺跡を観光資源としている街や村も多い。戦争が終わって治安が安定してからは、旅行者の数も増えている。
「それから二つ目の質問、なんで騎士団の団長をやってるかだけど、この辺りの山賊をやっつけてたら、いつの間にか名前と顔が知れ渡っちゃったんだよね。それで仲間が増えて、しばらく俺たちは傭兵団として活動してたんだけど、戦時中の治安維持に貢献したってことで、騎士の称号を貰ったってわけ」
「で、その団長に兄さんが据えられたってわけですか」
「まあね」ジェフリーは肩をすくませる。「家族に手紙を出さなきゃなあとは思ったけど、親父と喧嘩別れして村を出た手前、気まずくてね」
「もう何年も前のことじゃないですか。お父さんだってもう怒ってませんよ」
「んー、わかってはいるんだけどねー。手紙書いたら『帰って来い』とか言われそうだし……」
「ちゃんと事情を説明すればわかってくれますよ。私が村を出ることにも反対しなかったし」
「そうかなあ」
「そうですよ」
 ジェフリーはしばらくうーんと唸っていたが、やがてひとつ息を吐いて口を開く。
「わかった。手が空いたら手紙を書くよ。村の皆も心配してくれてるみたいだしね」そう言って、ジェフリーはぬるくなった紅茶に口を付ける。
 その後はしばらく他愛の無い談笑をして、お茶会はお開きとなった。買い物に付き合ってくれた礼として、飲食代はジェフリー団長が持つことになった。ハロルドはかなり恐縮していたようだが、団長がどうしてもと言うのでお言葉に甘えることにしたようだ。
「そうだ、ジェマ。ひとつ頼みたいことがあるんだけど」ジェフリーが思い出したようにジェマを呼び止める。
「なんですか? 団長」
「そんな堅苦しい呼び方はやめてくれよ。まあいいや、昨日、君がこの辺りで拾った獣人が居ただろう」
「オビのことですか?」
「そう、オビ君。彼は今留置所に預けられてるんだけど、ずいぶん寂しがりな性格みたいでね。君には懐いてるみたいだから、仕事の合間にでも話し相手になってあげてくれないか」
「そういうことなら構いませんけど」ジェマは訝しげにジェフリーの顔を見上げる。「もしかして、なにか問題が?」
「いや、そういうわけじゃないよ。ジェマもこの町に来て日が浅いだろう? 息抜きになるかと思ってね」
 またオビが無茶をして役人を困らせているのかと思ったが、どうやら違うらしい。ジェマは内心ほっとする。
「わかりました。勤務は明日からなので、荷物を置いたら寄ってみます」
「そうしてくれると助かるよ。それじゃ、明日から頑張って」
「どうも」
 軽く挨拶を済ませ、ジェマは団長たちと別れて帰路に着いた。

第十二話

 ジェマに割り当てられた部屋は居住棟の一番端にあり、怪物の襲撃による破壊からは免れていた。管理人から預かった鍵を鍵穴に差し込み、扉を開ける。縦長の長方形の窓から差し込む光に照らし出された部屋には、小さな机と椅子、粗末なベッドがそれぞれ二つずつ備えられていた。長いこと空き部屋だったと聞いていたが、家具や床に埃は積もっておらず、シーツや掛け布団からは日に干したにおいが仄かに香っていた。ジェマは持っていた荷物をベッドの上に放り出す。
「ぐえっ」
 掛け布団の下からくぐもった声が聞こえ、ジェマはびくっと身をすくませた。それと同時に布団の下から姿を見せた人物を見て、ジェマは更に驚く。
「先輩の上に荷物を放り出すとはいい度胸じゃないか、新人」殺気立った目をジェマに向けて、パーシーは低い声でそう言った。
「あっ、ご、ごめんなさい! まさか人が居るとは思わなくて」
「言い訳なんて聞きたくないよ。で、どうだったの? ハロルド様との『でえと』は? さぞかし楽しかったんでしょうねえええ」
「な、なんでそのことを……」ジェマは動揺する。別にやましいことはなにも無いのだが。
「ハロルド様の使用人から聞いたんだよ。マシュマロウ市場に買出しに行ったら、君とハロルド様が仲むつまじく菓子屋に入って行ったって!」
 なんだか話がこじれてしまっているようだ。騎士団長の兄に誘われた、などと正直に言ったところで、火に油を注ぐだけである。どう説明したものかと逡巡しているジェマの顔面に、パーシーが投げつけた枕が激突する。
「汚らわしいメス猫め! 出てけ!」
 パーシーの剣幕に、ジェマは思わず部屋を飛び出した。どうやら体調はすっかり回復したようである。扉を閉めて溜息を吐いた後、はたと思い至る。待てよ、ここは私の部屋じゃないか。なんで私が追い出されなきゃいけないんだ? そもそも、何故パーシーが私の部屋で寝ていたんだ?
「……あの、パーシー、ここ私の部屋なんですけど」扉を盾にして飛んで来る物を警戒しながら、ジェマは部屋の中のパーシーに声をかける。
「そんなこと知ってるよ。俺の部屋が壊れて使えないから、管理人にこの部屋を使えって言われたんだよ。掃除までさせられたんだぞ、信じられるか!」ぶすっと口を尖らせながらパーシーは答える。「女の子同士だからちょうどいいでしょ、じゃないよ。こんなのと同室になるくらいなら豚小屋のほうがマシだ」
「ああ、家畜小屋って案外居心地いいですよね」
「嫌味で言ってんだよ。馬鹿かアンタ」
 呆れたように溜息を吐くパーシーからは攻撃する意志を感じなかったので、ジェマはそっと部屋に足を踏み入れる。
「まあ、同じ部屋で寝泊りするんですから、仲良くしましょうよ」
「フン、アンタと仲良くするなんてゴメンだね」
「改めまして、私はベリーコイド地方のウッドペッカー村から来たジェマと言います」
「聞いてないよ。自己紹介なんてしないからな」ぺこりとおじぎをするジェマに若干たじろぎつつ、パーシーはそっぽを向く。
「よろしくお願いしますね、パーシー先輩」
『先輩』。その単語を聞いた瞬間、パーシーの肩がぴくっと震えた。彼女はゆっくりと振り返り、細めた目をジェマに向ける。その頬は心なしか紅潮しているように見える。
「……んん、ちょっと聞こえなかった。もう一回言ってくれる?」
「ふつつか者ですが、ご指導のほどよろしくお願いします。パーシー先輩」ジェマはパーシーの反応が面白くて、『先輩』の部分をやや強調して言った。
「ふ、ふふん、そこまで言うんなら、面倒見てやらんこともないよ」頬が緩むのを耐えているのか、パーシーは妙な表情を浮かべながら鼻を鳴らす。
 後に七番隊のメンバーから聞いた話によると、パーシーは七番隊では一番の下っ端で、後輩の面倒を見ることに密かな憧れを抱いていたらしい。試験のときに見せた負けず嫌いな面も、後輩に負けたくないという気持ちの表れだったのかもしれない。

 部屋での騒動の後、ジェマは留置所に向かった。ジェフリーからの頼みだということもあり、オビとの面会はすんなり許された。オビは他の獣人たちとは隔離された、猛獣を捕らえるような厳つい檻の中で、退屈そうに天井を眺めていた。檻は真新しく、オビを捕らえるためだけに用意されたかのようだった。においと話し声でジェマが来ることを察したのか、オビはしっぽをちぎれんばかりに振って待っていた。
「ジェマー! 待ってたよー!」
「元気そうだね、オビ。ごはんは食べた?」
「お肉いっぱいもらったよ! おいしかったよ!」
「そうかそうか」
 檻の間から伸ばされる手をさすってやると、オビはゴロゴロと喉を鳴らしてしっぽを振る。オビの手をさすりながら、ジェマはさてなにを話そうかと考える。オビは彼女の手を、興味深そうにふんふんと嗅ぐ。そして目を輝かせながら、条件反射的に垂らしたよだれもそのままに、ジェマの顔を覗き込む。
「……おやつ? おやつ食べたね?」
「あー……ごめん」菓子のにおいが残っていたのだろう。念入りに洗ったつもりだったが、オビの嗅覚はごまかせなかったようだ。ジェマは素直に詫びる。「お土産は買い損ねちゃったんだ。ほら、今私一文無しだし」
 期待する目を向けていたオビがぺたんと耳としっぽを垂らすのを見て、いたたまれない気持ちになる。そう、今彼女は一文無しなのである。試験直後の休日が貰えたのは有り難いことだが、できれば早く仕事を貰って報酬を得たいという気持ちもあった。まだ墓場への不法侵入の罰金も払っていない。そちらはおそらく税金と一緒に給料から天引きされることになるのだろう。ウィーゼルが捕らえられたときに所持品も没収されたが、ジェマの財布は無かった。どこかに落としたのなら、帰って来る見込みは薄い。
「ウィーゼルがジェマの財布盗んだからだね……」オビは恨めしそうに、石の床をかりかりと引っ掻く。
「えっと……そうだ。なにか足りないものはない? ごはんの量が少ないとか、居心地が悪いとか、なにかあったら私から管理の人に伝えておくけど」ウィーゼルに八つ当たりすべくオビが床を破壊する前に、ジェマは慌てて話題を変えた。
 オビはおすわりの姿勢でしゃがみこみ、考えるように虚空を見渡した後、ぽつりと呟いた。
「……おばあちゃんに会いたい」
「おばあちゃん?」
 オビはうなずく。
「オビのおばあちゃん。ミストピナっていう寒いところに住んでるの。オビもそこから来たんだよ」
「ミストピナ?」ジェマは訝しげに聞き返す。そんな地名は聞いたことがない。「そこがオビの故郷なの?」
「そうだよ」オビは懐かしむような、寂しそうな目をして答えた。「オビはおばあちゃんといっしょにそこに住んでたんだよ。でも、あそこは寂しいところだった。オビは友達が欲しくて、ちょっと出かけるだけのつもりでミストピナを離れたんだ。そしたら、帰り道がわからなくなっちゃった」
「それで、迷ってるうちにこの街に辿り着いたわけだ」
 オビは故郷を思い出して寂しくなったのか、耳としっぽを伏せてうつむいている。
「オビはお家に帰りたいんだね」
 ジェマの問いかけに、オビはうなずく。金色の目は潤み、今にも泣き出しそうである。
「おばあちゃんに会いたいよ……」か細い声で、オビは呟いた。
 オビの冷たい手をさすりながら、ジェマは彼にかけるべき言葉を考える。牢屋にはしばらくオビの嗚咽が響き、収容されている獣人たちのひそひそ声が聞こえていた。
「ねえ、オビ。泣かないで」ポロポロ涙を零すオビに、ジェマは優しく語りかける。「オビが家族に会えるように、私も手伝うよ。ここには図書館もあるし、ミストピナへの行き方も見付かるかもしれない」
「本当?」オビは赤く腫らした目を向け、鼻をすする。
「帰り道がわかるまで、私がオビの家族の代わりになる。それじゃ、ダメかな?」
「ダメじゃないよ!」オビはごしごしと目をこすり、ぱあっと笑った。「オビ、ジェマのこと好きだよ。おばあちゃんと同じくらい、大好き!」
「そうか。よかった」
 オビの瞳を見返し、ジェマも笑った。

「迷子にでもなったのかと思ったよ。どこに行ってたんだ?」
 消灯時間間際に部屋に戻ったジェマに、私服姿のパーシーは苛立ちも露な視線を送る。
「心配かけてすみません。ちょっと図書館で調べ物を」
「いや、べつに心配はしてないけど」
「えー、心配してくれないんですか?」ジェマはわざとらしく唇を尖らせる。
「子どもじゃあるまいし、夜道くらい一人でも平気だろ。で、調べ物って?」
 オビと別れた後、ジェマは騎士団の食堂で夕食をとり、その足で図書館を訪れていた。地理や地質に関する本を一通り調べてみたが、オビの故郷だというミストピナについての記述を見付けることはできなかった。
「ミストピナって地名、パーシーは聞いたことありますか?」
「は? なにそれ。いや待てよ……」パーシーは眉をひそめたものの、なにか思い出したのか顎に手を当てて考え込む。「なんか、昔聞いたことがあるような……あ、そうだ。小さい頃、大人たちが祭で歌ってた歌の歌詞にそんな単語があったかも」
 パーシーの話によると、それはタロンフォードに伝わる豊漁を祈る歌だという。当時のパーシーは幼く、歌詞も古い言葉が使われていたので、正確な意味はわからないとのことだった。
「タロンフォード地方と関係があるんですかね……?」
「知らないよ。どうしたの? せっかく騎士団に入ったのに、民俗学者にでもなるつもり?」
「いえ、そういうわけじゃないですよ。ちょっと気になって」
 民謡に出てくるのだとしたら、実在する地名ではなく架空のものなのだろうか。あるいは、タロンフォード周辺のどこかの地域の古い呼び名なのかもしれない。今度図書館に行くときは、民俗や歴史の棚を探してみよう。とジェマは思った。
「ふーん」パーシーは特に気にすることもなく、腰に提げていた剣を机に置くと、ベッドに潜り込んだ。「まあどうでもいいけど、君も早く寝なよ。明日から勤務なんだろ」
「あ、はい。そうですね」
 ジェマは寝巻きに着替えてから部屋の照明を消し、布団に入る。パーシーのベッドからは早くも寝息が聞こえていた。ジェマはしばらく窓の外の星空を眺めていたが、次第にうとうととし始め、いつの間にか眠りに落ちていた。

第十三話

 明かりが邪魔だな、とウィーゼルは思った。
 通路側の小窓から漏れてくる蝋燭の炎のゆらめきが、彼の眠りを妨げていた。眩しいのではない。獣は火を嫌うものだと、誰にともなく言い訳する。ここは石と鉄に囲まれた牢獄だが、処刑が行われるまではこの場所は安全だ。鳥の鳴き声や、風のさざめきに怯えることもない。だが、ここに蔓延する鉄と松脂のにおいは、彼のある記憶を否が応にも引きずり出す。忘れていたのではない。忘れるはずはない。それは彼にとって最も忌まわしく、最も大切だった記憶である。

 彼にはきょうだいが居た。弟が二人、妹が一人。幼いきょうだいの世話を押し付けられるのは煩わしかったが、慕われるのは悪い気はしなかった。
 ある日、群れの長を務める父はウィーゼルに言った。
「きょうだいたちも大きくなった。そろそろ狩りに参加させてやってもいいだろう。今夜、人間の村から山羊を一頭盗んで来い。成功したら、おまえたちを大人と認めてやろう」
 家畜は野生の動物より動きが鈍く、狩りの練習に向いていた。当時は人間同士の戦争のさなかで、若者の多くは要塞に集められていたため、村の警備は薄くなっていた。難しい課題ではない。
 夜が更けた頃、ウィーゼルはきょうだいを連れ、村に向かった。空は晴れていたが、月は無く、辺りは暗闇に包まれていた。周囲に漂う人間のにおいにきょうだいたちは怯えていたが、ここは人間の村なのだから人間のにおいがするのは当たり前だと、ウィーゼルは気に留めなかった。
 入り口に焚かれた魔除けのかがり火を除き、家々の明かりは全て消されている。起きている人間の気配は無い。ウィーゼルはにおいで獲物の位置を確かめ、家畜小屋に忍び寄り、星明かりを頼りに中を覗いた。若い山羊が一頭、藁が敷かれた寝床で眠っている。そこから少し離れた位置に、何頭かの仔山羊が身を寄せ合って眠っていた。怪我をした個体でも居るのか、微かに鉄のにおいがする。出入り口の扉のすぐ近くだ。ウィーゼルは懐に忍ばせていた針を使って小屋の鍵を開ける。後は眠っている仔山羊を仕留め、群れに戻って父親に報告するだけだ。ウィーゼルは最後に、後ろで控えていたきょうだいたちに花を持たせてやることにした。始めての狩りに尻込みするきょうだいを励まし、ウィーゼルは見張りについた。もし山羊が騒いで村人が駆けつけてもすぐに逃げられるように。
 きょうだいたちは勇気を振り絞り、恐る恐る小屋へ足を踏み入れる。その直後、彼らの悲鳴がウィーゼルの耳を貫いた。
 家々に明かりが灯る。悲鳴を聞いて飛び起きたにしては早すぎる。ウィーゼルは慌ててきょうだいの後を追い、小屋に飛び込む。
 小屋の中にも明かりが灯っていた。松脂のにおい、オレンジ色の炎。集まって眠っていた仔山羊はけたたましく鳴きながら母親のもとに集まり、母山羊はこちらに角を向けて威嚇していた。山羊を守るように立ちはだかっていたのは、鉄製の鎧を纏った複数の男。彼らの屈強な腕の中には、恐怖に顔を引きつらせてもがくきょうだいたちの姿があった。家畜のにおいに紛れて気付かなかった。人間たちは息を潜め、狼が来るのを待ち構えていたのだ。
 ウィーゼルはきょうだいを救うため、果敢に跳びかかる。だが、鉄の鎧は牙を通さず、彼はきょうだい共々捕らわれてしまった。男たちは村人に雇われた傭兵で、狼から家畜を守ってくれたとして手厚くもてなされた。
 人間たちの罠により捕らわれたウィーゼルたちは、奴隷商人に売り渡されることになった。人間同士の戦争は激しさを増し、若者のほとんどは兵士として駆り出されていたため、当時は労働力として獣人奴隷が盛んに利用されていた。特に狼族は力が強く、幼いうちから慣らせば犬のように従順になるといわれ、人気が高かった。家族と離ればなれになるかもしれない不安に苛まれるきょうだいたちを見て、ウィーゼルは思った。こうなったのは俺が油断していたせいだ。俺が弱かったせいだ。こいつらを泣かせたのは俺だ。
 そして彼は決意する。この檻を抜け出して、きょうだいと共に群れに帰ろう。そのためなら、どんなことでもやってやる。
 奴隷として売られる獣人には、制御のための首輪がつけられる。首輪には魔法によって仕掛けがされており、暴れたり逃げ出そうとすれば首が絞まるようになっていた。その機能を止めるためには、所有者に解除させるしかない。ウィーゼルは病気のフリをして、奴隷商人が檻を開けるよう仕向けた。ウィーゼルたちは調教を始めるには育ちすぎていたため、あまり高い値段はつかなかったが、大事な商品であることには変わりない。それまで従順に振舞っていたこともあり、商人はまんまとウィーゼルの思惑に乗り、鍵を開けた。その瞬間、ぐったりと横たわっていたウィーゼルはかっと目を見開き、商人を檻の中に引きずり込む。驚きと怯えの混ざった商人の顔に鉤爪を突き付け、ウィーゼルは言った。
「死にたくなければ、俺ときょうだいを自由にしろ」
 首輪が作動し首が絞まっても、ウィーゼルは怯まなかった。彼が爪を振り上げたのを見て、商人は慌てて首輪を解除する。ウィーゼルは爪を収め、商人から鍵を奪い取ると、きょうだいたちの救出に向かった。
 解放されたきょうだいたちと共に、ウィーゼルは生まれ育った森へと帰って来た。驚く仲間たちを尻目に、彼は長である父のもとへ向かう。山羊は獲って来れなかったが、きょうだいたちを無事に連れ帰ることはできた。人間を出し抜いた自分を、きっと父は褒めてくれるに違いない。そう思っていた。
「なんてことをしてくれたんだ」父は牙をむき、低く唸った。その目には怒りの炎が燃え、声は震えていた。「お前たちが逃げたと知れば、奴らは群れを滅ぼしに来るぞ」
 そのとき、ウィーゼルは気付く。仲間たちの視線が、自分たちを歓迎するものではないことを。期待を裏切られた絶望。恐怖と憎悪を込めた、断罪の視線。どうして帰って来たんだ。もうおしまいだ。そう囁く声が聞こえた。
 困惑するウィーゼルに追い討ちをかけるように、父は事の真相を語り始めた。
 狼退治の依頼を受けた傭兵が森に入ったことを知った父は、自ら交渉に赴いた。人間と戦い、人間たちの魔法の前にいくつもの群れが壊滅したことを彼は知っていた。長として群れを守る義務が彼にはあった。「家畜を襲うのはやめるから、仲間を傷つけないでくれ」と父は言った。傭兵が「信用できない」と言うので、父は更に提案した。「ならば私の息子たちを差し出そう。夜に村に向かわせるから、彼らを捕らえて村人に示すがいい」
 傭兵たちはウィーゼルときょうだいを捕らえることで仕事を全うし、奴隷商人に売ることで更に利益を得る。群れはウィーゼルたちが居なくなったことで余裕ができ、村の家畜を襲う必要も無くなる。犠牲を最小限に抑え、双方に利益をもたらす素晴らしい提案だった。傭兵たちも異議を唱えることはなく、事態は丸く収まったはずだった。
 しかし、ウィーゼルたちは帰って来てしまった。そのことが村人に知られたら、再び傭兵を雇われ、約束を破ったとして報復されるかもしれない。
「なんだよ、それ……」乾いた笑いが漏れる。「俺は……ただ、家族を守ろうと……」
 ウィーゼルの言葉は、爆風によってかき消された。
 木々が燃え上がり、森は一瞬にして火の海に変わった。自然の火ではない。魔法によるものだ。辺りに悲鳴が響く。逃げ惑う仲間たち。父はなにも言わず、恨めしそうにウィーゼルを見ていた。
 その火事が父の言っていた傭兵によるものなのか、ウィーゼルに脅された奴隷商人が報復にやって来たのか、あるいは人間たちの戦争の流れ弾が飛んできたのか、真相はわからない。森を包み込んだ炎と煙によって、群れは散り散りとなり、きょうだいたちの消息も、それ以降わからなくなってしまった。

 理不尽は突然降りかかる。誰も助けてはくれない。英雄(ヒーロー)なんて居ない。正しいと信じたことが報われるとは限らない。大事なものを守っても、別れは必ず訪れる。
 彼はひとりになった。空っぽになった。もうなにも失うことはない。誰かに裏切られることもない。
 ウィーゼルは住み慣れた故郷を後にした。自分やきょうだいを売った群れが滅びたことに、彼は薄暗い満足感を覚えていた。

 何度か浅い眠りを繰り返していたウィーゼルは、物音を聞いて飛び起きた。通路を照らす明かりが消えている。
 きい、と扉が軋む音がして、独房に入って来る足音が続く。人数は三、四人。看守でも、処刑人でもない。全員が若い男だが、においから闘争心は感じられず、やや緊張を含んではいるが落ち着いた様子だ。彼らは照明を持っていなかったが、足取りに迷いは無い。暗視の魔術を使っているのだろう。相手は魔術師の集団か。
「なんだてめェら」ウィーゼルは低い唸り声をあげて威圧する。
「静かにしろ、獣人」リーダーらしき人物が、ぼそぼそと囁くように返す。人間には聞き取れない声量だが、獣人であるウィーゼルにははっきりと聞こえる。「檻は開いている。両手を後ろに組んで、ゆっくりとこっちへ来るんだ」
 その威圧的な命令口調に、ウィーゼルは相手の素性を察した。
「アンタら、騎士団かい」
「静かにしろと言ったはずだ」
「説明くらいしてくれてもいいと思うんですがねえ?」皮肉めいた言葉を返しつつ、ウィーゼルは相手に従った。願ってもない脱出の好機を、みすみす逃す手はない。
 ウィーゼルは服を渡され、それを着ろと指示された。それはフード付きのゆったりした上着で、耳としっぽを隠すのに都合のいい形状をしていた。ウィーゼルは訝りながらも指示に従い、前を行く人間の後に続く。
「我々はホークバレー騎士団の三番隊に所属する者だ」
 その説明を聞いたのは、街の外に出たときだった。彼らは皆同じような上着をまとっており、その下には革製の鎧を着込んでいた。彼らの鎧には、魔力が付与されていることを示す淡く光る模様が浮かんでいた。
「騎士団がなんで俺を逃がすんだ?」
「逃がすのではない。お前には協力してもらわなければならない」
「協力だァ?」
「お前が件の魔術師に接触した場所まで案内しろ」
 ウィーゼルは露骨に嫌な顔をする。
「俺が知ってる情報は七番隊の隊長さんに話したぜ。あいつに案内してもらえばいいだろ」
「彼が聞き出した情報は団長から伺っている。だが、念のためお前も連れて行く。お前が彼に嘘を吹き込んだ可能性もあるからな」
「おやおや、信用されてないねェ」
 身から出た錆というやつだろうか。こんなことなら、もう少し正直に生きていればよかったなあ。などと、自嘲染みた冗談を吐き捨てて、ウィーゼルは肩をすくめる。
「我々は嘘を見破る術も心得ている。騙せると思うなよ」
「はいはい。わかりましたよ」
 どうやら案内するより他に無いようである。ここで争っても、檻の中に戻されるだけだ。とりあえず目的地まで案内して、彼らが現場を調査しているうちに、隙を見て逃げ出すことにした。
 東の空が明るくなってきていた。綺麗な朝焼けだ。風は湿気を含んでおり、微かに雨雲のにおいがした。

第十四話

 騎士団の新入りは、まず見習いとして雑用をこなしながら仕事を覚えることになる。ジェマの初日の仕事は、街の鍜治屋に手入れを頼んでいた武器を受け取りに行くことだった。
「鍜治屋は西門に通じる通り沿いにある。大きな店だから、行けばわかるだろう」受け取る品のメモと修理費をジェマに渡し、ハロルドは言う。「代金は経費で落とすことになっているから、領収書を貰うのを忘れるなよ」
「わかりました。では、行って来ます!」
 ジェマは意気揚々と出掛けたが、騎士団の敷地を出て数分も経たない内に、しとしとと雨が降り始めた。傘を差すほどではないが、長引きそうな雨である。
 春から夏にかけて、セルペニアでは雨の日が多くなる。これは風を司る春の精霊が、陽射しが強くなる夏に備えて雨雲を集めてくれるからだといわれている。農民にとっては田畑を潤す恵みの雨だが、ジェマにとっては煩わしいことこの上ない。水滴が服に染み込む前に辿り着こうと、やや足早に目的地へ向かう。
 ハロルドが言っていたように、目的の鍜治屋はすぐに見つかった。炉は赤々と燃えており、職人らしき三人の若い男女が鉄を打つ音が辺りに響いていた。作業場の隣の建物が店舗だと聞いている。ジェマは体についた雨粒を払い、扉を開ける。
「ごめんください。ホークバレー騎士団の使いの者ですが」
「おう、来たか。ちょっと待っててくれ」
 人の姿が見当たらなかったので声をかけると、奥から野太い声が返ってきた。金属同士がぶつかるがちゃがちゃという音が鳴り、奥の部屋の扉が開く。革製の鞘に収まった三振りの剣を抱え、作業用のエプロンを着けた大柄な男性が姿を見せた。この店の店主のようだ。
「おっ、新入りのお嬢ちゃんじゃねえか。見てたぜ、入団試験の試合。なかなか筋がいいじゃねえか」
「ありがとうございます。あ、これお代です」気恥ずかしさに頬を染めながら、ジェマは修理代が入った小銭袋を店主に渡す。
「ああ、代金はいらねえよ。たいしたことはしてねぇからよ」
「え、でも」
 決して高い額ではないが、タダでいいと言われると引け目を感じてしまう。ジェマの実家も鍜治屋なので、ちょっとした作業でも材料費や特殊な技術が必要になることを知っているからだ。そういったものを必要としない手入れなら、わざわざ職人に頼んだりはしない。
「日頃の感謝の気持ちって奴だ。騎士団には街を守ってもらってるからな」店主はそう言ってにかっと笑う。
「そうですか……お心遣い、感謝します」
 ジェマは小銭袋を鞄に収め、軽く挨拶をして店を出た。雨はあいかわらず降っていたものの、勢いは弱まっていた。これなら普通に歩いてもあまり濡れずに帰ることができそうだ。
 ジェマは兵舎の食堂へと向かった。食事の受け渡しをするカウンターの横には棚が設置されており、段ごとに番号が振られている。騎士団員への届け物はこの棚に預けられ、個々に受け取ることになっていた。七番隊の棚に預かった品を置き、ジェマの初めての任務は完了となる。
「早かったな」
 昼食の時間には早いので人は居ないものだと思っていただけに、その声はよく聞こえた。声のほうへ目を向けると、窓際の席に座っているハロルドの姿があった。ジェマに声をかけた後、ハロルドは手元の書類の束に目線を戻す。なにか難しい計算でもしているのか、算盤を弾きながら顔をしかめている。
「ただ今戻りました。他にお手伝いできることはありますか?」
 ジェマが歩み寄り声をかけると、ハロルドは一つ息を吐き、顔を上げる。
「いや、今はいい。また仕事ができたら声をかけるから、自室で待機していてくれ」
「わかりました。あ、そうだ。……これなんですけど」
 修理費として支払われるはずだった小銭袋を鞄から取り出したジェマに、ハロルドは怪訝な顔を向ける。
「なんだ? それは」
「お店の人が、代金はいらないと言われたので……」
「それで、その言葉を真に受けて、支払わずに帰って来たと?」
「え、えーと……」
 ハロルドの目が険しくなり、ジェマは言葉を詰まらせる。
「貴様は物乞いか? 違うだろう。そんな傲慢な施しを受けて、恥ずかしいと思わないのか?」
 怒気が込められた碧眼にジェマはたじろぐが、彼女も負けずに口を開く。
「傲慢だなんて……彼は善意でまけてくれたんですよ。そんな言い方しなくても……」
「貴様はなにもわかっていない」ハロルドは苛立たしげに溜息を吐いて立ち上がり、ジェマの手から小銭袋をひったくる。「もういい。僕が行く」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
 すたすたと歩き出したハロルドを、ジェマは慌てて追いかける。歩いている間ハロルドは終始無言だったが、その胸の中に激しい怒りが燻ぶっているのが見て取れた。まとわりつくような雨の中、つい十数分前に後にした鍜治屋に再び辿り着く。
「店主、これはどういうことだ」ハロルドはカウンターに小銭袋を叩きつけ、唸るように言った。
「おや、誰かと思えばハロルド隊長じゃねえですか。毎度贔屓にしてもらってどうも」
「挨拶はいい。それより、修理代の支払いを断ったそうだな」
「ええ。騎士団は希少なお得意さんなんで、サービスさせていただきやした。戦争が終わって平和になったのはいいんですが、武器や鎧を買う客がめっきり減っちまいましたからね」
 にこやかに話す店主に、ハロルドはますます眉間のしわを深くする。
「サービスだと? ふん、舐められたものだな。つまらん気を使って店が潰れたら、迷惑を被るのはこちらなんだぞ」
「それはお互いさまだろ」店主は目を細め、諭すように言う。「あんたも人の上に立つ仕事やってんなら気付いてんだろ。この街の騎士団の現状を」
 哀れみを含んだ店主の言葉に、ハロルドはなにか言いかけ、唇を噛んだ。体の横で握った拳が震えている。
「あんたの言い分はわかる。あんたにも貴族のプライドってもんがあるんだろうが、庶民にそれを押し付けるのは野暮ってもんだぜ」
「くっ……」
 ハロルドは奥歯を噛み締め、怒りに燃える双眸で店主を睨む。店主はそれ以上なにも言わず、ハロルドに背を向けて作業に取りかかった。これ以上言い争うつもりは無い。(すす)で汚れた大きな背中はそう語っていた。
「……行くぞ」ややあって、店主を睨みつけていたハロルドはそう言って踵を返す。
「え?」
 ジェマはハロルドに手を引かれて店を出る。小銭袋はカウンターに置かれたまま、二人の背中を見送ることになった。

「あの、ハロルド。騎士団の現状って……?」店主の言葉が気になっていたジェマは、ハロルドの背中に問いかける。
「ああ。貴様も騎士団に入ったのなら、知っておくべきだろうな」ハロルドは気が進まない様子だったが、歩く速度をジェマに合わせて声を落とし、耳打ちするように話し始めた。「実は、ホークバレー騎士団の財政はあまり芳しくはない」
「そうなんですか?」
 言われてみれば、ウィーゼルに破壊された兵舎の修復作業を行っているのは、騎士団員たち自身だ。民間の騎士団は平民出身者が多いため、建築に関する知識を持つ人間が居ても不思議は無い。とはいえ、人を雇って作業をすればもっと早く修復できるはずだ。それをしないのは何故だろうとジェマも疑問に思っていたが、経済的な理由だとすればうなずける。
「ホークバレー騎士団が元は傭兵団だったという話は、前に団長から聞いたな」
「はい。確か、戦時中の治安改善に貢献したとかで、騎士の称号を貰ったって言ってましたね」
 先日、兄と再会した際、そんな話を聞かされたことを思い出す。
「称号だけじゃない。騎士として認められることの最大の利点は、国から活動資金の援助を受けられることだ。更に、拠点とする建物や、組織の収入にかかる税金も控除される。そういった報酬を与えることで、治安改善を促進しようという狙いがあったのだろうな」
 国から報酬が出るとなれば、多くの傭兵団や戦士ギルドはこぞって名を上げようとする。彼らが積極的に依頼をこなしていった結果、見事治安は回復した。未だ人気(ひとけ)の無い街道では稀に盗賊が現れるものの、その被害は以前に比べて格段に減っているという。
「それじゃ、騎士団の財政がよくないのって、平和になったせいで国からの援助が受けられなくなったからってことですか?」
「概ねそういうことだ」ハロルドはうなずく。「援助が無くなったわけではない。ただ、以前よりは減っている。備えるべき敵が居なくなった以上、一都市に戦力が集まりすぎるのはよろしくないということらしい」
 国の予算も無限ではない。治安改善という目的が果たされた以上は、報酬が減らされるのは仕方の無いことだ。
「でも、街の人たちは騎士団を必要としているじゃないですか」
 戦時中より治安は改善されたとはいえ、スリや空き巣、詐欺などの犯罪は未だ横行している。山賊退治に比べれば地味ではあるが、犯罪への対処も騎士団の仕事である。街の人間にしてみれば、騎士団が自分たちの生活を守っていることに変わりは無いはずだ。
「いや」ハロルドは静かに首を振る。その声色はどこか投げ遣りな、憂いを含んだ調子だった。「実はそうでもない。世間の認識では、我々のような騎士団は戦好きの荒くれ者か、法を振りかざして罰金を徴収するだけの集団だと思われている。住民の中には少なからず我々を疎ましく思っている者も居ないわけじゃない」
「そんなこと……」
「だから騎士は誰よりも誇り高くなければならないんだ。正義の執行者として、常に威厳を保たなければならない。同情や哀れみなど、侮辱でしかない」
 ハロルドは歯を噛み締め、拳を握った。しとしとと振り続ける雨に打たれる彼の体は震えている。
「ハロルド、あなたは……」
 水溜りを走る足音に、ジェマの言葉は遮られる。
「ハロルド隊長!」
 慌しく駆け寄って来たのは、街の見回り警備に当たっていた七番隊の隊員だ。
「どうした」ハロルドは彼に向き直り、尋ねる。
「先ほど、調査に出られていた三番隊の方々が帰還されたのですが」彼は早口でまくし立てるように告げる。「道案内をさせていた獣人が、調査の途中で逃げ出したと……同行していた隊員に負傷者が出ているようです」
「なんだと?」ハロルドの顔色が曇る。「……わかった。貴様は持ち場に戻れ。団長に報告しなくては」
 報告に来た隊員は敬礼すると、足早に持ち場に戻って行った。
「あの、私はなにをすれば……」只事ではない雰囲気に、ジェマは不安げな目をハロルドに向ける。
「念の為、貴様はオビを連れて兵舎の門で待機していろ」
「オビを?」
「僕が許可する。奴の力が必要になるかもしれない」
 ハロルドがオビを頼りにするとは意外だ。それほどまずい事態が想定されるのかもしれない。ジェマはうなずき、オビを預けている留置所へと走った。

第十五話

 雨はしとしとと降り続いており、止む気配はない。三番隊が怪我をして帰還したという知らせを受けたハロルドは、その報告をすべく、団長室がある塔へ続く渡り廊下を足早に進んでいた。
 昨晩遅くに三番隊が調査に向かったことは、今朝団長から聞かされていた。ウィーゼルを連れて行ったのは証言に嘘が無いことを確かめるため、夜中に出発したのは、一度怪物化したことのある獣人を街の者に見られてパニックが起こるのを防ぐためだという。しかし、ハロルドはどこか落ち着かないような、奇妙な違和感を覚えていた。
 ふと顔を上げると、向かい側から歩いて来る人物が目に入る。金毛(こんもう)狐の毛皮をあしらった帽子と外套、隊長の地位を示す白い制服を身に着けたその人物は、ハロルドの目の前に到達すると、そこで足を止めた。行く手を阻まれ、ハロルドも立ち止まる。
「やあ、ハロルド君」
 相手は抑揚の無い声でそう言って、ハロルドを見下ろす。銀髪の隙間から覗く金色の目を見たとき、ハロルドは相手が何者かを思い出した。
「ご無沙汰しております、サディアス殿」
 三番隊の隊長を務めるサディアスとは、面と向かって言葉を交わすのは初めてだった。月に一度開かれる会議の際、彼の姿を何度か見かけているはずなのだが、その人間らしからぬ双眸の色は、他の特徴を打ち消すほどの印象を残していた。噂では、サディアスには魔族——この言葉はオールンを指す蔑称である。ハロルドはこの言葉は使わないが、セルペニアに住む多くの人間はオールンを魔族と呼ぶ——の血が混ざっていて、化物じみた美しさで人間を惑わせると囁かれている。ハロルドはそんな噂に興味はなかったが、こうして対峙してみると、えもいわれぬ威圧感を覚えずにはいられない。
「先ほど、貴殿の部下が帰還したと知らせを受け、報告にあがりました。同行していた獣人の攻撃により、負傷者が複数出ているとのことです」
「へえ、あっそう」
 そのとき向けられた視線があまりに冷め切っていたので、ハロルドは思わず唾を飲んだ。
「仮にも魔術の熟練者である三番隊の隊員が、獣人ごときに不意打ちを喰らうなんてねえ」溜息混じりにサディアスはそう言って、右頬に手を当てる。「まあ、手ぶらで帰って来たわけじゃないだろうし、手土産を受け取るついでに見舞いに行ってやろうかな」
「手土産?」
「現場まで辿り着けてるなら、所持品や毛髪とまではいかなくても、土くらいは持ち帰ってくれてるはずだ」
 現場とはウィーゼルが魔術師と接触した場所のことだろうが、そこの土がどのような手掛かりになるのだろう。
「そんなものを調べてなにがわかるんですか?」
「素人の君に説明しても理解できないだろう」
 魔術の本場であるシュメリア王国への留学経験があるハロルドは『素人』という言葉にカチンと来たものの、サディアスのほうが魔術に詳しいことは事実だ。わざわざ突っかかるようなことでもないので、ハロルドは出かかった言葉を飲み込む。
「……はい、はい。わかりました。伝えておきます」
 突然、独り言を呟くように、サディアスは虚空に向かって話し始める。奇妙な光景だが、ハロルドはそれが風属性魔法による音声通信だということを知っていた。声を魔力に乗せ、離れた相手とやりとりできる魔法である。便利な技術だが、壁などの障害物がある場所では使えず、声が届く範囲も魔力の強さに依存している。ほとんどの魔法は適性さえあれば小さな子どもでも扱えるが、この音声通信は比較的繊細で高度な技術のため、扱える者は少ない。ジェフリー団長がこの魔法を扱うことは知っていたが、サディアスも使えるようだ。
「団長からの伝言だ。ウィーゼルの行方を追い、捕縛せよとのことだ」
「承知しました。すぐに向かいます」
 先ほどの報告もサディアスによって団長に届けられていたようだ。ハロルドは敬礼し、ジェマの元へ戻るべく踵を返す。
 ジェマが待つ門へ向かう途中、食堂の前を通りかかったところで、ハロルドは足を止める。そういえば、七番隊の予算を計算していた途中で出掛けてしまったのだった。置きっぱなしにしていた帳面と算盤を回収するため食堂に入ると、甘い香りが鼻をくすぐった。午前の小休憩で販売されるビスケットが焼きあがったのだろう。
 いつ頃から始まったかは知らないが——恐らく団長の意向が少なからず影響しているのだろうが——食堂では毎日、朝昼晩の三度の食事の他に、午前十時と午後三時に焼きたての菓子が売られることになっていた。小さな袋に五、六枚のビスケットが入っていて、一袋八カブルで販売されている。生地に紅茶や木の実が練りこまれたものもあり、バタークリームや蜂蜜、季節によっては果物のジャムが添えられたりして、様々な味が楽しめるという。ハロルドは甘いものが苦手なので利用したことはないが、任務中に小腹が空く隊員には重宝されているようだ。マシュマロウ通りの菓子より安価な上、騎士団員のみが口にできるという特別感も受けているのだろう。十時になってまだ数分しか経っていないというのに、既にカウンターの前には何名か並んでいて、その好評ぶりがうかがえる。
 ハロルドの忘れ物は配達棚の中に置いてあった。販売員の話では、菓子を買いに来た七番隊の隊員が置いて行ってくれたという。用事が済むまで預けておくことにして、ハロルドは食堂を出ようとしたが、ふと留置所の役人がオビについて話していたことを思い出す。
 オビは一般的な獣人同様、初対面の人間には警戒心を抱くが、餌をくれる人間に対しては多少なりとも警戒を緩めるという話だ。どういうわけだか彼に首輪を着けても作動しないため、多めの餌を与えておとなしくさせているという。
 ジェマを同行させるので心配はいらないと思うが、念の為機嫌を取っておいても損は無いだろう。オビが機嫌を損ねて暴れでもしたら、暴走したウィーゼルより危険かもしれない。数枚の小銭で最悪の事態が避けられるなら安いものだ。

 ジェマに頭を撫でられて悦に入っていたオビは、ハロルドの姿を見るなり牙をむいた。威嚇というよりは、楽しい時間を邪魔されて機嫌を損ねたような表情だ。
「そんな顔をするな」
 ハロルドはそう言って、ベルトに下げていた小袋を差し出す。オビは訝しげにくんくんと袋を嗅ぎ、中にあるものを悟ると、ぱあっと顔を明るくしてハロルドの手から袋を奪い取る。
「おやつだー!」嬉しそうに叫んで、オビは袋の中のビスケットを一気に頬張った。
「まったくこの子ったら……」ジェマは呆れたような溜息を吐いてオビを見、ハロルドに向き直る。「どうしたんですか、これ」
「食堂を通りかかったら売っていたんだ。ちょうどいいと思って買ってきた」
「オビへのお土産に?」
「ああ。これから少々厄介な仕事をやってもらわなければならないからな」
 ハロルドはジェマとオビを街の外に連れ出し、団長からの指示と、ウィーゼルの変身能力について伝えた。
「パーシーや他の隊員を呼ばなくていいんですか?」ジェマは不安げな表情で問う。
「街の警備に穴を開けるわけにはいかない。万が一奴が暴走していたとしたら、街を襲う可能性もあるからな」
「それで、オビはなにすればいいの? ウィーゼルをやっつければいいの?」
 先ほど食べたビスケットが気に入ったようで、おかわりを狙っているのか、オビはハロルドの腰周りをちらちらとうかがいながら急かすように問いかける。
「必要があれば戦うことになるかもしれないな」
 張り切るオビに答えながら振り返ると、ジェマがなにか考え込むようにうつむいていることに気付いた。
「どうかしたのか」
「いえ。ただ、戦わないで済めばいいなって思って」
「この期に及んで、まだそんな甘いことを言っているのか」
 ハロルドは溜息を吐きつつも、ジェマがそう言うのも仕方の無いことだと理解はしていた。ジェマを連れて来たのは戦力として当てにしていたからではない。怪物化したウィーゼルと対等に渡り合う力を持つオビを制御するためだ。ジェマの優しい性格は他人の心を解きほぐす才能ではあるが、同時に、悪意を持った相手に付け入る隙を与えてしまう危険もはらんでいる。自分の意思に反して怪物と化したウィーゼルに対し、多少なりとも同情してしまう気持ちはわかる。だが、暴力を振りかざす相手に説得は無意味だ。やらなければ、こちらがやられる。
「今のウィーゼルはただの獣人じゃない。やられる前にやるしかないんだ」
「それはそうですけど、でも……」
「嫌なら無理に戦えとは言わない。そいつの手綱だけしっかり握っていろ」
 ジェマはハロルドが指差したオビを見遣り、「……はい」と小さく返事をした。まだなにか言いたそうだったが、聞いてやる暇は無い。
 ハロルドは厩舎に預けていた栃栗毛の馬を引き取り、それに跨った。セルペニアの馬は持久力とバランス感覚に優れており、悪路や山道でも速度を落とすことなく走ることができる。ジェマはオビの背中におぶさって、駆け出したハロルドの後に続いた。
 目的地である洞窟まであと数キロといったところで、空気のにおいを嗅いでいたオビが足を止める。後ろに続く足音が止まったことに気付いて、ハロルドも馬を止めた。
「どうしたの、オビ?」オビの背中でジェマが訊ねる。
「血のにおいがする。近くになにか居るよ」忙しなく鼻を鳴らしながらオビは答える。雨のせいでにおいが薄まっているのだろう。においの正体までは判断できないらしい。
 今居る場所は街道から逸れた山の中腹で、周囲には若葉を付けた樹木や茨が群生し、人や動物が身を隠すにはちょうどいい茂みを作っている。更に、近くに滝があるらしく、水が落ちる音が周辺の物音をかき消していた。ハロルドは馬の上から周囲を見渡し、ジェマはオビから降りて剣を抜く。オビは鼻と耳に意識を集中させ、においの元を探る。
「くんくん……こっちだよ!」
 オビはそう言って、滝の音が聞こえる方向へ向かって駆け出した。
「あっ、オビ待って!」
「待て! 勝手に動くな……くそっ」ハロルドは馬から飛び降り、オビを追って行ったジェマの後を追う。
 茂みをかき分けながら二人に追いつくと、ちょうどオビが川の中からなにかを引きずり出しているところだった。それが人の形をしていたので、慌てた様子でジェマも加勢する。オビとジェマの二人がかりで岸に引き上げられたその人物は、フード付きのゆったりとした上着を身に着けていた。ハロルドはその上着の独特な模様に見覚えがあった。三番隊が遠征のときに身に着ける上着である。一般には出回っていないその上着を着ているということは、恐らくウィーゼルに襲われた隊員の亡骸なのだろう、とハロルドは思った。
「ハロルド! 来てください!」
 上ずった声でジェマが呼んでいる。ハロルドは急いでそちらに駆け寄る。そして、引き上げられた人物の顔を見て、息を飲んだ。
「こいつは……!」
 三番隊の上着を着て横たわっていたのは、ウィーゼルだった。

第十六話

 ウィーゼルの体は冷え切っており、所々火傷のような傷跡があった。滝から落ちたときにぶつけたのか、痣や切り傷も見受けられる。酷い怪我だが、すぐに命に関わるような傷ではない。かすかだが、まだ息もある。
 ウィーゼルの顔を確かめるなりレイピアを抜いたハロルドを、ジェマは慌てて止める。
「待ってください! なにも殺さなくても……」
「こいつは既に三番隊を襲っている。意識が戻ったら危険だ」
「ですが……」ジェマは言葉を探す。「無抵抗な相手を殺すなんて、なんか、その……卑怯じゃないですか!」
 ハロルドの肩がぴくっと震える。動きを止めたハロルドの横顔を、ジェマは固唾を呑んで見守る。
「『卑怯』……か。確かにな」刃を収めながら息を吐き、ハロルドは先ほどよりは落ち着いた視線をジェマに向ける。「雨を避けられる場所を探して、こいつを手当てする。僕がこいつを運ぶから、二人は薪にできそうな枝を集めてくれ」
「えーっ!」抗議の声をあげたのはオビである。「なんでそんな奴助けなきゃいけないの」
「何故三番隊を襲ったのか、その動機を聞き出す必要がある。こいつがどこまで本当のことを喋ってくれるかはわからないが」
「何故って、逃げるためじゃないんですか?」
「逃げるだけなら、なにも戦う必要は無い。言葉巧みに騙すなり、監視の目を盗んで逃走するなり、奴ならそういった方法を選ぶはずだ」
 ハロルドはウィーゼルを背負って立ち上がろうとする。だが、上着が水を含んで重くなっているせいか、立ち上がる瞬間にずり落ちてしまう。手こずっているようだったのでジェマも手伝い、ウィーゼルが着ていた上着を担架代わりにして二人がかりで馬まで運んだ。
 しばらく歩いていると、山小屋が見えた。秋から冬にかけて狩人が利用する小屋だ。今は狩りの時期ではないので、人の気配は無い。鍵は掛かっていなかったので、雨宿りさせてもらうことにした。小屋の外に馬を繋ぎ、ジェマとハロルドがウィーゼルを中に運び込む。最近誰かが利用したのか、調理場や暖炉といった設備はしっかり整えられていた。戸棚の中には包帯や薬草もある。干草が敷かれたベッドの上にウィーゼルを寝かせ、ジェマは集めてきた枝を暖炉にくべる。魔法で火をつけようと試みるが、湿気ているのか白い煙が出るばかりでなかなか着火しない。
「ジェマー、おなかが空いたよー」
 オビに袖を引っ張られ、ジェマは自分も空腹であることに気付いた。空が曇っていたので時間の感覚が無かったが、腹の具合からするとそろそろ昼飯時である。
 ウィーゼルの手当てを行っていたハロルドがオビに近付き、「これでも食べろ」と言って袋を差し出した。例のビスケットである。オビは喜んでそれをかっぱらうが、ジェマの視線に気付くと慌てて「ありがと!」と言った。ビスケットは雨でぐずぐずになっていたが、オビは気にせずおいしそうにそれを食べた。
 そうこうしている内に、ぱちぱちと音を立てて枝が燃え始める。濡れて冷え切った体にじんわりと火の温もりが染み渡る。
「起きませんね、彼」眠ったままのウィーゼルを見て、ジェマはぽつりとそう言った。
「長く川に浸っていたからな。流石に、体力が戻るには時間がかかるんだろう」ハロルドはジェマの呟きに答えると、窓へ目を向けて呟く。「霧が出てきたな」
 ハロルドの言う通り、辺りには白いもやが立ち込めていた。視界が悪い上、雨で地面がぬかるんでいては外に出るにも危険が伴う。
「ねえねえ! もう無いの?」ぐずぐずになったビスケットが付いた指を舐めながら、オビは無遠慮に声をあげた。
「今ので最後だ」
「えーっケチ!」オビは唇を尖らせ、しっぽで床を叩いて不満を露にする。
「無いものは無い。貴様も獣なら、人間に頼らず自分で調達して来たらどうだ」
 ハロルドの冗談混じりの提案に、オビのしっぽがピンと立ち上がる。
「そうする!」その手があったか! と言わんばかりに、オビは意気揚々と霧の中に飛び出して行った。
「えっ」ハロルドの表情に焦りが浮かぶ。「おい! ちょっと待て!」
 ハロルドは慌てて後を追うが、オビの姿はすでに霧の中に消えていた。
「大丈夫ですよ。彼は鼻が利きますし、そのうち戻って……」ジェマは呆然とするハロルドを励まそうと、後ろから声をかける。しかし、その言葉は途中で途切れた。
 ハロルドが振り返る。その顔に苦い表情が浮かぶ。
「ウィーゼル……貴様……」
 いつの間に目覚めていたのだろう。それとも、最初から気絶したフリをしていただけだったのだろうか。ウィーゼルはジェマを後ろから羽交い絞めにして、ハロルドを睨んでいた。いつもの皮肉も、軽口も無い。牙をむいた口から漏れる息は荒く、背中からしっぽにかけての毛が逆立っている。
 ハロルドがレイピアの柄に手をかけるのを見て、ウィーゼルは唸り声をあげた。ジェマの首筋に、わずかに爪が食い込む。
「動くんじゃ……ねえ……」ウィーゼルは震える声を絞り出す。「なんなんだ、てめェら……俺を弄びやがって……」
「……彼女を放せ」ハロルドの周りに小さな火花が散る。感情の昂ぶりに呼応して、無意識に魔力が溢れているのだ。「三番隊の隊員もそうやって襲ったのか? 答えろ!」
「うるせえ!」ウィーゼルが吠える。「やれるもんならやってみろよ! その前にこの女の喉を掻き切ってやる! 騎士のくせに小娘一人守れないたァ、情けねェなあ! 隊長さんよ!」
「貴様……ッ!」
「待ってください!」
 ジェマの声を聞いて、レイピアを抜きかけたハロルドの動きが止まる。ウィーゼルは一瞬だけジェマを見たが、すぐにハロルドのほうへ意識を戻した。
 ウィーゼルの耳は後ろにぺたりと寝ており、しっぽは股の間に挟まれている。その姿は、出会ったばかりの頃のオビに似ていた。オビとの違いは、ウィーゼルは怯えながらも攻撃の態勢を取っていることだ。追い詰められた獣は命懸けで反撃してくる。下手に刺激するのは危険だ。
「ウィーゼル、爪を下ろしてください。私たちはあなたと話がしたいだけです」ジェマは努めて穏やかな口調で語りかける。
「人質は黙ってろ! 殺すぞ!」
「私を殺したら、あなたも死にますよ」ウィーゼルがはっと息を飲むのがわかった。ジェマは続ける。「考えてもみてください。人質が居なくなるってことは、あなたを守る盾が無くなるってことです。相手はハロルドだけじゃない。オビも近くに居るんです。オビはこの雨の中、水中に居たあなたのにおいを嗅ぎつけた。今ここで私を殺して逃げたとしても、オビの鼻からは逃げられませんよ」
「てめェ……俺を脅そうってのかよ?」苛立たしげに牙をむくウィーゼル。
「警告してるんです。あなたは混乱して、冷静さを失っている。いつものあなたなら、こんな無謀なことはしないはずです。私を解放してくれれば、こちらはあなたを攻撃しません。その証拠に、傷の手当てをしてあげたでしょう?」
 ウィーゼルはジェマの真意を見定めようとするように、その目をじっと見ていた。やがてウィーゼルはジェマの喉元から爪を離し、乱暴に背中を突き飛ばす。よろけるジェマの体を支えつつ、ハロルドがウィーゼルを睨む。
「三番隊を襲ったのは貴様か? もしそうなら、その理由はなんだ? 逃げるだけなら彼らを傷付ける必要は無かったはずだ」
 ウィーゼルは黙ったままハロルドを睨み返す。三角形の耳が、辺りの物音を警戒してぴくぴく動いていた。
「教えてもらえませんか」ジェマは静かにウィーゼルの発言を促す。「あなたの傷を手当てしたハロルドが質問しているんです。他人になにかしてもらったらお返しをするのは常識、でしたよね?」
「……はっ、言うようになったじゃねえか。小娘」ウィーゼルの顔に、初めて笑みが戻った。純粋な好意から浮かんだ笑顔ではなく、皮肉と嫌味に歪んだものではあったが。「なら話してやる。心して聞けよ」
 ウィーゼルの話の概要はこうだ。彼は真夜中に三番隊の隊員に連れ出され、魔術師と会った場所へと案内させられた。隊員が洞窟へ入り調査をしている隙に、ウィーゼルはこっそり逃げ出そうとした。その時、背後で爆発が起きて、ウィーゼルは近くの川まで吹き飛ばされたという。
「つまり、先に手を出したのは三番隊のほうで、貴様は被害者だと言いたいわけか?」ばかばかしいと言わんばかりに、ハロルドは溜息を吐く。「逃げようとした貴様の自業自得じゃないか」
「ああそうかよ。そう言うと思ったよ。じゃあどうすんだ? 俺を殺すのか?」
「いや、」ハロルドは首を振る。「団長から指示されたのは追跡と捕縛だけだ。貴様の処分はホークバレーに戻ってから決めることになるだろう」
 ハロルドの言葉を聞いて、ウィーゼルから放たれていた敵意が薄まるのをジェマは感じた。緊迫していた空気が若干ながら和らぎ、ジェマもほっと息を吐く。
「でも、そうだとしたら一体誰が三番隊の人たちに怪我させたんでしょうね? ウィーゼルはなにか見ていませんか?」
「さあな」ウィーゼルの返事は素っ気無い。無理に動いたのと、長く喋ったことで疲れたのだろう。よろよろとベッドに戻ると、敷き詰められた干草に体を預ける。
「洞窟の調査に行ったのなら、そこを調べられたら困る人物の仕業とも考えられるな。もっとも、そいつが本当のことを言っているのだと仮定すれば、だが」
 ハロルドは疑心に満ちた目をウィーゼルに向ける。その視線に返事をするように、ウィーゼルはしっぽを一度振ってみせた。
 
「オビ、無事に戻って来れるかな……」
 オビが昼食を求めて山に飛び出して行ってから随分経つ。ジェマは空腹も忘れ、小屋の窓から外を見ていた。日が傾きつつあるのか、白っぽい灰色だった霧に朱色が混ざっている。雨雲は去ったようだが、霧が晴れる気配は無い。日が沈めば、視界は更に悪くなるだろう。
「心配いらねえよ」ジェマの独り言に、耳を伏せたウィーゼルが答える。「奴はもうそこまで来てる。いいか、俺に近付けんじゃねえぞ」
「ジェマー! ただいまー! お土産持って来たよ!」
 ウィーゼルの台詞に被せるように、オビの声が小屋に飛び込む。しっぽを振り回しながら帰って来たオビの手には、何匹かの蛇が握られていた。蛇はオビの手から逃れようと、びたんびたんと体を波打たせて暴れている。
「活きがいいのが獲れたよ! おいしいよ!」
「オビ、噛まれてるよ」
「うん、ちょっと痛いけどこのくらい平気だよー」
 オビの指や手首に噛み付いている蛇は猛毒を持つ種類だったと思うのだが、記憶違いだろうか。見たところオビの顔色に変化は無く、体調に問題はなさそうだ。
 ジェマとハロルドは蛇を食べる習慣が無かったので遠慮した。ハロルドに至っては、オビがおいしそうに蛇を踊り食いする様を見て吐き気を催していた。
 霧は濃くなるばかりで、その日の内に下山することは諦めなければならなかった。幸いなことに、小屋の中に干し肉やハーブが備蓄されていたため、一夜を明かす分には問題なさそうだ。早めの夕食をとった後、彼らは就寝することにした。

第十七話

 ハロルドは見張りのために小屋の出入り口に立っていた。山賊や夜行性の獣の襲撃を警戒してのことだ。夜が更けるにつれて霧は晴れ、三日月の明かりが辺りを照らしている。楽器を奏でるような虫の声に混じり、フクロウの鳴き声や狼の遠吠えが時折聞こえるだけで、実に静かな夜だった。
 小屋の中でがさごそいう音が聞こえ、一瞬緊張が走る。ウィーゼルが脱走を図ったのかという考えがよぎったが、背後に現れた人物の顔を月明かりが照らすと、ハロルドはレイピアの柄を握っていた手を離した。
「どうした、眠れないのか」
 声をかけると、ジェマは困ったように微笑んで頬を掻く。
「ええ、ちょっと。床で寝るのは慣れてなくて」
「ベッドならもうひとつ空いていたのではないのか」
 小屋には二つベッドが備えられていた。ひとつはウィーゼルが占領しているが、もうひとつは空だ。オビはかまどの前に陣取り、鍋を抱えて丸くなっている。夕食に作った干し肉のスープの残り香が心地好いのだろう。時折むにゃむにゃ言っているが、よく眠っているようだ。
「上司を差し置いて部下がベッドを使うっていうのは、ちょっと」
「遠慮なんてしなくていい」ハロルドは素っ気無くそう言って窓に視線を戻す。「僕は床で寝ることは遠征で慣れている。貴様はそうじゃないだろう。変な気を使って体調を崩されたら困る」
「……ハロルドって兄弟居ます?」
 唐突な質問を投げられて、ハロルドはジェマへ怪訝な顔を向ける。
「兄と弟が居るが、それがどうした」
「ああやっぱり。いえ、なんか、ハロルドって時々兄さんみたいなこと言うなあって思って」
「団長みたいな?」
 聞き返せば、ジェマは「そういうわけじゃなくて」と苦笑する。
「兄さんに似てるって意味じゃなくて、お兄ちゃんっぽいなあってことですよ」
「そういうことか」うなずきつつ窓の外へ視線を戻そうとして、ハロルドは思い出したようにジェマに向き直る。「そう言う貴様こそ、昼間の交渉術は団長から習ったのか?」
「交渉術?」
「ウィーゼルを説得してみせただろう」
 自分よりも経験も体力も魔力も劣る騎士見習いの少女が、危機的状況を自力で切り抜けたことに、ハロルドは少なからず衝撃を受けていた。
 ジェマを人質に取られたとき、ハロルドにはなにもできなかった。雷撃でウィーゼルを撃てばジェマも無事では済まなかったし、刃を抜いて斬りつけようにも、ウィーゼルの爪がジェマの喉を切り裂くほうが速い。そんな状況を、ジェマは話術のみで切り抜けたのだ。
 ホークバレーにウィーゼルが現れてから四年間、ハロルドはウィーゼルと話し合いをしようとは考えもしなかったし、できるとも思っていなかった。街の人々を脅かす悪が在るのなら、それを排除することが自分の使命だと信じていたからだ。
「あー、あれですか」妙に歯切れの悪い返答だ。照れ臭そうに頬を掻きながら、ジェマは答える。「交渉とか説得の技術を学んだわけじゃないんですけど、以前ウィーゼルに会ったとき、彼の気持ちを考えないでものを言ってしまったせいで、痛い目に遭ったことがあって。ウィーゼルならこういうときどう考えるかなって、私なりに考えてみた結果なんですけど」
 ハロルドは内心舌を巻く。ウィーゼルを探しに出たとき、彼女は『戦わずに済めばいい』と言っていたが、あれは単にウィーゼルに同情して言った言葉ではなかったのだ。
「まあ、上手くいったのでよかったです」
 にこっと笑うジェマに、ハロルドは素直な疑問をぶつける。
「貴様の家は商人かなにかなのか?」
「いえ、鍜治屋ですけど」
「商売はしているわけか。どうりで……」
「どうりで?」
「口が上手いなと思っただけだ」
 ハロルドは褒めたつもりだったが、ジェマはなんとも言えない表情を浮かべた。
「……もう夜も遅い。そろそろ横になったほうがいいんじゃないか?」
「いえ。ハロルドこそ休んでください。リーダーがしっかりしてくれないと困ります」
「それを言うなら貴様こそ休んでもらわないと困る。足手まといが増えるのはごめんだ」
「あのォ、お二人さん」
 唐突に投げられた声に、二人は同時に振り返る。ベッドの上で半身を起こしたウィーゼルが、頬杖をついてこちらを睨んでいた。
「痴話喧嘩はよそでやってもらえませんかねェ。うるさくて眠れやしねえ」
「なっ! ばっ! 違う! ふざけるな貴様ッ!」
 かあっと顔が赤くなるのをハロルドは自覚していた。異性との会話をあらぬほうへ曲解されれば誰だって怒りが込み上げるものだ。
「なんだ、ウィーゼル起きてたんですね」ジェマは冷静に言葉を返す。
「アンタらがイチャイチャしてるから起こされたんだよ」
「ちょうどいいや」嫌味たっぷりなウィーゼルの言葉を軽く受け流しつつ、ジェマは言う。「ウィーゼルに見張りしてもらいましょうよ」
「はあ!?」ウィーゼルは牙を見せて嫌そうな顔をする。「怪我人をこき使おうってのかよ?」
「それはいい考えだな」ハロルドもジェマの提案に便乗する。「貴様は充分休んだだろう。怪我を手当てしてやった貸しも返してもらわないとな」
「おまえら……」
「あんまり騒ぐとオビが起きちゃいますよ」
 オビはぴくぴく耳を動かしながら、無防備に腹を晒して眠っている。時折「みゃっ」だの「ぴゃっ」だの寝言のような鳴き声がオビの口から漏れる度、ウィーゼルのしっぽの毛が逆立つ。
「ちっ、わかったよ。外を見てりゃいいんだろ」しょんぼりと耳を寝かせたウィーゼルは渋々ベッドから降り、小屋の出入り口に座り込んだ。そして、思い出したように一言呟く。「ああ、そうだ」
「どうした」どうせろくでもない皮肉でも言うのだろうと思いつつ、ハロルドは聞き返す。
「あの野郎と会ったのも、こんな静かな夜だったよ」
 なんの話をしているのか、ハロルドには一瞬わからなかった。あの野郎とは誰だ、と訊ねる前に、ウィーゼルは答えを口にする。
「奴は黒ずくめの呪術師みたいな格好をした若い男で、樫の木でできた杖を持っていた。奴は俺を『(かしこ)き神』と呼んだ。『貴き神』ってのは狼を指す古い言葉だ。とっくに死語になったと思ってたが、まだ使う奴が居たんだなと思ったよ」
 独り言のように語られるその内容が、ウィーゼルに呪いをかけた魔術師に関する情報だと気付いたとき、ハロルドは身を乗り出して聞き入っていた。牢獄の中では頑なに語らなかったその話を、なぜ今話す気になったのかはわからないが、今後の捜査に役立つ情報になることは間違い無い。
「そいつは、人間だったか? 角は無かったのか?」
 魔術師は古い言葉を使っていた、というウィーゼルの証言から、ハロルドは直感的にオールンを連想した。シュメリア王国では古い伝統が重んじられていて、セルペニアでは死語となった言葉も数多く残っていたからだ。
「さあな」話を遮られたのが気に障ったのか、ウィーゼルは舌打ちをして続ける。「角は見てないが、フードで隠れてたかもしれねェ」
「犯人は女か?」
 オールンの女性は男性に比べ角が小さい傾向にある。特に若い女性の角はほとんどこぶと変わらないため、外見だけではオールンとわからない場合も多い。
「話聞いてたか? 男だって言っただろ」ウィーゼルは溜息混じりに答える。「人間とオールンの混血なら、男でも角が小さい場合が多いって聞くぜ」
「人間とオールンの……混血……」
「それに、俺が聞いた声は男のものだった。もっとも、魔法で変えてたのかもしれないがな」
「そうか……他に特徴は?」
 ハロルドの質問に、ウィーゼルはもったいぶるように息を吐いた後、静かな声で答えた。
「奴の目が、金色に光ったように見えたんだ。獣の目が光を反射するのとは違う。まるで目ん玉自体が光を放っているみたいに」
 人間とオールンの混血。金色の目を持つ者。若い男。
 ハロルドの脳裏に浮かんだのは、ホークバレー騎士団の三番隊隊長、サディアスの顔だった。
 ハロルドは頭を振ってその考えを振り払おうとする。確かに珍しい色ではあるが、決め付けるのはあまりにも早計だ。そもそも、騎士団に所属する者が騎士団の施設を襲撃して、なんの得があるというのだろう。だが、ハロルドには心当たりがあった。怪物の襲撃、外からの脅威、その存在を住民に知らしめることの意味。疑惑と否定が頭の中でせめぎ合う。
「……ハロルド、大丈夫ですか?」黙り込んだハロルドに、ジェマが遠慮がちに声をかける。「顔色がよくないみたいですけど」
「……いや、なんでもない」
 答える声は虚ろだった。頭では否定していても、一度浮かんでしまった疑惑を払拭することは難しい。
 ジェマはハロルドに心配そうな視線を送りつつ、ウィーゼルに向き直る。
「話してくれてありがとうございます。ウィーゼル」
「はっ、信用してくれるのかよ。また嘘を吐いてるかもしれないぜ?」ウィーゼルは皮肉めいた笑みを浮かべ、そう言った。
「まあ嘘だとしても、一応聞いておきますよ。なにかの参考になるかもしれないし」
「参考になどならない。そいつが本当のことを言うわけがない」ジェマの台詞に被せるように、ハロルドの口から言葉が漏れる。「でたらめを言って惑わせようとしているに決まっている。そんなたわ言を信じると思ったのか?」
 態度を豹変させたハロルドに、ジェマは不安げな視線を向ける。ウィーゼルは鼻を鳴らし、両手を開いてわざとらしく溜息を吐く。
「おやおや、熱心に聴いてくれてると思ったんだがねえ。隊長さんは疑い深くていらっしゃる」
「黙れ!」ハロルドは叫ぶと同時にレイピアを抜いた。刀身に魔力が宿り、青白い光を纏う。
「おや? やるってのかよ。今の話は助けてくれたお礼のつもりだったんだがねェ」ウィーゼルは挑発するように言い、牙を見せて笑う。「なんでこの状況で嘘吐かなきゃならないんだ? その魔術師と俺がグルだとでも言いたいのかよ?」
「ウィーゼル、煽らないでください! ハロルドも、いったいどうしちゃったんですか!」
 一触即発の空気を払拭するべく声を張るジェマ。しかし、その声はハロルドの耳には届かなかった。
「……やはり、貴様を生かしておいたのは間違いだった」
「ハロルド……!」
 ジェマの制止の手を振り払い、ハロルドはウィーゼルに切りかかった。ウィーゼルが飛び退いたことで刃は空を切るが、まとっていた雷が彼の後ろにあった扉を吹き飛ばす。暗闇に飛び出していったウィーゼルを、ハロルドの手から放たれた雷撃が追う。確かな手ごたえと共に、辺りに閃光が迸る。
 暗闇に目が慣れるにつれ、徐々にウィーゼルの姿が見えてくる。
 ウィーゼルの両手は不恰好に巨大化し、自身の体を守る盾となっていた。その陰から、斜に構えた笑みが覗く。ハロルドは奥歯を噛み締め、ウィーゼルを睨む。
「その力は危険だ。貴様にはここで消えてもらう」

第十八話

 ジェマはハロルドを追いかけて外に出る。淡い月光が、体の一部を怪物と化したウィーゼルと、彼に切っ先を向けるハロルドを照らし出していた。
「いいのかァ? 俺の処分は街に戻ってから決めるんじゃなかったのかよ」
「言ったはずだ。貴様には消えてもらう。何度も口車に乗ってやると思うな!」
 ハロルドの手から放たれた雷撃がウィーゼルを襲う。ウィーゼルの巨大な腕が、それを払い除ける。軌道を逸らされた雷撃は近くの木の幹を直撃し、雷を浴びた木は内部の水分が膨張し破裂した。木片が飛び散り、ハロルドの頬に赤い筋を刻む。木片に気を取られて生じた隙を突き、巨大な腕がハロルドの頭に振り下ろされる。ハロルドは横に跳んでそれをかわすが、彼の代わりにウィーゼルの一撃を受けた地面は地響きと共に砕け、土や石を辺りにばら撒く。
 森が破壊され、起こされた動物たちが散り散りに逃げていくのを、ジェマはただ見ていることしかできなかった。
「んー、なに? うるさいよう」
 眠っていたはずのオビが、この騒ぎで目を覚ましたようだ。眠そうな目を擦りながら、ジェマのそばに寄ってくる。
「オビ! お願い、二人を止めて!」ジェマはオビに縋るような視線を向けた。
 オビは寝ぼけているのか、ぼうっとした目で辺りを見回し、激戦を繰り広げるハロルドとウィーゼルの姿を見止めると、ああ、と気の抜けた声を出す。
「ほっとけばいいじゃん」
「え、なんて……?」
 ジェマが聞き返すと、オビは大きなあくびをしてから答える。
「喧嘩したい奴は気が済むまでやらせとけっておばあちゃんが言ってたよ」
「そういうわけにはいかないよ。このままじゃ森が……」
「オビはジェマが無事ならそれでいいよ。森が壊れても、ジェマのせいじゃないよ」オビはそう言ってもう一度あくびをする。
「……わかった。じゃあ私が止めてくる」
「ダメだよっ!」
 足を踏み出したジェマの手を、オビが掴んで引き止める。ジェマの背筋にぞわっと悪寒が走った。不安げな瞳が、ジェマを見据える。
「行かないで」
 オビ自身は力を入れているつもりは無いようだったが、鋭い爪はジェマの袖を引き裂き、冷たい刃物のような先端が皮膚に触れていた。
「ジェマが怪我したらやだよ。ここに居てよ」
 オビの目から視線を逸らすことができない。言葉を発する彼の口から、獣の牙が覗く。ジェマが動かないことに安心したように、オビは無邪気に微笑んで手を離した。
 ハロルドとウィーゼルの戦いで、周りの木々はなぎ倒され、若葉が生い茂っていた森の面影は無くなっていた。
 雷撃を連射したせいか、ハロルドの息はあがっていた。彼の肌にはウィーゼルの爪や木の枝に引っ掛けた切り傷が幾つも刻まれ、白い制服は土と血で汚れていた。しかしその碧眼から闘志が消えることはなく、彼は青白い光を帯びた刃を構える。
「いいかげんにしろよ……」ウィーゼルが牙をむき、唸る。狼は汗をかけないので、体温を調節するために呼吸が荒くなっていた。「助けたと思ったら、いきなり殺そうとしてきやがって……なんのつもりだ、てめえ」
 ウィーゼルの腕が元の大きさに戻った。戦意を失って降参するつもりなのかと思いきや、ウィーゼルは四つ足の姿勢を取って尾を立てる。獲物を仕留める体勢だ。
 ウィーゼルが牙をむき、ハロルドに飛びかかる。対するハロルドも雷を纏ったレイピアを構え、向かってくる獣に刃を向けた。
 このままではどちらかが死んでしまう。ジェマは直感的にそう感じ、オビを振り切って駆け出した。だが、距離が遠すぎる。間に合わない。ジェマは思わず目を瞑る。
 牙が肉に食い込む音も、電流が弾ける音も、聞こえなかった。唐突に訪れた静寂に、ジェマは恐る恐る目を開ける。
 目の前に、糸が切れたように横たわるハロルドの姿があった。少し離れたところでウィーゼルも同様に倒れている。彼らの体に決定打となり得る外傷は見当たらない。なにが起こったかわからないでいるジェマの耳に、オビの声が飛び込む。
「ジェマ!」
 その声に、ジェマは一瞬身をすくませた。オビはジェマを庇うように前に躍り出ると、耳としっぽを立て、四つ足の姿勢で暗闇を睨みながら低く唸った。その表情には困惑の色が見え、忙しなくにおいを嗅いでは首を傾げている。
「ど、どうかしたの? オビ」
「なにか居るよ。でもにおいがしないの。変だな……」
 暗闇の中で、なにかが動いたように見えた。森に住む動物だろうか。
「誰か居るんですか?」ジェマは思い切って声をかけた。緊張のあまり、声が裏返りそうになる。
 がさり、と茂みが揺れる。近付いて来る相手に、オビが牙をむいて吠えた。雷鳴にも似た咆哮に、相手が息を飲む音が聞こえた。
「……これは驚いた」
 聞き覚えの無い声だった。若い男の声に聞こえるが、中性的な女性の声のようでもある。『驚いた』と彼——はっきりとわかったわけではないが、ジェマは相手が男だと思った——は言ったが、その口調に込められた感情は希薄で、なにを考えているかわからない不気味さを感じさせる。
「寝床を探しているのなら、申し訳ありませんが他を当たってください。それ以上近付くようなら攻撃します」ジェマは剣の柄を握り、ゆっくりと言い放つ。
 茂みが揺れる。ジェマの警告は無視されたようだ。茂みをかき分け、草を踏みしめる音がこちらに向かってくる。
 ジェマは剣を抜いた。オビはジェマを庇うように前に出て、毛を逆立てて唸る。
「戦うつもりか。この私と」
 無感情な声と共に、そいつは茂みの中から姿を現した。
 漆黒のローブを身に纏った呪術師風の人物。その手には木製の杖が握られている。なにより目についたのは、闇夜に浮かび上がる金色の目。
 その人物の外見は、ウィーゼルが話していた魔術師の特徴と一致していた。
 ジェマの視界の隅を何かが横切った。オビだ。オビはジェマが止める間もなく、魔術師に向かって駆け出していた。魔術師は道端の石を投げるような気軽さで、杖の先から巨大な火球を放つ。直径二メートルはありそうな巨大な火の球がオビに襲いかかる。
「オビ!」
 ジェマは叫ぶ。ジェマも炎の魔法を使うが、本業の魔術師が相手では太刀打ちできるはずもない。彼女の魔力を干渉させたところで焼け石に水だ。
 オビは避けようともしなかった。牙をむき、魔術師に猛然と飛びかかる。
 魔術師が放った火球が、オビに命中する直前に霧散した。こけ脅しだったのだろうか。だが、その現象を目の当たりにした魔術師が息を飲むのを、ジェマは確かに聞いた。魔術師は慌てたように杖を構え直し、魔力を集中しはじめる。辺りの空気が冷えてきたように感じ、ジェマは身震いする。そのとき既に、オビの牙は魔術師を捉えるまであと数十センチというところまで迫っていた。
「ぎゃん!」
 悲鳴をあげたのはオビだった。オビの牙は魔術師に届くことはなく、空中に静止していた。突如現れた氷の塊によって、オビの下半身が捕らえられてしまったのだ。
「魔法が効かないという伝説は本当だったようだな……だが、周りの空気は別だ」冷や汗を拭う仕草をしながら魔術師は言う。「ドラゴンか。まさか本当に実在するとは……」
「え?」
 もがくオビと戸惑うジェマを尻目に、魔術師はウィーゼルのそばに近付き、しゃがみ込む。彼に息があるのを確認すると、「ふむ……」と言って立ち上がり、杖をかざした。ウィーゼルの体が水に浮かべたようにふわりと浮き上がる。
「待って! 彼をどうするつもりですか!」
 震える手で剣を構えるジェマに魔術師は振り返ろうともしない。ジェマは質問を重ねる。
「ハロルドとウィーゼルが倒れたのは、あなたの仕業ですね?」
「なんなんだ? 君は」魔術師はようやくジェマへ振り返り、怪訝な目を向ける。
「質問に答えてください」
「ああ、彼らは君の仲間か」倒れているハロルドとウィーゼルを一瞥し、魔術師は淡々とした声で答える。「少し眠ってもらっただけだ。目覚めるかどうかは彼ら次第だがね。君もこうなりたくなければ静かにしていたまえ。それとも、私のことを嗅ぎまわっていた連中のように、痛い目を見ないとわからないかな?」魔術師は杖をジェマに向け、金色に光る目を細める。
「三番隊の人たちも、あなたが……?」
「彼らには催眠が効かなかったからね。直接攻撃してお引取り願うしかなかった。巻き添えで実験体を吹き飛ばしてしまったときは焦ったが、生きていてくれてよかったよ」
「実験体……ウィーゼルのことですか?」
「そうだ」魔術師は淡々と答える。「今まで何十体もの実験を行ったが、そのどれもが力に耐え切れずに精神や肉体を崩壊させていった。だが彼はそうはなっていない。実に興味深い。希少な成功例として、彼の体を調べなければならない」
「やっぱり、あなたがウィーゼルを……」
「質問は終わりだ、お嬢さん。君にもしばらく眠ってもらおう」ジェマの言葉を遮り、魔術師は杖を構える。
 ジェマは剣を握り直し、魔術師に切っ先を向けた。
 訝しげに目を細める魔術師に対し、ジェマは毅然と名乗りを上げる。
「申し遅れました。私はホークバレー騎士団七番隊所属、騎士見習いのジェマと申します。街を荒らす盗賊を追って捕らえる任務を賜っていますので、勝手に連れて行かれては困ります」
「七番隊か……魔法もろくに扱えないただの剣士が、この私に挑むと?」
「できれば平和的に解決できたほうが、こちらとしては有り難いのですがね」
「ふん」魔術師はジェマの言葉を鼻で笑う。「そういう台詞は優位な立場の者が言うものだよ、騎士見習い君。私を圧倒するほどの力を君が持っていないことはわかっている」
「それはどうでしょうね」
 ジェマの視線を追った魔術師の目が見開かれる。氷に捕らわれていたオビの姿が、いつの間にか消えていた。ジェマが指を鳴らすと、氷を炙っていた小さな火の玉が弾けるように次々と消えていく。魔術師がウィーゼルに気を取られている間に仕掛けておいたのだ。
「素人魔法でも、氷を溶かすくらいのことはできます。やれ、オビ!」
 ジェマの声と同時に、オビが魔術師に飛びかかる。魔術師が慌てて構えた杖を、ジェマの剣が弾き飛ばす。杖はくるくると回りながら崖下へと落ちていき、宙に浮いていたウィーゼルの体がどさっと地面に落ちる。
 オビの牙が魔術師の肩に食い込む。苦痛に満ちた悲鳴が闇夜に響いた。
「オビ! 殺しては……」ダメだ、と言いかけて、ジェマは言葉を止める。
 オビが喰らい付いた魔術師の体が、ボロボロと崩れていく。黒いローブだけを残して、魔術師の体は灰色の砂となって崩れ落ちた。
「これは……砂? 人形……?」
 今相手にしていたのは、魔術師が操る土人形だった。崩れ落ちた砂の山は、突風と共に宙に舞い上がり、跡形も無く飛んで行った。
 木々を揺らす風の音に混じって、不気味な笑い声が聞こえた気がした。

第十九話

 ハロルドは懐かしい夢を見ていた。
 母を亡くした年に戦争が始まり、父は戦いに赴いた。ハロルドと弟のアンディは長兄ギルバートに連れられて疎開先の別荘で過ごすことになった。別荘での生活が始まってしばらくして、兄も戦争へ向かった。弟を頼むぞ、とだけ言い残して。
 ハロルドは弟を愛していたし、尊敬する兄から家族のことを託されたことが素直に嬉しかったが、不安が無かったわけではない。兄は何事もそつなくこなす技量を持ち、知性と力を備えていたが、家を背負うにふさわしい兄に比べ、自分には兄ほどの実力は無いということを、ハロルドは物心付いた頃から勘付いていた。学問も、魔法も、剣術も、狩りも、乗馬も、なにひとつ兄には敵わない。だが、父や兄にもしものことがあれば、次男である自分がリース家を継がなくてはならない。幸い、戦争が終わった後に父も兄も無事に帰って来たが、ハロルドの胸中は再会を喜ぶ気持ちよりも、重い責任を負わずに済んだ安心感のほうがずっと大きかった。
 七番隊という末席とはいえ、ホークバレー騎士団で隊長を務めているという事実は、ハロルドにとって重圧だった。父や兄を頼りにしていたときとは違い、今の自分は組織の期待を背負い、部下を率いる立場にある。
 当時わずか十七歳のハロルドが隊長に任じられた異例の決定は、貴族に配慮した幹部の思惑によるものだという噂もあった。その噂が真実であるにしろ、そうでないにしろ、ハロルドにとってはどうでもよかった。
 市民に英雄視されるホークバレー騎士団の名を、自分のせいで汚す訳にはいかない。部下の信頼に応えなければならない。誰よりも正しくあらねばならない。間違いは許されない。悪は裁かなければならない。他者に甘えてはいけない。常に誇り高く、強くなければならない。
「君はどれだけ抱え込むつもりなんだ?」
 不意に聞こえたその声に、ハロルドは弾かれたように振り返る。声の主の姿は見えない。
 過去の光景は暗闇に覆われ、なにも見えなくなった。ただ、自分の姿だけが妙にはっきりと見える。
「そんなに背負い込んで、どうするつもりなのかな?」
 暗闇の中に、人型のようにも見える影が蠢いている。影は、茫洋とした金色の光を放つ目玉でハロルドを見ていた。貴様は誰だ、と声をあげようとした瞬間、再び場面が切り替わる。
 激しく渦巻く炎の中に、ハロルドは放り出された。街が燃えている。辺りには煙が立ち込め、息をするのもままならない。建物の崩れる音、人々の悲鳴、耳をつんざく獣の咆哮。
 肌に感じる熱も、煙のにおいも、夢にしてはやけに現実味を帯びていた。夢だと自覚しているのに、目が覚めることも無い。幻術の類か。さっきの影の仕業だろうか。
 足元に人が倒れていた。うう、うう、と途切れ途切れに呻き声を上げる、下級騎士の制服を着た赤毛の少女。ハロルドはまさかと思いながら抱き起こす。
「……パーシー……?」
 親しんだ名を呼ぶと、少女の目が薄く開かれた。緋色の目が、恨めしそうにハロルドを見上げる。
「どうして……助けてくれなかったんですか……?」
 それだけ擦れた声で呟くと、彼女の体は砂となり、ハロルドの両腕から滑り落ちた。
 ハロルドは「ひっ……」と息を引きつらせ、尻餅をつく。掌にはパーシーの体温と衣服の感触が生々しく残っていた。思考を纏める暇も無く、背後で悲鳴があがる。ジェマの声だ。
 炎に包まれた街を、ハロルドは縋り付くような思いで走った。熱風に喉が焼ける。何度もむせて咳き込みながら、彼は少女の姿を探した。
 干からびてひび割れた噴水の影に、傷付いたジェマの姿があった。その背後に迫る巨大な獣。
 ジェマはハロルドの姿に気付くと顔を上げ、ほっとしたように表情を綻ばせた。彼女の頭上に、鉤爪が振り下ろされる。
「やめろ!」
 ハロルドは走りながら手を伸ばし、叫んだ。だが、その声は獣の唸り声にかき消され、ハロルドの指先が彼女に届くことは無かった。
 獣の爪に弾き飛ばされたジェマの体が、目の前に落下する。ハロルドが触れようとすると、その体もパーシー同様、砂となって消えた。
「うあ、あ……あ……」
 呆然と、震える手を見つめる。なにも守れなかった、なにも掴めなかったその手を握り締め、ハロルドは咆哮を上げる獣を睨みつける。
「貴様あああああああッ!!」
 ハロルドは怒りに身を任せ突っ込んで行く。刀身に稲妻を纏ったレイピアで獣の胸を貫くと、獣は断末魔をあげる間も無く体を破裂させ、息絶えた。
 理性を無くした咆哮を上げながら、ハロルドは焦げたにおいを放つ亡骸に何度も刃を突き立てる。そうしてもどうにもならないことはわかっていた。それでもいい。頬を伝う液体は涙なのか、返り血なのか。そんなことはどうでもいい。全て壊してしまいたい。壊せば抜けられるのか、この悪夢から。
「結局、誰も居なくなってしまったね」
 その無機質な声に、ハロルドは振り返る。輝きを失いかけた目に、憎悪の炎を燃やしながら。
「貴様……」
「自分の姿を見てみるといい」
 言われるまま、ハロルドは足元の血溜まりに視線を落とす。赤黒い鏡面に映るのは見慣れた自分の姿ではなく、皮膚をかさぶたのような鱗で覆われた、人とも獣ともつかない異形の怪物だった。刃を振り下ろし続けていたはずの右手にレイピアは無く、血に染まった黒い鉤爪がぬらりと光っていた。
「どうやら君にも適性があるようだ」
 淡々とした声色で、影がハロルドの頬に触れる。触るな、と叫ぼうとした口から発せられたのは、寒気がするような鳴き声。
「おいで。もう……ら……て……」
 影がなにか言っている。その言葉も最早理解出来ない。曇っていく意識と反比例するかのように、影の姿は鮮明になっていく。ハロルドの目が捉えたのは、嘲笑を浮かべるサディアスの姿だった。

「うわああああああああッ!」
 叫び声と共に、ハロルドは飛び起きた。
 心臓が脈打つ音が頭に響く。寝ている間にかいた汗で、寝巻きが肌に張り付いていた。肩で息をしながら両手を見て、頬を触り、布団を捲って足を見る。戦闘や訓練で負った古傷が残る、見慣れた自分の体がそこにあるのを確認し、ハロルドは長い溜息を吐いた。
 辺りは暗かったが、窓から差し込む月光が青白く室内を照らし出していた。その部屋には清潔感のあるベッドが整然と並んでいた。ホークバレー騎士団に備えられた病室である。医務室の隣に併設されているこの部屋は、本来病人や治療待ちの重傷者が体を休める場所なのだが、深刻な怪我を負うような任務が無い昨今においては、利用されることはほとんど無い。お陰で、悪夢にうなされて叫んでしまうなどという醜態を誰かに見られずに済んだ。ハロルドは胸を撫で下ろす。
「ハロルド様ッ! どうされましたかッ!」
 不意に聞こえたその声に、ハロルドは体を強張らせた。
 慌しい足音と共に病室に飛び込んできたのはパーシーだった。少し遅れて駆けつけたジェマが、心配そうな顔をしてハロルドに歩み寄る。
「目が覚めたんですね、よかった……ずっと眠ったままうなされてたから、心配したんですよ」
 言葉を失ったままパーシーとジェマを交互に見つめるハロルド。ジェマは訝しげに彼の顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「いや……なんでもない」ハロルドはそう言って、ジェマから目を逸らす。
「ジェマ! お前が付いていながら、ハロルド様をこんな目に遭わせるなんてどういうことだ!」
「うーん、このやり取り何回目ですっけ?」
 パーシーに胸倉を掴まれカクカク揺さ振られながら、ジェマはされるがままになっていた。
「パーシー、僕は大丈夫だ。その辺にしてやれ」
 ハロルドになだめられ、パーシーは渋々ジェマを解放する。
 悪夢を見た影響だろうか。頭が鈍く痛む。そのことを察したジェマに横になるように言われたが、ハロルドはあくまで気丈に振舞う。
「貴様はなんともないのか」
「え? ええ、私は元気です」ハロルドに視線を向けられたジェマは、きょとんとした顔で答える。
「ウィーゼルはどうなった?」
「今は留置所でおとなしくしているそうです。検査の結果では、力が暴走することも無いだろうって」
「そうか……」
 三番隊を襲った疑いのあるウィーゼルを騎士団が処分しないことには疑問はあるが、疑わしきは罰せずということなのだろう。死者も出ていないし、おとなしく牢に入っているのなら、処分を急ぐ必要も無い。
「ウィーゼルから聞いた話、上に報告したほうがいいでしょうか」
「まだ報告していなかったのか?」
「はい。一応報告は直属の上司にすることになってるので、ハロルドが起きるまで待ってたほうがいいと思って」
 ハロルドは内心ほっとする。考えたくはないが、万が一サディアスが例の魔術師と同一人物だとしたら、報告を上げるのはまずい。三番隊が調査を担当している以上、報告した内容はサディアスの耳にも入ることになる。証拠を隠されるだけならまだしも、最悪その場で情報を共有した全員が消されることになるかもしれない。
「そのことは、後で僕から団長へ報告しておく。貴様は部屋へ戻れ」
「わかりました」ジェマはうなずく。「あ、そうだ。もうひとつ気になることがあって」
「すまない、後にしてもらえないか」ハロルドは眉間を押さえ、ジェマの言葉を遮る。
 頭痛が激しくなって来た。ウィーゼルとやり合った時に魔力を使い過ぎたせいだろう。ずっと眠っていたとはいえ、悪夢のせいで充分に休息が取れなかったようだ。枯渇した魔力を回復させろと体が訴えている。酷い眠気に意識が飛ぶ前に、彼女らを退室させなければ。
「どうかされたんですか? どこか痛むのですか?」パーシーが心配そうに声をかける。
「……いや、なんでもない」答えるハロルドの声に、僅かにトゲが混じる。「悪いが、しばらく一人にしてくれ」
 ジェマとパーシーは顔を見合わせ、わずかにためらいを見せた後、病室の出入り口へと足を向けた。
「あ、そうだ」立ち去り際、パーシーが振り返る。「お食事はどうされます? なにか持って来ましょうか?」
 ハロルドは首を振る。食欲が無いということを気の利いた言葉で伝えたかったが、頭が回らない。
「そうだ、食欲が無いなら、なにか食べやすいものを作ってきますよ。この間のカンポーは失敗しましたけど、次は上手くやりますから……」
 それが何気ない気遣いだということは、ハロルドにもわかっていた。わざとらしいくらい明るい口調も、彼女なりにハロルドを励まそうとしたつもりなのだろう。本当は、礼のひとつでも言ってやりたかった。『気遣ってくれてありがとう。僕は大丈夫だ』と。
「余計なことはするな。気遣いは無用だ」
 ハロルドの口から出た言葉は、冷酷な刃となってパーシーの胸を貫いた。呆然とするパーシーの顔を見て、ハロルドの胸中に浮かんだのは苛立ちだった。
「いつまでそこに居るつもりだ。出て行けと言ったはずだが?」
「は、はいっ! 失礼しますッ!」
 パーシーは我に返ると慌てた様子で敬礼し、ジェマの手を引っ張ってその場を後にした。
 扉が閉められると同時に、ハロルドはベッドに仰向けに倒れ込む。そしてそのまま深い眠りへと落ちた。

第二十話

 本日何度目かの溜息を吐いたパーシーの顔をうかがいながら、彼女の正面に座っていたジェマはたまらず声をかけた。
「パーシー、大丈夫ですか?」
「なにが?」
 パーシーは木の器に盛られたウサギのシチューを突付きながら、トゲのある声で聞き返す。今は昼休みで、辺りは騎士団員たちの談笑で賑わっているが、パーシーは浮かない顔である。
「いや、なんか、昨夜ハロルドのお見舞いに行ってから元気無いなーと思って」
「は? 別にいつも通りだけど?」パーシーはそう言いながら、八つ当たりでもするかのようにパンを食い千切る。
「やあ、ちょっと失礼するよ」
 唐突に聞こえた声にジェマは振り返る。パーシーは声の主の姿を見止めると、驚きのあまりパンを喉に詰まらせて、慌てて水で流し込んだ。
「だっ、団長!? どうして……」パーシーが咳き込みながら声をあげる。
「脅かしてごめんね。たまには食堂でお昼を食べるのもいいと思ってね」ジェフリー団長はそう言って、ジェマの隣に盆を置く。
「ごちそうさま」
 そう言って席を立ったパーシーに、ジェマの視線が釣られる。
「あれっ、まだ昼休み終わってないですよ?」
 ジェマの声を無視し、パーシーは団長に「失礼します」とおじぎをして、自分の盆を持って立ち上がる。
「ああ、ちょっと待ってパー君」
「パー君って……」パーシーは微妙な顔を浮かべる。彼女は少しためらいを見せたものの、団長の言葉に従って座り直す。
「ジェマもいいかな?」
「なんですか?」
「今のハロルド君の状況について、君たちに聞いて欲しいことがあるんだ」
 パーシーがわずかに腰を浮かせ、ジェマは訝しげにジェフリーの顔を見た。
「君たちも昨夜お見舞いに行ったからわかってると思うけど、彼は今精神的に不安定な状態にある。単に魔力不足による体調不良かと思ってたんだけど、治療に当たってる者が言うには、どうもそれだけじゃないみたいなんだ」
「どういうことですか?」
 パーシーが身を乗り出し、喰いかかるように訊ねる。ジェマも団長に視線を向け、発言を促す。
「魔力不足で倒れたのなら、適切な栄養と休息を取ればすぐに回復する。でも、丸一日経ってもハロルド君に回復の兆しは見られない。時々うなされて目を覚ますけど、すぐに眠ってしまうそうなんだ」
 ジェマは昨晩のハロルドの様子を思い出す。酷く具合が悪そうに見えたのは、気のせいではなかったのだ。パーシーに対して冷たい態度を取ったのも、弱っている自分を見せたくなかったからなのかもしれない。
「ジェマ、ハロルド君が倒れた瞬間を見ていないか?」
「いえ、私が駆けつけたときにはもう倒れてました」ジェマはうつむき、やっぱり、と心の中で呟く。
 恐らくハロルドは、あの時現れた魔術師からなんらかの攻撃を受けたのだ。普通、高い魔力を持つ者は魔法に対する耐性も高いといわれている。だが、ハロルドはウィーゼルとの戦いで消耗していた。魔術師が放った催眠魔法はウィーゼルを捕らえるためのものだったが、魔力が尽きかけていたハロルドは抵抗し切れずに巻き込まれてしまったのだろう。
 そうなると、ウィーゼルのほうも心配だ。ハロルドのように精神が不安定になっているのなら、呪いの力が暴走するかもしれない。検査では心配無いとのことだったが、本当に大丈夫なのだろうか。
「あの、ウィーゼルのほうにも同じ症状が出ているんでしょうか?」
「それはなんとも言えないな。私たちは彼の普段の様子を知っているわけではないし……」ジェフリーは少し困ったような顔をして、答える。「でも、彼の魔力は今のハロルド君より多く残っていた。力の使い方が上手いんだろうね。獣人とは思えない器用さだって、皆驚いていたよ」
「では、暴走の危険は」
「それは安心していい。無闇に暴れても力を消耗するだけだってことは、彼もよく理解しているようだからね」
 ジェマは一先ず胸を撫で下ろす。となると、心配なのはハロルドの容態だ。
「やっぱり、ハロルドのお見舞いはしばらく控えたほうがよさそうですね」
「そうだな。あの人にとって同情は却って負担になる」ジェマの視線を受け、パーシーもうなずく。
「隊長が倒れて大変だろうけど、業務は通常通り行って欲しい。他の隊員たちにも後で伝えておくけど、困ったことや変わったことがあったら副隊長に指示を仰いでくれ」
「承知しました」
 パーシーが背すじを伸ばして返事をするのに倣い、ジェマも姿勢を正す。
 そうこうしている内に、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。ジェマは残っていた食事を慌てて掻き込む。
「行儀悪いよ」
「ごちそうさまでした!」
 呆れつつも微笑ましげな兄の言葉を背中に受け、空になった食器を片付けて、ジェマは慌しく食堂を後にした。

 ジェマに与えられた本日の任務は、武器庫の清掃と整理整頓だった。掃除は午前中に粗方終わっているが、剣が欠けていないか、矢の在庫は充分あるか、保管されている武器の状況を確認する作業が残っている。パーシーと共に黙々と仕事を進めていたジェマは、パーシーの手が止まっているのを見て声をかけた。
「ああは言いましたけど、ハロルドのこと、やっぱり心配ですよね」
「……俺たちが心配したってしょうがないだろ」パーシーはぶっきらぼうにそう言って、止まっていた作業を再開する。「今はあの人を信じて回復を待つしかない。悔しいけど」
「パーシーはハロルドのこと好きなんですね」
「はあっ!?」パーシーは素っ頓狂な声をあげ、落としかけた両手斧を慌てて抱え直す。
「違うんですか?」
「ばっ、馬鹿じゃないの!? まったく、これだから俗世間の女ってやつは……!」パーシーは顔を真っ赤にしながら、再び止まりかけた自分の作業に意識を戻す。「べっ、別に……れ、恋愛……とかそういうんじゃなくて……。あの人は、俺の、恩人だから……」
 そういえば、以前ハロルドが言っていた。パーシーとの出会いは少々複雑な事情があった、と。
「恩人って? ねえ、聞かせてくださいよ」
 目を輝かせて身を乗り出すジェマに、パーシーはうっとおしそうな視線を投げる。
「うるさいな、君には関係無いだろ。仕事しろよ」
「いいじゃないですかあー。教えてくださいよおー」
 猫撫で声で擦り寄るジェマに舌打ちしつつも、パーシーは律儀に答えてくれた。
 パーシーが生まれたのはタロンフォードの貧しい漁村で、両親を病で亡くした彼女は、十歳のときに放浪の旅に出た。いざというときのため、物心付いた頃から剣を教わっていたパーシーは、その腕を買われて山賊に拾われる。山賊の下で用心棒として働いていた彼女の前に、山賊退治のために派遣されたホークバレー騎士団が現れたのが、今から三年前のことである。その部隊に居たのが当時まだ下級騎士だったハロルドで、彼の口添えにより、パーシーは騎士団に入ることになったという。
「そんなことが……」パーシーの口から語られた壮絶な人生に、ジェマは圧倒されて言葉も出なかった。
「驚くようなことじゃない。俺なんかより、もっと複雑な事情を抱えた人間もこの騎士団には居る」一通り話し終え、パーシーはいったん息をつく。「とにかく、ハロルド様は俺の恩人で、俺はその恩に報いるためにここで働いてるだけだ。別にやましい気持ちがあるわけじゃない」
「わかってますよ」ジェマは屈託無い笑みをパーシーに向ける。「パーシーはハロルドのこと、お兄ちゃんみたいに思ってるんですね」
 ジェマの言葉に、パーシーは少し考える素振りを見せ、うなずく。
「そうかもしれないな」
「私も、パーシーのことお姉ちゃんだと思っていいですか?」
「……それはやめろ」パーシーは静かにそう言って、少し笑った。

 今日は仕事が早く終わったので、ジェマはパーシーに連れ出されて街へ繰り出していた。騎士団員は基本的に施設の食堂で食事を取ることになっているのだが、勤務時間外なら外出も許可されている。ジェマは手持ちが無いため断ろうとしたが、パーシーが驕ってくれるとのことだったので、その言葉に甘えることにした。
「遅いぞジェマ! もたもたす……」
 パーシーが不自然に言葉を切ったので、ジェマは彼女の顔を見る。
「パーシー、どうし……」
 彼女の視線の先に目をやると、ジェマも同様の反応をせざるを得なかった。
 仕事終わりの客で賑わい始めた酒場。陽気な喧騒の中に、見覚えのある青年の姿があった。いや、見覚えがあるどころではない。それは、騎士団の病室で眠っているはずの、ハロルドの姿だった。
 セルペニアでは十六歳から飲酒が許可されており、ハロルドは十八歳なので、彼が酒場に居ること自体は法的にはなんの問題も無い。しかし、今のハロルドは療養中のはずだ。飲酒などもってのほかだというのに、目の前の彼はあろうことかエールを瓶のまま煽っていた。
 彼の席には既に十数本の空瓶が並んでいる。飲み比べでもしているのか、彼の向かい側には髭面の屈強な男が突っ伏していた。決着がついたのだろう。高揚する歓声が、店の外まで聞こえてくる。
「ハロルド! こんなところでなにやってるんですか!」
 ジェマはたまらず店に飛び込み、新たな瓶に伸ばされようとしていた彼の手を掴む。周囲の喧騒に阻まれたのか、酔いが回って聞き取れなかったのか、振り向いた彼はジェマの顔を不思議そうに眺めた。
 その顔を間近に見て、ジェマは気付く。彼の顔の左側に——店の外から見たときには死角になっていた位置に——大きな傷痕があった。熊か獅子にでも襲われたような、痛々しい痕が。左目も失っているのか、眼帯で覆われている。ジェマは慌てて手を離す。
「す、すみません……知り合いに似ていたもので……」ジェマは頭を下げ、知人に似た相手への非礼を詫びた。
「君はハロルドの知り合いか?」
 顔に傷を持つ男は、静かにそう問い返す。エールを何本も飲み干したとは思えない、穏やかで理知的な口調だ。
「えっと……ハロルドは私の上司です。あ、私ジェマって言います。ホークバレー騎士団で見習いやってます」
「そちらは?」青い右目がパーシーを見る。
「自分はホークバレー騎士団七番隊に所属する、パーシーと申します!」
「君もハロルドの部下か」男は隻眼を細め、静かに呟いた。
「あの、失礼ですが、あなたは……?」
 ジェマは恐る恐る口を開く。今までのやりとりでなんとなく察しは付くが、確かめずにはいられなかった。
「おっと、失礼。名乗るのが遅れたな」彼はこほんと咳払いをして、立ち上がる。「俺の名はギルバート・S・リース。ハロルドの兄だ」

第二十一話

 ハロルドは病室のベッドの上で、何度も寝返りを繰り返していた。魔力が不足しているときは旺盛になるはずの食欲も無い。慣れない環境のせいもあるにせよ、出された食事を残してしまうなど、初めてのことだった。
 外は静かだった。酒場へ向かう騎士団員の和やかな談笑が聞こえる。ハロルドは仰向けになり、じわじわと暗さを増していく天井を眺めていた。
 うとうとし始めた頃、病室の扉が開く音がした。目を向けたハロルドは飛び起きる。急に動いたせいで痛む頭を押さえ、唸るように声を絞り出す。
「なぜ、あなたがここに……?」
「私が様子を見に来たらいけないのかい」
 サディアスは無愛想にそう言って、まっすぐにハロルドのベッドに近付いて来る。金色の瞳が、月光を反射して輝く。
 目の前に手をかざされ、ハロルドは反射的にその手を払い除けた。訝しげな視線に見下ろされ、動悸が激しくなり、呼吸が乱れる。
「魔力が戻ったか診るだけだよ。横になってくれる?」
 殺気は感じなかったので、ハロルドは言われたとおりにした。下手なことをして、相手に疑いを持っていることが知られたら、なにをされるかわからないからだ。
 サディアスはハロルドの体をなぞるように手をかざすと、淡々とした口調で言った。
「まだこんなものか。盗賊と戦ったとき、後先考えずに魔法をぶっ放すからこんなことになるんだよ」
「何故、あなたがそのことを……」
 ジェマが言いつけを守っているのなら、報告はまだされていないはずだ。まるで見ていたかのようなサディアスの物言いに、ハロルドの胸がざわつく。
 頭の中で様々な思考がぐるぐると巡り、めまいのような感覚に襲われる。
「……そうか、あなたにはわかるんだったな。オールンの血を引き、膨大な魔力を持つあなたなら……」
「なにを言ってるんだ?」サディアスは首を傾げる。
「とぼけるな!」
 ハロルドは飛び起き、サディアスに掴みかかる。サディアスを押し倒すような形で床に倒れこんだ拍子に、彼の帽子が外れた。中に隠されていた山羊の角が露になる。人間の血が混じっている彼の角は、同種の角を持つ一般的なオールンの成人男性よりも小振りだ。
 隠していた角を見られ、サディアスの表情がわずかに歪む。感情を顔に出すことの少ない彼にしては珍しいことだ。
「あの山小屋は、ホークバレーからそれほど離れてはいなかった。貴様の魔力なら、風魔法を飛ばして会話を盗み聞きするくらい造作も無いことだ。そうだろう」
「上の者に対する態度がなってないんじゃないかね。ハロルド君」サディアスは冷ややかな口調で言う。「確かに、私の魔力ならそれは可能だ。だけど、私は他人の会話を盗み聞きするような趣味は無いし、それほど暇じゃない」
「ジェマのそばにはパーシーが居る。ウィーゼルやオビは留置所に居て近付けない。貴様が最初に狙うのは僕だということはわかっていた」
 サディアスはなにも言わず、金色の目を細めてハロルドを見ている。その表情からは心情を読み取ることはできないが、サディアスの沈黙は、ハロルドが抱いていた疑念を確信に変えた。
「ウィーゼルに呪いをかけ、街を襲わせた魔術師は貴様だろう。三番隊が襲われたのも、自分に容疑を向けられないようにするための自作自演だ」
 サディアスは鼻で笑い、ハロルドの体を押し退ける。
 鈍った体は簡単にバランスを崩し、倒れてしまう。無様に床に転がる彼を見下ろす目は、残酷なまでに冷ややかだ。
「君はもう少し賢い人間だと思っていたが」
「……まだとぼけるつもりか」ハロルドはふらつきながら立ち上がり、サディアスを睨む。
「冗談じゃない。私が騎士団を襲わせたというのか? そんなことをするくらいなら、自滅するほうがマシだ」
「そうだろうな。貴様の忠誠心は、七隊長の中でも群を抜いていた」
「だったら尚更……」
「だからこそ、貴様は騎士団を襲う必要があった」
 サディアスはなにも言わない。ハロルドは続ける。
「ホークバレー騎士団を財政難から救うには、市民に騎士団の必要性を訴える必要がある。貴様は怪物を作って街を襲わせ、騎士団がそれを撃退することを期待した。そうすれば、恐怖にかられた人々は騎士団を頼りにせざるを得ない」
「……なるほど」
 サディアスの表情は変わらない。金色の目を細め、観察するような目でハロルドを見ている。
「死者が出なかったのは、貴様が怪物を操っていたからだろう。あのとき姿を見せなかったのはそれが理由だ」
「確かに、疑わしい行動をしていたのは認めよう。だがあのとき私は……」
「黙れ」ハロルドの周囲に、バチバチと青白い火花が散る。「この期に及んで言い訳とは見苦しいな。三番隊隊長が聞いて呆れる」
 ハロルドはサディアスに向けて青白い光を帯びた掌をかざす。
「喰らうがいい、裁きの雷を!」
 閃光。衝撃。そして暗闇。
 壁に叩きつけられた衝撃で、ハロルドは呻く。視界の隅でサディアスが帽子を拾って被り、服についた埃を払うのが見えた。ハロルドの体には何本もの赤い槍が突き刺さり、彼を磔にしていた。だが、不思議と痛みは感じない。
「少しは頭が冷えたか? ハロルド」
 懐かしさを感じる声に、ハロルドは顔を向ける。手足も胴体も固定されていたが、首だけは動かすことができた。そして目を見開き、息を飲む。
「兄……上……?」
 赤い槍は兄の体から伸びていた。ハロルドの兄ギルバートは液体を司る水属性の魔法に長け、特に血液を操る術を得意としていた。その気になれば、弟の体を貫く槍から血を吸い上げ、命を奪うこともできる。その能力に敬意を、あるいは畏怖を込め、人々は彼をこう呼ぶ。『吸血鬼』と。
「せっかく戻った魔力を無駄遣いするな」
 ギルバートはそう言って、ハロルドの体から槍を引き抜く。同時に治癒の魔法を発動していたらしく、ハロルドの体に傷は残っていない。だが、少し血を抜かれたのか、足元がふらつく。
「ハロルド様!」
 倒れかけたハロルドの体を支えたのは、ギルバートの背後から飛び出したパーシーだった。ジェマもその後から駆けつけ、ハロルドは二人の部下に体を預けてベッドに座らされる。
「話は彼女たちから聞いている」ギルバートの口調は厳しく、冷淡だ。「貴様が倒れたと聞いて様子を見に来たが……なんだ、このザマは」
「何故、止めるのですか。そいつは……!」
 血を抜かれてなおサディアスに噛み付こうとするハロルドを、ギルバートは冷たい目で見下ろしている。
「例え貴様の考えが当たっていたとしても、貴様に彼を裁く権利は無い。私刑は禁止されているはずだが、そんなことも忘れたのか?」
 ハロルドはびくっと動きを止め、唇を震わせて、兄の目から逃げるように顔を背けた。
「騎士団に入って、少しは成長したと思っていたのだがな」
「申し訳……ありません……」
 うつむいたまま弱々しい声を出す弟から視線を外し、ギルバートは淡々と続ける。
「少し休めば動けるようになるはずだ。気分が落ち着いたら団長室へ来い。貴様らの団長から話があるそうだ」
「……了解、しました」
 ギルバートは不機嫌さを隠そうともしない溜息を吐き、サディアスに視線を移す。
「貴様は俺と来い。寛大な団長は貴様の言い訳を聞いてくれるそうだ」
「……ふん、随分偉そうな口を利くじゃないか。騎士団を捨てた裏切り者のくせに」
 皮肉混じりに言うサディアスを、隻眼が射竦める。サディアスは不服そうに鼻を鳴らし、踵を返したギルバートの後に渋々従う。
「ハロルド、大丈夫ですか?」
 心配そうに声をかけてきたジェマの顔を、ハロルドは見ることができなかった。情けなさ過ぎて、涙も出て来ない。代わりに、皮肉めいた笑みが口元に浮かぶ。
「幻滅しただろう。笑え。これが僕の正体だ」嗚咽の代わりに、自嘲の言葉が口から溢れる。「僕は強くなどない。正しくなどない。お前たちを守ってやるどころか、逆に助けられて……」
「それのどこが悪いんですか?」
 呑気な声色に思わず顔を上げれば、ジェマがきょとんとした顔で首を傾げている。
「完璧な人間なんて居るわけないじゃないですか。皆どこか欠けてるから、助け合っていくんじゃないんですか?」
 彼女の言うことは正しい。だが、ハロルドは素直にうなずくことができなかった。
「それは対等な関係での話だ。僕は隊長で、部下を守る責任がある。貴様らに余計な負担をかけるわけにはいかない」
「あ、そうか……」
 ジェマは申し訳なさそうに縮こまる。それほど強く言ったつもりは無いのだが、昨夜パーシーにしてしまったように、無意識にきつい言い方になってしまったかもしれない。
「馬鹿かお前は!」
「いてっ!」
 パーシーがいきなりジェマの後頭部を殴ったので、ハロルドは呆気に取られて目を見開く。
「あ、そうか……じゃないだろ! 下っ端とはいえ、俺たちも騎士なんだから『私たちも隊長をお守りします!』くらいのことは言ってのけろよ!」
「で、でも、同情は返ってハロルドの負担になるって言ったのパーシーじゃないですか」
 叩かれたところを擦りながら涙目で抗議するジェマに、パーシーはふんと鼻を鳴らして言い返す。
「同情じゃない。決意表明だ」
「はあ……」
 呆れた様子のジェマを尻目に、パーシーはハロルドの手を取って視線を合わせる。
「ハロルド様が先に立って俺たちを守るなら、俺たちの役目はハロルド様の背中をお守りすることです。それは余計な負担なんかじゃない。あなたが存分に力を発揮できるように、あなたの正義を貫けるように、俺たちは居るんです」
 緋色の目はキラキラと輝き、強い意志に満ちていた。
「剣を振る意味を見出せずに自暴自棄になっていた俺に、あなたは言いましたよね。『僕の剣になれ』と。あなたの望む剣になれたかはわからないですけど、でも、これからも腕を磨いていくつもりです。だから……」
 パーシーの頬に紅が差す。彼女はうつむき、続く言葉を探すように視線を泳がせる。
「私たちのことも、たまには頼りにしてください。って、パーシーは言いたいようです」
「ちょ、勝手に人の言葉を取るな!」
 顔を真っ赤にしてジェマの背中をバシバシ叩くパーシー。その様子を見ていたハロルドの顔には、いつの間にか笑みが浮かんでいた。自嘲も皮肉も無い、柔らかい微笑みを自分が浮かべていることに気付いて、ハロルドは表情を隠すようにうつむく。
「あれ? ハロルド、照れてるんですか? 顔が赤いですよ?」
「うるさい。放っておけ」
「嬉しいんですか? 嬉しいんですね?」
 ニヤニヤと茶化すジェマに、ハロルドは遂に痺れを切らして声を荒げる。
「ええい黙れ! ジェマ、貴様オビへの面会はどうした?」
「あ、まだです」
「まだですじゃない! さっさと行け! パーシー、貴様もなにを笑っている!」
 バチバチと火花を飛ばすハロルドに追いたてられ、ジェマとパーシーはキャーキャー言いながら病室を出て行った。
「……まったく、子どもか」
 呆れて呟くハロルドの顔には、まだ柔らかい笑みが浮かんでいた。

第二十二話

 時刻は夜の九時半を回ろうとしていた。消灯時間が近いので、パーシーは先に部屋に戻っている。ジェマはオビへの面会を終えて部屋に戻る途中、病室から出て来たハロルドと出くわした。
「具合、よさそうですね」
「ふん、貴様に心配されるいわれは無い」
 ハロルドは冷たく言い放つと、団長室のある塔へと足を向けた。ジェマは咄嗟にその後を追いかける。追いかけてみたものの、無言では気まずい。そこで、気になっていた話題を振ってみた。
「『報告を待て』と言ったのは、騎士団の中に犯人が居ると思ったからだったんですね」
「ああ」ハロルドは短く答える。
「私やパーシーに詳しい説明をしなかったのも?」
「ああ」
 なにか考え事をしているのだろうか。答える声はどこか上の空だ。
 仲間を疑ってしまったことを悔いているのか、兄に厳しく叱られたことで落ち込んでいるのかは、他人であるジェマにはわからない。
「あ、あの……お兄さんはああ言ってましたけど」
 ハロルドの足が止まる。ジェマは思わず謝りそうになったが、その青い目が穏やかに向けられているのを見て、思い切って続ける。
「ハロルドは、私たちを守ろうとしてくれたんですよね。やり方が、少し間違っていただけで」
「そうだな」ハロルドは再び歩き出す。「さっきの言葉、忘れるなよ」
「もちろんです」ハロルドの隣に駆け寄り、ジェマは力強くうなずく。
 パーシーの『決意表明』は、ジェマの言いたいことを代弁してくれていた。元より、ジェマは他者を守る力を付けるために騎士団に入ったのだ。まだ見習いの身とはいえ、できることは精一杯やっていこう。今回の騒動で、彼女はそう決意を新たにしたのだった。
「そういえば、貴様に一つ聞き忘れていたな」
「え?」ジェマは首を傾げる。
「昨夜貴様が言いかけたことだ。あのときは遮ってしまって……その、悪かったな」
 歯切れ悪く謝るハロルドに、ジェマは慌てた様子で両手を振る。
「いえ、仕方無いですよ。具合悪かったら話聞く余裕なんて無いですし」
 とはいえ、ジェマの頭の中もまだごちゃごちゃしていて、どこから話すべきか決めかねていた。色々なことが起こり過ぎて、一日半たった今となっては、夢でも見ていたのではないかと疑い始めている。
「実はあの夜……ハロルドたちが倒れてる間に、私、会ったんです」
「誰に?」
「その、多分……ウィーゼルの言っていた魔術師に」
「なんだと!?」
 ハロルドが大きな声を出したので、ジェマは思わず身をすくませる。
「何故それを早く言わない!」
「いや、あの……」ジェマはなんと言っていいかわからず言葉を濁す。「あ、すみませんこんな所まで……」
 歩いている内に塔の前まで来ていたことに気付いたジェマは、慌てて引き返そうとする。
「待て。貴様も来い」
「え、でも、そろそろ戻らないと……」
「貴様の話は団長にも聞いて頂かなければならない。門限のことなら気にするな」ジェマの言葉を遮り、ハロルドはすたすたと螺旋階段を上る。「なにをしてる。早くしろ」
 ジェマは少しためらってから後を追う。長い階段を上り、両開きの鉄製の扉を潜ると、部屋の中にはジェフリーと、ハロルドの兄ギルバートが居た。ギルバートと一緒に居たはずのサディアスの姿は見えない。
「思ったより顔色はよさそうだね。安心したよ」
 団長用の椅子にもたれ、ジェフリーは穏やかな笑みを向けた。
「団長、サディアスはどこに?」
 彼はマグカップを傾けて一口飲み、一息ついてからハロルドの質問に答える。
「彼には別の仕事に取りかかってもらっているんだ」
「何故、奴を一人に?」訝しげな目を団長に向けるハロルド。兄の存在を気にしてか、やや控えめな声だ。
「君が疑うのも無理は無い。だが、彼は襲撃犯ではないよ」ジェフリーは哀愁を帯びた溜息を吐きながら答える。
「奴の話を信じたのですか?」
「サディアスが火災現場に居なかったのは、私の指示であることを調べて貰っていたからだ」
「あること、とは?」
「それは……」ジェフリーの視線が一瞬宙を泳ぐ。「言えないけど、この街を守るために必要なことだ」
「では、ウィーゼルを連れ出したことについては? 奴が魔術師と接触した場所は、すでに自分が報告していたはずです。わざわざウィーゼルを連れ出したのは、口封じのために消そうとしたのではないのですか?」
「それは単純に、サディアスが疑い深い性格だからだよ。彼は、君がウィーゼルに嘘の情報を吹き込まれたんじゃないかと疑って、話を信じようとしなかった。囚人を連れ出すことは、私が許可した」
「そんな話、信じられません」ハロルドの表情に、怒りと戸惑いが浮かぶ。「何故庇うんです! 奴以外に、失われた禁術を使える魔術師が居るというのですか!?」
「慎め、ハロルド」
 ギルバートの声に諌められ、ハロルドは口を噤む。その瞳が不安げに揺れるのを見て、ジェマは思わず前に出た。だが、ジェフリーとギルバートの威圧感を前に、言葉が出て来ない。
「ジェマ。君はどうしてここに?」
 妹の姿を見たジェフリーは、訝しげに目を細める。
「え、えっと……」
「自分が連れて来ました」固まるジェマの手を引き、ハロルドが前に出る。「取り乱してしまい、申し訳ありません。遅くなりましたが、一昨日の報告をさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わないよ」
 ハロルドは、三番隊襲撃の知らせを受けてからホークバレーに帰るまでの経緯を、かいつまんで報告した。
「お恥ずかしながら、自分は途中で意識を失ってしまったため、詳細は彼女に」
 発言を促すように視線を向けるハロルドにうなずき返し、ジェマは軽く深呼吸してから、オビと共に金色の目の魔術師を撃退した話を語った。
「催眠魔法に土人形か。厄介な術を使うな」ジェフリーはううむと唸って顎に手を添える。「オビ君が居なかったら危なかったかもしれないな。とにかく、二人とも帰って来てくれてよかった」
 兄の優しい声色に、ジェマの緊張はいくらかほぐれる。それと同時に、魔術師と戦ったときのことを思い出し、今更ながら恐怖を覚えた。あのときはたまたま裏をかくことに成功したものの、次も上手く行く保障は無い。一歩間違えば、今こうして立っていることさえ無かったかもしれない。
 ジェマは目を閉じ、一呼吸置いて気分を落ち着かせると、再び口を開いた。
「それから、もう一つ気になることがあって」
「なんだい?」
「その魔術師……の土人形が、オビのことを見て言ったんです。『ドラゴンか』って」
 ジェフリーの表情が、一瞬固まる。
「隠語かなにかじゃないかな。ほら、魔術や錬金術の研究者は、自分の研究が盗まれないように独自の暗号を使うって言うし」
 団長の奇妙な態度を見たハロルドの目の色が変わる。
「団長、以前あなたも……」
「とにかく、例の魔術師のことは我々に任せて、君たちは通常の任務に当たってくれ。この件については今後一切手出し無用だ。わかったね、ハロルド君」
「しかし……!」
 軋んだ音が部屋に響く。団長室の扉が開かれた音だ。
「失礼致します。調整に思った以上に時間がかかってしまいました。遅れて申し訳ありません」
「いや、予定より二分遅れただけだ。君は相変わらず仕事が早いね」
 柔らかな口調で言うジェフリーの視線の向こうには、数名の部下を従えたサディアスが居た。
「君たち、下がっていいよ」
 サディアスは気だるげな声で言い、部下たちは回れ右をしてその場を立ち去った。
 人垣が取り払われ、陰に隠されていた人物が姿を現す。その人物が目深に被ったフードを外すと、白い髪と三角形の耳が露になる。鋭い牙を見せ付けるように口の端を吊り上げ、彼は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「よう、生きてたかよ」
「貴様ッ! 何故ここに!?」
 ウィーゼルが正体を現した瞬間、ハロルドはジェフリーに食ってかかろうとしていたことも忘れ、驚愕の声を上げた。ジェマも思わず身構える。
「説明が遅れてすまないね」ジェフリーは頬を掻きながら苦笑する。「ハロルド君。君をここに呼んだのは他でもない。彼の飼い主になってやって欲しいんだ」
「そいつを? 僕が?」ハロルドは困惑を隠せない様子で、ウィーゼルとジェフリーを交互に見る。
「ウィーゼルはその話を飲んだんですか?」ハロルドに代わってジェマが質問した。
「ああ」
 小指の爪で耳を掻きながらやる気の無い返事をするウィーゼルに、ハロルドの鋭い目が向けられる。
「なにを企んでる?」
「それはおたくの団長さんに訊いてくれ」ウィーゼルはだるそうにそう言って大きなあくびをし、後頭部をぽりぽりと掻いた。
「取引をしたんだよ。彼が我々に力を貸すことを条件に、ある程度の自由を約束するってね」
 騎士団が獣人を利用するという話は、ジェマも聞いたことがあった。彼らの優れた五感や身体能力は、犯罪捜査や賊退治の際に大きく役立つ。だが、ホークバレー騎士団と敵対関係にあったウィーゼルが素直に協力するとは思えない。
「そんな取引など、信用できません。そいつが他人に力を貸すなど、有り得ない」
 ジェマの疑問を、ハロルドが代弁する。厳しい視線を向けられたジェフリーに動じる様子は見えない。
「だから君に監視を頼むんだよ、ハロルド君。いざというときに彼の動きを封じることができるのは、君の雷魔法だけだ」
「な、なに言ってるんですか!?」ジェマは思わず口を挟む。「ハロルドは病み上がりなんですよ! そんな危険なこと……」
「もちろん、ハロルド君に丸投げするつもりはない。彼にはサディアスが改良した首輪を付けて貰っている。普通の首輪よりは、飼い主の負担を減らせるはずだ」
 そう言われても、見た目だけでは前の首輪とどこが変わったのかわからない。サディアスの説明によると、魔力を抑えて変身を制御する機能が追加されたらしい。
「首輪の石の部分に触れれば、持ち主の登録が行われる。獣人飼育届についてはこちらで手続きをしておいたが、今なら取り消すこともできる。どうする?」
 サディアスがハロルドに向き直り、念を押すようにたずねる。
「で、でも、ウィーゼルは魔術師に狙われてるんですよ? 外を歩かせるのは危険なんじゃ……」
 不安を口にするジェマを遮り、ハロルドがジェフリーに向かって言う。
「目が届き難い留置所に居るよりは、常に監視していたほうが安全だということですね?」
「そういうこと」団長はうなずく。「もちろん、無理に引き受けてくれとは……」
 ハロルドは一切の迷いも見せず、ウィーゼルの首輪にはめ込まれた石に触れた。眩い輝きが辺りを包む。やがて光は徐々に収まり、ぼんやりとした青い光が石の中に灯る。
「契約成立、だね」
 ジェフリーは静かに呟き、満足そうに微笑む。
「これからは僕の命令に従ってもらうぞ。ウィーゼル」
「はっ、お手柔らかに頼むぜ。ご主人サマ」
 威圧するハロルドに、ウィーゼルは挑戦的な笑みを返した。

第二十三話

 街を巡回する騎士の数が増えたことに住民が気付き始めたのは、騎士団施設が襲撃された日から十日後のことである。ゴラド王国との戦争が終わって七年、平和が日常へと移り変わりつつあったホークバレーの街に、不穏な空気が立ち込めていた。
「先日怪物をけしかけた魔術師が、近くに潜伏しているらしい」
「子どもをさらって怪しげな実験をしているとか」
「討伐に向かった騎士が返り討ちに遭って、死者も大勢出たらしい」
 噂話のほとんどは根も葉も無い戯言であったが、中には事実を曲解したものや、余分な尾ひれが付いたものもあった。騒ぎが長引けば、大きな混乱を生みかねない。
「なあ、昼間っから酒場なんかに入り浸ってていいのかよ?」
 安い蜂蜜酒に口を付ける私服姿のハロルドに、ウィーゼルが声を潜めて話しかける。耳としっぽを露にした獣人が席に着いていても、周りの客は気にも留めていない。
 魔法による冷蔵技術が発達した昨今においては、昼間に酒を提供する店は珍しい存在となっていた。表通りの酒場は大抵、昼間は食堂として営業している。この時間に酒を飲むには、いささか治安の悪い地区に足を運ぶ必要があった。と言っても、ハロルドはならず者の溜まり場である酒場を摘発しに来たわけでも、ましてや昼間から飲んだくれに来たわけでもない。
 こういった場所では、表では得られない情報が転がっていることが多い。金眼の魔術師について、なにか手がかりを得られるかもしれないと彼は考えた。ウィーゼルを連れて来たのも、獣人の聴覚によってより多くの情報を得るためだ。
 団長からはこの件に関わるなと言われているが、素直に引き下がるわけにはいかない。不意打ちとはいえまんまと術にはめられ、悪夢の中で翻弄されたことで、ハロルドのプライドは傷付いていた。暗闇の中で薄笑いを浮かべる魔術師の正体を自分の手で暴かない限り、彼の怒りは収まらない。
「なにか聞こえたか?」
「なにが?」ウィーゼルはそわそわした様子で辺りに視線を投げながら、ハロルドの問いかけに応える。
「変わった噂話とか」
「ぎゃんぎゃんうるさくてなにも聞こえねェよ。なあ、もう出ようぜ。頭痛くなってきやがった」
「そうだな」
 人間嫌いのウィーゼルを連れて来たのは、流石に酷だったかもしれない。また時間を改めて来ようと、ハロルドは席を立つ。
「ちょっと、お客さん」
 酒場の店主がカウンターから飛び出し、ハロルドを呼び止める。
「なんだ。代金なら払っただろう」
「いやね、私の勘違いなら申し訳無いんですがね」店主はもごもごと言いながら、ハロルドの腰の辺りを指差す。「それ、別のお客さんの財布ですよね」
「なにを言って……」
 ハロルドは目を疑った。上着のポケットに、自分の物ではない財布が入っていたのだ。慌てて顔を上げると、そこに居たはずのウィーゼルの姿が見当たらない。困惑するハロルドの腕を、店主の無骨な手が掴む。
「困るんだよねえ、うちの店でそういうことやられると。ちょっと裏まで来てくれる? ここだと他のお客さんの迷惑になるから」
「僕は盗みなどはたらいていない。なにかの間違いだ」
 ハロルドはそう言って財布をテーブルに置き、もう一方のポケットに入れていた自分の財布を取り出そうとした。いくらか余分に払えば、事態は丸く収まるはずだ。
 だが、いくらポケットをまさぐっても財布は見当たらない。暑くもないのに汗が滲む。
「言い訳なら聞いてあげるから、ちょっとこっち来ようか」
「放せ! 僕はなにも……」
 抵抗虚しく、ハロルドは店主の豪腕によって店の奥に引き摺られて行った。
 少々強引な説得により数分で誤解を解き、ハロルドは店を飛び出す。首輪があるとはいえ、過信はできない。もしウィーゼルに逃げられでもしたら、任務を言い渡した団長にも迷惑をかけかねない。
 だが、その心配は無用だった。ウィーゼルは通路を挟んで向かい側にある朽ちかけたベンチに座り、屋台で買ったらしいタマネギ抜きのサンドイッチを呑気にかじっていた。
「よう、思ったより早く出て来たな。コネでも使ったか?」ハロルドの財布を見せびらかすようにひらひらさせながら、ウィーゼルは愉快そうにそう言った。
「貴様……」ウィーゼルから財布を奪い返し、ハロルドは鬼のような形相で彼を睨む。
「そう睨むなよ。財布はちょっと借りただけだ。あの店の飯は塩っ辛くて口に合わなかったからな」ウィーゼルは肩をすくませ、残りのサンドイッチを大きな口に放り込む。「それにしても、俺が財布すり替えても気付かないなんて、ちょっと油断しすぎじゃありませんかねェ?」
 ハロルドは嘲笑を浮かべるウィーゼルの胸倉を掴み、立ち上がらせる。
「自分の立場をよく考えるんだな。次にこのようなことをしたらタダでは済まさんぞ」
「重々承知しておりますよ、ご主人サマ」
 舌打ちをしてウィーゼルから手を離し、ハロルドは踵を返す。
「お次はどこに行くんで?」
「黙ってついて来い」
 ハロルドが向かったのは、騎士団の施設内にある図書館だった。獣人は図書館への出入りを禁じられているため、ウィーゼルを入り口に待たせて中に入る。
 目的の本棚へ向かうと、そこにはジェマが居た。高いところにある本を取りたいのか、背伸びをしたりぴょんと跳ねてみたりして頑張っているが、あとちょっとのところで届かない。
「これが見たいのか?」
『セルペニアの古典・民謡』と題された本をハロルドが取ってやると、ジェマは虚を突かれたような顔をして、少し遅れて「ありがとうございます」と礼を言った。
「なにかあったんですか? 今日はお休みのはずじゃ?」
「ちょっと調べたいことがあってな」ハロルドは答えつつ、一冊の本を手に取る。
 ジェマの話の中で魔術師が言ったという『ドラゴン』という単語。それを聞いた瞬間、団長の表情に動揺が浮かぶのを、ハロルドは見逃さなかった。
 オビが怪物と化したウィーゼルと相まみえた後、ハロルドがオビの調査を要請したときも、団長は同じ言葉を呟いていた。
 恐らく、団長は金眼の魔術師の正体に心当たりがあるのだ。だから、この件からは手を引くよう自分たちに言った。『ドラゴン』について調べれば、大きな手がかりを得られるかもしれない。そう考え、ハロルドは図書館を訪れたのだった。
『ドラゴン』といえば、セルペニアで最も有名なのは『救世の英雄』で語られている伝説上の怪物だ。ハロルドが手にした本には、竜にまつわる異国の伝説が纏められていた。災いをもたらす猛る竜、ある部族の守り神として祀られる竜、善でも悪でもない怪物としての竜。性質も大きさも、姿形も様々だが、人智を超える強大な力と、全ての生き物を凌駕する生命力を持つという点は共通していた。
 一通り目を通してみたが、魔術師や団長がオビを『ドラゴン』と呼んだ理由はわからなかった。もしかしたら、団長が言っていたように魔術的な隠語なのかもしれない。錬金術のシンボルの一つに竜が使われていることは聞いたことがあるが、他にもなにか意味があるのだろうか。まさか、オビが本当に伝説の怪物だなどということは……いや、いくらなんでも非常識過ぎる。
 ジェマが手元を覗き込んでいることに気付き、ハロルドは慌てて本を閉じた。ジェマは気にした様子も無く、にこやかに話しかけてくる。
「意外だな。ハロルドも伝説とか神話とかに興味あるんですね」
「空想の物語になど興味は無い」ハロルドは努めて平静を装う。魔術師に関与することを禁じられている以上、団長の妹であるジェマに思惑を知られるのはまずい。「『救世の英雄』にも竜が出てくるだろう。それで、少し気になっただけだ」
 ジェマの目がにわかに輝きを増したのを見て、ハロルドは自分の迂闊な発言を後悔した。
「私、あの物語すっごい好きなんですよ! 騎士を目指したのも、主人公の正義感に心を打たれたのがきっかけで……」
 どこかからわざとらしい咳払いが聞こえた。音がしたほうを見ると、痩身の女性が厳しい目でこちらを見ていた。図書館の管理人である。それに気付いたジェマは、罰が悪そうに肩をすくめる。
「あの、ハロルド。いきなり変なこと訊きますけど」
「なんだ」本を戻して立ち去ろうとしていたハロルドは、後ろをついて来るジェマにうっとおしげな視線を投げる。
「『ミストピナ』ってなにかわかります?」
 聞き覚えの無い単語だ。ハロルドは訝しげな目をジェマに向ける。
「先日、オビと話してたときに聞いたんです。オビの故郷らしいんですけど」
「それについて調べてたのか? 何故?」
「オビが、家族に会いたいと……言っていたので」ジェマは持っている本の表紙を見つめながら、呟くように言う。「パーシーが、タロンフォードの民謡に『ミストピナ』の名前が出てくることを教えてくれたので、その歌が書かれた本を探してたんです。この本に載ってるといいんですけど」
「何故僕に訊く?」
「オビが魔術師に『ドラゴン』と呼ばれていたので、もしかしたら『救世の英雄』に関係あるのかなって思って……」
「好きだと言うからには随分読み込んだのだろう?」
 ハロルドが問い返すと、ジェマは困ったように苦笑する。
「私が読んでたのは子ども向けに要約されたものだったんです。原作は文章が難しくて」
 ハロルドはその原作を読んだことがあった。確かに古い言葉や難しい言い回しが多く、物語というよりは暗号のようだな、と幼心に思ったものだ。古代の魔術が隠されているとか、未来を予言したものだとか、様々なオカルトめいた都市伝説が囁かれていることからも、その難解さがうかがえる。
 現在出回っている『救世の英雄』の物語は、子ども用に要約されたものや簡単な文章に書き換えられたものが大半を占めており、原文で書かれた本を見かけることはほとんど無い。
 そういえば、この図書館にも『救世の英雄』の原作本は置かれていない。書店ならともかく、図書館になら一冊くらい置いてあっても不思議ではないのだが。
 しかしながら、仮に原作本の蔵書があったとしても、『ミストピナ』の記述がそこにあるとは限らない。一字一句正確に覚えているわけではないとはいえ、ハロルドの記憶にかすりもしなかったのだから。オビが口にしたという地名は、恐らく彼ら独自の通称なのだろう。
 そういえば、ホークバレーが襲撃されたのは、オビが留置所に預けられた夜のことだった。あの日、オビに裏切られたウィーゼルが街を出ることを、魔術師は予測していたのだろうか。奴に力を与えたのは単なる気まぐれか、意図があってのことなのか。
「ジェマ」
「なんですか?」
「オビについてどう思う?」
「オビ、ですか?」
 ジェマの目が一瞬、不自然に揺れる。彼女が腕を押さえるように自分の袖を握っているのを見て、ハロルドは首を傾げる。
「怪我でもしたのか?」
「い、いえ、大丈夫です」ジェマは早口で言いながら、本を抱き締めるように持ち直す。「読書の邪魔をしてすみませんでした。本借りて部屋に戻りますね」
「ああ。午後の仕事には遅れるなよ」
 ジェマと別れ、本棚にあった本に一通り目を通してみたが、これといって有力な情報は得られなかった。元々あまり期待はしていなかったので、たいして落胆することもなく、ハロルドは図書館を後にした。

第二十四話

 午後の仕事を終え、ジェマは重い足取りで留置所に向かう。慣れない環境に疲れが溜まっているのもあるが、このところ、彼女はオビに会うことにためらいを感じ始めていた。
 オビの処分を保留する期間はとうに過ぎているのだが、ホークバレー騎士団を襲った怪物騒動や、金眼の魔術師に関連するゴタゴタがあったため、特別に期間を延ばしてもらえることになっていた。だが、オビの引き取りに関する相談の手紙は、未だ出せていない。
 留置所の門の前で、ジェマは足を止める。いつも開け放たれている門は、今日は固く閉ざされていた。
 門の前に立っている男に事情を訊く。彼は窓口の担当者で、ジェマとは顔見知りだった。彼が言うには、オビが急に体調を崩したので、他の獣人にうつさないように隔離する作業が行われているという。軽い風邪とのことだが、ジェマは首を傾げる。昨日会ったとき、オビに変わった様子は無かった。ジェマを心配させまいと無理をしていたのだろうか。
 ともかく、中に入れないのなら仕方が無い。ではまた来ます、と告げて、ジェマは元来た道を引き返す。
「ほっとした、って顔だなァ」
 頭上からかけられた声に、ジェマは顔を上げる。
「ウィーゼル……何故ここに? ハロルドは?」
「その辺に居るんじゃねえか?」
 ウィーゼルは気だるげに答えつつ、ぴょんと屋根から飛び降りた。
「散歩もいいですけど、あんまりハロルドを困らせちゃダメですよ」
 軽く手を振り去ろうとするジェマを、ウィーゼルが呼び止める。
「アンタさ、本気であいつのこと守れるとか思ってんの?」
「あいつ、って?」
「オビのことだよ」
 一瞬、息が詰まる。ウィーゼルは畳み掛けるように続ける。
「不本意だが、アンタには命を助けられた借りがある。だから警告してやる。あいつは、人間の手に負えるような代物じゃない」
「どういう、ことですか?」
「今にわかるさ。……いや、もう気付いてんだろ?」
 遠くで轟く雷鳴。西の空に、灰色の雲がせり上がって来るのが見える。
「俺は鼻が利くんでね。わかるんだよ。アンタ、今オビのことを考えてビビっただろ。喰われる直前の獲物のにおいにそっくりだったぜ」
「私が、オビを怖がってる……?」
「そんなことないってか?」
 ジェマはうなずく。間髪容れず、ウィーゼルがそれを否定する。
「違うな。アンタは現実から目を背けているだけだ。暴力であいつを従えようとしていた、かつての俺のようにな」
「馬鹿なことを……私は、あの子を暴力で従えようなんてしてない!」
 ジェマは思わず声を荒げる。通行人が何事かと目を向けるが、特になにをするでもなく、足早に通り過ぎていく。
「同じさ。暴力も優しさも、結局は相手を都合よく動かすための道具に過ぎない。この首輪みたいにな。だがそんな小細工はあいつには通用しない。あいつにとって不要な存在だと判断されれば、アンタにだって牙をむくだろうさ」
「そんなこと……」
 反論する言葉は、どれも喉から出かかって消えてしまう。山吹色の双眸から目を離すことができない。彼の声色には嫌味もふざけた様子も無く、表情も真剣そのものだ。
「ウィーゼル!」
 鋭い声が耳に飛び込み、ジェマは我に返った。
 制服姿のハロルドが、険しい顔をして駆け寄って来る。
「待機していろと言っただろう。こんな所でなにしてる」
「散歩ついでにお喋りしてただけだよ」ウィーゼルはおどけたように肩をすくませる。「そんな怖い顔すんなよ」
「なにを話してた?」
 ハロルドの碧眼がジェマを射抜く。
「いえ……」ジェマは思わず視線を逸らす。「それより、その恰好……なにかあったんですか?」
「近くの村に賊が現れたらしくてな。出動要請があった」
「それなら私も……」
「生憎人手は足りている。この天気では少々移動に時間がかかりそうだが、夜には戻れるはずだ」
 踵を返して立ち去ろうとしたハロルドは、ふと思い立ったように振り返る。
「なにか悩みがあるなら、後でいくらでも聞いてやる。くれぐれも勝手なことはするなよ」
 念を押すようにそう言って、ハロルドはウィーゼルを伴って駆け去って行った。
 ジェマの頬に、冷たいものが当たる。雨だ。そう思い至るや否や、ぽつぽつと降り始めた雨は土砂降りに変わった。ジェマは慌てて宿舎へと走る。
「おかえり。今日は早いな……ってどうした!?」
 ずぶ濡れで部屋に戻って来たジェマに、出迎えたパーシーはぎょっとしたような視線を向けた。
「ちょっと、通り雨に遭っちゃって」
「とりあえず頭拭いて中に入れよ。風邪引くぞ」
 パーシーはそう言って、持っていたタオルを投げて寄越す。
「……ありがとうございます」
 雫が垂れない程度に体を拭き、部屋に入って濡れた服を着替えるや否や、ジェマはもぞもぞとベッドに潜り込む。
「寝るには早過ぎるんじゃないか?」
「放っておいてくださいよう」枕に顔を埋め、ジェマは唸る。「どうせ私は偽善者ですもん。オビのこと守るって口では偉そうに言ってても、なんにもできないんですもん」
「オビって、いつも会いに行ってる獣人か?」
 ジェマは顔を埋めたままうなずく。
「さっき、オビの仲間だったウィーゼルっていう獣人に言われたんです。お前はオビを怖がってる。お前の優しさは相手に言うことを聞かせるための偽善だ、って」
 情けなくて涙が出てくる。どうしてあのとき、はっきりと言い返せなかったんだろう。私はオビを守ると約束した。彼の家族の代わりになると誓った。この先なにが起こっても、その決意は変わらないと。
「ウィーゼルの言ったことは、きっと本当のことだったんです。私は、心のどこかでオビのことを怖がってる。彼には私の助けなんて必要無いのかもしれない。結局、私はただの偽善者……いたっ」
 パーシーが枕を取り上げたので、鼻と顎を擦り剥いたジェマは抗議するべく顔を上げる。だが、目の前のパーシーの真剣な表情を見て、声を失う。
「例え偽善だとしても、誰かを助けたいって気持ちが間違ってるわけないだろ」
 パーシーはそう言ってジェマを立たせ、まぶたを腫らした彼女の手を引いて部屋を出る。
「ど、どこに行くんですか?」
「今の時期は祭の準備で人が集まってる。賑やかな場所に出れば気分も晴れるだろ」
 もうそんな時期か、とジェマは思う。ホークバレーに着いてから色々なことが起こり過ぎて、すっかり忘れていた。いつの間にか、季節は春から夏へと移り変わろうとしている。
 土砂降りだった雨は小雨に変わっていた。雲の合間に、暮れなずむ茜色の空が見えた。

 祭の期間中、街中には花や稲妻を模った飾りが取り付けられる。花は春の神、稲妻は夏の神を表すシンボルだ。祭の最終日には、終わろうとする季節を担当する神のシンボルを教会に集め、焚き上げることになっている。立ち昇る煙は神が空に帰る道しるべとなり、新たな季節の神を呼ぶ狼煙にもなるとされているからだ。そのため、飾りは毎年新しいものを用意する必要があった。
 準備期間である今、市場にはシンボルを売る屋台がしのぎを削っていた。一般家庭用の素朴なものから、店舗に飾る派手なもの、観光客がイベントに参加するための小さなものまで、大きさやデザインも様々だ。
「元気になったみたいだな」
 飾りを眺めているうちに無意識に顔を綻ばせていたジェマを見て、パーシーが言う。
「はい。……ありがとうございます。付き合って貰って」
「っと、もうこんな時間か。そろそろ帰るぞ」
 広場の時計は八時半を示していた。ジェマは花と稲妻の小さな飾りを一つずつ買って、パーシーと共に店を後にする。
 ふと、知っている姿を見たような気がして、ジェマは足を止めた。その人影は路地裏の暗がりへと消え、姿を確かめることはできなかった。一瞬迷いはしたが、ジェマはどうしても気になってその影を追う。
「おい、どこ行くんだ!?」
「すみません、先に帰っててください!」
 パーシーが呼び止める声を背に受けながら、ジェマは市場の光が届かない暗がりへと足を踏み入れる。
 暗闇の中に、二つの金色の光が見えた。その光が数回ぱちぱちと瞬いたかと思うと、黒い塊がいきなり飛びかかって来た。ジェマは避ける間も無く押し倒され、尻餅をつく。
 そいつはジェマの顔の近くで鼻をふんふんと鳴らし、大きな耳をぴこぴこ動かしながら、鋭い牙が並ぶ口を開けて笑った。
「お、オビ!?」しっぽをぶんぶん振り回しながら頭を擦り付けてくるオビに、ジェマは戸惑いを隠せない。「どうしてこんな所に? ダメじゃないか、早く留置所に戻らないと……」
「やだ!」オビは耳を伏せ、ジェマの胴体にしがみ付く。「戻ったら痛いことされるもん!」
「わがまま言ったらダメだろ。具合悪いならちゃんと診て貰わないと」
「オビ具合悪くないよ! オビ牢屋の中でおとなしくしてたのに、あのヒトたちが来てオビに痛いことしたんだよ!」
「え? それって、どういう……」
「居たぞ! こっちだ!」
 慌しい足音と共に、鋭い声が聞こえた。オビのしっぽがぶわっと膨らむ。
 現れたのは二人の男だった。彼らは見覚えのある幾何学模様のローブを羽織っており、三番隊に属する騎士団員だということが一目でわかった。
 ジェマに縋り付くオビの手に力が込められる。
 少し遅れて、隊長の制服を纏った長身の男が姿を見せた。三番隊の隊長サディアスは、冷たい光を放つ金色の目を細め、ジェマを睨み付ける。
「何者だ? 君は」
「騎士見習いのジェマです」オビを後ろに庇いながら、ジェマも負けじと睨み返す。
「見習いか。ヒーローごっこに興ずるのは勝手だが、仕事の邪魔をされては困るな」
「脱走したオビを連れ戻しに来たのはわかります。でも、少しやりすぎじゃないですか? いい大人が寄ってたかって……」
「君こそ、その獣を甘く見ないほうがいい。一過性の同情で、君は市民を危険に晒すつもりか?」
「オビは危険な獣なんかじゃありません!」
 なおも反発の姿勢を見せるジェマに、サディアスは大きな溜息を吐いて見せる。
「話し合いは無駄なようだな」
 サディアスが動いた様子は見えなかった。彼はなんの前触れも無く、瞬きの内にジェマの背後へと移動していた。戸惑うジェマの首に、冷たいナイフが当てられる。
「ジェマ!」
「動くな、獣人。おとなしく我々の元に帰れ。そうすれば彼女に危害は……」
 その言葉が終わる前に、サディアスの体が浮き上がった。一瞬、彼の顔に驚愕の色が見えたが、次の瞬間にはその体は石畳に叩きつけられていた。
「オビ! こっち!」
 仕事の合間にパーシーから教わっていた護身術を、こんな所で使うことになるとは。ジェマは少し申し訳無い気分になりながら、オビを呼ぶ。
「なにをしてる、捕まえろ!」
 咳き込みながら体を起こすサディアスの指示を受け、唖然としていた部下達が追いかけて来る。ジェマを背に乗せたオビは壁を伝って屋根に上がると、街と外界を隔てる壁を目指して疾走する。
 足元に広がる賑やかな街並。その中にパーシーの姿を見付け、胸が締め付けられる。自分がしていることの愚かさを、ジェマは誰に言われなくともよく理解していた。

第二十五話

 ジェマが宿舎に戻っていないとパーシーから相談を受けたのは、任務を終えて戻って来た直後の事だった。現在の時刻は午後十時を回っている。消灯時間はとうに過ぎているというのに、施設内に彼女の姿は無かったという。
「申し訳ありません……俺が目を離したばっかりに……」
 賊退治の報告は急ぎではなかったので、仕事の後処理を部下に任せ、ハロルドはジェマが姿を消した当時の状況をパーシーから聞き出していた。彼女の証言によると、ジェマは市場の路地裏になにかを見付け、それを追いかけて行ったらしい。
「姿を消す前に、なにか変わったことは?」
 パーシーは記憶を辿るように少し考え、答える。
「……あいつがいつも会いに行っていた、オビという獣人について悩んでいたみたいでした」
「そうか……」ジェマの様子がおかしかったことは気付いていた。念を押したつもりだったが、もっと強く言うべきだったか。「もう一度市場の周辺を探してみよう。幸い、今は鼻の利く仲間も居ることだしな」
「あ? 俺に探させる気かよ!?」
 視線を向けられたウィーゼルは牙を剥き、不満を露にする。
「自分の尻くらい自分で拭けと言ってるんだ」
「なんのことだ?」
「彼女になにを吹き込んだのかは知らないが、貴様が焚き付けたのはわかっているぞ」
「俺のせいだってのか?」
「やましいことが無いなら、何故股にしっぽを挟んでる?」
 鋭い碧眼に睨まれ、ウィーゼルのしっぽの毛がぶわっと逆立つ。
「……ちっ、わかったよ! あーくそ、やっと休めると思ったのに!」
 文句を垂れ続けるウィーゼルを他所に、ハロルドは改めてパーシーに向き直る。
「心配するな。彼女は僕が必ず連れ戻す」
「あ、あの! 俺も一緒に……」
 踵を返すハロルドの背中に、パーシーの声が飛んだ。ハロルドは振り向き、落ち着いた声で言う。
「彼女のことだ。案外自力で戻って来るかもしれない。その時は温かく迎えてやれ」
「でも……」
「ここは任せたぞ」
 そう言うなり、ハロルドは足早に宿舎を後にする。
 街はすでに寝静まり、酒場など一部の店を除いて建物の明かりは消されていたが、上空から降り注ぐ満月の光によって辺りは昼間のように明るかった。
 市場から教会のある広場へ抜ける路地に差し掛かった時、ハロルドは足を止める。話し声が聞こえたからだ。だが、距離があるためはっきりとは聞こえない。
「なんで止まるんだ?」後ろに居たウィーゼルが小声で問う。
「静かにしろ」
 話し声は足音と共に遠ざかっていく。会話の内容はわからなかったが、声の調子と足音から、彼らが焦っていることは察することができた。
「今の連中、騎士団だな。小娘たちを探してるみたいだったが」
「貴様には会話の内容が聞こえただろう。教えろ」
「なにをそんなに警戒してるんだ? アンタのお仲間だろ。追いかけて聞けばいいじゃねえか」
「いいから教えろ」ハロルドは苛立ちも露にウィーゼルを睨む。「見習いが門限を破ったくらいで他の隊の人間が動くはずは無い。恐らくなにか事情を知って……おい、どこへ行く?」
 鼻をひくひくさせながら路地に入っていくウィーゼル。ハロルドは周囲を警戒しながら、その後を追う。
「勝手に動くな」
「俺だってザコ共の相手して疲れてんだよ。とっとと見つけて帰ろうぜ」
「彼女のにおいがするのか?」
「いや、」ウィーゼルはあくびを噛み殺しながら答える。「オビがここを通ってる。夕方に雨が降ったから、においが残ってるってことはそれ以降……恐らくあの小娘が居なくなった頃だ」
「オビだと? 冗談はやめろ。奴が外を自由に歩き回ってる訳が……」言いかけたハロルドは、先ほどのウィーゼルの言葉を思い出す。「貴様、さっき『小娘たちを探してる』と言ったな? 彼女はオビと一緒に居るということか?」
「さっき居た連中はそう言ってたぜ。早く見付けないと上司に怒られるとかなんとか」
「彼女はオビに連れ去られたということか?」
「さあ、どうだろうな……案外逆かも」
「馬鹿馬鹿しい。そんなことをして、彼女になんの得が……」
「あの小娘は損得で動くようなタマじゃねえ。わかってんだろ?」
 ウィーゼルの言う通りだ。ジェマの行動は常に、他人を助けるためのものだった。しかし、そのために自分を犠牲にしたことは無い。故郷を離れ、試練を乗り越え、ようやく手に入れた『騎士になる』という夢。どんな事情があるにせよ、彼女がそれをみすみす捨てるとは思えなかった。
「まさか、騎士団からオビを……守ろうとした……?」
 ハロルドの僅かな動揺を嗅ぎ取り、ウィーゼルの口元が意地悪く歪むのが見えた。
 なにかを隠そうとしている団長の態度は、以前から気にはなっていた。
 ウィーゼルににおいを追わせれば、彼女たちを探し出すのは簡単だ。だが、ジェマがオビを守ろうとして姿を消したのだとすれば、彼女たちを連れ戻すことは果たして正しい行動と言えるのだろうか。
「こんなところで立ち止まっている暇があるのか?」
 不意に聞こえた声に顔を上げたハロルドは、建物の影から現れた人影を見て息を飲む。
「兄上! なぜこんな所に……」
「お前が仕事の報告もせずに街へ飛び出して行ったのを見かけてな」
「そ、それは……」
「事情はわかっている。目を伏せるな、ハロルド」
 厳しい口調に体が強張る。言われた通り顔を上げるが、兄の目を直視することはできない。
「なにを怯えている」
「そ、そんなことは……」
「迷っているのか?」
 ハロルドは口を開きかけ、噤んだ。兄と団長が親しい関係にあるらしいことは知っている。兄は団長の思惑を承知しているのだろうか。ジェマが姿を消したことについて、なにか知っているのだろうか。
「来い」
 ギルバートはそう言って背を向ける。遠ざかる兄の背中を見つめるハロルドに、背後から声がかけられる。
「おっかない兄貴が呼んでるぜ。行かなくていいのかよ?」
 ウィーゼルの顔には、心底愉快そうな笑みが浮かんでいた。ハロルドはウィーゼルのすねを蹴飛ばすと、身悶える彼を置いて兄の後を追う。
 着いたのは団長室の扉の前だった。部屋には珍しく神妙な顔をしたジェフリー団長と、机を挟んで向かい側にはうつむいて唇を噛むサディアスの姿があった。二人はギルバートの入室に気付くと同時に顔を上げ、その後ろに続くハロルドとウィーゼルの姿を見止めると、気まずそうに咳払いをする。
「やあ、ハロルド君。遅くまでご苦労だったね」穏やかに言うジェフリーの表情にはいつも通りの笑みが浮かぶ。
「連れて来たのは報告のためではない」隻眼を細め、ギルバートは溜息を吐くように言う。「ジェフリー、貴様は妹を巻き込みたくないなどと言っていたが、その優しさが裏目に出た気分はどうだ?」
「ギルバート、お前!」
「いいんだ、サディアス」ジェフリーは立ち上がり、サディアスとギルバートの間に割って入る。「彼の言う通りだ。今回の事態は、私にも責任がある」
「ハロルド」
 状況を理解しかねていたハロルドは、兄に名前を呼ばれて顔を上げる。
「なにか聞きたいことがあったんじゃないのか?」
「あ……すみません……その……少し混乱して……」ここまで来たからには腹を括るしかない。ハロルドは慎重に言葉を選びながら口を開く。「ジェマが姿を消した理由について、団長はご存知なのですか?」
「ああ」ジェフリー団長は静かにうなずく。「彼女がオビと共に姿を消したことは、サディアスから聞いている」
「呆れた正義感だよ」苛立たしげに、サディアスは自ら口を開いた。「あの獣人が何者なのか、彼女は知らないんだ。同情だかなんだか知らないけど、きっと今に後悔する。あれは人の手に負える存在じゃない」
「それは、どういう……」
「『ドラゴン』だよ」
 サディアスに代わって告げたのはジェフリーだった。
 一瞬の沈黙が部屋を支配する。ジェフリーの言葉にはもう誤魔化しや偽りは無い。
「『ドラゴン』は実在する。オビ君は、その最後の生き残りだ」
 なにも知らなければ、冗談だと思っただろう。だが、オビを間近で見ていたハロルドには、団長の言葉を疑う余地は無かった。
「『ドラゴン』とは、やはり伝説の竜のことなのですか……?」
「そうだ」ジェフリーは静かにうなずく。「正確に言えば、オビ君は竜の獣人……竜人ということになる。彼の体にはまだ未知の部分が多いが、古い文献にある竜の特徴の大部分が当てはまっている。私も、サディアスの報告を聞いたときには耳を疑ったよ」
「何故、そのことを隠していたのですか? 教えて頂ければこんなことには……」
「知っていたらどうするつもりだったんだ?」ハロルドの言葉を遮ったのはサディアスだ。「まさか、あの見習いに『あれはドラゴンだ』と教えるつもりだったのか? その話を彼女が信じるとでも?」
「少なくとも、彼女は知っておくべきだった」ハロルドはサディアスを一瞥し、団長に視線を戻す。「オビが普通の獣人ではないことは、彼女も気付いていたはずです。それでも、彼女はオビを見捨てることはできなかった。事情を知っていれば、彼女が一人で背負い込むことも無かったはずです!」
「オビ君の話し相手をジェマに頼んだのは失敗だった」ジェフリーは目を伏せる。「彼が竜人だともっと早く気付いていれば、彼女を巻き込まずに済んだはずなのに……」
 団長の声が震えている。ハロルドは苛立ちを顔に表すが、なにも言えなかった。
 オビが変わった獣人だからといって、彼が伝説の怪物だなどとは誰も予測できなかっただろう。竜はあくまで想像上の生き物だというのが、この世界での常識だ。
「今は祭の準備で各地から人が集まっている。多くの人員を動かせば混乱を招くことになるだろう。ここは私が動くべきなのだろうが……」
「組織の頭が席を空けるわけにはいかない、と」ギルバートに呼ばれた意味を、ハロルドはようやく理解した。「わかりました。彼女たちは自分が連れ戻します」
「……すまない」ジェフリーは額に手を当ててうつむき、改めて顔を上げる。「竜には魔法を打ち消す力がある。金眼の魔術師は、オビ君の力を脅威に感じているはずだ」
「では、奴がオビを狙って攻撃を仕掛けてくる可能性もあるわけですね」
 ハロルドの言葉に、ジェフリーは神妙な顔でうなずく。
「そのときは戦わず、逃げることを優先するんだ。彼女たちを無事に連れ帰ることが、君たちの任務だ」
「承知しました」ハロルドは力強くうなずき、白い制服を翻す。「行くぞ、ウィーゼル」
「ちっ、こりゃまだ休めそうにないな」
 文句を垂れながら渋々ついて来るウィーゼルを伴い、ハロルドは団長室を後にした。

第二十六話

 雨水を含んだ地面はぬかるんでいた。歩くたび跳ね返る飛沫や草の露がブーツへと浸入し、不快な水音を立てる。冷え切った爪先の痛みに耐えながら、ジェマはひたすらに歩いていた。
 どこへ向かうべきかはわからない。ただ、この手だけは放してはいけないと、無骨な爪を備えたオビの手をぎゅっと握り締める。今宵が満月でよかった。
「ジェマ、疲れたよ」
 オビが声をあげ、ジェマの顔を覗き込む。
「そうだね、少し休もうか」
 幸い、近くに建物らしき影があった。明かりは付いておらず、人の気配は無い。近付いて見上げてみる。どうやら古い砦の一部らしい。石で出来た外壁は風化しており、所々苔むしているが、倒壊の心配は無さそうだ。
 錆付いた鉄の扉を押し開けると、積もっていた埃が舞い上がる。お世辞にも快適な空間とは言えないが、獣や雨風から身を守れる壁があるのは嬉しいことだ。ジェマは濡れたブーツを脱いで、壁を背にしてしゃがみ込み、膝を抱えた。
 鞄に付けていた祭の飾りが、かちゃりと音を立てる。今頃パーシーは怒っているだろうな。ハロルドたちは無事に任務を終えただろうか。そんなことが、ふと頭に浮かぶ。
 頬に生温いものが当たる。顔を上げると、オビが顔を舐めていた。ジェマは微笑み、オビの頭を撫でる。
「ありがとう。大丈夫だよ」
 オビは首を傾げ、耳を伏せながら「きゅー」と鳴く。そわそわと落ち着かない様子でしっぽを振る度、砂埃が舞い上がる。
「ジェマ、おなか空いた?」
「そうだね、少し……。でも今はおやつ持ってないんだ。ごめんね……」
 腰を下ろして落ち着いたのか、一気に眠気がやって来る。徐々に薄れていく意識の中で、ジェマはオビの手を握り続ける。
「オビがなにか探してくるよ」
 手の中の温もりが消える。瞑っていた目を開くと、オビの姿が無い。
「オビ?」
 呼びかけても返事は無い。
「オビ!」
 声量を上げる。やはり返事は無い。
 早まる鼓動に急かされるように、ジェマは立ち上がる。まだ湿っているブーツを履き、お守り代わりにと常に腰に提げている父の剣を握り締め、砦の奥へと歩き出す。壁の隙間から差し込む月明かりだけでは心許無いので、近くにあった木材の破片に魔法で火を灯し、松明の代わりにする。
 奥の暗闇を照らすと、階段があった。地下へ降る階段と、上へ向かう階段だ。オビのものらしき湿った足跡は、降り階段のほうへ向かっていた。
 ジェマは恐る恐る階段を降りる。地下の空気は湿っぽく、冷たい。雨水が染み出しているのか、時折雫が落ちる音がぽたりぽたりと反響していた。
「ひっ!」
 足元をなにかが通り過ぎ、ジェマは思わず松明を放してしまった。湿った地面に落ちて消える直前、炎はその正体を照らし出す。ネズミだ。
「脅かさないでよ……あーあ、明かりが……」
 水を吸ってしまった木片はもう使い物にならない。ジェマは仕方無く、空中に小さな火の玉を設置しながら先へ進む。この方法は魔力を常に消費するため、あまり長続きしないのが欠点なのだが、明かりが無ければどうしようも無い。こんな暗闇の中を、オビはどこまで行ってしまったのだろう。
 あれ? と思い、ジェマは足を止めた。通路の奥に、赤い光が見える。オビが魔法を使うとは思えないし、ましてや火を起こす技術を持っているはずも無い。疑問に思いつつ、ジェマは自分の炎を消し、光が漏れている扉へと恐る恐る近付く。
 耳を澄ますが、物音は聞こえない。オビが居ればにおいで誰か居るのか確かめることができるのだが、今はそれができない。確かめる方法はただ一つ、扉を開けて中を見ることだ。
 ジェマはごくりと唾を飲み、扉に手をかける。心のどこかで鍵がかかっていることを祈りつつ、ぐっと扉を押す。
 幸か不幸か扉に鍵は掛かっておらず、表の扉のように錆びてもいなかったので、ジェマはその部屋に勢いよく飛び込む羽目になった。つんのめるようにして部屋に入ってしまったジェマは、慌てて体勢を立て直して剣の柄を掴む。だが、部屋には誰も居なかった。
 部屋全体を照らす赤い光は、本や書類が積まれた大きな机の上に鎮座する円柱型の硝子ケースから放たれていた。照明用の魔石みたいに目を突き刺すような鋭い光でも、蝋燭のような温かい光でもなく、神秘的で、ぞっとするような冷たい光だった。それでいて、吸い込まれるような誘惑を感じる。気付くとジェマは、硝子ケースに触れようとしていた。慌てて手を引っ込め、後退る。改めて見ると、ケースの中に赤い結晶が入っているのが見えた。光を放っているのはこの結晶のようだ。
「なんなの……これ……」
 机の上に積まれた本は魔術書のようだ。全てシュメリア語で書かれており、ジェマにはなにが書いてあるかわからない。本は古びていたが保存状態はよく、虫に食われたりカビたりもしていない。読めないことはわかっているが、ジェマは本を数冊手に取り、ぱらぱらとページを捲る。そして、ある本に描かれた挿絵を見た瞬間、ジェマは慌てて本を閉じた。
 そこに描かれていた獣の絵は、見覚えがあった。かつてホークバレー騎士団を襲ったときの、怪物化したウィーゼルの姿にそっくりだったのだ。
「ぎゃん!」
 短い悲鳴が聞こえた。この部屋のすぐ隣だ。ジェマは本を持ったまま、部屋を飛び出す。
「オビ! どこに居るの!?」
 明かりを付け、声を張り上げる。彼が能天気な顔をして、ひょっこり現れることを祈りながら。
「ジェマ……ジェマ、痛いよ……」
 弱々しい声と共に、足を引き摺るように歩きながらオビが姿を見せた。その脇腹には矢が刺さっている。怪物と化したウィーゼルに殴られても、ハロルドの雷撃を受けても無傷だったオビの体からは、だらだらと赤い血が流れていた。
「オビ!」
 ジェマは慌ててそばへ駆け寄る。彼女の視界を、銀色の光がかすめた。皮膚が薄く切れ、生温い液体が頬を伝う。
 顔を上げる。通路の先には、ジェマが降りて来た階段とは別に、もうひとつ階段があった。炎の光に浮かび上がったのは、旧式の鎧を纏った一人の兵士。兵士は矢をつがえ、再びオビへと狙いを定める。
 ジェマはオビの腕を引っ張って立たせ、走った。オビは泣きながら痛みを訴えるが、止まれば確実に殺される。なにが起こっているかを考えるより、まずは逃げることを優先しなければ。
 ジェマたちの行く手を阻むように、もう一人兵士が現れる。今度の兵士は鉄の剣を持ち、ジェマに向かって斬りかかって来た。ジェマも剣を抜き、刃を受け止める。
「さっき通ったときはこんなの居なかったのに……」
 オビの手が離れ、彼は弱々しく膝を付く。苦しそうに肩で息をしながら、うわ言のようになにか呟いている。
「なに? オビ……」
「ごめん……ね……オビが、勝手に……うろうろしたから……」
「そんなこと……っ!」
 再び放たれた兵士の剣をかわし、刃を振り下ろす。ジェマの剣は兵士の腕を容易く切り落とし、切り落とされた腕は土となって崩れ去った。
「土人形……やっぱり、ここは……」
 相手が人形なら情けはいらない。なおも残った手でジェマを捕らえようとする人形兵士を斬り伏せ、ジェマは再びオビの手を取る。
「オビ、立って」
「無理だよ……痛いよ……っ」
 オビはぐずぐずと泣き喚くばかりで、その場を動こうとしない。そうしている内に、弓を持った人形兵士が後ろに迫る。
「諦めちゃダメ。そんな怪我でオビは死なない」
 オビに向かって放たれた矢を、ジェマの剣が叩き落す。ダメ元で振るっただけに上手くいったことに自分で驚きつつ、ジェマはオビの手を引っ張る。
「私があなたを死なせない。立って」
 ジェマの肩に身を預け、オビは泣きじゃくりながらも立ち上がる。
「私は……あなたを守るって、約束したんだから。家族に会わせてやるって、誓ったんだから……!」
 脇腹に刺さったままの矢は痛そうだが、抜けば出血が酷くなる。オビの血で服が汚れるのも構わず、ジェマは足を進める。
 行く手を阻む土人形を斬り払い、時々意識を失うオビを抱えながら、階段を上る。十数分ぶりに見る満月の光が、妙に眩しく感じた。
「もうすぐ出口だ。頑張って」
 オビを励ましながら階段を上り切り、ジェマは出口の扉に手をかける。
「え……? 嘘……ッ!」
 押しても引いても扉は開かない。思い切り体当たりをしても、蹴りを入れても、鉄の扉は沈黙を保ったままびくともしなかった。すぐ後ろに人形兵士達が迫っている。膝を折り、壁にもたれて苦しそうに息をするオビ。ジェマは剣を構えて彼を庇うものの、その体は震えていた。
「悪いが、侵入者を逃がすわけにはいかないな」
 無機質な、中性的な声が砦に響く。ジェマたちに迫っていた土人形たちの動きが止まるが、助けが来たわけではないことはわかっていた。
 暗闇に浮かび上がる金色の目。黒いローブを纏った姿は、得体の知れない怪物の姿を思わせる。薄ら笑いを浮かべながら、金眼の魔術師はジェマたちの前に再び姿を見せた。
「なるほど。以前会ったときよりは腕を上げたようだ。だが、そろそろ限界だろう。私は無駄な犠牲は好まない。その獣人を差し出せば、君の命は助けてやろう」
「嫌です。オビを殺そうとしている人に、オビは渡せない」
「あくまで降伏はしないつもりか」
 追い詰められて肝が据わったのか、体の震えは止まっていた。向こうが取引を持ちかけて来たのなら、交渉の余地はあるはずだ。
「あなたは、オビの命を奪うために街を襲ったのですか」
 魔術師は肯定も否定もしない。
「あなたは、怪物を作ってなにをしようとしているのですか」
「……怪物、か」金色の瞳が揺れたように見えた。「君たちにはそう見えるんだな」
「では、なんなんですか、あれは」
「神だ」間髪容れず答えた魔術師の声は、僅かに高揚しているようだった。「私達は神の威厳を取り戻したかった。それを奴らは……」
 魔術師は言葉を止め、首を振る。
「いや、君に話しても無駄か。駄目だな、どうも君と話していると調子が狂う」
「奴らとは騎士団のことですか? あなたの目的は、復讐……?」
「そうだ」静かな、抑揚の無い声だった。「そのためにはその獣人が邪魔だった。だからいっそ殺してしまおうと思っていたのだが……」
 魔術師が近付いて来る。体が動かない。退くことも、剣を振ることも出来ない。
「君の選択次第では、助けてあげてもいい」
 挑発するかのように、魔術師の指がジェマの剣に触れる。皮膚が薄く切れ、赤い血が滴った。
「あなたに付けということですか?」
 手を伸ばせば触れられそうな距離まで近付いているというのに、相手の顔は見えない。冷たく光る金色の双眸だけが、ぼんやりと暗闇に浮かんでいる。
「君は騎士団が本当に正義だと思うか?」
 口は動く。だが、その問いにジェマは答えられなかった。
「彼を助けたいのなら、選ぶべき道はわかっているはずだ」
 魔術師の手が頬に触れた。指から垂れる血が、頬に付着する。
 唐突に、なんの前触れも無く、閃光が暗闇を吹き飛ばした。
 続いて轟音。飛び散る石壁。光と石の暴風に巻き込まれた土人形達が、一瞬で蒸発する。
「ジェマ! ここに居るのか!」
 月光を背負ったその姿を見た瞬間、ジェマの目から大粒の涙が零れた。
 金眼の魔術師の姿は、いつの間にか消えていた。

第二十七話

 ジェマたちのにおいを探るウィーゼルの後を、ハロルドは馬で追う。辿り着いたのは、都市の防衛拠点として使われていた古い砦だった。数十年前に破棄され、雨風に晒されて崩れかけてはいるが、未だ当時の面影を察する程度には原型を留めている。
「ちっ、鍵が掛かってやがるな」
 鉄の扉をガチャガチャやりながら、ウィーゼルは面倒臭そうに舌打ちをする。
「貴様盗賊だろう。開けられないのか?」
「鍵穴が無けりゃどうしようもねえよ。多分どっかに仕掛けが……」
「どけ」
 ハロルドはウィーゼルを押し退け、扉に手を添える。その手が青白い光を帯びるのを見て、ウィーゼルは慌てて飛び退いた。
「は? おい、待て。なにする気……」
 次の瞬間、激しい閃光と轟音が辺りに迸る。ハロルドが放った雷は鉄の扉を吹き飛ばし、石の砦を貫いた。
「無茶苦茶しやがる……」
 ウィーゼルのぼやきはハロルドの耳には届いていなかった。瓦礫と化した石壁の影に人の姿を見付けたハロルドは、自ら開けた大穴に脇目も振らずに飛び込む。
「ジェマ! ここに居るのか!」
 土埃が舞う砦の中、ハロルドは叫ぶ。オビと一緒に居るのなら、雷の衝撃で壁もろとも吹き飛ばしたということは無いはずだ。
「ハロルド……!」
 かすれるような細い声が聞こえた。視線を向けると、ハロルドが開けた穴から降り注ぐ月光が、声の主を照らし出していた。今にも泣き出しそうに目を潤ませるジェマの傍らには、ぐったりと壁にもたれるオビの姿があった。
 ハロルドと目が合った瞬間、迷子のようなジェマの目から大粒の涙が零れる。
「ごめんなさ……っ私……皆に迷惑をかけて……オビも守れなくて……っ」
 子どものように泣きじゃくるジェマを見て、ハロルドは困惑した。言いつけを破った部下をどう叱り付けてやろうかと幾つか用意していた言葉も忘れてしまうくらいに。
「怪我をしているのか?」
 ジェマの頬と服には血が付いていたが、彼女は涙を拭いながら首を振る。
「私はなんともっ……ない、ですけど……っ、オビ、が……っ」
「見せてみろ」
 ジェマの腕に抱かれたオビを仰向けに寝かせる。オビの腹部には矢が刺さっており、血で濡れた灰色の毛と衣服が肌に張り付いていた。
「ウィーゼル!」
「あ?」
 辺りのにおいを嗅いでいたウィーゼルが、ハロルドの呼びかけを受けて振り返る。
「オビを押さえろ。少々手荒な治療になる」
 思えば、オビの姿をこんなに間近で見たのは初めてだった。オビの体毛はしなやかで硬く、ハロルドの知っているどの獣とも違う手触りだ。毛は二重構造になっていて、硬い体毛の下に細かく柔らかい毛がびっしりと生えている。ナイフで服を裂くと、腹の周りは体毛が薄いことがわかった。矢は、柔らかい毛の下に肌色が見える部分に刺さっている。
「傷は思ったより浅いな。ジェマ、明かりを」
 ジェマは鼻をすすりながらうなずき、小さな火を灯してハロルドの手元を照らす。
 矢を引き抜く瞬間、痛みに耐えかねたオビは激しく暴れた。腕を変身させたウィーゼルに押さえ込まれながら、オビは苦痛による覚醒と気絶を繰り返す。傷を縫合して包帯を巻き終えた頃には、疲れ果てたのか静かな寝息を立てていた。
「落ち着いたか」
 オビにやられた引っ掻き傷を消毒しながら、ハロルドはジェマに問いかける。
「……はい」
「ここでなにがあった?」
「実は……」
 ジェマはためらいがちに語った。地下で魔術書と赤い結晶を見つけたこと。オビが土人形にやられたこと。金眼の魔術師に襲われたこと。
「奴に会ったのか? ここで!?」
「はい。ハロルドたちが駆けつけたときに逃げちゃったみたいですけど……」
「なにかされたのか?」
「……いえ、なにも」
 僅かな間があったのは気になったが、ハロルドは心から安堵の息を吐いた。間に合ってよかった。そう思った。
 恐らく、その『赤い結晶』というのが呪いの源となっているのだろう。魔石の一種なのか、人工的に作られた別の物質なのかは、実物を見てみないとわからないが。
「ウィーゼル」
「あ? 今度はなんだよ」
 傷付いた腕を舐めていたウィーゼルは、露骨に嫌そうな顔をする。
「地下を見て来い」
「やだよ。なんで俺が……」
「結晶と資料を回収するだけだ。簡単だろう。それとも痛い目に遭いたいのか?」
「ちっ、わかったよ」
 ごねても仕方無いと判断したのか、ウィーゼルは渋々ハロルドの指示に従う。だが、程無くして戻って来たウィーゼルは手ぶらだった。人が使っていた痕跡はあったが、魔術書も結晶もどこにも見当たらなかったという。
「そうか。やはり持ち逃げされていたか」
「てめェ、わかってて行かせやがったな」
「そんなに睨むな。念の為だ」
「あの……」ジェマがおずおずと口を開く。「資料の一部なら一応……役に立つかはわからないですけど……」
 ジェマの手には、シュメリア語で書かれた一冊の本があった。セルペニアでは絶版となっている、禁断の魔術に関する本だ。
「やはり、ここが奴のアジトだったんだな」ジェマから受け取った本を見ながら、ハロルドは呟く。
「ごめんなさい。私のせいで逃げられて……」
「もういい。これに懲りたらもう勝手なことはするな」
「ホークバレーに戻るんですか?」
 出口に向かって歩き出したハロルドの背に、ジェマの問いかけが投げられる。
「いや。そいつの怪我では長い移動はできない。一度近くの村で宿を取る」
「こんな時間に?」
「ここからは早く離れたほうがいい。得られる物ももう無いしな」
 魔術師を退けたとはいえ、戻って来ない保障は無い。ジェマと二人がかりでオビを馬に乗せ、ハロルドたちは砦を後にする。
 西に二キロほど歩くと、集落の明かりが見えて来た。煌々と夜空を照らすかがり火を見て、ウィーゼルが嫌そうな顔をする。
 家々の明かりが消されて集落は静まり返っていたが、宿屋にはまだ明かりが灯っていた。看板の文字は風化し擦れていたが、中からは賑やかな歌声と話し声が聞こえて来る。
 ハロルドは扉を開ける。ランタンの光で照らされた店内にはカウンターと幾つかのテーブルがあり、旅人らしき数人の男女が酒を酌み交わしながら談笑していた。建物は二階建てで、一階が酒場、二階が客室となっているようだ。
 宿の従業員らしき若い女がハロルドに駆け寄る。ハロルドが怪我人が居るのでベッドを借りたいと告げると、女は「少々お待ちください」と言って引っ込み、恰幅のいい壮年の男を連れて来た。宿の責任者らしい。
「人数は?」男が無愛想に尋ねる。
「連れが三人居る。その内一人は怪我人だ」
「……悪いが、部屋は空いてねえな」
「全員泊まれなくてもいい。怪我人を休ませてやりたいんだ」
 男はうーんと唸って渋い顔をする。その視線がチラチラと背後を見ていることに、ハロルドは気付いていた。頭の後ろで、ウィーゼルの舌打ちが聞こえた。
「わかった。それならこれでどうだ?」
 そう言ってハロルドは財布を取り出し、周囲に見えないようにしながら男の手に数枚の十ロック大銀貨を握らせる。男の顔色がにわかに変わるのを見て、ハロルドは更に畳み掛ける。
「全員泊めてくれるなら倍払おう。悪い話じゃないだろう」
「わ、わかった。部屋に案内しよう」男はごくりと唾を飲み込んで銀貨をポケットに突っ込むと、にやけ顔を隠そうともせずハロルド達を招き入れた。
 馬を宿の前に繋いでオビを降ろし、ウィーゼルに背負わせて運ぶ。責任者の男は一行を二階まで案内すると、部屋は空いてるから好きな部屋を使ってくれと告げて階段を降りて行った。くれぐれも獣人を暴れさせるな、と付け足して。
 客室は一部屋につき二つのベッドが備えられていた。清潔な布団の上で穏やかに寝息を立てるオビを見て、ジェマはほっとしたように息を吐く。
「僕達は隣の部屋に居る。なにか問題が起きたら壁を叩いて知らせろ。いいな」
「はい……あの、ハロルド」
 ジェマに呼び止められ、部屋を出て行こうとしていたハロルドは立ち止まって振り返る。
「街へ戻ったら……オビはどうなるんでしょうか」
「自分の処分よりそいつのほうが気がかりか」ハロルドはドアノブから手を放し、ジェマに歩み寄る。呆れたのか感心したのか、意識せず微笑みが浮かぶ。「貴様はどうしようもないお人好しだな」
「自分のことも心配ですけど、でも、悪くてもクビになるだけですから」血塗れの服を着替えようともせず、ジェマはオビの頭を優しく撫でながら、呟くように言う。「オビは、知らない場所で迷子になって、家族に会いたくても会えなくて……危険な獣人だからって捕まえられて、痛いことされて……そんなの、可哀想じゃないですか」
 ウィーゼルが空気を読まずに大きなあくびをかましたので、ハロルドは彼に先に部屋で休むように言った。ウィーゼルが出て行くと、部屋の温度が一気に下がったような気がした。
「貴様は、そいつが何者なのか知りたいと思うか?」
 問いかけると、ジェマは穏やかな微笑みを向けながら答える。
「竜、なんですよね」
「知っていたのか」
「はい。なんとなく、そうなんじゃないかって思ってたんです」オビの手を握ったまま、ジェマは言う。「でも、私はそれを認めるのが怖かった。だって、竜は人間の敵だって『救世の英雄』には書いてあったから」
「わかっていて、何故そいつを守ろうとする?」
「手を、差し伸べてしまったから」ジェマは静かに即答する。「この子を見捨ててしまったら、なにか大事なものを失ってしまうような気がしたんです。それが、怖くて」
 うつむくジェマの横顔に胸がざわつく。怒りのような、哀れみのような、言葉にできない感情が湧くのを、ハロルドは感じた。
「どんな理想を描こうと、どんな信念を抱こうと、それは貴様の勝手だ」
 ハロルドの言葉に、ジェマは顔を上げる。不安げに揺れる瞳に苛立ちを覚える。
「だが、生半可な気持ちでそれが守れると思うな。失いたくなければ、血反吐を吐いてでも、泥をすすってでも守り切る覚悟が必要だ」
「そんなことわかってます!」ジェマは立ち上がり、嗚咽のような声を出す。「私にはオビを守る力が無いことも! 英雄になんてなれないことも! あなたの言うような覚悟が無いことも! 全部わかってます!」
 隣の部屋はウィーゼルが寝ているだけ。反対の部屋は空き部屋だ。多少騒いだところで問題無いだろう。溢れる感情をぶつけてくるジェマを、ハロルドは淡々と見つめる。
「私は……強くなりたい。あなたやウィーゼルやパーシーみたいに、戦える力が欲しい」
「強くなりたいのか」
 ハロルドが確認を取るように訊ねると、ジェマはうなずいた。その瞳にはもう不安の色は無い。
「いいだろう。明朝稽古を付けてやる。疲れているからと言って遅れるなよ」
 夜明けに落ち合う約束をして、ハロルドはジェマの部屋を出る。
「……なにを熱くなってるんだ、僕は」
 誰にともなく呟いて、ハロルドは自嘲気味に笑った。

第二十八話

「無駄な動きが多すぎる。それでは体力がもたんぞ!」
「ちょ、ちょっと待ってくださ……! わっ!」
 訓練とはいえ、ハロルドの攻撃は見習いのジェマに対しても容赦無い。村の武器屋から借りて来た訓練用の木刀がぶつかり合い、甲高い音が周囲にこだまする。
「覚えは早いようだな。もう僕の動きについて来れるようになるとは」
 ジェマの反撃を受け止めたハロルドの顔に、不敵な笑みが浮かんだ。険しかったジェマの表情も綻ぶ。だが次の瞬間、ハロルドに足を払われたジェマは体勢を崩して転倒し、木刀を落としてしまった。彼女の喉元に切っ先が突きつけられる。
「気を緩めるな。実戦だったら死んでいたぞ」
 ハロルドは冷たく言い放ち、ジェマに立てと命令する。木刀で身体を支えながら立ち上がるジェマの息は荒く、体中擦り傷だらけだ。
「やめてよ! それ以上ジェマをいじめるならオビが相手になるよ!」
 どこからともなく躍り出たオビが、ジェマを庇うように立ちはだかり、ハロルドに牙を剥く。少し遅れて姿を見せたウィーゼルに、ハロルドの碧眼が向けられる。
「そいつの面倒は貴様に頼んだはずだが?」
「無茶言うなよ」耳としっぽを下げながら、ウィーゼルは唇を尖らせる。「なだめてすかしてなんとか一時間もたせたんだ。むしろ褒めて貰いたいくらいだね」
「心配してくれてありがとうね、オビ。大丈夫だよ」
 ジェマがオビの頭を撫で、いじめられている訳ではないとなだめると、オビは安心したように牙を収めた。
「無理言ってごめんなさい。大変だったでしょう」
 ウィーゼルに労いの言葉をかけると、彼はジェマを一瞥し、気まずそうに視線を逸らした。垂れ下がったしっぽがゆらゆら揺れている。
 ハロルドに稽古を付けて貰っている間、ウィーゼルにオビの相手をしてくれるように最初に頼んだのはジェマだ。かつての仲間とはいえ、一度殺されかけたことのある相手の面倒を見るなど無茶な頼みではあったが、ウィーゼルは渋々ながら引き受けてくれたのだった。
「貴様が謝る必要など無い。この事態を招いたのはそいつのせいでもあるんだからな」
「確かにそうかもしれませんけど……」
「おい」ウィーゼルがジト目でジェマを睨む。
「オビを守るためとはいえ、無茶な行動をしたのは私です。ウィーゼルは、都合の悪いことから目を逸らそうとしていた私に忠告してくれただけですし、あんまり責めないであげてください」
「……ふん、まあいいだろう。そろそろ休憩を挟もうと思っていた所だ」呆れたような溜息を吐きつつ、ハロルドはジェマの木刀を回収する。「朝食が終わったら改めて動きを確認する。それが済んだらすぐに出発するぞ」
「わかりました。あの、木刀返すなら私が行きましょうか?」
「用事のついでだ。気にするな」
 ハロルドがウィーゼルを伴って武器屋に向かったのを見届けて、ジェマはオビを連れて宿屋の食堂へと足を向ける。
「あーっ、ちょっと待ってお客さん!」カウンターに居た宿の主人が慌てたように駆け寄り、小声で耳打ちする。「食堂に獣人を入れちゃ困るよ。料理に毛が入っちまうだろ」
「あ、ごめんなさい」ジェマは思わず肩をすくめる。「じゃあ、外で頂きます。なにか軽食を……」
「お嬢ちゃんが喰うのか?」
「え?」
「生憎ウチじゃ獣人の餌は扱ってねえんだ。悪いな」
 宿の主人はそう言うや否や、ジェマの目の前でぴしゃりと扉を閉めてしまった。
「ちょ、ちょっと!」
「どうかしましたか?」
 背後からかけられた声に、扉を叩こうとしたジェマの手が止まる。振り返ると、木苺でいっぱいになったかごを抱えた若い女性の姿があった。穏やかな灰色の目が、ジェマの顔色をうかがっている。声と顔つきに覚えがあるが、どこで会ったのだったか。
 ジェマは少し考えて、彼女が昨夜宿屋に居た従業員だということを思い出した。
「す、すみません。入り口塞いじゃって……」
「大丈夫ですよ。昼間は私はお休みなので」慌てて通路を空けようとしたジェマに穏やかな微笑みを向け、彼女は言う。「ごめんなさいね。ここのオーナー獣人嫌いだから、嫌な思いをしたでしょう」
「いえ、そんな……」
「私の家、すぐ近くなんです。よかったら、うちで朝食を召し上がって行きませんか?」
「ええっ、そんな! 悪いですよ!」
「その子のごはんも用意できますよ」
 ごはんという言葉に、オビが飛び上がりそうな勢いで顔を上げる。目をキラキラさせ、口から涎を垂れ流す様を見せられては、断るのも酷というものだ。
「じゃあ……初対面でこんなこと言うのも変ですけど……ごちそうになってもいいですか?」
「そんなにかしこまらなくてもいいですよ」頬を染めるジェマを微笑ましげに眺めながら、彼女は苦笑する。「私の名前はエイダといいます。お見知りおきを」

 エイダはバックロック地方の出身だが、住んでいた村を戦争で失い、ホークバレーのこの村に流れて来たという。僅かながら回復魔法の心得と薬草の知識があった彼女は村人から歓迎され、戦後バックロックの情勢が安定した後も、この村に根を下ろすことにしたらしい。
 エイダの家は宿から歩いて十分程度の距離にあり、到着するまでに何人かの村人とすれ違うことになった。彼らは口々にエイダのことを「先生」と呼んでいた。
「私、こう見えて一応治療師なんです。無免許ですけど」エイダは苦笑しながら、冗談っぽく説明する。「この村は街から離れているでしょう。私みたいなモグリでも、彼らにとっては必要な存在なんですよ」
 回復魔法は傷を癒すだけでなく、様々な効果が存在する。気持ちを落ち着かせて睡眠を促したり、気分を昂ぶらせて運動能力を引き上げたりする術も回復魔法に分類される。使い方を誤れば依存症や重度の運動障害を引き起こす可能性もある為、行使するには試験を受けて免許を取得しなければならない。無免許での回復魔法の使用は、場合によっては殺人に相当する重罪となる。
 村人からの慕われようを見るに、エイダの実力は本物のようだ。何故試験を受けないのかと訊ねると、彼女は頬を掻きながら答えた。
「試験を受けるには大学に入らなきゃいけないんです。入学費を稼ぐ為にバイト掛け持ちしてるんですけど、なかなか貯まらなくて」
 ジェマはなんとも言えない気持ちになる。とりあえず、エイダが無免許だということはハロルドに知られないようにしようと思った。
「ただいま」
「おかえり! エイダ先生!」
 エイダが戸を開けると、元気のいい子供たちの声が聞こえた。乳幼児から十代前半くらいの少年まで、家の中に居る子どもたちの年代は様々だ。彼らはエイダの後ろに居る見慣れぬ少女と獣人を不思議そうに眺めている。
「先生のお友達だよ」エイダは子どもたちに微笑みかけてから、改めてジェマに向き直る。「どうぞ、あがってください」
 子どもたちがオビを怖がるかと思ったが、逃げたり泣き出したりする様子は無い。一方オビはというと、ジェマの背中にぴったり張り付き、耳を伏せ、しっぽを膨らませている。
 いかにも悪戯っ子という風体の男の子が、オビのしっぽの毛を引っ張った。オビは「ぴゃっ」と鳴いて飛び上がり、男の子に牙を剥く。男の子は悲鳴をあげて逃げ出すが、鬼ごっこをしているかのように楽しそうだ。
「子どもを怖がらせちゃダメだよ、オビ」
 ジェマに咎められ、オビは耳を伏せてしゅんとなる。
「こらーっ、お客さんに悪戯しちゃダメでしょ!」
 エイダが悪戯っ子を捕まえ、痛くないように加減した拳骨を喰らわせる。そのままくすぐり攻撃に移行し、家の中には悪戯っ子の悲鳴と他の子どもたちの笑い声が響いた。
「騒がしくてごめんなさいね」
 男の子を解放して食事の準備に取り掛かるエイダ。年長の子どもたちが、率先して彼女の手伝いに向かう。
「いえ。私の地元もこんな感じでしたから、懐かしいです」女の子に案内され、ジェマはオビと一緒に食卓に着く。
 朝食の献立はキャベツとタマネギのスープ、木苺ジャムが添えられたライ麦パンだ。肉や魚が無いのでオビがごねるかと思ったが、そんなことは無かった。食べられるものならなんでもいいらしい。
「ねえ、ジェマさん」
「ジェマでいいですよ」
「そうですか? では私のこともエイダと呼んでください」ジェマの返事を受け、エイダは改めて口を開く。「ジェマは、ホークバレーの騎士団に所属しているんですよね。この村へは、なにか任務を受けて来たのですか?」
 ジェマは少し困った。自分が街を飛び出して来た事情を正直に説明しようとすれば、オビの正体や金眼の魔術師についても話さなければならない。迂闊な発言で不安を煽るようなことをすれば、気分を害してしまうだろう。
「えっと、まあそんな感じです」答えに迷った結果、ジェマは曖昧な返事をする。
「よかった。やっと騎士団が動いてくれたんですね」エイダは心底安心したと言うように息を吐き、顔を綻ばせる。
「やっと、って?」
「三年くらい前からだったかな。村の近くの山に、狼の獣人が出没するようになったんです。初めのうちは時々姿を見かけるくらいだったんですけど、突然人を襲うようになって。近頃は村まで降りて来て、畑を荒らしたり食べ物を盗んで行くこともあるんです」
「それで、騎士団に依頼を?」
「はい。でも、あまり深刻には受け取って貰えなかったみたいで、ずっと後回しになってたんです」
 エイダはすっかりジェマたちが問題を解決してくれるものだと思っているようだ。どうしたものかと思いながら、ジェマは隣でパンを頬張るオビを見やる。オビは金眼の魔術師に命を狙われている。彼を守るためには、一刻も早く街に戻らなければならない。しかし、エイダの期待を裏切るような真似は、ジェマにはできなかった。
「安心してください。必ず、私たちがその獣人をなんとかしてみせます!」

「貴様、状況を理解しているのか?」
 ジェマが事情を説明し終わると、案の定ハロルドは難色を示した。
「だって、放っておくわけにはいかないじゃないですか」
「安請け合いをするのもどうかと思うがな……。まあいい。腕試しには丁度いいだろう」ハロルドは溜息を吐きつつ、武器屋で購入した革製の盾をジェマに渡す。「それを使え」
「えっ、でも、私盾なんて使ったことない……」
「時間が無い。体で覚えろ」
「ええ……」
 ハロルドから貰った盾を構え、攻撃を受けるシミュレーションをしてみる。慣れない感覚に不安は残るものの、山へはオビは勿論、ハロルドとウィーゼルもついて来てくれるということだったので、危険は無いはずだ。
 案内役を引き受けてくれたエイダに連れられ、一行は村を脅かしている獣人のねぐらへと向かった。

第二十九話

 村を脅かしているという獣人のねぐらへ向かう途中、エイダは森について色々教えてくれた。大昔、この周辺は鉄鉱石の産出で潤っており、採掘や取引のための宿場町があったという。ゴラド王国との戦争が始まるずっと前、セルペニアが統一される以前の時代の話である。村の近くにある廃墟となった砦は、資源を奪おうとする敵対勢力から町を守るために建てられた物であるらしい。ジェマたちが宿を借り、エイダが治療師として腰を据えている村は、当時の繁栄ぶりを物語る数少ない名残だ。
 砦の話題が出たとき、昨夜そこで経験した出来事がジェマの脳裏に蘇った。金眼の魔術師は、またあの砦に戻っているのだろうか。オビを炙り出そうと村を襲ったりしないだろうか。
「お疲れのようですね。休みますか?」
 表情が曇っていたらしい。エイダが心配そうにこちらを見ている。
「いえ、私は大丈夫です。初めて入る森だから、ちょっと怖いなって思って」
 ジェマの不安を払拭しようと思ったのだろう。エイダは茂みに向かってしゃがみ込み、草を何本か摘んで持って来た。
「これ、乾燥させてお茶にするとおいしいんです。喉にもいいんですよ」
 腰に付けていた籠に草を入れ、エイダは周辺にある植物についても解説しはじめた。あの草の根は腹痛に効くとか、その木の皮は染料に使うとか、そういった話だ。ジェマも幼い頃、叔父に連れられてベリーコイドの森に入ったことがある。エイダが解説する植物の中にはジェマにとって馴染み深い物もあり、大いに盛り上がった。
「目的を忘れたのか。静かにしろ」
 ハロルドに叱責され、ジェマとエイダは慌てて口を押さえる。
 野生の獣は警戒心が強いものだが、獣人の場合は特に顕著だ。大きな音を出して脅かしてしまえば、身を隠されてしまうかもしれない。そうなると見付け出すのは難しくなる。オビもウィーゼルも例の獣人に会ったことは無いので、においで追うこともできない。
 とはいえ、気配を殺しつつ森を進むのも危険である。森に潜む脅威は獣人だけではない。
「これは熊の爪痕か」
 そう呟いたハロルドの声に、ジェマは冷や水をかけられたような心地がした。見やると、自分の胴と同じくらいの太さの樫の幹に、抉り取られたような痛々しい三本の線が入っていた。
「山菜や木苺を食べに降りて来たのでしょう。獣人が出るようになってから、この辺りは人が寄らなくなりましたから」幹の傷痕を撫でながら解説するエイダの声は落ち着いている。「大丈夫、こちらにはオビ君とウィーゼルさんが居ます。熊は獣人のにおいを恐れますから、熊のほうから避けてくれるはずです」
「その獣人をこれから狩りに行くんだろうが。都合のいいこと言ってんじゃねえ」
 そう言ったウィーゼルの声には恨みがましい響きがあった。エイダが苦笑を浮かべる。それを見たウィーゼルの鼻面にしわが寄る。
 ウィーゼルはこれから会いに行く獣人と同じ狼族で、人間に追いかけられた経験がある——これについては彼が街で盗みを働いたからであり、自業自得ではあるが——ので、思うところがあるのだろう。
「貴様にも同族に同情する心があったか」
 からかうようなハロルドの言葉に、ウィーゼルはふんと鼻を鳴らす。
「同族だろうがなんだろうが、赤の他人がどうなろうと知ったこっちゃねえ。俺はその女が気に入らないだけだ」
 険悪な空気を感じ、ジェマはエイダの表情を伺う。エイダは相変わらず柔らかな微笑みを浮かべたまま、口の前に人差し指を添えた。今まで気付かなかったが、その指には包帯が巻かれていた。
 森の中心部へ向かうにつれ、木々の密度は増していった。空を覆うように張り巡らされた枝葉に遮られ、地表に届く光は少なくなっていく。
 先頭を歩いていたエイダが立ち止まり、続く皆にも止まるよう合図を出した。彼女の前方数十メートル先に、岩肌がむき出しになった崖がそびえていた。鉄鉱石を採掘していた頃の名残だろうか、人工的に開けられたらしい穴が幾つか確認出来る。
「獣人の目撃例が多いのはこの辺りです。恐らくあの坑道のどれかがねぐらになっているはず……」
 エイダの語尾に被せるように、狼の遠吠えが響いた。近くに居たハロルドが、ジェマとオビの頭を押さえ込むようにして地面に伏せさせる。エイダとウィーゼルも姿勢を低くして身を隠す。
「気付かれたのか?」
 ハロルドが視線を上げて辺りを伺う。
「いや、この声は獣人じゃねえ。獲物を見付けたらしいな」答えたのはウィーゼルだ。獣人ののどは普通の狼より細いため、これほど響かないのだという。冷静に解説するその顔にいやらしい笑みが浮かぶ。「俺たちのことじゃなければいいがな」
「やめてくださいよそういうの!」
 ジェマは声を抑えつつ、ウィーゼルに振り返り抗議する。
「獣人が獲物を横取りしに来るかもしれません。一度離れましょう」
 伏せていたエイダが立ち上がり、中腰の姿勢で踵を返す。
「えーっ、オビ狼になんか負けないむぐ」
 ジェマが慌ててオビの口を塞ぐ。
 そのとき、不意に視界がぶれ、それとほぼ同時に目の前に黒い塊が落ちて来た。視界がぶれたのはハロルドに首根っこを引っ張られたからだ。ジェマはオビもろとも地面に尻餅をつく。今朝洗ったばかりのズボンに泥水が染み込む。黒い塊は人の形をしているように見えたが、正体を確かめる間も無く茂みに隠れてしまう。
「不意打ちとはずいぶんなご挨拶だな。出て来い!」
 最早姿を隠す必要は無いと判断したのか、ハロルドが立ち上がり声を張る。
「馬鹿か。そんなこと言われてのこのこ出てくる奴が居るわけ……」
 ウィーゼルが呆れたような声を出すが、その言葉は途中で途切れた。茂みに隠れていたそいつが姿を現したからだ。
「居たわ……」
 そいつは奇妙な姿をしていた。鉄の兜を被っているのに、着ている鎧は革製だ。篭手とすね当ての代わりなのか、手足に厚く布を巻き付け、ツタで括っている。三角形の耳と太いしっぽを見る限り、狼の獣人であることはうかがえた。
「村を襲っている獣人というのは、あなたですか?」
 ジェマの問いかけに、獣人は答えない。兜で表情は見えないが、牙を剥いているのだろう。くぐもった低い唸り声が聞こえる。
「縄張りを荒らしてごめんなさい。私たち、あなたを傷付けに来たわけじゃないんです。話を聞いて欲しくて……」
 ジェマの言葉が終わるのを待たず、獣人が飛びかかって来た。ジェマはハロルドから貰った盾を咄嗟に構え、獣人の攻撃を防御する。が、衝撃を殺し切れずに体勢を崩し、再度尻餅をついてしまった。追撃の鉤爪が振り下ろされる。
 唸り声と共に、オビが鉄兜の獣人に飛び掛った。側面からの不意打ちに、獣人は成す術なく押し倒される。
「よくやった、オビ! とどめを刺せ!」
 ハロルドの指示を受け、オビは大口を開けて獣人の喉に喰らい付こうとする。
「ダメ、待って!」
 ジェマの声で、オビの動きが止まった。困惑したような表情を浮かべ、オビはハロルドとジェマの顔を交互に見る。
「何故止める。奴は人を襲ってるんだろう」
「だからって、殺すこと無いじゃないですか!」
「そんな呑気なことを言っている場合か」
 レイピアを抜いて獣人に向かおうとするハロルドの前に、ジェマが立ちはだかる。ハロルドは忌々しげな視線を彼女に向けた。
 言い争う二人は、もう一つの影が近付いていることに気付かなかった。
 鈍い音と共に聞こえた悲鳴にジェマが振り返ると、二匹の獣人が森の暗がりへと走り去る所だった。一匹は鉄兜の獣人、もう一匹は茶色の毛皮を纏った細身の獣人だ。こちらは兜は被っていないが、鉄兜の獣人と同じように革製の鎧を纏っていた。オビに捕まった仲間を助ける為に駆けつけたのだろう。後姿がちらりと見えただけだったので、顔は見えなかった。
「オビ、大丈夫?」
 ひっくり返っていたオビはきゅーと鳴いて起き上がり、水から上がった犬のようにぷるぷる頭を振った。頬が赤くなっている。吹っ飛び具合からして思い切り殴られたようだが、痣や爪痕は見当たらない。涙目になっているのは恐らく痛みのせいではなく、不意打ちを喰らってびっくりしたのだろう。
「くそ、逃がしたか……」
「もう一つ悪い知らせがあるぜ」倒木に腰を下ろしていたウィーゼルが声を上げる。「あのエイダとかいう女、どっか行っちまったみたいだぜ」
「えっ」
 ジェマは慌てて周囲を見回す。エイダの姿はどこにも見当たらない。
「まさか、さっきの連中に連れ去られたのか?」
「さあねえ」
 ハロルドの問いに、ウィーゼルは含みのある笑みを浮かべる。
「貴様、なにをしていた! 彼女が連れ去られるのをただ見ていたのか!」
「俺はこれがあるからよ」ハロルドに胸倉を掴まれながら、ウィーゼルはしたり顔で首輪を見せ付ける。「ご主人サマの許しが無けりゃ、自由に動けない身だ。仕方ねえだろ?」
 ハロルドは苦い物を噛んだように顔をしかめ、乱暴にウィーゼルを離す。
「悪い悪い。冗談だよ」軽い調子でそう言って、ウィーゼルはハロルドの肩に手を乗せる。そして囁くように言った。「奴は連れ去られたわけじゃねえ。自分で離れたんだ」
「なに?」
 ハロルドが眉をひそめ、ジェマは首を捻った。
 突然の襲撃に驚いて逃げ出した? それとも隠れているのだろうか。いずれにせよ、案内役を買って出たエイダが黙って居なくなるのはおかしい。森に精通している彼女が道に迷ったとは考え辛い。獣人に連れ去られたのでなければ、そろそろ姿を見せていてもいいはずだ。
「もしかしたら、慌てて逃げた拍子に怪我して動けないのかもしれません。探さないと!」
「そうだな」
 焦るジェマとは対照的に、ハロルドの声は冷静だ。ウィーゼルの手を払い除けると、落ち着いた様子でジェマに向き直る。
「後は僕たちに任せて、貴様はオビと村に戻っていろ」
「え、でも」
「昼までに戻らなければ、僕たちを置いてホークバレーに向かえ」
 まるでもう戻らないような言い方ではないか。
「どういうことですか? あの獣人たちがそれほど厄介な相手なら、私も……」
「言う通りにしてくれ。頼む」
 命令口調でないことが、返って不安を煽る。
「ウィーゼルの鼻があればエイダを探すのは簡単だ。だが、エイダが怪我をしていて動けないのなら、案内を続けさせるのは無理だ。彼女を見つけ次第、村に送り届ける。獣人退治は後日改めて人をやればいい」
 ハロルドはエイダが治療師であることを知らない。ジェマも伝えていない。エイダが自分の怪我を治療すれば、案内を続けて貰うことは可能なはずだ。
 そこまで考えて、ふと疑問が浮かぶ。エイダは回復魔法が使えるのだから、怪我で動けないということは無いはずだ。ならば何故姿を見せないのか。
「いいか。この仕事は正式な依頼ではない。途中放棄したからといって、誰も貴様を咎めはしない。だからエイダを探そうとか、獣人を追おうとか、そういったことは考えなくていい。まっすぐ村に戻れ。いいな」
 幼子に言い聞かせるようにハロルドは念を押し、ウィーゼルを伴って暗闇へ向かって行った。
 走り去る白い背中を見送りながら、ジェマはオビの手を握る手に力を込めた。

第三十話

 ハロルドはエイダに会ったときから疑問に思っていた。
 騎士団の一員であるジェマに対し、害のある獣人をなんとかして欲しいと頼むことは、別におかしいことではない。問題は、エイダが村の代表者でもない一介の村人であるということだ。
 セルペニアでは、ある集団の中で起こった問題はその集団の中で解決する、というのが常識となっている。家族の問題は家族内で、村の問題は村人全員で、という具合に。
 村を脅かす問題があるのなら、まずは村長か代わりの代表者に相談するのが普通だ。ジェマの話ではエイダは村人から信頼されているようだが、村の代表という訳ではない。村長を通して話があったのならともかく、エイダから直接依頼されたというのは少し引っ掛かる。
 ひょっとしたら獣人退治は方便で、ジェマたちを森へ誘ったのはなにか別の目的があるのかもしれない。エイダが姿を消したのは、そう考えていた矢先のことだった。
 鬱蒼とした木々が空を覆う森の中は、昼間だというのに夜のように暗かった。一歩踏み出す度、湿った腐葉土から水が染み出す感触がある。今はウィーゼルの目と鼻だけが頼りだという状況が、これ以上無いほど心細い。
「おい、本当にエイダはここを通ったんだろうな」
 迷い無く奥へ進んで行く背中に、堪らず声をかける。
「なんだよ、疑ってんのか?」
 暗闇に光る目が振り返った。表情は伺えないが、その顔に小馬鹿にしたような笑みを浮かべているだろうことは想像に難くない。
「疑われる理由は貴様が一番理解しているだろう」
 はん、と、鼻で笑う音がする。
「心配すんなって。この近くだ。だんだんにおいが濃くなって……そら、見付けた」
 ウィーゼルが指差す方向を見る。その場所は空を覆う枝が少ないのか、周りよりも暗闇が薄い。だが、満足に光が届かないことは変わらない。
誰かが木の陰にうずくまっている。本当に人なのか?
「足元、気を付けろよ」
 そう言って進むウィーゼルの後を追おうとして、ハロルドは倒木につまづいた。ウィーゼルは振り向きもせずどんどん先へ進んで行く。
 近付いて来る気配を感じたのか、人影が顔を上げる。近くで見て、ようやくハロルドは人影の正体がエイダだと確信出来た。
「ハロルドさん、でしたっけ」エイダの声色は落ち着いていた。「なんかすみません。案内役が遭難しかけるなんて、かっこ悪すぎですよね」
 おどけたようなエイダから一歩距離を置き、ハロルドは厳しい口調で問い質す。
「貴様、ここでなにをしていた」
「うっかり足滑らせちゃって。どうやって登ろうかなって考えてたところです」
 エイダの背後には、高くはないが急な斜面があった。昨日の雨で地滑りが起きていたようだ。エイダの手足や服に土が付いているところから察するに、あの斜面から滑り落ちたらしい。確かに登るのは骨が折れそうだが、今ハロルドたちが通って来た道を通れば戻れないことは無い。
「貴様はこの森に慣れてると聞いたが? 何故戻って来なかった?」
「こう暗いと、下手に動き回るのは返って危ないと思ったので」
「なにもせず助けを待っていたのか? 何故余所者をそこまで信用出来る?」
「現にこうして助けに来てくれたじゃないですか」
 エイダの表情には敵意も緊張感も無い。気の抜けるような笑みはどこぞの騎士見習いを連想させる。
「……怪我が無いなら立て。獣人退治はまた今度だ」
 溜息を吐きつつ、ハロルドはエイダに手を差し伸べる。
 そのとき、後頭部に衝撃を感じた。視界がぶれる。体が傾く。なんとか踏み止まり振り返ろうとした瞬間、今度は腹に鈍痛。えづきながら膝を付く。
「まだ気絶しねェのか。人間にしちゃ頑丈だな」
 嘲笑うようなウィーゼルの声。トドメとばかりにもう一度頭を殴られる。生温い液体が首を伝う。ぐらりと景色が暗転し、ハロルドの意識はそこで途切れた。

   ☆   ☆   ☆

「これで邪魔者は居なくなった。正体を隠す必要も無いだろ?」
 気絶したハロルドの体を足で除け、ウィーゼルは唖然とした表情のエイダに顔を向ける。
 首輪を着けられた獣人は、主人となる人間に危害を加えることはできない。但し、首輪を作動させるかどうかは主人の意思によって決められる。不意打ちであれば、いつだってウィーゼルはハロルドを傷付けることができたのだ。
「な、なにをしてるんですか! あなたたち、仲間じゃないんですか!?」
 我に返ったエイダが慌てた様子でハロルドに近付こうとしたので、ウィーゼルは彼女の前に立ちはだかり、威圧するように見下ろす。
「どいてください」
 エイダが顔を上げ、ウィーゼルを睨む。
「白々しい芝居はもういいんだよ」
「芝居って……?」
「獣人の鼻を誤魔化せると思ってんのか?」
 エイダが訝しげに目を細める。
「ガキどもならここには居ないぜ」ガキども、というのはジェマとオビのことだ。「ま、素直に帰ったとも思えないが」
「さっきからなにを……」
「アンタなんだろ? 昨夜、廃墟の砦の中でガキどもを襲ったのは」
 エイダの表情は変わらない。
「勘違いして貰っちゃ困るから一応言っておく。俺はこいつらに従ってる訳でもないし、仲間とも思ってねえ。生き残るために都合がいいから利用してる。それだけだ」
「都合よく使われるのは嫌だと、あなたさっき言っていませんでした?」
「ああ言ったさ。まっぴらごめんだ。だがこいつらは俺を利用する。だから俺もこいつらを利用する。おあいこって奴だ」
 エイダは唇を噛み締め、後退る。汗のにおいは緊張を含んでいる。体臭からは感情は読み取れるが、真意まではわからない。ウィーゼルは念を押すように質問を重ねる。
「話が逸れたな。で、ホントのところはどうなんだ?」
 エイダの顔に笑みが浮かぶ。諦めたように溜息を吐き、彼女は言う。
「……『貴き神』は、流石に騙せませんね」
「その呼び方はやめろっつったろうが」
 村に着いたときにウィーゼルが顔をしかめたのは、砦に残っていたものと同じにおいを感じたからだった。ジェマとオビの他にあの砦に居た人物、金眼の魔術師のにおいだ。オビが気付かなかったのは、矢を受けた痛みでそれどころではなかったからだろう。エイダに会った瞬間からその正体に気付いていたのは、ウィーゼルだけだった。
「エイダって名前も本名じゃねェんだろ? やましいことが無くても、魔術師は自分のことを隠したがるからな」
「私の正体に気付いていて、どうして言わなかったんですか?」
「言う必要が無かったからだ」ウィーゼルは鼻を鳴らし、即答する。「奴らがどうなろうと、俺の知ったことじゃない」
 エイダはウィーゼルの横をすり抜け、ハロルドの近くにしゃがみ込む。そしてハロルドの頭部の傷を確かめると、おもむろに手をかざした。今度は、ウィーゼルもそれを止めなかった。淡い光が掌から放たれ、傷が癒されていく。
「アンタ、俺が欲しかったんだろ? 今なら邪魔者は居ない。アンタがこの首輪を外してくれるなら、俺はアンタに付いてやる。魔術師なら造作も無いことだろ」
 エイダはまだ意識の戻らないハロルドをそっと地面に寝かせ、立ち上がる。ウィーゼルのほうを向いたエイダの目は、金色に光っていた。
「先ほどの言葉、訂正します」
「あ?」
 エイダは一度目を伏せた。再び顔を上げたとき、彼女の目は元の灰色に戻っていた。
「やはりあなたは、神なんかじゃない」
 びりびりと、地面が震える。地震だろうか。ずしん、ずしんと、一定のリズムを刻みながら揺れは徐々に大きくなる。森が騒いでいる。木々が揺れ、鳥の群れが慌しく飛び立つ音が聞こえた。
 森の中を風が吹き抜ける。むせ返るような獣のにおい。飢えた肉食獣のにおいだ。
 咆哮と共に、それは姿を現した。
 熊ではない。もっと大きい。狼に似た頭部に、赤々と燃える二つの目。闇が形を成したような漆黒の体毛を除けば、その姿はホークバレーの街を襲ったときのウィーゼルとほぼ同じだった。
 気が付くと、エイダの姿が消えている。獣に気を取られている間に逃げられたらしい。
 獣の目がウィーゼルを捉えた。巨大な爪が振り下ろされ、ウィーゼルは飛び退いてそれをかわす。地面が大きく抉られ、土と石が辺りに飛び散った。石のつぶてが止んで目を開くと、獣はハロルドへ標的を移していた。
 ハロルドはまだ目を覚まさない。首輪は主人となる人間と魔力で繋がっており、その繋がりが弱まると自動的に首が絞まる仕組みになっている。つまり、許可が無い限り一定以上離れることは出来ないし、主人が死ねば獣人も道連れになるというわけだ。
 ウィーゼルは腕を変身させて応戦しようとするが、いくら力を込めても体は変化しなかった。首輪を取り付けた三番隊の隊長の言葉を思い出す。これがある限り、君は自由に変身することは出来ない。力を使うためには主人の許可が必要だと。
「くそ! 冗談じゃねえぞ!」
 望んで付けたわけではないにしろ、これほどまでに首輪を忌々しく思ったことは無い。ウィーゼルは慌てて駆け付け、ハロルドの襟を掴んで木の陰に引っ張り込む。ハロルドの爪先を、獣の爪が掠める。
「いつまで寝てやがる! 傷は治ってんだろ!」
 自分で気絶させたことは棚に上げ、ウィーゼルはハロルドの頬をぺちぺち叩いて起こそうとする。その想いが通じたのか、ハロルドの瞼がぴくりと動いた。青い目が、うっすらと開かれる。
「やっと起きたか。死にたくなかったら変身を許可しろ。訳を説明してる暇は……」
 ウィーゼルは早口で捲くし立てたものの、最後まで伝えることは出来なかった。完全に覚醒したハロルドが飛び起き、ウィーゼルを突き飛ばしたからだ。そこは緩やかな斜面になっていて、後ろに体勢を崩したウィーゼルはそのまま一回転して転がり落ち、木の幹にぶつかった。
「てめえ! いきなりなにしやが……」
 身を起こしたウィーゼルは再び言葉を止める。ハロルドの姿が無い。
 頭上から、形容し難い奇妙な音が聞こえた。粘り気のある液体が、ぼたぼたと地面に落ちてくる。ウィーゼルは何気無く顔を上げ、声を失った。
 奇妙な音は獣が喉を鳴らす音。落ちてくる液体は獣の涎。ウィーゼルがぶつかったものは木の幹ではなく、獣の前足だった。
 凶悪な牙が並ぶ口に、白いものが咥えられている。泥で汚れてはいるが、暗闇の中でもはっきりと見えるその白の正体は、確かめるまでも無い。
「ハロルド!」
 ウィーゼルは叫んだ。だが、どうすることも出来なかった。
 ハロルドの体が黒い獣に呑まれて行くのを、ウィーゼルはただ見ていることしか出来なかった。

第三十一話

 大小の鳥の群れが、頭上を飛び去って行った。
 ジェマはいったんハロルドの指示に従い村に戻ろうとしたが、彼の言葉が気にかかり、まだ森に留まっていた。この辺りに生えている木々はまだ若く、惜しみなく降り注ぐ陽光をたっぷり浴びながらそよ風に枝葉を揺らしている。蝶が飛び、小鳥たちのさえずりが聞こえる。ともすればまどろんでしまいそうなのどかな風景だが、ジェマの心中は穏やかではなかった。
 ハロルドたちがエイダを探しに行ってから、十数分が経とうとしていた。
 ハロルドもウィーゼルもエイダも、私より年上でしっかりしている。私が心配しなくても、彼らは今に戻って来るだろう。半ば祈るような気持ちで、ジェマは楽観的な思考を頭の中で繰り返し呟く。
 突然、地鳴りのような音が聞こえて、ジェマははっと顔を上げた。オビは飛び上がり、ジェマに駆け寄ってしがみ付く。音の正体を探ろうとするかのように耳をぴんと立て、目を見開いて辺りを見回している。
 びり、びりと、地面が一定の間隔でかすかに震えている。振動は徐々に大きくなり、一度ぴたりと止まったかと思うと、しばらくして再び動き出し、段々小さくなっていった。その後は、何事も無かったように元の静寂を取り戻す。
 森の奥から風が吹いてくる。かすかに獣のにおいがした。
「オビ? どうしたの?」
 ジェマにしがみ付いていたオビが手を離し、四つ足の姿勢でしっぽを立てて、一点を凝視している。風上の方向、密度の濃い木々が作り出す暗闇を。
 なにかが居る。そうジェマが思った瞬間、オビはしっぽを鞭のように一振りしてそれに飛び掛った。猫がネズミを仕留めるときのような、迷いの無い電光石火の一撃である。
 聞こえたのは、キャンッという情けない悲鳴だった。
「てめえオビ! なにしやがるッ!」
 続いて聞こえたのは聞き慣れた声。
 ウィーゼルだ。オビに首根っこを咥えられ、じたばた暴れながらずるずると茂みから引き摺り出されている。どこかで転んだのか、白い毛や衣服に土や葉っぱをくっつけていた。
「こらオビ、やめなさい」
 ジェマは慌てて駆け寄ると、オビの肩を叩いてウィーゼルを離すよう促す。よかった。ウィーゼルが戻って来たなら、ハロルドも近くに居るだろう。無事にエイダを見付けて戻って来たのだ。
「おい、小娘」解放されたウィーゼルは、礼も言わずに早口で言う。「俺の首輪を外せ。人間のアンタなら出来るだろ」
「え、なに言ってるんですか。そんなのハロルドの許可が無いと……」
「奴はここに居ない」
「え?」
 問い返すジェマに、ウィーゼルは苛立ちを露にする。
「一から説明してる暇は無い。俺は死にたくないんだ。首輪を外せ」
「ま、待ってください。一体なにが……」
「いいから早くしろ!」
 ウィーゼルは声を荒げ、ジェマに掴みかかる。すかさずオビが割って入り、唸り声をあげてウィーゼルを押さえ付けた。
「くそ、くそ! 死にたくねえ! 奴はまだ近くに居るんだ!」
 ウィーゼルが恐れているのは目の前に迫るオビの牙ではなく、別のものだった。それがなんなのかはジェマにはわからない。ハロルドはどこへ行ったのか?『奴』とは誰のことなのか? 訊きたいことはたくさんあったが、半狂乱で喚き散らすウィーゼルを前に、ジェマは言葉を発することが出来なかった。
 茂みが揺れた。ウィーゼルが「ひっ」と息を引きつらせ、毛を逆立てる。近付く足音。ジェマはそちらに顔を向ける。
「ジェマ!」
 エイダだった。彼女の顔には焦った表情が浮かび、駆け足でこちらに近付いて来る。衣服は所々土で汚れ、頬には擦り傷があった。
「……ッ! てめえっ!」
 エイダの姿を見た途端、ウィーゼルが牙を剥いて吠える。オビを押し退けようと躍起になっているが、力及ばずじたばたともがいているだけだ。
「オビ君が居てくれてよかった。怪我はありませんか?」
 腕を引かれながら問われ、ジェマは戸惑いながらもうなずく。エイダはほっとしたようにふっと微笑み、真顔に戻ってウィーゼルを睨む。
「ここはオビ君に任せて村に戻りましょう。早く」
「え、ま、待ってください!」ぐいと強く腕を引っ張られ、ジェマは思わずエイダの手を振り払う。「ご、ごめんなさい。あの、なにがあったんですか? ハロルドは?」
 エイダはジェマから目を逸らし、沈んだ表情を浮かべる。唇を噛み、搾り出すように、彼女は告げた。
「ハロルドさんは……っ」言葉を詰まらせ、嗚咽にも似た声を出す。「残念、でした」
 その言葉の意味をジェマが飲み込む前に、エイダは語る。
「うっかり足を滑らせて崖から落ちた私は、皆さんの所へ戻れずに途方に暮れていました。そこへハロルドさんが助けに来てくれたんです。でも……」
 エイダの顔は青ざめ、手は震えていた。気持ちを静めようとするかのようにひとつ息を吐き、彼女は続ける。
「突然、恐ろしい獣の吠える声が聞こえて……狼に似た、恐ろしい怪物が現れたんです。ハロルドさんは私を庇って、その怪物に……」
 狼に似た怪物。ジェマは息を飲み、ウィーゼルを見た。
「私、見ました。あの怪物がハロルドさんを飲み込んだ後、獣人の形に変わるのを。まさか……まさか……ウィーゼルさんが、人喰いの怪物だったなんて……」
「てめえ! いい加減なこと言ってんじゃねえぞ!」痺れを切らしたようにウィーゼルが叫ぶ。「小娘! そいつの言うこと真に受けるなよ。そいつは『金眼の魔術師』だ! ハロルドをやった野郎はそいつがけしかけたんだ!」
 ジェマは振り返りエイダを見る。灰色の目が不安げに揺れ、ジェマを見返す。
「ジェマ、行きましょう。早く」
 エイダが手を差し出す。
 ウィーゼルとエイダのどちらが真実を語っているのか。そんなことはジェマにとってどうでもいいことだった。考える余裕など無かった。
 ハロルドがやられた。怪物に飲み込まれた。ハロルドはここには居ない。力強い言葉でジェマを叱咤してくれる彼は、もう居ないのだ。
 私がオビを連れてホークバレーから逃げ出さなければ。獣人退治など引き受けず、真っ直ぐ帰っていれば。私が余計なことをしなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。
 ジェフリー兄さんになんて報告すればいいのだろう。パーシーはきっと私を恨むだろう。ギルバートさんは弟を失ったことをどう思うだろう。
 私は、私の大切なものを守るために、多くの人から大切な人を奪ってしまった。
 ハロルドの言っていた『覚悟』とは、こうなることを予見しての言葉だったのだろうか。
 エイダに手を取られ、ジェマは抵抗することなくそれに従った。ジェマを引きとめようとするウィーゼルの声が、虚しく森に響く。
 根っからの悪党など存在しない。ウィーゼルは捻くれてはいるが、無闇に人を傷付けることはしない。きっと上手くやっていける。そう思っていた私は、間違っていたのだろうか。

   ☆   ☆   ☆

「ちくしょう、やられた!」
 ようやくオビから解放され、ウィーゼルはぶるぶると頭を振る。ジェマの姿はもう見えない。律儀なことに、オビはジェマが安全に逃げ切るまでウィーゼルを押さえ付けていたのだ。仕事をやり遂げたオビが得意気にふんと鼻を鳴らし、ジェマの後を追いかけようと駆け出した瞬間、ウィーゼルは咄嗟にその灰色の太いしっぽを掴んだ。オビは「ぴゃっ!?」と鳴いて飛び上がる。
「ま、こいつを置いてってくれたのは不幸中の幸いってやつか」驚いたオビが繰り出した鉤爪をひょいとしゃがんで避けながら、ウィーゼルは呟く。「なあオビ、ここは一つ過去のしがらみは置いといて、俺に協力してくれねェか?」
「やだ!」オビは牙を剥いて即答する。「離せ! ジェマの所に帰る!」
「まあ待てって」つい先程まで怪物に怯えて喚いていたことなど忘れ、オビという強力な助っ人を得たウィーゼルはすっかり落ち着きを取り戻していた。「お前だって、ジェマが悲しむ顔は見たくないだろ?」
「お前がハロルドを食べたからだろ!」
「だから違うって! よく嗅いでみろ。違う奴のにおいがするだろ」
 オビは訝しげにウィーゼルに鼻を近付け、くんくんとにおいを嗅ぐ。
「……ほんとだ。よく似てるけど違うや」
「だろ? 俺の他に、俺と同じ力を持った奴がこの森に潜んでるんだよ。あのエイダとか名乗ってる女の仕業に違いねえ」
 オビは状況が飲み込めないのか、うーんと唸りながら首を何度も捻っている。
「でもあの人ごはんくれたよ?」
「お前は前から食い物くれる奴に無防備だよな」
「お目目も金色じゃないよ?」
「奴は魔力を使うときに目が金色に変わるんだ。多分オールンの血が混ざってるんだろうな」
 人とオールンの混血は、しばしば悪魔や鬼に例えられる。人がオールンを魔族と呼び恐れ、オールンが子に人の血が混じることを穢れと考えるためでもあるが、一番の要因はその容姿だ。生まれつき肌が異様に青白かったり、獣人のように犬歯が発達していたり、混血児は通常では有り得ない身体特徴を持って生まれてくる。エイダの目の色が変化するのはその一例だろう。
「じゃ、じゃあ、やっぱりジェマが危ないじゃん!」
 オビはそう言うや否や、慌てて村のほうへ駆け出そうとする。
「だから待てって」
 ウィーゼルが再びオビのしっぽを掴んで引き止めた。オビは「ぴゃっ!?」と鳴いて飛び上がる。
「しっぽ引っ張るのやめろー!」
「エイダは正体を隠してる。すぐに小娘をどうこうするってことは無いだろ」憤るオビを尻目に、ウィーゼルは冷静に言葉を続ける。「時間が無いから手短に言うぞ。よく聞け」
 オビは急かすようにしっぽで地面を叩きながら、ウィーゼルのほうを向いている。
「ハロルドは生きてる。そしてこの近くに居る。まあ、バケモンの腹の中なのは変わらないがな。そこでだ」
 ウィーゼルはずいっとオビに顔を近付ける。オビは不思議そうに首を傾げた。
「俺とお前で、ハロルドをバケモンの腹の中から助け出そう。そうすりゃジェマは喜ぶ。俺も死なずに済む。どうだ。協力する気になったか?」
「やる! お前は死んでもいいけど、ジェマが悲しいのは嫌だもん!」
 物騒な言葉が挟まれたことには目を瞑り、ウィーゼルは満足げににやりと笑った。オビの間抜け具合には度々手を焼かされたが、丸め込むには都合がいい。
「よし、そうと決まれば善は急げだ。作戦を立て……っておい!」
 ウィーゼルの言葉を華麗に無視し、オビは一人森の暗がりへと突っ込んで行く。頭を抱えたくなるが気を取り直し、ウィーゼルもその後を追った。
 やる気があるのはいいことだ。オビの力があれば小細工は必要無い……はずだ。多分。

第三十二話

 異臭を纏った淀んだ空気が肺を満たしていく。熱を持った肉の壁が体を締め付け、粘っこい液体が皮膚をひりつかせる。これは胃液だろうか。
 突然殴られ意識を飛ばしたハロルドが次に目を覚ましたとき、目の前には怪物が迫っていた。何故あのとき、怪物に喰われそうになったウィーゼルを咄嗟に突き飛ばしたのか。今にして思えば馬鹿なことをした。裏切り者の嘘吐き狼など、放っておけばよかったのに。
 ともかく、後悔しても仕方が無い。今はこの危機を脱する術を考えるべきだ。
 胃の中に留まっていればいずれ消化されてしまう。かといって、怪物の体を破って外に出るには膨大な魔力が必要だし、呪いを含んだ体液を浴びることは避けられない。
 抵抗するための魔力が残っていれば、進行を遅らせることは出来る。ホークバレーに戻るまで持てば治療を受けられるが、もし脱出の際に魔力を使い過ぎてしまえば、間に合わなくなるかもしれない。胃の中では怪物の現在地がわからないのも不安だ。既に森の奥まで来てしまっていたとしたら、よしんば脱出出来たとしても、彷徨っている間に呪いが進行してしまう。
 なるべく魔力を温存したまま脱出するにはどうしたらいいか。考えた末、ハロルドは腰に提げていたレイピアを引き抜き、切っ先を肉の壁に突き立てた。怪物の胃壁は重ねたなめし革のように硬く、刃が立たない。構わず何度も繰り返す。
 ごおお、と、怪物の唸り声らしき音が聞こえ、胃壁が大きく波打った。奥にあった胃液がせり上がり、先客である人や獣の骨を押し上げる。よし、これで出られると思った矢先、それらは再び奥へと引っ込んでしまった。まだ刺激が足りないのか。そう考え再び刃を突き立てようとしたハロルドは、ふと違和感に気付いて手を止める。
 ここは怪物の体内だ。光など届くはずもないのに、何故ものが見えるのか。
 胃液によって押し上げられた骨の山が、ぼんやりと赤い光を放っていた。強い魔力を感じる。纏わり付く胃壁を押し退けてよく見てみると、宝石のような赤い欠片が、幾つか骨に引っ掛かっている。
 魔石だ。だが、それに込められた力はあまりにも禍々しい。怨念、怒り、憎悪、あらゆる負の感情を煮詰めて凝縮したかのようだ。
 直感的に理解する。ジェマが廃墟の砦で言っていた『赤い結晶』とはこれのことか。
 回収しておいたほうがいいかもしれない。そう思い、赤い石へと右手を伸ばす。
 その瞬間、静電気に触れたような感触があり、咄嗟に手を引っ込める。何気無くその右手を見たハロルドは、すぐには状況を飲み込めず固まるしかなかった。
「なんだ……これは……」
 結晶に触れた右手の指先が、かさぶたのようなもので覆われていた。先端には黒光りする鋭利な棘。それが自分の爪であり、かさぶたのようなものが鱗であると気付いたハロルドは、思わず悲鳴をあげた。
「くそ、くそ、くそ!」
 完全に冷静さを失ったハロルドは、焦燥に駆られるがまま力任せにレイピアを突き立てる。切っ先が肉に食い込み、黒い液体が滲み出す。胃壁が再び大きく波打ち、内容物がせり上がって来る。ハロルドは攻撃の手を緩めない。
 傷口は怪物の治癒力ですぐに塞がってしまう。上がって来た胃液も逆流までは至らない。もっと強い刺激が必要なのか。刀身に雷を纏わせようとして、寸での所で思い止まる。結晶の影響なのか、呪いの進行は止まらない。今魔力を使えば、即座に呪いに飲まれてしまう。
 何度刃を突き立てたかなど数える余裕も無いが、恐らく二十を越えた辺りで、レイピアの刃がへし折れた。破片が頬を掠めるものの、痛みは感じない。それが恐怖のせいなのか、自らの体が人ならざるものへ近付いているからなのか、ハロルドにはわからない。
 ハロルドは折れた刃をなおも振り下ろし続け、変化した爪で胃壁を引っ掻き続けていたが、やがて腕が上がらなくなり、手を止めざるを得なくなった。呪いによる右手の変化は、肘にまで進行していた。

   ☆   ☆   ☆

 暗がりや茂みの多い森の中とはいえ、怪物の巨体を探すのは難しいことではなかった。ましてや、ウィーゼルとオビは鋭敏な嗅覚を持つ獣人である。捜索を始めて三分も経たない内に、彼らはハロルドを飲み込んだ黒い怪物を見付けていた。
 怪物は腹でも痛いのか、周囲を崖に囲まれた場所に身を隠して唸っていた。恐らく中でハロルドが暴れているのだろう。
「思った通り元気そうだな。それじゃ行くぞ、オビ」
 ウィーゼルの合図を受け、オビはしっぽをしならせて飛び上がる。トカゲのように素早く崖を駆け上るオビの姿が見えなくなると、ウィーゼルも身を隠していた茂みから飛び出した。
 死角から怪物に飛びかかると、巨大な三角形の耳に牙を突き立てる。噛み付く場所はどこでもよかった。奇襲に驚いた怪物が叫び声を上げ、立ち上がる。
「今だ、オビ!」
 ウィーゼルが怪物の額を蹴って飛び退くと同時に、風を切って幾つもの影が降って来る。
 石だ。直径八十センチ程の大きな石の雨が、次々と怪物に襲い掛かる。
 この森には、坑道を掘る際に出た石や土砂が至る所に捨てられていた。オビを味方に付けたとき、ウィーゼルはこの石を怪物に対する攻撃に利用しようと考えたのだ。オビの怪力をもってすれば、大きな石でも小石のように投げ飛ばしてくれるに違いない。直接怪物と戦ったとしてもオビが負けるとは思わないが、ハロルドを救出するという目的を達成するためには、あまり時間をかけたくなかった。
 怒涛の落石攻撃に怪物も堪らずふらつき、周囲に落ちていた石につまづいて仰向けに倒れた。激しく大地が揺れる。
 振動で足を踏み外したのだろう。石の雨に紛れ、「ぴゃーっ!」と情けない悲鳴をあげながらオビが落ちてきた。慌てながらも的確に石を蹴り、近くの木へと飛び移る。オビが蹴った石が、丁度よく怪物の鳩尾に落下する。
 腹への一撃を受け、怪物がえづいた。腹を押さえてのた打ち回り、ごええ、と呻きながら涎を垂れ流す。
 苦しみ悶えていた怪物は、その場にうずくまると激しく吐いた。こっちまで気分が悪くなるような異臭を放ち、怪物の餌となった人骨や獣骨がゴロゴロと撒き散らされる。散々吐いた後、怪物は糸が切れたように倒れ込んだ。
 嘔吐物の中にハロルドの姿を見付けた。今の一撃で怪我でもしたのだろうか。折れたレイピアを握る右腕を押さえ、座り込んだまま動かない。ウィーゼルは異臭を避けるために鼻を押さえながら駆け付ける。
「よう、思ったより元気そうだな」
 茶化すような調子で声をかけると、ハロルドがゆっくりと振り向いた。その表情は呆然としている。
「散々コケにした相手に助けられる気分はどうだ? 悔しくて声も出ないか?」
 ハロルドはすぐに我に返り、反論してくるだろう。ウィーゼルはそう思っていた。碌に礼も言わず、「貴様は僕に隷属している身なのだから助けるのは当然だ」などと言うに決まっている。だが、実際は違った。
 ハロルドは弾かれたように立ち上がり、ウィーゼルの手を掴んだ。その力があまりに強かったので、ウィーゼルは思わず怯む。煽られたことに腹を立て、暴力に訴えて来たのかと身構える。
「助けてくれ……!」
 ガチガチと歯を鳴らし、血走った目を見開いて、ハロルドは訴えてくる。
「助けてくれ! 腕が、腕が……っ!」
「腕がどうしたって?」言われるがままハロルドの両腕を見る。袖が所々破れ、皮膚も胃液で痛んではいるが、折れたり怪我をした様子は無い。「ちゃんと両方付いてるぜ。よく見ろよ」
 半ば呆れたようなウィーゼルの声にはっとして、ハロルドは自分の両手をまじまじと見つめる。その顔に浮かんだのは安堵ではなく困惑だった。なにが解せないのだろう。
 木の上から様子を見ていたオビが降りて来た。首を傾げてきゅーと鳴きながら、ウィーゼルとハロルドの顔を交互に見ている。早く帰ろうとでも言いたいのだろう。
「まあいいや。とにかく早いとこ村に戻るぞ。今度は小娘を助ける番だ」
「彼女になにかあったのか?」
 弱々しい声で、ハロルドが問い返す。どうやら少しずつ正気を取り戻して来ているようだが、あまり刺激しないほうがいいだろう。言葉は慎重に選ばなければ。
「ジェマが悪い魔法使いと一緒に居るんだよ! 早く助けないと危ないよ!」
 ウィーゼルは思わず頭を抱えた。この馬鹿、余計なことを……!
 ハロルドの周囲に青白い火花が散るのを見て、ウィーゼルは思わず飛び退く。
「オビ、僕を連れて行け。彼女を助けるぞ」
「わかったよー!」
「待て待て待て!」
 ウィーゼルはハロルドを乗せ駆け出そうとしたオビのしっぽを咄嗟に掴む。驚いたオビが飛び上がり、振り落とされたハロルドはひらりと地面に着地してウィーゼルを睨む。その眼差しには殺気すら感じる。
「しっぽ掴むのやめろって言ったー!」
 牙を剥いて抗議するオビは無視し、ウィーゼルはハロルドをなだめようと試みる。
「焦る気持ちはわかるがいったん落ち着け。奴は村人に化けてる。すぐに小娘に危険が及ぶことは無いはずだ」
「何故そう言い切れる?」猜疑に満ちた碧眼が向けられる。「今すぐ村に戻られたら困ることでもあるのか? そういえば貴様……」
「殴ったのは悪かったと思ってるよ」ハロルドに指摘される前に、ウィーゼルは投げ遣りな口調で言う。「怪物の腹ん中から助けてやったんだから、それでチャラでいいだろ」
「ふん。おおかた魔術師に寝返って首輪を外してもらおうとでも考えたんだろう。残念だったな」
 図星である。たじろぐウィーゼルに背を向け、ハロルドは改めてオビのほうへ向かう。
「別に止めねェけどよ。そんな胃液塗れのまま村に帰るのか? あの怪物の存在が村人に知られたら、さぞかし大騒ぎになるんだろうなあ」
 ハロルドの足が止まり、振り返る。その目が大きく見開かれている。
「今気付いたのか? まったく、頭に血が昇ってるからそんなことも……」
「ウィーゼル、よけろ!」
 なんのことかわからず、反応が遅れた。視界がさっきより暗くなっていることに気付いたときには、巨大な黒い拳が目の前に迫っていた。近過ぎる。避けられない。ウィーゼルは咄嗟に両腕を突き出す。白い毛皮を纏った巨腕が、黒い怪物の攻撃を受け止めた。
「あっぶね……」
 変身出来たということは、ハロルドが許可したということだ。借りを返したばかりだというのに、また助けられた。
 黒い怪物が涎を撒き散らしながら吠える。空気が震える。
「確かに、こいつを放ってはおけないな」眉間にしわを刻み、ハロルドが怪物を睨む。「ウィーゼル。変身を許可する。一分以内に片付けろ」
「はっ、無茶言ってくれるね」
 首輪が外される。最早ウィーゼルがハロルドに従う必要は無いが、借りを作ったまま逃げ出すのは癪だ。
 体の中で熱が燻ぶる。燃えるような熱さと痛み、凶暴な力が溢れてくる高揚感を伴い、ウィーゼルの体がめきめきと音を立てる。白銀に輝く怪物と化したウィーゼルは、炎を纏った咆哮をあげて黒い怪物に飛びかかる。
 白と黒の獣がぶつかり合い、地面が激しく揺れる。体格は黒いほうがやや大きいものの、ウィーゼルの吐く炎に怯んで全力を出せないようだ。
 ウィーゼルは拳を黒い獣の鼻面に叩き込み、そのまま地面に叩きつける。怪物は鼻血を噴き出しながら一度跳ね、仰向けに倒れて動かなくなった。だが安心は出来ない。怪物は再生能力を備えている。回復して立ち上がる前にトドメを刺そうと、ウィーゼルは怪物に跨り鉤爪を振り上げる。
「やめて!」
 その声が聞こえたのは、まさに怪物の喉が掻き切られようとしたそのときだった。
 誰だ。邪魔をするな。こいつは俺の獲物だ。
 ウィーゼルは声に構わず爪を突き立てようとする。視界の隅でなにかが動き、腕にちくりと痛みが走った。虫に刺されたような不快な痛みだ。それを振り払おうと、ウィーゼルは腕を振る。
 蹴飛ばされた犬のような声が聞こえた。ウィーゼルの腕に噛み付き、振り払われて地面に叩き付けられたのは、坑道の近くで襲いかかってきた鉄兜の獣人だった。
 落下の衝撃で兜が外れている。その顔を見たウィーゼルの動きが止まった。
「そんな馬鹿な……お前は……」
 いつの間にか変身が解けていることにも気付かず、ウィーゼルは呆然と立ち尽くす。
 兜の下にあった顔。それは、かつて彼が生き別れたきょうだいの顔だった。

第三十三話

 ウィーゼルの攻撃が止んだ隙に立ち上がった黒い怪物は、ウィーゼルやハロルドには目もくれず、ぐるぐると唸りながら森の奥へと姿を消した。
 ハロルドは鉄兜の獣人——今は兜は外れているが——を凝視したまま微動だにしないウィーゼルに声をかける。

「そいつがどうかしたのか、ウィーゼ……」

 ハロルドの言葉を遮るように、茂みから何かが飛び出した。風を切る音を聞き、ハロルドは咄嗟に上体を引く。眼前数センチのところを爪が薙ぎ、逃げ遅れた前髪が数本、ぱっと飛び散った。
 ハロルドを仕留め損ねたそいつは、牙を剥いて飛びかかって来た。ハロルドは手近にあった木の枝を拾い、攻撃を受け止める。が、そこそこの太さがあった即席の武器は易々と噛み砕かれ、ハロルドは木の幹に叩きつけられた。

「魔女はどこだ!」

 鉤爪を備えた両手でハロルドを押さえ付け、鋭い牙を見せ付けるようにして、そいつは言う。明るい茶色の毛皮を備えた獣人。鉄兜の獣人の仲間だ。初めて声を聞いたが、女の声だった。

「魔女? 誰のことだ?」

 ハロルドが疑問を口にすると、茶色の獣人は鼻面にしわを寄せた。

「お前たちが一緒に居た女のことだ。お前も仲間なんだろう!」

 獣人の手が、ハロルドの喉にかけられる。ハロルドはぎりぎりと締め付けるその手から逃れようともがくが、人間の力で獣人に敵うはずも無く、無駄に体力を消耗するだけだった。

「魔女の居場所を吐け! じゃないとこのまま……」

「ばあか。首絞めたら話せねェだろうが」

 意識が遠のきかけた時、ウィーゼルの声が聞こえた。
 首から手が離れ、ハロルドは咳き込みながら膝を付く。酸素を貪るように呼吸を整えながら顔を上げると、茶色の獣人がウィーゼルに首根っこを掴まれてじたばたしていた。牙をむき出し、ガウガウ吠えながら背中の毛を逆立てている相手とは対照的に、ウィーゼルは涼しい顔をしている。

「離せ! 魔女の手先め!」

「おうおうずいぶんな言い方だなあ? 兄貴の顔を忘れちまったのか?」

 茶色の獣人の動きが止まり、訝しげな目付きでウィーゼルを見る。においを確かめ、山吹色の目を大きく見開いたかと思うと、くしゃっと顔を歪ませ、逆立てていた毛も落ち着いた。しっぽを振ってこそいないが、剥き出しだった敵意はすっかり消えている。

「久しぶりだな、レイ」

「にい、さん……」

 ウィーゼルが手を離すと同時に、レイと呼ばれた茶色の獣人は彼に抱き付いた。耳を倒し、千切れんばかりにしっぽを振っている。少し離れたところで、鉄兜の獣人がよろよろと起き上がり、その様子を見ていた。

「……これはどういうことだ。説明しろ」

 ハロルドが声を発すると、茶色の獣人は態度を豹変させた。四つ足の姿勢で牙を剥く彼女の前に、ウィーゼルが割って入る。

「話せば長くなるから詳しくは言わねェが、まあ、こいつらは俺の身内だ」

「貴様、はぐれではなかったのか」

 一匹狼という言葉があるが、セルペニアではこれを『はぐれ』と呼ぶ。狼獣人のオスは成熟すると一人立ちして新しい群れを作るのだが、体が弱かったり、狩りが下手だったり、性格に問題があったりなどして群れを作れなかった個体は、はぐれとなって彷徨うことになる。戦争の影響で群れを失い、はぐれとなった獣人も珍しくない。
 人を襲ったり、盗みを働く獣人の多くははぐれである。自然界で危険を冒して狩りをするよりは、人里近くで食い物を漁るほうが断然楽だからだ。
 ホークバレーで盗賊行為をしていたウィーゼルも、そういったはぐれの個体なのだろう。ハロルドはそう思い込んでいた。

「色々あったんだよ」ウィーゼルはおどけたように肩をすくませた。


 茶色の獣人の名はレイ、鉄兜の獣人の名はヘイルというらしい。どちらもウィーゼルのきょうだいで、訳あって生き別れていたという。久々の再会だろうに、ウィーゼルの反応は薄い。獣人の感覚ではこんなものなのだろうか。

「リュンクスはどうした?」

 末っ子の名前だ、と、ウィーゼルは水浴びを終えたハロルドを一瞥して付け加える。

「今のが、リュンクスだよ」

 ためらうように間を空けて、レイが答えた。
 ウィーゼルの表情に動揺は見られない。「そうか」と一言呟いて、手を握ったり開いたりしている。

「ああなったのはいつからだ?」

 ハロルドが質問すると、レイの体が強張り、背中の毛が逆立った。魔女の仲間という誤解は解けたものの、人間に対する苦手意識は根深いようだ。

「いいからさっさと服を着ろ、お前は」

 ウィーゼルが制服を投げて寄越す。乱暴に洗ったらしく、胃酸で痛んだ部分以外にも綻びが出来ている。街へ戻ったらまた新調しなければならないな、などと思いながらも、ハロルドはなにも言わず袖を通した。

「満月の前の、三日月の頃」

 警戒心を露にしながらも、レイは小さな声で答える。
 三日月の頃といえば、三番隊襲撃事件の犯人だと疑われたウィーゼルを追って、ホークバレー近郊の山へ入った日だ。あの日ジェマは魔術師と戦ったと言っていたが、その正体は土人形だった。魔術師の本体は、ウィーゼルの代わりとなる新たな被検体を探していたのか。

「森で鹿を追ってたら、リュンクスが居なくなってて……私たちが見付けたときには、もう……」

 怪物の姿になった弟を、彼らは必死に守ってきたのだという。姿は変わっても大切な家族だ。最初の内は彼も理性を保ち、時折押し寄せる破壊衝動に抵抗していたが、呪いの力が増していくにつれ残虐性を増し、動物や人を見境無く襲うようになっていったらしい。
 呪いによって怪物となった者は、ただ破壊と殺戮を撒き散らすだけの存在になる。殺す為に喰らい、殺す為に壊す。もたらす被害は、害獣や山賊の比ではない。それゆえに、怪物化の呪術は禁忌とされたのだ。
 ウィーゼルという例外も居ることは居るが、皆が皆彼のように適応出来る訳では無い。

「で、魔女とやらを探し出してとっ捕まえて、お前らはどうするつもりだったんだ?」

 苔の生えた岩に腰掛けたウィーゼルが、妙に冷めた口調で問いかける。

「リュンクスをあんな風にしたのはあいつだ。だから、あいつなら元に戻せるはずだって思ったんだ」

「なるほどね」

 足を組み直し、数回軽くうなずいている。弟を助ける作戦でも考えているのだろうか。

「なら、我々の利害は一致しているという訳だ。魔術師を捕らえればジェマを助け出せるし、彼らのきょうだいも救える」

「協力してくれるのか?」顔をしかめながらも、レイの声色は上ずっていた。

「いや。ここは俺らに任せておけ」ハロルドに代わり、ウィーゼルが妹を制する。「リュンクスのこと、頼むぞ」

 きょうだいたちは顔を見合わせ、ウィーゼルに向かってうなずいた。

「よし、そうと決まればさっそく……」

 違和感に気付き、ハロルドは言葉を止める。辺りを見回し、違和感の正体に気付いた時、背筋に悪寒が走った。

「オビはどこだ?」

「あ?」

 ウィーゼルもオビが居なくなったことに気付いていなかったらしい。きょろきょろと辺りに視線を向け、ばっとこちらを振り返る。

「おい、まずいぞ! あいつ一人で行きやがった!」

「くそ……っ」

 ジェマが危機に瀕している状況で、オビが大人しく待っていられるはずはなかった。話し込むハロルドたちに痺れを切らし、一匹で助けに向かったのだ。
 魔術師はどんな罠を張っているかわからない。廃墟の砦で、矢を受けたオビを助けた時のことを思い出す。オビに魔法が利かなくても、傷を負わせる方法はあるのだ。

「急ぐぞ。オビを失う訳にはいかない」

「わかってるよ」

「いや、ちょっと待て」

 駆け出そうとしたウィーゼルが勢い余ってすっ転ぶ。
 文句を言いたそうに口を開きかけたウィーゼルに首輪を嵌め、ハロルドは満足げにうなずいた。

「危なかった。忘れるところだった」

「忘れててもよかったんじゃねーかな……」

「つべこべ言うな。行くぞ」

 一方的に言い放ち、ハロルドは駆け出す。ウィーゼルが文句を言いながらついて来るが、構っている場合ではない。馬を連れて来なかったことを悔いながら、ハロルドは出来る限り急いで森の出口へと走った。
 数十メートル程走った所で突然足の力が抜け、ハロルドはつんのめるように転んだ。地面が柔らかい腐葉土に覆われていた為怪我はしなかったが、何故かすぐに立ち上がることが出来ない。たいした距離を走った訳でもないのに、体が熱を持ち、呼吸が荒くなる。

「なにやってんだよ」

 呆れたようなウィーゼルの声。

「うる、さい。僕に構うな……っ、行け……っ!」

 体が熱い。腕が疼く。嫌な予感がして、右の掌を見る。
 かさぶたのような鱗が、再び浮き上がって来ていた。一度は収まったものの、呪いの影響は消えていなかったのだ。
 ウィーゼルが溜息を吐き、こちらに戻って来る。ハロルドは慌てて鱗の浮いた手を隠した。

「擦り剥いたくらいで泣くなよ? 坊ちゃん」

「黙れ……!」

 呪いに抵抗するために魔力を消費しているせいだろう。焦りとは裏腹に、体に力が入らない。踏ん張りが利かずに再びよろけたハロルドを、ウィーゼルはニヤニヤしながら眺めていた。

「また助けてやろうか?」

「うるさい……。先に行けと……言っただろう……」

「こいつが無けりゃそうするんだがね」首輪を示し、ウィーゼルは皮肉めいた笑みを浮かべる。「どっちにしろ、アンタを連れて行かないといらん疑いを掛けられるんでね」

 否応無く腕を掴まれ、ぐいと引っ張られる。ハロルドは無理矢理立たされ、肩を組まれた。

「離せ」

「強がるなよ。なんならおぶってやろうか?」

 軽口を叩くウィーゼルは、ハロルドの肉体の変化に気付いていないように見えた。あまり意地を張っては、余計に怪しまれる。

「たいして走ってないのにもう息切れか? 人間ってのはつくづく貧弱で嫌になるねェ」

 ハロルドが黙っているのをいいことに、ウィーゼルは好き勝手に愚痴を垂れ始めた。じろりと睨んでやると、しまったと言うように口を噤んで目を逸らす。
 ウィーゼルに肩を貸して貰ったお陰か、少しずつ呼吸が楽になって来た。体の熱も収まり、腕の疼きも消えている。だが、いつ何をきっかけにぶり返すかわからない以上、油断は出来ない。
 事が済むまで持ってくれればいいのだが……。ハロルドの胸中に浮かんだ不安は、消えることは無かった。

第三十四話

 まだ日は高いのに、村の周りにはかがり火が焚かれていた。晴天に火の粉が舞い上がる。
 村人達は農具の代わりに剣や槍、弓と矢筒を持ち、一方向へと進んで行く。その行進を見物しようと、子ども達が窓に張り付いている。

「かいぶつってなに?」

「私も見てみたかったなあ」

 森に人喰いの怪物が現れた。エイダが村人達にそう告げたのは、今から三十分ほど前のことである。普通であればパニックになるか、荒唐無稽な話だと笑い飛ばされるのがオチだが、エイダの言葉を笑う者はおらず、すぐに非常事態に備える集会が開かれた。
 騎士団へ助けを乞おう、という意見が最初に出た。だが、騎士団へ応援を要請しても、援軍が来るより先に怪物が村を襲って来たら終わりだ。そもそも、怪物などというものの存在を信じてくれるかどうかも怪しい。そこで、村の中で腕に覚えのある若者達が集い、怪物退治へ赴くことになった。
 ホークバレー騎士団が白い怪物によって襲撃された事件は、街の外では『騎士団員の過失による火災』として伝わっていた。もし真相が伝わっていれば、村人達も冷静ではいられなかっただろう。

「みんな! こっちへ!」

 エイダの誘導に従い、子ども達は窓から離れて地下室へと向かう。ジェマもそれに続いた。市街地で戦闘が起きたときの備えとして、セルペニアの各家庭にはこういった地下室が設けられている。土と石で囲まれた空間は暗く、少し肌寒い。

「夕方に、ホークバレー行きの馬車が村を通ります。それまで辛抱してください」火を灯したランプを天井に下げながら、エイダは静かな口調で言う。「こんなことになって、申し訳無いですけど……あなたが無事に帰れることを祈っています」

「エイダが謝ることじゃないですよ」

 ジェマはエイダに向かって微笑みかけた。その笑顔はぎこちないものだった。

「あの、こんな時になんなんですけど……」エイダが声を潜め、ジェマに耳打ちする。「『金眼の魔術師』というのは、一体……?」

 ジェマは答えるべきか迷った。だが、怪物の存在が知られてしまった以上、隠すのは却って不安を煽るような気がした。

「ウィーゼルを、怪物にした人物です」

 声が震える。体も。寒さのせいだけではない震えを抑えるように、エイダが肩を抱いてくれた。

「彼が怪物になるということを知っていて、なぜ一緒に行動を?」

 エイダの声色に責める様子は無く、風の無い水面のように穏やかだ。

「魔術師が、ウィーゼルを回収しようと狙っていたから……ハロルドが、監視役を頼まれたんです。首輪で力を抑えているから、大丈夫だって……」

「騎士団の方が、そう言ったのですね?」

 妙に確信めいた言い方だ。まるで予想していたかのように。

「あの、エイダ」

「はい」

「本当に、ハロルドを襲ったのはウィーゼルだったんでしょうか。なにか、見間違えたってことは……」

 エイダは哀れむような視線をジェマに投げ、ひとつ息を吐いて口を開いた。

「そんな怪物が他に居たとしたら、もっと被害が出ているはずです。信じたくない気持ちは、わかりますが……」

 ジェマは口を噤むしかなかった。確かに、村人達はエイダの話を聞くまで怪物の存在を知らなかった。どんなに深い森だろうと、人を一飲みにするような怪物を隠し続けることは出来ない。
 だが、ウィーゼルが嘘を吐いていたとは思えない。あのとき、彼は何かに怯えていた。『奴はまだ近くにいる』。『奴』とは、一体誰のことを言っていたのだろう。怪物ではないのだとしたら、金眼の魔術師? ウィーゼルはエイダがその魔術師だと言っていた。何故そう思ったのだろう。彼女の目は、金色ではないのに。
 浮かびかけた疑念を、ジェマは頭を振って振り払う。これ以上誰かを疑いたくない。

「……オビ」

 不意に、脳裏にオビの姿が浮かんだ。

「そうだ、オビ。迎えに行かないと……」

 エイダに腕を引かれるまま、置いて来てしまった。すぐに追い付いて来ると思っていたのに、まだ現れない。道に迷っているのだろうか。お腹が空いて動けないのかもしれない。

「ジェマ!」

 ふらふらと地下室の出口へ向かうジェマの手を、エイダが掴んだ。

「外に出るのは危険です。ここに居てください」

「でも、オビが……」

「私が探して来ます。あなたはここを動かないで。いいですね」

 ジェマがうなずき、子ども達が集まっている壁際に腰を下ろすのを確認して、エイダはほっとしたように表情を緩めた。

「大丈夫。すぐに戻ります」

 地下室を出て行く彼女を、ジェマは茫洋とした眼差しで見送っていた。


 エイダが出て行ってから、どれくらい経っただろう。日の光が届かない地下では、時間を知る術は無い。
 子ども達は肩を寄せ合い、すやすやと眠っている。一人の少年を除いて。

「どうしたの? トイレ?」

 ジェマが声をかけると、出口へ続く階段を登っていたその子はびくっと体を強張らせ、ばっとこちらを向いた。自分以外は皆寝静まっていると思っていたのだろう。その少年は、ジェマが始めてエイダの家に招かれたとき、オビのしっぽを引っ張った悪戯っ子だった。

「外は危険だって、エイダ先生が言ってたでしょ」

「うっせーな」彼はぶっきらぼうに言い、ジェマを睨む。「オレはエイダ先生を助けに行くんだ。怪物なんて怖くねえや」

「ダメだよ。もし君が怪我したら、エイダ先生は悲しむと思うよ」

 子ども達が目を覚ますのが、視界の端に見えた。

「じゃあアンタが行けよ」

 少年が階段を降りて来る。ジェマは思わず後退った。少年の表情は険しい。

「アンタ騎士なんだろ。なんで先生を一人で行かせたんだよ」

「よせよ」茶髪の少年が歩み寄り、悪戯っ子の肩に手を置いた。「その人を責めたってしょうがないだろ」

「なんだよ、一つ年上だからって偉そうに」

「なんとでも言えよ。とにかく、皆の所へ戻れ」

「命令すんな! オレはエイダ先生を助けに行くんだ!」

 激昂する相手とは対照的に、茶髪の少年は至って冷静だ。

「お前が行ったって、足手まといになるだけだろ」

「なんだと!」

 悪戯っ子が茶髪の少年に掴みかかったそのとき、地面が揺れた。さほど大きな揺れではなかったが、積もっていた埃や壁の土がぱらぱらと落ち、子ども達が悲鳴をあげる。揺れはすぐに収まったが、子ども達は怯え切り、泣き出す子も居た。さっきまで先生を助けると息巻いていた悪戯っ子も、その場に座り込んで震えていた。

「しっかりしろ。大丈夫だ」

 茶髪の少年が悪戯っ子を立たせ、皆の所へ連れて行く。泣いている子には大丈夫だから安心しろと声をかけ、不安がる仲間達に気丈な笑顔を見せた。
 その様子を、ジェマはただ立ち尽くして眺めていた。部外者の自分が同じことをしたとしても、こんなふうに皆を落ち着けさせることは出来ないだろう。

「君は怖くないの?」

 仲間の非礼を詫びに来た彼に、ジェマは問いかけた。

「怖いよ」茶髪の少年はそう言って笑う。「でもさ、俺まで怖がってたら、こいつらを守ってやれる奴が居なくなるだろ。俺は母さんも妹も守ってやれなかったから……こいつらは、ちゃんと守ってやりたいんだ」

 彼の手は、震えていた。怖くないわけがないのだ。私は、なんて馬鹿な質問を。
 水滴が頬を伝う感覚があった。茶髪の少年がぎょっとしたような顔をして、ジェマの顔を覗き込む。

「ご、ごめん! アンタが頼りないって言ってるんじゃないんだ、俺はただ、その……」

「ううん、違うよ。気にしないで」ジェマは涙を拭き、顔を上げる。「私、大事なことを忘れてた気がする。あなたを見てたら、思い出せたよ。ありがとう」

「そ、そっか」

 少年は気恥ずかしげに頬を掻き、視線を泳がせる。

「私、やっぱり行くよ。オビを迎えに」

「そっか。行くのか……。騎士団の人にこんなこと言うのも変だけど、気を付けて」

 ジェマは少年に微笑みかける。今度は、努力せずに笑うことが出来た。

「ありがとう。皆のこと、お願いね」

「おう! 任せとけ!」

 少年の頼もしい笑顔に見送られ、ジェマは地上へ続く階段を登った。
 居間に置きっ放しにしていた剣と盾を持ってエイダの家を飛び出したジェマは、目の前に現れたなにかにぶつかって出鼻を挫かれた。尻餅をつき、何事かと上げた顔に生温い風が当たる。思わず出そうになった叫び声は、相手の姿を見るなり引っ込んだ。

「あ、あれ?」

 ジェマに鼻を近付けぶるぶる言っていたのは、栃栗毛の大きな馬だった。宿に繋いでいたはずの、ハロルドの馬だ。大きな黒真珠のような目が、ジェマの顔を覗きこんでいる。

「なにかの拍子に縄が外れちゃったんだね」

 自分の主人がもう居ないことを知る由も無い彼女は、早く乗れ、と言わんばかりにジェマに顔を向け、前足で地面を掻いている。喋ることは出来ないまでも、主人によく似た強引な主張だ。ジェマは少し迷ったものの、森へ行くなら途中でオビに会うかも知れないと思い、その背に身を任せることにした。
 ジェマが跨ると同時に、馬は全速力で駆け出した。ジェマは振り落とされないように、必死に彼女の首にしがみ付く。お尻が痛い。
 前方に煙が上がっていた。村人たちが怪物と戦っているのだろうかと思ったが、森のある場所からは少し外れている。ジェマの疑問を感じ取ったかのように、森へ向かっていた馬は進路をそちらへ変えた。
 雷のような轟音が、ジェマの耳をつんざく。思わず手を離してしまい、ジェマは馬の背から転がり落ちた。幸い落ちたところは柔らかい草むらで、掌と膝を軽く擦り剥いただけで済んだ。
 乗り手が居なくなったことに気付いた馬が駆け戻って来る。しかし、彼女はジェマから数メートル離れた位置で足を止めた。大きな黒い目が、ジェマの背後を見ている。ジェマも釣られてそちらに目を向け、「あっ」と声を上げた。
 草の海に浮き沈みする灰色のしっぽ。オビだ。風下に居るジェマの存在にはまだ気付いていない。

「オビ!」

 ジェマが手を振りながら駆け寄ると、オビはぴょこんと草むらから顔を出し、ぱあっと無邪気な笑顔を浮かべた。
 鋭い牙の並ぶ大きな口を、真新しい血に染めながら。
 心臓が止まったかのような錯覚に、ジェマは息を詰まらせる。
 オビの足元に人が倒れていた。肩から血を流し、ぴくりとも動かない。

「なんて、ことを……」

 虚ろな声を漏らすジェマを、オビは不思議そうに眺めている。そんな彼の横をすり抜け、ジェマは倒れている人物へと駆け寄った。

「エイダ……」

 間近で見ても、その手で触れても、実感が付いて来ない。視界が滲む。ジェマは唇を噛み、エイダのそばにしゃがみ込む。微かだが、まだ息がある。脈も。
 近付く気配に、ジェマははっとして顔を上げた。オビがゆっくりと歩いて来る。

「来ないで!」

 咄嗟に叫んでいた。オビはびくっと体をすくめ、足を止めた。
 なにか止血に使える物は無いかとポケットをまさぐると、ハンカチがあった。長さが足りないので、口で引き裂いて即席の包帯を作る。傷口に布を巻き付け、これ以上の出血を防ぐことは出来た。だが、まだ意識は戻らない。
 ここに居たら、血のにおいで肉食獣を招き寄せてしまうかもしれない。急いでエイダを村に連れ帰らなければ。しかし、ジェマ一人の力では怪我人を馬まで運ぶことは出来ない。そうだ、オビに手伝って貰えば……。
 顔を上げたジェマの視界に、オビの姿は無かった。何度名前を叫んでも、返事は無い。

「オビ! オビ! どこに居るの!?」

 乾いた風が草むらを揺らす。ジェマの声に答えるのは、こだまだけだった。

第三十五話

 普段着に武器を持っただけの十数名の若者達が、ボロボロの制服を着たハロルドに呆気に取られたような視線を向けていた。若者の一人がハロルドを指差し、震えた声を出す。

「あ、あんた……怪物に喰われたはずじゃあ……」

「なんのことだ?」

 ハロルドはなんでも無い風に問い返す。怪物に喰われたのは事実だが、それを認めてしまうと色々面倒なことになりそうだったからだ。

「なんのことだじゃねえよ! う、後ろのそいつが怪物になって、あんたを飲み込んだって……エイダ先生が言ってたんだ!」

 後方をちらりと見やると、ウィーゼルが呆れ返った表情を浮かべて肩をすくめていた。

「こいつが怪物に? 馬鹿を言うな。こいつはただの盗賊だ。そんな能力は持っていない」

「エイダ先生が嘘を言っているとでも言うのか!」

 槍を握り締めた青年が、顔を真っ赤にして憤慨する。何故「先生」なのかは知らないが、余程信頼を集めているのだろう。

「熊か何かを見間違えたんだろう。どいてくれ。先を急ぐんだ」

 横をすり抜けて行こうとするハロルドの手首を、別の青年が掴む。

「わかったぞ。お前、怪物の仲間が化けてるんだろう。そうに違いない」

「は?」

 思わず間抜けな声が出てしまった。次の瞬間、ハロルドは腹に鈍痛を受けてよろめいた。続けざまに脇腹に蹴りを喰らわされる。膝を折った所に、追撃と罵声。

「俺達を騙そうったってそうはいかねえぞ!」

「正体を現せ!」

 状況が掴めないが、下手に反撃すればいらぬ誤解を生みかねない。ハロルドは体を丸め、群衆の興奮が収まるのを待った。
 唐突に、暴力が止んだ。ハロルドを囲む群衆の目が、一点に集中している。ある青年が、ハロルドを指差して叫ぶ。

「な、なんだ……その腕は……!」

 体を起こしたハロルドの視界に、猛禽類の足のような巨大な腕が映り込んだ。それが自分の腕だと気付いた瞬間、一気に血の気が引く。

「正体を現したな、化物め!」

「早く殺せ!」

 今にもひっくり返りそうなその声に顔を上げたハロルドの目の前に、白刃が迫る。体は動かなかった。
 乾いた音と共に、剣が宙を舞う。どよめく人々。ハロルドの視界には、村人達の前に立ちはだかるウィーゼルの背中が映っていた。

「どうした? 俺達を退治するんだろう。かかって来いよ」鋭い牙を見せ付けるように笑いながら、ウィーゼルは一人ずつ順番に視線を向ける。「そこのお前も。お前も。俺達を殺したいんだろ。さっきまでの威勢はどうした? さあ、続きをやろうぜ」

「よせ、ウィーゼル」

 舌打ちが聞こえた。ウィーゼルが冷めた視線で振り返り、溜息混じりに言う。

「そんなナリで話を聞いて貰えると思ってんのかよ」

 ハロルドは鱗に覆われた自分の腕を一瞥し、ゆっくりと息を吐き、胸に手を当てる。

「僕はまだ、心まで怪物になってはいない。貴様もそうだろう」

「さあね」ウィーゼルの顔に皮肉めいた笑みが浮かぶ。「俺は元々ケダモノだからよ」

 群衆にぎらついた目を向けるウィーゼルを再び制止しようとしたハロルドだが、その必要は無かった。
 村人達の後方から、草を掻き分ける音が近付いてくる。おーい、おーいと叫びながら駆けて来るのは、白髪頭の老人と、その付き人らしいフードを被った男だった。

「そ、村長! なんで!?」

「危ないですよ! 来ちゃダメですって!」

 若者たちが村長を止めようと声を張り上げるが、聞こえていないらしい。仕方無く、二人の青年が村長のもとへ赴く。二言、三言言葉を交わした後、彼らは血相を変えて戻って来た。

「皆、大変だ! 俺たちが留守の間に、村が山賊に襲われてるらしい!」

「なんだって!?」

「怪物退治は後だ! すぐ村へ戻るぞ!」

 言うや否や、彼らは各々の武器を握り直し、村へ続く道を戻って行った。

「山賊だと……? くそ、こんなときに……」

 腕が疼く。まるで別の生き物みたいに、今にも勝手に暴れ出しそうだ。体が熱を持ち、汗が滲む。呪いの進行はハロルドの予想よりも早い。魔術師からジェマを助け出すだけでも厄介なのに、山賊の相手までしていたら手遅れになってしまう。

「リュンクスの腹の中で移されたんだな」ウィーゼルの声色に驚いた様子は無い。

「気付いて……いたのか……」

「隠せてると思ってたのか?」

 ハロルドはウィーゼルから目を逸らした。すると、若者達に知らせを持って来た村長と付き人の姿が視界に入る。彼らと共に村へ戻ったのではなかったのか。完全に油断していた。
 村長は悠々とこちらに近付いて来る。ハロルドは咄嗟に腕を隠そうとするが、最早ごまかせる範囲ではなくなっていた。変異は腕から肩を伝い、顔にまで鱗が浮いて来ている。

「見せてみなさい」

 かけられたのは聞き覚えのある声だった。老人の声ではなく、若い男の気だるげな声だ。まさかと思いながら顔を上げたハロルドは、思わず目を見張った。
 白髪頭の老人の姿は無く、目の前にはホークバレー騎士団三番隊の隊長、サディアスが居た。

「サディアス……殿? どうして……」

「ジェフリーが、お前達を迎えに行くと言って聞かなくてな」

 隣に居た青年がフードを外す。隠れていた傷痕と青い右目が露になり、ハロルドは更に息を飲んだ。

「兄上……」

「この辺りを調べていた部下から、例の魔術師と同じ魔力反応が確認されたと報告があった。私はそれを調べに来ただけだよ」

 部隊を派遣すれば住民が不安がる。団長自ら赴くとなれば尚更だ。そこで、魔法犯罪捜査の責任者であるサディアスが調査に乗り出すことになった。ギルバートは騎士団員ではないが、荒事が得意ではないサディアスの護衛として、ジェフリーに頼まれて同行したという。

「護衛なんて必要無いって言ったのに……。ジェフリーが決めたことだから仕方無いけど」

「少女に投げ飛ばされる貴様では、街を出た途端に野犬の餌食になるのが目に見えていたからな」

「……黙れよ」

 以前サディアスがギルバートに対して言った「裏切り者」という言葉。それがどういう意味なのかはハロルドには知る由も無いが、二人の関係が良好ではないことは伺える。ウィーゼルのことを任されたときにも思ったが、団長の人選基準はどうなっているのだろう。
 サディアスは銀色の前髪をかき上げながら、ハロルドの体をまじまじと見つめる。距離が近かったので、ハロルドは思わずたじろいだ。

「なるほど。この程度なら……」

 サディアスは提げていた鞄から小瓶を取り出し、ハロルドに差し出す。

「……これは?」

「聖水だ。初期段階の呪いならこれを飲めば治る。ただ、しばらく魔法が使えなくなるから注意しなさい」

 ハロルドはギルバートの顔を伺う。兄はこちらを見てはおらず、腕を組んで空を眺めていた。兄が咎めないのなら、悪いものではないのだろう。ハロルドは恐る恐る小瓶を受け取り蓋を開け、一気に飲み干した。無味無臭の、普通の水のようだ。本当に効くのだろうか。

「完全に治るには少し時間がかかる。ところで、竜と見習いの少女はどこに?」

 冷たい光を宿す金色の目に射抜かれ、ハロルドは動揺した。

「成り行きで獣退治を頼まれてな。ガキどもなら村に置いて来た」ウィーゼルが機転を利かせてサディアスに答える。

「獣退治とは、村人達が言っていた怪物とやらのことか?」代わってギルバートが質問を投げる。

「ただのでかい熊だよ」

「死体はどこにある?」

「死体が必要なのか?」

「質問しているのはこちらだ」

 隻眼に睨まれ、流石のウィーゼルも口ごもる。

「森の奥に逃げ込まれ、取り逃がしました。ですが、すぐに人里に被害が及ぶことは無いかと」

「らしくないことを言うんだな、ハロルド」ギルバートはハロルドに向き直る。「獲物を逃した割には、ずいぶん落ち着いているようじゃないか」

 心臓の音がやけにうるさい。兄に残された右目は全てを見透かしているように見えた。
 森の奥に潜む怪物。ウィーゼルのきょうだい。ハロルドはその存在を兄に打ち明けることは出来なかった。兄を欺くことへの罪悪感に押し潰されそうになりながらも。

「まあ、いいだろう」ギルバートは静かに呟き、視線を外す。「今は当初の目的を達成するのが最優先だ。わかっているな、ハロルド」

「はい……」兄の言葉にうなずきかけ、はっとする。「そうだ、村に山賊が……!」

「嘘に決まってるだろ」サディアスが冷めた声で言う。「厄介なことになってたみたいだから、機転を利かせてあげたんじゃないか」

 ハロルドは胸を撫で下ろすと同時に、少しむっとした。

「さて、この後はどうする」ギルバートはサディアスへ話を向ける。「村へ戻るとなると、また面倒なことになるぞ」

「彼らのことか?」ハロルド達を一瞥して、サディアスが言う。「先にホークバレーに戻って貰えばいいじゃないか」

「そういう訳にはいきません!」

 怪訝な目を向けるサディアス。ハロルドは続ける。

「彼女達を連れ帰るのは、自分が団長から賜った任務です。それを途中で放り出すなんて」

「お前の任務は終わった」静かに断言するギルバートの声。

「それは、どういう……?」

「訊くまでもないだろう」兄は冷徹に答える。「剣も持たず、魔法も使えない。今のお前になにが出来る?」

 ハロルドは奥歯を噛んだ。兄の目を直視出来なくなり、うつむきそうになる。
 そのとき浮かんだのは、昨夜、宿屋でジェマが口にした言葉だった。オビが人智を超えた力を持つ存在と知りながら、自分が無力な人間だと自覚しながら、彼女が言った言葉。

『この子を見捨ててしまったら、なにか大事なものを失ってしまうような気がしたんです』

 ハロルドは顔を上げ、真っ直ぐに兄の目を見据えた。

「彼女を迎えに行くのは、僕の役目です」

 ギルバートの右目が、僅かに見開かれた。兄の顔に驚きが浮かぶのを見たのは、ハロルドの生涯で初めてのことだった。次の瞬間、ギルバートの表情は薄い微笑みに取って代わる。

「以前のお前はもっと賢かったんだがな」

「水を差すようで悪いんだけど」片手を挙げ、口を挟んだのはサディアスだ。「あの村に彼女達は居ないよ」

「え?」ハロルドは思わず聞き返す。

「実はここに来る前に、一度村へ寄ったんだ。周辺の情報を聞き出す為にね。でも、村に残っていたのは老人と子どもだけ。そこに彼女達の姿は無かった」

「やっぱりな。あの小娘が大人しくしてる訳無かったか」眉間を押さえ、ウィーゼルが盛大な溜息を吐く。

「村に残っていた子どもの話によれば、エイダという人物を追って出て行ったらしい」

 サディアスの口からその名が出た瞬間、ハロルドの胸がざわついた。連れ去られたのではなく、追って行った。そうだ、彼女はエイダの正体を知らない。

「どこへ行く、ハロルド」

 兄に呼ばれ、駆け出そうとしたハロルドは足を止める。

「腹を括ったところで、今の貴様が無力なことに変わりは無い」

「ですが……!」

「勘違いするな」青い右目が鋭く光る。「エイダには無免許で回復魔法を使用した疑いがある。容疑者を捕まえる権限を持つのは、この中で貴様しか居ない。俺がなにを言いたいのか、わかるな」

 サディアスは三番隊の隊長という立場だが、彼らの仕事は専ら事件の捜査であり、逮捕権は持たない。魔法犯罪においても、実際に現場に赴き犯人を捕まえるのは四番隊以下の者達の仕事だ。ギルバートは騎士団員ではないので、もちろん除外される。この場でエイダを——『金眼の魔術師』を捕まえることが出来るのは、ハロルドだけだ。

「いい面構えになったな」顔を上げた弟を見やり、ギルバートは満足げに笑う。「ではそこの白い狼、案内を頼むぞ」

「え、俺?」一瞬遅れてウィーゼルが耳を立てる。

「何処へ向かったのかわからんのだから、においを追って貰うしかないだろう」

「はいはい、わかりましたよ……」

 ウィーゼルはごねることもなく、素直にギルバートの命令に従った。意外に思っていると、彼はハロルドに近付いて耳打ちする。

「アンタの兄貴、笑った顔が一番怖いな」

 口には出さなかったが、ハロルドはその言葉に全面的に同意した。

第三十六話

 エイダの本当の名はアデラという。その名を呼ぶ人はもう居ない。父も、母も、親代わりだった師も、もうこの世の者ではないからだ。
 アデラは両親の顔も名前も、どこの何者なのかも知らない。自分がどうやって生まれたのかも、何故赤ん坊のときに師の元に引き取られたのかもわからない。『過去に捕らわれてはならない。未来のことを考えなさい』というのが師の口癖だった。

 バックロック魔術大学の教授であった師と共に、アデラは『霊獣』についての研究をしていた。霊獣とは、長く生きて強力な魔力を得た獣のことで、古い時代には神として崇められていたという。不老不死の体と高い知能を持ち、人に災いと幸福をもたらすと言われているが、竜と同様、その存在は架空のものとされていた。

 普通、魔法を扱えるのは人間とオールンだけだが、生き物は元々ある程度の魔力を持っており、不足した魔力は睡眠や食事などによって補うことが出来る。だが、肉体に蓄えられる魔力量には限界があり、個体差も大きい。伝承によれば、長い歳月を経て、生物として持てる魔力の限界を超えたとき、獣は霊獣へと変わるのだという。

 突然変異によって膨大な魔力を蓄えられる器官が発生するという説、強い魔力に晒され続けることで影響を受けるという説、高い魔力を持つ生き物を喰うことで変異するという説。その他諸々。師は様々な突拍子も無い説を唱え、実験を繰り返したが、どれも決め手に欠け、時間と金が浪費されていった。怪しげな実験を繰り返す彼らは、何度も大学から追い出されかけた。その度に、アデラは謝罪が苦手な師に代わり、何度も頭を下げた。

 そんな酔狂な研究をしているから、いつまで経っても出世出来ないのだ。そう周囲に陰口を叩かれながらも、師は自分の研究が世の中の為になると信じていた。霊獣の実在を証明し、霊獣化のメカニズムを解明すれば、人は病や死に怯える必要が無くなる。その信念は、他人からすれば狂気の沙汰に見えたことだろう。


 アデラが十六歳の誕生日を迎えたその日、長年滞っていた研究は大きな一歩を踏み出すことになる。特殊な技法で作った人工魔石を実験用のネズミに与えた所、ネズミの体の一部に変化が現れたのだ。二人は歓喜のあまり、子どものようにはしゃいだ。

 だが、それは彼らが求めた力ではなかった。異常に発達した骨と筋肉、小動物が持つには余りある刃のような鉤爪、同じケージに入っていたネズミを見境無く喰い殺す残虐性。ケージの中で繰り広げられる阿鼻叫喚の殺戮劇を呆然と見つめる師の後ろで、アデラは耳と目を塞いだ。怪物と化したネズミはその後、黒い血を吐いて絶命した。

 のちに、師が用いた技法は遥か太古に封じられた呪術だと判明した。実験の過程で、偶然それを再現してしまったのだ。騒ぎを聞きつけた誰かが通報したことで、師はレプティルハートにある王宮騎士団本部への出頭を求められた。
 しかし意外なことに、師は特に罰を受けることもなく数日でバックロックに帰って来た。奇しくも当時はゴラド王国との戦争が激化していた時期であり、犯罪者に構っている余裕が無かったのだろうとアデラは考えた。例え故意でなくても、禁術の行使は重罪である。そのことは彼女も理解していたが、あえて目を逸らした。

 師の様子がおかしくなったのはそれからである。アデラは研究室から遠ざけられ、師と顔を会わせるのは僅かな時間だけとなった。まれに食事を共にしても、言葉を交わすことは無かった。師は殺気立ったようなぴりぴりとした雰囲気を匂わせ、分厚い眼鏡の奥にある目は血走り、いつも濃い隈を作っていた。気遣う言葉をかけることも出来ず、アデラは日に日に憔悴していく師の姿を見ていることしか出来なかった。

「喜べ、アデラ!」ある日、研究室の扉を開け放って師は言った。「俺達はやっと英雄になれるんだ!」

 一週間近く研究に没頭していたせいか、師の体からは死体のようなにおいがした。その一方で、痩せこけた顔に浮かんだ表情は誇らしげで、落ち窪んだ目はキラキラと輝いていた。

 その数日後、ゴラド軍に占領されていたタロンフォードがセルペニア軍によって奪還され、程無くして戦争が終わったことが告げられた。
 勝利に沸く人々の中に師の姿は無かった。彼は終戦の知らせが届くと同時に、アデラを置いて行方を眩ませたのだ。研究室に散乱していた膨大な資料と共に。アデラの手元には一葉の手紙と、金庫の中に収められた現金が残された。

『この手紙を君が読んでいるとき、私はもう居ないだろう』

 月並みな書き出しで始まったその一文を読んだ瞬間、アデラの頬を涙が伝う。向き合うことを恐れ、目を逸らし続けてきた現実を突き付けられた気がした。手紙の文章は、否が応にもアデラの目に飛び込んで来る。

『私は取り返しの付かない過ちを犯してしまった。英雄になどなりたくなかった。私はただ、』

 所々インクが滲んでいる。ただでさえ癖の強い文字が、急いで書いたせいでミミズがのた打ち回った痕のようになっていた。

『私はただ、君を愛していた。君の為に、立派な父親になりたかった。君が周囲と違う生い立ちのせいで仲間外れにされないように。胸を張って生きて行けるように。けれどどうやら、私に出来ることはもう無いようだ。それが残念でならない。愚かな父を、どうか許して欲しい。この手紙を読み終わったら、すぐにここを出て遠くへ行きなさい。出来るだけ遠くへ。金庫の中に、僅かばかりの蓄えがある。せめて、君の未来が明るいものであることを願っている』

 アデラは幼い頃から、父親代わりの師の言うことには忠実に従って来た。彼は変わり者ではあったが、優れた魔術師であり、社交的ではなかったが人に優しかった。人格者ではないが、決して人を裏切らない人だった。師について行けば、道を踏み外すことは無い。私の道は彼が導いてくれる。そう思っていた。

 手紙に従い、アデラは金庫の現金を鞄に詰めてバックロックを後にした。師が示してくれた道はそこで途切れていた。ここから先は、自分で進路を決めなくてはならない。当ても無く西へ向かった彼女はエイダと名乗るようになり、各地を転々とした後、やがてホークバレー辺境の村に落ち着くことになる。

 かつて豊富にあった鉄鉱石は採り尽くされ、村は困窮していた。エイダは鉄を採ることしか知らなかった村人たちに農耕を教え、読み書きを教えた。家を建て、親を失くした子ども達を引き取って育てた。師が自分にしてくれたように、生きる術を彼らに与えた。いつしか彼女は「先生」と呼ばれるようになった。


 その男が現れたのは、そんな折だった。

「私は先の戦争において、君の師に命を救われた者だ」

 自らについてそう語った男は、顔の半分を包帯で覆っていた。仲間を庇った際に負った傷があるのだという。

「君には、彼が亡くなった理由を知る権利がある」

 男の口から語られたのは、師の研究が兵器として利用されたことと、その兵器がもたらした恩恵と災いについての話だった。
 師の研究——『霊獣』の研究の過程で、偶然見付けてしまった古の禁術。圧倒的な軍事力を擁するゴラド軍に苦戦を強いられていたセルペニア軍にとって、それは忌むべき力というよりは、神が差し伸べてくれた救いの手に思えたのだろう。軍の司令部である王宮騎士団は禁術を行使した師を罰しない代わりに、資金を与えて研究を続けるよう促した。師が本来望んでいた『人を助ける力』としてではなく、『人を殺す兵器』を作らせる為に。

 その結果、セルペニアは苦しい戦況を覆して勝利した。だが、その代償は大きかった。かつては神とも称された力を振るう『兵器』は、人が扱うには余りにも強大過ぎたのだ。

 終戦後、師は全ての罪と責任を負い、自らの研究資料と共にこの世を去った。禁術によって生み出された兵器もまた、王宮騎士団によって秘密裏に処理されたという。

「あの兵器は多くの犠牲を出した。敵にも、味方にも。森を焼き、川を濁らせた。だが、あの兵器が無ければ、私はゴラドの機械兵の錆付いた腕で殺されていた。同じ境遇の者なら理解してくれるだろう。彼は紛れも無く英雄だ。戦犯などではない」

 男がなにを言おうとしているのか、エイダにはわかっていた。間違った道へ進もうとする師を止められなかった後悔と、王宮騎士団への疑念。それらはエイダの心に影となって横たわっていた。その影を見つめるのが、彼女は怖かった。目を背け、光を求めた。いつしか影は闇となり、彼女が望んでいたものを覆い隠してしまった。

「彼の名誉を取り戻すのは、君の責務だと私は思っている。強制することは出来ないが、協力は惜しまないつもりだ。次に会うときまでに考えておいて欲しい」

 エイダがその男の姿を見たのは、それが最初で最後だった。包帯で隠れていたせいもあり、男の顔はよく覚えていない。ただ、深い青色の目だけが、やけに鮮明に脳裏に焼き付いている。別れ際向けられたその右目は、エイダの心の闇をも見透かしているようだった。


 声が聞こえた。誰かが誰かを呼んでいる。その声に応える者は居ない。
 エイダは目を開いた。肩に布が巻かれている。かなり血を失ったらしく、体はぴくりとも動かない。意識はまだぼんやりしているが、自分が命を拾ったのだということは理解出来た。
 オビを呼び続けていたジェマが、小走りで駆け付ける。その顔は今にも泣きそうだった。

「エイダ……よかった」

 その一言で堰を切ったように、ジェマの目から涙が溢れる。彼女が泣く理由を、エイダは知らない。エイダが目を覚まして安心したから? オビが居なくなって不安だから? どちらでもあり、どちらでもないのだろう。人の心が一言で表せるなら、なにも苦労はしないのだ。

「待っていてと言ったのに。あなたという人は……」

 ジェマの涙を拭いてあげたかったが、指先一つ動かせない現状ではそれすら叶わない。

「ごめんなさい、私、騎士なのに……あなたを一人で行かせて……そのせいで、こんな……っ」

「ジェマ」

 次々溢れる涙を袖で拭いながら、ジェマがくしゃくしゃになった顔を上げる。エイダは心許なげに揺れる瞳を見つめ、微笑みかけた。

「私は大丈夫だから……オビを、迎えに行ってください」

「でも……」

「あの子には、あなたが必要だ」

 本心を言えば、ジェマとオビの仲がどうなろうと知ったことではなかった。魔法で傷を癒して逃亡する為に、ジェマがここに居ては邪魔になる。オビを引き合いに出せば、追い払うには丁度いい口実になるだろうと思った。

「それでも……出来ません」ジェマは首を振った。「あなたを置いては行けない」

「オビのことはもう、どうでもいいと?」

 ジェマは激しく頭を振る。涙が散り、昼下がりの陽光に光る。

「私には出来ない。オビを見限ることも、あなたを見捨てることも。私には……」

 ジェマのかたわらに控えていた馬が、ぴくりと耳を立てた。顔を上げ、森のほうを向いている。

「ジェマ!」

 その声を聞いたエイダの顔に、自嘲めいた笑みが浮かぶ。
 草を掻き分け近付いて来る複数の足音。ジェマは呆けたような顔をそちらに向け、泣き腫らした目で彼の姿を凝視していた。

「ハロ、ルド……」

 ジェマの口からその名が紡がれ、エイダは全てを悟った。
 私の道は、ここで終わるのだと。

第三十七話

 日は西へと傾き、巣へ帰ろうとする鳥が頭上を飛んで行く。背後ではギルバートとサディアスの馬が——森の入り口に繋いでおいたらしい——草を食んでいる。今日は色々あって昼食を食べ損ねてしまったため、耐えかねた腹の虫がきゅうと鳴いた。
 二度と会えないと思っていたハロルドは、再会を喜び合うのもそこそこに、ジェマが乗って来た馬に跨り、ウィーゼルと共にオビを探しに行ってしまった。
 エイダは手足を拘束され、地面に転がされている。抵抗する様子は無く、目を瞑ったまま動かない。眠っているのだろうか。
 最初、ウィーゼルからエイダの正体が『金眼の魔術師』だと聞いたときは、ジェマも半信半疑だった。サディアスの調査結果とエイダ自身の告白により、ジェマはそれが疑いようの無い事実だと受け入れざるを得なくなった。

 ジェマにはエイダが根っからの悪人だとはどうしても思えない。犯行に及んだ動機までは聞き出せなかったが、きっとなにか事情があるのだろう。彼女が村人に向けていた笑顔も、子ども達への優しさも、ジェマに対しての気遣いも、確かに本物だった。そう思いたいだけなのかも知れないが。

 ギルバートの輸血により、エイダの顔色は随分よくなっていた。たまたま彼女と同じ血液型だった為に血を抜かれたサディアスは、元々白い顔を更に青ざめさせ、地面に敷かれたギルバートのマントの上に横になっている。微動だにせず眠っている姿は死体にしか見えないが、一時間程休めば回復するという。
 ハロルドとウィーゼルがこの場を離れてから、四十分は経っただろうか。ジェマはそわそわと落ち着かない様子で、数分おきに顔を上げ下げしていた。

「ハロルドのことが心配なのか? それとも、オビという獣人のことかな」

 不意に声をかけられて顔を上げる。いつの間にか隣に来ていたギルバートが、ジェマを見下ろしていた。ハロルドに向けていたような厳しい目つきではないにしろ、ジェマは思わず萎縮してしまう。

「ごめんなさい、私が余計なことをしたせいで、弟さんを危ない目に遭わせてしまって」

「気にしなくていい」隻眼が薄く微笑む。「あいつが危なっかしいのは昔からだ」

 ハロルドの体に無数の古傷があったのを見たことがある。彼が騎士としての誇りを持ち、無茶をしてしまう性分なのはジェマも理解していた。

「だが、近頃のあいつを見ていると、随分丸くなったように思うよ。君の影響だろう」

「そう、でしょうか。私は……ハロルドに迷惑をかけてばっかりで……」

「君の正義へのひたむきさは尊いものだ。自信を持っていい」

「私は、そんなに立派な人間じゃありません」ジェマは自分の爪先に目を落とす。「私は理想を唱えるだけで、それを叶える力があるわけじゃない。人を助けたいと思っても、いつも誰かに頼ってしまう。そのせいで人を傷付ける。ハロルドも、エイダも、オビも、みんな私のせいで……」

 頭に重みを感じて、ジェマは顔を上げた。ギルバートの手が、頭をぽんぽんと撫でている。

「力を持たないことは罪ではない。力を持ちながら、それを正義の為に使おうとしないことが罪なのだ」

 頭を撫でられながら硬直するジェマに気付き、ギルバートは手を引っ込めた。

「おや、嫌だったかな」

「いえ、あの、その、ちょっとびっくりして……」

「そうか。嫌じゃないならよかった」ギルバートは薄く微笑み、ぽんぽんを再開する。「弟達が幼い頃も、こうやって泣き止ませたものだ」

 今のハロルドにもやってあげればいいのに、とジェマは思ったが、言わないでおいた。

「ありがとうございます。もう大丈夫です」

「そうか」

 ギルバートはジェマの頭を最後にひと撫でして手を離す。

「さて、もうすぐサディアスも復活する頃だろう。俺はストークケイプに帰ることにするよ」

「ハロルドが戻るまで待たないんですか?」

「ホークバレーには仕事の息抜きに度々来るんだが、今回は長居し過ぎた。そろそろ戻らないと、仕事が滞ってしまうからな」

「そうですか……」

「ハロルドのことをよろしく頼む」青毛の馬に跨り、ギルバートはジェマに顔を向ける。「君の清らかさは、あいつにとって救いだ。君は自分に力が無いと謙遜するが、無理に力を求める必要は無い。君がありのままの君でいれば、あいつは君のために力を振るうだろう」

「ありのままの、私……?」

 そんなふうには考えたことが無かった。

「胸を張りたまえ。俺も、自分の弟をどこの馬の骨ともわからん輩に任せたりはしない」隻眼が微笑む。深い青色の目に、夕日の赤が反射している。「ではさらばだ、お嬢さん」

 ギルバートはそう言うと、掛け声と共に馬に鞭を入れ、夕日に向かって駆け去って行った。その後姿が見えなくなるまで見送っていたジェマの背後で、身じろぐ音がした。サディアスが目を覚ましたようだ。ジェマはそちらに駆け寄り、恐る恐る声をかける。

「あ、あの……大丈夫ですか?」

「大丈夫な訳無いだろ」蒼白な顔が恨みがましくジェマを睨む。「そもそも誰のせいでこんなことになってると思ってるんだ」

「えっと、その……あのときは、投げたりしてごめんなさ……」

「ギルバートの奴、帰ったのか」ジェマが謝罪の言葉を言い終わる前に、サディアスは話題を変えた。

「え? ええ。ついさっき……あ」

「ん、ああこれか」サディアスはジェマの視線に気付き、自分が下敷きにしていたギルバートのマントを見る。「いいんだよ。あいつは幾らでも新品を買えるんだから」

「そうかも知れませんけど、もしお気に入りだったら悲しむんじゃ……」

「あいつにそういう執着は無いよ」まだ体調が優れないのか、サディアスは再び横になる。「君も、知り合いの家族だからって、あいつのことを信用し過ぎないほうがいい」

「でも……仲間、だったんですよね」

 金色の目が、ジェマを射抜くように睨んだ。まずいことを言ってしまっただろうか。
 体を強張らせるジェマを、サディアスは見ていなかった。右手を頬に添え、なにやらぶつぶつ言っている。

「なにが、あったんですか?」

「ここでは話せないな」横になったままエイダを一瞥し、サディアスはふんと鼻を鳴らす。「帰ったら君の兄にでも訊けばいい」

 ジェマの兄——ホークバレー騎士団の団長ジェフリーとサディアス、そしてギルバート。この三人の間にかつてなにがあったのかは気になるが、今は『金眼の魔術師』ことエイダの処罰を決める為、街へ連れ帰らなければならない。居なくなってしまったオビのことも心配だ。
 エイダを守る為とはいえ、オビを突き放すような態度を取ってしまったことを、ジェマは悔いていた。今からでも探しに行きたいところだが、手負いのエイダとサディアスを残して行くことは出来ない。ハロルドもウィーゼルもオビの扱いはそれなりに心得ているし、ここは信じて待つべきなのだろう。

「サディアスさん、一つ訊いてもいいですか」

「なんだ」

「街へ戻ったら……また、オビに酷いことしますか」

 サディアスは眉をひそめ、ジェマに訝しげな目を向ける。

「獣人が人間にとって危ないってことは、私もよくわかってるつもりです。でも、だからって閉じ込めて痛めつけたりしていい訳ありません。せめて、理由を教えてください。騎士団は、オビをどうするつもりなんですか」

「質問は一つじゃなかったか? 二つになっているぞ。まあいい」

 溜息混じりにそう言って、サディアスは金色の目を細めてジェマを見る。

「一つ、『オビに酷いことをするか?』どちらとも言えない。首輪が作動しない以上、市民と彼自身の安全の為に彼を拘束する必要があるが、それを酷いと思うかどうかは彼次第だ。檻の中に居ること自体は、嫌がってはいないようだったがね」

 サディアスはいったん呼吸を整えるように間を空けた。

「二つ、『騎士団は彼をどうするつもりなのか?』最終的な目的は、恐らく君と同じだ。彼の故郷を突き止め、そこへ帰す」

「え? それって……」

 意外な返答に、ジェマは安心すると同時に困惑した。

「あれは人間の手に負えるものじゃない。今回のように人に危害を加えたり、あるいは彼の力を悪用しようと企む輩が現れないとも限らない。更なる被害を防ぐ為にも、彼には早急に故郷に帰ってもらうのが最善だ」

「それは、兄さ……団長も同じ考えなんですか?」

「彼について調べろと命じたのは団長だ。私はそれに従う」

 サディアスは話し終えると同時に目を閉じ、すうすうと寝息を立て始める。長く喋って疲れたのだろう。
 ジェマはほっとすると同時に、自分の愚かさに泣きたくなった。ホークバレーからオビを連れて逃げ出す必要など無かったのだ。オビを助けたい一心で、色々な人に迷惑をかけてしまった。帰ったらちゃんと謝ろう。
 日が沈み、辺りは暗さを増していく。ハロルド達が帰って来るとき、明かりが無いと困るだろう。ジェマは掌に魔法で火を灯す。
 湿り気を含んだ風が吹き、小さな炎が揺れる。微かに獣のにおいがした。
 突然、サディアスの馬が前足を上げていなないた。繋いでいなかったので、馬はそのままどこかへ走り去ってしまう。馬の主人であるサディアスが飛び起きるが、それは逃げた相棒を追いかける為ではなかった。

「明かりを消せ!」

 サディアスの鋭い声に驚き、集中が途切れる。ジェマの掌にあった火がふっと消えた。日はすっかり暮れていたが、まだ辺りは薄明るい。サディアスが目を閉じ、眉間を押さえている。青白い顔には脂汗が浮き、呼吸も荒い。

「大丈夫ですか? まだ起きちゃ……」

「話しかけないでくれないかな」

 不機嫌さを露にした声に遮られ、ジェマは口を噤む。

「部下からの報告には無かったが……やはりもう一匹居たのか」忌々しげに呟くサディアスの目が、薄く開かれる。金色の双眸は淡い光を放っていた。「ハロルド君、捜索は中止だ。すぐに戻……ッ!」

 びりびりと、地面が揺れる。森から飛び立つ鳥の群れ。黒い塊が、森のほうから近付いて来る。それは獣の形をしていた。黒い被毛を纏った、狼に似た巨大な怪物。赤く燃える目をぎらつかせ、地鳴りのような唸り声を上げながら、物凄い速さでこちらに向かって来る。

「ウィーゼル……?」

「違う。ハロルド君が許可しない限り、彼は変身出来ない」

 サディアスはふらふらと立ち上がり、掌を怪物に向けて突き出す。

「サディアスさん! 駄目です、そんな体で!」

「心配無用。少し足止めするだけだ」

 怪物の荒い息遣いが聞こえる。生温い風が顔に当たり、むせ返るような獣のにおいに吐きそうになる。凶暴な牙が並ぶ口を開けた怪物は、もう目の前まで迫って来ていた。
 サディアスが構えた掌から、冷気の魔法が放たれる。辺りの空気が一気に冷え切り、怪物は一瞬にして氷像と化した。

「や、やった!」

「まだ倒した訳じゃない。じきにまた動き出す。……くそ、ギルバートめ、肝心なときに居なくなりやがって……」

 後ろへ倒れるサディアスを、ジェマは慌てて受け止めた。ギルバート以上に身長がある割には、その体は華奢で軽い。

「君に身体強化をかける。そうすればエイダを運べるはずだ。長続きはしないが、なるべく遠くまで逃げろ」

「で、でもサディアスさんは……」

「自分の身は自分で守れる。むしろ君達が居たほうが邪魔だ」

 サディアスの手が肩に触れ、ジェマの体が淡い光を帯びる。体がぽかぽかと熱を発し、内側から力が湧いてくるのを感じた。
 サディアスはジェマの直属の上司ではないが、目上の立場だ。ここは彼の指示に従うべきなのだろう。しかし、万全でない彼を置いていくのは気が引ける。
 みし、みし、と嫌な音が聞こえた。氷像に亀裂が入っている。氷の中に閉じ込められた赤い目が、燃えるような光を放つ。迷っている時間は無い。

「お、おい! なんのつもりだ!」

 ジェマの肩に担がれたサディアスが、落ちかけた帽子を慌てて押さえる。

「わ、この魔法すごいですね。全然重くない」

「貴様! 上官命令を無視するつもりか!」

「私の上司はハロルドなんで」淡々と言いながら、ジェマはもう片方の肩にエイダを担ぐ。ついでにギルバートのマントも回収しておいた。「じゃ、帽子落とさないように押さえててくださいね」

「おい、乱暴に扱うな! うわ、わー!」

 二人を担いだジェマが駆け出すと同時に、獣を封印していた氷が完全に砕けた。解き放たれた怪物の咆哮が草原に轟き、空気を震わせる。それを合図に、命がけの鬼ごっこが始まった。

第三十八話

「ハロルド君、捜索は中止だ。すぐに戻……ッ!」

 唐突に聞こえたサディアスの声は途中で途切れた。被さるように轟いた咆哮に、ハロルドは胸騒ぎを覚える。

「なんだ、今の?」

 地面を嗅いでオビのにおいを探っていたウィーゼルが顔を上げ、耳を動かしながら辺りを見回す。

「風魔法による通信だ」答えつつ、何度か呼びかける。返事は無い。ハロルドは通信の魔法を使えないので、通信が切れてしまえばこちらから声を送ることは出来ない。舌打ちと共に、馬の方向を変える。「戻るぞウィーゼル。なにかあったようだ」

「まだオビを見付けてないのにか?」

「兄上やジェマの危機を見過ごすわけにはいかない。早く乗れ」

 ウィーゼルは肩をすくめ、ハロルドの命令に従った。主の掛け声と共に、馬は高くいななき、走り出す。
 近くの草むらで、走り去る彼らを見送る影があった。オビだ。その存在に、ハロルドが気付くことは無かった。


「居たぞ、あれだ」

 宵闇が迫る草原。ウィーゼルの指が示す先に、漆黒の巨体が見えた。唸り声を上げ、なにかを追いかけている。運の悪い旅人が通りかかったのでなければ、十中八九ジェマ達だ。人間の足にしては速過ぎるが、身体強化の術でも掛けているのだろう。さて、どう助けるか。
 ハロルドは魔法を封じられている。唯一の武器であるレイピアも——ホークバレーに戻ったときに修理する為、一応回収しておいた——今は使い物にならない。
 ウィーゼルの変身能力に頼れば、怪物を倒すことは出来るだろう。だが、一つ懸念がある。森の中でウィーゼルの首輪を外した際、完全変身したウィーゼルはやや正気を失っているように見えた。暴走とまでは行かないが、嬉々として怪物をなぶる暴れっぷりに、ハロルドは少なからず戦慄を覚えた。今の自分に、あの状態のウィーゼルを止められるだろうか。

「で、どうすんだ? このまま様子を見てるだけじゃないんだろ?」

「静かにしろ。今考えて……」

 ごう、と後ろから突風が吹いて、驚いた馬が立ち上がった。ハロルドは咄嗟に手綱を掴んで踏み留まるが、ウィーゼルは後ろに転がって落馬し、キャンッと情け無い声をあげた。

「なにやってるんだ。怪我などしてないだろうな」一応、声をかけてみる。

「……オビ?」

 ウィーゼルはハロルドの声など聞こえていないかのように、耳を前に向け、鼻をひくひくさせている。

「間違い無い、オビだ。小娘を助けに戻って来たのか」

 ハロルドにはその姿を確認することが出来なかったが、ウィーゼルは確信めいた口調でそう言った。
 オビには、ウィーゼルのきょうだいを助ける義理は無い。ジェマを救う為なら、ためらい無くリュンクスの命を奪うだろう。

「急ぐぞ。乗れ!」馬を落ち着かせ、ウィーゼルを促す。

「なんだよ、後はあいつに任せておけばいいだろ」

「貴様、自分の弟が殺されてもいいのか?」

 ウィーゼルは馬に乗ろうとしない。冷めた目をハロルドに向け、皮肉めいた笑みを浮かべる。

「そうなったら、それがあいつの運命だったってことさ」

「なに……?」ハロルドは耳を疑った。「貴様、家族を見殺しにするつもりか?」

「俺の弟より、アンタは自分の兄貴の心配だけしてれば……」

「今は貴様の家族の話をしてるんだ!」

 喰い気味に怒鳴れば、ウィーゼルは一瞬口ごもり、吐き捨てる。

「あいつはもう駄目だ」

 雷鳴のような、オビの咆哮が遠くで轟いた。

「駄目じゃない! 今ならまだ止められる!」

「ならアンタ一人で行けばいい。俺はここに残る」

「……ふざけるな!」ハロルドは馬から飛び降り、ウィーゼルの胸倉を掴む。「あれは貴様の弟だろう! 血の繋がった家族じゃないのか!」

 ウィーゼルはなおも動かない。

「血か。そんなもんに拘るのは、いかにも貴族らしい価値観だな」

 哀れむような目をハロルドに向け、冷ややかに笑う。殴ってやりたかったが、そんな暇は無い。握り締めた拳を解き、ハロルドは吐き捨てる。

「もう、いい。動きたくないならそこに居ろ」

 ハロルドは手を離し、馬に飛び乗って走り出す。今の言葉は『待機』の命令として機能する。多少距離が離れても、首が絞まることは無い。
 オビの咆哮も、怪物の唸り声も、もう聞こえなくなっていた。どうか、せめて、息は残っていてくれるよう願いながら、ハロルドはそこへ向かう。

「ハロルド!」

 サディアスとエイダを抱えたジェマが、息を切らしながら駆け寄って来る。ギルバートの姿が無かったが、ジェマが平然としている所を見る限り、怪物にやられた訳ではないらしい。兄は多忙の身だ。自分達がオビを探している間に帰ったのだろう。

「ジェマ……無事だったか」一先ずほっとするが、リュンクスの姿が見当たらない。「黒い怪物は?」

「オビがやっつけたよ!」

 死角から聞こえた声に、ハロルドは思わず身を竦ませた。馬が不機嫌そうにぶるると鼻を鳴らす。馬の首を撫でて落ち着かせ、地面に降りる。

「……殺したのか?」

 搾り出すように発したその声は、情けない程に震えていた。

「いえ、彼ならそこに」ハロルドの不安を、ジェマの声が払拭する。「オビに噛まれたら、急に苦しみ出して。お腹の中のものを吐き出して、倒れたと思ったら……」

 ジェマに導かれ、それを見る。
 胃酸で枯れた草むらの上に、溶けかけた骨の山に紛れて一匹の狼獣人が倒れていた。服は着ておらず、顔と腹以外、全身を黒い毛に覆われている。顔立ちはなんとなくウィーゼルに似ていた。

「いい加減降ろしてくれないかな」

 不貞腐れたような声に振り返れば、ジェマが慌てた様子で謝りながらサディアスを降ろしていた。服を整え、帽子の位置を調整しながら、彼はゆっくりとこちらに——獣人の少年のほうへ近付いて来る。

「なるほど、これは面白い」

 新しい玩具を見付けた子どものような、心底楽しそうなその声に、ハロルドは苦い顔をした。

   ☆   ☆   ☆

 ジェマは身体強化の反動で、酷い疲労感と筋肉痛に襲われていた。座り込んだジェマを心配するように、オビが顔を寄せる。オビを拒絶してしまったことを詫びながら、ジェマは灰色の髪を撫でた。
 日は完全に暮れ、おぼろな月が草原を照らしていた。空には薄い雲が掛かり、星は見えない。
 ハロルドの話によると、怪物の正体はウィーゼルのきょうだいで、名をリュンクスというらしい。金眼の魔術師ことエイダの実験体として利用され、強い破壊衝動に苦しめられていたという。

「これが呪いの源か」

 リュンクスが吐いたものの中に、赤い結晶があった。小指の爪程度の大きさのそれを、サディアスは空き瓶で掬い取るように回収する。

「それ、どうするんですか」

「街に戻り次第、分析する。これが本当に怪物を生み出していたのか、確かめなければならないからね」

 確かに、重要な証拠になり得るだろうが、彼の表情から察するに、少なからず個人的な好奇心も含んでいるのだろう。なにせ、古の時代に滅んだはずの禁術だ。魔術の研究者なら、惹かれない訳が無い。いつかハロルドに疑われたように、彼が第二の金眼の魔術師にならなければいいが。

「そういえば、ウィーゼルの姿が見えませんけど」

 ジェマが疑問を投げると、ハロルドはうつむくように視線を外し、サディアスのほうを向いた。

「サディアス殿、彼が再び怪物になることは、もう無いのでしょうか」

 ハロルドに問いかけられたサディアスは、膝に付いた草露を払いながら立ち上がる。

「体に巡っていた魔力は消えたようだし、媒体となっていた魔石も吐き出された。恐らくもう怪物化はしないはずだが……」それにしても、と付け加え、サディアスは興味深そうな視線をオビに向ける。「魔法が効かないだけでなく、魔力を打ち消す力を持つことまで伝承通りとは驚いたな。その肉を喰えば不老不死になるという伝説も本当なのか?」

 オビは「ぴゃあっ」と悲鳴を上げ、ジェマの後ろに隠れる。

「冗談だ。そんなに怯えなくてもいいじゃないか」

 ただでさえ感情が読めないのだから、紛らわしい冗談はやめて欲しい。
 呆れるジェマの耳が、小さく呻く声を捉える。ジェマがそちらを見ようとした瞬間、サディアスの右手が動いた。
 周囲の空気が凍て付き、今にもジェマに飛びかからんとしていた獣人の少年の両足を捕らえる。体の自由を奪われてなお、リュンクスの目は目の前の獲物しか見ていない。牙をむき出した口から発せられるのは、獰猛な唸り声と涎だけだった。

「やはり精神を蝕まれていたか」サディアスは腰に差していた短剣を抜き、ハロルドに差し出す。「ハロルド君、君が始末してくれ」

「なっ……」ハロルドは言葉を詰まらせ、たじろいだ。強張った表情で息を詰め、月光を反射する短剣を凝視している。

「私では無駄に苦しませてしまいかねない。こういうことは君のほうが慣れているだろう?」

「あ、あの、サディアスさん」

 恐る恐るジェマが口を開くと、サディアスは短剣をハロルドに差し出したまま、無言で目線を向けた。

「呪いが解けたなら、殺さなくてもいいんじゃないですか?」

「そういうわけにはいかないんだよ」溜息混じりに彼は答える。「一度でも人を襲った獣にとって、人はただの肉だ。自覚が無いようだから教えてあげるけど、現に君は今彼に殺されかけたんだよ」

「でも……」

 サディアスの視線は、既にハロルドへ戻されていた。

「シュメリアへの留学経験がある君ならよくわかっているはずだ。呪いによって怪物になった者がどうなるかを。彼は既に正気を失っている。今トドメを刺さなければ、新たな犠牲者を生むことになる」

「僕は……僕には……」

 淡々と向けられる言葉に圧されるかのように、ハロルドは首を振り一歩後退る。

「僕には……出来ない」

 リュンクスがもし純粋な悪党であったなら、あるいは彼の事情を深く知る前であったなら、ハロルドは迷い無く刃を取っただろう。
 リュンクスはウィーゼルの弟だとハロルドは言っていた。ハロルドにも弟が居る。彼に刃を受け取ることをためらわせている要因が、善悪で割り切れるようなものではないことをジェマは知っていた。

「それなら、私が代わりにやりましょう」

 サディアスの手から短剣が奪われた。取ったのはハロルドではない。ジェマでもない。
 リュンクスの喉が掻き切られ、血飛沫が舞う。その色が赤なのか、黒なのか、淡い月光は教えてはくれない。
 返り血を浴びたエイダが、ゆっくりと振り返る。暗闇に、二つの金色の光が浮かび上がる。

「き……貴様ああああああッ!」

 咆哮を上げ、稲妻の如く飛び出したハロルドの拳が、エイダの顔面を殴り抜いた。前歯が数本飛び、切れた口と鼻から血が噴き出す。殴り飛ばされたエイダが倒れた所に、ハロルドが馬乗りになり、胸倉を掴み上げて再び拳を振り上げる。

「ハロルド! やめてくださ……ッ」

「邪魔をするな」

 縋り付いて止めようとしたジェマは押し退けられ、尻餅を付く。オビが駆け寄り、ハロルドに牙を剥いて威嚇する。が、殺気立った眼光を向けられ、オビは「ぴっ」と甲高い声を上げてジェマの後ろに隠れた。

「ハロルド君、騎士団の規則を忘れた訳じゃないだろう」

 サディアスの声に、ハロルドの動きが止まる。

「わかって、います……。でも」一瞬力を失ったその目に、再び憎しみの炎が灯る。「どうせ、傷は魔法で治せるのだから……少しくらい痛め付けても、構わないでしょう」

 その顔を見て、ジェマは寒気を覚えた。怪物にも怯まず、どんなに強力な魔法も跳ね除けるオビが怯んだ理由も、直感的に理解する。
 ハロルドは、笑っていた。青い目を憎悪に燃やしながら、笑っていたのだ。
 その様はまるで、人の心を失った怪物のようだった。

第三十九話

 エイダは、自分に向けられた狂喜染みた怒りの眼差しを、真っ直ぐに見返す。

「その通りです、ハロルドさん」

 エイダの周囲の地面が、ボコボコと盛り上がる。土は人の形を作り、鎧を纏った兵士の姿へと変わって行く。その数、三体。
 訓練された騎士相手に、一対一では分が悪い。だが、単純に数を増やせばいいというものでもない。土人形は、数が増える程脆くなり、動作も鈍くなる。隊長格と渡り合う為の耐久性と機動性を維持するには、この数が限界だ。
 同族の血を与えられたことにより、エイダの魔力は完全に復活していた。ギルバートという男が助けてくれたようだが、それを恩に感じて改心するとでも思ったのだろうか。不自由無く暮らして来た人間には、特殊な環境で育った者の考えなどわかるはずも無い。

「あなた達は正義の執行者。さあ、私を裁いて見せてください」

 エイダが右手を掲げると、周囲の土人形達が一斉に獲物へと飛びかかる。

「ハロルド! 危ない!」

 間に割って入ったのはジェマだ。土人形の攻撃を盾で受けるが、森で獣人に襲われたときと同じく、衝撃を殺し切れず尻餅を付いた。

「砦で相手にした人形とは違うのですよ」

 エイダは薄い微笑みを浮かべ、ジェマを見下す。

「下がっていろ、ジェマ」ハロルドがジェマを押し退け、前に出る。「剣を寄越せ。奴は僕が裁く」

「そんな……駄目です!」

 ジェマの言葉には耳も貸さず、ハロルドは彼女の腰に差された剣を鞘から引き抜いた。そのまま、後ろから斬りかかって来た土人形を薙ぐ。その土塊を踏み締め、続いて残る二体を屠る。

「なかなかやりますね。あなたは、魔法のほうが得意だと思っていたのですが」

 冷や汗が首を伝う。あと一瞬、障壁を張るのが遅れていたら、この首は胴体とおさらばしていた所だ。

「自分を裁いてみろと言いながら、やはり命は惜しいか」

 青い炎を宿した鬼神の如き双眸が、エイダを威圧する。

「そりゃ、抵抗もしますよ。死にたくはないですからね」

 命を捨ててでも復讐すると覚悟したつもりでも、やはり死に直面すれば怖いのだ。

「その為に他人を犠牲にしてもか!」

 再度刃が振り下ろされ、障壁に亀裂が走る。

「騎士だって、悪人を捕まえるのが仕事でしょう。正義の名の下に、自由を奪い、命を奪う。それは他人を犠牲にしているとは言わないのですか? それとも、悪人は人ではないのですか?」

「屁理屈を!」

 ハロルドの剣戟で、亀裂が更に広がる。

「同じことでしょう」

 エイダは一度障壁を解き、一歩飛び退いて再び張り直す。ハロルドがよろけた体勢を立て直す間、時間を稼ぐことが出来た。先程よりやや強力な障壁が、振り上げられた剣を受け止める。

「『正義』とは、なんとも都合のいい免罪符ですね。正義の為なら、なにをしても許される。例え、怒りのままに人を殺めても」

「黙れ!」

 ハロルドの周囲に稲妻が走る。青白い光を纏った刀身が、エイダを守っていた障壁を砕く。エイダは咄嗟に身を引いて刃をかわすが、青白い火花が服と肌を焼いた。
 少々、煽り過ぎたらしい。柄にも無く喋り過ぎたことを悔いながら、エイダの顔には相も変わらず薄い笑みが浮かんでいた。

   ☆   ☆   ☆

「あの、馬鹿……」

 呆然と戦いを見ていたジェマの隣で、サディアスが頭を抱える。

「どうかしたんですか?」

 サディアスは一瞬迷うような素振りを見せた後、溜息混じりに答える。

「彼は怪物に飲まれたとき、呪いを移されてる。進行を止める為に、彼の魔力ごと薬で封じ込めていたんだが……」青白い稲妻をまとうハロルドを見て、再び溜息を吐く。「まさか、無理矢理こじ開けて来るとはね……」

「じゃ、じゃあ、ハロルドも怪物に……」

「さあ、どうだろうね。大分時間も経ったから、呪いの影響は消えている可能性が高いが……あの様子では」

 呪いを受けていたのなら、あの形相にも納得が行く。完全に理性を失う前に、なんとかしなければ。でも、どうすれば。

「まあ、呪いが無くとも彼がああなるのは今に始まったことじゃないし、心配はしなくてもいいと思うけど」

 そう呟いたサディアスの声は、ジェマの耳には届かなかった。そのときには既に、ジェマはハロルドとエイダが交戦する中へと駆け出していたからだ。
 ジェマは二人の間に体を滑り込ませ、盾を構えた。腕に伝わる衝撃と、火花が弾ける音。盾の表面に張られた革が焦げるにおい。

「き、さま……何故……!」

 ジェマの盾は、ハロルドの剣をしっかりと受け止めていた。直前で気付いたハロルドが、力を弱めたのだ。盾は表面の革が焼け剥がれただけで、原型を留めている。ジェマが傷を負うことも無かった。

「何故、邪魔をするかって……?」息を切らしながら、ジェマは青い炎を宿す目を見上げる。「そんなの、決まってるじゃないですか。あなたに、間違いを犯して欲しくないからですよ」

 息を飲む音と共に、青い目が僅かに揺らぐのが見えた。よかった。まだ理性を失った訳ではなかったんだ。そう安堵した瞬間、背中に違和感を覚えた。
 熱い。いや、痛い。鋭い痛みと共に、湿った感触が広がって行く。腰を、尻を、足を、生温い液体が伝う。

「馬鹿な人。敵に背中を向けるなんて」

 背後で聞こえたのは、冷淡な嘲笑を含んだ声だった。

「助けようとした相手に殺されるのは、さぞ無念でしょうね」

 ハロルドの目に、再び怒りの炎が宿る。彼がなにか叫んだようだが、ジェマの耳にはなにも聞こえない。静かだった。
 ああ、そうか。私は刺されたのか。ジェマは他人事のように頭の中で呟く。不思議と、恐怖も怒りも感じない。刃が引き抜かれ、血が溢れる。麻痺しているのか、痛みはほとんど無い。
 ジェマはゆっくりと振り返り、自分を刺した相手を——エイダを見た。小刻みに震える血塗れの手には、サディアスから奪った短剣が握られている。ウィーゼルの弟、リュンクスの命を奪った短剣だ。
 ジェマの視線を受け、エイダはたじろぐように一歩後退した。
 再び怒りに支配されていたはずのハロルドも、ジェマを呆然と見詰め、動きを止めていた。
 ジェマは手を伸ばし、エイダの手を掴んだ。息を引きつらせる音と同時に、短剣が手から滑り落ちる。ジェマの血に塗れた刃が、すとんと地面に突き刺さる。

「エイダ。もうやめましょう」

 ジェマはエイダの目を真っ直ぐ見据える。金色の光は失せ、灰色の目が不安げに揺れていた。

「これ以上罪を重ねても、村の人達が悲しむだけですよ」

「あなたに……なにがわかると言うのですか」

 引きつった声は震えていた。ジェマの手を振り払ったエイダの目に、再び金色の光が灯る。

「私はまだ、なにもやり遂げていない。邪魔をするなら、あなたも……」

 まるで手負いの獣のようだ。ジェマは金色の目でこちらを睨むエイダを見て、そんな印象を抱いた。
 獣に言葉は無力だ。いつか、ウィーゼルが言った言葉。相手を哀れみ、情けをかければ、こちらが食い殺される。

「私には、あなたの事情はわからない」

 ジェマは、再びエイダの手を掴む。

「知りたくもない。知れば、きっと同情してしまうから」

 手を引き寄せ、肩を抱き寄せる。

「私は騎士です。騎士の仕事は、市民の安全を守ること。私は、あなたに傷付けられる人をもう増やしたくないし、あなたにこれ以上手を汚して欲しくない」

 もがくエイダの体を、ジェマはきつく抱き締める。こうしていれば、エイダは逃げることは出来ないし、ハロルドもエイダを攻撃出来ない。とはいえ、長くは持たないだろう。血を流し続けたジェマの意識は、既に朦朧としていた。
 冷酷に思えた『金眼の魔術師』の体温は暖かかった。


 体が揺れている。不規則な揺れ方から推測するに、自分は馬車の座席に横になっているらしい。数人の話し声と、時折聞こえる馬の鼻息。うっすらと目を開けると、綻びた屋根から注ぐ光が目を刺した。

「ジェマ! 気付いたか……」

 弾むような声に、ジェマは驚いて身を竦ませた。身を乗り出してジェマの顔を覗き込んでいたハロルドが、罰が悪そうに咳払いしながら向かいの席に腰を下ろす。代わりに、座席の下からオビが顔を出した。耳を伏せてきゅーと鳴きながら、ジェマの顔色を伺っている。体を起こし、灰色の髪を撫でてやると、オビは安心したように額をすり寄せて来た。

「小娘が目を覚ましたのがそんなに嬉しいかよ」

「黙れ」

 ハロルドは茶化して来たウィーゼルを睨み付け、外の景色へと視線を向けた。澄んだ青空の下に広がる草原の向こうに、ホークバレーの街の城壁が見える。

「あの、エイダは……どうなったんですか? サディアスさんも、姿が見えませんけど」

 ジェマが疑問を口にすると、ハロルドは窓の外に目を向けたまま答える。

「『金眼の魔術師』は、サディアス殿が連行した。村に潜伏させていた三番隊の隊員と共にな」

 この件は、元々サディアスが捜査を担当していた事件だ。魔術師を見付ける為、サディアスは自分の部下をホークバレー各地に派遣していた。エイダが居た村にも何人か潜んでいたが、ジェマ達が村を訪れるまで、彼女の正体には気付かなかったらしい。

「そうですか……」

「どうかしたのか。不満そうだな」

「いえ、サディアスさんに、怪我を治して貰ったお礼が言いたかったなーと思って」

 気を失う程の怪我を負ったにも関わらず、今は全く痛みを感じない。サディアスは礼を言われることは嫌いそうだが、治療して貰っておいてなにも言わないというのは、あまり気持ちのいいものではない。

「貴様の怪我を治療したのはサディアス殿ではないぞ」

「えっ」

 じゃあ誰が、と言おうとして、無粋な質問であることに気付く。あの場で回復魔法を使える者など、サディアスを除けば一人しか居なかったではないか。

「街に着いたら、まずは検査を受けて貰うぞ。あの女、改心したようには見えなかったからな。なにを仕込まれたかわかったものじゃない」

「そうですね……」ジェマはハロルドの言葉にうなずきつつ、ふと思い至って顔を上げる。「ハロルドは、体のほうは大丈夫なんですか? 確か、呪いがどうとかって……」

「ああ、それか」ハロルドは若干気まずそうに答える。「今はなんともないが、念の為、僕も検査を受けるよう言われている」

「こっぴどく怒られてたもんなあ、お前」

 けけけと笑うウィーゼルが、足を踏まれてキャンと鳴いた。

「そういえば、ウィーゼルはあのときどこに居たんですか?」

 ウィーゼルとハロルドが同時にジェマのほうを向き、互いの顔を見て、苦虫を噛み潰したような顔をして同時に視線を逸らした。
 ウィーゼルの弟を死なせてしまったことに、ハロルドは少なからず負い目を感じているのだろう。直接手を下した訳ではないにしろ、短剣をエイダに奪われる失態を犯したことは事実だ。

「ごめんなさい、ウィーゼル。私達が付いていながら、あなたの弟を……」

「それはもういいんだよ」ウィーゼルは静かにそう言った。「俺達の前に現れたときには、もう手遅れだった。あいつがあのまま生き残っても、苦しみが長引くだけだ。アンタ達が負い目を感じる必要は無い」

「でも……」

「あれでよかったんだよ。あいつは、余計な苦しみを味わうことなく死んだ。悲しんでくれる奴が居て、手厚く埋葬して貰った。それでいいんだよ」

 ジェマは気付く。ウィーゼルも、ハロルドも、オビも、皆手を土で汚していた。

「そう、ですか」色々と言いたいことはあったが、どれも余計なことのような気がして、口にするのはためらわれた。数秒考え、一つだけ質問する。「そのお墓の場所、教えて貰えませんか」

「森の中に坑道跡があっただろう。あの辺りだ」静かに答えたのはハロルドだった。「墓参りならやめておけ。次に訪れたときに、墓が無事だとは限らないからな」

 ジェマがうつむいたのを見て、ハロルドは取り繕うように付け足す。

「彼を弔いたいなら、祭のときにでも祈っておけばいい。飾りは買ってあるんだろう」

 ジェマははっとして、すっかり存在を忘れていた鞄の飾りを見た。神のシンボルを模した飾りを焚き上げ、神を送る祭。ホークバレーの街ではそろそろ準備も終わり、本格的に賑わい始めている頃だろう。
 祭は、元々は死者を弔う儀式でもあったという。天に帰る神が、死者の霊を導いてくれるのだそうだ。リュンクスの魂も、犠牲になった人達の魂も、無事に天に昇れるだろうか。
 ジェマは、鞄に付けていた花の形の飾りを手に取り、祈るようにそっと握った。

第四十話

 季節祭が終わりを迎えると同時に、セルペニアの気候は夏らしく移り変わっていく。薄く掛かっていた雲は晴れ、澄み切った空のもと草木は枝葉を伸ばす。獣たちは森の中で暑さをしのぎ、人々は晴天を無駄にすまいと外仕事に打ち込む。子どもたちは夕暮れ近くまで釣りや水遊びに興じ、獲物を誇らしげに持ち帰る。

『金眼の魔術師』ことエイダが捕まってから、今日で十日になる。禁術を行使した重犯罪者ということで、彼女の身柄は地下に収容された。今はただ、処刑を待つだけの身である。
 エイダが身を隠していた村には、三番隊を中心に組織された調査団が派遣された。村人たちに禁術の影響が無いかを調べるためだ。
 検査の結果、村人たち全員の安全が確認されている。エイダに保護されていた子どもたちも同じ検査を受け、その後ホークバレーの街の教会で引き取られることになった。
 エイダの処刑の日程はまだ決まっていない。ジェマがハロルドづてに聞いた話によれば、エイダには協力者が居たようだ。今は、サディアスが取調べを行い、協力者の素性を聞き出そうと試みているらしい。

 ジェマは今日も見習いの仕事に勤しんでいた。残る仕事は、修理が終わったレイピアを、持ち主であるハロルドに届けること。受け取り場所は、以前、支払いで揉めてしまった鍜治屋だ。
 折れたレイピアの修理を依頼したとき、店主は以前のゴタゴタについてはすっかり忘れていたようで、もごもごと謝るハロルドに対して「気にするな」と笑っていた。
 当初の予定では、出来上がった剣は持ち主であるハロルドが直接受け取りに行くはずだった。急遽、彼には別の用事が出来てしまい、ジェマが代わりに店に赴くことになったのだ。今度は無事に修理費を支払い、店主と職人に礼を言うことが出来た。
 戻って来たジェマはハロルドの姿を探すが、訓練場にも食堂にも彼の姿は見当たらない。団長の所に行っているのだろうか。塔へ足を向けたジェマの視界に、数人の騎士に囲まれた白い制服が映った。留置所がある方向から歩いて来る。

「ハロルド! お疲れ様です。これ、頼まれてた剣です」

 駆け寄れば、不機嫌そうな顔がこちらを向く。

「ああ。ご苦労だったな」

 ジェマから受け取ったレイピアを腰に差して、ハロルドは足早に歩き去って行く。彼が元々愛想のいいほうではないことは、ジェマも承知していた。それを踏まえた上で、ジェマは違和感を嗅ぎ取る。今はそれを指摘する雰囲気ではないことも。
 少し離れた場所で、ハロルドは部下たちに小声で指示を出している。いつも彼の隣で気だるそうにしているウィーゼルの姿は見当たらない。騎士たちが駆け足で散った後、ジェマはおずおずとハロルドに近付く。

「あの、留置所でなにかあったんですか?」

 溜息を吐いて、ハロルドが振り返る。

「なんでもない。見習いは知らなくてもいいことだ」

「なにかあったんですね? ウィーゼルは?」

 舌打ちが聞こえた。

「わかっているなら、今は話している暇は無いことも察してくれ」

 それだけ言い残し、ハロルドはジェマを押し退けて走り去ってしまった。追いかけて問い質すのは流石に気が引ける。用事は終わったのだし、これ以上首を突っ込む必要は無い。
 留置所でなにかあったというなら、オビのことも心配だ。今日の仕事は切り上げ、ジェマは彼の様子を見に行くことにした。


 マシュマロウ通りで初めてオビに会ってから、そろそろ二ヶ月が経つ。オビに手を差し出したあのときの気持ちは、彼の素性を知った今でも変わらない。
 オビは早急に故郷に帰したほうがいいと、サディアスは言っていた。それは団長の意思でもあると。オビの故郷である『ミストピナ』の所在については、未だ充分な手がかりを得られていない。
 もし、『ミストピナ』の場所がわかる前に、騎士団員達が——あるいはゴシップ好きの市民の誰かが——オビの正体に気付いてしまったら。
『救世の英雄』に描かれた伝説の怪物が実在し、騎士団がそれを匿っているということが、世に知れ渡ってしまったら。ゴラド王国との戦争以来の、国中を巻き込んだ大混乱が起こるだろう。オビの命も、危険に晒されるかもしれない。
 気持ちばかりが焦る。一介の騎士見習いに過ぎないジェマの力では、今はどうすることも出来ない。兄やサディアスが色々調べてくれているようなので、彼らが成果を出してくれるのを待つしかない。
 単身でもタロンフォードに赴き、パーシーが教えてくれた民謡について調べて来ようかとも思ったが、また余計なことをして事態を悪化させてしまうのが怖くて、行動に出られずにいた。
 取り止めの無いことをぐるぐると考えていたら、面会の手続きを終え、オビの待つ檻の前に到着してしまった。ぼんやりしながらも滞り無く手続きが出来てしまうほど、ここには通い慣れている。見たところ、留置所に変わった様子は無いようだった。
 檻の隅っこでうずくまっていたオビが、ジェマの気配を感じるや否や、しっぽを振り回しながら駆け寄って来た。ゴロゴロ喉を鳴らすオビの頬を撫でてやる。オビはジェマの顔を見上げ、首を傾げた。

「ジェマ、おなかでも痛いの?」

「ん、大丈夫だよ」ジェマは努めて笑顔で振舞う。「オビのほうこそ、なにか騒ぎがあったらしいけど大丈夫だった?」

 オビは耳を伏せたが、ぷるぷると頭を振り、ふんっと鼻を鳴らして顔を上げる。

「オビはつよいからだいじょうぶだよ!」

「またまたあ。怖くて堪らなくなって、泣きそうだったんじゃないの?」

「オビこわくないもん!」

 ぷうと唇を尖らせるオビの顔が面白くて、ジェマは思わず小さく噴き出す。

「よかった。元気そうで。ちょっと心配してたんだ」

「そう思ってるんなら、ずっといてくれたらいいのに」オビはカリカリと床を掻く。

「私もオビと会う時間増やしたいんだけど、仕事もしなくちゃいけないからね……」

 その答えでオビの不満が解消するとは、ジェマも思っていない。案の定、オビの太いしっぽは石造りの床をぽふぽふ叩いている。
 なんでオビはここにいなくちゃいけないの? なんでオビはジェマといっしょにいちゃいけないの? 立て続けに投げられる質問に、ジェマは自分でも納得していない答えを返すしかなかった。

「オビがいい子だって、みんながわかってくれたらいいのにね……」

 鉄格子の隙間から、オビの頬を撫でる。ふわふわだった感触が、今はさらさらになっている。

「毛、生え変わったんだね」

「うん。いっぱいぬけた。見る?」

「取ってあるの?」

「冬に巣をつくるときにつかうから、あっちに集めてる」

 オビが指差す方向、部屋の隅に、こんもりと積み上げられた毛の塊が見えた。たっぷりと空気を含んだ毛は、オビの体を包み込むのに充分な量がある。

「これは上等な毛布が作れそうだね」

「うん。おばあちゃんも、オビの毛はあったかくていいねって言ってた。おばあちゃんは、あんまり毛がないから」

「そっか。それじゃあ、冬までに帰ってあげなくちゃね」

「うん。帰りたい」オビは耳を伏せ、少しうつむいた。「でも、ジェマとわかれるのはいや」

「……そっか」

 ジェマはもう片方の手を伸ばして、オビの両頬に手を添える。さらさらの毛の中に、手の平が埋まる。
 オビは竜で、ジェマは人間だ。元々、住む世界が違う。オビがいくら寂しがっても、ジェマはオビの故郷について行くことは出来ない。人間が竜を恐れるように、竜もまた、人間を拒否するだろう。その存在が伝説になるほどの長い間、彼らは人との交流を断っていたのだから。

「ねえ、オビ」オビの頬を撫でながら、ジェマは言う。「私も、オビと離れるのは辛いよ。でも、オビの家族からオビを奪うわけにはいかない。きっと、おばあちゃんもオビが居なくて寂しがってる」

 オビは無抵抗に頬を揉まれながら、ジェマの話を聞いている。オビの頬は信じられないほどよく伸びる。

「いつか、人と竜が仲良くなったら、またこうして好きなときに会えるようになるよ。きっと」

 その言葉は祈りだ。頬を伸ばされたオビが、にへらっと笑った。


 しばらくオビと触れ合ってから、空腹を感じたジェマはオビと別れ、外に出た。
 まだ西の空は薄明るい。暑い盛りの時間が過ぎたことで、人通りは増えていた。街に点在する酒場にも明かりが灯り始めている。店や民家から漂ってくる夕食の香りに、腹の虫が暴れ出しそうだ。食堂へ向かう足が、自然と速くなる。
 留置所の門を出ると、なにやら騒がしい。二、三人の騎士たちが集まり、揉めているようだ。

「なにすんだよ! 離せよ!」

 叫んでいるのは子どもの声だ。

「先生は悪くないって言ってるだろ! 話聞けよ!」

 別の子どもの怒鳴り声が聞こえ、騎士に担ぎ上げられる茶髪の少年の姿が見えた。その声、その姿に、ジェマは覚えがある。エイダの家で保護されていた子どもたちだ。
 ホークバレーの教会に預けられているという話だったが、何故こんな所に居るのだろう。

「ちょっと、乱暴はやめてください! なにがあったんですか?」

 ジェマは咄嗟に駆けつける。騎士と揉めていたのは茶髪の少年と、もう一人、エイダの家でオビのしっぽを引っ張った悪戯少年だった。見知った顔を見付けた茶髪の少年は、はっとしたように息を飲み、騎士の肩から飛び降りながら声を上げた。

「なあ、アンタなら聞いてくれるよな!? 俺たちの話!」

 縋り付くように駆け寄る子どもたちを、騎士が追う。

「こら、いい加減にしなさい!」

 ジェマは一瞬迷った。子ども達の目は、ジェマに縋るように向けられている。助けるべきだろうか。子ども達はなにか悪さをしたのかもしれない。貧しい境遇から魔が差して、盗みを働いて捕まったのかもしれない。子ども達の手に盗品らしき物は無かったが、状況を把握するには情報が足りな過ぎた。

「なんだお前は。見習いの分際で、我々の仕事の邪魔をするつもりか?」

 とりわけ体格のいい騎士がこちらを睨む。ジェマは思わずたじろいだ。こうなっては、今更退くわけにもいかない。二人の子どもを背に庇いながら、激昂した相手を落ち着けようと試みる。

「いや、仕事の邪魔なんてしませんよ。ただ、相手は子どもだし、もう少し穏やかなやり方があるんじゃないかなーと……」

「なんだと!」

 煽ったつもりは無いのだが、却って怒らせてしまったらしい。騎士の手が、ジェマの胸倉を掴む。

「やあ、これはなんの騒ぎかな?」

 割って入った気の抜けた声に、ジェマに掴みかかった騎士は肩をすくませ、慌てて手を離した。他の二人の騎士の顔にも動揺が浮かぶ。騎士たちの視線を追うと、そこには黒い制服を着た黒髪の男が立っていた。

「ジェフリー団長! いや、これはですね……」

 慌てて拳を引っ込めた騎士は、暑さのせいだけではない汗をかきながら口をぱくぱくさせている。ジェフリーは苦笑いして頬を掻き、努めて穏やかな声で語りかける。

「怒ってないから落ち着いて。深呼吸しよう。すー……はー……落ち着いた?」

「あの、ですね、団長」体格のいい騎士の代わりに、三人の中で一番若そうな騎士が口を開いた。「その子どもたちが、留置所に忍び込もうとしていまして。それを取り押さえたところに、この見習いが割り込んで来たんですよ」

「なるほど」ジェフリーはうなずき、子どもたちへと視線を向ける。「君たちは……エイダ先生のところで暮らしていた子たちだね。彼女に用事があった、ということかな?」

 少年たちは二人とも口を噤み、ジェマの後ろに隠れたまま、ジェフリーを睨み付けている。

「大丈夫だから、話を聞かせて貰える?」ジェマは子どもたちのほうへ向き直り、腰を屈めて視線を合わせる。「留置所に忍び込もうとしたって、本当?」

「エイダ先生は悪くないんだ!」悪戯っ子が口を開く。「先生は騙されただけなんだ。だから、俺たちが先生を助け出そうと思って……」

「騙された? 誰に?」

 ジェマの問いかけに茶髪の少年が答えようとしたが、ジェフリーの声がそれを遮る。

「こんな所で長々と立ち話もなんだ。どうだい、皆で一緒に夕食っていうのは? 食事しながら、ゆっくりとお喋りしようじゃないか」

「ええっ、いいんですか!?」

 声に出してから、ジェマはわざとらし過ぎたかと反省する。子どもたちの警戒を解くためにおどけてみせたつもりだったが、不審に思われたかもしれない。背後からのジト目がちくちく刺さる。

「君たちもどう?」ジェフリーの視線は、三人の騎士達へと向く。

「い、いえ! 俺らはこれから当番なんで……」

 体格のいい騎士が丁重に断り、残る二人もぶんぶん首を振った。

「そっか、残念だ。じゃあまた別の機会にってことで」ジェフリーは子どもたちとジェマのほうへと向き直る。「それじゃ、混み合う前に行こうか」

 二人の少年は、街へ向かうジェフリーの後を、すぐに追おうとはしなかった。お互い顔を見合わせ、ジェマのほうを見る。

「騎士団は信用出来ない?」

 ジェマの問いかけに、茶髪の少年はうつむき、もう一人はそっぽを向いた。

「私のことはどうかな。エイダ先生を捕まえた人達の仲間だから、信じられない?」

「いや……」答えたのは茶髪の少年だ。「アンタが悪い人じゃないってことは、わかるよ。騎士団も、偉そうな奴らばっかりじゃないってわかってる。でも、あの人は」

 少年の視線の先、十メートルほど離れた場所に、ジェフリーが立っている。

「なんか、なに考えてるかわからなくて、ちょっと怖い」

 ジェマは失笑した。少年の口調が、余りにも真剣だったものだから。

「っごめん。私も同じこと思ってたから……」気を取り直して、咳払いをひとつ。「あの人、ちょっと隠し事が多いんだよね。でもね、悪い人じゃないよ」

「なんでアンタにそんなことわかるんだよ。見習いのくせに」もう一人の少年が、意地の悪い目でジェマを睨む。「付き合ってんの?」

「はっはっは、無い無い」ジェマは少年の挑発を軽くあしらう。「あの人ね、私の兄さんなんだ。見て来てごらん、目の色が同じだから」

「兄妹? アンタ、騎士団長の妹だったのか」茶髪の少年が、目を見開いてジェマを見上げる。

「さ、行こう行こう。団長は忙しいんだから、待たせちゃ駄目だよ」

 ぽんぽん、と、二人の背中を軽く押して、ジェマは悠々と待つジェフリーに追い付いた。

「二人ともなに食べたい? 私はねー、魚料理がいいなー」

「あ、そうだ。一つ言い忘れてたんだけど」

 ぽむと手を打つジェフリーに、三人の視線が集まる。

「彼らの分は驕ってあげるけど、ジェマ、君は自腹ね」

第四十一話

 ジェフリーは酒を頼まなかった。迷子を拾ったので、なにか腹に貯まるものを食べさせてやりたい、と伝えると、酒場の主人は丸い顔を綻ばせ、快く承ってくれた。空いている席に着いて待っていると、程無くして、アルバイトの少年が料理を運んで来る。
 蒸かしたジャガイモと山鳥の串焼き、マスタードを添えたソーセージとハムの盛り合わせ、豆がたっぷり入ったトマトスープ、などなど。
 次々と運ばれてくる料理に、二人の子ども達は圧倒されている様子だった。互いに顔を見合わせ、訝しげな視線をジェフリーに向ける。
 最後は四人分の山ブドウジュースが配られ、アルバイトの少年は「追加の注文があったら気軽に声かけてくださいね」と言って、厨房に戻って行った。

「さて」

 ジェフリーが話を切り出した。同時に、周囲の喧騒が消える。子ども達は目を丸くしたが、ジェマは驚かない。ジェフリーが扱う魔法のことを知っているからだ。
 彼の魔法は、声を遠くに飛ばしたり、音を消したり出来る。空気を操る風属性魔法の力の一端だ。

「これで、気兼ね無く話せるはずだ。さっきの話の続き、教えて貰えるかな?」

 二人の少年は顔を見合わせ、うなずき合う。初めに口を開いたのは茶髪の少年だった。茶髪の少年の名はコリーといい、悪戯っ子の名前はルイスといった。
 少年達は興奮した様子で、代わるがわる話してくれた。四年程前に、頭に包帯を巻いた若い男が、エイダに会いに来たこと。その日から、エイダはよく家を空けるようになったと言う。
 コリーの手は、料理を手に取ること無く、机の上で強く握られていた。歯を食い縛りながら、震える声を絞り出す。

「きっと、その包帯だらけの男が、エイダ先生を脅したんだ。そうじゃなきゃ、先生があんな酷いことするわけない」

「そうだよ!」ルイスも声を荒らげる。「アンタ達も村の奴らも、先生ばかり悪者扱いして! 先生がどれだけ大変な思いして、俺たちを世話してくれてたのかも知らないくせに!」

 机を叩き、大声を上げても、無音の喧騒は相変わらず続いている。ジェフリーの表情も変わらない。悪戯っ子は舌打ちをして、乱暴に座り直し、腕を組んでそっぽを向く。

「悔しいよね、わかるよ」ジェマが、静かに声をかける。「エイダ先生だけが悪いわけじゃないって、私達もわかってる。だからね、エイダ先生に悪いことをさせた人を、なにがなんでも捕まえなきゃいけないの」

「そのために俺たちの証言が必要、ってことだろ。わかってるよ」茶色い前髪から覗く目は、真っ直ぐジェフリーを見ていた。「アンタ達はなにが知りたい? どんな情報を渡せば、あいつを捕まえてくれるんだ?」

「ふむ、そうだな」少し考えてから、ジェフリーが質問を投げる。「包帯以外に、その男の特徴を覚えているかな? 背はどのくらいとか、太ってたとか痩せてたとか」

「背は、エイダ先生よりちょっと高いくらい……だったかな。少し猫背で、声は若そうだった。青い目をしていて、黒い服を着てた。それから、多分魔法だと思うんだけど、先生と話し終わって家を出た途端、あいつの姿が消えたんだ。まるで、幻かなにかだったみたいに」

「幻術とか、転移の魔法を使った、ということ?」

「多分、そうだと思うけど……」復讐心に息巻いていたコリーの勢いは、徐々に失われていく。「ごめん、俺、魔法には詳しくなくて。基本的なことはエイダ先生が教えてくれたんだけど……」

「いや、貴重な話をありがとう。すごく助かったよ」ジェフリーはそう言って、二人の協力者に飲み物を勧めた。
『金眼の魔術師』ことエイダに協力者が居たことは、ジェマも聞き及んでいた。その協力者について、有効な手がかりが無いことも。
 サディアスの尋問に対してエイダは黙秘を続けているし、彼女の実験室として使われていた砦は、調査が入った頃にはもぬけの殻となっていた。子ども達の証言は、藁をも掴む思いであろう騎士団にとって、願っても無い光明だ。

「そんなことより、エイダ先生を助けてくれよ」

 自分の分の料理と飲み物を平らげたルイスが、身を乗り出してジェフリーに詰め寄る。

「あの人は村を助けてくれたし、家族が居ない俺たちにも優しかったんだ。村の連中は手の平返して先生を悪者扱いしてたけど、オレは先生のことを信じてる。だから、処刑なんてしないでくれよ……」

「先生がやったことが許されないっていうのは、俺達もわかってるよ」友人の懇願に、コリーも口を添える。「でも、先生は平気で人や生き物を殺せるような人じゃないんだ。あの人の事情も、考えてあげて欲しい」

「やるだけのことはやる。君たちは心配しなくていいよ」

 子ども達の表情が和らぐのを見たジェマは、胸に痛みを感じた。ジェフリーの返答が、エイダの命を保障するという意味で放たれたわけではないことを、ジェマは知っていた。
 彼女の処刑は決定事項であり、どんな事情があろうとも覆ることは無い。禁術の行使は、それだけ重罪なのだ。


 子ども達を教会に送り届け、ジェマとジェフリーは騎士団の宿舎へと向かっていた。日は完全に西へと沈んでいたが、ぼんやりとした赤が丘陵を浮かび上がらせている。

「付き合わせてしまったようで、すまなかったね」道中、ジェフリーが肩をすくめて言う。

「いえ、こちらこそ。忙しいのに、送って貰ってありがとうございます」

「さっき留置所に居たのは、オビ君に会って来たところだったのかな?」

「はい。留置所で騒ぎがあったって聞いたから、少し心配で」

「そうか。その様子だと、オビ君は元気だったみたいだね」

「はい。それで……」

 ジェマは少しためらった。多忙な立場にある兄を急かすようで、気が引けたからだ。ジェフリーはジェマの言葉を待っている。二秒ほど考え、ジェマは改めて口を開く。

「えっと、オビの故郷について、なにか掴めたりして……ないですか?」

「ああ、それね」

 ジェフリーの顔に笑みは無い。顎に手をやり、深く溜息を吐く。

「仕事の合間に、色々調べてはみてるんだけど……竜に関する資料はどれもオカルト染みたものばかりで、オビ君の故郷に繋がる有効な情報は、まだ見付けられてないんだ。もっと古い文献か、口伝の昔話なんかなら、参考になるかもしれないけど」

「そう、ですか……」

 やはり、パーシーが言っていたタロンフォードの民謡を、現地に行って調べるしかないのだろうか。タロンフォード地方へは、一番近い街でも馬車で片道一日半は掛かる。休暇に旅行に行くには遠過ぎる。

「『金眼の魔術師』の事件が落ち着くまでは、部下を動かす訳にもいかなくてね。他所の知り合いにも手伝って貰おうとしてるところで……」

「団長!」

 緊張感のこもった声、慌しい足音。ジェフリーとジェマは同時に振り返る。走って来るのはハロルドだ。部下は連れておらず、ウィーゼルの姿も無い。ジェフリーの前まで来ると、ハロルドは膝に手をついて、ぜえぜえと息を整える。上げた顔には汗が光っていた。

「なにかあったのかい? 落ち着いてからでいいから、ゆっくり話して」

「いえ、もう……大丈夫です。お見苦しいところをお見せしました」

 顎を滴る汗を拭い、ハロルドはジェマを一瞥した。一つ息を吐き、改めてジェフリーに向き直り、姿勢を正す。

「例の事件の実行犯と思しき人物を、先程拘束致しました。身柄は二番隊隊長殿が引き受けられ、尋問するとのことです」

「そうか。報告ありがとう」

「例の事件って、昼間の騒ぎですか?」

「そうだ」ハロルドが、ジェマの問いかけに短く答える。「貴様はここでなにをしている?」

「一緒に夕食を取ってたところだよ」代わりに答えたのはジェフリーだ。「随分探させてしまったようだね。すまなかった」

「いえ。近頃は戦闘を伴う任務も無いので、鈍った体を解すにはいい運動になりましたよ」

 報告を終えて安心したらしいハロルドは冗談っぽく言う。その顔をまじまじと見て、ジェフリーはぽつりとこぼした。

「君は、年々あいつに似てくるなあ」

「あいつ、とは?」

「ギルバートのことだよ」ジェフリーはそう言いながら、ハロルドに近付けていた顔を離す。「兄弟で比べられるのは、嫌だったかい?」

「いいえ……」目を逸らし、襟を直しながら、ハロルドは答える。「そう言って頂けるのは光栄ですが……兄上は、僕なんかよりずっと優秀な人間です」

「確かにそうかもね」ジェフリーの顔に苦笑が浮かぶ。「あいつと肩を並べられる人間は多くない。君は充分優秀だよ、ハロルド君。あいつの弟だからって、気負い過ぎる必要は無い」

「僕……自分からの報告は、もうありません。下がってもよろしいでしょうか」

「ん? ああ、そうだね。引き止めてしまって悪かった」

 ハロルドは一礼して踵を返し、足早に歩き去って行く。気のせいだろうか。彼の表情が、どことなく曇っていたように見えた。「あちゃー」と声が聞こえ、ジェマはそちらを見る。ジェフリーが額を押さえ、うつむいている。

「どうしたんです?」

「いや、ね」ジェマの質問に、ジェフリーは肩をすくめて答える。「あの年頃の子と話すのって、難しいなって思ってさ」

「なにを、急にお年寄りみたいなこと言ってるんですか」

「年寄りだよ。君達から見れば」そう言って、溜息をもう一つ。「今なら、親父の気持ちがわかるような気がするなあ……」

「そういえば、手紙は書いたんですか? 父さん達に」

 ジェフリーはちらりとジェマに目を向け、すぐに離した。騎士団長の仕事が多忙なのは、ジェマも承知している。それ以外の事情があることも。
 ジェマは兄を咎めるつもりは無いし、急かすつもりも無い。だから、「そのうち書いてあげてくださいね」とだけ言っておいた。

「ジェマは」騎士団の宿舎前で足を止め、ジェフリーは不意に口を開いた。「どうして、騎士になりたいと思ったんだ?」

「どうしてって……」物語の主人公に憧れたから、と兄に言うのは気恥ずかしい。他の理由も思い付かないので、ジェマは簡潔に答えた。「小さい頃からの、憧れだったから」

「俺はね、ジェマ」

 その一瞬、ジェフリーの姿が、微かに残る記憶の中の兄と重なった。十年前、父と喧嘩をして村を出て行く前の、兄の姿に。

「俺は、騎士になんてなりたくなかったよ」

 幸いと言うべきか、辺りに人の姿は無い。今は夕食時で、皆、食堂か街へと出払っているからだ。貴重品があるわけでもない宿舎には、警備も少ない。騎士団の長の言葉とも思えない発言を聞いたのは、ジェマだけだった。
 ジェマは驚かなかった。村に居た頃、ジェフリーは騎士に憧れている素振りも無かったし、どちらかと言えば大人しい子どもだった。いつも本ばかり読んでいて、叔父の誘いを受けて山に行くのは、いつもジェマと近所の子ども達だった。
 ジェマに『救世の英雄』を読んで聞かせてくれたのも兄だ。だから、兄が父と大喧嘩をして出て行ったのはショックだったし、ホークバレーの騎士団長を勤めていると知ったときは、ひっくり返るほど驚いたのだ。

「俺は冒険者になりたかったんだ。色んな世界を見て、どこか静かな田舎に落ち着いて、自分の冒険譚を書いた本でも売って、細々と暮らしたかった。小さな村で一生を終えるのはもったいないと思ったし、鍜治なんて力仕事、俺には向いてないし」

 溜息を吐いて辺りを見回し、ジェフリーは笑いながら続ける。

「でもさ、わからないもんだよなあ。ちょっと人助けのつもりが、あれよあれよと言う間に持ち上げられて、こんな俺が騎士団長だ。ホントにさ、わっかんないよなあ」

「兄さん、は……」

 つい口をついた言葉を飲み込むには、一瞬遅かった。こちらを向いたジェフリーの顔には、いつも通りの気の抜けるような笑みが浮かんでいる。

「兄さんは、辞めたいですか? 騎士団長」

「いいや」ジェフリーは変わらぬ表情で即答する。「今は、頼ってくれる仲間が居るんだ。なんの責任も無かったあの頃とは違う。俺は逃げないよ。もう、逃げない」

 言葉の終わりに、ジェフリーがどんな表情をしていたのか、ジェマにはわからない。うつむいた顔が、松明の逆光で影になったからだ。

「ごめんね、なんか愚痴みたいになっちゃって」

 再び顔を上げたとき、ジェフリーの表情は見慣れたものだった。

「謝ることないですよ」ジェマも顔を緩ませ、答える。「兄さん、あんまり自分のこと話してくれないから、ちょっと嬉しかったです」

「そうか。それなら、よかった」ジェフリーは安堵したようにそう言って、踵を返す。「それじゃ、また明日」と言い残して。

 ひらひらと手を振って兄を見送ったジェマは、兄の姿が暗闇に消えた後で、はてと思った。

「また、明日……?」

第四十二話

 エイダが暗殺者に狙われたため、ハロルド達はその対応に追われていた。そのことをジェマが知らされたのは、翌日になってからだった。何故教えてくれなかったのかと問えば、「見習いは知る必要の無いことだ」とハロルドに一蹴された。

「騒ぎを大きくしたくなかったんだよ」正面のソファに座ったジェフリーが、申し訳無さそうに言う。「大っぴらに騎士団を動かすとみんな不安がるだろう? だから、今回はウィーゼル君の鼻を頼りにさせてもらったんだ」

「それで、昨日はウィーゼルを連れてなかったんですね」

 ジェマは隣に座るハロルドに視線を投げ、後ろに立つウィーゼルにも目を向ける。彼は気だるげに溜息を吐き、ジェフリーを睨み付けた。

「俺がアンタらに協力するのは、あの女が捕まるまでって話だったよな?」

「騎士団に力を貸したくないって言うなら、オビ君と相部屋にしてあげてもいいけどね」

「はっ、アンタ、相当な悪党だぜ」

「そんなことより」

 ハロルドに割り込まれ、ウィーゼルは皮肉を含んだ笑みを浮かべて肩をすくめた。

「団長。我々に頼みたいこととは?」

「ああ、そうだね。朝早くから呼び出してすまない」

 ジェフリーは、膝の上に置いてあった羊皮紙の筒をローテーブルの上に広げた。現れたのはセルペニアの地図だ。ジェフリーの指が南西へと向かい、『オルカテイル』と書かれた都市を指す。

「君たちには、ここへ行って貰いたいんだ」

「ここは……タロンフォード地方? ホークバレーの外は、騎士団の管轄外のはずでは?」

 ハロルドの疑問にジェマもうなずく。タロンフォード地方へ行け、という命令は、ジェマにとっては願ってもない。オビの故郷に関する手がかりが、そこで掴めるかもしれないからだ。ジェマだけならともかく、ハロルドにまでそこへ行けと命じるのは、どうにもきな臭い。

「昨晩君たちが捕まえてくれた暗殺者が、自分は『牙の一族』の一員だと言っていてね」

『牙の一族』。その単語を聞いた瞬間、ハロルドの顔色が変わった。ジェマにはいまひとつピンと来ない。

「『牙の一族』って、なんですか?」

「タロンフォードを根城とする、反社会組織だ」険しい顔つきのハロルドが答える。「昨日の事件は、奴らが関わっているということですか?」

「そうかもしれない、としか言えない。今のところはね。そこで、君達に彼の証言の真偽を確かめて来てほしいんだ」

「自分でそう名乗ったのでしょう?」ハロルドは訝しげに訊き返す。

「ああ。でも君も知っての通り、『牙の一族』はタロンフォードを主な活動拠点にしている。ホークバレーにまで手を拡げているという話は聞いたことがない。少なくとも、私が団長を務めるようになってからはね」

「確かに……妙ですね」

 北周りでストークケイプを経由するにしろ、山沿いの道を行くにしろ、タロンフォード地方からホークバレーへ続く道のりはかなりの距離がある。『牙の一族』が地方をまたいで活動するような大組織なら、騎士団はもっと警戒していたはずだ。

「彼が本当に『牙の一族』から送り込まれた刺客なら、今後の街の警備を強化する必要がある。でも騎士団の予算はカツカツだ。王宮騎士団から予算をつけてもらうには、確実な証拠が無いといけない」

「事情はわかりました。でも、確かめるってどうやって?」大きな不安を感じつつ、ジェマは訊かずにはいられなかった。「まさか、その組織にカチ込んで直接訊いて来い、なんて言いませんよね?」

「ああ、もちろんそんなことは言わないよ」

 ジェフリーはそう言って立ち上がり、事務机へと向かう。引き出しから取り出されたのは一冊の本だ。地図の上に置かれたその本の表紙に、ジェマは見覚えがある。とある貴族の波乱に満ちた旅を綴った冒険譚だ。

「名付けて、『ハリス・トールソンの冒険』作戦だ!」

 ジェフリー以外の三人が同じ顔をした。なにを言っているか理解できない、という顔だ。

「トールソンっていうのはこの本の主人公でね、昔実際に居た貴族なんだけど、彼は五男だから継承権が無くて……」

「冒険者になって、色んなところで事件を解決していくんですよね。知ってますよ、私も読んだことありますもん、その本」

 話の腰を折られたジェフリーは一瞬口ごもったものの、めげずに口を開く。

「まあ、なんだ。この物語の設定を使えば、君達が騎士団だと知られずに情報を集められると思ってね」

「なるほど……」ハロルドが神妙な顔をしてうなずく。「騎士団に所属する我々を『牙の一族』が歓迎するわけが無い。だから、身分を偽って連中の動向を探れ、ということですね。団長」

「そういうこと。さすが、ハロルド君は理解が早いね」ジェフリーは満足げにうんうんうなずく。「貴族の旅人を装って噂話を聞いていけば、なにかしら手がかりが得られるはずだ」

「わあ、なんか密偵みたいですね!」

 遊びに行くわけではない、ということは理解しているが、心躍らずにはいられない。物語の登場人物に成り切るというのは、少々恥ずかしくはあるけれど。

「確実な証拠が欲しい、とは言ったが、あまり無理はしなくていい。『牙の一族』がタロンフォードの外まで勢力を広げているかどうか、それだけ確かめてくれればいいよ」

「盛り上がってるとこ悪いんだけどよ」ウィーゼルが喰い気味に口を挟む。「そういう仕事なら、それこそアンタのお抱えの密偵でも使えばいいんじゃねェのか? こんなガキどもに任せていいのかよ?」

 ガキ呼ばわりされたハロルドがムッとした顔をする。彼はウィーゼルを睨みつつも、ジェフリーの答えを促すように視線を向けた。

「任務の危険度からいえば、私の部下を向かわせるのが妥当なんだろうけど……。また刺客が送られて来る可能性がある以上、留置所周りの警備も固めなくちゃいけない。それに、君たちくらいの若者のほうが、警戒されるリスクは低いんじゃないかと思ってね」

 民間騎士団を構成する人間は、二十から四十代の男性が中心だ。まだ十代のジェマやハロルドは、身分証を示さなければ傍目には騎士とは思われない。
 貴族の若者が見聞を広めるために旅をする、という話は、創作に限らずよくあることだ。ジェフリーが提案した作戦は悪くないように思えた。一つだけ、不安要素があるとすれば。

「あの、団長」ハロルドが手を挙げる。

「なんだい」

「恥ずかしながら……自分は、その物語を知らないのですが、今回の作戦に当たっては履修しておいたほうがよろしいでしょうか」

 物語の内容を知っているジェマは、噴き出しそうになるのをなんとか堪えた。主人公のハリス・トールソンは女好きのキザな伊達男だ。正反対の性格を演じるハロルドの姿は、ちょっと滑稽に思えた。

「いや、登場人物に成り切って演技するのは大変だろう。ジェマが内容を知ってるから、設定だけ教えてもらうといい」

「承知致しました」

「他に質問はあるかな?」

 ジェマは少し考えて、おずおずと手を挙げる。ジェフリーとハロルドの視線が向き——ウィーゼルは壁にもたれて目を閉じている——、ジェマはためらいながら口を開いた。

「今回の任務、オビも連れて行っていいですか?」

「オビを?」ハロルドが眉をひそめる。

「タロンフォード地方には、オビの故郷の手がかりがあるかもしれないんです。彼を連れて行けば、なにか思い出すものがあるかもって、思って……」

「貴様、話を聞いていなかったのか? 今回の任務は『調査』だ。遊びに行くんじゃない」ハロルドの口調はいつになく厳しい。「『牙の一族』に強力な魔術師が居るならともかく、今回の任務においてはオビは足手まといにしかならない。僕は反対だ」

「珍しく意見が合うじゃねェか、隊長さんよ」壁にもたれたまま、ウィーゼルが片目を開けてジェマを見る。「忘れたのか? あいつは人間を襲ってるんだぜ。もし向こうでアンタがチンピラどもに絡まれたら、今度は死人が出るかもしれねェ。それでもいいのかよ?」

「それは……」

 エイダを捕まえたときの、真っ赤な血に染まったオビの顔を思い出す。ジェマはそれ以上言葉を続けることができなかった。

「ジェマ。焦らなくていいんだよ。オビ君の故郷のことは私達が調べてる。彼を無事に家族の元へ帰してやりたい気持ちは、みんな同じだ。今回は、自分の仕事に集中してくれればいい」

 兄の優しい言葉が、なんだか辛く感じる。ジェマはただ、黙ってうなずくしかなかった。


 ジェマ達は団長室を出た。これからの時間は、タロンフォード地方へ向かうための準備に当てる。ウィーゼルは店には入れないので、先にハロルドの家に帰った。
 目的地のオルカテイル市はタロンフォードの中心に位置しており、最短ルートで終日馬車を走らせても、到着まで二日は掛かる。今は気温も高いので、休憩も考慮するともっと掛かるだろう。
 ジェマの人生において最も長かった移動は、村からホークバレーに来たときだ。それでも掛かった時間は半日足らずだったので、今回は経験したことの無い長旅になる。

「準備って、例えばなにを用意したらいいんですか? 私、こんなに長い旅に出るのは初めてで……」

「そうだな」ハロルドは顎に手をやり、考えながら答える。「今回はストークケイプ経由で向かうことになっている。ホークバレーからの直通の道には、山賊が出る箇所がまだ幾つかあるからな」

「はい」

「ストークケイプには賊はほとんど出ないが、獣に襲われることも考えられる。用心のために、武器と防具は用意しておいたほうがいい。防具は革製の軽装鎧が好ましいな。雨風を凌ぐために、外套も欲しいところだ」

「革の鎧と、外套ですね。他には?」

「薬と食料、水、野営用の寝袋。テントもあれば申し分無いが……」

「ち、ちょっと待ってください」ジェマは思わずハロルドの言葉を遮った。「そ、そんなに必要なんですか?」

「消耗品はストークケイプで買い足せばいいから、まず用意すべきはテントと寝袋だな。今は夏とはいえ、夜は冷え込むから……」

「いや、あの、宿に泊まったりとか……しないんですか?」

「あそこの宿は高いんだよ。ほとんどが貴族向けだからな」溜息混じりにハロルドは答える。「それに、今は春に生まれた仔馬を買い付けに、セルペニア各地から貴族がこぞってやって来る時期だ。事前に予約をしないと、宿は取れない」

「それなら、ハロルドの実家に泊めてもらうっていうのは……流石に図々しいですかね」

「いや、そんなことは無いが……リース家の屋敷があるのは、目的地とは反対側だ。遠回りになってしまうから、寄るのは難しいだろうな」

「そうですか……」色々と不安はあるものの、のんびりしているわけにもいかないのだから仕方無い。「でも、タロンフォードに入ったら、宿に泊まれるんですよね?」

 一瞬、悩むような表情が見えたが、すぐに顔を逸らされてしまう。

「時間が惜しいから歩きながら説明する。ついて来い」

 旅支度の買い物の道すがら、状況を理解し切れていないジェマに、ハロルドは細かく説明してくれた。

「結論から言えば、なるべく宿に泊まるのは避けたい。タロンフォードの宿は『牙の一族』の息が掛かっていることが多いからな。僕らのような余所者はどうしても目立つ。事を荒立てたくないなら、地元の住民とはあまり関わらないほうがいい」

「暗殺を請け負うような人達を、人々は支持してるんですか?」

「『牙の一族』を敵に回したい賊は居ない。『一族』の傘下に入れば、安全は保障されたも同然だ。但し、連中を怒らせない限りは……だがな」

「でも、タロンフォードにも騎士団はあるんですよね。なにも犯罪組織に頼らなくても……」

「向こうの騎士団の現状なら、兄上から聞かされたことがある。連中は最早『牙の一族』の傀儡(かいらい)に過ぎない。先の戦で一度壊滅して、すっかり腑抜けてしまったらしい」

 戦争当時はオルカテイルという都市は無く、クィン家とマロウ家という二つの貴族が、タロンフォードの南北を治めていた。
 港町であるタロンフォードは、軍事的にも経済的にも重要な拠点である。ゴラド王国との国境に近いこともあり、開戦当初から激しい攻撃に晒され続けていた。
 南タロンフォードの騎士団を指揮していたクィン家の当主は戦死、一人息子は行方不明となり、北のマロウ家は跡継ぎの男子を失った為、両家とも事実上は断絶してしまった。
 騎士団は解体され、戦後、タロンフォードがオルカテイルを含む三つの都市に分けられてから、民間騎士団として再結成された。その際、人員の確保や資金の提供に大きく関わったのが『牙の一族』だったという。

「犯罪組織が、新しい騎士団の設立に協力を? どうして?」

「さあな」

 旅装束を売る店の扉を開きながら、ハロルドは答える。「いらっしゃいませ!」と威勢良く飛んで来た声に会釈を返し、ジェマも後に続く。

「民衆の支持を得て商売をやり易くしたかったのかもしれないし、騎士団を味方に付けて、ライバルとなる他の組織を潰したかったのかもしれない。もっとも、犯罪組織の考えなど知ったことじゃないがな……。よし、これにしよう。貴様も早く選べ」

「あっはい、えっと……」ジェマは視線を巡らせ、一番安い値札の付いた外套を手にする。「じゃあ、これにします」

「本気で言ってるのか?」ハロルドは眉をひそめる。「夏と言っても晴れの日ばかりじゃないんだぞ。こんなペラペラの布切れで雨風が凌げるか」

 不躾とも取れる発言の後ろで、店主が苦笑いを浮かべているのが見えた。

「で、でも……私の手持ちじゃこれが精一杯で……」

 もごもご言うジェマに、ハロルドは眉間を押さえて溜息を吐く。

「外套一枚くらい、騎士団の経費でまかなえる。せめてもう少し厚手の物を選べ」

「すみません、ありがとうございます……」

 フード付きの外套と防具一式——防具は体型に合わせて調整する為、後日引き取ることになった——を揃えた所で、その日の買い物は終了した。

「残りの物は僕が用意しておくから、貴様は帰って休め」

「えっ、でもまだ午後の仕事が……」

「明日の朝には出発する。疲れを残さないよう早めに休んでおけ。貴様の仕事は別の者に頼んでおく」

「わかりました。じゃあ、お願いしますね」

 まだ日の高い内に仕事から解放されるのは、なんだか落ち着かない。とはいえ、先に待っているのは経験したことの無い長旅だ。ハロルドの言う通り、疲れを残しておくのはまずい。
 遅めの昼食を取ったら、マシュマロウ通りの喫茶店でお菓子をつまみながら、久しぶりにゆっくり本でも読もうか。

第四十三話

 ふと顔を上げると、喫茶店の時計は午後五時を指していた。ジェマは切りのよいところで本を畳んで席を立つ。店を出ると、昼間とは違った食欲をそそる香りが鼻をくすぐった。菓子店や喫茶店が並ぶマシュマロウ通りは、夜は観光客向けの飲み屋街へと変わる。
 ジェマの足は騎士団敷地内の食堂へと向かっていた。見習い騎士の手取りでは、しょっちゅう外食をする余裕は無い。食堂なら無料で食事が取れるので、ホークバレー騎士団に所属する騎士達は三食をここで済ませるのが日常になっている。
 今日の献立は、魚の香草焼きだろうか。豆が炊けるにおいもする。菜園のトマトが赤くなっていたから、豆とトマトのサラダかな。トマトベースのスープかもしれない。

「やあ、君」

 嗅覚を頼りに空想を膨らませていたジェマは飛び上がり、声のしたほうへ顔を上げた。ジェマの背後に立っていたのはサディアスだ。背の高い彼は、頭上から覗き込むようにジェマを見ている。

「サディアスさん。こんにちは……ん? こんばんは?」

「挨拶の言葉なんてなんでもいいだろ」首を傾げるジェマをよそに、サディアスはいつもの早口で切り出した。「そんなことより、一つ頼みがある」

「頼みごとですか。なんでしょう?」

 ジェマは快く返事をする。仕事の依頼であれば、ジェマの上司であるハロルドから言伝されるはずだ。直接話し掛けて来たということは、なにか個人的な相談だろうか。

「地下牢に行って、エイダと話をして欲しい」

 言葉の意味を飲み込むまでに、少し時間が掛かった。
 エイダの協力者を探る為の尋問は、サディアスが担当していたはずだ。彼女がなかなか口を割らずに困っているにしても、何故、よりによって見習いの私にそんな依頼を? ジェマは咄嗟に返す言葉が見付からず、オロオロする。

「え、ちょ、ちょっと待ってください。そんないきなり」

「彼女が君と話したいと言っている。暗殺者を差し向けた者についても話が聞けるかもしれない。ついて来てくれるね?」

 これは問いかけではない。命令だ。金色の目に睨まれたジェマは直感的に理解する。

「私は構いませんけど、一度ハロルドに確認を取らないと……」

「彼に話すと面倒なことになる。少し話をして貰うだけだ。私が立ち会えば問題無いだろう」

 それもそうであるが、いまいち腑に落ちない。ジェマは少しの不安と空っぽの腹を抱えて、早足で先行するサディアスの後に続いた。


 留置所の門を潜って左へ行くと、通い慣れた一階の牢がある。オビが居る牢だ。サディアスはそちらへは目もくれず、門から入って正面の階段を下って行った。階段を照らす蝋燭の明かりは心許無い。ジェマは足を踏み外さぬよう気を付けながらついて行く。
 地下牢は静かだった。静か過ぎた。口論や罵倒どころか、雑談の声も身じろぎの物音すらも無い。時折、微かに呼吸のような音が聞こえるのみだ。二人分の足音が、うるさいほどに地下に響く。

「ここの者達には、少しの間眠ってもらっているんだ。話をするなら静かなほうがいいだろう?」

「はあ……」

 サディアスから状況を説明されたところで、ジェマはどういう反応をすべきか迷ってしまう。外部に漏れては困るような話題が想定されるとはいえ、なかなか乱暴なことをするものだ。
 地下牢に備えられた照明は申し訳程度のものしか無く、階段よりも更に暗かった。自分の足元も満足に見えない。身長の高いサディアスは歩く速度も速く、ジェマは置いて行かれないようついて歩くのがやっとで、足元に転がる物体の存在に気付かなかった。
 ジェマの爪先がそれに引っ掛かり、つんのめる。寸での所で踏み止まり、転倒を免れたジェマは、自分がつまづいた原因がなにかを確かめるべく振り向いた。

「ひっ」

 思わず息が引きつる。看守の男性が、石の床にうつ伏せで倒れていたのだ。

「ああ、脅かしてしまったようですね。すみません」

 不意に聞こえた声に、心臓が飛び出しそうになる。それが聞き覚えのある声だと気付き、ジェマが落ち着きを取り戻すまで、三秒ほど掛かった。

「大丈夫ですよ、殺してません。彼も眠っているだけです」

 独房の扉が開いていた。闇を遮る鉄格子の隙間から、金色の目がこちらを覗いている。
 エイダの目から金色の光が失せると同時に、サディアスの体が砂となって崩れ落ちた。残った砂の塊を一瞥し、ジェマはエイダへと視線を戻す。
 かつての敵と対峙しているにも関わらず、ジェマの心中は不思議と穏やかだった。むしろ、元気そうな姿を見て安堵したくらいだ。

「私に話って、なんですか?」

「一言、お礼を言いたくて」

 エイダの答えに、ジェマは首を傾げた。ジェマは騎士団の一員として、禁術を使った犯罪者である彼女を捕まえたのだ。

「それから、もう一度忠告を」

『君は、騎士団が本当に正義だと思うか?』かつて、エイダはジェマにそう問いかけた。今、同じ問いをかけられても、ジェマには答えることは出来ない。正義か、悪か。そんなものは立場によって変わる。騎士団がエイダを犯罪者として捕えたように、エイダにとっても騎士団は憎むべき悪だ。

「タロンフォードへ向かうそうですね」

 何故彼女がそのことを知っているのか。自分がここへ来た経緯を考えれば、訊ねるまでもないことだ。嘘を吐く意味も無いので、ジェマは肯定の返事をする。

「僭越ながら言わせて貰えば、オビ君を守りたいと思うなら、無理にでも連れて行くべきです」

「……どうして?」

「ここに置いて行ったら、オビ君は殺されますよ」

 妙に確信に満ちたエイダの言葉に、ジェマは一抹の不安を覚える。

「この騎士団の団長があなたの兄だということも、ハロルドさんのように正義感に満ちた人が居ることも知っています。だから、人の好いあなたは疑いもしないんでしょうね」

 ジェマは反論する。

「少なくとも、兄さん——団長とサディアスさんは、オビを故郷に帰すつもりだと言っていました。彼らが嘘を言っているとは、私には思えません」

「そう言い切れますか? 家族であるあなたに、嘘を吐く訳が無いと?」

「そこまでだ」

 第三者の声が、静寂に包まれていた地下牢に響く。ジェマが通って来た通路の陰から、白い制服姿の男が現れた。

「ハロルド? どうして……」

「土人形に連れられて地下牢に入る貴様の姿が見えた。そこから離れろ、ジェマ」

 ハロルドは鉄格子を見据えながら早口で言った。彼のように高い魔力を持つ者は、他人の魔力を感知する力も優れている。精巧に作られた土人形でも、ハロルドの目には土塊(つちくれ)に見えていたのだろう。

「女同士の会話を盗み聞きとは、随分よい趣味をお持ちですね」

「ふん」ハロルドは鼻で笑う。「彼女の情に訴えて脱獄を図ろうなどと、浅はかな考えだ。今まで大人しくしていたのは機会をうかがうためだったか? 辛抱が無駄になって残念だったな」

「ちょっと、待ってください」ジェマは思わず割って入る。いや、間に割り込まれたのはジェマのほうなのだが。「エイダが脱獄するつもりだったら、私なんか呼ばなくても、眠ってる看守から鍵を奪えば済むはずですよね」

「そいつの肩を持つのか?」

「だから、そういうことじゃなくて」訝しげな眼差しに若干怯みつつ、ジェマはなんとか場を収めようとする。「わざわざ危険を冒してまで私を呼んだのは、そうしてでも伝えたいことがあったからですよね。エイダ?」

 エイダは貝のように口を噤んでいる。

「ここに居たらオビが殺されるって、どういうことですか?」

 数秒の沈黙を挟み、エイダは重い口を開いた。

「物語の中の存在でしかなかった竜が実在した。秩序を守る立場の騎士団からすれば、その事実は不都合極まりない。オビ君の正体が世間に知られる前に、消してしまったほうが安全です。彼らの面子を守るためにはね」

 震える声の末尾には嘲笑が混じっていた。一度息を吐き、投げ遣りに続ける。

「利用するだけ利用して、いらなくなったら切り捨てる。それがあなた方のやり方ですよね、ハロルド隊長?」

「貴様……!」ハロルドがにわかに殺気立つが、それも一瞬のことだった。「ふん、好きなだけ吠えていろ、魔女め」

「どうして、そこまで騎士団を憎むんですか?」

 踏み込むべきではないとわかっていながら、ジェマは疑問を口に出した。訊いてどうする。自分は聖職者でも神でもない。彼女の懺悔を聞いたところで、彼女を救えるわけではないのに。

「……私は」エイダは絞るように声を出した。「騎士団が憎くて、あなたにこんなことを言ってるわけじゃないんです」

「では、どうして?」

「騎士団は憎いですよ。父の仇ですから。父は、騎士団を信じていました。だから裏切られた。私は、あなたに父と同じような目に遭って欲しくないんです」

「エイダのお父さんは、騎士だったんですか?」

「いいえ。父は研究者でした。バックロックの大学で……」一度言葉を切り、嘲笑混じりにエイダは呟く。「いえ、こんな話をしても、面白くないですよね」

「そんなことないですよ」

 鼻を啜る音に続いて、溜息が聞こえた。

「……あなたを見ていると、父のことを思い出すんです。なんとなく、雰囲気が似ているから」

「それで、忠告をしてくれたんですね」

 答える声は無かったが、おそらくエイダはうなずいたのだろう。

「エイダのお父さんは、きっと素敵な人だったんでしょうね。もしよかったら、もう少し話を」

「どこまでも人が好すぎるな、貴様は」苛立ちの混じった声が、ジェマの言葉を遮った。「そいつのせいで死者も出てるんだぞ。ウィーゼルの弟だって犠牲になってるんだ。どんな事情があろうと、許されることじゃない」

「許しなんて、求めてませんよ」

 投げ遣りな、怒りと悲しみが混ざった音が、喰い気味に発せられた声には込められていた。

「私は道を踏み外した。間違えたんです。騎士団の過ちを告発するなら、他にもやり方があった。どうすればいいかわからなかった。誰も私を導いてくれなかったから」

 エイダの声は震えていた。徐々に強くなる語気に、鼻をすする音が混じる。嗚咽混じりの独白に、ジェマも、ハロルドさえも、言葉を挟むことは出来なかった。

「私は罰を受けるべきです。間違えた責任を取らないといけない。父の研究を汚(けが)した責任を」

「そんなこと言わないでください!」

 ジェマは思わず声を荒らげた。堰(せき)を切ったようなエイダの言葉は止まり、静寂が戻る。自分の声の余韻が止んだ頃、ジェマの視界は滲んでいた。

「確かにあなたは悪いことをした。だから罰を受けなきゃいけない。でも、あなたは元から悪人だったわけじゃない。そうでしょう?」

 エイダの答えは返って来ない。彼女の表情は暗闇に隠れている。

「昨日、あなたが世話をしていた子ども達に会いました。しっかり者のコリー君と、悪戯っ子のルイス君。二人とも元気そうでした」

「……そう、ですか」

 やっと返って来た声は、消え入りそうなほど弱かった。

「あの子達は、今でもあなたのことを慕っています。きっと他の子も。あなたがやって来たこと全てが間違いだったなんて、私は思いません」

 エイダは答えなかった。二人分のすすり泣きが、静まり返った地下牢に響く。

「話は済んだか?」

 しばらくして、ハロルドが口を開いた。その目が一瞥した先で、眠らされていた看守が身じろぎしていた。エイダの魔法が解けかけているようだ。ハロルドは彼に歩み寄り、声をかける。肩を貸して立たせると、ちらりとジェマへ目線を向け、なにも言わずに地上へ続く階段へと歩いて行った。
 その後を追おうとしたジェマを、エイダの声が呼び止める。

「最後に、ひとつだけ」エイダは静かに切り出した。「四年前、私の元を訪ねて来た男——私の研究を支援してくれていた人物についてです」

 頑なに口を閉ざしていた情報を、何故話す気になったのか。疑問に思ったが、エイダと話せる時間の限界は刻々と近付いている。ジェマは黙って、話の続きを待った。

「彼は、私の父——『怪物化』の禁術を発見した人物に、命を救われたと言っていました。頭と顔には包帯をしていて、人相は伺えませんでしたが……彼の右目は、深い、青い色をしていました」

 青い目の、包帯を巻いた男。エイダに保護されていた二人の少年からも、同じ話を聞いている。エイダは続けた。

「彼は先の戦で、タロンフォード奪還戦に従軍していたそうです。当時の年齢は十代後半くらい。髪の色は確認出来ませんでしたが、その年で戦場に出たのなら、恐らく貴族でしょう」

「そこまで喋って、大丈夫なんですか?」

 ジェマは堪らず訊ねる。暗殺者の騒動があったのは昨日の今日だ。エイダは日常の談笑でもするかのようにくすりと笑う。

「どうせ処刑を待つだけの身です。それに」息を吸い、独り言のように続ける。「あなたなら、あの人も止めてくれるんじゃないかと思って」

「それって、どういう……」

「少し喋り過ぎました。今の言葉は忘れてください」

 それ以降、なにを訊ねてもエイダは答えてくれなかった。ジェマは礼の言葉を伝え、地上へ続く階段へと踵を返す。

「あなたは、私より先に死なないでくださいね」

 そう呟いたエイダの声は、ジェマには聞こえなかった。


『金眼の魔術師』の土人形が現れた件は、当然のことながらかなりの騒ぎになった。ジェマは軽い検査を受け、異常は見られなかったので、食事が済んだら部屋に帰って休むよう言われた。ハロルドが連れて行った看守も、催眠魔法による悪い影響は残っていないという。囚人達については、これから検査が行われるらしい。

「君、やっぱり騎士向いてないよ」

 部屋に戻ってパーシーに事の顛末を告げると、彼女は哀れみの目をジェマに向けた。

「そんなこと言われても」

「はあ、ホントにそんなんで大丈夫なの?」ベッドの上であぐらをかいているパーシーは、溜息混じりに言う。「ハロルド様の足引っ張ったら承知しないからな」

「大丈夫ですよ」寝巻き姿のジェマは、力こぶを作るポーズをする。「パーシーが訓練に付き合ってくれたお陰で、結構強くなってるんですよ。自分の身くらいは守れます」

「だといいけどね」同居人は呆れ声だ。「そろそろ明かり消すよ。明日早いんだろ」

 ジェマが布団に入るのを待たず、パーシーの指が蝋燭の火を消した。ジェマは手探りで布団に潜り込み、「おやすみなさい」と同居人に告げて、目を閉じた。

第四十四話

 昇ったばかりの太陽は眩しかった。青く澄み渡った空の下、朝靄漂うホークバレーの門前に、ジェフリーが手配してくれた馬車が停まっている。車を引く馬は二頭とも体力のある若馬で、御者は経験豊富なベテランだ。御者曰く、今日は天候も安定しているので、日が暮れるまでにはストークケイプに到着出来るという。

「では、行って参ります」旅行鞄を手に持ち、背には大きなリュックサックを負ったハロルドが、見送りに来てくれたジェフリーに礼をする。

 彼が着ているのはいつもの白い制服ではなく、地味な色合いの旅装束だ。革製の胸当てと篭手を付け、フード付きの外套を羽織っている。
 ジェマも衣装を新調し、今朝仕上がったばかりの革鎧と新品の盾を装備していた。同じく新品のフード付きのケープは、まだ染料の香りが残っている。

「オビのこと、よろしくお願いしますね」ジェマもハロルドに倣い、ジェフリーに頭を下げる。

「ああ、任せてくれ」ジェフリーは柔らかく笑う。「じゃあ、三人とも気を付けて」

「行って来ます!」

 送り出された三人は馬車へ乗り込む。ジェマは兄に手を振り、ハロルドは改めて敬礼をし、ウィーゼルは大きなあくびをしながら。
 御者の掛け声と共に、ゆっくりと馬車が動き出す。硝子のはまっていない窓からは、早朝のひんやりした風が入って来る。

「凄い荷物ですね……。なにが入ってるんですか?」ハロルドの隣の座席に置かれた荷物を見て、ジェマは言う。

「こっちが着替えで」ハロルドは旅行鞄を指し、続いて巨大なリュックサックを指す。「こっちが寝具と数日分の食料だ」

「ホントに持って来たんですか? テント」

「ああ。騎士団の備品を借りて来た」ハロルドの返事は軽かった。「簡素なものだが、夜露や寒さをしのぐには十分だろう」

「少し持ちましょうか? そっちの鞄だけでも」ジェマは着替えが入っているという鞄を指す。

「必要無い。貴様のほうはどうなんだ」

「どう、って?」急に話題を振られて、面食らう。

「さっきから妙に落ち着きが無い。『金眼の魔術師』のことを、まだ引き摺っているんじゃないか?」

「大丈夫ですよ」ジェマは笑って答える。「久々の遠出なんで、ちょっと緊張してるかもですけど」

 ハロルドは、ジェマの隣に座るウィーゼルをちらりと見る。見られたウィーゼルは怪訝な顔だ。

「あ? なんだよ」

「えーひどい。私が嘘吐いてると思ったんですか?」察したジェマは唇を尖らせる。

「部下の心配をしてなにが悪い」ハロルドはむすっとした顔で言い返す。「僕が見ていない間に、なにを吹き込まれた?」

 ジェマは少し迷ったが、エイダから聞いた内容をハロルドにも伝えることにした。エイダの協力者だという、『包帯の男』についてだ。

「タロンフォード奪還戦、と言ったか?」

「はい」

「その『包帯の男』が、タロンフォード奪還戦に従軍していた、と?」

 しつこいくらいに確認するハロルドに、ジェマは違和感を覚える。

「なにか、思い当たることでも?」

「ああ。その戦闘には父と兄も参戦していたから、話には聞いている」苦い物を噛んだような顔をして、ハロルドは続ける。「敵にも味方にも多大な犠牲を出した、凄惨な戦いだったと……」

「ギルバートさんも、そこで戦ってたんですね」

「そうだ。兄はその時に左目を失った。なににやられたのかは、話してくれなかったが……」

 ギルバートの顔左半分に刻まれた傷。あの爪痕のような傷は、戦場で負ったものだったのか。

「あの傷痕は、ゴラドの機械兵にやられた傷じゃない。あれは、まるで……」

「下ばっか見てると酔うぞ」

 目を瞑っていたウィーゼルが声を上げた。自分の右手を見詰めていたハロルドは顔を上げ、窓の外に目を向ける。一瞬見えた表情がどこか不安げだったのは、気のせいだろうか。


「おい、起きろ」

 ハロルドの声が聞こえて目を開けると、馬車が止まっていた。窓の外には見慣れぬ景色。黄金色の小麦畑の間を流れる川面が、高く昇った太陽を反射して輝いている。周りには橙色の瓦で()いた民家が点在していた。
 どうやらここは、小高い丘の上にある集落のようだ。

「もうストークケイプですか?」

 ジェマはまだしょぼしょぼする目を擦りながら、ハロルドの後に付いて馬車を降りる。

「いや、まだホークバレー領内だ」荷物を背負っていないハロルドの足取りは軽い。「今日は気温が高いから、馬を休ませたいそうだ。少し早いが、昼食にしよう」

「ウィーゼルは?」

「俺はここで待ってるよ」馬車のそばに立っていたウィーゼルが、伸びをしながら答える。「どうせ、また門前払い喰らう羽目になるんだ」

「じゃあ、天気もいいし、外で食べられるものを買って来ましょうよ」

「そうだな」ハロルドがうなずく。「長居しないほうが余計なものを買わなくていい」

 大きな荷物は馬車に預け、近くの宿屋でサンドイッチを買う。宿屋の近くの川辺には東屋が備えられ、鉄製のベンチも置かれていた。ジェマ達は、そこに座って食事を取ることにした。
 なんだかピクニックみたいだ、と、ジェマは心の中でにこにこする。オビが居ないのが、少し寂しい。

「どうした?」食べかけのトマトサンドを見つめたまま動かないジェマに、ハロルドが声をかける。「食欲が無いのか?」

「いえ、大丈夫です」我に返り、笑顔で答える。「ちょっと、オビのこと考えてて」

「そんなに心配なら、街に残ってりゃよかったじゃねえか」タマネギ抜きのサンドイッチを一口で平らげ、ウィーゼルは指に付いたソースを舐めている。

「街に居た間は気にならなかったんですけどねえ」口の中のものを飲み込んで、溜息を一つ。「でも、オビを故郷に帰してあげるって約束しちゃったので」

「タロンフォードに手がかりがあるとは限らないんだろう」二つ目のタマゴサンドを手に取りながら、ハロルドが言う。

「まあ、それを確かめるだけでも意味はありますから」最後の一口を飲み込み、ジェマは微笑む。「それより気になるのが、エイダの言っていた『包帯の男』ですよね」

「そうだな」ハロルドは咀嚼していたものを飲み込み、続ける。「あの戦いに参加していたのは、タロンフォードの南北を治めていたクィン家とマロウ家だ。ストークケイプはマロウ家の領地に隣接していたから、救援要請を受けて途中から参戦した」

「えっ、王宮騎士団の人たちが前線に立って戦ってたんじゃないんですか? 大事な戦いだったんですよね?」

「王宮騎士団は、国の中枢を守るための最後の砦だ。王都にまで踏み込まれない限り、彼らが直接戦場に出ることは無い」

「へっ、高見の見物ってか」皮肉のこもったウィーゼルの声。

「国王が討たれれば国は死ぬ。貴族や騎士は、セルペニアを生かすための臓器であり、手足だ。そういうものなんだよ」ハロルドの口調は淡々としている。

「エイダが言うには、包帯の男は十代後半くらいの貴族だったらしいです。前に聞いた話だと、クィン家とマロウ家のご子息は亡くなってるって言ってましたけど、もしかしたら人知れず生き残ってて、自分達を駒にした王宮騎士団に復讐を! とか、無いですかね?」

「面白い物語だな」返って来た声は呆れていた。「だが、個人を特定するには情報が少な過ぎる」

「どうしてですか?」

「今でこそ『騎士』は職業を指す言葉だが、本来は貴族の階級を指す言葉だ。クィン家やマロウ家、リース家が抱える騎士は全員貴族の出身で、十代の兵士なんてたいして珍しくもない」

「ええ〜……」

 エイダから直接聞いた情報なのだから、核心に近付けたのだとばかり思っていた。とはいえ彼女も、相手の人相は伺えず、言葉も満足に交わしていないのだ。出来る限りの情報を提供してくれたことに感謝こそすれ、責める理由は無い。

「『包帯の男』のことを団長も把握してるなら、兄上にも連絡が行っているだろう。ともかく、ここで空想を巡らせていても仕方無い。馬の休憩が終わったら、すぐに出発するぞ。準備をしておけ」

 食事を終え、街で用意できなかった分の備品を買い足しに向かう。買い物から戻って来たとき、ちょうど馬の準備も整ったようだった。ジェマ達は馬車に乗り込み、再び出発する。
 途中で何度か小休憩を挟みながら、馬車はストークケイプの東端にある村に着いた。太陽は西の山稜に掛かっているが、日の入りまではまだ時間がある。
 見通しのよい草原には広大な牧場があり、柵に囲まれた敷地の中では牛や羊達が草を食んでいる。その牧場を中心に、宿屋、酒場、旅に役立つ道具屋、土産物屋などが軒を連ねていた。
 村の入り口に建つ馬車駅には、金銀の装飾を施した馬車が何台も停まっている。貴族が所有する専用馬車だ。

「くそっ、ここもか!」ハロルドが忌々しげに吐き捨てる。「田舎貴族どもめ、父上の目が届かないと思っていい気になりやがって……。ちょっと待っていろ」

 言うや否や、彼は馬車を飛び降りると厩舎のほうへ駆け出し、管理人と言葉を交わした。管理人は慌てた様子で村のほうへ駆けて行き、数分後、馬車の台数と同じ人数の男女を連れて戻って来る。ハロルドは彼らとの口論の末、強引な方法で納得させ、駅を不当に占拠していた馬車をどかすことに成功した。

「凄かったですね。あれ、毎年ああなんですか?」

 無事に定位置に停まった馬車から降り、ジェマはまだ興奮が収まらない様子のハロルドに声をかける。

「都市部はもっと凄いぞ。流石に、父上の膝元で違法駐車をするような輩は居ないが」うんざりした様子で、ハロルドは答える。「やはり、農村部にも騎士団の駐屯地を置くべきか……いや、そうすると都市の警備が……ううん」

「それはアンタの兄貴や親父が考えることだろ」ウィーゼルが、伸びをしながら呆れたように言う。「アンタはホークバレー騎士団のハロルド隊長だろ。自分の仕事を忘れんなよ」

「……貴様に言われなくてもわかっている」

 ハロルドは舌打ちをして、広大な草原や美しい山稜の風景には目もくれずにさっさと歩いて行く。大きな荷物を背負ったハロルドに追い付くために、ジェマは歩調を上げた。今朝の心配は杞憂だったようだ。

「おい待てよ、この村で泊まるんじゃねェのか?」

 村の出口側の街道に差し掛かったところで、ウィーゼルが抗議の声を上げた。ハロルドは足を止めず、振り返りもせず答える。

「貴様には言ってなかったか? この時期は貴族が大勢押しかけるから、ストークケイプの宿は予約制になっている。オルカテイルに着くまでは宿には泊まらない」

「はあ? 聞いてねェぞそんな……っ!」

 ウィーゼルが途中で言葉を止め、素早く振り向いたので、ジェマとハロルドも足を止めた。

「どうかしましたか?」

「いや……なんでもねェ」ウィーゼルの目と耳は、道沿いの茂みを向いている。

「日暮れが近いからな。獣が動き出したんだろう。この辺りではまだ襲われることは無いと思うが、警戒は怠るなよ」

 それから数十分ほど街道を歩いたが、獣の襲撃は無かった。一行が足を止めたのは、街道を跨るように広がる杉林だ。木々は綺麗に枝打ちされていて、こまめに人の手が入っていることが伺える。雑草も少ないので、危険な獣に出くわすこともなさそうだ。

「この林を抜けたら次の村がある。まだ明るいが、今日はここで休むぞ」

 ハロルドがテントを立てている間、ジェマとウィーゼルは薪を集めることにした。地面に落ちた樹皮や枝はよく乾いていて、薪集めは苦労無くはかどった。
 近くを流れていた川辺の石で即席のかまどを作り、ジェマが火を付ける。そばで見ていたウィーゼルと、調理に取り掛かろうとしていたハロルドが、同時に「おお」と呟いた。

「そういえば、火の魔法が使えるんだったな」

「そういえばってなんですか。私だって魔法くらい使えますよ」感心されているのはわかっているが、少しむっとする。

「馬鹿にしたわけじゃない。怒るな」そう断って、ハロルドは続ける。「火属性は扱いが難しいのに、よく暴発させずに使いこなせるな、と思って」

「私は貴族じゃないし、暴発させるほどの魔力が無いだけですよ」

 ハロルドは気まずそうに顔を伏せ、黙って干し肉の入った袋を開ける。語気が強過ぎただろうか。だとしても、女に言い負かされて引き下がるほど、彼は大人しい人間ではないはずだ。

「そうだよ。わかってねェよなあ、才能のある奴は」ハロルドが弱ったと見るや、ここぞとばかりにウィーゼルが便乗する。

「貴様だって変身の力を使いこなしてるだろう。獣人は魔法の適性が低いのに、凄いよ」

 ウィーゼルのニヤニヤ笑いが珍しく引きつった。

「……どうしたんですか? 急に」

「いや……」ハロルドは取り繕うように咳払いして、干し肉を千切る作業を再開する。「すまない、変な話をして」

「やめろよ。なんか気持ち悪ィぞ」露骨に嫌な顔をして、ウィーゼルはハロルドとの距離を開けた。

「そこまで言わなくていいだろう」ハロルドの顔に、いつもの表情が戻る。

「久しぶりに故郷に帰って来て、感傷的になっちゃったとか?」

 ハロルドは作業の手を止め、針葉樹の枝で覆われた空を仰いで息を吐く。

「そういうことにしておいてくれ」

 軽く夕食を取り、昼間立ち寄った村で買ったクッキーを摘みながらお茶を飲んだ後、三人は交代で見張りをしながら眠ることにした。最初の見張りを買って出たジェマは、一人で焚き火の前に残る。
 日が沈んで、まだ一時間くらいしか経っていないのに、辺りはすっかり冷え切っていた。空に月は無く、満天の星が煌いている。
 ほう、と息を吐く。空気は冷えているが、流石に白くはならない。ぱちりと音がして、火花が散る。手元に積んだ枝を数本くべる。静かだ。自然の音に耳を傾けながら、辺りを見回す。
 がさり。
 草木が揺れる音がした。風の音ではない。ジェマは剣に手をかけ、立ち上がる。数秒の静寂を経て、また、音がした。
 緊張する。獣のにおいだ。鹿か狐であればいい。熊だったらどうしよう。ジェマが注視する木の陰から、ぬっとなにかが現れた。大きな影。悲鳴を上げそうになった瞬間、影の正体に気付く。

「……オビ?」

 灰色のたてがみにくっついた枝葉をぷるぷる振るい落としながら、ホークバレーの留置所に居るはずのオビが姿を現した。
 暗闇の中で広がっていた大きな瞳孔が、焚き火の光を受けて細くなる。ジェマは剣の柄から手を離し、駆け寄った。
 やはり、どこからどう見てもオビだ。間違い無い。オビはきゅーと鳴いて、ジェマの肩に額を擦り付ける。

「やっとおいついた」屈託無い言葉と共に、オビは笑った。

第四十五話

 時は少し戻る。ジェマ達がホークバレーの街を発ってから、数時間後。
 団長室にこもって書類を広げていたジェフリーは、午前の仕事に一区切り打ち、休憩することにした。鼻歌混じりに茶を用意していた彼は、部屋に近付く気配を感じて歌と手を止める。

「どうぞ」

 許可の言葉に呼応し、鉄の扉が重々しく開く。向こう側に居たのは、金銀の刺繍が施された紺色の軍服を纏い、剣を携えた銀髪の男だった。鞘には王宮騎士団の紋章が刻まれている。深い藍色を湛えた目は挑戦的に輝き、まっすぐにこちらを睨みつけている。
 男の名はエルドレッド・レクシア。セルペニア王家の分家、レクシア家当主の第三子にして、セルペニア王宮騎士団の実働部隊を率いる総大将である。年はまだ三十半ばだが、固く引き結ばれた口元と険しい目付きは、立場相応の貫禄を醸していた。
 王族の身辺警護を主な任務とする王宮騎士団が、はるばるホークバレーまで物見遊山に来たわけでもあるまい。ジェフリーは溜息を飲み込んで、ティーセットを机に置く。

「も、申し訳ありません団長! お止めしたのですが……」

 陰に押しやられながら声をあげたのは、ジェフリー直属の部下である一番隊の隊長だ。ジェフリーは部下を労うように軽く微笑み、下がるようにと手で合図を送る。

「これはこれはレクシア卿。わざわざご足労頂けるとは」エルドレッドの元へ赴いたジェフリーは恭しく礼をする。「いや、散らかっていて申し訳ない。いらっしゃるとわかっていれば、掃除をしておいたのですが」

「そんなおべっかでごまかせると思ったら大間違いだぞ、ジェフリー団長」

「ごまかす、とは?」藍色の鋭い目に見下ろされながら、ジェフリーは笑みを崩さない。

「しらばっくれるな」

 エルドレッドは唐突に剣を抜き、その切っ先をジェフリーの喉に突きつける。冷たい感触に導かれるままジェフリーは立ち上がり、上の立場の者を見下ろす形になった。相手は変わらぬ調子で言葉を続ける。

「確かに私は君の言い分を汲み、竜の処分を保留してよいとは言った。『竜の子を殺せば災いが起きる』……古臭い伝承に過ぎないが、万が一ということもあるからな……だが」

 徐々に昂ぶる口調を自覚したのか、彼は一つ息を吐き、刃を収めた。顔つきは相変わらず厳しく、ジェフリーを睨み付けている。

「奴を野放しにしてよいとは言っていない。すぐに連れ戻せ。まだホークバレー領内に居るんだろう」

 オビの檻が開いていた、とジェフリーが報告を受けたのは、つい五分ほど前のことだ。
 報告したのは交代で見張りに当たっていた看守だ。彼は檻の奥に集められた冬毛の塊をオビ本人だと思っていたので、気付くのが遅れてしまったという。争った形跡も無いため、連れ去られたというわけではないらしい。どうも、夜が明けないうちに何者かが鍵を開けたようだ。
 ジェフリーは看守の失態を咎めなかった。彼が真面目に務めていることは知っていたし、たまたま、彼の勤務時間に、オビの脱走が発覚しただけのことだから。ただ、真面目な看守は自信を失ってしまい、当分の間休職すると言っていた。ジェフリーはそれを許可した。
 一昨日の暗殺者騒動と昨夜の事件——囚人と看守が一斉に眠らされ、エイダが操る土人形が騎士団の敷地内に現れた事件——を受け、留置所の警備は魔術面においても強化されていた。
 他の囚人の檻はちゃんと施錠されていたし、電気柵も正常に機能している。不備があったとは考え難い。檻を開けたのは誰か。オビは何処へ行ったのか。ジェフリーは既に指示を出し、サディアス達に調査と捜索を任せている。

「まあ、立ち話もなんですから、どうぞソファに掛けてお茶でも……」

「貴様の怪しげな茶など飲めるか」間髪容れず、エルドレッドの不機嫌な声が遮る。「希少な時間を割いて馳せ参じてやったんだ。言い訳なら手短に話せ」

 呼んだ覚えは無いのだが。浮かんだ言葉は胸の内に秘めたまま、ジェフリーは肩をすくめる。

「どうぞ冷静になってください、閣下。事の重大さを知っているのは、この場ではあなたと私だけです。『拘留中の獣人が、街の外へ脱走した』。ただそれだけで騎士団を動かすのは、あまりに大袈裟でしょう」

「私が怒りに駆られる理由を汲めないほど、貴様は馬鹿ではないだろう。ジェフリー団長。奴が野放しになったことをを知っていて、何故呑気に茶など飲んでいられるのだ」

 エルドレッドは、机に置かれたティーセットを恨めしげに睨み付ける。

「彼は無闇に人を傷付けたりはしませんよ」『金眼の魔術師』捕獲に至った経緯についての詳細は、エルドレッドに知らせていない。理由は言わずもがなだ。「もしそのような獰猛な獣人なら、私もそれなりの処置はします。それに」

 ちら、と、相手の顔を伺う。エルドレッドは口を挟む様子は無いものの、ジェフリーに向けた目は訝しげだ。気付かないフリをして、ジェフリーは続ける。

「オビ君の正体を知っているのは、今の所私が信頼する限られた者だけです。ですが、怪物の襲撃を発端とする一連の騒ぎで、『竜が実在するのではないか?』という噂が、街の至る所で囁かれるようになりました」

「噂が立つこと自体が問題なのだ!」エルドレッドは机を叩いて立ち上がり、声を荒らげる。「竜の存在が明るみになれば、大きな混乱は避けられない。もしそんなときにゴラドが再び攻めて来たら……!」

 ジェフリーは思い出してしまった。七年経っても消えないトラウマだ。エルドレッドの言葉に込められた恐怖が、かろうじて塞がっていたジェフリーの傷を抉る。同時に、目の前の男の痛みが自分と同じものではないことを、頭は冷静に分析していた。
 呼吸を整え、頭の中で数を数える。相手の怒りに飲まれてはいけない。

「ゴラド王国とは、七年前に不可侵条約を結んだはずでは?」

 かろうじて冷静さを保ち、声を発した。咄嗟に浮かべた愛想笑いは余計だった。相手の表情は更に険しく強張る。

「貴様はどこまで呑気なんだ? 確かに我が国は連中の機械兵を退け、戦に勝利した。だが、それは奇跡的な幸運に過ぎない。連中はまだこの国を奪うことを諦めてはいない。隙を見せるわけにはいかないんだ。僅かたりとも!」

 あのときの傷は、当事者であれば誰もが負っている。直接戦場に立ったわけではないエルドレッドでさえ、強大な兵器の脅威に未だ怯えているくらいだ。
 恐怖による怒りをぶつけて来るエルドレッドを、ジェフリーは責めることはできない。立場が逆なら、自分も同じことをするだろう。相手の怒りに飲まれてはいけない。目の前の相手は、敵ではないのだから。

「ならばなおのこと」静かな口調を崩さぬよう、ゆっくり呼吸しながらジェフリーは口を開いた。「我々が浮き足立てば、彼がただの獣人ではないことを裏付けることになります。混乱を避けるためには、あくまで『ただの獣人が脱走した』のと同じように対処しなければならない」

 ジェフリーは、真っ直ぐに藍色の目を見据えていた。数秒間の睨み合いの末、やがてエルドレッドが先に視線を外した。

「では、貴様は『捕らえた獣人をおめおめと脱走させた騎士団の長』ということになるな」

 相手が冷静さを取り戻したことを察し、ジェフリーもようやく息を吐く。

「もうちょっと予算をつけて貰えたら、設備も整えられるんですけどねえ」

「フン、よくもそんな軽口が叩けたものだ」エルドレッドは溜息を吐き、ソファにどかっと座り込む。「やはり、貴様の妹のもとへ行ったと考えているのか」

「恐らくそうでしょう。今日はよく晴れているからにおいも残っているでしょうし、迷子になる心配も無い。無理に連れ戻すよりは、彼女達に任せたほうが安全だと私は判断します」

 伝承によれば、竜は自分の仲間や所有物に強く執着する傾向にあるという。竜の子どもがどのような精神発達をしていくのかは、詳しい資料が無いのでわからないが、子どもというものは得てして執着心が強く、純粋であるがゆえに残酷である。
 オビは魔法を打ち消す力を持ち、巨大な怪物を二度も退けた。計り知れない力を秘める怪物を敵に回すのは、リスクが高すぎる。

「今回の任務の指揮を執っているのは、七番隊の隊長だったな。確か、リース家の次男坊の」

「ハロルド君ですか? はい。彼は『金眼の魔術師』の事件には当初から関わっていますし、騎士団の中では比較的自由の利く立場なので」

「そうか……」

「なにかご心配なことでも?」

「なにか、だと?」

 藍色の目に鋭く睨まれて、ジェフリーは自分の失言を悔いた。

「なにもかもだ! あんな小僧に、領外への調査などという大役を任せるなど……! しかも大した戦力にならない見習い騎士と、なにをするかわからない元盗賊の獣人まで連れて! ああ、ああ。もういい。貴様の考えなど一々聞いていられるか!」

 喋りながらにわかに激昂するエルドレッドの気が落ち着くのを、ジェフリーは静かに待っていた。セルペニアの軍事の要を担う若き総大将の心労は、一介の民間騎士団長には想像も出来まい。
 その内の何割かは自分が原因なので、下手に慰めの言葉をかけては火に油を注ぐことになる。

「君は頭が切れる。平民出の騎士にしては忠誠心も申し分無い。だから、今回のことに関しては見逃してやろう」

「お気遣い痛み入ります」

 恭しく頭を垂れ、ほっとしかけたのも束の間。

「それで、例の『石』の解析は終わったのか?」

 エルドレッドが唐突に振って来たのは、先日、サディアスが持ち帰った物質のことである。
『金眼の魔術師』ことエイダが作った怪物。その腹から出て来た、禍々しい魔力を帯びた赤い結晶。
 人工の魔石であることは判明したが、なにぶん古の禁術による産物である。図書館の蔵書を片端から漁っても、魔術の精鋭揃いである三番隊の知識を持ってしても——当然、サディアスも含めて——その全貌を明かすには至らずにいた。
 ジェフリーが机に向かっていたのは、バックロックの教授に結晶の調査を依頼すべく、手続きに必要な書類をしたためていたからであった。その旨を伝えると、エルドレッドはふむと唸ってから一つの提案を持ちかけた。

「禁術に関する資料は重要機密だ。いかにバックロックといえど、資料が残っているとは限らん。ここは我々王宮騎士団に任せてみないか?」

「禁術に関する資料が、王宮騎士団にはあると?」

 訝しげに投げられた問いに、エルドレッドは余裕たっぷりの笑みを浮かべて答える。

「禁術がどういうものかも知らなければ、取り締まることも出来ないだろう」

 オビを逃がしたことを咎めに来たにしては、到着が早過ぎると思っていた。なるほど、本当の目的は『石』のほうだったのだ。
 ジェフリーにとって重要なのは手柄を得ることではなく、事件が後腐れ無く早急に解決することだ。面倒な書類を書く時間が省けた分、マシュマロウ通りの新作ケーキを食べに出掛けるのも悪くない。エルドレッドの提案を断る理由は無かった。
 断る理由は無いが、素直に引き渡すことも気が引ける。嫌な予感がするのだ。それは漠然とした違和感に過ぎなかったし、こういった予感は大概杞憂で終わるのだが、放置して後々面倒な事態になることも避けたかった。

「……わかりました。お渡しします。ですが、僭越ながら一つご提案をさせて頂きたい」

「なんだ?」

「あれは触れるだけでも危険な代物です。お見受けしたところ、あなたは魔術師をお連れではない様子。機関に到着するまでの間、私の部下を一人同行させたいのですが、いかがでしょう?」

「ああ、もちろん構わない」エルドレッドは即答した。「協力に感謝する。ところで、こちらも一つ尋ねたいのだが」

「なんでしょう?」

「『金眼の魔術師』と面会することは可能だろうか?」

「エイダと?」質問の意味を計りかね、ジェフリーは訊き返す。

「『石』の調査の為に、二、三尋ねたいことがあってね。彼女と少し話がしたいんだが」

「申し訳ありません。レクシア卿の頼みとあればお応えしたいのですが……規則ですので」

 魔術犯罪に関わった重犯罪者と部外者との面会は、市民を保護する目的で原則禁止されている。先日の事件を受け、収容所の魔術対策が強化されたとはいえ、万が一のことがあってはならない。

「そうか、なら仕方が無いな」エルドレッドは意外にも素直に引き下がる。「では、後日改めて伺うとしよう。魔術に精通した者が同席していれば問題無いのだろう?」

「ええ、まあ。ですが、それでは却って手間でしょう」

「どうしても直接話してみたかったのだ。君達を信用していないわけじゃない」

 では御機嫌よう、と別れの言葉を残し、エルドレッドはジェフリーに背を向ける。
 その姿を見送ったジェフリーは、ようやく張り詰めていた息を吐き、用意してあったティーポットから茶葉を数枚取り出して口に含んでから、残りに水を注いだ。水出しは時間がかかるので、葉を噛みながらソファに腰を下ろして待つことにした。
 もう昼飯時近い時刻だったが、昼食を取る前に、書類とのにらめっこの替わりに入った仕事をこなさなければならない。

『いきなり声を聞かせて来たから何事かと思ったら、ずいぶん面倒な仕事を押し付けてくれたね』

 耳元で聞こえたその声は呆れ返っていた。サディアスの声である。

「いやあ、ごめんごめん。直接聞いて貰ったほうが話が早いと思ってさ」

『説明するのがめんどくさかっただけだろ』

 相手から見えないことはわかり切っているものの、ジェフリーの顔には苦笑いが浮かぶ。

『今私の部下からも聞いた。レクシア卿は鷹地区で昼食を取った後、研究室にいらっしゃるそうだ。例の結晶の取り扱いについてはもちろん説明するが、念の為私も王都まで同行する。そういう段取りでいいんだろう?』

「悪いね。旅費は今月の給料に上乗せしておくから」

『そういうことをするから資金繰りに苦労するんだろう。費用は王宮騎士団に請求すればいい。向こうの都合なんだから』

 サディアスは決して金にがめつい性分ではないが、そういう所は傭兵時代からしっかりしていた。昔を思い出し、ジェフリーの顔もわずかに綻ぶ。

『それよりも、私が居ない間の穴をどうやって埋めるかを考えたほうがいいんじゃないのか?』

「それはこれから考えるさ。君の代わりを務められる逸材は、そうそう見付からないだろうけどね」

『人たらしめ』

 唇を尖らせる様が目に浮かぶ。

『まあ、せいぜい早めに帰れるように祈っていてくれたまえよ』

「ああ、そうだね。それじゃあ気を付けて」

 ジェフリーは通信を切り、ソファに背を預ける。こちらから通信魔法を使ったのは久々だった。忍び寄る睡魔に誘われ、彼は昼食とティータイムを兼ねる羽目になるのだった。

第四十六話

 ハロルド達と相談した結果、オビはそのまま同行させることになった。ホークバレーからはかなり離れてしまっているし、改めて帰りの馬車を手配するほどの手持ちも無い。
 オビが脱走したことは、ジェフリーも把握しているはずだ。近くの村で便箋とペンを買い、オビの無事を知らせる手紙を騎士団宛てに出して、一行は旅を続ける。
 乗合馬車でストークケイプ領を出たジェマ達は、タロンフォードの最初の都市、コッドグローヴに差し掛かった所で馬車を降りた。
 街がある西側へは寄らず、隊列を組んだ行商人達が行き交う街道を南へと進む。オビの分の食料を買い足さなければならなかったので、道中にある集落や露店には立ち寄ったものの、地元の住民との関わりは最低限に留めた。
 ハロルドが背負う大きな荷物を見て、詮索好きな人々が色々訊いて来ることもあった。ジェフリーの提案が無ければ、答えに窮して不審感を煽ってしまったことだろう。「従者が主人に荷物を背負わせるとは何事だ!」と叱られる羽目にはなったが。

「オビ、さっき言った三つの約束、覚えてる?」

 周囲の景色を珍しそうに眺めていたオビが、耳を立てて振り返る。

「ケンカしない、ぬすまない、あとはね、ええと……」

「ハロルドの言うことを聞く、でしょ」

 そうだった、と言って、オビはにこにこ笑う。オビの両手には先ほど買ってもらった菓子の袋が抱えられている。

「急がなきゃならねぇのはわかるけどよ、ホントに大丈夫なのかあ?」

 数歩先を歩くハロルドの隣で、ウィーゼルがオビを見遣った。耳としっぽはやる気無く下がっている。

「彼女がああやって言って聞かせてくれてるんだ。大丈夫だろう」

「そう言うお前が一番不安になってんじゃねーか。心にも無いこと言われると余計心配になるんだが……」ハロルドの胸中を嗅ぎ取ったウィーゼルは、あからさまな溜息を吐く。

「とにかく、この森を抜けたらオルカテイル領に入る。この先は今まで以上に気を引き締めていくぞ」

 ジェマ達は今、タロンフォード地方の中央に広がる森を歩いていた。コッドグローヴ領に入って二日半。ホークバレーを旅立ってから、今日で五日が経とうとしている。オルカテイル市への到着が予定より遅れているのは、度々見舞われた通り雨により足止めを喰らったからだ。
 タロンフォード地方は温暖湿潤な気候で、季節を問わず降水量が多い。土地のほとんどは湿地と森に覆われており、集落は比較的水はけのよい場所——島のように点在する丘の麓や山間の斜面に集中している。

「あの、ハロルド」顎を滴る汗を拭いながら、ジェマが声を上げる。「オルカテイルに着いたら、お風呂くらい入れます……よね?」

 ただでさえ気温の高い夏。湿気の多い森を半日歩き続けた一行は汗だくだった。一応、森には行商人のために敷かれた道があるものの、ぬかるんだ地面に木の板を置いただけの簡素なものだ。泥の中を進むよりは歩き易いが、快適な旅路とは言い難い。
 雨のお陰で水には困らなかったが、汚れと疲労を洗い流すには湯と石鹸が必要だ。

「ああ、そうだな」

 その答えを聞いて、ジェマはほっと胸を撫で下ろす。

「直接奴らと接触出来ない以上、調査には数日は掛かるだろう。宿に泊まらなければ、却って不審に思われてしまうからな」

「問題は、獣人を連れて入れる宿があるかどうかだな」溜息混じりに呟いたのはウィーゼルだ。「観光地なんだろ? そのオルカテイルって街は。ペット同伴で泊まれる宿なんてあるのかよ」

「それは大丈夫みたいですよ」言いながら、ジェマは鞄から数枚のチラシを取り出す。

「なんだそりゃ?」

「さっき行商人さんから貰ったんです。オルカテイルの観光パンフレットらしいんですけど」

 チラシにはこう書かれていた。
 オルカテイル市の最も目立つ特色は、その異質な風土にある。タロンフォード土着の文化に加え、セルペニア、ゴラド、そして遠く東の大陸の文化まで、様々な民族や文化が入り乱れている。
 セルペニア王国が東の大陸と交易を行うようになったのは、今から二年ほど前のことだ。それまでは、高い造船技術を持つゴラド王国がほぼ独占している状態だった。
 オルカテイルの港は、貿易船の発着地として適していた。異国の品々を取引するために多くの人が集まり、今やオルカテイルは、タロンフォードの人口の三分の二を占める大都市となっている。

「で、この資料によると、タロンフォードでは昔から獣人が大切にされてきたそうなんです。漁業と農業が盛んな地域なので、害獣避けの神様みたいに扱われてたみたいですね」

「神様ねえ」ウィーゼルはあさっての方向を見ながら耳を掻く。

「今、オルカテイルでは獣人も人間と同じように暮らしているそうですよ。もちろん、他所の野良獣人に対しては警戒してるはずですけど、ホークバレーとかに比べたら、受け入れて貰いやすそうじゃないですか?」

「獣人と人間が手を取り合って仲良く暮らしてるってか? ハッ、そりゃ立派なこったな」ウィーゼルは、ジェマの読み上げる解説をあくびをしながら聞き流す。

 前方に、橙色の光が見えて来た。木の板越しに感じていた足元のぬかるみも無くなり、しっかりした地面の感触がある。森の出口だ。
 徐々にまばらになっていく木立の隙間から、夕日が目を刺した。思わず目を瞑り、なんとか薄目を開ける。

「わあ、すごい」

 開けた景色に、一面の稲の草原が広がった。歪な形に区切られた沼に、まだ穂を付けていない青々とした稲が整然と並んでいる。揺らめく水面に夕日が反射して、散りばめられた宝石のようにキラキラ輝いていた。
 川から伸びる用水路沿いには、水車を備えた小屋が建っている。恐らく脱穀のための作業場だろう。ジェマはベリーコイドの風車小屋を思い出し、懐かしい気分になった。

「これが水田か」ハロルドも、物珍しげに辺りを見回している。

 東方から稲作の技術が伝わったのはつい最近だ。恐らく、今植わっている稲は海を渡って来た種から育ったものだろう。生育状況は不揃いではあるものの、新しい土地に懸命に根を張って生きようとする姿はたくましく見えた。

「急に人間臭くなってきたな。街まであと半刻ってとこか」風のにおいを嗅いでいたウィーゼルが呟いた。「なあ、急がねェと宿閉まるんじゃねえか?」

「おなかすいたよー」オビも便乗して声を上げる。

「あっ、そうだね。ゴメンゴメン」ジェマは気持ちを切り替え、小走りで一行の先頭に出る。「街までもうちょっとだ! がんばるぞー! おー!」

「おー!」

「なんで貴様が仕切ってるんだ」

 盛り上がるジェマとオビに、ハロルドの冷静なツッコミが飛ぶ。ウィーゼルは疲れた顔で、やれやれと溜息を吐いた。


 オルカテイルは城塞都市ではないので、街を囲む城壁は無い。東南北に伸びる道が街道と繋がっており、街の入り口に当たる場所にはそれぞれ一つずつ門が立っている。門には街の名前が大きく書かれた看板が掲げられ、それを照らし出す赤い提灯が幾つもぶら下がっていた。
 門の前で諸々の手続きを済ませ、街に入る許可を得る。街に入った途端、ウィーゼルとオビが同時にくしゃみをした。異国風の香辛料の香りが刺激的過ぎたのだろう。
 街並を彩るのは漆喰の壁を備えた建物と、その軒先に吊るされた色とりどりの提灯だ。ホークバレーでは松明が主流だったが、この街には見当たらない。魔石の街灯とも違う不思議な光だ。いつの間にか、本当に異国に迷い込んでしまったような錯覚に陥る。
 街の入り口から奥へ続く大通りには、屋台がずらりと並んでいた。どれも異国の料理らしく、どんな料理が提供されるのか見当もつかない。ただ一つ、美味しそうだということだけはなんとなくわかった。ジェマの腹がさっそくぐうと鳴る。

「宿を取る前になにか食べて行くか?」近くの店を指し、ハロルドが提案する。

「いえ、大丈夫です。ほら、さっきウィーゼルも言ってたでしょ。急がないと宿閉まっちゃいますよ」

 大都市と謳うだけあって、街の賑わいはホークバレーにも劣らない。外国人らしき姿は見えないものの、綺麗な身なりをした獣人たちの姿が、群衆の中にちらほら見える。その多くが山猫族なのは、さすが港町といったところか。
 外から来る獣人が珍しいのか、耳を立ててこちらを見ながら話をしている獣人の姿も見えた。それに気を悪くしたらしいウィーゼルが、牙を見せて唸る。こちらを見ていた獣人達は、気まずそうに目を逸らして立ち去って行った。

「こら、喧嘩を売るな。田舎者丸出しで恥ずかしくないのか」

 苦言を呈するハロルドに対し、ウィーゼルは不満たっぷりな顔で睨み返す。

「あ? 先にガン飛ばして来たのはあっちだろ?」

 ハロルドは舌打ちする。

「任務に支障が出るからトラブルは起こしたくないんだよ」

「このくらい、獣人同士じゃ挨拶みたいなもんだろ」

「はぐれのくせに自分のルールを押し付けるな」

「お? 言うねェ『ハリス様』? 俺は別にアンタとやり合ったっていいんだぜ」

「痛い目を見ないとわからないようだな。上等だ。そこに直れ」

 徐々に熱くなる二人の間に、突如割り込むものがあった。大きな木の葉に包まれた、熱々の肉饅頭だ。

「ごめんなさい、やっぱりお腹空いたんで買って来ちゃいました。おいしいですよ、このパン」

 饅頭を差し出すジェマの後ろでは、オビが物欲しそうにハロルド達を見ていた。ちなみに、オビは既に饅頭を二つ平らげている。
 水を差されて冷静になったらしい二人は、無言でジェマの饅頭を受け取った。

「他にも香辛料の入ったシチューとか、魚の揚げ物とかも気になるんですけど、まずは寝る所を探さないとですね。お風呂も入りたいですし」

「……そうだな。まずはあそこから聞いてみるか」

 饅頭を食べ終わったハロルドは、一番近くの宿へと足を向けた。観光を売りにしているだけあって、見える範囲だけでも六軒くらいの宿屋が建っている。一部屋二人ずつと考えて、最悪同じ宿に泊まれなかったとしても、今夜の寝床は苦労無く見付けられるはずだ。
 その予想が甘かったことに気付いたのは、六軒全ての宿屋に宿泊を断られてからだった。

「おかしいだろ! 見たか? 俺らの後に入ってった客、普通に部屋取れてんじゃねーか! 予約もしてないくせによ!」

 ウィーゼルが喚くのも仕方無い。夜はすっかり更け、通り沿いの屋台は店仕舞いを始めている。明かりを点けている店が徐々に少なくなっていく中、ジェマもハロルドも焦っていた。オビは心配そうにジェマの顔を覗き込んでいる。

「やっぱり、五日もお風呂入ってないから断られるんですかね……」

「いや、そういうことじゃないだろう。獣人向けの浴室があるくらいだ。衛生面の問題でないとすれば……」

 いったん言葉を区切り、ハロルドは溜息を吐く。

「ないとすれば?」

「宿を取れない原因は、おそらく僕のせいだ」

「なんか出禁になるようなことでもしたのかよ」

「そんなわけ無いだろう」呆れた調子で返し、ハロルドは続ける。「思い出してみろ。この街に入ってから、貴族の姿を見たか?」

 言われてみれば、無いような気もする。旅人はフードや帽子を被っていることが多いので、傍目では貴族か平民かを区別することは難しい。しかし、お忍びで旅行に来ている貴族が居たとすれば、所作や言葉遣いである程度推測することは出来るはずだ。

「クィン家とマロウ家の話は前にもしたよな」

 ジェマはうなずく。タロンフォード地方の南北を治めていた二つの貴族の名前だ。戦争で両家とも力を失い、後にタロンフォードは三つの領地に分けられた。

「元の領主に代わって戦後の行政に携わっていた貴族の中には、中央から左遷されたような連中も居たらしい。不当に高い税を取られたり、新しい商売の許可を得られなかったりした例もあったそうだ。そのせいで、貴族に対する反感が強いんだろうな」

「でも、貴族ってのは大抵金持ちだろ? 道楽で旅してる貴族の坊ちゃんなんて、商売やる連中にとっては絶好のカモじゃねえか」

「金銭だけで解決できる問題じゃないんだろう。でなければ、反社会組織に治安維持を頼ったりしない」

「お困りデスカ?」

 突然背後から聞こえた聞き覚えの無い声に、一同は猫みたいに飛び上がった。

「あややごめんネ、若者が路頭に迷ってるみたいだったカラ、ワタシ声かけたヨ」

 話し掛けて来たのは、ふっくらした顔つきの糸目の男だ。どことなく、さっき食べた饅頭に似ていた。
 見たところ敵意は感じられないが、ハロルドはあからさまにムッとした口調で答えた。

「別に路頭に迷ってはいないが」

「そんな怖い顔したら嫌ヨ。東洋人ヒトさらう、これ迷信ネ」饅頭男は、相変わらず飄々としている。「ワタシこの街で商売してるター・シェンいうネ。君達泊まる場所探してる? ウチ来るといいヨ」

「えっ、いいんですか?」

 願っても無い申し出にジェマは顔を明るくするが、ウィーゼルとハロルドは渋い顔をしている。

「そうヨ」ター・シェンと名乗った商人は、黒いあごひげを機嫌よく撫でる。「今から晩ご飯はちょっと難しいだけど、ベッドとお風呂と朝ご飯付けてあげるはできるヨ。晩ご飯無いぶん安くするネ」

 ジェマの後ろで、ハロルドとウィーゼルがなにかを話し合っている。しばらくして結論が出たらしく、ハロルドが口を開いた。

「……わかった。案内してくれ」

「マイド!」ター・シェンは満面の笑みを浮かべる。「ウチいい所ヨ! ここからちょっと遠いだけど、頑張ってついて来てネ!」

第四十七話

「それにしても凄い荷物ネー少年。どこから来たノ?」

「……ストークケイプ」

「あいやー遠いネ! でもいい所ヨ! ワタシ時々お肉買いに行くネ!」

「なあ、本当に道は合っているのか?」

 機嫌よく話し掛けてくるター・シェンに付き合っていたハロルドが、痺れを切らしたように話題を変えた。
 ジェマ達は西地区と呼ばれる区域に来ていた。辺りの店舗には煌々と明かりが灯っており、人通りも多い。通りには劇場や酒場の看板が並び、魔石の照明がそれらを煌びやかに照らし出していた。
 露出の高い服装をした美女が、手を振りながらこちらに呼びかけている。ター・シェンはにこにこと彼女達に手を振り返し、ハロルドのほうへ向き直った。

「大丈夫、ワタシこう見えて二年ここ住んでる。道はバッチリわかるヨ!」

 ター・シェンは胸を張って答える。相変わらず、宿らしき建物は見えない。彼の態度に後ろめたいところは無く、とても悪人には見えないのだが、どこか怪しい場所へ連れて行かれるのではないかという不安が、ジェマの胸中にも浮かび始めていた。
 ター・シェンの真意を探るために頼りになるであろうウィーゼルは、うつむきながらへろへろと歩いている。辺りに漂う煙草や香水のにおいは、獣人には特に辛いだろう。オビもジェマの肩に顎を乗せて、「くさいよー」と文句を言い続けていた。

「ワタシの店、ちょっと奥にあるからわかりにくいネ。オーシャン・ビュー見える素敵な宿ヨ。ほら、あそこあそこ」

 厳つい猫獣人達に睨まれながら酒場の角を曲がると、真っ暗な路地に浮かぶ提灯が見えた。提灯には異国の文字で『大熊』と書かれていた。路地を通る風には磯のにおいが混ざっている。

「ター・シェンのお店、『ビッグ・ベア』にようこそ!」

 彼が示した建物は、至って普通の外観をしていた。木造二階建て、入り口の扉は両開きで、ドアノブにはクマの彫刻が施されている。扉の上に飾られた看板には、大きな魚を咥えたクマが、迫力満点に描かれていた。

「これワタシの妻が描いたノ。ここの彫刻もヨ。上手でショ?」にこやかに言いながら、ター・シェンは宿屋の扉を開ける。「ただいまヨー! お客さん連れて来たネー!」

「おかえり」

 カウンターで頬杖をついていた女が、気だるそうな声で答えた。赤茶色の髪と、夕日のような赤い目。彼女はどうやら、生まれながらのタロンフォード人のようだ。
 彼女は徐に立ち上がると、ハロルドの前に立って手を差し出した。

「荷物」

「ん、ああ、頼む」

 ハロルドは握手を求められたと思ったらしく、出そうとした手をさりげなく引っ込めた。

「四人ね。いつまで泊まるの」

「とりあえず、今晩休めればいいから……一泊でいいよな?」

 うなずいたのはジェマだけだったが、ウィーゼルも文句は言わなかった。オビは立ったままうとうとしている。

「だめヨー!」隣でにこにこしていたター・シェンが、突然声を上げた。「一晩だけじゃウチの魅力伝わらないネ! せめてベルの晩ご飯は食べてもらわないト!」

「やめなよ、シェンちゃん」

 静かに咎められ、ター・シェンはしょぼんと大人しくなった。

「じゃあ付いて来て。部屋に案内する」

 彼女の後に倣い、ジェマ達は二階へ上がる。客室は全部で八つあり、その内一つには使用禁止を示す札が掛けられていた。ター・シェンの妻、ベルことベルナルドの話によると、その部屋は雨漏りが酷く、床が抜けかけているという。

「気を悪くしたならごめんね。シェンちゃん、ちょっと押しが強いとこあるから」

「いや、別に気にしてない」返された荷物を受け取りながら、ハロルドは答える。

「部屋は全部空いてるから、好きな部屋使って。お風呂の用意出来たら呼ぶから」

「ありがとうございます」

 お辞儀をしたジェマに手を振りながら、ベルナルドは一階に戻って行った。
 各々部屋を決めた後、四人はハロルドの部屋に集まって今後の話し合いをすることになった。ター・シェン曰く『オーシャン・ビューの素敵な宿』らしいが、窓の外には煉瓦の壁が立ちはだかっていた。波の音が聞こえる。海が近いことは事実だ。
 料金を払えば夜食を出してくれると言うので、勧められた魚肉団子のスープを注文した。生姜の利いたスープが、疲れた身体に染み渡る。

「来る途中はちょっと不安でしたけど、奥さんもいい人そうですね」

「あまり気を抜き過ぎるなよ。あの歓楽街、恐らく『牙の一族』の息が掛かってる」

「この宿の奴らも連中の仲間だって思ってるのか?」大きなあくびをしながら、ウィーゼルが言う。「あの夫婦、少なくとも悪意のにおいはしないんだよなあ。ただ、ちょっとビビってるっていうか」

「悪意が無いのは、こちらの素性を知らないからかもしれませんけど」ジェマは肩に寄りかかって眠ってしまったオビを床に寝かせる。「最初から疑い過ぎるのもよくないですよ」

「そうだな……」ハロルドは考え込むようにうつむいて、顔を上げた。「少し、鎌をかけてみるか」


 翌朝、ジェマが眠い目を擦りながら一階へ降りると、ハロルドとター・シェンが話をしていた。ウィーゼルもその場におり、降りて来たジェマを手招きする。ジェマと同室のオビはまだ眠っているので、この場には居ない。

「それでね、もうお金無い言ってるのに、『牙の一族』の連中、「金払えー!」って、机蹴っ飛ばしたノ! どかーん! って!」

 興奮気味に語るター・シェンの言葉の中に、物騒な単語が聞こえた。

「おはよう」

「ひゃあ!」

 突然後ろから声を掛けられて、ジェマは変な声をあげてしまった。

「朝ご飯食べるでしょ? オカユでいい?」

「あ、はい。お願いします……」

 ジェマには『オカユ』がどんな料理なのかわからなかったが、言われるがまま注文してしまった。昨晩のスープも美味しかったし、不味いものが出てくることはないはずだ。

「ワタシ思ったネ。殺されるーって。故郷(くに)の父ちゃん母ちゃんの顔が浮かんだヨ。父ちゃん母ちゃん、戦争で死んじゃったんだけどネ」ター・シェンは相変わらず興奮気味に話し続けている。

「そうか。それは気の毒だな……。で、『牙の一族』はその後どうしたんだ」ハロルドが、さりげなく話を戻す。

「それがネ、信じられないことが起こったヨ。『ヒーロー』が現れたネ!」

「『ヒーロー』?」運ばれて来た鶏出汁の米粥を啜っていたジェマは、思わず声を出した。

「あれ、おはようお嬢ちゃん。気付かなかったヨ。ベルのお粥美味しいでショ?」振り返り笑顔を向けるター・シェン。

「おはようございます。あの、ヒーローって?」

「ヒーロー、命の恩人ネ!」

 ター・シェンは立ち上がり、当時の状況を実演し始めた。

「いつの間にか、店の中に男が居たのヨ。こうやって、玄関の前立ってたノ。それ見たチンピラ、なに見てるカ? 文句あるカ? 言って、その男にも手上げたワケ」

 その後の展開は、空想の物語では定番の流れだった。男は喧嘩を吹っ掛けてきた『牙の一族』のチンピラを、圧倒的な強さで次々となぎ倒した。命拾いしたター・シェンが男にお礼を言おうとすると、男は逃げたチンピラを追って、名乗りもせず去ってしまったという。

「名前はわからなかったけど、その男、黒い獣の被り物してたネ。獅子みたいな、オオカミみたいな、ワタシ見たことない獣ヨ」

「嘘みたいな話だよね。私も最初は疑った」

 空のお椀を下げに来たベルナルドが、会話に参加する。

「でもね、一昨日だったか、『牙の一族』のお偉いさんがここに来たんだよ。部下が余分に徴集したみかじめ料を返すって言ってね。その代わり、『獣頭の男』について知ってることを全て話せって言われて」

「さっきの話、全く同じに話したら、その人信じてくれなかった。お金もくれなかったヨ! 酷いよネ!?」

「嫌がらせされなくなっただけいいじゃない」

 ター・シェンが嘘を吐いているとは思わないが、確かに信じ難い話ではある。ハロルドは明らかに疑っているし、ジェマも半信半疑だ。

「俺は鼻が利くからよ、アンタが嘘を吐いてねェってことはわかる」

 今まで黙っていたウィーゼルが、ここに来て口を開いた。

「だがその『獣頭の男』ってのは、ホントに見覚えがねえのか? いくら腕っ節が強くて正義感に溢れてるバカでも、見ず知らずの人間のためにヤクザに喧嘩売るかね?」

「ワタシここ住んで二年だけど、ベル以外の人とはあまり仲良くないヨ。みんな東洋人怖がるネ」ター・シェンは「あっ」と言って、言葉を付け足す。「でも『友達じゃない』だけネ! みんな優しいヨ!」

「つまり、この周辺にはあなたを命懸けで助けるような人は居ない、と?」

「そうだけど、そんな言い方するは冷たいヨ……」ハロルドの指摘に、しょぼんとするター・シェン。

「この辺で『牙の一族』に楯突こうって奴は居ないよ」食器を片付け終わったベルナルドが戻って来た。「私達がここで商売できてるのも、『牙の一族』のお陰なんだ。時々乱暴だけど、貴族の街に居た頃よりマシだよ」

 ジェマは気まずい空気を感じてハロルドを見た。彼の険しい表情はジェマ達にとっては見慣れたものだが、ベルナルドには気になったらしい。苦笑混じりに彼女は言う。

「そんなしかめ面しないで。貴族がみんな悪い奴だなんて思ってないから」

「気にすんなよ奥さん。そいつは元々そういう顔なんだ」

 意地の悪いニヤニヤ笑いを、ハロルドが睨む。身構えるウィーゼルに、攻撃が飛んでくることは無かった。

「貴族の中に、悪人が居ることは事実だ」ハロルドの声には憂いが含まれている。「オルカテイルの住民が貴族嫌いなのは、仕方の無いことなんだろうな」

「ワタシは貴族好きヨ! いっぱいお金くれるネ!」

「シェンちゃんはお金好きだもんね」ベルナルドは子どもを見守るような顔で、ター・シェンの傍らに立つ。「私も貴族は嫌いじゃないよ。悪い貴族が嫌いなだけ」

「ねえ、ハリス様」

 偽名で呼びかけられたハロルドが、一瞬遅れて顔を上げた。ジェマは続ける。

「その『獣頭の男』、気になりませんか? 誰も逆らえない『牙の一族』に立ち向かうなんて、只者じゃないですよ」

「覆面を被ったヒーローの正体か? 別に気にならないな」ハロルドの反応は素っ気無い。「悪さをしてるならともかく、人助けをしているなら害も無いんだろう。まさか、『牙の一族』に同情してるんじゃないだろうな?」

「そういうんじゃないですよ。ただ……ほら、ター・シェンさん、その人にお礼言いたいんじゃないですか?」

 突然話を振られたター・シェンが、小さな黒い目をぱちくりさせる。

「ワタシ? そうねえ、お礼言えるなら言いたいネ。でも危ないコトは関わりたくないヨ」

「ですよね! ほら、ハリス様! 世直しですよ!」

 興奮気味のジェマの真意は、まだハロルドには伝わっていないようだ。ウィーゼルはなにか察したようだが、ハロルドの反応が面白いのかニヤニヤしながら黙っている。

「『牙の一族』に立ち向かう孤高の覆面ヒーロー! ぜひお話を伺って、必要ならば手を貸すべきです! さあ、そうと決まればさっそく捜索に向かいましょう! まずは部屋に戻って作戦会議です!」

 なにがなんだかわからない顔をしているハロルドの手を、ジェマはお構い無しにむんずと掴んだ。勢いのまま階段を駆け上がるジェマと、抵抗する間も無く引き摺られていくハロルド。その後を、ウィーゼルがあくびをしながら悠々と追いかける。

「なんのつもりだ」部屋の前まで来たところで、ハロルドはようやくジェマの手を振り払う。「僕達は遊びで来てるんじゃないんだぞ。余計なことに首を突っ込むな」

「乱暴なことしてごめんなさい。でも、ほら、ター・シェンさんの話が本当なら、ちょうどいいかなって思って」

 部屋に入ると、起きたばかりのオビが伸びをしていた。

「なにがだ」

 扉を閉めてから、ジェマは話を続ける。

「私達がオルカテイルに来たのって、『牙の一族』の関係者がエイダを暗殺しようとしたからですよね?」

「ああ。正確には、あの暗殺者が本当に『牙の一族』の一員なのか確かめるため、だな」

「団長は、『牙の一族』との接触は危険だから、なるべく避けるようにと言ってました。彼らと接触しないでどうやって調べたらいいんだろうって、ずっと考えてたんですけど……」

「だから偽名を使って素性を隠してるんだろう。騎士だと知られたら、どんな言いがかりをつけられるかわからない」

「そうなんですよね。でも、その設定だと今の私たちは一般人なんですよ。観光地に来て、犯罪組織のことばかり調べてたら不自然じゃないですか。だから、『牙の一族』に敵対している人を調べてるってことにすれば、一応つじつまは合うんじゃないかって」

 ハロルドの表情が変わった。どうやら理解してもらえたようだ。

「『牙の一族』と敵対している『獣頭の男』を調べれば、奴らの動きもわかる。そういうことか」

「そうですそうです! 上手く協力できれば、暗殺を依頼した人のこともわかるかもしれませんし!」

「問題は、その『獣頭』が本当に味方になってくれるかってとこだな」

 後ろから飛んで来たウィーゼルの声に、舞い上がっていたジェマはぴたりと止まる。

「それは会ってみなければわからないだろう」答えるハロルドは落ち着いていた。「今のところ、彼がこちらと敵対する理由は無い。僕達は余所者で、彼とは面識は無いんだからな」

「それじゃあ、ター・シェンさんに『獣頭の男』について詳しく聞きましょう。もしかしたら、またなにか思い出すかもしれないですし!」

「そうだな。その前に」

 ハロルドが指差した先に、物言いたげに布団をかじりながらこちらを見ているオビが居た。

「こいつに朝食を食べさせてやらないとな」

第四十八話

 お粥だけでは物足りないと言うオビに、ベルナルドは焼き魚と豆乳のスープを出してくれた。オビは既に二回もおかわりしている。オビがスープを啜る様子があまりにおいしそうだったので、耐えかねたジェマも頂くことにした。

「で、『獣頭の男』について、もう一回話を聞きたいって?」

 向かい側の席に座ったベルナルドが、頬杖を付いてジェマを見やる。当初はター・シェンに話を聞くつもりだったが、ジェマ達が話を纏めて降りて来たときには、彼は市場に買出しに出掛けた後だった。
 ハロルドとウィーゼルは、『獣頭の男』の目撃情報が無いかを調べるため、歓楽街に聞き込みに出ている。『ビッグ・ベア』には、ジェマとオビ、そしてベルナルドの三人だけが残されていた。

「私はそのとき店に居なかったから、シェンちゃん……旦那から聞いた以上のことはわからないんだけど」

 そう前置きして、彼女は『獣頭の男』に関する憶測を語った。
 かつて、タロンフォードの山林には『ワウル族』と呼ばれる蛮族が住んでいた。彼らは『人狼族』とも呼ばれ、獣の皮を被り、その力を得る魔術を用いて略奪を繰り返す山賊集団だったという。

「ワウル族? 獣人とは違うんですか?」

「うん。彼らは魔術を使って獣の力を身に宿す。変身の魔法に近いのかな。獣人よりも獰猛で、他の集落の人や旅人を襲って食べてたなんて話もある。どこまで本当かわからないけどね」

「ひええ……」ジェマは身震いする。

 ワウル族はタロンフォードがセルペニアに統合された際に絶滅したとされているが、迷信深い人々は、彼らがまだ生き残っていると信じている。「悪戯ばかりしていると人狼が来るよ!」という決まり文句は、タロンフォードで幼少期を過ごした人間ならば耳慣れたものだ。

「『獣頭の男』はそのワウル族に関係してる、ってことですか?」

「もしくは、本当にワウル族の生き残りだったりして」

 ベルナルドの表情が真剣そのものだったので、ジェマは思わず生唾を飲んだ。

「なんてね。そんなわけ無いか。お皿片付けるから貸して」

 感情が顔に出ない人の冗談はわかりにくい。サディアスのことを思い出しながら、ジェマは詰めていた息を吐いた。

「あの」ジェマは空いた皿を手渡しながら、声を出した。「ワウル族についてもう少し調べたいんですけど、この辺りに図書館とかありますか?」

「図書館はちょっと遠いけど、昔話を纏めた本なら部屋にあるから、後で貸そうか」

「え、いいんですか!?」

 ジェマは思わず身を乗り出して、はっと我に返って座り直した。ベルナルドの顔が綻ぶ。

「ちょっと待っててね。これ片付けたら持って来る」

 皿を洗う音を聞きながら、ジェマは窓を見遣った。隣の建物の壁しか見えないが、差し込む光の具合から、今日は晴天だと伺える。
 ハロルド達は今頃、『獣頭の男』について有力な情報を掴めただろうか。彼らが出掛けてから、まだ半刻も経っていない。ジェマも付いて行くつもりだったが、纏まって動くより手分けをしたほうが効率がいいとハロルドに言われた為、ここに残ることになったのだった。
 ハロルドがジェマを『ビッグ・ベア』に残したのは、効率の為だけではないことはわかっている。この宿は今のところ安全だが、周囲の人間が余所者に寛容であるとは限らない。
 ジェマは護身用の体術の心得を持ち合わせている。アウトロー達が行儀良く正々堂々と勝負を挑んでくるような武闘集団なら、彼女も自分の身を守るくらいは出来るだろう。人の好い商人から、暴力で金を巻き上げようとする連中でなかったなら。

「お待たせ。とりあえずこんなもんでいいかな」

 ベルナルドの声に続いて、机の上に本の塔が築かれる。辞書のように分厚い古い本が、四冊。どさっという音に、ジェマの足元で丸くなっていたオビが「ぴゃっ」と鳴いて飛び起きた。

「ワウル族関連の伝説を書いてるのが何巻だったか忘れちゃってさ。もしその中に無かったら言って。挿絵が多いから、すぐ読めると思う」

「ありがとうございます。あの、ここで読んでても……?」

「いいよ。お茶でも飲む?」

「あ、いただきます」

 紅茶や東洋茶は高級品だ。ホークバレーで庶民のお茶といえば野草茶や麦茶だが、タロンフォード地方では、炒った豆を煮出したものが主流らしい。香ばしい褐色のお茶は苦味が無く、ほんのり甘かった。

「私は奥で作業してるけど、お茶のおかわりが欲しかったら、カウンターのベルを鳴らして」

「はい」

「じゃ、ゆっくりくつろいでてね」

 ジェマは一冊目の本を手に取る。開いてみると、恐ろしげな挿絵が添えられた目次が現れた。森の奥に住む魔女の話や、人を攫う人魚の伝説、財宝を守る鬼が住む島……。人狼と呼ばれた部族の話は、どうやらこの本には収録されていないようだ。ジェマはぱらぱらと本を捲った。脱線することはためらわれたが、好奇心に抗うには、彼女はまだ幼過ぎた。

「ん、これって……」

 ジェマの目が、ある一文に止まる。『霧を纏う島』。文章は更に続く。『霧を抜けると、シャチの背びれのようにそびえる山があった』。霧。背びれ。『ミストピナ』。

「ねえ、オビ、オビ、これ見て」

 再び足元で眠りに就こうとしていたオビは、ぴくりと耳を立てて顔を上げた。

「どうしたの?」のっそりと立ち上がって、ジェマが指すページに目を向ける。

「この絵に描いてある島、見覚え無い?」

 荒れ狂う黒い波間に、今にも沈みそうな帆船が浮かんでいる。その前方には、天高くそびえる島。雲のような霧に覆われ、その全容は伺えない。

「オビの故郷のミストピナって、こんな島じゃなかった?」

「……ちがうよ」オビはむうと唸って、耳を伏せた。「オビのいたとこは寒いところだよ。こんなに真っ黒じゃない」

「そっか……」

 絵はとても精密に描かれているが、画家の想像による誇張も入っているだろう。そもそも、これは架空の物語の風景に過ぎない。ミストピナらしき記述があったとはいえ、オビの記憶に残る風景と一致するはずは無い。

「じゃあ、これは?『島は雪と氷に閉ざされており、突き刺すような寒さが肌を切り裂いた』」

 ジェマは、島の様子を綴った文章を読み上げる。オビは耳をぴくぴくさせて聞いていたが、そのうち立ったままうとうとしてきた。脇腹を突付いてやると、「ぴっ」と言って目を開け、頭を振る。

「昨日いっぱい歩いたもんね。これはまた今度にしようか」

 オビに椅子に座るよう促し、ジェマは別の本を手に取る。オビはすぐに机に突っ伏し、黙々と読書するジェマの隣でぷうぷうと寝息を立て始めた。


 ベルナルドが持って来てくれた四冊の本は、三時間程で読めてしまった。ワウル族についての記述もあったが、ベルナルドから聞いた以上の情報は描かれていなかった。
 ジェマがミストピナらしき記述のあった箇所を読み返していると、『ビッグ・ベア』の玄関が開いた。ハロルドとウィーゼルが浮かない顔をして入って来る。

「おかえりなさい。どうでした?」

「ここの女主人は? 居ないのか?」ハロルドはカウンターを見て、辺りを警戒するように見回した。

「ベルナルドさんなら、奥で仕事するって言ってましたよ」

「そうか」ハロルドは眠っているオビの向かい側の椅子を引き出し、腰掛ける。「収穫は芳しくない。はっきり言って、無駄足だった」

「『獣頭の男』について、誰も知らなかったってことですか?」

「そもそも出歩いてる人間が居ねぇんだよ」溜息混じりにウィーゼルが言う。彼はハロルドの傍らに立ったままだ。「二、三人くらいは捉まえられたけどな。どうもビビッてる感じで、ロクな話が聞けなかった」

「夜の街、って感じでしたもんね」ジェマはうなずく。人々が夜に活動しているなら、昼は眠っているはずだ。「怯えてる感じって、誰にでしょう?『牙の一族』に?」

「それもあるだろうが」ハロルドが答える。「様子を見た限りでは、『獣頭の男』もかなり危険な人物のようだ」

「でも、ター・シェンさんは『ヒーロー』だって」

「味方になったら頼もしいことは確かだろうな。俺はああいうタイプとは友達になりたいとは思わねェが」

 ウィーゼルがハロルドを一瞥し、ハロルドは苦い顔をして視線を逸らした。ハロルドには申し訳無いが、ウィーゼルのその仕草で、ジェマは『獣頭の男』がどのような評価を受けているのか察してしまった。

「おや、おかえり」ベルナルドが厨房から顔を出す。「今夜の宿は決まったのかい?」

 ハロルドとウィーゼルは、出掛ける目的をベルナルドに話してはいなかった。

「いや、まだだ」ハロルドは首を振る。「昨夜は一泊と言ったが、訂正したい。もうしばらく世話になりたいんだが、構わないだろうか?」

「ああ、いいよ」主人の意見を聞くまでもなく、ベルナルドは即答した。「でも、こっちも商売だからね。二日目以降は、通常料金で支払って貰う」

「いくらだ」

 ベルナルドに招かれてカウンターへ行ったハロルドは、示された料金表を見て目を丸くした。一言、二言言葉を交わし、肩を落として戻って来る。

「すまない、ジェマ」

「どうしたんですか」ジェマは只事ではない空気を感じて身構える。「お金が足りないんだったら、私も出しますけど……」

「いや、払えないことは無いんだ。四人で一つの部屋に泊まるなら」

「なんだ。それなら私は構いませんよ。ちょっと窮屈ですけど」

 平然としたジェマの態度に、ハロルドは溜息を吐き、歯切れ悪く言葉を返す。

「そうではなくてだな……貴様、もう少し女としての自覚を」

「え、やだ。そういう目で見てたんですか私のこと」ジェマは大袈裟に体を引いて見せる。

「茶化すな。真面目な話をしてるんだ。いいか、騎士たる者、いかなるときも自分を律しなくてはならない。浮ついた噂が立つなんてもってのほかだ。だいたい貴様は……」

「へえ、ジェマって騎士なんだ」

 ベルナルドの何気無い一言に、空気が一瞬凍りついた。

「そうだ。彼女は、トールソン家が抱えている騎士団に所属していてな」ハロルドは動揺する様子も無く——少なくとも表面上はそう見える——話を続ける。「見習いの修業の一環で、僕の旅に付き合って貰っている」

「ふうん、そうなの」ベルナルドはそれ以上追究しようとはしない。どうやら納得してくれたようだ。「で、どうするの?」

 部屋に二つあるベッドの距離を離し、間に仕切りを設けるということにして、ジェマ達四人は一つの部屋に泊まることになった。


 夕方に帰って来たター・シェンは、客がまだ宿に留まっていることに大いに喜んだ。舞い上がった彼は宴を開こうと言い出したが、ベルナルドにたしなめられて諦めた。
 聞けば、『牙の一族』からの嫌がらせを受けてから、『ビッグ・ベア』への客入りは芳しくないらしい。ジェマ達が来たときに部屋が空いていたのは、単なる幸運ではなかったわけだ。

「明日も『獣頭の男』の噂を調べに行くの?」

 食事を終え、入浴を済ませたジェマ達は、ベルナルドとター・シェンから改めて話を聞いていた。彼らが囲むテーブルには、生姜風味のクッキーと炒り豆茶が並んでいる。

「ああ、そのつもりだ」ベルナルドの質問に、茶を啜っていたハロルドが答える。「だが、今日の手ごたえだと、明日有意義な収穫があるとは思えない。どこか、街の噂を調べるのに適した場所を教えて貰えないだろうか」

 日が沈んでから、ハロルドとウィーゼルは再び歓楽街へと聞き込みに出ていた。昼間より人通りは多かったが、結果はあまり変わらなかったらしい。しつこい客引きに辟易した様子で二人が帰って来たのは、三十分ほど前のことだ。

「そうネ」ハロルドの質問を受け、ター・シェンが顎ひげを撫でる。「噂調べる、だと……ジェイちゃんのところ、いいんじゃないかナ」

「ジェイちゃん?」ジェマが問い返す。

「ジェイね……まあ、あの人なら噂には詳しいだろうけど」ベルナルドは渋い顔をして腕を組む。「ジェイっていうのは、まあ、いわゆる『情報屋』ってやつ。西地区と東地区の間に店を構えてるんだけど、これがなかなか癖の強い女でね」

「そうカ? ジェイちゃんいい人思うよ、ワタシ」

「癖が強い、とは?」次に質問を投げたのはハロルドだ。

「彼女の情報は、『牙の一族』も一目置くくらい信頼されてる。ただ、ジェイは物凄く人を選ぶんだよね。職業柄、警戒心が強いのは仕方無いんだろうけど」

「そのジェイとかいう女に気に入られないと、事務所にも入れないってことか?」ウィーゼルが、面倒臭そうに頭を掻く。

「どうしても彼女に会いたいって言うなら、明日連れてってあげようか」ベルナルドはそう言うが、表情はあまり乗り気ではなさそうに見える。

「ベルナルドさん、ジェイさんとお知り合いなんですか?」

「まあ、昔少しね」

「それなら、頼めるだろうか」ベルナルドの申し出に対して、ハロルドはすぐに食い付いた。「会ってみなければ、話が出来るかどうかわからないんだろう。もし上手く行けば大きな進展になる。試さない理由は無い」

「わかったよ」ベルナルドは軽く息を吐き、立ち上がる。「明日の朝、朝食が終わったら出掛ける。今夜の内に、訊きたいことは纏めておいたほうがいいよ」

「ありがとうございます。ベルナルドさん」

 礼を言うジェマに、ベルナルドは空いた食器を片付けながら微笑みを返す。

「お礼を言うのは、まだ早いかもよ」

第四十九話

 オルカテイル市の東地区は、一般の人々が生活する区域だ。住宅、飲食店、雑貨屋、食品市場、公園……。おおよそ生活に必要なものは全て揃っている。そこには異国風の雰囲気は伺えず、ホークバレーの街と似たような、セルペニアらしい風景が広がっていた。
 ただ、空気のにおいだけはホークバレーとは違う。煙草のにおいとコーヒーの香りは、他の地域には無いものだ。これらはゴラド王国からの輸入品で賄われている。先の戦で勝利したことで、かつては高級品だったこれらの品が安く手に入るようになったのだ。戦時中、ゴラドの占領下にあったタロンフォードでは、すでに庶民の文化の一部として馴染みあるものとなっているらしい。
 ベルナルドの案内で辿り着いた場所も、そんな文化の片鱗が垣間見える場所だった。大通りから小道へ入ったところに、一件の煙草屋が建っていた。繁盛しているようには見えないが、あからさまにアングラな雰囲気でもない。看板には、ゴラド南東部の先住民らしき人物がパイプを蒸かしている姿が描かれている。

「ジェイ、居る?」

 扉を開け、ベルナルドが奥に向かって声をかけた。煙草葉の独特な香りが、ドアを開けた瞬間に漂って来る。ウィーゼルとオビが同時にくしゃみをした。開店前なのか、店内は薄暗い。

「ジェイ?」

 ベルナルドが店内に踏み込む。西向きの窓から入る日光は乏しい。奥に見えるカウンターにはランプが灯っており、なにやら荷物を動かすような物音が聞こえる。少し遅れて、しゃがれた女性の声が返って来た。

「ベルか? いいところに来た。ちょっと手伝ってくれ」

 ベルナルドは肩をすくめ、カウンターのほうへ向かう。ハロルド達も後に続き、店に上がった。

「やれやれ、アタシも年を取ったもんだ。この程度の荷物を運ぶのに手こずるなんてね」

 しゃがれ声の女性が立ち上がり、カウンターから姿を見せた。声と台詞から想像していたより、彼女の見た目は若い。銀色の短髪に、がっしりした体付き。一見しただけでは男性と見間違いそうだ。革のジャケットとジーンズといったゴラド風の服装も、たくましい印象に拍車を掛けている。

「あんまり無理しないでよね」続いてベルナルドも立ち上がる。「ところでジェイ、紹介したい人達が居るんだけど」

「あの子らかい?」紫色の鋭い眼光が、扉の前で立ち尽くしていたハロルド達を見遣った。「あんた達、ボーっとしてないでこっち来な」

 どうやら、門前払いされずに済んだようだ。呼ばれるがままカウンターへ行き、用件を伝えようと口を開いたハロルドの目の前に、一枚の紙が差し出された。発しようとした言葉を飲み込み、代わりに疑問が口を突く。

「……これは?」

「アルバイトの契約書だよ。早速で悪いけど、仕事が溜まってるんだ。今日中に役所に届けなきゃならんから、サインだけしておいてくれ」

「ああ、違うんだよジェイ、この子らはお客で……」

「あんたに頼んで正解だったよベル。こんな若い子を四人も連れて来てくれるなんてね。お礼は今度するから、今日はもう帰っていいよ」

 ベルナルドの言葉を早口で遮って、ジェイはジェマたちにも同じ書類を押し付ける。ベルナルドは肩をすくめ、「ごめん、後はよろしく」とハロルドに耳打ちをして、そそくさと店を出て行ってしまった。

「ほら、なにボーっとしてんだい。ああ、ペンが無かったね。ほら、これ使いな」

 どうやら、ジェイという人物は話を聞かないタイプの人間らしい。あまり我を張って衝突することになっても面倒だ。契約書には『雇用期間:無期限』と書かれている。期限が無いということは、いつ辞めてもいいとも解釈できる。ひとまず仕事を手伝って、頃合を見て訂正すればいい。ジェマ達にもそう伝え、ハロルドは契約書に自分の名前を——もちろん偽名のほうを——記した。


 誤解が解けたのは、日暮れ近い時刻になってからだった。何度か手が空く時間はあったが、ジェイは忙しなくどこかへ出掛けたり、店先で通行人と話し込んだり、こちらの身の上を根掘り葉掘り聞いてきたりしていたので、用件を伝える暇が無かったのだ。

「そういうことなら早く言ってくれればよかったのに」

 ジェイは悪びれもせずそう言って、勘違いのお詫びに夕食を奢ると申し出た。案内されたのは大通りの高級海鮮レストラン——の裏手にある、小さな大衆酒場だ。店内には煙草の煙が充満していた。終日煙草葉を運び続けていたお陰で、オビとウィーゼルの鼻はそのにおいに慣れている。くしゃみが止まらなくなることは無く、不快そうな表情を浮かべるだけだった。
 奥のテーブル席に座り、三人分の芋酒と、聞き馴染みの無い料理を何品か、ジェイが勝手に注文する。運ばれて来たのは鶏肉の串焼きと、魚と野菜の揚げ物、海産物らしきなにかの生き物を薄切りにしたものなどだ。

「これはなんです?」

 ハロルドがそう訊ねる前に、ジェマとオビはそれを口にしていた。添えられていたわさびが利いたのか、見たことも無い顔をしている。
 ちなみに、ハロルドがジェイに対して敬語を使うのは、そうしないと酷く機嫌を損ねられるからだ。

「タコの刺身だよ。内陸じゃ馴染み無いだろうけど、美味いよ」

「タコ!?」

「タコってなんだ」まだ料理に手を付けていないウィーゼルが訊いて来る。

 どういうわけかウィーゼルはタメ口でも許されている。指導しても仕方無いと思われているのか、獣人には人間のルールを教える必要は無いと考えているのか、どちらかだろう。

「デビルフィッシュって言ったほうがわかり易いかな」ジェイが代わりに答える。「見た目は気持ち悪いけど、毒も無いし、噛めば噛むほどうまみが出てくる。いやあ、まさに見かけによらないって奴だよなあ」

 そうは言われても、一度刷り込まれてしまった先入観はなかなか拭えないものだ。ハロルドはタコを口にするのを丁重に断り、ジェマとオビに譲った。美味しく食べて貰えたほうが、タコも浮かばれるだろう。

「見かけによらないと言えば、あんたもそうだよな?」空になったグラスを置いて、ジェイはハロルドを見据える。「貴族の若造にしちゃ、ずいぶん素直じゃないか。掃除や料理の手際もいい。ああいうのは、召使いにやらせるもんなんじゃないのかい?」

「なんでも自分で出来るに越したことはない。幼い頃から、父にそう教えられましたので」

「あんた次男だったよね? 進路は決まってるのかい?」

「ご心配には及びませんよ。これでもちゃんと考えてますので」

「へえ、否定しないんだ」ジェイは二杯目の芋酒を飲み干して、ニヤリと笑った。

 ハロルドが自分の失態に気付いたのは、少し遅れてからだった。労働の疲れが出たか、呑むペースが早過ぎたのか、ハロルドは自分の『設定』を失念していた。

「昼間アタシが訊いたとき、あんたは『自分は五男だ』って言ってたよな? ハリス・トールソン君?」

 店内の空気が張り詰めているのを感じる。いつの間にか喧騒は止み、射るような視線が集まっていた。なるほど、店内の人間は——中には獣人も居るが——皆、ジェイの仲間だったわけだ。

「あんたホントは何者なんだ?」紫の眼光が、探るようにこちらを見据える。「酒が呑めるってことは、シュメリア人じゃないね。そっちの従者も、動物性のものが食えるなら人間と獣人なんだろう。となると、王宮騎士団の使いか? ガキを使えば怪しまれないとでも思ったかね?」

 どうやら、こちらはこちらで事情を抱えているらしい。トラブルを避けるために身分を偽るはずが、却って厄介ごとを招いてしまった。ジェフリー団長も、ここまでは予想出来なかっただろう。

「仕方が無い、な」

 ハロルドは息を吐き、椅子から立ち上がった。ジェマとオビが心配そうに、ウィーゼルが怪訝な顔をしてこちらを見上げる。

「騙すようなマネをして申し訳無い。自分はホークバレー騎士団の七番隊隊長、ハロルド・リースという者です」

「……ほう」ジェイの口元がつり上がる。目は相変わらず笑っていない。

「連れも皆、自分の仲間です。ジェフリー団長に確認を取って貰えば、嘘ではないと信じて頂けるでしょう」

「なるほど。で、どうしてホークバレーの隊長さんが、『獣頭の男』を追っているのかな?」

「それは……」

 ハロルドは迷う。ジェイは『牙の一族』と関わりを持つ人物だ。もし本来の目的を正直に話して、『一族』に敵対する者と判断されたら、穏便に帰して貰うのは難しいだろう。かといって、下手な嘘でごまかしても警戒心を煽るだけだ。
 ちら、とジェマを見る。ここは彼女の交渉術に賭けたほうが無難だ。ジェマはハロルドの意図を汲み取ってくれたようで、こくりとうなずくと、徐に立ち上がった。

「ター・シェンさんの、命の恩人だからです!」

 沈黙の種類が変わった。殺気すら感じるような緊張は和らいだが、周囲の人々の顔には明らかな困惑が浮かんでいる。ただ一人、ジェイだけは表情を崩さない。

「ベルの旦那だね、知ってるよ。あの宿を建てるのに、アタシもだいぶ力を貸してやったからね。あんたがたは以前から彼と知り合いだったのかい? ホークバレーの騎士とオルカテイルの商人、交流があったとは思えないけどね」

「いいえ、ター・シェンさんとはこの街で知り合ったばかりです。宿が取れなくて困ってたところに、声をかけてくれて。あのときター・シェンさんに会わなかったら、行き倒れになってたところでした」

「なるほど。恩義があるってわけだ」

「はい」ジェマは紅潮した顔を綻ばせ、少しはにかみながら答える。

「それじゃあ、そもそも何故、あんたたちはオルカテイルに来た? 休暇で来たんなら、わざわざ身分を隠す必要も無かったはずだ。なにを嗅ぎ回ってる?」

「この子の故郷を探しに」

 ジェマは迷い無くそう口にした。肩を叩かれたオビは、口いっぱいに頬張った色々な料理を咀嚼しながら顔を上げる。

「珍しい獣人だね。オオカミでもヤマネコでもない。オビとか言ったね? こいつの故郷が、オルカテイルだって?」

「タロンフォードに、手がかりがあると聞いて来たんです。オビは不思議な力を持ってて、それは人々に災いをもたらすかもしれない。オビの力を狙って、悪い人が襲って来るかもしれない。だから、危ない目に遭う前に、家族の居るふるさとに帰してあげたいと思ったんです」

「身分を隠したのは、この街の住民に不安を与えないためです」ハロルドが補足する。「タロンフォードでは特に、外部の騎士団からの干渉を嫌う傾向があると伺っていましたので」

「ふうん、なるほど」ジェイはそう呟いて、三杯目の芋酒を飲み干す。「つまり、あんたがたが知りたいのは、『獣頭の男』の居場所と、そのオビ君の故郷についての情報、ってことでいいのかい?」

「それは……信用して頂けたということでよろしいでしょうか?」

「まあ、嘘かどうかなんてちょっと調べればわかることだからな」

 ジェイが手を上げると、こちらに集中していた視線は散り散りになり、元の喧騒が店内に戻って来た。ジェイは追加の注文をして、何事も無かったかのように食事を再開する。

「今回の飯は奢ってやる。今日の働きの報酬として、情報料もまけてやろう。『獣頭』の居場所とオビ君の故郷、まずはどっちが知りたい?」

「オビのことについては、こちらでできる限り調べます」ハロルドは即答した。オビが竜であることは、まだ一般人に明かすわけにはいかない。「まずは、『獣頭の男』について教えて頂けないでしょうか」

「なるほど。了解した」ジェイは頷き、商品の値段を提示する。「六十ロックだ」

「大銀貨六枚? 吹っ掛け過ぎだろ」ウィーゼルが失笑する。「そこまで強気に出るってことは、信頼できる情報なんだろうな?」

「もちろんだ」ウィーゼルの問いかけに、ジェイは自信満々に答える。「そこらのゴシップ誌や、酒場の与太話なんかよりは、よっぽどお役に立てると思うね」

「だとよ。どうする?」ウィーゼルはハロルドへと視線を移す。「こうヤニ臭くちゃ、嘘を吐いてるかどうかもわからねェ。アンタの判断に任せるぜ、隊長さん」

「……情報を絞れば、安くして貰えますか?」ハロルドは財布の中を見て少し考え、そう問いかけた。

「ふむ、内容によるな」ジェイは思わせぶりな笑みを浮かべて頬杖を付く。

「例えば、『獣頭』が多く目撃される時間帯や場所とか」

「だいぶ突っ込んだことを訊くじゃないか。無理だね」

「なら、こういうのはどうです?」ハロルドは怯まず食い下がる。「僕達がもし『獣頭の男』に接触できたら、あなたがまだ知らない情報を聞き出し、その内容をあなたに六十ロックで買い取って頂きます。そうすれば僕達は宿代を失わずに済むし、あなたも損はしない。いかがですか?」

 弾けるような笑い声が響いた。笑い過ぎたジェイの目には、涙が浮いている。

「アタシが知らない情報だって? この情報屋ジェイが!?」

 ハロルドは口調を変えずに続ける。

「まず、あなたは『獣頭の男』の名前を知らない。彼の目的も、素性も、普段どこで寝泊りしているのかも、ご存知無いはずです」

「なんでそう思う?」

「『獣頭の男』は『牙の一族』の構成員を襲った。『一族』は報復をしたがっているはずだ。あなたが『獣頭』の正体を知っていれば、奴らはあなたから情報を聞き出し、とっくに制裁を与えているでしょう。しかし、『獣頭』が死んだという話は、今のところ噂にもなっていません」

「だから、『獣頭の男』は生きている。『獣頭』が生きてるってことは、アタシが情報を持っていないからだ。そう言いたいのか?」

 ハロルドはうなずく。少しの沈黙ののち、ジェイが再び口を開く。

「……奴が次に現れそうな場所なら、目星がついてるよ」

「教えて頂けますか?」

「アンタが馬鹿じゃないってことはわかったよ」溜息を吐く赤い顔には、半ば呆れたような笑みが浮かんでいた。「約束、忘れるんじゃないよ。もしなにも聞き出せなかったら、ちゃんと料金は払って貰うからね」

第五十話

 ジェイの情報によると、『獣頭の男』は漁港近くの輸入雑貨店に出没する可能性が高いとのことだった。酒場を出た後、ハロルド達は近くの喫茶店で酔いを醒まし、南地区にあるというその場所へ向かった。
 午後の十時を回ろうという時刻。件の雑貨店にはまだ明かりが灯っていた。赤煉瓦造りのモダンな外装に、花壇や吊るし鉢に植えられた色とりどりの花が添えられている。昼間であれば華やかな店構えなのだろうが、今は夜闇に呑まれて漆黒に染まっていた。
 店の扉が開き、若い男女が出て来る。しきりに辺りを見回し、子どもの頭くらいの大きさの紙袋を大事そうに抱えて、逃げるように足早に去って行った。
 自分達にとって、この店は人を待つには場違いな場所のようだ。そう判断して、ハロルド達は通りを挟んだ向かい側に移動した。明かりが消えた建物の間に身を隠し、店の様子を伺う。『獣頭の男』らしき人影は未だ現れない。

「ホントにここで合ってんのかァ?」ウィーゼルが疑念を漏らす。「ガセネタ掴まされたんじゃねーだろうな」

「そんなことはないと思いますけど」ジェマが答える。「まあ、ジェイさんも今日来るとまでは言ってなかったですしね」

「一度引き返すか」店の明かりが消えたのを見て、ハロルドはジェマ達のほうへ向き直った。「いつまでもここに居たら怪しまれる。今日のところは宿に戻って……」

「おやあ? こんな時間になにしてんの、君達ィ」

 ハロルドは弾かれたように振り返る。すぐ後ろに、見知らぬ男が立っていた。短い黒髪で、東洋風の衣装を身に付けているが、流暢な言葉や顔立ちから見るに、どうやらセルペニア人のようだ。
 人が近付いて来る気配は無かった。転移魔法なら魔力の気配がするはずだ。索敵能力に長けた獣人の二人も驚いた顔をしている。まるで、どこかから降って湧いたかのようだ。
 反射的に剣の柄を掴もうとした手を、寸でのところで留める。相手からはまだ敵意は感じない。

「この街の方ですか? ちょうどよかった。実は僕達、道に迷ってしまって」ハロルドは努めてにこやかにそう言った。ジェイの前例があるため、念の為敬語を使う。「宿に帰れず困っていたんですよ。道を教えて頂けると助かるのですが」

「なに、君ら観光客?」

「はい」

 男からは、こちらを疑う様子は伺えない。落ち着いた調子で、男は質問を重ねる。

「オルカテイルは初めて?」

「ええ、そうです」

「どこの宿に泊まってんの?」

「『ビッグ・ベア』という宿です。西地区の海岸沿いにある」

「どのくらい滞在するつもり? 目的は?」

「……あの、道を教えて頂けませんか? 連れも歩き疲れているので、休ませてやりたいのですが」

「質問してるのは俺だよ、坊や」

 男の顔はにこやかだ。背もそれほど高くない。猫背で、痩せていて、とても腕っ節が強そうには見えない。だが、得体の知れない凄みを感じる。音も気配も無く姿を現した事実が、男の不気味さを裏付けている。

「道に迷ってたってのは、嘘だよね? 君達が三時間前から店を見てたのはわかってるんだよ」

「それは……買い物をするつもりも無いのに、道を聞くためだけに店に入るのはどうなのかと思って……」

「俺はね」男がハロルドの言葉に割って入る。「嘘吐きが嫌いだ」

 男の背後に、なにかが降り立った。立ち上がったのは灰色の影。三角形の大きな耳に、鞭のようにしなる長いしっぽ。暗闇に浮かび上がる二つの目は、緑色に光を放っていた。

「なにをもたついている、サイラス」巨体の猫獣人は重々しい声で唸る。「いつ『獣』が現れるかわからん。さっさと連れて来いと言ったはずだ」

「急かすなよ、爺さん。相手は子どもだ。力ずくで捕まえちゃかわいそうだろ?」

 サイラスと呼ばれた男は飄々と答え、左手を高く掲げた。その手がハロルド達に向けられて振り下ろされた瞬間、どこに隠れていたのか、物々しい空気を纏った男達が姿を現した。

「『牙の一族』か……!」ハロルドは剣を抜く。「ジェマとオビは後ろを頼む。ウィーゼル、貴様はこっちを手伝え!」

「ほう、やる気か。面白い」老獣人は鋭い牙を見せて笑った。「痛い目を見なければわからないものだ。若いうちはな」

「殺すなよ、クーダ」

 仲間の声が聞こえているのかいないのか、クーダと呼ばれた老獣人は鉤爪を光らせて飛びかかって来た。ハロルドは前に転がり、ウィーゼルは上に跳んでそれをかわす。ジェマとオビも構成員と戦いはじめたようだ。
 サイラスは数メートル離れたところで観戦している。強い魔力は感じないが、なんらかの魔法を使って来る可能性も無いとは言えない。先に倒すか、捕えてしまうのが安全だろう。
 後ろを取るのは容易かった。見た目通り、戦いは得意ではないようだ。ハロルドは剣の柄をサイラスの後頭部目掛けて振り下ろす。手ごたえは無かった。

「なっ……!」

 サイラスの姿を見失い戸惑ったハロルドの顎に、掌底打ちが炸裂する。舌を噛まずには済んだものの、激しく頭を揺さ振られたハロルドは、一瞬意識を失いかけた。頭を振り体勢を立て直そうとしたところに、今度は蹴りが飛んで来る。咄嗟に左腕で受け止める。重い。

「俺は弱そうだと思ったんだろ?」格闘術の構えらしき体勢を取り、サイラスは不敵に笑う。「その判断は間違いじゃない。俺は『一族』の中じゃ一番弱い。『一族』の中では、な!」

 今度は剣を蹴り飛ばされた。街中で魔法を撃つわけにはいかない。ホークバレー騎士団の特権は、オルカテイルでは通用しないからだ。素手での戦闘は不慣れだが、出来る限りやってみるしかない。
 ハロルドが構えを取った瞬間、悲鳴が聞こえた。浮き足立つ声に、サイラスも異常を感じたらしく振り返る。オビかウィーゼルが敵を倒したのだろう。一撃を加えるなら、今が絶好の機会だ。

「け、『獣』が……『獣』が出ました!」

 ジェマ達と交戦していた構成員の一人が声を上げた。ウィーゼルと戦っていたクーダが、毛を逆立てて声のほうへ向かう。獣の唸り声と人間の悲鳴が交互に聞こえる。

「クーダに任せて散れ、お前ら!」サイラスが叫ぶ。「一時休戦だ。逃げられると思うなよ、坊や」ハロルドを一瞥してそう言うと、サイラスもクーダの元へと駆け出した。

「待て!」

 ハロルドは咄嗟に後を追おうとして、剣を失っていたことを思い出した。追い詰めるにしても素手では分が悪い。先ほど弾き飛ばされた剣を拾い、改めてサイラスを追おうと立ち上がったハロルドの視界が、こちらに駆けて来る味方の姿を捉えた。

「ハロルド! 無事ですか?」

「ジェマ?」オビを伴って駆け寄って来たジェマに、ハロルドは一瞬安堵し、すぐに浮かんだ疑問を口にした。「どうした? ウィーゼルは?」

 確か、走り出したクーダを追って向こうへ行ったはずだ。

「ウィーゼルが、私達に『早く逃げろ』って」彼女の顔には困惑が浮かんでいる。「ウィーゼル、あの大きな獣人と戦って、怪我をしてるんです。彼のことだから、上手く逃げてるとは思うんですけど……」

「僕が見て来る。ここで待っていろ」

「わかりました」

 ハロルドは剣を仕舞い、ジェマ達が来た方角へと駆け出す。路地の手前に、ウィーゼルの姿があった。衣服は破れ、白い毛が血で汚れているが、意識はしっかりしているようだ。

「ウィーゼル、無事か?」

 駆け寄ろうとしたハロルドを、ウィーゼルは片手を突き出して止めた。

「来るな。行け」

「なにがあった?『獣頭の男』は?」

「そこに居る」ウィーゼルは路地の奥を顎で示す。「ガキが見ていいもんじゃねェ。帰るぞ」

 ウィーゼルの言葉に不穏なものを感じたハロルドは、なおさら引き返すわけにはいかなくなった。そういえば、唸り声も悲鳴も聞こえなくなっている。

「そこをどけ」

 ウィーゼルは舌打ちし、数歩下がった。ハロルドは路地を覗き込み、風に乗って押し寄せた血のにおいに息を詰まらせた。
 数分前まで自分達が身を隠していた路地には、黒い水溜りが広がっていた。今が昼間だったなら、それは赤色に見えていただろう。
 水溜りの上に、折り重なるように倒れる人間たち。ある者は腕が千切れ、ある者は頭を失い、ある者は胴体を切断されていた。
 その奥で、二匹の獣が対峙している。一方は『牙の一族』の老獣人、クーダ。もう一方は、黒い獣の顔をした男。獣人とは違い、頭部は完全な獣の形をしており、しっぽは見当たらない。被り物をした人間にしか見えないが、獣の頭は妙に生々しく見えた。
 サイラスの姿だけが、どこにも見えない。確かにこっちへ向かって行ったように見えたのだが。

「どれだけ殺戮を繰り返せば気が済むのだ、化け物め」鼻血を拭い、クーダが吐き捨てる。

「化け物……」被り物のように見えた獣の口が動く。「俺が化け物、だって?」

 その声を聞いた瞬間、ハロルドは総毛立つ。現実味の無い光景が、突然、実感を伴って突きつけられる。血溜りに倒れる死体は、さっきまで生きていた人間。次にこうなるのは自分かもしれない、と。
 突然眩暈に襲われ、ハロルドは思わず膝を付いてしまった。ウィーゼルが駆け寄って来て、耳元でなにか言っている。立ち上がり、逃げなければ。頭ではそう思いながら、体は動かない。『獣頭の男』から視線を外すことが出来ない。

「弱者を恐怖で縛りつけ、金を巻き上げて、罪悪感も抱かず我が物顔で街を支配している君達が、俺を化け物呼ばわりするのか」

 獣の口が笑う。鈍く短い牙の間から、真っ赤な舌が覗く。その口調は凪のように静かだ。

「化け物の自覚が無い君達のほうが、よっぽど化け物染みているじゃないか。違うかい?」

 クーダがなにかを言い返す。鉤爪を振り上げ、『獣頭の男』へ飛び掛る。『獣頭の男』はその攻撃を真正面から受け止めた。倍以上の対格差のある、獣人の攻撃をだ。次の瞬間、老獣人の体は宙を舞っていた。巨体が血溜まりに落下し、飛沫がハロルドの頬に掛かる。まだ生温い。生きていた人間の体温が残っている。
『獣頭の男』が、ゆっくりとこちらを向く。そこで始めて、相手はこちらの存在に気付いたようだった。赤く光る目を見開き、呆然としたかのように立ち竦んで、男はハロルドを見詰める。

「ギル、バート……?」

 聞き間違いか、と思った。そうではないと確信したのは、男が再びその名を呼んだときだ。

「ギルバート……『また』俺を殺しに来たのか……!」

『獣頭の男』は、標的をハロルドへと変えていた。男の手が迫る。体はまだ動いてくれない。
 ぐい、と引っ張られて、ハロルドは運良く初撃を免れた。ウィーゼルはそのままハロルドを後ろへ投げやり、『獣頭の男』へと向かって行く。男は横薙ぎに繰り出された鉤爪を木の葉のようにかわし、再びハロルドへと狙いを定める。
 動かなければ死ぬ。動け、動け、動け!
 意思の力が本能を制し、なんとか右手を上げることが出来た。人間の決まりごとなど、気にしてはいられない。魔法を撃たなければ、この怪物を止めることは出来ない。
 なにも起こらなかった。

「ハロルドーッ!」

 ウィーゼルの叫びが木霊する。ハロルドは、宙を舞う自分の右腕を呆然と眺めていた。

「う、あ、ああああああッ!」

 痛みは遅れてやって来た。ハロルドは二の腕から先が無くなった腕を押さえ、叫んだ。オビが引っ張ってくれなければ、地面に転がっていたのは首だっただろう。
『獣頭の男』は舌なめずりをする。血塗れの獣の顔には、狂気染みた笑みが浮かんでいた。

   ☆   ☆   ☆

 どうやって逃げ切ったのか、よく覚えていない。負傷し意識を失ったハロルドを連れて逃げることで精一杯だったから。
 ベルナルドとター・シェンは、ハロルドの姿を見て驚きはしたものの、すぐにジェマ達を追い出すようなことはしなかった。医者を呼び、ハロルドの怪我を治療している間、気分を落ち着ける薬草茶と風呂を提供してくれた。ウィーゼルも手当てを受けて、今はテーブルに集まる面々を不機嫌そうに眺めている。

「とりあえず、今晩はゆっくり休んでネ」ター・シェンは神妙な顔をして、ジェマ達にそう言った。「ハリス君の意識戻ったら、申し訳無いけど出て行って貰うヨ。ワタシ達、危ないこと巻き込まれたくないからネ」

 冷たい言葉だ、と思ってしまうのは酷というものだ。出会ったばかりの旅人と自分の命、どちらを優先するべきかは、天秤にかけるまでも無い。

「すみません。ご迷惑をおかけしてしまって。まさか、こんなことになるなんて」

「『獣頭の男』があんなに凶暴な奴だって知ってたら、こうはならなかったんだがな」ウィーゼルは皮肉めいた視線をター・シェンに投げる。「まったく、とんだヒーロー様が居たもんだぜ」

「あの人、ワタシ助けてくれたは本当だヨ」ター・シェンは困った顔をする。「でも、まさか人殺すなんて知らなかった。あのときは、やっつけるだけだったヨ」

「運がよかったのかもね」食器を片付けたベルナルドが会話に参加する。「気が動転してるかもしれないけど、今日はもう休んだほうがいいよ。疲れただろう」

「……はい。行きましょう、ウィーゼル、オビ」

 ウィーゼルは言われる前に二階へ向かっていた。ジェマはター・シェン達に礼を言って、オビを連れて階段を昇る。
 ハロルドは麻酔を打たれて——本来、注射器や麻酔の使用は違法だが、魔術師が少ないタロンフォード地方では特別に認可されている——眠っていた。運び込まれた当初、彼の右腕は二の腕の半分まで残っていたが、損傷が激しく壊死が始まっていたため、肩から切断されている。

「で、これからどうすんだ」ウィーゼルが床に胡坐をかき、ジェマに問いかける。「こんなことになっちまったら、調査どころじゃねェ。俺はさっさと帰るべきだと思うが、アンタはどうしたい?」

「私、ですか?」

「俺とオビは騎士じゃねェ。ここに来たのは騎士団の仕事なんだから、騎士であるアンタが決めろ」

「そうですね……安全を考えたら、早く街を出たほうがいいと思うんですけど」ちら、とハロルドを見遣る。「彼があの状態では、長い距離を移動するのは無理でしょう。まずは安全に休める場所を確保して、体力の回復に努めたほうがいいかと」

「なるほど、その場所はどうやって確保する?」

「まずはストークケイプを目指しましょう。ギルバートさんなら、助けてくれるはずです」

 ウィーゼルの耳がぴくりと動き、表情が険しくなったようだった。

「どうかしましたか?」

「いや……」ウィーゼルは首を振り、息を吐く。「文句はねェ。それでいこう」

 方針が固まったところで、就寝することになった。ジェマはウィーゼルが譲ってくれたベッドに横になり、目を閉じる。数時間経っても、眠気はやって来なかった。

第五十一話

 三、四時間は眠れただろうか。明け方、ジェマは話し声を聞いて目を覚ました。部屋の中はまだ薄暗い。身体を起こし、声のするほうへ目を向けると、ウィーゼルとハロルドが扉の前で言い争っているのが見えた。

「ん、起こしてしまったか。すまない」こちらに気が付いたハロルドが言う。昨夜あんなことがあった割には、落ち着いているように見える。

「もう起きて大丈夫なんですか?」ジェマはベッドから降り、ハロルドたちのほうへ歩み寄る。「まだ顔色が良くないように見えますけど」

「心配かけたな。もう平気だ」ハロルドは早口で答え、先が無くなった右肩をすくめて見せる。「少し不便を強いられるだろうが、問題無い」

「問題しかねえだろうが」ウィーゼルが苛立ちの混じった溜息を吐く。「おい、アンタからも言ってやってくれよ。今の状態じゃ『獣頭』を殺すことなんて出来ねえって」

「黙れ!」

 ハロルドの怒鳴り声が部屋に響いた。ジェマは思わず首をすくめ、隅で寝ていたオビも「ぴっ」と鳴いて飛び起きる。

「兄上を守るためだ。なにが悪い? 邪魔をするなら、貴様から殺してやってもいいんだぞ」

 震える手が、ウィーゼルの胸倉を掴む。ウィーゼルは動じた様子も無く、冷めた目で相手を見据える。

「手負いの小僧に殺されてやるほど、俺は甘くねェよ。兄貴のことより、今は自分の心配をしろ」

「ぷっ、あはははは!」

 ハロルドは手を離し、天井を仰いで弾けるように笑った。ウィーゼルは眉をひそめ、身構える。一呼吸の間に、ハロルドの顔からは笑みが消えていた。ぎょろりと見開かれた碧眼が、冷たい光を帯びてウィーゼルを睨む。

「弟を見殺しにした貴様が、わかったような口を利くな」

「……なんだと?」ウィーゼルの首の毛が逆立つ。

「僕は貴様とは違う。家族を見殺しにして、平気な顔をしていられる貴様とはな」

 ウィーゼルが拳を振り上げる。ジェマは咄嗟に二人の間に割り込んだ。ハロルドの頬を平手が打つ。
 赤い跡が浮き出した左頬を押さえ、ハロルドは顔を上げた。食い縛った歯から息が漏れ、揺れる瞳がジェマを見る。発しようとした言葉は紡がれることは無く、ハロルドは部屋を飛び出した。
 ジェマは慌てて後を追う。腕を失ったショックと、それによる体力の消耗で、彼は混乱しているのだ。元の性格も鑑みれば、無謀な行為に走ることは想像に難くない。
 ハロルドに追い付くのは容易かった。彼は廊下に立ち塞がる人物に行く手を遮られ、部屋の前で立ち尽くしていた。そこに居たのは宿の主のター・シェンでも、ベルナルドでもない。昨夜ジェマ達を襲った、東洋服のセルペニア人——『牙の一族』の仲間からサイラスと呼ばれていた男だ。

「これはこれは、お早いお目覚めで。ホークバレー騎士団ご一行サマ」

 ハロルドは宣戦の言葉も無く駆け出し、サイラスに殴りかかった。ほとんど不意打ちに近い攻撃を、サイラスは身体を屈めて難無くかわす。そのままハロルドの懐に潜り込むと、右肩の傷口目掛けて蹴りを打ち込んだ。ハロルドは呻き声をあげて膝を付き、肩を抑えてうずくまる。包帯から滲み出した血が、ぼたぼたと床に滴った。

「痛いでしょうねえ。ここには、回復魔法なんて便利な代物はありませんから」状況にそぐわない穏やかな笑みを浮かべ、サイラスはハロルドの顔を覗き込む。

「彼から離れてください」ジェマは剣を抜き、サイラスに向けて構えた。「こちらの素性を知っているのなら、私達が争うことに利益が無いこともわかりますよね?」

 続いて廊下に出て来たウィーゼルとオビも、毛を逆立てて牙を剥く。サイラスは笑みを崩さない。

「先に仕掛けて来たのはそっちじゃないですか。こっちは話をしに来ただけだってのに」

「話だァ?」ウィーゼルが怪訝な顔をして耳を動かす。「……確かに、他に仲間は居ねェみてーだが」

「ター・シェンさん達は?」ジェマは警戒を緩めず質問する。

「さあ? たぶん、まだ寝てるんじゃないですかね」

「……っ、あの人達になにを……!」

「ああ早まらないで。ホントになにもしてないから」サイラスの顔に初めて焦りが浮かぶ。「俺が用があるのはあんた達だけだ。正確には、そこで転がってる隊長さんに、だが」

「僕に、なんの用だ……」額に脂汗を浮かべ、ハロルドが顔を上げた。

「『獣頭の男』を殺したいんですよね?」

 碧眼に宿っていた敵意が消える。サイラスは目を細めて続ける。

「立ち聞きするつもりは無かったんですが、聞こえてしまったものはご容赦ください。我々も、あの怪物には手を焼いていましてね。あんたが奴を殺したいって言うんなら、どうです? ここは我々と手を組むというのは」

「断る」ハロルドは即答する。「奴は僕が殺す。誰の助けも必要無い」

「ほお、なんと勇ましい。流石は、かの英雄ギルバート・S・リースの弟君ですねえ」相手の顔に苛立ちが浮かぶのも構わず、サイラスは朗々と語り続ける。「しかし、その身体では心許無いでしょう。我々の技術なら、その腕も治して差し上げられますよ。少々値は張りますが」

 そう言って、サイラスは左手の手袋を外して見せた。現れたのは生身の手ではなく、機械仕掛けの義手だ。鈍色に輝く指を滑らかに動かして見せながら、サイラスはハロルドの反応を待つ。

「貴様らにくれてやる金は無い」ハロルドはふらつく足で立ち上がる。「それと、そのうさんくさい言葉遣いはやめろ。貴様の本性はもうわかってるんだ」

「そうか。残念だ」

 サイラスが左手を上げる。突然、背後の窓が割れ、ハロルドの頬をなにかが掠めた。

「魔法か!?」

「銃だよ」サイラスは淡々と答える。「弓矢より遠くに飛び、魔力で勘付かれることも無い。俺らみたいな稼業のモンにとっちゃ、絶好の得物だ」

「銃って、小型の大砲みたいなものですよね? それってゴラド王国の武器なんじゃ……?」

 同盟国シュメリアとの条約に基づき、セルペニアでは一部の例外を除いて、ゴラド王国の技術を導入することを禁じている。研究、開発はもちろん、ゴラド製の機械や武器を国内に持ち込むことも厳禁だ。このことは、平民の間でも広く知れ渡った常識となっている。
 もっとも、反社会組織である『牙の一族』が、そのような社会通念に従うはずは無い。現に、目の前の男の左手には禁忌の技術が使われているのだ。

「ウチの連中の中には、魔法が使えない奴も多い。そいつらを守るためには、形振り構ってられないんだよ」

「そんな便利なモン持ってんなら、アンタらだけで『獣頭』をぶっ殺せるんじゃねーのか」ウィーゼルが当然の質問を投げる。

「それがそうもいかなくてね」サイラスは肩をすくめる。「あの怪物、幾ら銃弾を撃ち込んでも死なないんだよ。銃弾の装填には時間が掛かるから、弾を込めてる間に反撃を喰らっちまう。奴を殺すには、爆発かなにかで一気にバラバラにするしか無い。が、流石に高威力の重火器を持ち込むのは俺らでも不可能だ」

 そこでだ、と言って、サイラスはハロルドに鈍色の指を向けた。

「同じ目的を持つあんたに力を貸してやろうってことになったわけだ。あんた、物凄い雷を使うって話じゃないか。街だか山だか消し飛ばしたこともあるんだって?」

「いや、流石にそこまでは……」突拍子も無いことを言われて、噂の本人は困惑する。

「まあ噂の真偽はともかく、雷魔法が使えるのは本当なんだろ? 奴にトドメを刺せるのはあんたしか居ない。だがあんたは今、万全な状態じゃない。俺らの助けがあったほうが、確実に仕留められると思うんだがねえ?」

 ハロルドの視線が泳ぐ。頭が冷えて怖気付いたのか。騎士としてのプライドが悪人の手を借りることを拒むのか。あるいはどちらでもない事情があるのか。

「……生憎だが」

「ちょうどよかったじゃねえかハロルド。受けちまえよ」

 後ろから肩を組まれたハロルドが、うっとおしそうにウィーゼルを睨む。

「ちょっと、ウィーゼ……」

 咎めようとしたジェマの口を、ウィーゼルの手が遮った。ウィーゼルはその手を自分の口元に持っていき、ジェマに黙っているよう仕草で伝える。なにか考えがあるのだ。ジェマはウィーゼルに任せることにした。

「なんのつもりだ貴様。勝手に話を進めるな」

「いいじゃねえかよ。せっかく手を貸してくれるって言ってんだから」大袈裟に明るく言った後、ウィーゼルは小声で耳打ちする。「魔法が使えないことは黙っとけ。兄貴を助けたいんだろ」

 ハロルドは息を呑み、その顔にはいつもの表情が戻る。

「わかった。貴様の申し出、受けてやる」

「そうか。そいつは嬉しいね」サイラスは機嫌よく笑みを浮かべる。

「ただし」ハロルドはサイラスを睨んだ。「僕は貴様らを雇うつもりは無い。事が済んだ後で代金をせしめようとしても無駄だからな」

「おやおや」サイラスは肩をすくめる。「まあ、いいか。ひとまず、『獣頭』を殺すまでは俺らは対等な仲間ってことで」

 言いながら、サイラスは懐から小さな機械を取り出した。掌ほどの大きさの、恐らく真鍮で出来た六角形の中心には、魔石らしき怪しい光を放つ石が埋め込まれている。サイラスはそれを床に置き、なにやらぶつぶつと唱え始める。石が強い輝きを放ち、装置を中心として、直径一メートル程の光の陣が現れた。

「魔法陣、なのか? これは」

「ご明察だ、隊長さん。こいつは魔力を増幅させる装置でね。結構遠い場所からでもアジトへひとっ飛び出来る便利な代物さ。ちなみにこいつはゴラドの技術じゃない。俺の可愛い部下が血の滲むような努力をして、自力で開発した魔導機械だ」

「なるほどね。アジトへの道順は秘密にしたいってわけだ」

 ニヤ付くウィーゼルに、サイラスは肩をすくめて答えるのみだ。

「安全なのか?」ハロルドは疑り深くサイラスを睨む。

「大丈夫だって。さっき約束したろ。俺らは対等な仲間。『牙の一族』は約束は破らないし、仲間を裏切ることもしない」

「口ではなんとでも言える。まず貴様が行って安全を証明してみせろ」

「それは出来ないね」サイラスは即答する。

「何故だ」

「俺が先に行っちゃうと、この魔法陣も消えてしまう。そしたらアジトからここまでまた歩いて来なきゃいけないだろ?」

「そうか……なら」ハロルドは少し考えて、ウィーゼルに視線を向ける。「貴様が先に行け」

「は? なんで俺?」

「こういうのは貴様が適任だろう」

 危険が想定される状況でウィーゼルが快く承諾するわけもなく、二人はしばらく言い争っていた。その様子をサイラスは愉快そうに笑って見ていたが、ジェマは相も変らぬそのやりとりに少々辟易していた。ひとつ溜息を吐き、言い争う二人の横を通り過ぎると、サイラスから使用方法の説明を受けて、魔法陣の前に進み出る。

「待て」

 ハロルドに肩を掴まれ、ジェマは不満を隠そうともしない顔で振り返る。

「貴様はここに残れ」

「なんでですか?」

「オビの故郷について調べたいんだろう。『獣頭の男』を殺すのは僕の役目だ。貴様には関係無い」

「そんなことない」ジェマは首を振る。「私とあなたは他人じゃない。仲間なんですよ。仲間が危ない所に行こうとしてるのを、放っておけるわけないじゃないですか」

「仲間? はっ、『仲間』か」ハロルドの声には嘲笑が混じっていた。「この僕が、リース侯爵家の血筋である僕が、卑しい平民やケダモノどもの仲間だと? 反吐が出るな」

「ハロルド……?」

 ジェマの困惑を他所に、ハロルドは冷ややかに続ける。

「確かに、同じ組織に属するという意味では僕達は『仲間』だ。だが、それはあくまで仕事上の関係性に過ぎない。僕は貴様と『友達』になった覚えは無い。ましてや、家族のことに口を出されるいわれも無い」

 ハロルドはジェマを押しのけ、魔法陣の中に立つ。

「ウィーゼル、貴様は来い。貴様に死なれてしまっては、団長の命令に背くことになるからな」

「へいへい、わかりましたよ」ウィーゼルは肩をすくめ、ハロルドと背中合わせに立つ。

「ちょっと、待ってください! ハロルド!」

 駆け寄ったジェマの目の前で、二人の姿が掻き消える。ジェマの手は、ハロルドの体があった虚空を切った。

「おっ……と、しまったな」

 おどけた声が背後に聞こえた。サイラスが装置を眺めながら頭を掻いている。

「ちゃんと五人分充填して来たつもりだったんだが。これじゃあと一人しか運べないじゃないか。……いや、正確にはあと二人運べるんだけどね、俺インドア派だから、歩いて帰るの嫌なんだわ。どうする? お嬢ちゃんかその獣人、どっちか一人なら連れてけるけど」

 視線を向けるジェマを、オビは大きな目をくりくりさせて見返す。
 彼の体質は全ての魔法を無効化する。サイラスの装置がどんな仕組みで転移を行っているのかは不明だが、魔法の原理を使っているなら無効化されてしまうだろう。サイラスを説得してオビと共にハロルド達を追う、というのは無理そうだ。
 オビをここに残して行くわけにもいかない。きっとオビはジェマを探し出そうとするだろう。そのために『牙の一族』の人達を傷付けるかもしれない。オルカテイルに来たのは戦争を仕掛けるためではなく、あくまで調査のためだ。『一族』との明確な対立は避けなくては。

「隊長には『待機』の指示を受けています。私はここに残ります」ジェマは目を伏せ、悔しさを噛み殺しながらそう言った。

「そうか。うんうん、そうしたほうがいい。あそこはあんまり……女の子にはふさわしくない場所だからな」

 サイラスは独り言のように呟いて、装置の中に足を踏み入れる。

「サイラスさん、ひとつ約束してください」

「ん?」

「用が済んだら、ハロルドとウィーゼルを無事に帰すと約束してください。もし二人になにかあったら、ホークバレー騎士団はあなたがたの敵になります」

 サイラスの目に、一瞬、刃物のような鋭さが宿ったのをジェマは見た。ジェマはたじろぐことなくその目を見返す。先に視線を逸らしたのはサイラスだった。

「わかった。安心しろ、俺達はあいつらを傷付けない」

「本当に?」

「本当だ。『一族』の誇りにかけて、俺達は約束を守る」

「……わかりました」ジェマは息を吐き、緊張を解く。「今のご自身の言葉、よく覚えておいてくださいね」

 サイラスは肩をすくめてそれに答え、装置を起動する。サイラスの姿が消え、魔法陣と装置が消えた。残ったのは、割れた窓ガラスの破片とハロルドの血痕。

「さて、と」ジェマはぽんと手を叩く。「オビ、朝ご飯はちょっと待っててね。まずは散らかしちゃったものを片付けないと」

第五十二話

 転移の魔法陣によって転送されたハロルドとウィーゼルは、冷たく湿った石畳の上に着地した。少し磯のにおいがする、薄暗い地下の空間だ。
 地下水路のようだが、悪臭はしないので下水ではないようだ。黒い水面に浮いた幾艘かの小舟が、鯨油ランプの明かりに照らされてゆらゆら揺れている。どうやら、ここは物流のための水路らしい。積荷を載せた舟や、それらを積み下ろしている作業員の姿は見えないが。
 少し遅れてサイラスも到着した。彼の案内に従い、ハロルドとウィーゼルは通路沿いに等間隔に並ぶ扉を一つ、二つと通過する。四つ目の扉の前でサイラスは足を止め、持っていた鍵を使って扉を開けた。通路よりやや明るいオレンジ色の光が出迎える。
 煉瓦の壁と石畳の床で構成された部屋は、恐らく元は作業員の食堂だったのだろう。部屋に入って左手にはカウンターが置かれ、椅子が備えられている。反対側の壁には四人掛けのテーブル席が二つ。部屋の奥にはテーブルを挟んでソファが二つずつ向かい合い、二人の人物が互い違いに腰掛けている。

「無事に戻ったか、サイラス」

 聞き覚えのある声と共に、右手前側の一人が席を立つ。大柄な猫獣人は、天井に頭をぶつけないよう姿勢を屈めてこちらに歩み寄る。

「見ての通りだ。あんたも元気そうだな、クーダ」サイラスは軽く手を挙げ、気さくに挨拶する。「客を連れて来た。ボスはもう来てるか?」

「ああ」軽く鼻を鳴らし、クーダは遅れて来た仲間を手招きする。

「まあ、狭くて申し訳ないけど、好きな席に座ってくつろいでくれよ」

「いや。僕はここでいい」

 ハロルドは入り口付近の壁によりかかり、自分達を連れて来た男を注意深く警戒する。ウィーゼルはカウンター席に座り、大きなあくびをした。サイラスは軽く肩をすくめる。

「それじゃ、俺はこの辺で失礼させてもらうよ」

「待ちなさい、サイラス。君達、ちゃんと自己紹介はしたのかい?」

 引き止める声を受け、ドアノブに手をかけていたサイラスは一つ溜息を吐いて振り返る。
 声の主は女だった。足を組み、腕を広げた姿勢でソファにもたれかかっている。年齢は三十代前後。ショートの黒髪に赤い瞳、左頬には一本の傷。サイラスはドアノブから手を離して振り返り、気だるげに答える。

「必要無いでしょ。お互い、素性はもう知ってるんだし」

「一時的とはいえ、協力関係を結ぶんだ。『牙の一族』の名誉にかけて、礼儀はわきまえなくてはいけないよ。サイラス」

「……承知いたしましたよ、ボス」サイラスは肩をすくめ、溜息を吐く。

「『ボス』?」やり取りを聞いていたハロルドが、その単語に反応する。「貴様が『一族』のリーダーということか?」

「その通りだ」女は立ち上がり、遠慮する様子も無くハロルドの目の前に歩み寄る。「私が『牙の一族』の『ゴッドマザー』、ルーカスだ。お目にかかれて光栄だよ、ハロルド・リース君」

『ルーカス』という名前に、ハロルドは聞き覚えがあった。だからこそ、目の前の人物がその名を名乗ったことに嫌悪感を示し、眉をひそめた。
 かつてオールンが『魔族』と呼ばれていた時代、セルペニアとシュメリアの間で争いがあった。敵の指導者を倒し、争いを鎮めた勇者の名前が『ルーカス』だ。リース家とも少なからず縁がある。

「それは偽名か?」ルーカスと名乗った彼女に、ハロルドはあからさまな疑いの目を向ける。

「本名だよ。かの英雄にあやかって、両親が付けてくれた名だ。さあ、握手をしようじゃないか。君もこれから『家族』になるんだ。遠慮はいらない」

 差し出された手を取ろうともせず、ハロルドは彼女を睨み付けている。ルーカスはハロルドの手を取り半ば強引に握手すると、視線をサイラスへと戻した。

「さて、次は君の番だ、サイラス。こういうときは、招いた側が先に挨拶するものだ」

「はいはい……っと」右奥のソファに座っていたサイラスは、緩慢に立ち上がる。「えー、改めて名乗らせてもらうが、俺の名前はサイラスだ。ビジネス関係とか、情報収集とかを担当してる。ま、言ってしまえば雑用係ってとこかな。幹部の中じゃ一番の若造さ。仲良くやろうぜ。よろしく」

「クーダだ」サイラスの話が終わるのを見計らって、大柄な老獣人が立ち上がり、名乗りを挙げた。「主を失くした奴隷獣人や、血の気の多い連中の面倒をみている」

「クーダは私の育ての親でもあるんだよ」ルーカスが、口数の少ない部下の補足を買って出る。「私が生まれた村は、戦争が始まるずっと前に焼き討ちに遭ってね。親を亡くして路頭に迷っていた私を、彼が拾ってくれたんだ」

 ルーカスは遠くを見詰めるような顔をして、昔話を語る。

「私は彼に救われた。そして、私も自分のような境遇の人々を助けられる人間になりたいと思ったんだ。戦争、災害、病、貧困……様々な不幸によって、家族や住む場所を失った人々が、世の中には溢れている。彼らには新しい居場所が必要だ。新しい家族が必要だ。『牙の一族』は、そんな人々を家族として招き入れ、居場所を与える。私は彼らの『母親』として、横暴な支配者から『子どもたち』を守る義務がある」

 朗々と語る彼女の口調は、徐々に熱を帯びていく。

「あの男は……あの『獣』は、絶対に殺さなくてはならない。私の『子どもたち』を食い殺した罪を償わせなければならない。許せない。許せない……! 絶対に!」

 砲撃でも受けたかと思うほどの衝撃が、部屋を揺らした。怒りのまま、力任せにルーカスが叩き付けた拳が、煉瓦の壁にめり込んでいた。クーダが歩み寄り、荒い呼吸を繰り返す彼女の肩に手を置く。拳を壁から引き抜いた彼女は、ひとつ息を吐き、はにかんだ顔を上げた。

「取り乱してすまない。レナードの……先日やられた幹部の、最後の姿を思い出してしまってね。怖がらなくていい。君たちのことは、『子どもたち』と同じくらい大切な仲間だと思っているよ」

 血が滲む右手にハンカチを巻きながら、ルーカスは左奥のソファに戻り、煙草を咥えた。すかさず、サイラスが左手の手袋を外し、鈍色の人差し指に備えられた着火装置で火を点ける。

「さて、と」紫煙を吐き出し、ルーカスは元の落ち着いた口調で言う。「今度は君たちのことを聞かせてくれないか。出来るだけ詳しく、ね」


 話し合いの末、『獣頭の男』を殺害する計画は、五日後に開かれるオルカテイルの記念祭に決行されることになった。難民の寄せ集めに過ぎなかった集落が、国王により都市として認められた記念の日である。
 祭の日は、人々が市街地と南地区に集中する。一般人への被害が出ないよう、『獣頭の男』を西地区におびき出し、捕える作戦だ。捕えた後はハロルドの雷でトドメを刺す算段となったが、胸中に抱えた懸念をハロルドがルーカス達に打ち明けることは無かった。
 作戦会議が終わり、ハロルド達は再びサイラスに連れられて部屋を出る。通路の更に奥へと進み、階段を上がると、夏の陽光が目を刺した。地上に出たようだが、周囲は壁に囲まれている。ささくれた木の板が張られた床、等間隔に並ぶ扉と窓。

「ここがあんた達の部屋だ。ってか、本来は俺の仕事部屋なんだけど」

 扉のひとつを開けて、サイラスはハロルド達を招き入れながらそう言った。

「作戦決行の日まで、あんた達にはここで過ごしてもらう。そのほうが連絡も取りやすいしな。ちょっとばかり手狭だが我慢してくれ」

「五日もこんな狭っ苦しいとこで過ごさなきゃなんねーのかよ」ウィーゼルがすかさず文句を言う。

「部屋の中の物は好きに使って構わないが、あんまり騒ぐなよ。隣はクーダの仮眠室だ。タイミングが悪いと爪とぎ板にされるぞ」

「あの部屋は空いてないのか」ハロルドは反対側の隣室を指して訊ねる。

「ああ、あの部屋ね……」サイラスは歯切れ悪く答える。「さっきボスが言ってた、レナードって奴の部屋だよ。今は『開かずの間』って呼ばれてる。あれはボスの地雷だ。近付かないほうがいいぜ」

「レナードというのは何者なんだ?」

「いけすかねえ女だったよ。でも、仲間だった」

「ボスとの関係は?」

「そういう野次馬根性はいただけねぇな。それはそれとして」

 サイラスは一方的に切り上げ、ハロルド達を部屋に残して廊下に出る。

「食料は用意してあるし、水は蛇口を捻れば出てくる。無駄遣いはするなよ。足りないものがあったら壁を叩いて知らせてくれ。じゃ、そういうことで」

 扉が閉まり、鍵が掛かる音がした。扉には鍵穴はあるが、内側から開ける摘みなどは見当たらない。合鍵は渡されなかったし、部屋の中を探したところで恐らく見付からないだろう。

「さて、無事に潜入出来たわけだが、これからどうするよ? 隊長さん」

「決まってるだろう」扉に耳を当て、サイラスが立ち去るのを確認してから、ハロルドは答えた。「『開かずの間』を調べる」

「やっぱそうだよなあ?」ニヤリと笑いつつ、ウィーゼルの耳は後ろに倒れている。

「空振りならそれでもいい。可能性のある場所から潰していく。五日もなにもせず待っているわけにはいかない」

「アンタが仕事を忘れてなくて助かるよ」ウィーゼルは肩をすくめる。「でもよ、小娘達を遠ざけるには、ちょっと言葉がキツすぎたんじゃねえか?」

「どう受け取られようと僕は構わない。目的が果たせればそれでいい」

「……そうかよ」

 ウィーゼルは息を吐き、懐から針のような形の器具を取り出す。数分ほど鍵穴を弄っていると、かちりと音がした。

「通路には誰も居ないみたいだ」扉に耳をくっつけていたウィーゼルは、肩を回しながら立ち上がる。「用心はしろよ」

「わかってる」

 ハロルドはドアノブに手をかけ、ゆっくりと開けた。後ろからウィーゼルも付いて来る。
 迷い無く隣の部屋に向かい、ドアノブを捻る。鍵は掛かっていない。開けると、微かに薬品臭いにおいがした。ウィーゼルが鼻をつまむ。部屋に入り、扉を閉める。
 カーテンが締め切られた部屋は薄暗い。部屋にあるのはベッド、本棚、大小の瓶が並んだ棚、調合台、机。それから、なにか四角い物が壁に寄りかかっている。近付いて見ると、どうやら風景画のようだ。机の上には乾いた絵の具とパレットが置いてあった。引き出しの中は空だ。
 家具はあまり埃を被っていない。ベッド脇のサイドテーブルに、花瓶に挿した花が飾られている。『開かずの間』と呼ばれている割には、花は新鮮に見えた。
 ハロルドの目がゴミ箱に止まる。封筒と手紙だ。どちらにも差出人の名前は無い。手紙は形式張った挨拶から始まり、ありふれた社交辞令の言葉で締め括られていた。内容はこうだ。

『ホークバレー騎士団に捕らわれている エイダ という魔術師を殺してほしい』

「これって決定じゃね?」後ろから覗き込むウィーゼルが言う。「こんなに早く証拠が見付かるとはな」

「いや。まだこいつを彼らが受けたかどうかはわからない。もう少し調べてみよう」

 その後も部屋を一通り調べてみたが、依頼者の名簿らしきものは見付からなかった。そもそも記録していないのか、別の場所に保管してあるのか。
 これ以上はなにも見付かりそうにないので、ハロルドは探索を切り上げて部屋に戻ることにした。手紙を懐に仕舞い、ドアノブに左手を掛ける。
 突然視界が暗くなり、襟首を引っ張られた。

「なにを……っむぐ」

 乱暴を働いたウィーゼルに文句を言おうと開いた口は、すかさず塞がれる。
 扉に近付く足音が、ハロルドの耳にも聞こえた。人数は一人。足音は扉の前で止まり、ゆっくりとドアノブが回る。扉が開く。光と共に入って来たのはルーカスだった。
 ハロルドとウィーゼルは、開いた扉の裏側に居る。ルーカスが扉を閉めようとすれば、見付かってしまうだろう。ルーカスは扉を開け放ったまま、部屋の奥へ向かう。

「遅れてすまない。今朝は急用が入ってね……。いや、心配はいらないよ。この大仕事が終わったら、ちゃんと休暇を取るつもりだ」

 ルーカスの視線は花瓶の花に向けられている。花に語りかけるかのように、ルーカスの独り言は続く。

「無茶? なんのこと? はは、君は相変わらず心配性だなあ。大丈夫さ。『獣』は今度こそ確実に仕留める。これは仇討ちじゃない。『母親』としての義務だ。親は子どもを守らなくちゃ。そうだろう?」

 無論、花は返事などしない。

「なにも心配いらないよ、レナード。彼はきっと君の代わりを務めてくれるさ。だから安心して休んでいてくれ。必ず、あの『獣』の首を墓前に供えてやるから」

 ルーカスは胸元から煙草を一本取り出し、火を点けずに花の前に置いた。立ち上がり、踵を返し、一度だけ名残惜しそうに振り向いて、部屋を出る。扉の裏に居る二人には最後まで気付かずに。
 扉が閉じられ、部屋が暗闇に染まる。足音が遠ざかるのを聞いてから、ハロルドとウィーゼルは詰めていた息を吐き出した。冷や汗で背中が濡れている。ルーカスの口調は終始穏やかだったが、秘めきれない殺気が滲み出していた。失われた腕の傷が疼く。心臓が暴れる。

「立てるかよ? ハロルド」

 ウィーゼルが手を差し出す。情けないことに、ハロルドはいつの間にか座り込んでしまっていた。ウィーゼルの手を取り、なんとか立ち上がる。足が震える。
 ウィーゼルはハロルドを茶化さなかった。二人は無言のまま『開かずの間』を後にし、部屋に戻った。

第五十三話

 ター・シェンとベルナルドは無事だった。騒ぎに気付いてはいたが、巻き込まれることを恐れて出て来られなかったらしい。無理もない。相手は銃を持った無法者だ。

「ご馳走様でした」

 ハロルド達と別れてから一時間が経つ。朝食としてベルナルドが出してくれたのは、魚介スープの雑炊だった。温かい食事を摂ったことで、ジェマの気分はいくらか落ち着いた。匙を置き、席を立つ。

「お世話になりました。ター・シェンさん、ベルナルドさん」

「もう行っちゃうノ?」眉を下げたター・シェンが、遠慮がちに口を開く。「ハロルド君達待つなら、もう少し居てもいいんだヨ。お金ならもう貰ってるし……」

 朝食の席で、ジェマは自分達が騎士団の使いであり、偽名を使っていたことを明かしていた。嘘を吐いていたことを詫びるジェマを、二人は責めなかった。
 ジェマはハロルドが残して行った荷物を背負い、朗らかに返す。

「いいんです。これ以上迷惑をかけるわけにもいきませんし。それに、仲間が無茶をしようとしてるのに、じっと待ってるなんて無理ですよ。私に出来ることがあるかはわからないけど……それでも、なにかしないと」

「『牙の一族』とやり合うつもり?」

「まさか」ベルナルドの質問を、ジェマは笑い飛ばす。「助けてくれる人に心当たりがあるんです。まずは、その人を頼りにしてみようかと。なので、いったんオルカテイルからは離れるつもりです」

「そうカ。心配だけど、ワタシ達出来ること思いつかないヨ。ごめんネ」

「いいんです。途方に暮れてた私達に声をかけてくれたことも、傷付いたハロルドを受け入れてくれたことも、感謝しきれないくらいです。本当に、お世話になりました」

 ジェマは軽く会釈をして、宿屋『ビッグ・ベア』を後にする。

「さて、と」ジェマは頬を叩き、東の建物群から顔を覗かせ始めた太陽を見上げる。「行こう、オビ」

「どこへ行くの?」オビは首を傾げる。

「そうだね、ストークケイプに向かう前に、ちょっと試しておきたいことがあって」

「試しておきたいこと?」

「ジェイさん達と食事したときのこと覚えてる?」

 オビは反対方向に首を傾げる。

「ジェイさん、私達のこと『王宮騎士団の使いか?』って言ってたよね。そうやって疑うってことは、王宮騎士団の人がこの街に出入りしてるってことだ」

 オビはもう一度、反対方向に首を傾げる。今度は更に眉間にしわが寄っている。

「もし本当に王宮騎士団の人達がこの街に来てるなら、ハロルド達を助けるのに協力してくれるかもしれない。そうすれば、ギルバートさんに頼むより早くハロルド達を連れ戻せるでしょ?」

「オビ、よくわからないんだけど」オビはついに考えることを放棄した。「そのひとたちもキシダンなら、ジェマたちの仲間?」

「少なくとも、敵じゃない」ジェマはうなずく。「協力してくれる保障は無いけどね。ダメ元で頼んでみる価値はあると思うよ」

「どこにいるかわかるの?」

「そうだな……。まず、王宮騎士団の人は貴族が多いから、市街地には居ないと思う。市長さんの屋敷に泊まってるか、街の外で野営してるか、どっちかじゃないかな」

「じゃあ、いこう!」

「そうだね」

 ジェマは大きな荷物を背負い直し、出発する。目指すは東地区にある、市長の屋敷が建つ高級住宅地だ。


 ジェマの予想は的中した。大きな荷物を背負った獣人連れの田舎娘は、市長邸の敷地へ通じる門を潜ることさえ許されなかった。
 門番曰く、王宮騎士団の使者が市長邸に滞在していることは確からしい。五日後に開かれるオルカテイル市の記念祭に出席するためだという。ジェマは使者との対面を望んだが、職務に忠実な門番は聞き入れなかった。

「……となると、やっぱりギルバートさんを頼りにするしかないのかな」

 コーヒーの香りが漂う市街地をあても無く歩きながら、ジェマは考え込む。
 ホークバレーに応援を要請しても、到着は早くて数日後。ストークケイプであれば、馬車を使えば一日で往復出来る。助けを求めれば、ギルバートは答えてくれるだろう。暴走するハロルドを説得出来るのも彼しか居ない。
 ハロルドは「兄上を守るため」に『獣頭の男』を殺すと言っていた。ジェマには、本当の理由は他にあるように思えてならない。ギルバートの強さをジェマは知らないが、守らなければならないほど彼が弱いとは思えないのだ。

「……っと、すみません」

 通りの角で、肩が通行人に当たる。ジェマは考えごとを中断して顔を上げた。
 大柄な男だ。顔には薄い火傷のような跡があり、鋭い眼光の強面に拍車を掛けていた。男はジェマを一瞥したのみで、なにも言わず歩き去る。
 低い唸り声をあげるオビの肩を叩いて、ジェマは喫茶店の看板を指差した。

「お腹空いたね。お昼にはちょっと早いけど、なんか食べようか」

 白身魚のフライを挟んだサンドイッチを二つ買い、窓際の席に着く。客の数はまだまばらだ。この地区では獣人は珍しいのか、何人かの客がオビのことをちらちら見ていた。ジェマはミルク入りのコーヒーを啜る。初めての味だが、思ったより苦くない。
 食事を終え、外に出る。ジェマたちに続いて一人の客が席を立つ。
 街の案内板によると、ストークケイプ行きの馬車は街の北側の街道を通るらしい。そこまでは市内馬車が通っていて、今居る場所からなら一人二十カブルで乗せてくれる。ちょうど通りかかった馬車を捉まえ、行き先を告げて運賃を払う。ジェマ達の後に喫茶店を出た人物も馬車に乗り込む。ジェマとオビは前方の席に座り、後から来た人物は最後部の座席に座った。
 簡素な屋根が付いた座席には三人の乗客。御者は余計な言葉を発さず、黙々と手綱を握っている。街の喧騒と蹄の音。額の汗に風が当たって心地好い。十分程で馬車が止まり、新たな乗客を乗せる。
 揺れが眠気を誘い、つい居眠りをしてしまった。そろそろ目的の街道に着いただろうか。馬車は止まっている。御者と、他の乗客の姿は無い。肩に寄りかかって眠っているオビを起こし、ジェマは荷物を背負って立ち上がる。
 馬車から降りて辺りを見る。石造りの壁が、目の前にそびえ立っている。戦時中の砦の跡を、街の門として利用しているようだ。こちらの門には、最初に街に来たときにあった赤い提灯は見当たらない。あそこは南門だったか。
 門は閉じられていた。両開きの巨大な扉には閂が掛けられている。賊の襲撃でもあったのか? こんな昼間に?

「悪いねお嬢さん。ここは通行止めだ」

 背後からの声に振り返る。そこに居たのは、先ほどジェマとぶつかった火傷顔の男。ジェマ達の後に喫茶店を出た人物。そして、三番目の市内馬車の乗客。
 三人とも、『牙の一族』のチンピラにしては小奇麗な身なりをしている。ゆっくりとこちらに向かって歩く姿には隙が無い。正体は不明だが、油断出来ない相手だということは理解出来る。

「えっと……すみません。なんのことだか、よくわからないんですが……」ジェマは相手の様子を見るべく、無力な女の子を演じることにした。「もしかして、ナンパですか? 困ったな、私みたいな田舎者より、もっといい女性が……」

「『獣頭の男』に会ったんだろう?」

 ジェマが息を呑むのを見て、火傷顔の男はニヤリと笑う。

「言っておくが、俺達は『牙の一族』とは違う。あいつらは暴力を振るえば全て解決すると思ってる。俺達が重んじるのは国家の法、そして国民の安全だ」

「ってことは、あなた達は……」

「察しがいいな。だがそれ以上は言わなくていい。俺の質問に答えろ。お嬢さん、君は『獣頭の男』に会ったのか?」

 おそらく相手は王宮騎士団だ。変身の魔法を応用すれば髪と目の色は変えられる。ジェマの脳裏に浮かんだのは別の疑問だった。疑問は二つ。何故王宮騎士団のほうからこちらに接触して来たのか? 何故、市民に被害が出ているわけでもないのに、彼らが『獣頭の男』を追っているのだろう?

「沈黙は肯定と受け取っていいのかな?」

 男の目が青く光る。やはり貴族だ。魔法を使って来る!

「……ほお」

 ジェマの前に躍り出たオビが炎をかき消したのを見て、男は感嘆の声を上げた。

「そいつがレクシア卿の言っていた『竜』か」

「ちょっ……待って! 待ってください!」ジェマは両手を挙げ、オビの背後から叫ぶ。「なんで攻撃してくるんですか! 私はあなた達に逆らうつもりなんて……」

「任務だ。悪く思うな」男は剣を抜き、ジェマに切っ先を向ける。

「任務……?」

「『獣頭の男』に接触した者を排除すること。それが俺達の任務だ」

 横薙ぎに降られた刃をしゃがんで避ける。剣と盾は荷物の中だ。白昼堂々街中で襲われるなんて、想定しているわけがない。

「避けたな。王宮騎士団に逆らうとはいい度胸だ」

「なんでそうなるんですかーっ!」

 逃げるしかない。ジェマはオビの手を取って走り出した。オビがジェマの股下に頭を潜らせ、背負い上げる。四つ足で駆ける速度は、荷物が無いときとほとんど変わらない。

「オビ! 壁を昇って!」

 オビは言われた通りに身を翻し、石の壁をするすると昇る。馬車を待っている時間は無い。このままストークケイプに向かい、ギルバートに助けを求めなければ。壁の天辺はすぐ目の前だ。

「ぎゃん!」

 オビの悲鳴と同時に、ジェマは自分の身体が宙を舞っているのを自覚した。もうすぐ昇り切れるはずだった壁の上に、人影が見える。火傷の男の仲間の一人。あの人がオビの顎を蹴り、突き落としたのだ。
 背中から地面に落ちる。荷物がジェマの背骨の身代わりになってくれた。備品は弁償すればいい。生きて帰れるなら。
 オビは頭から落ちたが、ぶるぶる体を揺すっただけで、大した怪我は無さそうだ。顔を上げた彼の喉元を、ギラリと光る切っ先が狙う。
 オビを助けるべく、ジェマは荷物を捨て、出来る限り急いで身を起こす。地面を蹴り、手を伸ばす。間に合わない。
 ジェマの頭上をなにかが通り過ぎた。折れた刃がオビの足元に落ちる。
 新たに現れた『なにか』は男だった。細い体にそぐわない怪力で火傷顔の男の首を掴み、宙に掲げている。狼のような、獅子のような顔をした男は、もがく獲物を仲間目掛けて投げつけた。受け止め損ねた手下は、リーダーもろとも吹き飛ばされ、倒れ込む。

「行け」

 赤い目がこちらを見る。鈍い牙を備える口から発せられたのは、短い言葉だった。

「行け。死にたくなければ」

『獣頭の男』は、私達を助けようとしている? なぜ? 困惑しながらも、ジェマはこれが二度と無い幸運だということを直感的に理解した。

「オビ!」

 捨てた荷物を引っ掴み、オビに跨って壁を駆け上る。壁の上に陣取る王宮騎士団の仲間が剣を抜く。オビは雷鳴のような声で吠え、垂直に走る速度を上げた。怯むことなく突っ込んで来る相手に、流石の騎士も剣を振ることが出来ない。壁の天辺を蹴り、オビは大きく跳躍する。
 下腹部の浮く感覚。着地の衝撃は思ったより少なかった。ジェマはオビに北へ向かうよう指示を出す。北へ。背後にあるのがオルカテイル市の北門なのだから、このまま真っ直ぐ進めばいいはずだ。
 背後で爆発音が聞こえた。振り向いた視界の隅に、オレンジ色の光と白い煙が上がっているのが見える。『獣頭の男』と王宮騎士団の戦いは続いているようだ。ジェマ達の優先順位は低いらしく、追っ手の姿は見えない。
 このまま『獣頭の男』が王宮騎士団に捕らわれるか、死んでくれれば——恐ろしい考えが脳裏を過ぎり、ジェマは頭を振った。ハロルドのことが心配だからといって、助けてくれた人の死を望むなんて。

「ジェマ、ホントにこっちでいいの?」

 森の中を進むオビが声を上げる。ジェマはようやく、周りの景色を認識した。
 青々とした木々が辺りに茂っているが、視界は明るい。影の位置を見れば方角がわかるはずだ。足元を見る。周囲の木々の影を探す。光源を示す影はどこにも見当たらなかった。
 ジェマはハッとして空を見た。灰色の雲が太陽を隠している。
 夏のタロンフォード地方は、にわか雨が頻繁に降る。オルカテイル市に来る途中にも、何度も行く手を阻まれた。街に滞在していた間は晴れていたので、すっかり失念していた。
 似たような景色が続く森では、自分達がどこへ向かっているのかもわからない。追っ手を警戒して道を逸れたのがまずかった。足を止めたオビから降り、ジェマは彼の手を取る。

「ごめん、オビ。こんなに手足を汚してくれたのに」

「このくらい平気だよー」オビはにこにこと機嫌よく笑っている。

「ここからは私も歩くよ。とにかく高いところへ行こう。方角を確かめないと」

 ジェマはオビを連れ、緩い傾斜を登る。ぬかるんでいた足元が、ふかふかした腐葉土の地面に変わった頃、ジェマ達の目の前に人工的に詰まれた石が現れた。よく見ると、崩れかけた街道跡がある。朽ちた木材がそこかしこに落ちており、焦げたような跡も見受けられる。
 詰まれた石は、どうやら建物の基礎のようだ。朽ちた木材は柱。ここは、戦火に焼かれた村の跡だろうか。いや、村というよりは街のようだ。街道跡沿いに散乱している石は、砕かれた城壁の残骸だ。
 鼻の頭に雫が落ちる。ぽつぽつと降り始めた雨は、瞬く間に豪雨に変わった。テントは折れてしまった。この廃墟のどこかに、雨宿り出来る場所があればいいけど。
 廃墟となった街の中心に、屋敷が建っていた。外壁の一部が焦げ、半壊状態だが、母屋はほぼ無傷だ。何度も盗賊が入ったのだろうか、扉や窓は見る影も無く破壊されている。お陰で中に入るのに苦労はしなかった。自分達は火事場泥棒ではない。少し雨宿りをさせてもらうだけだ。罪悪感は感じないフリをして、ジェマは建物の中に足を踏み入れる。

「お邪魔しまー……す」

 控えめにかけた声に、答える者など居るはずは無い。そんなジェマの考えは、一瞬で裏切られる。

「……誰だ」

 稲光が、答えた男の姿を照らし出す。
 広間の階段に座り込んでいたのは、『獣頭の男』だった。

第五十四話

「クーダから報告があった。夕方の揺れと白煙は、王宮騎士団が『獣頭の男』と交戦した際のものらしい」

 ルーカスの言葉を受け、その場に居た構成員たちからざわめきが起こる。ルーカスは片手を上げてそれを鎮めると、落ち着いた口調で続きを口にする。

「彼らは『獣』を仕留められなかったようだ。クーダ達の班には、引き続き『獣』の行方と王宮騎士団の動向を探るよう頼んである。明日の朝には詳細を伝えてくれるはずだ」

 現在の時刻は夜の八時ごろ。やや遅めの夕食を摂ったのち、ハロルドとウィーゼルは部屋を出るよう指示を受けた。名も知らぬ構成員に案内されたのは、オルカテイル市のどこかにある小さな劇場だった。
 舞台にはルーカスを中心に護衛らしき構成員が数人、彼女の背後を取り囲んでいる。席の前方にはサイラスとその取り巻き。他の席は全て、構成員らしき人々が埋め尽くしている。座席の数はおよそ二百といったところか。アジトに残っていた構成員も何人か居たので、これが全員ではないのだろう。
 ハロルドとウィーゼルは舞台袖で話を聞くよう指示された。席が残っていないのだから仕方無い。

「王宮騎士団が動いたとなれば、ことは急がなければならない。『家族』の仇は、我々の手で捕らえ、粛清を与えるべきだ」

「そうだ!」一人の若者が、座席を立って声をあげた。

「王宮騎士団なんかに横取りされてたまるか!」

「『獣頭』は俺達の獲物だ!」

「レナードさんの仇!」

 水面に落ちた雫が波紋を起こすように、興奮した叫び声は瞬く間に劇場を埋め尽くした。ルーカスの顔に満足げな笑みが浮かぶ。魔石の照明に照らされた顔は、清々しさすら湛えていた。熱狂的な声援を抱きとめるかのように、ルーカスは両手を広げる。

「みんな、ありがとう」その声は、興奮した観衆にかき消されることなく朗々と響き渡る。「私の気持ちも皆と同じだ。クーダ達が奴の居場所を見付け、こちらの武器の準備が整い次第、総攻撃をかける。必ず『獣頭の男』の首を取り、犠牲になった家族達の無念を晴らそうじゃないか!」

 座席を埋め尽くす構成員達から(とき)の声があがった。彼らは立ち上がり、拳を振り上げ、ルーカスを称える言葉と『獣頭の男』を罵る言葉を口々に叫ぶ。

「どうにも苦手なんだよな、こういうの」ハロルドの隣で、ウィーゼルが冷めた口調で呟く。「人間にとってカタキ討ちってのはそんなに大事なのか?」

「家族を殺されたなら、恨みを持つのは当然だろう。血縁は無くとも、彼らにとって仲間は家族同然だ」

 ハロルドの答えを受けて、ウィーゼルは居心地悪そうに目を逸らした。ハロルドはウィーゼルに視線を向けることなく続ける。

「なあ、ウィーゼル」

「あ?」

「……すまなかった」

 興奮冷めやらぬ人々の喧騒に、ともすればその声は掻き消えてしまいそうだった。ウィーゼルは耳をぴくりと動かし、訝しげな目をハロルドに向ける。

「急になんだよ。気持ち悪い」

「昨夜……いや、今朝か。ジェマに頬を打たれたとき、気付くべきだったんだ」

「なにを?」

「ウィーゼル。貴様は弟の死をまだ引き摺ってるんだろう」

「はっ、そんなわけねーだろ」ウィーゼルは喰い気味に否定する。「野生の獣人にとっちゃ死は日常だ。身内がくたばったくらいで気に病んでちゃ生きてけねえよ」

「そうか」ハロルドは目を閉じ、深く息を吐く。「それならいいんだ。忘れてくれ」

「やあ、君達も来てくれたんだね」

 演説を終えたルーカスが、水の入ったグラスを手に舞台袖に戻って来た。飲み干したグラスを部下に返し、彼女は迷い無い足取りでハロルドに近付く。
 ハロルドの脳裏に、『開かずの間』で見た光景が蘇る。物言わぬ花に向かって穏やかに話しかけながらも、どす黒い殺気を身に纏ったルーカスの姿。無意識に身体が強張る。

「予定は五日後だったが、勝手に変えてしまってすまない。でも、君なら問題無いだろう? 君にとって、これは大事な兄上を守るための戦いでもある。期待しているよ」

 ルーカスはハロルドの肩を軽く叩き、返事も待たずに歩き去って行く。ハロルド達がレナードの部屋に入ったことは、やはり気付いていないようだ。
 彼女は、ゴミ箱にあった手紙の存在を知っているのだろうか。手紙が無くなっていることに気付いたら、彼女はどんな反応をするだろう。命までは取られないはずだが、穏やかに帰してくれるとは思えない。
 手紙のことが知られる前にことが済めば、そしらぬ顔をしてジェマ達と合流し、ホークバレーに帰ればいい。そういう意味では、予定が早まったのはむしろ喜ばしいことだ。だが、問題はもう一つある。ハロルドは今、魔法が使えないのだ。
 突然魔法が使えなくなった理由はわからない。長旅による疲れか、大量の死体を見たことによる精神的ショックか、あるいは別の要因か。ともかく、『獣頭の男』との決戦の日までに、魔力を復活させなければならない。『牙の一族』がハロルドに求めるのは、高火力の雷魔法だ。それが使えないとなれば、彼らがハロルドの身の安全を保障する理由は無い。

「よう」

 背後からの声に、ハロルドの心臓は飛び出しそうになった。サイラスだ。隣にもう一人居る。見たことのない顔だ。

「顔色悪いぜ、大丈夫か? そこの椅子にでも座って聞いてりゃよかったのに」壁際に寄せられた椅子を指して、サイラスは言う。

「いや、平気だ」ハロルドは肩の断面を押さえて答える。「この雨のせいか、少し痛みがぶり返してきてな」

「そりゃ辛いな。痛みが酷かったら言ってくれ。いい薬がある」

「いや、結構だ」

 即行で断られ、サイラスは苦笑いを浮かべた。

「で、なんの用だよ?」ウィーゼルが入って来る。

「ああそうそう。君らにちょっと付き合って貰いたいんだよね」サイラスはそう言いながら、隣の人物に目配せする。彼女は頷き、肩に下げた鞄から六角形の装置を取り出した。

「こっちにゃ怪我人が居るんだぜ。夜遊びの相手なら他を当たってくれや」

「あんた達じゃなきゃいけない理由があるんだよ、狼君」サイラスは機械仕掛けの人差し指を立て、ハロルドの左腰を指した。「その手紙の詳細、知りたいだろ?」

 幸い、周囲に人は居なかった。ルーカスと彼女の護衛は扉の向こうに立ち去り、座席にひしめいていた観客は皆劇場を後にしている。ハロルドは一つ息を吐き、ポケットの中身を取り出した。

「これの存在を知ってるってことは、貴様も入ったのか?『開かずの間』に」

「ボスには言わないでくれよ?」肩をすくめ、サイラスは悪戯っぽく答える。「ま、そういうワケなんで、続きはゲートの向こうで話そうや。オリーヴ、頼む」

 オリーヴと呼ばれた彼女は慣れた手つきで装置を起動する。三度目ともなれば、この先進的な移動方法にもはや抵抗は無い。先行したオリーヴに続き、ハロルドも光の柱に足を踏み入れる。
 光が視界を覆い、次の瞬間には暗闇に取って代わった。ひやりとした空気。からくりが回る音。薬品のにおい。目が慣れてくると、薄ぼんやりとした青白い光が見えた。魔石の光だ。頭上十メートルほどの高さから、曇り硝子に覆われた魔石の照明が幾つもぶら下がっている。石灰質の壁と天井がその光を反射し、空間全体を照らし出していた。
 幾本もの石柱が並ぶ広い空間。奥行き三十メートル、幅十五メートルといったところか。かつてタロンフォード地方にあった都市国家が、地殻変動によって地中に埋まった話を思い出す。古代、ここは神殿か、祭事を行う広場だったのだろう。
 床や壁には配管が張り巡らされており、至るところから蒸気が噴き出している。蛇腹状のレールに運ばれているのは、巨大な篭手、兜、鋏のような鉤爪——おそらく、ゴラド軍が使っていた機械兵の残骸だ。奥のほうにはまだ泥を被った機械の亡骸が山積みになっている。
 白いローブを羽織り、奇妙なゴーグルを付けた人物が数人、蒸気を噴き出す機械の周りを慌しく行き来している。ハロルド達を劇場に招いた人物の姿も見えた。何人かはこちらに気付き、軽く手を上げる。サイラスが手を上げてそれに答え、こちらに向き直る。

「今更隠すこともないよな? ここが俺達の研究室だ」

「研究……とは、ゴラドの技術をか?」ハロルドの視線はサイラスの左手を見ている。

「まあそういうことだ」サイラスは軽く左手を振って答える。「とはいえ、雑に処分してったお偉いさんがたが悪いんだぜ。俺達は放置された産業廃棄物を有効利用してるだけさ」

「なるほど」ハロルドはうなずく。「ここはホークバレー騎士団の管轄外だ。見なかったことにしてやる」

「そうしてもらえると助かる」サイラスは奥の扉に向かって改めて歩き出す。「足元、気を付けろよ」

 樹木の根のように床を這う配管を跨ぎながら、ハロルド達は部屋の奥へ向かう。転送装置を起動するときに居たオリーヴという女は、いつの間にか姿を消していた。おそらく、白衣の集団の中に戻ったのだろう。
 扉は木製で、小さなガラス窓が嵌められていた。中にはローテーブルと四つの椅子が置かれ、壁の四隅に取り付けられた照明が魔石の光で室内を照らしている。窓は無く、天井には格子が嵌められた穴があった。

「まあ座ってくれ。茶は出せないけどいいよな?」

「構わない」先に着席したサイラスに促されるまま、ハロルドは彼の向かいに座り、手紙を机の上に置いた。「それで、これの詳細というのは?」

 ウィーゼルもハロルドの隣に座り、腕を組んでサイラスを見る。

「その前に、一つ訊かせてくれ」サイラスは指を組み、ハロルドの目を覗き込んだ。「この『エイダ』ってのは何者だ?」

「ホークバレーで罪を犯した魔術師だ」ハロルドは最低限の真実を告げた。「僕達がここへ来たのは、獄中の罪人に刺客が差し向けられたからだ。そいつは『牙の一族』に関連するものを持っていた」

「おい」ウィーゼルが小声で咎める。

「もう隠しても意味は無い」一瞥を返し、サイラスへ視線を戻す。「貴様、僕達があの部屋を調べるよう仕向けたな?」

「ああ。その通りだ」サイラスは動じる様子も無く答える。「あんた達がホークバレーから来たって知ったときから、なんか関係があるんじゃないかと思ってたんだよ。だからあの手紙を『開かずの間』に隠して、あんた達が見付けるよう誘導した。『入るな』って言われたら、入りたくなるのが人情だろ?」

「なぜそんなことを?」

「あんた達を試したのさ」

「試した?」

「そう怖い顔するなよ」軽く肩をすくめてみせ、サイラスは続ける。「あんた達がその手紙を見付けて、どうするか見たかったのさ。もしかしたら、ホークバレーから来たってのも嘘で、手紙の差出人とグルだっていう可能性もあったからな」

「こちらからも一つ確かめたい」ハロルドは左手の人差し指を立てる。「『牙の一族』は、この依頼を受けたのか?」

「いや」サイラスは首を振る。ひとつ息を吐き、視線を僅かに下げて、続ける。「だからレナードは死んだ」

「どういうことだ?」ハロルドの頭に浮かんだ疑問を、ウィーゼルが口にする。「そいつを殺したのは『獣頭の男』だって、ルーカスとかいう女が言ってたじゃねえか」

「『獣頭の男』がレナードを殺した証拠は無い」サイラスはきっぱりと答える。「死体は酷い有様だったが、喰われた様子は無かった。それに、レナードが殺された現場には、『獣頭』のものじゃない魔力の反応があったんだ」

「待て。その話が本当なら……」ハロルドは思わず身を乗り出していた。「貴様の仲間を殺したのは、その手紙の差出人……ということか?」

「状況から考えれば、その可能性が高い」

 ハロルドはウィーゼルに視線を向ける。ウィーゼルは軽く頷き、サイラスの言葉に嘘が無いことを示した。

「手紙の差出人の名前は? 人相は?」

「わかってたらとっくにシメてるさ」肩をすくめ、サイラスは背もたれに寄りかかる。「ああいう依頼は、レナードが個人で請け負ってたんだ。一族の稼業だとかでな」

 ここで言う『一族』は『牙の一族』ではなく、レナードの親類という意味だ。そう補足して、サイラスは続ける。

「依頼の内容が内容だから、詳しい記録も残してない。だが、ボスには話してたらしい。ひょっとしたら、彼女なら差出人のことも知ってるかもな」

「なら、なぜルーカスに相談しない?」ハロルドは苛立ち混じりに疑問を口にする。「彼女はレナードと親しかったんだろう。手紙の差出人が仲間の仇なら、復讐を望む彼女にこそ伝えるべきじゃないのか?」

「伝えたさ」サイラスは首を振りながら答えた。「ゴッドマザーは『獣頭の男』こそがそいつの差し金だと言った。演説中の熱狂を見ただろ? 彼女は仇が誰かなんてどうでもいいんだ」

 サイラスは、息を吸い、吐き、再び指を組んで、ハロルドの目を見据える。

「『獣頭』を殺せば、奴に殺された仲間の仇は討てる。でも、それで満足しちまったらレナードの仇は討てない。真犯人は『獣頭』を生贄に、俺達の追及を逃れてのうのうと生き延びるだろうな」

「つまり、アンタはその手紙の差出人を突き止めるために、俺達が持ってる情報が欲しいってわけだな?」

 ウィーゼルの言葉を受け、サイラスは頷く。

「もっと言えば、そいつをとっ捕まえるのを手伝って欲しい。捕まえたあと一発殴らせて貰えれば、その後の身柄は好きにして構わない」

「だってよ。どうする? 隊長さん」

「ふん、いいだろう」ハロルドは即答する。「元々、暗殺の依頼人を突き止めるのが目的だ。手を貸してやってもいいが、一つ条件がある」

「ほお、聞こうか」サイラスは背もたれに体を預け、足を組み直す。

「『獣頭』の討伐、及び手紙の差出人の調査と身柄の確保。これらについて、貸し借りは無しということにしよう。ホークバレー騎士団から謝礼は出ないし、『牙の一族』からの礼も一切受け取らない。いいな」

「オーケー、承知した」サイラスは身を起こし肩をすくめる。「それじゃあ、改めてよろしく頼むぜ」

 サイラスは屈託無くそう言って、握手を求めてくる。ハロルドは迷い無く、差し出された機械の手を手袋越しに握り返した。

第五十五話

 滝のような雨が降り続いている。応接間だったであろう廃墟の暖炉には炎が灯り、暖かい光と熱を発していた。その温もりを背に受けながら、ジェマはこの奇妙な状況を頭の中で整理する。
 どういうわけか、自分達は今、王宮騎士団に追われる身となった。騎士団に追い詰められたところを助けてくれたのは、惨劇を繰り広げた末にハロルドの右腕を奪った『獣頭の男』。騎士団から逃れた先で、ジェマとオビはその怪物に再会したのだった。
『獣頭の男』はシャスターと名乗った。明かしてくれたのは名前だけだ。ジェマ達を王宮騎士団から救った理由も、何故この廃墟を寝床にしているのかも、獣の口からは語られなかった。

「あの、こちらに来て当たりませんか」

 ジェマは遠慮がちに、部屋の隅にうずくまっている男に声をかける。返事は無い。

「冷えると傷によくないですよ」

 やはり返事は無い。暗闇の中、小さな赤い光が二つ、ぱちぱちと瞬く。

「なにか食べますか? 確か、干し肉が少し余っていたような」

「雨が止んだら、出て行ってくれないか」シャスターは低く唸る。ジェマ達を力ずくで追い出さなかったのは彼の優しさではなく、王宮騎士団と乱闘した際に受けた傷のせいだった。

「ええ。そのつもりです」ジェマは荷物を漁り、食料袋を取り出す。「よかった、まだあった。あなたもいかがですか? 塩抜きしてないので、少ししょっぱいですけど」

「肉は嫌いだ」

「そうですか。じゃあオビにあげよう」

 暖炉で軽く炙った干し肉をオビに渡す。オビは喜んで喰らいつき、塩気にむせて軽く咳き込んだ。オビが干し肉をしゃぶる音がしばらく続いた。
 遠くで雷鳴が鳴る。雨が止む気配は無い。ひび割れた曇り硝子越しに見える景色はだんだん暗くなっていく。
 シャスターが立ち上がる。壁に手を置き、足を引き摺りながら、扉の無い出入り口へと向かう。

「あっ、待ってください」ジェマは慌てて立ち上がり、男を呼び止めた。「もう少し安静にしていたほうが」

「君達が居ると落ち着かない」シャスターは振り返ったが、またすぐに背を向ける。「別室で休ませてもらう。明け方には雨も止むだろう」

 ジェマは彼を追いかけることはせず、オビに体を寄せて暖炉の火を眺めた。眠るには早いが、いつ追っ手が来るとも限らない。休めるときに休んでおこうと、ジェマは目を閉じた。


 獣の唸り声と大きな物音で、ジェマは叩き起こされた。火は消えている。雨は相変わらず窓を叩いているが、雲の隙間から月光が注いでいた。淡い光が、部屋の中で格闘する二匹の獣の姿を照らし出す。一方はオビ、もう一方は『獣頭の男』。
 オビが男の首に喰らい付き、蜘蛛の巣が張った机に叩き付ける。シャスターはおぞましい唸り声を上げてもがく。黒い毛に付いた木片が、血の混じった涎と共に撒き散らされる。

「オビ!」

 ジェマの呼びかけに、オビの耳が動く。

「オビ、その人を離して」

 オビは耳を向けるものの、ジェマの指示を無視した。男の脇腹から血が溢れ出す。オビにやられた傷ではない。塞がっていた傷が、暴れたせいで開いたのだ。もがく腕は徐々に力を失い、オビの肩を弱々しく撫でるのみとなっていた。

「オビ、もういいよ。その人は私を襲えない。離してあげて」

 シャスターが吠えた。狼とも、熊とも違う声。咆哮と共に溢れた血でむせたのか、激しく咳き込む。
 オビはジェマとシャスターを交互に見て、ためらいながらも手を離した。男は咳を続けている。起き上がろうとするが、床を押す腕は体を持ち上げられない。咳は徐々に弱くなり、男は動かなくなった。
 十数秒の沈黙を経て、呼吸音が戻る。出血も収まっていた。二、三回ほど軽く咳き込み、シャスターはゆっくりと体を起こす。オビが身を乗り出し、たてがみを逆立てる。

「本当に、不死身なんですね」『獣頭の男』はいくら銃弾を浴びても死なない、というサイラスの言葉を思い出す。次の襲撃を警戒しつつ、ジェマは続ける。「私の言葉、わかりますか?」

「ああ、お陰で少し頭が冷えたよ」シャスターは顔を上げ、自嘲気味に答えた。「でも、いつまた君を襲うかわからないぞ。今の内に逃げたほうがいいんじゃないか?」

「雨が降ってる夜の森がここより安全だっていうなら、とっくにそうしてますよ」

「人喰いの怪物がうろつく廃墟よりはマシだろ」笑い声のような鳴き声が、男の喉から漏れた。「見てみるかい? 俺の顔を。涎が止まらないんだ。溺れそうだよ」

 鈍い牙の隙間から顎を伝って流れる涎を、赤い舌が舐め取る。恨めしげな赤い目が、瞬きもせずジェマを睨み上げている。その目が訴えるものをなんとか読み取ろうと、ジェマは無意識に足を出していた。
 手を掴まれる。オビがジェマの体を引き寄せ、とぐろを巻くようにしっぽを巻きつけた。耳を立て、牙を剥く。喉の奥で、低い唸り声が響いている。

「その子は君より物分りがいいらしい」シャスターは目を細め、ぎこちなく犬歯を見せた。「行けよ。俺が動けないうちに。君だって無傷じゃないだろ」

 オビの頬に、手に、衣服に、無数の擦り傷が見える。分厚い毛皮や頑丈な皮膚を持つ獣人でも、家具の角やささくれた床板に叩き付けられれば当然傷付く。咬み傷が見当たらないのは、オビが咬ませなかったのか、シャスターが咬まなかったのか。

「わかりました」ジェマはうなずく。「でも、その前に訊かせてください」

「なんだ」

「何故、あなたは『牙の一族』の人達を襲うんですか?」

 男はきょとんとした。

「何故、というのは?」

「話を聞く限り、あなたは、人殺しを望んでいるようには思えない。それなのにどうして、『牙の一族』の人達を」

「奴らは人じゃない」シャスターは被せるように答えた。「金目当てに人を殺し、弱者を踏みつけるような奴は人とは呼べない。ケダモノだ」

「彼らは、ケダモノと呼ばれるほど酷いことをしたんですか?」

「君は奴らの味方をするのか?」鈍い牙から漏れる唸り声。「貧しい人々を騙して身体を売らせ、薬漬けにして、外国に奴隷として売り渡すような奴らを擁護するのか?」

「いいえ」ジェマは怯みながらもはっきりと答えた。ゆっくり息を吐いて、続ける。「私はホークバレーの騎士団に所属する身です。『牙の一族』とは、どちらかといえば敵対関係に当たる立場です」

「なら、俺のやっていることもわかるだろう。俺は人を喰わなきゃ生きていけない。悪人なら、喰っても誰も困らない。むしろ弱者を助けることになる。奴らが横暴を働いているのも、騎士団がちゃんと取り締まらないからだ。クィン家が治めていた頃は、こんなんじゃなかったのに!」

 ジェマはあえて反論せず、濁流のように溢れるシャスターの言葉を黙って聞いていた。白目の無い、表情を読ませない獣の目が、血走るようにぎらついている。人の顔とは違う表現で、激しい感情が獣の顔を歪ませる。語られる内容から、それが怒りと憎悪と深い悲しみを表すものだろうと、ジェマは推測した。

「クィン家というのは、確かタロンフォードの南側を治めていた貴族ですよね」

「そうだ」シャスターは右腕を挙げ、暖炉の上に掛けられた肖像画を指差した。「あれが最後の当主の肖像だ」

 傾いた額縁に入った、傾いた絵。描かれているのは、精悍な顔立ちをした猟犬を両脇に控え、杖を持って立つ壮年の男。腹は出ているが、背筋はピンと立っており、口元には優雅なヒゲを蓄えている。透き通るような白髪は後ろに撫で付けられ、リボンでまとめられていた。宝石のような青い目は、険しさと穏やかさを内包した深い色だ。
 品があり、堂々とした、いかにも貴族然とした男性に見える。日に焼け、風化した肖像画であっても、充分なほどの威厳を感じた。

「ゴラド王国が攻めて来たときに、戦死したっていう?」

 シャスターは腕を降ろし、「そうだ」と擦れた声で答えた。
 ジェマは改めて肖像画を見上げ、この屋敷が誰の物なのかを理解した。同時に、自分の失態を思い知らされて居た堪れなくなった。北のストークケイプを目指していたはずが、反対方向にオビを導いてしまったのだ。ジェマの心中を知らないオビは、フンフン言いながら額をジェマの背中に擦り付けている。

「この屋敷は、クィン伯爵が水鳥を狩るために建てた別荘だ」シャスターは、輪郭を現し始めた景色を眺めながら、呟くように言った。「俺は昔、この街に住んでた。いい所だった。綺麗な湿原が広がっていて、秋になると水鳥がたくさん飛んで来たんだ。俺は虫が好きだったから、夏は水辺に行って虫取りをしてた。伯爵が鳥のことを色々教えてくれた。俺はここがもっと好きになった」

 昔話を語るシャスターの表情が、次第に穏やかになっていくのをジェマは見た。長く雨を降らせていた雲の隙間から青空が覗いたみたいに。しかし、にわかに湧いた雷雲が太陽を隠すように、彼の表情はすぐに曇ってしまう。

「全部奪われたんだ。あの戦争で。ボロボロになった傷口に、『牙の一族』の連中は塩を塗り込んだ」

「だから、あなたは彼らを憎んでいる、ということですね」

 シャスターは喉の奥で唸り、うつむいた。肩を震わせ、息を吐き、それきり口を閉ざしてしまった。
 ジェマはオビを促し、巻きつけていた腕としっぽを解かせた。オビはジェマの袖を掴んだまま、窓のほうを向く。月は傾き、空は明るくなり始めていた。寂れた廃墟に朝靄が漂っている。
 雨が止んだなら、出て行かなくてはならない。それが約束だった。ジェマの足は動かない。『獣頭の男』が凶暴な獣などではなく、止むに止まれぬ事情を抱えた人間なのだとわかった以上、見て見ぬフリをして、なにも聞かなかったことにしてその場を去ることなど、ジェマには出来なかった。
 とはいえなにが出来るのか。ジェマは魔術師でも、医者でもない。

「明るくなって来たので、私達はそろそろ出掛けます。その前に、もう一つ訊いてもいいですか?」

「なんだ」シャスターはうつむいたまま答える。

「どうして、王宮騎士団はあなたを追っているんですか?」

「俺が生きていると都合が悪いらしい」嘲笑と溜息が混ざった声。「あまり深入りすると、君達も命を狙われるかもしれないぞ」

「聞かせてください」ジェマは間髪容れず身を乗り出す。「もう巻き込まれちゃってるんですから、自分達が追われる理由くらい、ちゃんと知っておきたいです」

 シャスターは顔を上げ、目を見開いた。「……ははっ」と、歪んだ口から声が漏れる。

「セルペニアの女にも居るんだな、君みたいな奴が」

 ジェマは、その言葉は自分に掛けられたものではないように感じた。

「君の言うことはもっともだが、王宮騎士団の事情は、実は俺もよくわからないんだ。俺のような異形の姿をした生き物の存在を、大衆の目から隠したいんだろうと想像するしかない」

 ジェマはオビを一瞥した。オビは首をかしげ、耳をぴくぴくさせる。

「彼らが『牙の一族』を根絶やしにしてくれるっていうなら、こんな命くれてやるさ。こんな、人喰いの化け物の命なんか」

「あ、そういえば」ジェマはふと、『獣頭の男』のことをヒーローと呼んだ人物のことを思い出す。「ター・シェンさん——西地区で、『ビッグ・ベア』っていう宿屋をやってる人なんですけど、その人が言ってましたよ。あなたのことを『命の恩人』だって」

「そうか」平淡な声でシャスターは答える。「『命の恩人』、ね」

 ふと、シャスターは顔を上げ、低い唸り声をあげた。それはジェマに向けられたものではなかった。獣の赤い目は、ひび割れた窓の外を見ている。

「誰か来たな。広間の階段の裏に、地下に通じる通路がある。そこに隠れていろ」

「いいえ、私もここに居ます」ジェマの目にも外に居る人物が見えた。その人物は身を隠そうとする様子は無く、なにかを探すように辺りを見回している。

「王宮騎士団の追っ手かもしれないぞ」

「大丈夫ですよ。あの人は……」大丈夫だ、と言い切ってしまうのは少しばかり不安が残る。だが、彼女が敵でないことはジェマはよく知っていた。少なくとも、王宮騎士団を快く思っていない人物だということは。
 ジェマが窓を開け放つのを、シャスターは訝しげな目で眺めていた。部屋の隅の影になった所に身を隠し、様子を見ている。ジェマは外の人物の名を呼び、手を振った。

「ジェイさん!」

 辺りを見回していたその人物——情報屋のジェイは、ジェマの声を聞くなり顔を向けた。驚いたような、少し安堵したような、敵対者であれば決して見せないであろう表情が、その顔に浮かぶ。

「よかった。怪我は無さそうだね」ジェイはジェマのもとに駆け寄り、紫色の目を細めた。「隊長君と白い狼は? 一緒じゃないのかい?」

「二人とは、今は別行動してるんです。でも、無事だと思います」

「そうか……」長く息を吐き、ジェイは額の汗を拭う。

「もしかして、夜通し探してくれてたんですか? 心配かけてしまって、ごめんなさ」

「まったくだよ!」ジェイは顔を上げ、ジェマに詰め寄る。「『獣頭の男』の情報料! 踏み倒そうったって許さないからね!」

「ああ、そっちですか……」ジェマの顔に苦笑が浮かぶ。

「……ロゼッタおばさん?」

 部屋の奥から聞こえた声に、ジェマは振り返り、ジェイは息を呑んだ。

「ロゼッタおばさん、だよね。その声……」

「誰だい? 何故その名前を知ってる?」ジェイの表情が険しくなる。「姿くらい見せたらどうなんだい」

「あの、ジェイさん。彼には姿を見せられない事情が……」

 ジェマの言葉を遮るように、シャスターがぬっと姿を現した。『獣頭の男』を目の当たりにしたジェイは、一瞬目を見開き、溜息を吐いて、泥に汚れた手で額を押さえた。

「……ああ、そうかい。まさかとは思ってたが……。しばらく会わない間に、随分箔の付いた人相になったじゃないか」

「俺のこと、わかる……?」

「わかるよ。あたりまえじゃないか」ジェイは顔を上げ、『獣頭の男』と目を合わせる。「久しぶりだな、シャス坊」

第五十六話

 ハロルドはウィーゼルを伴い、サイラスの案内で、オルカテイル市長邸へ向かっていた。夏の日はまだ高いが、蒸し暑さは和らぎ、ひんやりとした潮風が西から吹いて来る。

「俺が案内できるのはここまでだ」T字路(※)に建つ雑貨屋の前で、サイラスが足を止めた。「あの坂を上って突き当たりにでかい門がある。今朝あんたの名前で訪問の約束を取り付けておいたから、あとはよろしく頼むぜ」

「わかった」ハロルドは短く答え、指差された坂へと足を向けた。

 レナードを殺害したと思われる犯人——『金眼の魔術師』暗殺を依頼した手紙の主は、サイラスが目星を付けてくれていた。最も有力な候補として名が挙がったのは、オルカテイルの市長だ。

 サイラスがレナードの遺体を見付けたのは東地区の公園だった。市長邸からは一、二キロほど離れており、市長は日課として早朝と夕方にその公園まで散歩に行くという。しかし、当日はいつもの時間に市長は現れなかった。彼の姿が目撃されたのは、日がすっかり暮れた午後九時半過ぎ。レナードの死が発覚したのはその直後だ。

 市長はレナードの死を事件として扱わなかった。『牙の一族』の内輪揉めによるものとして片付けたのだ。それに加え、ここ数日、市長邸には記念祭の招待客として王宮騎士団の関係者が頻繁に出入りしている。市長は『牙の一族』との関係を詮索されることを恐れ、犯行に及んだのではないか。そうサイラスは考えた。

 ハロルドは疑問を持った。市長にレナードを殺す動機があったとしても、エイダとの間に接点を見出せなかったからだ。サイラスは答えた。「それを聞き出すのがあんた達の仕事だ」と。

「ホークバレー騎士団のハロルド・リース隊長ですね。どうぞこちらへ」

 門の前で待っていた使用人が、ハロルド達を招き入れる。煌びやかな装飾が施された広間には二十人ほどの使用人達が花道を作り、一斉に歓迎の挨拶を述べた。

「いやはや、ようこそいらっしゃいました。リース隊長」大仰にそう言って登場したのは、赤みのかかった短い黒髪と口髭を蓄えた、青い目の男だ。「オルカテイル市長、オーガストと申します。いやはや、この街に滞在していることは伺っておりましたが、お構いもできず申し訳ありません」

「いいえ、こちらこそ。極秘の調査とはいえ、市長には一言お知らせしておくべきでした」ハロルドはにこやかに返す。不快感を露にしているウィーゼルの顔には気付かないフリをしながら。「この度は、領外の事件の調査にご協力いただき大変恐縮です。つきましては、早速お話を伺いたいのですが」

「そうですな。こんなところで立ち話もなんですし、どうぞ奥へ」

 応接室へ向かう市長の後を、数歩遅れて付いて行く。

 案内された部屋は、セルペニア国内では見かけない珍品で溢れていた。動物を抽象的に模った飾り柱、黄金で造られた精巧な昆虫、牛とも鹿ともつかない奇妙な生き物の剥製……さながら小さな博物館だ。

「どうぞお掛けください」

 市長に促されるままソファに座る。大きな硝子窓から差し込む西日をカーテンで遮り、市長も向かいに座った。

「さて、」侍女に茶を用意するよう伝え、オーガスト市長は指を組んでこちらに目を向ける。「『金眼の魔女』の協力者が、この街に潜伏しているとの話でしたな」

「はい。その可能性が高いと団長は判断しました。それらしき貴族や商人にお心当たりは?」

「そうですな……。数日前に、貿易商が脱税の疑いで取調べをされていましたが……」

 市長は思い付くままにそれらしい出来事を羅列するが、『金眼の魔術師』や『包帯の男』に繋がりそうな話は出て来なかった。

「情報の提供、感謝いたします」ハロルドは形ばかりのおじぎをして、部屋の中の調度品を眺める。「元船乗りとは伺っておりましたが、素晴らしいですね。これだけの品を集めるのは、よほど骨を折られたことでしょう」

「おお、この品々の価値がわかりますか。流石ですな」

 にわかに高揚し、一つ一つの由来を解説するオーガスト市長の様子を見て、ハロルドは内心ほくそ笑む。

 人が本音を漏らすのは気が緩んだときだ。相手を安心させ、おだてて機嫌を取ることは、どんな尋問よりも確実に情報を引き出すことができる。ジェマの振る舞いから学んだことだ。

 彼女の顔が脳裏に浮かぶ。ハロルドは心に湧いた罪悪感を、愛想笑いで塗り潰した。

「なかなかの冒険をされて来られたようですね」

「ええ本当に。いやはや、若い頃は無茶をやったものです。あの棚にある大真珠などは、我が船が嵐に巻き込まれ、ケルベス荒野の砂浜に打ち上げられたときに偶然見付けたもので……」

 正直なところ、相手の話の七割は耳を素通りしていた。欲しい情報を引き出すために、話をどう持って行くか。そのことばかりが思考を占める。

「しかし、国外から持ち込まれた物品には高い税金が掛けられるはずです。騎士団と揉めることもあったのでは?」

「そこは心配ありません。こう見えてわたくしも商才には自信がありましてな。税金を滞らせたことは一度たりともございません」市長は鼻高々に胸を張ってみせる。

「でしょうね。つかぬことをお訊きしました。もし後ろめたいことがあるのなら、こんなふうに堂々と飾っておけないでしょう」

 市長は屈託無く、弾けるように笑った。

「まあ、ここに置いてあるのはほんの一部ですがね。集めた宝物のほとんどは街の博物館や美術館に寄贈してあります。家に置いておくと、泥棒に入られる危険がありますからな」

「自分の目には、これらの品も相当価値のある物のように見えますが」

「こいつらは珍しすぎて値が付かんのですよ。博物館の学者達は欲しがりましたがね、思い入れのある品々でして、どうしても手元に置いておきたかったのです」

「学術的な価値があるということですね。動物を模った彫刻や骨などは、古い占いで使うことが多いと聞きます。呪術的ないわくのある物品なのですか?」

「ええ。まあ、ほとんど迷信じみたものですけどね。学者が言うには、魔術学というよりは民俗学に属する物とのことでした」

「なるほど」ハロルドは改めて市長の顔色を伺う。今のところ、うろたえたり焦ったりする様子は無い。呪術の話を振って鎌を掛けてみたつもりだったが、別の話で釣ってみる。「しかし、あなたほどの目利きが手放し難い品となれば、それを狙う不届き者も居ないとは言い切れませんね。噂によれば、この辺りでも最近物騒な事件があったとか」

 市長の笑みが微かに引きつる。

「オーガスト殿の周りでは、なにか変わったことはありませんでしたか?」

 市長が口を開く前に、扉が叩かれた。市長は咳払いをして立ち上がり、茶と菓子を運んできた使用人を招き入れる。

「お待たせして申し訳ありません」

 市長は使用人から盆を受け取り、ハロルドの前に置いた。カップに注がれた茶は、東洋茶でも豆茶でもない、上等な紅茶の香りだ。獣人には紅茶は毒だということで、ウィーゼルには砂糖を抑えた獣人用の菓子と山羊のミルクが出された。

「庶民の間ではコーヒーなるものが流行っておりますが、わたくしはこちらのほうが好みでしてね。目利きの商人が仕入れた茶葉です。どうぞ召し上がってください」

「俺はケダモノだから、茶の良し悪しなんてわかんねェけどよ」

 ウィーゼルが唐突に口を挟んだので、ティーカップに口を付けようとしていたハロルドは手を止めた。

「いい茶ってのは、こんなに金気くせえもんなのかい? 市長さんよ」

「なにをおっしゃいます」市長は目を丸くした。「わたくしはこれでも茶にはうるさい男です。水質を厳選した泉の水を使い、東洋から仕入れた黒錆の薬缶で淹れた紅茶ですぞ。そのようなことが……」

「なら飲んでみせてくれよ」ハロルドが置いたカップを、ウィーゼルは市長のほうへ寄せた。「俺は疑り深い性分でね。うちの隊長さんに万が一のことがあっちゃ困るんだよ」

「いいでしょう」市長は意気揚々とカップを取り、口元へ持って行く。彼がごくりと喉を鳴らし、飲み込んだのは、自分の生唾だった。

「どうした? 安全なんだろう。茶が冷めちまうぜ」

「もうよせ、ウィーゼル」ハロルドは立ち上がり、市長の震える手を降ろさせた。「市長、お話を聞かせていただけますか?」

「し、知らない! 本当に知らないんだ!」突然、狼狽した様子で市長が大声を上げた。「信じてください、リース隊長! わたくしは毒なんて盛っていない!」

「なぜ毒が盛られたとわかるんです?」ハロルドの口調は冷ややかだ。「落ち着いて。話を聞かせてください」

 市長は青い顔をして、浮かせた腰を下ろし頭を抱えた。

「ああ、まただ。どうして……どうしてわたくしがこんな目に……」

「『また』というのは?」

 市長はワラにも縋るような顔でハロルドを見た。震える唇が言葉を紡ごうとしたそのとき、応接室の扉が乱暴に蹴破られた。

「なんの騒ぎだ!」

 部屋を揺らさんばかりの怒声に、市長は「ひいっ」と息を引きつらせた。

「ウ、ウォーレン殿……」

 市長は頼りない声で、火傷顔の男の名を呼んだ。

 ウォーレンと呼ばれた男の後ろに控えていた二人が、指示を受けて部屋に押し入る。呆然とする市長は両脇から抱え上げられ、弁明の余地も無いまま連行されて行った。市長と入れ違いに、火傷顔の男が部屋に足を踏み入れる。

「ハロルド・リース隊長ですね? お初にお目に掛かります。ウォーレン・ライオネルと申します」

「ライオネル……王宮騎士団獅子連隊長殿ですね」ハロルドは威圧的に見下ろしてくる視線を睨み返す。「民間騎士団の隊長の名までご存知とは、恐れ入ります」

「ご謙遜を。レクシア将軍から伺っておりますよ。『金眼の魔術師』捕獲に当たり、かつての兄上に勝るとも劣らぬ活躍をしたとか」

「それはどうも」ハロルドは内心で舌打ちをする。「その『金眼の魔術師』の件ですが、あの事件の捜査はホークバレー騎士団の管轄のはずです。市長はどこに?」

「オルカテイルの留置所で、しばらく預からせていただきます。禁術の取り締まりは王宮騎士団の仕事なんでね」

「ウォーレン殿は、市長が『金眼の魔術師』の協力者だとお考えで?」

「市長から証言が得られたらお教えしますよ」ウォーレンはハロルドに一度背を向け、ああそうだ、と言って振り返る。「連絡を取るために、宿を訊いておかなければなりませんね」

「西地区の『ビッグ・ベア』です」おそらくジェマ達はまだ滞在しているだろう。二人分の宿代なら、見習いの手取りでも支払えるはずだ。

「西地区?」ウォーレンは微かに噴き出し、咳払いをする。「いや失礼。この街の連中は排他的ですからね、事情はお察しします。では失礼」

「まるで嵐みたいだったな」ウィーゼルが、乱暴に閉じられた扉を眺めて溜息を吐いた。「市長の話もろくに聞けなかったしよ、ほとんど無駄足だったんじゃねえのか?」

「そうでもない」ハロルドは肩を回してソファにもたれる。「貴様の鼻次第では、あの男、かなり大きな手がかりを残してくれたと言えるな」

「市長か?」

「いや、」ハロルドは首を振る。「あのウォーレンという王宮騎士だ」

「ほお」ウィーゼルはにやりと牙を見せる。

「どんなに表情を取り繕っても、体臭まではごまかせない。ウィーゼル、貴様はあの騎士からどんな感情を嗅ぎ取った?」

「そうだな……」ウィーゼルは目を閉じ、鼻に残ったにおいを分析する。「とにかく焦ってるのは感じたな。苛付いてもいた。アルコールのにおいが微かにしたが、お忙しい王宮騎士サマが昼から飲むとは考えにくい。昨夜自棄酒でもしたんだろう」

「昨日の夕方、北門で騒ぎがあったな」

「王宮騎士団が『獣頭』とやりあったってやつか?」

「そうだ。彼らがオルカテイルに滞在している真の目的は、おそらく禁術の捜査のためだ。そして禁術で造られた怪物、『獣頭の男』を見付けた。怪物を取り逃がし、王宮騎士団は焦っている。だから、あんな乱暴な手段で市長を連行したんだと思う」

「ってことは、市長は『金眼の魔術師』と接点があるってことか?」ウィーゼルは不満げに鼻を鳴らす。「じゃあ、毒を盛ったのもわざとってことになるよな? あのうろたえっぷりは演技には思えなかったが」

「引っ掛かるのはそこだ」ハロルドは溜息を吐き、一度起こした体を再びソファに預ける。「そもそも、市長の顔には包帯で隠さなければならないような傷痕は無かった。『包帯の男』と同一人物だと考えるには年齢も高すぎる。もう少し調べてみる必要があるな」

「『包帯の男』ではないにしろ、事情を知ってそうではあったよな。やっぱり市長に話を聞くしか無いか」ウィーゼルは欠伸をして耳を掻き、恨めしげにハロルドを睨む。「留置所に忍び込んで来いなんて言うなよな」

「ああ。兄上から聞いた噂が確かなら、そこはサイラスがなんとかしてくれるだろう。少し早いが、一度合流地点へ戻るぞ」

 ハロルド達が館を出たとき、空はまだ明るかった。サイラスと別れたT字路を抜け、西地区の港へと向かう。そこでサイラスの部下と落ち合い、転送装置でアジトに戻る手筈になっている。港へ通じる大通りを歩いていると、ウィーゼルがふと足を止めた。

「どうした」

 ウィーゼルの視線の先には小道の暗がりがあった。頼りない陽光に照らされ、特徴的な看板が浮かび上がっている。ジェイの煙草屋だ。小道に入るウィーゼルの後を追う。店内には明かりが点いていて、硝子越しに人影が見えた。ウィーゼルは咳払いしてこちらを見る。

「まだ時間があるだろ? ちょっと寄って行かないか?」

「なぜ?」

「あー、ほら、アレだ。あの情報屋に、『獣頭』の情報を提供するって約束してたろ? 今の内に済ましておいたほうがいいんじゃねえかな」

 そういえば、色々あってすっかり忘れていた。『牙の一族』から聞いた情報を加えても約束の金額に届くか怪しいが、とにかく約束は約束だ。

 ドアノブに手を掛ける。なんだか緊張する。軽く深呼吸をして、押し開ける。

「動くな」

 店内に足を踏み入れた瞬間、銃口を突き付けられた。ジェイの紫色の目が、ハロルドの顔を見た瞬間に殺気を失う。

「なんだ、アンタ達か」半ばがっかりしたように溜息を吐くジェイ。「悪かった。ちょっと取り込んでてね。入りな」

「なにかあったのですか?」文句を言おうとしたウィーゼルの口を塞ぎながら、ジェイの指示に従う。

「まずはあの子達に顔を見せてやれ」

 ジェイが親指で指したほうを見る。カウンターに突っ伏した姿勢で眠っている少女と、足元にうずくまる獣人。卓上のランプが照らし出すのは、ジェマとオビの姿だった。


※注:正しい表記は『(てい)字路』だけど作中の雰囲気に合わせて『T(ティー)字路』としています。

彼岸の竜と騎士見習い

彼岸の竜と騎士見習い

かつてその地は、ドラゴンによって支配されていたという。とある英雄が人々を苦しめる暴君を打ち倒し、人の王国を築いたという伝説『救世の英雄』の主人公に憧れ、小さな農村で育った少女ジェマは、人々を守る騎士になることを夢見ていた。騎士団への入団試験を受けるために旅立った彼女を待ち受けていたのは、無慈悲な悪意と新たな出会いだった。※連載中の作品です。 ※この作品は『小説家になろう』にも掲載しています。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-07-11

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