影のない足音 新宿物語(2)

影のない足音 新宿物語(2)

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 雨の土曜日だった。午後十一時を過ぎていた。バーの中にはわたしの外に三、四組の客がいるだけだった。少し倦んだ物憂い空気が二十脚ほどのスツールが並んだ、馬蹄型をしたカウンターを持つだけの店内に流れていた。すでに一時の賑わいも失せて、バーテンダーもやや手持無沙汰の様子でピーナッツを齧ったりなどしていた。
 いつの間にか女が隣りに来ていた。わたしはまったく気付かなかった。
 女がなにかの拍子に、わたしのウイスキーの入ったグラスを倒した。
 小さなグラスがカウンターの上を転がり、下に落ちて割れた。
「ごめんなさい ! お酒、掛かりませんでした?」
 女が狼狽したように腰を浮かせて言った。
 わたしは突然の出来事に、少し気分を害して女を見た。
「本当にごめんなさい。わたし、酔ってしまったみたいだわ」
 女はスツールに掛けたわたしの膝の辺りを気にして言った。
 バーテンダーが手早くカウンターの上に流れたウイスキーを拭き取った。
「ごめんない。わたし、グラスを弁償します。それからバーテンさん、この方にお酒を注(つ)いで上げて下さい」
 ----それが切っ掛けだった。

 女は三十歳前後だった。細面の上品な顔立ちをした、どこか、育ちの良さ、といったものが感じられる雰囲気を身に付けていた。
 二人でバーを出るとタクシーで十分ほどの、新宿歌舞伎町裏のホテルに入った。
 女は初めからその積もりだった。わたしが眼を覚ました時には、午前三時過ぎだったが、女はそばに居なかった。淡いピンクの照明がベッドの上の、女の頭のない枕だけを照らしていた。
 わたしは慌てて飛び起きた。
 自分の持ち物を点検した・・・・・
 なにも無くなってはいなかった。腕時計も、ズボンの尻ポケットに押し込んだ数枚の千円札も、そのままにあった。
 わたしは安堵してベッドに座り込んだ。
 女が枕探しかと思ったのだが、そうではなかった。単に,行きずりの情事に、煩わしい関係がからむのを恐れただけにしか過ぎないようだった。
 --それにしても、ちょっといい女だった、とわたしは思った。
 わたしは眼を凝らした。
 サイドテーブルの上のスタンドの下に、意味ありげに一枚の紙切れか挟まれていた。
 手に取ってみると、ボールペンの細いきれいな字で走り書きがしてあった。

" 素敵な夜を有難う。お先に失礼します。お勘定は済んでいるので、どうぞごゆっくり・・・・
 枕の下を見て下さい。楽しい夜を過ごさせて戴いたお礼です。またお会い出来る夜を楽しみにしています"

 わたしはすぐに、女のしていた枕の下を見た。
 二つ折りにされた二枚の一万円札があった。
 わたしは手に取った。
 俺を買ったつもりでいやがるのか・・・・
 そう思うとなんとなく、侮辱されたようで腹が立った。
 今度会ったら、仕返しをしてやる・・・・
 軽い腹立ちを覚えながら胸の奥で呟いた。

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 二度目に女に会った時には、ひと月近くが過ぎていた。その間わたしは、新宿周辺の女の現われそうなバーやスナックを、あちこち探して歩き廻った。
 新宿はわたしに取っては、いわば地元とも言える街だった。十九歳の頃から二十五歳の今日まで六年間、ほとんど新宿の夜の街で過ごして来た。
 定職はなかった。バーテンダーの真似事やら、喫茶店のボーイ、キャバレーの呼び込みなどをして、その日ぐらしに日を送っていた。いわゆる悪ではなかったが、女たちとの関係は数知れずあった。水商売の女たち、あるいは今度の女のような行きずりの女たちと、その日の気分のままに、女たちを誘っては関係を続けていた。
 だが、わたしの方から女たちに入れ込む事はなかった。たいがいは、わたしの方から嫌気がさして別れていた。一年と続いた関係はまずなかった。飽きっぽいと言われればそれまでだったが、わたしの心の内には、どこかに乾いた感情があって、それが女たちに対しても熱くさせなかった。
 女たちに対してばかりではなかった。日々、生きているという事自体にわたしは、微妙な違和感を抱いていた。生きるための確かな芯がつかめていなかった。なんとなく 心の奥に不満があって、それがなんであるのかも分からないままに、その不満を払拭出来ないでいた。
 --二度目に女に会ったのも、この前と同じバー「蛾」だった。新宿もはずれの四谷に近い場所にあったが、わたしの馴染みの店ではなかった。わたしはそれでも、例の出来事があった次の土曜日、女を待つつもりで、わざわざその店へ行った。
 女はしかし、来なかった。

影のない足音 新宿物語(2)

影のない足音 新宿物語(2)

  • 小説
  • 掌編
  • 成人向け
更新日
登録日
2017-07-09

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