肉人形

派手に着飾った女の肩に男が腕を回し、ラブホテルへと消えていく。後ろからついてきている男には気づいていない。ラブホテルに入った2人をつけまわしている男の名前は大原長介。探偵業の真っ最中だ。浮気調査を浮気を疑う人妻から依頼され、2ヶ月ほど前から男を尾行していた。ようやく決定的瞬間を写真に収めることに成功し、一息ついたところだ。あとは、この写真を依頼主に渡したら依頼は終了。そのあとは夫婦の問題で探偵が割って入る問題ではない。夜が更けるにつれ気温が下がっていく。コートを着ているとはいえ寒がりの大原にとってこれ以上、外にいるのは耐えられなかった。早く事務所兼自宅に戻ろうと最寄りの駅へと足を運ぼうとしたその時、少女と肩がぶつかった。少女はどこかの高校の制服を着ていた。
「すいません」
少女が頭を下げて謝った。
「いや、こちらこそ悪かったね。どっか痛めてない?」
「はい。大丈夫です。では」
少女はそのままふらふらと立ち上がって去ろうとしたが、長介は少女があちらの世界のものだということに気付いた。制服を着た少女が風俗店が立ち並ぶこの通りにいることは珍しくないが、少女の雰囲気はそれとは別だった。長介は少女の腕を掴んだ。
「ちょっと待って!どこか行くあてがあるのかい?」
「いや、あの、どこへ行くんだったかが思い出せなくて、その」
「僕は探偵なんだ。君がどこにいくつもりだったか、探してあげるよ」
苦しい。探偵ならもっと上手く切り返さなければと長介は後悔したが今はこれ以上いい文句が思いつかなかった。怪しまれて助けを呼ばれてしまうとまずいことになる。
「本当ですか?じゃあお願いしてもいいですか?」
杞憂だったようだ。長介は再び一息をついて掴んでいた腕を離した。
「ついておいで。ここじゃ寒いだろう。僕の事務所まで案内するよ」
そうして長介と少女は連れだって歩き出した。長介は携帯を取り出し電話をかけた。
「もしもし......うん.....依頼は上手くいったんだけど、別に気になるものを見つけてね....うん....そう.....だから肉人形についてちょっと調べてくれる?」
長介は電話を切って携帯をポケットにしまい少女の方へと振り返った。
「ところで、君の名前は?」

事務所に長介と少女が到着した。長介は少女に事務所にそっけなく置かれたソファに座るよう促した。長介は自分のデスクへと向かいパソコンの電源をつけキーボードをたたき始めた。事務所の奥からスーツ姿の女性が現れた。
「外は寒かったでしょう。温いお茶を入れたからお飲みなさい」
少女は見た目の割りに古臭い言葉使いの女性からさしだされた湯呑を受け取りちびちびと湯気の立つお茶を飲み始めた。女性はそのまま少女の隣へと座ると少女をまじまじと見つめた。
「こんばんは。私は恵子。よろしくね。えーと...名前は」
「端野泉希ちゃん」
長介がパソコンから目を離さず少女の名前を伝えた。
「泉希ちゃん。いい名前ね」
「はぁ。ありがとうございます」
長介がパソコンから目を離し、脇に置かれた資料を手に取って読み始めた。
「泉希ちゃん見た感じ高校生みたいだけどこんな時間に外出しててご両親は心配なさらない?」
「えーと、どこが家だったかなぜか思い出せなくて探してるうちにこんな時間になっちゃって...」
長介が資料を元の場所へと戻すと立ち上がって少女へと近づいていった。
「端野さん。今調べたところあなたのことは大体分かりました。ただ、ほら。今は夜遅いでしょ。今から動くとご両親にも迷惑かかるから今日はここに泊まりなさい」
またもや苦しい。ただ、長介にはこの要望が少女に受け入れてもらえるという確信があった。
「分かりました」
少女の返答を聞いてから恵子は少女を事務所の奥にある寝室へと連れていった。長介はキッチンへと向かい冷蔵庫から水を取り出し、ポケットから出して錠剤を水で流し込んだ。恵子が寝室から戻ってきた。
「何か分かったの?」
「あの制服はここから遠くない高校の制服だ。でも端野泉希なんて名前の生徒はいない。多分、名づけで製作者の影響力を強くしたんだろ」
「名づけということは自分の意志ではなく肉人形になったのね。若いのにかわいそうに」
「結構あっちの世界との付き合いは長いけど肉人形は初めてみたよ。本当に本物そっくりなんだね」
「そっくりというより本物そのものよ。朽ちない老けない人間。それが肉人形よ」
「資料で読んだ。作るには魂の写し鏡もセットじゃないといけないんでしょ。肉地はそうでもないけど魂の写し鏡はそこそこレアな代物だ。どうやって手に入れたんだろう。ま、誰が作ってるにせよ他人を肉人形にするのはいただけないね。不完全だし」
「肉人形の製作者をとっちめるの?それよりも、あの子のことをどうにかしてあげるのが先じゃないかしら」
「もちろん。あの子の本当の名前とか住所とかも平行して調べるさ。協力してくれるでしょ?」
長介が腕を大きく広げてにやけ顔をつくる。
「そりゃあ、私はあなたの助手ですから」
「頼もしいね。それじゃ明日から少しこっちの以来はお断りして肉人形の件について動きますか」
「無理しないでね」
恵子は長介の肩に手を置いた。長介はその手を優しく握った。
「大丈夫さ。それよりもあっちの世界のことが原因で困ってる人をほうっておけない」
「そういうところが心配なのよ」
長介は微笑むと恵子の手を離した。
「大丈夫さ。おやすみ」
長介は恵子の視線から逃れるように寝室へと向かった。
「待って!」
「だから、無理はしてないって」
「そうじゃなくて、あの子がベット使ってるわよ」
長介は間抜けに口をぽかんと開けたままその場に固まった。
「そうでした」

翌朝は、長介はソファの上で目を覚ました。体にかけられた毛布をテーブルへと置くと目をさますために顔を洗いにキッチンへと向かった。まだ、少女は起きていない様子だった。キッチンでは恵子が朝食を作っていた。
「おはよう」
「はぁ~~~ねむ...おはよ」
顔を洗い終えると朝食ができるまでにもう一度資料を読み直すためにデスクに腰を掛けた。
肉人形。肉人形とは朽ちることも老けることもない体をもった生物のことである。肉人形の材料は肉地と魂の写し鏡。肉地は肉人形の体に、魂の写し鏡は肉人形の魂となる。作り方はまず、肉人形にしたいものを魂の写し鏡の前に立たせ、自らに関わること全てを話させる。この時、話した内容が多く濃いほど正確にそのものの魂を複製することができる。魂を写し鏡に複製することができれば、それを肉地に埋め込む。埋め込んだところが肉人形の頭部となり、魂を複製した当時の姿へと変容する。この時、魂の写し鏡に話した内容が少なかったり、不正確であったりすると肉人形は話していない部分を思い出すことができなくなる。肉人形の特質として人に従順という点が挙げられる。肉人形は半永久的な奴隷として使用するために作られたためこうした特質を持っていると考えられる。肉人形制作後の注意事項は2つ。1つ目は頭部に埋め込まれた魂の写し鏡を損傷しないこと。基本的に肉人形はどれほど負傷しても死に至ることはないが、魂の写し鏡を破壊されると動かなくなる。2つ目は肉人形に自身が肉人形にであることを告げないこと。肉人形が肉人形として自覚を持つと、魂の写し鏡に複製されてない肉人形であるという事実を処理しきれなくなり暴走を起こしてしまう。朽ちることのない肉人形の暴走は大変危険である。止めるためには1つ目の注意事項を実行するしかない。
長介は集中して資料に目を通していたためすぐ後ろに迫っている少女に気づけなかった。
「私について何か分かりましたか」
「のわあ!!」
長介は急いで資料を手で丸めて握りつぶした。
「いや~あのね~それがね~ちょっ~~~~と手違いがあったみたいでね~へへへ。もうちょっと時間がかかるっていうかなんというかね。はははは」
「泉希ちゃ~ん。朝ごはんがもうすぐできるから配膳を手伝ってもらえるかしら~?」
「は~い。今行きます」
恵子の助け舟に長介は胸をなでおろした。資料を見られたら、少女が暴走していたかもしれないと思うと肌寒い朝にも関わらず冷や汗が止まらなくなった。
朝食を食べ終えたあと、長介は浮気調査を依頼していた依頼主に昨日撮影した写真を渡しすために待ち合わせ場所の喫茶店へと向かおうとした。少女には恵子の買い物に付き合ってほしいので恵子と行動するようにと命じた。おかしな話だが、少女は文句や疑念を一言も発さずに大人しく従った。長介は少し心が痛んだ。恐らく、少女のオリジナルは死んでいるだろう。資料には肉人形は奴隷作成の手段と書かれていたが、現在では朽ちない老けないという部分が不老不死に憧れる者たちの興味を引き、もっぱらそちらのために作られることが多い。つまり、自分が若いころに魂の写し鏡で魂を複製し、死ぬ間際に魂の写し鏡を肉地に埋め込むことでオリジナルは死んでも肉人形として復活し不老不死となるのだ。自らの体を肉人形にする分には本人の自由なので何の差支えもない。肉人形であることを告げてはならないという注意事項も魂の写し鏡で魂を複製する際に、「私は肉人形である」と一言話しておけば回避することもできる。問題なのは他人を肉人形にする場合だ。他人を肉人形にする場合、オリジナルが生きていると肉人形と鉢合わせた時に肉人形が自分の存在に疑問を持つことになる。そうなると自分が肉人形であることについて自覚するリスクが生まれる。したがって、他人を肉人形にする場合は魂の複製を終えると、暴走するリスクをなくすためオリジナルを殺す必要があるのだ。
端野泉希と名づけられた肉人形のオリジナルは製作者に殺されている可能性が非常に高い。高校生の少女を肉人形にする目的は察しがつく。若い少女の哀れな結末に長介は同情するほかなかった。手筈通り、恵子が外しておいた少女の髪留めをコートのポケットへと入れて長介は事務所を後にした。
喫茶店では夫の浮気を知った依頼主の人妻の愚痴を聞かされる羽目になったが、予定通り報酬を現金で頂戴し、銀行で自分の口座に振り込んだあと長介は人通りの少ない住宅街へと入って行った。都心部から少し離れ古民家が立ち並ぶ中にかろうじて、渡辺飼育場と読み取れる看板が掲げてある他の古民家よりもさらに古ぼけた一軒家の引き戸を開けた。
「いらっしゃい」
青色のインコに餌をやっていた白髪が目立つ50代後半頃の恰幅のいい男が長介を迎え入れた。
「どうも。元気にしてる?」
「はっ!この前、膝に水が溜まってるって医者に言われたよ。そろそろ引退したいね」
「なら、この店を僕に譲ってよ。僕ならしっかり管理するよ」
「ふん!お前さんにだけは譲らんよ。心配しなくても今配達に行ってるワシの息子がそろそろ1人前になるからな」
「息子ねえ...それはそうと、ピョン太郎いる?お借りしたいんだけど」
「おう!いるよ。いつものとこだ」
そういうと男は長介に右手を差し出した。長介は何も言わず財布から2万円を取り出し男に渡した。男は1万円札2枚をインコのゲージの上に置くと長介に首輪とリードを手渡した。
「じゃ!楽しい旅を」
「仕事だよ。いや違うか。まあ、いいや」
長介はそそくさと店の奥へと進むとウサギが4匹入っているゲージの前で立ち止まった。ウサギが鼻をひくつかせながら長介の方へと近づいてくると、長介はそのうちの茶色い毛並みのウサギを抱え上げた。
「頼むよピョン太郎」
長介は深呼吸しながら目を閉じて一気に脱力した。再び目を開けると、長介が立っていたのは渡辺飼育場の店舗内ではなく、かさついた地面に奇妙な形の植物がところせましと繁茂している空間だった。あちらの世界に行くことに成功したのだ。長介は男から手渡された首輪とリードをピョン太郎につけるとリードを引っ張り、植物をかき分けながら歩き始めた。しばらく歩くと、植物が生えていない開けた場所へとたどり着いた。そこには、顔はカエル、体は熊、手足は人間とそっくりの巨大な生物が椅子にもたれるように座り、緑色の球体を手で掲げて眺めていた。
「あ~ら、いらっしゃい長介~久し振りじゃないのぉ」
長介はこのねったりとしたしゃべり方が嫌いだった。巨大な生物は緑の球体をテーブルの上に置いた。
「久し振りだねアリドメルンダ。今日は調べてほしいものがあってきたんだよ」
「長介~私が一番調べたぁいモォ・ノォ何か分かるぅぅ?あなたよぉんふふふふいつになったら私の子供になってくれるのかしらぁ」
長介はアリドメルンダの話を無視してポケットの中から少女の肉人形の髪留めを取り出して、アリドメルンダの前に置かれたテーブルに髪留めを置いた。
「これだ。頼むよアリドメルンダ」
「それを調べてもいいけどぉ私には何をくれるのかしらぁ?」
「この前、報酬をちょろまかした連中をとっちめた時に次はタダにしてくれるって言ってただろ」
「そんなこと言ってたかしらぁ?見返りがないならあなたを」
長介はアリドメルンダの話を再び無視して左耳を左手で塞ぎ、右耳を右手で3回叩いた。
「ありがとうねぇ長介~助かったわぁお礼に今度来た時タダにシ・タ・ゲ・ルゥうふっ」
長介の口からアリドメルンダの声が再生された。
「チッ!録音してたのねぇやらしぃ男」
「分かったらさっさとやれ」
長介は無造作に髪留めをアリドメルンダに差し出した。
「ハイハイ」
アリドメルンダは口から長い舌で髪留めを掴み取ると、髪留めを自分のへそに押し込んだ。みるみるうちに髪留めはアリドメルンダの腹の中へと入って行った。
「どこまで調べればいい?」
「その髪留めの持ち主の名前が分かるまでだ。それまでの途中経過も聞かせてくれ」
「分かったわぁ....ふんふん....んんん...この髪留めは若い人間の女のものねぇ...あのババァまだいるの?あんなやつより私を助手にしなさいよぉ」
「余計なことは言わんでいい」
「ふん!つれないのぉ...ん~?この髪留めを女につけたのは老けた男ねぇ」
「どれくらい老けてる?」
アリドメルンダはテーブルの上の薄黄色の紙のようなものに何かを書き始めた。
「人間の年齢はよく分かんないけど髪が真っ白でガリガリよぉ....あらあらあらあらあらちょっと長介この女肉人形よぉ」
「それは知ってる」
「ふ~~~ん...知ってたのねぇつまんないのぁ」
アリドメルンダは駄々をこねるようにテーブルを手でたたいた。
「ん~..分かったわぁこの女エンドウミサキって呼ばれてるわぁ」
「よし。もう出してもいいぞ」
「は~~い」
アリドメルンダの下腹部がもぞもぞと動くと女性器が現れた。
「あんまり見ないでぇ恥ずかしいのよぉん」
「気持ち悪い声を出すな。さっさと出せ」
「んもぅ冷たいんだからぁ...あっ....んうううっ...はぁん」
アリドメルンダが喘ぎ声を出す度に女性器が蠢く。長介は目をそらした。ピョン太郎が怯えた表情で長介の足にすり寄る。
「あああぁん...出たぁ」
アリドメルンダの女性器から髪留めが姿を現した。髪留めはまだ女性器の上に乗っている。
「長介~取ってぇ~」
「ふざけるなさっさとキレイに拭け。それから返せ」
「んもぅ」
アリドメルンダは舌で髪留めを取ると椅子の後ろにかけられていた布を手で取り、髪留めにまとわりついている粘液をふき取った。
「はいキレイになったわよぉ」
アリドメルンダは舌で髪留めを長介の顔の前へと持って行った。長介は乱暴に髪留めを奪い取った。
「ありがとう。助かったよ」
「どういたしましてぇ長介~あんた肉人形について調べてるのねぇ女を殺した老けた男を探すのぉ?」
「そんなところだな」
長介は帰り支度を始めた。
「肉人形なんてもぅ流行りが終わったと思ってたけどねぇ」
長介は帰り支度を中断した。
「流行りとかあったのか?」
アリドメルンダはニタリと笑った。
「そうよぉ。昔はみ~~~んな肉人形の奴隷を連れて歩いてたわぁでもぉ魂の写し鏡を手に入れるのは楽じゃないから結局そこらへんのやつらを捕まえて奴隷にする方が手間がかからないことに気付いたのよぉ」
長介がメモ帳にいそいそと自分の話の内容を書き留めている姿を見て、アリドメルンダの口は裂けんばかりに横に広がった。
「次に不老不死を目指すために自分を肉人形にするのがはやったんだけどぉ肉人形になったやつはほぼ全員自分の魂の写し鏡を砕いて自殺したわぁ」
「なぜ自殺したんだ?」
「ん~~~~~自分が何なのか分からなくなったんだってぇ長く生きれば生きるほど自分の複製された魂が本当に自分のものだったのか不確かになってくるらしいわぁもちろん自分の魂なんだけどぉ一度不信感が生まれるとどんどん大きくなって次第にそのことしか考えられなくなって耐えられなくなるんだってぇ」
「なるほど。不老不死も楽じゃないんだな。そういえばほぼ全員って言ったな。まだ、自分を肉人形にして生きてるやつはいるのか?」
「いる....と言われてるわぁ詳しいことは知らないけど1人のそっちの世界の人間が自分を肉人形にしてまだ生きてるらしいわよぉ」
「なるほど.....」
「その人間は肉人形になってからも色々と交流はあったらしいんだけどぉある時を境に引きこもって誰にも会わなくなったんだってぇ何があったと思ぅ?」
「クイズを楽しむつもりはないよ。さっさと言ってくれ」
「なによぅんもぅ!つまんないのぉ」
「早く言えって」
「はいは~い実はその男はぁ不読の本を最後まで読んだんじゃないかって言われてるのよぉ」
長介の顔色が変わった。
「そんなわけないだろ!あれを最後まで読み切るなんてどっちの世界の生物でも無理に決まってる!だってあれは...あっ!」
「んふぅ気づいたのねぇ最後までに読み切るためにその人間は肉人形になったのよぉんふふふあなたは確か10ページまでしか読めてないのよねぇ」
長介は自分のざらついた肌を撫でた。アリドメルンダがまだ何か話しているが何も頭に入ってこない。
「貴重な話をありがとう。僕は用事があるから帰るよ」
「もうちょっとお話ししましょうよぉねぇ」
「悪いが僕は暇じゃないんだ。じゃあね」
「あらぁそう....じゃあねぇ長介また近いうちに会いましょぅんふふふふふふふふふふふふ.......」
長介は一度もアリドルメンダを振り返ることなくその場を後にした。アリドルメンダの前で目を閉じる勇気はなかったため場所を変えて元の世界へ戻ろうと植物をかきわけ適当な場所を探した。しばらく歩くと、長介は自分以外の生物がすぐ近くで動いていることに気づいた。この辺りはアリドルメンダ以外に誰もいないはず。生物も虫のようなものがちらほらいるだけで繁みを揺らすほど大きな生物は生息していない。長介はピョン太郎が付いて来れるギリギリの速さで何ものかから離れようとした。それでもまだ何かがついてくる。おそらくつけてきているものの数は2つ。仕方ない。長介はピョン太郎を抱きかかえて走り出した。右手でピョン太郎を抱え、左手で繁みをかき分けながら突っ走ったが、35歳の体には準備運動なしの全力疾走はきつい。つけてきていたものの数がはっきりと2つと分かったが、このままでは追いつかれてしまう。長介は走りながら考えを巡らしていた。どちらの世界でも誰かに追いかけられるようなことはしていない。もしかしたら追ってきている連中はただ、道を聞きたいだけかもしれない。きしむ膝が楽観的な意見を長介の頭に浮かび上がらせたが、この意見は採用できない。もう連中との距離はそう遠くない。後方で大きな音がした。振り向くと珍妙な仮面を被った人間のようなものが空中に浮かび上がっていた。腹から大きな目のない蛇のような生き物が飛び出ている点は人間とは大きく異なっていた。その蛇が長介にとびかかって来る。思わず長介は両手を前方に出した。ピョン太郎が空中に放り出された。蛇はピョン太郎を加えると、宿主の元へと戻っていった。仮面の人間のようなものは地面へと着地した。長介は自身にケガがないことを確認し安堵したが、ピョン太郎が奪われたことに気づき悪態をついた。ピョン太郎がいないと渡辺飼育場に戻ることができない。繁みがガサガサと揺れ、仮面をつけた人間のようなものが2人現れた。どちらも腹から蛇のような生き物がついており、一方の蛇は息絶えたピョン太郎を口に咥えている。乱れた呼吸を戻すうちに長介は考えをまとめることができた。恐らく、この2人を呼んだのはアリドルメンダだろう。手で何かを書いていたいたが、あれは肉人形の情報をメモするためではなく、肉人形について探りを入れている者がいることを誰かに伝えていたのだろう。使ったのは裏通しの紙。長介も持っているほどメジャーなもので珍しくもない代物だ。アリドメルンダの内通に気づけなかった自分の不甲斐なさに苛立ちが募る。仮面の2人がじりじりと間合いを詰めてくる。長介は両手を祈るように合わせ、口にあてがった。丁度両手の親指の腹が顎に当たるようにし、大きく息を吸い込んだ。合わせた両手の間に空間が生まれるように指を曲げると、吸い込んだ息を勢いよく吐き出した。吐き出された息は真っ白な霧のようになって辺りを埋め尽くした。仮面の連中がギャーギャーとうめき声を上げるなか、長介は霧に紛れて一目散に駆けだした。途中でどちらかの蛇を踏んだが気にしてはいられない。ピョン太郎が死んだ以上新しい扉を見つけなければ元の世界に戻れない。とにかく、多くの生物がたむろしている場所を見つける必要があった。走るのが限界に達したころにようやく繁みを抜けることができた。しばらく歩いて進むと建物が見えるようになり、その中をぞろぞろと生物が移動している姿が見てとれた。街だ。自分の幸運に長介は思わず笑みがこぼれたが、後ろからはまだ、仮面の連中がつけてきている。長介は休息を求める体に鞭を入れて街へと走り出した。

一通りの買い物を終えた恵子と少女は喫茶店で昼食後のコーヒーを飲んでいた。元々食材の買い出しをする予定だったが、ついでに少女の服も買うことにした。長介が今回の調査で少女の本名などを完全に掴めるとは限らず、少女が長期間事務所に居座る可能性もある。もし、あっさりとこの件が解決したら自分の私服にすればいいだけだ。少女はコーヒーを一口すすると顔をしかめ、砂糖とミルクをいくつも入れ始めた。その姿を見て恵子は思わず微笑んだ。こうしてみると普通の女子高生と何も変わらない。それだけにこの肉人形の辿るであろう末路を考えると哀れみのような感情が頭をもたげてくる。少女はミルクのおかげで茶色くなったコーヒーをすするとニッコリ笑った。
少女がコーヒーを飲み干し、カップを置いた。
「あの、1つ聞いてもいいですか?」
少女が伏し目がちに恵子の顔を除いた。
「あら、何かしら?」
「恵子さんって大原さんの恋人さんなんですか?」
如何にも女子高生らしい質問だ。
「ふふ。違うわ。私と長介はどっちかというと母親と息子みたいな関係よ」
「母親?でも、長介さんの方が年上ですよね?恵子さんはどう見ても20代っぽいし、大原さんは絶対40歳以上にしか見えないし」
「うふふふ。目に見えてることが全てじゃないのよ。それに長介はああ見えてまだ、35歳よ」
「ええ?!そうなんですか?こういうと失礼なんですが、大原さんは35歳にしては大分老けてらっしゃいませんか?」
「そうね。老け顔....よね....」
恵子は目線を下に落とした。少女はまずいことを聞いてしまったかもしれないと思い、気まずくなり恵子から視線を外した。恵子はそれに気づくと少女に優しく笑いかけた。
「ふふ。変な質問をしたと思ってるのね。大丈夫よ。そんなことで怒ったりしないわ」
少女はゆっくりと再び恵子の顔に視線を合わせた。
「私と長介はちょっと複雑な関係なの。そのことについて教えるにはあなたと過ごした時間が短すぎる。もし、縁があれば教えてあげるわ」
先ほどまできょろきょろと動いていた少女の目は興味津々と言わんばかりに輝いていた。恵子は申し訳ない気持ちになった。

長介は街にたどり着くと群衆を手でかき分けながら進んでいった。断りを入れながら進む最中も手でこちらの世界の生物を触り扉がいないかを探っていた。違う。違う。違う。違う。都合よくこの街に扉がいるとは限らないが、今はその可能性に賭けるしかない。後ろから迫ってきている仮面の連中も群衆の中では移動速度が遅くなり、長介と距離を詰められないでいた。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。こいつだ。長介は手に触れた生物の体を掴んだ。掴んだものを目で確認してみると長介の腰ほどの高さのある黒いヘドロのようなものだった。勘違いだったか。しかし、扉の気配はこの黒いものから感じることができる。よくよく見てみると、口と目が上向きについているのが分かった。生物であることは間違いなさそうである。しかし、口からはうめき声しか発せられておらずコミュニケーションを取るのは難しそうだ。
「あの~言葉分かるかな?」
長介はヘドロに話しかけたがヘドロはう~としか返事しない。このうめき声が何を意味するのかが長介にはさっぱり理解できない。別の扉を見つけようかという考えが頭をよぎったが、仮面の連中の気配がさらに近づいてきている。選り好みしてる場合ではない。長介はヘドロを掴むと走って引っ張った。以外とヘドロは軽く何の抵抗もせずただ長介に引っ張られるがままだ。長介はヘドロがすんなりとついてきてくれることを嬉しく思ったが、手から伝わる何とも言えないねっとりとした湿り気がとてつもなく不快だった。仮面の連中とある程度距離を取ると、長介はコートの中からメモ帳とボールペンを取り出した。メモ帳の最後のページを開けると大急ぎでペンを走らせた。

恵子がコーヒーを飲み終えそろろ見せを出ようかとしたところだった。胸ポケットに入っているメモ帳から振動が伝わってきた。恵子はメモ帳を取り出すと最後のページを開いた。長介の文字で助けを求める内容が映し出されていく。
「ごめん。泉希ちゃんこれでお会計すませといて!」
恵子はそういうと財布から5000円札を取り出してテーブルに置き、店の外へと走り出した。少女は恵子の豹変ぶりに呆気にとられていた。

長介はメモ帳とボールペンをコートにしまうと、再びヘドロの体を掴み走り出した。仮面の追手との距離は先ほど立ち止まった時より詰められている。下手すると追いつかれてしまうかもしれない。できればもう少し時間がほしい。恵子が扉の位置情報を調整してくれるまでは元の世界に戻ることはできない。このヘドロが元の世界のどこにつながっているか分からないからだ。再び立ち止まることができるまで仮面の連中と距離を離したいが、なかなか引き離すことができない。そうしているうちに長介の体力が限界に達した。もう走ることはできない。長介は立ち止まって。膝をついた。息も絶え絶えになり思わずせきこんだ。仮面の追手の腹から出ている蛇が長介に噛みつこうと向かってくる。南無三。あとは野となれ山となれ。長介はヘドロの体を掴んだまま大きく息を吸って目を閉じ、体から力を抜いた。仮面の追手の蛇は長介を捉えることはなく、地面に追突した。

長介がゆっくりと目を開けると全く見覚えのない駐車場の風景が飛び込んできた。失敗したか。心拍数が上がる。ヘドロは相変わらず何かうめき声を発している。
「はぁはぁ......急にあんな連絡してくるなんてびっくりするじゃない。何があったの?」
背後から聞き覚えのある声が聞こえて長介は大きなため息をついた。
「助かった~~~。ありがとう恵子さん。本当にありがとう。いや~ここが全然どこか分からないからもしかして外国なんじゃないかと思ってさ。めちゃくちゃ焦ったよ。ホント。あ~本当にやばかった」
長介は安心したからか饒舌になっていた。
「質問に答えなさい。何があったの?」
恵子は長介の長々と続く内容のない話を遮った。
「いや、実を言うと」
長介は先ほどまでの顛末を恵子に話そうとしたが、恵子の後ろに誰かがいることに気付いた。恵子も長介の様子から誰かがこの駐車場にいることを察した。
「誰だ?」
長介が問いかけると、影から肉人形の少女が現れた。恵子と長介は顔を見合わせた。
「あの、今の、急に大原さんが変なのと一緒に」
少女の声が震えている。
「端野さん。できればこのことについて質問はせず、誰にも口外しないでほしい」
長介は肉人形の特質につけこんでこの場をやり過ごそうとした。
「え?でも、だって、こんなの」
いくら肉人形にされても地は人間なので、あまりにもおかしな状況を目の当たりにするとすんなり言うことを聞いてくれるわけではなさそうだ。長介は一息つくと諦めたように首を振った。恵子もため息をついて長介がこれからすることに無言のまま同意した。
「分かった。僕がどうして急に現れたのか隣のヘドロみたいなやつがなんなのか話すよ。でも、ここではできない。一度事務所に戻ろう」
駐車場にヘドロのうめき声が響いた。

ヘドロをどうにかして買い物袋で隠しながら事務所まで連れて帰り端の方へと置いてから、3人は椅子に座った。目を見るだけで少女が怯えていることが分かった。長介が重たい口を開いた。
「今から僕が話すことは全て本当のことだ。全て。一度しか言わないからよく聞いておいてくれ。そして、僕が話し終えてから質問してくれ。いいね?」
少女は無言のまま首を縦に振った。
「この世には2つの世界があるんだ。今僕たちが暮らしてる世界ともう1つ別の世界がある。どちらの世界にも決まった正式名称はない。僕らは感覚的にこちらの世界とあちらの世界と分けてるだけだ。こちらの世界の常識はあちらの世界では通用しない。こちらの世界にないものがあちらの世界にはある。逆も然りだ。だから、そうした自分の世界にないものを求めて扉を利用し、2つの世界を行き来する連中がいる。僕もその1人だ。古くからあり得ない姿や力を持ったものを悪魔とか妖怪と言ったりするけど、それらははあちらの世界の住人である可能性が高い。例えばあれとか」
長介は事務所の端でもそもそと動いているヘドロを指さした。
「それで、君の記憶喪失のような症状の原因があちらの世界のものである可能性が高いからさっきまで僕はあちらの世界に行って調査をしていたんだ」
「でも、昨日私のこと分かったって」
長介は頭を下げた。
「すまない。あれは君を納得させるための嘘だ。警察に任せてもいいけどあちらの世界に何かしら関わっている君を野放しにしておくのは周りの人にとっても危険なんだ。今はあちらの世界に見識がある僕が君を一時的に保護しておくのがベストだと思っている」
「そんな。頭を上げてください。まだ、完全に理解はできないですけど今は長介さんを信じます。それに私、色々してもらってるのに何もお返しできるようなこともないし」
少女は唇をかみしめてうつむいた。長介は頭を上げた。
「端野さん。信じてくれてありがとう。必ず君が何者なのか、君をそんな状態にしたのは何なのかを突き止めて見せる。だから、その時までは遠慮せずこの事務所にいてくれ。困っている人を助けるのが僕の仕事だ」
長介はにっこりと笑って少女に手を差し伸べた。少女もつられたように笑って長介の手を握った。
「少しの間だけお世話になります」

少女がどうしても何かを手伝いたいと言うので、事務所の奥で書類の整理をするように頼み恵子と長介は少女に話を聞かれない場所で小声で会話を始めた。
「で?結局どうしてあんなことになったの?アリドルメンダのとこに行ったんでしょ?ピョン太郎はどうしたの?」
「そうだよ。アリドルメンダのとこに行ってあの子のことを調べたんだ。だけど、そのあと帰ろうとしたら、腹から蛇みたいなのが出てる仮面を被った連中に追いかけまわされたんだよ」
「そんな奴らに何かしたっけ?」
「いや、推測だけどアリドルメンダがあの子を肉人形にした奴と内通してたみたいだ。それで、肉人形について探りを入れてる奴がいれば始末するように頼んでたんだろう」
「あの女。いつかそうすると思ってたわ」
「あいつのことを信頼してるわけではなかったけどこうも露骨に裏切られるとは思ってなかったよ。二度とあいつのとこには行かないし、もしこちらに来たらそれなりの報復をさせてもらう」
「それでこそあなたよ。で、その流れだとその仮面の連中にピョン太郎を殺されたのね」
「そうだ。残念だったよ。カワイイやつだったのに」
「情けないわね。大原長介が仮面を被った蛇つかいに扉を殺されるなんて」
「2人いたんだ。1人なら迎え撃ってやったさ。でも、複数人あいてだと。どうしてもね」
「はぁ...本当に相手が少しでも多いと弱くなるわね」
「そういうものなんだから仕方ないさ。アリドルメンダが僕の弱点についても教えてたんだろう」
「それで命からがら扉を見つけて、私に助けを求めて逃げ帰ってきたのね」
「そういうこと」
「そんな危険な目に合ったんだから泉希ちゃんのことについては何か分かったんでしょうね?」
「もちろん。あの子の本当の名前はエンドウミサキ。漢字までは分からなかったけど。そして肉人形を作ったのは老人らしい。けど、アリドルメンダは制作者と内通してたからな嘘をついてる可能性はある」
「そう。なるほどね。話は理解できたわ。で、もう少しましな扉はなかったの?」
「あの状況だから贅沢は言ってられなかったんだ」
長介と恵子は事務所の端のヘドロを見た。その場でうねうねと動いている。どうやら半液体状の体だが、それほど自由に形を変えられるわけではなさそうである。
「どうする。殺す?」
「ちょっと、ちょっとそれはかわいそうでしょ。いきなり知らない世界に連れてこられて殺されるのは不憫すぎるよ」
「私あんなのと一緒に暮らすの嫌よ。あちらのどこに通じてるのかも分からないし使えないわ。それに、こっちで生きることがあれにとって苦しみになるかもしれないわよ」
「それでも、殺すのはやめよう。僕が面倒みるからさ恵子さんも我慢してよ。お願い。ね」
長介は恵子に拝むように手を擦り合わせて頭を下げた。
「本気で言ってるの?」
「本気だよ。僕があの、あれ、え~っと....ヘドロ君を世話するからここに置いておこう」
「ヘドロ君ってあれの名前?」
「かわいいでしょ?」
恵子は引きつった笑いを顔に浮かべた。長介は媚びるようにヘラヘラと笑っている。
「もういいわ。好きにして」
「ありがとう恵子さん。懐が広いね」
恵子は首を振りながらため息をついた。
「あと、1つお願いがあるんだけど」
「なに?」
「お茶菓子みたいなのある?」

長介は恵子からもらった饅頭セットの入った紙袋をぶらさげながら、渡辺飼育場へと向かった。薄汚れた店舗につくと引き戸を開けた。
「ごめんくださ~い」
座りながら亀の甲羅を磨いていた店主が長介の顔を見た途端、顔をしかめた。
「おわ!お前さんか!驚いたな。どうして店の外にいるんだ?」
「いや、それなんだけど...実を言うとねピョン太郎を死なせてしまったんだ....本当に申し訳ない」
長介は深々と店主に頭を下げた。
「それで、お詫びにこれを」
長介は紙袋を店主に差し出した。店主は亀を水槽に戻し紙袋を受け取った。
「弁償するからさ値段を教えてくれるかい?」
長介はメモ帳とボールペンを取り出した。
「はっ!これはありがたく受け取っておくが弁償なんていらないさ」
店主は紙袋の中身を確認している。
「でも、ピョン太郎を死なせたのは僕の責任でもあるし」
店主は中身が饅頭だと知ると頬がゆるんだ。
「おい!何でたかだか扉をくぐるのに2万円も俺がもらってると思ってる?こういう時のためだよ」
長介が眉を顰める。
「ま!あちらの世界はこっち以上に危険な場所だ。扉が死ぬこともあるだろうよ。だから、損失した場合のことも考えてちょっとお値段高くしてんのさ」
「そういうもんなのか?」
「ああ!そういうもんさ。他に何か用はないのか?」
「いや、これだけだ」
長介はメモ帳とボールペンをコートに戻した。店主は椅子から立ち上がり紙袋を店の奥へと片付けに行った。
「ピョン太郎がどうやって死んだのか聞かないのか?」
物陰へと入って行く店主に聞こえるよう、大きな声で長介が聞いた。
「ああ!他人のことに首を突っ込まない。これが長生きの秘訣さ!」
長介は肩をすくめた。
「じゃあ、もう帰るよ!息子さんによろしく!」
「おう!また来いよ!」

店を出た長介は携帯で電話を掛けながら事務所へと戻っていた。
「もしもし、永田か?」
「おお!長介!久し振りだな!どうした?」
「少し頼み事があってな。今時間大丈夫か?」
「長電話はダメだが10分程度なら」
「10分もかからないよ」
「じゃ、大丈夫だ」
「ありがとう。少し調べてほしいことがあるんだ。エンドウミサキっていう高校生の女の子の行方不明者届が出てないかなんだけど」
「エンドウ....ミサキ...ね...はいはい」
携帯の向こうでごそごそと物音が聞こえる。
「漢字は分かる?」
「いや、分からん。もしかしたらこの名前が間違ってる可能性もある」
「おいおい、何だそれ。もしかして、これは変なやつの件か?」
永田はあちらの世界に関わること全般を変なやつと一括りにして表現していた。
「そうだ。変なやつの件だ」
「おっかないねえ」
「大丈夫だって。お前に何か直接被害が出るわけじゃないから」
「俺はお前の心配をしてるんだよ。長介。俺たちはもう若くない。特にお前は」
「同じことを他の人に言われたよ。無理はしないからパパッと調べてくれ。頼むよ。同期のよしみで」
「OK。行方不明者のことは調べておくよ。3日以内には連絡できると思う」
「悪いな。恩に着るよ」
「気にすんなって。同期のよしみだ。お返しは肉と酒でいい」
長介は永田の減らず口を聞いて思わず笑みがこぼれた。
「そうだな。落ち着いたらまた何か奢るよ」
「おう......無理はするなよ」
「もちろん。じゃあな」
長介はこれ以上お節介を焼かれる前に通話終了ボタンを押した。携帯をコートのポケットに入れ終わった時、激しい眩暈に襲われた。視界が歪み、立っていられなくなりその場にしゃがみ込んだ。頭の中から金属バットで殴られているような頭痛もやってきた。長介は深呼吸をしながらそのまま姿勢でしばらく動かずにいた。3分ほどすると眩暈も頭痛も和らいできた。それでもまだ、気分は優れない。少し前の永田との会話を思い出す。年齢は言い訳にしかならない。そう自分に言い聞かせると、長介は手で顔を叩き、気合を入れると強い足取りで駅へと向かって行った。

「あ~気持ち悪い」
長介はふらふらな足取りで事務所へと帰って来ると、薬を飲んでソファの上で横になった。
「だから、念のためいつも薬を持ち歩いてなさいって言ってるのに」
恵子の正論も今はやかましい小言にしか聞こえない。長介は本来ならば少女が通っていた高校付近で調査を行うはずだったが、それができなくなったため今後の予定を頭の中で整理し始めた。
「あの、大原さんは何かの病気なんですか?」
少女が心配そうに長介を見つめている。
「病気?ではないかな。いや、病気なのかな?まあ、正確な病名は分からないけど時々、こうなるのさ」
長介は顔を上げて少女が過剰な心配をしないように笑顔を作った。少女の顔が少し明るくなる。それと対照的に恵子の顔は険しくなる。
「今日はちょっと色々あったからね。それでも一晩寝たらばっちり元気に回復してるさ」
「今日は私がソファで寝るんで、大原さんはベッドに」
「いや、それには及ばない。君は客なんだ。遠慮せずベッドを使ってくれたらいい」
少女はさえぎられた言葉の居場所を探して口をパクパクと動かした。
「あの、でも」
「長介は今はあんなになってるけど元々丈夫な男だから大丈夫よ」
恵子は少女の肩に手を置いて、微笑みかけた。
「そうですか....あ!そういえば恵子さんはどこで寝てるんですか?」
「恵子さん?それならあっちの」
そう言って長介はデスクの側に置かれてるクッションを指さした。恵子が咳払いをした。
「....方のマンションに部屋を借りてるからそこで寝てるよ」
少女は長介の変な間を少し不思議に思ったが納得したようだった。

長い舌が素早く動き、空を飛んでいた虫を掴む。虫は逃れようともがいたが、無情にも大きな口の中へと運ばれていった。くちゃくちゃという咀嚼音が繁みに響く。アリドルメンダは視線をテーブルの上の紙に移した。文字が浮かび上がって来る。
≪手筈通り?≫
アリドルメンダは舌なめずりをした後、再び舌を伸ばして紙を掴み目の前へと持ってきた。人差し指ですらすらと返事を書く。
≪逃がしちゃったわぁ≫
≪俺の事は話してないだろうな?≫
間髪を入れずに返事がくる。アリドルメンダはニタニタと笑みを浮かべている。
≪大丈夫よ。全部嘘を伝えておいたわ≫
これも嘘だ。
≪そうでないと困る≫
相当焦っているようだ。アリドルメンダは紙をテーブルに置き、手で腹をかいた。アリドルメンダは長介があの程度の追手を振りきれることは重々承知だった。もし、長介があの男に捕まるなり殺されるなりすれば欲しいものが手に入れられなくなる。あんな人間の男に自分の欲望の邪魔をさせるわけにはいかないのだ。アリドルメンダはニタニタと笑いながら緑の球体に手を這わせた。

アリドルメンダから肉人形について探りを入れている人間の連絡を受けてから気が気でない。おそらく、探りを入れているのは大原長介だろう。2つの世界を行き来する者ものはどちらの世界の住人であれ、やっかいごとに首を突っ込むことをしない。だが、あの男だけは違う。大原と1対1で対峙すればまず勝ち目はない。禿げ上がった頭頂部に手を当てる。先に手を回しておかなければ自分の身の安全は確保できない。そう考えた老人はゆっくりと椅子から立ち上がると、部屋を出て倉庫へと向かった。庭に出て倉庫へと向かう道中、倉庫に近づけば近づくほどに異臭がきつくなる。老人が庭を歩いているとどこからともなく犬が現れ老人についていった。倉庫の前にたどり着く頃には犬の数は8匹になっていた。老人が首にぶら下げていた犬笛を吹く。犬は一斉に口を大きく開く。限界まで口が開くと顎が外れる音が次々と鳴り始める。外れた顎は限界以上に開いていき、口の端も裂けていく。口が逆方向に裏返っていくと内臓ではなく折り曲がった人間の背中が現れた。背中の後に腕、足、頭が出てくると頭には奇妙な仮面が引っ付いている。完全に犬の口が裏返ると、仮面をつけた腹から目のない蛇が出ている人間のような生物が姿を現した。7匹は見た目が同じだが、もう1匹だけは腹から蛇が出ていなかった。老人は8匹全てが変化したのを確認してから倉庫を開けた。中には裸の少女の死体が転がっていた。
「喰え」
老人が小さな声で命令すると、7体の仮面の従者達の蛇が少女の肉体をむさぼり始めた。骨が砕ける音が庭に響く。倉庫へ向かおうとする蛇がついてない1体の前に老人が立ちふさがった。
「お前は行かなくていい。俺についてこい」
仮面の生物は黙って老人の後に続いた。老人は屋敷の中に戻り書斎に入ると、本棚の中から1冊のバインダーを取り出した。バインダーの表紙には人間と太い字で書かれている。老人はペラペラとページをめくり、目当てのものを見つけるとそのページを開いてついてきた1体に見せた。ページには人間が写った写真がファイルに挟まれていた。老人は左下の写真を指差した。
「この男を探して殺せ」
老人についてきた1体は1度だけ頷いた。老人はバインダーを本棚に戻した。
「ここから東に10kmほどのオフィス街にいるはずだ。できるだけ人目を避けてやれ。倉庫にいるやつらを4体ほど連れていけ。相手は数に弱い」
仮面の生物は老人の命令を聞き終えると即座に老人に背を向け、倉庫へと戻っていった。

翌朝、長介は再びソファの上で目を覚ました。頭痛もせず、眩暈もない。気分も昨日に比べると大分よくなっていた。意識がはっきりせずまどろんでいると、少女がキッチン付近で動いている姿が目に見えた。
「おはようごいます。体調は大丈夫ですか?」
少女がソファの前で立ち止まり長介の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だよ。心配ない」
長介は少女に向かって親指を立てた。少女もニッコリと笑って親指を立てて無言の返事をすると、再びキッチンへと向かって行った。
「いいご身分ね」
恵子の声が足元から聞こえてくる。
「恵子さんもおはよう」
「カワイイ女の子のモーニングコールは格別でしたか探偵さん?」
「嫌味かい?そんな思考にはならないよ。あの子のことを考えると」
「なら、よし。とっとと起きて準備しなさいよ。やることあるんでしょ」
長介はゆっくりと息を吐きながら体を起こした。

長介は少女が作ってくれたハムエッグとトーストを食べ終えると、寝間着から外着に着替え外へと繰り出した。少女のことは恵子に任せることにした。現在午前7時30分。久し振りの早出に長介はあくびが止まらなかった。30分ほどかけて少女が通っていた高校付近に到着した。午前8時。登校途中の学生が同じ方向に向かって歩いている。長介は携帯をいじって立ち止まっている女の子に近づいた。
「すいません」
長介が呼びかけると少女は長介を見て、顔をしかめた。返事はない。
「私、こういうものです」
長介はコートの内ポケットから警察手帳を取り出した。正真正銘本物の長介の警察手帳。ただし、今は何の効力も持たない。少女の顔が不安そうに曇っていく。
「ちょっと、私何もしてないんだけど」
「いや、君についてじゃないんだ。エンドウ ミサキさんって知ってますか?」
「エンドウ ミサキ...?あっ、そういえば先輩が全然学校に来てない人の話してた時に聞いたような気がする」
長介は思ったよりも早く手がかりを掴むことができて拍子抜けした。
「どういう話だったか詳しく思い出せますか?」
「う~んとなんかね、2週間前ぐらいからそのエンドウっていう女子が学校に来なくなって、家にも帰ってないんだって言ってたかな?」
「なるほど。ご協力ありがとうございます」
その後も数人から少女のことについて聞き込みを行うと、より詳細な情報を掴むことができた。少女の名前は遠藤実咲。母子家庭。高校から2駅離れた自宅から通学している。行方不明になったのは今から16日前の午後。校門で別れた友人が少女を見た最後の人だった。その後姿を消した。これだけ分かれば十分。あとは永田からの情報を待って、さらに詳しく調べていけば誰が少女を攫ったのか分かるかもしれない。長介は一度休憩がてら近場の公園のベンチに腰を降ろした。アリドルメンダが本当のことを言ってるとは意外だった。あの時、既にアリドルメンダは肉人形の製作者と内通していたはず。いまいち状況がつかめないでいる。長介は立ち上がると最寄りの駅に向かって歩き出した。長介は電車で4駅ほど移動してから降りると、駅前のコンビニに入って適当にウィスキーや日本酒などを買い、ビニール袋をぶら下げて線路の高架下へと向かった。落書きだらけの高架下の一角にフェンスに取り付けられた青いビニールシートが風になびいているのを見つけた。ビニールシートの近くまで来ると段ボールやトタンで作られた小屋というのもはばかれるほどのものがポツンと置いてある。長介がトタンを叩くと、トタンが横にずれて黒い物体が見えた。アルコールの匂いが鼻をつく。黒い物体の正体は髪と髭に覆われた男の顔だった。
「誰?」
「僕だよ。大原だよ金沢君」
「長介さん?」
金沢が目にかかっている髪を片手でかき上げて豆粒ほどの小さな目で長介を目視した。
「ああ、どうも。今日はどうしたんですか?」
「少し調べてほしいものがあるんだ。一緒に君のあっちの世界の別荘に行かせてくれないか?」
金沢がもう片方の手も使って髪をかき上げ両目で長介を見た。目線は長介が持っているビニール袋に集まっている。
「それは?」
長介はビニール袋を胸まで掲げた。
「酒だ」
髭が横に動く。おそらく笑っているのだろう。
「分かった。連れてってあげるよ。ちょっと待っててね」
金沢が一度自分の家の奥に戻ると、ガタガタと物音を立てた。再び長介の目の前に戻って来ると金沢の掌の上にはカブトムシが乗っていた。長介は酒瓶が入ったビニール袋を金沢に差し出した。金沢はビニール袋を受け取って、奥へと押しやった。
「じゃ、行こうか」
長介はカブトムシの背に手を触れて目を閉じた。目を開けると高架下からあちらの世界へと移動し終えていた。地面から羽毛のようなものが生えており、近くには黄色い海が広がっている。金沢は大きく口を開けるとカブトムシを飲み込んだ。
「こっちだよ長介さん」
金沢はふらふらと海沿いを歩き始めた。長介は後に続いた。しばらく歩くと、金沢は地面に手をついて何かを探し始めた。
「確か、この辺....なんだけど....あった、あった」
金沢は小さな石を手に取り、振り返って長介に見せた。石にはびっしりと気色の悪い模様が書かれてある。金沢がそのまま石を強く握ると、石はもろく崩れて粉となって地面に落ちた。どこからともなく地鳴りが聞こえてくる。金沢の目の前の地面から白い物体が生えだした。ゆっくりと時間をかけながら白い物体は地面からその全貌を地上に現した。それはまるでよくあるビルにいくつものイボをつけたような建築物だった。金沢は建築物の扉を開けた。
「いらっしゃい。我が別荘へ」
金沢と共に長介は建築物の中へと入る。内装は簡素で広いフロアにテーブルと椅子が無造作に置かれているだけだ。その中をせわしなくと小さなタコのような生物が動いている。金沢に促されて長介は椅子の1つに腰をかけた。金沢も椅子に座った。
「で、何を調べてほしいんです?」
金沢が手を軽く広げて微笑む。先ほどまでの浮浪者のような頼りなさとうさん臭さはなくなりまるで一流のビジネスマンのような雰囲気を醸し出している。それでも見た目は浮浪者そのものだ。
「最近のアリドルメンダの取引について調べてほしい。できるかな?」
つい長介も普段使わないようなビジネスチックな口調になってしまっていた。
「もちろん。できますとも」
金沢がテーブルを指で2回叩いた。1体のタコが金沢の足元にやってきた。金沢が長介には理解できない言語でタコに何かを囁いた。タコは金沢の耳打ちを聞き終えるといそいそとどこかへ去っていった。金沢は長介に向き直った。
「アリドルメンダさんの取引を調べる理由を聞かせてもらっても?」
「詳細は省くけどあいつに裏切られた...裏切らたというよりついに手を出されたって言った方がいいかな?」
「というと?」
「あいつから離れたあとすぐに追手がやってきて命からがら逃げたんだ」
「アリドルメンダさんの追手?長介さんなら軽くあしらえるのでは?」
「あいつの使いじゃないよ。あいつは中型犬さいずのミミズみたいなのを使いにしてるけど、僕を追ってきたのは腹から目がない蛇みたなのが出てる仮面をつけた人型の連中だよ」
「腹から蛇が出てる仮面をつけた連中...」
金沢が顎髭をさすりながら椅子に深くもたれかかる。先ほどのタコが1冊の本を持って戻ってきた。金沢が顎髭をさするのをやめて本を受け取りペラペラとページをめくる。
「仮面の連中は結構賢い生物ですよ。それを従えるとなると難しいですよ」
「そうなの?話通じなさそうだったけど」
「あれは確か群れで行動してるんですよ。1頭だけさらに賢いやつがいてそいつが他の連中をまとめてるんですよ。狼とかライオンみたいなもんです...これか、アリドルメンダさんは...ついこの前緑の水を4リットル手に入れてますね。手放したのはメガネが10個」
「緑の水を4リットルも?!大分依存症状が進んでるみたいだな、あの化け物」
「眼鏡を10個も。人間と取引したんでしょうね」
「それは誰と取引したか分かるかい?」
「眼鏡の件は記載されてませんね。ご覧になられますか?」
長介は本を受け取ってアリドルメンダの取引について記載されている箇所を1つ1つ読み込んだ。特に何か変わったものはない。
「アリドルメンダの取引については全部ここに記録されてるの?」
「一応把握できるものは全て。ですが、アリドルメンダさんが僕と交易のないものと取引された場合はそこには記録されません」
長介はもう一度アリドルメンダの取引について目を通したあと、本を閉じ金沢に返した。
「ありがとう」
「いえ、長介さんならいつでも歓迎しますよ」

長介と金沢は元の世界へと戻った。あちらの世界では威厳を感じられた髭と髪もここではただ汚らしいとしか感じられない。
「あっちに住めばいいのに」
「あっちの飯はまずいんですよ」
金沢は自宅へと戻り、長介が差し入れた酒瓶を開けてそのまま飲み始めた。長介はそそくさとその場を離れた。そろそろ昼飯時。長介はここの駅に近くにある知り合いが経営してる中華屋で腹を満たそうと、歩を進めた。しばらく歩くと、身に覚えのある感覚を背中で感じた。仮面の連中が近くにいる。今回は2体ではなく4体いる。歩くスピードを速めたが、連中は姿を現さない。周りに人がいることを気にしているようだ。とりあえず、一斉にとびかかってこられないことが分かり一息つき、角を曲がった。全く人がいない。へまをこいた。長介は即座に地面に伏せた。頭上を蛇がかすめる。すぐさま両手を合わせて息を一気に吹く。辺りに白い霧がかかる。どこからともなく現れた仮面をつけた生物が地面へと降り立ち長介を探す。長介は起き上がって走り出していた。仮面の生物が白い霧の中で蠢いているのを後目に振り切ろうとした。目の前に人が立っている。どいてほしいと声をかけようとして目の前の人物が仮面をつけていることに気付いた。他の連中とは違い腹から蛇出ていない。長介は慌てて立ち止まる。もう一度霧を吹こうとすると目の前の仮面の生物の背中から巨大な腕のような触手が4本飛び出してきた。いずれも腕の先には人間の手のようなものがついているが、掌の真ん中には大きな目がと口が1つずつついている。掌の口が大きく開き、長介に迫る。長介は咄嗟に後ろに飛びのいた。肩に激痛が走る。後ろにいた仮面の生物の蛇が長介の肩に噛みついている。長介は蛇を片手で掴むと、もう片方の手で蛇を掴んだ方の腕を3回叩いてから手の先から肘にかけて手をを這わせた。蛇を掴んでいる手の爪が一気に伸びの肉を貫く。蛇と蛇の宿主である仮面が悲鳴を上げる。肩から蛇が離れると長介は両手を合わせて正面に突っ込んだ。触手が長介を捉えようと向かってくる。長介は再び霧を吹きだした。正面の仮面の生物の脇をすり抜けようとしたが、眼前の触手と目が合った。触手が咆哮を上げる。長介は伸びた爪で目をひっかいた。咆哮が甲高い悲鳴に変わる。触手を飛び越えて足を休めることなく走り出した。続々と仮面の生物が霧を抜けて追ってくる。長介は向かう予定だった中華屋、樂泉籠に飛び込んだ。店内に客はおらず店主がカウンターの奥で暇そうに新聞を読んでいた。店主が長介に気付いて新聞から顔を上げた。
「あら、いらっしゃ~い」
長介は早歩きで真っすぐ厨房の中へと入って行く。
「ちょっと、ちょっと席どこでも空いてるよ。何で入ってくんの?」
店主が長介の肩を掴む。
「今から変な連中が入って来る。1体だけでもいいから足止めよろしく」
長介が状況を理解できず口をポカンと開けたままの店主の手を振り払う。
「エミリーちゃ~~ん」
長介が厨房の中にある階段に向かって叫ぶ。樂泉籠のドアが破壊され仮面の生物が入り込んでくる。
「おいおい、何やあれ」
長介は店主の質問を無視し、銀色の台に置いてあったペットボトルの烏龍茶をがぶ飲みしてから、厨房の奥にある裏口から外へ出た。
仮面の生物が長介の姿を見つけ追いかけようと店内のテーブルや椅子を蹴散らしながら進む。
「ちょっと待てや!!!人の店で何してくれとんねん!!!!!」
店主の皮膚がドロドロと溶けて中から昆虫の足のようなものが飛び出す。店主の外皮が全て溶けると巨大な羽がついた蜘蛛が姿を現した。仮面の生物が突然現れた蜘蛛との応戦をやむなくされる。
「よんだ~~~??」
「エミリー手伝え!こいつらいてこましたるぞ!!」
「は~い」
エミリーの外皮がドロドロと溶けると中から巨大なカマキリの鎌を持った蚊が現れた。店主が取りこぼした仮面の生物をエミリーが鎌で抑え込み、口器で喉元を刺す。仮面の生物を腹の蛇でエミリーの鎌を噛み抵抗したが、口器から体液を吸われていく内に腹の蛇も本体も動きが鈍くなり、最後には動かなくなった。
「終わったで店長」
エミリーは鎌で挟んでいた仮面の生物を床に捨てた。店主を見ると既に人間の姿に戻っていた。足元には肉片が転がっている。
「長介め~俺らをこいつらの足止めに使いよったな。おかげで店の中がめちゃくちゃや」
「え?長介?どこどこ?」
大きな口器を振り回しながらエミリーが顔を左右に動かす。店主が大きなため息をつく。
「そんなカッコで追いかけてったら嫌われるで。こっちおいでエミリーちゃん。人間のカッコに戻したげるから」

長介がしばらく走ったあと後ろを振り返った。まだ、仮面の生物を追いかけてこない。どうやら店主とエミリーちゃんが全て始末してくれたようだ。長介はもう一度店に戻るかそのままこの場を去るか決めかねていた。店主とエミリーを一度に相手はできないのでそのまま立ち去ろうと再び樂泉籠に背を向けると。背中から触手を生やした仮面の生物が待ち構えていた。2本の触手が襲う。1本は避けられたが、もう1本の攻撃は避けきれず後方へ吹っ飛ばされる。ふっ飛ばされながら長介は本日3度目の切りを吹きだした。霧で姿が隠れているうちに長介は両手で両耳の耳たぶを2度触った後、小さな輪を作った。仮面の生物も何度も同じ手は食わないようであっさりと霧を振り払う。長介は手で作った輪に仮面の生物が入るように調整するとゆっくりと輪を上に掲げた。仮面の生物は腕の角度と呼応するように上空へと持ち上げられる。仮面の生物は上空で触手を暴れさせたがむなしく空を切るだけだった。長介は限界まで腕を上げるとそのまま一気に腕を下に振り下ろした。仮面の生物が上空から地面へと叩きつけられる。辺りに轟音が響く。地面のコンクリートにひびが入るほどの衝撃だった。仮面の生物はなんとか触手で衝撃をやわらげたようだが、触手も本体も無事ではなさそうだ。仮面の生物が激痛に悶え動けないでいるところへ長介が近づく。仮面の生物が長介を睨む。触手が仮面の生物本体に集まる。触手の口が大きく開くと、一斉に本体を食べ始めた。辺りに藍色の血が飛び散る。肉も骨も、腕も頭も関係なく触手は本体を一心不乱にむさぼった。長介は予想していなかった仮面の生物の行為を目の当たりにし、思わず足を止めた。触手が飛び出ている胴体だけが残ると、4本の内の1本が他の職種食べ始めた。食べられている触手は抵抗することなく、ただ、黙って同胞の口の中へと入って行った。触手が本体を食べ始めてから1分も経たないうちに仮面の生物は触手1本だけになった。長介は触手の次の行動が読めず、距離を詰めることができない。触手が大きく口を開けた。長介が迎撃の準備をする。大きく開いた口は端から裂け始め、口腔内が外界に飛び出てくる。長介は2度目の予想外の展開に、動けずにいた。この行為が何を意味するのか、思考を整理している内に口はどんどんと開いていき、中から犬の頭が見え始めた。口は裏返るように開き続けると頭の次に前足、胴体、後ろ足と犬の全貌が見え始めた。口が完全に裏返ると1匹の犬が長介の目の前に現れた。犬は長介に1度だけ吠えると、踵を返し、一目散に走っていった。長介はあまりのできごとに呆気に取られていたが、逃げられたことに気付いた時には犬の姿は見えなくなっていた。

長介は自分がめちゃくちゃにした中華屋で昼食をとることを諦め、コンビニで買ったおにぎりですますと、事務所へと戻ることにした。中華屋には店主とエミリーちゃんの怒りが冷めたころに弁償費用を持って出向くことにした。2日連続で追いかけっこをしたので体中が悲鳴を上げている。自分が年を取ったことを実感させられる瞬間だ。これ以上、動き回るのはおよそ無理だろう。事務所へ戻る途中に尋常ではない吐き気が襲ってきたので薬を飲んだ。恵子に持っていけと言われた薬が役に立った。事務所のドアを開けると若々しい声が長介を出迎えた。
「あ、おかえりなさい大原さん。帰ってすぐのところ申し訳ないですが、ちょっとお知らせたいことが」
これ以上今日は動きたくないということを顔で少女に伝えるが、残念ながらそこまで意思疎通できるほどの仲ではない。
「ヘドロ君なんですが、何上げても食べようとしなかったんですが、生卵だけは食べてくれました」
長介の顔が緩む。
「そうか、食べるものが分かってよかったよ」
「大丈夫ですか?」
「今日もちょっと色々あってね。少し休ませてくれないか?」
恵子が長介が脱いだコートを受け取って、クローゼットに戻す。少女は心配そうに長介の顔を覗き込む。大丈夫だから、そんな顔をしないでくれと言おうとしたが、再び吐き気がこみあげてきて長介は言葉の代わりに胃の内容物を口から出した。視界がぼやけ、足がふらつく。手を壁についてなんとか立とうとしたが、体中の筋肉が弛緩していきずるずるとその場にへたり込んでしまった。恵子が長介の体を支えて、手で顔を覆う少女に大声で何かを言っている。長介は重たい瞼をゆっくりと閉じた。

翌朝、長介はベッドの上で目を覚ました。壁にかけられた時計は10時となっているが、午後か午前か分からない。長介は重たい体動かし、寝室から出た。事務所では恵子が誰かと電話で会話し、少女が窓を雑巾で拭いていた。恵子が長介に気付き、手招きをした。長介が電話機の側まで来ると、恵子は受話器の会話口を手で塞いだ。
「体調は大丈夫?」
「ああ、なんとかね」
「そう。永田さんから電話よ。あなたにって」
少女の件だろう。長介は受話器を受け取った。
「もしもし、長介か?倒れたんだって?携帯に電話しても出ないから事務所にかけさせてもらったんだ。無理すんなって言ったのに」
「心配してくれてるところ悪いけど朝から説教を聞くつもりはない。行方不明届の件だろ。どうだった」
受話器の向こうからため息が聞こえる。
「そうだな。さっさと要件を言うよ。お前の言ってた遠藤実咲名義での行方不明届はあった。いなくなったのは今日から17日前。行方不明届が出されたのは16日前だ」
聞きこんだ情報と一致する。
「その子の住所は?」
「長介。悪いがそれは守秘義務だ。すまないが、これ以上は教えられない」
「そうか。ありがとう。無理を言って悪いな」
「いや、いいんだ。お前なら名前さえ分かれば、いくらでも探りようがあるだろう。遠藤実咲について何か情報があれば、俺にも教えてほしいんだが」
長介はしばらく黙って考え込んだ。バケツの水を入れ替えている少女を見る。少女が長介に気付いてニコリと笑った。
「すまん。お前は俺が情報を持っていることを分かってるんだろ。だけど、今は教えられない」
「変なやつの件だからか?」
「そうだ。こちらからお願いしてばかりで本当にすまない」
「いいよ。困ったことがあればいつでも連絡してくれ。遠藤実咲の件が終わればあの店で飲もう」
「本当にありがとう。感謝してるよ。じゃあな」
「待て長介。聞きたくないだろうが最後に1つ.....無理するなよ」
長介は返事をせずに受話器を置いた。

長介は恵子に昨日何があったかを伝えた。少女にはヘドロ君の世話をしてもらった。
「そう。店長とエミリーちゃんには悪いことをしたわね」
「そうでもしないと生きて帰ってこれなかったからね。この一件が片付いたらちゃんと謝りに行くよ」
恵子が少女に目を向ける。
「本当の名前遠藤実咲っていうのね。伝えられないのが癪ね」
「今、ここで自分の存在に疑問を持ってもらっては困る。暴走されかねない」
「子供はいないけどあの子を見てると愛しい気持ちが出てくるの。あなたを初めて見たとき以来だわ。こんな感覚は」
「こう言うと酷だけど、あまりあの子に感情移入しない方がいいかもしれない。暴走されたらその時は」
「分かってるわ」
恵子との付き合いが長い長介だから、表情である程度恵子の考えは読み取れる。ただ、そのことについてあえて言わないのも長年の付き合いがあるからこそだ。こういうときは話題を変えるに尽きる。
「気になるのはあの子につけられた名前だ。ついついあの子の本名にこだわってしまったけど、端野泉希という名前が誰のものなのか調べるともっといろんなことが分かるかもしれない」
「そんなの適当に製作者がつけた名前じゃないの?」
「名づけというのは割と繊細な作業だ。名づけは自分のものだと主張するために行う。そして名前、特に人の名前は重要なんだ。名前というのは出自だけでなく、その人物の歴史を表すことがあるくらいだ。わざわざ苦労して作った肉人形に適当な名づけはしないはず」
恵子の視線が明後日の方向に行きつつある。落ち着いた見た目と話し方とは裏腹に、少しでも自分が分からない話がでてくると思考が停止してしまう。これも長年の付き合いでよくあることと分かっているので気にせず続ける。
「そして、これは製作者が肉人形を作った理由にも関係してくると僕は思っている。製作者は遠藤実咲をそのまま肉人形にしたかったんじゃない。遠藤実咲の魂を使って誰かを再現したかった。そして、その再現したかった誰かが端野泉希なんじゃないか」
「実咲ちゃんの魂を使って他人を再現?できるのそんなこと?」
「さあ?恐らく、魂の写し鏡の前で遠藤さんに自分は端野泉希であると言わせたんだろう。そこからの記憶がないのはその魂が経験していないことはどれだけ言わせても反映されないのかもしれない。魂の写し鏡で上書きできるのは名前だけだったみたいだね」
「ややこしい話ね。じゃあ、製作者は失敗したと気づいて捨てたの?」
「いや、違う。捨てるくらいなら頭の魂の写し鏡を破壊するだろう。わざわざ誰かが肉人形を拾ったり、行方不明者として通報されるリスクは取らない。あの子が何かがきっかけで逃げ出したんだろう」
「じゃあ、実咲ちゃんにどうやって聞けば製作者の居場所が分かるんじゃない?」
「遠藤さんに制作者について質問するのは危険だ。自分が肉人形であることに気付く手がかりになりかねない。今は端野泉希について調べるのがベターだろう」
「そんなことで分かるのかしら?」
「なかなか手に入らない魂の写し鏡を使って再現しようとしたんだ。端野泉希は制作者にとって大切な人だったんだと思う。家族?恋人?親友?何にしろ製作者と親しかった人物だ」
「そこまで分かるなんて探偵っぽくなってきたわね」
「僕も昔やろうとしたことがあるからね」
恵子は口をつぐんだ。
「気をつかわなくもいいよ。昔のことさ」
長介はデスクに座り、PCのキーボードをたたいた。恵子も長介の後に続き、後ろから立ったままPCの画面をのぞき込んだ。長介はダメ元で端野泉希の名前を検索してみた。よく使われる名前の情報を載せたどうでもいいサイトが並んでいる。名前だけではダメなのかとマウスで画面をスクロールしていると、ニュース記事が見つかった。それほど昔のものではない。内容は10年前の事件についてだった。10年前、とある山中にある山小屋の中で10人が焼身自殺を行った痕跡が見つかった。この事件には奇妙な点が複数あった。集団自殺は珍しい話ではないが、10人も集まって焼身自殺をすることは滅多にない。10人が一斉に焼身自殺したにも関わらず山小屋は燃えていない。燃え後はキレイに10人が等間隔に円を描いて並んでいた。そして、焼身自殺にも関わらず遺灰がわずかしか見つからなかった。10人のうち氏名が分かったのは高尾秀樹、吉村武郎。中岡清、端野泉希の4名。歯の治療痕からなんとか特定できたが、他の6名は歯もろとも燃え去っていたため特定きなかった。この記事が書かれたのは2ヶ月前。ちょうど、事件が発覚してから10年になる日だった。長介と恵子は顔を見合わせた。この事件で死んだ端野泉希を遠藤実咲を使い再現しようとした者がいる。この事件があった山はここからそう遠くない。
「この山に行ってみようと思う。何か手がかりがあるかも」
「そうね。でも、今回はあなた1人で行かせないわ。私も行く」
「え?恵子さんも来るの?」
「あのね、一昨日も昨日も変な奴に終われて体調崩してるのよ。それに話を聞く限り相手はあなたが数に弱い事を知っているのよ。なおさら私が行く必要があるわ」
「でも、あの子はどうするの?」
「ここで待ってもらうしかないわ。肉人形だしある程度の命令なら聞いてくれるはずよ」
長介は黙って考えを巡らした。昨日はたまたま樂泉籠に立ち寄ろうとしたから店長とエミリーちゃんを利用して切り抜けられたが、今回は何もない山の中へと入って行く。1人で行くには危険すぎる。長介は恵子の提案を了承した。長介は出発前にヘドロ君に生卵をあげた。
「もしもの時は頼むぜヘドロ君」
「うぇぇぇぇぇぇぇ」
恵子は少女に事務所に残るように命令し、しっかりと戸締りをして長介と共に山へと向かった。

男は焦っていた。5匹も大原長介を殺すために向かわせたのに4匹は殺され1匹は損傷が激しく、あと数ヶ月は使い物にならない。屋敷にいる仮面の生物はのこり3匹。これだけで大原長介に勝てるだろうか。男はグラスに入ったウィスキーを一気に飲み干した。肉人形を操作する力を持ってはいるが、発動するまでにあと数時間はかかる。それまでに、ここが大原長介に突き止められないか気が気ではなかった。男は幼い少女と若いころの自分とこのころはまだ生きていた妻の写真を手に取ってじっと見つめた。

長介と恵子は電車とバスを乗り継ぎ山のふもとへとたどり着いた。近くは民家が並んでおり、街中からは少し離れているが田舎というほどでもなかった。その中でも他の建物と比べると規模が大きい病院が目立っていた。長介は病院を見て立ち止まった。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。山小屋があるのは確か中腹あたりだったね。行こうか」
山は標高が300Mほどで小中学生の遊び場となっているが、木々が鬱蒼としている場所が多く、舗装された道を外れると下手をすれば遭難する可能性もあった。地図を見て山小屋の位置を確認しながら移動していく。始めは肌寒かったが、長介は動いている内に汗が体全体に出ているのを感じた。小一時間ほどで山小屋に着くころには額から汗を拭いっていた。恵子は涼しい顔をしている。山小屋は丸太を組み合わせて作られたものだったが、ところどころ苔が蔓延っており、窓ガラスは割れていた。長介と恵子は山小屋に入った。ニュース記事と同じように10個の黒い焼け跡が等間隔で円を描いていた。4つの焼け跡には花が添えられていた。どれも、それほど古いものではなく1ヶ月に1度は変えられているようだった。長介はかがんで黒い焼け跡に手を触れた。ざらざらとした感触が手に伝わる。
「何か気持ち悪いわね」
「そりゃ、10人死んだ場所だからね」
「そうじゃないわ。ここ、人が死んだなんてこと以上におぞましいことがあったんじゃないかしら」
「おぞましいこと?人が死んだので十分おぞましいと思うけど」
「私はあなたよりあちらの世界のものに対して敏感なの。何かあちらの世界のものがこの件に関与してるわ」
「それって」
ドアが開く音に長介の言葉がさえぎられた。長介と恵子は咄嗟に構える。製作者にここを調査してることがバレたのか。ドアに目を移すと50代ほどに見える小柄な女性が花を持って立っていた。長介は両手を合わせ霧を吹く準備をする。恵子はコートの内ポケットに手を忍ばせる。
「あなた達もお供えに来たの?初めて見る顔だけど」
女性が長介と恵子に構わず中に入って来る。あまりにも無防備すぎる。2人は製作者ではないと判断し、構えを解いた。
「あなた達ここで何をしてるの?変なことをしてるなら出ていってちょうだい。ここはそういうとこじゃないわ」
どうやら女性に変な誤解をされているようだ。長介はコートから警察手帳を取り出した。
「失礼しました。私こういうものです」
長介は女性に手帳を見せると素早くコートに戻した。
「あら、警察の方?ごめんなさいね。後ろのあなたも?」
恵子が小さくお辞儀をす。
「ええ。実は10年前の事件について少し調べていたんですよ。あなたは?」
「私は息子にお供えに来たんです」
女性は花を掲げた。
「お名前を聞いてもよろしいですか?」
「私は中岡仁美と申します。ここで死んだ中岡清の母親です」
中岡仁美の献花と黙祷を見届けると、2人は彼女と一緒に山を降り近くの喫茶店に立ち寄った。
「先ほども申しましたように私は10年前の事件について調べています。中岡さんが知っていることを話してもらえますか?」
「もちろん。私にできることは何でも協力します」
「ありがとうございます。では、息子さんがあの山小屋で集団自殺と思われる行為に及んだ原因について何かご存じですか?」
いきなり端野泉希について聞くと怪しまれる。中岡仁美は目を潤ませながら語り始めた。
「ええ。息子、清は昔からよく運動ができる子でした。特にバスケットボールが上手くてね。高校の時は3年間レギュラーで全国大会にも出たことがあるんですよ。それで、大学にもスポーツ推薦で入ったんですけど、周囲の環境が悪かったのか、それともあの子の意志が弱かったのか清は昼も夜ものべつくまなく酒を飲むようになったんです。私も何度も注意したのですが、それまで色々と縛られていた息子を見ていたので、ついつい甘くなっていました。そして、ある日、息子は酒を飲みながら先輩の車を運転していた時に不注意で人を轢いてしまったんです。その人は重傷でしたが、命に別状はなく後遺症もありませんでした。被害者の方とも示談も上手くいきました。清も初犯だったので、執行猶予がつきました。私はこれをきっかけに更生してくれると思っていました。私の予想通り清は反省していました。しかし、反省しすぎたのです」
「というと?」
「元々清は正義感の強い子でした。人を轢いてしまったということに罪悪感を感じたのです。もちろん、一方的に人身事故を起こして罪悪感を感じない人間はそうそういないでしょう。でも、清の感じ方は過剰でした。1日中自分を責めていました。食事もまともに取らず、何度も自殺未遂を起こしたんです。私と主人は清を励ましましたが、全くあの子の耳には届きませんでした。私たちは手を尽くしこれ以上できることがないと諦めかけたんですが、突然息子が活き活きとし始めたんです。何の前触れもありませんでした。私と主人は不思議に思いましたが、息子が以前のように元気になったことを喜んでました。それまで自分の部屋に閉じこもっていたのに、よく外出するようになりました。私は救われたような気がしました。これで、清は前を向いて歩けると...」
中岡仁美は零れ落ちる涙をセーターの袖でぬぐった。
「........ッウ。すいません。そんなある日、また清が外出したんです。私は笑って見送りました....ッウ。それが、私が見た清の最後です。やっぱり、傷は癒えてなかったんです。息子は.......私たちに迷惑をかけまいと.....ウウ。元気なフリをしてたんです....多分」
長介は中岡仁美にハンカチを差し出した。
「それはお辛い体験でしたね」
中岡仁美はハンカチで涙を何度も拭った。
「息子さん以外にもあの山小屋で9人の方が亡くなられています。そのうち、身元が分かっているのが3人。この3人と息子さんはどういう関係だったかご存知ですか?」
中岡仁美はひとしきり泣き終えたのか、ハンカチをキレイにたたんでテーブルの上に置いた。
「いえ、全く分かりません。小学校のアルバムから大学の名簿まで調べましたが、この3人の名前はありませんでした。残っていた携帯のアドレス張にも彼らの名前はありませんでした。でも、他の3人のご遺族とは何度も顔を合わせているので私はちょっとした知り合いになりましたよ」
長介が身を乗り出した。
「詳しく聞かせてもらえますか?」
「え、ええ。高尾さんと吉村さんと端野さんは献花が終われば少し立ち話する間柄です。それ以上は特に連絡したり、一緒にどこか行ったりとかはしないんですけどね。端野さんはよく頻繁に献花にいらっしゃるのでよくお話ししますよ」
「端野さんはどんな方ですか?」
「端野さんですか?フルネームは確か端野賢三さん。60代ぐらいかしら。20年前に奥さんを事故で亡くしたそうです。そして、10年前に娘さんも....不憫な方です」
「何をされているかとかはご存知ですか?」
「いえ、互いにプライベートな領域には過剰に立ち入らないようにしてますから」
「そうですか。ありがとうございました」
長介と恵子は喫茶店を出て、帰りのバスに乗り込んだ。端野賢三。恐らく彼が製作者。肉人形を作った理由もなんとなく読めてきた。今は端野賢三を尋問することが最優先だが長介の心には山小屋での事件が引っかかっていた。長介はバスの窓から外を見た。丁度、帰路についている中岡仁美の背中が見えた。ハンカチは彼女にあげることにした。

長介と恵子が事務所に戻るころには既に時計は正午を回っていた。長介が地面に続く細い液体のようなものが何なのか気になってうつむいて歩いてると恵子の背中に顔が当たった。恵子が事務所のカギを開けようとしたが手を止めていたのだ。
「どうしたの?」
「開いてる。鍵がかかってないわ」
「戸締りしてたよね?」
恵子が黙ってうなずく。扉を開けると、そこにはヘドロ君が部屋の真ん中でもぞもぞと動いているだけだった。
「泉希ちゃ~~~ん!!!!」
恵子が大声で呼びかけるが返事がない。恵子が寝室やトイレを探すが見つからない。
「どうしよう。誰かにさらわれたのかしら?」
「いや、荒らされた形跡はない。今、調べてみるよ」
長介が立ったままPCの電源をつけ、監視カメラの映像をディスプレイに表示した。恵子が事務所内でおろおろしている姿が映っている。長介は映像を巻き戻し始めた。午前10時43分。座って雑誌を呼んでいた少女が急に立ち上がって事務所から出ていくところが映っていた。
「何か映ってた?」
恵子の狼狽した声が事務所に響く。
「自分で出ていったみたいだね」
「自分で?絶対に外に出ないでって言っておいたのに」
「おそらく彼女の意志じゃないね。これは。製作者が彼女を操作してる可能性が高い」
「肉人形を操作?しかも離れたところから?聞いたことがないわ」
「名づけだ。自分の影響力を高くてたからな。それだけじゃないだろいけどね。僕が行ってた仮面の生物。あいつは結構知能が高いらしい。それを操ってたのが端野賢三だ。何か秘密があるのかもしれないね」
「どうする?今から端野賢三の居所を調べなきゃならないわ。何か手がかりは...ああ、どうしよう!」
「落ち着きなよ恵子さん。どうやら、彼が役だったようだね」
「彼?永田君にもうお願いしていたの?」
「永田じゃない。ヘドロ君だ」
「ヘドロ君?」
恵子がヘドロ君を振り返る。相変わらずぐねぐねと蠢いているだけだ。長介が映像を一時停止し、ズームする。少女が立ち上がりヘドロ君とすれ違う時、ヘドロ君が少女に糸のようなものを付着させている。
「出発前にヘドロ君に頼み事をしたいたのさ。どうやら、少し意思疎通できてたみたいだね」
長介がヘドロ君に目をやる。ヘドロ君は長介の視線に気づき奇妙な声をあげた。
「引き止めてくれればよかったのに」
「いや、ヘドロ君には無理だろう。彼、ものすごく力が弱いんだ。僕に引っ張られてもほぼ無抵抗だったからね」
長介はヘドロ君の側に寄ると、床を見た。事務所内にも先ほど外で見た細い液体のようなものが落ちている。長介はこの液体を指でさした。
「これを辿っていけばあの子のいる場所。もとい、端野賢三の居所まで行けるわけだ」
恵子の顔に笑みが広がったが、すぐさま険しい顔へと変化した。
「これは1時間以上前の映像よね?辿るってことは歩いていくことになるわ。1時間以上歩かなければならないかもしれない。あなた体力もつの?それに、急がないとあの子の身に何かあるかも」
「うだうだ言ってる時間はないよ。僕の体力がもつかどうかもあの子が無事かも知らないよ。でも、行かないと。今はそれ以外の選択肢はない」
長介の顔を凛々しく覚悟を決めている顔だった。
「ごめんなさい。頭に血が上っていたわ。そうね、行くしかないわ。急ぎましょう」
長介は微笑みで答えた。
「ああ、急ごう!」
長介は事務所のドアに手をかけた。
「ちょっと待って!!」
「何?トイレ?」
「お薬忘れてるわよ」
「おっと、うっかり」

端野賢三は自分の書斎にいる目の前の少女を見て涙した。はっきりと開いた目、手入れが行き届いていない眉毛、何もしなくとも美しいまつげ、少し色が白い頬、横に広がっている大きめの耳、つんと上向いている鼻、少し乾燥し何もしなくとも微笑んでいるかのように見える唇、黒く短くまとめられた頭髪、肉付きのいい腕、締まったふくらはぎ全てが娘、泉希そのものだった。この少女は以前自分が作った肉人形だ。遠藤実咲。彼女との出会いは偶然だった。外を歩いているときすれ違った。思わず泉希と声をかけそうになったほど彼女は娘と似ていた。そこから、彼女のことを調べ上げ、名前や住所を知った。もしかして親戚かもしれないと思ったが、全く無関係だった。他人の空似、ドッペルゲンガー等々なんとでも表現できるが、とにかく彼女は娘とうり二つだった。最初は彼女の登下校の時間に合わせて外出し側から見ているだけだったが、そうしているうちその程度では我慢できなくなっていった。もう一度娘に名前を呼ばれたい。つまらない話をしたい、趣味の合った音楽を一緒に聞きたい。そういった欲望が自分の中ではちきれんばかりに膨れ上がっていた。娘を死に追いやった宗教団体、拝火教を調べて知ったあちらの世界の存在。あちらの世界のものでなら彼女で娘を再現できるかもしれない。そう思って少女を拉致し、奇妙な生物との取引で手に入れた魂の写し鏡を使って肉人形を作ったが、その者が体験していないことを言わせても、効果はほとんどなかった。それでも、また娘と同じ形をした者と生活することができる。端野賢三は少女を抱きしめた。
「ずっと一緒にいよう。ずっとな」
「いや、その子はあんたの好きなようにはさせないよ」
端野賢三が顔を上げると、2人の男女が書斎の入り口に立っている。男の方は手を膝について息も絶え絶えだ。
「どうしてお前らここが分かったのだ?この子を動かした時確かにお前らはいなかったはずだぞ」
「はあ、あんたに.....ふう、ちょっと待って」
長介が手を前に出す。恵子が長介の背中を優しくさする。端野賢三がポケットにシャツの中から犬笛を取り出す。
「ふう...よし。どうして分かったか?あんたに教えてやる必要はないね」
「そんなことを言うために息を整えてたのか。ふふふ。大原長介君。腕が利くだけではなくユーモアのセンスもあるんじゃあないか?」
「いや、今時名前をネットを検索するだけで色々分かるからね。大したことはしてないよ。ここの屋敷はネットで調べてもでてこないし表札もないからちょっと驚いたけど、ここが分かったのも僕の手柄じゃないし。ユーモアはないよりあった方がいいよね」
「おやおや?天下無敵の探偵さんがえらく謙虚じゃないか」
「何を待ってる?」
「待ってる?....とは」
「こんな無駄話をして何の時間を稼いでいる?」
「腕が利くだけではなく勘もいいな!」
端野賢三は取り出しておいた犬笛吹いた。甲高い音が屋敷全体に響く。書斎のドアが吹き飛び、長介と恵子が飛びのいてドアの破片を避ける。のそのそと仮面の生物が3体。2本の大きな腕のような触手がついている肉塊が3体の後ろに見える。
「恵子さん大丈夫?」
長介は先ほどまで端野賢三が立っていた場所まで退いていた。
「大丈夫よ。こいつらが例の仮面の生物ね」
恵子は手足を天井につけてぶら下がっている。首を左右に振る。
「あのジジイはどこにいったのかしら?」
「あ、本当だ。あの一瞬でここから出ていったのかな身軽な爺さんだ」
長介が噛みつこうと伸びてきた蛇を避けて上に跳び、書斎の机に飛び乗る。
「とりあえず、こいつらどうにかしようか。僕はネタバレ済みだからあんまり役に立たないかも」
「天下無敵の大原長介が情けないわね」
「嫌味は後で聞くよ」
先ほど長介を逃した蛇が机に這い上がって来る。長介は左手で右手の指先から手首にかけて3回叩いてから、指先から肘にかけて手を這わせる。右手の爪が15cmほどに伸びる。その爪で足元の蛇を刺す。
「よし!」
「長介!危ない!」
長介が視線を前に戻すと、いつの間にか本体が眼前に迫ってきていた。仮面の生物の前蹴りが長介の顔面を捉える。
「うがっ!!」
長介の体が机から弾き飛ばされ後ろの壁に激突する。恵子は2体の蛇の攻撃を天井に張り付いたまま避けつつ、長介の方へとゆくっりと近づいていった。鼻の頭が熱い。鼻を触ると生暖かい液体が手を赤く染めた。丁度いい。長介は鼻血を両目元に短い線を描くように付着させると2回手を叩いた。仮面の生物が長介にとどめを刺そうと机の上に飛び乗ったが、その前に長介の姿はない。仮面の生物がうめき声を上げながら、上下左右首をせわしなく動かしていたが、突然首の動きが止まった。仮面に5個の穴が開いた。穴の中から藍色の血液がドロドロと溢れてくる。仮面の生物の体全体が弛緩し、小刻みに震え膝から崩れ落ち動かなくなった。腹の蛇が根元からちぎれ本体から独立する。素早く床を這う蛇の同体の一部が平たくつぶれる。もがいて動こうとするが、頭と尾が上下に揺れるだけである。蛇がもがいているうちに頭部と胴体が切り離された。長介の体が徐々に透明な状態からうっすらと見えるほどに戻ってきた。恵子は蛇を2体とも掴むと両方の口に唾を吐いた。恵子は蛇を放し、天井から長介の元へと降り立った。仮面の生物が恵子と長介に向けて蛇を差し向けてくる。
「鼻血出てるじゃない。大丈夫?」
「う~んあと3分もすれば止まるんじゃない。折れてはないと思うんだけど」
蛇が2人のすぐそばまで近づき、大きく口を開ける。だが、それ以上蛇が近づくことはなかった。蛇の体全体に血管が浮かび上がる。浮かび上がった血管がどんどん太くなり、ところどころではちきれて藍色の血液が噴き出てくる。本体も仮面の下から出血しており、既に体の下には血だまりができていた。
「これで全部かしら?」
「いや、あそこに1体」
長介がドアがあった方向を指さす。先ほどまで2本だった触手がいつの間にか4本に増えている。
「増えてるね本数」
「あれ4本じゃなかったかしら?」
肉塊がグネグネと動くとさらに4本触手が増えた。計8本。
「あれは少しマズいかも」
「長介。あなたはまず鼻血を止めなさい。私がどうにかするわ」
「ちょっと!恵子さん」
恵子が長介を置いて触手へと走る。そうしている間にまた、触手が増えている。計16本。何本かの触手が恵子を噛み砕こうと伸びてくる。恵子は上手くかわしながら触手の目に掌底を叩きこんで進む。叩かれた触手は先ほどの蛇と同じように触手の血管が浮かび上がり、はちきれて出血が始まる。しかし、本体が同じ目に合う前に出血した触手は切り離されていた。恵子が毒を打ち込んでいるのはばれていた。その間にも触手は増えている。切り離された触手を除いて計61本。恵子に向かってくる触手が増える。恵子も応戦するが、対応しきれなくなる。1本の触手が恵子の足に噛みつく。噛みついた触手が泡を吹く。恵子がその触手を蹴り上げる。触手計125本。触手は恵子を噛み砕くことを諦め拳を作り、一斉に振りおろす。避けきれない。恵子が身構えたる。衝撃に備えるが、拳がなかなか落ちてこない。恵子が見上げると拳は何かに邪魔されているように上空で止まったままだ。
「恵子さん!早くこっち来て!」
長介が手でを上に掲げている。恵子は状況を理解し、走って長介の元に戻った。長介は恵子が拳から逃れられたのを見ると、手を降ろした。拳が誰もいない床を叩く。屋敷全体がぐらぐらと揺れた。
「助かったわ。ありがとう」
「それより、あれどうしようか。まだ、増えてるよ」
話しているうちにも触手は増えて計148本。元となっている肉塊は既に目視できなくなっている。増えすぎた触手がところどころ天井や壁を突き破っている。数十本の触手が2人に迫る。

端野賢三は少女の手を引いて屋敷の外へと出ていた。今頃は増え続ける触手が2人を始末しようと暴れているところだろう。あの触手は200本になれば内側から破裂するようになっている。破裂の衝撃は凄まじく、血液が弾丸のように2人の体を貫くだろう。止めるには元となっている肉塊をつぶすしかないが、天井を突き破っている触手を見る限りもう不可能だろう。この屋敷を捨てて、どこかこの少女と2人で暮らす場所を見つけよう。少しずつ自分を父親だと思わせるようにしなければならない。時間はたっぷりとある。不可能ではないだろう。あの少女の遺体があった倉庫を横切る。ここで、少女を脅し娘の生い立ちからのエピソードを鏡の前で言わせたのだ。遠藤実咲を殺そうとした時、泣きながら父親に助けを求めた時は胸が痛んだが、今となっては必要なことだったのだと割り切れる。
「あれ、ここは?」
肉人形を縛っていた力が弱まったのか、少女がこの屋敷に来てから初めて言葉を発した。
「大丈夫かい?私は君の父親だ。変なやつにさらわれていたから助けたら、そいつらが追いかけてきたんだ。早くここから逃げよう」
「父親なの?」
「そうだ。私の名前は端野賢三。君と同じ名字だろ?お父さんだよ」
少女は立ち止まって動かない。
「どうしたんだ?どこか痛いのか?」
少女の腕が端野賢三の腹を貫く。
「え?」
貫かれた箇所から血液がとめどなくあふれだす。胃から血液が逆流し、口からも血液が流れだす。
「何で....」
「お父さんは死んでる」
端野賢三は遠藤実咲を殺した時のことを思い出していた。あの時、まだ魂の写し鏡は遠藤実咲の前に会った。あの時、最後に父親に助けを求めていた。そのあとだ。そのあとの嗚咽。あれはただ、嗚咽していただけだと思っていた。違うのか。端野賢三は遠藤実咲が死ぬ間際、嗚咽しながら何をつぶやいたのかを知ることはない。内臓からあふれ出た血液が多すぎて既に失血死していた。あの時、嗚咽しながら少女がつぶやいたのは
「お父さん。私も今天国に」
魂の写し鏡はどんな言葉も逃さない。肉人形の中に埋め込まれた父親は天国にいるという情報と父親を名乗る男。これが肉人形に矛盾をもたらし、矛盾が自身の存在の疑惑をもたらす。一度生まれた疑惑は消えることがなく頭の中で増殖を続ける。思いだしてきた。自分を保護した2人。あの2人は住所が分かったとか分からないとか、怪しいところがあった。そして、あちらの世界。自分はこちらの世界のものではないのか。そもそもあの2人も信用できるのか。もしかして、自分は普通の人間ではないのでは?魂の写し鏡に記録された人間であるという前提の情報が崩れ始める。少女の視界がぶれる。自分は何者なのか。処理しきれない情報が頭を駆け巡る。少女の意識はここで途切れる。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
肉人形の暴走が始まる。

長介と恵子は無数に迫りくる触手をかわしながら、隙をついて触手を攻撃し、引きちぎっていた。しかし、2人が触手を引きちぎるスピードよりも触手が増えるスピードの方が速い。既に何度か触手の攻撃を受けた2人の動きは疲れも相まって鈍くなるばかり。結果は目に見えていた。
「もう、無理よ。長介。逃げないと」
「僕らが逃げたらこいつは追いかけてくる。こんなのを外に出せない」
「そんなことを言ってる場合じゃ.....キャッ!」
拳を作った触手が恵子の右半身を殴りつけた。
「恵子さん!」
恵子の体が本棚に強くたたきつけられる。本棚は粉々に砕け、大量の本が恵子の上に落ちる。
「うう...もう動けないわ....仕方ないわね。今から栓を抜くわ。長介、振り返らず走るのよ」
「ダメだ!栓は抜くな!僕がなんとかしてみせる!」
「もう他に手は...?!」
天井から何かがとてつもない速度で長介と恵子の間に落下した。衝撃で床が抜け、ほこりが煙のように舞い上がる。落下してきたのは少女だった。
「え?端野さん?」
「まずいわ!長介!その子から離れて!暴走してる!」
少女の様子がいつもと違うことに長介も感覚で分かった。恵子は離れろと言ったが今迂闊に動く方が危ない。長介は立ちすくみ、生唾を飲み込んだ。幸い少女はこちらを見ていない。少女はゆっくりと前に、触手に向かって歩き始めた。触手は先ほどまでの活発さが嘘かのように震えて動きを止めた。恵子も長介も少女も気づいていないが、今、肉塊から200本目が生まれようとしていた。来る200本目の誕生に備えて、残りの199本は自爆の準備をしているのだった。少女は動かなくなった触手のうちの1本に近づき、肉を掴むとそのまま肉をねじ切った。それを何度も高速で繰り返す。5秒もしないうちに触手は引きちぎれた。先ほど生まれたばかりの触手が生まれたが、1本減っているのでまだ、199本。まだ、触手は自爆の準備をしている。少女は触手を抱きしめた。そして、力を入れる。触手は圧力に耐えきれず、ちぎれる。それを、何度も繰り返す。触手は自爆の準備を止めて、少女に襲い掛かる。少女は時に触手の攻撃を避けて、時には触手の攻撃を受けながらも触手をあらゆる手で引きちぎり続けた。
「どうなってるんだ?」
長介は恵子を本の山から出して肩を貸した。恵子はなんとか立ち上がることができた。
「暴走してるのよ。多分、屋敷の外からもこの触手の姿は見えていたはず。暴走状態の時は動くものに反応してつぶすようになってるわ。だから、まずはこの触手がつぶされるのよ」
「そうなのか。でも、暴走状態とはいえ、この数の触手を相手にするのは無理なんじゃ」
「いえ、肉人形の暴走は恐ろしいわ。あちらの世界では暴走状態になった肉人形を止めるために数百人が死んだっていう話がある。この触手程度じゃあの子は止められない」
長介は少女に目を移す。既に触手の数はかなり減っていた。少女の動きをしっかりと捉えることは難しく、どこかに足をつけたら一瞬でどこかに移動していた。触手の攻撃は空振りに終わり、気が付けば数を減らされている。
「逃げるのよ。触手が終わったら次は私たちよ」
「さっきも言ったでしょ。こんなのを外には出せない」
「ちょっと!長介!あなたでもこんなのを相手に勝てるわけないわ」
「戦うんじゃない。話し合うんだ」
「はあ?暴走状態の肉人形と意思疎通できれば誰も苦労しなわ!もし手があるとしたらもう一度透明になって気づかれないうちに魂の写し鏡を破壊するしかない。それでも、上手くいくとは限らない。失敗すれば死ぬわ」
「落ち着けよ。恵子さん」
長介の声のトーンは何か策があるそのものだった。恵子は長介を信じてこれ以上口を出すのはやめた。10年の付き合いで分かる。長介には何か策がある。そうでなければ出せない声だ。恵子は長介に微笑んだ。長介も恵子に微笑み返した。長介の頭に策はない。何も思いつてなどいない。恵子を冷静にするための芝居だ。この時も長介は限界まで頭を動かしていた。どうする?説得?透明になって闇討ち?一度霧を吹いて姿をくらます?そのあとは?逃げ切れるか?言葉は通じるのか?頭を限界まで動かしても2人で逃げ切れるイメージが沸かない。そうしているうちに触手は最後の1本となっていた。触手大きく口を開けて少女にとびかかったが、少女が簡単に両手で止めるとそのまま床に叩きつけた。触手の叫び声が聞こえる。折れた牙が床に散乱している。少女が触手を足で踏みつけるとそのまま、少女の足は触手の肉をゆっくりと貫いていった。もうじき、少女の興味がこちらに向くだろう。長介は無意識に恵子を肩で支えたまま、後ずさりしていた。打つ手がない。長介は追いつめられていた。後ずさりする長介の足に何かが当たった。長介が目線を下に落とすと、そこには小さな丸い鏡が2つ落ちていた。鏡の周辺には奇妙な模様が施された縁がついていた。長介は鏡を拾った。
「それが、魂の写し鏡よ。あいつ予備で持っていたみたいね」
おそらく、先ほど触手から逃げ回っているうちに破壊された机の中にあったようだ。初めて見る魂の写し鏡は妙な美しさがあった。これが肉人形の核。長介は魂の写し鏡を覗き込んだ。
「長介!迂闊にその鏡に自分を映さないで!その鏡は映った者の意志に関係なく話した内容を記録するわ」
長介は鏡を手でふせた。
「打開策を思いついた。賭けだけどこれなら全員無事に帰れるかもしれない」
「打開策?聞かせてちょうだい」
長介は恵子に応えず、ふせいていた鏡を自分が映るように持ち直した。
「長介?!」
「私は肉人形だ!」
長介は素早く、鏡を再び手でふせた。
「どういうつもり?」
「暴走するのは自分の存在に疑問を持ち、それが処理しきれなくなってるからだろ?今、彼女は何かが原因で自分の存在に疑問を持っている。その疑問をこの魂の写し鏡で解消してやるのさ」
「あの子にそれを埋め込むの?1体の肉人形に2つの魂の写し鏡なんて聞いたことがない」
「失敗したっていう話はあるの?」
「ないわ。誰も試したことがないからよ。高価な魂の写し鏡をそんなことで無駄遣いできない」
「なるほど。成功するかもしれないということか」
「そうね。でも、仮に成功するとしてどうやって埋め込むの?あの子に近づくのは賢明じゃないわ」
「魂の写し鏡って肉地に抵抗なく入って行くんだろ?だったら、ここから投げればいいのさ」
「投げるって鏡を?無茶だわ」
「そんなにあの子との距離はない。10Mも離れてないでしょ。投げても届くよ。それにチャンスは2回ある」
「できるの?」
「こう見えても高校生まで野球部だったんだ。第一東高の野茂と言われてたんだぞ」
「野茂...?」
恵子はそれほど野球が詳しくなかった。2人が話しているうちに少女は背を見せて触手の元となっている肉塊を両手で真っ二つに引き裂いていた。
「そろそろこっちに来るな」
長介は支えていた恵子を降ろして投球動作に入った。高く両腕を掲げ、左足を高く上げて腰ごと捻った。
「待って!野茂ってコントロール悪い投手じゃなかった?」
恵子の言葉は耳に入らない。捻った腰を力いっぱい元に戻し、右足にためた体重を一気に左足へと向かわせた。左足が床を捉え、右手から鏡が放り出される。長介は勢いそのままに前のめりに倒れ両手を床についた。鏡は少女の方へと飛んで行き頭に当たった。恵子は手で口を覆った。長介はいきなりの全力投球で腰を痛めていた。少女の頭に突き刺さった鏡はゆっくりと飲み込まれていった。肉塊をちぎっていた少女の手が止まる。少女の体がぐにゃぐにゃと歪み始めた。少女の体は肩幅が大きくなり、身長も少し伸びている。髪も少し短くなった。少女が2人の方へと顔を向けた。その顔は先ほどまでの遠藤実咲の顔ではなかった。少し角ばり、幼さが抜け10代というよりも20代中盤のような見た目になっていた。そして肉人形にはどことなく長介の面影があった。
「私は肉人形なんですね」
少女の頬を涙が静かに伝っていく。長介と恵子は何も返すことができなかった。

3人は半壊状態の屋敷から出て、事務所へと戻った。その間、長介は肉人形に肩を貸してもらっていた。肉人形から話を聞く限り、自分が肉人形という自覚を得た以外は記憶は長介が鏡を投げ入れる前と変わっていなかった。魂の写し鏡は肉人形に後から追加で埋め込むことは可能だが、その際最初に入っていた鏡の影響は肉地には色濃く残り、追加された情報以外は何も変わらないという結論を長介は出した。つまり、遠藤実咲の魂を元にして作られた肉人形の中に少量の長介の魂が混入していることになる。見た目が長介に少し似ているのはそれが原因であった。長介は肉人形にこの事実と、肉人形になった経緯、元となった魂の名前、遠藤実咲を教えた。肉人形は困惑していたが暴走はしなかった。しばらく黙り込んで考えていたが、全てを受け入れ遠藤実咲を名乗る決断をした。翌朝、長介は渡辺飼育場で扉を借りると屋敷へ行き端野賢三の死体をあちらの世界へと遺棄した。その後永田に連絡し、事の顛末を隠すべきところを隠しながら話した。端野賢三は遠藤実咲を誘拐後殺害。その後、屋敷を解体中に自殺ということで処理されることになった。警察関係者や勘のいいマスコミは不可思議な点があることに疑問を呈していたが、探りようがなく諦めていった。長介と恵子は肉人形をどうするか話し合い、事務所の一員として迎え入れることにした。屋敷での一件から数日後、長介は肉人形と共に遠藤実咲の通夜が行われている会館へ向かった。長介と肉人形は遠藤実咲の通っていた塾の先生ということで中に入った。喪主である遠藤実咲の母親は大粒の涙をとめどなく流しながら参列者に礼をしていた。長介と肉人形は陰からそれを見ていた。
「あれが、君のオリジナルの母親だ。分かるかい?」
肉人形は黙って首を横に振った。
「そうか。さすがに母親の前に行ったら君が娘そっくりなことに気付くだろう。これ以上は行かずに帰ろうか」
母親はついに耐え切れず、膝から崩れ落ち大きな声を出しながら泣き始めた。夫に先立たれ、一人娘も殺害されて亡くした母親の気持ちは推して測れるものではない。2人は黙って会館を後にした。

アリドルメンダはハイになっていた。魂の写し鏡との交換で得た眼鏡10個をさらに交換して手に入れた緑の水も既に底をつきかけていた。目の前に白く細く美しい手が伸びてくる。アリドルメンダはその手を掴もうとしたが、手はアリドルメンダの腕をすり抜け首をわしづかみにした。アリドルメンダは呼吸ができなくなり、叫ぶこともできない。アリドルメンダの顔色が悪くなるにつれ幻覚から現実に引き戻されていく。アリドルメンダを掴んでいるのは美しい手ではなく、つぎはぎになった鉄くずだった。鉄くずの手の先にはさらに大きな鉄くずの塊があった。鉄くずの中からカメラのレンズが無数に飛び出てくる。
「アリドルメンダ~~~!!!!よくも俺の工場から魂の写し鏡をちょろまかしてくれたな!!!!!こんなナメた真似をされて俺が黙っているとでも思ってたのか!?」
鉄くずから機械で作られた合成音声が聞こえてくる。アリドルメンダの首を掴む鉄くずがさらにきつくなりアリドルメンダはバタバタと手足を動かす。大きな鉄くずの周りには武器を持った生物10数体がいつ自分の出番が出てくるのかと待ち構えていた。
「でも!!!!俺は優しいからなあ。一度だけ言い訳を聞いてやる」
鉄くずはアリドルメンダを放した。アリドルメンダは喉を抑えながら数十秒ぶりに呼吸を行った。鉄くずの名前はレプリカ。言い訳を話してもどうせ殺される。アリドルメンダはできれば取っておきたかった奥の手を使うことに決めた。
「言い訳はぁないわぁ」
「そうか、じゃあ」
レプリカが手下の生物に合図を出そうとする。
「待ってぇぇぇ!不読の書について知りたくなぁい?」
「不読の書だと?!」
レプリカがアリドルメンダに詰め寄る。
「詳しく話せ」
「うふふふふふふふ不読の書を読んだ人間を知ってるわぁ名前はぁ大原長介ぇ彼ならぁ不読の書がどこにあるか知ってるわぁ」

肉人形

肉人形

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-08

Copyrighted
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