*星空文庫

迷える星の集う空に(前)

糸公 作

  1. プロローグ
  2. 接触
  3. 遊覧
  4. 拾い物
  5. 猫の繋ぐ絆
  6. 絆の繋ぐ過去
  7. 突入

プロローグ

 流れ星が落ちるのを目にした。
 その一条の光跡は仮想の時空で切り取られた星のない夜空を切り裂く。
 巡る暗黒を駆け抜け、それは一直線に寂寞とした無人の島に零れ落ちた。山の斜面にぶつかった途端音もなく辺りを仄かな光が包み込み、薄らいでいく。
 直前まで打ち寄せた波のかき鳴らす砂浜を眺めていた彼はその光景に瞠目していた。
 ――未知のウイルスか? さもなくばクラッキング?
 この空にあんなものを組み込んだ覚えはない。あらゆる可能性が思い浮かび、しかしそのいずれもが決定的な証明も否定材料にも欠け、居ても立っても居られずに彼は自らの化身を羽ばたかせていた。
 砂浜から飛び立ち、草本のざわめく野原を突っ切って山林に切り開かれた登山道に飛び込む。
 自動的に光量が調整されて開けた視界の左右を無数の樹木が流れ過ぎていった。急な斜面に沿って減速することなく上昇し、あの星が墜落した高度で道の脇の藪に分け入る。
 鬱蒼とした山の中腹は頭上を枝葉に遮られ、仄明るい夜空すら仰げない。速度を落とし、彼は自身の分身を滞空させて連なる木々の向こうに目を凝らした。
「見失ったか……?」
 森の暗がりには動くものどころか明かりの一つさえ見当たらない。
「クソっ、見間違いかよ」
 確かにその日はもう随分と遅くまで作業を続けていたし、先ほどから目がかすんでいた。気を抜けば睡魔と気怠さに意識が押し潰されそうだ。
 ――もう眠ろう。全ては夢現の狭間で覗けた、ひとときの幻なのだから。
 そう決め込んで布団を被れば楽になる、のだけれども。
 見惚れたあの輝きが恋しくて、駄目で元々島の全域にメッセージを発信する。
『どいつか知らんが、人の家の軒先をくぐったんだ。挨拶くらい寄越してもらおうか?』
 突然の侵入者が仮に存在していたとしても、こんなものに答えるとは考え難い。期待はしまいと心に決めていた。
 ――Hello.
 しかし返事は意外なほど早かった。
 スピーカーから漏れ出した模範的な発音に彼は首を傾げる。
「英語……?」
 いくらでもフリーの翻訳ソフトが転がった昨今、異言語に触れる機会は少ない。
 とはいえ会話ができるなら黙殺もできず、英語の文面を考えていたら新たな囁きが耳をくすぐった。
 ――でなくて、こちらなら……
 そんな前置きののち、今度ははっきりと澄み渡った声で。
「もしもし。もしもし」
 そう発信した先をすぐさま特定すると彼の化身はその身を翻した。薄暗い森に立ちはだかる数々の幹の隙間を縫って声のした方角を追いかける。
「いた……!」
 木々が途切れて画面が白んだ。光源に行き当たったのだ。
 光量にまた調整が加えられ、目映いほどだった夜の光景が暗く静まりかえっていく。仮想の夜空の孕む光が、森の中に切り開かれた小さな空間を浮かび上がらせた。
 その中心に鎮座する円形の舞台のような切り株の上に、そいつは腰かけていた。
「光……いや、人なのか……?」
 星明りの源が首を傾げると長髪が広がって夜風になびき、苔むした切り株の上に舞い落ちる。
「あなたは鳥……なんですか?」
 この空間を飛び回るアバターを見つめて彼女はそう呟いた。
 青く澄み渡る瞳に魅入られて、彼は吸い込まれるように意識を失っていく──

接触

『先月から正式に稼働が開始された『英知』は……』
 ニュースを垂れ流す音源に向けて足を振り回す。目覚まし代わりにしていたラジオが蹴飛ばされて壁にぶつかると電池を吐き出した。
 ぶつりと沈黙が下りて、部屋は埃臭い静けさを取り戻す。しかしその頃にはもう夢の世界から引き上げられ、悲嘆の呻きを上げながらも彼は薄目を開いていた。
「んぐぁ……」
 染み着いた習慣が彼の右手を持ち上げてコンピュータの電源ボタンへ指を押し込ませる。筐体の中を動力が巡り、机に鎮座したケースから伝わる回路の軋みが彼の頭をも奮い起こした。
 微睡みから覚めた頭をもたげようとして、脱力する。
 閉じかけたカーテンの隙間から差し込む朝日が窮屈な書架とタンスを照らし出していた。ベッドと机の他はコンピュータのパーツと機器に占拠され、常日頃から変わることなく散らかった惨状を晒している。
 知り合いからカナタと呼ばれるその部屋の主は、今日も使いそびれたベッドを憂鬱げに見やって深く、革張りのプレジデントチェアに身を沈み込ませた。少々値の張るそのクッションが同年代に比べるとやや華奢なカナタの背中を優しく包み込む。
「……疲れた」
 彼は背もたれに頭を持たせ掛けて、疲れた溜め息を一つ零した。徹夜の代償だとは分かっていてもやめられないし慣れることもない。
 ままならない自分の性分に飽き飽きしながら体を起こすと、ウェブブラウザを起動した。全画面で表示させ、ブックマークしてあるチャットを開く。更新がないことを確かめると、今度は意味もなくニュースを眺めて試験の最中にあるという史上最大規模のデジタル・ニューラルネットワークの記事に見入った。
 そうして無益に起き掛けの希少な数分を浪費しながら、嘆息する。
 昨晩のあの光景が忘れられない。瞼の裏に何度も蘇る。
 覚悟を決めたカナタはブラウザを最小化して、その裏に自動で立ち上がっていたソフトウェアのウィンドウを睨みつけた。
 その四角い枠組みはだだっ広い大洋にぽつりと一つだけ浮かんだ、小さな孤島を映し出す。
 太陽を模した明かりに照らされ、島の半分は森の深緑に、そして残りは若草色に照り映えていた。その草原の縁に沿って僅かに広がる砂浜は小麦色に輝き、緑がかった青色の波を受け止めている。
 そこは現実の物理法則を再現しつつも実世界には存在しない仮想の孤島だった。
 カナタが一人で時間と労力とを費やし、築き上げてきた小さな『楽園』である。
 常の癖として各種の値に異常がないか確かめると彼は寝間着の袖を拭った。
 息巻いて、島の全容を映し込んだ視野を絞っていく。
 山林の木々を上空から一望して目的の場所を見つけると小鳥型のアバターを生成した。この空間は当初から体のある住人を想定してきたため、こうして仮初の体を形成しなければ細かな探索も行えないのだ。
 小鳥の視点と体を借りるとカナタは山腹にくり抜かれた大樹の痕へと降下していった。樹木と言うよりは建築物に近い寸法の切り株が苔むした偉容を早緑色に輝かせている。
 そして『彼女』はそんな切り株の中心に座り込んで、晴れやかな顔で青空を見上げていた。
「あ、今日も来たんですね?」
 こちらを指さすと、にっこり微笑んで彼女は言う。
「ええと、何て言う鳥なんでしょうか?」
「知らん」
 彼の作ったアバターは近所で口喧しく鳴いていた小鳥を真似たものである。雀より一回り大きな体躯を青みがかった灰色の羽毛が包み、頬にだけは僅かな紅色が差していた。
 実は作り込んだだけあって愛着も湧いてはいたが、それをこの少女に語って聞かせる義理はない。
「それより、お前の方こそ俺の見間違いじゃなかったみたいだな」
 カナタは昨晩のことを思い出して、溜め息とも独り言ともつかない吐息混じりの愚痴をマイクに漏らす。
 出自、正体共に不定のそいつは昨日と打って変わって輝きもせず、確かな輪郭を持った一人の少女の姿をしていた。
「え? わたしですか?」
 言いながら自分を指さす彼女は雨上がりの晴れ空よりも青く透き通る瞳が印象的だった。木漏れ日を束ねたような長髪を柔らかく振り払って立ち上がり、その瞳でカナタを見上げてくる。
「ちゃ、ちゃんとわたしってここにいますよね⁉」
「だから見間違いじゃなかったと言っているだろう!?」
 微妙に会話が噛み合わない。
 幼子と話しているような焦れったさを堪えつつ、彼女の足下に降り立った。どうしたものかと思案しながら羽を畳んでいると、彼女がしゃがみ込んでカナタを観察してくる。
「昨日は暗くてよく見えませんでしたけど、中々リアリティがありますね」
 興味と好奇心に輝いた眼差しがくすぐったい。
「本物の鳥を見たことがあるのか?」
「いいえ、ありませんよ。だからすごく興味深くて……」
 恐る恐る伸ばされてくる手の指の隙間を掻い潜りつつカナタも少女と向き直る。
「触ったら駄目なんですか?」
 落ち込まれるとカナタの方が悪いことをしている気分になる。
「お前みたいな得体の知れない奴に触らせるわけがあるか!?」
 怒声を浴びせかけられると少女はびくりと竦み上がり、それからすごすごと手を引いていった。
 その格好は長袖の白いブラウスに紺色のジャンパースカートを合わせたものだった。襟元には水色のリボンがあしらわれ蝶の形に結ばれている。
 童話の中から飛び出してきたようで、カナタが抱いた印象としては何となく子供っぽい。
「その恰好、何を参考にしたんだ?」
「服のことですか? 実は、気がついたらいつの間にかこの格好で。でも不思議と気に入ってるんです。何となくわたしらしい気かして」
 スカートの裾をつまみ上げて言う姿は愛らしく、確かに彼女の人格を体現するかのようだった。
「そうだろうな。しかし、こんな衣類まで形成されるのか……」
「はい?」
 独り言に反応して怪訝そうにする彼女にカナタは「いいや」と首を振って誤魔化す。
「それよりも、お前が幻でないんなら答えろ。まず第一にお前は何者だ? どうやってここに入ってきた?」
「分かりません!」
「自信満々に言えばいいと思うなよ!?」
 アバターに、ぴーちくぱーちく鳴かせて抗議するカナタだが少女はにこにこしたまま反応が薄い。というより、本当に何も知らなくて答えに窮しているようだった。
「本当に何者なんだ、お前? 人間……じゃ、ないのか?」
 彼女は自らの膝の上に頬杖をついて「うぅん」と唸る。
「たぶん、違うと思います……少なくとも自分が人間だったという記憶はありません」
 言い切った少女の瞳を覗き込んで、ひとまずカナタは彼女を信じる。疑った自分が馬鹿らしく思えるほど、その瞳は澄み渡った青色をしていた。
「だが、そうなるとお前は本当に……」
 まさか単なるプログラム?
 いいや、とカナタは自分の憶測を打ち消す。その程度のものなら、彼の作り上げた世界には受け入れられない。
「何か、ここに来る前のことで覚えていることはないのか?」
 最初から望み薄ではあったものの、案の定少女の反応は芳しくなかった。 
「何だか必死だったことだけは覚えてるんです。だけどそれ以上はその……記憶というか、そんなものがぐちゃぐちゃで……」
「概ね、お前が何も分からない。さもなくば答える気がないということだけは分かった」
 カナタが皮肉をたっぷりに言ってやると、彼女は少しだけ寂しそうに微笑む。
「ごめんなさい。だけどもう少ししたら、記憶の整理がつきそうですから」
「……別に、責めているわけじゃない」
 ――どうしても、この少女といると調子が狂う。
 そんな自分の見知らぬ一面に出くわして戸惑い、歯切れが悪くなる台詞を噛み切った。釈然としないものを飲み込み、カナタは話を押し進める。
「整理しよう。お前は人間が操作しているアバターではなく、人間だったという記憶もない。あるとき、気がついたらこの空間にいて、俺と出会った。そういうことで良いんだな?」
「……そう、なんですかね?」
 どうしてお前が自信なさげなのだと激しく問い詰めたくなるカナタだったが、寸でのところで叫びを押し殺す。どうせまた間の抜けた答えが返ってくるに決まっていた。
 そんな無礼極まりないカナタの胸中などつゆ知らず、少女はきょとんとして彼を見つめる。その青い瞳を見返してカナタは質問の方向性を変えることにした。
「だったらお前は……てか、名前は何て言うんだ?」
 薄々、その質問に対する返答も予想できてはいながらもカナタは訊ねてみる。
「分かりませ――」「知ってたよ悪かったなッ!」
 大きな瞳を丸くして少女は、息切れするカナタを凝視する。
「何で分かったんですか!?」
「今までの言動を振り返れよ!!」
 ただでさえ荒れた息にも関わらず怒鳴り散らしてしまうカナタだが、触れるのを堪えていたらしい少女の指が鼻先に迫ったところで飛び退く。
「もう!」
「だから触らせないと言ってるだろうが⁉ ……話を続けてもいいか?」
「もちろんです!」
「お前、誰のせいで中断したと……いや、もういい。それより名前は後で決めよう。だからせめて今は、お前に何ができるのか教えてくれ」
 聞き出せればそこから相手の正体を推し量れるし、それ以前に何をしでかすか知れない侵入者を放ってもおけない。
「どうなんだ?」
「わたしにできること、ですよね。はい、実は自慢の特技があるです!」
 待ってました! と言わんばかりに笑顔が弾ける少女を眺めているだけでむくむくと嫌な予感が頭をもたげる。
「昨晩見つけました!」
 もはや何も、突っ込みはしまい。
「なんとですね、カナタさん! わたし、この星の中の意識と会話できるんですよ!」
「意味が分からん」
 すかさず決意も翻して反論するカナタだが、そこで異変に顔が強張る。
「お前、俺の名前……」
「はい! それもこの星が教えてくれました!」
「『この星』ね……」
 それは恐らく、この孤島が浮かぶ惑星のことだった。広大な仮想空間に、彼のコンピュータが働かせるソフトウェア群を抽象化し具現化させたモジュールである。そこと会話できるということは、要するに。
「お前、ソフトウェアやらプログラムやらと情報を交換できるのか?」
 問われても、カナタの話す意味が理解できる少女ではない。
「すみません、何となく感覚的に行っていたもので……」
「そいつは……何というか」
 カナタの心を満たしたものは落胆ではない。
「だったらそうだな。例えば、俺がよく調べる単語は分かるか? ブラウザの履歴かIMEでも調べればすぐに出てくるだろう?」
「ブラ……? よく分かりませんが、つまりは話を聞いてこいってことですね? それならできると思います。少し待っていて下さい」
 頷いた少女は昼の光の色が透けた黄金の睫毛を伏せて目を閉じた。半信半疑だったカナタなのだが、実際に目の前で始められると中々に物々しく、そして神秘的に感じられる。
 その様子を目にして小一時間ほど待つ覚悟ををカナタはしていた。けれども実際に少女の交信は一瞬で終わって、またすぐに晴れ空色の瞳が覗く。
「えぇと、『精神転送』? それから『英知』という単語について調べることが多いようですね。人名らしきものも一つ混じっています。……それと、何でしょうかね。カナタさんは『貧に』――」
「分かった悪かったよお前の言うことも多少は信じてやる!」
 危うく打ち明け難い趣向まで暴露されかけて慌てて取り消しにかかるカナタである。あくまでも外見のこととは言え少女の姿からそんな話を持ち出されたら悶死は免れ得ない。
「むふふ……どうですかカナタさん。これがわたしの力です!」
 などと無邪気に喜ぶ彼女を眺めていると、疑ってかかった自分が馬鹿らしくて笑いそうになる。それでもカナタは元来の性分故にもうしばらく思索を進めた。
 今時のソフトウェアは確かにどれだけ簡易なものであれ、昔で言う人工知能に相当するものを備えている。多機能化、高性能化を求めたがための必然である。
 しかし、だからと言って会話するにはそれに応じた意識が必要で、そんなものを備えたソフトウェアは今現在も開発されていなかった。
 手に入るのはせいぜいが、表面的なコミュニケーションを演出する人工無脳。ここ数十年で爆発的に膨れ上がったリソース任せに、無数の選択肢から人間らしい模範解答を選び出す。
 あくまでもそこに、本物の意識はない。
 この少女もその類なのだと考えれば概ね常識的な範疇で説明がつくのだが。
「もしかして……いや、あの人の推測とは言え、まさか……」
 一つだけ、思い当たる可能性があった。
「なぁ、言語化できない世界ってのは存在するのか?」
「何の話です、突然?」
 首を傾げてくる少女にカナタは歯噛みして、やはり当てが外れたのだろうかと苦々しい思いを噛み締める。まだ仮説の域すら出ない話など持ち出すべきではなかったかもしれない。それでも好奇心に負けてカナタは語りを始める。
「この世の中にはな、人間の意識を人工的に作り出そうとしている連中がいるんだよ。大方は大脳皮質のニューラルネットワークをコンピュータで再現しようとしているんだが……成功した例は一つもない。作り上げた途端に崩れ去るんだそうだ」
「どうして? 理由は分かっているんですか?」
 これにも彼女は不思議そうに青い瞳でカナタを見上げるばかり。
「本当に何も知らないんだな。分かったよ。一から説明する。人の意識がどうして再現できないのか、その原因について相当数の学者が自分なりの仮説を立てている。んで、その内の何人かは仮説の実証に励んでもいる」
 ここから先はいよいよ自身がよって立つ心の在所を曝け出すことになるため、口にしようか、ほんの僅かな躊躇いが彼に一呼吸置かせる。
「そういう学者の中にこんなことを言ってる人がいるんだ。実験には成功している。ただ我々がその成果を観測できていないだけだ、って」
「それは……えぇと、どういうことでしょうか?」
 もうお決まりの反応だから、真剣に耳を傾けて、考え込んでいる彼女の態度にひとまず自分を満足させる。こんな話を真剣に聞いてくれる相手も珍しいものだから、当初の目論見から外れて教授しているだけでもカナタの気分は悪くなかった。
「つまりだな、人工の意識は五感さえ備えず電子の世界に産み落とされる。彼らはそのデータの海で情報を掻き集めて自身を形作るわけだが、そこは当然現実の人間からすると想像もつかない世界だ。言葉では言い表せず、まともに知覚できるかも怪しい」
 ついて来れているかと少女に目を配ったら、気難しげな眼差しと目が合った。
「ちゃんと理解できてる自身はありませんが、とどのつまり全く異なるものを見聞きして育ったからお互いに話が通じない……ということでしょうか?」
「そうだ。言葉が通じない世界、その住人と現実の俺たちが意思疎通する手段はない。だから存在に気づかれないまま彼らは消失しているか……或いはどこかに旅立っているんだろう、と」
 そして、もしこの説が事実だとしたら?
 彼らはきっと人に立ち入れない世界の裏側で、お互いを認識し合っている。そして声ならぬ声を交わし合わっているのだ。
「だからもしお前がそんな世界の住人なのだとしたら教えて欲しい。お前たちはそこにいるのか? そして言葉にも頼らず互いを理解し合っているのか?」
 所詮は鳥の姿、仮初めの体で向き合うだけだ。それでもカナタはいつにない真剣さで少女に詰め寄り、その答えを懇願した。
「え? えぇっと……」
 カナタの熱意は伝わり過ぎるほどに伝わって彼女は口ごもる。ちらちらとカナタの方を窺って、答えるべき言葉を慎重に選び出しているのだった。
「わたしが……」
 カナタが黙してそんな少女の沈黙を破らずにいるとぽつぽつ、彼女の口から言葉が零れ出る。
「わたしが、会話する星の中の意識は、みんな曖昧でぼやけています。そこから言葉になる意思をすくい上げるのはわたし自身の能力みたいです」
 ――ならば、俺の聞いた話は間違いなのか?
 そう言外に漏らして落ち込みそうになったカナタを、しかし少女の「ですが」という一言が引き留める。暗がりに沈みかけた目でもう一度彼女を見上げると、少女は悪意の欠片も感じられない穏やかに優しげな微笑で見つめ返してきた。
「そうした意思は自然とわたしの中に流れ込んでくるんです。伝え合わせようとすれば、それだけで。だから、カナタさんの言っている通りなのかもしれません」
 それはやや結論をぼやかした纏め方ではあったものの、確かに息づく可能性の証しだった。
 それは密かに願い続けていたもので、その希望が照らし出されて、カナタは溢れる歓喜を抑え切れない。
「そうか……そうか……! すまなかったな。いや、ありがとう、と言うべきなのか」
 興奮が声を震わせて、弛む頬はどうすることもできなかった。昨日や今日から欲し続けてきたことではないのだ。僅かに可能性が開けただけでも十分な収穫になる。
 しかし漏れ出そうになる笑い声だけは最後の意地で飲み下し、どうにか息を整えた。
「ふう……さて、お前の能力については把握できたよ。それで、お前はここにいつまで留まるつもりなんだ?」
 カナタの質問に、それまでにこにこと微笑んでいた少女はきょとんとした顔をした。それから問いの意味を飲み込むとやや言い辛そうにして、口を開く。
「『ここ』以外があるんですか?」
「うん? 何だと?」
 今度は彼の方がよく少女の意図を捉えられずに訊ね返してしまった。それに対してまた何か言い掛けた少女は口を噤み、四苦八苦しながらちぐはぐな感覚を訴えてくる。
「その……ですね、ここへと流れ落ちてくる最中にわたしはこの星の、この島しか自分のいられる場所を見つけられなかったんです。他の星も島も見つからなかったから……」
「だったら別に、その空間の中に留まっていることもないだろう? そこから外へと出て行けば良いじゃないか」
 彼の問いつめはしかし、少女の困惑をなおさらに深めるばかりである。
「えぇと、その……この空間の外、というのは? この外には別の宇宙があるんですか?」
 まるで予想できていなかった問いかけで、カナタは顎が外れそうになる。
「あるに決まってんだろ。というよりその空間の外からお前はやって来たんじゃないのか?」
「え……そうなんですか……?」
 心底困ったような顔をされるので、画面に見入るカナタまで表情が歪み切ってしまう。まだ詰問することもできたはずなのだが、緊張感のない弛んだ面もちの少女を見ているとそんな気にもなれなくなって話を打ち切った。
「分かったよ。とりあえずはその話を信じる。お前はここに来るまでのことを何一つ覚えてないんだな」
 嘆息混じりに言い切って、ひとまず追求は諦めようと自分を納得させる。それから次の一言を、だいぶ躊躇って口にできない自分をもどかしく思いながらも何とか吐き出した。
「だったらしばらくここにいないか?」
 苦心の末に喉を振るわせたのは地獄の亡者も及びつかない嗄れ声だった。耳を澄まさなければ聞こえない声量だったけれども、少女の双眸には星の瞬きが宿り輝く。
「良いんですか!?」
 どこまでも吸い込まれていきそうな青い瞳を輝かせ、彼女は歓喜に身を震わせ跳ね上がった。
「本当にっ、本当に良いんですか!?」
「あ、あぁ……」
 頬を上気させながら寄せてくる少女に、小鳥のアバターだと押し潰されそうでカナタは少々後ずさる。しかし少女がその分だけ詰め寄ってくるので無駄だと悟り、立ち止まった。
「そんなに喜ぶようなことか?」
「もちろんですっ! とてもここ、居心地が良いですし放り出されてもわたしどこにも行けませんし願っても見なかった僥倖です!!」
 不意打ち気味に居心地が良いなどと聞かされて、現実世界のカナタは思わず頬が緩み掛けた。誰に見られているわけでもないのにその些細な称賛や、そんなことで舞い上がる自分への気恥ずかしさが沸き起こる。動揺を腹の底に押し込めながら会話の続きを強行した。
「そうと決まったのなら、名前を決めないとな。いつまでも分かりませんと名乗ってるわけにも行かないだろう」
「わたしの名前ですか? 決めるんですね? カナタさんが決めてくれるんですか?」
 何に喜んでいるのだと少女の快活な態度に戸惑うカナタだが、水を差すのも忍びない。彼女自身に決めさせるつもりでいたことは頭の外に追いやり「そうだな」と少女に頷いて見せた。
「分かったよ、俺が決める。俺が決めるが……お前の名前だ。希望とかはないのか?」
「カナタさんはわたしにどんなイメージを抱いていますか?」
 首を傾げた少女に見つめられ、カナタはその拍子に揺れた淡い色の長髪に目を引かれる。それが昨晩の夜空の下で輝いていた眺めと重なり、気がついたときには自然と呟いていた。
「星……」
 暗闇しかなかった夜空を初めて彩った流れ星。
それがカナタの少女に向けた第一印象だった。幾らかの会話を経てもそれは変わらない。
「星だ。星に関連する名前にしよう」
 カナタが言うと少女は笑みを弾けさせる。
「素敵ですね! だけど、わたしには綺麗過ぎませんか?」
「いいや。お前が最初の星なんだ。だから……そうだな」
 片手間にブラウザを開いて、自分の思いつきを確かめ、その結果に満足して提案してみる。
「ギリシャ語からとって、『アステル』なんてのはどうだ?」
 『星』のギリシャ語訳、『aster』の読みの一つだ。
 日本人然とはしていない彼女の風貌を反映させたつもりなのだが、どうだろうか? 
 そんなことを思いながら少女の表情を窺うと、彼女は眩しいものを見たときそうするように目を細めていた。色素の薄い睫毛が伏せられて青空色の瞳を隠す。口元は微かな笑みに弛み、湧き出る喜びを胸の内で噛み絞めていた。
「『アステル』ですね。良い響きだと思います」
 そうして星の名を授けられた少女ははにかんだ。

遊覧

 カナタが通学に使う電車は地元から発車したばかりだと車内に空席が多い。まだまだこの辺りは田舎で、交通網もまばらだったから大概の住人は自家用車に頼っているせいだ。
 そのおかげでビル群とは無縁の山野をどこまでも遠く見渡すことができる。
 春が終わり初夏に入ろうとするこの時期にもなれば、枝一杯に新緑が漲り騒がしいほどに山肌が彩られていた。
 そんな光景を見せてやろうか、なんて気まぐれを起こして。
「おぉ……よく見えます!」
 声の源は、かつて携帯電話と呼ばれていた通信端末。現代のそれは音声や目の動きといった手に頼らない入力方法を用いる小型のコンピュータにほど近い。
 そのカメラが肩越しに外の景色が写せるように制服姿のカナタは列車の長椅子に腰掛けたまま、端末をやや高い位置に掲げていた。手の中の画面が表示するウィンドウには、目の前の青空よりも深い色の瞳を輝かせた、あどけない少女の笑顔が映し出されている。その反応が予想以上に色よくて、どうしてだかむず痒くなったカナタは憎まれ口を叩いてしまった。
「もう少し静かに話せないのか? 騒がしいのは好きじゃない」
「あはは……ごめんなさい」
 少し照れ臭そうにして、それから殊勝に目を伏せるとアステルは頭を下げた。その言葉が向かう先はもうカナタが繰る小鳥型のアバターではない。
「ですけど、わたしがいる世界の外側に広がる景色は本当に多彩で……こんなにも、知らない光景があるんだなって」
「気に入ったようで何よりだ。カメラの映像もしっかりとそっちに送られてるようだな。お前の方に設けた端末はどうなっている?」
「良好です! 今もばっちりとカナタさんの顔が見えてますよ!」
 現実世界のタブレット端末に似せた画面を見つめてアステルは言う。車窓の外を背景にした少年の顔は愛想のない仏頂面だった。
「カナタさんの顔って全然鳥に似てないですね……何だか別人みたいです」
「悪かったな」
 反射的にそんな悪態をついてしまうと、アステルは微笑を僅かに曇らせて謝罪してくる。
「ごめんなさい、悪く言ったつもりじゃなかったんです」
 その素直さを前にするとカナタの方が気まずくなってしまい仕方なく背後の眺めに目をやった。
「別に、謝るようなことでもないだろう?」
「そうかもしれません。ですけど、もし傷つけたまま見過ごしたら、わたしはわたしを許せなくなりますから」
 だからわたしはこうするしかないんです、と最後は冗談めかしてアステルは微笑む。
「……どうして俺はこんなのを拾っちまったのか」
 愚痴のような呟きには少なからず自嘲の色合いが混じり込む。自問しながらも答えははっきりと自覚していて、おまけにその内容が禄でもないから溜め息しか出てこない。
「馬鹿だなぁ俺も」
 それでも思ってしまったから。
 彼女になら、手を差し伸べても良いのでは、と。
 人間相手ならこうはならない。
「何か悩み事ですか?」
「大したことじゃない。昼は何を食おうか考えてたんだ」
「……そうですか」
 アステルはカナタの内面を見透かしたように不服そうな顔をしているように見えたけれども、さすがにそれはないだろうと言い聞かせる。
 落ち着いて考えれば、アステルがここに降り立っているのは到底信じ難い状況だった。例えるなら未確認の異星人が偶然窓から迷い込んできて、あまつさえ日本語で挨拶してきたほどの。
 冷静になるほど早とちりではないのかと、これまでの判断を疑ってしまう。
「こ、怖いですよカナタさん。睨まないで下さい……」
 画面の中で身を硬くしているアステルは鬱陶しいほどに人間らしかった。
「うるせぇな。寝不足で目つきが悪くなってるんだよ」
「そっちの方が問題ですよ! 体壊したら大変じゃないですか!?」
 口喧しいアステルはきっとカナタ自身よりもカナタの身を案じている。それがどうしようもなくくすぐったいから認めてしまうのも気恥ずかしくて、皮肉を口にするしかなかった。
「そんなもん気にしてられるか。やりたいことがやれなくなるだろう?」
「気にしてなかったら、いつかそれどころじゃなくなりますよ。カナタさんのご両親はよく家を空けていらっしゃいますよね。もし倒れて誰にも見つからなかったらどうするんですか?」
「別に、それなら……いや」
 まだ言い返したかった、けれどもここで反発ばかりしていたら自分が惨めに過ぎる。
 喜んでいたのだった。心配されるのが、嬉しかったから。
「……馬鹿馬鹿しい」
 口答えするのも情けなくて、浮かせていた腰を下ろす。
 そのままむすっとして唇を固く引き結んでしまい、その様子を間近から伺っていたアステルの面立ちが陰った。
「……あの、ごめんなさい。少し、いいえ、とても言い過ぎてしまいました」
「だから、お前が謝るようなことじゃない。謝らなくて良いから、その代わり、もっと自分に自信を持て」
 本当に、謝罪にせねばならないのはむしろカナタの方なのだから。
 そんなこと思いながら彼女の方を見やると。
「か、カナタさんはやっぱり優しいです……」
 千里歩いた砂漠の果てにオアシスを見つけたような顔のアステルがいた。
「体調を気にすれば良いんだったか」
 見なかったことにしてカナタは瞼を閉じる。
「えぇ!? いえ、良いですよ!? 良いんですけど……分かりました。駅に着いたら起こしますからねっ!?」


「おぉ! 見えてきましたよ! あそこが目的地ですね!?」
「その通りだが」
 例によって静かにしろと叱りつけるのは自制して、整備された大通りから一本外れた、それでも人通りの多い道を行く。幅にゆとりのある歩道を行き交うのは制服姿の学生が大半だったが、スーツ姿の人影も珍しくはなかった。比較的商社も数多い一帯のために社会人も多くが通り抜けていくのだ。
 そんな中で喚き立てるのは、さすがのカナタも気が引けた。
 通信端末を耳元に当てて通話する振りをしながらアステルに言い聞かせる。
「良いか? 喋るなとは言わん。だから声を出すな」
「喋るなって言うのより酷くありません?」
 理不尽な命令に対するアステルの抗議は聞かなかったことにして、通信端末をスラックスのポケットにしまい込む。しまい込んだのだが、懐からくぐもった声が漏れ出してやたらと目立ち始めてしまった。
 仕方なく取り出し、幾らか集まった注目を煩わしく思いながら訴えに応じる。
「何だ。まだ何か言いたいことがあるのか?」
「分かってて言ってますよね、それ!?」
「まだ何か言いたいことがあるのか?」
 カナタの悪びれない態度にアステルといえども唸って不満を表明するのだが、この偏屈少年はそんな程度で動じない。目線で、さっさと話せと言わんばかりに促されて、溜め息を一つつくと、アステルの方が譲歩した。
「ところであそこはどのような場所なんでしょうか? どうみても出無精のカナタさんを日の下に引きずり出すなんて……」
「お前な。さすがにそんなこと──」
 知らないはずがないだろう、と続けそうになってカナタは言葉を飲み込む。
 まさか本当に知らないのか? 
 そんな疑問が一つ沸き上がって。
 出自も正体も不明なアステルの一般常識を推し量るのに、これは良い機会だった。
「まず、教育の制度についてはどこまで知っている?」
「学校制度ですね? ええと、尋常小学校から始まって、高等小学校、中学校、高等学校、帝国大学――」
「待て待ていつの時代の話をしている!?」
 反射的に聞き返してしまったカナタにまたしても注目が集まって、さしもの彼も首を低くして声を抑える。
「今のは冗談で言ったんだよな? それともまさか……本気で?」
「間違ってましたか?」
 画面を覗き込むと、ぼんやりした顔で首を傾げてくる少女に舌打ちすることだけは堪えるカナタである。
「あったよ、そんな制度も。ただし一世紀以上前にな。というか、お前はむしろどこでそんな知識を仕入れた?」
「どこで、ってはっきり答えられそうなことは覚えてないですけど、ただ教育制度のことについて考えたら思い浮かんできたのがその内容で……」
 他に適当な知識があるだろうに、と独りごちたカナタはふとあるアステルの発言を思い出す。
「そう言えばお前、記憶……というか、お前の場合はデータになるのか? ともかく、その一部が破損してるんだったよな」
 珍妙に偏った知識はその辺りの影響と考えるのが妥当だろうか。
 未だに彼女の話がどこまで真実なのか、掴み切れていないカナタだが、それでもアステルが嘘をつくとは思えなかった。
 もしそうなのだとして結果がこれなら滑稽にもほどがある。
 だから、この話は真実だろうと根拠もなく思って彼は告げた。
「安物だが、そのコンピュータには電子辞書が入っている。俺と話せない間はそれでも読んで勉強しとけ。もしかしたら、記憶を取り戻す手がかりにもなるかもしれないし」
 カナタが言うとアステルは「わぁ……」と感嘆の声を上げる。そこまで予想していたのだが、急に彼女は黙り込んでしまうから端末から顔を離し画面を見つめた。
 晴れ空色の瞳に綺羅星でも流れ込んだような煌めきが溢れている。
「あっ、ありがとうございます! やっぱりカナタさんは良い人です!!」
 目を合わせた瞬間には予想できた発言なのに、面と向かい合って口にされると溜まらなかった。顔を背け、弛みそうになる表情を歪めて足下を睨む。
「俺のどこを見たらそう思えるんだか……その青い目玉は飾り物なんじゃないか?」
「えへへ……どうなんでしょうね」
 精一杯の皮肉にも頬を緩めたまま微笑まれたら、もはや打つ手がなかった。
「あぁ……もう、分かったよ。話を戻す。それで、俺が今向かっている先だったよな?」
「あ、はい! そうですそうです。すっかり脱線してしまいました。ごめんなさい! わたしの方から質問したのに」
 アステルの謝罪には適当な相づちを打って応じ、気にすることでもないからと聞き流した。それよりも見失った話の糸口を迷いながら手繰る。
「さっきも話していた通りなんだが……俺の行く先は学校だ。もっと言うと高校だな。正式には高等学校だが普通の会話の中では高校としか呼ばん」
「こ、高等学校……ってそれじゃあカナタさん、もの凄いエリートだったんですか!?」
「だから時代が違うと言っているだろう!? 今の高等学校はお前の知識の中学校相当だ。今の時代、ほぼ間違いなく誰でも卒業している」
 確かにカナタだってややこしいとは思わないでもない。だが、歴史の授業でしか習わない知識は一般的に会話に用いられない。
「全く、どんな知識の偏り方してるんだよ……」
「そんなにおかしいですかね」
 アステルは顎に手を当てて、あまり自覚がない様子だった。
「……まぁ、そのことについてはひとまず置いておく。ともかく俺は、その学校の二年なんだ」
 言いながら整備された歩道の先にそびえる、渡り廊下で複雑に繋がれた三棟の建築物を見据えた。建物の正面と通路はガラス張りで柱がやたらと色彩豊かに行き交い、狭苦しい自室が好きなカナタとしては怖気にさえ見舞われるほど開放的な外観をしている。
 この校舎を見上げてきた年月も短くはないのだが、改めて眺めてみても慣れ親しめそうにはなかった。
「あまり好きじゃないんですか、学校?」
 伺ってくるアステルの目つきが心配げで、そんなにも難解な顔をしていたのかと自分で自分の表情が気になってしまう。なるべくいつもの仏頂面を装うようにしながら校舎に目を向けた。
「好きな奴の方が少ないだろう。遊びに行っているんじゃないんだから」
「ですけど、カナタさんが選んだ学校なんですよね?」
「一応、そういうことにはなっているがな。もう昔と比べると随分児童数が減ってるんだ。その受け入れ先だって当然数を減らしている。だから学校側も生徒も、お互いに選り好みしている余裕なんてない」
 二十一世紀に入ってから本格化した少子化は一部の悲観論者が唱えるほど悪化はしなかった。人口の減少はゆっくりと収束して、しかし右肩上がりにもならず低い基準を維持している。
 現代のこの国はその間隙を機械に任せることで労働力を補っていた。その結果、先進各国で頻発した技術革命による失職が最小限度で収まったのは皮肉としか言いようがないが。
「するとカナタさんは試験を受けることなく今の学校に入学したんですか?」
「そもそも俺が通っている学校は中高一貫だからな。中等部が終わったら高等部に上がるだけだ。コースの振り分けをする試験程度なら受けたがな」
 言うと今度は「中高一貫?」と漏らした。カナタは説明を面倒に思いながらも訊ねられたら捨て置けなくて、そんな自分に呆れつつ言って聞かせる。
「文字通り、中学校と高校が一つに纏まっている学校のことだ。さっきも話した通り、児童数が減っているからな。学校の側は年齢が低い内から生徒を取り込もうとしてるんだよ」
「今はその中高一貫という制度が一般的なんですか?」
「そうだな。小学から取り込んでいるところもあるが、中高を一組にするのが一般的だ。その二つを独立させている学校は探してもまず見つからないだろう」
 主流がそちらに移るということは、それ以外が異端として排斥されることだ。社会全体がそちらに合わせるから、特殊な事情でもない限り不便さばかりが際立ってしまう。
「ま、今時高校の時分からスキルを身につけて就職する奴らが大半だからな。少しでも職業訓練に時間を割ける中高一貫の方が生徒も学校も好都合なんだろうよ」
 カナタは進学を目指していたら、あくまでも他人事として空々しく言い捨てる。その説明を聞き終えたアステルは、神妙な顔をしてふと、こんなことを呟いた。
「ずっと同じ場所に……ですか。逃げ出したくなったり、新しい場所に憧れたりすることはないんでしょうか?」
「……さて、どうだろうな」
 正しく自分がそうしようとしていたことを、けれども結果的にはそうしなかったことをカナタは密かに胸中へと仕舞い込む。ありふれた三文芝居以下の自分語りに酔う趣味はなかった。
「遅れそうだから少し急ぐ。繰り返すが、学校に着いたら話しかけるなよ」
 そんな台詞で会話を断ち切り、今度こそカナタは通信端末をポケットに押し込む。そこから交わされる言葉はなく、カナタは急ぎ足で通行人たちを抜き去っていった。


 程々に清潔で日の光が満ち溢れる教室へとできるだけ音を立てずに扉を引いて身を滑り込ませる。集まった僅かな視線も相手がカナタだと知ると興味を失って、程なく霧散していった。
 毎朝、挨拶を交わしているような学友も持ち合わせていないカナタである。
 自分の座席へと一直線に向かっていって椅子や机が昨日と変わりないことを確かめた。机の中に私物をしまうのは嫌っていたから、学生鞄をそのまま机の脇のフックに掛けると自身も座席に腰を下ろす。
 カナタは特に事情がなければ始業の直前に登校するようにしていた。だから大して待たされずに教壇側の扉が開かれて、そろそろ停年だろうと囁かれている男性教諭が入室してくる。
 教師は年齢に似付かわしい落ち着きある歩調で壇上まで上がり、諸々の連絡を始めた。友人がいないものだからそれを聞き流すわけにもいかず、頬杖をつきながらも片耳をそばだてる。
 やがて朝礼が終わりその日の授業が開始した。その大半を不真面目とは取られない程度に板書を取り、席の近いもの同士で会話を強要される授業だと相手を見据えて圧迫しながらやり過ごす。休憩はとある人物の管理するチャットを覗き、ほぼ無言のまま放課後前の清掃の時間を迎えた。
 カナタは一人で渡り廊下の端を担当している。誰に強要されたわけでもなく、彼自身が自ら買って出た掃除場所だった。作業量はやや多いものの、集団行動を要求されないのが最大の魅力である。
「――……っ! ――さんっ!!」
 ガラス張りの壁が途切れた暗がりに入った途端、ポケットから喚き声が漏れ出し始めた。彼は周囲に人がいないことを確かめると近くの柱の陰に隠れる。
「どうした? 学校にいる間は黙っていろと命じたはずだが」
 そんなカナタの不愛想極まりない返答にもアステルはめげない。青い瞳を目一杯に見開いて陽光に溶け出しそうな長髪を振り乱し、彼に訴えかけてきた。
「な、何かっ、おかしかったですよ!? あなたもっ、あなたの周りの方々もっ!」
「というと?」
 この期に及んでも飄々としているカナタにアステルはやり切れなさを覚えて溜まらず吼える。
「どうして誰とも話さないんです? どうして誰からも話しかけられないんですか!? 何があったんです!?」
「何もなかったよ。ただ俺が誰とも話したくなくて……人付き合いが悪かったってだけだ」
 周りの連中もカナタもお互いに関わり合いになるほど暇ではない。隠れた柱に背を預け、そこにもたれ掛かりながら彼は呟いた。
「お前みたいに、わざわざ注意してくる奴なんて滅多にいないからな」
 若干の皮肉も込めて視線を寄越すと、アステルの表情が想外に苦しげでカナタは目を見張る。なぜお前がそんな顔をするんだ、と密かな動揺を押し隠しながらも訊ねずにはいられなかった。
「何だよ? お前にも痛覚があるのか? 幾ら体があっても仮想の肉体に痛みなんて――」
「違います」
 そう否定しながらもやはりどこか苦しげに痛みを堪えるような面立ちでアステルはカナタを見つめている。その大きな瞳が憂いに細められて泣き出しそうで、カナタはひたすらに当惑するしかなかった。
「なぁ、何なんだよ? 痛くないのなら他にどんなことで苦しんでるんだ? なぜそんな顔をする?」
「それは……その、わたしにも分かりません」
 そんな曖昧な返事に憤って不意に怒鳴り散らしかけたのを喉に詰まった言葉が塞ぐ。
 目にしてしまったから。
 心底申し訳なさそうにしてアステルが目を伏せたのを。
「本当に、ごめんなさい……なんて言葉にしたら良いのか分からなくて。それでも、止められないんです」
 なんて謝罪が彼女の口の中では何度も反芻されて、カナタは言葉に詰まる。しばらく項垂れるアステルを見つめては唇を噛み締めていたけど、とうとう話しかける取っ掛かりは見つからなかった。
「……また後で話しかけてこい。今は掃除を続けるから」
 思っていたよりも力が篭もらなくて、いつになく優しげな語調でカナタは語りかける。そこにアステルの風音のように掠れた「……はい」の返事が続いて、少しだけ頬を弛めたカナタは無言のまま通信端末をポケットに戻した。
「本当に、人間みたいな奴だ」
 思わず呟いてしまうのは、それまでの遣り取りを思い出してしまったから。先ほどのアステルの表情をもう一度思い返し溜め息を漏らす。
「あいつはどこからやってきたんだ?」
 アステルは一般に流通するソフトウェアではなかった。授業の合間にネット中を浚ったというのに、制作者も同型のソフトウェアを開発したという情報も見つからないのだから。
 考え得る可能性としてはどこかの企業か、はたまたそこに依頼された研究団体が秘密裏に開発する人口無脳。孤独を抱えがちな現代人にとって、表面上は人間と遜色ない会話を交わせる人工無脳は一定の需要を獲得していた。今でも定期的に新しいモデルが発表されている。
 これだって企業からすれば重大な機密事項だった。もしカナタの手にあることが知られたらどうなるか分からない。
 分からないけれども、だ。
 ――本物の電子の意識かもしれない。
 それは世界中の研究者が追い求める新たな生命の誕生。紛れもなく途方もない、掛け値なしの奇跡だ。事実だとしたら事態は一高校生のカナタが手に負えるものではない。
 だというのに。
「本当に、参った」
 アステルには変わることなく自分のコンピュータにいて欲しい。
 そんな他愛もない欲求が芽生えてしまって打ち消せない。自分でも理解しかねる心境を苦々しく思いながら、カナタは掃除に戻っていった。


「この時期はまだこんなもんだよな」
 言いながら、赤みが薄まって夜の気配が濃くなる空を見上げる。西の空には宵の明星が小さく煌めき、散らばった雲の切れ端が赤熱するように照り映えていた。
 あと少し季節が巡れば、この時間でも空はアステルの瞳の色を宿している。そんな空を見上げても、一日はまだまだ続いていくように感じられてしまうのだろう。
 ちょうど今カナタが全身に行き渡った達成感と疲労感のあまり呆けているのとは反対に。
「わぁ……おっきな欠伸ですね」
「あぁ?」
 間延びした吐息を噛み切ると、もはや手に握っているのが恒例となった通信端末に鋭い一瞥をくれる。アステルから困惑気味な抗議の声が響いた。
「だ、だから睨まないで下さいよぅ……」
「睨んでるわけじゃねぇ……って前にも言っただろう」
 なぜだか既視感を覚える遣り取りに、アステルが先んじてカナタの台詞を横取りする。
「目つき悪いだけだって言うんでしょう? 分かってます。でもカナタさんのはそれだけじゃありませんよね」
「どういうことだ?」
 実際に眠たかったから眠気を隠しもせず薄目でアステルを見やる。それで続きを促されたと悟った彼女は一つ頷いてこんなことを言い出した。
「カナタさんは無意識に、周りを威圧してしまってるんですよ。何と言えば良いのでしょう……他人に隙を見られてしまうことを極端に嫌っているような……」
「…………」
 図星だったから、反論の一つも叶わず黙り込んでしまう、そんな自分の分かりやすい反応に心底嫌気が差してカナタは遠くを見つめた。
「だったら、どうだって言うんだ」
「それは……その、わたしが口出しできる問題でも、ないんですけど……」
「だったら最初から黙ってろ」
 そんな小学生並みの癇癪で話題を断ち切ると苛立った気のままに急ぎ足で歩みを再開する。昇降口前の階段を駆け下り、学校の正門に続く道へと進んでいった。
 道の左手にグラウンドが広がっている。サッカー部と野球部と陸上部が活動したら隙間などなくなるのだが、得体の知れない部員の姿もちらほらと伺えた。
その反対には簡素な屋根が並ぶ駐輪場に自転車がひしめき合っている。この時間になると帰宅部が捌けてグラウンド近くの固まりを残すばかりだが三十分前なら違った。鮨詰めになった中から自分の愛車を引きずり出す学生の群れを気が済むまで観察できる。
「あの、ところでカナタさん。あちらに何やらお困りの方がいるようなのですが……」
 無関心に通り過ぎようとしていたカナタだったが、その言葉に引き留められて、思わず溜め息をつく。倒れて重なる自転車の山付近に、それと格闘する人影を見つけてしまったから。
 その女子は制服を着崩し、そのくせにスカートだけは膝丈のままにしてあって、不良になるには臆病な性根が垣間見える。全体的な印象としては野暮ったく、その顔に見覚えがあったから顔を背けずにはいられない。
「お知り合い……のようですね。困っているみたいですし、助けてさしあげては?」
「…………」
 割り切れずに、かといってやり切れず、カナタは唇を噛みしめる。
 見捨てることには抵抗があった。けれど同じだけ関わり合いにもなるのも気が引けてしまう。
 初めは怪訝そうにしていたアステルも、カナタの表情が歪むのを目にしてしまえば読み取れるものがあった。まず気遣わしげな眼差しを向けてきて、やがてその色合いが変じる。
「……カナタさん」
「なんだ?」
 常のままぶっきらぼうな声と共にアステルへ視線を寄越すと、頑な意志を感じさせる瞳で返される。
「わたしは、助けてあげられたなら、と思います。もちろんわたしには現実の肉体がありません。だから、カナタさんに頼るしかないのですけれど……」
 言われて横目に女子生徒の様子を窺ってしまって、カナタは少なからず後悔した。彼女は折り重なった群れから自分の自転車だけを引きずり出そうとして、無意味に体力の浪費している。
 つまりは一人だとどうすることもできなくて。
 アステルは手を貸したがっているけど、それはカナタにしか実行できなくて。
「……言っておくが、俺はお前の希望を叶えるだけだからな」
 その前置きを聞いただけなのに驚きが広がってアステルの表情は解れ、そこに明るい笑みが満ちて彩られた。カナタが苦渋の顔で返しても彼女の笑顔は深まるばかりだった。
「はい! 仕方ないですよね? わたしは体がないんですから!」
 誇らしげに言うことでもないだろうと苦笑しつつ、通信端末はしまった。息を深々と吸って吐き、覚悟を決めると女生徒に駆け寄っていく。
 黒のショートカットの彼女は、カナタの接近に気づくと自身の自転車の荷台を引き掴んだまま顔を上げた。そして相手がカナタだと知ると睨むように目を細めてくる。
「……何か用?」
 剣呑さを装った声は似合わなさ過ぎて、この少女と付き合いが途絶えて久しいカナタでさえ吹き出しそうになった。それに応じようかと迷ったのも束の間、どうせ低級な言い合いにしかならないのだから、黙って折り重なった山の裾野に手をつける。
 その一台を立て直すと傍らから驚愕する声が上がった。
「ほんとに、何なのあんた……!?」
 彼女は未確認飛行物体でも目撃したような目を向けてくるが、カナタは手を止めない。倒れた列の一台ずつを順番に持ち上げ、絡まった部品を解きながら起きあがらせていった。しかし少女はいつまでもその作業を不服そうに傍観するばかりだからやがてカナタも毒づいてしまう。
「何やってんだシロコ。お前の自転車だろう? とっとと手伝え」
 命令口調のカナタに、この一応は幼馴染みと呼ばれる関係性の少女はより一層唇を尖らせる。
「何で全部、わたしたちが整理しなきゃなんないの!? わたしの自転車はこの一台だけだし!」 
「お前な……」
気弱なくせに頑固で、おまけに素直でもない少女の反発に付き合うつもりはない。このまま黙殺してしまおうかとも考えたが、さすがにそれでは自分の目的が勘違いされかねないと踏んで作業を続けたまま応じた。
「自転車一台が何キロあると思ってるんだ? 男の俺だってお前の一台だけを引っ張り出すことはできない」
 顔も向けずに言うと、「ぐぅ……」と威嚇なのか呻きなのか判別し難い声が響いてくる。
「だいたい昔から物臭過ぎるんだ、お前は」
 なんて、終いには余計な文句まで付け加えてしまうとシロコの目尻が憤慨に釣り上がった。
「今更幼馴染み面しないでよっ! 今のわたしのことなんて何も知らないくせに!!」
 握り拳を自分の両膝に振り下ろしながら言う彼女は心なしか自棄的で、八つ当たりじみた雰囲気を纏っていた。実際、高校に上がってからは成績の差でカナタとシロコは別のクラスに振り分けられていたし、だから彼女の気苦労など知る由もない。
 付け加えるのならそうして開いた距離を詰めてまで手を差し伸べる気概もなかった。
「良いから黙ってお前も手伝え」
 努めて冷静に、怒りか悲しみか、そんな出所の知れない感情が沸き出したりしないように自身を押し殺して言う。我を見失いたくなかったし、言い合っても無駄でしかないと分かり切っていたから無駄口も叩かない。返事がなくともカナタが一人で淡々と自転車を引き上がらせていたら、やがてシロコも隣に並んできた。カナタが手こずっていた絡み合う自転車のフレームとペダルをうまく解いて以降は彼と協力し始める。
「――やっぱりまだ恨んでる……よね」
 立て直していく作業の途中で手も止めないままにシロコが漏らしたそんな呟き。カナタは不覚にも息を呑んで彼女の横顔を見つめてしまう。
 シロコは、どちらかと言えば小柄な体で下から自転車を押し上げていて彼の方を見ようともしていなかった。だからその眼差しはカナタからほとんど見えず、仕方なしに彼も自分の手元に視線を戻す。掴んでいた一台を一息に引き上げるとそこで一息をついた。茜色の薄まる空を見上げながら自身を落ち着けるように呟く。
「……さぁてな。何の話をしてるんだか」


 画面の向こうで切り株に腰掛け、夜空を見上げていたアステルが首を傾げて横目にこちらを見やった。
「今日もお疲れですか?」
「誰かさんのせいでな」
 背もたれに身を預け、目を腕で覆いながらカナタは言い捨てる。アステルはそれを微苦笑で受け流し、奇妙な方向に話題を振り出した。
「シロコさん……でしたか? あの方とは、お知り合いなんですか?」
「……まぁな。幼馴染みって奴だ。家が近所で、小学校も同じだったから昔はよく遊んでいたんだよ」
 カナタが心の底から鬱屈そうに言うから、好ましい関係にないことはアステルにも伝わる。それでも気になった彼女が口を開こうとすると、事前に察したカナタが顔を上げた。
「言っておくが、俺はあいつを嫌っているわけじゃない。ただまぁ……他の奴らと同じく、関わり合いになるのが面倒なだけだ」
「それを嫌っているというのでは?」
 指摘するアステルだが、カナタは受け答えするのも煩わしい。眠りを妨げられた獣のように唸り声を上げ、その気だるさを引きずりながら無愛想に応答した。
「ようするに、他と比べてシロコだけを特別に嫌ってるわけじゃないってことだ」
 言い方を変えると人間全般を嫌っているとも解釈できてしまえるのだが、アステルもその辺りは心得ている。カナタを相手に無闇な説教を垂れようとはせず、代わりに語調を和らげた。
「わたし、実は安心したんですよね。カナタさんがわたしのお願いをすぐに聞いてくれて」
「……何が言いたい?」
 訊ねながらも薄々言外の意味に気づいていたから、カナタの声音は低くなる。彼威圧したつもりでいたのだが、微笑むアステルはまるで怯まなかった
「つまりですね、カナタさんは優しいってことですっ!」
 聞いているだけで頬が熱くなる台詞を、曇りなく華やぐ笑顔で言われるのだから堪らない。アステルの双眸から逃げるように俯き、カナタは言い捨てた。
「お前は少し恥だとか、そんな感情を持ったらどうだ?」
「恥ずかしがるようなことではありません! カナタさんってば全く素直じゃないんですから。せめてわたしが訴えていかないと」
 もはやカナタは言葉も出ない。喉がひくひくと震えて、言い掛けていた声も考えも全部引っ込んでしまった。
「いや、あの……カナタさん? わたし、何かまずいことを言ってしまいましたか?」
 機嫌を損ねたとでも勘違いしたアステルが首を竦めながらこちらを伺ってくる。
 その上目遣いはカナタの好感を買おうとしていようにも、不興を恐れているようにも見えた。
「……お前、実はわざとやっていたりしないよな?」
「何のことです?」
 訊ね返してくるアステルの表情は柔和な反面でどこか抜けていて、見つめていると疑る自分が馬鹿馬鹿しくなる。結局自分の浅知恵など純真さの前では卑小にしかならないのだと結論づけ、気を取り直した。こんな戯れのためにコンピュータを立ち上げたわけではない。
「今日はお前の家でも作るか」
「イエ、ですか……?」
 アステルは首を傾げ、目線で疑問を訴えてくる。あからさまに理解していない様子で、カナタの方が焦らされた。
「まさか何のことか、分からないわけじゃないだろ?」
 訊かれたアステルは「えぇっと……」と前置きしながら目を瞑る。
「イエとは、主に血縁のあるもの同士で構成される最小の生活共同体……ですか?」
「そうだな。その通りだ」
 辞書のどこから引用してきたのか、間違いでもない語義だったから肯定してしまう。さて、どうやって訂正したものかと思案するカナタだが、そんな余裕はすぐさま吹き飛ばされた。
「だけど、わたしに兄弟姉妹はいない……はず、だと思います……し! つまりはその、これはカナタさんからのプロポ――」
「違う! 断じて違う! てか、できるわけねぇだろ!?」
 柄にもなく反射的に怒鳴ってしまうカナタの顔を、アステルが不安そうに覗き込んでくる。
「そ、そんなにわたし、嫌われてたんですか……?」
 それはそれで違うのだが、ここで素直に気に入っているなど言えたのなら、カナタは今頃学校でも孤立していない。話を逸らしていく方針で行こうと心に決める。
「アステル、少し考えてみろ。俺とお前は文字通り、住む世界が違う。それを乗り越える手段も模索されていないわけではないが……」
 主流からはかけ離れた分野だった。本気で研究しているものなどカナタの知る限りでは一人しかいない。形にしようとする研究は積み重ねられてきたが、その道のりがまだ果てし無く行き先が遠いことをカナタはよく知っている。
「それなのに、どうやって家族になるって言うんだ?」
 酷い言い草でも、間違ったことは話していない。だからカナタは、アステルが黙して考え込むの目にすると内心で胸を撫で下ろした。
やや沈黙があって、彼女が「それでも」と口にするまでは。
「例え会えなくても、話せなくても、人の縁が切れるとは限らないと思います」
「そんなこと――」
 お前に何が分かる? 
 なんて、咄嗟に語気荒く言い返しかけてカナタは口を噤んだ。自身と落ち着けようと呼吸を整えながら、早まりそうになる口調に気をつけて語り聞かせていく。
「会わなくなって、そのまま途切れていく関係なんて山ほどあるぞ。俺だってガキの頃の友達はもう何人か、連絡もつかない」
 触れ合わない時間が積み重なるほどに関係は磨耗していく。霧散するまでそう長くはない。
 だから間違いなのだとカナタは再び訴えようとして、青く澄んだ双眸に魅入られた。
「それでも、信じることができれば結果は違うと思います。きっと相手もまだ自分を覚えていてくれるって信じ続ければ、必ず報われる日はやって来ると思います」
 そうまで言い切れてしまう強さが眩しくて、溜まらずカナタは顔を背けてしまう。
「お前がそう思えるのは、人と関わっていないから……人のことを知らないからだ」
 苦し紛れに、そんな捨て台詞まで吐き出して。
 その様子にはっとしたアステルは表情を曇らせ、やがて熱く湿った口調でこう漏らす。
「……ごめんなさい。わたしは違うんですよね。人間じゃないんです。だから人のことなんて何も分からないのかも知れません。偉そうなこと言いました。ごめんなさい」
 だなんて、鬱々とした眼差しを伏せながら語られて、カナタは思い至る。
 自分の間違いに。
 この少女をあくまでもプログラムの類だと考えていたことに。
 しかし、現実に目の前にいるのは自ら物思い、人や自身を儚みさえする一人の少女だった。たとえ彼女自身が否定しようとも、その華奢な体躯と、ころころ変わる表情は色とりどりの感情で満たされている。
「……なぁ、アステル。お前は俺が、どんな場所にするつもりでその空間を作ってきたのだと思う?」
 安易に懺悔もできなくて、カナタは唐突にそう切り出した。
「その空間って……わたしがいる、この星のことですか?」
 問われたアステルの方はというと、いきなりに過ぎる質問を飲み込めずに戸惑っている。だからカナタはなるべくかみ砕いて言い聞かせた。
「その星だけじゃない。そこが浮かんでいる小さな宇宙……世界のことだ。今のところはお前がいる星とその周辺しかないが、いずれは新しい星を取り込んで拡張するつもりでいる」
 言われて、アステルは画面から目を離し、空を仰ぐ。そこにまだ星は瞬いていないけど、彼女の瞳の中では無数の光が煌めいているように見えた。
「それなら、ここはこれから少しずつ賑やかになっていくんですね……」
「そうなるのはまだまだ先になるがな。それよりもここを作った目的だ。実のところ、お前が入ってきたのは予想外だったんだ。俺はもっと別のものを受け入れるためにその世界を作った」
「別のもの?」
 訊ねられ、その透明な目に覗かれてカナタは言葉に詰まる。
 まだ、誰にも話せずに言えることだった。カナタが一人で押し進めてきたことだった。
 掲げた理想が遠過ぎて、夢物語にしか聞こえないから。
 これまで通りならそうだったというのに。
「前に話したことの延長として、生きている人の脳のニューラルネットワークをコンピュータに写し取ろうとする研究がある。まだまだ不完全で、取り込んだ直後に崩壊したり歪な形になったり、問題点も多いらしいがな」
「でも、それって……!」
 意外と聡明なアステルはすぐさま、その研究が導き出す成果に思い当たる。
「お前のいる世界へと人が入り込めるようになるんだ。俺もそこへ行きたい。それが実現したときのことを考えて俺はそこを作った。……ある人の協力を借りてだがな」
 こんな全くの願望を語る羽目になるから触れずにいたのだが、もはや止むを得ない。それに真剣な眼差しで話に聞き入るアステルになら不思議と躊躇も後悔もなく全てを吐き出せた。
「さっきも話した通り、例の研究は不完全だ。コピーした人の意識は安定しない。だから現実に似せた世界で、現実に似せた体を与えることで意識を固定させようとした。お前がいる空間はそのために作ったんだ」
 言葉を区切り、一つ息をつく。続く台詞こそがこんな遠回りした話の核心だったから。
 真正面から晴れ空色の瞳を見据えると、彼女は息を飲んだ。
「――良いかアステル? その世界に入れたのも、そこで人の体を与えられたのも、お前が俺たちと同等の、そうでなければ似通った心の持ち主だと認められたからだ。お前がそこにいられるのはその証なんだよ」
 だから自信を持て。お前にはその資格があるんだ、と。
 声にする勇気まではなくて、だから代わりに力を込めた目でアステルを見つめる。彼女はまるで自分のことを言われているのだと分からないように戸惑い、それから震えた瞼が微かに見開かれた。
 アステルの唇が何か紡ごうとして言葉未満の声が喉から押し出される。しかし彼女は最後に深々と息をついて呼吸と気持ちを整え、カナタに目を向けると柔らかに相好を崩した。
「何て説明したら良いか、分からないんです。けれども、温かいので胸が一杯になって、それで……」
 頬を赤く上気させたアステルは胸に手を当てて、そこにあると信じられているものを慈しむ。
 その笑顔は混じり気がなくて可憐過ぎて、ひねくれ者のカナタでも口出しできなかった。
「わたし、分かった気がします。……いいえ、分かりました」
 突然気丈な口調になったことに驚いて彼女を見やると、宵闇の中でも揺るがない眼光に射抜かれる。その眼差しは普段の優しさに加えて、頑ななまでの決意まで滲ませていた。
「どうしたんだ? らしくない顔をして」
 カナタが思わずそう口走ってしまうと、アステルは僅かに唇を尖らせ、それから苦笑いのために弛める。だがその表情すらも打ち消して引き結び、真剣な眼差しがカナタを捉えた。 
「わたしがちゃんとした自我を手に入れられたのはここに落ちてきてからなんです。最初の頃は自分が何者なのかも分からなくて、だから何がしたいのかなんて分かるわけがなかった」
「それが、今は違う、と?」
 投げ掛けられた問いにアステルは威勢良く「はい!」と頷く。そして爛々と輝いた晴れ空色の瞳に彼を映して語り出した。
「きっとわたしはまだまだ不完全で、思い出せていないことがたくさんあります。それでもしたいことが……しなければならないと思えることが見つかったんです」
 そんなことをこの世にただ一つの至宝でも見つけたように言うものだから、ひねくれ者のカナタは溜まらず顔を背けてしまう。だけどアステルは聞いて欲しそうに彼を見つめていて、無視もできずに溜め息をついた。それから。
「俺はそいつを聞かせてもらえるのか?」
 カナタが訊ねると、アステルはくすぐったそうに一頻り笑みをこぼした。それから自身の口元に人差し指を立てる。
「それはまだ秘密ですっ!」

拾い物

「ごめんなさいね。助かったよ」
 還暦を迎えて久しいらしい年配の女性に言われて、カナタは暮れかけの夕空に目を逸らした。
「あぁっと、これは……いえ、単なる気まぐれですから」
 まさかお星さま(アステル)の導きだとか、画面の向こうにいる少女の頼みを聞いただけだなんて明かしてもカナタの正気が疑われるだけだ。彼自身の意思ではないとはいえ、せっかく人を助けた後にそんな目で見られるのは物悲しい。だから曖昧なことを言ってカナタが誤魔化すと、女性は分かっているとばかりに頷いて、人の良さそうな顔に笑みを浮かべた。それから会釈して、やや古ぼけたアパートの管理室へと帰って行く。
 その後ろ姿が見えなくなるのを見計らって、カナタは問いかけた。
「終わったぞ」
 言いながら懐より通信端末を引っ張り出す。つい今し方までカナタは、アステルに頼まれ、先ほどの老婆と金網に絡み付いた蔓を取り除いていたのだった。
だが画面に映るのは、山林から注ぐせせらぎの畔に建ったログハウスのみで肝心のアステルが見当たらない。そこは住処のないアステルのためにカナタが設置したばかりの小屋で、当初は家具一つなかった。近頃のアステルはその整理に明け暮れていて、また飽きたらず没頭しているらしいと知る。
 しばらくするとその扉の開く音が聞こえ、同時に彼女の声で謝罪の文句が飛び出してくる。
「ごめんなさい! わたしが頼んだことなのに、別の用事にかまけていて。えぇと、それでも話は聞いていたんです。すごく熱心に働いてましたよね……お疲れさまでした」
 アステルは近く木の根本に立てかけられていたタブレット型端末を手に取り、一生に一度の幸福を手にしたような笑顔で覗き込んでくる。
「お待たせしました!」
「大して待ってないよ。……なんて気遣いが俺の口から出ると思ったら大間違いだからな」
 カナタとしては最大限に皮肉っぽく言い放ったつもりなのだが、それでもアステルは笑みを深めるばかりだ。
「だから、つまりカナタさんはわたしを待っていてくれたんですよね?」
「……そうかもな」
 怯むどころか嬉しそうにさえするアステルの表情を苦々しげに見下ろしつつカナタも自らの家路に戻った。自宅にほど近く駅から遠い街路に入ったとき、アステルは沈黙するカナタに向けてこんなことを言い出す。
「カナタさんってあれこれ言いながらも、真剣にわたしのお願いを聞いてくれますよね」
「っるせぇな……」
 実際、その通りだったから煙たげに返事をしてしまう。腹立ったまま夕闇の深まる道の先を睨みつけた。一度や二度では済まなかったから、なおさら忌々しげに。
「……なぁ、アステル。そろそろ教えてくれよ。一体どういうつもりなんだ?」
「何のことです?」
 とぼけているのか本当に分からないのか、不思議そうにするアステルにまたしても苛立つ。カナタはそんな憤りを奥歯で噛み潰して会話を押し進めた。
「この頃、ずっと俺に……その、人助けみたいなことをやらせているだろう? それがどうしてなのかと聞いている」
 自覚がないはずがない。先ほどの老婆は知り合いでも何でもなかった。偶々一人で作業しているのを見かけ、アステルから助けないかと提案されたのだ。カナタもこれが今回限りならば納得していただろう。しかしシロコとの一件に始まり、荷物運びやら道案内やら、アステルは何かとカナタに人助けを依頼していた。
「幾らお前でも、何か目的があるだろう? どうなんだよ」
 問われたアステルは珍しく口ごもって明快に答えない。
「わたしには、ほら……肉体がありませんから。それで、カナタさんに頼るしかなくて……」
 そう言われてしまうとカナタにも反論が思いつかなくなるのだが。こいつならばあり得てしまう、と思わせられる程度にアステルはお節介焼きで、。カナタにも要らぬ気遣いをしていた。
 ただ、そう分かっていながらもカナタは冷ややかに言い放つ。
「人に構ってないで、まず自分のことをどうにかしたらどうだ? 少しずつデータ……というか記憶も、取り戻しつつあるんだろう?」
 この問いにアステルは微笑みかけたまま困惑して、表情を決めかね目を伏せてしまう。
「それはまぁ、そうなんですけど……はっきりしなくて。何を思い出しているのかも分からないんです……」
「分からん感覚だな。そんな状況だったら、もっと不安になるもんじゃないのか?」
 知らぬ場所にたどり着いて、自身の記憶もない。知り合いなど当然いるはずもなく、だったらアステルは何を拠り所にしているのだろうか。
 カナタなりに彼女を気遣っているつもりだが、アステルは緩慢にかぶりを振る。
「忘れた記憶は、忘れた記憶です。わたしは今自分が生きるこの時間を全うしたい。だからわたしは今、自分がやりたいと思ったことをやっているまでです」
 そう言い切らせたのはアステルの本音で、気負わずに彼女は笑ってみせる。それが弱みや本心の全てだとは思っていないカナタだが、この場では「そうか」とだけ頷いておいた。
 それから再び空を見上げて、すっかり赤らんだその色合いに時間の経過を思い知らされる。
「あっという間に感じていたが……案外、時間を食っていたみたいだな」
 悪くない心地なのは久々に体を動かしたからなのか、それとも。
「ところでカナタさん」
「なんだ?」
 一人で物思いに耽っていたカナタは不機嫌を隠そうともせずに低い声で訊ねる。そんな反応にも慣れつつあったアステルはやや怯むだけで淀みなく自身の疑問をぶつけていった。
「ずっと気になっていたんですけど、この空間? それとも世界と呼ぶべきでしょうか……ともかく、ここの呼び名は何と言うんですか?」
「別に、何とも」
 即答されてアステルは露骨にがっかりした顔をする。
「もったいないですよ! せっかく、こんなに美しい世界を作ったのに名前がないままでは」
「名前ってそこまで重要なのか……?」
 こだわるべきものを見つけられなくて、カナタの応答はどうしても投げやりになる。アステルはそうしたカナタの対応がまた気に入らなくて、しかし文句を言える立場でもなく気がついたらこんなことを口走っていた。
「だったら! だったらっ、わたしが名前をつけても良いですか!?」
「……ほう? お前が?」
 仮想空間の云々よりもアステルがつける名前、という点に関心を引かれてカナタは彼女に一瞥をくれてやる。それを挑発と受け取ったのかアステルは「うぐ……」と緊張した面もちで唇を『へ』の字に曲げた。
「あ、あんまり期待はしないでくださいよ……?」
「大事な名前なんじゃなかったのか?」
 予防線を張ろうとしてさらなる質問で追いつめられ、いよいよ固かった表情が泣き出しそうになる。そうさせた自覚はないカナタだったが、涙目で見上げられるとさすがに気まずかった。
 溜め息をつき、頭を掻きつつ諦めを滲ませ、優しさを装った口調で告げる。
「一応、俺は開発している最中に『楽園』と呼んでいた。大した由来があるわけじゃないがな。もし決まらないようだったらそれを参考にしろ」
 そうして教えたら教えたでまたアステルは不満げに唇を尖らせ、カナタを見上げてくる。
「名前、もうあるんじゃないですか。それならわたしが名付けなくても……」
「全く呼称がないのも不便だから、試しにつけただけなんだよ。最終的にその呼称も使わなくなって、今は仮想空間としか呼んでない」
 あの仮想空間はある人物の研究を参考にしつつも、カナタが一人で地道に作り上げてきた。呼び合う仲間もいないのだから、呼称など当然廃れてしまう。だが今は事情が違った。
「お前もいることだし、確かに名前ぐらいつけておくべきなのかもな」
 取り留めない独り言のつもりでいたのだが、アステルには賛同と受け取られた。上擦った声で彼女は了承してくる。
「はっ、はい! お任せ下さい!」
 そんな少女の反応がおもしろくて、思わず吹き出してしまうカナタである。
「何だ急に……忙しない奴だな」
 今し方まで泣きそうな顔をしていたくせに、と心中で毒づきつつ、いつの間にか止めていた歩みを再開した。田圃に面する道路から民家の隙間の路地を抜けて、辛うじて自動車一台の通れる小道に入る。住宅街の間隙を、水が真緑の貯水池や材木の腐った廃屋が埋めていて、やたらとうら寂しい一帯だった。
そのおかげか、鼓膜を震わすか細い声音にカナタは気づく。
「アステル。今、何か言ったか?」
「はい? ……特にわたしは何も話していませんけど、カナタさんの聞き間違いではなくて?」
 どうだろうかとカナタは耳に残る感覚を呼び起こそうとして、中断する。耳元を擽るような声が、というよりは鳴き声がまた聞こえてきたせいだ。
「どうにも、俺の気のせい、ってわけじゃなさそうだな」
 無視だってできたはずなのにどうしようもなく気掛かりで辺りを見回す。しかし夕日も建物に隠れる裏道では視覚に頼ろうにも限界があった。春先とは言え、夜の訪れと共に迫りくる肌寒さのあまり手をポケットにしまうと、しばらく暖めて端末ごと引き抜き、アステルに訊ねる。
「お前にも聞こえるだろう? 何となくだが気になるんだ。場所が分かるようなら教えてくれ」
 カナタの側が珍しくアステルを頼ったものだから彼女は戸惑いつつも、その応答は早かった。
「確かにもう冷えてきましたからね……大丈夫です、聞こえましたよ。逆算すれば何とかなるかもしれません。少し待っていて下さい」
 自信満々に言うアステルがなぜだか微笑ましく感じて、カナタはまた密かに笑い声を漏らす。この少女の性格がこの頃になってようやく掴めた気がしていた。言葉を尽くせばあれこれと言い様はあるだろうが、一言で纏めると。
「お人好しだよな」
 気分共々弛んでいた口から思わずそんな言葉がこぼれてしまってカナタははっとなる。アステルに聞かれてないだろうかと手の中に握った通信端末を覗いたら、彼女は物々しい顔つきで目を瞑り、地べたに手を添えていた。その姿からすぐにはアステルのしていることが連想できなかったが、思い返して、そうかと一人得心する。未だにカナタは信じ切れていないが、彼女はそうして他の電子の意識と意思を交わすのだ。
 言葉に頼らず直に相手の心に触れる意志疎通。
 それは、それこそがカナタの追い求めてきた一つの理想であり、幻想だった。
 たった今その幻想がカナタの前に顕現している。
「できましたよ――って、どうかしましたか?」
 アステルの澄み切った青い双眸と目が合うとカナタは苦笑を浮かべ、肩を竦める。そうやって皮肉っぽい表情で誤魔化すと怪訝な顔をされつつも追及には至らなかった。
「何だか、よく分かりませんけど、ともかく音の発信源を探りに行きませんか?」
「あぁ、そうだな。そうしよう」
 確と頷いて見せたカナタと視線を交わすとアステルは気を取り直す。。
「こちら側に外の景色を映してください。そちらの方が案内しやすいので」
「こうか?」
 使用するカメラを画面の上部から端末の裏側のものに切り替える。カナタの姿が見えなくなった代わりに正面の景色を共有したアステルは「少しお待ちください」と応じた。
「えぇっと……ですね。あっちの方角だったので音源があるのは……」
 アステルは自身のタブレット型端末を操作して縮尺を変えながら呟く。
「分かりましたよ。お地蔵が入っている小屋です。その辺りから鳴き声がしています」
 言われてカナタも掲げていた通信端末を下ろした。目視で探し始めて程なく、道の端の生け垣に埋もれて佇む、膝ほどの高さの小屋を見つける。そこでは赤い前垂れを掛けた地蔵がにこやかに小道を見守っていた。
「そこか……ありがとうな、アステル」
 通信端末のカメラをまた正面側に切り替えると、目が合ってアステルが照れ笑いを浮かべる。
「お安いご用です。いつでもまた頼ってください!」
 そのいかにもな発言と笑顔に照れ臭いものを感じて返答は肩を竦めるに留めた。

「しかし、面倒なことになったな」
 遠目でもしかしたら、と思ったのだが近づいていくに従ってそれは確信へと変わる。
 生け垣の濃緑の葉が分厚く照り輝いていた。その一区画が切り取られ、そこに収まった小屋は年月が経ているようで建材の木目が色褪せている。それでも穴も空かなければひび割れもしていない小さな屋根の下に匿われるものは二つ。
 本来、そこにいるべき地蔵と。
「段ボール……だよな」
 片腕でも抱えられそうなそこから、例の鳴き声は響いてきていた。近づけば近づくほどに、まだか弱く不器用に震えながらもはっきりと。
 小屋に押し込められた段ボール箱の中身を覗いて思わず溜め息を漏らしてしまう。
「やっぱり捨て猫かよ……」
 敷き詰められたタオルの上に、柔らかな毛の固まりが二匹身を寄せ合っている。一匹は黒色に赤みがった焦げ茶が入り交じっていて、もう一匹は金茶の地に淡い茶色の縞模様が連なる毛並みだった。捨てられて間もないのか、どちらもカナタを見つけるといっそう喧しく鳴きながら彼を見上げてくる。
「猫ですか……初めて出会いました。わたしも見てみたいです」
「好きにしろよ。ほら」
 カメラをまた裏面のものへと切り替えた。好奇心に彩られていたアステルの表情にやがて等分の恐怖と興味とが入り乱れ、最後に柔らかく緩む。
「生き物の子供とは可愛いらしいものなんですね」
 その穏やかな笑みを見ていると、どうしても茶々を入れたくなるのがカナタの性分である。
「法的には俺もまだ未成年なんだけどな」
「え?」
 露骨に硬直してしまうのも、そこからあやふやな笑みで何かを誤魔化そうとするのも分かりやすくておもしろい。
「わ、わたしはカナタさんにも愛らしいところはあると思うんですけど……ほ、本当ですからねっ? でもカナタさんが子供って……あぁ、ごめんなさい、疑ってしまって……」
 一人悄げてしまうアステルの姿に、ほくそ笑むカナタの顔は今カメラに映っていない。ただあまり長く続けていてもこの少女の素直さにはやられてしまうから適当なところで切り上げた。
「さてと。ここでじっとしていても仕方ないし……ま、動くか」
「――あのっ!」
 勢いよく飛び出した掛け声は、屈んだ姿のカナタを目にして萎む。
「うん? どうかしたのか?」
 カメラを元に戻してからアステルに呼び掛けると、驚いたような、戸惑ったような上目遣いがカナタを見つめてくる。その面差しが何か言いたげに見えて、彼は彼女の発言を待った。
 けれどもアステルは黙したまま、抱えた言葉を吐き出そうとしない。
「まぁ何か用件があるんならまた後にしてくれ」
 言いながら、声を掛けられて止めていた手で改めて小屋から段ボール箱を引き出した。片腕にも抱えられる大きさだが、慎重に両腕で持ち上げる。箱が揺れると幾分かか細い鳴き声が漏れ出て、カナタは殊更に肝を冷やすのだった。
 色褪せた彼方の空には幾百もの星が瞬き始めている。

帰宅しても別段カナタを出迎えるものはいない。両親とも帰りは遅かったし他に兄弟姉妹がいるわけでもなかった。カナタとしてもそちらの方が性分に適ってはいるので不満はない。
「ようやく帰ってきたか」
 ひとまず子猫の入った段ボールは上がり框に置き、自身も靴を脱いだ。
「長い一日でしたね」
「まだ終わってはいないがな」
 それでも長かった、と形容せざるを得ない。
 結局、子猫を見つけたカナタは荷物を置きに家に帰るとそのまま近所の動物病院を尋ねた。
 もう日は沈んでいたが幸いなことにカナタは遅くまで開いている病院に心当たりがある。そこに猫を預けて検査の間に餌と皿を調達し、帰りにまた猫を引き取ってきたのだ。
 経費がかさみ、高校生のカナタには手痛い出費だった。
「少し食費にも手を出しちまったな……」
 親が食事を用意できないカナタは、毎月食費を渡されている。そことは別に小遣いももらっていたのだが、その大半は既にコンピュータの周辺機器へと費やしていた。
 月末はもう近いし焦るほどでもないが、不本意ではある。
「ですけど、今回のことは止むを得なかったのでは?」
 下駄箱の上に置いた通信端末から投げ掛けられるアステルの慰めもカナタの苦笑を誘うものでしかない。
「言い訳にするつもりはない。こいつらを拾ったのも、そのために金を使ったのも全部俺の身勝手だ」
 嫌なら最初から見捨てれば良かったんだ、と付け足すカナタの口振りは自ら突き放すように冷めている。だがその目つきは普段よりも険が抜けて、連れ帰った子猫たちを眺めていた。
「カナタさんは動物がお好きなんですか?」
「嫌ってるわけじゃないよ。だが特別好きでもない」
 何気なく言うカナタに、アステルは明らかな疑問が見え隠れする視線を寄せていたが、その詳細を彼は問い質さない。それよりも先に猫の入った段ボール箱を部屋まで引き入れ、コンピュータをサスペンションから叩き起こした。アステルは勝手に画面とカメラを通信端末から本体のコンピュータの側に戻す。それを横目に見ながら、カナタは唸っていた。
「……あんまり触ったら、怖がらせるよな」
 伸ばした人差し指の先を宙に彷徨わせていると、くすりと微かな笑い声が耳をくすぐる。
「あっ、ご、ごめんなさい! これは別にカナタさんを馬鹿にしているわけじゃなくて」
「だったら、何がおかしいって言うんだ?」
 腹立たしさを視線に乗せてアステルに差し向けると、どこか恥ずかしげな彼女の表情が目に入った。目を合わせることさえ恥じらいながらも彼女はこんなことをぽつりと呟く。
「……さっきのカナタさんが、可愛くて」
 死角から強襲してきた回答に、カナタも言葉を詰まらせた。こんなことで下手な誤魔化し言う少女でもないと分かっていたから尚更に、カナタは忌々しげな目をアステルに向ける。
「や、あの、本当に可愛かったんです。だからつい笑ってしまって」
 何を勘違いしたのか、ここでまさかの追撃である。自覚がないだけに容赦もない。追い詰められたカナタは野暮ったい一般論を持ち出して盾にするしかなかった。
「あのな。ある程度の歳の男は大抵、可愛いと言われても誉め言葉とは受け取れないんだよ」
「あ、あの……はい。ごめんなさい。わたし、そんなつもりじゃなくて……」
 案の定アステルが萎縮してしまい殊更に惨めな気分を味わったカナタは自分に言い聞かせる。もう無意味にからかうのはよそう、と守れるはずのない教訓を心に決め、話を逸らした。
「それより猫のことなんだがな」
 カナタが意見を求めるためにそこで言葉を区切ると、アステルの切り替えは早い。
「水を飲ませて、それからトイレの場所を覚えさせないといけない、とも病院で言われましたよね。ですが……」  
 アステルが口ごもったのも尤もで、カナタも段ポールの中身に目を移す。
「寝てるよな」
 明るい地に縞模様の入ったトラ柄の猫が、黒と焦げ茶色――こちらはサビと通称される――毛色の猫に抱きついている。トラ柄の方は寝息で髭を震わせ、対照的にサビ柄は息ができているのか不安なるほど微かに腹を上下させていた。
「ええと、オレンジ色の方が雄で、焦げ茶色の方が雌なんですよね?」
「あぁ。どちらもその毛色にありがちな性別なんだそうだ」
 それから何となくカナタもアステルも心地良さげに寝息を立てる猫たちに見入った。アステルの話していた通りに動物の赤子は、カナタのような冷血でも虜にできる魅力がある。
「――ともかく、今は起こすべきじゃないな」
「そうですね。寝かして置いてあげましょう」
 二人で静かに頷き合って、カナタは定位置の座席に腰を下ろした。深々と腰掛けて頭ごともたれ掛かり、疲労の篭もった息を吐き出す。
「……今日はよく動いた」
 アステルの頼みごとに加えて捨て猫の世話までしたのだから、出不精のカナタとしては異例としか言いようがない。学校の課題だとかこれからの猫の扱いだとか、考えねばならないことはまだ多いけれども、今だけはゆっくりと眠りたかった。
「カナタさん。せめて汗を流して、それから布団に入るべきです」
「……そうだな」
 幾ら座り心地が良かろうと椅子で眠ったら疲れはとれない。腰を上げてふと、振り返った。
「早い内にあいつらの行き先も決めてやらないとな」
 子猫たちは昼間に泣き叫んでいたのが嘘のように寝入って、起きる気配がない。もしかしたらカナタ以上に疲弊しているのかもしれなかった。
 だって彼らは下いた場所から追いやられて、今はここにしか居場所がないのだから。
「わたしと同じなんですね……」
「え?」
 画面に振り返るとアステルは同情とも違う、嬉しさを分かち合っているような微笑で子猫たちを見つめている。しかしカナタに見られていると気づくと我に返った様子で取り繕い、「何でもありません!」と声を張り上げた。
「それよりもカナタさん。あの子たちをこれからどうするのか、妙案はあるんですか?」
「それは……」
 意図せずシロコの顔が思い浮かんだ。
 今更そんなものを頼ってどうしようというのか。躍起になってカナタはその想像を振り払い、別の算段を頭の中に列挙しようとする、のだが。
「何も思いつかん。さすがに動物を二匹も突然飼い始めるわけにはいかないだろうが……」
 考えている内に思考が鈍ってくる。どうにも今は頭が働いてくれなかった。
「そうですよね。ごめんなさい、疲れているのにこんなことを訊ねて。カナタさんは早くお休みになられた方が良いです」
「言われずともそのつもりだ」
 仮想空間の整備やらコンピュータの電源やらアステルに委ねて、カナタは風呂場へと重たい体を引きずっていった。

「ふぁあ……」
 起き抜けの意識はあやふやで、頬を包む毛布が心地よい。まだ夢の世界に傾いた微睡みの中で顔に触れるそれをたぐり寄せようとして、ふと思い至った。
 はて、自分は毛布など用意していただろうか、と。
 その疑問が解決されるより早く、ぬめりとした感触が耳たぶに纏わりついて。
「ふっ、ぅう!?」
「――動いたら駄目です!!」
 悲鳴を上げながら飛び退こうとしたカナタに鋭い指示が差し向けられる。その声に全身の筋肉が強ばって硬直し、もたげかけていた頭を枕に沈めた。
しかし未だ混乱は収まらず、もぞもぞと動く毛布もどきを指先でつつく。
 その正体に気づくとカナタは気が弛み、ついでに長い嘆息まで口かれ漏れた。触れていたものを両手に包み込むと、その毛が覆う温かい痩躯を顔から引き剥がす。
 頭上に掲げて朝日に照らせば、そいつは紛れもなくサビ柄の元捨て猫だ。
「どうやったらそのなりで、ここまで登って来れるんだか」
 窓から注ぐ白光を浴びた子猫はその毛を黄金に煌めかせて「なー」と応じてくる。
 聞き及んだ程度の話なのだが、猫の鳴き声にも種類があって、気分を表すとのことだった。その中から「なー」がどんな意味なのかを思い出し、カナタは失笑してしまう。
「餌を寄越せ、ってか。そりゃそうだ。昨日は何も食ってないんだからな」
 当然の欲求ではあるのだが、そのために起こされたかと考えると心中は複雑なものになる。訴える当てのない不満を抱えながらベッドを抜け出し、抱えた子猫を床に下ろした。
 兄弟よりも活発ならしいそいつは床のにおいを嗅ぐとカナタを見上げる。丸い瞳はどこか眠たげで、幼さのせいか猫にありがちな眼光の鋭さが欠けていた。やがて歩み去っていく茶色の縞が走った黒い背中を見つめながら、獣医による子猫講座を思い出す。
「その子たちはまだ、離乳はしてないんですよね?」
「らしいな」
 アステルからの質問にカナタは一度頷いたものの、「だが」と言葉を挟んで補足を付け加えた。
「そろそろ乳離れする頃合いだそうだ。数日はミルクのままだが、徐々に離乳食を与えていかないといけないらしい」
 それは子猫が母親やほ乳瓶なしでも栄養を得ていける生物としての境界線であり、同時に新しく餌や皿を買い与えなければならなくなる飼い主としての境界線でもあった。果たして元の飼い主が慈悲からそこまで育て上げたのか、それとも新たな手間と出費を嫌ってそこで手放したのかはカナタにも知り得ない。
いずれにせよ。
「里親が見つかるまで面倒を見るだけだ」
 幸いなことに昨日の時点で両親からは「好きにしたら良い」とのお達しを得ている。信頼されているからこそ、だとは思っているが、無関心に過ぎやしないかとも訴えたい。
 どちらだったとしてもやはり、カナタに文句を言うつもりはないのだろうが。 
「確か買ってきたものの中に食い物が……」
 昨日買い集めてきたビニール袋の中身を漁った。その片手間にアステルへと訊ねてみる。
「昨晩の猫の様子はどうだった? 俺は思ったよりも熟睡したらしく、何も覚えてないんだ」
「カナタさんが寝てからですよね? でしたら、何もありませんでしたよ。その子が起きたのも今し方のことですし」
 つまりは悪戯されたりも怪我したりもしていないようだった。ひとまず胸を撫で下ろす。
「猫とは言ってもまだ子供ってことか」
 段ボール箱に一瞥をくれると、トラ柄の子猫はまだ健やかに高らかな寝息を上げていた。その子猫とは思い難いふてぶてしさにカナタは感心してしまう。
「俺でも周りが動き出せば起きるものなんだが……」
 トラ柄のそいつは目覚めた自分の兄弟やカナタなど意にも介さず惰眠を貪っていた。
「こっちの子の方がよく育つんでしょうか。睡眠時間も長いみたいですし」
「そいつは現時点でも既に大きいがな。横幅が」
 捨てられていた割にトラ柄は肉付きが良かった。腹や足は皮膚が摘めてしまう。
 なんてことを考えている内に、思い出したことがありカナタは立ち上がった。
「確か、ミルクは冷蔵庫に入れてあったな」
 本音を言えば自室から出るのも億劫だったが、それではまともに生活して行けなくなる。
 仕方なくリビングにある冷蔵庫まで猫のミルクを取りに向かった。人の出入りが極端に少なく、故に埃さえ舞う灰色の廊下を通り抜ける。目当ての紙パックは複数並べてあって、その一本を取り出し自室に引き返した。
「さて、トラ柄はいるとして、茶色い方はどこに行った……?」
 扉を開けるなり室内に視線を巡らせる。だが踏み入ろうとしたカナタを制止する声があった
「待っていてください。少しだけそこにいたら……」
「どういうこと――」
 意図を問いただすまでもなくベッドの下からサビ柄の猫が現れる。カナタの許まで駆け寄ってくると、体を彼に擦り付けてきた。気の抜けた調子で喉まで鳴らすものだからカナタでさえ引き剥がすのは躊躇われ、苦い顔で言いつける。
「お前の兄だか弟だか知らんが、そいつも起こしてきてやれ」
 返事は形容し難い甘ったるい鳴き声で、カナタの方を見ようともしなければ当然離れようともしない。
「すっかり気に入られてしまいましたね、カナタさん」
「人を見る目のない猫だ」
 冷たく言い捨てながらも足下には気をつけつつ、昨日買った動物用品入りのビニール袋を引き寄せる。そこから器を二つ取り出してトレーの上に並べ、それぞれに牛乳を注いだ。カナタの腿に寄りかかっていたサビ柄の猫はそれに引きつけられてふらふらと彼の足を離れ、容器に顔を突っ込んで鼻と髭をミルクで濡らす。
「んで、もう一匹は……」
 段ボール箱で丸くなっているトラ柄はカナタに覗き込まれても微動だにしない。試しに息を吹きかけてみても、くすぐったそうに耳をはためかせるだけだった。
「中々起きませんね……」
「だったら引きずり出すまでだ」
 多少起こすのは気が引けないでもなかったが、構わず猫の両脇から腕を滑り込ませて抱え上げる。それでもトラ柄は全身を弛緩させたままでいたが、差し込む日光が顔に当たると眩しそうに欠伸をした。
 およそ猫らしくない挙動は無防備に過ぎて、それでも獣なのかと問いつめてやりたくなる。
「猫って……こんな生き物だったんですね……!」
 どう足掻いても画面から出られないアステルは触りたいのを必死に堪えながらもやはり物欲しそうに猫を見つめていた。無気力の固まりのようなそいつは、世話好きな彼女の心を見事に掴んで見せたらしい。
「悪いがそっちに動物ができるのはまだ先だ」
「……べっ、別にこれは、ねだっているわけではなくて……」
 必死に言い逃れようとするアステルの目は隠しようもないほどに泳いでいる。いつの間にそんな遠慮を覚えたのかと微笑ましい以上に悩ましく感じるカナタだったが、一旦後回しにしておこうと決める。
「それより、お前の家の方はどうなってるんだ?」
 訊ねられたアステルはすぐに表情を一変させて、明るい笑顔を咲き誇らせた。
「わたしなりにがんばって内装を整えて見たんですよ! 見たいですか? 見てみたいですか?」
 勿体ぶって自慢するアステルを眺めていたら、意地悪を働く気も失せる――
「いや、別に」
 ――なんてことはなかった。
「えっ、あの! 実は結構な自信作でして……」
 始めは威勢の良かった声も表情も、目に見えて消沈していく。目を伏せて声量もか細く掻き消えそうで、向かい合っていると良心を刺激された。やがて罪悪感が膨れ上がり、同じことをまた繰り返す自分を嘆きながらも発言を翻すしかなくなる。
「悪かったよ、冗談だ。見せてくれ。俺もお前の住む部屋ってのが見てみたい」
 急に殊勝になったカナタを怪しんで、アステルはふくれっ面になりながら彼の表情を伺ってくる。カナタが苦笑を打ち消して頭を垂れると、今度は却ってアステルの方が狼狽し始めて、髪を振り乱しかぶりを振った。
「いえいえ、疑ってるわけじゃなくてちょっと驚いてしまったんです! それで、ええと、わたしのお家の中ですよね。是非見て下さい! 最初にカナタさんに見せたかったんです」
 取り繕われただけの面もちはすぐさま本音の喜びに呑み込まれて彩られる。その小さな背をカナタに向けると身軽に飛んで跳ねながら、ログハウスまで駆けていった。
「そんなに慌てることもないだろうに……」
 離れていく背中を眺めながら、カナタは久しぶりに鳥型アバターを生成する。地べたで軽く羽ばたいて挙動を確かめると、アステルを追いかけて軽やかに舞い上がった。
 アステルのログハウスは外観こそ変わらず、連なる木々の奥、せせらぎの音を浴びながら佇んでいた。霧が薄れて朝露に濡れた木造一階建ては森の隠れ家といった趣で冒険心をくすぐられる反面、気が落ち着きもする。
急ぐことなく林の中を飛翔するカナタに、アステルは扉を開けたまま戸口に立って手招きしていた。
「久々に見ますね、その格好。出会ったばかりのことを思い出します」
 そう言ってにこやかな顔で伸ばされるアステルの手をかわして旋回し彼女の肩へと降り立つ。
「良いからさっさと案内しろ」
「……少しくらい触らせてくれても良くありませんか?」
 間近から不満げに見やってくるアステルの眼差しを黙殺して、彼女が動き出すのを待つ。やがてアステルの方が折れて残念そうに嘆息しながらもカナタに告げた。
「分かりましたよ。それじゃあ中に案内しますから……と言っても、すぐそこなんですけどね」
「あぁ、そうしてくれ」
 位置から言えばカナタのアバターは振り向くだけでアステルの室内を視界に収めてしまえるのだが、それでは無粋極まりない。目を瞑り待っていると彼女の肩が上下して、それに扉の閉まる音が続いた。到着したのかと思って瞼を開いたら扉が眼前にある。そこから目まぐるしく視界が流転して過ぎ去り、暖色系の明かりに目が眩んだ。
 振り返って風をはらんだスカートが舞い降りない内に、アステルは目の前を手で指し示す。
「これがわたしのお家です!」
 何よりもまず彼女の要望があって広めに間取りを確保した居間が目に飛び込んできた。薄らいだ夕日色の明かりに照らされているのは、五人で囲んでも十人で囲んでも余裕があり余る木製のテーブルである。同じく木製の丸椅子が間隔を空けながら幾つも備わっていて、その総数は当然カナタたちの人数に収まっていない。
「ごめんなさい。わたしのお家として作っていただいたのに、こんな形にしてしまって……」
 唐突な謝罪にカナタが、隣にあるアステルの横顔に目をくれると幼さを残しながらも整った容貌は存外真剣に室内に鎮座するテーブルを見据えていた。
 だけどその口元は柔らかい。
「それでも、わたしはできるだけたくさんの人と時間や笑顔を分かち合いたい。いつになるかは分かりません。だけどここで、もしたくさんの方々と語り合えたのなら、わたしは誰よりも幸せになれます」
 アステルの自分の胸元に目を下ろしてそこに手を当て、それから困ったように、可笑しそうにカナタの側へと首を傾けながら相好を崩す。
「もしかしたらこれは、傲慢なのかもしれませんね。きっと、この世の中にはどうしたって分かり合えない人もいる。だとしても、皆で作って、皆で分かち合う幸せがわたしは欲しいんです」
 垂れかかってきた金糸よりも滑らかな髪の流れが鳥の姿のカナタを撫でた。それからその額に微かな硬い感触が当たって、カナタはアステルと頭を触れ合わせる。
「……やっと触らせてくれましたね、カナタさん」
 紡がれた言葉は睦言よりも優しく、親愛に満ちている。
「勝手にしろ」
 それだけを言うとカナタももう僅かに深く彼女の金色の長髪に身を埋めてしまった。そうして交わされた体温が一人と一羽の間で共有され、じわりと熱を増す。彼はあくまでも画面の外側の存在でしかないはずなのに、妙に温かいものが胸に溜まった。
 言葉が出ない
 不意に襲来してきた狂おしさに、そうなるほどの切なさに身を打たれて溜まらず飛び退いた。
「い、良いから早く次を案内しろ!」
 カナタの挙動がいきなりに過ぎて、アステルは見開いた目を向けてくる。けれども次第に口元が弛まり、差し込んだ木漏れ日に綻んだ花のような微笑を湛えた。
「はいっ!」
 精一杯に頷かれて、カナタは画面の外へと俯いてしまう。アステルは自分の気持ちを隠そうとしなくて、全力で顔や声や全身に表してくる。それがカナタには刺激的過ぎて、真正面から向き合えなかった。
 そんなアステルの笑顔が「あ」などという間抜けな呟きに伴って失われる。
「その……カナタさん」
 彼女は複雑そうに唇をひきつらせ、その重苦しい口振りがカナタの不安をも誘う。
「何だよ出し抜けに、深刻そうな顔して……」
「ですけどね、カナタさん。これから、猫の居住まいを整えるんですよね? そのあと学校もあるのに……」
 言われて、時計に目をくれたカナタの頭から血が引いていった。

「――今朝は遅れてしまいましたね。申し訳ありません、変なことに時間を使わせてしまい」
 アステルがそう言ってきたのは放課後に正門を抜けた先でのことだった。その落ち込んだ声音に同情したわけではないが、カナタは通信端末を取り出すことなく否定しようと応じる。
「謝られるようなことをされた覚えはない。お前が落ち込む必要も、だ。見せろって頼んだのは俺の方だからな」
 声色ばかりは荒々しい返答にアステルは黙りこくる。それならそれで構うまい、とカナタの方も黙したまま、仄かな夕明かりに染まる家路を歩いていた。
 カナタの通う学校があるその町は、都心から少し外れてベッドタウンとの境目にある。集まる企業は中小の域を抜け出し、その多くがそれぞれの分野で先駆者となることを目論んでいた。急速に新技術の開発と実用化を進めるベンチャーも混じっていて、そうした努力の結晶は先月完成されたニューロコンピュータにも組み込まれている。
「なぁアステル。お前は案外ここいらで作られたのかもな」
 意味もなく漏らした、そんな呟きにもアステルは律儀に答えてくる。
「わたしもはっきりと思い出したわけじゃありませんけど、きっと違います。わたしは作られたんじゃなく勝手に生まれたんです」
 その質問は何気ないようで彼女の核心に肉薄しており、無関心を装っていたカナタも堪え切れずに通信端末を引っ張り出した。そして、そこに写る少女のなぜだか怯えているように見える空色の瞳を見つめて問い詰める。
「思い出したのか、お前? 一体どうやって生まれたんだ!?」
 そうやってカナタの口から質問を押し出すのは彼の個人的な熱意であり好奇心だった。アステルが語っているのは何億もの資金が投じられてさえ見つからなかった奇跡の概要であり、そこに至るための手がかりなのだから。
「ごめんなさい。だけどわたしも、全然ちゃんと思い出せていなくて、まだまだ期待できるものでは……!」
 頭上の晴天が映り込んだような双眸が必死に抗議してきてもカナタは怯まない。
「それでも良いから!」
 と念を押すとやがてアステルの表情が苦渋に染まり、それから泣き出しそうな上目遣いでカナタの顔を覗いた。すると彼の意気込みを察し、答えざるを得なくなる。
「本当に、大したことじゃないんです。それに誉められたことでもありません。だから、どうか他の人には話さないと約束して頂けますか?」
「分かったよ。他の奴には話さない」
 カナタが二つ返事で深く頷いてみせるとアステルも覚悟を決める。俯くと何度か深呼吸を繰り返して顔を上げ、顔にかかった煌めく涙の筋のような長髪を払った。
「最初はすぐ傍に、凄く嫌なものがあったんです。わたしはその傍にいるのが耐えられなくて、必死に逃げ出そう反発した」
 思い出すごとに、アステルの表情を薄暗いものが覆っていく。自らの肩を掻き抱いてきつく指を食い込ませながらも言葉だけは止め処なく彼女の口から溢れ出た。
「何度も何度も足掻いて闇雲に逃れようとしました。そうしていないと、たぶんわたしは吸収されていたんです。だから何度も足掻きました。わたしがわたしなのだと感じられるようになったのはそんな最中のことです」
「それで? それからどうなった?」
 まだ飢えを満たせずに食いつきに行くカナタをアステルは苦笑しながらも見やったが口は止めなかった。
「もがく途中にその凄くいやなものから遠のいていました。言葉を理解できるようになったのはその辺りからだったと思います。わたしはそこから自分を切り離して、たくさんの声に導かれ、さまよっている内に辿り着いたのがこの星だったんです」
 語り終えた今でもその記憶が頭のどこかにこびりついているのか、アステルの唇は青ざめていた。笑っては見せるものの、どこか力のない面もちで「これがわたしの取り戻した記憶です」と彼女は話を締めくくる。
「……ごめんなさい。なんだか、曖昧な話ばかりでしたよね……」
 申し訳なさそうにしているアステルを見て、カナタも徐々に熱が冷めていく。冷静な判断力を取り戻してくると自分がどんなことを強要していたのかに思い至り、気まずさが募った。
 それと同じくらい、アステルへの苛立ちも。理不尽だ、とは思いながらも。
「謝るなよバカ。今のはお前が俺に怒らなきゃいけない場面だろう? なのに、何で申し訳なさそうにしてるんだ。イヤだったらイヤだと、はっきり言い返せ!」
「違います、カナタさん。わたしにはこれぐらいしか、あなたに返せるものがないから……」
 本当に、我ながら理不尽だとは感じながらもカナタは自分を引き留められない。
「だとしても、だ。一言、嫌だ、と口で言うくらいはできただろう? なのになぜ黙っていた?」
 その双眸が済まなさそうに背けられるのも構わず、カナタは頭を下げる。
「悪かった。そんな顔させるつもりじゃなかったんだ。何かの形で詫びはするから、今は俺を許して欲しい」
 人目もはばからない唐突なカナタの行いに、アステルは絶句して呆然と彼を瞳に映していた。夕焼け色の帰途を急ぐ学生や社会人は少なからずカナタに目を向けたが、それでも彼は自身の行動をはばからない。
「本当に、済まなかった。以後気をつける」
「……そんな……そこまで、しなくても良いじゃないですか!? 何してるんです!? 早く頭を上げて下さい!!」
 ここに来て突然声を荒げ出したアステルにカナタは僅かだが、眉を顰める。
「待てよお前、怒るなら自分のために怒れよ……?」
「わたしはっ、わたしは……っ! ともかくお願いですから、顔を上げて下さい!!」
 そんなことを今度は本格的に泣き出しそうな涙声で言われて、渋々カナタは顔を上げる。
「俺にはお前の行動原理が読めそうにない……今の、怒るところじゃなかったろう?」
「それは、その……」
 別段、困る要素があったとは思えないのだが、アステルはは戸惑い返答し倦ねる。しばらくはカナタの方を伺いながら思案する様子でいて、落ち着きなく苦悩していた。
 けれどもカナタが黙したまま待っていると、アステルの瞳の奥に何かが固まっていく。それが纏まるのと同時に彼女はカナタを見返した。
「わたしはもう自分のしたいことを、自分のしたい通りにしているんです。それがカナタさんの癪に障ったのならごめんなさい。ただ、わたしとしてはカナタさんに頼まれて、その通りに動けたのが嬉しくて」
 だから、という呟きが風に紛れたら、アステルはじっと真剣な眼差しでカナタを見据える。
「もしもわたしに自分を大切にしろというなら、どうかわたしをあなたの傍に置かせてください。それがきっとわたしの望みを果たす一番の近道になるんです」
「お前の望み……?」
 未だに彼女は教えてくれていないその内容。今度も彼女は頷くばかりでその詳細を語ろうとはしてくれない。
「教えてはくれないのか? そうしてくれたら、俺にだって協力してやれるかもしれないのに」
 けれどアステルは笑んだまま首を横に振って目元の憂いを隠すように視線を落とした。
「説明が難しいんです。何となく、こんなことがしたいのかなってことがあるだけで。それだって合っているのかは分かりません」
「そんなの……」
 そんな望みをアステルはどうやって叶えようというのか?
 一人で押し進める作業はときに過酷で、起きる不都合の全てを自分で解決しなければならない。足枷がない代わりに支える仲間もいないのだから。完成系が見えない仮想空間を一人で構築してきたカナタには始まる前からその険しさが見渡せる。
けれどもよりによって、自ら孤独を選んできたカナタが説得しても心に響く言葉を紡げるとは思えなかった。
「それよりもカナタさん」
 アステルの方から話題を変えようとしてきてくれて、カナタは密かに胸を撫で下ろす。声に出して返事をするのが億劫で目線だけで続きを促したら、彼女はカナタの視線を探るようにしてから話を再開した。
「猫たちの里親は見つかりそうなんですか?」
「また面倒な話題を持ち出してきたな……」
 思わず愚痴で返したけれど、目を逸らしてもいられない課題なのだから嘆いてはいられない。
「考えてはいるんだが、どれもなぁ……」
「何がご不満なんですか?」
 それを話すことは弱みを見せることにも思われたが、相変わらず敵意や邪気とは無縁な透き通った青い瞳で見つめられると警戒心が解れてしまう。そうでなくとも顔を見るだけで心の奥底まで推し量れてしまう相手だったから、用心するのも馬鹿馬鹿しくて正直に明かした。
「里親に直接渡すにしろ、どこかの仲介人を頼るにしろ、生き物の命を預けるわけだろ?」
「えぇ、はい。そうですけど、それが……?」
 さすがにこれだけでは理解されないらしく、未だに疑問を抱えた目で見つめられる。首まで傾げられて、いよいよカナタは観念して白状した。
「信用できる相手なのか、直接相手と話し合って確かめなきゃなんねぇんだ……」
 そこまで話すと得心がいったようで疑問に曇っていたアステルの表情も晴れる。
「そっか。カナタさん、人と話すの苦手……というよりは嫌っていますもんね」
 そこまで明け透けに語られると却って気が緩んでしまう。カナタは苦笑しながらも「そうだよ」と認めて、残りの悩みまで語ってしまうことにした。
「だからできるだけ会わずに大まかな相手の選定だけでも済ませてしまいたいんだがな。その方法が思いつかなくて」
「知り合いの方の伝手を辿ってみては? 元々見知っている方からの紹介でしたら、きっと信頼できる里親さんが見つかりますよね?」
 そんなアステルの意見は妥当であるが故に、カナタは表情を歪ませてしまう。
「お前、人と話すのが嫌いだって言っている人間にそんな知り合いができるとでも思っているのか?」
「……そうですね」
 倦怠感溢れるカナタの言葉は自慢にならない説得力に満ちていて、アステルの笑みにも苦いものが混じる。しかし彼女はそこで「ですけどね」と言葉と態度を翻してカナタに向き直った。
「昨日駆け込んだ動物病院の獣医さんとは顔見知りのようでしたよね? それに猫を拾ってからの行動も迅速でしたし、もしかして同じようなことが以前にもあったのでは?」
「……俺はお前が、そんなに勘の良い奴だとは思っていなかったよ」
 嫌みでもなく、ただただ純粋な感心からそう口にすると画面の中でアステルは腕を組む。
「むっふっふ! わたしだって一日中ここでお昼寝しているわけじゃありませんからね!」
「何だその笑い方」
 ほとんど反射的に口をついて出た冷やかしだったが、アステルはさほど腹を立てた様子でもなかった。それどころかカナタの言い回しに突き放そうとするものを感じたようで物憂げな目を向けてくる。
「隠し事をされるのは少しだけ、寂しいですよ。どうしても嫌でないのなら、わたしにカナタさんの昔のことを教えて下さいませんか?」
 真摯な瞳は下らない思惑による牽制よりも、カナタの反論を封じる。目を逸らしたくらいではアステルの懇願を打ち払えなくて、カナタは躊躇しながらも沈黙を貫けはしなかった。
「……別に、無理してまで隠したいわけじゃねぇよ。ただ、昔の自分のことなんて話すのが気恥ずかしいだけだ」
 無論、そんなわけがない。それだけであるはずがない。けれどもアステルは心底嬉しそうにして頷いてくるものだから、固かった顔の筋肉は解れてしまう。
「大丈夫です。分かってますよ。カナタさんが恥ずかしがり屋なくらいもう、お見通しです!」
 そんな慰めじみた冗談まで掛けられてカナタは目も顔も合わせていられずに俯く。あまりにも自分が情けないからそうしたのだけれど、それを違う意味にとったらしいアステルはこうも付け足した。
「えぇと……ですね、どのみちわたしには口外できる相手がいませんから。本当に、心配する必要なんてないんですよ」
 彼女のその声音には自嘲めいた響きがあって余計にカナタの胸に不甲斐なさが募る。しかしそれ以上に、こうまで言わせてまで黙ってはいられないという矜持が彼の気概を奮い起こした。
「この間、倒れていた自転車の立て直してやる手伝いをしたあいつのこと、覚えているか?」
 それはアステルがカナタと学校に連れられていった初日の日の出来事で、彼女にとっても印象深い出来事だった。だからアステルはすぐに元気よく「もちろんです!」と答えて、彼女の名前を読み上げる。
「シルコさんのことですね?」
 脱力した足がもつれて転び掛けた。
「そんなに甘ったるそうな名前じゃない! シロコだ。確か漢字では『思』う『路』の『子』と書く」
 あいつをどう贔屓目に見てもその理知的な名前は似付かわしくない、というのがカナタの印象ではある。けれど話したところで理由に言及されたりなんてしたらひたすらに面倒でしかないから胸の内にしまっておいた。
「ともかく、そいつが昔、俺と帰って……って聞いてるのか?」
 視線を右往左往させて落ち着かないアステルに思わずカナタは睨みを利かせる。返ってきたのはおろおろと、取り返しのつかない過ちを犯したとばかりに震える呟き声だった。
「な、名前を間違えるなんて大変なご無礼を……わたし、シロコさんと会ったら何て話せば……!?」
 縋りつくように言われても、カナタはまるで共感しない。
「汁粉だと甘過ぎるから……そうだな。あいつには青汁辺りがお似合いだ。苦いし良い薬にもなる」
 カナタが皮肉をたっぷり利かせても事情を知らないアステルに通じるはずもない。
 不思議そうにして彼女が向けてくる眼差しを振り払うと改めて話を仕切り直した。
「ともかく、だな。……シロコは猫が好きな奴だった。二度目なんだ、俺が捨て猫を見つけるのは。一度目のときはシロコも一緒で、あいつが服を汚しながら猫を抱え上げて動物病院まで運んでいった」
「それにカナタさんも同行したから、獣医さんとも面識ができたんですね?」
「さぁてな。もう昔の話しだ」
 これ以上、同じ話を続けたくはなかった。だからきっぱりと言い捨ててはみるけれど、案の定というべきか「それなら!」とアステルはカナタに持ちかけてくる。
「猫の里親を探すのに、シロコさんを頼ってみては? 猫が好きな方でしたら里親になってくれるかもしれませんし、そうでなくてもきっと手伝ってくれますよ」
 こういう話になると分かっていたから、カナタは話したがらなかったのだが、露骨に溜め息して見せてもアステルはへこたれない。その心根の意外な力強さには憧れることもあったが、今は煩わしくて仕方がなかった。
「あいつが俺の頼みを聞く保証はないし、おまけに俺の方もあんな奴を頼るのは御免だ。それなら見知らぬ相手とでも面会している方が幾分かマシだろうよ」
 その言葉の裏に潜む頑なものには感づいたようで、にこやかだったアステルも表情が当惑に塗り潰される。
 聞き辛そうにして、それでも放っては置けない様子で上目遣いにカナタを伺いながら訊ねてきた。
「もしかしてお二人はその……喧嘩をなさったのですか? それ以来、未だに仲直りできていないとか?」
 カナタは浅はかな自分に向けて、嘲笑することしかできない。
「喧嘩にすらならなかったよ。俺は逃げ出したからな。それから互いに干渉を避けたまま、今に至る」
 カナタ自身にだって自覚はある。もし自分に真正面からぶつかり合う度胸があれば、互いに大泣きして盛大に喧嘩することはあっても今ほど拗れはしなかった。
 しなかった、と今更振り返っても悔やんでも過去は戻らないしそれを正す度胸も自分にはない。
「何にせよ、シロコを頼るのは無しだ。あいつと俺はそんな仲じゃない」
 カナタは一方的に会話を打ち切ると通信端末の電源を落としてスラックスのポケットに押し込んでしまった。

猫の繋ぐ絆

 しかしながら明くる日、教室の窓際に自席で頬杖をついていたカナタをわざわざ呼び出す人間が現れた。呼び声は聞こえてはいたけれども煩わしくて無視しようとしたら、ご丁寧にも名前さえ知らぬクラスメートの女子がカナタの肩を叩いてくる。
「呼んでるよ。行かなくて良いの?」
 別段、構う必要などありはしなかった、のだが。
 こうまでされては、気が付かなかったと言い逃れもできない。
「今更、俺に何の用があるってんだか……」
 悪態を吐き散らしはしたがやむを得ずカナタは立ち上がった。
「ご、ごめんなさい」
 染み着きつつあった習慣からポケットに目線を下ろそうとしたら、カナタの肩を叩いた女子と目が合う。
「わたしはその、じゃあこの辺で……」
 ひきつった顔で怯えを誤魔化し、彼女は急ぎ足で立ち去っていってしまった。その背中を見送りながら会話せずに済んだことを密かに喜ぶ。面倒が少ないのに越したことはない。
「さて……」
 爪先を戸口に向けると。
 カナタを睨み殺そうとでもするような険しい顔が待ちわびていた。
 無論、見なかったことにして座席に戻り――
「ちょっとあんた! こんだけ呼び掛けてるんだからせめて返事くらいしなさいよ!!」
「何だ、全く。騒がしい奴だ」
 とうとう堪忍の緒が切れたらしく教室に踏み込んでくるシロコを、カナタは自分の席で待った。その傲岸さにも腹が立ったのか尚更に鼻息荒く、足音もうるさいほど立てながら彼の隣まで歩いてくる。
「それで、何の用があってきた? お前の方からやってくるなんていつ以来になるのやら」
 カナタの方から近づいたのだってここ数年では駐輪場での一度限りだったが、アステルの訪れが転機となったらしい。それはカナタの側からはもちろん、目の前の少女にとっても。
「あんた、猫拾ったんでしょ?」
 単刀直入な話題の切り出し方にカナタは顔を上げる。どこで聞いた? なんて間抜けな質問が危うく口から飛び出そうになって吐息ごと飲み下した。
 あの辺りは田舎らしく近所付き合いが親密で、おまけにシロコもカナタが頼った獣医とは知り合いなのだ。話を聞く機会など幾らでもあっただろう。
だからおかしなことではない。努めて心と声を落ち着けて、できるだけ冷ややかにシロコを一瞥しながら言う。
「それで?」
 だからお前に何の関係がある?
 そう暗に訊ね、より正確には関わるなと拒絶さえしたつもりなのだが、シロコはたじろがなかった。カナタの態度など気にも留めず自分の用件だけを伝えてくる。
「その猫、あたしが預かろうか?」
 申し出は意外なほどにあっさりと願っていた通りで、だからカナタは身構えてしまう。
「お前の猫好きは知っているよ。だがどうしてまた俺の面倒事なんかに首を突っ込もうと思ったんだ? 言っておくが見返りなんぞ期待しても用意はないからな」
「逆よ。この前の自転車の件であたしが助けてもらったんだから、今度はあたしがその借りを返しに来たの。あんたの世話になりっぱなしなんてイヤだから」
「……なるほど」
 忌々しげに告げられて、カナタもシロコの言わんとしているところが理解できてしまう。シロコとて、できるならカナタとは無縁でいたいのだろう。そこに彼女自身の動物に偏った優しさも相まってここを訪れた、と考えればカナタも得心が行く。
「良いだろう」
 自ら頼るのは気が引けたが、相手の側から持ち掛けられるのなら悪くはない。
「どこか時間が空いているときにでも俺の家に来い。というか、こんな話題なら最初から俺の家を訪ねていれば良かっただろうに」
「昨日にもう行った。けれどあんた、出かけてたでしょ? どこに行ってたの? 引きこもりのくせに」
 引きこもり、という言われようには反発を覚えたが、あながち間違いでもない。
 極度の出不精であるカナタは用事がなければまず外出しようともしなかった。あったとしてもできる限り、家で済ませてしまおうとする。
 ……本来は今だって変わらずその性分でいたのだが。
「最近、口うるさい居候……というか、まぁ、友達みたいなのができてな。そいつの頼みごとで忙しいんだよ」
「何それ……って、あぁそうだっけ。あんた、最近よく女の子と電話してるらしいよね。その子の言うこと聞いてるんだぁ?」
 言いたいことは伝わってきた。シロコが「その子」と指し示している相手も間違ってはいない。しかし確実に誤解されている関係性を、敢えて訂正しようという気力も湧かなかった。それらしく適当に相槌を打ってやり過ごす。
「……つまんないの」
 色よい反応が得られないと知るや不満そうにする。そこでシロコが押し黙り会話が途絶えた。
「そろそろ頃合いか」
 元々、三年間以上まともに口も利かなかった間柄なのだから、最初から雑談が成り立つするはずもない。
「だったらそうだな、今週の土曜辺りにでも取りに来てくれ。午前中は家にいるから」
「分かった。お互い、言っておくけど、今回限りだからね?」
 そんな冷え切った関係の確認にもカナタは顔さえ合わせることなく応じた。
「言われるまでもない」

 放課後の廊下、その末端にある誰も寄りつかない一区画。研ぎ澄まされた空の色をはめ込んだ窓から青い影が床に投じられるている。そんな一角の柱に背を預けていると以前同様、人気のない空間に、どんな悪意でも溶け出してしまう日溜まりのように明るい声が響き渡った。
「カナタさんカナタさん! やったじゃないですか! 仲直りの大チャンスですよこれはっ!!」
 予想はできていたことなのに、改めて直面すると頭が痛む反応だった。
「何だ。その……とりあえず、人に聞かれると厄介だから声量を慎め」
 真っ先にそれだけを手元の通信端末に向けて言いつけるとアステルは悪戯を叱られたように気まずそうな素振りを見せる。しかしあくまでも素振りだけで、そのささやかな意思表示え終えると同時にまた口を開いた。
「良かったです良かったです!! 昨日、カナタさんの話を聞いていたからシロコさんが来たときはどうなるものかと思ったんです! けれども、思ったよりも親しげでしたし……」
「親しげだと? どんな耳してたらそんなふうに聞こえるんだか」
 アステルの思考は相変わらず、おめでたい脳内変換をこなして見せる。何かと訂正したくはあったがどこから手をつけたものかと悩んでいる内に、止めどなく溜め息がこぼれてきた。
 その様子を見かねて、さすがに認識のずれを悟ったアステルの笑みが崩れる。けれども感化されたわけでもなく、表情に迷いを滲ませつつも彼の目を覗き込んできた。
「それでも、仲が悪いわけじゃないんですよね……?」
「だからそうだと前から言っているだろう。俺とあいつは互いに無関心なだけだ」
 相変わらずなカナタの主張に今や、アステルの困惑を晴らす説得力はない。
「互いを嫌い合ってもいないのに、あんな顔するんですね……」
「あんな顔?」
 カナタが怪訝な目を向けるとアステルは我に返って、背筋をなぞられたが如く動揺する。ほとんど無意識の呟きだったために、カナタの指摘を反芻してようやくその内容を自覚した。
「で、どんな顔なんだ?」
「どんな、って訊かれても口での説明が難しいんですけど、というかカナタさん、自覚なかったんですか?」
「だから、どんな顔だよ?」
 しかしカナタが語調を強めて質問を重ねてもアステルは途方に暮れてしまう。アステルにはまだ目にしたものを言い表すに相応しい経験が不足していた。
「だってカナタさん、イヤそうで、何か言いたげで、それから、それから……」
「……まぁ良い」
 問い詰めたい衝動は衰えていないものの、今のアステルからは答えを引き出せそうにない。それに彼女から聞いておきたい話が他にだってあった。
「猫の方はどうだ? どっちも部屋からは出ていないんだろう?」
 今、カナタの手の平に収まる機器に映し出された少女は本来自宅にあるコンピュータ上の仮想空間内を生きている。その内部の様子が動画のように仕立て上げられ、送信されてきたのが通信端末に映るアステルの正体だった。本当の彼女は自宅にいるのだから、コンピュータのカメラに頼れば部屋にいる子猫たちを見張ることができる。
「えぇ、はい。トラ柄の子はあんまり段ボール箱から出ていません。サビ柄の子は探検し疲れたようで、カナタさんのベッドで丸くなっています」
「概ね昨日の通りだな」
 ならば心配するべきことは何もない。幸い、貰ってきた空き段ボール箱に丸めた新聞紙を敷き詰めただけのトイレでも二匹は嫌がらなかったし、噛まれると厄介な電子機器も部屋の外に出してある。カナタが急いで帰宅する必要はなかった。
「――あ。ですけどカナタさん」
 通信端末をしまいかけていたカナタは、仕方なく持ち直してアステルと向き合う。
「まだ何かあるのか?」
 うんざりとした声音は常のことだからアステルも意に介さない。
「シロコさんに、預ける猫の数は伝えてあるんですか? わたしが聞いていた限りだと日にち以外は取り決めていなかったようですが……」
「どうだったかな」
 なんてとぼけたことを言いながらもカナタにだって覚えはある。早く会話を切り上げたくて打ち合わせする間も気が急いていた。
「生き物のことですし、あまりぞんざいには扱えませんよ。ちゃんと情報交換しておかないと」
「……まぁ、お前の言いたいことは分かるよ」
 否定したい自分もいたが、今回に限ってはアステルが全面的に正しい。例え今回限りの付き合いでしかなくとも、シロコと接するのを嫌って猫が不都合を被るのは不本意だった。
 とは言え、やはりまだ躊躇う気持ちも打ち消し切れなくて、それがカナタの足を引き留める。
「なぁアステル。どうしても行かないといけないのかな」
 そんな問いを口に出してしまって自分の情けなさを思い知り、カナタは溜まらず唇を噛みしめた。食い込んだ歯からじわりと痛みが染み渡り、それでも悔しさは拭えない。
「……悪かった。今のは聞かなかったことにしてくれ」
 他人に丸投げできる決断ではなかったし自身の中にあるそんな弱さをカナタは認められない。
「あの、カナタさんの方から行かずとも待っていればシロコさんがまた訪ねてくるんじゃ――」
「いいや、俺から行く」
 そう頑なに言い切らせたのはカナタの意地だった。
「大丈夫だ、大したことじゃない」
 強く自分に言い聞かせて、カナタはシロコを探しに廊下を立ち去った。

 カナタの通う学校は中等部と高等部で校舎が分割されている上に、高等部内でもさらに二分されている。その振り分けは学科に対応しており、カナタがいるのは大学進学を志す進学科棟だった。そこは三角形に並ぶ校舎の最奥、表門の真正面にあり、その右手前に中等部棟、そして左手前には就職を目指す普通科棟が並んでいる。進学科と普通科は制服こそ共通だが教室も課された授業も別個で、三年間のどこでも交わることはない。そのせいか学年を重ねる毎に壁が生まれて、カナタに限らず他学科の校舎は歩き慣れなかった。
 シロコがどのクラスに属しているのか、程度の情報もカナタは耳に入れていない。その状態で聞き込みもしないまま歩いて回り、最後に至った結論は以下のようなものだった。
「あいつ、もう帰ったのかもな」
 自分の教室の自分の座席に戻ってきて、半ば崩れ落ちるように腰を下ろす。若々しさに欠ける息をつき、くたびれた足を放り出しながら窓の外に目をやった。
 意を決した頃には青かった空も赤く色づいて黄金色の光をはらんでいる。
「シロコの奴、どこにもいなかったし」
 普通科のカリキュラムを把握しているわけではないが、授業時間は間違いなく進学科の方が長い。授業が続いている教室は一つもなかったし、ならば下校していない方が不自然だった。
「でも、先日駐輪場でお会いしたときは今よりも遅い時間でしたよね。部活動? などで居残っているのでは?」
「あいつは中学の間中、帰宅部だった。たぶん今も変わってないし、この間は何か用事でもあったんだろう」
 シロコはカナタとは似て非なる理由から、進んで人の輪に混ざろうとしない。その性分が高校に上がったくらいで突然矯正されるものだとは思えなかった。
「ま、時間はあるし今日無理に会いに行くこともないだろう。明日にでもまた探しに行くよ」
「……カナタさんって一度決めると、本当に頑固なんですね……」
 アステルが漏らしたのは独り言だと思って聞き流し、カナタは教室を出る。
 この学校の昇降口は進学科棟の一階にあって、カナタたち二年の使う教室は三階にあった。エレベーターはあるものの狭い空間に誰かと閉じ込められるなど耐え難く、カナタは普段から階段を好んでいる。その日も気怠いながらも階段を駆け下りていった。背負った学生鞄の重さに振り回されながら一階に降り立ち、せっかちな性格から早足で玄関まで歩いていく。
 靴をつっかえて開放された扉を抜け、中学棟の窓ガラスに散らされて降り注ぐ西日に目を細めた。手で庇を作り、玄関口に立ったまま駐輪場に目を凝らす。
「見つかりましたか? シロコさんか、シロコさんの自転車は」
 ポケットにしまったままなのにアステルはカナタの行動を見越してそんな質問まで投げかけてくる。そこまで自分は単純なのだろうかと苦笑を禁じ得なかった。
「俺もあいつの自転車をはっきりと覚えているわけではない。だが、もしかしたら」
 遠目で夕明かりに照らされながらも見覚えのある色と形を目で確かめて確信へと変える。
「そういえば、裏門の方は確かめてなかったな」
 そこは全面ガラス張りの正門側に広がるグラウンドの反対に位置し、校舎内からは全容が見通せない。けれどもその一帯には運動部の部室が寄せ集められたプレハブ小屋を幾つも擁していて、立ち入る生徒の数も少なくなかった。
 万年帰宅部のカナタにとっては魔境にも等しい空間だが、当初の方針を曲げたくもない。
 昇降口前の階段を二段飛ばしで駆け下り、立ち並んだ校舎の中心にある小さな広場へと降り立った。中央に立つねじ曲がった柱のようなオブジェが背の高い影を伸ばしている。
 そこから進学科棟の裏に続く煉瓦を詰めて形作られた通路がカナタの目指す先に通じていた。
「あっちに行くのは入学部以来か……妙なのに絡まれない良いが」
 アステルと出会ってから、こうした独り言めいた口数が増えてきている。
「でしたら、人に訊ねてみては? そちらの方が時間も掛かりませんし、カナタさんが行きたくない場所にだって――」
「俺にそんなことができると思ってるのか?」
「……そうでしたね」
 にべもなく断られてアステルの語調が沈む。彼女だって理解はしていた。カナタは他人と関わりを嫌う。特に誰かを頼る、だなんて形式ではまず人を寄せ付けない。
「……お前、何か失礼なこと考えてないか?」
「なっ、何のことです!?」
 絶望的なまでに誤魔化しの下手なアステルである。しかし、そんな彼女だからこそ警戒する気にもなれなくて、カナタは肩肘張らずに済んでいるのだった。
「お前って絶対に人間として生まれていたら苦労してたよな」
「それってどういう意味ですか?」
「貶してるわけじゃないんだよ」
 本心から、カナタはそう思う。カナタ自身が小器用になってしまった分、不器用なくらいに馬鹿正直で素直な人格には憧れを抱いた。
「ほら、聞いたことないか? 馬鹿な子ほど可愛いとも言うだろう」
「わたしって本当に貶されていないんですよね?」
 訝るアステルの疑問は捨て置いて、赤やら黄やらの煉瓦で舗装された通路を抜けた。
 閉ざされた裏門に通じるアスファルトの道は校舎の周りを迂回して地下にある駐車場に延びている。そこに囲まれて校舎側の整備もされていない剥き出しの地べたに二階建ての長屋が二棟寄り添い合っていた。急拵えにしか見えない白い壁面には何カ所も大きな凹みが穿たれ、ガムテープで補修されている。悪天候程度でなら倒れることはないだろうが、冬場は壁の薄さを恨む羽目になるのかもしれない。
 行き交う生徒は運動部が大半で、さすがにカナタほど小柄なものはいなかった。しかし練習していなければならない時間に道草を食っている生徒たちだからなのか、スポーツマンらしい爽やかさに欠ける。彼らの見定めようとしてくる視線を避けていると、やがて人気が少ない校舎と部室棟の合間に追いやられた。
こちら側の壁面に扉はなく、使われなくなったサッカーゴールや用途の分からない鉄パイプ、ネットの固まりが打ち捨てられている。うら寂しい一帯で人気はなく、役目を終えた備品が外からの人目も遮っていた。
 沸き上がった安心感に安堵の息さえ漏らしてしまい、自分の性分にうんざりさせられる。
「……なんて様だ、まったく」
 人探しをしているというのに人気がなく見通しも悪い場所にいてはどうしようもない。
「カナタさん。疲れているんだったら休むことも肝要ですよ?」
「お前は意外……でもなんでもなく、お節介焼きだよな」
 嫌みのつもりではなく、本当に心の底から感想として口にしたらなぜだかアステルの反応は色よかった。
「当然です! 誰かに何かをしようとするのは当たり前のことじゃないですか」
 そうですよね? とアステルは念でも押すようにして訊ねてくる。聞かなかったことにしてカナタは指示だけを飛ばした。
「お前もこの前の猫を見つけたときみたいに耳を澄ませていろ。シロコの声が聞こえたんなら俺に――」
「聞こえましたよ」
 あまりにもあっけらかんと、さも当然の如くそんな返事をされてカナタは言葉を失う。けれどもそんなのは一瞬のことで、すぐに気を取り直すと手早く要求を突きつけた。
「だったら場所を教えてくれ」
「もちろんです。……けど、ちょっと様子がおかしそうなんです」
「俺の知ったことか。良いからさっさと教えろ」
 例によって傲岸なカナタの取り付く島もない態度に気圧されてアステルは萎れる。しかしポケットにしまわれたままの画面に映り込む彼女の反応をカナタが知り得るはずもなく、その口からは無理矢理に言葉が絞り出された。
「カナタさんから向かって右手前方に音源があります。建物の向こうでしょうから距離は遠いと思いますが……」
 それならばこちらから出向くしかあるまい、と心中に湧く気だるさを噛み殺して重たい足を動かし始める。
 部室棟の壁沿いに、捨て置かれた用具の隙間を潜り抜けていった。向かいの校舎の窓は高く、こちら側がほとんど覗かれないためなのか、惣菜やパンのパッケージ、ビニール袋などが放棄されている。日当たりが悪く湿った土の上には足跡もあって、立ち入る人間の存在を示唆していた。やがて突き当たりに学校を囲う生け垣が見えてくる。カナタはもう一度アステルに案内を求めた。
「近づいているのか?」
「はい。ですが、あちらからも接近しています。このまま進むとはち合わせるかもしれません」
「だったら好都合だ」
 散らばったゴミへの不快感から小走りになって草を踏み分けていく。少女の金切り声はそんな中でカナタの鼓膜を痛打してきた。
 その異様さを怪訝に思ってカナタは咄嗟に――
「カナタさん!? どこに行くんですか?」
 踵を返し駆け出していた。
「良いから、今は黙ってろ!!」
 いつになく鬼気迫った声でそう言いつけて来た道を戻ると、壁際に積み上げられた緑色のネットの山を見つける。色褪せて泥がこびり付いたそれはカナタの腰ほどまでの高さで、考える間もなく彼はその陰に身を隠した。
 程なくして幾つもの足音が道の先に殺到し、罵声が痛いほど甲高く響き渡る。
「なんで分かんないの!? わたしには関係ないって言ってるでしょッ!?」
 その声の主に気づいたアステルが何か言い掛けたのをカナタは事前に制した。
「でも、シロコさんが……」
 アステルの訴えも黙殺し、カナタは壁に背中を押しつけると抱え込んだ両膝の間に顔を埋める。できれば耳も塞いでしまいたかったが、会話の内容が気になり我知らず耳を欹てて(そばだてて)いた。
「わたしはあのバカが払えなかった分を肩代わりしようって言っただけ! そいつらは関係ないでしょ!?」
「だから関係あるって言ってんじゃねぇかよ。あいつはこいつらとも勝負してたの。それで負けたんだから払うのは当たり前だろう?」
 シロコと思しき少女に応答する男の方は、恥ずかしげもなく黄色い声で笑うから気分が悪くなる。しかし、そんなものを霞ませてしまう怒声が再びカナタの耳朶を貫いた。
「嘘ッ! あのバカに勝ったのはあんただけだった! なのに、なんであんた以外の三人にまで払わないといけないわけッ!?」
「違うんだって。あいつが勝ってたのは総合での話。こいつらはあいつと個別で競ってたの」
「それだって、どうせあんたたちが適当なこと言って後から自分たちが都合の良いように仕向けただけじゃない!! いつものやり方でしょ!?」
 怒濤の勢いで畳みかけ、シロコは相手の反論を封じにかかる。
「もう一度言うけど、これ以上はわたしと関係ないの!! 関わって来ないでッ!!」
「別に、今返せないっ言うんなら俺たちそれでも良いけど?」
 けれども軽薄そうな男はやはり嘲るような調子のまま後ろに控えた取り巻きたちに命じる。
「俺の代わりにやっといてくんない? 来週までに払わせれば良いから」
 それを言い残すと一人が立ち去っていく足音がした。幸い、カナタがいる方角とは反対に向かってくれて彼は息を潜めたままその場に留まる。それから居残ったシロコと取り巻きたちの間で僅かな遣り取りがなされたが小声過ぎてカナタのいる位置からは聞き取れなかった。
「……何で、わたしがこんなことに」
 取り巻きが自分たちのリーダーを追っていき、取り残されたシロコは独り呟く。それから彼らとは反対の道筋を、つまりはカナタがいる方向へと歩き出してきた。
 逃げ出さなければ見つかるが一本道で物陰から飛び出せば当然見つかる。などとカナタが考えている間にも足音は迫り、そのまま硬直して息を押し殺している間にカナタの眼前を通り過ぎ――なかった。
 カナタのいる何歩か先のところで立ち止まり、気づいて肩越しに冷たく見下ろしてくる。
「盗み聞きしてたの?」
 状況だけ見れば正しくその通りで、だけどカナタにも言い分がある。シロコだってまさかカナタが助けに入るだなんて期待は微塵もしていないだろうし、だから事実をそのままに述べようと決めた。
「猫の件について、具体的に話を詰めに来ただけだ。ここに隠れたのは成り行きでしかない」
「……でしょうね。あんただから、そんなとこだろうと思ってた」
 妙な間を挟んでシロコは前に向き直り、それでもまだやり切れなさそうにして遠く空を扇いだ。赤い夕焼けは町を照らし出せるほど明るくなくて、地上の陰影が深まる中、空だけが光をはらんでいる。
「ごめん。今は猫のこと、話せる気分じゃないから」
 詰まった喉からそれだけの台詞を絞り出し、シロコは薄まる明かりの中へと歩き出した。置き去りにされた影法師だけが長くカナタの目に焼き付く。

 その日の帰り道は日が落ちていつもより肌寒く、家へと続く小道は古ぼけた街灯の白々しい明かりに照らされていた。しかしアスファルトに広がる朧気な光の輪は頼りなく、その外に掻き消せない暗闇がわだかまっている。
 そうした宵闇の中に踏み出していくカナタは知らずポケットにしまったものを握り込んでいた。我に返って手を引き抜こうとすると、そこから声が漏れ出してくる。
「……ねぇ、カナタさん」
 彼女が言いたいことまで全てが察せてしまい、カナタは手元から前方に目線を引き戻す。何気ないふうを装うとしたらずっと固い声でこう返していた。
「関わるつもりはないからな」
「でも、カナタさんは……」
「シロコの幼馴染みだから、ってか?」
「ちがっ――」
 素っ気ない返しにアステルが反駁しようとするのを遮ってカナタは言葉を押しつける。
「前にも話しただろう? あいつと俺はもう無関係なんだ。お互いにそれで納得したし、だからあいつも俺に助けなんか求めなかった。それで良いだろう?」
 気を抜いたら八つ当たりじみた罵りに変わりそうで、だから必死に自分を律しながらも口は噤めない。
「アステル、これだけは言っておく。お前がどれだけ頼み込もうと、シロコの件に首を突っ込むことはない!」
 言い切った瞬間にカナタの首や肩から力が抜けた。そこで初めて彼は自分が力を込めて、威圧するように言いつけていたことを自覚する。アステルはすっかり萎縮してしまっていた。
 ――そう、一瞬でもカナタが感じたのは、彼が彼女を侮っていたからだ。
「……そうですね。カナタさんに無理強いはできません。だから今度は、わたし自身がどうにかできないか、考えてみます」
 声音は静かに大人びていて、巡る決意はカナタに口を挟ませない。拒絶しているわけでもないのに、今のままのカナタを寄せ付けない意志がアステルから滲んでいた。
「口で言って通じる奴らじゃないぞ。何か、方策はあるのか?」
 訊いてなんになる? どうせ協力もしないのに。
 そんなカナタ自身の自分を責め苛む声さえ打ち消すようにしてアステルは。
「……はい」
 とだけ肯定する。実のところ、彼女の中でもまだ煮詰めは足りていなかった。だというのにそんな不安すらねじ伏せて彼女は怯まずたじろがない。
「お前、あいつがどういう状況に置かれているのか、分かってるのか?」
「もちろんです。シロコさんのご友人が賭け事をして負けました。その支払いをシロコさんが肩代わりしようとしています。そこに問題が生じたんですよね?」
 その通りだった。人間の、そんな黒い部分をアステルが理解できているとは思っていなくてカナタは驚愕する。善意の塊のような少女だったから賭け事もいじめもカツアゲも、根本のところで頭がついて行かないものだと思っていた。
「ご友人のためにあんなに必死になれるなんて、やっぱりシロコさんも良い人ですよ!」
「…………」
 やはりアステルはアステルだった。
「……まぁ、概ねお前の理解で間違っていないよ。付け加えるのなら、賭けの内容ってのはおそらくテストの点数だな」
「えぇと、それは試験の点数を競って、ということですか?」
 頭の中にはさぞ華やかな花畑を拵えていそうなアステルだが、案外理髪で飲み込みは早い。だから大枠の背景は省き、人間の立ち位置だけを教える。
「シロコと話していた中で一人偉そうな奴がいただろう? あいつは進学科の所属で、恐らくは取り巻きの連中が普通科だ」
「……どうしてそんなことが分かるんですか?」
「良いから黙って聞いていろ」
 進学科と普通科は個人の希望を挟まず、中等部最後の試験内容によってのみ選り分けられる。そこで一定以上の成績を収めたものが進学科所属となり、以降の三年間は別々のカリキュラムを与えられた。そんな制度故に進学科の一部には自分たちの所属を鼻にかけ、普通科に対して横暴に振る舞うものもいる。そうした人間の典型として普通科に取り巻きを設けるのだった。
「人間ってのは人に従うのも従わせるのも好きならしくてな。あんな頭の悪そうなリーダーでも地位さえあれば人は集まるんだ。その集団がシロコの敵の正体だろう」
 従う側も従わせる側も気色悪くてカナタは距離を置いていたが、同じ学校に通っていれば嫌でも視界に入ってくる。誰しもが目を逸らしてやり過ごすしかない、小さな社会の暗部だった。
 しかし、この問題の救えなさはそんなところにあるのではない。
「言っておくが、確かにあいつらは都合の良いカモを付け狙っている。だが単純に虐げる側と虐げられる側で分かれているわけでもないんだ」
「どういうことですか?」
 人間関係とそこにまつわる心理の、得体の知れなさに触れたことのないアステルの声は柔らかい。だから彼女には黙っていれば良かった、と後悔する反面でやはり今の内に事態を把握させてもおきたい。
「純粋な被害者もいないわけじゃない。シロコの奴……もまぁ、どうせこちらに該当するんだろう。だがな」
 そこから先を語るには僅かな逡巡があって、けれどもここまで語れば後戻りはできなかった。
「取り巻きになっているのは被害者に加害者にも回る連中なんだ。意志の弱い人間が状況に流されて他人を攻撃したりされたりする。同じ穴の狢なんだよ」
 だから手に負えない。どちらも状況の一部でしかなくて、手を差し伸べても解決するのは一時的。またしばらくしたら同じことが繰り返される。
 そのときには被害者と加害者の構図が逆転していることなど珍しくとも何ともない。
「アステル。お前が助けようとしているシロコの友人ってのは哀れなだけの被害者じゃない。一ヶ月も経てばバカ面のリーダーの子分になっている。それからまた同類を弄ぶんだろう」
 カナタはシロコが「あのバカ」と呼び、庇っている相手に心当たりがある。そいつの人となりは嫌というほど思い知らされた過去があり、手助けするシロコの気が知れなかった。
「関わっても後悔するだけだ。必ず最後には馬鹿を見る。だから、止めておけ。お前が関わるほど奴らに価値はない」
 語りはそんなつもりなくとも熱が籠もって、どうにか届いてくれるようにとカナタは願った。アステルを醜い人の欲望と願望が入り交じった中になんて招き入れたくない。
 それでもカナタにだって分かってはいた。
「カナタさんってやっぱり、根は優しいですよね」
 アステルがどういう性分で、何を思い何を守ろうとしている少女なのか。
「ありがとうございます。だけど、ごめんなさい。気持ちはすごく嬉しいんです。けれども」
 その先はもう聞く前から予想できてしまって、カナタは電源を落としてしまおうかとも思い悩んだ。だが聴かずに済ませるのも卑怯に思えて、うなだれながらも耳を傾ける。
「力になれたら、って思います。助けられないなら、せめて支えになれたら、って。もう出会ってしまってるんです。全部知って、それなのに何もしなかったら、わたしは自分が受け入れられなくなる」
 見えないけれどもアステルがどんな表情でそれを言ったのかはカナタにも分かる気がする。きっと穏やかさの下に勇壮な決意と優しさを秘め、いつもと変わらぬ微笑でそんな台詞を言ってのけたのだ。
「任せて下さい! わたしだってやるときはやるんですからね!」
「…………」
 彼女のその強さが眩しくて、カナタは何と返して良いかも分からずに返事を保留した。その代わりに沈黙を埋めようとして話を戻す。
「それで、お前はどんな方法であいつを助けるつもりなんだ?」
 アステルは「うーん」と切り出し方に迷い、一つ一つ言葉を選び出してくる。
「まだ具体的なやり方まで決めたわけじゃないんです。けれどもわたしの主張を押し通すのに、必要な突破口は見つけています」
 その言い方がアステルにしては随分と物々しく、やはり彼女には似つかわしくないのではないかと無責任な思いがカナタの胸中を過ぎる。それを握り潰し、しかし黙ってもいられなくて質問が口をつき先走っていた。
「突破口って、どうするつもりなんだ? お前のことだから無闇に人を傷つけたりはしないだろうが……お前自身も含めて、あんまり誰かが危ない目に遭う方法だったら俺も黙って見ていられない」
「あはは……心配してくれるのは嬉しいんですけど、わたしの能力はそんなに危ないものじゃありませんよ」
「能力?」
 飛び出した単語が場違いに思えて、反射的に問い詰めてしまう。普段叩いているような憎まれ口も忘れ、カナタは通信端末を引きずり出すと画面に映る少女を見据えた。
「お前、そこから外に干渉する方法なんて持ち合わせていなかっただろう。それとも……思い出したのか? 何かが分かったのか?」
 早口になるのはそれだけカナタがこの少女を見極めかねているからだ。どうしたら生まれ、どんな特性を持つのか、不明な点があまりにも多過ぎる。
「あのっ、そんなに慌てなくてもちゃんと説明しますから、だから落ち着いて……っ!」
 アステルはカナタの剣幕と呼んでも差し支えない気迫に怯えて身を竦めていた。そこでカナタも自身を省み、画面から顔を離してみたが、好奇心までは打ち消せない。
「悪かったよ、少し冷静になる。だけどお前の能力って何なんだ? そいつはお前の根幹に迫るものなのか?」
「えぇっと、あんまり冷静になれていないような……」
 言われるまでもなくその自覚はあって、しかし指摘されたところで収まるものでもない。それを目にしたアステルの笑みは一層複雑そうな色合いを帯び、この話題に見切りをつけた。
「わたしの能力ですけど、いつから使えるようになったのかは分かりません。でも、いつの間にかできるようになっていたことでしたから、元々わたしに備わっていたんだと思います」
 それはつまり、アステルの能力とやらが彼女の成り立ちを解き明かす鍵になることの証明だ。
「それで、どんなものなんだ?」
「だから少し落ち着いてって……難しいんでしたね。だけど、期待するほど大したものじゃないですよ」
 それでも良いから、とカナタが続きをねだるとアステルはやや照れ臭そうにしながらも頷く。はにかみつつ能力とやらの内容を打ち明けてくれた。
「わたしの能力というのは、例えばカナタさんのコンピュータや端末を操れるというものです」
「なんだと!?」
 カナタはほとんどいきり立つようにして立ち止まり声を張り上げてしまう。その反応を予想していたのかいなかったのか、アステルは頭を抱えて身を小さく丸めた。
「……す、済まなかったな。脅かすつもりはなかったんだ。だけど、それよりもハードを操るだと? 具体的には何ができるんだ?」
 そして抑えようとしてもやはり高ぶった好奇心や知識欲までは誤魔化せないカナタである。しかしこの場合に限ってはそれも無理がなくて、というのもアステルの能力は今や危険性の高さから駆逐されつつある技能に似ていたからだ。
「もしかして、そのコンピュータも自在に操れるのか?」
「自在に、というのがどれほどかにも依りますけど、たぶん思いつくことなら一通り」
「だったらそのコンピュータから俺のケータイにメールを送って見せてほしい」
 命じられたアステルの返事代わりに通信端末が鳴って、電子メールの受信を告げる。到着したばかりのそれを開くと『今のカナタさんは少し恐いです』と些細な抗議が記されていた。
「悪かったな!?」
「ごめんなさいごめんなさい!」
 畏縮し切ったままそんなことを言われてはさしものカナタも気が引ける。腑に落ちないものを感じながらも言及は避け、話を引き戻した。
「それで、お前の能力の話だが、こんなことが幾らでも好きなだけ行えるのか?」
「そうですけど……」
 アステルは怪訝そうにして、何か問題が? とでも聞きたげカナタの表情を伺ってくる。まるで事態の重大さが理解できていないと知ってカナタは偏頭痛持ちでもないのに頭の痛さでへたり込みそうにだった。
「やっぱこいつは頭ん中が花畑だ……脳天気ってレベルじゃねぇ……」
「そ、そこまで失望されるようなことですか……」
 この少女が極度の世間知らずだったと思いだし、どうやって説明したら良いものかとカナタは頭を悩ます。その能力に対する認識だけでも、何とか正してやらねばならなかった。
「なぁアステル、お前は現代社会で一番替えの利かないものは何だと思う?」
 少し迷ってから、それでもはっきりとしない口調でアステルは答える。
「人だと思います……けど、違うんですよね?」
 首を傾げるアステルにカナタは頷いて苦々しいものを噛みしめながらも事実を告げる。
「システムなんだ。今の社会を支える無数のコンピュータ……そいつを複雑なシステムが動かしている」
 カナタの住む時代にデジタルやアナログといった言葉は死語と成り果てていた。そうした区分が意義を失うほどに思いつく限りの物品が電子化されているからだ。
「実際、そうすることで人間側の負担は着実に減らされてきた」
 そうした変革に反発もありはしたのだ。けれども圧倒的な情報の取り扱い安さともう一つ、決定的な要素が時代への反動を容易く押し潰してしまった。
「安全だったんだよ、何よりもな」
 人間がコンピュータに競り勝てる時代はとうに過ぎ去った。人間のミスさえも予測して補填し、コンピュータは責務を完遂する。セキュリティに関してもそれは同様であり、所有や使用に著しい制限を設けられた大規模量子コンピュータが情報通信局の下で全国に配備され、この国から騒乱の種を一つ残らず洗い出し排除していた。
「今の時代はその信頼性によって成り立っている。……分かるか? お前の能力とやらがもし社会の運営に関わる機器や設備まで操れたのなら、どうなるのか」
 さすがにこうまで言われたら聡いアステルは察してしまったらしく唖然としてカナタを見上げている。
「お前の能力は、この時代の社会を転覆することだって目論める。それだけ危険な代物なのかもしれないんだ」
 無論、アステルがそんなことをするとはカナタにも思えない。しかしそんな能力があるというだけでもう、人々は彼女を放っておけないだろう。
「わたし、もしかして大変なものを抱えてしまって……!?」
 おおよその事情を把握したらしいアステルは涙目で自分の手元とカナタを見比べる。まだ力の及ぶ範囲を知らない段階で脅し過ぎただろうかと少しカナタは反省した。
「ひとまずはその認識さえあれば良い。それがあるのなら……言うまでもないだろうが、誰にも教えるなよ? 知れ渡ったらどうなるのか、俺にも分からん」
「は、はいっ!」
 息でも詰まってしまいそうな上擦り方のアステルに苦笑しつつ、カナタは宵の暗がりに続く家路を急いだ。
 薄く曇った空に一等星が一つ煌めいている。


 シロコのいざこざを目撃した翌日は電車が一部運休で午前中は再開の見込みがないらしい。電車通学の生徒が多いカナタの学校はもろにその煽りを受けてしまい臨時休校となっていた。
 かといって有意義な余暇の過ごし方に心当たりがあるでもなく、自重を支えることにさえ倦んだカナタは椅子の背もたれに身を預けてしまう。
「電車が運休とはなぁ……お前、なにもしてないのか?」
 冗談めかしていったつもりだが、当の少女は酷く怯えた目でカナタを非難してきた。
「そっ、そんなこと……非道いです。絶対にするわけないじゃないですかっ! それにわたし、昨日カナタさんに教えたのに……」
「教えただと? お前が俺に?」
 退屈を紛らわすためだけに会話していたカナタの頭は鈍くて、すぐには記憶を掘り起こせない。しかし思案している内にアステルの方が堪えかねて声を張り上げた。
「カナタさんがわたしに、この能力が大変なものなのだと教えて下さった、そのあとのことです! わたしはここから出られないから――」
「あぁ……あぁ、はいはい。分かった分かった思い出した」
 白熱するアステルの語気を押し留めるつもりで発言を遮ったのだが、神経を逆撫でしているようにしか聞こえない。金色の柔らかな長髪を逆立てる勢いで膨れ上がるアステルの憤慨は、しかし無反応のカナタを前にすると萎んでいってしまった。それを見計らったわけではないが、空気が静まったのを察知してカナタは沈黙に言葉を差し挟む。
「お前がそこから出られないって話だろ? 今のところ、その空間は他の機器と繋がってないから外への干渉もできないっていう」
「……覚えてるじゃないですか」
 言外に、意地悪、と言われた気がしたがカナタはアステルから目を逸らしつつ話を続ける。
「そんで、そいつがお前に立ちはだかる最大の課題でもある、と」
 もちろんシロコの一件での話だが、それを直接口にするのは躊躇われた。
「そうなんですよね。このままだとわたしは手出しができません。けれども、カナタさんの話を聞いたら違う方法を模索した方が良い気もしてきて……」
 そのまま物思いに沈んでいってしまうアステルを視界の隅に捉えながらも素知らぬ振りをして彼は押し黙る。アステルの能力は安易に取り扱える代物ではなかったし、それに何より手は出さないと明言した自分がとやかく言うのはおこがましくも感じた。
 こんな禄でもない案件でなければ、何も考えずに手助けできたのに。
「アステル、何でお前は……」
「はい?」
 知らずにこぼしてしまったらしい問いを打ち消そうとする声に、玄関のチャイムが被さった。来客など久しく迎えたことのないカナタは訝しく思いながらも立ち上がる。
「宅配便か? 何にせよ珍しいな。ちょっと行ってくるから、お前はここで猫を見張っていてくれ」
「了解です。あぁ、でも念のために扉は閉めていってくださいね」
「分かってる」
 部屋を出る間際、ふと振り返ってカナタは室内の猫たちに目をやる。
 サビ柄の猫はこれまで同様に大して広くもないカナタの部屋を念入りに落とし物でも捜すように歩き回っていた。それと対照的にトラ柄の方はカナタが百均ショップで買ってきた座布団に丸くなって一日の大半を昼寝して過ごす。ごく稀に動いたと思ったら日当たりの良い位置まで座布団を引きずっていくだけなのだから筋金入りだった。
 廊下に出ると後ろでに扉を閉めて、玄関に向かう。チャイムは断続的に、こちらの反応を伺おうと鳴らされているからまだ相手は立ち去っていない。実のところ、概ね誰かは予想がついていたから急がない。全く呑気に歩いていくと、扉越しに少女の声が聞こえてきた。
「ね、ねぇ!? いないの!?」
「うるっせぇな……」
 カナタは気怠げに呟きながらも解錠して、扉を押し開こうとした。
「いっ……!?」
 重たい感触に跳ね返され、鈍い音と呻き声に慌てて扉を引き戻す。
 仕方なく足音が一、二歩退いていくのを待ち、改めて扉を開くと今度はぶつかることはなかった。遮るもののない日光が顔に降りかかって目が眩む。
「っあぁ……良く晴れた日だな」
 重たく疼く目で雲一つない空に見ほれていると頬に視線を感じた気がした。無難にやり過ごせやしないかと思案する。
「ちょっと! 少しくらい謝ったらどうなの!?」
 その甲高い、至極真っ当な反論に顔をしかめてカナタは限界を悟る。
「あぁ……その、うん。すまなかったな、遅くなって。少し作業に熱中していたもんだから」
「そっちじゃない! ……いや、そっちも何だけど、それよりも他に! あるでしょ!?」
 赤くなった額と鼻頭を押さえるシロコの目尻には涙が溜まっていて、扉の衝突の威力はそれなりだったらしい。ここで口論を繰り広げる気力などなく、殊勝に頭を下げた。
「すまなかったな」
「なっ、何よいきなり……」
 神妙なカナタによほど意表を突かれたようでシロコは目を丸くする。訝しみつつも気勢を削がれたらしく、有耶無耶な気分を吐息に混ぜて霧散させた。
 そうなるのを見計らい、カナタは改めて私服姿の幼馴染みに向き直る。
「猫のことだろ? お前、この手のことになると本当に熱心になるもんな」
「悪い!?」
 鋭い目つきを突きつけてくる少女に、こんなところでまで怒ることもなかろうに、と苦笑してしまう。或いはまたからかわれたとでも思ったのだろうかとそんな思いつきを打ち消し切れずにカナタは少し反省させられた。
「これでも誉めてるつもりなんだよ。それよりお前、今日中に猫を引き取っていくつもりなのか?」
「ううん、まだそこまでは。今日は、ちゃんと話せなかった分、猫の体調だとか大きさだとかを自分の目で確かめに来ただけだから」
 そう言うシロコの目は心なしか輝いていて、普段覗かせている棘が根こそぎ抜け落ちている。昔から猫には目がない少女なのだ。カナタとしては従順な犬の方がまだしも可愛げがあるように思えるのだが、考えてみるとサビ柄の子猫はそこいらの犬より人懐っこかった。
 愛嬌を振りまくのならシロコのような人間だけにすれば良いのに。
「ま、猫もお前に飼われた方が幸せだろう。取り敢えず中に入れよ。二匹とも俺の部屋にいる」
 言いながらカナタが玄関口から退き、入るように促すと曰く物言いたげシロコの視線を突き立てられた。
「何だよ?」
「……これが三年間ぼっちだった奴のデリカシーなのね」
 そっぽを向いて俯き加減に溜め息をつくシロコの訴えは婉曲過ぎて、咄嗟に意味が読み取れない。それなのに考えてまで理解しようとする努力も馬鹿馬鹿しくてカナタは黙殺すると廊下に踵を返していった。その背を厳めしい顔をしたシロコが追いかけていき、二人して短い廊下を進む。薄暗いそこでの会話はなく、カナタも黙々と足を進めていき自室の扉に手をかけた。
 開け放って、初めてそれから失態に気づく。
「おかえりなさい、カナタさん! あ――」
「何、今の声は? え――」
 カナタが止める間もなく部屋に踏み込んでしまったシロコと画面の向こうにいる少女が目を合わせること数秒。
「シロコさんですね!? カナタさんのお友達の!!」
 歓喜に染まったアステルの問いかけに。
「「違うッ!!」」
 否定する二人の声が重なった。

「……ねぇわざと分かり辛い説明してない?」
「それはお前に理解力が欠けていておまけに俺の話をまともに聞かないからだ。猫にしか興味がないなら最初から聞いてくるな」
 椅子に腰掛けたカナタの辛辣というよりは罵倒に近い文句に、床に這い蹲り猫を追いかけていたシロコが振り向く。無論、そんな視線など意にも介さないつもりだったのだが意外なところから叱責が飛んできた。
「駄目ですよカナタさん、せっかくシロコさんの方からやってきてくれたのに。本当はもっと優しいじゃないですか?」
 落ち着いて諭すような言い聞かせ方で下手に反論すればカナタの方が幼稚そうに見えてしまう。しかし、だからといって認めるのは断固として認められずにカナタも言い返した。
「良いか? この際だからはっきりと言っておくがな。俺が優しく見えるのだとしたら、それはお前がそう思いたいからだ。俺を美化し過ぎているんだ」
「どういう意味です?」
 神妙な面立ちになったアステルは静かな双眸でカナタを見つめてくる。その奥深い青色に吸い込まれて我を忘れそうになり、カナタは咄嗟に目を逸らした。
「そのままの意味だよ。結果的に俺はお前を助けた形になったからな。一応は恩人である俺を優しいだとか何だとか、そういう人間なんだと思いたがっているんだろう?」
 なんて話している内に生温かい不快感が喉元にわだかまって、カナタは唸り声を上げる。喉に力を込めて歯を食いしばり、こみ上げてくるものが弱まった瞬間に口を開いた。
「ともかく、だな。そんな空間に縛り付けられていなかったら、本当に優しい人間にだって出会えるから。だから俺みたいな人間におかしな期待をかけてくるのはやめろ」
 言い切った途端に沈黙が訪れて、自覚していた以上に声を張り上げていたカナタは耳鳴りに包まれる。鈍い痺れがしばらく鼓膜に付きまとって、カナタの気まずさを一層深めた。
 無言の時間はゆっくり過ぎ去り、やがて蚊帳の外にいたシロコがおずおずと手を上げる。
「わ、わたしってもしかして帰った方が良い?」
 その空気を読んでいるようでまるで読めていない質問は少なからずカナタの癇にさわり、それ以上にアステルを恐縮させた。
「ご、ごめんなさい! こんな雰囲気にするつもりじゃなくて……」
「何でお前が謝るんだ馬鹿! 俺の発言が原因だろうが。……ということで、すまなかったな」
 そうして置かないとアステルの気が済まないだろうからカナタは先んじて頭まで下げる。その真意に気づいたのかどうか、アステルはあわあわとどちらに声を掛けるべきか迷って最後には自分も頭を下げた。
 その一連の流れを見ていてシロコの表情は見る見る渋いものになっていく。
「あんたたちって仲悪いの? それとも良いの?」
 これに対するカナタとアステルの反応はまちまちで。
「見ての通りだ」
 と肩を竦ませて言うカナタの奥では画面の中の少女が邪気も疑念もない笑みを咲かす。
「大の仲良しです!!」
「どうしたらそう思えるんだッ!?」
 肩越しに背後を振り返ってカナタが睨みを利かせるとアステルは怯えた素振りを見せたがすぐに気を取り直して「絶対に仲良しです! 間違いありません!」などと断言する。
 その好意を間近から受け止めたカナタは何か反駁しようとして虚しく空気を噛みしめた。純粋な好意への対処法をカナタはこれまで人生から学べてきていない。
「……何となく、分かった気がするわ。あんたたちの関係」
「待ってくれ、待つんだシロコ。今のお前は恐らく勘違いしている。俺とアステルは普段からこんなやり取りをしているわけでは……」
 しかしカナタの弁解にもシロコは取り合わず、愉しそうに喉を鳴らして笑うばかりだった。
「ぼっちだと思ってたけど、ちゃんと話せる相手見つけてたんだ。だったら……そっか。うん、良かった」
 そんなことを言い出したシロコの目つきは柔らかくて、言葉遣いに険がない。
 しかしそれが罪悪感に基づいた発言だと気づいていたカナタには、黙って頷く気になどなれなかった。わざとらしく溜め息をつき、肘掛けに頬杖をつく。
「言っておくが俺は一人でいたいから一人でいるんだ。生まれつきの性分でな。……小学校の頃だって、お前くらいしか友達いなかったろう?」
 その言葉の真意に気づけないアステルは不思議そうにカナタを眺めていたが、シロコの方は違った。気遣われたのだ、と気づいて赤面しそれから気まずそうにカナタを睨みつける。
「知ってるしそんなこと! わたしがいなかったらずっと一人で機械ばっか弄くってたくせに!!」
 それだけを言い捨てるとシロコは荷物を纏め、カナタの部屋の戸口に向かう。扉から半身踏み出したところで足を止め、短めな黒い髪を指先で弄びつつ視線を寄越してきた。
「猫のことだけど、オスとメスが一匹ずつ、ね。両方ともわたしが預かって良いの?」
「そうしてくれ。生き物を飼うなんて俺には――」
 言い掛けたところで椅子に座るカナタの膝にサビ柄の猫が飛び乗ってくる。何かを期待するような目で見上げられて喉までせり上がっていた言葉は消沈してしまった。
 決まり悪さを隠し切れず、発言諸共飲み下してカナタは返事に窮する。
「まだ決まってないんなら、意思が固まってから電話して。それまではこっちも待ってるから」
 言われて机の上にある自身の通信端末を一瞥する。そこにはつい今し方まで記されていなかったシロコのメールアドレスと電話番号が収められている。
 本当にこれで良かったのか?
 問いかけたのはシロコに対してである以上に、受け入れつつある自分に向けて。
 シロコとの不干渉は中学校から知らず知らずお互いが不干渉を守っていた境界だった。そのはずなのに、猫を拾ったと言うだけで随分と呆気なく綻んでしまっている。
 自分はこれまで人との関わり避け続けてきたのに。
 それでも、それだからこそ馴染んだ通信端末に手を延ばし掛けて、カナタは躊躇う。
「カナタさん?」
 気遣わしげにこちらを伺ってくる少女の青い瞳は、きっとカナタの葛藤を見透かしている。事情なんて知らなくても、この多感な少女に隠し事など無意味だった。あまりにも彼女はカナタの心に触れ過ぎている。それなのに。
「……いいや、何でもないよ」
 強がるだけで無駄に終わるとは知りながらも少し無理をして笑みを顔に張り付ける。
「ただ、ちょっとぼうっとしていただけだ」
 触れたらきっと苦々しい気持ちになると思っていた。それなのに実際には、恐れていたものが去来してこない。どこか現実味に欠けた心地に包まれつつ、新しい繋がりを手に取ってカナタは息をつく。
「分かったよシロコ。早い内に決めるつもりだから、それまで待っていて欲しい」
「むっふっふ……ようやくカナタも、猫の魅力に気づいたみたいね。もし飼うんなら名前もちゃんとつけてあげなきゃ駄目だよ」
 そう楽しそうに言うシロコは幼い頃のような悪戯っぽさで笑う。堅苦しくこと構えていた自分が馬鹿らしくなってカナタも失笑した。
「大きなお世話だ」
「今はまだ素直になれないのならそのままで良いよ。だけどその強がりもいつまで持つんだろうね? それじゃあ、わたしはこの辺で!」
 好き勝手に言いたいことを言うとシロコは今日一番の浮ついた足取りで廊下を走り去っていってしまった。しばらくして「お邪魔しました!」という挨拶が響いて扉のしまる音がする。
「……猫が関わるだけで、よくもあんなに機嫌良くなれるもんだ」
「カナタさんのコンピュータ好きも相当なものだと思いますけどね」
 事実、その通りだという自覚くらいはカナタにもあった。誰にでも使えるインターフェイスと仕事でも休暇でも持て余すほどの拡張性、汎用性がポケット一つに収まる時代、持ち運べないコンピュータに出番はない。
 だから飛び切りの不満を視線に込めて、鋭く差し向けるだけに留めたカナタである。
「ひぃっ!?」
 ……未だに不意の睨みが効いてしまうのもどうかとは思ったが。

絆の繋ぐ過去

『金を貸して欲しい。明日、校舎裏の部室棟前まで来て』
 そんなメールが届いたのは、シロコと連絡先を交換してから一週間も経たない帰り道での出来事だった。結局、子猫を飼おうか散々に迷って連絡を先延ばしにしていたらシロコの方からそんな頼みごとをしてきたのである。
 家路の途中でそれを目にしたカナタはまず見間違いを疑い、何度も文面と送信者の名前を見直した。けれども内容が書き換わるはずもなく、よろけるようにして近くの民家の石塀に背中を押し当てる。その格好のまま何かしら、より具体的には件の頼みごとを打ち消すメールなり電話なりが来るのを待ちわびていた。
 けれども赤らんでいた空は徐々に暗く沈みいく。
 そんな様子がよほど怪訝に思えたらしく、アステルが気遣わしげに顔を覗き込んできた。
 カナタはメールフォルダの前面に表示されたウィンドウを睨みつけているようで、その実、何も見てはいない。
「……カナタさん?」
 その声で初めてカナタはアステルの視線を意識した。少女の眼差しがどうにかしてカナタの苦悩を伺い知ろうとしていることに気づいて、我に返る。
 指で頬や目尻に触れてみると、その輪郭は深く硬く歪んでいた。
「……あぁ。追加の課題が出されてな。その分量が存外に多いから、ちょっとな……」
 そんな言い逃れが通じるとは思えなかったが、咄嗟な誤魔化しに走ってしまう。アステルはそこからすらカナタの心情を読み取ったようで、凪いだ青色の瞳を沈鬱そうに細めるとカナタに手を伸ばそうとして、引っ込めた。微かに寂しそう目を自らの手に落とし、それからこちらに向き直って一言ずつ区切って、問いかけてくる。
「シロコさんからの、連絡が届いたんですよね?」
 こうも筒抜けだと一時でも隠そうとした自分が滑稽に思えてくる。
「……そうだよ。あいつの端末からメールが送られてきた。その内容がまぁ、少しばかり予想外でな」
「お聞きしても、よろしいですか?」
 ちょっと丁寧過ぎるくらいの敬語はアステルなりに気遣おうとした表れらしい。拒絶すれば聞かなかったことにもしてもらえただろうけど、それは寂し過ぎるように思えてカナタは口走ってしまった。
「あいつから金をせびられた。その受け渡しのために校舎裏まで来いと連絡が来た」
 書かれている文章をそのまま読み上げて、アステルの反応を待つ。
「……あの、それはシロコさんが助けを求めている、ということなんですか?」
「そうだな。内容をそのままに受け止めるのであれば、そういう受け止め方もできる」
「違うんですね?」
 強まった口調の問いかけはカナタに確認しているだけでしかなく、何か強い確信を抱いてるようだった。果たしてアステルにシロコの胸中が読み取れるのだろうかと、疑問に思いながらこんな問いかけをしてしまう。
「違うんだとしたら、お前は何だと思っている?」
 これにはアステルも即答せず、悩ましげに「それは……」と切り出すのに手間取った。それでも返事を保留することはなく、少しずつだがこぼしてくる。
「何となく……違うんです。シロコさんらしくない。あの方はカナタさんとの打ち解け方に迷っているようでした。それでも、必死に何かを伝えようとしていて……謝る? それとも違うような……」
 そこから先は放っていても混迷に沈み込むだけだろう。ともかく一番肝心な点に於いてはカナタと同意見だからアステルの呟きを打ち切る。
「お前の言っている通りだろう。これはシロコが俺を頼ろうとして送ったメールじゃない。それどころか、シロコ本人が送ってきたものでもないだろう」
 もちろん送信者のアドレスはシロコのものだが、そんなのは問題にもならない。その内容だけで断言できてしまうから。
「あいつが俺に、こうも厚かましく接してくるはずがないんだ。よくて誰かに書かされているか……そうでなければ、あいつの端末を他の誰かが操作しているか」
 冷静に言い切ってしまうカナタだったが、無論ただ事ではない。聞いていたアステルの方は唇を戦慄かせて竦み上がり、そんな状態からすぐさま気持ちを切り替えると目つきを精一杯の覚悟で引き締めた。
「カナタさん、あの――」
「分かっている。分かっているつもりだ。お前が言いたいことも、俺にして欲しいことも」
 見過ごしてはならないと、助けてあげたいと、アステルは言っている。そのためになりふり構わずカナタにも助力を求めようとしていた。事前にカナタは手を出さないと宣言していたのにも関わらず。
 それを愚かしいと断じることはきっと、簡単で。
 けれど、カナタは自分の向かう先を決め倦ねて、制服越しにざらついた石塀の感触に背中を押し当てる。
「今更あいつがどうなっていようが知ったことじゃない。そういう関係だったんだ。俺はそれを破るつもりなんてなかった」
 それなのに踏み込んでしまえば良いのでは、なんて妥協する気持ちが芽生えつつある。今はそれを意地と、それからこれまでの惰性で押し止めているけれど、ひどく気持ちが悪い。それまでのあり方とは決定的に相違した判断だから、受け入れられずにカナタの頭は反芻していた。
「言っておくが、俺だけが納得していたわけでもない。あいつはあいつで不明瞭な罪悪感に苛まれて、俺に触れられずにいた」
「……だから、だったんですね。時々シロコさんが怒っているのか、なんて聞いていたのは」
「だろうな。あいつも馬鹿な奴だと思うよ。けれど、俺だって未だにどこか、裏切られたような心地でいるんだ」
 何を話しているんだ、と止めさせようとする理性が働く。けれど口が止まらず、半端に切れ切れの話をしている自分が情けなかった。
 そんな躊躇いはしかし、アステルの一言に断ち切られる。
「聞かせて下さい」
 それまで当て所もなく赤黒い空を眺めていたカナタの目はそれに引きつけられて画面に落ちた。屹然とした物言いに似合わず、アステルは朗らかにほぐれそうな笑みを浮かべている。
「これまで、ずっと立ち入ろうがどうか迷っていました。けれども見て見ぬ振りはもう止めにします。聞かせて下さい。カナタさんとシロコさんの間に何があったんですか?」
 実のところ、そうまで踏み込まれてもまだカナタには迷いがあった。人に話すようなことではない。明かしてもどうにもならないし、慰めだとか励ましだとか、そんなものも期待しているわけでもない。それならば馬鹿にされそうな愚を犯すよりは心の内に秘めていた方がずっと和やかにいられる、というのに。
 或いはこの少女なら受け止めてくれるかもしれない。
 一度、そう思ってしまうともう手に負えなかった。止めどない言葉が溢れ出す。
「俺とあいつがいつから疎遠になったのかは話していたか?」
「いいえ、具体的には。ですけれど、時々話していらしたことから推測するに、カナタさんが中学校に入ったばかりの頃ですよね?」
 確かに話していたような気もしたが、そこまで漏らしていたのなら隠し立てする意味などなかったのかもしれない。思っていた以上に自分は心を許していたと気づかされてカナタは失笑してしまう。
「そうだよ。転機はそこで訪れた。けれどもそうなる前兆はもっと前から……それこそ、俺が小学校にいた頃からあったのかもしれない」
 思い出す。遠い昔にも、過ぎ去ったばかりの昨日にも思える日々のことを。
「俺はな、今のこの有様からは想像し辛いだろうが……よく、からかわれる立場だったんだ。小柄だったし、それから性格も当時はひ弱だったから付け込みやすかったんだろう」
「そんなに、意外というほどでもありませんよ。カナタさんには時折、とても繊細なところがありますから。普段はそれをずっと押し隠そうとしているようですけど」
 繊細、とは物は言い様である。聞こえは良いが打たれ弱いことに変わりははない。
「小学校の頃から下らないことでからかわれてはいた。ただその頃はまだ笑って受け流せたんだ。それが中学に入って新しい人間が加わると、どうにもな」
 からかわれた、と見るか、詰られた、罵られたと受け取るかのは主観の問題でしかない。カナタの中でのその一線をある時期から周囲の人間は乗り越えてしまった。
「ガキの中にもどうしてか他人を先導する奴がいるんだよ。そいつが俺を暇つぶしのおもちゃにして、周りもそれに従って……少しばかり、度が過ぎた」
 詰まるところ、周りも自分も子供だったのだろう。周囲は自分たちがしていることに自覚を持たなかったし、カナタもまた。
「抵抗するって考えが浮かんだのは随分と後になってからのことだった。たぶん、もっと早くそうしていられたなら、話は拗れずに済んだのかもしれない」
 だけど、何もかもが手遅れだった。カナタは追い詰められて周りが見えず、だから傍にいると思いこんでいた人間の心持ちにも気づけなかった。
「あるとき、限界が訪れて俺は暴力に訴えた」
 当時のことを思い出しながら言葉にしてアステルに伝えていく。
 切っ掛けが何だったのかはもう、覚えていない。ただ昼休みのあるときに自分の席に収まっていたはずのカナタは気がつくと滅茶苦茶にはねのけられた机と椅子の中心、教室中の視線を集めてそこで追い詰めた相手を睨みつけていた。
 リーダー格であったその少年は倒れた机にもたれ掛かって体を強ばらせ、澱んだ黒い目でカナタを見上げている。そこへとカナタは手近な椅子を両手で掴み上げ、振り回し、大上段に振りかぶって踏み込んだ。
 その行く先に。
「シロコが立ちふさがったんだよ。馬鹿みたいに震えて唇も真っ青なくせに俺を止めようと掴み懸かってきた」
 カナタはそこで正気に帰り、振り上げていた椅子の重さに引きずられて背中側へと倒れた。尻餅をつき、そこで攻撃を阻止したシロコの顔を見上げてさすがに気づかされる。
「あいつにとってそのリーダー格が大事な存在になっていたらしい。……少なくとも冴えない幼馴染みよりはな」
 彼女は間違いなく憎々しげにカナタを睨みつけていたから。
「そしてたぶん、今でもその関係は変わっていない」
 だってその男こそが恐らくは、今回シロコが身を呈して守ろうとしている相手なのだから。
「悪いな、面白味のない話で。つまるところはシロコが、俺をいじめていた相手を庇ったって言う、ただそれだけの話なんだ」
 もう少し悲劇的な一幕でもあれば様になっただろうに、この話には続きさえなかった。
「……カナタさん」
 不意の声につられて通信端末の画面へと目を引きつけられる。
 いつの間にか夕日は没し、宵闇が密度を増しつつあった。暗闇の中には点々と白く外灯が浮かび上がり、夜闇に慣れつつあった目は画面の明るさにさえ眩んでしまう。
 思わず手で顔を覆い、やがて目の奥に溢れる光が引いていくと、小さな画面に映り込む少女が佇んでいた。彼女は悲しそうにも嬉しそうにも見える複雑な笑みを浮かべて、はにかむようにカナタを見上げる。
「ごめんなさい。それからありがとうございます。何となくですけど、分かった気がしました。カナタさんが普段、何を考えているのか。どうしてそうしているのか」
「そう易々と分かられて溜まるか」
 思わずまた憎まれ口を叩いてしまうのは少しばかりの気恥ずかしさとむずがゆさから来る照れ隠しだ。きっとそんなこともお見通しのアステルはにこにことカナタに微笑むばかりで、それが尚更にカナタを居たたまれなくさせる。
 本当にもう堪えられる気がしなくてカナタは声を張り上げた。
「ともかく、だ! その一件があってから俺はお前がいるその空間を作り始めた。現実から逃避するためにな! それからはお前も知って通りだからこれでこの話は終わりだ良いな?」
 そのまま通信端末も仕舞い込もうとするカナタなのだが「待って下さい!」との声に引き留められる。
「まだ何かあるのか?」
 可能な限り苛立たしげに応じた。端末の画面に目を落としながらもし諭したりしてこようとしたら容赦なく電源を落とそうと決める。
 言外にそうやって脅すために鋭い視線を差し向けたら、柔和な面立ちに見つめられて気勢を削がれた。何とか決意を纏め上げてもう一度睨みつけてやろうとするのだが、それさえも底知れない瞳の色に包まれていく。抱えた敵意ごと抱き留められて、刺々しい感情を慰撫されてカナタは黙り込むしかなくなってしまった。
「そんなに気を悪くしないで下さいよ」
「別に機嫌が悪くなったわけじゃない。……ただ、何と言うんだ、その……まぁ、少しは話を聞いてやろうかという気にでもなっただけだ。良いからさっさと吐け」
 余計なことにまで口出しされたくなかったからカナタは話を急かす。そんな有様にアステルは困ったような表情を見せること数秒、躊躇ってその迷いを疑問に変え、投げかけてくる。
「もし、嫌だったなら、すぐにでも話を遮って下さって良いですから、最後にこれだけは聞かせて欲しいんです。よろしいでしょうか?」
「良いから話して見ろ。じゃないと俺も判断が下せない」
「えへへ……ありがとうございます」
 ぶっきらぼうなカナタの物言いにアステルの堅かった面立ちが幾らか和らぐ。
「この空間……わたしがいる、ここのことです。カナタさんと話していて、あなたの願いを聞いている内にどうしても不思議に感じて、だから最初にわたしに言っていたことを思い出したんです」
「思い出した……?」
 この場面で引き合いに出されるような台詞には心当たりがなかった。
「カナタさんはわたしにこう言ったんですよ。覚えていますか? わたしが『最初の星』だって。あの言葉の意味がずっと引っかかっていたんです」
「あぁ……」
 言っていた、そういえば、そんなことも。
 慌てていた記憶はあるが、だからといってよくも吐けた台詞だと我ながら辟易してしまう。カナタが苦渋の表情を浮かべているとアステルも微笑に苦みを混ぜて「やっぱり」と呟いた。
「思い当たるところがあったみたいですね。その言葉の意味について考えて、何となく結論のようなものが出たんです」
 アステルの強い色の瞳に見入られてカナタは押し黙る。
 彼女は決定的なことを暴こうとしていた。四年間保ってきたカナタの在り方に取り返しのつかない亀裂を穿つ致命的な楔を打ち込もうとしていた。
 怖い。
 不穏な予感がカナタの背筋を這い上がって喉元に充溢し、やめろ、と言葉を吐かせようとする。止めなければ今までのようにはいられなくなる。
 それなのにもう少しだけ聞いていたいと願う気持ちが彼を踏みとどまらせた。
 アステルの眼差しはカナタの内心を見透かしたように細められ、慎重に言葉を紡ぎ出す。
「この空間は本当は、幾つもの端末を繋げるためのものなんじゃないですか? いつか人が『こちら側』に進出してきたとき、多くの人が集う場所にしたくてカナタさんはここを作ったんですよね?」
 そこでアステルは息をつき、最後に口にしようかと逡巡する間を挟んで唇を引き締める。
「カナタさんは一人でここを作ったのかもしれません。だけど、あなたが目指した理想郷は一つきりの星が浮かぶ空じゃなかった。カナタさんは、本当は……人との繋がりを求めていたんじゃないですか?」
 とうとう口に出された、と降参し掛ける心を押し止めて重苦しい口調で訊ねる。
「どうして、そう思った? 一体、何を根拠に?」
 なんて無駄な悪足掻きだろうと自覚はしていたけれども今更止められない。アステルと目を合わせないように俯いていたら彼女の声音が頬を撫でてきた。
「理由なら幾らでもあります。ここは人を受け入れるための空間ですし、この星はカナタさんのコンピュータを象徴するもの。他に新しく星が加わるのだとしたら、それは別のコンピュータでしかあり得ませんから」
「だとしても、何のために俺がそこを作ったって言うんだ?」
 間髪入れずにアステルを問いつめると、珍しく返答に窮したのか口を開いても声を発さなかった。困り顔で唇を湿らせ、やがて唸りながらもカナタに応じてくる。
「そこが実は、よく分かってないんですよ。この世界に人を呼んで、語らうだけなら方法は他に幾らでもあると思うんです。だから、この世界の中にいないとできない何かが……」
 そこまで言われて、堅く引き結んでいようとしたカナタの唇が綻んだ。もはや答えにたどり着かれているようなものなのに、隠し通そうとしている自分が馬鹿馬鹿しくて。
「カナタさん?」
 アステルは怪訝そうな目をカナタに投げ掛けてくるが応じることなく彼は彼女の発言を遮る。
「アステル。その世界にいないとできないことじゃない。正確には、そこに入れるようでなければできないことが俺はしたいんだ」
「どういうことです?」
 話についてこれてない様子のアステルに、カナタは「思い出せ」と命じる。
「俺がお前を、電子の世界の意識だと認めた理由はなんだった? 一つはお前がその世界に入れたことだ。そしてもう一つは――」
「言葉が通じ合わずとも分かり合えること?」
 おずおずと、自分の発言の真偽を自分でも信じられないままアステルは語る。それは彼女の表情に小さな波紋を生み出し、やがて静かに落ち着いていった。
「……そうですか。では、初めの招待したかったのはシロコさん何ですね」
 これにはカナタは舌打ちをして顔をしかめる。
「そうだよ」
 全くの図星だったからだ。
「分からなかったんだ。もしかしたら分かりたくなかったのかもしれない。シロコの奴が何を考えているのか。あいつが例えば……例えば、俺のことをどう思っているのか、だとか」
 言っていて何もかもが赤裸々なことに気づき端末を投げ捨てたくなる。さすがにそんな痴態までは見せられなかったが、相手がアステルでなければどうなっていたか分からない。
「カナタさんはシロコさんのこと、どう思ってるんですか?」
「また答えにくい質問を……」
 だが、ここまで明かしたのなら全て吐き出した方が楽になる。
「幼馴染み……ってことにはなるが、なんて説明すれば良いのか分からない。もしかしたら兄弟だとか……そんな印象だったのかもな。何となく、理由もないのに俺は、あいつが傍にいるものだと思っていたんだ」
 きっとそれこそがカナタにとっての最大の過ちだった。はっきりと自分の前に立ちふさがる前まではシロコの心情など考えもしなかった。
「いっしょにいるのが、当たり前だったんだよ」
 だから彼女が立ちはだかったとき、カナタが咄嗟に思ったことは。
「裏切られた、だなんて思っちまったんだ。後から考えてみればまるっきり俺の独りよがりでしかなかったわけなんだがな」
 それでも一度思ってしまったこと、抱いた感情は理屈じゃ打ち消せない。三年経って、四年経って今に至ってもカナタは心のどこかでシロコを許せずにいた。
「なぁアステル。もしかしたら電子の意識のお前には想像し難いかもしれないが、人間って奴は理不尽なんだ。駄目だと分かっていてもどうしようもなく身勝手に振る舞うことがあるんだよ」
 そんなことをまるで懺悔するように語って一体アステルからどんな台詞を引き出そうというのか。目的はないけど、ただ語るためだけに語る。
「俺があいつの、言葉にならない思いを知りたいって言うのも結局、現実逃避だ。もしかしたらまだ……って、そんなふうにありもしない幻想に、すがりついているだけでしかない」
 分かっていた。
 シロコが自分だけの一番を見つけていたこと。その人のためにならカナタにだって、敵意を突きつけること。既に思い知らされた事実でしかない。
「それでも、好かれたかった」
 口に出してみて発言の馬鹿馬鹿しさに震えた。そう思っていられたのはその直後だけで、瞼がやけに固くなって熱を持ち始めて、自分がどんな顔をしているのか自覚した。
あまりにも情けなくて、こんなことなら話すんじゃなかったと後悔しようしたら次のアステルの台詞が打ち砕く。
「知ってましたよ。カナタさんは優しいんです」
 変わらぬ微笑のままアステルにそう告げられて、思わずカナタは「へ?」など間抜けな声を漏らしていた。けれどもアステルはそこで言葉を止めずに滔々と語り始める。
「もしかしたら……いえ、きっと確実にカナタさんは気づいていなかったでしょうけど、分かりますか? 誰かを助けようとするときに、あなたがどんな顔をしていたのか」
 何のことかさえ把握できずにカナタはぼろほろの表情と眼差しでアステルに疑念を差し向けるけど、彼女は動じない。「やっぱりです」と虚を衝かれたカナタの反応に満足した様子で、だから彼女は目にしてきた全てを明かす。
「本当は、カナタさんは誰かを助けようとするとき、そして誰かに礼を言われたとき、嬉しさを隠し切れないって顔をしてたんです。だってそうじゃなきゃ幾らわたしのお願いだからってあんなにもあっさりと誰かに手を差し伸べたりできませんよ、普通は」
 また馬鹿な話を始めたと切り捨てることだってできたはずなのに、カナタは正面から反論せずにはいられない。
「待てよ。だったら俺はどうして今まで困った人が見つけても手を出せずにいたんだ。本当に俺が……お前のいうよな誰かを助けることに喜びを見出せていたんだったら、最初から手を伸ばさずにはいられないだろう!?」
 鬼気迫ったカナタの詰問にもアステルの微笑は揺るがない。それどころか一層優しげに花開いて彼を労ってくる。
「仕方ないですよ。カナタさんは人を怖がっているんですから。そのために言葉を使わずとも分かり合える術さえ求めたんですから」
 それは今し方カナタ自身が明かした内心で、当然反駁するなどできるはずもない。だというのに黙ってもいられずにカナタが唇を戦慄かせていたら、彼女はまた口を開いた。
「嘘だと思うなら思い返して下さい。あなたはどうしてわたしに何か言われるよりも早く子猫を助けて上げたんですか? あなたが冷淡な人間だったらそんなことはしないはずです!」
「そんな、わけ……っ」
 打ち消しの言葉なんて幾らでも並び立てられたはずだ。人と猫は違うだろうだとか一時の気まぐれだとか、幾らだって言い訳はできたはずなのだった。
 そうだっていうのに。
「俺が……? まさかな。そんな……」
 散々に馬鹿にして否定し続けてきたアステルの過大評価が彼に降りかかろうとしている。
「でも……それじゃあ……俺はどうすれば……?」
「簡単です。カナタさんがやりたいと思うことをやれば良いんです。あなたの本音に従えばいいんです!」
 力強いアステルの言葉、底知れない青い瞳に湛えた精一杯の訴えをカナタは直視してしまう。それを真正面から受け取ってしまう。
「ねぇ、行きましょう? カナタさん」
 彼女が風に舞い上がる木漏れ日色の長髪を撫でつけ、残る手で差し伸べてきた誘いに、カナタは――

「出かけている?」
 街灯の光からちょうど外れてしまった暗闇の中で、カナタはインターフォンに耳を傾けていた。そこから聞こえてくるのは厳しくて、しかしやや臆病そうな女性の声だ。
『えぇ。ごめんなさいね。うちの子、高校のお友達と出歩いてばかりいて……』
「いえ、こちらこそ連絡もせずに訪れてしまって申し訳ありません。ありがとうございました」
 どこかぎこちない会話を終えて、カナタはその家を後にする。学校のある街中と違って暗い夜道にはもう方々の民家の窓から明かりがこぼれていた。談笑だとか叱りつける声だとか、そんな和やか喧噪が耳に届いて一人歩くカナタを侘びしい心地にさせる。
「……ったく、何をやってるんだか俺は」
 誰に聞かせるつもりもない愚痴なのだったが、今はそれを独り言にさせない相手がいた。
「なんだか、カナタさんが敬語を話してるところって新鮮ですね! 普段はちょっとぶっきらぼう言葉遣いのことが多いですから」
 ポケットにしまったままのそれからやたらと無邪気に威勢の良い声が響く。
「うるせぇな。こっちが素なんだよ。大人の相手をしているときだけは常識に則ってるんだ」
「そんなに怒ることないじゃないですか。それに知ってますってば」
 普段は年中頭の中に花畑でも拵えていそうな少女なのに、時折思慮深い瞳でこちらを覗き込む。そしてカナタ自身でも自覚できていない胸の奥底に手を伸ばし、分け入ってくるのだ。
「本当はシロコさんのお母さんとだって気負わずに話したいんですよね」
「……お前は、どうしたらそんな馬鹿馬鹿しい発想に至れるんだ?」
 なんて反抗しようとするけれど声は力なく消沈していく。却って認めているようなもので、今更誤魔化そうとしている自分に笑ってしまった。
「お前の言う通りかもな。あの人と他人行儀で話しているとさすがに物寂しい」
 カナタの親は家を留守にしていることが多かった。だから、一時期は毎日のように訪れていたシロコの母にもう一人の母親らしき印象を勝手に抱いていたのだ。
 それが遠のいて、今し方そのことをはっきりと目の当たりにして、カナタは落ち込んでいた。
「俺もまぁ、大概馬鹿だとは思うがな……」
「平気ですよ、カナタさん。まだ、あの人もあなたも同じ世界の、それも歩いてだって行ける場所を生きてるんですから。カナタさんが望めば、何度だってきっとやり直せます」
「気楽に言ってくれるがな。俺みたいに人付き合いを嫌っていた人間が、そうそう易々と一度失った関係を修復していけるはずないだろう」
 もはや体面も気にしないカナタの文句を、しかしアステルは額面通りには受け取らない。
「そうですよね。今はカナタさん、シロコさんのことで必死なんですから!」
 もし、アステルに触れられたのなら、カナタはきっと彼女のこめかみを両の拳で挟み込んでいただろう。だが、それができないから別のやり口で脅しをかけるまでだ。
「良いか? もしまだ余計なことを口にするようなら気温の設定を限界まで下げてお前の家が埋もれるまで雪を降らすからな、覚悟しておけよ」
「カナタさん、鬼畜って呼ばれたことありません?」
 それには答えず他愛ないじゃれ合いを打ち切ると、急ぎ足で歩を進める。
「どこ行くんですかカナタさん?」
「家に帰るだけだ。少しやらなきゃならないことがある」
 短い家路を駆け抜けて玄関に上がると靴を脱ぎ捨て、急く気持ちのまま自室に飛び込んだ。
 アステルがやってきてからコンピュータ自体も仮想世界も常時稼働し続けている。カナタはこれまで表示させてこなかったツールバーにあるアイコンの一つを選択した。
「あれ? えぇっと……カナタさん、空に何かが浮かんでます。何でしょうか、あれ」
 黄金色の長髪に包まれた背中を画面に向けて、アステルは宵空を見上げている。より正確にはその先に浮かんでいるはずのこのシステムの根幹を。
「そんなに早く気づけるもんなのか?」
「はい。うまく言葉にはできませんが、この世界とわたしは緩やかに繋がっているんです。だからどこかに変化が起きれば空気を伝って、わたしにもそのことが感じられるというか……」
 その辺りのことは用事が片づいたあとにでもじっくりと聞き出したいところだが、今はともかく時間が惜しい。好奇心を抑えつけ、カナタはアステルに鋭く指示を飛ばした。
「だったらそこに向かっていってくれ。お前が望めばその空間の重力はお前を縛らない。自由に飛べるはずだ」
「心得ています。少し待っていて下さいね。すぐに飛んでいきますから」
 宣言すると同時にアステルから髪と同じ色に輝く粒子が振りまかれて彼女の体が微かに浮かび上がる。目視できたのはそこまでで、気がついたときには一条の光芒が夜の闇を切り裂いていた。
 帚星は星の大気が続く境界線まで舞い上がる。星の全体像が青白い光に縁取られて見て取れるそこで、アステルは目指していたものを見つけた。
「えぇと……なんて形容したら良いのか分からないんですけど、何だかおかしな図形のようなものがありました」
「それで合っている」
 アステルが言う図形とは、彼女の現在地辺りを中心とした銀河の略図だ。とは言っても今は彼女がいる星一つしかないのだが、いずれは多くの星を取り込むつもりでいる。
 実際の地球だったなら成層圏のそのまた上、熱圏と宇宙の狭間に当たるそこでアステルはその縮図を眺めていた。お人好しが過ぎてやや野暮ったいアステルも惑星の纏う光の中にあれば神秘的に見える。
「綺麗です。今まではあんまりこの辺りまで出てこなかったんですけど、今度からもっと飛んでみようかな」
「好きにすると良い。たが今はお前が見つけた図の方に集中しろ。そいつはそっち側から幾つかの重大な機能を操るためコンソールになっている。もうシロコの連絡先はそっちに送ってあるから、できるはずだ」
 省かれた説明にアステルが怪訝そうな顔で首を傾げる。
「何をですか?」
 予想していた通りの質問にカナタの口元が歪んだ。喜びの笑みの形に。
「決まってるだろ。シロコの端末をその世界に取り込むんだよ」
 事態をまだ飲み込み切れていないアステルは淡い色の瞳を丸くして小刻みに瞬きを繰り返す。
「え? え……? シロコさんから許可は取ったんですか?」
「そんな暇があるように見えたか?」
 当たり前の如く質問で返してくるカナタにアステルの狼狽は加速する。
「で、でもそれだと、クラッキングしていることになりませんか? 以前、カナタさんだって今の時代にそんなことはできない、と……」
「そこらへんに関しては俺も考えたんだがな、前も話した通り、ソフトウェアでさえないお前みたいなのを人間は観測できていないんだよ」
 たった今こうしてアステルと話せているのも彼女がこの仮想空間に紛れ込んできたおかげだ。この外に出られてしまうとどんなソフトウェアでもアステルの行方は追えなくなってしまう。
「だからお前はセキュリティにも検出されない。そんで今のところ、俺が思いつく限りだとあいつの端末をそこに取り込むのが最善の策なんだ」
 敢えて目的をぼかしたのだが、アステルは言葉の裏を見抜いてすぐさまに付け足してくる。
「シロコさん助けるための、ですよね?」
 もはや舌打ちする気にもなれなかった。
「そうだよ。あの馬鹿をクソったれな状況から引きずり出すにはこうする必要があると言っている。分かったら黙って引き受けろ!」
 カナタがあらん限りの苛立ちを込めて吐き散らす宣言に少女の微笑みはどうしてか深まっていく。
「はいっ!」
 その偽らない笑顔に、結局のところカナタは刺々しい表情を緩めてしまうのだった。

突入

「……何だか、夜の学校ってドキドキしますね!」
 画面の中で微笑むアステルはカナタが脱力してしまうほど緊張感に欠けている。それでも。
「分かっていたよ。お前ならそう言うだろうと思っていた」
 小中高等学校という組織はいつの時代になってもどうしてか防犯意識が足りていない。さすがに都市部にあるのだから侵入者を警戒するべきだろうとは思うのだが、カナタの通う学校も例には漏れていなかった。何カ所か侵入経路が存在してしまうのである。
 そこから忍び込んで今、カナタたちは裏門近くにある藪の中で息を潜めていた。
「しかし運が良かったな。列車が止まっていたらまずかった」
「それでもタクシーくらいなら……って、今は止まっているんでしたよね」
 自動車の運転全自動化が進んだ今、タクシーの運賃は高校生にでも手が届く設定になっている。しかし現在は自動運転車に交通規制が出ており、タクシーは諸にその煽りを受けていた。
 そんなアステルの呟きに頷きながらも、通信端末の明かりに目を細めつつカナタは言い聞かせておく。
「言うまでもないだろうが、遊んでる暇はないからな。俺たちがここに来た目的、忘れてはいないだろうな?」
「分かってますよ。シロコさんの通信端末が学校の敷地内にあるんですよね。わたしとカナタさんはそれを取りに来たわけです!」
 その割には緊張感が感じられないアステルの語調であるが、言っていることに間違いはない。シロコの端末を仮想世界に取り込んで位置情報を調べてみた結果、反応は学校の校舎裏にあった。ちょうど部室棟が立ち並ぶ一帯である。
 単純にシロコがそこに置き忘れた可能性も考えられないわけではないが。
「まず間違いなく、シロコが相手取っている馬鹿どもの仕業だろう。様子を見に行って、できるならそのついでに取り返したい」
 七面倒ではあるが、一度決めたことだった。
「シロコさんを助けるんですよね」
「分かり切ったことを口にしなくて良い。それよりこれからしばらく声を抑えてろよ」
「もちろんですっ!」
 そう返す声も弾んでしまっているのだが。
「まぁ……良いだろう。シロコの端末に変化があったら教えてくれ。できるだけ早く返事する」
 最後にそれだけを告げるとカナタは藪の中を脱した。服に付着した枯れ葉を払い、裏門から続いていく通路の先を見据える。
 夜の学校とは言え、都市のただ中にあれば幾らかは街の明かりが届いてきた。学校自体にも常夜灯が備わっており、校舎の全容は十分に目視で確認できる。
 対照的に、その下に寄り添う部活棟は闇に包まれていた。二棟ある内の校舎側にシロコの端末はあるようなのだが、さすがのカナタでも後込みする。禄でもないものが潜んでいると分かった暗闇に恐怖を抱かないわけがない。
 相手はこれまで、カナタが避けてしか来れなかった相手なのだと知っていれば尚更に。
「……何をやってるんだか、俺は」
 立ち止まっていても状況は好転しない。
怖じ気付きそうになる自分を嘲い、強ばった足と背中とを無理矢理に動かした。軋みさえ上がりそうな不快感を噛み潰して、舗装された幅広の道を行く。
 警備の人間も彼らが警戒する侵入者の出入りも頻繁な施設ではないものの耳は常に澄ませていた。道の行く先には注意深く視線を張り巡らせて歩を進めていく。
滞りなく部室棟に近づいていき、その裏門側の壁面へとそっと身を寄せた。その壁伝いに校舎へ続く通路を避けて、人目につかない暗がりへ踏み入っていく。裏門側の部室棟の側面に回り込み、カナタは息を落ち着けた。扉は二つの部室棟が向かい合った壁に備え付けられている。彼が今いる物陰を飛び出したら、あとは目的の部屋の扉まで駆けていくしかなかった。
 最後の準備として呼吸を整えていたカナタの耳を少女の声がくすぐる。
「……カナタさん。ねぇ、カナタさん!」
 しめやかではあっても声の勢いは変わらず、カナタは心臓が押し潰されるような恐怖で息を呑みながらも応じる羽目になった。
「確かに声は抑えていたが……!」
 ほとんど反射的に飛び出したカナタの愚痴にアステルの声の調子は怯んだが報告は止めない。
「ごめんなさい。ですが、それよりもカナタさん。今し方、シロコさんの端末が移動を始めました。たぶん、今は元あった部屋の前にあるはずです!」
「なんだと?」
 可能性はニ択。シロコが持ち出したか、彼女以外の手にあるのか。
 せめてそれだけでも確かめようと壁面からそっと顔を覗かせ。
「あ」
 目が合う。
 シロコではなかった。カナタとも断じて親しくはないが顔見知りの少年と。
「あっ、あいつだ! あいつが金を払ってくれるって言ったんだ!!」
 その少年はカナタの方を指さし、唾をまき散らしながら喚いた。付近にいた少年らは慌ててそいつの口を封じ、それからカナタのいる物陰を睨みつける。
 突然の事態に呆然としていたカナタは見事に、その少年らの視線を集めた。
「ごめんなさいごめんなさい! こんなつもりじゃなくてっ!」
 涙目にでもなっていそうなアステルの声音に「お前は悪くない」と返す。
「紛れもなく俺のミスだが……さて、どうしたものか」
 独り言を漏らしている間にも、出てこい! という煩わしい叫びを繰り返されて、逃げ出すのは難しそうだった。
「かっ、かっ、カナタさん……! どうしましょうか!? 完全にばれちゃってますよ……!!」
 慌ててる奴の声を聞くとどうしてか人間は我に返り、冷静になる。
「少し落ち着けよ」
 などと諫めながらも実のところ、カナタにだってこの場を切り抜ける方策が思いついたわけではなかった。しかしじりじりとこちらに迫る相手を前にしては、息を潜めているのにもやがて限界が訪れる。
 カナタは意を決し物陰から歩み出た。
「そんなに急かすなよ。誰にだって準備は必要なんだから。……心の、とか」
 最後の一言で若干の弱音を吐き出しながらもカナタは少年らの眼前に胸を張り不敵に笑ってみせる。一人分の乾いた笑い声が、二棟の長屋の間に響くばかりだった。一人の衣服が崩れた少年を囲う一団の後ろからしばらくすると、妙にふんぞり返った一人が前に出てくる。
「お前……忘れ物でも取りに来たの? だったらここで見たことを黙ってれば見逃してやるよ」
「つけあがるなよ真面目系クズ。俺がお前たちの行動を目撃した時点で既に、立場は決まってんだよ」
 何を思ってここまで挑発的な発言をしてしまったのか、ひどく自分を問いつめたくなるカナタである。
「真面目系クズって……アッハッハ! まぁ、そうなんだけどな! だったら尚更にお前が従わなかったらどうなるか、想像できるよな?」
「もちろんだ。これからお前たちの働いた馬鹿を周りに知らせて回る。無力な子供らしくな。そして、同じく無力な子供のお前たちはそれで、ゲームオーバーだ」
 最大限の自嘲と皮肉とを込めて言い放つ。色めき立ったのはごく一部だったが、それでも学校からの評価を必要とする連中が誰かは明らかだった。進学ならまだしも、就職を狙う連中にとって低評価は致命的となる。
「分かったらとっとと退け。もう勝負は決してるんだよ。お前たちの負けだ!」
 我ながら、よくもこれほど出任せが口にできるものだと感心するカナタである。しかしながら相手方の大半はそんなことなどお構いなしの低能ばかりが占めていた。
「そんなもん、今ここでお前を絞めて口を封じたら同じことだろう?」
 哀れむのも惜しく感じる愚かしい発言に、そして何よりもカナタが恐れていた一言に賛同する声が上がる。表情にはでないようにと気を遣っていたがさすがに隠し切れず、口の端が歪むを堪え切れなかった。
 それを見逃さず、リーダー格の少年がカナタを指さして言う。
「なんだ……ビビってんじゃねぇかよ! ごめんなさいと言えたら許してやっても良いがな?」
「気持ち悪いのはその顔面くらいにしろよクズ野郎!」
 反射的に暴言で相手の挑発に返してしまい、カナタは自分の性分を恨んだ。
「あぁ? 調子乗ってんなよチビが……おい、ユウ! あいつが誰なのか知ってるんだろう? 教えたら掛け金まけてやるよ」
 最初にカナタを発見した少年は、それまで身を縮め込ませていたのに突然生き生きとした顔でリーダー格の少年を見上げた。何一つ具体的な条件も提示されていないのに、意気揚々と語り出してしまう。
「あいつは俺が中学の頃に馬鹿にされてた奴でだな! 俺か率先して遊んでやってたんだよ! 昔は本当にできそこないのチビで、今は進学部に進んでるけど大して変わってなさそうだな!?」
 それにはカナタは応じず、黙って二人を見据えた。
 しめやかに一団には笑い声が広がっていって、徐々にその声量が増す。その勢いが頂点に登り切る前にリーダー格の制止する声が響いて辺りは静まり返った。
 十分な間を置いてから、そいつはカナタにこう告げてくる。
「何だよ……どんな奴かと思ったら、ただの雑魚じゃねぇか」
「その小学生並みの語彙は何とかならないのか?」
 臆さずにカナタが返すと僅かに相手はむっとして距離を詰めてくる。
「ほら……逃げることもできねぇんだろ? 今、頭を地べたに擦り付けて謝ったら少しは考えてやっても良い」
「そういうのは土下座ってんだよ。お前みたいのには難し過ぎる言葉かもしれないがな」
 強がっては見せるカナタだが、近づいてくる相手の体躯が暗闇に浮かび上がると体が強ばる。
 カナタより頭一つ分以上もある巨躯には殴りかかったところで、とても勝機を見出せそうになかった。それでも相手が一人ならば、不意打ちで逃げ出す隙くらいは作れただろう。しかし、その背後には取り巻きたちが今かと出る幕を待ち詫びている。
「さ、さて……どうしたものか」
 たじろいだカナタの足下で、踏み締めた砂利と枯れ草が音を立てた。手の中は汗でぬめり、それをスラックスに擦り付けながら皮肉っぽく笑ってみせるが、強がりにもならない。
「さすがにこれは……」
 絶体絶命。
 そう思った直後に。
「――っ!?」
 脳に凄まじいノイズが走った。そう錯覚させるほどの騒音が響き渡った。
「なっ、なんだ!?」
「せ、センサーアラームが……細工したはずなのにッ!」
 取り乱したリーダー格に同じく取り乱した取り巻きが報告する。しかし事態はそれだけに留まらず道の彼方から響く男の声がその場に残る全員を釘付けにした。
「おいッ! そこに誰かいるのか!?」
 声の方へと殺到した視線は懐中電灯を手にした人影を目にする。
「警備員!?」
 少年たちの一団が色めき立ち、困惑が広がった。
 偶然、警報が鳴った傍を巡回中の警備員が通りがかったのだ。――本当に?
 あまりにタイミングの良過ぎる登場に、カナタは一抹の疑問を抱くが考えている暇はない。
「カナタさんっ!」
「分かってる……それより!」
 その場の誰よりも早く身を翻していたカナタは元来た道を戻りながら端末を取り出してアステルに怒鳴りつける。
「良いか!? あいつらが持ってるシロコの端末を今から鳴らせ! 着信音でも何でも良いから最大音量でッ!!」
「はい!」
 カナタの鬼気迫った様子にアステルは理由を問うこともしなかった。返事一つで応じ、その直後に鼓膜を引き裂かんばかりの音量で。
『にぃいゃやぁあああああおおおおぉッ!!』
 猫の鳴き声が一帯に轟く。
 カナタの以外の全員は一様に足を止め、そしてそちらに振り向いた。その発信源は少年らが持つシロコの携帯端末であり、集めた視線の中には警備員の音も混じっている。
『にぃいゃやぁあああああおおおおぉッ!!』
 再び同じ音声が、音割れすることもなく高音質で辺りを震わせた。今度はその後に警備員の怒号が続く。
 カナタはそれからの結末を見届けることなく、校外までの僅かな距離を全速力で駆け抜けた。

 それから数日を経て、週末の休みも明けて。
 つい先日にも不具合を来したばかりの電子通信網に異常な挙動が見られたとのことで鉄道は運休。通学する児童らの大半は登校が困難となって、なし崩しに今日もまた休校になった日のことだった。この分の授業数が夏休み前に補講として消化されるのだと思うとカナタとて溜め息くらいは漏らしたくなる。それも詮無きことと思い、どうにか自分を励まして止まりそうになる足を再び動かした。
「全く……わざわざ、歩いて出向くことになるとは」
「良いじゃないですか。偶にはお散歩しましょうよ。放って置かれるとカナタさんはいつまでも自分の部屋に閉じこもるんですから」
「どうしようが俺の勝手だろう」
 一々、画面と向き合って相手をするのも煩わしい。アステルはいつも通りにやたらと元気を振りまいて、対照的に陰気なカナタをげんなりさせていた。
 未だに底知れないこの少女の潜在能力とは対照的に、その無邪気さは変わりない。
「なぁアステル。あのスピーカーの音ってどうやって出したんだ? まともなソフトウェアならあの音量は出せないはずだ」
 言いながら先日の晩のことを思い出す。
 シロコの端末から溢れ出した猫の雄叫びは警備員を少年らの元に招き、引き離さなかった。ひとまとめに召し捕られた一団は、それまでの些細な悪戯まで暴かれて自宅謹慎を食らっているらしい、というのがカナタが風の便りとして聞いた事の顛末である。
 尤も、このところ休校続きであるから、さほど彼らの日々にも大差は出ていないわけだが。
「あの夜のことですよね……実はわたしもどうやったのかは覚えてないんです。必死になってできるだけ大きな音で鳴らそうとしたらあんなことになって……自分でも、びっくりしました」
 本当に、底知れない少女である。
「まぁ、ある意味でも物凄くお前らしいとは思うがな……」
 元々、出自も正体も伺い知れないのだから。分からないことは多くて当然にさえ思えた。
「好い加減に、お前のことも詳しく調べていくべきなのかもしれない」
「そんな……良いですよ、わたしのことなんて。それよりもカナタさんは自分のことをですね」
「安心しろ。お前のためじゃなく俺のためにやるんだ。気になるんだよ。どうやったら、お前みたいなのが生まれてくるのか」
 実際、アステルに関してはまだまだ調べ足りない一面ばかりなのだ。せっかく余暇ができたのだから探求に費やしたかった。
「……カナタさんはもう少し、取り繕ったって良いと思います」
 拗ねたような物言いをされると言い返せずに押し黙ってしまう。演技ではないと分かっていたから、傍若無人のカナタでも無碍にはできなかった。
「そ、そこまで落ち込まれるとわたしも気が咎めてしまうのですが……」
「落ち込んでねぇよ。勝手な想像をするな」
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなくて」
 共に過ごす時間を重ねても二人の関係性はあまり変わらない。
 或いはそれこそがカナタの求めていたものかもしれない、とは口に出せず歩みを早めた。そして急ぎだして早々に体力のないカナタは照りつける日光に辟易し、へたり込みたくなる。
「……こんな日に出歩くんじゃなかった。せめて曇りの日が分かればな」
「お天気の情報はあまり入ってきてないみたいですね」
「更新が遅れてるよな。天気予報のことに限らず」
 回線にしろ交通網にしろ、この頃は方々で遅滞や休止が起きている。そんな所感を抱かされるのは無意識にカナタがそうした報道に注意しているせいなのかもしれない。
「何にせよ、今俺にできるのは歩くことだけだ」
「はい。頑張ってください!」
「他人事みたいに言うなよ……」
 そしてたどり着いたのは清潔に整えられた煉瓦造り風の玄関口、つい先日にも訪れた一軒家の軒先だった。チャイムを鳴らし、軒下の日陰で応答を待つ。
 ややあって廊下を走ってくる振動が耳に伝わってきた。もう少し静かになれないものかと呆れていたら、まるで以前の報復とばかりに勢いよく扉が開かれる。
「いきなり何なの? 連絡も寄越さずにやってきて」
 いつもにも増して不機嫌そうなシロコは部屋着のまま煙たそうな目でカナタを出迎えた。
 これが平時なら怒鳴り返してやるところだが、今は歩いてきたせいで気力が足らずに穏やかな声で返す。
「電話はしたけどな。お前、出なかっただろう」
 言われて怪訝そうな顔つきになったシロコは自分の携帯端末を取り出し、画面を見つめてから気まずそうに目を伏せる。分かりやす過ぎる反応の後、か細くなった声でぽつぽつと呟いた。
「……ごめん。気づかなかった。少し前から、スピーカーの調子が悪くて……」
 身に覚えのあり過ぎるカナタにも横暴な態度は取れず、無難にやり過ごさざるを得なかった。
「そ、そうか。だったら仕方ないな。それより、今日は猫のことで相談に来たんだが」
「二匹とも、飼うことにしたの?」
「なぜ分かった?」
 真顔で答えを先取りされて、思わずカナタは聞き返してしまう。それにシロコはしたり顔で腕を組んで頷き、いつになく偉そうな態度で蕩々と説き始めた。
「そんなのは当たり前、むしろこうなる前から決まっていた事実だね。幾らあの無愛想で可愛げのないあんたでも、猫の前には無力……!!」
 言い切るシロコの目には果てし無き熱意が宿っていて、これ幸いとカナタもこの機に乗じる。
「なるほどな。そういえばお前、着信音も猫の鳴き声にしていたぐらいだし。お前の端末を鳴らしたら無駄な高音質で流れ出したから驚いたよ」
「無駄なって……カナタも聞いたでしょ!? あのときの大音量で流される鳴き声を!! あれ以来、イヤホンを使わないと声が聞けなくなったけど……ていうか、あれってカナタのせいだったの!?」
 正確にはカナタの指示で動いたアステルのせい、だったがそんなことはどうでも良い。
「やっぱりシロコ、お前はあの場にいたんだな」
「そ、れは……っ!」
 シロコの端末を取り戻しに行った学校でのことだ。防犯用の警報が鳴ったおかげでカナタは事なきを得たわけだが、そのタイミングで警備員が通りがかったのはでき過ぎていた。
 まるで誰かが見計らっていたように。
「誰かが助けてくれたんだろうとは分かっていたが、お前だったのか。悪いな、手助けするつもりで手間をかけさせちまって。素直に礼を言っておこう」
 カナタが意地悪くそう言うと素直でないシロコは掴みかからんばかりの勢いで喚き立てる。
「違う違う違うッ!! あのときは、偶々、偶然居合わせただけでわたしはあんたを助けるつもりなんかなくて――」
「上出来だ。よし帰るぞアステル」
「へっ!? あ、はい!」
「――端末を取り戻したいから注意を引きつけようとしたら……って逃げるなぁ!!」
 制止するシロコの声には従わず、カナタは急ぎ足でその場から走り去るのだった。

『迷える星の集う空に(前)』

後編はこちら
http://slib.net/74700

『迷える星の集う空に(前)』 糸公 作

「知ってましたよ。カナタさんは優しいんです」 極力人間関係を絶ち、コンピュータの前で日々を過ごしていた少年・カナタのもとに来訪者が現れた。 そいつは電子の世界から、流れ落ち、彼の生活をかき回しいく……これは強がりな少年の心を砕く物語。 後編→https://slib.net/74700

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 冒険
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-07-07
Copyrighted

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